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No59771 の記事


■59771 / )  Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)
□投稿者/ Townmemory -(2011/02/06(Sun) 16:03:00)
http://blog.goo.ne.jp/grandmasterkey/
    ●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
     Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上) no59667
     Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下) no59700


         ☆


    ●誰に対しても通用する真実はない

     さて、今回は。
     右代宮絵羽の日記「一なる真実の書」という、素敵なマクガフィンがEp8には登場します。
     ここから話を始めてみます。

    (「マクガフィン」とは、「お話の中で、とても大事だということになっている物品」くらいの意味です。「国際列車の中で、ダイヤモンドが盗まれた。取り戻さなければ!」という物語における「ダイヤモンド」。「テロリストに新型爆弾を奪われた!」という物語の「新型爆弾」。「マルタの鷹」における「マルタの鷹」。がそれにあたります。いっぺん、マクガフィンという言葉を使ってみたかったのです(^^;)。使い方、微妙に正しくないかもしれない)

     右代宮絵羽の日記「一なる真実の書」。

     これには何と、「六軒島の真実が記されている」ということになっています。ほんとかよって感じですね。だいいち縁寿本人が「伯母さんの妄言じゃないの?」と疑ってます。
     ほんとかよって感じなのですが、

     赤:右代宮絵羽の日記、“一なる真実の書”には、1986年10月4日から5日にかけての、六軒島の真実が記されている。

     という赤い文字があって、その内容の真実性が保証されています。

     が。
    『うみねこ』を、これまできちんと追いかけてきたわたしたちは、

    「この物語においては、真実という言葉は、『万人に通用する真実』ではなく、たいていの場合『個人的な真実』でしかない」

     という理解には、到達しているんじゃないでしょうか。

     ということで、
    「一なる真実の書に記されているのは、右代宮絵羽から見た、個人的な真実である」
     ってことで、かまわないでしょう。彼女にとっての「一なる真実」ということ。

     だって、そりゃそうでしょう。
     右代宮絵羽は、絵羽本人が知り得たことしか書けないのですからね。絵羽が知り得たことと、そこから想像できることしか、この日記には書かれることはできないのです。

     ちょっと極端なことをいえば、本当の意味での「一なる真実」なんてもの、魔女ベアトリーチェにだって記せないんじゃないでしょうか。

     ですからあの赤字は、

     赤:右代宮絵羽の日記、“(彼女個人にとっての)一なる真実の書”には、1986年10月4日から5日にかけての、六軒島の(彼女にとっての)真実が記されている。

     という意味だと考えることができます。

     ところが、この赤字を聞いた縁寿は、

    「絵羽の日記『一なる真実の書』には、“誰にとっても広く通用する”真実が記されているんだ」

     と勝手に思いこみます。
     そんなふうに認識した縁寿は、戦人に対して、「真実を公表しろ、日記を見せろ、私は何があったのかを知りたいんだ」と詰め寄ります。
     それに対する戦人の言葉はこうです。

    「1986年の真実など存在しない」

     これは「“誰にとっても真実として通用するような”1986年の真実など存在しない。(日記には絵羽の個人的な真実が書かれているのであって、縁寿が求めるような真実はそこには書かれていない)」という意味だととれます。

     ところが性悪な魔女の入れ知恵によって、日記の存在を知らされ、そこに「汎用的な真実」が書かれていると思いこんでいる縁寿は、戦人の言葉を「欺瞞にみちた真相隠し」だと認識し、戦人との確執を深めてゆきます。


     さて、ここまでは……異論のある人もいるでしょうが、少なくとも「考え方としてそういうアプローチがある」というくらいは諒解できそうでしょう。
     これをふまえて、あえて考えてみたいのです。

     絵羽の日記『一なる真実の書』には、何が書かれていたのか。


    ●謎の数字をかならずメモする絵羽

     絵羽の日記が書かれるためには、絵羽が生存してくれなければなりません。その上で、「絵羽が何を見たのか」が問われることになります。

     わたしたちが知る限り、絵羽が生還しそうな物語は2パターンあります。

     ひとつは、Ep3です。
     絵羽が黄金の間を発見し、第9の晩まで生き残り、戦人を犯人だと思って射殺する。
     その後、あっちこっちにゴロゴロ転がってる死体や、なにより「自分が殺した戦人の死体」がおそろしくて、黄金の間に逃げ込む。
     黄金の間は九羽鳥庵につながっているので、絵羽は九羽鳥庵を発見する。そのとき時計の針が十二時を指し示して大爆発が起こり、九羽鳥庵で絵羽は救出される。

     もうひとつは、Ep7のラスト近くで上映された、「霧江がライフルで大量殺人を実行するエピソード」
     このエピソードは、霧江と留弗夫が島の人々をばっすばっすと撃ち殺していき、絵羽によって返り討ちにあうというストーリーです。
     このストーリーでも、絵羽は黄金の間への通行方法を知っています。霧江を殺した絵羽は唯一の生存者(推定)となり、あとはEp3と同じ。爆弾のタイマーを解除しないまま九羽鳥庵に逃げ込みドカーンで証拠隠滅。

     とりあえずこの2つが認識できますので、この2つの場合で、「絵羽の日記」が執筆されるものとします。

     ここで唐突ですが、「ナゾの数字」のことを思い出すことにします。
     ナゾの数字というのは、「07151129」という、あの8桁です。

     どちらのエピソードでも、絵羽は8桁の数字をメモするのです。
     Ep3では、客間の扉に赤インクで書かれていた「07151129」を、彼女は手帳に書き記しています。その番号は銀行の貸し金庫の暗証番号でした。
    「霧江大量殺人」エピソードでは、黄金の間において、10億が預金されたキャッシュカードの暗証番号8桁を魔女から教えられ、絵羽はそれをメモしています。

    (キャッシュカードのほうの8桁が、「07151129」であるとは、限りません。別の番号かもしれません。わたしはそういう可能性世界も、かなり有望なものとして検討しています。けれども、それを導入すると話が煩雑になりますので、ひとまず置いておきます。ここでは、キャッシュカードの番号も「07151129」だった、と仮定して話を進めます)

     どちらの場合でも、絵羽にとって8桁の番号は「魔女が(犯人が)知らせてきたサイン」です。

     さて……。
     18歳の縁寿から見て12年前。縁寿6歳当時。六軒島の事件直後。
     彼女のもとに、「右代宮留弗夫」宛、差出人名「右代宮縁寿」という謎の封筒が返送されてきます。推定ですが、住所がでたらめだったため、宛先不明で差出人・縁寿のもとに戻ってきたのです。
     その封筒には、銀行の磁気カードと、タグつきの貸金庫の鍵と、暗証番号「07151129」というメモが封入されていたわけです。少なくとも、そう推定されます。

     その封筒を、幼い縁寿はなくしてしまいます。「あの後のゴタゴタで紛失した」と縁寿は言っています。
    「あの後のゴタゴタ」には、おそらく、縁寿が絵羽にひきとられて引っ越したりする、そういうことも含まれているでしょう。

     その封筒、本当に縁寿がただ「なくした」のでしょうか。
     何かのはずみで、絵羽がそれを手に取り、不審に思い、中身を確かめた……としたら、どうでしょう。

     そこには、あの数字が書かれているじゃありませんか。

     絵羽は銀行に行き、南條雅行医師と同様の体験をして、一億円の札束が入ったアタッシュケースを確認したかもしれません。Ep3の場合には、絵羽はそこで初めて、「8桁の番号は、銀行の暗証番号であったのだ」という事実を知るのです。

    「六軒島事件の首謀者」しか知り得ない番号のメモが、縁寿に送られてきた。
     それは一億円の現金を、縁寿に与えるためのものだった。

     それを知った絵羽はどう思うか。

    「縁寿は、六軒島事件の首謀者(犯人)と通じ合っていたのだ!」

     そういう確信を持ってしまうだろう、と想像できるのです。


    ●絵羽の内部で構成される「ある論理」

     その疑心暗鬼にいったんとらわれてしまえば、あとは水が流れるように、ある方向にすべての想像が動いていきます。

     Ep3では、絵羽は、「戦人が殺人犯だ!」と確信して、彼を射殺するのです。Ep3のTIPSで、戦人をエグゼキュートすると(つまり死因説明の表示にすると)、「朱志香は失明。戦人と二人。狼と羊のパズル。」なんて書いてあります。戦人の死因は狼と羊のパズルなのです。
     狼と羊のパズルなのですから、一見、絵羽が狼で戦人が羊のようですが、そうではないと思うのです。これは南條殺しの一幕のことを言っています。このとき生き残っているのは絵羽、戦人、朱志香の3名です。
    「絵羽は、自分が南條を殺していないことを知っている」
    「朱志香は失明しているため、南條を殺すことができない」
    「よって消去法により、戦人が南條を殺したのである。他のみんなを殺したのも戦人であろう」
     このような論理が発生して、はじめて、絵羽は戦人を殺すことができます。

     つまり、Ep3では、絵羽は戦人を殺人犯だと思っているのです。しかしこんな大がかりな殺人事件を、戦人少年ひとりで起こすことはできないでしょう。
     そこで「留弗夫・霧江・戦人」という「留弗夫一家が計画した事件だったのだろう」という発想に至るだろう、と考えられるのです。

    「霧江殺人犯エピソード」はどうでしょう。
     これは、直接的に、
    「霧江と留弗夫がライフルで虐殺を実行する」
     さまを、絵羽本人が目撃するエピソードです。

     すなわち、Ep3であろうとも、「霧江殺人犯エピソード」であろうとも。
     絵羽が生存する場合、どちらの場合でも、絵羽は、

    「留弗夫一家が大量殺人の首謀者である」

     と確信しそうなのです。
     その証拠に、ほら、犯人だけが知り得る番号が、「留弗夫の娘」に送られて来ているじゃないか。


     そこで「右代宮絵羽の日記」に話が戻ります。
     この日記に、「六軒島で起こったことの回想」が書かれているとしたら。

     それは、「留弗夫一家が、どんな非道をおこない、私の夫や息子を含む多くの人々を無惨に殺していったのか」ということが、憎しみに基づく暗い想像でいっぱいにふくらまされて書かれているにちがいないのです。


    ●真相として流布される「絵羽個人の真実」

     そんな「右代宮絵羽の日記」=「一なる真実の書」を、縁寿は読んでしまったわけです。
     ただ読んだだけではありません。
    「そこには真実が書かれているんだよ」
     ということを赤字で保証され、
    「それさえ読めば、私は真実を手に入れられるんだ!」
     と熱心に思い入れて、それを入手するためにいろんな冒険をして、魔女ベアトリーチェと一騎打ちまでして、それでようやく手に入れた「真実」がそれなのです。

     やっと真実が手に入った! と思って読んだ内容は、お父さんとお母さんとお兄ちゃんを犯人として指名するものだった……。

     それを知っちゃった縁寿はどうなるか。
     Ep8本編内に書いてあります。

     ヤギあたまの女生徒がいっぱい現われて、ひそひそと、縁寿にこんなことをささやき続けるのでした。


    『これが、六軒島事件の真相なんですって!!
    「…………認めないわ。」
    『あんたが認めなくたって!! これが真相なんでしょう?! だって、******、**********!! **************ッ!!!
    「……認めないわ、認めないわッ、………そんな真実、私は認めない、……認めない……。」


     伏せ字になっている部分。これはおおむね「霧江が真犯人、留弗夫と戦人は共犯者、六軒島事件の犯人は留弗夫一家」くらいの内容が言われている可能性が高そうなのです。
     やっと手に入れた真実は、縁寿には絶望的なものでした。

     このシーンはイメージ的に描かれていますが、ただのイメージとはいえません。
    「一なる真実の書」は、広く一般公開されるかもしれなかったものです。
     もし、八城十八が「やっぱ公開やめます」と言わずに、これを社会に公表していた場合。
     右代宮縁寿は、これ以後、世間からこの陰口、この視線を一生浴びることになっていたのです。

     そうなっていた場合。元から精神が不安定な縁寿は、たぶんそんな生活に耐えられなかったでしょう。
     自分は、家族が殺人者だなんて認めない。けれど、信頼できる「唯一の生存者の日記」がそういっている。社会が「真実」として受け取るのは日記の内容のほうだ。
     だから縁寿は、こうなった場合、きっとビルから飛び降りて墜落死します。自分が死ぬことで「自分以外の世界の全て」を猫箱の中に閉ざし、「自分の家族が犯人だった」という「真実」を猫箱の中に再封印するのです。

    「一なる真実の書」が一般公開されていたら、縁寿はとんでもない不幸におちいったであろう。縁寿はEp8の物語で魔女たちに勝利することで、自らを不幸から救ったのである。そんなことが言えそうです。
     そして、
    「一生涯、何があっても決して縁寿に真相を教えてやることがなかった右代宮絵羽」
     彼女の評価も少し変わってきますね。


    ●「書かれただけのこと」にもできる

     さて、以上の内容は、なんと前フリです。ここからが本論。

    「一なる真実の書」を読んだ縁寿は、その内容の真実性が保証されているにもかかわらず(その保証があるからこそ真実の書を求めたにもかかわらず)、

    「こんなものは真実とは認めない」

     と言い出します。


     わたしは、このシリーズの前回・前々回を通して、
    「書かれたことと、本当のこととの間に、本質的な差はないのだ」
     という、新しい価値観を『うみねこ』から取り出しました。(読んでない方、まずそちらからお読み下さい)

     その価値観の中から、
    「書かれたことは、本当のことである」
     という、一種の魔法的な認識を語りました。

     それって、裏返せば、こうも言えるのです。

    「本当のこととは、書かれたことにすぎない」

     書かれたことを本当のことにしてしまえたあの理屈は、くるっと反転させた瞬間、真実性の高い本当のことを、フィクションにしてしまえます。


     右代宮絵羽の日記「一なる真実の書」……。

     世間の人々はそれを読んで、
    「ここにそう書かれているのだから、これは本当のことだろう」
     と思います。

     そして。右代宮縁寿は、
     本当のことが書かれている本の内容を読んで、「こんなものは“書かれたもの”にすぎない!」と絶叫するのです。


     わたしは前回までに、「書かれたことを、本当のことにする」という魔法の、楽園的な、ハッピーな側面ばかりを語りました。

     けれども、そうでない負の側面。
     それもこの物語にはちゃんと内包されていて、語られているのです。

    「書かれただけのことを、本当のことだとみんなで思いこむ」という認識の暴力。
     それに対抗する手段は何か。それは。

    「本当のことだっていうけれど、特定の誰かが“書いたもの”にすぎないじゃないか」

     という対抗主張をおこなうことです。


     はたしてこれは、
    「本当のこと」
     なのだろうか。
     それとも、
    「書かれたこと」
     なのだろうか。

    「本当のこと」に対する「書かれたこと」

     まるでそのふたつに響きあうように、この物語は、

    「魔法エンド」に対する「手品エンド」

     を提示するのです。



     手品エンドでは、探偵・古戸ヱリカが縁寿のパートナーになります。

     そして古戸ヱリカという人物は、
    「留弗夫一家犯人説を示唆するベルンカステルの推理ゲーム」
     に閉じ込められて苦しんでいた幼い縁寿を、絵羽一家犯人説という「もうひとつのアーモンド」をもたらすことで救い出してくれた救世主なのでした。



    (前置きが長くなりすぎました。続きます)
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Pass/

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