goo

10月7日(金)のつぶやき

05:18 from web
10月6日(木)のつぶやきhttp://t.co/Ldk2rgrD
14:04 from web
通常のありきたりの意味での自己認識は、すなわち、個人に特有の弱点や欠点の探求といった意味での自己認識は、哲学にとっては何の意味も持たない。
同じことは、個々の精神の固有性に関して判定する場合にも、いわゆる人間知についても当てはまる。a (S 9 )
14:04 from web
とくに、法や倫理によるのではなく、そうではなく、個々人のわがままや気まぐれ、身勝手などが支配している劣悪な政治的状況においては、―――事柄の本性のうえにではなく、むしろ、ある者が他人の特性を上手に利用してふるまい、また、それによって偶然的な目的に達しようとするような――― b
14:07 from web
陰謀の場所においては、こうした認識は、もちろん生活にとって有益であるし必要である。しかし、人間知が、偶然的な個別性の考察から偉大な人間的性格の把握へと自分を高めることができないほど、こうした人間知は、哲学にとってはまさにまったくに無関係である。 c
14:07 from web
人間の真実の本性は、偉大な人間的性格の把握を通して、ゆがめられない純粋さにおいて直観されるようになるのである。 d
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10月6日(木)のつぶやき

11:45 from Tweet Button
もっともアメリカ人らしいアメリカ人。日本からはとうてい出てこない人物。20世紀を象徴する人として、多くの人から哀惜される。>> <<http://t.co/MpoXAoOo ジョブズ氏をしのび、功績を語るビジネス界リーダー - WSJ日本版 - jp.WSJ.com
12:03 from Twitpic
福島の災害にもめげることなく http://t.co/4CrA8F8A
12:07 from Twitpic
20110928山畑の通りすがりに http://t.co/rAkWw4JB
19:14 from Tweet Button
海上保安庁の警備能力だけでは対応できないときがくる。そのとき政治家たちは津波や原発事故の時の菅や仙谷のようにうろたえないでいられるか。<<http://t.co/qIToTecM 海上保安庁、尖閣諸島沖の警備能力を増強 - Japan Real Time - jp.WSJ.com
19:45 from Tweet Button
池田氏が武田氏を批判している。自分のブログに原発問題の参考意見の一つとして、武田教授のブログにリンクを貼ったことがある。>><<RT @ikedanob: 池田信夫 blog : 武田邦彦氏の売り歩く放射能デマ - ライブドアブログ http://t.co/6M6ThUxu
20:01 from web
こうした問題については、一個人や一学者の見解ではなく、原子力安全委員会や政府が権威をもって信頼に足る数値を示すべきなのだ。しかし、東電や安全委員会、政府の対応が過去の経緯からまったく国民から信頼されていない。日本国民の不幸は、信頼に足る政府をいまだ持ち得ていないことにある。
20:10 from web
ただ、問題は国民が自ら本当に信頼に値する政府や官僚組織を持ちうるのか、それは果たして実現できる課題であるのか、できるとすれば、それはどのような条件で可能か、そういった根本問題が先行する。緊急の目先の問題解決にはまことに悠長な問題提起ではあるけれども。
20:51 from web
東電福島原発事故による放射能汚染被害についても、2011年3月11日の時点で定められていた、現行法令における線量限度が尊重され守られるべきだろう。それに違反する現状は取り締まられ、改善されるべきなのである。政府関係機関は最大限そのための努力をしなければならない。
21:00 from web
原子力百科事典http://t.co/gP6fWJkH
などによれば、2011年3月11日の時点で定められていた、現行法令における放射線量限度は次のようなものだ。

現行法令における線量限度
http://t.co/TPNMxtDX
21:01 from web
国民が政府や文部科学省、経済産業省などの関係各機関にこれらの法令を尊重してその遵守を要求するのは当然だろう。それに違反するような行政措置は訴訟問題に値する。
21:06 from web
放射線量限度 (09-04-02-13)
http://t.co/SqkKTanT
22:06 from web
政府や文部科学省の原子力行政や現在進行形の原発事故対策についても、引きつづきさらなる情報公開を求めてゆくとともに、その経過もできるかぎり多くの国民に明らかにされて、自由な監視と批判の許に置かれるべきなのでしょう。

原子力委員会定例会議
http://t.co/VzjUgF9e
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10月5日(水)のつぶやき

00:14 from Saezuri
『ヘーゲル哲学体系. 第1論理学 第2部自然哲学』 速水敬二訳 筑摩書房 1949.の古本を注文したつもりだったのに、どこでどう間違えたのか、『ヘーゲル全集.2a 自然哲学 上巻 哲学体系2』 加藤尚武訳 岩波書店 1998.3. が届いてしまった。
00:28 from Saezuri
前回は、自然哲学と精神哲学の接点に位置する、意識の実体である「心」の所を読んできた。「心」「意識」「精神」などの用語、ヘーゲルの概念規定についてもう少し復習しておきたい。「自然においては自由が支配しているのではなくて、必然性が支配しているのである。」(S 26 )
01:09 from Saezuri
経験科学と哲学との差異:
経験的諸科学においては素材が経験から与えられたものとして、外から受け入れられ、かつ、すでに確立している一般的な規則(因果関係)にしたがって外面的に関係づけられているとするならば、a
01:25 from Saezuri
弁証法的な思考は、それとは反対に、自分の対象とその発展を、絶対的な必然性の中に証明しなければならない。b(S 15 )
11:32 from Saezuri
概念は三つの契機をもっている。普遍→特殊→個別。動物は生ける普遍性として、つまり概念として捉えられる。概念は推理によって上記の三つの規定に連結されるから、動物においてもこの論理は貫かれている。A)個体的な理念―形態、B)自然との同化、C)他者において自己と関わる類の過程。§352
11:39 from Saezuri
GOOGLE+ではツイッターのように140字の制限はないから、研究メモとしてはこちらの方が使い勝手が好いかもしれないが、残念ながら今のところ、SAEZURIような便利なツールソフトが見あたらない。
12:16 from Saezuri
精神のそこに存在するものが、この普遍性である。この普遍の中で、精神の中で、自然は消えている。精神とは、自己自身に達した理念、自己を自覚している現実的な理念である。だから、理念においては客観と主観が同じ概念である。概念は自然において自らを完全に客体化している。§381
14:26 from Saezuri
「日本に敵いない」〜中国ネット大手、百度に聞く日本戦略 2011/10/5日本経済新聞電子版「問題は日本の教育の仕組みだ。日本の小学校の運動会では、みんなそろって金メダルをもらっている。中国では1番にならなければ金メダルをもらえない」のだそうだ。どちらが社会主義国家か?
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10月4日(火)のつぶやき

11:11 from Tweet Button
日本の政治文化から田中角栄的な金権政治体質を脱臭することは、政治思想以前に、政治の品格を高めるにも不可欠の課題だ。それ以上にだらしないのは民主党の連中だ。>>【正論】評論家・屋山太郎 小沢氏よ、議員の資格はないぞ - MSN産経ニュース http://t.co/qJLUyEfh
12:52 from web
こんな政治家しか育てられないのは、大学・大学院自身が劣化しているからではないか。とくに能力なき国立大学教授は給料を国民に返せ。>> <<【正論】拓殖大学大学院教授・遠藤浩一 存在感を誇示する声高な少数派 - MSN産経ニュース http://t.co/y8NtXdT4
12:54 from Saezuri
まず大学教授自身が自己責任を果たせ。>> <<【正論】拓殖大学大学院教授・遠藤浩一 存在感を誇示する声高な少数派 http://t.co/wmA4jm9M MSN産経ニュー
13:25 from Saezuri
ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つhttp://t.co/kE7ZzI3T
国民は自らにふさわしい大学・大学院しかもてない。本物のエリート教育の再建の成否こそ国家・国民の命運を決める。松下生計塾程度ではだめだ。
22:41 from Saezuri
みんなの党、江田けんじ氏のサイトで『シリーズ/「財務省支配」の何が問題か?』を読んでいる。http://t.co/9mOfIRM9
22:46 from Saezuri
大新聞も伝えることのなかったこうした情報や事実を、インターネット時代になってさまざまなルートを通じて知りうるようになったこと。このことの利点をつくづくと感じる。とにかく情報資料を通じて、人々に真実が知らされること。この原則的な情報公開こそが公正な社会の形成の条件であり前提である。
23:08 from Saezuri
みんなの党、江田けんじ氏の財務省改革案、財務省からの「国税庁を分離」して、「社会保険庁を国税庁とを統合して独立した行政委員会「歳入庁」を設置する」案は傾聴に値する。
23:09 from Saezuri
そもそも後者は民主党の公約だったものだ。民主党がどれだけ初心を失い、変質してしまっているかがわかる。>> <<野田「財務省政権」の何が問題か?http://t.co/1MLcj1Gr
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10月2日(日)のつぶやき

00:00 from Saezuri
心は、自然の普遍的な非物質性であり、自然の単純で観念的な生命でもある。心は実体Substanzであるから、精神のあらゆる特殊化と個別化の基礎である。§389
08:36 from Twitpic
嵐山 http://t.co/k8CTrjQc
09:38 from goo
2011年中秋の月 #goo_askys http://t.co/FGyYdzEg
09:54 from excite blog
[exblog] 2011年中秋の明月 http://t.co/yJVCx0um
13:09 from goo
再び天上の花 #goo_askys http://t.co/fvPNYzUV
14:11 from excite blog
[exblog] 再び天上の花 http://t.co/MzREAFZF
22:38 from Tweet Button
これまで私のブログは、基本的には EXCITE と GOOの二つだった。が、最近になってふたたびBLOGGERを試してみて、使い勝手やデザイン、性能などが以前と比べて、ずいぶん向上しているように思える。
22:39 from web
それで今後はさらに第三のブログとして、あるいはむしろ核ブログぐらいに、活用してゆくべきかと思う。Check out this site: http://t.co/PSH6GfjE
22:43 from Tweet Button
もし実現すれば、悲しい出来事の多かった今年の日本にとって、久しぶりに心から喜べる明るいニュースになる。>> <<ノーベル賞、山中氏が最有力と地元紙 iPS細胞で医学生理学賞 - 47NEWS(よんななニュース) http://t.co/dz7tdhp8
23:02 from Saezuri
必ずしも脱原発論者ではないけれども。フォローした。何事も物事は両面から、しかも、できうるかぎり全面的に考察するというのが真実に至る道だから。金子勝氏の主張も参考にまたアウフヘーベンして行く必要がある。@masaru_kaneko
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10月1日(土)のつぶやき

13:48 from web
前回§50の欲望のあたりまで進みかけたが、今一度立ち戻って、意識と自己意識の関連について確認しておきたい。意識→自己意識→欲望→相互承認という、意識の進展、あるいは精神の進展を展望しながらも、意識一般の概念について立ち戻って、その詳細を見ておきたい。
13:57 from web
§42 感性的意識
意識はさしあたり直接的な意識である。だから、対象に対する意識の関係は、単純な媒介されない、対象についての確実性である。それゆえ、対象自身も同様に、直接的な対象として、存在し、自己内に反省している対象として規定される。それはさらに、個別的なものと規定されている。
19:51 from Saezuri
自我自身は単に形式的な同一性として存在するに過ぎないから、概念の弁証法的な運動は、すなわち、意識の進行は、自我にとっては自分の活動として存在するのではなくて、本来的にあるものであり、意識にとっては対象の変化として現れる。§39
19:57 from Saezuri
「私」、すなわち意識の主体は思考である。対象の在り方における論理的な進行は、主体と客体とにおいて同一のものであり、主体と客体との絶対的な関係であり、客体をも主体自身のものたらしめるものである。い (ibid§39 )
20:04 from Saezuri
カント哲学はラインホルドによって、表象能力という名の下で、意識の理論として把握されたということは、カント哲学の正当な意義を捉えたものと見るべきである。なぜなら、カント哲学は、「私」を、彼岸に横たわっているもの、すなわち、物自体に対する関係として考察する。 (ibid補注   )
20:15 from Saezuri
フィヒテ哲学もカントと同じように、非我はもっぱら「私」の対象として、意識によって規定されているに過ぎない。だから、非我はどこまでも到達できない無限の対象として、すなわち、物自体として残っている。この二つの哲学は、概念に、すなわち自己自身において存在する精神には理解が及ばない。39
20:29 from Saezuri
スピノザ哲学においては、精神は、自己を「私」として、どのように判断するかは自由な主体として構成する自己分割、判断、つまりA=Aが、精神の絶対的な在り方だと認めるがゆえに、哲学はスピノザ哲学から始まる。§39補注
21:17 from Saezuri
意識としての精神の目的は、自己の現象を自己の本質と一致させること、自分自身の確信を真理にまで高めることである。精神が意識の中にもつ実際存在は自己の有限性を意識の中にもっている。だから精神が自己と形式的に関係することは、たんなる確信に過ぎない。a
21:44 from Saezuri
なぜなら、客体は単に抽象的に精神自身のものと決められている過ぎず、あるいは、客体の中にあって精神は、ただ抽象的に自分のものとして決められている過ぎないか、あるいは、精神は意識の中で、自分自身の中で、抽象的な「私」として反映しているだけのものである。b
21:46 from web
だから、この実際存在はまだなんら自分自自身のものではない一個の内容でしかない。c
22:28 from Saezuri
単なる表象は確信と真理を区別しない。内容がつまらなく劣悪なものであっても、その表象が客体と一致する主観的なものでありさえすればいい。
22:28 from Saezuri
しかし、哲学においては真理の概念は本質的にたんなる確信にすぎないものから区別されなければならない。
22:31 from Saezuri
なぜなら、精神がたんなる意識の立場にあるところの自分自身についてもつところの確信は、非真理のもの、自分自身に矛盾するものである。というのも自分自身の許にあるという抽象的な確信のすぐ側で、ほとんど正反対の確信を、自分にとって本質的に自身に向かう他者として振る舞う確信を精神はもつ。
22:43 from Saezuri
この矛盾は解消されなければならない。§40
主体的な確信は、対象について何らの制限も残してはならない。主体的な確信は真の客観性に至らなければならない。
23:43 from Saezuri
§417
確信が真理に高まる段階は次の通りである。
a. 意識一般としてあること。こうしたものとして  は、対象は対象としてある。
b.自己意識、自己意識にとっては、「私」が対象で  ある。
23:43 from Saezuri
c.意識と自己意識との統一。精神は対象の内容を
  自分自身として、そして、自己の上にありかつ   自己に対して定められたものとして自分自身を   直観する。理性、精神の概念。
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9月30日(金)のつぶやき

08:31 from goo
今月初め頃に投稿しようと思っていて、下書きのまま完成させていなかった記事。 #goo_askys http://t.co/USYl9puV
08:58 from web
この月初め頃に下書きだけ書いて放置していた記事に少し修正を加えて投稿した。やはり中心的な課題は国家の概念を現実のものとすることだ。明確な国家概念をもった国民は誰もいない。
夕暮れのフクロウhttp://t.co/sehqiKaj
作雨作晴http://t.co/glJ0LOZF
10:09 from Tweet Button
この証言で、中国人船長の釈放で菅直人、仙谷由人氏らが嘘をついていたことが明らかになった。そのことは多くの国民がすでに予想していた通りであるが。【尖閣事件】中国人船長釈放「菅・仙谷氏が政治判断」 松本前参与が証言 - MSN産経ニュース http://t.co/DQIUUwRy
10:10 from Tweet Button
しかし、問題の根元は日本の政治家がなぜそんな嘘をついてまで釈放しなければならなかったかということである。その背景にある真実こそが問題だ。【尖閣事件】中国人船長釈放「菅・仙谷氏が政治判断」 松本前参与が証言 - MSN産経ニュース http://t.co/DQIUUwRy
13:40 from goo
畑の上を舞うツバメ #goo_aowls http://t.co/pUfNvPr9
13:43 from goo
今月初めに下書きのまま放置していた日記記事。少し修正して投稿。哲学的な論考として参考になるかも。 #goo_aowls http://t.co/pUfNvPr9
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再び天上の花

 

二〇十一年九月二十八日(水) 晴れ

再び天上の花

山畑に行く途中、小学校の横を通りすぎた。秋の運動会に備えてのことか、民謡の花笠音頭をバックミュージックに、ちょうど児童たちが校庭で演舞の練習中だった。金網越しに子供たちのユーモラスな踊りぶりをしばらく眺めていた。

よく晴れていて美しい季節の昼前の一時で、時間に余裕があったので自転車で行く。 山に畑を作り始めて、もっとも不自由に感じることは、限られた時間の中で、気ままに方々を自転車で散策する時間が削られてしまうことだ。

前回来たときもすでに山辺には彼岸花のいくつかの咲きかけているのを見つけていたが、今日はさらに黄色く色づいた稲畑の畦のあちこちに、曼珠沙華が花の盛りを迎えたように咲いている。この秋になってはじめてコスモスの花の群生も見る。暑かった夏も過ぎ去り、もう秋が訪れに来る。

               

曼珠沙華も毎年に約束を違えずに咲き迎えてくれる。確かに彼女らは人間を目的として咲いているのだ。同じ自然界の存在として、お互いにけして無縁ではない。とはいえ彼女らは一秋半月足らずの寿命だが、人間は生きているかぎりそのあでやかな姿を眺められる。昨年の秋はさほど印象に残っていない。秋の稲刈りを背景にはっきりとこの花の存在を自覚し、曼珠沙華という花の名のもともとの意味を知ったのは、もう五年も前になる。

山の中では、イチジクの木がサルどもの悪戯にあって、大切な枝を何本か折られていた。自然界の中にあって、植物と動物の共生はどうなっているのだろうか。サルくらいの高等動物になると、すでに人間のように、遊びや悪戯をしはじめていることがわかる。むろん人間もサルもその肉体的生存は自然との物質的な代謝なくしてありえない。

山を散策していると、苔の上に熟し柿が一つ落ちているのに気づいた。ほとんど傷もなく、手にとって皮を剥いてみると、熟したゼリー状の実が現れる。口に入れると甘い。見上げると幹の古い柿の木があって、手で触れると凹みそうなくらいに熟した柿が、ちょうど手の届くところの枝にぶら下がっていた。幸運を思いながら、もいで口に入れる。一昨年にようやく根付いた「私」の柿も、サルやシカの牙を免れて無事に実をつけるようになるのに、果たしてあと何年かかることだろう。

さわやかな気候だったので、スコップを一本もって、市街地を見晴るかすことのできる所まで上る。お気に入りのいつもの場所だ。そこからの眺望を写真と動画に収めておく。今年は暇もなくイチジクの実はあきらめて、サルどもにほとんど呉れてやった。来年はもう少ししっかりと対策を施すつもりだ。

 

 

 

 

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9月26日(月)のつぶやき

12:18 from goo
9月25日(日)のつぶやき #goo_aowls http://t.co/4WWTr0sh
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9月25日(日)のつぶやき

16:03 from web
α  欲望
§50
直接的な形態における自己意識は、個別者であり欲望である。客観的であろうとするところの自分の抽象性と、あるいは、外部の対象物がもつ形象であるところの直接性と、主観的であろうとすることとの矛盾である。・・・生命を持たないものは何らの衝動も持っていない。41
16:10 from web
自己意識は、直接的で外面的な客観は何らの真実な実在性をもたず、むしろ主観に対して虚無的なもの、単に外面的に独立のものであるが、実際は、それは独立的に存立する資格も能力ももたず、主観の実在的な威力によって没落しなければならようなものであることを知っているからである。 (S 40 )
16:37 from web
自我も国家もいずれも、独立した排他的な主体であるという点においては共通している。
16:52 from web
自己意識の概念は、自分が自分自身に対して関係するということの中に、“私は私である"ということ“私=私"ということに成り立っている。(S 40 )
17:56 from Janetter2
直接的な、したがって自然的で個別的な排他的な自己意識は、自分は自分であるという形態をもっている。(S 40 )
19:24 from Saezuri
客観に対する関係は主観にとっては必然的である。・・自己意識はこの矛盾を揚棄することができる。というのは、自己意識は単に存在するものではなくて、そうではなくて、絶対的な活動だからである。(S 41 )
20:55 from Saezuri
欲望――欲望の対象と欲望そのものがそうであるように、また、欲望の満足もまた、個別的な、移りゆく、新しく目覚めてくる欲望に席を譲るのであり、主観の普遍性といつも矛盾したままにあるものである。a
20:57 from Saezuri
そして、それにもかかわらず、直接的な主体の感じられた欠乏を通して、つねに繰り返し刺激される客体化である。この客体化は欲望の目的を決して実現することはなく、むしろ、ただ、終わりのない進行を引き起こすだけである。b  (S 44)
ここでは欲望とは“感じられた矛盾”である。
21:32 from Saezuri
§429(§53)自分が欲望の満足の中にある自己感情は、内面から見れば、それ自体、抽象的な自覚的な存在の中に、あるいは、その個別性にあるのではなく、むしろ、直接性と個別性の否定として、その結果には普遍的な規定と自己意識のその対象との一致を含んでいる。a
22:04 from Saezuri
判断あるいはこの自意識の分離は、自由な客体についての自覚である。私はこの自由な客体の中に自己としての知をもっている。しかし、私はまだなお自己の外にある。b  (S 44 )
22:09 from web
ここでヘーゲルは“自由な客体”として、“自由な”という形容詞を用いている。すなわち、自己意識が主観性と外的な客体の揚棄を通じて、私の直接性、欲望の立場を否定することによって得られるものが、自由の立場である。
23:34 from Saezuri
国会で仙谷元官房長官から左遷をほのめかされた古賀重明氏の登場番組を見る。日本社会の問題点をかなり的確についている。「ニュースの深層9/13(火)古賀茂明氏出演http://t.co/sfdL5QOj」<
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9月22日(木)のつぶやき

12:45 from web
ヘーゲルの哲学体系は堅固な論理的構築物であって、その必然的で
論理的な構成は、まさしく「永遠の建築物」である。
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9月20日(火)のつぶやき

02:21 from web
小出裕章さんが、山口県の柳井市で行った講演記録をYOUTUBEで見る。>> <<【大切な人に伝えてください】小出裕章さん『隠される原子力http://t.co/8VDT9pm5
04:41 from web
国家の本質をどのように見るか。階級国家観に立つマルクス主義では、ブルジョア国家は悪でプロレタリア独裁国家は善と考える。共産主義者は言うまでもなく、仙谷由人氏や市民運動家だった菅直人氏ら現在の民主党の多くの政治家たちは、自覚的か無自覚的にか、このマルクス主義国家観の影響下にある。
04:43 from web
この日本から、パチンコ文化を消滅させなければならない。>> <<パチンコの違法化と大幅課税求め 地方議員らが集会−在日韓国人男性「韓国人への嫌がらせだ」 http://t.co/qRufu36Q
09:30 from web
国家の概念からいえば、マルクスの国家観は倒錯しており誤っている。確かに現象的にそういう事態はあるとしても、その本質をどのように捉えるかは別だ。そうした認識からとんでもない誤った政策が出てくる。日本国憲法や民主党の政策のいくつかはそうした国家観の帰結としてある。
10:53 from web
国家間の戦争はどう捉えられるべきか、それはその本質からいって一種の自然現象として捉えられるべきもので、一方が善で一方が悪という観点からは、真実は捉えられないと思う。
戦後日本の国家としての歪みが根本から改まらないのは、倒錯した歴史観、国家観の上に国家が構築されているからだ。
12:28 from web
野田内閣が始動 副大臣・政務官人事に着手  :日本経済新聞 http://t.co/Jiorq4b6 野田内閣には、日本の改革はできない。民主党内から小沢、輿石一派を切れないからである。理念よりも談合を優先する日本の政治家の長年の通弊から野田佳彦も抜けきれない。
12:29 from web
民主党内から、田中角栄の残存勢力である小沢一郎、そして旧社会党勢力を排除して、真実の民主主義政党を構築して行くという問題意識も明確な国家理念も野田新首相にはない。政治理念の貧弱さは菅前首相と変わらない。
12:29 from web
歴代の盆栽民主党首相では、絵に描いた餅だった「国家戦略室」。野田首相によって、少しは体をなすかもしれない。三度目の正直になるか: 「国家戦略会議」政官民で新設へ 経済財政の司令塔  :日本経済新聞 http://t.co/3xVQLumt
12:30 from web
中国や韓国から、右翼だと批判されるくらいでなければ、独立した国家の指導者とは言えない。中韓のいやがる首相の靖国参拝は、独立した主権国家の指導者か否かのリトマス試験紙であり、試金石だ。野田には「右翼」の確信がない。
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9月19日(月)のつぶやき

18:53 from web
この日本から、パチンコ文化を消滅させなければならない。>> <<パチンコの違法化と大幅課税求め 地方議員らが集会−在日韓国人男性「韓国人への嫌がらせだ」 http://t.co/qRufu36Q
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9月16日(金)のつぶやき

00:36 from web
「日本が原子力技術をもっておくことは、中国や北朝鮮の軍事的冒険を抑止する上でも重要だ。」と池田氏は言う。私も核兵器の開発技術を担保するために原発を消極的に肯定してきた。 <<RT@ikedanob: 池田信夫 blog : :http://t.co/Ag3dqHk
00:38 from web
だが日本の原発が、欧米諸外国から核兵器開発の軍事力への転化について課せられている桎梏が真実だとすればどうか。
00:38 from web
日本の原発は核兵器開発と日本国の独立にとって、むしろ障碍に転じていると西尾幹二氏のように判断したとしても無理はない。>>「平和主義ではない脱原発<<http://t.co/w6NoCUe
13:37 from web
第一篇主観的精神
直接的な感覚、――理性的な知によって浄化されない感覚――は自然的なもの・偶然的・自己自身にとって外面的な存在・相互分離の規定性によってまとわれている。(s 70)
14:04 from web
それに対して精神は、それの概念またはそれの真実態の方から見れば、その具体的および実在的な意味において、無限または永遠である。そのために、精神は自分の区別の中で、絶対的に自分自身との同一にとどまっている。
14:05 from web
このために、人間は神の似姿として、すなわち人間における神性として宣言されなければならない。 (ibid s 71)この自分自身との同一が、もちろんそれは可能性としての同一ではあるが、人間が自由であることの前提となっている。
14:06 from web
ツイートの百四十字の制限は短すぎる。
14:18 from web
直接には精神は自分の概念を捉えておらず、精神は自己を理性的な知として知ってはいない。精神における神的なものは完全なものに作り上げられるべき、単なる本質に過ぎない。(ibid s 75 )
14:20 from web
ツイートを研究メモとして利用できないか、実験的に始めてみたけれど、字数制限が百四十字でいったん切らなければならず、不便な面がある。
14:39 from web
精神はさしあたり単に理性の不明な確実性に、すなわち、主観的なものと客観的なものとの統一のあいまいな確実性に過ぎない。まだ精神に対象の理性性に関する明確な認識に欠けている。(ibid s 71 )
14:52 from web
精神はそれ自身において本来理性的な対象にまとわりついている偶然性、個別性、外面性の形式から解放し、自分自身を自分の他者から解放しなければならない。精神の有限性はこの解放の道程に帰着する。(ibid s 71)自由が必然性と不可分の対立概念である理由がここに明らかにされている。
15:13 from web
精神の有限性は絶対的に固定されたものとは考えられてはならず、むしろ、それは本質的な面から見て、無限な本質の現象の一様式として認識されるべき。有限な精神は直接に矛盾した非真実なものであり、かつ、同時にこの非真実を廃棄しようとする過程であることが含まれている。(ibid s72 )
15:31 from web
有限なものとの格闘、その制限の克服は人間的な精神における神的なものを刻印することであり、かつ、永遠な精神の必然的な一段階を形成する。・・・・意識にとっては、自我の規定の進行は、自我の活動から独立している客観の変化という仮象を呈する。(ibid s 72 )
15:39 from web
自由な精神によって知られた諸規定は、確かに客観にも内在しているが、しかし、自由な精神によって措定されてもいる。(ibid s 72 )
§65の通読終了。ここでの論考は意識における主観と客観との弁証法的な関係についてかんがえる上で参考になる。
16:28 from goo
9月15日(木)のつぶやき #goo_askys http://t.co/1tZxfry9
21:16 from web
心は直接的に規定され、また、自然によって規定されている。その限り、心は有限である。意識は何らかの対象を持っている。その限り、意識も有限である。精神は特定の対象を持たないが、自分の知の中に何らかの規定をする。その限り精神も有限である。 (ibid s 69  )
21:26 from web
中京大学の武田教授が、「世界の異端児、日本」という表現で糾弾している事柄は、いまだ日本国民が真実の「民主主義政府」を持ち得ていないという事実だ。>> <<武田邦彦『世界の異端児・日本・・・その心を探る(2)家電リサイクル』http://t.co/VgPEdxLm
21:32 from web
官僚、政治家、財界の連中が「グル」になって、国民を食い物にしているのが、その実態である。>> <<原発、消費者金融、パチンコ・・・依存者を食い物にしてきた日本の「グル」の構造 http://t.co/XXRLFYG6
21:43 from Tweet Button
概念と存在。何が精神の概念として規定されるか、何が精神の存在態として規定されるかは、決まっていない。理性が精神の概念として規定されると、その存在態は知であり知性である。知が精神の概念として規定されると、その存在態は客観的な理性であり、知の目的は理性を我がものとすることである。69
21:52 from web
ヘーゲルにおいては有限と無限がカントのように悟性的に分断されていない。理性は自己を規定することによって有限な存在であるが、その規定、その直接性を克服し、自己自身を概念的に理解し、「永遠の」理性であることを実証しようとする衝動を本質にもつ限りにおいて、「無限」である。
22:05 from web
今日も暑く湿気た一日だったように思う。今日の「お勉強?」は、これくらいにして、風呂に入ってから寝る。目的が定まっているからには、「EILE MIT WEILE !」の精神で、我が道を行くのみ。人には言うに任せよ。ダンテ。
by soratine on Twitter

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9月15日(木)のつぶやき

14:40 from web
ようやく畝を作って、大根の種を播く。これまで何度も言ってきたことだが、種子は現実的な「概念」である。この「概念」から、ニンジンやダイコンの実際の「姿=形相」が現れてくる。そして、この宇宙に存在する最高の概念的な存在が人間の「自我」であり、「意識」である。
15:10 from web
問題はもちろんそれほど単純ではない。けれど、電力業界、新聞業界、テレビ業界、パチンコ業界、消費者金融などの解体と再編なくして、公正な社会はない。
15:10 from web
これらの既得権益集団に対して、国家権力による強権的な解体と再編が必要だ。全体主義の復権である。そのために国民の意思の結集が必要だ。民主主義という愚かな女神。>>原発、消費者金融、パチンコ・・・依存者を食い物にしてきた日本の「グル」の構造 http://t.co/oVfv9Om
17:01 from web
もっとも好きな日本人は誰か。山岸巳代蔵。
23:21 from web
昨日、山の畑で、はじめて無花果らしい実を手に入れて食べることができた。完熟の一歩手前というところで、味覚の絶頂ではなかったが、それでも無花果らしい実を味わうことができた。
by soratine on Twitter

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