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No62571 の記事


■62571 / )  Ep8を読む(補遺1)・探偵小説史の縮図としての『うみねこ』
□投稿者/ Townmemory -(2011/05/12(Thu) 01:49:18)
http://blog.goo.ne.jp/grandmasterkey/
    ●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
     Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上) no59667
     Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下) no59700
     Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上) no59771
     Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中) no59806
     Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下) no59987
     Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる no61043
     Ep8を読む(7)・黄金を背負ったコトバたち no61527
     Ep8を読む(8)・そして魔女は甦る(夢としての赤字) no61687
     Ep8を読む(9)・いま、アンチミステリーを語ろう no61746
     Ep8を読む(10)・右代宮戦人の「幸せのカケラ紡ぎ」 no61906
     Ep8を読む(11)・「悪の金蔵」とリフレインする運命 no61933


         ☆


     ちょっと、ミステリー史的なお話をしてみたいと思うのですが。

     最初に予防線を張っておきますが、どこぞで読んだり人から聞いたりした知識を、出典不明瞭のままぼんやりと語りますので、そんなかんじで話半分に受け取って下さい。事実関係など、間違いが含まれています(と断言しておこう)。
     例によって、Townmemoryが頭のなかにこねくりだした個人的な偽史だと思っていただけると良いかと思います。基本トンデモです。


    ●ファンタジーから発してアンチミステリーに至る

     Ep8では、山羊の怪物が攻めてきて、六軒島を襲います。
     怪獣があらわれて攻めてきたので、煉獄シスターズやシエスタが迎撃します。魔女の使い魔や天界の武官たちが怪獣をやっつける展開なわけで、これはファンタジー対ファンタジーです。

     そこで山羊の怪物は、「ファンタジーを一切認めない」というエンドレスナイン状態を発揮しました。この時点で、煉獄・シエスタのファンタジー攻撃は一切無効になりました。
     エンドレスナインといえばEp4までの「アンチファンタジー戦人」の必殺技です。ここはファンタジー対アンチファンタジーの局面といえます。

     この状態の山羊にダメージを与えられるのはミステリ探偵、ドラノールとウィルでした。つまりアンチファンタジー対ミステリーです。
     山羊は進化して、ドラノールたちでも苦戦するようになってきました。ミステリー対ミステリーです。

     そして場面は飛んで。
     ベルンカステルのミステリー攻撃に対して、まるで「エンドレスナイン」のように無効化をすることのできる縁寿がいました。
     ファンタジーを「エンドレスナイン」で無効化できるのがアンチファンタジーなら、ミステリーを「エンドレスナイン」で無効化できるものは?
     これを「アンチミステリー」と受け取ることにします。
     するとこのバトルはミステリー対アンチミステリーです。

    (山羊の場面とラストバトルの場面、両方とも「エンドレスナイン」という表現がちゃんとでてきます)

     ファンタジー対アンチファンタジー。
     アンチファンタジー対ミステリー。
     ミステリー対ミステリー。
     ミステリー対アンチミステリー。

     これはまるで、『うみねこのく頃に』全8話の縮図のような展開ですね。

     ファンタジーな犯行を主張するベアトリーチェを、どう否定するかという内容が、Ep1〜4で描かれました。ファンタジー対アンチファンタジー。

     Ep5以降、ベルンカステル、ドラノール、古戸ヱリカといった人物は、ミステリーを標榜し、ファンタジーを切って捨て、アンチファンタジーだってファンタジーとそう変わらないものだと言い捨てました。アンチファンタジー対ミステリー。

     戦人はファンタジーの魔法使いポジションに位置を変え、彼女たちと戦いました。ファンタジー対ミステリー。

     Ep7では、“ヴァン・ダイン”ウィルとベルンカステルの、「二十則VS赤字」というバトルが展開されました。ミステリー対ミステリー。

     そして物語は、Ep8ラストの、ベルンカステルVS縁寿のシーンに合流します。ミステリー対アンチミステリー。


     この流れそのものに注目したいというのが、今回のちょっとしたお話です。

     作者が意図していたかどうか知りませんが(してない気がする)、『うみねこのく頃に』って、日本における探偵小説(ミステリー)の歴史の縮図のように読めるんじゃないか? ということを、お話してみたいのです。

    (というわけで以降、雑な歴史観を開陳いたしますので、お覚悟くださいませ)


    ●はじめに怪奇(ファンタジー)ありき

     当然のことながら、西洋から輸入されてくるまで、日本に探偵小説というものはありませんでした。
     そういうものが翻訳紹介されるのは明治以降です。

     ですから、たとえば江戸時代なんかに、探偵小説みたいなものはなかった。
     では、何があったのか。
     というと、かわりに「怪奇」があったのです。

     歴史の授業で、洒落本とか、黄表紙とか、滑稽本といった読み物が流行った、みたいなことを習った記憶があるでしょう。
     江戸後期ごろ、そういった出版ジャンルの中に「読本(よみほん)」というものがありました。

     この読本というカテゴリーは、中国の白話小説などから影響をうけて(あるいはあからさまな翻案をして)、伝奇・怪奇な題材が多く書かれました。
     たとえば有名な『南総里見八犬伝』『雨月物語』などは、読本です。もちろん、これらは、幽霊、妖怪、鬼神といったものが重要なギミックとして登場する物語ですね。

     ひとつポイントとして押さえておきたいのは、読本というのは、きくところによると、比較的教養の高い人たちが読む、文化程度の高いものとみなされていたらしいのです。
     漢文が読めるような知識人たちが、中国の小説に影響を受けて書いているものなので、知識人寄りのものだったわけでしょうね。

    「教育を受けた、教養のある知識人たちが、怪奇小説を読む」
     という状況が、日本のプレ探偵小説の時代にはあった。

     そのことが、日本で探偵小説が受けいれられていくとき、重要な下地になっている。
     というのが、わたしの基本的な見方です。

     ここではあえて「怪奇」と呼んではいますが、これらの物語は、いわゆるホラーとはちょっとちがいます。東洋的美意識にいろどられた、ひじょうに美しいものです。

     恣意的ないいかえをすれば、これを「幻想」と呼ぶのに、わたしはそれほど抵抗をおぼえません。幻想……。


     プレ・ミステリーの時代に、ファンタジーがあった。


    ●怪奇に対するものとしての西洋的合理(アンチミステリー)

     江戸幕府はやがて、西洋に対して開国し、大政奉還になって、明治時代がやってきます。
     文明開化の時代がやってきました。
     これは西洋のすぐれた文物をいかに輸入して自分たちのものにするかというテーマに、日本のリソースのほぼ全部が費やされたような時代でした(ちょっと言い過ぎか)。

     それはもう文化全般にわたるのですが、その中でも、蒸気機関だの西洋医学・薬学といったことが非常に熱心に取り入れられていった。テクノロジーやサイエンスの分野で、日本人は西洋のやりかたを見て、それが断然優れていることにめちゃめちゃ驚いた。
    「これからはこういう時代じゃないか」という雰囲気が醸成されていきました。

     蒸気機関車だとかの工学や、医学薬学を取り入れていくということは、つまりそれは、西洋的科学的アプローチ、西洋合理主義を取り入れていくということです。
     ぶっちゃけ科学の時代がきました。

     そういう雰囲気のなかで、江戸的怪奇はなんとなく時代にマッチしない……という感覚があっただろうと推測します。
     科学的な目からみれば、幽霊や化身みたいなものはナンセンスになってしまいます。


     そんな時代背景に、西洋文学の一部として日本国内に入ってきて紹介されたのが探偵小説だったわけです。
     黒岩涙香という人がいて、西洋の小説をさかんに翻案するという活動をしました。これは翻訳ではなくて、登場人物名を日本人名にして、舞台も日本にして、読みやすくかみくだいてまるで日本の読み物みたいなかたちにしちゃうものでした。モンテクリスト伯に巌窟王というタイトルを当てたのは涙香です。
     これは、目新しく、しかも読みやすいために人気を博しました。「涙香もの」なんて呼ばれたりしました。
     この黒岩涙香さんが、探偵小説をいっぱい翻案して、国内に紹介しました。これが、日本人が探偵小説に触れたほぼ最初の体験じゃないかな。

     探偵小説というのは、奇っ怪な事件がおこり、それが合理的思考によって解決にみちびかれるという大枠をもっています。
     いわば、怪奇趣味と合理主義が融合したような小説形態なのです。

     このことは、
    「怪奇が支配していた場所に、合理主義が持ち込まれる」
     という、「江戸の闇→明治の文明開化」の流れと完全にひびきあいます。

     もうひとつポイントとしては、合理的な思考を楽しむためには、ある程度の教養がなければなりません。つまりあるていど知識人じゃないといけないでしょう。
     知識人が読むものだった怪奇の読本が、知的なものとしての探偵小説に置き換えられていく。
     中国小説の翻案としてはじまった読本の位置に、西洋小説の翻案としての探偵小説が置かれる。


     そうした「涙香もの」を熱心に読んでいた読者のひとりに、江戸川乱歩がいました。


     実質上、乱歩によって、国産探偵小説がはじまっていきます。
     大ヒットして、探偵小説の第一人者とみなされるようになった江戸川乱歩翁ですが、作品をよめばわかる通り、この人は、非常に怪奇趣味の作家です。(江戸時代マニアでもありました)
     事件に対して、合理的な解決がはかられるものの、その背後にはいわくいいがたい怪奇の影がそっとうずくまっている……。そういうものを好んで書いた、というより、違うものを書こうとしてもどうしてもそういうふうになってしまう作家でした。

     だからこそ人気作家になったのだともいえそうです。乱歩の小説では、怪奇に対して合理的解決がはかられますが、かといって、怪奇は合理に敗北しないのです。
     日本的東洋的怪奇と、西洋的科学的合理が、お互いの尻尾を追いかけあうような作品を乱歩は書いていた。
     それは、日本人が持っていた怪奇の素養の上に、科学的解決をはかる探偵小説が乗っかるという、
    「日本的なミステリーの受容のしかた」
     とぴったりマッチしました。だから売れたんだ、それだから日本人は、本格的なミステリーに入って行けたんだという分析はできそうなのです。

     以降、日本の国産探偵小説はしばらく、乱歩の持っている雰囲気を基調にして展開していきます。
     黒岩涙香、江戸川乱歩の作風と、彼らのメガヒットを念頭に置いた場合、日本の初期探偵小説は、

    「怪奇に対して合理をぶつけるもの」
    「怪奇と合理が互いに食いあうもの」

     というニュアンスを色濃く感じ取ることができます。
     海外の探偵小説には、わたしの印象では、「犯罪を法の光で照らす」というアングルを強く感じます。しかし日本の初期のそれは「怪奇に対して合理の光を当てる」だと思うのです。
    (だから、「怪人」という概念が生まれてくるわけです)

     これを「ファンタジーとアンチファンタジーの相克」という言い換えかたで理解することは、それほど無理がなさそうなのです。


    ●アンチミステリーは時代を巻き戻す

     わたしの記憶では、乱歩、クリスティ、ヴァンダインは、だいたい同期の作家です。

     日本国内で、乱歩ものがさかんに読まれていたそのころ、海外では長編の本格探偵小説が、スタイルとして完成してきた。乱歩の探偵小説は、読み比べてみると現代の探偵小説とぜんぜん違いますが、クリスティの作品は現代探偵小説とそんなに違いません。

     西洋探偵小説だって、ルーツをたどれば怪奇があるはずです。始祖であるポーは怪奇小説の名手でもありますし、ドイルの『バスカヴィル』なんてもろに怪奇趣味です。たしか吸血鬼をあつかったホームズ短編もあったんじゃないかな。

     が、海外では、そういう怪奇色というのはだんだんしりぞいていって、探偵小説はどんどんパズル的な方向に振られていった。

    「中国人とか出すんじゃねーよ」でおなじみの『ヴァン・ダインの二十則』(ここでの中国人はほぼ「怪奇」の喩えだ)。
     これが発表されたのは1928年で、日本ではこの年、乱歩が最大のヒット作である『陰獣』を発表しています。

     つまり乱歩が乱歩趣味全開だったころ、海外では「怪奇とかはいらない、合理だけにしろ」という極論をいいだす作家が出てきていて、その言い分はかなり広く受けいれられていたとおぼしい。

     すなわちこのころ、海外では、うみねこ的な意味での、
    「ミステリー」
     がほぼ成立していました。昭和初期です。
     それが日本にも入ってきます。

     時代もこのくらいになると、海外と日本のタイムラグはあまりありませんし、乱歩をはじめとする業界人は海外探偵小説の動向に敏感です。翻訳されないまでも、情報や作品は入ってきます。
     ルールが整備されたパズル的小説としての探偵小説、うみねこ的用語でいうところの「ミステリー」は、日本ではやはり海外から入ってきた。

     国産探偵小説が「本格もの」として成立したのがいつかというのは、わたしにはちょっとわからないのですが、戦後横溝正史では成立しているとみてよさそうに思います。
     戦後、海外の本格ミステリーが翻訳出版されるようになったりして(たぶん)、それでだんだん、わたしたちが「ミステリー」といってイメージするものが定着していった。

     すると、あまのじゃくな中井英夫さんという方がいて、
    「アンチ・ミステリーというものを書こう」
     と思いついてしまった。
     アンチミステリーというのは日本で生まれた用語です。1964年。

    (わたしの片寄ったアンチミステリー観については、こちら→「Ep8を読む(9)・いま、アンチミステリーを語ろう」)

     ミステリーというのは、謎という迷路に放り込まれた探偵が、華麗に脱出して、それが気持ちよいという小説です。
     じゃあ、迷路をぐるぐる回っていつまでも出られないようなミステリーを書いてやろう、みたいなことを思ったのかも知れません。

     アンチミステリーという言葉が生まれて広がったとき、『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』が「再発見」されて、アンチミステリーのワクにくくられます。

    『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』は、中井英夫に比べて、かなり古い作品です。前の二つは昭和初期、戦前だ。中井英夫『虚無への供物』は、戦後の高度経済成長がはじまったころの作品。

     というか、『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』は、乱歩がまだ第一線にいた時代。さすがに全盛期は過ぎていましたが、まだ、探偵小説といえばまず乱歩だった時代の小説です。乱歩の雰囲気にどっぷり漬かったところに現われた、乱歩の直接的な後輩の作品です。

     日本文学研究の分野では、江戸川乱歩と夢野久作は、「幻想文学」というくくりで一緒に扱われる場合が多いのです。これに黒死館が加わることもままあります。
     このアングルを開発したのは東大の小森陽一先生だったかのように記憶します。乱歩は国文学の分野では、探偵作家というより「ありもしないものを、美しく鮮やかに、ありありと描き出す作家」という枠組みで研究される場合が多いのです。その同じ枠組みのなかに、久作が(たまに小栗が)含まれています。
     たしかに、『ドグラ・マグラ』は、「乱歩的幻想」のニュアンスをありありと持っています。

     ありもしないもの……。幻想……。

     そして『虚無への供物』や『ドグラ・マグラ』は、ミステリーの迷宮から、最後まで外に出られないという作品。
     乱歩ベースの探偵小説というのは、怪奇(謎)をまず存在させ、それに対して合理的解決をはかるという基調をもっています。
     ところが、『虚無』や『ドグマグ』は、迷宮から出られない。合理的解決ができないという特徴がある。
     するとどうなるか。

     怪奇が怪奇であるままに存在し続ける。

     幻想が幻想のまま放置されつづける。


     アンチミステリーの中からは、ファンタジーを取り出すことが可能らしいのです。


    ●そしてファンタジーへ

     Ep8ラストのバトルで、ベルンカステルを撃退した縁寿のありかたを「アンチミステリー」とするならば。
    「アンチミステリー」になることで、縁寿が守りたかったものは、お兄ちゃんが生きているという「自分の中のファンタジー」です。

     ファンタジーはアンチファンタジーを生み、アンチファンタジーは進化を遂げてミステリーとなり、ミステリーは反駁としてのアンチファンタジーを生ずる。

     ファンタジーで始まり、アンチミステリーにたどり着いた物語は、そこから再びファンタジーへと回帰する。


     結論はすでに述べていますが、『うみねこ』を読んでいると、(わたしの考える)日本における探偵小説受容史をそのままなぞっているようだな、というのが、わたしの受ける印象なのです。


         *


     以下、余談ふたつ。

     江戸川乱歩の探偵小説は、多くの場合、合理的な解決が描かれますが、解決のあとで、
    「その合理的説明って、本当に正しいのか? 何か重大な間違いが含まれているような……」
     というほのめかしを書いて、読者を宙ぶらりんな気持ちにさせ、そこでぷつっと終わる、そういう作品が多い印象です。

     まぼろしに対して、合理で説明をつける。その後、合理に対してまぼろしが再び力を持ったところを描き、ふいっと筆を止める。
     そういう趣向を、乱歩はいっぱい書きました。

     そんな乱歩的土壌が日本にはあったので、
    「最終的には、巨大な謎というものが、どっしりと出現して、終わる」
     という体裁を持った、ファンタジーにすら回収されうるものとしての「アンチミステリー」がめばえたのだ。
     そういう議論はできそうな感じがします。


     もうひとつ余談。

     京極夏彦さんがデビューされたとき、『姑獲鳥の夏』の銀色の帯に、
    「ミステリ・ルネッサンス」
     というキャッチコピーがつけられていたのが、印象的でした。

     京極さんの小説は、探偵小説的な不思議現象を「妖怪が憑いている」という言い方で表わします。探偵が推理を進めていくと、妖怪が発見される物語です。

    「探偵小説の体裁を保ったまま、妖怪へと回帰していく」
     というベクトルをもった作品として読めます。

     上で論じたように、妖怪が登場するような怪奇の小説を、西洋合理主義の時代において、代替えするようなかたちで定着していったのが日本の探偵小説です。
     京極夏彦さんの小説は、探偵小説でありながら、探偵小説成立以前の世界へと回帰していく。

     それは、イタリア・ルネサンスの芸術家たちが、キリスト教に支配された芸術というものに倦んだとき、自分たちのルーツとしてギリシャというモチーフを発見したのと、ひじょうに相似形なのです。ですからこれを「ミステリ・ルネッサンス」というたとえで呼ぶのはたいへんふさわしく正しいのです。


     ついでにわたしの個人的な読みを言えば、『姑獲鳥の夏』は『ドグラ・マグラ』の強い影響下にある作品です。というか、下敷きにしている、オマージュ作品であるといってもいいと思います。
     道具立てが似ていることもそうですが、まさに「脳髄が脳髄を追いかけている」よね。
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