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2011-10-14 09:02:54 テーマ:明治・大正

大杉栄殺害事件

無政府主義者・大杉栄が殺害された事件。
$かつて日本は美しかった

 大正12年(1923年)9月1日、関東一帯をM7.9の大地震が襲いました。関東大震災です。このとき無政府主義者、社会主義者、不逞朝鮮人推定800名らが放火や暴動を起こすなどしており、多く検挙されました。こうした混乱の中、無政府主義者の大杉栄、妻・伊藤野枝(内縁)、甥の橘宗一が麹町憲兵分隊長の甘粕正彦大尉らに殺害されるという事件が起こりました。大杉事件あるいは甘粕事件と呼ばれています。

 事件は9月16日に発生し、9月20日に時事新報社と読売新聞社が報道し発覚。その日に関東戒厳司令官・福田雅太郎大将は更迭となり、憲兵司令官・小泉六一少将、東京憲兵隊長・小山介蔵憲兵大佐が停職処分となり、甘粕憲兵大尉とその部下、森慶次郎憲兵曹長(実際には部下ではない)が軍法会議にかけられることになりました。

 甘粕大尉は大杉と伊藤野枝、橘宗一を麹町憲兵分隊へ連行し、夕食を食べさせた後、大杉を憲兵司令部の応接室で森慶次郎憲兵曹長に取り調べをさせました。

 甘粕大尉の予審調書
「・・・私が大杉栄の腰掛けて居る後方からその室に這入って、直ちに右手の前腕を大杉栄の咽喉部に当て、左手首で右手掌を握り後ろに引きましたれば椅子から倒れましたから、右膝頭を大杉栄の背骨に当て柔道の絞め手により絞殺致しました。大杉栄は両手をあげて非常に苦しみ約十分間位で絶命いたしましたから、私が携えていた細引を首に巻いて其場に倒しておきました。」

 そして甘粕大尉は元憲兵隊長室にいた伊藤野枝を同じように絞め技で殺害し、橘宗一を殺害したと供述しました。甘粕大尉の弁護をした塚崎弁護士は大尉の母親から「正彦は特に子供好きでした。罪とがもない子供を手にかけるなど、あり得ないことです。そんな男でないことは、母の私がよく知っております。よくよく調べて、正彦の汚名をそそいでいただかねば・・・」と聞いており、公判でこの母の言葉をきっかけに甘粕を問いただし、ついに「天皇陛下の名に於いておこなわれる申請な軍法会議では事実を明白に述べるのが軍人の務めである」と、攻め立てます。そしてとうとう甘粕は「私は、大杉栄と伊藤野枝は殺しましたが、子供は殺しません」と自白することになります。

 その後に鴨志田安五郎、本多重雄の両憲兵上等兵が橘宗一を殺害したと自首し、平井利一憲兵伍長が見張り役を務めたとして収監されました。甘粕大尉は子供を殺害したのは森憲兵曹長が鴨志田憲兵上等兵に命じたものと供述しましたが、森憲兵曹長は甘粕大尉が命じたものと供述し、食い違いが出て、裁判官が甘粕大尉に問うと「森が言うのですからその通りでしょう」「私は軍人であります。命令しました」と答えました。

 鴨志田憲兵上等兵が「大尉殿と森曹長殿が上官の命令だからやりそこなうな、と話合っているのを聞きました」と証言したことから、波紋が広がりましたが甘粕大尉は一貫して自己の考えに基づく犯行を主張し、憲兵司令官・小泉六一少将、東京憲兵隊長・小山介蔵憲兵大佐が出廷して命令を否定したため、それ以上は不問となりました。

 甘粕大尉には国民から多くの減刑嘆願書が集められ、法廷に提出した署名は5万、一般から集められたものは65万にものぼります。なぜこれほど集まったかというと犯行が私利私欲でなく、国家国民のためと解され甘粕大尉は「国士」とされたことが挙げられます。公判中に傍聴席から「国士甘粕の心情を知れ!」と大声があがったりしています。また、この頃の無政府主義や社会主義の活動というのは常に暴力とセットになっており、国民感情がよくなかったこともあげられます。これは後の治安維持法につながっています。

 甘粕大尉は懲役10年の実刑、森曹長は3年の実刑となりました。甘粕大尉は3年で出獄し、その後、フランスへ渡りましたが、既に軍籍はないにも関わらず、費用は軍から拠出されました。大杉殺害が甘粕個人の犯行と考える人は少なく、また殺害自体も甘粕らではなく、麻布三連隊の犯行であると証言する人も複数います。



参考文献
 文春文庫「関東大震災」吉村昭(著)
 ちくま文庫「甘粕大尉」角田房子(著)

関東大震災関連記事
 三・一運動から関東大震災へ http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26426991.html
 関東大震災・朝鮮人暴動はデマか? http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26438283.html
 関東大震災で社会主義者が殺されたのか? http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26448521.html
 暴徒・不逞朝鮮人 ~ 関東大震災 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26457710.html
 朝鮮人の暴動をデマにした政府 ~ 関東大震災 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26467251.html
 一般朝鮮人は保護された ~ 関東大震災 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/26488625.html

添付画像
 事件を報じる毎日新聞の紙面(PD)

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2011-10-12 09:46:26 テーマ:大東亜戦争

ジョヨボヨの予言

神兵、東方よりきたる。
$かつて日本は美しかった

「わが王国はどこからか現れる白い人に乗っ取られるであろう、彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。白い人の支配は長く続くが、やがて北方の白い衣をつけた黄色い人が白い人を追い出し、ジャゴン(とうもろこし)の寿命の間、この地を支配した後に“ラトゥ・アディル=正義の神”の支配する祝福される治世がくる」

 これはマレー・インドネシアに伝わる伝説です。昭和17年(1942年)1月11日、日本軍はボルネオ島タカラン、セレベス島メナドを攻撃。ジャワ島を目指します。3月1日、今村均中将率いる陸軍主力16軍はジャワ島上陸。わずか9日間でオランダ、アメリカ、イギリス、オーストラリア連合軍を降伏させます。350年にわたって支配した白人(オランダ)を北方の黄色い人(日本人)が予言通り追い出したのです。インドネシア人はオランダ軍が作ったバリケードを取り除き日本軍を歓迎しました。
 マレーでもクアンタンに上陸し進撃する日本軍を見てマレーシアの上院議員となったノンチック氏は「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声を上げました。敗れて逃げてゆくイギリス軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました」「日本軍は永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。」と述べています。

 ジョヨボヨの予言は12世紀前半、東ジャワのクディリ王国の王「ジョヨボヨ」が命じて古代インドの民族叙事詩をジャワ風にアレンジしたもので、伝承によって色々バージョンがあるようです。日露戦争で日本が勝利し、マレーもインドネシアもこの予言に日本をだぶらせ期待を込めて待ち続けていたのではないでしょうか。

 マレーにはこのほか次のような伝説もあります。
「マレーの神は、二人の兄弟を生みたもうた。兄は暴れん坊で弟は大人しかった。兄は国を捨てて海原遠く乗り出し、いまではますます強く、性格は激しさを加えている。弟はいよいよ大人しく、やがてその国は他人から奪われる。そして、弟はますますおとなしさを加えた。弟がほんとうに困ってしまえば、いつかは強い兄が助けに来てくれると弟は思っているのだ。その弟がマレー人なのだ」

 この伝説の「強い兄」が日本軍とダブったのです。

 興味深いことにスリランカに「ジャヤ・セーナ(勝利の戦士)」という言い伝えがあり、「ジャヤ・セーナが東のほうから来て仏教を助ける」というもので、日本軍がコロンボを空襲し、イギリス軍を叩いたときには歓迎したといいます。




参考文献
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(偏)
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
 光人社NF文庫「サムライ戦車隊長」島田豊作(著)
 桜の花出版「アジアが今あるのは日本のお陰です」

参考サイト
 愛国心を育てる名言 インドネシア親日の神話 ~ジョヨボヨの予言
   http://ilovenippon.jugem.jp/?eid=212
 ジョヨボヨ王の予言
   http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/column/ramalan_joyoboyo.html

添付画像
 昭和20年8月18日に掲げられたインドネシアの旗(PD)

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2011-10-10 09:02:30 テーマ:歴史

横の民主主義と縦の民主主義

戦後になって民主主義になったというのはウソ。
$かつて日本は美しかった

 イギリスの小説家、評論家であるG・K・チェスタトンは「民主主義において現在生きている人々の意見を取り入れる民主主義を横の民主主義という。それにたいして、死んだ人々(=祖先)がどのように考えるかを考慮に入れる民主主義が、縦の民主主義である」と述べています。日本人は「ご先祖様に申し訳ない」「おじいちゃんが生きていたらなんと言うか」「おやじが生きていたらどうしただろう」というようなことをよく言い、死者の視点でものを見ようとします。日本には伝統的に縦の民主主義があると言えるでしょう。

 江藤淳
「生者だけが物理的に風景を認識するのではない。その風景を同時に死者が見ている。そういう死者の魂と正者の魂との行き交いがあって、初めてこの日本という風土、文化、伝統が成立している」

 柳田國男
「日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠くへは行ってしまわないという信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられている」

 日本人は死者の魂と共生しているのです。正月にはご先祖の霊が歳神様となって家にやってきて一緒に過ごします。お盆が来れば迎え火を焚いて子孫はここにいますよとお報せしてお供え物してご先祖様と対話し、心を通わせます。

 「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」で有名な「葉隠」に次の一節があります。

「義より上に道はあるなり。これを見付こと容易に成りがたし。高上の叡智なり。これより見る時は、義などは細きものなり。こはわが身に覚えたる時ならでは、知れざるものなり。但し我こそ見付くべき事成らずとも、この道に到り様はあるものなり。そは人に談合なり。たとへ道に至らぬ人にても、脇から人の上は見ゆるものなり。碁に脇目八目と云うが如し。念々非を知ると云うも、談合に極るなり。話を聞き覚え、書物を見覚ゆるも、我が分別を捨て、古人の分別に付く為なり。」

 「正義」という分別に対して自分の信じる正義が確認され、実証されるためには、第三者の判断まつという民主主義の原理が入っています。「談合」というのは人と話し合うことです。「古人の分別に付く」というのは過去の人の考えに従うということで、ここに横の民主主義と縦の民主主義が見てとれます。

 日本には伝統から生まれた横の民主主義、縦の民主主義があったのです。縦の民主主義は神の代まで行きつきます。
 現代人はとかく「今だけ、自分だけ、カネだけ」に陥りやすくなっていると思います。家庭では、ご先祖の霊をお迎えし、対話する。そして自分を見つめなおす。靖国神社へいき、公に殉じた英霊に感謝申し上げ、英霊が今の日本を見たら、どう思うかを考え、自分が公に奉仕するには何ができるか、どのような心持でいればよいかを考える。日本のよき伝統に従いよい家庭、よい国造りに励みたいものです。



参考文献
 WAC「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一(著)
 小学館「明治人の姿」櫻井よしこ(著)
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 新潮文庫「葉隠入門」三島由紀夫(著)

添付画像
 富士山 JJ太郎撮影(PD)

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2011-10-08 09:09:07 テーマ:大東亜戦争・インド・ビルマ

軍艦マーチ(ミャンマー・ドゥーイェ・タッマドゥ)

ビルマで軍艦マーチが歌われていた。
$かつて日本は美しかった

 ミャンマー(旧ビルマ)では1942年(昭和17年)のビルマ独立義勇軍の創設を建軍としています。国軍記念日の軍事パレードでは軍艦マーチ、歩兵の本領、愛馬進軍曲が流れるといいます。国軍記念日は対日蜂起の日でもあるのですが、なぜ日本の軍歌が流れるのでしょうか。

 昭和17年(1942年)タイのバンコクで「ビルマ独立義勇軍」が結成されます。これは日本の南機関という特務機関が日米開戦前からビルマ国内工作としてビルマ独立党を支援しており、日米開戦にともない敵となったイギリスを打倒するために結成したものです。司令官は鈴木大佐。ロンジー(ビルマ民族衣装)で白馬にまたがりビルマ人の前に登場したと言います。この演出の提案をしたのがアウンサンで、アウンサンスーチー女史の父です。ビルマでは「王朝最後の王子よみがえって東方から白馬に乗ってやってきて白人支配から開放する」という伝説があったのです。

 イギリスとの戦いの前、アウンサンは日本に亡命し、独立運動指導者らをビルマから呼び寄せ、海南島で南機関によって厳しい軍事訓練が行われました。訓練の厳しさに脱落しそうな者が現れると「こんなことでイギリス軍をビルマから追い出せるか!」「そんな意志薄弱で独立が獲得できるか!」と怒声が飛び交ったといいます。

 昭和17年(1942年)日本軍とビルマ独立義勇軍(B・I・A)がタイからビルマとの国境に近づくと、ビルマの青年たちが国境を越えてやってきて、「ドウバマー」(万歳)と叫び、日本軍の物資輸送を手伝いました。日本軍が国境を越えてビルマの村に入ると村の人たちが「ドウバマー」「ドウバマー」大歓声が沸きあがり、日本兵はあまりの感動に涙を流したといいます。

 ビルマに入った日本軍は進撃を続け3月には首都ラングーンを占拠。イギリス軍に逮捕されていた独立指導者らを解放しました。その後、ビルマ北方方面を制圧し、ビルマをイギリスから解放しました。

 昭和18年(1943年)バー・モウを元首とするビルマ国が建国しました。その後、大東亜戦争は日本の旗色が悪くなり、アウンサンは日本を裏切りましたが、それは独立を維持するため仕方がない行為で、日本を恨んでいたわけではありません。戦後、ビルマ独立に尽力した7人の日本人にアウンサン勲章が授与されています。南機関の鈴木大佐のことはミャンマーの学校教科書でも大きく取り上げられているそうです。こうした親日的なところが、日本の軍歌をずっと残していることにつながっているのでしょう。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 徳間文庫「ビルマ独立秘史」泉谷達郎(著)

添付画像
 ビルマの日本軍(PD)

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軍艦行進曲の系譜 ミャンマー・ドゥーイェ・タッマドゥ Myanmar Tot Ya Tatmadaw
http://www.youtube.com/watch?v=ZSmqdf6N4n8


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2011-10-06 09:09:21 テーマ:戦後占領下

「日本人は12歳」と言ったマッカーサー

$かつて日本は美しかった

 大東亜戦争後、占領軍の最高司令官であったのはダグラス・マッカーサーが「日本人は12歳」と言った話はは良く聞きます。戦後占領期のGHQの政策は日本の将来的な弱体化、破壊でしたが、絶対的権力と物資が不足している中、日本人はだんだんアメリカかぶれになっていきました。日本人はマッカーサーを称賛し、マッカーサーの離日後、マッカーサーを「永久国賓にしよう」「マッカーサー神社を建てよう」「マッカーサー記念館を作ろう」という声まであがりました。しかし、この「日本人は12歳」発言によりマッカーサーの差別意識に気がつき、マッカーサー熱は急速に冷え、人々から忘れ去られていったのです。

 この「日本人は12歳」という発言はマッカーサーが帰米直後、日本人のことを「like a boy of twelve」と米上院公聴会で証言したときのものです。教育学博士の若狭和朋氏は著書「続・日本人が知ってはならない歴史」では「たぶんに誤解です。ドイツは成人の悪党だったが、日本人はそうでなかったという反省の弁」と書いています。

 WEB「正論」で東京都儀典長・前バンクーバー総領事 多賀敏行氏は東京・永田町の国立国会図書館へいき、公聴記録を調べて述べています。これによると日本は自由主義陣営の一員として留まりソ連側になびくようなことはない、ドイツは悪党だが、日本はそうでない、という日本擁護論の文脈の中で出てきていると書いており、記録を見ますと確かにその通りです。

^^^^^^^^[引用開始]
「そうですね、ドイツの問題は、完全に、そして全面的に、日本の問題とは違っています。ドイツは成熟した人種でした。もしアングロ・サクソンが人間の年齢で、科学や芸術や宗教や文化の面でみて、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人も同じくらい成熟していました。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状況にありました。近代文明の尺度で測れば、われわれが45歳という成熟した年齢であるのに比べると、日本人は言ってみれば 12歳の少年と言ったところでしょう。

 指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい規範とか新しい考え方を受け入れやすかったのです。日本では、基本的な考えを植え付けることができます。日本人は、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができるほどに、白紙の状態に近かったのです。

 ドイツ人はわれわれと同じくらい成熟していました。ドイツ人が現代の道徳を怠けてないがしろにしたり、国際的規範を破ったりしたとき、それは彼らが意図的にやったことでした。ドイツ人は、世界について知識がなかったからそうしたことをしたのではありません。日本人がある程度そうだったように、うっかり、ついそうしてしまったというのではありません。ドイツ人は、みずからの軍事力を用いることが、自分の望む権力と経済制覇への近道と考え、熟慮の上での政策として、それを行使したのです」

「ドイツは言うなれば確信犯で、冷徹に国益の損得勘定を考えてああいう悪いことをやった。日本はそうではない。まだ国際社会に出て間がなくて、ちょっと道を踏み外してしまった。でも、自分が占領統治をして良い国になったのだから、大丈夫だ」「日本はまだ12歳の少年で、まだ教育可能で、覚えが早くて優等生だ」


^^^^^^^^[引用終わり]

 日本擁護論の中での「例え」として使われており、多賀敏行氏は日本擁護が真意と言っています。確かに主旨はそうですが、12歳に例えるというところがマッカーサーの心の底にある「日本人差別」意識を物語っているでしょう。
 昭和天皇はマッカーサーが離日するとき、GHQが見送りを要請したにもかかわらず、侍従長を派遣しただけでした。昭和天皇訪米のとき、マッカーサー夫人の再三の案内にもかかわらずマッカーサー記念館に行くことも、マッカーサーの墓参をすることも行いませんでした。



参考文献
 幻冬社「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
参考サイト
 Web正論:<特別企画 遥かなり大東亜戦争>
 若き日本人に伝えたい「日本人は12歳」、マッカーサー発言の真意は侮蔑にあらず
  東京都儀典長・前バンクーバー総領事 多賀敏行
  http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0701/ronbun2-1.html

添付画像
 ダグラス・マッカーサー(PD)

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日本兵がマッカーサーに敬意を表して背を向けて立っていた
http://www.youtube.com/watch?v=vuB1n6JcTgI



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