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No59806 の記事


■59806 / )  Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)
□投稿者/ Townmemory -(2011/02/08(Tue) 11:41:54)
http://blog.goo.ne.jp/grandmasterkey/
    ●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
     Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上) no59667
     Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下) no59700
     Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上) no59771


         ☆


    ●前回の回想

     絵羽の日記の内容は疑わしいという話をしました。あれはたぶん「彼女個人の真実」にすぎないと。

     ところが、この物語には、
    「書かれたことを、本当にする」
     という魔法がフィーチャーされています。魔女だけでなく、わたしたちですらも、欲しい願いをフィクションの場から「真実の座」へと、くるっと入れ替えて持ってくることができてしまう。

     つまり、「書かれたことを、本当のことにする力」でもって、ほとんどデタラメが書かれた「絵羽の日記」の内容は、本当のことになっちまいます。

     日記の内容を「本当のことであってほしい」と願って、「本当にする魔法」を使うのは、「世間の人々」です。
     世間の人々は、六軒島事件に興味を持っており、真相が知りたいと思っています。そして、右代宮絵羽は、六軒島から唯一生き残った人物です。右代宮絵羽は、非常にオーソリティー(権威性)のある立場なんだ。
     右代宮絵羽が見てきたことは、本当にあったことだろう。右代宮絵羽が日記に書いたことは、本当のことだろう。つまりこの日記に書かれていることは「ほんとうのこと」だ。

    「書かれたことは、本当のこと」の魔法。
     世間の魔法は、おそらく、「留弗夫一家がすべての元凶だ」という絵羽の個人的な想像を、自分勝手に「本当のこと」にしてしまうだろう。
     もし、日記が世間に公表されて、そうなった場合。

     そうなった場合の縁寿を、救うことができるものがあるとしたら。
     それは。

    「本当のことなんて、書かれただけのこと!」

     という、ひっくりかえしの主張。

     書かれただけのことを、本当のことにできるのなら、本当のことを、書かれただけのことにすることもできるのだ。

     真実であるとみんなが認めるものを、いちフィクションにすぎないものに変えてしまう力。
     世間の合意という「魔力」によって真実になってしまった、「右代宮絵羽によって書かれたもの」に対して、
    「書かれたからって、それが本当になったりはしないのだ!」
     と主張する声。

     縁寿を救うことができるのは、そういう声だけです。たぶん。
    「書かれたからって、それを真実扱いするなんて、認めない」
     という断言。
     つまり、「書かれたことを本当にする魔法なんて認めない」。
    「魔法の作用を拒否する。認識の錯誤、つまり手品(トリック)に過ぎない」
     というアプローチ方法。

     このアプローチを取ることができれば、「世間の魔法によって真実になってしまった留弗夫一家犯人説」を、疑わしい虚構の位置に戻すことができる。


     そう考えたとき、「ベルンカステルの推理ゲーム」が、急に意味を持ってくる。
     戦人とベアトとベルンカステルが、全員で認め合った「留弗夫一家犯人説」という「真実」がある。全員で認め合う魔法によって、その仮「説」を、真実にした。
     その、魔法によって取り出した「真実」を、
    「それは真実として確定されるものではない、一主張にすぎない」
     といって、あっさりリジェクトしてみせた、古戸ヱリカがクローズアップされてくる。


     そして。
    「フェザリーヌによって書かれたものにすぎないストーリーを、本当のことに変えてしまう選択」としての「魔法エンド」
     これに対置される、
    「その魔法を拒否するという選択」としての「手品エンド」は、急激に、光輝くものとして、わたしたちの前にあらわれてくるのです。


    ●まわるターンテーブル

     このことひとつ取っても、すでに。

     この物語は。
    「魔法を信じよう、それが良いことなんだ」
     という単純な話ではないのです。

     そんな簡単なことじゃないんだ。

     手品エンドのアプローチも、確実に、縁寿を救っている。
     それどころか、それがなければ縁寿を救えない、という局面が、確かにある。

     これは「手品に対して魔法を選ぶのが正しい」なんていう楽園的な話じゃないのです。


     わたしはこれまで、「書かれたこと」と「本当のこと」との関係を、
    「任意にくるくると入れ替えが可能」
     という言い方で表現してきました。これをちょっと頭にとめておいて下さい。

    「願われ、書かれたことは、いつも、すべて、必ず真実なのである」
    「真実とは、いつも、常に、誰かがそう書いたこと、にすぎないのである」


     この2つが、背中合わせに立って、ターンテーブルに載っている。そういうモデルをまず想像してみて下さい。
     回転ドアとか、忍者屋敷のどんでん返しみたいなイメージでも良いです。一方の背後には必ず他方がある。一方が前面に出て力を持てば、他方がアンチテーゼとして追ってきて前面に出る。

     まず、このイメージを持って下さい。

     で、これからしばらく、同じことを繰り返したような話が出てきますが、我慢して読んでください。だんだん「おや」という感じに変質していく予定です。


    ●ヤギとヒト/循環する利害

     さて……。

     誰しもが、自分の望む「書かれたもの」を真実にする魔法を使っています。
     わたしもそうです。たとえばわたしの推理ブログなんかは、わたしによって「書かれたもの」です。わたしは、「うみねこって、こういう真相なんじゃないのかなぁ。こうだったらいいのになぁ」と思っているわけです。それで、
    「わたしの中では、これは真実ってことにしようー」
     という処理を行なっているわけです。

     でも、世の中にはいろんな人がいるんだから、いろんな真実がある。その「真実」どうしの利害がかちあうことなんて当然あるでしょうよ。
     あの人が書いてることが真実だったらやだ、とかね。はなはだしくは、「だから攻撃してやろう」なんてね。


     さて、そこで皆さん。
     おまたせしました。ヤギあたまのお話をしましょう。

     ヤギあたまさんは、大きく分けて、Ep8に2種類出てきます。
     右代宮邸をばりばり食べてたやつと、ルチーア学園の制服を着ているやつです。

     右代宮邸を咀嚼していたやつっていうのは、未来世界のネットに生息するウィッチハンターらしいです。
     つまり、各自が六軒島事件について考えて、つまり心の中なりウェブ上なりに「書いて」、「これが真実にちがいないぜー」といって、「書いたことを真実にしている」人たちです。

     ルチーア学園制服のヤギあたまは、絵羽の日記という「書かれたもの」を、「これって真実なんでしょー?」と決めている人たちです。

     つまりこれ、どちらも、
    「“書かれたことは、本当のことである”の魔法」
     を使って、本来は虚構性であるものを真実に変えている魔法使いなのです。

     なんと、ヤギたちがもっているアプローチは「魔法エンド」寄りなんですね。

    「右代宮邸咀嚼ヤギ」たちが持っている「真実」は、おおむね、
    「この島には殺人鬼がいて、それは右代宮関係者の誰かだ」
    「右代宮関係者たちは互いに殺し合ったりして、血なまぐさい惨劇があったのだ」
     といった種類のものです。

     これは、「家族も関係者たちも、みんなハッピーであってほしい」と願って、その願いを真実にしたい右代宮ファミリーにとっては、はなはだもってつごうのわるい真実なのです。つまり真実どうしの利害がかちあっています。

    「ルチーア学園ヤギ」たちの「真実」は、
    「絵羽の日記に書かれていることって、本当のことだ」
     というものです。(前述のとおりわたしは、具体的内容は「留弗夫一家犯人説」だと考えているのですが)

     これは、「これを真実だとするなら、もう生きていかれない」といって、縁寿が飛び降り自殺するくらいのものです。縁寿にとってはつごうのわるすぎる真実なのです。彼女は他の真実を期待していたのです。真実どうしの利害がかちあっています。

     ある人間からみて、まったくあいいれない、排斥したい真実を持ってる人物は、どうやらヤギとして描かれるみたいなんですね。

     こういうのって、相互的なものです。ようするにお互い様のものです。ですから、ルチーアのヤギから見たら、縁寿というのは、ヤギに見えてたかもしれません。ヤギから見たら、右代宮ファミリーはヤギに見えてた可能性もあります。


    「右代宮邸咀嚼ヤギ」たちは、それぞれが持っている「真実」を投げつけてきます。
     それを認めるわけにいかない戦人たち、中でもウィルとかドラノールは大活躍して、

    「そんなもん、現実にもルールにも即してないぜ。おまえさんが心に書いたものにすぎないぜ」
     といって、ずんばらりと切り捨てていたのでした。その真実は書いたものにすぎない……。

     そう……ウィルとドラノールが使っていた技は、「手品エンド」寄りなんです。

     書かれただけのことを、本当のことにだってできる
     という楽園的な言葉の背後には、常に、
     本当のことだって言うけれど、誰かが勝手に「書いた」だけのものじゃないか
     という言葉が、背中合わせに立っている。


    「書かれたことを本当のことにできる魔法」。
     でも、その魔法でつくりだした真実が、誰かを不幸にするのであったら?

     その誰かを救う言葉は、
    「その大事に抱いている“本当のこと”なんていうもの、それは単に書かれただけのものなんだよ」

     では。
     誰かによって願われた真実を、「書かれたもの」へとおとしめることが、常に正しいのだろうか。

    「不幸な真実」を、刃でもってしりぞかせることができた。そのあとに、たとえば実体とか証拠とかを伴った、物理的な事実が出現したとしましょう。
    「書かれたものではない真実」
     を求めた結果、それで手に入ったもの。その事実が、「自分が期待していたあるストーリーを全く打ち砕いてしまう」ものであったら?(絵羽の日記を読んだ縁寿のように)

     そのとき、自分を救うのは、やっぱり、自分が心の中に「書いた」ストーリーを、「本当のことにする」魔法なんだ。まるで自分をヤギに変えるような「魔法」……。

     で、その魔法で本当のことにした真実が、他の誰かの利害とかちあったら?

     ヤギを人が討ち、人がヤギになり、ヤギを人が討ち。
     人がヤギになり、ヤギを人が討ち、人がヤギになり。

     くるくる回っているのです。


    ●ターンテーブルから螺旋へ

     くるくる回っている。
     これを今までは、ターンテーブルや、どんでん返しのような、平面上の回転モデルとしてイメージしてきました。

     このイメージを、ちょっと変更してみて下さい。
     この回転を、回転ドアみたいに同じ場所でくるくる回ってるのではなく、コイルとか、スプリングみたいな、らせんを描いているモデルで想像しなおしてみて下さい。
     おんなじところをぐるぐるしてるんじゃなくて、三次元方向に進行があるようなかたちです。

    「Ep8を読む(2)」 no59700 で書いたことなのですが、
    『うみねこ』における虚構と現実は、「同一レイヤー上の、鏡をへだてた左と右なのか。上下のある多層構造なのか」という話がありました。


    ■上下階層モデル

    ------------------
    ・上位階層 現実
    ------------------(階層を隔てるレベルの壁)
    ・下位階層 虚構
    ------------------



    ■「うみねこ型」平面単層モデル

    ------------------
    ・同階層 現実(虚構)←|→虚構(現実)
    ------------------



     こんなでした。『うみねこ』は後者のモデルだっていう話をしました。
     けど、それをいったん忘れて、ここでは仮に、前者のほう。上下階層モデルだと思って下さい。

     で、虚構と現実に上下のレベル差があることをイメージしたうえで、さっきのらせん構造を思い出してみて下さい。

     らせんが回転するたびに、虚構が現実になったり、現実が虚構になったりしているでしょう。

     つまり、回転ごとに、虚構と現実を隔てる「レベルの壁」がぶっ壊れているんだ。


     らせんが回ると、虚構と現実の壁が壊れます。
     さっきまで現実だったレイヤーは虚構化します。
     ということは、「今は虚構になってしまった旧・現実レイヤー」の上には現実があるはずです。
     壁(というか天井)があって、その上は現実のはずです。
     その虚構と現実の壁も、次のらせん半回転で壊れます。現実だったものは虚構と同層になってしまいます。虚構の上には現実があるはずだから……。


     たとえば。
     今ここで、十階建てくらいのビルを想像してください。
     で、ビルの真下、地面の底から天空に向けて、巨大ドリル(つまり螺旋)がぐるんぐるん回転しながら突き上がってくるような絵づらを想像してみて下さい。

     まず、地下と一階をへだてる床が、ボコーンと突き破られて砕け散ります。
     ドリルはさらに回転して、一階と二階を隔てる天井(床)をガコーンと破壊します。
     さらにさらにドリルは回って、二階と三階の床をドゴーンと粉砕、続いて三階と四階も。四階と五階も……。

     エヴァンゲリオンを見た方は、ラミエルくん(水晶みたいなやつ)がドリル攻撃で地下への層をずんずん貫通していった、あんな感じを想像してもらっても良いです。

     そうしてすべての床がなくなった結果、このビルは、「階層」というものがまったく意味をもたない構造物になるんです。

     つまり、かつては十層のレイヤーがあったこのビルは、全部が吹き抜けになった結果、1層のレイヤーしかないものになる。
     つまりフラットな空間。
     層をへだてるものがなくなり、全部が同一平面になる。

     つまり、同一レイヤー上に虚構と現実が同居する『うみねこ型』単層モデルに変化する……。


     この構造は意図されてます。
     物語のテクスチャー上でもほとんど同じことがおこなわれているからです。ものすごくわかりやすく、床が抜けたり、世界そのものが崩壊したりしているよね。

     現実の存在がゲーム盤上に侵入してくる。(レベルの壁を越境)
     ゲーム盤の駒たちは、上層のメタ世界「黄金郷」へと撤退する。(レベルの壁を越境)
     黄金郷の人物たちは、さらに上層の「図書の都」へと侵入する。(レベルの壁を越境)
     図書の都へと侵入した縁寿は、現実へと帰還する。(レベルの壁を越境)

     どの層が虚構なのか、どの層が真実なのか。真実だと思えた層は虚構化し、虚構のひとつ上にあった真実も虚構化し。

     書かれたことは本当のことに。
     本当のことは書かれたことに。

     そうして交互に入れ替わりながら螺旋は直進してゆき、

     そしてそのらせんのサイクルの行き着く先に、

    「魔女やお兄ちゃんが『書いてくれた』ものを信じたい、本当にしたい」
     という選択としての魔法エンドと、

    「それを真実として受け取らせたいらしいけどそれはやっぱり『書かれたもの』だ、もっと他のものがあるはずだ」
     という選択としての手品エンド

     そのふたつがある。


    ●愛を語らない

     あのね、唐突ですが、わたしは、「愛」とかいう、はなはだもって不定型な概念を、じつのところそんなには好まないんです。(あ、皆さんが、うみねこや、あるいはこの推理に、愛を感じ取るのはそれぞれの自由ですよ)
     けれども、わかりやすいから、これは皆さんへのサービスとして使うんだけれども、

    「こんなもの書かれたことにすぎない、本当じゃないことよ」
     というセリフを、愛をもって投げかけるということは、ある。この物語の中には確実にある。

     もちろん「書かれたことを、本当にする」という魔法にも、愛が介在することは多いでしょう(サンタクロース)。介在しないこともあるでしょう。


     魔女が与えてくれる満足を選ぶのか(そしてその満足は、自分がつかみとったものではないのか)
     自分の手がつかみとる真実を選ぶのか(その真実は、与えられた満足ではないのか)

     それって単純にどっちがいいとか、どっちが愛があるとか、いえないはずです。

     ひょっとして、手品エンドを、トゥルーエンドに対するサブエンドみたいな位置づけで見ている人がいそうな気がするんです。そうじゃないというところを語りたい。
     魔法側アプローチと、手品側アプローチ。両方の方法論がなければ、そもそも「扉の前」に立つこともできなかったのです。たぶん。

     ふたつのエンディングが、相互補完といおうか……回転しながら、相克し、または相生する。ちょうど太極印みたいな図形をなす。「その織りなす形が見えるかどうか」ということだと思うのです。

     魔女は探偵よりも偉いのか? 探偵は魔女より偉いのか? そうではないんだ。ひとつのアーモンドと、もうひとつのアーモンド。入れ替え。回転。それらは等価です。では、何が違うのか。答えは古戸ヱリカが出している。「どう生きるかです!!」


    ●朝のガスパール

    「らせん構造によるレベルの壁の破壊」
     というアイデアは、わたしオリジナルのものではありません。

     筒井康隆の『朝のガスパール』という小説があります。『うみねこ』とよく似た、メタ構造を持つメタフィクションです。この小説で、これに似たらせん構造が作られていて、そのらせんの瞬発力をつかってメタレベルの壁をぶちやぶっているのです。

     レベル壁破壊兵器としての性能は、うみねこのほうが端的なぶん高性能かもしれない。らせんの作り方の違いが、面白いです。

     この小説はEp8にすごく似てます。作品内から読者を批評したりね。竜騎士さんがこれを読んでいるかいないかは、わかりません。もし読んでいたら、あ、やっぱりなと思います。
     もし竜騎士さんが読んでいなかったら……。
    『朝のガスパール』は、「読者の反応を取り入れつつ、リアルタイムに、シリアルに、物語を小出しに提出していく」という形で書かれた新聞小説なのです。つまりうみねことほぼ同じやりかたなんです。
     もし竜騎士さん読んでなかったら、「この方式で読者参加小説を書いたら、しぜんに内容はこういう感じになってしまう」という、すさまじい実験結果が得られたことになります。

     これは文学研究上の、すごく有意義なサンプルなんじゃないかって、ちょっと思います。


    (続く)
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