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No61687 の記事


■61687 / )  Ep8を読む(8)・そして魔女は甦る(夢としての赤字)
□投稿者/ Townmemory -(2011/04/11(Mon) 23:00:40)
http://blog.goo.ne.jp/grandmasterkey/
    ●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
     Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上) no59667
     Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下) no59700
     Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上) no59771
     Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中) no59806
     Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下) no59987
     Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる no61043
     Ep8を読む(7)・黄金を背負ったコトバたち no61527


         ☆


     ちょっとわかりにくい話が続いていますが、他に良い言い方もないので、このまま進めます。


    ●「書かれたこと」と「本当のこと」再び

     今回の一連のエントリでは、
    「書かれたこと」
    「本当にあったこと」
     というキーワードで、さまざまなことを説明しています。

     そしてその両者に、本質的な違いはないのだということを、わたしは言おうとしてきました。

     絵羽の日記は、単にペンで書かれたことにすぎないのか、本当にあったことなのか。
     それはどちらでもあるのだ。死んだ猫と生きた猫が同居可能であるように。

     語られた8つのエピソードは、本当にあったことなのか。それとも八城十八が書いたことにすぎないのか。
     その答えは「どちらでもある」。

     魔法エンドは、本当にあったことなのか。それとも魔女フェザリーヌが「縁寿にハッピーをくれてやろう」と言って書き記したものにすぎないのか。
     その答えは、「書いたものであるのだが、同時に本当のことでもある」。本当にあったことなのだが、それは同時にフェザリーヌが書いたものでもあるのだ。

    「右代宮一族は全滅した」という「記述」は本当なのか単なる記述にすぎないのか。答えは、「本当のことではあるのだが、単なる記述にすぎないものでもあるのだ」。

     そういういっけん矛盾したことを、同時に成立させてしまうシステムとしての『うみねこ』、ということを、論じてきています。
    (いきなりこのエントリから読み始めてしまった人は、『Ep8を読む(1)』に飛んで下さい)


     この物語においては。

    「書かれたこと」は、すなわちそのまま「本当のこと」である。

     そして同時に、この物語においては。

    「本当のこと」とされているものは、単に誰かによって「書かれたこと」にすぎない。

     書かれたことにすぎないとされているものは、じつはすべて本当のことであり、本当のこととされているものは、すべて書かれたものであるにすぎない。
     そしてその書かれただけのものは本当のことであり、本当のことはまた書かれただけのことである。その書かれただけのことは本当であり……。

     そういうハムスターの車輪のようなサイクルによって、「虚」と「実」の境界線が意味のないものとなり、同一平面上に置かれる。
     優劣のないものとなる。
     そういうギミックを提供するものとしての『うみねこのく頃に』があるのだという話をしました。


    ●「赤い字で」書かれたことと本当のこと

     さて。
     お気づきの方も多少おられたと思いますが、以上のようなことは、そっくりそのまま全て、
    「赤字」
     というシステムの解明でもあるのです。わたしにとっては。


    「書かれたこと」は、すなわちそのまま「本当のこと」である。
    「本当のこと」とされているものは、単に誰かによって「書かれたこと」にすぎない。


     それってこういうことでもあるでしょう。

     赤い字で、書かれたことは、本当のことである。
     本当のことだとされているが、それは、ただ赤い字で書かれたことにすぎない。



     つまり、この物語は、まさしく最初っから、
    「書かれたもの」が真実であるかないかをめぐる物語
     であったのだ……。というのが、わたしの考え方です。

     初期においては、「赤い字で書かれたもの」がそのまま真実であり、そして終盤のいまでは、「赤い字で書かれたからといって、真実とはならない」という様相があらわれている……。

     ぐるりとめぐっている。
     赤い文字は本当に真実なのか。それとも、魔女がでたらめを書き記しただけのものなのか。
     その答えは「真実にすることもできるし、でたらめだと見なすこともできる」。
     絵羽が書いた単なる個人的な日記が、いつのまにやら「真実を語る聖典」と見なされてしまったのと同じ。
     絵羽の日記が真実を語るものだとされたのは、人々みんなが「真実を語るものだと信じた」からであって、本当に真実を語っているからではありません。
     だから、信じられている場では、真実として通用するし、信じられていない場では、真実としては通用しません。
     赤字が真実を語るものだとされたのは、本当に真実を語っているからではなく、戦人や縁寿が「真実を語るものだと信じた」からです。
     だから、縁寿がそれを信じたいとき、赤字は真実であり、縁寿がそれを信じたくないとき、赤字は真実ではないわけなのです。

     真実か真実でないかというのは、人がその時々でどう受けとめるか、によることです。
     真実性とは、「物」それ自体の中にあるのではなく、受けとめる人の側にある。

    (書いてみてビックリしたけど、本当ビックリするくらい当たり前のことだな)

         *

     さて……。

    「書かれたことは、本当のことである」
     というギミックを意識したうえで、

    「妾が赤にて語ることは真実」

     という記述を読んでみる。するとそれは、「赤字はとりもなおさず真実である」という意味ではなく、

    「赤字で記述されたことは、真実であるということにしちゃおう(真実に変えちゃおう)

     という「魔女のわざ」を語るものとして読めてきます。


    Ep8を読む(1)(2)」で論じたように、当推理では、「書かれたことを、本当のことにできるのは魔女のわざ」です。

     魔女フェザリーヌは「ラムダがぼこぼこに負ける」という描写を「書いて」それを「本当のこと」にしてしまった。
     魔女フェザリーヌは「戦人が生き延びる」という描写を「書いて」それを「本当のこと」にしてしまった。
     私たちユーザーは、「戦人は海の底までベアトと添い遂げた」「戦人は生き延びて縁寿と再会した」という「書かれたこと」を、内容が矛盾するにもかかわらず、両方とも「本当のこと」にしている。

     それらとまったく同様に、魔女ベアトリーチェは、赤い字でものごとを書き記し、魔法で、それを本当のことにしている……かもしれません。

     なぜって?

     ベアトリーチェには、「本当ではないけれども本当にしてしまいたいこと」……つまり「叶えたい夢」があったから。かもしれません。
     赤い字は夢を叶えるための道具。
     だったかもしれません。

     魔術師の座を受け継いだ戦人は、ベアトが「本当のことにしたかったこと」を守ろうとして、悪い魔女たちと戦ったのかもしれません。赤い字が本当でなければ、ベアトが「本当のことにしたかったこと」は本当にはなりません。だから、「本来は書かれたことにすぎない赤い字の内容」を必死で守ろうとした……かもしれません。

     そして、悪い魔女がその「赤い字による本当」を悪用して、縁寿を不幸にしようとしたとき。戦人と縁寿は、魔法を裏返し、「本当のことを、書かれたことにすぎない」ほうに戻すことで、窮地を脱した。……かもしれません。


    ●本当にしたいことを「赤い字で」書く

    「かもしれない」の内容を、もうちょいかみくだきますね。
     かりに赤字が、「書かれたことを、本当にする」システムの一部だったらどういうことになるだろう、ということを語ります。


     ベアトリーチェは、自分は魔女でありたい、魔法があってほしいと願っていました(と思います)。
    (以下だいたい「わたしが思う」ということです)

     でも、呪文を唱えたら奇跡が起こる、という意味でのいわゆる「魔法」なんてものは、本来この世にはないのです。
     それはわかっているけれども、それでも魔法が存在してほしい。
    「書かれたことを本当のことにする方法」(赤い字)を使えば……「魔法は本当にある」ことにできそうなんです。

     密室殺人があり、それが絶対解けないのなら、魔女が魔法で殺したのと同じになる、と、彼女は考えました。

     部屋の中に他殺死体があり、他には誰もおらず、全ての出入り口が施錠されていて、鍵が使用不能であったのなら。
     それは人間にはできない犯行であり、それは魔女のしわざであり、魔女と魔法が存在するのです。

     そこでベアトリーチェは、

    「室内には他殺死体がある」
    「他に人間は潜んでいない」
    「全ての出入り口が施錠されている」
    「鍵は使用不能であった」

     と、「書いた」(言った)のでした。その上で、一連の推理で論じてきたような、
    「書かれたことを本当のことにする方法」(つまり赤字)
     を使って、それを「本当のこととしてしまった」わけなのです。(と思うのです)

     本当の意味での「密室」なんて、物理的に不可能ですからね。
     つまり密室というものは、本来、作ることはできません。
     けれども、ベアトは自分が魔女であるために、「本当の意味での密室」が存在してほしいのです。
     ですから、彼女は、密室構成条件を「書きしるす」。
     そして、その書き記されたことに対して、「書かれたことを本当のことにする作用」をかける。
     それで、密室構成条件は「本当のこと」になるのです。

     絵羽がイガんだ憎悪をこめて書き記した「一なる真実の書」は、もし社会に公開された場合、世間の人々がみんなで信じてしまって「本当のこと」になっちまうところでした。
     ヱリカが悪意をこめてでっち上げた「Ep5夏妃犯人説」は、幻想法廷の人々がみんな認めてしまったために、「本当のこと」になってしまうところだったのです。

     それとまったく同じように。
     ベアトリーチェが、自分の夢、自分の願いをこめて書き記した「赤い文字のコトバ」は。
    「赤い文字で書かれていることは真実である」と戦人が信じてくれているために、「本当のこと」になっていたのです。

     それはまさに――
     書いたことを本当にしてしまう魔法。


    ●「願いとしての赤字」を戦人が守ること

     戦人は、遅ればせながらそのことに気づいた……ことにします。
     このゲーム盤は、ベアトリーチェが、彼女の美しい夢、美しい願いを、どうにかして実現しようとする必死の試みだったこと。
     そして、願わくばその美しい夢を、戦人が共有してくれないか、と願っていたであろうこと。

     戦人は、彼女の願い、彼女の魔法を受け継ぎます。魔術師になります。
     古戸ヱリカ、ベルンカステルという「ミステリーの侵略者」たちが、ベアトの夢、ベアトの魔法を台無しにしようと襲いかかってきます。
     戦人はそれを撃退しなければなりません。
     愛しい魔女が、必死で実現させようとしていた美しい夢を、どうしても守りたかったのです。愛する魔女を守るため、「魔女があり、魔法がある」という真実をどうしても守りたかったのです。

     戦人は、この時点で、
    「赤字とは、本当でないことを本当にすることによって、夢を実現するシステムだ」
     ということに、気づいています。(わたしの考えでは・この推理では)

     ミモフタもないことをいえば、「赤字でウソも言える」とわかっています。
     だからそのことを利用すれば、ロジックエラーに閉じこめられることなんてなかったはずです。それどころか、簡単に「解けない問題」を作ることができ、簡単に古戸ヱリカを撃退することができてしまいます。

     だって、縁寿が「赤字を認めない」ことでベルンを撃退できるのなら、当然のことながら、戦人だって気付きさえすれば、「赤字を認めない」ことでベアトを撃退できますし、ヱリカを撃退できるのです。

     でも彼はそれをしなかった。なぜか。

     だって、
    「赤い字は真実を語る」
     というシステムが信じられているからこそ、魔女と魔法が、六軒島に存在できているのです。
     つまりこれが「ベアトの魔法」そのものなのです。

     ベアトが「赤い文字で」語ったいくつかのこと。
     それは、ベアトがどうしても本当のことにしてしまいたかった、ベアトの夢そのものです。
     それを破棄してしまったら、それは「ベアトの夢を自分の都合で捨てた」のと同じ意味になってしまいます。
     ベアトは「赤字は真実であってほしかった」し「赤字の内容は真実にしたかった」のです。
     戦人はそれをどうしても守りたかったのですから、自分のゲーム上においては、「赤字を本当に真実にしてやりたかった」し、「ベアトの赤字の内容は全部本当のこととして扱ってやりたかった」。

     だから、赤い字の内容を全部守るという縛りを設けたうえで、ヱリカを倒してやろうと考えた。赤字の内容を死守することが、ベアトへの愛のあかしだった……という(わたしの)考えなわけです。


    ●「ミステリーの悪意」としての赤字

     そんなふうにして、ベアトの願いと戦人の努力によって、「赤い字で言われたことは真実である」という、強力な真実が、六軒島を支配するようになりました。

     でもそれは戦人たちにとっていいことばかりではなかったのです。
     ミステリー側の魔女たちが、赤い真実を悪用しはじめたからです。「赤い字で言われたことは真実である」というコンセンサスは、ミステリーの魔女たちにとっても歓迎すべきことでした。

     なぜなら、この「赤き真実」は、事実性を他人に押しつけて反論不能状態に追い込むのに、非常につごうがよかったからです。

     ベルンカステルは、赤い字を使って、縁寿を不幸にしてやろうとたくらみました。その姿を見て楽しもうと思ったのです。
     たとえば、霧江は殺人鬼であるとか、戦人は死んじゃいましたー、とかを赤い字で言えば、縁寿はすごい形相をして泣いたりするので非常に楽しかったのです。
     実際それらは、ある意味では事実ではあったので、信憑性がありました。

     願いを本当のことにするための赤い字が、願いを打ち砕くために使われだしました。

     そんなふうに赤字が使われだしたとき、戦人は、「赤字ルールを破る」ことに躊躇しませんでした。
     赤字ルールは、ベアトが「夢を叶える」ために作ったものです。
     戦人が守りたかったのは、ルールではなくて、「美しい夢」です。
     赤い字が、夢を壊すために使われるのなら、夢を守るために赤字ルールを打ち砕くのは当然のことなのです。

     赤字とは、誰かが願いを込めて、「書かれたもの」を「本当のこと」に変えたコトバである。
     それは裏返せば、赤字とは、本当のことだとされているけれども、単に誰かが勝手な願いをこめて「書かれたもの」にすぎない。

     この「書かれたもの」にすぎない、という立場をとることで、赤字は何の真実性も保証しないものとなり、「戦人は死んでいる」なんていう赤字には、何の拘束力もないことになります。
     戦人は、縁寿にそういうやり方を悟らせようとしたわけです。

     縁寿は、戦人が教えようとしたことを、悟ることができました。

    「戦人は死んでいる」なんていう赤字の真実性を、まったく認めないことによって、戦人がどこかで生きているという真実をつくりだして、胸に抱き続けることができました。

     譲治と朱志香が、モンティホール問題にからめて、
    「他人に影響されずに、自分の願いを追求しつづけること」
     が大切なんだという話を、縁寿にしてくれました。

     まさしく、赤字などという他人の真実に影響されることなく自分の真実をたもちつづけること。
     それが大切なのだということを縁寿は理解し、ベルンの赤字を拒否するという行動において、それを実際になしとげたのです。


    (そして、わたしもそれを一環してそれをやりつづけています。……という、このくらいは自画自賛してもバチはあたらないと思うんですよ(^_^))


    ●リザレクション・オブ・ザ・ゴールデンウイッチ

     さて。
     それだけの言葉を費やしたあとで、ようやく語れることがありまして。
    「縁寿はどうしてベアトリーチェの称号を受け継いでエンジェ・ベアトリーチェであるのか」
     ということを語りたいのです。

     なぜならそれは、縁寿がベアトの志を、正確に受け継いだからだ、というところに、もっていきたいのです。

     そういうことを、これから語っていきます。


     よろしいか。
     具体的な字として露わになってないだけで、
    「魔法など存在しない」
     という「世間の赤字」があるのです。これは見ようと意識することで、容易に見えるはずです。

     魔女でありたいベアトリーチェは、「魔法など存在しないという世間の真実」を打ち破りたかった。
     そのための武器が「魔女ベアトリーチェの赤い文字」であった。
     そのような構図で見直してみよう、というのが、これまでのわたしの提案なのですね。

     そして。

    「戦人など生存していない」
     という「ベルンの赤字」がありました

     戦人に生きていてほしい縁寿は、「戦人など生存していないというベルンの真実」を打ち破りたかった。
     そのための武器が「黄金の真実」であった。


     どちらも、他人の真実が自分の願いを押しつぶそうとしたとき、願いを守るために振るわれる武器なのです。

     そのように、魔女ベアトリーチェの願いと、縁寿の願いは、リフレインしている。

     そんなふうに考えてみたとき。
     Ep8ラストで縁寿によって「赤い字」の権威性は却下されるのですが、だからといって、魔女ベアトリーチェの願いは否定されていないことに気づけるはずです。
     それどころか、「赤字を拒否する」ことによって、より大きな意味で、魔女ベアトリーチェの思いは受け継がれ、叶えられているとすらいえそうです。

     片方は(ベアトは)「赤字を真実だと主張する」。もう片方は(縁寿は)「赤字を真実でないと主張する」。にもかかわらず、この両者の利害は一致し、同じものを求め、同じものを手に入れているのです。

     強力な力で譲歩を迫ってくる「大きな真実」に対して、自分の胸の中に抱いている「小さな真実」をどうやって守り抜くか。
     ベアトも縁寿も、そのことを考え、そのことを実現しようとしている。

     そういう意味で、彼女たち二人のやっていることは実は「同じ」なんです。

     他人の強力な真実が自分を脅かそうとするときに、いかに行動すべきか、という一点において。
     彼女たちの行動は、まったく同一なんだ。

     縁寿は、赤字の真実性を退けているにも関わらず、ベアトリーチェの方法論は正確に受け継いでいます。
     それは言い換えれば、志を、魂を受け継いだというのにひとしいのです。

     だからこそ縁寿は、ベアトリーチェの称号を受け継ぎ、エンジェ・ベアトリーチェなのである……。

     そういう言い方が、できそうです。
     単に、生き残った右代宮一族だからベアトリーチェなのではない。自分自身の真実をまもり、真実をみずからつくりだすという境地に至ったから、縁寿はベアトリーチェなのである……。
     そういうふうに思いたいところなんです。


    (ちなみに、「大きい真実」「小さな真実」というキーワードでいえば、そういえばEp5で戦人は、ドラノールから「かよわき人間の真実を守る者」みたいな呼ばれ方をされていました)


    ●魔女の復活祭としてのEp8

     だとしたらね。

     ひとつ思いだしたいことがあるんです。
     この物語は当初から、
    「長らく封印され、力を失っていた魔女ベアトリーチェが、再び力を得て復活する儀式なのである」
     というサブストーリーによって支えられていました。碑文殺人というのは復活の儀式だとされていました。

     1986年の六軒島爆発事故によって、魔女ベアトリーチェの中の人も(推定ですが)爆死しました。
     外から見れば、魔女ベアトリーチェはその死によって力を失い、滅びた小島に永遠に封印されたのです。(内から見れば・猫箱の発想からすれば、違う結論にもなるのですが)

     しかし、「願いを実現する魔女」ベアトリーチェは。
     12年という歳月を経て。
     エンジェ・ベアトリーチェという姿をとって、この世にみごと復活したのだと、そういう言い方ができそうなのです。

     しかも、この新たな復活版ベアトリーチェは、島の外に解きはなたれた自由な存在だ。

     かつての魔女ベアトリーチェも、それを求めていたのです。今は妾は島に縫い止められているが、いずれ島の外に出たいのだと。

     つまり、ベアトリーチェの願いは、縁寿に託され、「エンジェ・ベアトリーチェ」というかたちをとってすべて実現されたっぽいのです。
    (ずっと待っていた思い人が、長い年月の果てに、ようやく自分に会いに来るなんていうところまで忠実に再現してね……)


     このことは(ベアトの願いを縁寿がすべて実現することは)、魔法エンドを選ぶか、手品エンドを選ぶかということとは、まったく関係がありません。

     なぜなら、どちらかを選ぶ前に、縁寿はすでに、
    「強力に迫ってくる他人の真実をしりぞけ、自分自身の真実を実現する」
     という境地には達しているからです。

    (手品エンドの縁寿が真相究明を放棄するのは、「真実というのは自分の裡に求めるものであって、外から探してくるものじゃない」という認識に到達しているからです)

     その時点で彼女はすでにベアトリーチェなんです。2つのエンドの差は、「彼女は個人的に、どんなベアトリーチェになりたいか」という差でしかないのであって、どちらを選ぶにしても、彼女はベアトリーチェとしての本質は獲得しているのです。



     このようにして、魔女復活の儀式は完遂されました。


     そして、わたしたちのこの世界には、いま、「ベアトリーチェの思いと志」を理解した「わたしたち」がいます。
     つまり、魔女ベアトリーチェは、わたしたちという姿をとって、わたしたちのこの世界に、自由な存在として解きはなたれました。

     だから『うみねこのく頃に』は、冗談ぬきで本当に魔女復活の儀式だったわけです。いまや魔女はわたしたちの世界に実在しています。


    (続く)
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