| ●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上) no59667 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下) no59700 Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上) no59771 Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中) no59806 Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下) no59987 Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる no61043
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●ガラス石はいくらなのか
いとこチームは、ランチのあと、砂浜に行ってガラス石を拾って遊びます。 ガラス石というのは、ガラスの破片が波に洗われてカドが取れ、きれいな石のようになったものです。 戦人たちは、だれがいちばんたくさんガラス石を拾えるか、またいちばんきれいなガラス石を拾うのは誰か、競争するのでした。
さてこのガラス石。価値はいったいどれくらいなのか。
もっとはっきり言えば、いくらに換金できるのか。 当然のことながら、それはゼロ円です。ガラスのかけらですからね。まったく市場価値はありません。つまり社会的に無価値です。
では、そんなガラス石をよろこんで集めている彼らは、それが換金に値しないことを知らない可哀想な人なのでしょうか? そんなわけはなさそうだ。
では、彼らは、価値のないものをそうとわかっていて喜んで集めている、変な人なのでしょうか?
●保証があれば良いのか
そんなふうに思う人はいないはずです。
価値というのは、そんなふうに一義的なもんじゃないからです。
換金できるかできないか。社会的な価値があるかないか。そんなこととはまったく関係なく、海辺に流れ着いたきれいな石は、自分で見つけて手に取った石は、自分にとっては価値あるものになりうるのです。まったくもって……月夜の晩に、波打ち際で拾ったボタンは、どうしてそれを捨てられようか、ということなのです。(知らない人は「中原中也・ボタン」くらいで検索してみて下さい)
換金できるかどうかが、いつも価値の基準とはかぎらない。
そのことを強く意識したうえで、以下の部分を読んでみることにしましょう。
「信じないわ……。………これも全部、……お兄ちゃんの茶番なんでしょ………。」 「お前は、何を見たら、聞いたら。信じることが出来るんだ…?」 「………赤で。…………赤き真実で言ってくれたら。」 「赤で言えなければ、全ては嘘なのか?」 「……信じない…。……私は、……こんなの………。」 縁寿は俯き、黙り込んでしまう。 (Episode8)
縁寿は、戦人が語ること、見せてくれることを、茶番だと思います。つまり「価値のあること」とは見なせないでいるのです。 価値あることとして受け取らせたいのなら、保証をしろ、と縁寿は要求します。 何の保証を? それは……「ここで語られていることが真実である」という「保証をしろ」ということでした。
それって、ガラス石の話に似ていませんか。
「ガラス石を、価値のあるものだと思わせたいのなら、ガラス石がお金と交換できることを保証しろ」
縁寿が言っているのは、ほとんどそういうことです。 でも、価値というのは、真実というのは、そんなふうに一義的なものではないのです。
そう……本当に。 価値というものは、交換力によって決まるものではない。
何が価値あるものなのか。 それは、保証の有無や、文字の色で決まるのではない。 あなたが何をだいじと思うかによって決まるのだ。
●黄金があれば良いのか
かつて、世界の貨幣経済は、「金本位制」という制度によってなりたっていました。 ずっと昔、まだ世の中が成熟していなかったころ、おカネというものは信用ならなかったのです。 だって、印刷された紙や、ちっちゃな銅の破片でしかありません。つまり、 「紙だとか銅の破片だとかに価値があるなんて、いまいち信じられない」 と、みんなが思っていたのです。
そこで国はこう約束しました。 「これこれの額面の貨幣は、いつでも、これこれの重さの黄金と交換します」 「そのことを“保証”します」
そういうことを国が保証したので、人々は、 「ああ、このおカネというものは、ゴールドとの引換券なんだ」 というふうに安心して、価値を認めることができたのです。「おカネというのはゴールドと同じ価値があるんだ」と。
けれども、現代では、そんなふうに金本位制をとっている国なんて、きいたことがありません。(じつはよく知らないけど。少なくとも先進国にはありませんよね?) つまり、円やドルやユーロが、必ず一定の黄金と交換してもらえるという保証なんてべつにないのに、おカネはおカネとしてきちんと通用しています。
誰かが価値を保証したわけではないけれど、みんなが、価値はあると思ってる。 だから、おカネは価値あるものとして通用する。 みんながそう思っているから、その「みんな」の間では通用するのです。
(でも、ときどき、「ドルっていまいち信用できないんじゃね?」とみんなに思われたりすると、ドルの価値はさがったりする。相対的に、円の価値が上がったようになったりする。もちろんその逆もある。いまやジンバブエドルにおカネとしての価値があると思ってる人はいません)
現代の世界に、金本位制はありません。 それぞれの人が、それぞれに判断し、貨幣の価値というものを、信じて受けいれているだけです。
そこでもちろんこうなるのです。
ニンゲンの世界に、赤き真実など、存在しない。 自らが見て、聞いて。……信じるに足ると、自らが信じたものを、赤き真実として受け入れるのだ。 (Episode8)
赤い字としての保証がなかったら、価値があると思えないのか? それってもう、「自分の頭と目で、価値を判断することができない」ということ。 たとえるなら、パパやママが「この人にしなさい」って言ってくれないと、自分で結婚相手を決めることができませんか? といったようなことです。 縁寿はそういう幼児的な精神状態を持っていたわけです。(でも六歳だからしょうがないよな)
●価値とは何なのか
そんな縁寿ですが、クライマックスで、ベルンの放つ赤字をガン無視しはじめました。 正しいです。というか、それこそが、戦人が彼女に気づかせたかったことです。
ベルンは「戦人は死んでいる」だの、「右代宮蔵臼は死んでいる」だの「右代宮夏妃は死んでいる」だの、「おまえはもう死んでいる」シリーズの赤字をばんばん投げつけるのですが、縁寿ひとりが「そんなの認めない」と言っただけで、その赤字の内容はまったく無効でした。 縁寿の背後で、右代宮ファミリーは全員生き続けました。
縁寿が認めない限り、どんな真実も、真実たりえない。 (Episode8)
赤い文字がこれまで真実として通用していたのは、本当に真実であるからでは「なく」、「赤い文字は真実であると戦人や縁寿が認めていたから」です。
戦人が、縁寿が、「真実とは認めない」とすれば、赤き真実はその瞬間から真実たりえなくなります。
これは原理的にいっても、あたりまえのことです。なぜなら、どんな真実も、人間の認識を通してはじめて表現されるのですからね。
真実というのは、常に「私はこれを真実と思うが」という意味です。それ以外の意味は、存在しえません。だって真実というのは、事象に対する評価ですからね。その評価をする主体が「認識」しなければ、真実どころか、事象そのものが存在しえないのです。
目の前にリンゴがあるとき、目の前にリンゴがあると認識せずに、リンゴがあるという事実を表現できますか? わたしにはできません。ふつうできないでしょう。 そして、目の前に本当にリンゴはあるのでしょうか。 わたしたちが把握できるのは、「私は目の前にリンゴがあると認識してはいるが」というところまでです。人間は意識を通さずに実体そのものを把握することはできません。 そして、「リンゴがある」と「リンゴがあることを認識する」が、ほんとうにイコールで結べるかなんて、誰にも保証できませんよ。
たとえば2人の人間がいて、「私はリンゴがあると思う」「俺もリンゴがあると思う」というふうに、認識が一致すれば、この2人のあいだでは、「リンゴがあるというのは真実である」と言えるでしょう。 でもここに3人目の人間が現われて「リンゴなんてどこにもないじゃないか」と言い出したとしたら、はたして、リンゴはあるのでしょうか、ないのでしょうか。 いや、それ以前に、2人の人間のあいだで、「私はリンゴがあると思う」「いや、リンゴなんてどこにもないじゃないか」というふうに、意見が分かれたら、果たして真実はどこにあるのでしょう。
目の前のリンゴのあるなしで、意見が分かれるはずなんてない、と思う人がいるかもしれませんが、ミステリー読みの方は、京極夏彦さんの『姑獲鳥の夏』を思いだしてください。関口くんの目に見えたものは本当に存在したのか? 関口くんの目に見えなかったものは本当に存在しなかったのか――? UFOの話でも良いです。UFOを見たという人はいっぱいいるのです。UFOなんて見たことないという人もいっぱいいるのです。わたしは、見たような気もするし見てないような気もします。UFOは存在するのかしないのか。ツチノコでも天狗でも同じことです。
そしてこの物語は、
存在するわけないのに、魔女を“視て”しまう―― 目には見えないのに、魔女が“存在”する――
そういう物語であったはずなのです。
戦人とベアトは「赤い文字は真実である」「なるほど、赤い文字は真実なんだな」と、その真実性を認めていました。認識が一致していたのです。だから「赤い文字は真実である」という「真実」が、ふたりのあいだにはあったのです。
ベルンは「赤い字は真実であり、戦人は死んでいる」と赤い字で言いました。でもベルンは意識のある存在であり、意識を通さずに事象そのものを手に入れることなどできないのですから、これは「私は赤い字は真実であると思うし、戦人は死んでいると思う」という意味でしかないのです。 縁寿は、「赤い字が真実だなんて認めない。私は真実を字の色ではなく自分の意志で判断する。よって、お兄ちゃんは死んでない」と言いました。 認識が一致していません。どっちが真実かなんてわかりません。 つまり赤い字で言った内容は、もう真実とはいえません。 縁寿が認めない限り、どんな真実も、真実たりえない。
これはおカネも同じことです。 ベルンは10円あったらチロルチョコが買えると思っています。縁寿はチロルチョコを10円玉と交換してもいいと思っています。10円とチロルチョコが同じねうちだという共通認識があるから、ベルンの10円と縁寿のチロルチョコは交換されるのです。チロルチョコは10円であるという真実が2人のあいだに共通認識として存在しているわけです。 (先回りしておきますが、世の中にはコンビニ版20円チロルチョコと駄菓子屋版10円チロルチョコがあるのです)
ところが急に縁寿が「こんなヘンな銅の破片と、チョコレートを交換しなきゃならないなんて、おかしくない? 銅のかたまりにそんな価値なくない?」と考え出したら、取引はもう成立しないのです。ベルンが半泣きになりながら、一生懸命「ほら、ほら!」とかいって10円玉をさしだしてもむだなことです。チョコレートは縁寿のもので、10円玉をいくら投げつけられても「だから?」ということになります。10円とチロルチョコがイコールだ、というのは、単なるベルンの一方的な主張であるだけです。
ベルンががんばって、「ほら、赤い字って、真実としてのねうちがあるでしょ!」といって、どんなに投げつけても、縁寿は「なんで?」と柳に風で受け流すことができます。 あのクライマックスで起こっていたのは、わたしの考えではそういうことです。
赤い字が真実であったのは、赤い字が所与のものとして真実だからではありません。赤い字は真実なのだと、戦人(縁寿)が、「信じるに足ると、自ら信じ」ていたからです。 その「信じるに足る」という気持ちが失われ、赤い字だからって真実とは関係ないんじゃない?(おカネって信じられない。10円玉って何の価値もないんじゃない?)と思った瞬間に、赤い字は真実性を失い、縁寿との取引能力を喪失するのです。
10円玉には10円ぶんの価値がほんとうにあるのか――?
この例をうけて、 そこを疑問に思うことにしましょう。
「おカネがかならず黄金と交換できた時代」には、まちがいなく価値がありました。なぜならゴールドと交換ができたからです。貨幣は黄金との引換券であって、重たくかさばる黄金をいちいち運べないから引換券で代用していたというのとほぼ同じだからです。
黄金には価値があり、その黄金と交換できるから、おカネには価値がある。
あれ。 じゃあ、黄金には、どうして価値があるのですか?
黄金に価値があるということを保証しているのは誰でしょう。黄金は貴重なものだなんて決めたのは、誰なんだ? その根拠はどこにありますか?
黄金というものには、本当に価値があるのか? 私には黄金より、ガラス石のほうがずっと価値が高いわ。
と誰かが言い出したら、その人にとって黄金は何の価値もありません。よって、黄金との交換を保証するおカネというものには、何の価値もありません。
誰か他人の認識に基づく「赤き真実」といったものには、本当に価値があるのか? 私には他人の真実より、自分自身の真実のほうが、ずっと価値が高いわ。
縁寿がそう言い出したら、縁寿にとって赤い字は何の価値もありません。
だからこれは、まさしく――黄金をめぐる物語なのです。
黄金と交換できなければ価値を認められないのか? 黄金と交換できさえすれば価値があると思うのか?
赤くなければ真実と思えないのか? 赤ければそれを真実と思うのか?
真実というのは、そんなふうに一義的なもんじゃない――。 多くの人が、その認識には到達しているにもかかわらず、赤い文字の根本的な真実性については検討を加えたがらない(貨幣で引き替えられる「黄金」というものに本当に価値があるのかといったラディカルな部分を疑いたがらない)のが、わたしには不思議です。 (でもまあ、そこを疑う人ばかりだったら社会が混乱するからね)
●戦人はいつ気づいたのか
さて、真実というのは、字が赤いかどうかじゃない。自分で判断し、自分が認めるかどうかだ。 戦人は縁寿に、それを伝えたかったようです。 ということは戦人は、どっかの段階で、
「真実というのは、字が赤いかどうかじゃないんだな」
という重大な気付きを手に入れていたことになります。いっときは「赤くない字は信用できないよー」なんてびゃーびゃー泣いてたのにね。
金本位制の話にもどると、われわれの人類社会は、さいしょっから今のような管理通貨制度をとることはできませんでした。 つまり、お上は「このお札という紙は価値があるんですよ」と言うけれど、私たちは最初、とてもそうは信じられなかったのです。だって紙だもん。 そこで政府は「いつでも黄金と交換しますよ」と保証してくれた。それで社会に、共通の価値があるおカネというものがやりとりされていくようになった。 やがて私たちは、「おカネのやりとりを信頼する」ということを覚え、「黄金と交換してくれる保証がなくても、おカネっていうものは価値を判断できそうだ」と思うようになった。 「おカネの価値は、黄金の保証があるかどうかじゃないっぽい」 それで、黄金と交換してくれる制度は廃止になり、けれども、おカネはおカネとして今もまわりつづけているのです。
右代宮戦人は、当初、魔女が言ってるコトバをぜんぜん信じられなかったのです。 そこで魔女は、「赤いコトバは真実ですよ」と保証してくれた。それで、戦人と魔女との間に、共通の意味があるコトバがやりとりされていくようになった。
そうして自分のコトバと相手のコトバがきちんとやりとりされていくうちに、 「赤いかどうかに関わらず、コトバというものは、価値を判断できるのではないか」 というふうに、戦人は思わなかっただろうか。 「コトバの価値は、赤いかどうかじゃない」 そういう認識に、戦人が立ちはしなかっただろうか。
コトバの価値は、そのコトバを俺が認めるかどうかだ。
その認識に到達した瞬間、彼は、“俺自身にとっての真実のコトバ”――「黄金の真実」というものに、目覚めはしなかっただろうか。
誰しもが「私にとっての黄金」を持っているのではないか?
そのことに覚醒した戦人は……そのことだけは、最愛の妹に教えてやりたい、そう思いはしなかっただろうか。それは「真実そのもの」よりもはるかに大切なこと。手品エンドか魔法エンドかは重要ではない。「何が真実かを自分できめる」ということ……。その認識は「このゲームの答えにたどり着いた」とすらいえるものではないだろうか。つまり戦人は「答えを教えよう」としていたのだ……。
●その保証は本当にあるのか
そういう心の動きの中に、 「赤い字を認めないなんて信頼がない態度だ」 といった言い方が入り込む余地は、あるのだろうかということなのです。
赤い字は真実だ、と思うことが、魔女を信じることなのか。 それとも。 字が赤いかどうかによらずに、コトバを判断することが、魔女を信じることなのか。
だって。 愛している人にウソをつくなんて当たり前のことではないですか。 それに対して、 「ウソをついたおまえは、俺のことを愛していないんだな」という判断は、正しいでしょうか。 「そのウソの背後に、愛を見ることができるかどうか」 が問われており、
ベアトリーチェのウソの背後に、愛を見ることができるか、を、戦人は問われており、 お兄ちゃんのウソの背後に、愛を見ることができるか、を、縁寿は問われている。
ゲームマスター戦人は赤字を使わないベアトリーチェみたいなものです。彼は縁寿には、赤字によらずに物語の中からなにがしかの真実を見いだしてほしかった。 でもね、そう思ったら、 ベアトリーチェだって、ほんとは赤字なんか使わずに、物語の中からなにがしかの真実を見いだしてほしいって戦人に思っていたんじゃないでしょうか。
ごく初期の戦人は、ウソをつくかもしれない魔女のいうことに、耳をかたむけなかったのです。 つまり、コトバを「価値のあること」とは見なせないでいました。(お兄ちゃんを信じない妹のようです) でも、魔女の真意はたぶん、「私のことをわかってください」というものでした。
私とコトバをかわしてください。 私を理解しようとしてください。 私のコトバに、どうか、まずは耳をかたむけて下さい。
コトバという、「貨幣のように人と人のあいだに流通するもの」を信じようとしない戦人。それに対して魔女が取った行動は、 「金本位制度下の貨幣のように、コトバの価値を保証する」 ということでした。赤い字で書いてあったら、真実としての価値を保証しますから、と。
「そういう保証があるんなら、話をきいてやろうじゃないか」
戦人はそれでようやく、魔女の物語に耳をかたむけだします。
ところで、金本位制がとられていたころ。おカネというのは、必ず黄金と交換できなければならない約束でした。 ということは、おカネをつくる政府は、政府が持っている黄金と同じ額だけのおカネしか、発行することができませんね。 でも、実際には、政府が保有している黄金よりも、ずっと多くのおカネが発行されたのです。 なぜなら、すべての国民がいっぺんにおカネを黄金と交換するなんてこと、あるはずないからです。多めに刷っちゃっても、だいたいおっけーなんです。 現在の銀行だってそうですよ。銀行は人からおカネを預かって、そのおカネを人に貸し、利息を取り、それで利益を得る機関です。貸しちゃってるということは手元にないということですから、預けた人全員がいっぺんにおカネを下ろそうとしたら、支払えなくてハタンします。 でも、そんなことは常識的にありえないので、とくに問題はないわけです。銀行は貸し付けによって、おカネをもうけることができます。 同様に政府は、持ってる黄金以上におカネを刷ることができ、その分は、単純化した言い方をすれば「もうけ」になります。
さて。ということは。 「必ず黄金と交換できる」という約束になっているおカネですが、「実際には黄金と交換できないぶんのおカネ」が、一定数、出回っているということになります。
保証されているのに、実際には黄金と交換できないおカネ……。
魔女はたぶん、戦人にわかってもらいたかったのですが、簡単にはわかってほしくなかったのです。 話をきいてはもらいたかった。でも、だからって直接話法で訴えたらすむというものではなかった。
愛して下さいとベアトがお願いしたから、戦人はベアトを愛するのか。 ベアトのことが愛しいと戦人自身が思ったから、戦人はベアトを愛するのか。
コトバを保証して、素直に誘導しつづければ、いずれ戦人は真相にたどり着くでしょう。でもそれは、魔女が道案内をしたからてくてく歩いてこられてゴールした、ということにすぎないのです。正しい地図を持っていたら、正しい場所に行けるのはあたりまえなのです。 保証されたからコトバを信じるのか? それとも、真偽ないまぜの魔女のコトバの中から、真実の響きを自分の耳で聞き当てるのか? 赤い字を信じた結果、真相にたどり着くのではなくて、戦人本人が信じるに足ると思ったものを信じた結果、真相にたどりついて欲しい……。
自らが見て、聞いて。……信じるに足ると、自らが信じたものを、赤き真実として受け入れるのだ。 (略) 赤き真実という、ゲームのルールで真実を押し付けても、何の意味もないのだ。 そう。何の意味もない、と、ベアトリーチェは思いはしなかったか。
ほんとは赤字によらずに、物語の中から何かをつかんでほしかった(かもしれない)ベアトリーチェ。耳をかたむけさせるために、しかたなく赤い字を使ったベアトリーチェ。 そんなベアトリーチェは、赤い字の中に、罠をしかけはしなかっただろうか。
何を信じるかを自ら選んだ結果、真実にたどり着いてほしい。そう願うのならば、魔女は戦人に与える誘導のなかに、ところどころ、あえて空虚なものを混ぜ込むかもしれません。 つまり、真実を保証されているのに、実際には真実でないコトバ……。
そういった視点を持った上で、もう一度、“保証されたコトバ”を見てみることにしましょう。
「マスターキーは5本しかない!」
本当ですか? わたしたちはそれを「認め」ますか?
(続く)
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