![](/contents/069/773/564.mime4) | ●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上) no59667 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下) no59700 Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上) no59771 Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中) no59806
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●記憶障害が暗示するもの
前回語った内容、すなわち、 「“書かれたこと”と“本当のこと”の相克・相生」 (相克とはたがいに打ち消しあうこと、相生とはお互いを生みあうこと) を、端的にあらわしているギミックがあります。
というか、この「構造」を、ひとりで体現している人物がいます。 それは生き残った右代宮戦人氏です。
彼は、「自分の記憶を自分自身のことだと思うことができない」という脳障害をもってしまいました。
それって言い換えればこういうことなのです、つまり、 「記憶」という「(脳の中に)書かれたもの」を、本当のことだと信じることができない」(本当のことであるにもかかわらず)
戦人氏は、自分の中にある記憶、それは確かに彼自身が見聞きしたことなのですが、にもかかわらず、それを「本当のこと」だと思うことができないのです。 まるで、誰か悪意を持った存在が、自分の脳のなかにまやかしのデータをキュルキュルキュルっと「書き込んだ」かのように、思えてしまっているのです。
「本当のことを、書かれただけのことにする」……。
しかしそれは、裏返せばこうも言えるのです。
たとえ信じることができなくても、その記憶は確かに頭の中に「書かれている」。そこに確かに書かれているのだから、信じられなくてもやっぱりそれは真実なのだ、と。
つまり、「書かれたことは、本当のことなのである」……。
どっちでもあるのです。「書かれたことは、本当のことである」は同時に、「本当のことは、書かれたことにすぎない」のです。彼の中には、その両方がある。
そのふたつが、どっちかに固定することなく、くるくると回り続ける。一方が意識されれば他方が反論し、他方が意識されればもう一方が反論する。 そのどうどうめぐりが、「右代宮戦人の記憶を巡る地獄」であるのです。すなわちあの戦人は「うみねこが提起した問題」そのものなんです。
そういう、この物語が提起する「両義性」(ひとつの事柄が、互いに矛盾するようなふたつのものごとを同時に指し示すこと)を、右代宮戦人は体現しています。 この「現実と虚構のターンテーブル」は、いわばうみねこの猫箱黄金郷そのものなのです。ですから、ある意味においては、 「六軒島猫箱は、右代宮戦人の体内に、あれからずうっと存在しつづけた」 ともいえます。
いってみれば右代宮戦人氏は、「六軒島システム」を小さくアーカイブしてぎゅっと詰め込んだ「缶詰」のようなものなんだ。
だから……。その右代宮戦人が、「寿ゆかりの黄金郷」という、しかるべき「場」にたどりついた時。 右代宮戦人の中にひそんでいた猫箱の中身が、そこに開放される。 だからそのとき、「六軒島の黄金郷」が、再生可能になるのです。黄金郷の人々、右代宮ファミリーが、そこに再び現出することができたのはそれだからです
●真相を語らないことがわたしたちに語ること
Ep8はファイナルエピソードだというのに、「犯人は誰で、トリックはこうである」といった、明確な解明パートがありません。
竜騎士さんは、いろんなインタビューで「そういうハッキリした解明は最後までないよ」という意味のことを、何度も何度もおっしゃっていたので、そうなることをわたしはあらかじめ知っていました。けれども、そういうのを読んでいなくていきなり直面した人は、そりゃビックリしたろうと思います。
竜騎士さんは「答えを書かない理由」について、インタビューで説明を加えているのですが、ここではひとまずそれをガン無視します。(別のエントリでそのうち取り上げます)
作者が言ってることはとりあえず無視して、 「真相を語らないことが語ること」 について、わたしがこれから語ります。
*
わたしたちの中には「真相に到達したい」という欲望があり、その一方で、「ハッキリした答え合わせはない」という現実があり、コンフリクトしています。
Ep8には、「魔法エンド」と「手品エンド」があります。 わたしたちの「真相に到達したい」という欲望が接続されているのは、「手品エンド」のほうです。
だって魔法エンドのほうは、「事件の真相へ向かう欲望」が発生しない(キャンセルされる)選択なのですから、真相解明へのアクションと接続しようがないわけです。 それをオッケーということでのみこめる人は、それで良いはずです。「Ep8を読む(1)」「Ep8を読む(2)」で書いた内容で、だいたい欲望的に完結できます。
ちょっと言い方を変えれば。 最後の二択は、ベアトリーチェが見せてくれた、手の中から飴玉が出現するというフシギな現象を、
「魔法」と呼ばれるブラックボックスということで納得するか、 あくまでも物理法則の範囲内で行なわれたもので、トリックだと思うのか(ブラックボックスを認めないのか)、
そういう「あなたのスタンスを問う」二択であるというふうに理解できます。
トリックの存在を想定したとき、はじめて「そのトリックを知りたい」という欲望が喚起されます。ですから、わたしたちが「うみねこの真相を知りたい」と思うのなら、それは「手品エンド」の中に問うべきだという筋になります。
が、その「手品エンド」の中にも、真相解明はなかった。
手品エンドの縁寿は、「未来に生きるんだ」という決意はかためてくれますが、残念ながら「六軒島の真相をあばいてやるぞう」という決意は持ってくれません。 むしろ「真実とか、意味ないってわかったし」くらいのことをだるそーうに言っていました。
ということは。わたしたちが「真相解明」を手に入れるためには、縁寿にかわる、「真相を調べて教えてくれる探偵」を必要とする。ということになります。
八城十八。……あの人は「一なる真実の書」の公開をやめてしまった人ですから、「真実を知って、それを明らかにする」という願望も「途中でやめちゃった」でしょう。 大月教授。……あの人はだめです。彼はどっちかというと「魔女が存在してほしい」側の人ですからね。たぶんすべての犯行を魔女で説明してしまいますよ。
では、誰が探偵を?
●「人間犯人説」とのアナロジー
『うみねこ』という作品は、こういう扇動からはじまりました。
皆さんは、どんな不思議な出来事が起こっても、全て“人間とトリック”で説明し、 一切の神秘を否定する、最悪な人間至上主義者共です。
どうぞ、六軒島で起こる不可解な事件の数々を、存分に“人間とトリック”で説明してください。
皆さんが、どこまで人間至上主義を貫けるのか、それを試したいのです。
(略)
一体何人が最後まで、魔女の存在を否定して、“犯人人間説”を維持できるのか。
「うみねこのなく頃に」作品紹介
『うみねこ』の物語は、「魔女犯人説」と「人間犯人説」の対立、というところから始まりました。 ベアトリーチェが主張する魔女説と、戦人が主張する人間説が戦うという物語でした。(そしてそれ以後しばらく、その論点は見かけ上は棚上げになっていました)
Ep8で、焦点は、ぐるっとまわってそこに回帰してきます。
「魔法エンド」と「手品エンド」の関係は、「魔女犯人説」と「人間犯人説」の関係と、ほとんどアナロジーの間柄にあるといえます。
「魔女犯人説」というのは、つきつめたら、 「魔女が全部やりました。そして魔女本人が、どうやったかを子細に語ってくれました」 ということです。(魔法の杭がどうとかね)
「魔法エンド」というのは、つきつめたら、 「魔女がペンで書いた(語った)物語を、本当のこととして採用しちゃいましょう」 という選択です。 (この推理では、そういう解釈をとっています)
響きあっているでしょう?
そして思い出してみれば。 「魔女が語る真相」(壁をすり抜ける呪いの杭だ!)に「満足できない!」「だから俺が、納得可能な真相をあぶりだしてやるぜ!」というところから、この物語は始まったのではなかったでしょうか。 そう、ソレに「満足できない」ということから生じたのが、「人間犯人説」なのでした。 「俺が本当の真相を突きとめて語ってやるぜ」 という立場なのでしたね。
そして「手品エンド」というのは、 「お兄ちゃんや魔女フェザリーヌがこしらえた(語った)真相には満足できない。もっと他のものが欲しい」 という選択です。(この推理ではそういう理解です)
「魔女犯人説」と「人間犯人説」……。
この2つを、 「魔女が答えを語るのか」「人間が答えを語るのか」 という形に読み替えたとき、それらは、
「魔女のストーリーを受け容れる選択としての魔法エンド」 と、 「それを受け容れない。自分で模索しようという選択としての手品エンド」
その2つの扉と、きれいに響きあうのです。
それをふまえたうえで、 「手品エンドには、あるべき真相解明パートがなかった」 という問題を、もういちど考えてみる。
「魔女犯人説」と「人間犯人説」の関係では、魔女説に納得できない「戦人」という人物がいて、彼が別の真相を手に入れることを望み、「じゃあ、俺がそれをつきとめて語ってやるぜ」と言い出したのでした。
「魔法エンド」と「手品エンド」の関係ではどうなるか。 魔女がペンで書くストーリーに満足できない誰かさんがいて、その人物は別の真相を望み、手品エンドのほうを選択する。 その「別の真相」を誰がつきとめて語るのか。 戦人は、「満足できないから、自分でやる」と言い出したのですから、別の真相をつきとめる役目は、「満足できないからという理由で手品エンドを選んだ人」です。
選んだのは縁寿かしら。 その縁寿が、「真実とか無意味だし」とか言い出したのですから、これを叱咤して、「コラ、ちゃんと探偵しろ」と言えば良いのか?
もちろんそうではない。なぜなら、手品エンドを選んだのは縁寿ではないからだ。
その選択肢を選んだのは、ポインタを動かしてクリックをした人に決まっている。
●選択肢はあなたに問いかけている
『うみねこ』にはこれまで選択肢がなかったのですが、今回のEp8で、急に選択肢が導入されました。しかも、そのほとんどが、ストーリー的には分岐の発生しない、なぞなぞやミニ推理ゲームでした。 なぜでしょう。
一般的なビジュアルノベルにおける選択肢は、 「ユーザーの選択通りに主人公がうごいてくれる」 というギミックです。たいていのユーザーは、そのように認知していると思います。
が、それは、別の見方をするとこういう意味にもなる。 「あなたが答えを指示しないかぎり、物語は一切、一歩も、一文字も先に進まない」
『うみねこ』ではおそらく、後者の意味で選択肢が導入されています。 ストーリー上、物語のテクスチャー上では、縁寿が選んだことになっている。 けれども。 わたしたちが選ばない限り、縁寿は絶対になぞなぞの答えを出さない。 なぞなぞの答えが出ないかぎり、物語は絶対に、一文字も先に進まない。 わたしたちが選ばない限り、戦人とベアトは決して推理ゲームの犯人を指名しない。 推理ゲームに正答しない限り、物語は絶対に、一文字も先に進まない。
あなたが指示する。 指示しないかぎり、その先は「存在しない」……。
ベルンカステルの推理ゲーム。その犯人を告発したのはわたしたち、つまりあなたです。
あなたが探偵だ。
ミステリーは、探偵が犯人を告発しないかぎり、真相がわからない。
「人間が答えを語る」という思想としての「人間犯人説」。 たくさんのクイズを解いたのは「あなた」。 ベルンのミステリーを解いたのも「あなた」。 選択肢を選んだのは「あなた」だから。
当然、「人間犯人説」における「答えを語る人間」とは、あなたのことです。
そんなあなたが選んだ「手品エンド」。探偵が登場する、いわば「探偵エンド」。
「魔女が適当に書いたモヤモヤするハッピーエンドよりも、物理的な真実がほしい」 と「望んだ」のは誰でしょう。 それはわたしたちつまりあなた。では、謎を解くのは、だぁれ?
わたしたち……つまり「あなた」しかいないのです。
手品エンドは探偵エンド。探偵が謎を解決するエンディング。 その探偵とはあなたなのだから、あなたが解決しなければ、真相はわからない。
リフレイン。 ミステリーは、探偵が犯人を告発しないかぎり、真相がわからない。
あなたが指示する。 指示しないかぎり、その先は「存在しない」……。
だから「わたしたち」すなわち「あなた」が推理し、解明し、「見えない選択肢」を選び。それを物語らない限り。すなわち「書かない限り」、 その先は「存在しない」。
なぜ手品エンドの中に事件の真相を語るパートがないのか。 あなたという探偵が(あるいは魔女が)、まだそこを「書いて」いないからだよ。
魔法がないなら、魔女フェザリーヌはいない。フェザリーヌがいないのなら……代わりに誰かが書くしかない。「あなたが選んだ手品エンド」は、そういう選択なんだ、多分。
●わたしたちはどこにいるのか
わたしは今回、「書かれたことを、本当のことに変える」「本当のことを、書かれただけのことに変える」というサイクルのことを、しつーっこく語っています。 このサイクル。 何らかの「書かれたもの」がタネとして存在していないと、サイクル自体が発生しないのです。
逆に言えば「書かれたもの」さえあれば、それを真実にしてしまえるし、虚構に戻すこともできる。
ですから、 「わたしたち」という探偵が、観察と推理のはてに、とある真相を解明し、犯人をつきとめ、それを「語る」あるいは「書いた」のだとしたら。
それは「本当のこと」に変えることができる。それをわたしたちはすでに知っているはずです。
「書かれただけのことを真実につくり変えているのはわたしたち(あなたたち)だ」 ということを、わたしは、このシリーズの(1)(2)で、のべました。
魔法エンドは、 「あなたたちが魔法を使って、書かれただけのことを真実へと作りかえなさい」 ということを、ささやきかけます。
手品エンドは、 「本当のことへと変えるための、真実を作って、書きなさい」 ということを要求するのです。
「本当のこと」に変える……それは「魔法エンド」側の作用でした。 つまり「手品エンド」の中には、可能性としての「魔法エンド」が内包されている。
いっぽう、「魔法エンド」の中にも、「手品エンド」が内包されています。頭の中の「本当のこと」が「書かれただけのこと」になってしまった右代宮戦人氏。
魔法エンドの中には手品エンドのシステムがあり、手品エンドの中には魔法エンドのシステムがあるんだ。 外側のものが内側にある。内側のものが外側にある。 クラインの壺。 回転する「虚構」と「真実」のサイクル。
わたしたち各人、つまり「あなた」が真相を書いたとして、それが本当の真相だとどうしてわかるのか。 「書かれたことを本当のことにする」作用があるからだ。それは真実となるのだ。 だが、自分以外の他の人々も真相を書くだろう。それは自分の書いた真相とは異なっているかもしれない。他の人々も「本当にする」のだから、真相にならないじゃないか。 他の人が持ってくる「本当のこと」を、「書かれただけのこと」にすれば良い。 その「他の人」も、わたしの真実を「書かれただけのこと」にしてしまうじゃないか。 なら、そこでもう一度「書かれたことを本当のことにする」魔法を使えば良い。
「書かれたこと」と「本当のこと」が、入れ替わり立ち替わり、くるくる回ってる。
その回転によって、虚構と現実とのあいだにあった「鏡」が、バリンバリン割れていく。(何度聞いただろう、その音を) 虚構は鏡を割って現実に侵食し、現実は鏡を割って虚構に侵食し。
そのたびに「虚構と現実とを隔てる壁」が、ぶっこわれる。
わたしたち自身が「虚実境界線破壊ドリル」として回転し、そのたびに、虚構と現実との壁は、幾度となく破砕されてゆく。六軒島の魔法は、我々の手元にまで飛び出して来てる。
こういう言い方もできる。 わたしたちはすでに、無限にめぐる「六軒島システム」に巻き込まれている。 それをもう少しロマンチックに、こう言い換えてもいい。 わたしたちはいま、六軒島にいる。
●“インストール”されたもの
というわけで。 どうして急にEp8には選択肢があったのか。 どうしてなぞなぞやゲームがあり、その先にユーザ選択肢としての「二つの扉」があったのか。
なぞなぞや推理ゲームを「解けたか解けなかったか」ということに、大きな意味はないと思うのです。じっさい、ストーリー上の変化はない。
「選択する人」としての「あなた」が意識され、浮かび上がってくることに意味があった。
縁寿の物語が、あなたの物語に。 縁寿の選択が、あなたの選択に。 すりかわってゆくこと……いや、むしろ、「最初からすりかわっていたものが、本来の位置に戻ること」に、意味があったといえます。
たとえば以下のような記述。 (すべてが「探偵・古戸ヱリカ」の発言です)
「……真実の魔女にとって。真実は与えられるものですか? 私が、これが真実だとあなたに押し付けたなら、あなたはそれを鵜呑みにする気ですか…?」 (略) 「……誰にも、教えられません。………真実は、自分で手にしなければならないからです。」
「そうです。神々の物語に記されることがなくとも。……私たちが記す自らの物語の主人公は、常に自分なんです。………それを自覚できるか出来ないかが、魔女とニンゲンをわける最初の分かれ道。」
作者が、これが真実ですと押し付けたなら、わたしたちはそれを鵜呑みにするのだろうか(だったら、最初から魔女犯人説や魔法エンドで良い)。 物語の探偵が常にそうしているように、自分で考えて出すしかない真相というものがある……。
作品そのもの(神々の物語)に登場していなくても、あなたが主人公として選び、あなたという探偵があなた自身を語るのだ……。
これらの記述はすべて、「縁寿の物語」を「あなたの物語」へと変換していくために置かれているものです。 古戸ヱリカはいつだって、こっちに向かって語ってる。「いかがですか、皆様方」って。
幻想と真実。 鏡のむこうとこっちにいて、入れ替えが可能な「虚構」と「現実」。 モニタの向こうにいる縁寿と、こっちにいる「あなた」。
うみねこのなく頃には幻想に決まっている……本当に?
ここに至って、わたしたち即ち「あなた」は探偵役として、この「幻想」の中に取り込まれました。この物語の中には主人公である「あなた」がおり、ファンタージエンの姫君は、名前を呼ばれるのを待っている。
逆もいえます。あなたがいるその場所は、今や「うみねこのなく頃に」になったのです。
「あなた」という存在は、「うみねこのなく頃に」の中にインストールされる。 そして「あなた」もまた、「うみねこのなく頃に」を自分の中にインストールする。 内側と外側がつながった、クラインの壺。
(まだ続きます。だいたい重要なことは書いたから、今後ますますゆっくり進めます。いま2/3くらいです)
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