HOME HELP 新規作成 新着記事 スレッド表示 トピック表示 検索 過去ログ

No59987 の記事


■59987 / )  Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)
□投稿者/ Townmemory -(2011/02/14(Mon) 10:23:04)
http://blog.goo.ne.jp/grandmasterkey/
    ●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
     Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上) no59667
     Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下) no59700
     Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上) no59771
     Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中) no59806


         ☆


    ●記憶障害が暗示するもの

     前回語った内容、すなわち、
    「“書かれたこと”と“本当のこと”の相克・相生」
    (相克とはたがいに打ち消しあうこと、相生とはお互いを生みあうこと)
     を、端的にあらわしているギミックがあります。

     というか、この「構造」を、ひとりで体現している人物がいます。
     それは生き残った右代宮戦人氏です。

     彼は、「自分の記憶を自分自身のことだと思うことができない」という脳障害をもってしまいました。

     それって言い換えればこういうことなのです、つまり、
    「記憶」という「(脳の中に)書かれたもの」を、本当のことだと信じることができない」(本当のことであるにもかかわらず)

     戦人氏は、自分の中にある記憶、それは確かに彼自身が見聞きしたことなのですが、にもかかわらず、それを「本当のこと」だと思うことができないのです。
     まるで、誰か悪意を持った存在が、自分の脳のなかにまやかしのデータをキュルキュルキュルっと「書き込んだ」かのように、思えてしまっているのです。

    「本当のことを、書かれただけのことにする」……。

     しかしそれは、裏返せばこうも言えるのです。

     たとえ信じることができなくても、その記憶は確かに頭の中に「書かれている」。そこに確かに書かれているのだから、信じられなくてもやっぱりそれは真実なのだ、と。

     つまり、「書かれたことは、本当のことなのである」……。

     どっちでもあるのです。「書かれたことは、本当のことである」は同時に、「本当のことは、書かれたことにすぎない」のです。彼の中には、その両方がある。

     そのふたつが、どっちかに固定することなく、くるくると回り続ける。一方が意識されれば他方が反論し、他方が意識されればもう一方が反論する。
     そのどうどうめぐりが、「右代宮戦人の記憶を巡る地獄」であるのです。すなわちあの戦人は「うみねこが提起した問題」そのものなんです。

     そういう、この物語が提起する「両義性」(ひとつの事柄が、互いに矛盾するようなふたつのものごとを同時に指し示すこと)を、右代宮戦人は体現しています。
     この「現実と虚構のターンテーブル」は、いわばうみねこの猫箱黄金郷そのものなのです。ですから、ある意味においては、
    「六軒島猫箱は、右代宮戦人の体内に、あれからずうっと存在しつづけた」
     ともいえます。

     いってみれば右代宮戦人氏は、「六軒島システム」を小さくアーカイブしてぎゅっと詰め込んだ「缶詰」のようなものなんだ。

     だから……。その右代宮戦人が、「寿ゆかりの黄金郷」という、しかるべき「場」にたどりついた時。
     右代宮戦人の中にひそんでいた猫箱の中身が、そこに開放される。
     だからそのとき、「六軒島の黄金郷」が、再生可能になるのです。黄金郷の人々、右代宮ファミリーが、そこに再び現出することができたのはそれだからです


    ●真相を語らないことがわたしたちに語ること

     Ep8はファイナルエピソードだというのに、「犯人は誰で、トリックはこうである」といった、明確な解明パートがありません。

     竜騎士さんは、いろんなインタビューで「そういうハッキリした解明は最後までないよ」という意味のことを、何度も何度もおっしゃっていたので、そうなることをわたしはあらかじめ知っていました。けれども、そういうのを読んでいなくていきなり直面した人は、そりゃビックリしたろうと思います。

     竜騎士さんは「答えを書かない理由」について、インタビューで説明を加えているのですが、ここではひとまずそれをガン無視します。(別のエントリでそのうち取り上げます)

     作者が言ってることはとりあえず無視して、
    「真相を語らないことが語ること」
     について、わたしがこれから語ります。

         *

     わたしたちの中には「真相に到達したい」という欲望があり、その一方で、「ハッキリした答え合わせはない」という現実があり、コンフリクトしています。

     Ep8には、「魔法エンド」「手品エンド」があります。
     わたしたちの「真相に到達したい」という欲望が接続されているのは、「手品エンド」のほうです。

     だって魔法エンドのほうは、「事件の真相へ向かう欲望」が発生しない(キャンセルされる)選択なのですから、真相解明へのアクションと接続しようがないわけです。
     それをオッケーということでのみこめる人は、それで良いはずです。「Ep8を読む(1)」「Ep8を読む(2)」で書いた内容で、だいたい欲望的に完結できます。

     ちょっと言い方を変えれば。
     最後の二択は、ベアトリーチェが見せてくれた、手の中から飴玉が出現するというフシギな現象を、

    「魔法」と呼ばれるブラックボックスということで納得するか、
     あくまでも物理法則の範囲内で行なわれたもので、トリックだと思うのか(ブラックボックスを認めないのか)、

     そういう「あなたのスタンスを問う」二択であるというふうに理解できます。

     トリックの存在を想定したとき、はじめて「そのトリックを知りたい」という欲望が喚起されます。ですから、わたしたちが「うみねこの真相を知りたい」と思うのなら、それは「手品エンド」の中に問うべきだという筋になります。

     が、その「手品エンド」の中にも、真相解明はなかった。

     手品エンドの縁寿は、「未来に生きるんだ」という決意はかためてくれますが、残念ながら「六軒島の真相をあばいてやるぞう」という決意は持ってくれません。
     むしろ「真実とか、意味ないってわかったし」くらいのことをだるそーうに言っていました。

     ということは。わたしたちが「真相解明」を手に入れるためには、縁寿にかわる、「真相を調べて教えてくれる探偵」を必要とする。ということになります。

     八城十八。……あの人は「一なる真実の書」の公開をやめてしまった人ですから、「真実を知って、それを明らかにする」という願望も「途中でやめちゃった」でしょう。
     大月教授。……あの人はだめです。彼はどっちかというと「魔女が存在してほしい」側の人ですからね。たぶんすべての犯行を魔女で説明してしまいますよ。

     では、誰が探偵を?


    ●「人間犯人説」とのアナロジー

    『うみねこ』という作品は、こういう扇動からはじまりました。


    皆さんは、どんな不思議な出来事が起こっても、全て“人間とトリック”で説明し、
    一切の神秘を否定する、最悪な人間至上主義者共です。

    どうぞ、六軒島で起こる不可解な事件の数々を、存分に“人間とトリック”で説明してください。

    皆さんが、どこまで人間至上主義を貫けるのか、それを試したいのです。

    (略)

    一体何人が最後まで、魔女の存在を否定して、“犯人人間説”を維持できるのか。

    「うみねこのく頃に」作品紹介


    『うみねこ』の物語は、「魔女犯人説」と「人間犯人説」の対立、というところから始まりました。
     ベアトリーチェが主張する魔女説と、戦人が主張する人間説が戦うという物語でした。(そしてそれ以後しばらく、その論点は見かけ上は棚上げになっていました)

     Ep8で、焦点は、ぐるっとまわってそこに回帰してきます。

    「魔法エンド」と「手品エンド」の関係は、「魔女犯人説」と「人間犯人説」の関係と、ほとんどアナロジーの間柄にあるといえます。

    「魔女犯人説」というのは、つきつめたら、
    「魔女が全部やりました。そして魔女本人が、どうやったかを子細に語ってくれました」
     ということです。(魔法の杭がどうとかね)

    「魔法エンド」というのは、つきつめたら、
    「魔女がペンで書いた(語った)物語を、本当のこととして採用しちゃいましょう」
     という選択です。
    (この推理では、そういう解釈をとっています)

     響きあっているでしょう?


     そして思い出してみれば。
    「魔女が語る真相」(壁をすり抜ける呪いの杭だ!)に「満足できない!」「だから俺が、納得可能な真相をあぶりだしてやるぜ!」というところから、この物語は始まったのではなかったでしょうか。
     そう、ソレに「満足できない」ということから生じたのが、「人間犯人説」なのでした。
    「俺が本当の真相を突きとめて語ってやるぜ」
     という立場なのでしたね。

     そして「手品エンド」というのは、
    「お兄ちゃんや魔女フェザリーヌがこしらえた(語った)真相には満足できない。もっと他のものが欲しい」
     という選択です。(この推理ではそういう理解です)


    「魔女犯人説」と「人間犯人説」……。

     この2つを、
    「魔女が答えを語るのか」「人間が答えを語るのか」
     という形に読み替えたとき、それらは、

    「魔女のストーリーを受け容れる選択としての魔法エンド」
     と、
    「それを受け容れない。自分で模索しようという選択としての手品エンド」

     その2つの扉と、きれいに響きあうのです。


     それをふまえたうえで、
    「手品エンドには、あるべき真相解明パートがなかった」
     という問題を、もういちど考えてみる。

    「魔女犯人説」と「人間犯人説」の関係では、魔女説に納得できない「戦人」という人物がいて、彼が別の真相を手に入れることを望み「じゃあ、俺がそれをつきとめて語ってやるぜ」と言い出したのでした。

    「魔法エンド」と「手品エンド」の関係ではどうなるか。
     魔女がペンで書くストーリーに満足できない誰かさんがいて、その人物は別の真相望み、手品エンドのほうを選択する。
     その「別の真相」を誰がつきとめて語るのか。
     戦人は、「満足できないから、自分でやる」と言い出したのですから、別の真相をつきとめる役目は、「満足できないからという理由で手品エンドを選んだ人」です。

     選んだのは縁寿かしら。
     その縁寿が、「真実とか無意味だし」とか言い出したのですから、これを叱咤して、「コラ、ちゃんと探偵しろ」と言えば良いのか?

     もちろんそうではない。なぜなら、手品エンドを選んだのは縁寿ではないからだ。


     その選択肢を選んだのは、ポインタを動かしてクリックをした人に決まっている。


    ●選択肢はあなたに問いかけている

    『うみねこ』にはこれまで選択肢がなかったのですが、今回のEp8で、急に選択肢が導入されました。しかも、そのほとんどが、ストーリー的には分岐の発生しない、なぞなぞやミニ推理ゲームでした。
     なぜでしょう。


     一般的なビジュアルノベルにおける選択肢は、
    「ユーザーの選択通りに主人公がうごいてくれる」
     というギミックです。たいていのユーザーは、そのように認知していると思います。

     が、それは、別の見方をするとこういう意味にもなる。
    「あなたが答えを指示しないかぎり、物語は一切、一歩も、一文字も先に進まない」


    『うみねこ』ではおそらく、後者の意味で選択肢が導入されています。
     ストーリー上、物語のテクスチャー上では、縁寿が選んだことになっている。
     けれども。
     わたしたちが選ばない限り、縁寿は絶対になぞなぞの答えを出さない。
     なぞなぞの答えが出ないかぎり、物語は絶対に、一文字も先に進まない。
     わたしたちが選ばない限り、戦人とベアトは決して推理ゲームの犯人を指名しない。
     推理ゲームに正答しない限り、物語は絶対に、一文字も先に進まない。

     あなたが指示する。
     指示しないかぎり、その先は「存在しない」……。



     ベルンカステルの推理ゲーム。その犯人を告発したのはわたしたち、つまりあなたです。

     あなたが探偵だ。

     ミステリーは、探偵が犯人を告発しないかぎり、真相がわからない。



    「人間が答えを語る」という思想としての「人間犯人説」。
     たくさんのクイズを解いたのは「あなた」。
     ベルンのミステリーを解いたのも「あなた」。
     選択肢を選んだのは「あなた」だから。

     当然、「人間犯人説」における「答えを語る人間」とは、あなたのことです。


     そんなあなたが選んだ「手品エンド」。探偵が登場する、いわば「探偵エンド」。

    「魔女が適当に書いたモヤモヤするハッピーエンドよりも、物理的な真実がほしい」
     と「望んだ」のは誰でしょう。
     それはわたしたちつまりあなた。では、謎を解くのは、だぁれ?

     わたしたち……つまり「あなた」しかいないのです。


     手品エンドは探偵エンド。探偵が謎を解決するエンディング。
     その探偵とはあなたなのだから、あなたが解決しなければ、真相はわからない。

     リフレイン。
     ミステリーは、探偵が犯人を告発しないかぎり、真相がわからない。

     あなたが指示する。
     指示しないかぎり、その先は「存在しない」……。



     だから「わたしたち」すなわち「あなた」が推理し、解明し、「見えない選択肢」を選び。それを物語らない限り。すなわち「書かない限り」
     その先は「存在しない」


     なぜ手品エンドの中に事件の真相を語るパートがないのか。
     あなたという探偵が(あるいは魔女が)、まだそこを「書いて」いないからだよ。


     魔法がないなら、魔女フェザリーヌはいない。フェザリーヌがいないのなら……代わりに誰かが書くしかない。「あなたが選んだ手品エンド」は、そういう選択なんだ、多分。


    ●わたしたちはどこにいるのか

     わたしは今回、「書かれたことを、本当のことに変える」「本当のことを、書かれただけのことに変える」というサイクルのことを、しつーっこく語っています。
     このサイクル。
     何らかの「書かれたもの」がタネとして存在していないと、サイクル自体が発生しないのです。

     逆に言えば「書かれたもの」さえあれば、それを真実にしてしまえるし、虚構に戻すこともできる。

     ですから、
    「わたしたち」という探偵が、観察と推理のはてに、とある真相を解明し、犯人をつきとめ、それを「語る」あるいは「書いた」のだとしたら。

     それは「本当のこと」に変えることができる。それをわたしたちはすでに知っているはずです。

    「書かれただけのことを真実につくり変えているのはわたしたち(あなたたち)だ」
     ということを、わたしは、このシリーズの(1)(2)で、のべました。

     魔法エンドは、
    「あなたたちが魔法を使って、書かれただけのことを真実へと作りかえなさい」
     ということを、ささやきかけます。

     手品エンドは、
    「本当のことへと変えるための、真実を作って、書きなさい」
     ということを要求するのです。


    「本当のこと」に変える……それは「魔法エンド」側の作用でした。
     つまり「手品エンド」の中には、可能性としての「魔法エンド」が内包されている。

     いっぽう、「魔法エンド」の中にも、「手品エンド」が内包されています。頭の中の「本当のこと」が「書かれただけのこと」になってしまった右代宮戦人氏。

     魔法エンドの中には手品エンドのシステムがあり、手品エンドの中には魔法エンドのシステムがあるんだ。
     外側のものが内側にある。内側のものが外側にある。
     クラインの壺。

     回転する「虚構」と「真実」のサイクル。


     わたしたち各人、つまり「あなた」が真相を書いたとして、それが本当の真相だとどうしてわかるのか。
    「書かれたことを本当のことにする」作用があるからだ。それは真実となるのだ。
     だが、自分以外の他の人々も真相を書くだろう。それは自分の書いた真相とは異なっているかもしれない。他の人々も「本当にする」のだから、真相にならないじゃないか。
     他の人が持ってくる「本当のこと」を、「書かれただけのこと」にすれば良い。
     その「他の人」も、わたしの真実を「書かれただけのこと」にしてしまうじゃないか。
     なら、そこでもう一度「書かれたことを本当のことにする」魔法を使えば良い。

    「書かれたこと」と「本当のこと」が、入れ替わり立ち替わり、くるくる回ってる。

     その回転によって、虚構と現実とのあいだにあった「鏡」が、バリンバリン割れていく。(何度聞いただろう、その音を)
     虚構は鏡を割って現実に侵食し、現実は鏡を割って虚構に侵食し。

     そのたびに「虚構と現実とを隔てる壁」が、ぶっこわれる。

     わたしたち自身が「虚実境界線破壊ドリル」として回転し、そのたびに、虚構と現実との壁は、幾度となく破砕されてゆく。六軒島の魔法は、我々の手元にまで飛び出して来てる。


     こういう言い方もできる。
     わたしたちはすでに、無限にめぐる「六軒島システム」に巻き込まれている。
     それをもう少しロマンチックに、こう言い換えてもいい。
     わたしたちはいま、六軒島にいる。


    ●“インストール”されたもの

     というわけで。
     どうして急にEp8には選択肢があったのか。
     どうしてなぞなぞやゲームがあり、その先にユーザ選択肢としての「二つの扉」があったのか。

     なぞなぞや推理ゲームを「解けたか解けなかったか」ということに、大きな意味はないと思うのです。じっさい、ストーリー上の変化はない。

    「選択する人」としての「あなた」が意識され、浮かび上がってくることに意味があった。

     縁寿の物語が、あなたの物語に。
     縁寿の選択が、あなたの選択に。

     すりかわってゆくこと……いや、むしろ、「最初からすりかわっていたものが、本来の位置に戻ること」に、意味があったといえます。


     たとえば以下のような記述。
    (すべてが「探偵・古戸ヱリカ」の発言です)


    「……真実の魔女にとって。真実は与えられるものですか? 私が、これが真実だとあなたに押し付けたなら、あなたはそれを鵜呑みにする気ですか…?」
    (略)
    「……誰にも、教えられません。………真実は、自分で手にしなければならないからです。」


    「そうです。神々の物語に記されることがなくとも。……私たちが記す自らの物語の主人公は、常に自分なんです。………それを自覚できるか出来ないかが、魔女とニンゲンをわける最初の分かれ道。」


     作者が、これが真実ですと押し付けたなら、わたしたちはそれを鵜呑みにするのだろうか(だったら、最初から魔女犯人説や魔法エンドで良い)。
     物語の探偵が常にそうしているように、自分で考えて出すしかない真相というものがある……。

     作品そのもの(神々の物語)に登場していなくても、あなたが主人公として選び、あなたという探偵があなた自身を語るのだ……。


     これらの記述はすべて、「縁寿の物語」を「あなたの物語」へと変換していくために置かれているものです。
     古戸ヱリカはいつだって、こっちに向かって語ってる。「いかがですか、皆様方」って。

     幻想と真実。
     鏡のむこうとこっちにいて、入れ替えが可能な「虚構」と「現実」。
     モニタの向こうにいる縁寿と、こっちにいる「あなた」

     うみねこのく頃には幻想に決まっている……本当に?


     ここに至って、わたしたち即ち「あなた」は探偵役として、この「幻想」の中に取り込まれました。この物語の中には主人公である「あなた」がおり、ファンタージエンの姫君は、名前を呼ばれるのを待っている。

     逆もいえます。あなたがいるその場所は、今や「うみねこのく頃に」になったのです。

    「あなた」という存在は、「うみねこのく頃に」の中にインストールされる。
     そして「あなた」もまた、「うみねこのく頃に」を自分の中にインストールする。
     内側と外側がつながった、クラインの壺。



    (まだ続きます。だいたい重要なことは書いたから、今後ますますゆっくり進めます。いま2/3くらいです)
返信/引用返信 削除キー/


Pass/

HOME HELP 新規作成 新着記事 スレッド表示 トピック表示 検索 過去ログ

- Child Tree -