| ●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上) no59667 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下) no59700 Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上) no59771 Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中) no59806 Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下) no59987 Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる no61043 Ep8を読む(7)・黄金を背負ったコトバたち no61527 Ep8を読む(8)・そして魔女は甦る(夢としての赤字) no61687
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今回長いです。覚悟して下さい。
●アンチミステリー・ライジング
「アンチミステリー」の話をしませんか。しましょうよ。
ミステリー業界には「アンチミステリー」という言葉があって、「アンチミステリー作品」といった分類をされる作品がいくつかあるみたいです。
わたしは、アンチミステリーという用語の成立過程をリアルタイムで見てきたわけじゃないので、あまり自信を持っては言えないのですが、ざっと調べてみたところ、だいたい以下のようなことのようです。
中井英夫『虚無への供物』という作品があるのですが、作者中井英夫がこの作品の序文で、 「(略)私の考え続けていたのは、アンチ・ミステリー、反推理小説ということであった。」 と書き記しています。これがアンチミステリーという用語の初出のようです。
中井英夫さんは「反宇宙」という言葉も別の序文で使っているので、おそらく彼は、ミステリーをくるっと表裏ひっくりかえしたようなの……ミステリーと衝突して対消滅するようなもの、といったニュアンスで「アンチミステリー」という言葉を創出したんだろうとわたしは思うのですが、そのニュアンスは現在使われているミステリー業界用語としての「アンチミステリー」には、わたしにはあまり感じられません。(少しはあるかも)
その後……ちょっと出典が明らかでないのですが(ご存じの方お知らせ下さい)、埴谷雄高が、「なんかこう、すっごい異常な作品ってあるよねー」くらいのニュアンスで、夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』の3つを挙げて、
「日本文学の黒い水脈」
と呼んだそうです。
この「黒い水脈」の3作品の中に『虚無への供物』が入っていたので、いつのまにか、言葉としての、「黒い水脈」と「アンチミステリー」は、いっしょくたのものになっていきました。 というか、 「中井英夫がアンチミステリーと名付けた作品内の要素が、そういえば『ドグラ・マグラ』や『黒死館殺人事件』にも感じられるなあ」 と思う人が多かったのですね。たぶん。
それで、やがて、「アンチミステリーといえば、それは『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』『虚無への供物』の3作品のことである」といった、漠然としたコンセンサスが生じました。
だから狭い意味で言えば、「アンチミステリーとは『ドグマグ』『黒死館』『虚無』のことです」となるわけです。
でもその後、「ドグマグ・黒死館・虚無みたいなテイストを持った作品は、だいたいアンチミステリーって呼べばいいじゃないか」みたいな雰囲気になってきたのだと思います。
で、現状は、 「なんか、あのへんの3作品っぽいやつ」 のことを、「アンチミステリー」と呼んでいる。だいたいそんな感じにわたしは理解しています。
わりとくだけた言い方をすると、 「ミステリーみたいなんだけど……なんかこう……なんだこれ?」 といった読後感を与える作品を、なんとなくだいたい「アンチミステリー」というくくりの箱に入れてるっぽいんです。
なので、はっきりした定義というものは、ないっぽい。
全然余談ですが、これは「ハードボイルド」という用語の成立過程にちょっと似ています。 ものの本によると、ハードボイルドという形容は、もともとアメリカの俗語です。無感情な感じ、したたかな感じ、つきあいにくい感じを表わすもので、「ハメットの作品ってハードボイルドな感じだね」という言い方が、まず自然発生的にありました。 その後、だいぶあとになって、 「ハメット・チャンドラー・ロスマクの3人には共通する傾向がある。この3人を“ハードボイルド派(スクール)”と呼ぼう」 と言い出した人がいて、これが「ジャンル(作家群)用語としてのハードボイルド」の初出らしいのです。つまり狭義ではハードボイルド作品とは、ハメット・チャンドラー・ロスマクの3人のことを指すのでした。 でもそんな狭い意味はすぐにすたれて、「こういう感じの作品は、全部いっしょくたハードボイルドでいいよね」という感じになりました。なのでパーカーやクラムリーや藤原伊織や原ォもハードボイルドと呼んで全然さしつかえないわけです。
●うみねことアンチミステリー
アンチファンタジーとかアンチミステリーとか最初にいいだしたのは竜騎士07さんです。メモリアル。
うみねこってアンチミステリーなの? そしてアンチミステリーっていったいなに? みたいなことが、Ep8以降、わりと言われだしていますが、それは元はといえば、竜騎士07さんが「うみねこはアンチミステリーを意識していますよ」といった意味のサインを送っていたからなんですね。
たしかEp3の時点で、ソフトのジャケットに「アンチファンタジーVS.アンチミステリー」というキャッチコピーが掲載されたのでした。そしてそのあと、配布小冊子で、「アンチミステリーとアンチファンタジーについて」という竜騎士07さんのエッセイが公開されたのです。
Ep8で、犯人の指名とトリックの解明がある、と多くの人が思っていましたが、それがなかったので、 「ああ、そうか、アンチミステリーなのかよ」 といった受け取り方をした、そういった人が多かったみたいなんです。(というわたしの観測です)
というのも、いわゆる「アンチミステリー」と呼ばれるような作品って、はっきりした真相が描かれない場合が比較的多いからなんですね。これはわたしが感覚的に言っていますが。 真相を書かなかったら、それはなんとなくアンチミステリー作品っぽい、という、そういう雰囲気がちょっとあるみたいなんです。
というわけで……。
「アンチミステリーっていう概念があるんだよ」 というほのめかしのエッセイを書いた作者の作品が、いかにもアンチミステリーの典型っぽい終わり方をした。 だから「うみねこ」は、アンチミステリーの作品である……。 というのは、まぁ、筋が通ってはいるのです。
通ってはいるんだが。
それが間違いだとは決して思わないんだが。
どうもわたし的には、釈然としないのですね。
うーん、今さら、真相を隠してアンチミステリー……。 という、「それは古いな」という感じが、わたしにはちょっとありました。 (他にもさまざまな、複合的理由があるということは置いといて、ですよ)
べつに古くたって良いわけなのですが、近年、とくにこの20年くらいのうちに、ミステリーというジャンルはものすごく多彩化してしまって、 「あれもミステリーだし、これもミステリーと言えるし、あのへんにあるあんなのだってミステリーとして数えていいんじゃないか」 というように、ミステリーの裾野はものすごく広がった感があるのです。
言い換えたら、「ミステリーの懐」が、もんのすごく深くなってしまった。 従来だったら、こんなんミステリーでもなんでもないよと言われそうな作品が、ミステリーと呼ばれて、とくに疑問を持たれなかったりしている。
そういう状況では、「アンチミステリーの条件」は、厳しくなってくるのです。 「何でもかんでも、ミステリーの枠にくくって良い」 という勢いの現在の状況では、ちょっとやそっと、ミステリーの文法からはみ出したからといって、もうアンチミステリー(反ミステリー)とは呼べない感じなのです。
はっきりいうと、わたしには、「解明編がない」くらいのことでは、反ミステリーという感じは、しない。
わたしの頭に具体的に思い浮かんでいたのは、東野圭吾さんの『どちらかが彼女を殺した』でした。 この作品は、 「はっきりした解明がなく、誰が犯人かは最後まで指名されないにもかかわらず、まったくアンチミステリーではない」 という作品なのでした。 むしろ、これ以上ないくらい「ミステリー」が信じられているんです。
ミステリー業界の大メジャー、メインストリームの東野圭吾さんみたいな人が、そういうのをとっくに書いてる以上、単に犯人が最後までわからないくらいのことで、アンチミステリーと呼ぶわけにはいかないよなという印象は強く持っていました。
でも、 「だからうみねこはアンチミステリー作品なんかじゃない」 と言い切れるかというと、それも違うと思う。 むしろその逆で、 「うみねこってすっげぇアンチミステリーっぽいよなァ」 と感じるわたしがいるのです。
なんでかっていいますと、それは以下のように思うから。
うみねこはアンチミステリー的な作品であるが、それは真相が書かれなかったからでは「ない」。 別の理由によってアンチミステリーになっているのだ。
そういうことを、これから語ってみたいと思います。やっと本題だ。
●ミステリーってそもそも何なの
やっと本題なのですが、「わたしが個人的に、アンチミステリーというものをどうとらえているのか」という話から始めていきます。そのうちうみねこの話になっていきますからちょっと我慢して下さい。
念を押しておきますが、これは「わたしが」「個人的に」アンチミステリーをどう思うかということを語るのですよ。 ようするに、あなたの考えとは違うかもしれないし、ミステリー業界的な考えとも違うかもしれないが、そんなことは気にしませんという意味です。最近、こういったことをきちんと先回りしておかないと、面倒くさいことになるので、面倒くさいです。ほんとにもう。
さて。 アンチミステリーが存在するには、所与のものとして……つまり前提として「ミステリー」が存在しなければいけません。当然ですね。巨人軍が存在しなかったらアンチ巨人は存在できないです。
ですから、ミステリーというものが明確であってはじめて、アンチミステリーは成立できるのです。(ところが前述の通り、ミステリーの境界があいまいになっているので、アンチミステリーもなかなか成立しづらくなっているわけだ)
なので、アンチミステリーって何? と問うためには、まず「ミステリーって何?」と問わねばなりません。でもそんなこと難しくて答えられませんよ。
難しくて答えられませんが、あえて乱暴に、ものすごく単純に、ひとつの例としてこういう考え方をしてみてはどうでしょう。とわたしは提案します。
*
たとえば。
内側から鍵のかかった部屋で、人がひとり死んでいる。 ひとつしかない部屋の鍵は、その部屋の中にあるじゃないか。 もちろん隠し通路なんてないし、死体以外の人間が隠れてなどいない。
そういう状況があったとします。
この事件が他殺で、殺人犯がいると仮定しよう。その殺人犯は、ドアから部屋を出たあと、鍵をかけることはできない。なぜなら鍵が室内にあるからだ。 つまり、殺人犯がいるとしたら、そいつは部屋の外に出ることはできない。しかし、部屋の中に殺人犯はいない。
つまり、この事件において、殺人犯は存在しえない。 よって、この事件は自殺である。
*
これは非常に、筋の通った論理です。どこに出しても恥ずかしくありません。理に適っています。こういう結論を出さない警察がいたら、ちょっと心配になります。
まったくもって筋が通っている。
この、理に適った強固な論理があるにもかかわらず、
「それでも、しかし、この事件は殺人なのだ!」
と主張しはじめるとき、その瞬間にはじめて、ただの事件だったものは「ミステリー」となるのだ。
そういう考え方をしてみてはどうでしょう。
「密室内で人が死んでいたのだから、これは自殺だ」 というのは、判断として堅牢です。常識的で、安定した判断の枠組みに沿っているのです。現実世界だったら、この判断でまずまちがいないでしょう。
ミステリーは、この「常識的で、安定した判断の枠組み」を疑います。 ミステリーは、レストレイド警部に対して「あなたの持っている判断の枠組みは常識的だが、にもかかわらずあなたは間違っていますよ」とささやきます。 そしてミステリーは、 「密室内の死体。にもかかわらずこれは他殺だ」 という、「異常、かつ新しい枠組み」を、驚きとともに提示し、しかもそれを正しいと証明してしまうのです。
「常識的な枠組みに基づく判断よりも、異常な枠組みに基づく判断のほうが正しい」 ということを正面から主張して、なおかつ、読者にそれを「確かにそうだ」と認めさせてしまう。 それを認めさせられたとき、読者には、驚きがあり、知的興奮がある。 そういうものをミステリーと呼ぶのだ。……というふうに、ここでは仮に、仮定してみましょう。
●ミステリーって疑わしい
そういうものとしてのミステリーは、百数十年の歴史にわたって、そりゃもう人気を博したのです。 人気があるものだから、いっぱい書かれる。いっぱい書かれたものは、いっぱい読まれる。
いーっぱい作られて、読者はそれらを、浴びーるように読んじゃったのです。
その結果、一種の薬物耐性みたいなことができてしまいました。驚きや知的興奮を与えるための「異常な枠組み」を、読者は当然のものと思うようになってしまったのです。
本来ミステリーって異端文学だったはずなんですが、ちょっとばかし、「エンタテインメント小説のなかのメジャー路線のひとつ」みたいなことになってきちゃった。
その結果、存在そのものが異常に属していたはずのミステリーは、正常なものとして捉えられてしまった。 「異常なことを言い出すものとしてのミステリー」を、当然のものとして受けいれる状況が生まれてしまった。
つまりね。 「これはミステリー小説だから、探偵が異常な主張をして、それが正しいということになるのだろう」 「これはミステリー小説だから、意外な犯人が指名されて、意外なトリックが暴かれるのだろう」
という予断が、「常識的で、安定した判断の枠組み」になってしまったのです。 「ミステリーって、最後に意外な人が犯人だってわかる小説だよね?」 という言い方って、ミステリーの説明としてそんなに間違っていない、わりと多くの人が納得する説明だと思うのです。 でも、そんな言い方が通用しちゃうのって、本来おかしいのです。 だって、「ふつうそういうもんだよね?」という安定した常識的な予断から、遠く離れた場所に読者を連れて行くのがミステリーだったはずなんです。
これじゃまるで、「密室の中の死体は自殺でした」って言ってるようなものじゃないか……。ミステリーって結局こんなもんか……。
と、そういうふうに思ったとき、
「じゃあ、その“ふつうこうだよね?”の予断に対して、異常な枠組みをつきつけてやろう……」
そういうふうに思い始めた何人かの作家たちが、いたのだろうと思います。
「密室の中に死体があるなら、それは自殺だ」という思いこみがあるように、 「この小説がミステリーなら、意外な犯人解明があるはずだ」という思いこみがある。 それを疑ってやろう。 そうでない世界を見せてやろう。
それが本来のミステリーというものではないか……。
ミステリーとは、アプリオリな(あらかじめ当たり前だと思われているような)枠組みを疑うものだ。 今ここに、 「ミステリーだとしたら、犯人はいるし、それは語られるに決まってるのである」 という、油断しきった、予断にみちた枠組みがある。
ならば、 「犯人は明かされないし、犯行方法は謎に包まれたままだ」 という「異常な枠組み」を、体験として提供しよう。
そんなことをしたら、みんなが思っている「ミステリーの枠」から、はみだしてしまいます。 そんなの、もはやミステリーじゃない、なんて、言い出す人もいるかもしれません。
でも、大きな意味で、神髄としてのミステリーを保ち続けるためには、表層としてのミステリーを裏切らなければならなかったのです。 そういう矛盾にみちた選択を迫られてしまった……。
ミステリーは自分自身のあり方に対して疑問を持ち、今までの自分じゃない自分になってやろうと思い始めてしまったのです。
「ミステリーとは、当然の枠組みを疑うものだ」 という、ミステリーの神髄があった。 にもかかわらず、ミステリー自身が、先験的な枠組みになってしまった。「来るぞ来るぞ、ホラやっぱり思ったとおり来たー!」の存在になってしまった。
ミステリーは、ミステリーとして純粋であるためには、自分がミステリーであることに疑いを持たねばならなくなったのです。ボクがボクらしくあるためにはボクであることをやめなきゃだめだ、と思うようになっちゃった。 ミステリーがミステリーでありつづけるためには、ミステリーであることをやめなければならない。 ミステリーとして純粋であるために、ミステリーに背を向ける……。 つまり、それって、反推理小説。アンチミステリー……。
先験的な(当然のものとして予断されている)枠組みを疑うのがミステリーであるのなら、「ミステリーの先験的な枠組み」だって疑われるべきだ。そんなふうに考え始めたミステリー作品があるのなら、それは「アンチミステリー」と呼ばれるにふさわしい……。
●高潔であろうとした結果……
というふうなのが、わたしの考え方なのですが、これが当を得た意見なのかどうか、じつはよく知りません。 まぁ、はっきり言ってしまうと、これはわたしが頭の中でつくりあげた、一種の「アンチミステリー神話」です。
実際、上で述べた、わたしのアンチミステリー観は、『ドグマグ』『黒死館』『虚無』の三作品にはほとんどあてはまる感じがしないです。
ただ……。 「どうして人は、真相解明が書かれていないミステリーのことを、アンチミステリーだと思うのか」 については、まあまあ巧妙に説明している気がするんですね。
Wikipediaの「アンチ・ミステリー」の項には、
「推理小説でありながら推理小説であることを拒む」という1ジャンルを指す。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC) という説明がなされています。
また、竜騎士07さんは、アンチミステリーについて、こういう言い方をしています。
ミステリーがミステリーとして高潔であろうとした結果、自らの存在を否定するに至ったことの何と皮肉か…。
これは私は皮肉な意味を込めて“アンチミステリー”と呼んでいます。 (小冊子『アンチミステリーとアンチファンタジーについて』) ミステリーがミステリー自身を否定する……。
●「そんなわけねぇだろ」のまなざし
そこで話を、「うみねこ」に戻してみる。
「当然のものを疑っていくこと」がミステリーであり、「ミステリー自身が当然としているものを疑っていくこと」がアンチミステリーである。 この発想を持った状態で、「うみねこ」を見ていこうと思うのです。
「アンチファンタジーvs.アンチミステリー」なんていう、キャッチフレーズがあったわけです。
この物語は、大時代なドレスを着た金髪の美女が現われて、 「妾という魔女が、魔法を使って島の人間を皆殺しにしたのだ。何も不思議なことはない、当然のことであろう?」 といったファンタジックなことを言い出したので、 「そんなわけねぇだろ」 と、つっこむところから始まりました。
ファンタジーを当然のこととして主張する人物に、「そんなわけねぇだろ」とつっこんでいくのですから、これは、 「アンチファンタジー」 という新語をつくったら、ちょうどあてはまりそうな態度です。
そんな展開がEp4まで続いて、Ep5からは、「お箸お箸」とか急に興奮しだす、ちびっこい、なんか異様に表情豊かな女子が現われて、 「隠し通路は常に絶対に存在しませんし、探偵は絶対に犯人ではありえませんし。知らない人が犯人だなんて絶対にありえませんし、カンで正解することは絶対にないのです。そして変装するなら必ずヒントを出しておかねばなりませんッ! そんなのあったりまえのことですよねえええ!」 といった、ミステリーにおもいっきり自家中毒したことを言い出しました。
「そんなわけねぇだろ」
そう。
ミステリーが「自明のこと」とするこれらのこと。 ミステリーだったら、こうしたことは当然守られているだろう。と、そんなふうにミステリー読者が当然のこととして思いこむ経験的なルール。
それに対して、「そんなわけねぇだろ」とつっこむ立場がもしあったら。 それは、「ミステリー自身が当然としているものを疑う」という態度です。
つまり、もし作中に、そんな態度が存在したとしたら、それは「アンチミステリー」と言っておかしくなさそうなのです。
そういう立場。そういう態度が、「うみねこ」の作中にあったかどうか。
わたしの見る限り……。 Ep5にはありませんでした。 Ep6、Ep7にも、なかったように思います。
Ep8になって、しかもオーラスになって、ようやくそれっぽいのが出てきました。 それはこうです。
「赤字が真実だなんて、私、認めない」
●自己否定するミステリー
というわけで、やっぱり赤字の話なんです。
大時代なドレスを着た金髪の美女ベアトリーチェさんは、戦人くんに対して、うそっぱちの描写をいっぱい見せたのです。 そのうそっぱちの描写は、絢爛豪華で、不可思議にみちていて、たいへん面白いものなのです。 けれども、
「こんなうそっぱちの画面ばっかりじゃ、推理なんてできっこないぜ! くそっ、くそっ!」
といって情けなく泣きが入ったので、しょーがねーなーと言ってベアトリーチェが提案してくれたルールが赤字でした。 おぅ、よしよし、赤い字のときは本当のことを言ってやるから。それを手掛りに推理したら良いぞ。そのくらいの手掛りがあったら、推理できるよな? よし、がんばれ。
ふつうのミステリーだったら、基本的には正しい描写が行なわれるのですから、それを手掛りに推理することができます。でも、間違った描写が行なわれるのだったら、推理できません。つまりミステリーとして成立しません。それを避けるための赤字なのです。
ですから、「赤字」というのは、 幻想描写という名のうそっぱち混じりの物語の中で、それでもなおかつミステリーを成立させるためのギミックなのですね。言ってみれば、たったそれだけのために存在するのが赤字なんです。
ミステリーを成立させるためにあるギミック……?
これがあるからこそミステリーでいられるギミック。「赤字」。 これがなかったらミステリーでいられなくなるギミック。「赤字」。
そんなものが否定されたら、この物語のミステリー性はたちまち崩壊してしまいます。大事なことなので二回言いますが、ミステリー性が崩壊してしまいます。 ミステリーだったものが、ミステリーじゃなくなってしまいます。
ミステリー性が崩壊してしまうので、この物語をミステリーでありつづけさせたいならば、絶対に疑ってはならないもの。
自明のものとして・所与のものとして・当然のものとして・アプリオリなものとして、基準値として、これだけは疑われるべきではないと多くの人たちが思っているもの。
そういうものをあえて疑っていくという立場が、あったはずです。そういうのを何と言ったでしょうか。
ミステリーとして始まっていながら、ミステリーであることを自ら拒むような作品……。
ご存じ、その名は「アンチミステリー」。
●自ら拒め、その依って立つものを
「赤字が真実だなんて、私、認めない」
縁寿は、ついにそういう立場を表明しました。それによって……たったそれだけのことで、ベルンカステルの赤字は無効となりました。
赤字を無効にできてしまうのなら、この物語における、ミステリー性の唯一の基盤は、もはやありません。
それどころか。縁寿がそれをできたということは、初期の戦人だって、それに気づけば、それをやろうと思えば、いつだって赤字を無効にすることができたし、ミステリー性を崩壊させることができたということです。 つまり、この物語のミステリー性を保証していた基盤は、まったくもってグラグラした、実は最初っから不確かなものだったのです。
そして、「うみねこ」は、自らのミステリー性を拒むことで、「アンチミステリー」になることができました。
うみねこがアンチミステリーであるのは、真相解明が書かれなかったからではありません。「うみねこをミステリーたらしめていたもの」を、うみねこという物語自身が、自分で否定してしまったからです。
……という言い方が、これでできるようになりました。ふー、長かったねー。
●この物語には4つの答えがある
わたしはちょっと、手が回らなくて、しっかりと検証していないんだけれども、シャノン=ベアトリーチェ犯人説って、赤字の内容を全部満たした上で成立しますか?
自分でみてないから、あんまり不用意なことは言えないけれども、多くの人がこの説を採用しているみたいなのだから、たぶん赤字を満たして成立するんだろうと思います。してくれないとややっこしいことになっちまう。誰かがきっちり検証してるはずだとは思うんですが。
まぁ、ここではひとまず「紗音犯人説は赤字の内容を満たしたうえで成立する」と勝手に仮定して話をすすめます。
「うみねこ」には、大きく分けて4つのフェイズがあるわけです。「このゲームはいったい何であるのか」という問いに対して、4通りの答え方が作中に提示されています。
「ファンタジー」「アンチファンタジー」 「ミステリー」 「アンチミステリー」
この4つの立場があって、4つそれぞれに別の解答があります。と、わたしは思ってます。
つまり、この物語には、ファンタジーの解答とアンチファンタジーの解答とミステリーの解答とアンチミステリーの解答があるんだってわたしは思っています。
「ファンタジーの解答」というのは、魔女犯人説です。つまり魔女ベアトリーチェという幻想的な人物が実在して、魔法を使い、島の人々を皆殺しにした……というのが、ファンタジーの真相です。これを真相としたって、いっこうにかまいません。かわいい煉獄ちゃんたちを実在させることができますしね。
「アンチファンタジーの解答」は、Ep4までの、初期戦人のアプローチです。すなわち人間犯人説です。誰かはわからないが普通の人間がやったんだ。そしてその誰かを指名する必要はないんだっていう答えです。べつにこれだってかまわないでしょう。
「ミステリーの解答」は、赤字の内容を全て満たした上で、特定の人物を犯人として指名することです。多くのユーザーがここにたどり着こうと思っている。そういうタイプの答え方です。ここにうまくあてはまるのはシャノン=ベアトリーチェ犯人説だろうって個人的には考えています。これが答えだというのは、わりと多くの人が納得するでしょう。
「アンチミステリーの解答」は、“うみねこをミステリーとして成立させてきたもの”(すなわち赤字)を拒んだ場合に到達できる答えのことです。赤字がなければすべての描写を幻想だと仮定することができますから、すべての登場人物を犯人として指名可能です。それどころか、登場していない人物を犯人として指名可能です。 ミステリーではひとり(か2人くらい)に絞り込めていた犯人像が、アンチミステリーでは無限に拡散してしまいました。(だから『うみねこがなく頃に』が『散る』なわけです) ミステリーのワクでは犯人にすることができなかった人物を、アンチミステリーの解答では、犯人にすることができるんだ。
ご存じの通り、わたしはここに「ジェシカ=ベアトリーチェ」という存在を滑り込ませようとしています。わたしの考えでは、ジェシカ=ベアトリーチェ犯人説は、アンチミステリー式でこのゲームを解こうとするときにだけ成立する解答です。 (べつに朱志香じゃなくても良いです)
どの流儀をえらぶかによって、当然、犯人像、真相像はおのずと変わってくるんだっていうことです。そして、4つのうちどれを選ぶかなんて、完全にユーザーにまかされています。
ポイントは、「誰を犯人だと考えるのか」という選択の前に、「どの流儀によってこのゲームを解こうと思うのか」という無意識の選択があるのだということです。
自分はどの流派を選んで解こうとしていただろうか、あの人はどの立場を選んで解こうとしているだろうか。そういう視点がないと、議論はかみあわないことが多いでしょう。要はそれを意識することです。
(続く)
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