| 「まぼろしと本当の振幅(続・探偵視点は誤認ができる)」
ちょっとだけ、前回「探偵視点は誤認ができる」 no64047 の補遺的なことを書きます。
竜騎士07さんの……07th expansionの物語には、前作から一貫したモチーフみたいなものがあって、ひぐらしもうみねこも「まぼろしをめぐる物語」なのですね。
たとえば……
ひたひたと後ろをついてくる足音は、まぼろしにすぎなかったのか。本当にあったのか。 雛見沢にひそむという鬼は、まぼろしだったのか、本当にいたのか。 入江診療所にひそむ怪組織は、まぼろしなのか、本当にあったのか。 人に寄生する怪生物は、まぼろしなのか、本当にあるのか。
それらは、はっきりと「どっちか片方です」とは言えないようになっています。ある意味ではまぼろしであるし、ある意味では本当であるし。 そして例えば。
真里亜が会ったという魔女は、本当にいるのか、まぼろしにすぎないのか。 縁寿が語り合ったさくたろうは、本当にしゃべれるのか、まぼろしにすぎないのか。 小此木が「家族思い」だと語った絵羽の本質は、本当にそうだったのか、まぼろしにすぎないのか。 右代宮家は心ない金持ちだという世間の評価は、本当なのか、まぼろしにすぎないのか。
それもまた、どっちとも言えない。簡単に「こっち」とは決められない。ある意味では実体であるし、ある意味ではまぼろしである。
人はときとして、ありもしないまぼろしを、本当にあるものだと思いたいし、その逆に、実際に存在する辛い現実を、ありはしないまぼろしだと思いたい。 その「人の心の振幅」のはざまに、物語を編み出してゆくのが、竜騎士07さんの得意とするスタイルです。
そうした「本当かもしれないしまぼろしかもしれない」の物語は、最後Ep8でこんな所まで行き着きます。すなわち……。
真実を語るという赤い字は、本当に真実を語るのか、まぼろしにすぎないのか。
わたしたちがそれをどちらか片方に選ぶとき……。 これまで登場人物たちにつきつけられていた「それは本当だったのか、まぼろしだったのか」という「心の振幅」は、そのまま、わたしたちにとっての振幅として迫ってくる。
この物語は、まぼろし(幻想)に対して、それは本当にただのまぼろしなのか、何か本当のことが含まれているんじゃないのかと思う物語。または、本当だと信じていたものに対して、それはひょっとしてまぼろしだったのではないのかと思う物語です。 その振幅そのものが、ドラマなのであって、そのドラマはわたしたちの中に起こっているのです。
ですから、前回挙げた「探偵視点」というもの。たとえばこれも、一種のまぼろしといえます。
本来の意味をとれば、探偵の視点であっても誤認はできるはずです。しかし、「探偵の視点は誤認ができないはずだ」というまぼろしが生まれた。
「探偵視点は誤認ができない」というのは、本当にそうかもしれないし、そんなドグマはただのまぼろしかもしれない。
わたしが美しいと思うのは……。 あっちかもしれないし、こっちかもしれない、メーターの針が左右に振れるような、その振幅です。わたしはその揺れ幅が美しいと思うのです。 その振幅の幅があるなかで、ある人間が、どっちを選ぶのか。それが、人の心というものの価値だと思うのです。だから、多くの人が、「探偵視点に誤認はない」で決め打ちしていて、その反対の可能性を最初からないもののようにみなしているのが、とても、もやもやしていました。
まぼろしかもしれないもの。それをあえて「信じる」という方向に心の針を揺らすから、それがドラマなのであって、最初から確定でそっちしかないというのは、わたしにはとても物足りない。動かない針がそのまま止まっているのを見たいのではなく、正反対に振れることもできる針が、ある一方向に大きく振れて止まるところを見たい。そこに価値があるのです。それが価値です。
この「振幅」を意図的に、しかも執拗に作り続けるところが、竜騎士07さんという人の価値です。そのように私は思うわけです。
Ep5では、「探偵であっても見間違いをする」と人物に言わせる。 その直後のEp6では、「探偵は見間違いを起こさない」かのような記述を連ねる。 それは、トリックであると同時に、半ば意図的に「大きな振幅」を作っていると思うのです。その揺れ幅のどの位置に、あなたは身を置くのか。それが「読者のドラマ」であって、それを誘発しようとしている。
あるものごとが、幻であるか、ないか。
わたしは、「存在しないルールが、存在するかのように描かれ、読者を誤誘導している」という考えを、かなり強く抱いています。 存在しない悪魔が、存在するかのように描かれる。悪魔は本当にいたのか、まぼろしにすぎなかったのか。 それと同じことです。そのルールは、本当に存在するのか。まぼろしにすぎないのか。
悪魔が存在するかしないかは、登場人物たちにとっては命にかかわる一大事ですが、わたしたち読者にはあまり関係ありません。だから、わたしたちの気持ちはそんなに振幅しません。
しかし、あるルールが存在するかしないかは、わたしたちには一大事です。なぜなら、わたしたちが思考していい範囲をそのルールがワクでくくってしまうからです。これこそが、悪魔よりもわたしたちをおびやかす問題です。
そのルールが、本当にあるのか、まぼろしにすぎないのか。
それは、わたしたち読者の問題としてつきつけられている。それはメーターを左右に振幅させる「わたしたちのドラマ」の核であるはずです。 そのようなことを思って、
「真実を語る赤字というルールは、本当にあるのか、まぼろしにすぎないのか」 「ノックス十戒というルールは、本当にあるのか、まぼろしにすぎないのか」 「探偵権限というルールは、本当にあるのか、まぼろしにすぎないのか」
そういう問題設定をして……その結果、全部が「それはまぼろしだ」というほうにメーターを振っているわけです。他のたいていの人が、「本当にある」というほうに振っていますから(というか、たいていの人は、メーターを意識せず、固定針だと思っていると思いますから)、かなり大きな振幅なわけで、これはドラマチックですよ。 (ドラマチックだからという理由でそっちを選んでるわけでもないですが)
雛見沢の鬼は、本当にいたのか、まぼろしにすぎなかったのか。 六軒島の魔女は、本当にいたのか、まぼろしにすぎなかったのか。 わたしたちが「ある」と思いこんださまざまなものは、本当にあったのか、まぼろしにすぎなかったのか。
その振幅の行き着くところに、この物語は「飴玉が消える魔法は、本当にあるのか、まぼろしにすぎないのか」という選択肢を用意して、わたしたちに選ばせます。
これが、最初から1つしか扉がなくて、クリックを待つだけだったら、何のドラマもない。 対照的な2つがある中で、1つを選ぶから、あなたの心の中に発生したものはドラマなのです。
どうぞ皆様、ドラマを尊ばれますように。最初から1つしかなくて選ぶ必要がないという状態をお喜びになりませんように。
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よだん。
(よだんですから、それほど重要な話ではありません。上に書いたことがだいじなことだと思って下さい。おしなべて日本人は、最後に書かれていることがいちばんだいじなことだと思いこむくせがあります。議論などでも、最後に発言されたことがいちばん有力なことだと思うような傾向があるので、最後の発言者になろうとして延々と言い返しが起こって議論が終わらない、という現象が散見されます)
「ひぐらし」は、物語を支配する3つのルールを解析できるか、というのが読者の勝利条件でした。 3つのルールがわかれば、お話の中で実際に起こっていることが理解できる、という仕組みになっていました。
「うみねこ」は、その「ひぐらし」の次の作品です。 ひぐらしを読んで、解いた人が、うみねこを読むことになります。うみねこには、ひぐらしを読んだ人でもひっかかってくれるようなトリックがなければなりません。
作者インタビューに、こういう話がありました。
□竜:そうですね。そう考えると、むしろ「ひぐらし」をプレイしている人のほうが「うみねこ」をプレイするのは辛いかもしれません。予備情報がない人たちのほうが強いかもしれない(笑)。迂闊に「ひぐらし」をプレイしてしまっていると、斜な観方が身についちゃっているので、逆に「うみねこ」の罠にかかるかもしれません。 (【コラム・ネタ・お知らせetc】竜騎士07先生「うみねこのなく頃に」インタビュー - アキバblog) さて。「ひぐらし」を読んだ人は、「お話の中からルールを抽出しよう。そのルールに基づけば何が起こっているかわかるはずだ」というアプローチを確実に持っています。彼ら彼女らは「うみねこ」を読むときにもそれを使ってきます。そうやって前作を解いたわけですし、その成功体験がありますからね。 作者はそういうアプローチを持った大勢の読者をひっかけなければなりません。インタビューによれば、「ひぐらし」を読んでる人ほどひっかかるような罠になってるようです。
そんなのどうすればいいのか。
思いつきさえすれば、簡単なことです。
あるアプローチを共通して持っている集団をまとめてひっかけるには、そのアプローチを逆用すればよい。
ルールを抽出することでお話を読み解こう、というアプローチを持った集団をひっかけるのにいちばん良い手は、「実際には存在しないまぼろしのルールを、あると思いこませてやればよい」です。
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