| 2011/02/04(Fri) 00:23:09 編集(Townmemory)
前回→ Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上) no59667
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●わたしたちの魔法
「最愛の魔女と添い遂げた青年」のことを思って感慨にふけりたいのは誰でしょう。 それはわたしたちです。 「ついに念願の再会を果たした兄妹」の思いに感動したいのは誰でしょう。 それはわたしたちです。
相反する2つの願望を、2つともいっぺんに手に入れたいと「願って」手にとっているのは、わたしたち自身です。 どっちか片方は、実際には単に「書かれたこと」にすぎない。にもかかわらず、両方を真実にしてしまっている者がいる。それは誰か。 それはわたしたちです。
誰かが「こんな真実があったらいいな」と望んだのだ。 だからこれは、真実なのである。
わたしたちはたぶん、「こんな真実があったらいいな」と望む。 するとこれは、真実になるのである。 すぐ隣に、相反する別の真実があるからといって、真実性がそこなわれたりはしないのである。
(「そんなこと願ってねーよ」と思う、わたしたち以外の「あなた」。あなたのことはあとでフォローします)
フェザリーヌが持っている特殊能力について、前回、語りました。 そこでわたしは、 「書かれたことを本当のことにできる者は魔女」 なんていうことを、言いました。
そしてここには、書かれたことを本当のことにしている「わたしたち」がいるのです。
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ちょっとおさらい。
Ep8を読んでいくと、「この物語はフェザリーヌがペンで書き記したものである」というほのめかしが、随所にあらわれます。
「……私はあの人の子に、“そなたのために物語を書く”と約束した。だから私は、あやつのために、あやつが喜ぶ物語を書いている。」
などといったことをつぶやいたり。 お茶会では、
「…………書き切ったには、書き切った。いや、正確には書き切っておらぬのだが。」 「わかっている。もう少しだけを書き足し、そこで筆を置こう。……それで、そなたとはお別れだ。」
などといったことをフェザリーヌは言います。 (ちなみに、ここでフェザリーヌと会話をしている「そなた」の正体は、「わたし」や「あなた」だと思います)
彼女は「もうちょっと書いて、それで筆を置こう」と言っています。このあと、「裏お茶会」が開放されて、寿ゆかりと八城十八の会談が書かれるわけです。
つまりこれらによって、 「裏お茶会での戦人との再会は、“縁寿を喜ばせる”ためにフェザリーヌがペンで“書いた”もの(書かれたもの)なのではないか」 という可能性が出てくるのですね。
その可能性を前にしたとき、 「それでは、あの再会は、“書かれたお話”にすぎないのか? 実際にはなかったことなのか? それは、悲しいではないか。“本当のこと”であって欲しいじゃないか」 という「願い」が出てくるのです。
「兄妹の再会は、特定の人物によって“書かれた”ものである」 「兄妹の再会は、実際にあったことである」
この2つは、ほぼ矛盾状態にあります。どっちかかたっぽが真なら、もうかたっぽはほぼ偽になるはずの関係です。だいたい、ふつうに考えれば。 ぱっと見た感じ、「フェザリーヌが書いている」という描写は、随所に出てくるのですから、「書かれたもの」が真寄りで、「実際にあった」が偽寄りに判断される可能性が高そうに思えます。
けれども。 「フェザリーヌがペンで創作したものだ」なんてのは、描写を見たらそう思えたというだけの、状況証拠にすぎません。 同時に「これは実際にあったことである」なんてのは、わたしたちの願望にすぎません。
どっちみちあやふやなんだ。 わたしたちの立場から見たら、真偽なんてつかない。どっちも不確かなのです。
つまり、 「兄妹の再会は、特定の人物によって“書かれた”ものである」 も、 「兄妹の再会は、実際にあったことである」 も、 だいたい同じくらいの値打ちなのです。 天秤に乗せたら、だいたい釣り合ってしまうのです。
厳密に考えたら、どっちかが正しくないのですが、「この物語では」その2つは等価なのです。
同じ値打ちなら、入れ替えが可能。 そうしたいときには、大作家フェザリーヌの筆力に感じ入れば良いし、 またそうしたいときには、妹と兄との、数十年来の再会の奇跡に感じ入れば良い。
その時々で、欲しいほうを「真実」の側に持ってくれば良いのです。入れ替えていいんです。
「これは書かれたものにすぎないが、しかし本当のことでもある」 「戦人は永遠に海底に沈んだのだが、しかし妹との再会も果たすのである」 「アーモンドが入っていたら当たりだが、もう一個アーモンドが入っていても当たりである」
*
そしてそこには、欲しいほうの真実を、その場に応じてくるくると「入れ替え」ている「わたしたち」がいます。 書かれたことにすぎない「縁寿と戦人の再会」を、本当のことにしている「わたしたち」がいるのです。
「書かれたことを本当にする能力」 それは「魔法」です。
なんと、わたしたちは、魔法を使っているんだ。 なぜなら魔法というものは「ある」のだから。
そう……わたしたちは、「魔法というものがある」というほうの選択肢を選びました。だから、「その場面」を見ることができたわけです。 「魔法というものがある」というほうを選んだから、魔法はある。そしてわたしたちは、知らず知らずのうちに魔法を使い……。
そのことによって、「わたしたちは魔女」なのです。
この物語は「魔法を信じる」という選択をしたわたしたちに、実際に魔法を使わせる。そんなところまでわたしたちを持っていく。
しかしその一方で、こんな予定調和な、兄妹の再会なんて承伏しかねる。これを「本当のこと」として手に取りたいとは思わない。 という人も、当然いるでしょう。そんなことを「本当にする魔法」なんて、べつだん使いたくない。 そのために「手品エンド」が用意されているわけです。「これは手品であって、魔法などというものはない」というほうを選べば、「お茶会」も「裏お茶会」も発生しないのですから、魔法を使う機会はありません。つまり、魔法はありません。
●書かれたことを、事実と等価にできる
これはいったい何のための議論? と疑問をもたれた方もいると思います。
兄妹の再会良かったね、ということであれば、それが真実ってことでいいんじゃないの? どうしてTownmemoryさんは、「書かれたこと」かどうかにこだわっているの?
それは何でかというと、
「書かれたことにすぎないものを、本当にあったことと等価の位置に持ってくることができる」
ことが、とても重要なんだ。 とわたしは言いたいのです。 『うみねこ』は、それを言うための巨大な魔法儀式だったといってもいいくらいかもしれない。
Ep6のときに、
「ep6幻想祝福論・虚実境界線は引けない」
という投稿を書いたことがあります。 できましたら、その投稿を読んでもらいたいのです。いま。読んだことのある人も、絶対内容を忘れていますから、できたら読み直してもらいたい。
虚実境界線は引けない。 ウソゴトと、ホントのことがあり、ウソゴトは価値が低く、ホントのことは価値が高い。そんな既存の価値観に、反旗を翻しているのが、この『うみねこ』という物語ではないか。そんなことを思っているのです。
虚と実。その2つの間に、価値の上下をつけるって、どうなんだ。
その2つを、「等しく価値があるもの」と考えることはできないか。
同じ値札がついていて、交換可能、入れ替え可能な、等価なものと考えることはできないか。
「嘉音はクローゼットの中に隠れているかもしれない」し、それと同時に、 「嘉音はベッドの下に隠れているのかもしれない」のです。 嘉音はひとりしかいないので、どちらか1つの条件しか満たすことはできません。 どっちかが実で、どっちかが虚なのです。 それを確定したいでしょうか。 どうして確定したいのでしょう。 それって「実のほうに価値があり、虚のほうには価値がない」という既存の価値観があるからでは? しかし、この物語は、 「その2つには、等しい価値がある(等価である)」 という新たな価値観を提示するのです。(そう思うのです)
絵羽の日記「一なる真実の書」には、真実が記されているそうです。 いっぽう、縁寿は、そこに書かれているのとは違う真実を期待しています。 ふつうなら、真実は1つしかないので、どっちか片方しか真実ではありません。ふつうはどっちかが実で、どっちかが虚なのです。
でもその2つを、同時に手に取ることはできないのか? その2つを同じ値打ちとみなして、天秤の左右で釣り合わせることはできるんじゃないのか。
縁寿は家族全員が死亡しているという現実を「ホントのこと」だと知ります。 けれども彼女は、それでも、「いつかきっと家族にまた再会できる」という願いを持ち続けます。 全員死亡が本当のことなので、いつか再会できるというのはウソごとです。つまり彼女が心の中に「書いた」虚構です。
では、縁寿は、価値の低いウソゴトを信じちゃっているヘンな人であるわけなのか?
ちがうんだ。 そこに、価値の高低という既存の概念を当てはめるから、変なことになる。 虚構のことと、本当のことは、上下がない。 同じ価値がある。 等価である。
そんなふうに考えてみたらいいのです。 等価値のふたつの選択肢から、ひとつを選んでいる人になる。 現実と幻想は等価値なんだ。 一対一で取り替えが可能なくらい、同じ値打ちなんだ。
言い換えると、こうなるんです。
「虚構のことは、本当のことである」
(うまく説明できていないかもしれない。この魔法、難しいな)
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古戸ヱリカは、この「価値の高低」という既存概念から自由になれなかった人です。 だから常に、ウソのことよりもホントのことを取る。ホントのことこそが価値ある正しい判断なので、正しくない無価値なウソごとを攻撃する。 (参考→ 疑うという“信頼”(下)・古戸ヱリカの見た地獄)
しかし、そんな彼女が、縁寿を見て何かを悟り、リグレットを歌うわけです。
「私は、真実に堪える魔女でした」 「しかし彼女(注:縁寿)は、真実を知った上で、なおも彼女の真実を信じる魔女でした。………もし、彼女のほうが、真実の魔女に相応しいなら。………私は、何の魔女だったのか、わかりません。」
「(例えば心に)書かれたことを真実にしてしまう」のが「真実の魔女」であるなら、物理的な真実だけを価値あるものと思って探し求め続けていた自分はいったい何だったのか。 古戸ヱリカは自分自身にそう問いかけ、 「そういうのを探偵というのさ」 なんて洒落たことを戦人は答えます。
だから、あくまでも既存の概念にのっとり、外部的な真実、物理的な真実を手に入れたいんだという「手品エンド」には、探偵が登場するのです。
●同一のレイヤーにある「虚実」と「真実」
「書かれたことが、本当になる」というフェザリーヌの能力は、
「書かれたことと、本当のこととの間に、本質的な差はないのだ」
という「新しい価値観」を喩えとして表現するためのギミックにちがいない、とわたしは思うのです。
わたしたちはふつう、現実というものが上位にあって、その下位に虚構というレイヤーがあると思っています。 現実というのは虚構よりも偉いものだと思いこんでいるわけです。
かんたんに図示すると、こうでしょうか。
■既存の価値観
・上位階層 現実 ------------------↓干渉(一方通行) ・下位階層 虚構
通常わたしたちは、現実が虚構を作るものだと思っている。上から下への干渉は可能ですが、下から上への干渉は不可能だと思っているわけですね。
ところが。 じつは、『うみねこ』では、「現実が上位で、虚構が下位である」という発想を、最初から全然とっていないようなのです。 以下のような図になるのかな……?
■「うみねこ」の価値観
------------------ ・同階層 現実(虚構)←|→虚構(現実) ------------------
現実と虚構は、上下関係ではなく、同レベルに存在しています。 矢印の左右は、交換が可能です。この2つは入れ替えができます。 矢印の中間にある壁は、「鏡」です。 鏡の左右、どちらが虚像でどちらが実像かは、ハタからは決して確かめることができません。 鏡の前に立っている「わたし」と、鏡の向こうに建っている「わたし」は、両名とも、「自分が実像だ」と思っています。
そういえば……今思い出したのですが、竜騎士07さんは、「虚構」の意味で「虚実」という言葉を使います。 これはもしかしたら、彼の勘違いや、言葉のミスではないかもしれません。
虚構という言葉の中に、あえて「実」という字を入れている。 単語レベルで、虚構と現実がミックスされている。
彼の言葉づかいの中では、「虚構の中には実がある」のです。
竜騎士さんの言語世界では、虚構と現実があるのではなく、「虚実」と「真実」があるのです。 それってこういうことかもしれません、つまり……
虚構というのは、現実に対する対立概念ではなくて、「真実になる一歩手前のもの」である。
架空と実体があるのではない。 「やがて真実になりうるもの」と、「すでに真実になったもの」の2つがあるのだ。 一歩進み出て、鏡の向こうにいけば、それは真実になるのだ。 そんな意味をこめた意図的な表現である可能性があります。深読みしすぎかもしれないですけどね。
●幻想に決まっているのか
そんなわけで、うまく伝達できたかどうかわかりませんが、これは、
「書かれたことを、本当のことにする物語」
として、『うみねこ』を読み解いてみよう、という試みです。
『うみねこ』を読むような人は、たいてい、幻の世界に対する感受性が人一倍高い人だろうと推測できます。 そんなあなたは、 「実体のない、書かれたこと」が、本当のことになって欲しくはないですか。
この物語は、右代宮戦人を、 「魔女なんているわけないし、犯行方法は魔法なんかじゃない」 という場所から、 「魔女はいるし、魔法はあるのだ」 というところに、連れて行きます。
縁寿という少女を、 「親族会議で愉快なクイズパーティーなんて、あったわけがない」 という場所から、 「親族会議は愉快な親戚たちと一緒に楽しいパーティーだったんだ」 という場所に連れ去ります。
そしてこの物語は、読者を、 「書かれたからといって、本当になったりはしない」 という場所から 「書かれたことは、本当なのだ」 というところに連れて行くのです。
それを、作中で端的に語られているように、「願いを尊重することで、よりよく生きよう」みたいな言い方で表現することは簡単なのですが、それだと、ずいぶん感じが小さくなってしまう。 その言い方ではこぼれおちてしまうもの。それを大事にしたいわたしがいるのです。 物語の表面に貼られた壁紙ではなくて、物語の形そのものを見たいわけなのです。
『うみねこ』は、それ自体が「書かれたことを、本当にする魔法」なんじゃないでしょうか。
だからわたしは、物語のはじまりに書かれる、こんな文言にもドキッとするわけなのです。
「うみねこは書かれたもので、幻想に決まっています」
本当に?
(次回は、「なぞなぞ」「手品エンド」「隠匿された真相」の三題噺になる予定)
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