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[9154] 真・恋姫†無双~周亜夫の風格~(オリ主もの
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:a9da8baa
Date: 2011/04/02 19:26
ギネマム茶と申します。 初投稿ですので何かと不都合があるかと思いますがご容赦ください。
ご意見・ご感想がありましたら心からお待ちしております。

最近読み始めた真・恋姫†無双のSSを読んでいたら、自分の中の創作意欲が沸々と湧き上がってきたので、勢い任せの投下。
独自解釈、設定等で原作無視な部分が出てくると思いますが……その他掲示板でも、多分笑って許してもらえるはず………。

※ジャンルと傾向について
オリジナル主人公、オリジナルサブキャラクター複数名・ゲーム原作を主軸(にしたいなぁ……)・ご都合主義・ほのぼの?・二人称、三人称視点・一部を除き極力カナ文字を使わない。
とりあえず主人公を萌えキャラ化させる←ここ超重要

作者は超遅筆なので、もし読んでくださる方がいらっしゃれば気長にお待ちください。



※ 2010.07.08
チラシ裏での投稿は二十一話までです。
二十二話から、『その他』に移動しますのでご了承ください

※ 2010.07.21
チラシ裏から『その他』に移動しました。


※ 2011.04.02
お詫び
ジャンルと傾向についての項目の中に『憑依』というものが含まれていましたが、誠に勝手ながら外すことにしました。
作中内において、憑依ものの活躍等が出ることは無いと作者が判断したためです。
それに伴い、憑依ものを期待されていた方々にはお手間かけさせてしまい本当に申し訳ありませんでした。



[9154] 一話・何故主人公の名前出すだけでこんなん(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:a9da8baa
Date: 2009/05/28 20:00
 頭上に燦々と太陽が輝く昼下がり。 青々と茂る草原の中、行商人もあまり利用しないのだろう、申し訳程度に踏み固められた黄土色の道を、馬に跨る男が一人。 白い頭巾を頭からスッポリと被り、それに合わせた褐衣にも似た衣服を纏うその姿は、僧侶を思わせる。
 
 だが、男の背に預けられた獲物が、それを否定する。 大人の男の身丈にも匹敵する大斧が、太陽に反射して茫洋とした光を放っていた。 一般人と呼ぶには些か無理があるが、仮に、第三者の目が在ったとしても誰も見咎める事はしないだろう。
 
 仕官先を探す武芸者。 男と同じような存在は、今の時勢には溢れるほど存在するのだ。 その一人一人に目を光らせる程、暇な人間は大陸全土を探しているかどうか……。 そして、草原の中を馬に跨り悠々と歩くこの男も多分に漏れず、己の力を存分に奮える仕官先を捜し求めている武芸者の一人だった。 そんな男の旅も河東の小さな村を飛び出してから早三年。 今でこそ落ち着きを払い各所を巡ってはいるが、初めの一年のうちは、田舎者丸出しで、とても知人に見せられたものではなかった。
 
 目の回る忙しさ、新しい発見の日々で、世界の広さに圧倒された。 洛陽の雅さに感嘆の溜息を洩らし、泰山の雄々しさに足を震わせ、延々と地平線の果てまで続く黄河の広大さに度肝を抜かれた。
 
 そして男は、今も新たな出会いと発見を求め旅路を進めていた。 片手で手綱を握りもう片方の手には、古びて変色を起こした紙が握られていた。 簡素なものだが、近隣の主要な都市や川が描かれていることから、それが地図である事は見て取れるのだが、歩を進める男の表情は厳しいものだった。 眉根を寄せ今にも唸り声を上げんばかりに低く喉を鳴らす様は、道に迷った者のソレである。
 
 実際に男は、困っていた。 後ろを振り返ると、起伏の少ない丘の一つ、二つと越え、自分の通ってきた―――地平線の先まで草原だった―――道程が移る、対して手元にある地図と照らし合わせると、どうも進んでいる距離に大きな齟齬があるようなのだ。
 
 昨日、世話になった村の村長の話では、昼間を少し過ぎた辺りになれば、山の麓の村に着くとの話であったのだが、馬上という視野の高くなった位置から行く先を眺めても村どころか、山の影さえ見えてこない始末。 村長に謀られたか、とも思ったが、彼がそんな事をしても何の意味もないし益もない。 ならば一体、何処をどう間違えたのか、と男は再び頭を捻り考えに耽ると。
 
「アンッ! アンッ!」
 
 突然の甲高い鳴き声に男は、ハタと視線を前の方に向ける。 見えるのは、見渡す限りの平原と愛馬の鬣だけだ。 だが馬はアンとは鳴かない、愛馬も自分ではない、とばかりに嘶いて否定する仕草を見せる。 そのどこか人間味溢れる仕草に男は苦笑を洩らしつつも、声の主を探して、愛馬よりも更に手前……、自分の胸元へと視線を落とす。
 
「アンッ!」
 
 声の主は、今度は自身の存在を示そうと、胸元でゴソゴソと動きをたてる。
 
「暫し待て」

「クゥーーン……。」
 
 男は、手にもった紙を懐へとしまう代わりにとばかりに声の主を摘みあげ、その全貌を外界へと晒しだす。
 
「昼寝はもう終わりか、的廬」

「アンッ!」
 
 男に摘まれ出てきたのは、額に白い斑点が特徴の黒い子犬だった。 毛の色と同じ黒い瞳が愛らしい的廬と呼ばれた子犬は、男の手によってそっと地面に下ろされると、まだ睡魔が残っているのか、一度大きな欠伸をし、眠気を断ち切るかのようにパタパタと全身を震わせ、身体に纏わり付く怠惰を振り払うと、勢いの余り背の高い草むらに頭から突っ込む程の有り余る元気を全身で表現するかのように、男と馬の回り始める。 ただ馬の方は、踏みつけては大変だと、苦労しいしい踏み分けながら、それでも足取りは悠然としたもので、その歩みには一分の隙もない。
 
「すまんな…、絶影」
 
 愛馬に声をかけると、何時もの事だ、とばかりに嘶き返答する。
 
「アンッ」
 
 先ほどまで惰眠を貪っていたとは思えないほど良く駆け回る的廬。 その様子を見守りながら男は、最近旅の仲間に加わった小さな相棒について思いを馳せる――――――。
 

 的廬と出会ったのは、羽ばたく鳥もいなければ青い草木も生えない冬の雪道での事だった。 寒さに身体を震わせ、かじかむ手に息を吐きかけながら手綱を握り締め、深い雪の森の中を踏み進んでいた時だった。 周囲の木々を窺い、頭上の小枝に実る小さく慎ましやかな冬芽を愛でていると、甲高い動物の鳴き声と野太い数人の男の声が、静寂に包まれた雪の森の中に響き渡った。
 
「………?」
 
 蹄を鳴らし歩を進める愛馬を止め、声のする方向へと振り向く男。 いまだ小さいながらも音の正体は明らかだった。 必死で深雪の森の中を掻き分け逃げる黒い小さな塊を、数人の男達が野卑な笑みを浮かべながら、こちら目掛けて一直線に駆けてくる。
 
「……山賊か…?」
 
 状況だけで判断するのならば、それは山に入ればよく見かけられるものだった。 山賊と思われる男達の手には弓が握られ、矢筒を背負っている。 そして不運な獲物となってしまった黒い子犬を追う様は、一見すれば狩りの一端ともみてとれる。
 
 だが、それは真っ当な狩りとは言えぬものだった。 男達は食う為ではなく、ただ安直に命を玩ぶ事を楽しんで笑っていたのだ。 追いに追い立て、無抵抗な者の命を舌なめずりをしながら狩り取らんとする様に、手綱を握り締める男の手に自然と力が篭る。
 
 そしてついに黒い子犬は、『生きたい』『死にたくない』という本能に従った逃走劇も、馬に跨った男の前で、足をもつらせ倒れ伏してし終演を迎える。 一体どれ程の距離を逃げてきたのだろうか、本当の毛色はもっと別の色だったのでは、と思わせる程その子犬は、泥にまみれ、血に濡れていた。 それでも子犬は弱々しくも立ち上がろうとし、一個の生命体としての本能に従い立ち上がろうとする。 それを男は下馬し、胸に優しく抱きかかえ子犬の行動を制した。
 
 子犬も突然、眼前に現れた存在に面を喰らったが一目見て確信した。 即ち目の前の者は敵ではない、とただそれだけは、確信した。 子犬は一端逃げるという衝動を押さえ込み、まるで全てを推し量るような純粋な瞳で、その救いの主をじっと見つめる。
 
「もう大丈夫だ。 安心しろ」
 
 長年の友に語りかけるような言葉、しかし子犬は人間の言葉は理解できない。 だがその眼差しの奥に秘められた瞳の意味だけは理解し、心から安堵した。 もう逃げる必要は無いのだと確信し、ようやく全身の力を抜き、男にその身を委ねたのだった―――――。
 

 不意に甲高く吼える的廬の鳴き声が、今まで追憶に浸っている男の注意を草原の先へと引き戻した。 元気に男と絶影の周りを駆け回っていた的廬は、いつの間にかずんずんと先を進んでいたらしく、小高くなった丘の先で小さな黒い塊となって鳴いていた。 その姿に男はほんの一瞬だけ、あの雪山で出会った見るも無残な的廬の姿を重ね、天真爛漫に野を駆けるほどに回復した今の的廬の姿に改めて安堵していた。
 
「絶影」
 
 男は、手綱を強く握り締めると同時に絶影の脇腹を軽く蹴ってやる。 絶影は男の意を汲み、豪快な後肢の一蹴りと共に青く茂る草原を疾駆する。 一度地を蹴れば、余人には影さえ追わせぬ速さで疾駆する様から名付けられた名の通り、まるで宙を舞うような跳躍と滑空、それが二蹴り続いただけで的廬の待つ丘の頂上に辿り着いてしまっていた。
 
 まさに名の通りの走りを見せた絶影の速度を緩やかに落としてやり、丘を超え的廬より少し先に行った所で足を止めてやる。 それに絶影は、もう終わりかと、不服をもらすように蹄を鳴らし嘶いた。
 
「アンッ! アンッ!」

「このお転婆め、先を急ぎすぎるなと何時も言っているだろ?」
 
「クゥーーン……。」
 
 絶影の背を降り地に立つと、駆け寄る的廬を抱き上げ、白い斑点模様になっている額をぐりぐりと指で押し付けてやる。 それに的廬は、申し訳なさそうに鳴くと、男の腕の中で大人しくなった。 まるで借りてきた猫のように大人しくなった的廬の背を撫でつつ、男は再び絶影の背中に跨ると馬上の高みから平原を一望する。 すると饅頭を思い切り地面に叩きつけたかのような起伏が幾層も重なり、その隙間を縫うようにして川が流れ、そこを渡るため、申し訳程度に丸太を束ねただけの橋と呼ぶにも微妙なモノが、寂しげにぽつんと河川の頭上で弧を描いていた。
 
「む……、これはもしや…。」
 
 言うが速いか男は、腰を後ろにずらし、抱きかかえた的廬が割り込めるだけの隙間を空け、そこに降ろすと、懐に仕舞っておいた地図を再び手に持ち開く。
 
「成る程、そういう事だったか……。通りで、村どころか山も見えないはずだ」
 
 わが意を得たと言わんばかりに、男は何度も頷き、地図に描かれた毛のように細い線と眼前に流れる小川を見比べた。
 
「村長が言っていたのは、"馬で駆けて"昼間を過ぎたあたり、という意味だったか」
 
 早朝、旅の世話になった村を出るにあたり、村長からの言で得た情報に沿い男は、村を発った。 しかし、ここで男と村長との間で大きな食い違いがあったのに気が付かなかったのが不運の始まり。 男は、人が歩く速度で、昼頃を少し過ぎたぐらいに次の村に着くとばかりに思っていた。 だが、実際には朝早くから馬の足を使ってやっと昼を過ぎる頃、という途方もない距離の開きがあったのだ。 村長は、馬持ちの身軽な旅の武芸者なのだから、と気を使ってくれてのことだったのだろうが、生憎と男の方は、急ぐ旅路でもなかったので、ゆっくりと気ままな道中を楽しむ心算でいたのだが、何という食い違いか、これには男も笑うしかなかった。
 
 ひとくさり笑った後に男は、小川まで足を進めて、そこでしばしの休憩を取る事にした。 今から慌てて山の麓の村まで駆けたとしても、村人達は田畑で日々の作業をこなしている事だろう。 そんな忙しい時分に村の者ではない部外者がのこのこやって来たとしたら当然良い顔はされない。 ならば、此方の印象を悪くしない為にも大人しく頃合を見計らって行動するのが上策というものだ。 これは男が旅に出て三年の月日の中から学んだ事の一つでもあった。
 
 男が手綱を引くかどうかの刹那の加減を絶影は汲み取り、蹄を止めた。 乗り手の意を肌で感じ取る絶影の鬣を撫で付け労わると、鞍とその後ろに括り付けてあった荷物を降ろしてやり、重荷から開放してやる。 絶影は二、三度、前肢で大地を踏み鳴らした後、小川に向かいばじゃばじゃと水を飲み始めた。 男も愛馬に習い、荷の中から水の入った皮袋を探しだし口に含み、喉の渇きを癒す。
 
 小腹を満たそうと羊の干し肉を数切れほど取り出し、いざ食べようかと思うと、干し肉の臭いに誘われてか、的廬が男の前に座って千切れんばかりに尻尾を振るい、つぶらな瞳に何かを乗せ男に訴えかけてきた。 男は、的廬の食欲旺盛ぶりに苦笑を洩らしながらも、持っていた干し肉を一度自分の口に入れ何回か咀嚼した後、手に吐き出し的廬の前に差し出す。 すると的廬の方も待っていた、とばかりに幾分か柔らかく砕けた肉に飛びついた。 その様子に男は、また苦笑を洩らすのだった。
 
 的廬のこの奇癖は今に始まった事ではなく、それが確実に毒など入っていないであろう木に実った熟れた果実であっても同じで、男が一度口にしたものでなければ、どんなものであっても的廬は食べようとはしなかった。
 
 それは的廬を助け出して間もない時、的廬が普通の肉でさえ満足に食べれない様子に男が見かねて起こした行動に起因した。 それからというもの男が何度もこの奇癖を直そうと苦心するのだが、的廬の方はその癖を直す気がないようで、男は最早諦めの境地に達し、今に至っていた。 男は、これで何度目になるから分からない苦笑を洩らしながらも、自分の分の干し肉を噛み砕き込みつつ、的廬にも淡々と餌を与えてやった。
 
 干し肉を食べ終え、暇を持て余しつつ深々と流れる小川の音色に聴き入っていれば、腹が適度に満たされたのか、的廬は大きなあくびを出すとその場に丸くなり寝息を立て始めた。 男にも心地よい睡魔が襲いかかってくるが、小川の水でこれに抗う。 今の状態では聖水さながらの効果を発揮を持つ冷えた水には、睡魔も太刀打ちできなかったようで、渋々と退散していった。
 
 男はこれを頃合にして、また旅路を進める準備に取り掛かる。 このまま昼寝と洒落込むのも魅力的な誘いだが、生憎そんな事をすれば野宿になるのは確実だ、できればそんな事は御免被りたい。 男は、早々に荷を纏め上げると再び絶影の背に、寝扱けた的廬と共に跨り、平原の先を見据え歩を進める。
 
 地図から照らし合わせた現在地と今の速度とを鑑みれば、自分の描いた頃合で村にたどり着く事ができる事だろう。 男は空を仰ぎ、頭上に懸かる羊雲を眺めながら、まだ見ぬ未知との出会いと発見に思いを馳せ、身体の芯から沸きあがる興奮を抑えきれず、はしゃぎ回る子供のように顔を歪ませ、手綱に篭る力を抑えつつも、悠々と平原を闊歩する。
 
 それから暫くは、ただひたすら草原が広がるばかりで面白味に欠ける景色が続いていたが、太陽が傾きを見せ空が茜色に染まり始めた頃になると、辺りの風景もがらりと様変わりを果たしていた。 急な上りが多くなった地面に目を向ければ、昼間まで青々と茂っていた草花は影を潜め、岩肌や枯れた潅木が目立つようになってきた。 黄土色の土を踏みしめる絶影の蹄の音は相変わらず力強く頼もしいものではあったが、乗り手である男は、憔悴の色が濃くなってきていた。 昼間の小川での小休止以来、絶影に跨りっぱなしなので腰に少なくない負荷がかかってきていたのだ。 的廬も小川からの再出発の当初こそ元気に駆け回り、聞こえてきた鳴き声も、今は聞こえない。 なら何をしているのかといえば、男の懐に潜り込み今日で何度目かになる昼寝を満喫していた。 そんな相棒の行動にも男は慣れたもので、極力身体を揺らさぬよう注意を払いつつ、山陰が見えないかと前方に視線を凝らすのだった。
 
「お、あれは……。」
 
 焼けるような朱色に染まった大地に広大な影を落とす山々を見て、男は安堵の息を人知れず吐いた。 お世辞にも豊かとは言えない田畑は既に夕闇の中に沈み、農夫達の姿は見えないが、この田畑の存在は間違いなくこの近辺に村があることを示していた。 空には既に下弦に慎ましく光る月、時は陰と陽が交わる両義の刻、夕闇に沈む畑の間を進みながら土を踏み固めただけの道を、男は早足気味に絶影を走らせ、先を急がせる。
 
 そこから程なくして、貧相ではあるが村の防壁たる木の柵が見えてくる。 その先には村特有の密集せず散会と配置された屋根の低い家々が顔を覗かせていた。 夜の色も濃くなってきた為か子供の姿は無く、外を出歩く人の数も少ない。 そんな数少ない村の者達も、日の暮れた時刻に訪れた武芸者の侵入を止めるでもなく、遠慮の無い視線を向けるだけだった。 ただ豚や鶏等の放し飼いになっている家畜は、突如来訪した絶影と男に驚き、蜘蛛の子を散らすかのように慌てて道をあけ、その様子を絶影は情けない、と嘆くように嘶いた。
 
 男もそんな家畜たちの様子を目で追うだけで、大した関心を向けようとはしなかった。 今、一番最初にやらなければならない事は別にある。 それは腰を落ち着かせる事のできる宿を確保する事。 平静を装ってはいるものの男の腰もいい加減、限界に近かった。
 
「もし、少しだけよろしいか?」
 
 男は普段は使わない恭しい口調で、此方を無遠慮な視線で眺めていた村人の一人に話しかけた。
 
「な、なんだよ…?」

「突然申し訳ない。 自分は見ての通り、旅の者なのだが、数日この村で厄介になりたい」

「はぁ……。」
 
 仰々しい言葉遣いに利きなれていないのだろう、気の無い生返事が返ってくるが、男は構わず話しの先を進める。
 
「それに辺り、まずは村長に挨拶がしたい。 村長の家を教えていただけないだろうか?」
 
 その言葉に村人は、また気の無い返事を返し、あっちだ、と指先で方向を示してくれたので、男も礼を言いつつ絶影の足を再び進ませる。 その後ろでひそひそと、あまり良い話しではない声が耳に入ったが、男は別段気にした風でもない。 旅を続けていれば嫌でも慣れる類のものであるし、村の人間からすれば、男は異邦人なのだから仕方の無い事ともいえた。
 
 そんな村の長たる人の家は、他の家屋と比べれば立派なもので、小さいながらも庭付きの堂々とした佇まいであった。 男は絶影の背から降り、扉の前に立つ。
 
「ごめんください」
 
 外は既に闇夜に染まった時刻だ。 周りの家に迷惑がかからない程度に声を張り、中の応対をしばし待っていると、しばしの間があってから扉が開かれ、村人よりも良い衣服を身に纏った若い女性が現れた。 男は村長の親類なのだろうと中りを付け話を紡いだ。
 
「夜分遅くに申し訳ない。 自分は旅の者なのですが、この村で数日の間ご厄介になりたく思いお許しいただきたいのですが……、村長はご在宅でしょうか?」

「あら、それはそれは……。 ご丁寧にどうもありがとうございます」

「宿などありましたらご紹介願えないでしょうか?」
 
 女性は慎ましい愛想笑いに口元を綻ばせながら、上質な鈴を転がしたような清涼感ある声で朗らかに笑った後、突然「中にどうぞ」などと言うので、男は一呼吸の間だけ呆気に取られつつも女性の後に素直に従い付いて行った。 入り口から真っ直ぐに伸びた廊下を歩き応接間らしい部屋へと案内され、腰を下ろす。
 
「さて、宿をお探しとの事ですが、生憎とこの村には……。」

「そう…、ですか……。」
 
 男と差し向かいに座る女性は心底残念そうに呟いた。 その言葉に男も残念そうに喉を唸らせ、今後の行動を思案する為に頭を割いているからか、話題もなく微妙な空白ができる。 それが気まずい沈黙にならないようどう話の種を見つけようかと思うと、意外な事に女性の方から、意外な話を振ってきた。
 
「ですので、この家に泊まっていかれてはどうですか?」

「は……?」

「ですから、ここに泊まれば問題は解決しますよね?」
 
「……、よろしいのですか?」
 
「はい、問題ありません。 『村長』が良いと言っているのですから」
 
 女性の言葉に男は一瞬だが、呆気に取られ言葉を失ってしまう。 その様子を悪戯が成功した子供のように口元を隠して笑う女性に、男はなんとか言葉に詰まりつつも一言だけ洩らす事ができた。
 
「村…長……?」

「村長です」
 
 男と差し向かいに座る女性の言葉は俄かに信じ難いものである。 つい先程出会ったばかりの見ず知らずの男を、行き成り家に泊めるなどとは、一体どう言うつもりなのだろうか。 警戒心の欠片も見せないどう見ても二十台後半に届くかどうか、といったうら若い女性を見つめ、蝶よ花よと後生大事に育てられた世間慣れしていない貴婦人の戯言なのか、と男は心の中でごちる。 仮にこの女性が村長だとすれば、この村には余程の人手不足なのか――――。
 
「……………。」
 
 口元を隠して愛想笑いを浮かべる女性をもう一度だけ見て、否と心の中で首を振る。 一つの村を率いる長たる者に必要なのは容姿等では断じて無い、必要であるのは人を統べる事のできるだけの能力、この一点に尽きる。 ソレを踏まえた上で、眼前に座る女性をよく観察すれば、口元の笑みによって巧みに隠れている瞳の奥に潜む冷やかな値踏みする眼差しが、此方を人知れず射抜いている。 初見では易々とは見破る事のできない余所行き用の仮面の被り方は、確かに手馴れているものだ。 今まで出会った村の長たちとは違う容姿や風格からは想像も付かない尋常ならざるものに、男は背筋に薄ら寒いものを感じながらも努めて平静を装いつつ、黙していると。
 
「ふむ……。 気が付いたか、よい観察眼じゃ」
 
 男の心中を見透かしたのか、不意に口を開いた女性の口調は今までのものとは全く異なるもので、口元に浮かんでいた愛想の良い笑みはいつの間にか消えうせ、変わりに、猫が喉を鳴らすかのような含みのある笑いを喉から漏らしていた。
 
「女と侮るでもなく、色目を使うでもなく……。 少しでも不埒な素振りでも見せようものなら村から叩き出してやれたのだが……。 いや、若いのに中々のものよ。」
 
 さも愉快であるとばかりに、にんまりと底意地の悪い笑みを浮かべる女性を真正面から見据え、男は心の中にすとんと、何かが落ちるのを感じた。 最早疑いの余地無く、この女性こそが村長であり、これがこの村の長たるものの実力の一端なのかと。
 
「いや、自分などまだまだ……。 それにしても村長も人が悪い、なぜこの様な事を?」
 
 この様な、とは玄関先から、村長が自ら仮面を脱ぎ捨てるまでの遣り取りの事だが、村長もその事を素早く察し、ふむ、と感慨深げに息をつく。 いよいよ建前の笑みではなく、本来の姿を剥き出しにした村長との対話が始まる。
 
「近頃物を弁えぬ無頼漢どもが多くての、そなたもその類の者とも限らなんだからのぉ、悪いが少々試させてもろうた」

「それで、自分はどうでしたかな?」

「ちと辛いが及第点、といったところじゃな」

「それは、手厳しい」
 
 肩を竦め苦笑いする男に村長は、口元を歪め喉を鳴らすように上機嫌に笑う。 だが、失笑を仄めかす冷やかな眼差しを向けられる。
 
「対応は悪くはない、だがな名も明かさぬ者には出来すぎの採点よ」

「………あっ!」
 
 男はしまった、とばかりに顔を手で覆う。 名前の交換とは互いの信用を得る為の第一歩とも言える重要な物だ。 だが、それを旅の疲れから忘れてしまっていたとは愚の骨頂としか言いようが無い。 名も明かさず、相手の好意に甘えようなどとは虫の良すぎる話ではなく、それ以上に相手の不信感を煽るばかりで益になる事などなにもないのだ。 普通なら門前払い喰らってもおかしくない所を、村長はその事に目を瞑って見逃すばかりでなく、対話の機会まで与えてくれた事に、男は眼前に座る女性の度量の大きさに感服する他になかった。
 
「申し訳ない、村長」

「よい、よい。 今からでも遅くは無い」
 
 そういって笑み崩れた顔で溜息を吐く村長は、まるで粗相を必死で隠す幼い息子の姿を見てしまった母親に似ていた。

「では、改めて…。 性は徐、名は晃。 字は公明。 河東郡楊県からやって参りました旅の者です」

「徐晃殿か……。 ワシは、姜冏。 この村の長を任されておる。 何も無い所じゃが、ゆるりと旅の疲れを癒されよ」

「ありがとうございます」

「なに、礼には及ばぬ、光ある若者の世話ができるだけで充分な報酬は貰っておるよ」
 
「そんな、自分などまだまだ未熟者で……。」

「謙遜されるな、その身から溢れる風格は隠しても隠しきれるものではないぞ?」
 
 そこまで言うと二人は同時に噴出して笑いあった。 先ほどの遣り取りで万事申し合わせていた両者にしてみれば、失笑ものの茶番でしかなが、形式と礼節を重んじるのであれば決して無駄な行いともいえないところであった。

「では徐晃殿、客室に案内する。 付いて来られよ」
 
 余程可笑しかったのだろう、目尻に溜まった涙を拭いながら姜冏は、応接間よりさらに奥にある客間にまで男―――徐晃を通した。 その部屋は普段使用されていないのだろう、置物の類は無く少し埃っぽさがあったが、窓を開け空気を入れ替えてやれば問題なく、いつでも使用できるように整えられた寝床があるだけで徐晃にとっては充分すぎるものといえた。

「村に居る間は、ここを使うといい」

 これで役目は終わった、とばかりにするりとその場を後にする姜冏の背に黙礼で感謝の意を示し、客室の扉を閉める。 その後は寝るには邪魔になる衣服を脱ぎ折りたたむと、倒れこむように布団へ身体を埋め、今日一日の疲れを吐き出すように大きな溜息を一つ漏らすと、徐晃は泥のように眠りにつくのだった。






あとがき

最後の方でグダグダになってしまった……。
いや、こうでもしないと自分の文才では切れなかったので……。すみません。




[9154] 二話・こいつはくせぇーッ! 戦闘しそうな臭いがプンp(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:a9da8baa
Date: 2010/03/21 18:28
 暖かな布団の中でまどろんでいると朝を告げる小鳥達の囀りが、徐晃の耳に入る。 次いで耳に聞こえてくるのは農夫たちの声。 彼らの朝は早く、太陽が山から顔のを合図に一日が始まるのだ。 徐晃もそれに習い身体を起こし、樫の木で出来た丈夫な木窓を開けると、朝一番の一陣の風が徐晃の頬を撫で、早朝の眩い光が窓から室内に差し込み、部屋全体を淡く優しい色合いへと変える。 太陽の光に目を細めつつ外に目をやれば、豚や鶏の世話をしている者や、農具を片手に畑仕事に向かう者達が朗らかな笑顔を浮かべ互いに挨拶している姿がみてとれた。 徐晃はその光景を慈しむように眺めた後、一度大きく伸びをすると踵を返し間借りしている客間からでる。 また新しい出会いと発見を求めた一日が始まったのだ。
 
 客間から廊下に出た徐晃は、一旦外に出て昨晩絶影を預けた厩まで足を運び、積荷の中から麻袋を一つだけ取り出すとまた姜冏の家に戻る。 その道すがらですれ違う農夫達に挨拶をするものの、返されるのは奇異の視線だけで、徐晃はこの村の人々からは異物として扱われていた。 徐晃も、それも仕方の無い事だと苦笑半分に、村人から寄せられる視線を甘んじて受け止めるのだった。
 
 そんな視線を受け流しつつ徐晃は、小さいながらも屋敷といって差し支えない広さを持つ姜冏の家に戻ると、都合良く姜冏と出会う事ができた。 家の奥の部屋から、たった今起きたと言わんばかりの着衣の乱れただらしのない格好であったが、凛烈な氷を思わせる瞳だけは崩れる事無く徐晃の存在を認め、見据えていた。
 
「朝が早いな徐晃殿。 散歩にでも出ていたか?」

「いや、厩へこれを取りに」

「ふむ…。 それは?」
 
 徐晃が、掲げた麻袋の中身が気になるのか、袋に視線を投げ寄越して小首を傾げる姜冏。 その仕草は外見よりも幼さが目立つ愛嬌に溢れるもので、昨晩の遣り取りを思い起こさなければ、姜冏が尋常ならざる怪人物であった事など、初めから無かった事なのでは、と思えてしまうほど堂に入ったものだった。
 
「塩ですよ」

「ほう! 塩、とな…。」

 内陸の奥地に行けば行くだけ塩の価値は黄金にも匹敵するものになる。 山の中からも岩塩等も取る事も可能だが、それも一部と限られ、内地に暮らす大半の村々では、とても高値で取引されるのが一般である。 山の麓で暮らす姜冏からしてみれば、麻袋に詰め込まれた塩は、差し詰め煌びやかな眩きを放つ砂金にも見えただろう。
 
「これを姜冏殿にと思いまして」

「その塩をワシに、か……。」
 
 胡乱げに目を細める姜冏は、さながら戦場の地形を吟味する指揮者のようにも見て取れた。 事実、このような高価な品をなんとなしに持ち出されれば、誰であっても何か裏があるのでは、と警戒するだろう。 だが、徐晃も姜冏の態度も織り込み済みなのか、朗らかな、害意を感じさせない笑顔で話の穂を紡いだ。
 
「他意はありません。 何日か世話になる礼だと思ってください」
 
「それだけで、このような高価な代物を?」

「うーむ、自分の生まれ育った村では、塩はそれほど高価、というものではなかったので姜冏殿がこの塩にどれだけの価値を見出しているのか判りかねるのですが……。」
 
 その言葉に偽りはないのだろう。 徐晃の瞳は、真っ直ぐ姜冏を見据えていた。 姜冏もここまでの話の流れで嘘を感じられなかったので、徐晃に話の続きを促す。
 
「正直なところ、今の自分ではそれを持て余していまして…、ならばその塩の価値と有効な活用方を知る人物に渡した方がよっぽどその塩も喜ぶのでは、と思ったしだいです」

 カッ! 馬鹿を言え、そんな見え透いた嘘を――――と本来なら侮蔑も露わに、屋敷と言わず村から叩き出してやるところなのだが、姜冏は徐晃にも分かるよう大げさに溜息をついた。 小さいながらも権謀術策渦巻く交渉の遣り取りを経験する姜冏からすれば、徐晃のあまりにも真っ直ぐな眼差しと悪意の無い会話は、肩肘を張っているのが馬鹿らしく思えてくるのだ。 だからといって少しは自分の土俵に合わせて会話をしろ、などというのも、それはそれで馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
 
「あい分かった。 徐晃殿の気持ちは確かに受け取った」
 
 姜冏の大きな溜息から、何か応対を間違えたのかと眉根を下げ困り顔だった徐晃の顔が、ほっと安堵のものに変わった。 その一連の表情の変化から、徐晃の内心が手に取るように把握した姜冏も苦笑まじりにかぶりを振るしかなかった。 そんな姜冏の動きに徐晃はさも困窮した風に唸りながら、長年、武を突き進み練磨の代償として厳つくなった拳でぐりぐりと自身のこめかみを押し付けた。
 
「そんな顔をするな徐晃殿。 昨晩も言ったであろう? 対応は悪くない、とな」

 憮然とする徐晃に、姜冏は子供じみて見えるほど悪戯っぽい仕草で微笑すると、踵を返し徐晃について来いと顎で促した。
 
「朝食はまだとっておらぬのだろう? あのような高価な品を頂戴した後では、粗末なものしか用意しておらぬので心苦しいが、許されよ」

「いえ、お気遣い感謝します」
 
 徐晃は、短くもはっきりと姜冏に感謝の意を述べ、姜冏の背を追うのだった。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 朝食は、山の村という事もあり食卓には山菜を中心に何品かの撮み物がある程度の清貧としたものであったが、その土地の特色を前面に押し出した飾らない味というのが、徐晃にしてみれば堪らなく好きなものだった。 
 
 終始にこやかな笑みを浮かべたまま、食卓に並べられた料理を端から順を追って堪能した徐晃は、食後の腹ごなしにと、屋敷の裏手にある奥まった場所でやってきていた。 手には使い古された鉞が一つ握られ、徐晃が見据える先には薪が一つ。
 
「………フッ!」
 
 振り上げた鉞が一直線に薪の中心を捕らえ、寸分の狂い無く真っ二つに薪が断ち割れた。 それを拾い上げ脇の方へ退け、寸断されていない新しい薪をまた断ち割ってゆく、その作業を何度も繰り返していけば、初めはこんもりと積み上げられた程度のものが、今では徐晃の目の高さまでうず高く積み上げられ、小山もかくやというに至るまでの成長を遂げていた。
 
 普段から大人の男の背丈と同等の大斧を背負い、時として手足のように振り回す徐晃にしてみれば、鉞の重さと長さ程度の得物であれば、小枝を振り回すよりも扱いが容易い。 しかし、ただ振り回すだけなら容易であっても、薪の中心を捕らえ二つに割るとなれば話は別だ。 下手な力や断ち割る部分にずれが起これば、薪はたちどころにその猛威を振るってくる。 振り下ろす際の軸のずれで、欠けた木片が飛んでくるという事などもあり、徐晃も一番初めに叩き割った薪にその痛い洗礼を貰ったのだ。

 一見単純な作業にも思える巻き割りでも、以外に極めるには奥が深く、そして重労働でもあった。 これを鍛錬としてみるのなら大斧を振っていた方が効率は良いだろうが、初心に戻り目標の中心線を正確に捉える鍛錬と思うならこれはこれで良い訓練になる。
 
 しかし、と徐晃は薪を割る手を一旦止め、鉞を肩に預けると思案顔で、早朝農夫達が向かったであろう田畑の方角へと目を向ける。 彼らは朝な夕なと畑仕事に追われ、必要と在れば傘や籠作りといった内職までこなす。 さらには、普段の食事の為、冬には暖を取る為に、畑仕事が終わった後に今徐晃が行っている薪割りという重労働までこなさなければならない。 それがどれだけの大変な事なのかと、想像するだけで頭が下がる。

 旅の武芸者である徐晃からすれば薪割りであっても田畑を耕すにしても鍛錬の一部と思えば嬉々として行う事もできる。 だが、日々の生活に追われる村人達は一体どのような気持ちで、田畑を耕しているのだろうか……。 そこまで思いに耽っていた徐晃は、かぶりを振って苦笑する。 そのような事を考えても詮無い事である、と。
 
 ただ日々の娯楽の薄い村人達に少しの笑顔と活力を与えるとこが出来れば、と思う心は悪い事ではないはずだ。 何かを思いついたのか、徐晃の口元に微笑が漏れていた。
 
「ほう……、これはまた随分な張り切りようじゃな」

 不意にかけられた言葉に振り向くと姜冏が、山の如く積み上げられた薪を見上げながら苦笑を漏らしていた。

「姜冏殿か、どうかしましたか?」
 
「昼時を過ぎても戻らんヌシを呼びに来たのよ」

「なんと、もうそんなに時間が…。」
 
 空を見上げれば、燦々と大地を照らす太陽が小高い山々よりも更に高い位置にあり、大地を縫う影が縮んでいる事が見て取れた。 そういえば、と徐晃は自分の空腹具合を確かめるように腹を擦ってみれば、腹の虫は正直なようで飯を食わせろと盛大に鳴きだした。
 
「はは、徐晃殿は随分と豪快な虫を腹の中に飼っているのだな」

「堪え性の無い虫どもですよ。 いやはや、お恥ずかしい」

「なに、食欲であれ正直である事は一つの美徳よ。 どれ、その虫たちの為にも馳走を用意せんといかんな」

 笑み崩れた顔を隠す事もせず姜冏は、からからと上機嫌に笑う。 ただその笑みも徐晃をからかう愉悦によるものであった。 徐晃もそれを判っているのか、降参とばかりに首を振って苦笑する。 つい昨日に出会ったばかりの二人だというのに、晩年まで連れ添った老夫婦のような相手の心中を察する遣り取りは、姜冏にしても徐晃にしても、どこか心安らぐものを感じていた。
 
 では行こう、という姜冏の声と共に、漫然とそぞろ歩く。 姜冏の後ろを付き従う徐晃は、薪を断ち割っていた際に思案していた事を思いだしていた。 これといって別段大したことではないのだが、姜冏の一声があれば今後の展開がかなり遣り易くなる事は想像に難くない。 では、どうやって姜冏にその話を切り出してみようか、と思案顔でいると、ふと足を止めた姜冏が、徐晃の方を向き口元を歪めにやりと笑ってみせるのだった。 まるで徐晃の考えている事など全て見透かしていると言わんばかりの老獪な笑みに、徐晃の顔は見てはいないはずなのに、頭の後ろにも目が付いているのではと思ってしまう。
 
「何か言いたい事があるようだが?」

「いや、大した事ではないのですが――――――。」
 
 徐晃はそう前置きしてから、姜冏に先ほどまで自分が考えていた事を話してみる事にした。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「いやぁー兄ちゃん! 良い飲みっぷりだねぇ」
 
 やんやの喝采を受ける徐晃の手には無骨な大きな木の器が一つ。 その器に並々と注がれた酒を、豪胆な呷りで一気に飲み干し、村の若い衆から注がれた酒を再び煽る。 途絶える事のない相伴を受けつつ徐晃は、村の老人達で纏まっている一角に目をやる。 髪も白く染まり、歳を重ねるごとに年輪のように深く刻み込まれた皺だらけの老人達の中にある姜冏の姿を見つけ出す事は容易だった。 酒が入り何度も同じ話を繰り返す老人にも嫌な顔一つ見せることなく相槌を打つ姜冏だが、徐晃の視線に感付いたらしく、ふと目が合うと、口元だけを妖艶に歪ませ、よかったな、と誰に聞こえるでもなく呟くとまた老人達の話に耳を傾けるのだった。 姜冏の唇の動きから何を言っていたのか理解した徐晃は、その言葉の意味も正しく理解しつつ、感謝の気持ちを心中で告げながら、持っていた杯を高らかに上げ一気に煽った。
 
 徐晃の豪快な飲みっぷりに村の若い衆らの歓声の声が酒屋の中に響く中、徐晃は店内で飲みあっている他の村人達に目を向け人知れず顔をほころばせた。 皆が裏表を持たない屈託の無い笑みで笑いあっている様は、どこか心落ち着くものがある。 徐晃は、昼先での姜冏への頼み事は、間違いではなかったと改めて確信する。
 
 それは何のことは無い、ただの飲みへの誘いだった。 数日とはいえ、駐留する村の人から投げかけられる奇異の視線は、出来る事なら受けたくは無い。 ならばどうすれば解消されるのかと思い、話し合いの席を設ければいいのだという考えに至った。 だが、昨日今日で村に来た徐晃の誘いに乗るような村人は皆無だろう。 そこで徐晃は、この村の長である姜冏にこの話の橋渡しになってもらい今に至る。 姜冏と村人との間でどような遣り取りがあったのかは徐晃は知らないのだが、結果的にみれば、徐晃は村人達の輪に加わる事ができ、村人達も普段の鬱憤を晴らすかのように酒を飲む事ができ、まさに一石二鳥の一手といえた。
 
 ただ、その効果は徐晃が思っていた以上に覿面だったようで、徐晃の隣に座る男は、酔いが回っているせいか、いっそ間延びして聞こえるほどの暢気な声で徐晃の肩を痛いほど叩きながら酒を勧めてくるのだ。
 
「兄ちゃんの飲みっぷりは最高だねぇ。 ほれ、もっと飲みなよ、兄ちゃんの金だ飲まにゃ損ってもんさぁ」

「はは、ありがたく頂きますよ」

 もう一杯とばかりに並々と注がれた酒を、がぶりと一気に飲み干すと、男は無邪気な子供のようなはしゃぎ様でやんやの拍手喝采で徐晃の飲みっぷりを讃えた。
 
「しっかしよぅ、兄ちゃん。 どうして兄ちゃんは、態々こんな辺鄙な場所まで足、運んできたんだ?」

「ちょっと人を探していまして……。」

「人探しだぁ? そりゃ難儀な事だ」

「んなだ、人相と特徴教えてくれよ。 良けりゃオレらも手伝ってやるからさ」

「いや、人探しと言っても、何も知らんのですよ」
 
 はは、と妙に照れくさそうに笑いながら、徐晃はまず杯の中にある酒を一口含んでから答えた。
 
「実はこの辺りで、稀代の傑物がいると聞いてやって来たのですが、名前はおろか人相も判らない次第で……。」
 
 その答えには誰もが予想し得なかったものだった。 酒が入り頭の回転が鈍くなっている男達であっても驚きのあまりに目を点にする他無かったほどだ。
 
「おいおい、兄ちゃんよぅ。 それじゃあ、探しようも無えじゃねかよ」
 
 さしもの男達も呆れ顔でいるなか、徐晃は笑ってそれに応じる。

「腕っ節は男十人前。 口を開けば、文官は舌を引き抜き、泣いて逃げ出す程の才を持つ"女"であると、立ち寄った村で聞き及んだのですが……。」

「女…?」

「女、かぁ……。」

「もしかして心当たりが?」
 
「この辺りでそれだけの事言われる女と言えば、一人しかいねぇ、が……。」
 
 酒が程よく回っているのか男の挙動は身振り手振りの大きなもので、目も据わってきているようにも見える。木の器から飛び散る酒の飛沫さえ気にせず、徐晃も男の話を聞き逃すまいと、半身を乗り出し気味に聞き入るのだった。
 
「多分…、姜維の嬢ちゃんの事だろうよ」
 
「姜…維…。 姜と言えば村長の?」

「あぁ、娘さんだ。 兄ちゃんは今、村長の所で世話になってんだろ? ならあの人凄さは分かるだろ?」
 
 相槌を打ちながら、成る程、と徐晃は心中で呟く。 姜冏の若々しさから娘という言葉に驚きはあったが、もはや姜冏の怪人ぶりを目の当たりにしては、驚きも薄れてしまうというものだ。 今なら数百年生きていると言われても、疑うことなく頷いてしまうほどには姜冏の事を理解しているつもりでいた。
 
 徐晃は、不意に視線を感じ、そちらに視線を向けると、姜冏と目が合った。 その姜冏の顔は今まで徐晃に見せてきたどんな表情よりも異質な、強いて言うなら笑みに近い何か。 徐晃はそれを見なかった事にして、男の話に集中する事にした。
 
「つまり、虎の子は虎。 というわけですか……。」
 
「虎、かぁ…。 それだけじゃ足りねぇな。 ありゃ羽の生えた虎だ」
 
 だよなぁ、と相席する男達は感慨深く頷く。
 
「兄ちゃんの言う通り、嬢ちゃんは腕も立つし、頭も切れる。 だがそれだけじゃねぇ、何て言うのか……、そう! 華があるんだよ」
 
「華、ですか?」

「応ともさ。 嬢ちゃんはそこらへんの連中とは全く違う。 オレみたいな何の取柄も無い皮職人にだってはっきりと分かる風格みてぇのがあるんだよ。 村の皆もそう思ってる、嬢ちゃんはこんな辺鄙な村で燻っているようなたまじゃねぇ。 いずれ嬢ちゃんは三国にその名は轟かせる事やってのけるってな!」
 
 男の言葉に徐晃は、唸るように頷いた。 酒の入った男の言葉を全て鵜呑みにする事はできないが、過大評価と呼ぶには周りの村人達の反応を見る限りでは、あながちそうでも無さそうにも見て取れる。 そう考えれば、是が非でもあって見たい人物だ。 徐晃は、心中に沸きあがる興奮を抑えながら、男に詰め寄って話しの続きを欲した。
 
「それだけの御仁であるなら是非あってみたい。 姜維殿は今どこに?」

「あぁ~、それなんだがな……、兄ちゃん」

 さも言い難そうに男は、隣に座る男に視線を向けるのだが、その視線を受けた男は目線を逸らし答えようとはせず、結局徐晃の隣に座る男が話を続けた。
 
「嬢ちゃんは今、若い衆を数人連れて長安へ買い出しに行ってるんだ……。」

「長安へ、ですか…。」

「時期が悪かったな、兄ちゃん…。」
 
 余程落胆の色が顔に出ていたのだろうか、男達は急に真摯な態度で徐晃を励まそうとする。 そして何か言葉を探すように視線を宙に彷徨わせた後、男は眉根を下げたどこか弱気な顔で、話を進めた。
 
「けど、まぁ……。 嬢ちゃん達が村を出た日から考えれば、早ければ明日には村に着くかもしれねぇ、そう悲観するこたぁねぇ」

「そうだぞ、兄ちゃん。 もしかしたら、もう直ぐそこまで来てるかもしれねえ」
 
 そう言って徐晃を励ましてくれる男に同意するように、他の男衆も頷いた。
 
「まぁ。 嬢ちゃんたちの帰りを待つしかねぇなら酒を飲んで楽しく待ってようじゃねえか! なぁ兄ちゃん!」
 
 豪快な笑い声と共に徐晃の肩をこれでもか、と言うほど叩く男に徐晃も苦笑も半分に、おそらくこれがこの男の気遣い方なのだろうと、男のされるがままに身を任せていた。
 
「それじゃあ、飲むぜぇー!」
 
 男が掲げた杯を打ち鳴らす様に他の男達も杯を掲げ、徐晃もそれに習い杯を天井へと掲げた――――。
 
 だが次の瞬間、徐晃の表情が引き締まった。 杯を掲げたまま微動だにしない徐晃を不審に思い顔を覗きこんだ男が息を呑む。 先ほどまで妙に涼しくも朗らかな声色で話していた徐晃ではない。 今の徐晃の眼差しは切れの長い怜悧な刃物のようで、ことさらに冷淡な印象を受ける。

「お、おい兄ちゃん。 一体どうしたって――――。」

 徐晃の異変に気が付いて別の男が口を開くが、それを徐晃の厳つい手で口元を封じられ二の句が告げなくなり、男も突然の早業に目を白黒させるしかなく、徐晃の一挙手一投足を眺めているほかに無かった。
 
 男の口を電光石火の早業で封じた徐晃は、喧騒な賑わいを見せる店内に居ても、ある声だけを確実に聞き分けていた。 それはどんな大賑わい見せる街中であっても聞き違う事は無い相棒の―――的廬の―――声だ。 それが今、徐晃の下へ火急知らせを伝えていた。
 
「申し訳ない。 自分はここで席を外させてもらう」

「おい、兄ちゃ―――――」

 男の言葉を最後まで待たずに、徐晃は席を立ち上がるや、姜冏の下へと足を運ぶ。 剣呑な徐晃の雰囲気に周りの老人達は何事かと色めき立つが、姜冏だけは顔色一つ変えること無く徐晃を迎え入れた。 徐晃は、宴席の和を乱す無粋さ承知の上で無視を決め込み、時間が惜しいとばかりに、姜冏に聞こえる程度の小声で、開口一番に本題から切り出した。
 
「村の付近で賊が出没しました」

「ほう、賊…とな。 その根拠は?」
 
 賊、と聞いて、姜冏の眼光が冷やかな凄みを帯びた。 それを受ける徐晃もその程度の威圧では動じる矮小な器ではなく、厳かに先を続けた。
 
「的廬が……、相棒が、遠吠えを上げました」

「ん? 遠…吠え?」
 
 徐晃のあまりの突拍子も無い発言には、さしもの姜冏であっても一瞬の間、呆気に取られた。 徐晃との出会いは、昨日今日と短い時間でしかなかったが、それでも姜冏は、徐晃を信用に値する人物だと思い、村にいる合間だけでも不便が内容にと色々と便宜を図っていたのだ。 だが、それにしてもこの人を食ったような発言はどうだろうか。 いきなり賊が現れるといい、その根拠は犬にあると言う。 もはや正気を疑うか、酒で酔って出た世迷言のどちらかでしかない。
 
「えぇ、信じ難い事でしょうが、本当です」

「分かった。 信じよう」

「……、信じてくれるのですか?」

「その話、嘘ではないのだろう?」
 
 姜冏の言葉によほど驚いたのか、徐晃は大仰に眉を上げた。 正直に言えば、世迷言と一蹴されても仕方の無い事を口走っているのだから徐晃の反応も当然のものと言えよう。
 
「時間が惜しいのであろう? ならワシに何を頼む?」
 
 だが、姜冏ここに至って尚、徐晃を信じる事にした。 この事が後に英断となるのか愚挙となるのか、それは判らない。 しかし、姜冏と差し向かう徐晃の瞳は、信用するに値した。 それで尚、徐晃が姜冏の信を裏切る事が在るとすれば、その時は人の見る目が無かったのだと慨嘆するまでの事だった。
 
「出来るだけ穏便に、いや、村人達には気取られぬようにして頂きたい」

「無茶な事を言うのぉ」

「……、それが無理であるのなら、女、子供を優先に避難をお願いしたい」

「舐めるなよ徐晃殿。 無茶と言ったが無理とは言ってはおらぬ」

「はは、ではお願いします。 後、これも」
 
 そう言って懐から麻袋を一つ取り出すと、それを姜冏へ投げて寄越す。 受け取った姜冏は、麻袋が意外と重く落としかけるが、数度手の中でお手玉するだけに留まった。
 
「これは……金か」

「はい、ここでの支払いは自分持ち、そういう話でしたよね?」

「そうだったな。 では、この金は確かに預かった」

「お願いします」
 
 そう言うが速いか徐晃は踵を返し、雑多な賑わいを見せる店内の人々の合間をすり抜け、出口の方へと身を躍らせる。 目にも留まら勢い、とはまさにこの事を言うのだろうか、常人では到底及びも付かない動きで扉までたどり着き、開け放たれた扉は、そのあまりの勢いに悲鳴を上げた。 その様子にすわ何事か、と目をこれ以上ないほどに開け放つ村人達を尻目に徐晃は闇夜に沈む外へと飛び出して行った。
 
 暫くの間毒気を抜かれて呆然とする村人達の様子を事態を把握して眺めていた姜冏は、一人忍び笑いを漏らしていた。 思えば別段驚くほどの事では無かった。 小さい村であっても村長という役に納まっていれば、様々な人間と会合する事になる。 そこに稀であれ一般人の常軌を逸脱した存在が現れる事もあった。 徐晃も常人の枠に収まらない存在であったことに何の不思議も懐かない。

「徐晃殿、ヌシは虎の皮を被った狐か、それとも翼を隠した虎か。 はてさてどちらであろうな?」
 
 誰とも知れず薄く笑った姜冏であったが、自身の答えなど既に出ていた。 先ほど徐晃と一緒になって飲んでいた男の話で言葉ではないが、目の前で対峙した静かに炯々と光る眼光の鋭さだけで、姜冏は魂を抜かれた。 表情にこそ出さなかったが、自身より圧倒的に強大な存在で在る事を肌で感じ、後退りしないで踏ん張っているのがやっとの状態だった。 徐晃の磨き上げられた体躯から滲み出るその香りはまさに大輪を咲かせる華であり、武人の風格でもあった。

「まぁ、今はヌシの願いを聞き届ける事に専念しようぞ」
 
 ただ今は、色々と余計な事を考えても仕方の無い事だ。 姜冏は、苦笑交じりにかぶりを振りながらも、徐晃が勢いよく飛び出して言行った事でざわめく店内の村人達を、どうやって落ち着かせるかに頭を巡らせ始めるのだった。






あとがき

やっと二話が完成。 初めに超遅筆と言っておいて正解でした……。
この話のヒロイン(?)が次の話で登場できそうです。 長かった……。

またこのような話にも感想を下さった皆様には感謝の気持ちで一杯です。
その中で幾つか、文章が回りくどい、という意見を頂いたのでアッサリめな感じで仕上げようと思ったのですが、如何だったでしょうか?

あと、自分も皆様への返信をするさいはあとがきではなく、感想掲示板を用いた方がいいのでしょかね?

最後に……、的廬は黒の豆柴の子犬をイメージしています。 ですのでワンだと成犬くさいんでこのままアンでいこうかなぁ~と……。



[9154] 三話・ロリ巨乳は邪道? 逆に考え(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:a9da8baa
Date: 2009/06/25 20:49
 夜も更け、人通りも途絶えた寂しい村の広場を徐晃は駆け抜けた。 山の天候は気まぐれ、とはよく言ったもので、大気に満ちた湿気が頬に纏わり付き、雨の到来が近い事を告げている。 しかし、肌にぬたりと絡みつく不快感は、ただの湿気だけではない。 澱んだ泉のような緑の暗闇の奥から臭う饐えた水気は、間違いなく血と砂埃が入り混じる鉄火場、独特のものだ。 それを嗅ぎ分けた徐晃は、眉間に皺を寄せ、もはや嗅ぎなれてしまったその臭いを便りに駆ける速度を更に上げるのだった。
 
「アオオオオオオオォ……ン」
 
「的廬!」
 
 旋風と称して遜色ない速度で駆けてきた徐晃を見てなお、的廬は驚くでもなく、普段通りじゃれ付いて来る事もせず、遥か遠方に視線を向け唸り声を上げていた。 徐晃も的廬に習い視線を先へと向けてみれば、闇夜に混じって無数の光の点が陽炎のように揺らめき、その様はまるで夜行性の獣を彷彿とさせた。 それは紛れも無い、賊が間近まで迫ってきている証。
 
 夜風に吹かれ騒ぐ木々に混じり甲高い剣戟音が、夜のしじまを裂いて、徐晃の耳に入った。 どこか懐かしさすら抱く剣戟音を聞いた時の徐晃の表情は、村人達と宴を楽しんでいた時とは打って変わって静かな面持ちで、まだ見ぬ賊を冷厳に見据える瞳には、強烈な意志の力と決意の眼差しを孕んでいた。 もはや村人に見せた涼しげながらも朗らかに笑っていた徐晃とは別人のような威圧感が、長身の体躯から滲み出ていた。 それは一度でも大地を血に染めた者のが纏う威風であった。
 
「的廬、お前はここで待て」

「アンッ!」
 
 徐晃は一度的廬に目をやり、待ち受ける敵に向かって颯爽と駆け出した。 人の手が加えられず開墾の後もない荒野は、闇夜に沈み、どこか寒々しく感じたのは肌に刺さる夜気に冷え切っているせいだけではないだろう。 夜気に混じり殺意の気配が、幾重にも折り重なり肌の温度を数度下げるまでに至っている。 月明かりに照らされた砂塵の先に淡く燈色に光る灯りがある。 まるで車輪のように忙しなく動き回る灯りの中から、花散らした花弁の如く、光の群れから離れ、徐晃の方に向かってくるものが二つ。
 
 それを見て取った徐晃は、賊に気が付かれたか、と痛恨の舌打ちを漏らした。 賊の数こそ正確なものは判らないが、おおよその数は把握できていた。 闇夜に乗じた奇襲をかければ、物の数ではないが、より慎重に期して愛馬である絶影を足を使わずにいたのだが、果たして見事に失敗を呈してしまったようだ。
 
「致し方ない……。」
 
 後悔の念を抱く暇もあらばこそ、続く徐晃の行動は電光石火の早業だった。 背に預けた大斧を抜き放つと、油断無く獲物を構えたままその場に立ち止まった。 泰山の如く動かず、両の足は不落の拠点とし、徐晃は賊を迎え撃つ心算であった。
 
「む…?」
 
 だが、ここにきて、迫り来る二つの殺意とは別に、どこか小動物めいた気配を徐晃は感じ取った。 その気配が二つの殺気から逃げるようにして此方へ向かってきている。
 
「オラッ! 待て!」

「逃げんじゃねぇよ! 大人しく死ねぇ!」

「はっ……はっ…! ひっ!?」
 
 夜闇の奥から姿を現したのは、旅装束に身を包んだ男と、賊と思われる者が二人。 両者とも必死の形相というに相応しい顔で、徐晃のいる方まで向かってくるが、旅装束姿の男は、大斧を構えた徐晃を先回りした賊と勘違いしたらしく、その表情は、必死の形相から絶望の色へと変わり、瞳は恐怖の色に塗り込められていた。
  
「ひぃぃっ! た、たすけ…!」
 
 絶望のあまり歩く事さえ出来ず、地べたに頭から転がった男へと徐晃は歩み寄った。 前方には大斧を持った徐晃、後方には剣を携えた賊が二人と、男の恐怖は今、最高潮に達したらしく、恥も外聞も無く必死の様子で身を捩りながら、地面を這って徐晃から逃げようとしている。 だが、男の往くては徐晃が塞ぐ。 そして――――。
 
「怖がるな。 助けに来た」
 
 徐晃は、その場に不釣合いなほど柔和で静かな声で、男に語りかけた。 あわや、という所まで追い詰められた男は、この時初めて徐晃の顔が温情に満ちた表情である事に気が付いたのか、逃げる事を止め、藁にでも縋る眼差しで徐晃を見上げるのだった。 それに応じるように徐晃は微笑で頷くと、その表情を貼り付けたまま迫り来る賊へと目を向ける。
 
「なんだぁお前は?」

「名乗るほどの者ではない」

「はっ? なんだそれ、ふざけるなよ…?」

 嵐の前の静けさか、賊の声も、徐晃の声も闇夜に沈んだ荒野に良く響いた。 遠雷の残響が群雲を引き連れ、下弦に慎ましく光る月さえも貪欲に飲み込み、墨汁を垂らしたかのような黒一色の世界を作り上げていた。 そして戦場の空気に呑まれて恭悦に沸く賊の二人組みを、徐晃は真っ向から見据え対峙する。
 
「御託はいい。 来るならこい」
 
 それは明らかな挑発の言葉だった。 もはや推し量るまでも無い力量さから、たかだか二人がかりの相手では万に一つの後れを取る事は無い、と徐晃は確信した。 そして徐晃の言葉の意図に気が付くまでに数瞬を要した賊の二人は、気が付けば憤死も危ぶまれるほどに顔を朱色に染め上げ、怒りのあまりか、剣柄がぎしり、と軋みを上げた。
 
「手前ぇ…、死にたいらしいな……。」

「そんなに早死にしたいならさっさと死にな! えやあぁぁッ!」
 
 気勢一喝、渾身の気迫を持って振りかぶった剣が徐晃を捕らえた。 賊の男が勝利を確信した絶頂の瞬間。 瞬きにも満たない刹那の瞬が、なぜか永遠のように引き伸ばされる。 それがまるで走馬灯であるかのように……。
 
 徐晃へ向けて袈裟懸けに吸い込まれるように迫った刃が、その長躯を切り裂くのとほぼ同時に、賊の一人は生まれてこの方、味わう事の無かった空前絶後の衝撃を腹に受けた。 その衝撃たるや、男は燕のように地面すれすれの低空を滑空した挙句、腹の中身を吐瀉する暇すら無く無惨にも地面を転げまわる破目になった。 ただ、痛みすら感じる間もなく意識を手放せた事は、男にとってはむしろ幸いなのかもしれない。

 それを間近で見たもう一人の賊にとっては悪夢以外の何物でもないだろう。 必殺を期した相棒の渾身の一撃は、確かに徐晃を殺害に至らしめるには充分なものだったはずなのだ。 体勢、踏み込み、速度、全てにおいて万全だった。 だからこその不条理。 徐晃の懐まで深々と踏み込んだ刃よりも尚先んじて放たれた無造作な拳の一撃。 たったそれだけで徐晃には事足りた。 それだけで、男は戦わずして、自らの屈服を認めていた。
 
 そして相棒を事も無げに倒してみせた徐晃は、無造作に男の方へと近づいていく。 ただその体格はいつの間にか、よりいっそう大きく威圧的でさえあった気さえしてきた。
 
「お前の仲間の数は?」

「はっ……?」
 
 徐晃の言葉に、男は間抜けな返事しか返せずにいた。
 
「お前の、仲間の、数は、正確には何人居る?」
 
 その直後、男は浮遊感に見舞われた。 徐晃が男の胸元を掴み片腕だけで持ち上げたのだ。 その時まで男は、自分が情けなく腰を抜かして地面に座り込んでいた事にさえ気が付かないでいたのだった。 そして、同じ目線まで持って来られた徐晃の双眸が細められた瞬間、男の心は完全に砕けた。
 
「あ―――ぅ――。」
 
 憤怒で顔を紅く染め上げていたのが、既に遠い昔の事の様。 今は顔面蒼白になりながらも唇を震わせ何とか言葉を紡ごうとするが、喉下で言葉が支えて出てこない。 あと数瞬でも戸惑っていれば、胸元を掴んでいる厳つい手が、首下に伸びないとも限らない。 焦る気持ちが、さらに呂律を回らなくさせる悪循環に陥るのだが、男は最後の力を振り絞り何とか口から言葉を発する事に成功した。
 
「ごごご、五十……。 五十…二、五十二人……だ」
 
「そうか、やはりそれぐらいだったか」
 
 用は済んだとばかりに徐晃は、男の胸元から手を離すと、男はそのまま地べたに跪き、昏い虚ろな、抜け殻のような眼差しで徐晃を見据えていた。 もはや男の瞳には何も映し出さず、その様は亡者さながらであった。
 
 茫然自失のままの男はこのまま捨て置いたとしても、赤子よりも無害であろうと理解した徐晃は、賊から逃げてきた旅装束の男へと目をやる。 途端にそれまで賊との冷淡な乾いた応対とは打って変わって、どこか恥じ入るような萎えた表情を露にさせた。
 
「見苦しいところをみせてしまったな…。 どうだ立てそうか?」
 
 まだ半分腰の抜けた有様の男を助け起こして、徐晃は、闇に沈んで見えないが、村のある方角を指差して男の背を軽く、そっと押してやった。
 
「村の者達の大半は、いま酒場に居る。 村長も居られるはずだから事情を説明して、後は村長の采配に任せろ」

「…あ、あぁ……。」

「よし、なら急いだ方がいい」
 
 男は何度も頷いた後、徐晃の言われた通り早足に、打ち捨てられた賊にも目もくれず、一目散に村を目指して闇夜に沈んだ荒野の中を駆け出して行った。 徐晃が見た限りでは、賊の追撃隊の姿を認めることは無かった。 このまま行けば、男は無事に村まで辿りつく事ができるだろう。 走り去る男の背を見守っていた徐晃は、蜘蛛の巣状に閃かしなが、車輪のように慌しく動き回る灯りへと向き直り睨み据えた。
 
 冷たい夜気に混じり聞こえる剣戟音は未だ止む事はない。 遠方の空を見上げれば、紫電が尾を引いて閃いているのが見て取れた。 その数瞬後に聞こえてきた雷鳴の響きは徐々に近づいている気がする。 嵐は近いのかもしれない……。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 幾重にも折り重なった光源の中、白昼のように闇夜を照らす松明を手にする男達の群れの中心にありながら、なお燦然と輝く者の姿があった。 その威容は戦乙女もかくやと見紛う神々しい立ち振る舞いで、凛然と輝く"少女"の双眸は今、群がる賊を見据えていた。
 
「はああぁッ!」
 
 裂帛の気合とともに、少女は電光石火の踏み込みで、群がる賊の一人との距離を肉薄にすると、そのままの勢いで繰り出された渾身の突きは、いとも容易く賊の頭蓋を粉砕してみせようとしたその刹那―――――。
 
「ひっ―――。」
 
 悲鳴を上げる仲間の声に、意識を賊から引き戻した少女は、たたらを踏みながらも自衛しきれない仲間を背後に庇い、襲い来る賊を追い散らしにかかった。 そして再び状況が振り出しに戻される。
 
 少女は、一向に進展の兆しさえ見えない状況に歯噛みする他なかった。 たとえ、どれ程の数の敵が居たとしても所詮は賊であり、烏合の衆。 真っ向からの勝負であれば少女には万に一つの敗因もない。 だが、それは少女が単身であった場合の話。 今は賊の持つ大剣を相手にするには、心許無い程に小振りな護身用の短刀を、震える手で握り締める仲間を庇いながら戦わなくてはならない。 その時あらためて数の差が大きな枷となって少女を苦しめる。
 
「どうしたッ! この私と打ち合う勇気を持つ者はいないのか! なおも匹夫の所業を続けるのであれば、この私! 姜維の侮蔑を免れぬものと知れ!」
 
 少女の――姜維の恫喝を受けて、なお動く気配を見せる者は皆無。 賊は皆、獲物を目の前にして伏せる肉食の獣の様に、姜維の動向だけを窺っていた。 だが、姜維とてこのような、あからさま挑発で状況が一転するとは思ってもいない。 何故ならそのように仕向けたのは、他ならぬ自分自身だったのだから。
 
 姜維は今自分がどれだけ危険な状況にあるのか、もちろん彼女は正しく理解している。 犠牲を度外視した一斉攻撃という最悪の展開への牽制を含め、この大立ち回りは、拮抗以上の状態に持ち込まなければいけなかった。 少しでも此方に、仲間を庇いながら戦う余力も余裕も無いと悟られれば、姜維に凌ぎきれるだけの実力は、ない。
 
 だからこそ、この状況を打開できるかもしれない種を蒔いておいた。 姜維は動く気配も見せない賊を静かな眼差しで見据えつつ、隠しようも無い恐怖に怯え、膝を振るわせながらも必死の覚悟で立っている仲間へ向けて、横目にちらりと視線を送った。
 
 今ここには居ないが、姜維とこの場に居る男の他にもう一人、旅の仲間が居た。 その男は、こうして包囲される前に何とか逃がす事に成功させた。 その男が村に戻り、手勢を率いて戻ってきてくれれば、この進退窮まった状態に少しは光明が差すかもしれない。 しかし頭の奥に潜む冷徹な自分は、既に一切の私情を抜きに、冷酷な見立てを済ませている。 おそらく十中八、九、追手の手によって遠からず殺される事だろう。 それでもどうか、残りの一によって命救われて欲しいと願う。
 
 それは自分の命が惜しいから願うわけではない。 それがいかに分の悪い賭けであったとしても、村の人だけは、自分の母だけは守り抜きたい。 それがたとえ身を挺する事になったとしても。 しかしそれはただの自己満足に過ぎないのかもしれない。 だがそれ以上、姜維は悩まなかった。 悩めるわけがなかった。 村の一員として、母を思う子として、殺されうち捨てられる未来を諦観してみていられるほど、姜維も達観しているわけではないのだ。
 
「怖気づいたか。 ならば此方から行くが?」

「…………ッ。」
 
 姜維の揶揄に返す言葉は無いが、賊達の顔は一同戦慄に染まりあがった。 姜維との圧倒的な力量差は、その脅威を目の当たりにした誰もが自覚しており、傍目には防戦一方の姜維を圧倒しているように見えるが、初手から今に至るまで、姜維を不用意に近づかぬよう追い散らす事で精一杯だった。 だが、その姜維が何の策があるのか分からないが、攻めに転じようというのだから、もはや賊達には為す術は無く、歯噛みしている他無かった。
 

 一触即発の空気。 冷たく怜悧な殺意の気配が緊迫した荒野に伝播する。 黒く染まりあがり暗雲に沈んだ空。 雷鳴の響きに一部の者は肩を震わせ恐怖に飲まれてゆく。 その時、轟々たる音と共に、暗雲の空を駆け巡った紫電の閃光は、二頭の龍が互いを喰らいもつれ合うかのような、大気と言わず大地さえも揺るがすほどの咆哮を上げ、昼もかくやという眩い光を撒き散らした。
 
 その中で姜維は、周囲の気配の異常に気が付く。 一瞬の閃きの中に映し出された賊の中にあっては白く怪異な異物。 それが闇夜に咲く華の様に浮き出て見えた。 それに少し遅れて賊の誰かもその異様に気が付き、一人、また一人と闇の中に潜む異装の者を注視し始めた。
 
 初雪の穢れを知らない純白の色とは違う、冷たく乾いた蒼白。 この闇夜に在っては骨で出来た百合を彷彿とさせる。 無言のまま片手だけで大人の男の身丈にも匹敵する大斧を握り締める佇まいは、より一層の不気味さを醸し出す。
 
「なんだ手前ぇは!」
 
 その場の空気に耐え切れなくなった小柄な賊が張り上げた声は、もはや悲鳴に近いものだった。

「うむ、お前らの仲間にも言ったのだが。 お前らのような輩に名乗る名は持たん」

「……舐めるんじゃねぇよ!」

「おいッ! 仲間ってどういうことだ!」
 
 無数の殺意の視線が白装束の男――徐晃を貫くが、その程度の威圧で動じる徐晃ではなく、今もまだ余裕の構えを見せ周囲の賊を眺める渡す眼差しは、泰然としたものだった。
 
「あぁ…。 行き成り襲い掛かってきたからな、コイツで黙らせた」
 
 つい先ほどの出来事を思い返してなのか、苦笑交じりの溜息をつくと、周囲の賊に向けて大斧を握り締めた拳を差し出すようにして掲げ上げる。 月明かりの無い闇の中にあってなお、茫洋とした光を放つ大斧。 それを見た賊の心中を察することなどそう難い事ではなかった。
 
「お前……、まさか…。」

「まぁその剣呑な鬼気は仕舞え。 それよりお前達、いつまでもこんな所に居て大丈夫なのか?」

「―――――何が言いてぇんだ?」
 
 姜維の周囲を囲む賊の群れの中から一歩、徐晃に向けて歩み出た髭の男。 この男が頭目なのだろう他の者よりは冷静な表情で徐晃を睨み据えていた。
 
「何、簡単な事だ。 お前達は、此処から逃げた者を追うために刺客を放った。 だが、それは俺が黙らせた。 なら逃げた男はその次にどのような行動を取る?」
 
「それは………。」
 
「当然、村の者に助けを求めるだろうなぁ……。」
 
 涼しげな笑みを浮かべながら語る徐晃ではあったが、その目だけは笑っていない。 刃物のように威嚇的な眼光は、容赦の無い敵意となって髭の男といわず周囲の賊達までも射抜く。
 
「村も者達の結束は固いぞ? それこそ血よりも濃いものだ。 そんな者が襲われたとあってはどうなるかなど、考えるまでも無いだろうに……。」

「―――ッ!」

「重ねて言う。 お前達は、本当に、この様な場所に留まっていて平気なのか?」
 
「あ、兄貴……。」
 
 その光は、小柄な男が肩を震わせ、怯え混じりに髭の男へ呼びかけた直後に現れた。 闇に沈む荒野の先に幾つもの灯火が揺らめいている。 その数は賊達が掲げる松明の数を遥かに超え、百はくだらない光源の群れに、思わず髭の男は、人知れず息を呑んだ。

「あれは………。」
 
「そら、怒り心頭の村人達が押し寄せてきたぞ」
 
 誰しもが目を見張り、荒野の彼方で蜃気楼のように揺れる灯火を凝視する。 一歩、また一歩と此方との距離を縮めてくる朧な篝火。 それらは次第に、色と輪郭がはっきりするほどの距離まで迫ってきていた。

「さて、お前達どうするよ? 見ての通り、数で勝る此方に利が移ったようだが?」
 
「ッ! 退却! 退却だぁッ!」
 
 髭の男の言葉に蜘蛛の子を散らすかのように賊達は一斉に逃げ出した。 算を乱した賊など烏合の衆でしかなく、追撃をかければ容易に殲滅する事が出来ただろう。 しかし徐晃はあえて見過ごす事を選んだ。 楽しい宴の場を提供してくれた村の近くで血を流すなど、どうして出来ようか。 無粋な輩に無粋で返答するなど無粋の極み。 そんな事は、他の誰でもない、徐晃の矜持が許さない。
 
 かつて賊が群がったていた形跡はもはや無く、逃走を図った名残として、砂埃が濛々と立ち上がるだけだった。 それが獣もかくやという殺気を放っていた者達の姿の末路だったと思うと、あまりにも呆気ない幕引きであった。 まるで泡沫の夢であったかのように、荒野に満ちる静寂は耳に痛い。 月明かりもない暗雲に翳った空だけが、唯一の名残であるかのように頭上を覆いつくすのだった。
 
「――――ふむ、意外と呆気なかったな……。 おーい! お前達、大事無いか?」
 
 何事も無かったかのようにそう呟いた後、涼しい笑顔混じりの表情で、声高らかに姜維へ呼びかけた。

「………。」

「む? 大丈夫か? 何処か怪我でも…?」
 
「あ、いえ…。 大丈夫……、です」

「ふむ、そちらは?」

「お、オレも、大丈夫です」

「ならば良かった」
 
 賊が一斉に遁走を計るまでの様を見届けた姜維と連れの男は、もはや正気の沙汰とは思えない常軌を逸した遣り取りに、目を白黒させてしまうのは、無理からぬ反応とも言えた。 しかもそれが、決死の覚悟を決めた直後であったとなれば、尚の事であろう。 未だ心ここに在らずといった姜維を尻目に徐晃は、涼しげな表情を崩すことなく柔和な眼差しを姜維に送る。
 
「先ほどの啖呵は見事なものだった。 そしてあの清澄な覇気―――。 姜維殿とお見受けするが、如何に?」

 この時徐晃は、初めて姜維の全貌を視界に収めた。 改めてその容姿を見て取れば、なるほど、母親である姜冏の血を色濃く受け継いでいるようで、風格はいわんや、端正な顔立ちからその美貌も推してしかるものがある。 氷を思わせる怜悧な母親の眼差し、というよりむしろ、清流の爽やかさを彷彿とさせる凛とした瞳。 年の頃は徐晃よりも幾分も若く、少女期からやっと抜け出したばかりで、瑞々しい肌はその若さを誇り、体の一部分などは、既に大人の女性であると盛大に主張するほどの隆起を見せている。 一見、気品と理知に溢れた麗人を思わせるが、まるで耳の垂れた犬を彷彿とさせるくせ毛が、髪の両側から飛び跳ねている様は、何とも愛嬌溢れるもので、それが姜維を歳相応の幼さに戻していた。
 
 だがそれ以上に徐晃の目を惹いたのが、姜維の持つ獲物。 長躯の徐晃の背丈さえ更に上回る槍。 だが徐晃が異様に感じるのはその長柄の獲物が一本限りではなかったと言う事だった。 姜維の手に握り締められた長槍とは別に、腰にもう一本、手に握られたそれより遥かに短い短槍を携えていた。 長槍を失ったときの予備なのだろうか、刀剣ならいざ知らず、二本の槍を同時に扱うなどと言う尋常には想像し難い流儀ではないだろうか。 だが、そうであっても、なくても、徐晃の未知への探究心からくる想像は尽きる事を知らない。
 
 もはや興味の対象が姜維から、彼女の持つ獲物へと移り変わろうとした頃合になって、やっと姜維の思考が今の現状を把握し始め、まともに口を開くまでの余裕をみせた。
 
「は、は、はい! 私が姜維でしゅ! はぅ……、噛んじゃった。 あの! えと、えと、あ、貴方はいったい…。」

「俺の名は徐晃。 今は、姜冏殿の下で世話になってる者だ」

「は、母上の……、ですか?」
 
 徐晃の返答が余程意外だったものらしく、姜維の声が上擦った。
 
「あぁ、外見に惑わされぬ様にしなければならない典型とも言える方だな。 いや、これまで何度からかわれたことか……。」
 
 姜冏との遣り取りを思い出したのか、先ほどまで涼しげな微笑を漏らしていた徐晃の表情が、一瞬の事だったが妙に苦々しい物に変わったのを姜維は見逃さなかった。
 
「あやや……。 母上の猫を取った姿を知っているのですか……。 ふ~む…、うん! ならば徐晃様は信の置ける人です」

「……、信用を得れたのは嬉しいのだが…、何故、姜冏殿の猫被りを知っている、というだけで?」

「理由は単純です。 母上は『外』から来た人間に対しては、余程の事、もしくは、気に入った人でない限り猫は外さないのですよ。 つまりは、そういう事です」

 姜維の説明に徐晃も心の中で、なるほど、と呟く。 姜維の中での自分の印象が過大に評価されている気もするが、そのあたりは話が抉れそうなので伏せて置くことにした。
 
「理由には納得した。 ――――が、話はともあれ先に場所を移そう。 荒野の真っ只中では埃塗れになっていかん」

「あ、そうですね。 では荷馬車があるのでそれを――――。」

「それはオレが持ってきますよ」

 さきほどから徐晃と姜維の遣り取りを傍から見守っていた男が、ここにきて名乗りを上げた。 会話をしていた当事者には分からなかっただろうが、傍目から眺めていた者にとってはとても居心地の悪い場所となっていたのだ。 姜維は、無自覚なのだろうが、彼女が徐晃に送る視線は妙に熱が篭っていたようにも見えた。 要するに邪魔者は姿を消すに限るという事だ。
 
「そ、そう? じゃあお願いできるかな?」

「任せておけ!」
 
 言うが速いか男は、脱兎の勢いでその場を離れ、何処かにある荷馬車を探しに、夜も耽った闇の中へと姿を消していった。 それから姜維が再び口を開いたのは直ぐの事だった。
 
「あっ! しまった……。」

「どうかしたのか?」
 
 何か重要な事でも見落としてしまったのか、姜維の表情は失態を晒したとばかりに、悔恨に歪み、先ほどまで、群がる賊を相手に槍を振るった晴れやかな覇気は、双肩と共に萎れてしまっている。 そうかと思えば腕を組み、さも困窮したといった表情で唸り声を上げたりなど、傍目からは面白いほど表情がめまぐるしく動き回っているのがよく分かる。 ただ、それを傍観している徐晃は、声を掛けていいものなのか、計りかねていた。
 
「あ、あのッ!」

 百面相で忙しなく動いていた表情が、それまでとはうって変わって熱の籠もった視線で、姜維よりも遥かに背の高い徐晃を仰ぎ見た。 それは、内に秘めた決意を孕んだ眼差しだった。

「どうした、姜維殿?」

 姜維の態度にただならぬものを感じ居住いを正すと、差し向かう形で姜維を見据えた。 その時見た背筋を伸ばした姜維の姿は、驚くほど大人びて見えた。
 
「危うき所を助けて頂いた事、改めて深く御礼申し上げます。 徐晃様の助勢無ければ、我等はこの荒野にて果てていたことでしょう。 この恩は、我が心だけでなく、末代まで深く刻み込まれることでしょう……。」

 姜維の恭しく頭を垂れ、跪拝する様は一葉の聖画を思わせた。 だが、その行動は予想していなかった徐晃は、戸惑いすら覚えていた。 当惑する心中、ただ身に余りすぎる賛辞を受けていることだけは理解できたのだが、どう受け止めていいのか分からず、些か以上に面映ゆかった。
 
「……、っと。 すみませんでした、お礼を言うのが遅れてしまって」
 
 膝に付いた埃を払いながら立ち上がった姜維は、眉根を下げ照れ臭そうに微笑を漏らしていた。 先ほどまでの静粛に満ちた凛とした表情を見せていたのとは別人のような様変わりに、徐晃はやや気後れしてしまう。
 
「その…、なんだ……。 言いたい事は幾つかあるのだが、まぁ…、礼ひとつに些か、仰々しすぎはしないか?」

「そんな事ありません! 何事にも礼節は大事なことです。 ですからこれは私なりのけじめ、として受け取ってください」
 
 ずいっ、と睨むに近い、凛とした硬質の引き締められた眼差しで、徐晃の間近まで迫ったかと思えば、朗らかに邪気の無い照れ笑いを返す姜維を見て、徐晃は改めて姜維が、姜冏の娘である事を理解した。 何処までが地なのか計りかねるところは、まさに瓜二つといえる。 これで人を食った老獪さを身に着ければ完璧である。
 
「そう言われて受け取らない者がいたら、是非お目にかかってみたい」

「ふふ、そうですね。 ――――、それにしても遅いですね? 私、ちょっと見てきますね!」
 
 徐晃の返事も待たず駆け出す姜維を見送った。 そんな彼女の後姿だけを捉えれば、外年齢通り相応なもので、両側の髪の左右から飛び跳ねるくせ毛は耳の垂れた犬のそれ。 これで尻尾まで付いていれば、今はきっと千切れんばかりに振っているに違いない。
 
 何処となく天真爛漫な的廬を彷彿とさせる少女の帰還を待つまでの間、手持ち無沙汰になった徐晃は何となしに空を見上げた。 相変わらずの暗雲に陰りを帯びた空模様であったが、いつの間にか雷鳴の轟きは治まっていた。 遠方に耳を傾けてをやれば遠雷が僅かに木霊して、過ぎ去ってゆくのを確認した。 一雨降ることなくやり過ごせたらしい。 どうやら嵐は過ぎたようだ……。






あとがき

また最後でグダってしまいました……。
ようやく今作品のヒロイン格である姜維を出す事が出来て、ホッと胸を撫で下ろしております。
姜維のコンセプトは時々狸なワン子。 といった感じだったのですが、表現できているでしょうか?

さて、今回、初の戦闘描写だったのですが、やはり難しいものですね。
血を流さない無血での勝利? が今回の目標だったのですが、そのせいで見苦しく感じてしまいましたら申し訳ありません。
だって、ほのぼの、と銘打っておいて二話目でいきなり血をみるのは……ねぇ?
殺すより活かす事のほうが難しい、とはこういうことだったんですね! 昔の偉い人!

そして次回、満を持して原作キャラクターを登場させる事ができそうです。
今回も恋姫無双の準レギュラーである黄巾の三人組を登場させてみたのですが……。(ごめんねデク

これでようやくプロローグ終了という形を整えられましたので、いよいよ物語が進みます。
作者的にルートは絞ってはいるのですが、ブッチャケた話、修正は可能なのでご希望があればご意見お待ちしております。
最悪、書く余裕があれば外伝という形で、書けなかった部分は落ち着く、と思いますので書き上がった暁には是非見ていってください。



[9154] 四話・やばいな…、四話で原作キャラを出すと、キッパリ言ったばかりなのに…、スマンありゃウソ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:a9da8baa
Date: 2009/07/06 19:32
 瞼を開いた先の外界は、眩いばかりの光に包まれていた。 窓の外から流れ込む優しく、温かい風に揺られ、上質の絹を思われる白い生地が小波をうつ。 ふと見ると、朝の到来を告げる鳥の姿を認める事が出来た。 この安らぎに満ちた時をいつまでも堪能していたい。 優しさに満ちた暖かい部屋の中を徐晃は、手馴れた様子で、目に映るもの全てを第三者の視線であるかのように眺めていた。
 
 いまだ寝惚けているのか、目を擦る手は、はたして徐晃の意思とは無関係に動き出す。 いや、手だけではない、両の足から視線に至るまで、淀みなく徐晃の意思とは無関係に、そう仕組まれた自動装置ように黙々と動き続ける。
 
 顔を洗い眼前にある磨きぬかれた鏡に写し出されるのは、黒の染め抜きをされた衣服を着込む、いっそ間抜けとも取れる程の人畜無害な男。 だが、その面貌は徐晃のそれとはかけ離れいた。 それは明らかな異常であるにも関わらず、徐晃はそれを瑣末な出来事であるかのように気にも留めない。 ただ……。
 
「―――――――――――。」

「―――――――――。」
 
 流れる小川の如く淀みなく動く男が向かったのは食卓。 そこで母親と思しき人物との会話を行っているのだが、徐晃には聞こえない。 いや、無音だった。 そればかりでなく、食卓に並べられた貴族もかくやという豪勢な食事の数々。 白銀に輝く米に、油の乗った魚、お吸い物にお茶。 そんな豪華な食事に舌鼓を打つ男であるのだが、それを男の視点から眺めている徐晃の舌には何の味も変化もなく、ただ傍観しているだけであった。 それを徐晃は指を銜えて見ているしかできないでいる。 それが徐晃にとっての最大の苦痛であった。
 
 男の食事中の時は、手持ち無沙汰になってしまう為、努めて意識を外に向けることを心がけている徐晃は、男が自分の興味を示す物に早く手を付けないかと、目を爛々と、男の意識化の中で輝かせ、男の視界の隅に横たわる撥状の物を舐めまわすようにして睨み据えている様は、まるで恋に恋焦がれる乙女のようであった。
 
 そしてついに男が撥状の物体を手にした瞬間はもう徐晃の鼻息は荒く、部屋の隅に置いてある箱を早く見るように、と男の頭の中で暴れまわらん勢いで、食い入るように箱を注視していれば、なんとその箱の中から小さな人間が姿を現すではないか。 ただその小さな人間が何かを喋っているのかまでは、無音の世界にいる徐晃には分からない。 しかしそれを度外視してもこの摩訶不思議な現象は、何度見たとしても飽きが来る事がない。 それほどにも徐晃は、小さな箱の中で繰り広げられる小世界に没頭した。 まるで箱の中の小人達の一つ、一つの所作さえ面白くて仕方なく、それを得るための視線さえも愛しいかのように。
 
 今なお興奮冷めやらぬ子供のようにはしゃぐ徐晃の姿を、知人にでも見られれば、一体どんな反応が返ってくるだろうか。 おおよそにして呆れか苦笑が返ってくる事だろう。 しかしそんな醜態をさらしてもなお、徐晃が食い入って見るだけの価値が、あの箱にはあるという事だ。
 
 やがて、男は食事を終えたようで、席を立つと自室へと戻る。 徐晃は自身で身体を動かせないので、黙って男の行動に従う他ないのだが、それでも箱の中の小人達が消えた後も、後ろ髪を引かれる思いでいたのだった。
 
 そしてその後の男の行動も、その後に起こるであろう事も、徐晃は既に何度も経験した出来事であった。 陽の光に照らされ、上質の絹よりなお燦々とした輝きを放つ白銀の衣服に男は袖を通し、鏡の前で髪を整える姿は、その格好だけで貴き身分の者であるとさえ思わせる。 万事仕度が整い、家から出ようと扉を開けた瞬間、徐晃は今まで何度も経験をした浮遊感に襲われた。
 
 それが夢の終わりなのだと、幾度と無く体験してきた徐晃は、慌てる事もなくただ静かに自身の覚醒を待つ。 辺りは柔らかな靄に包まれ白く霞んでいる。 前後左右といわず、上も下も無いただ限りなく続いている白い世界。 男が家の扉を開ければ、何時も体験するこの白い靄に包まれた世界。 その先は未だ見えず、覆い隠された景色は、いったい何があるのだろうか。 それとも、そこには何も無いだろうか。
 
 天には太陽は無く、空には雲は無い。 大地に花は無く、地には風も無い。 在るのは静寂と乳白色の靄だけ。 だからきっとあの靄の向こう側には何も無いのだろう。 徐晃はただ目を閉ざし、夢から覚めるのを待つ。 何も見えないのなら白であれ黒であれ変わりは無い、ならば自由の利かない静寂の中にあって、唯一自由の利く視界の色だけは自分の意思で決めておきたい。 徐晃はただ静かに己の覚醒を待った……。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 賊の襲撃からはや三日、その間に姜冏を中心とした近隣の村の有力者達の集まり、今後の対応を巡って、目まぐるしい程の動きを見せ、あれよあれよという間に、どういった術を使ったのか、天水の騎兵を中心にした軍隊が、姜冏の村を初めとし、幾つもの近隣の村の守備に当たる事になった。 その手腕は見事の一言に尽き、徐晃をはじめ姜維でさえ感嘆の息を漏らすほどだった。
 
「では我等は、件の賊の討伐に向かいますゆえ、村長殿もご安心されよ」
 
 朝霧の中にあってなお光り輝く騎馬の精鋭達。 その一人一人が百戦錬磨の古強者である事は、かの者達の雄々しくも流麗な鎧兜に付けられた数々の戦化粧を認めれば、想像に難くなかった。 その益荒男達の中にあってなお、誰よりも眩く輝いている将が一人。 華美に走らずも匠の限りを尽くした鎧姿に身を包む将の顔には、数多くの武勲を誇るかのように刻み込まれた無数の傷。 それが彫り細工となって将の勇猛果敢さを物語る華となり、添えられている。 そんな将を前に、姜冏は気後れする事も、将の風格に飲まれるでもなく、実に淡々と持ち前の仮面を被って対応している。
 
「はい、天水の董卓軍の皆様の助力があれば、私達も安心して夜も寝られるというものです」

「お任せください。 この辺り一体の不穏な輩は一掃してみせましょうぞ。 大船に乗ったつもりで吉報をお待ちください」

「まぁ! それは頼もしい限りです」
 
 微笑を浮かべながら小首を傾げてみせたその仕草の裏に隠された恐ろしさを、徐晃も味わった事のある。 思わず惚れてしまいそうになるほどの愛らしい仕草に、果たして将は、頬を朱色に染め上げていた。 それを傍目から見る徐晃は、同じ男として同情の念を禁じ得ず、人知れず将に憐憫の視線を送るのだった。
 
 姜冏は、徐晃さえ身震いを催すほどの怪人物である。 自分の表情がどのような意味を持ち、効果を発揮するのかを完全に把握しきっているのだ。 つまり、姜冏の前に立つ将は、姜冏の手のひらで転がされ、玩ばれているだけに過ぎないのだが、そうとは知らない将は、自分が赤くなった事で、忍び笑いを漏らす部下達への威厳を回復させる為に咳払いを一つ打つ。 そんな姿も徐晃には哀れみを誘わせる。

「で、では我々はこれで……。 出撃だ!」

『応ッ!!』
 
 将の掛け声に、居並ぶ軍勢が喝采で天を突き上げた。 沸き立つ騎馬隊の見送りに手を振るものや、激励の言葉を送る者の中で、姜冏は頭を垂れた。 ほどなく騎兵隊の姿が米粒ほどの大きさになるまで、礼の姿勢は崩さなかった。

「やれやれ……。」
 
 騎兵隊の姿が完全に消え失せたところで、姜冏は嘆息と共に、被っていた仮面を吐き捨てた。

「首尾は、上々……、かのう?」

「何か悪巧みですか、姜冏殿?」
 
 独り呟いた満足顔の姜冏の傍らに、昴然と立ちはだかった徐晃。 間近で見る徐晃の堂々たる立ち振る舞いは、騎兵隊を率いた将と比較しても勝るとも劣らない。 蒼天の如く透き通った双眸は今、胡乱げに細められ姜冏を見据えていた。
 
「悪巧みとは人聞きの悪い言い方をする。 いやなに、せっかくの大きな"まつりごと"じゃからな。 小童どもの戯れを遠目で眺めているだけでは、ちと味気なくての。 ワシとてワシなりの愉しみが欲しくなるわさ」
 
 姜冏が、くつくつと猫が喉を鳴らすかのような低い、さも楽しげな忍び笑いを漏らす時は、決まって何かを企んでいるのだと徐晃は理解している。 内心で、姜冏に対する評価を改めて再認しながらも、徐晃は平静を装った。
 
「愉しみ、ですか。 ならばあの将軍をからかうのも、楽しみの一つですか?」

「おぉ、心外よな。 あの小童は、このワシに、腹に据える物言いをしよってな。 少々灸を据えてやるだけよ」

 呵呵大笑する姜冏を尻目に、徐晃は偏頭痛を患った患者の如く、額に拳を押しあて嘆息を漏らした。 この悪辣の限りを尽くした姜冏の手練手管に対し徐晃は、男として侮蔑の言葉を送ればいいのか、その手腕を褒め称えればいいのか、判断に困り果てていた。

「して、徐晃殿。 ヌシも旅支度は済ませたのか?」

 徐晃の反応を見て、にやりと底意地の悪い笑みを浮かべる姜冏の言葉に、徐晃も気持ちを切り替え漫然と頷いた。

「えぇ、お陰様で滞りなく」

「それは良かった。 確か、次に向かう先は……。」

「天水です」

 徐晃は後ろを振り向き、旅装を調えた絶影に目をやる。 その背中には、この村に着いた時よりも明らかに嵩張るであろう荷物が多く積み込まれていた。 その中には、酒屋で徐晃と席を同じくし、親睦を深めた皮職人からの餞別品として寄越された狐の毛皮だった。 徐晃は知らぬ事であったが、それは見るものが見れば涎を垂らしながら最高額の高値を付けてくれる一品を三枚も寄越してくれたのだ。 それだけでたった数日の付き合いだったにも関わらず、どれだけ徐晃のことを気に入っていたかを窺わせる。

「しかし……。 本当に宜しいのですか?」

「ん?」
 
 何が、とは聞かなかった。 いつになく固い声でそう質す徐晃に対し、姜冏は普段からは想像も付かない、感情を押し殺した力の無い微笑で返す。

「あれを、腹を痛めて生み、育てた時からこうなる覚悟はできていた」
 
 姜冏は、無意識のうちに腹の辺りを擦りながら、あくまで徐晃の方を見ようとはせず淡々とした口調で語った。
 
「あれの持つ才は、まさに天武のものよ……。 それをこんな小さな村に押し込めておけるほど、あれの器は矮小ではない」

 そして、なおも言い返そうとする徐晃に向けて、小さくかぶりを振って、優しくもだがきっぱりとこれ以上の言葉を拒絶した。 徐晃はそれ以上は何も言えなかった。 言えるはずも無かった。 姜冏がどれ程の怪人物であったとしても、微かに目尻に溜まった涙は、紛れも無い、姜冏という女性の母親の愛の証であった。 それを無粋な言葉などで踏みにじる事などできるはずもない。
 
「………そうですか、では自分はこれにて」

「うむ、達者でな」
 
 姜冏の言葉に一度立ち止まったが、それでも徐晃は振り返らず早足に歩を進めた。 絶影の背に跨り、村の広場を抜けるまでに多くの村人達からの別れの言葉を貰い、それに受け答えつつも徐晃は、三年以上も前に出た愛郷の景色を思い返す。 自分が村を去った時、果たして父母は一体どんな顔をしていただろうか。 記憶の中にある村は時が止まったまま変化が無い。 それは当然の事であるが、蘇ってくる父母の思い出が、二人の様々な表情を浮かばせては消える。 ただその中にある自身の旅たちの日に立ち会った二人の顔が思い出せない。
 
 と、そこまで追憶に浸ったところで徐晃はかぶりを振った。 そんな益体もない郷愁に浸っても意味は無い、と。 ただ徐晃は、ゆっくりと、だが決然とした表情で、荒れた野の先にある天水へ向けての一歩を踏み出した。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 旅立った村を背に、絶影の背に跨り砂塵の舞う荒野を進み、天水へ赴こうとしていた徐晃は、途中の丁度村が地平線の中へ埋没した頃合になってから栗色の駿馬に跨った姜維と出会った。
 
「…………。」
 
 出会い頭に姜維が浮かべるのは、戸惑いと怯えが入り混じった表情。 それが、姜冏の儚げな横顔を思い出させ、ほんの僅かに徐晃の胸を痛ませる。 今となっては致し方の無い事であったが、徐晃が村を発つまでの三日の間にあった母と子の壮絶な押し問答の事を考えれば、本当にこれで良かったのだろうか、と徐晃は姜維を旅の同伴者として連れて行く事を決めた夜の時のように自問自答を繰り返した。
 
「準備はいいようだな?」

「はい……。」

「…………、姜維」

「なんですか?」
 
 三日前の夜のうちから姜維と呼び捨てを強要されそう呼んでいる徐晃だが、その声が少しだけ固い事を敏く感じ取った姜維は、怯えた子犬のようにますます身を竦めてしまう。
 
「本当に、よかったのか?」

 姜冏に問うた同じ言葉を同じ声色と表情で、姜維に向けた。 姜維はただ困ったように、申し訳無さそうに、それでも母と同じように毅然と徐晃を見ず、前だけを向いて答えた。
 
「はい。 それに、もう村には戻れませんから……。」

「…………、まだ間に合うかもしれない」
 
「いいえ、駄目ですよ」
 
 そう言って姜維は力なくかぶりを振る。 無意識に右頬を擦るのは、姜冏と悶着があった時に叩かれた場所と一致している。 横目にしか見えない姜維の表情は、もはや泣いているのか笑っているのかさえ判別が付かない。
 
―――その面、ワシの前に晒す出ない。 持ち前の冷淡な瞳の奥に侮蔑も含まった眼差しを姜維に送った。 それは事実上の絶縁であった。 それでも姜維は最後まで頑なだった。 その対価として今の放浪者としての自由を手に入れた。 それはまさに不退転の覚悟といえよう。 それほどまでの覚悟を見せ付けられれば、流石の徐晃も断る理由もない。

「分かった……。 この話はもうしない」

 徐晃は根負けした風を装って苦笑を漏らした。 本当は長年の一人旅から、同伴者がついた二人旅になった事への喜びも然ることながら、姜維の人柄と聡い頭脳、そして万人にも匹敵する武を間近で拝見できる機会が出来た事が、一番の楽しみであるのだが、それを顔に出すほど徐晃は素直ではなかった。
 
「はい」
 
 姜維の見据える先は、一面の荒野。 その横顔を見て徐晃は独り、姜維の覇気の無さは杞憂であると、割り切る事ができた。 秘めた憂いを隠しながらも笑みを漏らす事ができる人間は強い。 それこそ一切の遠慮も気遣いも無用なほどに。 まして姜冏に天武の才と云わしめた姜維ならば、この程度の事柄で挫けるほどの脆弱者ではあるまい。 全てを乗り越え、己の信念を全うしてくれる事であろう。
 
「だが……。」
 
 と、徐晃が言葉を続けると姜維はまたびくりと、肩を震わせた。
 
「これが今生の別れとなるのなら、その……、姜冏殿の顔を見てきたほうがいい」
 
 絶縁状を叩きつけられたとしても親の情は、その程度で切れるほど脆いものではない。 姜維が無理を通せば、姜冏は必ず合ってくれる事だろう。
 
「無論、怒鳴られるだろう。 それに無為に二人の間の溝を深める事になるだろうが……。 それでも、印象深く心に残るはずだ。 親の顔を思い出せなくなるほど、心に堪えることはないぞ?」
 
 それは徐晃自身の嘘偽り無い心内だった。 旅に出て三年という年月は、驚くほどの速さをもって思い出を食い潰してゆく。 今では印象深かった事柄しか思い出す事が出来ないことが口惜しく、徐晃の胸を強く締め付ける。
 
「え、あの…、今生の、別れですか?」
 
 しかし姜維の反応は些か以上に奇妙なものだった。
 
「私は母上ともう会えない、のですか?」

「え?」

「あやや…?」
 
 ここにきて徐晃は、やおら背中に冷たいものを感じた。 自分と姜維との間には重大な齟齬がある。 いや、それ以上にもっと恐ろしい何かが、蛇ように徐晃の心臓に絡みついてくる。 その刹那の間にも姜維の利発そうな瞳が忙しなく動き、姜維自身も事の真相を導き出そうと思考の海に片足を浸していた。 そして徐晃よりも先に正解に辿り着いたらしく、一度だけ深々と頷くと眉根を下げ、困っているのか恐縮しているのか判然としない微妙な表情で、徐晃を見据えていた。
 
「あの、まず徐晃様の勘違いを正すとすればですね……。」
 
 さも言いにくそうに姜維が、徐晃の様子を見々話の穂を紡ぐ。
 
「私は、母上と別段、喧嘩別れをしたわけではなくて、ですね……。」

「それで……?」
 
「もしかすると、徐晃様は、その……、母上に担がれたのでは、と」

「そう…、か……。」
 
 姜維の話が終わった後、徐晃はがくりと項垂れ、萎れた双肩には覇気は微塵も感じられない。 その見るに忍びないほどの落ち込みようは、誰であれ同情の念を惜しみなく送るほどのものだった。
 
「もしかして……、姜冏殿から何か言伝を受けてはいないか?」

「あ、はい。 受けてます」
 
 それを早く言って欲しかった。 と、喉まで出掛かったのを何とか押し留めた。 ただ姜維の続ける言葉は出来る事なら聞き無くない、そんな臆病にも似た気持ちが徐晃の中で沸々と湧き上がってくる。
 
「えっとですね……。 『酒屋での一件、ここに返す』 だそうです」
 
 それを聞いて徐晃は全てを納得した。 姜冏は酒場での徐晃が心の中で考えていた事などお見通しだったのだろう、実に悪辣な趣旨返しを考えてくれた。 今にして思えば、村を出るその少し前の対話の時から姜冏は、喉を猫のように鳴らしていた。 それは、賊の討伐に出た将に対して何かを企んでいたのではなく、今の徐晃の姿を想像して漏れた忍び笑いではなかったのだろうか。 それを見抜けなかった悔しさは多分にあったが、それ以上に姜冏のその子供染みた仕返しの仕方に、どういう対応をすればいいのか、おおいに判断を窮した。
 
「それと、これを徐晃様に、と」
 
 そういって差し出されたのは、見覚えのある麻袋。
 
「これは…!」

「『路銀を忘れるとは、片落ちぞ、徐晃殿?』だそうです」

「む、むぅ……。」
 
 姜冏の口調を真似ている事もあってか、何処となく姜維の笑い方に邪なものを感じてしまうのは断じて気のせいではないだろう。 それを笑み崩れた顔で誤魔化そうとしている様ではまだまだ母親の域には届かないが、まだ女性の妖艶な色香が身に付く前の少女の段階で、すでに徐晃をからかうだけの才覚を発揮できているのだから、今後の姜維の成長ぶりを考えれば、その末恐ろしさは推して然るものがある。
 
 差し出された路銀の入った麻袋を受け取ると、徐晃は妙な違和感を抱いた。 手馴れた手付きで袋の結び目を解き中を覗いてみた瞬間、徐晃は目を見開いた。 中に入っていた金の量が、酒場で姜冏に預けた時よりも明らかに多いのだ。
 
「姜維……、これは?」
 
「あっ! それも酒場での一件、だそうです」

「ふむ……。」
 
 行く先を見据えたまま、徐晃は眉根を顰め思案顔のままに、姜維の言葉を咀嚼して飲み込んだ。 酒場の一件、というのは恐らくは、村人たちへの配慮云々の話の事を言っているのだろう。 徐晃は確かに、村人たちには賊の事を悟らせないようにと、姜冏に頼み込んだが、結果として姜維と旅を共にしていた男の登場で、それも流れてしまった。
 
 傍目からみれば、姜冏の采配は賞賛して余りあるものといえた。 錯乱寸前の男が乱入し盗賊の来襲を高々に言いまわれば、それだけで他の村人たちの騒乱ぶりは想像するに容易い。 その一騒動を治めるだけでなく、徒党を組ませ、機転を利かせ果敢にも姜維達の援護にも回らせるだけの心身掌握術を披露してみせた。 だが、当の本人たる姜冏にとっては、確約したにも関わらず結果を出せなかった事事態に不服があったのだろう。 過程はどうあれ、姜冏自身の意に添わぬ結果をもたらしたのならそれ相応の代償を払う事こそが、姜冏の矜持を守ることに繋がっているのだろう。
 
「しかし、これだけの額となると……。」

 姜冏の矜持を守る事と分かってはいても、麻袋の中に入っている金額みれば、一歩身を引いてしまいそうになる。
 
「母曰く『不服なら塩で得た利益の一部を使った些細な礼だと思え』だそうです」

「塩、の?」

「はい、そう言ってましたよ?」
 
 ここにきて、予想もしていなかった物の名が浮上してきた。 徐晃は顎を手で擦りながら、塩と路銀の関連性を見つけようと再び思案顔になる。
 
「恐らく、ですが今回の軍の派兵が関係しているのではないかと……。」

「ふむ、それで……?」

 姜維の常人より抜きん出た才能の閃きが、いままここに覚醒したようだ。 いまだ徐晃が預かり知らない事柄さえ、持ち前の聡明さとその分析眼をもって、条理の外の速度で事の真実に辿り着こうとしていた。
 
「はい。 えと、小規模とはいえ、軍隊を動かせばその分の糧秣は消費されます。 それが騎兵を中心とした編成であればなおの事でしょう」

「そうだな。兎角、馬は大飯喰らいだからな」

「さらに言えば、水の問題もあります。 一度鍋で湯にしなければならず、炊き出しにも薪を使用するとなれば、必要となる薪は通常の二倍以上に膨れ上がることでしょう。 徐晃様の言うとおり馬も数に含めれば、薪だけでも消費量の桁が一つ、二つ違ってくるでしょうね」
 
 そこまで言われて、徐晃の頭の中に閃光が走った。 天水の行軍能力は他の軍隊と違い、兵站集積所を重要視しない傾向が強い。 それが、行動の制約に繋がるからだと知っているからだ。 だから輜重隊に割り振られる人員は、その他の部隊と比べ小規模、ゆえに身が軽い。 だが、そうなってくると大きな問題が嫌が負うでも浮上してくる。
 
「そうなれば、物資の補給をどうするか、だが……。」

「急な出撃に加え、ただでさえ手持ちの少ない糧秣では無理な行軍は不可能。 しかしそれでは賊の討伐は儘ならなくなります。 だからといって、現地徴発を行うのでは本末転倒もいいところですからね」
 
 唇を切り結んで、ただ前だけを見据える徐晃の表情は、さきほどより一段と険しい。 ただの救援にしかみえない今回の一件も、ことを掘り下げて見ていけば、色々な人間の様々な思惑が飛び交っているのだろうが、それを利用しようと画策する姜冏も然る事ながら、断片的な情報だけでここまでのことを推測する姜維の才覚には、もはや畏敬の念を禁じ得ないでいた。
 
「となれば、だ。 物資補給の可能な場所は一つ」

「自領土の天水以外にありませんね」

「すると、天水から糧秣を駄載した輜重隊が、向かってくるわけか……。」

「はい。 穀倉を開くわけですから当然、そこの補給も行われます。 そうなれば、後は母上の目論見通りに事が運ぶのでしょうね。 塩を元手にした資金を巡らせ、太守お抱えの商人達を交渉の場に引きずり出すぐらい、なんのことはないのでしょうから」
 
 そう話を締めくくった姜維の言葉に徐晃は、感嘆を通り過ぎ、呆れにも似た溜息を吐き出した。 確かに、姜維の話の内容からすれば、村の一村長が絡む事のできるぎりぎりの政なのかもしれない。 天水ほどの都市からすれば、多少の出費と考えるだろうが、山奥の小さな村から見れば、それは法外な利益となる。 ただそれを思いつくだけの発想は、いったい何処から湧き出してくるというのだ。 そも、姜維を襲った賊の来襲から端を発したであろうこの一騒動。 そこから姜冏は一計を案じ、他者を出し抜いた上で、利益を勝ち取る。 それらを周到に準備させ、事前の根回しをしていた、となれば話分かる。 だが、今回の一件は、あくまでも突発的なものにすぎない、にも関わらず思考を巡らせ、危険と利益を天秤に掛け、傾ける決断の速さはもはや筆舌尽くし難いものがあった。
 
「まさしく雲の上の話、だな……。」

「私には想像もつかない世界です」
 
「……………。」
 
 少ない情報からすぐに正解へ辿り着いた人間が何を言っている、と危うく口に出しかけた徐晃だったが、寸でのところで飲み込み姜維の言葉に同意するように肩を竦めてみせた。 確かに姜維の知恵がなければ、今回の一騒動の裏に隠されていた秘め事には気が付かなかっただろう。 だがそれでも、と徐晃は横目で揚々と馬の手綱を握る姜維の姿を盗み見た。 自力でことの存在に気が付けなかったのは確かに悔しい。 しかしそれを補って余りある程の好奇心をくすぐる楽しい会話だった。 これはまず一人旅では味わえないものだ。 別段金儲けを考え、おこぼれに預かろうとしているわけでもなく、旅路での暇つぶしの肴として誰かと話す与太話がこんなにも楽しいものだったとは徐晃は、思いもつかなかった。 これが三年前の旅を始めたばかりの頃だったらどう考えていただろうか。
 
 そんな事を思っていれば、徐晃の視線に気が付いた姜維が、慎ましい愛想笑いに口元を綻ばせながら徐晃の方を向いてくる。
 
「何か私の顔についてますか?」

「いや、なんでもない」
 
 もう大丈夫だな――――そう見て取った徐晃は、心の中で安堵の溜息を漏らした。 いくら気丈に振舞おうとも生まれ育った村から旅立つ事に不安を感じないわけがない。 それが少女と呼んで差し支えない子供であればなお更の事である。 村を発ったばかりの頃は確かに不安を押し殺した目をしていた。 しかし、今はどうだろう天水軍の動向を巡った謎解きという緩和も合間ってだろうが、徐晃に笑顔を向ける余裕まである。
 
 今は互いにどういう話題を持ち出せばいいのか判断に迷って、微妙な空白の間が出来ているが、じきに気負うことなく話す事ができるだろう。 妙な沈黙の間のができるなか徐晃は、陽光が燦々と降り注ぐ地平線の先に目をやった。  これから始まる二人の旅路には何があるのだろうか。 まるで憧れの英雄譚を読み聞かされ、はしゃぐ子供のように徐晃の胸の奥で、何かが埋火のように静かに燃え始めた。






あとがき

四話で、原作キャラだすと言ったのに………orz
書きたい事とか、色々やってたらものの見事にグタってしまいました、すみません。

今回の冒頭部分は、分かりにくいとは思いますが、徐晃さんが憑依しています。
えぇ、現実→恋姫世界ではなく 恋姫世界→現実 という感じです。
この辺りが、徐晃さんの並みならぬ好奇心の元といった感じになっております。
ただ色々と制限を設けたのは、現実の知識をそのまま流用させないため、といった事も含めてです。

しかし、恋姫の世界の食事情っていったいどうなっているんでしょうね?
当時からすれば皇帝もビックリな豪華な食事を平民が食しているわけですからね……。
まぁそんな突っ込みは無粋なんでしょうが……。

さて、今回は色々と駆け足で事を進めたため見苦しいく感じてしまいましたら申し訳ないです。
次こそ……、次こそは原作キャラをだせるよう頑張ります!



[9154] 五話・どんな展開であろうが……最終的に…出ればよかろうなの(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:a9da8baa
Date: 2009/07/17 20:19
 岩肌や潅木が延々と目に付く黄土色に染まる急な上り坂を踏みしめる蹄の音が、囁くような雨の中、静寂に包まれた山道に響く。 四方から迫る煙のような霧雨に、虚ろな輪郭を切り抜く影が、二つ。 身に凍みるような雨模様の山中を好きこのんで出歩くような手合いは他にいようはずもなく、彼らの姿を目に留める者は一人としていない。 かたや長身痩躯の白装束姿の徐晃。 隣には、牛の皮をなめした水捌けの良い外套を目元まで深く被った姜維。
 
 その姜維が、雨よりもなお冷えた氷柱のような冷やかな視線で、絶影に跨り横を歩く徐晃を刺し抜いていた。 対して徐晃は、肩を背中を濡らす霧雨に項垂れながらも、姜維の視線には全く動じず、眼中に無いかのように、その眼差しを雨の帳に煙る山道の先を仰ぎ見ているだけだった………。
 
 ことは、姜維の村を旅立って三日目になった昼下がりの事、一つ山を越えればようやく天水が見えるというところまでに差し掛かった時だった。 和気藹々とまではいかなかったが、暢気で静かな旅を満喫していた二人であった。 しかし昼頃から降りだした雨に見舞われ、二人の言葉数は少ないものとなっていった。 立ちこめる水煙の中、雨風しのげるだけの木陰も建物もなく、今となっては肌の温もりを守る程度しか効果はないだろうが、と取り出した牛の皮をなめした黒衣の外套を取りだし、姜維に投げて寄越したのだったが、それがいけなかったのだろう。
 
 生憎と黒衣の外套は一着きりで予備がなく、それに気が付いた姜維が、慌てて徐晃に付き返そうとするのを睨みを利かせて黙らせたのだが、それがおおいに不服らしく、姜維は拗ねたように目を眇めていたのだが、それを無視して徐晃は先を進むのだから、姜維の眼差しが冷えてゆくのも無理も無い事といえよう。
 
 むくれる姜維を宥めようにも、徐晃は何と声をかけてやれば良いのか分からない。 元来が朴訥な徐晃では、秋空のように移り変わる女性の心を響かせる雅な言葉など分かるはずもなく、どの頃合見計らって、どのような言葉をかけてやればいいのかと、悩みぬいたのだが、ついに妙案が浮かばないでいた。 そもそも、姜維の故郷を旅立ってからまだ三日しかたっていないというのに、この剣呑な雰囲気になってしまうとは。 徐晃は我が身の愚鈍さに歯噛みする。

「もういいですよ……。 それが徐晃様の精一杯の優しさなのでしょうから」

「…………なぜそう思う?」
 
 沈鬱な空気を払おうとしてか、姜維は膨れっ面を脱ぎ捨て、笑顔を見せながら徐晃の方を見やる。 だが、会話のきっかけを作ってくれた折角の姜維の心遣いに徐晃は、歳甲斐もなく耳まで赤く染め言い淀んでしまう。
 
「私が濡れて身体を冷やさないようにと、この外套を貸してくれたんですよね?」
 
 徐晃の心中を正しく理解していた姜維は、まるで雲間から日が射したかのように表情を明るくさせる。  姜維としては自分だけが雨風しのげるだけの恩恵を受ける事が、とても心苦しくあり、持ち前の美貌を苦痛に歪ませ、ここに至るまでの成り行きに切歯していた。 だが、それを斟酌できるだけの精神的余裕が徐晃にもなく、姜維の方から折れるしかなかったのだった。
 
「……済まん。 その……。」
 
 何と言葉を送れば良いのかさえ窮する徐晃に、だが姜維は慌てたようにかぶりを振る。
 
「ごめんなさい。 徐晃様は私の為を思っての好意だったのに……。 それを私が意固地になって無碍にしようとしてしまって……。」
 
 姜維の声音の翳りを、徐晃は耳ざとく聞きとがめる。 元を質せば、言葉の足りなかった徐晃が悪いというのに、それを自分にこそ非があるのだと、自身を攻め立てる姜維の無理に繕った笑顔の硬さに、徐晃は己の迂闊さを呪った。 もはや体裁を取り繕っている場合ではない。 こんな風に痛々しい空気の中での旅をさせない為に、己は姜冏から姜維を託されたこのへの覚悟を決めたのではなかったのか。
 
「いや、俺が悪かった……。 済まない……。」
 
 こんな時、どういう手順を踏んで、どんな言葉であえばいいのか、てんで見当が付かない。 ただ己の嘘偽りのない言葉を発することしか徐晃には思いつかないでいた。 そんな己の無骨さに腹を立てながらもさり気なく、横目で姜維の顔を盗み見れば、どこか困り顔で徐晃の事を見据えていた。 徐晃の言葉の意味を噛みしめ吟味して、姜維は徐晃の不器用な言葉を理解しようとする。
 
「………ふふふ。 これでは、二人とも悪い事になってしまいますね?」
 
 いま自分たちの状況が余程可笑しいのか、姜維は破顔して徐晃に目をやった。 こうして、そこだけを見れば年相応の少女のように、その笑顔は純朴で無邪気だった。 

「そうだな。 二人で意固地になって……、まるで子供の喧嘩だ」
 
 さも愉快であると笑う姜維に、徐晃は珍しくも皮肉げな口調で混ぜ返す。 ただそれが徐晃なりに場を和ませようと必死になって考え抜いた末に出てきた一言だったのだが、余人には理解しにくいその気配を姜維は敏く感じ取った。 ただそんな言い様で相手を笑わせようとしたのかと思うと、むしろそれが滑稽でならない。

「はい。 二人とも子供……、でしたね」
 
 まるではしたない現場を見咎めたかのように、姜維は、はにかんだような微笑を浮かべ小首を傾げた。 その所作は淑女然とした気品に溢れ、その取り澄ました微笑に徐晃は、いささか照れ臭そうに顔を逸らして、自然と深く長い安堵の溜息を人知れず漏らした。
 
 そこで徐晃は、はたと気が付いた。 降り注ぐ霧雨の直中で水煙の立ちこめる山中で起こった諍いであったが、それが何時のまにか胸の蟠りと共に解かれていた事に苦笑した。 姜維という少女の不思議な包容力が、徐晃の心を絆していた。 だがそれを不愉快には感じない、むしろ心地よくすらある。 だがそんな事はおくびにも出さず徐晃の表情は努めて平静を装っていた。
 
「恥ずかしい限りだな」

「まったくです」
 
 身体の芯にまで染み入る寒さの中、二人はどちらともなく自然と笑い出した。 ただ同じ景色が淡々と続く単調な旅の中にあっては些細な事でいがみ合う事も起こるだろうが、矢張りお互いに笑いあっていたほうが一番良い。 そんな二人の遣り取りに呆れたとばかりに絶影が嘶く。 徐晃はそれに小さく苦笑しながら雨の帳に煙る先を見据えた。
 
 この先どこか雨を凌ぐ場所が見つかれば、そこで身体を乾かす事にしよう。 姜維は隠しているつもりらしいが、頬は白く濡れ髪にゆれる雫は小刻みに震えていた。 この先の長い旅路を考えれば、それから行動を起こしても遅くは無いだろう。
 
 絶影の踏み込む蹄の音が、雨音の中に響いて、消える。 あとはただ無人の山道を、ただ纏綿とたたく雨だけが残った。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 依然と振り続ける雨の直中、徐晃は眼前の城壁を、雨煙の空に透かして仰ぎ見る。 幾度も改修された分厚い壁には、何百年余りを遡る異民族の大軍をやり過ごした歴史が幾重にも渡り刻み込まれていた。 遺跡と見紛う重厚な城壁は、張り付く苔も合間っていっそ古雅にも見えるから不思議なものだ。 視線を前に向ければ、雨を避けるように早足に門前の検問を抜け、天水の中へと入ってゆく商人風の男たちの姿を見た。 徐晃たちもそれに習い、雨のせいか人の往来の少ない検問へと歩を進める。
 
「通行所」
 
 薄い皮の鎧で身を包んだ警備兵が、槍を肩に預けたまま横柄な態度で手を出しだす。 それに徐晃は涼しい笑みを浮かべたまま懐に忍ばせておいた木簡を差し出した。 墨でしたためられた落款と朱印。 見間違いようもない本物の通行許可書である。 それを警備兵はあろう事か碌に見ようともせず徐晃に投げて寄越した。 それを慌てた素振りも無く空でさらうと、再び懐にしまいこんだ。
 
 検問とは仰々しい言い方ではあるが、これでは素通りと変わらない。 徐晃は警備兵の態度に今にも歯を剥き出しそうな姜維をさり気なく片手で制しつつ、心中で嘆息を吐く。 検問の門兵も余計な事で姜維の機嫌を損ねないでほしいものだ、と独り心の中でごちった。
 
「良し、行っていいぞ」

「―――――ッ!」

 ついには徐晃には、一瞥もくれなかった門兵であったが、その視線は先ほどから姜維の全身を舐め廻ってみていた。 姜維は、まだ少女といって差し支えない顔立ちであっても、女性の色香を漂わせるには十二分な体躯は、雄の欲望をそそらせるものであった。 それをまるで蛇に這わせるかのような淫靡な凝視で眺められたとあっては屈辱以外のなにものでもないだろう。 さすがの姜維もこれには耐え切れたものではなく、憤懣やるかたない様子で、何の迷いも無く検問を一人先に抜けてゆく。
 
「お前もさっさと行け」
 
 気怠げにそう嘯いてから、門兵はやっと徐晃のほうへと視線を向けた。
 
「お勤めご苦労様でした」

「ふん……。」

 徐晃は門兵の視線を馬上より正面から受け止めながら、しかし胸の内では皮肉を織り交ぜつつ、姜維の後を追った。 検問所を抜け城門をくぐってから先に見える町の様子は、静かなもので街中を闊歩するもろもろは、今それぞれの住処に潜んで、雨をやり過ごしているのだろう。
 
「この調子では後がもたないぞ?」

「知りません!」
 
 すげない姜維の返事に、徐晃は大仰に肩をすくめる。 それを見た姜維は、徐晃に当り散らすのも筋違いだと理解しているのか、深く吐息をついて何とか溜飲を下げようとしていた。 脱力した姜維は疲れ切った様子で普段以上に肩を縮めている。
 
「門兵の態度はそんなに気に食わなかったか?」

「はい。 いっそ戦場であればどんなに楽だったか………。 と、言いたいところですが」
 
 怒気をやや神妙な色に曇らせて、姜維は何やら不本意そうに眉を顰める。
 
「正直なところを言えば、どれだけ軍律を厳しくしようともあの類の人種が炙れて出てくるのは、理解しているつもりです……。 ですがッ!」

「ああいった手合いは好かん、か」
 
 門兵に見せた涼しげな笑みを貼り付けたまま、徐晃は、固い口調で先回りした返答を返す。
 
「だが、あの具合であるから、此方も時間をかけずに天水内へと入れた」

「………………。」
 
 徐晃の諭すような言葉に姜維の表情は、苦虫を噛み潰したかのように渋かった。 群れて他者の財産を奪い貪る賊にでさえ、誰何をする程の誇り高さを魅せる姜維からすれば、職務怠慢どころではない門兵の所業は容認しがたいものなのだろう。
 
「これが、風の便りに聞いた洛陽北部尉どのでは、こうはいかんだろう」

「洛陽……北部尉…?」

「あぁ、噂に聞く北部尉どのは、着任早々、違反者に対して厳しく取り締まったそうだ。 その厳しい取り決めの中には、城門の"夜間通行の禁令"というのがあったようでな……、それはもう筆舌尽くし難いほど厳しいものだったそうだ」
 
 いつもとは違うどこか剽げた口調で、徐晃は姜維を見やった。 その口元には話の内容を反芻しているのか、遠慮の無い笑みに歪められていた。
 
「それがある日、霊帝の寵愛を受けていた宦官・蹇碩の叔父が、門の夜間通行の禁令を犯してしまってな……、多分に漏れず厳しい罰を受けたそうだ」

「そ、それでその人は……。」

「百叩きの刑に処されたのだが………、一発目で死んでしまったそうだ」

「あ……、それは……。 その、とても不味いのでは?」
 
 姜維の反応が予想通りのものだったらしく徐晃は、もはや抑えられぬとばかりに弾けるほどの哄笑を轟かせた。

「あぁ、とても不味いだろうな。 しかし北部尉どのは、その時、何と言ったと思う?」

「えと、何でしょう」

「『ならばよしッ!』だそうだ」

 たしかに法を遵守することこそ、平和への第一歩と言えるだろう。 だが、北部尉と宦官の叔父という、圧倒的な隔たりを考えれば、まずそのような暴挙にはでない。 それに加え、宦官の叔父殺しの後の台詞を思えば、さしもの姜維であってもこれには目を剥いた。
 
「まぁ……、これは極端な話ではあるが、な。 それに比べれば先ほどの門兵など可愛いものだ」
 
「それは……、そうですけど」
 
 たしかに徐晃の話に聞く北部尉の例は極端ではある。 しかし馬鹿げた話だ、と断じるには些か以上の迫力がある。 だが姜維は、彼女自身も得心がいかない面持ちままであった。 ただ徐晃の話は判らないでもない。 姜維は絶影に結わえられてある狐の毛皮に横目で視線を向けた。
 
 そう、例えるなら今の話しに出てきた北部尉は、この狐の毛皮。 そして先ほどの門兵は犬の毛皮と言ったところだろう。 それが同じ毛皮という種類に区分されていたとしても、同じ値段が付くということは絶対にありえない。 どれほど質が悪くあったとしても狐の毛皮は狐、犬の毛皮は犬であって、覆すことの出来ない『格』というは現実には存在する。 つまり徐晃が言いたい事は、そういう類の話なのだ。
 
 門をに面した大通りの横切り二人は、憮然と歩み進め目的の建物へと向かう。 そこは大通により二区画外れた細い道を通った場所にあった。 慎ましくも、しかし老朽とよぶにはまだ若い店構えの宿屋の前で、二人は馬の手綱を引き、そこで停止する。
 
「では、厩へ行ってくる。 先に行って部屋を確保しておいてくれ」

「はい。 わかりました」
 
 姜維が馬の背から降り、自分の必要な荷物と徐晃の分の荷物を両手に抱え、宿の中に入って行くのを見送ってから徐晃は、二頭の馬の手綱を握り厩へと向かった。 絶影達もようやく雨風の中の移動という苦行から開放されると分かってか、徐晃を急かすかのように嘶いた。 絶影達を厩に入れると、そこには宿屋の丁稚と思われる者が二人おり徐晃を姿を認めると、いそいそと徐晃に近づいてきた。
 
「これは、これは。 旦那様」

「いけません旦那様。 そのような瑣事に旦那様の手を使うなど、さぁ私どもにその手綱を」
 
 近くで見れば、鏡映しのような容姿をしており一目で双子であるということが分かる。 徐晃から手綱を受け取ろうと、手を差し出す所作でさえ鏡に映したかのような一致ぶりで、その一糸乱れぬ動きは見事の一言に尽きた。

「あぁ、では頼む」

「確かに」

 涼しげな笑顔を浮かべたまま徐晃は、握っていた手綱を双子に手渡す。 それを恭しく受け取る双子の片割れ。 その動作からはこの宿屋の主から厳しく躾けられている事が、よく見て取れた。 兄とも弟も知れぬ、徐晃から手綱を受け取った方から、絶影の手綱を受け取ったもう片割れが、まったく同じ声音で後の言葉を引き継いだ。

「承りました」
 
 手綱を受け取った後は、淡々と己の作業をこなす双子を尻目に、徐晃は宿屋へと向かい歩き始めた。 その宿屋は大通りから少し外れた場所、という少し不便な立地であるにも関わらず、雨の影響か、それとも宿屋の主人の手腕によるものか、中々の賑わいを見せていた。 一階にある受付場にはこの宿屋の主であろう老人が、奥まった一角に設けられてある卓上で、喧騒の賑わいを見せる旅人たちを、初雪を思わせる白髭の束を手でしごきながら、好々爺然とした朗らかな笑顔を浮かべて、見守っていた。 そして、宿の入り口から入ってきた徐晃を見ると、顔中の皺をまるで伸びきった餅のように弛みきりった破顔で、出迎えてくれた。

「二階の一番奥、窓側じゃよ」

「二階の奥……、分かった。 ありがとう」
 
 姜維が老人に徐晃の特徴を伝えておいてくれたのだろう。 徐晃が説明するまでもなく、老人はふるえる身体でさも大儀そうに階段を指差した。 宿泊料は先でも後でもいいのだが、先に払っておいた方が、宿の主にも覚えがいい。 徐晃は、懐から路銀の詰まった麻袋を取り出すと、老人の目の前に置き、手垢の染み付いた手摺を伝って階段を上っていった。
 
 ぎしり、と今にも底が抜けそうな嫌な音を立てる廊下を歩き、老人の指示通り二階の一番奥の部屋の前に立つ。

「姜維、あけるぞ?」

「はい、どうぞ」
 
 打てば響く、母親譲りの上質な鈴を転がしたような耳心地の良い声が、部屋の中から聞こえてくる。 徐晃が部屋に入ると姜維は、既に寛いでいたようで、椅子の上に旅装束を丁寧に折りたたんで置いておき、今は寝台に腰掛け、濡れた髪を布で丁寧に拭いていたところだった。 徐晃も分厚い布地越しに、肩を背中を冷やす重く濡れた服を脱ぎ捨て、雨のしみ込んでいない、いつも通りの白装束の衣服を着込む。
 
 濡れた衣服はいったん椅子の背にかけておき、徐晃は閉じたままの木窓に手をかけ、開け放つ。 僅かながら外よりは温かい部屋の空気とは入れ違いに、冷えた外気が徐晃の頬を撫で部屋の中に侵入してくる。 それに姜維は不満を漏らすことはなく、それよりも濡れた髪を乾かすことの方が重要なのか、丹念に雨に濡れ艶やかな色彩を放つ髪を梳いていた。
 
「ふぅ…………。」
 
 旅路の疲れからか、深く長い溜息を漏らした徐晃は、開け放たれた木窓から外をみやる。 徐晃たちの泊まる部屋は、通りに面していたらしく、街の情景が良く見て取れた。 空に目をやれば、いつの間にか雨は止んでいたようだが、空は相変わらずの翳りを見せていた。 ただ遠方を眺めれば、雲間を裂いて数条の光が大地に差し込んでいるのがみてとれた事から、雨はもう降らないのだろう。 今は雨を嫌い、各々の家や、路地の隙間で身を潜ませていた露天売り達も活動を再開する事だろう。
 
 徐晃は、もう一度肺に溜まった空気を吐き出した。 旅の疲れも幾ばくかはあるが、それよりも腹の減りの方がこの場合の重要度としては、大きい。 もう少ししてから露天でも出始めたら二人で食べ歩くのもいいかもしれない。 徐晃は木窓の冊子に手をかけ閉じると、脱ぎ捨てた衣服を纏め上げ、衣類を乾かせる場所が無いか、老人に聞いてみようと姜維に一言、二言、言い残すと、どんな仕事も厭わない真面目な下男よろしく部屋を出ていった。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 二人が街にでたのは、ほどなく夕焼けが西の空を茜色に染めようかという頃。 ウナギの巣穴もかくや、という細い通りを抜け出し、宵の頃に染まる太守の住まいたる城を正面に捉えた雑踏の賑わいを見せる大通りへと出向いた。
 
「活気がありますねー」

「そうだな、雨が降っていた時は猫の子も居なかったというのに……。」
 
 にこやかに周囲の雑踏を見渡しがらも、二人の歩調は毅然としており淀みが無い。 時折、徐晃がふと足を止め、物珍しそうに露天に居並ぶ商品を手に取ってみたり、特産品の説明のあれこれ等を姜維に聞いてみたり、さも楽しげに通りに居並ぶ露天を回っていった。 しかし、徐晃は商品を手にとっては見ても、決して散財したりせず眺めているだけ、というのが姜維から見れば不思議に思うことであった。 喧噪の中に紛れ込みながらも、まるで自分が部外者であるかのように、一定の距離を保ったまま慎ましく街の営みを見守っているかのようにも見て取れた。
 
 そんな事を考えていた姜維の背後で、突如、雑踏の賑わいを見せる露天市の中にあっても、一際豪快な声が響き渡った。

「れえぇぇぇーーーん!!」
 
 驚きのあまりに振り返ってみると、薄花色の羽織を肩にかけた女性が、鬼もかくやという形相で、姜維達の横を走り抜けていった。 この辺りではまずお目にかからないであろう珍しい羽織を着た女性が、向かった先は一件の露天。 そこには、はたして"レン"なる人物を見つけたようで、あわやそのまま駆け抜けてしまうのか、というところで、土煙をあげながらも急停止する。
 
「恋! こんな所におったんかいな」

「…………霞」

「賈っちが、もっんの凄い剣幕で探してたで。 早ぅ城に戻り」
 
「………………(フルフル)」
 
 食ってかかる勢いで迫る羽織を着た女性………霞であったが、それを拒む恋。

「あかん! アンタを連れ戻さんとウチが、賈っちにどやされる」
 
 心底"賈っち"なる人物に何か言われるのが嫌なのか、霞は嘆きの言葉を吐き捨てるのだが、それでも恋は首を縦に振ろうとはしない。 そのまったく話の通じない恋の様子に、霞は頭を掻きむしる。 ともかく、今の恋は何か問題を抱えているらしく、それを如何にかしない限り、梃子でも動かないつもりらしい。
 
「……………肉まん」

「肉まん? 肉まんが、どなんしたん!」
 
  どうやら恋は肉まんを買っていたところらしい。 だがそんな些末な理由の為に、謂れのない小言を賜ったとあっては霞とてたまったものではない。
 
「…………………………………お金、ない」

「はぁ? ………はぁッ!? まさか恋!」

「………………………………霞、お金」

「財布はどないしたん?」

「…………………………………忘れた」

 空気が割れんばかりの勢いで捲くし立てる霞に対し、風に吹かれる柳にのように霞の苛烈な攻め立てをいなす恋の様子を傍目から見れば、どこか滑稽であるとすら思えるほどである。 しかし当人たちからすれば、そのような第三者の目を気にしていられるほどの余裕などあろう筈もなく、霞の勢いは更に増すばかりであった。
 
「アホッ! このドアホ! もうええ! ウチが立て替えとくさかい、早ぅ、城に戻り!」
 
 余程ことを急するのか、切羽詰った霞は、恋に駆け寄ると、持っていた財布を露天の支給台の上に置いた。
 
「これでええやろ! さぁ戻り! いま戻り! すぐ戻り!」

「へい! 肉まん、お待ち!」
 
 まさに、狙っていたとしか思えないほどの絶妙な頃合で、肉まんが出来上がった。 ただ露天の亭主からすれば、これほど迷惑な客はそうはいないだろう。 霞の第一声の大きさから言って、営業妨害だと蹴り飛ばされたとしても文句は言えない。 しかし亭主はもはや慣れたと言わんばかりの諦めにも似た表情を笑顔の中に隠したまま、注文された肉まんを用意する。 金を支払うとあっては、商う側としては難癖を付けるには、相手が悪すぎる手合いだと亭主は心得ているからだった。

「………霞、ありがと」
 
 露天の亭主から、頭さえ隠れてしまうほどの肉まんの詰まった紙袋を受け取った恋は、満足げに頷いて、出来立ての、齧り付けば肉汁が滴る熱々の肉まんを一口に頬張りながら、さきほどまでの問答など無かったかのような悠々とした足取りでその場を後にするのだった。
 
「はぁ……、やーっと肩の荷が下りた」
 
 そう言って安堵の溜息を漏らした霞であったが、その背後からひょいと差し伸べられた手が、霞の肩を掴んだ。

「張遼将軍……、御代を」

「えっ……と、もしかして……、足りてへん?」

「はい」

「あっちゃぁ……。 この前、老酒買ぅとったの忘れとった……。」
 
 恋と霞との遣り取りの間に見せていた諦観にも似た笑みを浮かべていた亭主ではない。 今は意地でも足りていない代金を支払ってもらうぞ、という商魂を感じさせる満面の笑みに染まっていた。 それを心底悔しそうに呟く霞の声は、現状から考えるなら呑気に過ぎる言葉としかえいない。 金の絡んだ商売人ほど、この世で怖いものはないのだから。
 
「おっちゃん、すまん! ちょいと負けてくれへん?」

「張遼将軍の頼みであれば、一個や二個程度…。 ですが……。」

「結構な量になるん?」

「はい。 これほどに」
 
 そういって差し出された請求書には、霞が予想していた桁数をさらに上回る額が掲示されていた。

「あ、あー。 不味い、こりゃ不味いで……。」
 
「こちらも商売ですからね……。 払う物はしっかりと払ってもらわないと」

「分ぁーっとる。 しかし、どないしようか……。」

 この亭主がその気になれば、城に肉まんの代金の請求を出すこともできるだろう。 そうなれば、小言を受けるどころの話ではなくなってくる。 それは霞としても御免被りたいところではあるのだが、如何せん先立つ物がなければ、話が進まない。 ふと腰に携えた自分の獲物に目をやり、慌てて首を振る。 自分の命の次に大事な偃月刀をたかが肉まんの代金の肩代わりに使うなど、想像することだけでも嫌気が差す。 しかし、後に残る物といえば一体何があるだろうか。
 
「亭主、これで足りるか?」

「は……、はぁ……、これだけあれば充分に」
 
 困窮のうちにあった霞であったが、その時彼女の背後から差し伸びてきた手の内から、幾ばくかの金銭が支給台に転がった。 突然の出来事、そして何より武人である自分が、気が緩んでいたとはいえ容易く背後を獲られたという二重の驚きと共に霞は、己の背後に立つ長身の白装束の男に目をやった。
 
「アンタは、いったい……。」
 
 呆気にとられた霞に、長躯の白装束姿の男は持ち前の涼しげな笑みを送る。 それが、張文遠と徐公明との情けなく慎ましい最初の交わりであった。






あとがき

出すぞ、出すぞと言っていた原作キャラをついに登場させることができました。
会話自体は短いものですが、それでもそのキャラクターの"らしさ"というものが出せていればいいな、と思っています。

しかし原作の恋は可愛いですよね。 恋かわいいよ恋
いや、霞も好きなキャラの一人ですが……ね?

さて、話が飛ぶのですが、三国志に登場する人物の名前って、本当に難しい漢字ばかり使いますよね。
もう探したり、調べたりするのも一苦労ですよ。 まぁそれも書き手としては楽しい事の一つではあるのでが……。




[9154] 六話・超低温は「静止の世界」だ…、低温世界で動ける肉まんはなにも(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:a9da8baa
Date: 2009/08/10 19:12
 雑踏の賑わいを見せる酒屋はまさに戦場宛らの有様だった。 飛び交う注文の嵐に給仕は、半ば転びかけるかような形で右往左往の大忙しさぶりを見せ付けていた。 姜維達が囲む卓にも前菜をつまみに老酒をたんまりと注いだ徳利と杯を片手に、いつものように涼しげな笑顔を浮かべる徐晃。 それだけならば、さして問題ではないのだが、姜維と差し向かう形で、徐晃の隣の席に座る異物が、約一名。
 
「なんで、こうなったんだろう………。」
 
 何処か別の席が大いに賑わっているようで、姜維の独り言は誰に聞かれるでもなく掻き消された。 半ば宴会も同然の賑わいを独り寂しく身を縮こませつつ、卓上に並ぶ料理を箸でつまみながらも姜維は、未だこの現状に至った理由を持ち前の聡明な頭脳をもってしても導き出せないでいた。
 
「いやぁ、良い呑みっぷりやなぁ晃ちゃん」
 
 徳利を片手に並々と器に酒を注ぐ異物……張遼は、かなりの酒豪である徐晃をいたく気に入ったのか、心底嬉しそうな笑みを浮かべている。

「あの時の啖呵と言い気風の良さもそうや、ホンマ晃ちゃんはかっこええなぁ。 いっよ! 男前!」

「はは、そう褒めても何も出んよ」

「あるや~ん。 こ・れ・が」

「そうだった……。」

 返杯にと杯に注がれた燈色の液体をごくりと飲み干す張遼に、徐晃も愉しげに微笑する。 しかし和やかに進む談笑の中にあって、生まれてこの方酒を嗜んだ事の無い姜維には、理解しかねる世界であった。 憚りなく大笑する張遼に対し涼しげな微笑で返す徐晃。 この二人を眼前に置いては、口にする料理の味が何故か不味い。 胃の下辺りに蟠りを感じるのは、果して食べ過ぎのせいなのだろうか……。
 
「あの時の晃ちゃんは、確かにかっこええ…、でもなぁ……。」
  
 杯を手に揺らしながら張遼がぽつりと、そう漏らした。

「義侠心とかそんな理由やあらへんやろ? ウチに近づいた理由は」
 
 今まで磊落に笑い飛ばしていた張遼の笑みが、ここにきて消えうせた。 そして冷淡に感情の無い顔で、低く押さえた声で徐晃に問いかける。 今までの馴れ合いめいていた空気は、何処へ行ったのか、姜維は箸を口に咥えたまま張遼の突然の変貌に着いて行けず、目を丸くして固まった。
 
 しかし徐晃は、はたして張遼の口上に耳を傾けていたのかどうなのか、ただ黙々と手に杯を口に運んでいた。 だが、姜維は見ていた。 その口元に浮かぶ表情は、彼女の記憶にも新しい。 五十を超える賊を前にしてなお浮かべていた刃物のような怜悧な眼光。 それが今、張遼と真っ向からぶつかっていた。
 
「あぁ、違う」

「それで……?」
 
 どう見ても和やかさとは程遠い様子の張遼は、徐晃の言葉に何らかの行動を起こすかと思いきや、その先を促すに留まった。 俄かに尋問染みてきた場の空気になってから姜維もようやく、この話の流れを了解しつつあった。 これは見えぬ鍔迫り合いによる剣に依らぬ戦いなのだ。 そして張遼はそういう間合いに踏み込んできのだ。 足運びではなく言葉で。
 
「そもそも俺が天水に来たのは、噂に聞く涼州騎兵隊をこの目で確かめたかったからだ。 ただ、一介の武芸者にはそれは難しい。 ならば目的を果たすには軍の者の紹介が必要となるだろう」

「軍の関係者なら誰でも良かったんか?」

「それは違うぞ、張遼殿」

 張遼の追及を、徐晃は漫然と被りを振って否定する。
 
「あの露天で会った少女との遣り取りをこの眼で見て、俺は確信した。 同僚の者の火急にも駆けつける義に厚いこの御仁ならば、悪い事にはならないだろう、と」

「………ッ」
 
 徐晃にそう評されても、張遼としては、とても素直には喜べなかった。 彼女が、城中を駆け回り、最後には城下にまで足を運んだのは、ひとえに自軍の軍師の怒りから逃れる為なのだから。 無論そんな事情などは徐晃は露も知らないし、徐晃が口にした言葉の一つ、一つを拾ってみても悪意は何一つ無い。
 
 徐晃が途方も無い見当違いな誤解をしている事は重々承知している。 だが、そんな張遼に対して何一つ悪意のない言葉だからこそ、己の行動意識の小ささを恥じて、彼女自身が深い自己嫌悪感に陥るには充分すぎるものだった。 数拍の沈黙の間に張遼は、何を言うべきかと思考を巡らせ、そしてかぶりを振る。
 
「ウチはな………。」
 
 言いさして、張遼は杯の中身を一気に煽った。 言い繕った言葉など不要。 大切なのは真正面からぶつかってきた徐晃に対して、此方も相応の言葉で返答するという一点のみだ。
 
「そんな理由で、呂布ちんを探してたんやあらへんねん」
 
「……………。」
 
「ただの自己保身。 それだけや……。」
 
「いいや、違う」
 
 断固として、巌のような声で、徐晃は否定する。
 
「それだけならば、自らが探さずとも良い話だ」

「何を………。」
 
 眉一つ動かさない徐晃の言葉に張遼は一瞬の間、呆気に取られ言葉を失ったが、その後に湧き上がってきたのは、徐晃が己を真っ直ぐ見据えてくる事さえも疎ましく感じさせるほどの怒り。 それが理不尽な物と分かっていても張遼は、それを表情に出さずにはいられなかった。

「何を言ぅてるねん! ウチが呂布ちんを探しに出たのは自分の為や! そんな奴の何処が義に厚いんや!」

 自身の中にある矜持の欠片が、ただ己の不甲斐無さ、弱さを許せなかった。 徐晃に心情を吐露したのは、慰めの言葉をかけて欲しかったわけではない。 短い酒宴の席ではあったが、徐晃の性格の一端に触れ、改めて張遼は徐晃の人柄の良さを気に入っていた。 むしろこの程度の事で気兼ねなどされては屈辱とさえ言える。 認めた相手だからこそ、徐晃からの慰めの言葉は、嘲笑されるのと同等の恥辱だった。
 
「それにな! 人を使おうと思えば使えたわ! ただそん時は偶々使わんかっただけや!」

 とどめとばかりに喝破する張遼。 だがそれを受けてなお徐晃は、なお涼しげな笑みを浮かべたままかぶりを振って、張遼の言葉を否定しにかかった。
 
「偶々? いや違う。 張遼殿はわざと人を使わなかった……。」
 
 杯に汲み足した酒を一口含んでから、さらに徐晃は張遼を正す。
 
「張遼殿の将軍としての地位。 呂布殿と呼ばれた女性の立場。 それら諸々を含めた上で張遼殿は行動したはずだ。 自分が道化を演じる事で場が丸く収まればそれでいい、と」
 
 子供のような満面の笑みで、徐晃は張遼を見やる。 そう、それは疑うということを知らない純真で無垢な子供と変わらなかった。 度の過ぎたお人好しでも通じない、もはや世間知らずな人間でも苦笑を漏らすほどの無知蒙昧振りである。 そしてそんな徐晃の姿に、張遼一呼吸の間呆気に取られた後、人目も憚らず豪笑する。 その笑いに応じるように、手に持った杯の中身が大きく波打ちその勢いを増す。

「いやぁ~。 ウチ以上の阿呆が……、まさかおるとはなぁ……。 駄目や……ぷっ! 負けや、負け。 問答もなにもあったもんやない」
 
 弾けるほどの哄笑を張遼は必死で堪えようともがいているのだが、あまりの可笑しさに抑えきれぬのか、総身を小刻みに震わせながら、今なお口元から笑いが零れ落ちる。 いるのだ、条理の理など遥か彼方まで吹き飛ばした、その先の域に辿り着いてしまったどうしようもない馬鹿とういのが。 ただの少年であった頃からあった童心の夢想を、遠き日の憧憬を、今も変わらず胸に燃やす男が。
 
 そう理解してしまえば、何と今までの問答の馬鹿馬鹿しいことか。 そんな事で憤慨していた我が身のなんと矮小なことだろう。 少年相手に同じ土俵で対話しろなどと、傍目から見れば、呆れる話ではないか。 何が面白いのか不思議なほど無邪気に笑った顔を浮かべる徐晃を見やって、張遼は苦笑を漏らした。
 
「堪忍な、晃ちゃん。 最近、この界隈も物騒でなぁ……、ウチもちょっとばかり気が立ってん」

「構わんさ……。」
 
 徐晃の声はいつにも増して物静かで、どこか優しげな者だった。
 
「気にしていない」

「そうか? 助かるわぁ。 それで晃ちゃんは、騎馬演習を見たいんやったか?」
 
 唐突な話の切り替えだとは、徐晃は思わなかった。 蟠りを残さず、私情を差し挟む余地なく切り捨てられる張遼の精神性は、武人として徐晃にも感じ入るものがあったからだ。 ただ姜維にはまだその辺りの理解に乏しいのか、徐晃と張遼の割り切った潔さに、些かばかり鼻白んでいた。 
 
「精兵揃いであればなお良し、といったところなのだが……。」
 
「んー……。 まぁ晃ちゃんの事は信用したる。 けどなぁ……、賈駆っちがなぁ……。」
 
 張遼はさも困窮したとばかりに、腕を組み唸る。 部外者を軍事の関わる事に、首を突っ込ませろと頼んでいるのだから当然の事だ。 しかし徐晃は此処で引き下がる事はしない。 たとえこれが徐晃の我侭だと分かってはいても、見たいものは見たいのだ。

「まっ、細かい事はこの際、棚上げや。 ええで、神速を謳う張文遠が鍛えた精兵どもを拝ませたるわ。 好きに見物するとええよ」

 ただし、不埒な行動を起こせば容赦なく叩き切る、と言外に含んだ物言いを付け加えることを忘れないあたりは流石、将軍といったところか。
 
「助かる。 この礼は何と言ったらいいか……。」
 
 徐晃と張遼は一先ず握手を交わす。 これで契約は成立した。
 
「ええよ、ええよ。 ここの支払いを晃ちゃんがもってくれれば~」

「ははは、これで済むなら安いものだ」
 
 そう徐晃は嘯いて、まだ杯に残っていた酒を一息に飲み干す。 話がとんとん拍子に進んでいくのを傍から眺める姜維としては、一体どうやったらここまで綱渡りな会話を成立させられるのか、甚だに疑問だった。 だが、ともかく姜維は交渉が上手く纏まりを見せた事に人知れずに安堵の溜息を漏らす。 結局のところ姜維は、終始無言のまま二人の遣り取りを眺めているだけに留まっていただけに過ぎず、口に運ぶ料理の味は何故か判然としなかった。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 軍師の小言に船を漕ぎながら頷き、解放されたのは、持っていた肉まんが冷えて硬くなってしまった頃のこと。 温かくほかほかだった頃の面影は無く、今は見るも無残な姿に、呂布は涙を呑んで肉まんを咀嚼する。 あの露天の肉まんは、三国一の絶品であるというのに我が軍の軍師は、それを理解していないらしい。 湯だった水気をたっぷりと含んだびちゃびちゃな生地に、筍のさくさくとした歯応え、滴る濃厚な肉汁は舌が火傷しそな程に熱々である時に食べれるからこそ最高なのだ。 しかしこれでは肉まんではなく、冷まんである。
 
「…………………。」
 
 深い溜息と共に力なく下がる双肩は、見るに忍びなくなるほど窄まっていた。 その悲嘆ぶりは誰であれ同情を誘うもので、道行く人は誰もが一瞬、歩みを忘れて呂布の後を目で追ってしまうほどであった。 暮れなずむ夕陽に、引き伸ばされた影に目を落としながら呂布は、我が家へと向かう。

「…………??」
 
 低く長い塀が延々と続く、時代の節目を跨いでいそうな老朽建築。 古色蒼然だる平屋作りの屋敷は、呂布一人で住まうには広すぎる程の数の部屋があり、それ以上の広大な庭が広がっていた。 いつもであれば、その広すぎる庭を駆け回る家族達で賑わいを見せているはずなのに、今日に限っていやに静かだった。
 
「……………………。」
 
 お世辞にも長閑な界隈とはいえないが、不審な人物が跋扈できるほど生温い警邏は行っていない。 呂布の家の軒先に立とうものなら、その時点で玄関前の門番に捕まった後、裸も同然の姿で、荒野のど真ん中に放り出される事になる。 何より、天下の飛将軍と名高い呂布の名は伊達ではない。 暗殺者の類など、目の開かない子猫も同然だ。 何となれば万の軍勢でも叩き伏せたっていい。 それは決して大言壮語などではなく、それをこの界隈で笑い飛ばす者がいたとなれば、そいつは余所者である。
 
「………セキト、どこ?」
 
 だが、出たのだ。 その余所者が。 普段であれば真っ先に呂布の胸に飛び込んでくる相棒の姿はおろか、鳴き声すら聞こえてこない。
 呂布は総毛立たせて、辺りの気配を窺う。 それだけで冬の冷たい夜気もかくやというほど周りの空気を数度下げるまでに至った。
 
 一端に武芸に身を置く者であれば、うなじの毛が逆立つほどの圧迫感が数瞬の間、続いた後、呂布は勝手知ったる我が家の庭を歩く。 呂布とその家族と僅かな使用人だけでは些か広さを持て余す庭の奥。 そこには、呂布とその家族のみが、使用する中庭が存在する。
 
 繚乱に咲き散る桃の花。 まるで満ち満ちた生気が、蕩々と湧き上がるかのように爛漫と咲く白い花弁が、そよ風に揺られ飛沫を散らすかの如く盛大に宙へと舞い上がる。 花香を孕んだ涼やかで心地よい風の匂いが、呂布の心を自然と穏やかにさせる。 ただ眺めているだけでも心安らぐ桃の咲きぶりは、たとえ名門と謳われ名を馳せた者の私宅の庭園であってもこうはいかない。 それが、ただ家族との憩いの為に呂布が、大枚を叩いて設えた物などと誰が想像できようか。
 
「……セキト…。」
 
 うららかな陽光を浴び、舞い落ちる花弁に鼻をひくつかせながら、木の根元で寝息を立てていた相棒を見て、呂布は自然と安堵の溜息を漏らした。 その周りには沸き立つような桃の咲きぶりに心誘われてか、他の家族たちも桃園の中で静かに腰を下ろしていた。 犬、猫と言わず、鷹やはたまた虎といった猛獣までもが、一緒くたとなって寝息を立てている。 ある種、壮観ともとれる光景は古今東西みても呂布の私邸内だけであろう。
 
「……セキト」
 
 呂布はもう一度。 語気穏やかに、桃の木の根元で寝息を立てている相棒を呼ばわった。
 
「クゥーン……、ワフ…。」
 
 呂布の声に、大きな欠伸を一つあげ返事を返す。 他の家族達も家主の帰還に気が付いたようで、一同に大欠伸の合唱を行った後、小走りで近寄ってくると、円陣を組むようにして呂布を囲み、各々が順を追って呂布への愛情表現を行ってゆく。 中でも一番激しいのが矢張り相棒である赤犬のセキトだった。
 
「セキト、くすぐったい」

 顔中を涎でべとべとにされながらも呂布は嫌がる顔一つせず、むしろそれを喜んでいいのか、困ったらいいのか分からない複雑な表情をしながら受け入れていた。
 
「………、ただいま。 みんな」
 
 一通りの歓迎の洗礼を受け止めた呂布は、セキトの頭を撫でつつ、他の家族に目をやる。 それに答えるように無数の獣の咆哮が、天高く突き上がる。 だが、そんな轟音もかくやという中にあってなお、寝扱けている輩が一匹。
 
「…………?」
 
 黒く丸まったそれは、一見すれば小柄な烏のようにも見て取れる。 だがしかし、頭部のぴんっと張った耳と、くるりと輪になった尻尾がそれを否定する。 呂布は静かな足取りで、いまだ木の根元で眠り込んでいる黒胡麻団子のような物体に近寄って、正体を覗き見た。
 
 それは額に白い斑点が特徴的な子犬だった。 ただ呂布は、この子犬を知らない。 どのような雑踏の賑わいの渦中の中にあったとしても、毛並みも顔立ちさえも酷似した同種の者がいたとしても、そんなのは問題ではない。 本当に大切な家族であれば気配だけで見抜くし、この先、どれほど家族が増えたとしても覚えていられる自信が呂布にはあった。 にも関わらず呂布は、桃の木の根元で眠り続けている子犬に見覚えがないのだ。
 
 しかし、ここにきて呂布はある事を思い出した。 普段であれば真っ先に駆け寄ってくる家族の姿をみず、招かざる侵入者を警戒したこと。 しかしそれは、門前に立つ門番の存在と、自身の気配の探りで否定した。 そこから思い至る事がひとつだけあった。 侵入者は動物だったのだ。 呂布はこの天水にその名を轟かせた天下の飛将軍。 だが呂布は、それ以上に動物好きで有名であった。 たとえ見知らぬ子犬が一匹、屋敷に潜り込んでいたとしても、見咎める者はいないだろう。 ただまた新しい家族が増えたのか、と微笑ましい視線を送られるだけで。
 
 珍奇な客人が、不埒な刺客などでは無いのであれば、呂布にとっても望むところであった。 家族が増えると言うことはそれだけで、家族の団欒が楽しくなるという事だ。 それが食事ともなれば最高の調味料の一つとなる。 いま手元にある、見るも無残な姿となってしまった冷まんであったとしても、だ……。
 
 暖かな日差しが白い花弁を煌びやかに映しながら微風に舞って宙に浮く。 呂布は木に身を預けたまま、ただ時を待っていた。 傍らの芝生には、身体を丸めたままの姿勢で眠り続ける黒い子犬。 呂布は風に流れる雲を仰ぎ見ながら、何をするわけでもなく、冷え切った肉まんを口に頬張る。
 
 穏やかに流れる風に揺られて漏れる木漏れ日が、徐々に角度を変えてゆく。 やがて、僅かな身動ぎの気配が、呂布の隣で起こる。 はたと目を向ける呂布の前で、子犬は大きな欠伸をすると、ゆっくりと猫のように背を伸ばした。
 
「………起きた」
 
 まだ気怠さを残しているのか、はたはたと身を振りながら、子犬は身を起こすと純粋無垢な瞳で、傍らで腰を下ろす呂布を見つめた。
 
「よく、寝てた……。」
 
「アフゥ………、アン!」
 
 小躍りするかの如く、元気よく呂布の周りを駆け回る黒い子犬には、舞い散る花弁や生い茂る草花でさえ心躍らせる景観に見えているのだろう。 有り余る力をその小さな体躯で精一杯放出し、セキトを始め他の家族達と戯れる様を見守りながら、呂布は手に持った紙袋から冷え切った肉まんを一つ取り出すと、黒い子犬に近寄りその肉まんを差し出した。
 
「食べる…。」

「……………………。」
 
 しかし子犬は、二、三度鼻をひくつかせただけで肉まんを口にしようとはせず、もはや肉まんには興味を無くしたのか、再び呂布の家族達の下へと駆け出していってしまった。 呂布はそれを放心のていで手元の肉まんを眺めた。 そしてその後から湧きあがってくる不安。
 
 冷めすぎていて好みに合わなかったのだろうか。 食べやすい大きさに千切っていなかったのが、いけなかったのだろうか。 思えばまだ胃袋の弱い子犬に、冷えた肉まんなど与えたら、腹を下していたかもしれない。 なんたる迂闊。 新たな家族に振舞うべきものは、もっと上等な物があったはずだ。
 
 そう思うが否や、呂布は踵を返して、私宅へと向かっていった。 無論、子犬が口にできるような"何か"を探す為でのことだった。 呂布は、ふと庭先に視線を送ったところで、子犬は夢中になるあまり、かなり先の離れた場所で、セキト達と戯れていた。 長らく連れ添った相棒が傍らにいるのなら大事にいたることはないだろう。 信頼を篭めた眼差しをセキトに送ると呂布は、家族たちに背をむけると、後は振り向く事なく、中庭を立ち去った。
 
 夕闇の訪れる頃、呂布が両手で抱えれるだけの羊の肉を携えて、再び中庭に訪れた時には、空にすまし顔の月が煌々と茜色に染まる夕方に顔を覗かせていた。 そんな楚々たる月華の下、爛漫と白い桃花を咲き誇らせる木々の合間を縫いながら呂布は、散漫と彷徨う。
 
「………何処?」
 
 誰に問うとも無く漏れた囁く声が、吹き抜けた一陣の夜風に掻き消されて散る。
 
「セキト……、セキト何処?」
 
 セキト以外の家族たちも呂布の後ろを漫ろと歩いて付き従う。 呂布が中庭を離れた僅かな時間の合間のうちに、相棒と子犬が何の前触れも無く姿を消したのだった。 暗殺者の襲撃さえ瑣事であると言い切れる呂布であってしても、これは掛け値無しの不意打ちだった。 即座に呂布は二匹の姿を確認すべく、しかし心を急くあまりに宛ても無いままに中庭を馳せ巡っていた。
 
「ワン! ワン!」
 
 聞き違いようも無い相棒の鳴き声を聞いたのは、その時だった。 呂布は弾ける様にして空を仰いだかと思えば、颶風の勢いで地を蹴ると、そのままの勢いで一跳びに屋根の上へと登り、暮れなずむ街からセキトの影を探す。
 
 セキトの鳴き声が聞こえてきた以上、呂布の私宅からそう遠い場所には移動していないはずだ。 瓦屋根の上から、獲物を狙う鷹を彷彿とさせる鋭利な瞳で周囲を見渡した呂布は、即座にセキトの姿を捕捉した。 大通りから外れた、旅人を中心に商いを行っている宿屋が立ち並ぶ区画の細くなった路地に、相棒と連れだって黒い子犬の姿を認める事ができた。
 
 しかし、確認できたのはセキト達だけではなかった。 遠目の目算でも身丈八尺はあろうかという屈強な体躯に、冬の満月を思わせる蒼白の白装束の男。 その傍らに犬の耳を彷彿させる癖毛の少女の姿も視認した。
 
 勝手に外を徘徊するのは困りものではあるが、おそらく子犬がその有り余る元気に、ほんの一時も凝っとしていられなかったのだろう、セキトを引き連れまわしてしまったに違いない。 そして両者とも千切れんばかりに尻尾を振り、白装束の男の顔を涎塗れにさせているようだった。
 
 それだけならばまだ良かった。 見ず知らずの者にも愛嬌を振りまくだけなら何ら問題は無い。 その程度の事で目くじらを立てていては大家族の家長など勤まりはしない。 だがそれも、相手がセキト達の頭を撫でるなどの、ごく普通の対応をしていたら、の話である。
 
「あ………。」
 
 ぽつりと呂布の口から、感情を殺した声が漏れた。 呂布の見開かれた目に映ったのは、子犬を抱き上げた男が、あろうことか子犬を小突いたのだ。 そして嫌がる素振りを見せる子犬の額に、尚も拳を押し当て続けている。 それは断じて流し見ていて良い場面ではない。
 
 ぎちり、とやおら危険なほどの勢いで、呂布は自身の獲物である方天画戟を抜き払った。 常人では到底扱いようもない規格外の重量
を誇る方天画戟を肩に預け、その瞳を静かな炎に燃やしていた。
 
 月光を吸って冴え冴えと冷える刃を、凝っと見つめていた呂布の腕が音も無く若鮎のように跳ねた。 刹那、眼前に舞い散っていた一枚の桃花が二つに割れ、続く剣光の閃きを浴びて、さらに形を失ってゆく。 宙を舞う桃花を捉えた呂布の剣戟は、それを切り刻むのみならず、裂かれた花弁はただの一片も地に落ちるだけの質量を留めず、すべて風に流されていった。
 
 かくも軽捷な剣技の冴えは、むろん凡夫の至るところではない。 飛将軍と謳われ、武神に愛された稀代の天才、呂布 奉先のみに許された、まさに入神の域にある功だった。
 
「セキト、黒いの……、いま行く」
 
 白装束の男が、剣をちらつかせた程度で尻尾を巻いて逃げるような匹夫であるのならばそれに越した事はない、二度とこの界隈で顔を見ることはないだろう。 たが、もしも男が、逆上して襲い掛かってくるのであればそれもまたよし。 その時は、剣気よりなお冷えた意識の下で両断してくれよう。 家族に手を上げた者に対して、手心を加えるほど呂布は、情けを持ち合わせてはいなかった。
 
 屋根瓦を踏みしめ、暮れなずむ街の中へと跳躍した際に、踏み壊された瓦が地面に落ちた時には、呂布の姿は既に空には無かった。 ただ後に残った逆巻く風だけが、逆鱗の気配を残して伝えていた。






あとがき

あぁ……、やっと書き上がった。 そういう思いであとがきを書いております。
いったい何が原因だったのかなのか、自分自身でもよくわかっていない状態であります。
普通の日常偏の会話だけだったのだけれどなぁ………。
あぁ……、文才の無さが憎い。

さて今回は、徐晃が何故天水方面に旅をしていたのかという動機について触れてみました。
これで主に姜維のスキルアップに繋がることでしょう。
徐晃には絶影という名馬がいますから、それほどの技量向上には繋がらないかもしれません。

それとサブタイトル考えるだけに一日費やしていただなんて……、死んでもいえないよなぁ……。
ネタが、ネタがねえーんだよォオオォーーッ




[9154] 七話・なっ!何をするだァーーーッ ゆるさ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:a9da8baa
Date: 2009/10/18 15:05
「なぜ、こうなる………。」
 
 徐晃は、誰に聞かれるでもなく、そう独りごちる。 張遼との酒宴を終え、意気揚々と宿泊している宿屋へ戻ってきた徐晃達は、包んでもらった酒場で残した料理を的廬にやろうと厩まで足を運んだのだが、絶影と共に留守番をしているはずの的廬の姿はそこになく、宿の周りから探し、ようやく見つけ出したのは、日も西の地へと埋没しかかった頃だった。
 
 無論、気を揉んでいた徐晃としては、少々の灸を据えてやるつもりで、何時ものように的廬の白く斑点模様のついた額に拳を押し当ててやったのだった。 その時、あらぬ場所から轟と吹き荒れた風が巻き起こったのは、聡明な頭脳を持つ姜維であっても予期出来ない事だっただろう。 徐晃と姜維が共に瞠目して見守る中で、巻き上がる風の中から人影が此方へと次第に迫ってきた。
 
 その影は、僅かではあるが徐晃にとっては見覚えのある者だった。 燃える様な髪に、引き締まった褐色の肌、一分の隙も無い立ち振るまいは、先ごろ張遼と揉め合っていた呂布に間違いなかった。 ただその瞳は、徐晃が見た時の小動物を彷彿とさせる愛らしいものではなく、鬼火のように爛々と燃え上がる双眸は、徐晃を睨み据えていたのだった。
 
 何か彼女の不興を買ってしまったのだろうか。 だが、彼女とは一言だって会話をした事もないのに、どうすれば彼女の怒りに触れられようか。 しかし、と徐晃はかぶりを振ってそれを否定する。 あの瞳の奥に潜むものを感じれば、尋常ならざる何かをしでかしてしまったと考えるのが普通ではなかろうか。
 
 呂布から放たれる掛け値なしの殺気に、姜維も油断無く呂布を見据えつつ、いつでも獲物を抜き放てるよう腰を低く構えるのを徐晃は横目で確認し、ことの動向を見極める事に徹していた。 ただでさえ状況が掴めず混乱しているというのに、徐晃まで好戦的な態度では、最悪の場合には血を流す事になりかねない。
 
「お前……。 離れろ」
 
 静かに、ぞっとするほど静かにそう呟くと、呂布は肩に預けていた獲物を徐晃のすぐ鼻先に突きつけた。 その立ち上る剣気だけで、農民程度の者であれば、泡を吹いて卒倒していたかもしれない。 むろん、徐晃も姜維も各々が一流の武人である。 たかだか鋭刃を振り回されたぐらいで気圧される器ではない。 だが、呂布の言葉の真意を測りかねて、二人は動きを躊躇せざるを得なかった。
 
「黒いのから、離れろ」
 
 刃も同然に冷たく鋭く、呂布は徐晃に告げた。 誰もが身動ぎも出来ない静寂の中に、かたかたと乾いた金属音が入り混じる。 微かながらも、耳に忍び込んでくるその音は、姜維から発せられていた。
 
 無造作に、事も無げに徐晃の眼前に突きつけた一閃に、姜維は震えていた。 呂布の神速の一撃は、確かに見事の一言に尽きた。 武者震いも出てしまうのは当然の事だろう。 しかし姜維が真に震えていた理由は、臨戦態勢にありながらも呂布の一撃に反応しきれず徐晃を庇いきれないでいた自身の力量不足に歯噛みしていたからに他ならなかった。
 
「分かった……。」
 
 徐晃は、まるで壊れ物を扱うかのように、ゆっくりと静かに的廬を地に下ろすと、呂布の指示に従い距離をとる。 的廬と戯れていた時とはうって変わった、能面のような徐晃の無表情さに、呂布は眉に寄せる皺を一層深くさせた。 まるでこの場に相応しくない部外者が自分であるかのような疎外感。 それが呂布を一層苛立たせる。

「だが一つ言いたい。 そいつの名は"黒いの"ではない、的廬だ」

「………テキロ」
 
 そして呂布は気が付いた。 場を包む違和感、彼女を拒絶する空気が地面の方から向けられている事を。 その唸り声は、的廬から漏れていた。 総身を低く、今にも飛び掛らんばかりの構えで、まだ未成熟の犬歯を剥き出しにして、喉から抑えきれぬ威嚇の咆哮を漏らしている。
 
「なんで………。」
 
 拒絶―――そう理解してしまった途端、言いようの無い脱力が呂布を襲った。 なぜ的廬が徐晃に組するのか、呂布には解らなかった。 否、理解したくなかった。 なぜ的廬が家族として迎え入れようとする自分を敵視しているのか、その瞳に宿す色の意味するとこが何なのか、呂布は頑なに理解を拒み、それ故に彼女はそれ以上、ただの一言も発する事ができないでいた。
 
 そんな一人と一匹の視線のぶつかり合いを黙然と眺めながら、徐晃は誰に聞かれるでもなく独りごちった。 何処か大変な食い違いをしているのだろう。 徐晃も、呂布も、それぞれが間違った方向で完璧に噛み合ってしまったが故に起こってしまった展開なのではなかろうか。 そうであれば早急に誤解を解かなければ、互いの為にならない。 徐晃は意を決し、呂布に向け言葉をかける。
 
「その……、なんだ。 何か行き違いがあると思うのだが……、どうだろう?」

「行き……違い?」
 
 徐晃の問いに、茫然自失の態で徐晃を仰ぎ見た呂布は、いまだまともに思考を働かせる状態にはなかった。 未だ嘗て動物達にただの一度も、敵意の視線など向けられた事がなかったのだから。

「うむ。 できれば何故、そこまで憤っていたのかを教えては貰えまいか?」

「…………。」
 
 改めて事の次第を思い起こせば、難なく察する事ができる顛末だろう。 額に拳を押し付けられることをあれだけ嫌がっていた的廬が、今もなお呂布ではなく徐晃の味方に付くということは、互いにそれなり以上の絆で結ばれているという道理に思い至っただろう。
 
「お前………、テキロいじめてた。 だから恋、助けに来た」
 
 だが混乱の極みにあった呂布にはそれを察するるだけの余裕は持ち合わせていなかった。 いっそこの場から逃げ出してしまいたい、獣じみた本能にも似た衝動を抑えつつ、呂布は訥々と口を開くのだった。
 
「そうか……、そうか………。」
 
 吟味するかのように呂布の言葉を深く噛みしめる徐晃の表情は、読む事ができない。
 
「俺と、こいつ……、的廬は共に旅をして来た相棒、でな……。」

「――――――ッ!」
 
 徐晃の告白に呂布は息を呑んだ。 徐晃の話を鵜呑みにするならば、自分はとんでもない事をしでかしてしまったのかもれない。 

「………だから、ありがとう」

 恨みや糾弾の罵倒さえ予想していたのに徐晃の口から出てきたの礼の言葉だった。 これには呂布は狼狽するよりも先に、より徹底的に打ちのめされた。 次いで生まれたのが、いたたまれない恥の感覚だった。 呂布の基準に照らせば、刃を突きつけ高圧的な態度で迫ってきた相手に、ここまで無防備で、寛容な態度を取れる者など存在しなかった。 軍の兵舎の中ならば、新米の雑用係ですらもう少し皮肉混じりの穿った言葉を口にするだろう。 血と乾いた砂の混じる戦場と繚乱に咲く桃園という小さな枠組みの世界しかしらない呂布にとって、徐晃の存在は完全に理解を逸していた。
 
「うん……、ここまで身を案じてもらうなど、こいつは果報者だ。 改めて礼を言わせてもらう」
 
 拱手抱拳の礼で呂布に頭を下げる徐晃をみて、益々惨めさに苛まれながら、呂布はようやく事の事情を飲み込む事ができた。 羞恥を通り越して滑稽ですらある自分だけが勝手に踊っていた喜劇。 その醜態の相手役を徐晃に無理やり押し付けてしまった事は、もはや不運な出来事だとか事故だとか、そんな言い訳すら成り立たない。 この狼藉に対する謝罪はどうすればいいのか。 謝って許されるものなのだろうか。
 
 もしこれが張遼が起こした出来事であったのならば、酒を酌み交わし笑顔で相手の許しを得てしまう程度のことなのだろう。 しかし呂布は元来が無口で口下手な上、表情をあまり表に出さない、そんな彼女を前にしてなお相手は礼の言葉を口にする。 ただただ真摯な態度で呂布に温情を与えているかの様ですらある。 思えば幼少の頃は、文字通り獣同然の生活を送ってからこれまでの間、ここまで自身に非があってなお礼を尽くしてくれた人物は他に居ただろうか。
 
「お礼、いい。 顔……、あげる」
 
「許してくれるのか?」

「恋が、悪い……。」
 
 怒りに任せ徐晃の眼前まで刃を差し向けていた時とは打って変わって、呂布の双肩は力なく窄み込み、炯々たる眼光を放っていた瞼は漣のように小さく揺れ、瞳の奥から溢れんばかりの涙を溜め込んでいた。 徐晃は深く考え込むように押し黙ると、それ以上言葉を発することなく重々しく頷いた。
 
「恋が、恋が悪かった…。 ごめんなさい」
 
「…………。」
 
 深く頭を下げた拍子に震える手に涙の粒が散る。 涙に掠れた喉ではこれ以上の言葉を呂布は出す事ができないでいた。
 
「………、困った。 こういう時、何と言葉をかければ良いのか分からん……。」
 
 優しい声が聞こえた。 見上げれば、徐晃は普段のままの、凪いだ水面の如く静かで、穏やかな微笑で、涙で頬を濡らす呂布を見守っていた。 深く息をついて、ゆっくりと剣呑に凝り固まった空気を解すように、徐晃は喉を詰まらせる呂布をまるで慈しむかのように見つめながら、苦笑を漏らした後、続ける。
 
「礼を述べたら謝られてしまう……。 なんとも奇妙なものだ」
 
 子供の粗相を見つけてしまった親のように、徐晃は目を細めながら穏やかに呟き、嘆息する。 そうぼやいて空を仰いだ拍子に、まるで地獄から込み上げてくる怨嗟に満ちた声と、僅かな衝撃を背中に受けたのはその時だった。
 
「ちんきゅぅぅうぅ! きぃいぃぃっく!!」
 
 あまりの驚きに目を見開き、身を強張らせる姜維を余所に、徐晃はゆっくりとした動作で後ろを振り向いた。 しかし振り向いてみたものの徐晃を驚かしにかかった人物の姿は見えず、念のため左右を見渡すが姿は無い。 さて、如何したものかと頬をかきながら俯いてみれば、敵意に満ちた視線と目があった。
 
「お、おのれぇえぇぇぇ……。」
 
 大きな瞳で徐晃を睨み据える小さな少女。 徐晃をまるで親の敵とでも言わんばかりに怒りで顔を真っ赤にして、呪詛の禍言にも似た地を這うような声を上げていた。 ただ徐晃を蹴り飛ばそうとしたのはいいものの、徐晃を蹴った反動で思い切り良く地べたに腰を打ち付け、その痛みに目尻に溢れた涙を晒しながらも尚、小動物が威嚇するかの如く歯を剥き出さなければ、徐晃もほんの少しはたじろいでいたかもしれない。
 
「……童女よ。 行き成り何を……」

「呂布殿に何をするをするですかーッ!! この木偶の棒!」
 
 打ち付けた腰の痛みと、それに勝る憤怒をもって、身丈からは想像も付かないほどの大声で、徐晃の問いを遮った小さな少女は、鬼女もかくやという形相で、憎悪の念を剥きだしにして徐晃と真っ向から対峙した。
 
「いや、何と言われもな……、ただ言葉を交わしただけなのだが……。」

 少女の容赦の無い敵意の視線を向けられて、徐晃はさも困窮したとばかりに唸りながらも、腹蔵無く話したのだが、少女はそうとは受け取らなかった。
 
「なんですとーッ! 呂布殿を謂れのない誹謗中傷で貶めただけでは飽き足らず泣かせるとは! それでも男なのですか! このぉ……熊男! 熊男!」
 
 少女は最初から徐晃の言葉に耳を傾ける意図がないのか、既に自分の作り上げた寸劇を真実だと確信し、結論としていた。 その上、逆上した少女は、聳え立つ徐晃の腹を歳相応の非力極まる両手の拳を振り回し、連打をくれながら泣きじゃくった。 その光景を傍から眺める姜維は、如何したものかと思い悩む。 事の発端から今までの流れを理解している姜維としては、この理不尽極まる展開に同情の念を徐晃に送ればいいのか、如何様な理由があろうとも力無き少女を泣かせるべきではない、という人道の理に傾くべきか解らず、何とも居た堪れない心地になっていた。 そんな微妙な空気の中で、この状況を打破できる唯一の声があがる。
 
「ちんきゅー……。」
 
 間延びして聞こえそうなほどゆったりとした発言は呂布のもの。
 
「おぉ、呂布殿! 暫くお待ちを。 今すぐ、こやつを成敗してくれましょう」

 陳宮と呼ばれた少女は、犬笛を聞いた猟犬のように、素早く呂布の声を聞き取ると、徐晃への態度とは打って変わった満面の笑みを浮かべ、主に仇名す徐晃に向けて小さな拳を振りかざし、その小さな身体を力一杯に広げて、憎き怨敵の腹目掛けて連打を繰り出すのだった。 その仕草がまるで父親に向かって駄々を捏ねる子供のようで、滑稽なほど勇ましすぎてそれがむしろ愛らしくみえてくる。 だが今、こうして徐晃の腹を叩き殴る陳宮の行動を止めようと動く者が一人。
 
「ちんきゅー………、だめ……。」
 
 呂布は陳宮の襟首を猫を持つように摘み上げると、徐晃から引き剥がしにかかった。
 
「りょ、呂布殿!? いきなり何をなされるのですかぁ~」
 
「殴っちゃだめ、いい人だから………。」
 
 身の丈の視野から、今まで見たことの無い高さまで吊り上げられた陳宮は、ただ戸惑いながら手足をばたつかせていた。
 
「わ、分かりました。 分かりましたから、兎に角降ろしてくだされぇ~」

「ん……。」
 
 そっと陳宮を地面に降ろすと、言葉も無いまま呂布は眼差しを徐晃へと移す。 その瞳は先ほどまであった刃の如き眼差しは無く、風に流れる桃園の花ように穏やかで、静かなものだった。
 
「いったい何をなされるのですか、呂布殿。 あと少しであの独活の大木をけちょん、けちょんにして……。」
 
「ちんきゅ…。」

「な、なんでしょうか?」
 
 言いさした陳宮に向けて、呂布は小さく、だが断固とかぶりを振る。 それ以上先の言葉は駄目だと窘めるかのように真っ直ぐと陳宮を見据えていた。
 
「謝る……。」
 
「なっ! 誰にですか…。」

「あいつ、いい人。 だから謝る」

「な、な、なんですとぉぉおぉおお!!」
 
 陳宮はただの無知な子供ではない。 見かけはまだ子供といって差し支えない小さなその身体、それを統べる頭脳には軍略を初めとし、大人さえ舌を巻く知識さえも積み込まれている。 その聡明な頭脳を持ってすれば、言葉足らずの呂布の言葉でも、言いたい事など手に取るように理解できる。
 
 できるのであるが、しかしそれが陳宮の気性を知っての上でなら、それがどれほど由々しい事なのか理解できよう。 兎角、陳宮が呂布へ向ける敬慕の念はとりわけ強い。 そんな無条件の敬服と信頼を寄せる呂布を如何なる理由があろうとも、頬を涙に濡らさせた手合いに頭をさげるなど、納得できるはずもない。
 
 戦場を雄々しく駆け抜け、万夫不当の豪傑達を束ね上げ、その頂点に君臨する呂布が目を伏せて、なんと侘びの言葉まで口にした。 誰がどう見ても尋常ならざる事態だ。 その光景を極一部であるが、偶然にも発見してしまった陳宮の胸中に、鬱屈した感慨を呼び起こすには充分過ぎるものだった。 あの呂布 奉先が、ただの言葉だけで涙するなどまず有り得ない。 少なくとも陳宮がそのような場面に遭遇した事など一度もない。 そもそも立ち返ってみれば、将軍である呂布が頭を下げること事態があってはならない事なのだ。 たかが武芸者風情では、言葉を交わす事さえも憚られるというのに、呂布の軍師たる自分が、主に代わり狼藉者を成敗するのではなく、頭を下げなければならないのか。
 
「………………ちんきゅ」

「しかし、呂布殿……。」

 柔らかい口調で、自分を呼ばわる呂布であったが、言外に早く謝ってしまえと促している事は、陳宮にも理解できた。 それでも陳宮が口ごもりやり場の無い憤りを噛み殺すのは、言ってしまえば徐晃の事が気に入らないのだ。

「………うぅうぅぅ~。」

 それが例え子供染みた理由というだけで侮蔑の視線を他者から投げかけられたとしても、陳宮は屈辱に顔色を失ったとしても耐え忍ぶ事ができただろう。 しかし、それが陳宮にとって格別の存在である呂布から向けられてしまうとしたらどうだろうか。 そのような事態は想像するだけでも恐ろしい、元より主君と仰いだ呂布の言葉なのだ否はない。 しかしそれでも、と陳宮の中に潜む子供心が謝罪を容認してくれないでいるのだ。
 
「あぁ……っと、呂布…殿、と呼んでも?」

「………?(コクリ)」

「うむ。 では呂布殿、そこまでする必要はない。 俺は気にしていないのでな」

「……(フルフル)」
 
 事も無げに陳宮の謝罪を流そうとしたのは、何と彼女にとって怨敵といえる徐晃からのものであった。
 
「話の一端を聞く限りでは、この子は呂布殿を想って事に及んだようだ。 そして俺は、それを許してる。 ならば呂布殿、後に残るのは謝罪などではなく……、分かるな?」
 
 陳宮の小さな胸中の葛藤を知ってか知らずか、徐晃は澄ました面持ちのまま、小さく口元を緩めて、呂布の次の行動に注視していた。 先ほど徐晃から呂布に贈られたのと同じ言葉を、徐晃は優しく、諭すように呂布へと促す。 呂布は二、三、拍の合間の中で、先ほどの徐晃との会話を思い出すためか視線を宙に移した後、ようやく呂布の中で答えをもたらしたのか、漫然と頷き陳宮へと向き直る。
 
「ちんきゅ……。」
 
 決然と、澄んだ呼びかけの声に、陳宮の肩が一瞬だが危ういほどに激しく揺れた。 呂布の胸元の高さしかない陳宮の背丈から見上げる呂布の顔は、夜の闇が押し寄せる黄昏時の夕日に遮られ窺う事が出来ない。 陳宮は、自身の名を口にした後、門の如く堅く口を閉ざした呂布を、緊張を隠し切れない面持ちのまま、見上げて待つ事しか出来ないでいた。 ただこの呼びかけは、先ほどの徐晃に謝れ、などと言う安い状況などではなく、何か重大な出来事がこれから起こるのだと、まだ幼いながらも聡明な頭脳を持つ陳宮は理解した。
 
「……………。」
 
 陳宮は固唾を呑んで、黙したままの呂布を見つめ、その言葉を待つ。 そんな陳宮の反応に呂布は片膝をついて身を屈めると、陳宮の方へと手を伸ばした。
 
「――――ッ!?」
 
 咄嗟の出来事に陳宮は身を縮めて固まってしまう。 もしかしたら頭の何処かで、呂布にぶたれる事を考えていたせいもあったかもしれない。 しかし、予想に反して身に受けたのは、頭を撫で回す温かい感触。
 
「呂布……殿……?」
 
 恐る恐る目を開く陳宮が見たのは、優しく澄んだそれでも揺るぎの無い、呂布の瞳だった。 陳宮は呂布の手にされるがままに身を任せ呆気にとられたかのように目を見開いた。 そんな陳宮の反応にも呂布はお構いなしに、力加減も分からず陳宮の頭を撫でていた。 ただ呂布も家族と戯れた時とは違う、小さくて繊細な感触に、家族とはまた別の初めて触れる感覚に戸惑いを覚えて二の句が出ないでいたのだった。
 
「ちんきゅ…。」
 
 胸の内の戸惑いを払うかのように、呂布はもう一度、陳宮の名を呼んだ。
 
「ちんきゅ……、ありがと……。」
 
「呂布殿……。」
 
 言いさした陳宮に、呂布は口元に微笑を浮かべ釘をさす。

「守ってくれて、ありがと……。」
 
「………え?」

「ありがと、ちんきゅ……。」
 
 叱責の言葉ではなく、決してこの場では望んでも手に入らないものを賜った。 そう心で理解した瞬間、陳宮の身体の芯に、烈しい痺れが溶け込んできた。 そして堰を切ったかのように涙が滂沱と溢れ出た。
 
 子供心のつまらない矜持の為に主君と仰いだ人の手を煩わせて、困らせて、呆れられても仕方が無い事をしでかした。 本当は自身の勘違いが話の流れを余計に拗らせていた事は、何とはなしに陳宮は理解していた。 それでもなお意固地になって反発して、呂布を困らせた。 そんな陳宮の態度をみてなお呂布は言外に陳宮を許すと言っている。 ならば、その返答を返さなければならない。
 
「呂布…、殿―――」
 
 言葉に詰まりながらも陳宮は、涙を拭う事もせず毅然と胸を張り、揺るがぬ声で返答した。
 
「―――ありがとうございます。 ねねには勿体無いお言葉にございます……。」
 
 陳宮の言葉に、呂布は春風に舞う桃花のように微笑んだ。 その笑みは陳宮にとって、どんな宝よりも得難く貴いものだった。 呂布は陳宮の矮躯をそっと抱き寄せ、涙に濡れるその顔を己の胸に埋めさせた。 不意の出来事に一瞬の戸惑いを覚えた陳宮であったが呂布の温かい胸元に顔を埋めたのだと分かると、全身の力を抜き、身の全てを呂布に任せたまま陳宮は咽び泣いた。
 
「……………。」
 
 二人の遣り取りを眺めていた徐晃はそぞろと足を運び、気が付けば泣きはらす陳宮とそれを抱き寄せる呂布の傍らに立っていた。 すぐ先で肩を震わせる陳宮の、しかし手を伸ばしても決して届かぬ隔たった距離を置いて、徐晃は呂布に視線を落とす。 その絶妙な距離を置いて上から見下ろす徐晃は、朗らかに涼しげな笑顔で一度だけ深く頷いた。
 
 まるで励ますかのように笑顔を手向けた徐晃のそれは、呂布と陳宮、はたしてどちらに向けたものだったのか。 呂布は俯き、それきり泣きはらす陳宮の頭を撫で続けた。 徐晃はそれを満足げに笑顔で見届けると踵を返し、姜維の方へと視線を投げかける。
 
 徐晃の視線の意味を敏く理解した姜維は、無言のまま頷くと、場の空気などお構いなしにセキトと戯れていた的廬を抱き上げ、音も無くその場を後にした。 後は二人の感動的な絵図を邪魔する徐晃が退散するだけとなった所で、徐晃は今まで懐に仕舞っておいた酒屋で包んでもらった料理の余り物を取り出すと、セキトに向かって放って寄こした。
 
「相棒が迷惑を掛けた。 詫び賃代わりに受け取ってくれ」

「ワフ!」
 
 宙に弧を描いた肉片を造作も無く咥えて魅せたセキトに、徐晃は包んであった物を地面にそっと置くと、セキトの頭を一撫でしてから姜維の後を追い駆けて行ってしまった。 あっという間に視界から小さく、遠ざかっていく徐晃の背中を千切れんばかりの勢いで尻尾を振って見送るセキトは、完全に徐晃の姿が視界から消えうせると、地面に放置されたままの酒屋で包んでもらった料理の品にむしゃぶりついた。 その傍で陳宮の頭を撫でていた呂布があっ、と不意に顔を上げた。
 
「名前……、聞いてない…………。」
 
「クゥーン?」
 
 呂布の言葉に食べかすを口元に付けたままセキトは一度だけ首を傾げるが、再び置き土産へと齧り付き始めてしまう。 この場でただ一人、呂布だけが如何したものか、と頭を悩ませるのだが、宵闇の中、空遥か高くに瞬く星々を見て、浅く息を吐く。
 
 まずは自分の胸の中で泣いている少女を何とかしないといけない。 その後は、皆で食事と、問題は山のように残っている。 その後になってもあの白装束の偉丈夫の事を覚えていたら、その時に考えよう。 そう心に決めた呂布は食事に夢中になっているセキトを恨めし気に眺めつつも、まずは未だ泣き止まない陳宮を宥めるところから始めた。






あとがき

あぁ……終わった。 色々と終わりました。
この二ヶ月近くもの間、更新を滞らせてしまいまして、大変申し訳なく思っております。

クソォ!うちのボスが無茶振りしやがるから……ッ! とか色々言い訳はありますが……。 一番の難点は陳宮。 この一点に尽きます。
大人顔負けの知識や思考を持ちながらも、でもやっぱり根っこの部分はお子様。 そして呂布至上主義。 色々と魅力溢れ……ゲフン、ゲフン…、イジリ甲斐のあるキャラではあるのですが、如何せん彼女の脳内の考え方を文章として表すのが難しくて……。
どうも私が書く陳宮は、大人と子供の部分がアンバランスな感じが否めません。 でも陳宮も大好きなキャラなので今後もイジリ倒したいです。

あと、呂布と陳宮、この二人の話し方に違和感がないかちょっと不安です。
ちゃんと原作通りな喋り方してるでしょうか?

そして姜維の影が薄い! ヒロインなのに! どういうことですか、エロイ人!
まぁ……、ほのぼの(?)がまだ続きますので姜維の活躍はまだ先になりそうです。

ではまた次回まで。



[9154] 八話・「ブッ殺す」と心の中で思ったならッ! その時スデに行動は(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:a9da8baa
Date: 2009/11/16 17:06
 燦々と照りつける太陽。 晴れ渡る蒼穹の彼方に、益荒男たちの鬨の声が地をどよもし、蒼天の彼方へと突き抜けてゆく。 その屈強なる体躯と、勇壮に飾られた具足の輝き様は、まさに一騎当千の古強者と呼ぶに相応しい華々しさを放っていた。 その益荒男達の中にあってなお、誰よりも眩く輝きを放つ者が一人。
 
「今や! そらッ! 押して、押して、押しまくるんや!」
 
 馬の背に跨った張遼は、限りなく高らかに隊列を組む騎兵に向け、号令を下す。 それに応えて居並ぶ騎上の戦士たちの咆哮が大地を揺らす。 神速の威名で讃えられる張文遠と轡を並べる事に、誇りと誉れを。 眼前敵には一片の情けも躊躇もなく蹂躙を。 いま昂ぶる彼らの戦意の総和は、大地を穿ち海を分かつまでに膨れ上がっていた。 まして、張文遠の号令が下った今、それを抑える必要もない。 哀れな敵方には悪いがここは大人しく贄となってもらう他、運命は存在しない。
 
「あやや……。 凄いです」

「あぁ、一糸乱れぬ隊の動き、それを可能とした手綱捌き…、見事の一言に尽きる」
 
 容赦なく、躊躇なく、張遼の号令に応じて敵方の軍勢を真っ二つに断ち切って横断せしめる張遼の部隊を見て徐晃と姜維は同時に感嘆の溜息を吐いた。 鏃型陣形が駆け抜け、軍勢の雄叫びが、戦場を震撼させたその後には、算を乱して潰走する『訓練相手』の姿しかなく、こうなってしまっては、いくら訓練を積んだ兵士といえども烏合の衆でしかない。
 
 そう、これは本当の戦場ではなく、それを見越した軍を挙げての演習だったのだ。 しかしこれを訓練と忘れ、自棄にかられ吶喊する者、無駄と承知で逃走を図る者と様々であったが、これだけ無様な醜態を晒した彼ら――張遼隊を相手にすることとなった面々に向かって、謗りの言葉を口にするのは酷な事であろう。 訓練相手に向かって笑いかける張遼とその部下達の視線は、限りなく獰猛で残忍だった。 徐晃との約束を守る為、今まで見せた情けない自分を払拭する為に気合を入れて模擬戦に望んだ張遼だったが、その時すでに彼女は相手側への配慮を頭の隅に追いやってしまっていたのだろう。 裂帛の気迫と共に敵軍を追いに追い詰めていた張遼の笑顔は、とてもではないが人様には見せられたものではないほど活き活きとしていた。
 
「足場の悪い地形でも、あれ程の速度をもって威力を殺さずに行動できるなんて……。 はぁぁぁ、勉強になりました」
 
 うっとりと見入るように戦地を眺める姜維を横目に徐晃は、人知れず安堵の溜息を付いた。 張遼との約束を伝えに来た使いの者が、徐晃たちが宿泊する宿屋の扉を叩くまでのここ数日、付かず離れず傍にあった華やいだ存在感が、嘘のように枯れていた。 まるで開花する寸前だった花が、再び蕾へと逆戻りしてしまったかのような気分を徐晃は味わった。
 
 勿論、姜維の見目麗しい美貌が損なわれたわけでも、ましてや、たわわに実った胸囲が萎んだ分けではない。 こうしている今も刻一刻と将来の美貌を約束された容姿を整えている。 だが、徐晃が気にしていたのは、そういった風貌によるものではなく、もっと内に秘めた覇気の無さに一抹の不安を感じていたのだった。 数日前の黄昏時に呂布と出会って以来、姜維の影の差す姿は、普段の彼女を知る者からみたら明らかな異常と感じる事だろう。
 
 だが、徐晃は落ち込んでいる姜維を見ても、敢て余計な口を挟む真似はしなかった。 そう、姜維が落ち込んでいる理由に心当たりも、なくはなかった。 おそらく徐晃が何となしに質問すれば、姜維は素直に答えてくれたことだろうが、どんな返答が返ってくるか、何となく察しがついていた徐晃には、その答えを聞く事が憚られた。
 
 そのため、徐晃は今日という日が来るまで、敢て問うまいと沈黙を守ってきたのだ。 姜維も姜維で徐晃の気遣いを察しての事か、心内を吐露することも無かった。
 
「良い物が見れた。 此処まで来た甲斐があったな」
 
「そうですね。 私も馬の扱いには長けている方だと思っていたのですが……、あやや、井の中の蛙でした」
 
 濛々と砂埃が立ち上がる戦場を眺める二人の前に映るのは、もはや掃討と呼ぶにも手応えの無くなった張遼の仮想敵の群れ。 これでは挽き臼に粉にされる麦を眺めていた方が、見応えがありそうな様であった。 その中から馬に跨り悠々と徐晃たちに歩み寄ってくる影が一つ。 既に勝敗が決してしまい魅せ場も無くなってしまった張遼が、手持ち無沙汰にと獲物である偃月刀を肩に預けながら溜息を一つ吐く。
 
「すまんなぁ、お二人さん。 もうちっとええ物、見せれると思ったんやけどな~」
 
「いや、充分なものだった」

「はい! 眼福でした」

「ホンマに? だったら良かったんやけど……。」
 
 先ほどまで最前線で兵士たちを鼓舞し、自らも敵陣に切り込みを入れていたとは思えないほどに張遼は朗らかに笑ってみせる。 ただ土煙が舞う戦場に居た為か、頬や艶に模られた服に埃が付着していたことが、唯一の彼女が先ほどまで戦闘をしていた名残となっていた。
 
「んん~。 でもウチとしてはもうちょい気張って欲しかったぁって。 歯応えなさすぎるよって……。」
 
 何事も無かったかのようにそう呟いて苦笑を漏らす張遼であったが、彼女からすればまだまだ暴れたり無いのであろう。 張遼の顔には、仮想敵を完膚無きまでに叩き潰した達成感は無く、むしろ物思いに耽るかのような不満そうな表情を貼り付けていた。
 
「あーあ。 誰かウチを熱くさせてくれる奴は居らんかなぁ……。」
 
 ちらりと横目で徐晃を見やる張遼の瞳に含まれた静かな闘気は、明らかに徐晃を誘っていた。 半端に残ってしまった戦場の火照りが、強き者を求めて疼くのだろう、剽げた口調ではあるものの、その双眸には獣じみた鋭い眼光が宿っている。 しかし、それを受けても徐晃は、涼しげな笑みを崩すことはしなかった。
 
「ふむ。 折角の張遼殿の誘いではあるが、俺は遠慮しよう」
 
 のみならず、あろう事か徐晃は、張遼からの誘いを素気無く拒否してしまう。
 
「代わり、と言っては何だが……、姜維。 お前が受けてみてはどうだ?」

「え……。 私が、ですか?」
 
「あぁ、そうだ。 張遼殿もどうだろう。 こいつを少しばかり揉んでやってはくれないか?」
 
 涼しい顔で徐晃がとんでもない事を言い出している気がするのだが、突然の出来事のせいで頭がよく回らないらしい姜維は、目を白黒させているだけで、事の次第を窺う事しか出来ないでいた。
 
「えっ、おっぱい揉んでええの?」

「だッ! 駄目です!」

「な~んや……、残念」
 
 心底残念そうにそうぼやく張遼に対し、顔を赤くしながらも必死で自身の胸を隠そうとする姜維。

「でも……、一寸だけならええやろ?」

「ちょ、ちょっとって何ですか! 駄目ですッ!」

「そこを何とかッ」

「駄目ったら駄目です! もうッ怒りますよ!」
 
 突如として始まった張遼と姜維の漫談にも似た二人の遣り取りに徐晃は、どう収拾を付けたものかと喉から低い唸りを上げながら、さも困窮したとばかりに、その厳つい拳をこめかみに押し付けていた。
 
「張遼殿、姜維をからかうのもその辺で止めにしてもらいたい」
 
 徐晃の投げかけに、獲物を狙う猫の如く瞳を輝かせ、姜維の胸部に狙いを定めていた張遼は何ら悪びれた風も無く呵呵と豪胆に笑い飛ばした。 それを胡乱げに目を細めて、徐晃の背に隠れて張遼を警戒する姜維は、さながら小動物のような愛らしさを醸し出していた。
 
「やーすまん、すまん。 伯やんの反応が可愛いからつい、なぁ…。」

「というわけだ。 姜維も許してやれ」

「うぅ……。」
 
 不満げに眉根を寄せる姜維に、張遼は邪気の無い笑いを返す。
 
「まっ、ウチは伯やんが、相手でも別に構へんよ?」

「うむ、では後は姜維次第だが……、どうする?」
 
 さらりと事も無げに言われ、姜維は驚きで目を丸くする。 張遼の誘いは冗談ではないにしろ、おそらくは徐晃なりの断りの方便だと思っていたのだ。 しかし二人の厳格な目を見る限り、少なくとも二人は冗談などではなく本気であるようだ。 とはいえ、姜維も張遼に対して思うところが無いわけではない。 胸の事を弄り倒された事を除いても、姜維は張遼に対し幾ばくかの感情を寄せる所があった。
 
「………、分かりました。 お受けします」

「よっしゃ! なら一丁やったるか!」
 
 故に姜維は、この誘いを受けることにした。 一つは純粋に武に身を置く者として、強者と対峙できることへの喜び。 もう一つは、徐晃と張遼が会話をする度に、つん、と微かながらも辛っぽい残り香りにも似た、胸の内に蟠る思いの正体を確かめるためであった。
 
 初めて張遼と合ったとき、あの酒屋の席から姜維の身体に染み付きだしたそれは、姜維自身が、たまらなく不快なものだった。 ここ数日の内は鳴りを潜めていたそれが、今また再び姜維の胸を苛ませる。 胸に蟠る想いを言葉で言い表せず、内心穏やかではない姜維は、言葉を求める代わりに、行動で答えを見つけようと決めたのだった。
 
「ウチはいつでもええで」

 身構えること無く、飄々とした張遼の眼光に火が灯った。 肩に預けた偃月刀を血振りするかの如く抜き払うと、油断の無い構えで姜維と差し向かう形で対峙する。 姜維もまた携えていた長槍を一旋させると体内に沸々と滾っていた闘気を、ここにきて解き放つ。両者の、限りなく透明で凄烈な闘気に、大気が張り詰め耳が痛くなるほどの静けさが辺りを包み込む。
 
 気が付けば二人の緊迫した空気に、先ほどまで天も突く咆哮を上げていた歴戦の兵士たちまでもが集りだし、緊張に生唾を呑みこみながら、声一つも上げずにこの戦いの趨勢を見守っていたのだった。
 
「では……、行きますッ!」

「応! 来ぃ!!」
 
 身構えて待ち受ける張遼の、その偃月刀の間合いに向けて、姜維は一歩を踏み出した……。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 男達は、ただ眼前で繰り広げられる戦いに息を呑んだ。 否、息を吐くことも忘れ脈すらも滞らせる者さえ少なくなかった。
防御を考えぬただひたすらに攻め技の応酬が交錯する。 絡み合うように槍と偃月刀が鎬を削り、舞い散る火花は、まさに百花繚乱の狂い咲き。 激突し相克しあう余波だけで、疾風が吹き荒れ、風圧が二人の頬を浅く抉ってゆく。 より速く、より重く、両者共に相手の一撃を凌駕せんと、苛烈に、そして愚直なまでの真っ向切っての力と力のぶつかい合いだった。
 
 いったい何合競り合ったのか、最早兵士達の肉眼では判別しきれなかった剣戟を交わしてから、やおら両者は距離を開け、互いの間合いから離脱する。
 
「ええなぁ…、ええよ。 伯やん……。 アンタ最高やわ」
 
 姜維を前にして、予想を遥かに上回る死力を尽くした激闘に、身の内から湧き出てくる血の滾りに張遼は凄愴な笑みを浮かべ、凛烈にして透明な闘志を燃やす姜維を見据える。
 
 だが、それは姜維とて同じだった。 攻めの手数の多さでいえば、姜維が圧倒していたのだ。 幾手にも及ぶ目眩ましの虚手を交えての、最早一度ならず二度、三度と急所を抉り、骸にしてなお重ねて殺さんとする鏖殺の一手を放った。 にも関わらず決め手となる一撃は皆無。 それら全てを苛烈に、そして凄絶な太刀筋でもって受け捌いてみせる張遼の底知れ無さに、姜維の総身を武者震いが駆け抜ける。
 
「やめてください。 私には過ぎた賛辞です」
 
「謙遜するもんやないで、その槍捌き、見事の一言や」

「それを言うなら張遼さんもそうです。 私があれだけ攻め立てても傷一つ付けられないなんて……、自信なくしちゃいますよ」
 
 ともに引き締めた緊迫の面持ちのまま、ともに口元に微笑を刻み、互いの次の一手を見計らって睨み合う。 その笑みは、どちらも武を本分とする者だけが浮かべることのできる自らが鍛え上げた技と力を矜持とし、それに比肩する相手への惜しみない畏敬の念の現れでもあった。
 
「ですが、私も此処で終わらせるつもりはありません」
 
 姜維は毅然と言い放つと、武器の構えを改めた。
 
「なッ!?」
 
 張遼が瞠目するなか、姜維は腰に携えた短槍を抜き払うとゆるゆると切っ先を持ち上げる。 右手には長槍、左手に短槍を持ち、まるで翼を拡げるかのように大きく掲げたその構えは、まったく流儀の読めないものだった。
 
 張遼が凝視する前で、白昼の下に晒された姜維の真の戦闘態勢。 その姿に徐晃の肩が危うい程に揺れ動いた事に一体どれ程の人間が気が付いただろうか。 思い起こせばまだ記憶に新しい姜維との出会い。 その折にまさか、と断じた幻惑の殺法。 それが現実のものとして己が眼前に晒された事に対する歓喜、そして何より此処に到るまでその可能性を頭の隅へと追いやっていた自分自身の短慮さに、徐晃は切歯していた。 だがそれも眼前の姜維と張遼の闘争を見ればこそ、である。 今は悔恨よりも目の前で鬩ぎ合う二人に注視することに全力を注ぐことにした。

 主の意を正確に汲む二槍の穂先が蜃気楼の如くゆらりと不吉な光を放つ。 熾烈な鍛錬の末に身につけた姜維のみに許された我流の殺法の前に、これには張遼も戸惑いを隠せないでいた。 先ほどまでの流麗かつ苛烈で無駄のない攻めに主を置いた槍捌きであるならばまだよかった。 たとえただの一刺たりとも捨て置けば致命傷となるものであっても太刀筋は読み取れた。 しかし両手で扱うのが常道である槍をまさか二本も用いるとは如何なる流儀なのか、流石の張遼も姜維の戦法を読みきれないでいたのだった。
 
 あるいはこれも張遼を惑わす一種の策であるのか、と勘操ってみたが、姜維の立ち振る舞いには一切の虚がない。 いかなる研磨を重ねればこの様な槍術を編み出せるのだろうか。 常道である一槍で、ほぼ五分に近い技量を誇った姜維の槍捌きを思えば血の滲む様な修練を積んでいた事は、競り合った張遼は手に取るように理解できた。 ましてそれに加えた二槍での鍛錬も、となれば吐血程度ではすまないだろう。 やおら戦慄めいたものが、張遼の背筋に潜り込んできた。 己よりもまだ幾ばくも幼さを残す少女にも関わらず、かくも軽捷な功の冴えをみせる姜維は、紛れも無く天才と呼ぶに相応しい。 それがいま眼前で、自分を見据えている。 そのことに、張遼の総身に武者震いを走らせた。
 
「………、行きます」
 
 緒戦とは打って変わった反響すら返らぬ重く低い姜維の声に、張遼は表情を引き締めた。 姜維はいよいよ本気の牙を向けてくるのだ、それに対し応えるのであれば、一歩とて引くわけにはいかない。 ならばこそ受け捌いてみせよう。 勝つにせよ負けるにせよ後顧なく、未練なく、武にその命を捧げた者として己が真価を問うに足る戦いをするために。
 
「あぁッ! 来ぃ!」
 
 声高らかにそう言い放つ張遼に、姜維は無言のもと、口元に微笑を浮かべた。 その笑みだけでも傍目からは緊張の密度が増すだけの材料にしかならず、ついには兵士達の中で貧血のあまり倒れ附す者まで出始めていのだが、渦中にいる二人には最早お互いしか見えていなかった。
 
 沈黙のまま、両者はじりじりと摺り足で間合いを計りあう。 その様子を上から見下ろす事が出来る位置に居たのであれば、それは奇怪な組円舞と見えたかもしれない。 回りこみ、回り込まれ、常に互いが互いを焦点に、渦を描いて馳せる。 これまでの愚直なまでの鬩ぎ合いを魅せた緒戦とは打って変わった静かな間合いの推し量り合い。 だが、そこにほんの僅かではあるが差異が生じ、両者の動きが変わる。
 
 僅かに、ほんの僅かに砂埃が舞い上がった。 それは姜維の下肢に力がこもった事に他ならない。 それは蚊の命程の儚さで消えてしまう違和感、その刹那に満たない違和感を見逃す張遼ではなかった。
 
「―――――ッ!」
 
 ばん、と破裂する大気の咆哮。 一陣の烈風となった姜維の長槍が、音を置き去りにして張遼の眼前へと迫った。 しかし張遼もさるもの、紫電もかくやという姜維の狙いすました一撃を捌いてみせた。 噛み合った長槍と偃月刀が火花を散らせたのを皮切りに、姜維の槍は俄然勢いを増して、張遼を攻め立てる。
 
 初速から最高速で穿たれた一撃は、両手持ちだった一槍の時と比べても遜色なく、否、更に勢いをまし、さらにその合間を縫うように湾曲した軌道で短槍が張遼へと差迫る。 互いを追い抜き、交錯しつつ、絡み合うようにして襲い掛かる一群の槍の応酬。 虚実入り乱れたその太刀筋は見切ろうと注視するほどに、逆に幻惑され対処を誤る。
 
 初見の、しかも流儀の読めぬ我流の使い手であったのが祟った。 苛烈な勢いに押され、変幻自在の槍の舞に張遼は防戦を強いられ続けられる破目となった。
 
"アカン……、これは拙い――――ッ!!"
 
 慄然となった時はもう遅い。 百花繚乱に狂い散る火花の鬩ぎ合いを重ねながらも、焦燥がじわじわと張遼の思考を蝕んでいく。 両腕を駆使して振るう姜維の猛攻を、張遼は偃月刀の一本で防ぎ続けている。 だが、それも短槍がまだ射程外であるからそこであった。 未だ間合いの外にある短槍が張遼を捕らえるまでに至った時、この膠着は一気に崩れ去る。
 
 そうこの闘争の鍵を握るのは姜維の持つ短槍にあると言っても過言ではなかった。 姜維の牙たる二槍の怒涛の連撃をもってしても悲しいかな竿状武器の宿命故か、一刹那の僅かな合間に隙が生まれる。 その虚を衝いて懐に飛び込もうにも、それを待っていた、と言わんばかりに短槍が、周到に張遼を牽制し、長槍の隙を補う様にその切っ先で、見事に張遼を封殺してのけているのだ。
 
 そして二人の距離は牛歩の歩みではあるが、着々と狭まってゆく。 もはや短槍が張遼を捕らえるまでの間合いは幾許もなく、苛烈を極める姜維の槍捌きは衰えることをしらない。 だが…………。
 
"けど、な。 それが良ぇんやッ!!"
 
 ここにきて尚、張遼の表情は喜悦に歪んでいた。 強い、己が全てを賭すほどに姜維は強い。 常道を逸した二槍の遣い手たる眼前の少女は、まさしく好敵手と呼ぶに相応しい。 ならばこそ応えてみせよう。 神速を謳い、武を誇る他でもない張文遠の誉れの為に。
 
 恭悦に沸く張遼の双眸が射抜くかのように姜維を見据えた瞬間、もはや推し量るまでもなく、その意図を姜維は読み取った。 張遼は仕掛ける気でいる。 斬りかかられた以上は斬り返すのだ、と凄烈な笑みが物語っていた。
 
「はあぁぁッ!!」
 
 気勢一喝、渾身の横薙ぎで振るい払った張遼の豪放の一旋は、防御など眼中にないまさに乾坤一擲の一撃であった。 相手から隙を奪えないのであれば、力で強引にでも捩じ伏せ、隙を作る。 それが張遼が出した応えだった。 事実、その一撃を姜維がまともに追撃したのであれば、たとえ姜維の槍が張遼に重傷を負わそうとも、その刹那の内に残る一方の槍で防御に回ろうとも、その防御ごと骨はいわんや五臓六腑ごと圧殺してのけただろう。
 
 だが、姜維の眼光が言葉よりもなお雄弁に語った。 その対応は失策です、と……。 死線に晒されていたはずの姜維は急制動をかけ、張遼の一撃を遣り過しにかかった。 そう、姜維はこの時を待っていたのだった、張遼が痺れを切らし攻めに転じた時に見せる渾身の一撃を、そしてその後に出来る最大の隙を。
 
 短槍を牽制にして、まんまと大技の一撃を誘い出した周到な知略は見事の一言に尽きる。 しかし必勝を期していたのは張遼とて同じであった。 極度に集中した意識の中で、刹那よりもなお短い時の流れの中、張遼は不敵な含笑に嗜虐の色さえ滲ませていたのだった。 瞬間、姜維の右腕が見えざる者に引っ張られたのは、姜維にとって致命的な一瞬となってしまった。
 
 右腕全体をまるで蛇が這うかのような緩慢な痺れが、脳を刺激する暇があればこそ、姜維は張遼の目的を悟る事ができた。 張遼は姜維を目標として定めていたのではなく、その真の狙いは姜維の持つ得物にあった。 即ち張遼はあえて姜維の策を見越した上であえて大振りの一撃を披露し、姜維の失速をまんまと誘い出すことに成功したのだ。
 
 長槍と偃月刀が激突し火花を咲かせた刹那の瞬。 両者の双眸が交錯しあう中、姜維は己の失策を悟った。 姜維の戦術はその卓越した俊敏性と手数の多さにある。 だが、今はその機動力を最大発揮できる優位をみすみす他ならぬ自分が捨ててしまった。 ここから再加速するまでの合間に張遼ならば一撃は必ず打ち込める。 そして何よりこの距離、この体勢は、明らかに拙い。
 
 長槍を狙われたのが祟った。 短槍と偃月刀では明らかに間合いが違いすぎる。 しかも姜維は僅かながらも体勢を崩している事が一番由々しき事態である。 張遼の次の一撃の回避は不可能。 自慢の脚力を最大に駆使し、偃月刀の間合いを突破する他に活路はない。
 
 だが、それはあまりにもぎりぎりだ。 姜維は、ひりつくような焦燥に歯噛みする――――、かと思いきやその顔に貼り付けるのは、悠然と、堂々とした微笑であった。 あくまで勝利だけを見据えたその眼差しは武人の誇りがあればこそのものである。
 
「やああぁぁあぁッ!!」
 
 姜維の咆哮とともに、大地を蹴り穿って放たれた神速の一撃は、瞬き一つの間にはもう張遼の眼前まで肉薄していた。 だがしかし、刹那の瞬とはいえ姜維から隙を作り出してみせた張遼が、この万金にも値する一瞬を見逃すはずもない。 振りかざした偃月刀に込める想いは張遼とて同じ、勝利の二文字以外は無い。
 
「うおぉぉおおぉッ!!」
 
 旋風を巻き起こせし風神の一撃が今まさに張遼を貫かんと、猛り馳せる金剛の一撃が姜維を打ち砕かんと、今その一撃が交錯した。






あとがき

ほぼ一話分、どこかしらで戦闘描写か……。 疲れた………。
いや、難しい。 実に難しいものです。
戦闘ものとか書いていらっしゃる作者様達は本当にすげぇですよ。
 
そして自分にはギャグ(?)を書けるだけの才能が無いことを痛感しました。
うん、駄目だこれは酷い……。 おっぱいですよ?おっぱい。
………、いや、まぁ…、おっぱい大好きですけどね。 ジーク・おっぱい。

あ、それと七話のあとがきにて姜維の活躍はまだ先~みたいな事言ってましたが、うん、すみません。 思い切り暴れてますよね。
でもこれやら無いと次に進まないんです……orz

最後に。 最近、寒さが一層厳しくなってきましたが、皆様も風邪等をひかないよう、お身体に気をつけてお過ごしください。
 



[9154] 九話・徐晃様のためなら、腕の二本や三本かんたんにくれて(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:c668d42f
Date: 2010/01/04 18:50
 暖かな日差しが、古くなった宿屋の外壁を優しく温めだした早朝。 徐晃たちが泊まる部屋の中の空気は静かに冷え切ったまま、木窓から僅かに差し込む光だけを受け入れて、黄昏のように淡い薄闇の中にあった。 そんな中、わずかな身じろぎの気配が、静止した空気を漣のように騒がせた。
 
「………………。」
 
 顔にかかった上質な絹を彷彿とさせる艶やかな髪を気怠げに払いのけながら、ゆっくりと上体を起こすと姜維は茫洋とした眼差しで、周囲を見渡した後、あふ、と慎ましやかに欠伸を漏らした。 わずかに寝乱れた着衣の端々を直し、手櫛で髪を梳こうと腕を上げた時、鼻を突く匂いに、姜維は眉根を寄せた。 幾種類もの香草を磨り潰して硫黄で煮込んだかのような、何とも表現の仕様の無い、姜維が生まれてこの方嗅いだ事もない独特の匂いだ。 そのあまりにも強烈な匂いに眠気が一気に目が覚めた姜維は、周囲を緩慢な動きで見回した後、はた、とこの部屋に泊まっているはずの徐晃が居ないことに気が付いた。
 
 おそらく朝の取引に賑わう町へと買出しに出て行ったのか、さもなければ部屋中に立ち篭るこの強烈な匂いに耐え切れず逃げ出しているのか。 幸か不幸か分からないが、強い匂いではあるが鼻先まで近づけなければそれほど臭わないため、他の宿泊客達には迷惑はかけていないはずである。 被害が自分たちが泊まる部屋だけに留まっているだけでも良しとしなければ、姜維としてはやっていられなかった。 ただそれにしても、と姜維は己の腕に巻かれた包帯を指先で触れ、なぞった。 鋭い匂いを醸し出す元凶たる包帯の中に塗りこまれた軟膏の効き目の凄まじいことといったらない。 姜維は、己の腕に包帯を巻かれるまでに到る経緯を思い起こそうとしたその瞬間。
 
「姜維、はいるぞ」
 
「は、はい! どうぞ」
 
 部屋の外から聞こえてきた徐晃の声に引き戻された。 数瞬まった後に扉が開けられれば、その先には木の椀と真新しい包帯を手に持った徐晃が立っていた。 朝食と変えの包帯を持って来てくれたのだろうと思っていた姜維だったが、先ほどより嗅いでいた匂いをさらに数倍にも強烈にした匂いが、漂ってきて姜維は思わず身体を仰け反らせて、後頭部を壁にぶつけてしまった。
 
「お、おい……、大事無いか? 凄い音がしたぞ?」

「大丈夫……、です」
 
 目尻を僅かに潤ませながらも姜維は、強烈に刺す様な匂いの元を辿っていた。 その匂いの根源は明らかに徐晃が手に持つ椀から発せられている。 あまりの匂いに姜維の顔が苦悶に歪んでしまうのは、仕方の無いこと。 しかしその匂いを至近距離で嗅いでいるはずの徐晃はというとまったく意に介していない様子である。
 
「亭主から軟膏を頂いてきた」
 
 両手が塞がってしまっており、行儀は悪いが、足で扉を閉めると徐晃はいそいそと部屋に入ってきた。
 
「どれ、傷口を見せてみろ」

「は、はい」
 
 差し出された腕に巻かれた包帯を手馴れた手付きで、するすると解いてみると、濃い緑色にべったり濡れた布。 それを剥ぎ取れば、姜維の滑らかな肌が顔を覗かせた。 だが、白磁と見紛う姜維の右腕には痛々しい一線の傷痕があった。 その傷口を見る者が見れば、それが太刀傷であると看破することだろう。 それも入神の域にある絶技である、と褒め賞するほどの。
 
「ほぅ……、やはり凄い効き目だな。 これならば傷痕も残らないだろう」
 
 優しく、指先で傷口をなぞりながら徐晃は、姜維の右腕の具合を確認にあたりつつ、持ち込んだ真新しい布に、件の軟膏を塗りたくると、若干怯えが混じった姜維の視線など意にも介していないかの様子で、今は薄く盛り上がった程度の傷口に貼り付けた。 途端、鼻腔を針のように刺す匂いと、腕に走る軽い痺れと熱さが姜維を襲った。
 
 姜維から恨みの籠もった一瞥を貰いつつも徐晃は口元を弛ませ、どこか懐かしむような表情で腕に包帯を巻いていった。 その様子に姜維は何を言うでもなく黙って、徐晃のされるがままにその様子を眺めていた。
 
「これでどうだ? 緩かったり、窮屈なら言ってくれ」
 
 そう言われて姜維は五指の動きを確かめる。 やはり男の力で巻いたからか、若干ではあるが巻きが強いようにも感じるが、そこまで強い違和感でもない。 むしろ患部に直接当てた布が動かないようにとの配慮も考えれば完璧に近いし、指の動きも十全である。 それを踏まえても徐晃の所作はかなり手馴れている。 自分自身にでは無く、他の誰かの処置を施すことに。
 
「いえ、問題ないです。 ありがとうございました」
 
「ならばよかった……。」
 
 薄く、涼しげに笑って頷く徐晃に対し、姜維はそれ以上の言葉を発する事無く、細く優美な左手で、包帯を巻かれた右腕に浅く爪を立てた。 だが、それも一瞬のこと、姜維は己の胸の内に飛来してきた苦しく切ない感慨に蓋をし、努めて朗らかに徐晃へと笑顔を向けた。
 
「はい! 後でお爺さんにもお礼を言わないといけませんね」

「あぁ、そうだな」
 
 姜維がお爺さんと呼んだのは、いま徐晃たちが寝泊りしている宿屋の亭主の事をである。 普段は置物のように風景に溶け込み、くしゃみ一つでもすれば、そのまま天に召されてしまいそうな線の細い翁であるのだが、姜維が腕に怪我を負いながらも帰宅の徒についた時に見せた翁の機敏さといったら、宿屋の一階の奥まった一角に設けられた卓上で酒を飲んでいた別の客たちが、驚きのあまりに飲んでいた酒を噴出したほどである。
 
 老人とは思えぬ素早さで姜維の腕を取ると、傷口を目玉が飛び出しそうになるほど凝視したあと、翁は有無を言わさず姜維の手を引いて、老朽化して嫌な音を立てる床に最後の致命打を与えようかというくらいに大股で歩くと、円卓で事の次第を見守っていた旅人の下まで近づき、旅人達にぎょろりと目を剥いて形相を変え―――。
 
「邪魔じゃ!」
 
 そう怒声を放った翁の凄みは、柳のような細い体躯からは想像もつかない、噴火を起こした山かと見紛うほどであった。 そのあまりの剣幕に、椅子に座っていた者は床に転げ落ち、立っていた者は身体を仰け反らせていた。 旅をしていれば、喧嘩や怒声にも手馴れた者達であってもこれには、席を譲るほか無く酒の入った椀を片手に慌てて席を立つと、旅人たちは姜維と翁を、ついでにその後ろに付き添う徐晃の姿を目を白黒させながら見比べる。 最早、自分たちの居場所を奪われた事にたいする怒りなど思慮の外まで吹き飛んでしまっていたのだろう。
 
 そして、旅人たちを追い払い円卓を独占した翁の行動は、まさに疾風怒濤と呼ぶに相応しく、この宿の丁稚である双子を呼び寄せると、あれよあれよという間に、湯を入れた器を用意させ、真新しい布に包帯、更には何の用途があるのか分からない薬草まで用意させてみせたのである。 それを阿吽の呼吸で呼応してみせた双子も然ることながら、薬師と見紛う手早さで薬草を調合してみせた翁の手腕は見事の一言に尽きた。
 
 凍土の地に住まう人間はことのほか薬草の知識に長けている者が多いが、それでも民間療法の域を出ない。 だがそれを翁は、何種類もの磨り潰した薬草の配合を秤を使うこと無く、己の指先の感覚のみを頼りに行って見せたのだ。 その手捌きは、食器の扱いにも等しく熟知し、慣れ親しんでいた。
 
 これほどの熟練の薬師ともなれば帝の御座す洛陽であっても早々お目にかかれるものではない。 いや、大陸全土を渡り歩き、龍や仙人を探した方がまだ早く見つけられるかもしれない。 だが、徐晃たちは何の因果かそんな龍や仙人よりも稀有な存在を偶然にも目撃してしまった。
 
 徐晃が瞬きする暇すら見出せずに注視し続ける合間にも、想像だにしなかった領域の世界で、姜維の右腕が治癒されてゆく。 そして最後とばかりに包帯が結び終わると、緊迫した空気が抜けるかのように周りから感嘆の吐息が漏れたのだった。
 
 そんな経緯から徐晃は、姜維が礼の一つでも言わねば、と張り切っていると思っていた。 姜維の晴れ渡った秋空のように澄み渡った微笑みに被さり、見えなくなった小さな心の痛みに、だが徐晃は気がついてやれない。
 
「でも、そのまえに………。」
 
 着衣が乱れてないか、寝癖が無いかを確認し万事仕度を整え終えた姜維が徐晃よりも先んじて部屋から出ようとした時。

「うん?」

「おはようございます。 徐晃様」
 
 振り向き様に、姜維は淡く笑ってみせた。 今度は、嘘も偽りもない本心からの笑みを徐晃に向けていた。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 宿の一階に下りるとそこには置き物のように、震えながら座る宿の主だけがいた。 昨日まで円卓で酒盛りをしていた旅人達の姿は今は無く、まだ寝ているのかもう既に旅立った後なのか分からない。 あれだけの大騒動があったというのに、埃一つなく綺麗に片付けられ残滓さえ残されていない。 それが逆に昨日の名残であるかのように徐晃は感じ取れた。
 
「おはようございます、お爺さん」
 
 朗らかな笑顔で挨拶をする姜維に気がつくと、長い眉毛のしたから覗かせる柔和な瞳を細めて翁はにこり、と笑いながら返事を返す。 震える身体で白髭の束をしごきながら、朗らかに笑顔を浮かべて姜維と一言、二言の遣り取りを交わす様を徐晃は遠巻きに眺めていた。
 
 傍目から見た二人の遣り取りはまさに祖父と孫と呼ぶに相応しく、今も明るく笑う姜維に向けた翁の好々爺然とした表情は、孫との会話を楽しむ祖父のそれだ。 それから、姜維と翁の二人だけの談笑が少しのあいだ続いたあと姜維が翁に頭を下げた。 どうやら礼を言えたらしい。 徐晃も姜維に習い軽く会釈を交わし宿の外へと歩き出すと、姜維も徐晃の横に並び歩き出す。
 
「徐晃様」
 
「うん?」

「先ほどお爺さんから聞いたんですが、この近くで美味しいお店があるそうなんですが、行ってみませんか?」

 先ほどの短い遣り取りで、姜維は色々と情報を聞き出したらしい。 要領が良いというべきか、その逞しさに徐晃は苦笑を禁じえなかった。
 
「そうか、なら折角だから行ってみるか」

「はい! こっちだそうですよ」
 
 そういって徐晃の手を引く姜維の力は中々に強いもので、大股で歩いて急かす様はまるで子犬のように無邪気な大型の犬だ。 的廬も大きくなったらこのように振り回されるのでは、などと考えながら徐晃たちは宿の通りに面した狭い通りを抜け出した。
 
 とりあえず大通りまで出れば、道の端で露天商達が声を上げ、往来する人の数も多く雑多な賑わいを見せていた。 徐晃の先を歩く姜維がひょいと道の脇にそれれば、向かいから籠一杯に野菜を積んだ女性が、これから市場に売りにいくのだろう、急いだ足取りで歩いてきたりなど、片時も気が抜けない混雑振りだ。
 
 太守の住まう城を頂点に、その周りに連なる建築物は華美に彩られ装飾も見事に尽きる。 だがそこから少し離れると路地と傾いた建物も多く、改修もあまり進んでいない印象を受ける。 だが、そこに住まう人々までが荒んでいるかと言えば、そうでもなく、皆が屈託の無い笑顔を浮かべ笑い合えている。 それは統治者の手腕に依る所が大きいのか、または、そこに住まう人々の気性なのか。 皆の様子を見る限り、前者であろう。
 
 徐晃がそんな事を思っていれば、姜維が一軒の店の前で立ち止まった。

「ここ、みたいです」

「ほぅ…、確かに美味そうな匂いが中からするな」

 周囲の建物と比べ幾分か煤けて黒ずんで見えるが、それは調理時に発する煙のせいだろう。 しかし土台の部分である石組みは山の如くしっかりと組みあがり、店の顔である看板も年季の入った木彫りのものだ。 扉に手をかけ、いざ中に入ってみれば、外の喧騒とは打って変わった静けさに溢れていた。
 
「いらっしゃい!」
 
 店の女将と思しき人が、一瞬だが驚いた顔をして徐晃たちをみやったがむべなるかな、と徐晃は思った。 朝食を外で食べるというのはある種の贅沢だ。 農民であれば、自宅で自炊すればよく、行商人であれば無駄な金は一銭たりとも使わぬと、朝の市場を駆けずり回っていることだろう。 と、なればそんな贅沢をするのは旅人と相場が決まってくるが、まだ幼さの残る少女の後ろに徐晃のような巨漢が付き従って入店するとなれば、その異様な光景さは誰であれ驚くことだろう。
 
 しかし、そこは年季が物をいったか、驚き顔も一瞬にして愛想の良い笑顔に変えた女将は、徐晃たちを一席へと案内すると、また調理場へと引っ込んでいった。 女将から進められた席に腰を落ち着けた徐晃が周囲を見渡せば、少し離れた場所で旅の職人と思しき者が二人、こちらを遠慮がちながらも見やっていた視線とぶつかった。 それを慌てて、ばつが悪そうに視線を逸らすものだから、徐晃の方も苦笑で誤魔化す他になかった。
 
「これだけ離れていれば、匂いませんよね?」
 
「…うん?」
 
 旅の職人の視線に、流石一流の武人と言うべきか姜維も気が付いていたらしく、流し目ながらも二人の職人の動向を確認しつつ、思考と口は徐晃に向けたまま、包帯を巻かれた右腕を指差していた。 鼻先まで近づけなければ強烈な異臭を嗅がなくてすむとはいえ、やはり姜維も花も恥らう年頃ということだろう、自分の周囲から異様な匂いが出るとなれば、人目も気になるらしい。
 
「まぁ…。 問題はない……、と思うが?」

「むぅ……。」
 
 調理場で女将に振るわれる重厚な鍋の音に耳を傾けながら徐晃は、そう気の無い返事を返す。 手際良く手を振るい、油と食材と火が入り混じる調理独特の音程に、まるで子供のように心躍る面持ちで眺める徐晃の様は、軟膏の匂いを本気で気にしていないらしい。 それは姜維としても喜ばしい事であるはずなのだが、何処か釈然としない。 自分ばかりがこの匂いに苦しめられているのは些か理不尽が過ぎるのではないだろうか。 しかし、それでも徐晃に不快な顔をされ、臭いなどと言われるより遥かにましではある。 もはや姜維は悔しがればいいのか、そんな瑣事を気にしていた己を恥じればいいのか分からず口を切り結び、無言の訴えで徐晃に対抗するしかなかった。
 
 そんな姜維のむくれ顔に、徐晃はやれやれと苦笑を漏らした。 どうやら種を明かさないといけないらしい。 これ以上、平然とした表情を決め込んだら、性根が素直な姜維の性格が捻じ曲がってしまうかもしれない。
 
「ただの慣れだ。 俺にとっては懐かしい匂いでもある、がな」
 
 徐晃はじっ、と姜維の瞳を覗きこむように見つめると、それから、一度瞼を閉じた。 そこに宿るのは愛郷の念だろうか、追想するように閉じられた徐晃の表情からは、考えが読み取れず姜維はただ黙し、先を待つ。
 
「少々血気盛んが過ぎた時期があって、な。 生傷が絶えなかった。 そんな時は、何時も仕置き代わりに似たような物を塗られたよ」

「そんなに……。」

「うん?」

「そんなに、やんちゃだったんですか?」
 
「まぁ……、な」
 
 訝るような、困惑したような、僅かに眉根を寄せた硬い表情で姜維は、当時の事を鮮明に思い出したのだろう、苦々しげな表情を見せる徐晃を見やった。 子供染みたところはあるが、颯爽とした威厳に満ちた風格を持ち合わせる今の徐晃しか知らない姜維からすれば想像だに出来ない。
 
「昔の事だ……。 いま、思い起こせば……、ふむ…。 まぁ、印象深い思い出だ」

「はぁ……。」
 
 未だに昔の徐晃の姿が頭に思い浮かばないのか、姜維は気の無い返事で頷いた。 だがすぐに顔を上げた彼女の先に見たものは、思わず笑いが噴出しそうになるのを堪えている徐晃の姿だった。 その突然の変わり様に姜維は驚きのあまり目を見開いた。
 
「す、すまん。 昔ついでに、少し面白い事を思い出してしまった」

 だが、そんな何の事もない理由だったらしい。 苦笑いを漏らす姜維にを余所に徐晃は、よほど笑ったのだろう肩を揺らしながら疲れた息を吐いた。 そのあと一度、深く息を吸い込むと、しんみりと遠い眼差しで宙を見つめた。 姜維は、噛み締めるように、感慨深く視線を投げる徐晃の姿を微笑ましく見つめ、何か言葉を口にしようとした瞬間――。
 
「で、お客さん。 注文はまだかい?」
 
「あっ……。」

 何時の間にやら徐晃たちの席の横に立つ女将の一言に、脳裏で考えていた言葉を打ち切った。 とりあえず注文する品の事から考えなければならないようだ。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「そうだ。 荷を纏めなければな……。」
 
 朝食を食べ終え、天水での拠点としている宿まで戻ると、徐晃はそう唐突に切り出した。 何時もであれば瞬時にでも徐晃の言葉に反応して呼応する姜維なのだが、寝台に腰掛け、兵法書の類であろう竹簡を広げて読み耽っていた姜維は、数瞬の沈黙のあと顔を上げた。 意識を書物に傾けすぎるとは、その中身は余程の物なのだろう。 そんな姜維が見せた珍しい所作に徐晃は剽げた風に笑いながらも、言葉の穂を紡いだ。
 
「いや、なに……。 今日、明日で旅立つというわけではないのだがな……。」
 
 さも言い難そうに徐晃はこめかみに拳を押し付けつつ、姜維を見やった。
 
「何か問題でもありま――。」
 
 そこまで言い差して姜維は、はたと気が付いた。 徐晃が自身のこめかみに拳を押し当てるその仕草は、何かしら困窮に瀕している時に見せる癖であることを姜維は見抜いていた。 そして徐晃が見せた癖の後に姜維を見たと言うことは、何か心痛の種を姜維自身が与り知らぬ内に蒔いてしまっていた事をさすのではなかろうか。
 
 姜維は一瞬の内に思考の海の中から考えうる原因として一番に上げたのは、やはり己の腕に刻まれた怪我だろう。 旅から旅へを繰り返し真新しい発見や珍しい物を求めて止まない徐晃が、一つの土地に留まり続けていた理由は、問うまでもなく己の怪我という枷があるせいだ。 そうでなければ、徐晃は既に新天地を求め天水から旅立っていたに違いない。
 
「す、すみません! 私が怪我を負ったばかりに徐晃様の旅を遅らせてしまって」
 
 不甲斐無い。 徐晃の迷惑になっていたとも露知らず、のうのうと兵法書を読み漁っていた己がどうしようもなく腹立たしい。 これ以上、徐晃を煩わせてしまうのであれば、いっそのこと右腕を切り落としてしまおうか――――そんな突飛な衝動に駆られかけた時。
 
「いや怪我は関係ないぞ。 まぁ、張遼殿との一戦は関係しているが……。」
 
 だが、そんな姜維の心中に異を唱えるように、徐晃が言葉を続ける。
 
「問題はその後にあってな。 張遼殿と一戦を交えた姜維の姿に心を打たれたと言う兵士達が、怪我を負ったお前に、と見舞い品を持ち込んでくるのだが、それが後を絶たなくてな……。」
 
 剽げた口調で事の成り行きを説明する徐晃であったが、よく注意して聞けば僅かではあるが疲弊の色が見え隠れしていた。 大挙として押し寄せる兵士達の善意を無碍にする事も叶わず、次から次へと手渡される見舞い品の数々。 だが、受け取るはいいが、宿屋で間借りしている簡易倉庫を破裂させるわけにもいかず、どうにかして処理する方向に持っていくしかなく、絶え間ない応対に時間を費やし、とりあえず息をつける程度に落ち着いた頃には、空がほのかに黎明に染まり始めていた頃だった。
 
「それらを整理しきらなければ、動くに動けんのだ」
 
 疲労が無いと言えば嘘になる。 立て続けに飛び込んでくる雑事を処理してきたが、未だその数は膨大。 だが、それを毛ほどの憔悴を窺わせなかったのは流石と言うべきか。
 
「そう…、だったんですか」
 
 徐晃の旅の後れの直接的な原因では無いと分かると、知らずに漏れた安堵の溜息を吐いた姜維が思い出したのは、 宿の一階に設けられた一角の事だった。 宿に泊まった当初は、それ程でもなかった荷物が今朝見たときは、倉庫をはみ出し乱雑に積み上げられていたような気がした。
 
「あっ!」
 
 そして姜維は、その卓越した頭脳から、徐晃が言わんとしていたことの重大さに気が付いた。 今でこそ北に位置する涼州は、雪で道が閉ざされて商人たちが行きかう道も限定されているが、これから春から夏へと季節が向かえば、それなり以上に人の往来も増えることとなる。 そうなれば、宿屋で貸し使われている倉庫の重要性は非常に大きく、結構な人数の商人たちが、行商の中継地点として利用したり、季節によってばらつきのある商品を保管する為に使用する事など想像に難くない。 しかし、今は徐晃の言から察するに倉庫は使用不可能な程に、姜維への見舞い品で溢れかえっているらしい。 それは非情に由々しき事態である。
 
「大変です! 早く荷物を整理しないと…!」
 
「おぉ! 手伝ってくれるか、それは助かる」
 
 事の次第を理解して慌てふためく姜維を見て、笑み崩れた顔も隠そうとはせず、呵呵と笑う徐晃に、姜維は不満げに眉根を寄せる。
 
「むぅ……、今まで気が付けなかった私がいけませんでした! すみません!」

「はは、多少はやり返さんと割りに合わんからな……。 まぁそう膨れっ面をするな」
 
「………徐晃様は、子供染みた苛めっ子です」
 
 拗ねたように目を眇める姜維に涼しげな笑みで誤魔化して、徐晃はそっぽを向く。 その様にますます小さな頬を膨らませる姜維だった。 それを朗らかに笑ってみせてから、ふいに徐晃は面持ちを厳しく引き締めた。 さり気なく最近手入れも碌に出来ずにすくすくと伸び始めた不精髭を擦りながら、その眼差しは普段通りの落ち着きを取り戻しつつある姜維と視線を交わす。 ただそれだけの所作だけで、姜維は徐晃の言わんとしている事を正確に汲み取った。
 
「それでは、片付けにいきますか?」
 
「あぁ、そうだな……。」
 
 そこまで良いさすと徐晃は涼しげな笑みを口元に浮かべて続きを口にした。
 
「だが、そう性急に事を片付ける必要もないだろう……。」

「な、徐晃様! 何を悠長な事を……。」
 
 ――言っているのだ。 と言い返そうとして姜維は、溜息を吐いた。 この一件は本来ならば姜維が文字通り片付けなければならない出来事であるのだが、その大半を既に徐晃が処理してくれているのである。 宿屋の為にも暢気な事を言っている場合ではないのだが、だからといって徐晃を急かすのも、それはそれで筋違いである。
 
「問題ない。 亭主からも暫くの間ならば自由に使ってくれて構わないとの言質は貰ってきた」
 
「そうなんですか…?」
 
「それに、だ。 せっかくの二人旅なんだ、こういった事もゆるりと満喫しなければ損と言うものだ」

「いや、徐晃様。 こういった事は満喫しなくても――。」
 
 口ごもる姜維は、活き活きと輝く徐晃の表情をみて何も言えなくなってしまった。 それは、徐晃の発した彼の本音に気が付いてしまったからだった。 『二人旅』と確かに徐晃は口にした。 それは、紛れも無く徐晃が姜維との旅を楽しんでくれている、という事ではなかろうか。 商人ような足したり引いたりすれば零になるような関係では無く、相手を同等の立場の者として尊重する相棒としての信頼関係。 元来が朴訥な徐晃が、例え本人が意識したものでなくとも垣間見せた本音に、姜維の表情は爛漫と咲く桃花の様に淡く澄み渡っていた。
 
「最悪は、荷車でも買って一緒に持って行けばいい」
 
「あはは、そうですね。 そうしましょう」
 
 徐晃の言葉に頷きながらも腰掛けていた寝台から立ち上がる姜維は満面の笑顔だった。 己の不甲斐無い部分を垣間見てしまったが、それを補って余りある、徐晃の本音を聞けたという嬉しさが、姜維の色白の肌を紅潮させていた。 気を抜いてしまえば首元で何とか止めている血が顔まで駆け上ってしまいかねない。 それを堪えて徐晃に向ける姜維の笑顔は、同年代の少女達のものと同じ純朴で無邪気なものだった。
 
 半ば引っ張るようにして徐晃の手を引く姜維は弾むような足取りで、一階にある倉庫を目指す。 笑み崩れた顔を隠しきれぬまま己の手を引く姜維に徐晃は、まるで秋空の様に移り変わる彼女の表情の変化に、ただ困惑顔のまま肩を竦めるだけだった。






あとがき

キングクリムゾン! 『結果』だけだ!!この世には『結果』だけが残る!!
というわけで、八話での戦闘の過程とスッ飛ばしてみました。
まぁ次回はチマチマとした過程報告になると思います。

べ、べつにこれ以上の戦闘描写を書く技量が作者にないとか、そういうんじゃないんだからね! 勘違いしないでよね!


さて、これ以下は私事になるのですが先日の事。

私「なぁ、コイツ(この作品)を見てくれ……、コイツをどう思う?」

友人「普通、いいんじゃね?」

私「そうか……(´・ω・`)」

友人「何か徐晃ってさ」

私「うん?」

友人「蒼天航路の徐晃が頭の中に思い浮かぶんだ。 素っ裸なあれ」

私「…………( ゚Д゚)」

私「(゚Д゚)」

友人「こっち見んな」


そんな遣り取りがあったのですが、違うんです。
私の中のイメージのジョコタンは違うんです。
ジョコタンは某無双ゲームの2・3辺りのジョコタンをイメージしてたとです。
だから坊さんのような頭巾被せたり、白装束姿なんです。

まぁ、そんな涙で枕を濡らす出来事があったんです(´・ω・`)
どうでもいい事かもしれませんが、これ重要です(作者的に

最後になりますが皆さんあけましておめでとうございます。
今年一年が皆様にとって良い年であることを願います。

ではまた次回で。



[9154] 十話・良ぉお~~しッ! よしよしよしよしよしよしよしよしよしよ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:c668d42f
Date: 2010/01/22 11:45
 旅装を調えて天水を旅立つため、来た時と同じように城門付近の検問前まで絶影の手綱を引く。 その横で、細かい砂利を踏みしめながら、からり、からりと糸を紡ぐ糸車のような小気味良い音が、徐晃の耳に響いてきた。 徐晃が流し目で横を見やれば、小山もかくやと云わんばかりにうず高く積み上げられた荷車を引いた長毛の馬が目に留まる。 姜維が故郷の村から乗り回していた栗毛色の駿馬だ。
 
 それが徐晃の愛馬たる絶影の隣に並び立つと、その巨大さは嫌でもはっきりと分かる。 絶影とて徐晃と云わず彼の獲物さえ乗せても何の苦にもしない精悍で逞しい、巨獣と呼ぶに相応しい駿馬である。 しかしその威風とは別種とした、まさに肉体的な大きさは絶影を二回りは上回る。 下肢に力を入れ豪快に蹄を打ち鳴らし堂々と道を往く姿は、絶影にも負けず劣らず勇壮であった。 そんな巨馬に荷車を引かせるのは、備えられた御者台に座る姜維だった。
 
「すまん、姜維……。」
 
「いえいえ、慣れてますから」
 
 そう言って、慎ましい愛想笑いに口元を綻ばせる姜維に、徐晃はやるせない想いに囚われる。 その原因は徐晃の直ぐ傍、手に握られた手綱の先にいた。
 
「ここまで、気位が高いとはな……。 悪く思わんでくれると助かる」
 
「あはは、人それぞれ性格が違うように、馬もまた違いますからね。 仕方が無いですよ」

「すまん……。」
 
 うな垂れる様にして溜息を吐く徐晃を見て、まるでそんな徐晃の姿に文句があるように蹄を鳴らして嘶く絶影の姿にさしもの姜維も苦笑を禁じえなかった。 ことの発端は、徐晃が姜維の愛馬―――爪黄飛電と共に荷車を引いて貰おうとした事が始まりだった。 しかし、当の絶影の誇りがそれを許さなかったのだ。 驢馬でも事足りる荷物引きをさせられるなど想像するだけでも卑しく汚らわしい。 他者の都合など歯牙にもかける余地すらなく己が矜持のみで動くとは、成る程それは誇り高い絶影らしいといえた。 確かに絶影の意も汲まず、無理を強いろうとした徐晃が悪いだろう。 ただ、問題は絶影の誇り高さが予想以上のもので、荷車を引かせるなどという耐え難い屈辱と不敬を齎した徐晃に対する怒りが、未だ冷め止まぬ状態にあるということだ。 雄々しい鬣を毛先に至るまで逆立て、吐き出される鼻息はとても荒い。 その極めつけが、徐晃が跨ろうとすればその巨体を仰け反らせて、徐晃が乗るのを邪魔するのだ。 故に徐晃は、絶影に跨るでもなく、絶影の機嫌が直るまで無様に手綱を引いて歩くしかなかったのだった。
 
「そして、検問なわけだが……。」
 
「あやや、来た時とは大違いですね」
 
 検問所には徐晃と姜維の行く手を阻むかのように、人の群れで溢れかえった。 それを物珍しそうに遠巻きに眺める野次馬を含めれば、目算でも二百はくだらない。 門前市でも行われているのかとも思ったが、それにしては人の動きが無軌道に過ぎる。 普通であれば係りの兵士が道を作ったり、縄や柵などで囲いを作っておくものだ。 間が悪い事にまるで牛のような鼻息を吐く状態の絶影が、そんな人だかりに近寄れば怪我人が出かねない。 さて、如何したものかと、徐晃は旅立つ時にも使用する通行許可書である木簡の角でこめかみを掻く。 それに呼応して姜維も流石にこれでは進めぬと、首をすくめつつ手綱を操り、荷馬車を止める。
 
「ふむ。 商いを行っているという様子ではなさそうだな」

「様子をみてきましょうか?」

「む、すまん、助かる」

「いえいえ、お安い御用ですよ」
 
 そう言うが早いか、姜維はするりと御者台から降りると、駆け足気味に雑踏の賑わいに身を投じてその姿を消した。 そして姜維が戻るまでの間は手持ち無沙汰になってしまった徐晃は、未だ苛立ち気味に嘶く絶影の鼻を撫でつつ、姜維が向かった先である検問所の方を見やった。 服装から見るに、兵士の数はざっと数えても二十にも届いていない程度で、旅装姿の者はおらず屯している者の大半が町民であることが分かる。 そんな野次馬根性まるだしな町民に共通しているのは、皆一様にしてある一点を眺めているという事だった。 群集の大外に位置する者の中には、年甲斐もなく大人の男が二人して、どちらが肩車の下の方をやるのかで揉め合っている者までいる始末なのだ。
 
 ただここまで来ると、一体何がそこまで町民達を駆り立てるのか気になってくるものだ。 検問所の奥に潜む何かを見に行ったのが自分であれば、と徐晃は誰に見られるでもなく切歯する。 その後に漏れた徐晃の切なそうな溜息だけを誰かが聞けば、同情を買えたかもしれない。 無論、徐晃の心中を知らなければの話ではあるが。
 
 道行く人が誰もが一瞬、歩みを止め、目を向ける人だかりの中には、意外と多くの異民族が混じっている。 元々が異民族の住まう土地と隣接しているという土地柄のせいか、行き交う人や露天で商いを行う者の中には疎らではあるが、異民族と思しき人の姿を見受ける。 中でも肌を覆う布地の面積の少ない服装で市街を出歩く女性たちは、色艶とした色香を漂わせ、なんとも目のやり場に困る。 なにせ視界に収まる範囲に映る女性の悉くが美形なのだ。 褐色の引き締まった身体つきの中にも女性的なしなやかさと、きめ細かな肌とが合間って、なまじ魅力的に過ぎるだけにたちが悪い。 野次馬として集まる男の中の何割かが彼女達目当てであったとしても、徐晃は驚く事もなく逆に頷いてしまいそうな程である。
 
 そうやって、喧噪の人込みやら、行き交う人々の日々の街の営みをにこやかに眺めていると、時が経つのを忘れる。 それが幼少の頃からあった徐晃の気質だった。 俯瞰して物事を眺める事は物心付いた時からの癖のようなものだったのだが、その癖のお陰で何度も九死に一生を得た事を徐晃は忘れない。
 
 徐晃の故郷の近くでは巨大な塩湖があり、塩の売買が盛んであったが、それ故に暴利を貪る商人が後を絶たず、当時の徐晃はそんな輩を許せず戦友らと共に成敗していたのだった。 だが、そんな仲間の中には猪突猛進な者はいるもので、まだ血の気の多かった徐晃でさえも抑え役に回らなければならない程の猛者の存在が、徐晃を冷静にさせざるを得なかったのだ。
 
 一定の距離を保ち、常に俯瞰から物事を眺める。 今日に到るまでの徐晃を形成する苦労と言う名の原因を幾度となく作った者を、だが徐晃は恨んでいない。 何時も巻き込まれるお前は災難だ、とは他の戦友の談であった。 だが、災難に巻き込まれた当人である徐晃は、そういう思考の持ち主ではない。 元々備わった気質が思わぬ形で開花しただけの事、むしろ僥倖、とさえ徐晃は考えてた。
 
 ただ当然そこに至るまでには様々な困難もあった。 徐晃たちの存在を面白く思わない商人が、私兵を用いて野の獣のように狩り立てにきたりもした。 その中には血と金に飢えた夜盗までもが徐晃たちの命を狙いにかかって来たが、それでも生き残った。
 
 身丈十二尺はあろうかという巨人との戦い、二百余人はいた私兵とも戦った。 そして重武装を施した騎兵隊とも戦った。 それらが、結果として今の徐晃を築き上げてきたに過ぎないのだ。 ただ、此処に到るまでの全てが苦難と困難ばかりであったわけではない。 荒くれ者の戦友達と酌み交わした酒の味も、力自慢たちと張り合った力比べも、徐晃の中にある忘れられない記憶であり、今の徐晃を築き上げた要因の一つなのだ。 過ぎ去りし日の自身の行動を顧みても、徐晃に後悔の念は無い。 むしろ、そんな運命の巡り合わせにさえ感謝している。 徐晃とその回りを巡る者たちと築き上げる事のできた貴い関係に―――。
 
 一体どれほどの間、そうやって追憶にふけっていただろうか。 ふと徐晃は、野次馬で溢れていた人の群れに動きがあったことを察知して、仰ぎ見ていた空から視線を正面に戻した。 見れば、折りしも野次馬たちの波が一斉に断ち割れて、その中心から出てくる姜維と目があった。 その後ろには何故か張遼の姿もある。
 
「おぉ、いたいた。 こんだけ人がぎょうさんおると、出るだけでも苦労するわ」
 
 徐晃の姿を認めると張遼は呵々と笑い、背後にある群集を指で示す。 その時覗かせた腕には数日前の姜維を彷彿とさせる真新しい包帯が巻かれていた。
 
「張遼殿……。 どうしてここに?」

「どうしてやて? んなもん決まってるやろ、見送りや」
 
 意外というべきか、予想もしていなかった人物との再開に、徐晃は目を丸くしたのも一瞬、張遼の言葉に新しい記憶を掘り起こす。 そういえば、昨晩の内に徐晃と姜維の二人で、天水を発つ旨を張遼に伝えておいた事を思い出した。 それを将軍という地位にもなれば、中々暇な時間も作れないだろうに、態々時間を割いてまで徐晃たちを見送りに来てくれたのだ。 普段から涼しい笑みを浮かべ冷静にあろうとする徐晃であっても、これには感極まるものがあった。 たとえ数日の縁しかない者であっても、気が合い酒を飲み交わし、剣を交えては、互いの誇りを讃え合い、そして友と呼び合う。 そのあり方はまさに古よりある武人そのものである。 とはいえ、人の往来もそこそこにある場所で、目尻に溜まった涙を見せるほど徐晃も男を捨ててはいないし、素直でもないのだ。
 
「ははは、張遼殿に見送って貰えるとは、身に余る光栄だ」
 
「あー、なんや、そう仰々しぃ言われると面映いなぁ……。」
 
 気の抜けた苦笑を漏らしながら張遼はぽりぽりと頭を掻いた。
 
「あやや、張遼さん……、もしかして恥ずかしがってます?」
 
「なッ! そ、そんなことあらへんよ」
 
「嘘です。 顔が赤くなってますよ」
 
 ひょっこりと横から顔を覗かせた姜維から、咄嗟に数歩後退した張遼。 しかし、姜維は追撃の手を緩めようとはせず、尚も張遼の傍へと一歩を踏み出す。 そこに浮かべたにんまりとした笑みは、獲物を玩ぶ猫に似ていた。 その横顔を眺めていた徐晃は姜維の母である姜冏の事を思い出したが、それ以上の想像は背中にうそ寒いものを感じた為、打ち切った。
 
「そ、それは……、そや! まだ朝は冷えるからなぁ。 それでや」

「そうですね~まだ朝は冷えますからね」

「せやろ? だからやって」

「しかし、そんな中、私たちを待ってくださっていた張遼さん」

「うぐッ……。」

「くふ、春の麗らかさを象徴するような、何とも心温まる話じゃないですか」
 
 どうやら勝負あったようだ。 噂に曰く、弁で挑めば権謀術数渦巻く政に携わる文官でさえ、舌を引っこ抜いて泣いて逃げ出す程に腕が立つ姜維と同じ土俵で勝負をすること事態が無謀なことなのだ。 それを知らず手のひらで玩ばれたとしても仕方の無い事だろう。 それをあー、うー、と何とか言い返そうと頭を捻らせている張遼の様は、どこか愛らしささえ感じさせるものだ。
 
「あぁ! 馬!」

「………、は?」

 張遼の反撃に備え待ち構えていた姜維であったが、咄嗟に出た張遼の言葉に理解が及ばず、姜維は呆然と聞き返す。
 
「だから馬やって! 二人とも良ぇ馬に乗っとるなぁ……。 名前は何て言うん?」
 
「…、絶影だ」

「そ、爪黄飛電です」
 
 やや気後れした風に応える二人を尻目に、張遼は二人が身を預ける愛馬まで近づいてゆく。 どうやら舌戦では敵わずと悟ったようで、話の方向を無理やり変えることで先ほどの遣り取りを有耶無耶にしてしまおうという魂胆らしい。 そんな張遼の思惑に姜維も大人気ない対応だったかと苦笑を漏らしながら、追撃の手をそこで打ち切る事に決めた。
 
「可愛ぇなぁ……。」
 
 まるで子供のように目を輝かせ、満面の笑みで絶影の鼻先を撫でる。 その手馴れた手付きは顔といわず、毛先の一本にいたるまで愛おしむかのように撫で回し、夢中で没頭していた。 そんな張遼の想いが伝わったのか、そこまでしてようやく、絶影も機嫌を直しはじめる。
 
「この瑞々しく張った四肢、艶やかな尾、きりりとした面構え。 あんたホンマ美人やわぁ……。」
 
 もう何度と無く撫で回した絶影の首を抱く張遼は、いまだ興奮冷めやらぬのか、はしゃぐ子供のようににやつきながら今度は爪黄飛電を見た。 その視線の意味を理解したかのように爪黄飛電は、仕方なしとばかりに一度だけ太く鼻を鳴らすと荷車を引きながら張遼の元へと進み出る。 まさに巨獣と呼ぶに相応しい爪黄飛電の威風を前にしても、張遼は豪放磊落に笑いながら応じれるのだから、それはそれで大した肝の持ち主と言えよう。
 
 そんな張遼の様子に、徐晃と姜維共々顔を見合わせて苦笑してしまう。 いま張遼に不意打ちで何故ここに居るのか、と問えばもしかしたら馬を見に来たと答えてしまいかねない。 それほどまでに張遼は二頭の勇壮な駿馬に夢中だった。
 
 それから暫くの間は、絶影と爪黄飛電は二頭共にされるがままに身を任せながら、黒く澄んだ瞳で張遼を見つめていた。 そんな二頭の信頼にも似た優しさに、張遼はもう最後に一度、二頭の鼻先を撫でる手に想いを込めた。
 
「ふぅ……、満足や」
 
 そういって絶影と爪黄飛電から離れる張遼の口から充足の吐息が漏れた。
 
「いやぁ~、二人ともすまん、すまん。 待たせてしもうたな」
 
 からからと呑気な笑顔を徐晃たちに向ける張遼は、先程の出来事などもう忘れ去ってしまったと云わんばかりに晴れやかなものだった。 その誰に対しても変わらずに、こういう笑顔を張遼は向けれるのだろう。 つい先日に見た訓練所で兵士達にも、徐晃たちのような武芸者にも。 そんな変わらず誰彼と比べる事の無い張遼の笑顔を、徐晃は心地良いものと感じていた。
 
「なんの、構わないさ」

「はい、爪黄飛電たちも喜んでいますし」
 
 屈託のない張遼の笑顔に、徐晃たちも笑みで返す。
 
「それじゃあ………、行こうか?」
 
 そう意気揚々と宣言しながら、張遼は徐晃たちの先に立ち、検問所の方へずんずんと進んでゆく。 それに習って姜維は再び御者台へと乗り込み、徐晃は手綱を引いて張遼の後を追う。 その際に絶影がむずかるかと思ったが、意外にも素直に身を任せて、手綱に引かれるがままだったので徐晃は一瞬ではあるが驚いた。 その直後、何時の間にやら徐晃の傍まで近寄って来ていた張遼がそっと耳元まで口を近づけてきた。
 
「何があったか知らんけど、門出の日に相棒と喧嘩なんてアカンよ」
 
「なぜ――。」
 
 それを、と言い切る前に再び徐晃たちの先へと戻ってしまう張遼。 その背に何か感じる物があったのか徐晃は心の中で礼を述べる。 馬と共に育ち、幾多の戦場を駆け抜け、そして馬と共に死ぬ涼州の人間であればこそ判る徐晃と絶影の間にあった些細な溝に気が付いたのかもしれない。 都合、絶影たちが四歩、歩いただけの遣り取り。
 
「あやや……、これはなんともむず痒いですね……。」
 
 城門前を行き交う人々や、検問所に群がる野次馬から浴びせられる視線を察して、姜維は気まずそうに呟く。
 
「まぁ、仕方ないさ。 張遼殿は将軍であるからな」
 
 徐晃も苦笑するしかなかったが、実際のところ視線を集める原因は二人にもあった。 なにせ勇壮な巨馬と呼ぶに相応しい駿馬を引き連れているのだ、嫌でも目立つ。 更にそれを操るのはこれまた白装束姿の巨漢の徐晃と、まだ少女と呼ぶ年頃ではあるが、絶世の美少女である姜維が加われば、もはや肝を潰して目を白黒させるしか他ない。

「気にしても始まらない、行くぞ」
 
「はい」
 
 そう言って徐晃は、苦笑で顔を歪める姜維を促す。 二人が城門前まで近づけば、雑踏の賑わいを見せた人の群れが一瞬で静まり、二股に変われて道を作る。 横幅を取る荷馬車に乗る姜維は、人を轢かぬようにと苦労しいしい踏み分けながら爪黄飛電を見事な手綱捌きで操ってみせ、その歩調は毅然として淀みない。
 
 周囲から集める眼差しを受け流し、件の検問所の前まで着てみれば目の前に立ち並ぶのは厳つい兵士達。 どの顔も徐晃の記憶に新しく残る者達ばかりが、一様に徐晃たちを待ち受けていたのだった。 ただ異様なのは居並ぶ誰もが例外なく、頭に大きなこぶを作っていたことだろう。
 
「張遼殿、これは一体……。」
 
「あぁ~、こいつ等なぁ……。」
 
 やや気後れした風に、張遼は俯き加減で嘆息を吐く。 その直後に、なんと兵士達は土下座せんばかりの勢いで徐晃たちに向かって一斉に頭を下げたのだ。
 
「申し訳なかった旦那、譲ちゃん!」
 
 予想だにしなかった兵士達の行動に、徐晃と姜維共々一瞬だけ呆気に取られたが、直ぐに表情を引き締めた。
 
「どういう事だ、張遼殿……。」
 
 大抵の出来事であれば涼やかに笑って受け流してみせる徐晃であっても、今度ばかりは声音を固く尖らせるしかなかった。 事情が飲み込めていない姜維と違い徐晃は、僅かの時間ではあるが眼前の兵士達とは面識があるし、浅からぬ縁もある。 そんな兵士達は先日とは打って変わった消沈ぶりで、頭にはこぶまで作り、更には徐晃たちにしても謂れの無い謝罪の言葉まで口にされてしまっては、流石の徐晃であっても捨て置けなかった。
 
「あぁん晃ちゃん! そんな目で見んといてぇなぁ。 ウチやない、いや、シバいたのはウチなんやけど………。」
 
 張遼はまるで子供のように、肯定とも否定ともつかない説明で言葉を濁してしまう。 それを意外なところから口を挟む者がいた。
 
「旦那! 張遼将軍は悪くない、悪いのは全て俺たちなんだ!」

「そうだ、俺たちが全て悪いんだ!」
 
「………、どういう事だ。 説明してくれ」
 
 兵士たちの間から次々とあがる張遼の擁護の言葉に、徐晃はこめかみを掻く。 その後、暫くのあと熱を上げた兵士達が落ち着くのを待ってから、比較的冷静な兵士が端的に白状する。 その兵士曰く、ここに居並ぶ兵士全員が、張遼と姜維の死闘に感銘を受けた者の集まりで、その際に怪我負った姜維に対し見舞いの品を送ったのだという。 だがそれは結果からいえば、失敗だった。 徐晃たちが泊まった宿屋の亭主である翁や他の宿泊客にも迷惑をかけ、見舞い品を送りつけられた当事者である姜維も困惑させてしまったとう有様だったからだ。
 
 ただ徐晃たちからすればそこまで迷惑だったというわけではないのだが、兵士達の暴走を知った張遼はそうは思わなかったらしい。 一先ず不測の事態とはいえ部下の暴走を食い止められなかった失態は、上からの叱りの言葉を甘んじて受けるとしても、結果として知己である徐晃たちに対して、迷惑をかけてしまった兵士達の行動に怒りを懐いたのである。 ただ、それら諸々については、すでに罰したのだからそれ以上憤慨しても何の益にもならない、後は徐晃と姜維、そして宿屋の翁の許しを得れば、それで罰は終了するとのことだった。
 
「成る程……、そういう事だったか」
 
 徐晃と姜維の眼差しを、頭を下げて粛々と詫びる兵士たちを見やる。
 
「俺はどうとも、するつもりはないが……。 姜維は何かあるか?」

「あやや、私も特には……。」
 
 大きな不利益を被ったわけでもなく、殺し殺されといった実害があったわけでもない。 で、あるならば罰するだけの理由はない、それが二人の出した結論だった。
 
「本当にそれでええんか?」
 
 念を押す張遼の言葉に徐晃たちは、しばし無言で視線を交わした後、小さく一度だけ頷いた。
 
「さよか……。 ―――おら、お前ら! 寛大な二人に感謝しぃや! あとは爺さんから許しを貰うだけや、行ぃ!」
 
『おう!』

 踵を返し、野次馬の群れを掻き散らして駆け足で去っていく兵士たちを徐晃たちは苦笑しながら見送った。 やがてその姿が視野から失せ、濛々と立ち込めた土煙が風に舞って流された頃には、ずっと張り詰めていた空気も一緒に吹き散らしていった。 事の成り行きを見守っていた野次馬たちの小声が、暫くのあいだ漣のように辺りを騒がせた。 そして一人、また一人とその場を後にするものが出始める。 まるで祭りのような騒ぎであったが、すべてが終わったのだと理解した町民達は実に名残惜しそうな表情を浮かべながらその場を去る姿が、徐晃の脳裏に印象強く残った。 そして最後まで残ったのは天水を旅立つ徐晃たちとそれを見送る張遼だけとなった。
 
「やぁ~……、ホンマすまんかったなぁ……。」

「何、構わんさ」

「はい、旅人が残すのは悔恨ではなく良い思い出ですから」

「二人とも、おおきにな」
 
 徐晃たちは手綱を握り、荷馬車はゆっくりと動き出す。 それを晴れやかな笑みで張遼は見送る。 辛気臭い別れなど似合わない、後顧もなく、未練も無く、旅立ってゆく者の背中を磊落に笑って見送れてこそ一端の武人といえよう。
 
「道中、気ぃつけてな」
 
「ありがとう。 張遼殿も息災でな」

「では、またどこかで」
 
 小春日和の日差しに包まれながら徐晃たちは土気色の道を踏みしめ、揺れる荷馬車を引きつれて天水を旅立った。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 徐晃たちが地平線を越えて見えなくなるまで無言のまま見送った張遼は、小さく溜息を吐いた。 僅か数日だけの縁ではあったが、過ごした日々の濃度は中々にどぎつい色を醸し出していた。 これからの生活で出会うであろう人々の中でも、あれだけ鮮烈な輝きを出せる人間には早々お目にかかれないだろう。
 
「はぁ……、ええなぁ……。」
 
 ぽつりと漏れた言葉は嘘偽りの無い本音だった。 少しだけ羨ましかった。 いつも楽しげに笑いながら"彼女"の隣に立っていられることを。 僅かではあるが、今の地位を捨ててでも連れて行って欲しいとさえ思ってしまった程に"彼女"は輝いてみえたのだ。 しかし、今の自分には守るべき物が多くありすぎた。 それが、窮屈かと言われれば否である。 だがしかし、と張遼は思ってしまう、彼らのように身軽な身分であり立場であったのだとしたら、また違った未来があったのだろうか。
 
「伯やん……、また死合えるやろか……。」
 
 しかしそう考えても詮無いことである。 独りそうごちて、嘆息する。
 
「可愛ぇかったなぁ……、最高やわぁ…、はぁ……。」
 
 結局あの死闘以来、姜維との再試合は臨めなかった。 張遼は無意識の内に包帯の巻かれた腕をなで、瞼を閉じる。 思い出すのはまさに稲妻のような閃光だった。 あの一撃を受けた時、あの一撃を放った時、眼球の脳の更に奥で『何か』が揺らめいた。 もう少しで掴めそうだった『何か』。 己では乗り越える事が不可能だと思っていた扉の向こう側。 そこはきっと呂布が居る場所。
 
 張遼が武人として一目置かれるまでになった時には、既に呂布の存在が先にあった。 張遼とて決して凡庸とは言い難い天武の才を持ち合わせていた。 そして己に厳しく徹底的に身体を苛め抜いて修練に臨み、一流と称するに相応しい武を身につけるに到った。 だが、それでも呂布はそんな張遼より遥かに容易に武の真髄を極め、入神の域へと上り詰めていってしまう。 張遼はそんな呂布の才能に嫉妬にも似た羨望を懐いていた。
 
 だが、今は少し違う。 もっと先へ、もっと前へ行けばきっと掴むことができるのだ。 そこには必ず自分の望む限界の先が現れてくれる。 それを姜維が教えてくれた。 綺羅星の如く輝きをもって己の腕を抉ってみせた姜維の一撃はまさに入神の域にあり、そして自分もそれに反応し応える事ができた。 ただ、その後はこれ以上死合えどちらかが死ぬという結果が見えていたので勝負は流れてしまったが、求め臨んだ領域が、道筋が、垣間見えた。 数え切れぬほど刃を振るい、それを同じ数の刃を受けた末に、ついに見出した到達点。
 
「好敵手、か。 中々ええもんやな」
 
 いま張遼にあるのは、胸張り裂けんばかりの歓喜。 かつて、呂布の圧倒的なまでの武を見せ付けられ、己はこれ以上の高みは望めない、そんな弱気に囚われていた事もあった。 なんと愚かしい事だったか。 この昂ぶりを想えば、取るに足らない瑣事でしかないというのに、なんたる失態か。 積み重ねればいずれ必ず、あの眩く輝きの向こうへ届くはずなのだ。 ならば越える。 好敵手が、姜維が教えてくれた先の域へと踏み渡る。
 
「槍かぁ……、お揃いのを作ってみようかなぁ……。」
 
 ともすれば、まず先に姜維より抜きん出る必要がある。 となれば、まずは敵を知る必要が出てくるわけで、彼女の獲物について熟知しておく必要があるのだ。 決して本人が居ないから無聊の慰めに、というわけではない。 兎に角、思い立った日が吉日ともいう。 妙案を思いついたとばかりに張遼は、早速鍛冶屋に向けて歩き出した。






あとがき

う~ん……、また最後のほうでグダってしまったorz
さて、今回で徐晃さん達は天水偏を終えて旅立って新たな土地を目指します。
しかしまだ何処の勢力に属するかは先の話になってしまいますが……。
それもまた追々ですね。 あと二、三話ほど挟んだら明確にできたらいいな、と考えております。
ただ百戦錬磨の皆様は既に感付いている方もいらっしゃいそうだなぁ……(;´ω`)

そして姜維は愛紗から霞を寝取ってやったわけですが……。
フフフ、悪いな愛紗、霞は今私の隣で寝ているぜよ。
しかし、霞も純な乙女思考って感じで可愛いですよね~。

でも、あれ? まてよ……、こういうフラグって普通は男である徐晃さんが………。
つまり姜維が主役に昇格か……? やったねタエちゃん! 徐晃さんいつの間にかヒロインだよ!




[9154] 十一話・おれは!今までの人生で世界各国を放浪し、いろんな物を見て来たッ!アフリカの珍しい動物だの、アジアの奇怪な植(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:c668d42f
Date: 2010/02/27 20:42
 数日といえど野晒しの地べたで寝るというのは想いの外、身体に応える。 昼下がりともなれば春の麗らかな、柔らかい日差しが身を暖めてくれるのだが、夜の闇も深い深夜ともなるとまだ冬のような寒さが未だに粘り強く残り、身体の芯まで染み入る。 それを苦労して集めた薪で熾した焚き火と、一山いくらで揃えた毛布程度で夜を過ごすのは、とてもではないが割に合わない。 ただそれでも陸路で何十日もそれを味わい続けるよりかは、遥かにましな旅路ではあった。

「わぁ…! あれが洛陽ですか!」
 
 大陸全土の貿易の要にして帝の御座す都、洛陽。 古色蒼然たる宮殿を遠めに、驢馬を引き連れた農夫や荷物を背負った商人の者達が忙しなく出入りしている様を眺める姜維は、無邪気な笑顔ではしゃいでいた。 人の噂やら行商人からの話やらで知識だけはあったものの、実際自分の目で確認して、肌身で感じる空気は、聞くだけでは味わえない爽快なものがあったらしい。
 
「相変わらず凄いな。 城門の外まで人で溢れている」

 その言葉に嘘偽りは無いのだろうが、言葉とは裏腹に徐晃が浮かべる表情は普段と変わらず涼しいものだった。 それが姜維と違い何年か前に一足先に洛陽へ降り立った事がある、という余裕から来るものなのか、はたまた隣に並ぶ姜維を横目に見ると未だに興奮冷めやらぬ状態にあるらしく、目を丸くして辺りを忙しなく眺める姿が、何とも小さな子供ようで、それが努めて徐晃を冷静にさせているのかまでは判断がつかない。
 
「どうだ? 姜維。 始めてみる洛陽は」
 
 絶影の横腹を蹴り、一歩先へ踏み出す徐晃は、後に続いて荷馬車を引く姜維に問いかける。
 
「大きいです。 長安も富んでいましたが、その比ではありません」
 
「はは、そうか。 そこまで感激してもらえれば、連れてきた俺としても嬉しいよ」
 
 目を輝かせてそう感想を漏らす姜維に、徐晃の顔には笑み崩れたものが張り付く。 今でこそこうして笑っている姜維であるが、此処に辿り着くまでの道程の中で、徐晃はこの先滅多にお目にかかれないだろう珍しいものを堪能させてもらったからだ。
 
 天水を旅立ってからの方針は特に無く、状況の変化を見極めながら、柔軟に臨機応変に対応するという、非常に曖昧なものであった。 それはそれで面白い旅になっただろうが、ただそうなると姜維が引く荷馬車の存在が大きな重荷になってしまう。 そこで、徐晃たちは一度荷物を何処かに預けるなり売るなりして、荷を減らそうということで話が纏まったのだが、折角の機会でもあるのだからと、見物も兼ねて洛陽を目指すことに決まった。
 
 ただ方針が決まったあと、問題になったのはどの道を通って目指すかと言う事だった。 洛陽へ向かうには幾つもの道筋があるのだが、最短で数日、最長で数十日と大きな開きがあった。 その中で徐晃たちが選んだのは最短――つまり川路から向かう事にしたのだが、姜維は船に乗るのが始めてだった。
 
 船がまだ港に停泊し、多少の波にも揺れ動かなかった頃は、まだよかった。 徐晃たちの他にも乗り込む商人風の者達が買い付けたのであろう、麻袋いっぱいに詰め込まれた麦やら豆やらが積み込まれてゆくのを興味深げに眺めていたのだから。 それがどうだろう、船が陸から切り離され、右へ左へ揺れ動いた途端姜維の顔があっという間に青くなった。 船酔いでも起こしたのかとも思ったが、そろりと隣に座って震える姜維みやり、その反応からどこか懐かしいもの感じて徐晃は苦笑を漏らす。
 
 昔、徐晃も始めて船に乗った時はいつ転覆するのでは、と戦々恐々としていたのだから笑えない。 ただそれでも、姜維の怖がり方は極端なものでもある気がした。 徐晃の服の袖を震えながらも手が白くなるほど強く握り締めながら、目を剥きながら口から荒く息を吐き出している様は、千年の恋も醒めそうな程であった。 いっその事、身を丸めて震えていてくれた方が、徐晃としてもまだ対処できたというものだ。 それからの船旅での姜維は、船が大きく傾けば喉の奥に悲鳴を詰まらせたり、船底から鈍い音が聞こえれば飛び上がりそうなほど肩を揺らしたりなど、それを傍目からみる徐晃は、終始姜維を宥めつつ苦笑いに徹しているしかなかった。
 
 そして船は特に問題も無く航行を続け、予定通り洛陽付近の港まで辿り着いた。 出発の時にはさも嬉しげにしていたというのに、姜維は船が停泊するやいなや、運び出される積荷等には目もくれず真っ先に陸へと降り立つと、忌々しげに船を見上げ―――船、嫌いです、と呟いたのが徐晃には深く印象に残った。
 
「後は噂に聞く鬼の北部尉殿をこの目で拝めれば良いのだがなぁ……。」
 
 絶影に跨りながら、涼しく笑いながらも気安く放言する徐晃の傍らで、姜維は苦笑交じりに肩をすくめてみせる。 徐晃たちが洛陽を次の目的地に選んだのは荷を減らす為だけではなかった。 荷馬車に積み込まれた積荷の事さえ考えず、敢て二人がまだ踏み込んだ事の無い新天地を求め旅をするというのも、なるほどひとつの手ではあった。 しかし、そんな大胆すぎる行動は、大きな危険を無論孕んでくる。 未知の土地で夜盗だの、飢えた獣だのを相手にする可能性を考えると矢張り消極的になる。 どの道急ぐ旅でも無いのだから、と安全な場所へ落ち着いたのは当然の選択といえただろう。
 
 だが筋の通った話であったとしても、姜維はどことなく徐晃と決めた方針に不純がある事を感じていた。 それが先程の徐晃の発言で確信に変わる。 どう考えても徐晃はただ物見遊山をしたいが為だけに、姜維を洛陽へ誘ったとしか思えないのだ。
 
「―――徐晃様の話ですと随分と前の事のようですから、噂の方も昇級されて別の任地へ向かわれたかもしれませんよ?」
 
 胡乱気な姜維の視線には目もくれず、そうかぁ、と徐晃はこめかみに拳を押し当てて唸った。
 
「やはり時がたち過ぎたか……、洛陽に居てくれればいいが……。 是非あって見たいものだ」
 
 どうやら噂を耳にしてこのかた、徐晃の頭の隅には洛陽北部尉が住み着いているらしい。 であったとしても、ものには限度というものがある。 例えば隣を一緒に歩く姜維の事さえ脇に置いておくぐらい思考の海に入られてしまっては、姜維としても面白くない。 折角、邪魔者もいない二人きりの状況なのだからもっと華やいだ会話もしたいのだ。
 
「取り敢えず、城内に入ってみないことには判らんか」
 
「………。」
 
 目の前の朴念仁の巨漢を一端意識から閉め出して、姜維は深く息を吐く。 外堀さえも未だ手の付けられない鉄壁の牙城ではあるが、まだ切り崩しにかかったばかりである。 姜維はより前向きな思考をする事に決め徐晃の隣を歩む。 ただ頬が若干膨らんでいたのは仕方の無い事だろう。
 
 遠目に映る洛陽は今でこそ清楚かつ華美に彩られてはいるが、古から時の権力者により遷都を繰り返し、その都市機能の中枢が再び洛陽に移転されたのは今より十一代前の光武帝の時である。 そこからまた増改築を繰り返し、その度に重税と飢饉にあえいできた民の有様は見るに忍びなく、貧民窟は拡大する一方であった。 その様は、皮肉な事に今の漢王朝を現すかの如く、無個性で、安穏と天下に胡坐をかいた姿そのものだった。 しかし、そうであっても天下の政を担う都だけあって人出の多さは他の都市とは比較にならない。
 
 お互い関心を払う事がないほど忙しなく行き交う人込みの中に、徐晃たちは多少目の視線を向けられる事はあってもそれ以上の興味を惹かれる事もなく、城門前で行われている検問の列に紛れ込んでいた。
 
 白装束の頭巾の巨漢に、幼いさが残りながらも未来の美しさを覗かせる少女の二人組みは、実のところ外来の人間としてはそれほど物珍しい存在ではなかった。 南蛮から訪れた商人などは象を初めとしたこの付近ではまずお目にかかれない稀少な動物やら、珍しい形をした食べ物やらを客引きにと、これ見よがしに見せ付けるのだから、徐晃たちの存在が往来に馴染む事など容易かった。
 
 つい先程も、徐晃たちより先に城内へと入っていった商人が檻に入れ引き連れていた黒い大きな虎に似た猫も、周囲の人間を徐晃たちの存在よりも遥かに驚かせていた。 それを徐晃は姜維と共に馬上の高みから眺めてから、お互いの顔を見合わせて苦笑する。 何だかんだと旅をしてきた中で、自分たちより目立つ存在は少なく、注目を惹く事はあっても、それを傍目から眺めるという事はあまり無かったからだ。
 
 気を取り直し、黙々と前へ進む列に従い徐晃たちも無駄なく自然な動作で絶影の手綱を引き、検問所へと向かう。 ふと徐晃が手綱から手を離し握っていた手を開けば、じんわりと滲んだ汗が陽光にその雫を輝かせた。
 
「……………。」
 
 洛陽には、三年ほど昔にも一度だけ訪れたことがあるのだが、その時も今と同じように緊張で手に汗握っていた。 胸をうつ高鳴る鼓動も、まるで昨日味わったばかりであるかのように鮮明に覚えている。 そして今もそうだ。 見上げれば突き上げるように聳え立つ城門も蒼穹の彼方まで晴れ渡る空も変わらずそこにある。 

 しかし月日というものは、徐晃の記憶の中にあった洛陽の姿を一変とさせていた。 遠目からは何一つ変わらないでいたその姿も、だが影を落とすかの如く静かに、見えざる激流の奔流に飲み込まれているかのように激しく流れ変わっている。 その最たるものが『鬼の北部尉』の出現といえよう。 ただ徐晃とて予想していなかったわけではないのだが、それでも想像していた域を超えて世が動き始めている。 もう一度、改めて洛陽の界隈をその目で確かめる必要がある。 世の流れの速さと、それに伴った情報の整理に難儀しそうな予感を覚えて徐晃は静かに溜息を漏らした。
 
 城門の前に数人の兵士を待機させて体裁だけを整えてはいたが、中身は素通りと変わらない天水の検問所とは雲泥の差の厳戒態勢。 商品を積み込んだ荷車の中身は無論のこと、衣服の袖口から樽や袋の中まで暴き出され、哀れ人相の怪しい者は衣服を引き剥がされ尻の穴まで調べ上げられる徹底振りを徐晃たちは見せ付けられた。
 
 三年ほど前までならいざ知らず、ここまでの徹底振りとなれば成る程『鬼の北部尉』の名は噂に違わぬものだったようだ。 徐晃はさも飄々とした風を装って着々と進み行く列を馬上の高みから眺める。
 
「北門の禁令に従い、城中は下馬願いたい」
 
 いよいよ徐晃たちが検問所の前まで辿り着くと、待ち構えていたかのように即座に門兵たちが集まり、その中の責任者と思しき男が一歩前へと出てくる。 余計な言葉は一切抜きに、僅かに視線を交わらしただけで徐晃は素直に絶影から下馬すると、無言のまま通行許可書である木簡を差し出した。
 
「また所持している刀剣類は此処で預からせてもらう」
 
 己の職務に誇りを持っていなければ醸し出ないであろう堂々とした佇まいは、男と対峙する徐晃たちをも押し返さんばかりの気迫である。 むろん、徐晃も姜維も相応の実力を兼ね備えた武人である。 たかだか門番程度の気迫で威圧されるほどの器ではない。 しかし、この目の前の男が吐く言葉、それに伴う所作を思うと何やら感慨深い物を感じ、一瞬ではあるが物思いに耽りそうになってしまったのだった。 ただ一先ずは門番たる男の言葉に従う必要がある。 徐晃は背に預けた大斧を駆け寄ってきた兵士へ手渡した。 その瞬間――。
 
「ふ………ッ! ぬううぅぅううう!」
 
 その場に居合わす全員が、呆気に取られた。 徐晃の獲物たる大斧を何気なく受け取った兵士が、まるで見えざる手によって頭から押さえ付けられるかの如く、大斧を受け取ったその場で顔を真っ赤に染めて踏ん張っているのだ。 ずん、と地面のへこむ音が辺りに響き、兵士はほんの僅かな出来事であったにも関わらず全身を汗で濡らし息絶え絶えながらも、自分ひとりでは無理だと首を横に振った。 それを誰よりも驚きの眼差しで見つめていたのが、他ならぬ徐晃だった。
 
「お、おい。 大事無いか?」
 
 普段自分の背に担いでいた大斧が、他者にとってかなりの重量であるとは思っても見なかったらしい徐晃は、珍しくも動転した口調で兵士に声をかける。
 
「気遣い無用! おい!」
 
 だが、それを遮ったのは、門を守護する責任者の男だった。 驚きのあまり呼吸させ滞らせて、ぱくぱくと口を開閉させている兵士達を呼ばわるのだが、動転するあまり情けない姿を晒す兵士たちをみて、男は深々と盛大に溜息を吐いた。
 
「何時まで呆けている! さっさとこの大斧を持って行け!」

「…………ッ!!」
 
 やおらそう吼えた大声に、それまで呆けた顔をしていた兵士達が、まるで夢から醒めたかのように目を見開いてたじろいだ。 男の炯々と睨み据える眼光を身に受けた兵士たちは、一斉に自らの役目を思い出し、一人では持ち運べずにいた徐晃の大斧を今度は三人がかりで運び出し、他の者たちも我先にと、逃げるようにして各持ち場へと戻ってゆく。 その中心に立つ男は、そんな兵士たちをさも情けないとばかりに嘆息を漏らして、それを見送った。
 
「見苦しいものをみせた……。」
 
 厳つい顔を僅かに俯かせ、男の口から苦り切った言葉が漏れる。 相手の心中を察すればこそ、徐晃は苦笑のみを顔に浮かべてるだけに留めておいた。
 
「通行書も本物であるようだな。 ならばこれを持てば、行って良い」
 
 徐晃と姜維に手渡されたのは簡素な割符の片割れだった。 恐らく預けた武具の識別と、旅発つ際に交換の為に使うのだろう。 ともするなら、手渡された割符は何があっても無くすわけにはいかない。 これを提示できなければいくら自分の物だと主張しても、返して貰えないのだから。 最悪、溶かされて別の物に作り変えられてしまうかもしれない。
 
 姜維はそれをしげしげと、物珍しげに眺めていたが徐晃は、後で説明すると姜維の肩を叩きながら先へ進むように促した。 鰻の住処のように狭く、人の往来を限定させた検問所の前で何時までも立ち往生していては、後に控えている旅人や行商人たちから嫌な顔をされかねない。 別段、徐晃たちが何かを遣らかしているわけではないのだが、特に行商人は記憶力が良く別の街でふと出会った時に嫌な顔をされるかもしれない。 ただそこまで彼らも狭量では無かろうが、神の目と耳を持つとも言われる情報網を持つ者たちとの間に、つまらない事で無用な軋轢を生みたくない、というのが徐晃の正直な気持ちでもあった。
 
「いや待て、貴公等は………、行商人ではないのだな?」
 
 絶影の手綱を握り、城内へと向かう徐晃たちを無言のまま見送るはずであった男が、再び声をかける。 その固い声音は質問というよりも確認の意味合いが強くみてとれた。 さもありなん、大人の男の身丈もある大斧を、それも鍛え上げた兵士でさえ三人がかりでなければ持ち上げられないような代物を徐晃は軽々と持ち上げてみせたのだから、行商人と見紛うなどということは無いだろう。
 
「はい、旅途中の武芸者ですが?」
 
 涼しく笑って受け流し、徐晃は歩みを止める。
 
「ならばまだ仕官先は決まっておらぬのだな?」

「……、えぇ。 まだまだ未熟ゆえ見聞を広めている途中です」

「そうか……、今後の旅路に差し支えぬならば陳留に向かうと良い」

「陳留……、ですか?」

「あぁ、今の刺史を勤められているお方は清廉にして厳格。 貴公の胸の内に志すものがあるならば陳留へ赴く事を薦める」
 
 男からの突然の提案であったが、徐晃はふむ、と思案に耽る。 徐晃の記憶の中にある陳留の刺史は、目の前の男がそこまで賛辞するほどの人物ではなかったはずだった。 いや、むしろ暗愚といってもいいほどだ。 しかし、男は"今の"と言うのだから、ここ数年の内に変わったのだろう。 洛陽にも流れていた変革の波が、いよいよ外にも溢れ出ているらしい。 陳留は洛陽からさして離れた位置になるというわけではなく、赴こうと思えば、可能だ。 これは最早、洛陽のみに留まらず一度、己が見て回った世界を見直す必要があるのかもしれない。
 
「成る程……、感謝します」

「いや、なに。 貴公の旅路に差し支えなければ、だがな……。」

 自分でも熱く語り過ぎたのと思ったのだろう、男は俯き加減にぽつりとそう呟いた。 徐晃は涼やかに笑いながらもう一度、視線だけで男に謝意を伝えると、今度こそ絶影の手綱を引いて洛陽内へと向かってゆく。 それを待つ姜維とも言葉を交わさず、横に並び立ち共に歩く。 交わさずとも互いに斟酌できるだけの時間は過ごしているのだから。
 
 徐晃と姜維が検問所を去るまでの間、静寂が訪れる。 そしてほどなく思い出したかのように、周囲のざわめきの音が、遠くから聞こえる露店商人達の喧騒の声が、ひめやかに辺りを擽り始めた。 徐晃と門兵たちが見せた一連の騒動からやっと我に返ったのだろう。 姜維は、横に並んで絶影の手綱を引く徐晃に向けて複雑な想いの入り交じった視線を向ける。
 
「何だかんだで結局、目立ってしまいましたね」

「是非も無し。 まぁ深く考えん事だ」
 
 姜維からの問いに対し、徐晃は涼しげな笑みを浮かべたまま、まるで他人事であるかのように平然と肩を竦めた。

「視線が気にならんと言えば嘘になるが、それを全て気にしていられんよ。 まぁあれを知人にでも見られていれば、何かしら聞かれるかもしれないが、な……。」
 
「それは――、そうなんですけど………。」
 
 何か言い足りないと顔にだしたまま、憮然とそう返す姜維の声は固い。 最後の方で不吉な発言があった気もするが、それを危惧していても仕方のないことである。 それにだ、大都市洛陽の中にあっては先程の一件も、きっと別の何処かで起こった真新しい出来事に上塗りされてしまい忘れ去られてしまう事だろう。 
 
 徐晃は随分と伸びてきた顎の無精髭を擦りながら、雑踏の賑わいで沸き立つ露天やら、品物やらを口元に薄く笑みを作りながら眺めていた。 その朗らかな横顔には、先程までの徐晃には珍しいかった動揺の色はない。 ただ悠々と静かに、人々のごくありふれた営みを眺める姿は何時も通りの徐晃そのものであった。 だが姜維は、そんな居住いとは裏腹の徐晃の心中を誠に遺憾ではあるが察してしまっていた。

「―――――、見物したいんですね?」

「あぁ……。」
 
 徐晃は、気負うこともなくそう呟いた。 横目に見やれば、徐晃の目は既にもう、周囲の露天に並べられた品物やら旅芸人が奏でる演奏やらを眺める事に注視していた。 これではどちらが始めて洛陽に着た田舎者なのか判らない。 姜維は人目憚らず溜息を漏らし、少々強引ではあったが、徐晃の腕を引っ張り意識を自分の方に向けさせる事にした。 徐晃の目線が、女性三人組みだけで歌っている、という本当に珍しい旅芸人に向けられていたのが、姜維の強引さを一層強くした原因で決してないでずである。
 
「その前に、宿を探しましょう」

「むぅ……、そうだな……。」
 
 それでも尚、後ろ髪引かれるのか、徐晃は二度、三度と女性の旅芸人たちの方を見やるが、だが姜維もそうはさせじと、間髪をいれず再び徐晃の腕を引く。

「確か、徐晃様は心当たりがあるとか」

「あぁ…。 とは言ったが……、もう三年も前の話だからな。 正直、期待されすぎても、その……、困る」

「なら当たれば僥倖、程度で」

「そう思ってもらえれば助かる」
 
 小さく息を吐いて徐晃は、前を見据える。 明るい陽光に照らし出された市街は、長閑な日常の空気を醸し出していた天水と比べ、皆一様に忙しなく何処か生き急いでいる風にも見て取れた。 風の噂では既に、官軍の手では覆い隠しきれないほど頻繁に出没する賊の存在もこの洛陽では、酒の肴ほどにしか認知されていないのかもしれない。
 
 ふと思えば姜維と出会って以降、ただ平穏無事に各所を巡った旅は、まるで他人の優しい夢の中にいるような心地だった。 まだ村で侠客まがいな事をしていた頃、まだ一人で旅をしていた時は何かを――人であれ、感情であれ――喪う事の方が多かった気がする。 眠りは浅く、木の葉を小動物が踏みしめた音だけで起きるなんてことは良くあった。 明日より先の日々に想いを馳せるよりも今をどう生きるか、なんて鋭利な考えで過ごしていた。 そんな過去の己と、忙しなく道を行き交う洛陽の人々がふと重なって見えてしまったのだ。
 
「しかし徐晃様。 心当たりとは一体どのような所なんですか?」
 
 ただ隣に並んで悠々と道を歩く。 そんなごくありふれた平凡な行動が、こんなにも楽しいと感じたのは姜維と出会ってしまったせいだろう。 こんな風に景色を、徐晃と一緒に、姜維が共に想い出の中に刻み込んでくれる事が、たまらなく嬉しかった。 陰に陽に逃げ隠れ、突き進むみ、手に汗握るような冒険譚は必要ない。 ただ互いに微笑み合い、緩やかに進む道を二人で歩く平凡な旅であれば、それ以上に素晴らしいことは他にないだろう。
 
「ん? そうか、まだ話してなかったか」

 すまん、すまん、と朗らかに笑いながら徐晃は言葉を続けた。
 
「実際には、俺も直接訪ねるのは始めてなのだが、そこの主人とは昔からの知り合いなんだ。 ほら、お前の村で使った塩、あれをくれた人でもある」

「ほほう、という事はその方は商人ですか?」

「そうだ。 まだ俺が故郷の村に居た頃にな、塩の買い付け等で来た主人の護衛などを引き受けた事もあってか、顔見知り以上には良い関係を築けていたと思う……。」
 
 当時のことを思い起こしたのだろうか、まるで懐かしい友人の面影に思いをはせるかのように、目を細め口元を浅く緩めた。 それとは対照的に姜維は、何やら思案顔で眉根を寄せていた。
 
「うむむ……。 塩を元手にした商売とは儲かるもののようですね」

「らしいな。 俺も詳しい話は良く判らんがな」
 
 生まれた土地柄が違うせいか、徐晃はそれほど頓着していないが、姜維からみればそれは捨て置けない情報だった。 偏に塩といっても、その使い道は様々にある。 春から夏にかけては肉に擦りこんだりして使用する高級な調味料として扱うし、秋から冬になれば鰊などの魚や肉などに漬けるなんてこともする。 つまりは一年中、需要があり取引には事欠かないのだ。 さらに言えば、内陸地になればなるほど塩の価値は、それこそ金や銀よりも高値がつくこともある。
 
 それを荷馬車一杯に詰め込んで売り捌いて、無事に戻ってくる。 月日だけでいえば僅か一月もかからず、巨万の富を貪る宦官であっても羨む様な金額を稼ぎ出す事も可能なのだ。 だが、そんな旨味の大きい話を誰もが放っておくはずもなく、商人同士の縄張り争いはまさに激戦となるのは想像に難くない。 そんな血で血を洗う権謀術数渦巻く欲望の道を制し、さらには大都市洛陽に店を構え、嫉妬と欲望の念を懐いているであろう宦官をも遣り過ごせる人物ともなれば、まさに商人の道の覇道を極めた者と呼ぶに相応しい。 そんな人物と徐晃は知り合いだというのに、それを自覚していない辺りが、何とも徐晃らしいといえる。
 
「私は徐晃様がとんでもない人だということが、良く判りました」

「む、どういう意味だ」

「さぁて、どういう意味でしょう。 ご自身の胸に聞いてみたら如何ですか?」

 姜維は弾むような足取りで、するりと徐晃の横から一歩前へ出る。 そんな姜維の表情は、どういうわけか彼女の母である姜冏を彷彿とさせる意地の悪い笑顔だった。
 
「むぅ……。」

「くふ、そう難しい謎かけでは無いはずですよ」
 
 思案顔で唸る徐晃を楽しそうに笑いながら眺める姜維の口調は、どこか芝居がかっていた。 そんな煽られ方をされては、好奇心旺盛な徐晃としては、何が何でも解きほぐしたい心境だろう。 それを見て姜維がまた底意地悪く笑うものだから、徐晃は眉間に皺まで寄せますます意固地になってしまう。
 
「まぁ、考える余り夜に眠れなくなってしまっては困りますから、何時でも答えはお教えしますよ」
 
 そう徐晃には言ったものの、姜維の心中は真逆にあった。 答えが分からないなら一生そのままの方が良い、とさえ思っている。 むしろ自覚でもされてしまっては、徐晃の漢を下げてしまう。 無自覚だからこそ、鼻にもつかず本人の魅力として輝くものも、世の中には存在するのだから。
 
「むぅぅぅ……。」

 地面の砂利の粒でも数え始めようとでも言わんばかりに、じっと黙したまま佇む徐晃に姜維は少し困った。 まさかここまで思い悩むとは思っても見なかったからだ。 それに天下の往来の真ん中で、巨漢が道を塞いでいては他の人にも迷惑になる。
 
「悩むのも構いませんが、その前に宿を確保しましょう」
 
「あ、あぁ。 すまん」
 
 旅の上でまず重要なのは身体を休められる場所の確保だ。 姜維の言葉に我に返った徐晃は、頭を掻きつつ己の子供のような行動に顔を仄かに赤らめて恥じた。 そんな中、互いの視線が合い姜維は笑い、徐晃は顔を俯かせる。 何にせよそんな他愛もない遣り取りが面白く楽しい。 一緒に笑い、一緒に歩き、一緒に食べて、寝る。 決して過ぎた望みではない、小さな幸福を徐晃と共に分かち合える事が、そんな小さな出来事でも姜維には堪らなく嬉しのだった。






あとがき

作者ことギネマム茶は、『バレンタイン終了のお知らせ』を強くッ! 強くッ!!応援しております。

寒暖の差にやられ二、三日ほどダウンしておりました……。
いやぁ~、何年ぶりだろう風邪ひいたの……。
タミフルは摂取していないはずなのに終始妙なテンションでした。

さて、今回やっと伏線の回収に成功しました。
何とか筋道外さずにここまで扱ぎつけた事にホッと胸を撫で下ろしています。

最後に、今年の風邪は寒気やら吐き気やら腹痛やらの症状でもう色々出すわで大変です。
ですので、皆様も充分身体には気をつけてお過ごしください。
ではまた次回に……。



[9154] 十二話・『口止めをする』『徐晃様も守る』 「両方」やらなくっちゃあならないってのが、「ヒロイン」のつらいとこ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:c668d42f
Date: 2010/02/27 20:41
 徐晃と姜維が訪れた場所は、姜維の予想に違わぬ石造りの壮麗な店構えで二人を出迎えた。 洛陽に拠点を構えているだけあって、どこの店先も人の行き来が絶えず、商品の情報収集に明け暮れる商人の弟子と思われる少年達が、まるで競い合うように道を駆け抜けてゆく。 使いの一つも満足に出来ないようであれば、師匠たる店の主人から岩より硬い拳骨を賜るのだから必死にもなろう。 徐晃たちはそんな少年たちの姿を尻目に、件の店の荷揚げ場へと入ってみればその活気にと人の多さに二人は圧倒された。
 
 幾つかある各荷揚げ場の中には、従業員も含め数十人はくだらないほどの人で溢れていた。 いったい、どこにそんな余剰幅があるの分からない。 穀物や野菜から始まり、縄で結わえられた家畜やら武具一式までと、節操の無い取り合わせが並べられ、それを売る者と買う者でごった返している。
 
「おや? お! おぉ! もしや、徐晃さんではありませんか? ハイ」
 
 荷台に小山もかくやと荷を乗せた客と言うことで、店の主が直接応対してくれたが徐晃たちにとっては幸運だった。 徐晃の顔を認めると、懐かしい旧友との再会を喜ぶかのように小走りに駆け寄ってくる男に徐晃も自然と笑みを漏らしてそれに応じる事ができた。
 
「ご無沙汰しております。 司馬防さん」

「えぇ、えぇ。 三年振りになりますでしょうか、ハイ」
 
 朗らかに笑いながら徐晃の手を力強く握る司馬防の手は、外見からは想像も出来ないほど分厚く、硬かった。 一見すれば、貴族の子弟のように見え、労働とか苦労といった言葉とは程遠い身体つきで、とてもではないが遠方へ買い付けなどに出ているようには見えない。 辺りを見回してみても、情報や商品の売買に勤しむ他の屈強な身体つきの商人たちとは違い、司馬防だけが一人、ぽつんと浮き出るように異彩を放っている。 ともすれば、一人だけ毛色の違う司馬防は、重荷を担ぎ、汗を流し埃にまみれながら商売する商人からは嫌われそうなものだが、その信頼は意外なほど厚い。
 
 洛陽でも有数の貿易商である司馬防の下には商品はもとより、人や情報と様々な『商品』が毎日売り買いされる。 それを誰よりも多く見聞きしている司馬防の頭の中には、万に及ぶ地図やら人の顔やら地方の情勢やらが詰まっている。 それを頼みに人がまた集まり、司馬防本人も先陣を切って昼夜を分け隔てず商売に明け暮れている、というのであれば表立って文句を言うものは出ようはずも無い。
 
「荷馬車を引いている所を見ると、ついに商人になられたのですね? ハイ」

「いやいや、俺に商いなどとても……、今日はこの荷と宿について相談に来ました」
 
「そうですか……、徐晃さんが私の店に勤めてくだされば、これほど心強い事は無かったのですが、残念です、ハイ」
 
 司馬防は心底残念そうに顔を歪めて見せるが、二人の会話を横から眺めていた姜維にはそれが、半分は嘘だと分かった。 何十年と同じ街で生活する事になる町商人は、顔を何十、何百と持ち合わせている。 同業者同士の癖や性格まで把握しきっているせいで、互いの腹の探り合いは日常茶飯事あり、自在に表情の変わる顔の厚さなど豚の脂肪より厚いかもしれない。
 
 そんな権謀術数渦巻く商談の世界に、表情や行動が素直すぎる徐晃が商人になったら、評判は上々だろうが儲けの面では苦労することは想像に難くない。 そんな徐晃を雇い入れたとしても、旨味は少ないだろうが、力仕事をさせれば、さぞや重宝されることだろう。 司馬防が残念がる理由はもしかしたらそこにあるのかもしれない、などと思いつつ姜維は、相談事を纏めつつある二人の会話に、黙したまま耳を傾けた。
 
「ふむふむ、宿をお探しでしたら、ここから少し離れた場所に私の家がありますので、その空き部屋を使われては如何でしょう? ハイ」

「えッ!? よろしいのですか?」
 
 司馬防の思い掛けない申し出に、徐晃は驚きの表情を露にした。 徐晃としては、安い事に越した事は無いが、出来る限り身体を休めるのに適した宿を紹介してもらう程度の考えでいたのだろう。 ただ、商人という生き物は益がなければ梃子でも動かない人種だ。 狐のように細い司馬防の瞳から心中を読み取ろうと、姜維は慎重に二人の動向を窺う。 状況次第では強引にでも徐晃の腕を引いてこの商会を出てゆく心積もりでもあった。
 
「勿論でございます。 そちらのお嬢様にもご満足いただけるかと、ハイ」
 
 徐晃から外され姜維に向けられた司馬防の眼差しは、とても穏やかで柔和なものだった。 徐晃との対話では狐を彷彿とさせた油断のならないものであったのだが、今は愛娘を眺める父のそれに近い。 司馬防とて、徐晃との会話している所を姜維が眺めていたことに気がついていたはず。 しかし、司馬防はそんな目を姜維は向けなかった。 それが純粋な好意と解釈もできるが、同じ土俵に立つに値しない格下、とも受け取れる。 そして、姜維がそんな扱いで満足できるほど己の矜持は安くなかった。
 
「徐晃様……。」
 
「お、おい。 どうした姜維?」
 
 姜維は、司馬防の言葉を聞くや否や、するりと徐晃の後ろに回りこみ司馬防の視界から隠れてしまう。 その様はまるで、人見知りする少女が庇護者に助けを求めるかのようであった。 傍目からそれを眺めれば、どうみても司馬防が悪者に見えてしまう。
 
「おやおや……、どうやら嫌われてしまったようですね、ハイ」
 
「むぅ……。」
 
 困り顔で唸る徐晃の声に、姜維は心の中で謝罪する。 姜維としても徐晃を困らせるのは本意では無いのだが、それでも侮られるのは己の矜持が許さないのだ。 では、如何様にすれば自分を認めさせられるか。 姜維の頭の中には既にその公算は出来上がっている。 商人は入手の困難な商品ほどそちらに目を向けてしまう生き物だ。 姜維は、まさにそこを突こうとしていた。
 
「おや? ほっほっほ……、どうやら徐晃さんは素晴らしいお連れ様とご一緒だったのですね、ハイ」
 
 司馬防の慎ましい笑いに困惑する徐晃を余所に、姜維は徐晃の影から顔を覗かせ底意地の悪い笑みを浮かべていたのだった。 それに気が付かない徐晃は、司馬防の変わり様に困惑の色を濃くする。 そんな刃を用いぬ姜維と司馬防無言の競り合いは、咄嗟の機転により姜維に軍配が上がった。
 
「如何でしょうお嬢さん。 我が家に是非お泊り願えないでしょうか? ハイ」
 
 駄々をこねる子供をあやす、どこにでもいる父親のような和みきった面持ちのまま、司馬防は世間話をするかのような口調で姜維に語りかける。 だが、そんな慎ましい笑顔の奥には、先程までにはなかった獲物を狙う鷹の目が潜んでいた。 益があるのであれば、たとえ神が所有するものであったとしても、手に入れようとするのが商人の性だ。 それが身近な他人の所有物であれば、尚の事欲しくなるのはもはや本能に近い。
 
「………、徐晃様が良いと仰るのであれば」
 
 細い体躯を生かし、儚い深窓の令嬢を演じきる姜維は、司馬防の反応に満足したのか徐晃の影から身を曝け出し、司馬防と真っ向から対峙する。 そんな不躾な姜維の行動にも司馬防は余裕の態を崩さず笑みを顔に貼り付けたままだった。 仮にも小娘如きに一杯食わされたというのに、大らかに笑っていられるのだから、それだけでも司馬防の器の深さが知れる。
 
 ただ実際のところは、商人という人種は身内以外には怒るという事をしない。 怒る変わりに、相応の対応を取るというだけのこと。 むしろ司馬防は姜維に対し久しく経験していなかった純粋な驚嘆の念を懐いたのだ。
 
 子供、そう呼んで差し支えの無い容姿の姜維であるが、その美貌は誰もが目を引くものである。 そんな姜維に目をやる商人の姿も少なくはなく、そんな中で司馬防は、傍目からは可憐な少女を怖がらせる悪人に見えたことだろう。 そして姜維は間髪入れずに己の庇護者は徐晃であると主張し、己の自由意志の決定権も徐晃にあるが、自分が駄々をこねれば纏まりかけた話は破綻するぞ、と司馬防に徐晃は何であれ利用はさせないと牽制しつつ、流れの主導権を握った事を提示する。
 
 偶然が生み出した状況ではあったが、場の流れを瞬時に把握し、己に有利な展開へと事を運ばせた頭の回転の速さと、その行動力は下手な商人よりも優れていた。 是非とも欲しい、そう思わずにはいられなかった司馬防は、ひどく冷静な思考で即座に姜維の術中に嵌ってしまったことを理解した。 言葉によらぬ二重、三重の心理戦。 司馬防が慎ましい笑みを浮かべていたのは、かつて自身がまだ駆け出しだった頃、先を往く老獪な商人たちと遣り合った時に感じた刺激を今度は、己が先達者の立場となって味わったからかもしれない。
 
「どうでしょう、徐晃さん。 お嬢さんもこう仰っておいで、ですが。 ハイ」
 
「そう、ですね……。 ご迷惑でないのなら是非」
 
「おぉ! それはよかった。 ではでは、早速ご案内いたしますよ。 ハイ」
 
 秘密を共有する悪戯好きの子供のような笑みを浮かべる姜維を一度だけ、横目に見やり司馬防は二人には見えぬように口角を吊り上げた。 ある種の戯れ合いではあったが、司馬防の心の中から無くなりかけていた初心を思い出させて貰った感謝の念、それと同時に姜維のような人間が徐晃の隣にあることの安堵だった。
 
 突出した能力を有するというのは、それだけで誰彼から狙われる事になる。 それは本人の意図が介在する余地なく襲い掛かってくる。 そんな不条理に対処しうる手段は少ない。 己の信頼しうる人物に庇護を求めるか、自らの力を自覚して立ち向かうしか方法はないだろう。 徐晃は表情や行動が素直すぎて、司馬防から見ると少々危うい所もあったが、それも姜維の登場で杞憂に終わってくれた。 僅かに言葉を交わした程度ではあったが、徐晃の事を好いている事がありありと見て取れる姜維ならば、悪い事にはならないだろう。 そんな想いを懐きつつ司馬防は、背中越しから聞こえてくる二人の会話に、商人のではなく、ただの司馬防としての笑みを漏らすのだった。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「ご不便はおかけしない、とお約束いたします。 ハイ」
 
 そういって案内されたのは、司馬防の商店から少し離れた場所にある貴人も羨むほど大きな私宅だった。 入り口から石造りの泰山とした構えになってなっており、内部も完璧といっていいほど整備され、手入れが行き届いている。 姜維が通された一室は中庭に面していたらしく、がっしりと頑強に組まれた木窓の外の世界は、見事な庭園に咲き誇る花々で溢れていた。 恐らく司馬防が気を回してこの部屋を誂えてくれたのだろう。 そんな司馬防の細やかな配慮に姜維も自然と笑みが出る。 ただ残念なことに今の姜維の興味は綺麗な中庭では無くもっと別の所にあった。

 ふわり、と手を軽く手を押し当て、離すだけで瞬く間にもとの形状へと戻る掛け布団に姜維は目を輝かせた。 麻袋を縫い合わせた袋の中には、隙間無く詰め込まれた羊毛。 野晒しで、薄く硬いだけで一向に暖の役割を果たさない焼売の皮のような毛布とでは、比べるべくも無い一級品の代物である。 そんな上等な物を目の前にして無邪気になるなというのが、無理な話である。
 
「お、おぉ~……。」
 
 寝台に腰掛け、姜維の自重にゆっくりと沈む膨れ饅頭のような羊毛の布団に感嘆の息を漏らす。 夜はまだ冷えるが、もしかしたらこの一枚だけで汗をかいてしまいそうだ。 出来立ての饅頭のようにふかふかな布団というものは、野宿が続いた人間にとってはそれほど魅力溢れる魔性の代物なのだ。 よって多少、気分が高揚したとしても、それは仕方の無い事なのだ、と姜維は自分に言い聞かせる。
 
「――ッ♪ ―――ッ♪」
 
 跳ねる。 跳ねる。 跳ねる。
 
 寝台の上で腰を浮かせては沈め、その度に羊毛の布団が形を変えてゆく。 その感触がまた心地よく、姜維の行動にさらなる拍車をかける。 否、もはや戯れというそんな生易しいものではなく、臀部から寝台へ目掛けて落ちている、といった方が傍目からみて正解だろう。 何しろ聞こえてくる音が、ぽす、とかではなく、ばん、とか時折寝台の骨組みがぎしりと悲鳴を上げ始めたのだから。 絶え間ない姜維の攻勢に、もはや寝台の命運ここまでか、そう思われたその時だった。
 
「……………………………。」
 
「――ッ♪ ―――ッ♪ ………え?」
 
 それは、徐晃でも司馬防でもない第三者の出現だった。 はたして姜維の奇行をいったい何時から見ていたのか、廊下に繋がる扉が開け放たれており、そこには一人の女性の姿があった。 黒曜石を溶かしたかのような癖の無い柔らかく長い髪と瞳、その居住いも怜悧な刃物を思わせる美女だった。 年の頃は姜維とさして変わらないだろう、少女期を終え、成熟した女性へと変化する過程の瑞々しい若さがある。 ただ夜行性の獣を彷彿とさせる切れ長い大きな瞳から注がれる眼差しが、ことさらに冷淡な印象を与え、外見の幼さよりもその冷やかな鋭い眼差しに威圧され、大抵の人間は気疲れを感じる事だろう。
 
「あ、あの……。」

「…………………。」
 
 僅かに視線を交わしただけで、女は姜維が何かを言い切る前に無言のまま扉を閉めた。
 
「あッ! 待って! 待って、待って、待ってくださいぃぃぃ!」
 
 その余りにも致命的な仕打ちに、姜維は動転のあまり我を忘れて奇声を上げた。 よりにもよって己の奇行を誰かに見咎められていたなどとは思いもしなかった。 恥ずかしさの度合いでいうならば、かつて徐晃と共に船に乗り込んだ際に失態をみせた時でさえ、姜維はここまで赤面したことは無かったと断言できる。
 
 そこからの姜維の行動は最短だった。 自身の声が室内に響き渡る頃には、すでに姜維は室内から姿を消していた。 ただ開け放たれた扉から吹き込む逆風の風だけが、姜維の焦りの気配を残して伝えるだけだった。
 
「ちょっと待ってください!」
 
 姜維は己の焦りと共に扉の角を曲がり、廊下へと踏み込むと先を歩く女性の背中に声をかける。 靴音も高らかに鳴らし悠々と歩を進めていた女は姜維の声に反応して、歩みを止めて振り返る。
 
「何?」
 
 言葉も短く問いかける女の凛と張った声音は、静寂に保たれた廊下に良く響いた。
 
「あ、あの……、貴女はいったい」

「性、司馬。 名、懿。 字、仲達。 此処、司馬家、次女」

 姜維の問いに、女……司馬懿は即答で応じた。 色白の端正な美人が、笑み一つ浮かべず無表情でいるというのは存外に恐ろしいものなのだと、場違いにも姜維は思った。 絹のような漆黒の髪に目を奪われる男も多いだろうが、切れの長い鋭い眼差しで一瞥を送られれば、どんな色事師でもあろうとも篭絡は諦めるに違いない。 ただでさえ、冷淡な印象を煽っている眼差しに胡乱気な視線を乗せられようものなら即時撤退ものである。
 
「わ、私は、性は姜。 名は維。 字は伯約です」

「………………。」
 
「そ、それで、ですね。  司馬懿さんは何故あの部屋に……?」
 
 心の中で、もう恥ずかしいやら怖いやらで、半分泣きながらも姜維は勤めて冷静を装って問いかける。 こういう言葉も少なく、自分から進んで話そうとしない種類の人間との付き合いが圧倒的に少ない姜維は、どこから切り崩しにかかれば良いのか攻めあぐねるのだ。
 
「物音」

「え…?」
 
 あまりの短い返答に姜維は気の抜けた返事を余儀なくされた。
 
「……、物音。 空部屋、物音。 泥棒、警戒。 索敵、必須」
 
 単語、単語を繋ぎ合わせて鬱陶しそうに言い直すと、司馬懿は嘆息を吐くと、姜維を見据えた。 その双眸から放たれる容赦のない冷えた眼差しに、さしもの姜維もさも困窮したと風に「むぅ」と可愛い唸りをあげる。 その何処と無く徐晃に似た愛嬌ある仕草には微笑ましいものを覚えるが、対峙する司馬懿は笑ってすらなかった。 生真面目な姜維はそんな司馬懿を一端頭の隅に置き、彼女の発した言葉の意味合いを理解しようと持ち前の頭脳を働かせて、会話を繋げ様と必死になる。
 
「えっと…。 結論から言いますと、私は泥棒じゃありません」

「……………。」
 
 無言のまま姜維の言葉を聞く司馬懿。 どうやら先を続けろ、という事らしい。
 
「つい今し方、この屋敷の主人のご好意で、あの部屋を使用させて貰っています」

「……客人?」

「はい、そうなります」
 
 姜維の言葉に若干眉を上げ、司馬懿は小さく頷いた。 気のせいか、姜維を見る視線も警戒されたものから微妙に弛緩した物へと変わった。 ただ姜維としては此処からが本番である。 先程の失態を素知らぬ風を装って、何とか口止めしなければならない。 これが徐晃の耳にでも入ろうものならば、姜維は躊躇無く井戸に身を投じる覚悟がある。
 
「それで、司馬懿さんは空き部屋だったはずの場所から物音がしたので様子を見に来た、というわけだったんですね?」

「肯定」

 徐晃が聞けば、背筋を凍らすような、ぞっとするほど母親に良く似た猫撫で声で司馬懿の横に並び立つ。 続けざまにすっと出した手で歩くように促して廊下を進む。 高い天井に等間隔で壁に置かれた燭台の数だけをみても、それだけで司馬防の店がどれだけ潤っているのかがよく分かる。 磨き上げられた石造りの床や壁には曇り一つない所を見るに、使われているのは獣脂の物ではなく高価な蜜蝋であるらしく、嫌な匂いも無く空気はまったく澱んでいない。 それとなく廊下の隅に配置された花瓶さえ、職工の技が作り上げた芸術品である。 富というものは、有る所には有るものだ。 もしかしたら、いま大陸全土で誰よりも富める者がいたとするならば、それは、帝でも宦官でもなく商人なのかもしれない。
 
「―――――。 それで、どうでしたか?」
 
 姜維はあえて主語を抜いて、一石を投じる。 これによって司馬懿の意識の向く方向を探るためだった。
 
「別段……。 極普通」
 
 淡々と平坦に、問いを返す司馬懿。 姜維は、そんな司馬懿の表情の些細な機微まで余す事無く観察しながらも、慎重に次の言葉を脳裏に思い浮かべては消す。 相も変らぬ無表情を貫く司馬懿の表情からは、深くものを読み取れないが、それでも直に顔を付き合わせて会話ができるのならばそれに越した事は無い。 姜維はそう自分に言い聞かせ、対話を進める。
 
「と、いいますと?」
 
 やにわに誘導尋問染みた色を帯び始めた姜維の声音にも、司馬懿は依然、冷淡な表情を崩さずにいる。
 
「室内、一般的、日常風景」
 
「つまり、"普通"に良くあるものを、ただ"普通"にみた。 ということでよろしいですね?」

「…………、肯定」
 
「そうですか、それはよかった」
 
 己の心中とは裏腹の柔和で静かな声で、姜維は微笑して頷くと、なぜか優しい慈愛に満ちた邪気を微塵も感じさせない、まるで聖者のような清らかな表情で司馬懿を見つめる。 それを傍目から眺める者がいれば、姜維の事など眼中にもない冷淡な司馬懿を、いじましくも健気に、凍てついた司馬懿の氷の心を溶かそうと奮闘する少女にも見てとれたことだろう。 だが微笑に隠れた姜維の瞳の奥は笑ってなどいかった。 刃物のように鋭い眼光で、言質はとったぞ、と無言の圧力で、司馬懿の双眸と真っ向から火花を散らす。
 
「只、唯一……。」
 
「ッ!?」
 
「奇行。 愉快也」
 
「な、な……。」
 
 してやられた。 真っ向からの言葉遊びで屈服させられる事など、いまだ姜維には母親を除けば経験の無い事だった。 確かに司馬懿は部屋の"風景"は特に変わり栄えは無かった、といったのだ。 だがそこにあった姜維の行動までを揶揄していたわけではない。 姜維もそれにただ同意しただけに過ぎず、そこに一瞬の間隙を突く形で投じた司馬懿の一石は、確実に姜維の動揺を誘う事に成功していた。 言葉を選び誘導していた事を逆手に取られた事よりもむしろ、姜維の方も問答を挟む隙を狙われていた、という事実の方が、より深刻に姜維の心を打ちのめした。
 
「フ、慢心。 油断大敵」
 
 小馬鹿にしたように嘆息を漏らす司馬懿は靴音も高らかに、姜維の横をすり抜けて一歩前へ躍り出る。 姜維はそれを黙って見るしかできない。 最早ぐうの音も出ない。 これ以上の辱めは今まで受けた事がないほどだった。 確かに司馬懿の言葉は的確だ。 姜維はどこかで己の知に寄りかかっていた所があったかもしれない。 ただそれにしても、この状況での指摘はあまりにも酷な物ではなかろうか。 姜維は貧血めいた眩暈にも耐えながら、全身を震わせていた。 それが姜維が取れるせめてもの抵抗だった。
 
「ッ!!」
 
 振り向きもせず先を進む司馬懿が、ふと背中越しに横顔に乗せて見せた初めての表情に、姜維は危うく斬るしかない、と、そう煮えたぎる怒りにも似た感情を懐きかけた。 嗤った。 確かに司馬懿は口角を吊り上げ姜維を小馬鹿にして嗤ったのだ。 叶う事ならば今すぐにでも司馬懿を愛槍で蜂の巣にした後、簀巻きに締め上げ黄河の深部へと沈めてやりたいのだが、生憎といま獲物を持ち合わせていない。 それに、ここで柳眉を逆立て激高を露にしては恥の上塗りになってしまう。 姜維は悔しさを滲ませつつも潔く負けを認めるのが最も穏便にことが運ぶのだと己に言い聞かせ―――――。
 
「わ……、私は……、貴女が大っ嫌いです!!」
 
 ――――られるはずも無く、姜維は子供のように感情を爆発させた。 そんな姜維の剣幕とは裏腹に、司馬懿は薄い笑みを貼り付けたままの表情で、姜維の胸に暗澹と蟠る感情など柳に風といった風体を保っていた。
 
「………………。」

「ぐぬぬぬッ!」
 
 犬歯を剥き出しにして司馬懿を見る姜維の瞳は煉獄の炎よりも熱く煮え滾っていた。 かつて村の近くで襲い掛かってきた賊へ、天水の門兵へ向けたられた物と良く似た……、だがどこか張遼と対峙した時とも似た、敵と見定めた者を射抜く眼差しだった。 司馬懿は、まるでそんな姜維の反応がさも愉しいとでも言いたげに見据えたまま、口元を歪めてはいたが、黙したまま一言も言葉を発する事をしないでいた。

「今、理解しました。 貴女の性根は腐ってます!」
  
「今更、理解?」
 
「ぐぅぅ……。」
 
 あからさまに格下と見下しきった、侮蔑の眼差しにも似た視線を姜維へと注ぐ司馬懿。 嗜虐の色さえ滲ませたその視線に顔色を失いながら耐え忍ぶ姜維の様は、どう贔屓目に見たところで勝ちめなど望める状況ではない。
 
「貴女、父上、対峙。 貴女、局地的勝利、我、期待」
 
「………え?」

 やり場の無い憤りを噛み殺す姜維の心中に、流石に察しが付いたのか、司馬懿はやや口振りを和らげ、だが淡々と語る。
 
「父上、敗戦、十数年来皆無。 傑物出現? 我、興奮。 勝負、希望」
 
「しょ、勝負って……、第一、あ、貴女は様子を見に来ただけだと!」

「来訪理由、唯一? 否。 貴女、別理由、質問、皆無」

「なッ!?」
 
 深々と嘆息する司馬懿を姜維は、怒りよりも先に驚きよって身体を硬直させた。 完全に手玉に取られている。 確かに気が動転していて、他の事に注意を向けることが出来ないでいたのは事実だ。 司馬懿の言葉の通り、姜維は彼女が別の理由を含めて部屋を訪れた可能性に思い至れなかった時点で負けていた。 つまり、とうに姜維は司馬懿の風下に立たされていたのだ。 
 
「我、採点、結果、評価外。 父上、貴女、過大評価。 貴女、自信過剰」

「……………。」
 
 今度ばかりは言葉に詰まり、姜維は沈黙する。 司馬懿の言葉は、嫌というほど的確に姜維の心に突き刺さる。 もともと武に己の本分を見出した姜維にとって、知略とは鍛錬のついでに生まれたあくまで副次的な物に過ぎない。 しかしそれでも姜維は他の者たちより一歩抜きん出ていた。 どんな事であっても姜維よりも上手く解決出来る者はなく、ただ単に姜維の成し遂げる結果が、いつ如何なる時であっても他者より立ち勝っていたという、ただそれだけの事でしなかった。 壁に突き当たることも、限界に悩まされることも無かった姜維は、当然の結論として、誰もが褒め称えた。 だがそれが、知らず知らずの内に姜維の驕りとなっていたのだろう。 己を脅かすような存在が現れなかった事も、姜維の慢心に拍車をかけていたのかもしれない。
 
「……………。」
 
 世界は広い。 噂に聞く傑物と実際に対峙してみるとでは大違いだった。 まさか、母親同様、己が赤子の手を捻るかの如く手玉に取るような人物とあっては、とても自身の知略が通用する望みはない。 業腹ではあったが、司馬懿は自分より格上の存在として認めるしかなかった。 思えば最初の問答の際からの司馬懿の言葉選びに気が付けなかった時点で、そう結論するべきだったのだ。 数瞬の沈黙の間、姜維は努めて冷静に呼吸と脈拍を整える。 そして一拍の深呼吸を終える頃には、その眼差しは武人ならではの鋭利な鋭さを取り戻していた。
 
「…………、フッ。」
 
 姜維の変化をみて、司馬懿は此処に来て始めて、笑みを今までものとはまるで別種の物へと変貌させる。 完膚無きまでに叩き潰したはずの子猫が、その皮を破って若虎へとその姿を変えようとしている。 良い眼だ、獲物から全力で叩き伏せるに相応しい手合いへとなった。 司馬懿の細い体躯が歓喜にも似た闘志で打ち震える。 釣りあがる頬は、獰猛過ぎるほど猛々しい笑みで満たされる。
 
「評価変更……。 『姜維』、貴女、好々……。」
 
「………、別に評価を変える必要はありませんよ。 精々、侮ってください」
 
「無理、期待大」
 
「私、大嫌いな人には捻くれた性格に変わるんです。 ですのでその期待、裏切らせてもらいますよ」
 
 二人の双眸は、殺気さえ孕ませて静かに凍る。 両者互いに神経を逆撫でしあう事を承知の上で、なお膨れ上がる冷酷なる鬼気は崩れない。 鋭利な眼差しで切り刻むかのように鍔迫り合う視線が、際限なく空気を重くする。
 
「我、圧勝、精々、足掻」

「……、えぇ。 やってみせてください。 それができるのなら」
 
 頬を撫ぜる汗も、だが気にならない。 胸の内に滾る血潮の方が遥かに姜維の意識を惹く。 いま始めて、姜維は壁と呼べる存在にぶち当たった。 ただの一度も躓く事を知らなかった姜維の膝に、泥を塗らせた者が現れた。 背筋から歓喜にも似た痛みが駆け上がる。 もはや己が失態など、どうでもいい。 両者の視線が再び交わった、そのとき同時に、互いに一つの結論を了解する。
 
 出会いは偶然だった。 姜維が洛陽を訪れなければ、司馬懿が部屋を訪れなければ、こんな結果にはなからなっかった、かもしれない。 もしかしたら生涯に渡っての"親友"とも呼べる間柄にだってなれたかもしれない。 だがそんなものは、所詮ただの夢想でしかない。 馴れ合いなど不要。 殺し、殺されるか、そんな関係で充分。 姜維にとって、司馬懿とって、『今』という状況の全ては、目の前にある敵を完膚なきまでに討ちのめす為だけにあった。






あとがき

洛陽偏における出したいキャラが出せて満足です。
今回は、前半では天狗になった姜維の鼻を後半でボッキリと折ってみたでござるの巻き、といった感じです。
元々、こんな感じで万能すぎる姜維の目の前に壁みたいな存在を出しておきたいな、と思っていたので登場してもらいました。
ただ、喋り方はマジ作者泣かせなんですがね……。

司馬懿の喋り方は、むかし私がプレイしたゲームの敵キャラの口調から引っ張ってきました。
キャラの立ち振る舞いもですが、喋り方のインパクトが強くて当時は萌えという言葉は知らなかったですが萌えていましたねぇ……、うん。

しかし、自分で書いておいてなんですが、司馬懿が女と言うことは他の七人の『達』さんたちも女性ということ……。
美人『八達』姉妹が看板娘ともなれば、それはそれは繁盛しそうですよね。
これで司馬防が実は義父という展開であったとしたら、なんともうらやま……けしからん!
きっとこの世界の司馬防さんは長生きできないことでしょう


さて、洛陽偏もほのぼのとチマチマ進めたらいいなぁ、と思いつつ次回までごきげんよう。



[9154] 十三話・酒!飲まずにはいられな(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:0fe1fb8d
Date: 2010/03/19 18:45
 濛々と立ち上がる湯気が微風に運ばれて彼方へと去り、煌々と夜を照らす月が澄まし顔で、闇夜に沈む洛陽を見下ろしていた。 そんな楚々たる月下の下、檜で囲われた湯船に身をくつろがせ、徐晃は夜空に煌く幾万の星々を、ただ有るがままに慈しむような眼差しで眺めている。 波打つ水面の奥底から垣間見えるのは、鍛え上げられた筋骨隆々たる体躯。 如何なる局面にも対応できるよう、軽くしなやかで、それでいて限りなく強靭な刃を彷彿とさせ、その内側から溢れ出んばかりの分厚い筋肉の束は、素手で虎さえも絞め殺しかねないほどの膂力を窺わせる。
 
「いい湯だ……。」
 
 暖かな温もりに身を委ねて徐晃は、至福の一時に顔を綻ばせながら目を閉じる。 まるで、今日という日を向かえるに到るまでの疲れが、一気に洗い流されたかのようだ。 知らず知らずのうちに、それほどに深くものを溜め込んでいたのだろう。 半分ほど物見遊山のつもり訪れた洛陽であったが、思い掛けない休息を得る事ができたのは僥倖だった。 流石に何時までも司馬防の所で世話になるわけにはいかないが、旅を共にする姜維の身体の調子をみつつ事を運ぶ事にしよう。 旅慣れた徐晃としては、まだ旅に不慣れな姜維を振り回す形になってしまっている事が、とても心苦しく感じていたのだった。
 
 しかし姜維を振り回し続けていた旅も、そう悪いものではなかったらしい。 司馬防の私宅の中庭に咲き誇る花々に目を奪われ、是非とも近くで眺めたい、と私宅内を散策してみれば、姜維と見知らぬ女性が何やら微笑みあいながら語り合っていたではないか。 普段はできない同姓同士の話し合いに、男の徐晃が混じるのは無粋と、即座に退散を決め込んだのだが今にして思い返せば、姜維は徐晃の隣で良く笑ってくれてはいるが、二人で旅をしている間は、あんな精悍な微笑みを浮かべていた事があっただろうか。
 
 まるで子猫をからかうような悪びれない笑顔を見せる姜維の姿は徐晃の記憶に新しく残っている。 その童のような悪戯心を発揮して幾度となく徐晃を弄んできたのだ。 嫣然さえ感じさせる姜維の笑顔は、それに戸惑う徐晃の様子を見て楽しんでいるかのような、そんな風に悔しくもこそばゆい感覚。
 
「………。」
 
 湯に濡れ、柔らかくなった髪をざっくり、と後ろに撫で付けつつ、徐晃は再び黙考する。 今まで目にした事のなかった姜維の表情に物珍しさを覚えてしまってか、それまで意識すらしなかった疑問が湧き上がってくる。 ひょんなことから怒ったり、笑ったり、とその目まぐるしく変化する姜維の感情に着いて行くだけで精一杯で、己は姜維の心の動きを察してやる事が果たしてどの程度、出来ていただろうか。 子供のように目を輝かせては、はしゃいで見せたり、かと思えば驚くほど大人びた考え方をし、着飾るよりも武芸に励み、それでいて女性らしい慎みを持ち合わせている。 だがその程度のことが、姜維の全てかなのかと問われれば、無論そんな筈はないのだ。 こんな時、何の雅もない己の無骨さが恨めしい。 女性の扱いに長けた者ならば、花も恥らう乙女の心さえも、何の苦も無く斟酌してやれたころだろう。 徐晃は我が身の愚鈍さに歯噛みする。
 
「…………ん?」
 
 己の不甲斐無さに耐え切れなくなっていた徐晃を、そのとき、武人としての感覚が思考の渦から現実へと引き戻した。 湯船の中で寛いでいた身体を引き起こし、体勢を整える。 火照った身体とは逆に、じわじわと冷えた意識が沁み出し、徐晃の五体に浸透する。 風呂場の外に誰かいる。 殺意の気配は無いが、此方側を窺うかのような動きをみせているのは、鍛え上げた武人の感覚からみて間違いない。
 
「……………。」
 
 入り口の外で空気が動いた。 風呂場の入り口が開け放たれた瞬間、徐晃の眼光が一瞬だけ鋭くなるが、中に入ってきた人物を認めるや、普段通りの涼しい笑みに立ち戻るのだった。
 
「おや、徐晃さんではないですか。 ハイ」

「司馬防さんでしたか……。」
 
 ほっほっほ、と朗らかに笑いながら、徐晃の入る湯船へと歩み寄る司馬防。 その手に持つのは酒が入っているのだろう瓢箪と杯があり、どうやら月を肴に一杯やるつもりだったらしい。 さも当然とばかりに徐晃の隣へと腰を下ろす司馬防は無論、裸である。 再開の場で手を握った時から徐晃は半ば予想はしていたが、実際に衣服を脱いで眺めた司馬防の裸体は、思っていた以上に逞しく半生を賭けて各地を巡った果てに、ついには大商人と到るまでの、その過酷な風月を偲ばせる蒼然の程は、熾烈な使い込みに耐え抜いた業物の剣を彷彿とさせる体躯であった。
 
「徐晃さんがおいでとは、これは何たる幸運。 一人では味気ないと思っていたところでした。 ハイ」
 
 勿体つけた司馬防の口上に、さしもの徐晃ですら苦笑を漏らす。 風呂場の外から徐晃の様子を伺い、ご丁寧にも酒まで用意しているのだから、司馬防が何かしらの話し合いをしたがっていることは誰の目にも明らかだった。 そんな徐晃でも気が付く判り易い司馬防の行動に、やや困った風に拳を額にぐりぐりと押し当てた。 湯に浸かりながら酒を飲むというのも中々に危険が伴うのだ。
 
「では、ご相伴に預かってもよろしいでしょうか?」
 
「えぇ、是非とも。 良い酒は共に分かち合うものですから。 ハイ」
 
「時として深酒をしてしまうぐらいに、ですか?」
 
 問いには黙したまま、司馬防は微笑だけを浮かべて、手に持っていた杯を徐晃に手渡す。 徐晃も差し出された杯を拒むことなく手に取り、瓢箪の中から注がれる澄んだ色をした液体を二つの杯に並々と注ぎいれてから、二人はまるで夜空に輝く月を讃えるかのように、厳かに杯を掲げ合った。 徐晃はまず一杯、杯に注がれた酒を一気に喉へ流し込んだ途端、芳醇かつ爽快な旨みが頭蓋の奥を蹂躙した。 そのあまりにも強烈な快感に、味覚といわず嗅覚までもが霞むほどだった。
 
「………、美味い」
 
 目を丸くしてそれ以上の言葉を出せずにいる徐晃に向けて、司馬防もまた悠然と微笑する。 杯を手に揺らしながら、微笑みながらも眼差しだけは悪童じみた稚気を残しているのは、徐晃の反応が予想通りのものだったからだろう。 さも満悦そうに頷いたあと司馬防も豪胆に呷って、杯の中を空にする。
 
「ほっほっほ。 そう言って頂けてなによりです。 ハイ」
 
「これほど素晴らしいものを味わえるとは……。」
 
 かつて味わったどんな酒よりも素晴らしい逸品に、惜しみなく賛辞する徐晃に向けて、司馬防も満更ではなさそうに頷いた。 もし、この場を司馬防を知る彼を取り巻く人々が見たのならば、大いに目を見開いた事だろう。 司馬防が、たかが世辞程度で頬を弛ませることなど、まずありえないからだ。 殷の時代から脈々と続く名門の嫡子であること、代々続く富と英知を引き継ぎ、のみならず司馬防自身もまた才能に溢れていたこと。 そして、破竹の勢いで黄金の道を上り詰めていく名門出身にして大商人ともなれば羨望と嫉妬を一身に受け、賛辞の言葉など聞き飽きれるほどに聞いてきた司馬防だ。 それが、例え高官の口から出たものであったとしても、普段の司馬防であれば眉一つ動かさずにいたはずである。 とりわけ司馬防に取り入ろうとする連中が、成果を上げた話は一つも無い。
 
 司馬防は名門の嫡子であり、部下を何百人と抱える大商人である。 徐晃は在りし日に司馬防をただ護衛しただけの武芸者でしかない。 だが、司馬防にとっては、たかが武芸者でしかない徐晃の言葉が、高貴な身分にあるものや、同業者達よりも重いらしい。 そもそも立ち返ってみても、司馬防の徐晃たちに対する待遇は、行き過ぎな所があった。 だがそれも視点を転じれば、司馬防が徐晃に寄せる好意とも受け取れる。
 
「それは、徐晃さんとの再開を願って、三年前に仕入れたものです。 ハイ」
 
「それはまた……。」
 
 含みの篭った徐晃の苦笑に、司馬防は不敵に笑ってみせた。
 
「それだけ私が、徐晃さんの事を買っているということです。 ハイ」

「買い被りですよ。 俺など―――。」
 
「徐晃さん。 自分を無闇に貶めるものではありませんよ。 ハイ」
 
 凛と、低く通る声が徐晃を制止する。 微笑を湛えていた司馬防の表情がいつの間にか真顔となり、徐晃を真っ直ぐに見据えていた。 
「それより先は、『私が』見過ごせません。 ………、ハイ」
 
「あ、いや……。 すみません……。」
 
 徐晃は咄嗟の言葉に詰まった、というよりも、司馬防の厳しい剣幕に、再開から今までの彼とは違う空気に、僅かながらの驚きが入ったのである。 思えば確かに徐晃は己を低く見る所があった。 無論それは、謙虚と捉えれば美徳として映ることだろう。 しかし、それも行き過ぎれば嫌味としか捉えられかねず、またそれが巡りに巡って徐晃の事を評価している人物にも泥を塗りかけない行為だということ、それらの諸々の事情を含めれば、司馬防の剣幕にも納得がいくものであった。 だが、果たして徐晃がどこまでそれらを理解できているかが問題ある。
 
「いえ、私も折角の酒の席で無粋な事を申しました。 申し訳ありません。 ハイ」
 
「いやいや、至らない俺がいけなかったのでしょう……。 すみません」
 
「……、止しましょう。 どちらも謝っていては終わりません。 ハイ」
 
 司馬防に窘められ、頭を掻きつつ己を恥じるように徐晃は俯く。 そんな徐晃の様を見届けて、司馬防は自然と苦笑を漏らした。 今となっては、期せずして流れてしまった会話の流れがとても悔やまれ、言葉を紡ごうとして、司馬防は思い留まった。 三年越しの再開の日の締めくくりは、快い空気のままに終わらせたかったのだが、己の痴れ言がいけなかった。
 
「……………。 そう、ですね…。」
 
 だが、それと同時に三年経っても変わらずにある徐晃の鈍さには、むしろ懐かしい心地さえ懐いた。 我が身の事に関しては、ほとほと無頓着な徐晃を相手に、何かを諭そうとすれば馬鹿を見るのは自分である事を司馬防は思い出した。 昔からそんな風に察しが悪く、鈍いくせに他人の事となると妙に鋭く、相手の心をいなしてしまう包容力があった。 どこか放っては置けない無邪気な子供のような振る舞いを見せたかと思えば、氷結した刃のような眼差しで、冷徹な思考を巡らせ、相手を戦慄させる。 昔、誰からか聞いた話だが、それも解らないでもない。 だが司馬防が、心の中に懐いた徐晃の印象は少し違う。
 
 それは、もはや出鱈目といっていいほど、人を誑し込むのが上手い、という事。 無論、悪い意味ではない。 無自覚に相手が無警戒だった所を、秋風のような涼しい、人好きする笑顔で近づいては言葉を交わす。 まるで野生の獣のように相手の心を的確に探り当て、絶妙な力加減で擽ってくるのだから、やられた方としては堪らない。 馬鹿正直すぎるもはや綱渡り染みた会話で、どのようにして相手を懐柔してくるのかは、司馬防自身が良く知っている。 未知なる物には目を輝かせては、子供の様にはしゃいでみせたり、人の中に混じっては屈託無く笑いあう。 そういうごく有り触れた日常の中にある裏表を持たない笑顔を作る事ができるからこそ、徐晃に関わった人々も笑顔になる。 それはある種、天賦の才と言ってもいい。 そしてそれは司馬防を初め、遍く商人達が大枚をはたいてでも欲して止まない物の一つでもあった。
 
「一体、司馬防さんは俺の何処を買ってくれたのか……。」
 
 徐晃は重く沈んだ面持ちで、しばし言葉を選ぶかのように逡巡してから、ぽつりと独り言のようにそう呟いた。 その憂いに表情が失せてなお微塵も揺るがない確固たる存在感を持ち合わす稀有な存在、それこそが、司馬防が徐晃を評価するものの一つでもある。 幾千もの人と合い商売をする商人の中には、自分の存在を強く印象付けるために、わざと前歯を抜き間抜けな面にしてみせたり、髭の整え方を奇抜にして他人とは違うという所を見せてみたり、と自分の顔や表情が他人にどのように映るかを研究し、日々研磨を重ねているのだが、徐晃のそれは商人たちが作り上げた時に出来てしまう独特の嫌味、というものがないのだ。
 
「貴方のそういった所ですよ……。」
 
「? 何か仰いましたか?」
 
「いえいえ、何でもございませんよ? ハイ」
 
 笑み崩れた顔を誤魔化して、司馬防は空になった徐晃の杯へ酒を注ぎ込む。 そんな様に、胡乱げに目を細める徐晃。
 
「司馬防さんが、そういった笑い方をされた時は、何か含む事があってのこと。 何でしょう、正直に話してください」

「昔の事を少し思い出していました……。 ハイ」
 
 しんみりとした口調で語り出す司馬防は、まず杯を呷ってから答えた。
 
「昔も今も、徐晃さんは相変わらずだという事を確認しました。 ハイ」
 
 いつか誰かに、似たような抽象的な言葉を送られた事がある。 だとすれば、自分はよほど思慮に欠けるようだ。 徐晃は己の不甲斐無さにがっくりと項垂れ、萎れた双肩は小さく丸まり、虚ろに杯を眺める双眸にも力が無い。 そんな無惨な徐晃の様に司馬防は苦笑を禁じえないでいた。 大方、己を攻め立てているのだということは、司馬防も予想が付いたが、むしろ真実は彼を褒めているのだと知ったら、何を思うだろうか。
 
 とはいえ、悔恨に切歯している徐晃の反応にも頷いてしまう部分があるのもまた事実。 言い換えてしまえば、愚鈍にすぎる徐晃の態度に何度、臍を咬んだことか分からない。 司馬防は己の内に秘めた、昏い積りに積もった溜飲が下がるのを感じつつも、目の前のどうしようもなく強烈で、勇壮で、余人には及びもつかぬ器量を持った男を肴に、また酒を呷る。
 
「ところで徐晃さん」
 
「………。 なんでしょう?」
 
 暫くの沈黙の間をおいて、返事を返す徐晃の声音には力が無い。
 
「昔で思い出したのですが、洛陽の鬼の北部尉、という話はご存知でしょうか? ハイ」

「えぇ、知っています。 その話の真偽を確かめる為にここまで赴いたと言っても過言ではありませんから……。」
 
 そう水を向けられた時、ようやく徐晃の表情に微笑の兆しが顕した。 司馬防としても、徐晃の落ち込む様に嗜虐の色をもう少しだけ味わっていたかった、という気持ちも無きにしも非ずではあったが、徐晃の笑みを目にしたことで、それも鳴りを潜めた。
 
「豪奢な朝服に身を包み、夜闇に紛れて洛陽北門を抜けようとする一団が――――。」
 
 詩人染みた口調で唐突に語り出す司馬防に徐晃は一瞬首を傾げるが、それが徐晃の頭の隅を常に刺激して止まなかった人物の事であると理解した時点で、徐晃は童子のような無邪気な笑みを顔に浮かべて、司馬防の語る物語を頭の中に描いてゆく。 道化師が語る笑い話に登場するような、丸々と肥えたいかにも世間知らずな貴人が大慌てで右往左往する、そんな姿を思う浮かべるだけも中々、痛快なものである。 徐晃を含め、他の人々も大なり小なり、似たような感情を懐く事だろう。 むべなるかな、今の地位に胡坐をかき、民に重税をかけ自分たちだけは甘い蜜を啜る、そんな者たちにかける民の想いの程は、煩わしく周囲を飛び回る蝿と大差ないのだから。
 
「――――、仰け反る背に、ちょん……、と触れる五彩棒」
 
 司馬防の語る物語もいよいよ佳境へと入り、徐晃も事の顛末を知るだけに、もはや抑えの効かなくまった頬を強引に手で撫で付け抑えると、まだ杯に残った酒を一息に飲み干し、淡々と話を聞いた風を装い司馬防を見据える。
 
「倒れこんだ貴人はぴくりとも動かず、重苦しい夜闇の気に中てられ、恐れおののく衛兵達は一斉に隊長を仰ぎ見る」
 
 司馬防も口元には笑みを浮かべつつ、まず杯を呷り、これから迎える笑いに備えた。
 
「無数の視線に晒され、鬼の北部尉はゆったりと立ち上がり、曰く――――。」
 
「「ならばよし!」」
 
 司馬防が毅然と放った言に、徐晃も声を揃えて言い放つ。 その後、しばし風呂場は静まりかえった。 遠くに聞こえる夜の街の営みの声は、寄せては返す波打つ水面の音に掻き消され、夜闇に溶けてゆく。 徐晃と司馬防は互いに真っ向から視線をぶつけ合うと、両者とも示し合わせたかのように頷きあい、弾けるほどの哄笑を夜の洛陽に轟かせた。
 
「はははは、これは何度聞いても快!」
 
「ほっほっほ、そんなに笑っては失礼ですよ徐晃さん。 どこに宦官の耳があるとも知れませんから。 ハイ」
 
 そう言いつつも、司馬防も口元にはしっかりと何の遠慮も無い笑みを浮かべており、それが徐晃の笑いをさらに刺激する。 この場が湯船でなければ、笑い転げていたかもしれない。 徐晃は、横腹を抑えながら震える手で司馬防に酌をする。 司馬防も語る事を全て出し切った爽快感からか、満足そうに酌を受けると、豪胆に杯を呷り喉の渇きを潤した。
 
「ははは、それは……、怖いですね」
 
「えぇ、特に張讓などは特に――――。」
 
 薄い笑みを湛えていた司馬防は、そこで何かに思い至ったのか、だしぬけに憮然となった。
 
「――、それ故に残念でなりません。 あのまま洛陽で活躍なされていれば、と思うと………。 ハイ」
 
「どういうことですか?」
 
 いったい何の事をやら徐晃には判らず、思わず聞き返した。 そもそも徐晃は北門で出会った勇壮な男が噂に聞く鬼の北部尉ではないのかと、当たりを付け司馬防の話に色を付けていたのだが、どうやら雲行きが怪しくなってきた。 事実、徐晃の問い掛けを聞いた司馬防の表情はきょとん、としたものだったからだ。
 
「おや? ご存知ありませんでしか、鬼の北部尉と恐れられた、"曹操"さんはその……。」
 
 さも言い難そうに司馬防は語気を弱め、一拍の間の後、観念したかのように言葉を紡いだ。
 
「張讓の姦計により、陳留へと転属なされました。 ハイ」
 
「成る程、そういった事情が……。 いや、だからあの人は陳留へ行けと……。」
 
 司馬防の答えに、わが意を得たりと言わんばかりに、徐晃は無邪気にはしゃぐ子供のような笑みで夜空に煌く星々を見据えた。 まるで生き別れた親兄弟の消息を知ったかのように、いじましいほどの無垢な喜びに輝くその顔に、司馬防は苦笑を漏らすしかなかった。 歓喜に打ち震える徐晃の内なる想いは、ただでさえ大きな体躯がさらに倍に膨れ上がったかと見紛うほどだった。
 
「何か、掴めましたか? ハイ」

「えぇ。 お陰様で……。」
 
 矢継ぎ早に齎された新たな情報に、たいして使うことの無い頭を回転させ、渦巻く思考から溢れでる歓喜を押さえ込む。 何事をも大らかに受け入れる徐晃が、これほど何かに執着し続けたことは滅多に無い事だった。 噂を耳にしてから常に付きまとう妙な心の蟠りが徐晃を縛る枷となり、自由な旅を繰り返していても、心のどこかで噂を意識してきた。 だがそれも、終わりを迎えるのだと、一つの旅の終着点に辿り着くのだと、不思議と確信にも似た直感が告げる。 旅の終わりに物寂しさを感じないと言えば、嘘になる。 だがそれでも、徐晃は生まれて久しく感じなかった、心からの歓喜に満たされている。 ならば未練などあろう筈もない。 旅の終わりの対価として、それは充分な物なのだから。
 
「それは、重畳にございますな。 ハイ」
 
「長年、霞みがかった物が取れたような気分です」
 
 我が手を見下ろせば、小刻みに震えていた。 だがそれを情けないとは思わない。 これが武者震いであり心が躍る、というやつなのだから。 徐晃はあらためて手に持つ杯を呷って、酒の芳香と共に味を吟味する。 さきほどまで飲んでいたものと同じ物だというのに、何故か前よりも味わい深く感じる。

「何故でしょう……、先ほどよりも深みを感じるような気がします」
 
 秋風のような涼しげな笑みを浮かべ酒杯を見つめる徐晃に、司馬防も微笑を浮かべた。
 
「酒の味は、肴によって思いのほか化けるもの、それが想いを馳せる気持ちが大きければ大きいほど、深みを増してゆくものなのですよ。 ハイ」
 
「…………。」
 
 父が子に優しく語り掛けるかの如く諭す司馬防に対し、徐晃は返す言葉を思いつかないまま、ただ黙々と杯を呷った。
 
「何やら深いお考えがある様子。 今宵はこの辺でお開きにしましょう。 ハイ」
 
「………え?」

 司馬防は静かに宣言すると、心ここにあらずといった徐晃は僅かながらも面食らい、反応が遅れる。 その様子に司馬防は笑みめいたものを覗かせ、湯船から飛沫を散らせるほど豪快に立ち上がると、最後に徐晃を一瞥し、どこか真摯とも聞こえる口調で語りかけた。
 
「徐晃さん……。 貴方はまだお若い、そう急く事はありません。 その酒の如くじっくりと吟味するが宜しいかと、ハイ」
 
「あ、いや、俺は……。」
 
 徐晃の言葉を最後まで聞くことも無く、司馬防は風呂場を後にする。 司馬防の立場を思えば、そう寛いでばかりもいられないのだ。 夜も更け、取引を終えた商会であっても足を運び、部下達に指示を出さなければならないし、幾つもの案件を処理したり仕込む段取りもある。 だが、着衣を整え脱衣所を出る前に、もう一度、徐晃がいる風呂場へと繋がる扉を一瞥した司馬防は、そこでようやく、もう少しだけ徐晃と語り合っていたかったと感じていた自分に気が付いた。 口惜しさを感じるならば、それは順当な感情だろう。 しかし、その気持ちに流れされてはいけないのだ。 今、徐晃は岐路に立っている。 ならば司馬防のようなものが立ち入っていい領域では断じてない。
 
 たとえば、清廉を旨とし、胸に抱く誇りがあり、決して譲れぬ信念を持つ武人と、我欲のまま威勢を振るい、誇りなど犬に食わせ、必要であれば金で物事を解決する商人。 その哲理は決して相容れぬものだろう。 徐晃が選び抜かんとする道を、彼の在り方とは真逆の道を進む司馬防が、土足で踏んで穢していいわけがない。
 
「いやはや、どうにも徐晃さんを見ていると、肩入れしたくなりますね……。 ハイ」
 
 どんなに交友を深めようと虎と狼では、たとえ同じように肉を食む者同士であったとしても、種族が違いすぎる。 それは司馬防とて弁えているつもりではあった。 だが再開の喜びに舞い上がって、あるべき一線を踏み越えかけたのは、痛恨の成り行きとしかいいようが無かった。 そんな、徐晃のような純真さを持って喜びを分かち合えない打算的な己に、少しだけ心が痛んだ。 

「未練……、なのでしょうね。 ハイ」
 
 もしも、徐晃が生まれるのが十年早ければ、もしも、己が生まれるのが十年遅ければ、そんな益体のない想いが心を掠めた。 司馬防とて男である。 在りし日に、己の腕と剣を一振りのみを頼りに世界へ挑む、そんな夢物語に憧れた時期も存在した。 だが、それはあまりにも馬鹿げた、取るに足らない感傷だ。 己の領分を弁え、家名の重さを理解し、万事を淡々とこなす。 それは、司馬防が幼き頃より実行してきた事であり、今も人の上に立つ人間として、己の行動を鑑みてもそれは当然のことだと頷く。 だから司馬防は徐晃のような、ただ己が身のみをもって遥か高みを目指し足掻き続ける、なんてそんな馬鹿げたことは出来ないのだ。
 
 だから司馬防は無意識の内に、徐晃の中にある己の在りし日に懐いた想いを投影していたのかもしれない。 それは何ら心の慰めにはならないだろう。 それでも、せめて穢すことなく徐晃の背中を見守り、送り出してやりたい。 そう思うのは、それが司馬防の心に燻りながらも残った、最後の漢の誇りだったからだ。






あとがき

またグダった……orz
どうもギネマム茶です。

今回は徐晃さんと司馬防の関係に焦点を当ててみました。
本当は、姜維と司馬懿の二人が風呂場でキャットファイトする予定でしたが、エッチなのは良くないと思い徐晃さんと司馬防に差し替えてみましたが……、これで正解だったはず。
とりあえず洛陽編は、徐晃さん達の骨休めみたいな感じになるので、あまり物語りに緩急が無く、読者の皆様には何かと面白味が無い物になってしまう思いますが、お付き合い願えれば幸いです。

ではまた次回に



[9154] 十四話・「針串刺し」の刑だッ! この瞬間を長年待(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:0fe1fb8d
Date: 2010/04/06 16:44
 感受性の強い者ならば、泡を吹いて卒倒しかねない司馬懿との睨み合い終えた後も、姜維は憤懣やるかたない思いで一人、深く吐息をついて臨戦態勢を解く。 彼女にとって自分を手玉に取る人物と対峙したのはこれで二人目だが、ここまで手酷くやられるなどとは、流石に想像だにしなかった。 脱力した姜維の背中は、まさに疲弊の極みを語り、どこか煤けていた。 とりあえず息をつける程度には頭の冴えは残ってはいるが、心に燻る蟠りは未だ晴れない。
 
 ふと姜維は、徐晃と語らいたいと思った。 不器用で鈍い癖に姜維に対して機微に敏くと奮闘しながらも、決して姜維の心情を理解し得ない朴念仁ではある。 だが、胸襟を開いた上で向き合った時の徐晃は、怜悧な刃のような鋭さを持った思考を持ち合わせながらも、どこか大らかである種の居心地の良さを感じさせる。 時には姜維の思いもしなかった別の視点から物を言う徐晃は、今の姜維に全く新しい視点を提示してくれるのではあるまいか。 漠然たる期待ではあるが、とりあえずは煩悶を棚上げにして、姜維はまず先に徐晃を探す事から始めた。
 
「うぅぅ……。 いない……。」
 
 一体どれほどの間、宅内を捜索しただろうか。 広大、そう言って差し支えの無い敷地面積を誇る司馬防の私宅を、闇雲に動き回ったところで徐晃を探し当てられるはずもなく、姜維は溜息混じりに周りを見渡してはみたものの、やはり目当ての人物の姿は何処にも見当たらない。 何事もそう都合良くことが運ぶわけはないのだが、やはり傍に居て欲しい時に近くにいてくれないのは、それだけでも物寂しさを感じてしまう。 だが、良くも悪くも、徐晃を探し求めて歩き回っている間に、胸の内の鬱屈を払い飛ばすだけの時間を得る事ができた。 
 
「徐晃様のばか……。」
 
 しかし、それでは意味が無い、徐晃と一緒に語り合ってこそ始めて姜維の目的が達成させるといえるのだ。 ここには居ない徐晃に対し、半ば捨て鉢気味な姜維の台詞は些か酷なものではあるが、それも心中を察すれば致し方の無いことである。 姜維はなぜか先ほどまでとは別種の怒りにも似た感情を抱いている自分の心中には気付かず、再び廊下を一人寂しく歩き始めた。
 
 廊下を歩きながら、姜維は漫然と、窓の外を動き回る商人風の男たちに目を向けた。 そこには、春も間近に迫っているというのに、身体が真四角に見えるほど服を着込んだ大柄な男が背に大きな麻袋を背負い、どこかの商会へと入って行く姿だった。 おそらく馬を使わず徒歩の行商人だったのだろう、頭や肩と云わず、全身が埃やら砂に汚れ、ふくらはぎまで届く擦り切れた重厚な革靴は、過酷な荒野での旅の程を窺い知る事ができる。
 
「……………。」
 
 大柄で重装備な行商人の背に、姜維は目を逸らす事もできずに凝っと見入り……、遠方から徐々に近づいてきた金物を積み込んだ馬車が、騒音を上げて目の前を通り過ぎた所で、ようやく我に返ると、眉根を寄せ深く息を吐いた。 いよいよもって重症だ。 姜維は冷静な態度を取れずにいる己の未熟さに恥じ入った。 認めたくはないが、重装備の行商人の男の背に、ほんの一瞬だけ、徐晃の姿を重ねて見てしまった。 一度、思考から徐晃を完全に閉め出さないと病状が悪化してしまうかもしれない。
 
 胸の内に生じた僅かな動揺を鎮めようと、姜維は廊下を歩く。 街にでよう。 程度はどうあれ明らかに、今の自分は普段の自分よりも数段劣っている。 どうにかして、普段と変わらぬ冷静さと判断力を取り戻さなければならない。 それにはまず、気持ちを切り替えて、別の事に没頭すのが一番の近道になる。 ようやく懊悩から開放される兆しがみえたのだ、ならば直ぐに向かおう。 一刻も早く。
 
 行く先が決まったところで、姜維は悠然と石造りの床を踏みしめ歩き出す。 司馬防の私宅内から外に一歩踏み出せば、洛陽の大通りは、帝の御座す天下の都というだけあって、ひっきりなしに人やら馬車やらが往復している。 荷馬車一杯に詰まった荷物を持って行商路を馳せ廻る彼らは、今日を生きる事に精を出し、おそらくは明日以降も同じように生きてゆくのだろう。
 
 太陽が燦々と輝く昼間の通りを独り行く姜維の姿は、まるで希少種の蘭の花のような品格に溢れていた。 そんな慈しみ愛でられて育ったな深窓の姫君のような繊細でいて、雄の欲望をそそらせるには充分すぎる妖艶な体躯を持ち合わす彼女の姿は、色事師たちにとって、格好の獲物に見えたことだろう。
 
 しかし、たかが色事師程度に頓着している余裕などあろう筈もない姜維は、幾度となく自分の傍らを蝿の如く追ってくる色事師たちに、ただの一度も目を向けなかった。 黙々と道を歩く姜維としても、その胸中は己の内に深く入り込んだ徐晃を打ち消す事に囚われたきり、未だその思考の渦に巻き込まれ、周りの煩わしさなどまったく眼中にはない。
 
「おい! いい加減に―――。」

「は?」
 
 まるで自分たちがこの場に居合わせていないかのように無視を決め込む姜維に、流石の色事師たちも業を煮やしたのか語気を荒げた。
 だが、それに応じる姜維の声音は対照的に、これ以上無いほど冷え切っていた。 もはや人に対して返す返事ではない。 たとえ野良犬が相手でもまだ温かい反応が返ってくるとさえ思えてくる。
 
「ヒッ――――!」
 
 姜維へと伸ばしかけたてを引っ込め、半ば裏返った声で上げながら無様に尻餅をついた。
 
「なんですか? 貴方たち……。」
 
 さも今気が付いたと色事師たちを一瞥する姜維の眼差しの温度は、すでに冷淡とか冷酷といった域ですかなく、もはや『無』であった。 路傍の小石が偶々目に留まった、その程度の認識すら危ういほど姜維が色事師たちに抱く関心は薄かった。 目の前の男たちが誰であれ、素性がどうであれそれらは全て棚上げにして、姜維は状況の理解だけに努めることにした。
 
「あ、あぁ……。」
 
 呂律も回らず呻く男を、空虚な視線で見据えたまま、姜維は何拍かの呼吸を置いた後、正確に現状を把握した。 そしてその余りにも救いようのない男たちに何と言葉をかけようか、と思案しかけた姜維であったが、その必要が一切無くなった事に気が付いた。 どういう事情か知らないが、男たちの心は既に折れている。 こうなってしまった人間は放置しておいても赤子より無害である。 未だ立ち上がることの出来ない男にはもう一瞥も与えることなく、姜維は早足にその場を後にした。
  
 人の往来の中に紛れながら、姜維は己の心中とは真逆にあるいっそ不快なほど照りつける日差しに目を眇め、小さく息を吐く。 心に蟠る暗雲は未だ晴れず、向かいべき場所さえ定まらないまま、ひりつくような焦燥が彼女を内側から駆り立てる。 普段の端然たる佇まいの内に潜む憔悴の色。 心を急くあまりに、徐晃の隣に侍っていた時にはあった凛然たる眼光は、いま明らかに勢いを減じていた。
 
「…………徐晃様の、馬鹿」
 
 拗ねた声音でむくれる姜維は、路傍に転がった小石を苛立ち紛れにつま先で蹴る。 転がる石を目で追い続けると、人の往来が激しいせいかすぐ誰かに蹴られ、何処へと消えていってしまった。 ふと石から視線を上げれば露天商の立ち並ぶ広場の一角の片隅に混じって、声を張って歌っている三人組の旅芸人の姿。 小春日和の陽光が燦々と降りそそぐ広場では、そこかしこで人が行き交い、露天の前では商品の売買に勤しむ者たちがまず初めに目が行く。 そんな中、ぽつんと人込みに紛れて歌を歌う旅芸人に視線を送る者の姿は少なく、精々が女性だけで歌っているという物珍しさから一度足を止める程度のものだった。
 
「あれは………。」
 
 たしか記憶が定かなら、洛陽に初めて到着した時に徐晃が興味を抱いた旅芸人だったのではなかろうか。 姜維は火に誘われる毒蛾の如く、ふらりと足を向けると、歌の聴き届く圏内、かつ会話の圏外という微妙な合間で足を止めた。 相手から見咎められずに遣り過せるその距離こそが、徐晃の興味の示したものであれば、と思う興味本位の気持ちとはまた別に、今は徐晃のことは頭から締め出したいと思う姜維の心の葛藤を表した距離でもあった。
 
 無言のまま三人の旅芸人に視線を送っていれば、なるほど、三者三様の特色に分けられており、分業もきっちりと出来ている様子だった。 年の頃は姜維同じぐらいだろうか、僅かに幼く肉の薄い繊細な身体つきながらもその美貌の兆しを充分に見せ元気に跳ね回る少女。 その少女とは対照的に瑞々しい若さを誇りながらも理知によって磨かれた、怜悧な眼差しが印象的な眼鏡をかけた少女。 その二人を左右に置き中央を飾るのは愛嬌と母性を前面に押し出し、男たちの視線を釘付けできそうな豊胸な体躯の女性。
 
 一見すれば、特殊な嗜好の手合いも含め、雄の欲望を駆り立てるには充分過ぎるほどに魅力的な女性たちではあるのだが、何故か誰彼からも注意を惹くこともなく、無色無臭の存在となって人の出入りが多い広場の中に埋もれていた。 むべなるかな、と思う。 彼女たちが持ち合わす魅力と、奏でる澄んだ歌声は確かに素晴らしいものだ。 しかし、それも見栄えあってこそだろう。 彼女たちの一挙手一投足に到る動き、その悉くが素人の域を出ていない。 いくら数多の才を持ち合わせようとも、基礎の基礎にして、最も重要な部分が欠けていては、哀れを通り越して滑稽ですらあった。 そう、とどのつまり彼女らは道化でしかない。 一度は目に留めても失笑交じりにすぐにまた歩き出してしまう人々の心境が、今ならばよく解る。
 
「……………。」
 
 だが、稚拙さが先立って見るに値しないならば、何の感慨も沸かないはずなのに、いざ最後まで見届けてみると、奇妙な興奮がある。 それを敢て言うならば、脈動だろうか。 卵の殻を必死に割り嘴を覗かせ、この世に生まれで出ようとする雛のような、生まれたての子馬が震える四肢で踏ん張り大地に立とうとする瞬間のような、そんな彼女たちが歌に臨む魂の輝きは、まぎれもない本物だった。
 
 演奏を終え撤収の準備に取り掛かっている少女たち見届け姜維も踵を返す。 後に何か控えているわけではないが、同じ場所にずっと佇んでばかりもいられない。 旅芸人の少女たちを視界から外す前に、もう一度、声援を送ってくれる客がいたわけでもないのに朗らかに笑いあっていた彼女たちを一瞥して、姜維は切に思った。 もし彼女たちが挙動さえも完璧に整えたのならば、是非また歌を聴いてみたいと。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 昼食にはまだ早い時間ではあったが、市場から出店や飯屋へ向かう人も多いのだろう。 小休止のためか、つい先ほどまで見かけなかった職人や旅人たちが大通りに溢れ、目ぼしい飲食店は既に満員の有様だった。 慣れない人の波にもまれながらも、そんな喧噪さえもが、今の姜維には空虚に感じた。 いつも付かず離れず傍にあった天を穿つかの如く聳え立った存在感。 それが自分の隣にないのは、まるで祭りの後の広場に独り取り残されたかのような気分だった。 本音を言えば一刻も早く徐晃と会いたい。 ここまで自分が悶々としているのに、きっと徐晃は相変わらずのほほん、としているのかと思うと腹立たしくて仕方なかった。
 
 だが、それも徐晃を想えばこそ、と思えば可愛いものである。 むしろ姜維がいま頭に来ているのは、美味いという噂を耳にしてやって来た店の肉まんの値段である。 馬鹿馬鹿しいほどに高い。 これと同程度の味の物ならば、天水で買い食いした露天の物のほうが明らかに美味しい。 長い列に紛れ、待ちに待って食してこれでは、どうしようもなく損をした気分になり、つい必要以上に買い込んでしまった。 あらためて自分が生まれた土地と、大都市と呼ばわるに相応しい洛陽との物価の差に、虚しさを持って姜維は痛感した。
 
 何とも世知辛い世の中ではあるが、ともかく胃に必要なだけの買い物を済ませると、人の少ない場所を求めて歩き出す。 やがて姜維は人の往来の激しい大通りを抜け、拡張工事の折、開発の波に取り残され、華やかな街の賑わいから忘れ去られ潰されもせずぽつんと取り残された階段を見つけ、そこに腰を下ろした。 ようやく落ち着いて食事の取れる場所を確保できた事に、姜維は息を軽く吐くと、さっそく店先で買った肉まんを取り出し食べ始める。 味は普通であるのに、値段が高いことに何とも言えない遣り切れなさを感じるが、今更それはどうでもよかった。 ともかく今は腹を膨らませる事が大切なのだから。
 
「はぁ……、オラもう駄目だぁ……。」
 
 悲壮感溢れる台詞のくせに、どこか呑気に緩みきった胴間声が、姜維の上から降ってくる、振り仰げばそこには、横に広い巨漢が頭を抱えながら打ちひしがれた様子で鎮座していた。 苦悶に顔を歪めながらも、どこか愛らしささえ感じさせるつぶらな瞳が合間ってか、何とも稀有な存在感を醸し出していた。
 
「あ………。」
 
「………、どうも」
 
 見下ろしてくる視線と交差した瞬間、男の顔はまるで茹だった蛸のように赤く染まった。 酷く動揺した素振りでいるところを見るに、男は姜維が傍に居たことなど気にも留めていなかったのだろう。 いきなり眼下に現れた姜維の姿を認めた後も、彼には暫しの間はいったいどういう状況なのか理解できなかった。 天女と見紛うばかりか、そのものとも言える美少女が自分の目の前に降臨したかのような驚きに、男は叫び声を飲み込むので精一杯だった。
 
 そんな醜態であったとはいえ、先ほどまで頬杖を着いて肉まんを頬張り、さもくつろいだ風に足を伸ばし切っていた姜維の姿を見なかったのは、ある意味でそれは、幸せだったのかもしれない。
 
「あ、それ……、オラの店の……。」
 
 のっそりとした動きで男が指差すのは、姜維の足元に置かれた肉まんが入っていた紙袋だった。
 
「これ、ですか?」
 
「んだ、――――やっぱり、オラが働いてる店のなんだな」
 
 男にそう言われ、片手で紙袋を掲げて見てみれば、はたして袋の真ん中には『張』の文字が躍っていた。 自分が働く店の物が客に食されていると知って喜ぶのかと思いきや、男はまるで見たく無い物を見た、と言わんばかりに沈鬱な表情になり深く嘆息した。 それだけで聡明な姜維は、行方知れずの巨漢の筋肉達磨とは違い、男に何か深い事情があるのだと察する。 だとしても、見ず知らずの他人である姜維が、土足で踏み込んで穢していい領域ではない。 ともすれば、事の成り行き波風立てずにしているのが正しい判断といえよう。 これが徐晃であったのならば、張遼と同じような要領で、涼やかな笑みを浮かべて近づいて、酒を酌み交わして相手の胸襟を開かせてしまうのだろう。 そんな光景が、恐ろしいほど鮮明に思い浮かんでしまった事に、姜維は思わず苦笑を漏らす。
 
「………美味しいか? それ」
 
 やや気後れした風に、男は俯き加減に問うてくる。 そのつぶらな瞳に宿るのは不安だろうか。
 
「はい、美味しいですよ?」
 
「………そうかぁ、よかっただよ」
 
 姜維の返答に男は、しばし口篭るかのような仕草を見せてから、やがて気の抜けた安堵の溜息を漏らした。 その後に訪れた数拍の沈黙の間、男は暫く逡巡した様子をみせてから、何か覚悟を決めたかのようにぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。
 
「実はそれ………、オラが作ったんだな」

「そうなんですか」
 
「生地だけだけど……、親父さんから任されてたんだな」
 
 男は、その恰幅の良い体格に見合った太く丸い己の手の平を開閉させ、過去の事を思い起こしながら先を続けた。
 
「でもオラ馬鹿だから、覚えも悪いって、いっつも怒鳴られて………、それで今日……。」
 
「喧嘩、しちゃったんですか?」
 
 きまり悪そうに俯いたまま、男は小さく頷く。
 
「おめぇなんてもう知らん! って言われて……、オラこれからどうすれば良いか、もう分かんねぇだよ」
 
 つい最近、姜維も母親である姜冏と壮絶な喧嘩別れを経験した手前、目の前のふくよかな男の気持ちも少しだけ分かる。 だが、姜維はどれだけ険しい道を歩むことになるのか、それを充分に予見した上で自らの意志によって袂を別った。 それが自ら選んだ生き方なのだ、という自負の念があるからこそ、今の姜維を内側から支えてくれている。 しかしそんな姜維は違い、男は何の自覚もなく突然に絶縁を叩き付けられ、寒空の下に放り出されてしまった。 親しき人との唐突な別れ、それはどれほどの辛苦であろうか。 さしもの姜維もそこまでは理解及ばず、ただ黙することしかできないでいた。
 
「オラ、料理するのが好きなんだな。 お客さんに喜んでもらうのは、もっと好きなんだな。 でも………。」
 
 男は、厚い頬肉を引きつらせ、強引に笑って見せようとするが、駄目だった。 つぶらな瞳に溜め込んでいた涙が一気に溢れ出て、それが鼻の下を通る頃には、鼻水と入り混じって、顔面全体がふやけてしまうのではないか、と危ぶまれるほど滅茶苦茶な有様だった。
 
「で、でも……。 でも、い――、一番好き、なのは……。 親父さんと一緒に饅頭………、作ることだったん……、だな」
 
「……………。」
 
 まるで子供のように泣きじゃくる男を前に、姜維は静かに目を伏せて頷くと、そっと立ち上がり、おもむろに道端に落ちていた小枝を拾い上げるとそよ風に揺れる木々にじっと目を凝らした。 花香を孕んだ涼やかで心地よい風が、ようやく春の訪れを告げている。 風が梢を揺らすたび、漣を立てるかの如く囁く花弁は飛沫を散らすかの様に盛大に宙へと舞う。
 
 舞い落ちる花弁の一枚を小枝の切っ先で払うと、薄片はなす術なく中心を貫かれた。 なきに等しいその重さの手応えを、確かに指先で捉えたことに、姜維は満足げに頷いた。 急拵えの、それも鍛造されたわけでもない小枝が獲物とあっては間合いの勝手が違い過ぎる、とも思ったが短槍の模造品としては悪くなかった。
 
「…………。」
 
 姜維の突然の行動に男は、濡れる頬をそのままにただ呆然と事の成り行きを見ていた。 そんな男を尻目に姜維は愛想笑いに口元を綻ばせ―――。
 
「六枚です」
 
「え?」
 
 姜維はそう宣言するやいなや、地を蹴って高らかに宙を舞う。 天地を逆転させ眼下の梢にその実を咲かす花を見定める。 そして偶然か、枝先に咲いていた無数の花が風に揺られ飛沫を散らし宙を舞った。 刹那ではまだ僅かな六徳の間、よりなお細い虚の瞬、視野に収まるそれら全ての薄片を見据え、姜維の腕が若鮎の様に跳ね上がった。 白刃一閃、傍目には六条の閃光が、まったく同時に迸ったかのように見えただろう。 薙ぎ払ったとしか見えない残影の悉くが、実は神速にして細緻の刺突であったという絶技であった。
 
 羽毛のように軽やか着地。 着衣と整髪には一切の乱れ無し。 まさに達人の功夫の冴えとも呼ぶべき姜維の手練には、尋常の武人であれば感嘆の吐息を禁じえなかっただろう。 虚空を仰ぎ見れば、微風に舞って宙に流される花弁。 吐息とともに小枝を検めれば、その切っ先には、先ほどの宣言通り六枚と、最初の一枚を合わせ、都合七枚の花弁が貫かれていた。
 
「凄ぇ……、凄ぇだよ!」
 
 男は興奮するあまり、頭に巣食う悩みの種のことなど忘れ、声を張り上げながら身を振るわせた。 いや、彼は姜維とは違い、何が起こるのか予期していなかっただけに、よりいっそう強烈な衝動に見舞われていた。 気が遠くなるほどの歓喜に、衣服からはみ出た腹を揺らし小躍りしながら、男は姜維の手を握って何度も振るう。 これほど鮮烈で衝撃的な経験は生まれて初めてかもしれない。
 
「あやや……、ありがとうございます」
 
 男の感激振りに若干身を引きつつも、姜維は屈託の無い笑顔で、激しい握手にやんわりと応じた。 だが、歓喜に顔を綻ばせていた男は、ふいに面相を畏敬の物へと改める。
 
「あんな凄ぇの見たことなかったんだな。 速くて眩しくて……、稲光かと思ったんだな」
 
「ありがとうございます……。 でも、あれでは駄目なんです」
 
 男の賛辞に、しかし姜維は憫笑と共に目を逸らす。
 
「これでも鍛錬を重ねてきたつもりだったのですが……、まだ届かない、壁が、相手が、いるんです…。」
 
 己の器の至らなさに、姜維はかつて天水で出会った呂布の武才の片鱗を目の当たりにして嫉妬染みた羨望を懐く。 あれほどの傑物が、辺境の地で名も上げることなく燻っているなどとは、呂布の天賦の才に天が恐れをなしたとしか思えず、つくづく運命とは皮肉に運ぶものだと、姜維は憫笑に頬を歪める。
 
「そんな、強ぇ奴がいるのか?」
 
 姜維の声音の翳りを、男は耳聡く聞きとがめる。 性根が心優しいのだろう、憂い顔で見守る男に、姜維はそんな心遣いに感謝しつつ笑顔を作り、その場を流すことにした。
 
「そうですね……。 越えたい、そう思う人たちがいます」
 
 呂布の白刃を目の当たりにしたのは、つい先日の出来事だ。 あのとき見せ付けられた圧倒的なまでの差を、忘れられるはずもない。 その後も張遼に挑みかかってみた姜維ではあったが、最後の土壇場で後手に回ってしまったのは、己の驕りと力量不足のせいだ。 あの時も乾坤一擲の覚悟で死地に踏み込んで、ようやく五分の分けにまで持ち込めた。 そんなぎりぎりの勝負であってもまだ張遼には余力があったようにも思えた。 そう、煎じ詰めれば、答えは明白。 要するに自分は弱いのだ。 徐晃よりも遥かに劣る自らの力量すら弁えず、ただ浮かれて、彼が歩む筈だった道程を邪魔している。 それで徐晃がさぞかし窮屈な思いをしているのではないか、そんな想像するだけでも泣きたくなってくる。
 
「だから……、だから、私はあの人たちと並びたい。 そして越えたい!」
 
 だが今は違う。 この旅を通して、真の武というものが何であるかを目の当たりにしたのならば。 己の脆弱さ、矮小さを思い知らされた今ならば。 負け犬には、負け犬なりの意地があった。
 
「だから私、遠慮するの、止めようと思ってるんです」

「え……?」
 
「好きなことを好きなようにやって楽しんでいるあの人を見て、そう思ったんです」
 
 真新しいもの、物珍しい物には子供のように目を輝かせて興味を示す徐晃を見ていると、己の小ささを気付かされる。 せっかく旅に出たのならば、減る物でもなし、楽しまなければ自分が馬鹿をみる。 そこから色々な物に興味を持ったり、気付かされたりして成長してゆけばいいのだ。 焦るほどのこともない。 徐晃だって旅を始めた頃にはきっと大いに驚き、胸を躍らせてここまで来たのだ。 ならばこれからもきっと、それ以上の物がこの先に残っている。 それを一緒に探して旅をすればいい。 そうすれば、いつかは自分も何ら恥じる事無く徐晃の隣で肩を並べて歩く事が出来る。
 
「その分。 頑張って苦労して、でも……。 一番大好きな事だけは譲らない。 やっぱり、人生は楽しまないと損、ですからね」
 
 男は暫し無言のまま、姜維の言葉を吟味するかのように、虚空に視線を彷徨わせた。 それから再び姜維を見据えると、どこか贖罪を願う罪人のような口調で問うた。
 
「オ、オラ……。 オラも遠慮しなくて良いのか?」
 
「はい」
 
「オラ……、オラ……。 また、親父さんと一緒に料理作りたいんだな!」
 
「それが、貴方の譲れない一番であるなら、誰かに譲っちゃ駄目です」

 何ら気負う事もなく、姜維は朗らかに答えた。
 
「……………。」
 
 男はまるで聖母を前にした敬虔なる信者のように、静粛をもって姜維を見つめた。 そして、数瞬の沈黙の後に見せた男の表情は、出会った当初の陰鬱としたものではなく、今は静かな至福に満ち足りたものだった。 そのまるで憑き物が落ちたかのような晴れ晴れとした顔つきに、姜維もまた無言のまま笑みを返す。
 
「オラ、頑張る! 親父さんと仲直りしてくるんだな!」

「はい……。」
 
「それで、なんだな……。」
 
 神妙な声で切り出した男に、姜維は小首を傾げた。
 
「その小枝……。 オラに譲って欲しいんだな」
 
「これ……、ですか?」
 
「うん……。 これから辛いこととか一杯あると思うんだな。 でもそれがあれば、多分頑張れる、勇気が湧いてくる気がするんだな」
 
 思わぬ男の発言に、姜維は目を丸くするが、それも一瞬の事。 自分の稚拙な言葉をそう評価してくれた事が、少しだけ嬉しくもあり、またほんの少しだけ面映ゆくて、姜維は苦笑いを浮かべる。
 
「こんな物でよければ、どうぞ」

「おぉ! ありがとうだよ! オラ頑張るだ!」
 
 まるで小躍りせんばかりの喜びようで、男の体格には小さすぎる小枝を手にして階段を駆け上がる姿を見て姜維は息と一つ漏らす。 頂上まで登り切った男を見守った後に、姜維は踵を返して階段を漫然と下りてゆく。 だが、ふいに頭上から声をかけられ、仰ぎ見れば、男が手を振っていた。
 
「オラ、でくっていうだよぉ! お前ぇは何て言うんだぁ~!」

「姜維ですー!」
 
 間延びした胴間声に負けないように、腹の底から声を張り上げてみるが、如何せん距離がある。 男の耳まで自分の声が聞こえているか些か不安ではあったが、それはどうやら姜維の杞憂に終わった。
 
「姜維ちゃんかぁ~! オラ、馬鹿だけどお前ぇの名前は一生忘れないんだなぁ~!」
 
 反響を残しながらも徐々に遠ざかる男の声に耳を傾けながら、男の姿が視界から消えうせた後も姜維は暫くの間、手を振り続けた。 そして、はたと気付けば胸の蟠りが解きほぐされている自分がいた。 波打つ水面に別の小石を投げ入れて相殺したかのような、本当に緩やかで静かな心地。 恐らく何気なく心中を吐露した事が影響しているのだろう。 気紛れ、そう呼ぶには少々、男―――でくに肩入れし過ぎた事を言ったかもしれない。 それでも二言、三言、の言葉を吐き出すだけで、こうも違うものか、と姜維自身が驚いた。 だが、それは悪い事ではないだろう。
 
 今度こそ呼び止める者が居なくなった所で姜維は、空を仰ぎ見ながら歩を進める。 ほんの少し前までは鬱陶しくも感じられた陽光が、今はとても心地よく感じる。 まったくもって現金である。 だが、それでいいのだ。 元来、乙女の心などそういうものなのだから。 今度は徐晃も一緒に景色を眺めようと姜維は心に誓う。 無論、隣は誰にも譲らない。 そうやって、想い出を共に刻み込むことは、きっと楽しいことになるはずだから……。






あとがき

ここ数ヶ月間、サザエさんとのジャンケンに勝った記憶がありません。
どうもギネマム茶です。

山もなければ谷も無い、平坦でごく有り触れた日常の究極系ともいうべきサザエさんって凄いですよね。
あそこまで長く人に愛された作品って他にあるだろうか……? いや、あるんでしょうけど……。
で、私もそれに習う、というのも恐れ多い話ですが、ほのぼの?した物を書いてみました。
ワン子思考な姜維がちゃんと書き上げられていればいいのですが、少々不安が残ります……。

まぁそれはさておいて、今回は満を持しての登場。 恋姫世界の準・主役といっても過言ではない、黄巾三人組の外付良心回路と私が勝手に思っているデク君の登場です。
長かった。 彼を登場させるまでが長かった……。
でも彼、真・恋姫だと名前が『デブ』なんですよね……。 あれ? 無印でもそうでしたっけ?
ま、まぁ、細かい事は気にしないでおきましょう。
 
最後に、どなたかサザエさんジャンケンの必勝法ご存知の方、いらっしゃいましたら是非教えてください。
 



[9154] 十五話・ま…まずい!司馬懿は騒がれることよりも、母さんに買ってもらった服が涎で汚れたことを怒るタイ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:0fe1fb8d
Date: 2010/04/21 19:11
 舞い散る花の下、木陰で涼む司馬懿は読みかけの本からふと、何気なしに目を上げた。 春の麗らかな陽光を浴びて、これから本格的に訪れる花の季節に備え、草花は蕩々と溢れ出た生気に満ちており、そよ風から運ばれてくる清澄な風雅は、常に冷静な司馬懿であっても、どこか心を湧き立たさせるものがある。 まるで老婆が編み物をするかの如く、静かで緩やかに感じる時の流れ。 こんな日は、読書に没頭するに限る。
 
 空が青く晴れ渡り、雲母の間に光が差し込んで、一点の染みの無い白に色彩を施す。 羽ばたく鳥も我が子の餌探しに余念が無く、虫たちも花香に誘われ、ふらりと蜜を吸いにやってくる。 風に揺らされる梢の漣に耳を傾けながら、司馬懿は静かに目を閉じて、今ある極上の贅沢に身を寛がせた。 いつもの凛烈で厳格な司馬懿からは窺えない柔和な面持ちは、彼女の至福がいま最高潮にある事を窺わせる。
 
「おぉ! 矢張り近くで観ると、一層映えるな。 的廬、司馬防さんからは許可が出たのだ、存分に遊ぶといい」

「アンッ!」
 
 だが、それを無遠慮に盛大にぶち壊す侵略者が現れた。
 
「……………。」
 
 中庭の出入り口付近でじゃれ合う白装束の巨漢と黒胡麻団子のような子犬は、いま司馬懿の閻魔帳の一頁目に大きく書き加えられた。 訝るような、僅かに眉根を寄せた表情で、司馬懿は神経質に額を指で叩きながら、溢れ出てきた苛立ちを吐息にして吐き出し、一人と一匹の動向を窺う。
 
 実際のところは、たかが第三者の介入にそこまで剥きになって怒るほど司馬懿は狭量な人間ではない。 ただ、もう少し慎ましく静かな空気を保ってくれさえいれば、尚よし、といった程度のもの。 確かに花を愛で、皆で賑わうというのも赴きがあるだろう、しかしそれは司馬懿の肌には合わない、ただそれだけの話なのだ。 深く嘆息しながら司馬懿は、我関せずと再び本へと目を落とした。
 
「クゥーン?」
 
 ふと、視界の端に黒い物体が映りこんだ。 額に白い斑点が特徴的な子犬が、毛色と同じ、愛らしいつぶらな瞳で司馬懿を見上げてくる。 まるで、相手の心を推し量るかのような純粋な瞳は、言葉を覚えたての子供のような無垢で愛らしいものだった。 だが、そんな愛嬌も司馬懿の前では意味を為さない。 司馬懿にとって殊更気にかけるような対象でもない的廬の視線は、数瞬だけ合わさった程度であっさりと素通りし、そのまま何事も無かったかのように、引き続き本へと視線を落とした。
 
「ワフッ!」
 
「……………。」
 
 司馬懿が構ってくれないと見てとるや、的廬は袖の端を引っ張りせがむ様にして手を引く。
 
「こら、的廬! 何をしている」
 
 的廬の大胆不敵な行動に流石の徐晃であっても慌てて止めに入るのだが、的廬の耳には入っていないのか、そもそも言葉を理解していないのか、まるで届いていない。 司馬懿にいったい何を期待しているのか、目を輝かせる的廬を袖から引き剥がすと、徐晃は仕置きとばかりに、白い斑点の部分をぐりぐりと拳で押し付ける。
 
「すまない、相棒が粗相をした」
 
「……貴方、飼主……?」
 
「む、あぁ……。 そうなる、な」
 
 怨嗟の如く押し殺した声、冥府の風というのはきっとこんな音を出すのだろう。 不穏な気配を嫌でも感じ取った徐晃は、出来るだけ司馬懿を刺激しないよう、低く抑えた声音で答える。
 
「犬、躾、監視、不十分。 飼主失格」
 
「申し訳ない。 貴女の邪魔をするつもりは無かった」
 
 司馬懿の怒りの眼差しを、面を伏せて耐え忍ぶしかない徐晃であった。 ただ司馬懿とて、たかが自分の領域内で騒がしくされた程度で苛立ちを覚えたわけではない。 もともと中庭は、司馬懿を始め、家族から使用人に至るまで多くの人間が使用する場所であり、皆で共有しあう事など司馬懿も了承済みなのだ。 そんな諸々の事情が絡めば、自分の憩いである読書を邪魔されることもあるだろうし、それに憤慨したところで何の益もない。
 
「心算、無? 笑止! 邪魔、現在進行中」

 だが今日、司馬懿が身に纏っていた衣服に事が及べば話は別だった。 艶やかな繭紬の布地に蝶の刺繍をあしらった着物は、司馬懿がとりわけ強く敬慕の念を寄せる母から貰った大切な贈り物だったのだ。 それを犬の涎で汚されたとあっては、普段から取り澄ました態度を保っている司馬懿であっても、表情を露骨に不機嫌なものへ歪ませても仕方の無いことであろう。
 
 司馬懿が持つその風貌の端麗さと、匂い立つような気品は、氷のような怜悧な眼差しと混じり合い、まさに女帝さながらの凄みを漂わせていた。 その容赦の無い非難の眼差しを受けつつも、徐晃はただ粛々と目を伏せ、己の失態を受け入れるだけでいた。 そんな徐晃を見やり、小馬鹿にしたように鼻を鳴らしてから、司馬懿は中庭の出入り口を指差し最後通告を突きつける。
 
「我、貴方、退去希望」
 
「………。」
 
 最初の声音と比べれば幾分かは柔らかくはなった口調だが、それでも司馬懿の怒りは治まったわけでもなく、いつ爆発するとも知れない蒸留された憤怒を持て余しつつ、徐晃を睨みつける。 しかし、それも長くは続かなかった。 黙し目を伏せたままの徐晃の背後から、何の前触れも無くひょいと顔を覗かせた姜維の出現に、司馬懿は目を丸くした。
 
「おや、お取り込み中でしたか?」
 
「む、姜維か……。」
 
 何が嬉しいのか姜維は妙に、にやけた顔で横目で徐晃を見やった後、司馬懿に視線を送った。 巧みに隠され徐晃からは窺い知る事が出来ないが、姜維の炯々たる眼光が言葉よりなお雄弁に語っていた。 『それ以上の言葉は許さない』と。
 
「―――ッ」
 
 たった今まで、女帝さながらに厳しい剣幕で捲くし立てていた司馬懿は、姜維の出現に言葉が詰まった。 予期せぬ再開、というのも無論理由の一つではあるが、それ以上に今現在の自分の感情も露に猛る姿を見られた、という動揺の方が大きかった。 いかに知略に富んだ司馬懿といえど、冷静さを欠いた上での姜維との真正面きっての舌戦となれば、あまりにも危険すぎる難敵となる。 言葉少なく、徐晃を追い払おうとしていた事は、むしろ僥倖だったかもしれない。 決してまだ格下だと思い、侮る事はできない相手。 その認識が、母からの贈り物を汚された、という司馬懿の怒りを抑えさせるほどの冷却材となっていた。
 
「盗聴、悪趣味」
 
「盗み聞きとは、心外です。 私はただ、物音が聞こえたので立ち寄っただけですよ?」
 
「……………。」
 
 昨日の趣旨返しとばかりに姜維は、くつくつと猫が喉を鳴らすかのような低い、さも楽しげな忍び笑いを漏らす。 その声を聞いた徐晃は、背筋にうそ寒いものを感じたが、その理由が何であるかを理解する前に想像を打ち切ることにした。 だが、そんな想像よりも徐晃が気になったのは、いつもとは幾分か雰囲気の違う姜維の事だ。 普段通りの笑顔の裏に見え隠れする緊張の色は、船の上で見せたものよりも硬いかもしれない。
 
 徐晃も姜維の見せる様々な表情をある程度なら知ってはいるが、今ばかりは、言葉に出しかけた疑問も口を噤んで、女性二人の動向を見守る事に徹している。 姜維と司馬懿の視線が交わってから、何故だろう怖気立つものを感じるのは。 遠目に眺めていた時は二人の関係は仲睦まじいものなのだと思っていたのだが、近くに寄って肌で感じてみれば、まるで森羅万象の意中を失った、地獄の釜底さえ生温い場所に立たされた気分になってくる。
 
 そんな徐晃の心中を余所に、二人の交錯する視線は殺気さえ孕ませ静かに凍る。 互いに神経を逆撫でしあい、抑えを利かせながら音もなく鍔競り合う。 無言のまま暫くのあいだ睨み据える二人であったが、司馬懿の方が先に折れた。 気怠げに身を起こすと、眉根を寄せた硬い表情を普段通りの無表情に変え、立ち上がった。
 
「あ……。」
 
 最初にそれを見咎めたのは司馬懿と対峙していた姜維だった。 司馬懿が立ち上がったその拍子に、袖口から何かが零れ落ちたのが見え、姜維の視線移動に合わせ、他の二人の視線も地面へと集まった。
 
「蜜、蜂……?」
 
 地面に転がり落ちた大きさ一寸程度の蜂を、ひょいと差し伸べられたいかつい腕が、指先で摘みあげた。 ぴくりとも動かない蜂の死骸を手の中で転がしながら、しげしげと眺め始めた徐晃はふと視線を下げると、何やら誇らしげに見上げてくる的廬と視線が合った。 その途端―――。
 
「あっはっはっは!」
 
 まるで弾けるような勢いで豪快に笑い出した徐晃に、姜維と司馬懿は驚きのあまり思わず跳び上がってしまった。
 
「あぁ、なんだそういうことか、的廬!」
 
「アンッ!」
 
 徐晃は不敵に鼻を鳴らして頷くと、我が意を得たと言わんばかりに、的廬も一鳴きして尻尾を振らし、その傍らに片膝をついて、徐晃は大きくて分厚い掌で無遠慮に的廬を撫で回した。 それを甘んじて受け入れる的廬も満更では無い様子で、伸び伸びと身体を寛がせて始めた。
 
「徐晃様、いったいどういう事でしょうか?」
 
 姜維が疑問を口にするや、徐晃は掌は的廬を撫で回したまま、背中越しに振り返りつつも呑気に笑いながら答えた。
 
「要するに、的廬は彼女に纏わり付いてきた蜂から守ってみせたわけだ」
 
 呵々と笑う徐晃ではあったが、そのうち何割かが安堵から来るものであったということに気が付く者はいない。 もとより相棒である的廬に対して、例え悪戯であろうと他人に迷惑をかけるなどという疑いをかけるのは、あまり想像したくない出来事だったのだ。 だが、その可能性も消え失せた今は、秘めた憂いに顔を俯かせることもなく、笑う事が出来る。 腹を出して仰向けに寝転がる的廬を撫で回しながら徐晃は、にんまりと破顔した。
 
「すまん、的廬。 疑った俺が悪かった」
 
「アン!」
 
「…………。」
 
 司馬懿は身動きが取れないでいた。 まるで自分だけが中庭に立つ木々の一つにでもなったかのような、これ以上ないほどの、いたたまれない恥の感情が胸を締め上げた。 空気か何かのように自分の立ち位置を、存在そのもの消し去ってしまいたい衝動にかられながらも、だが司馬懿はある一つの疑問が脳裏を埋め尽くす。
 
「何故……。」

「何故、徐晃様は怒らないか。 ですか……?」
 
「……………。」
 
 そんな司馬懿の心中を察したのか、姜維は底意地の悪い笑みを貼り付けたまま、司馬懿の顔を覗きこむ。 しかし、姜維には弱みを見せたくないのか、沈黙を決め込む司馬懿であったが、それを肯定と受け取った姜維は、的廬と戯れる徐晃の背を目を細めながら眺めつつ、穏やかな面持ちで語り始めた。
 
「多分、貴女の怒りの矛先が的廬ちゃんにまで向かわなかったから、だと思いますよ」

「………、理解不能、仔細、説明要求」

「他人の事には妙に鋭かったり、気を揉んだりと、気を使かおうとするですけど、本当に徐晃様は、自分の事には無頓着……、と言いますか、不器用な方なんですよ……。 だから司馬懿さんのどんな言葉だって甘んじて受け入れていたんでしょうね。 けれど、これが身内の事となれば話は変わってくるでしょう。 恐らく、司馬懿さんが的廬ちゃんにまで怒っていたら、徐晃様は決然と立ち向かっていたでしょうね」
 
「…………。」
 
 司馬懿の基準に照らして、姜維の言葉を信じて考えれば、徐晃という男は存在は愚かとしか言いようがなかった。 師匠の為にと市井を駆け回る商人の弟子たちですら、もう少し賢い立ち振る舞いをするはずだ。 不器用者にしても、まだ浮浪者のほうが世渡りというものを心得ている。
 
 そう司馬懿は呆れていた。 多少といえど司馬懿にもあった失態に、何故付け入らないのか解らない。 商会と自宅という狭い世界の枠組みしかしらない司馬懿にとって徐晃という存在はまったくの未知なる人間だった。 だが姜維は云う。 己自身と身内――つまり的廬を天秤にかけた時、身内の為ならば身を挺するだけの覚悟を持った器の人物なのだと。
 
 そもそも、目の前の筋肉の巨漢はそんなにも、清廉な聖者なのだろうか。 答えは断じて否である、むしろそうであったとしても司馬懿は、こんな馬鹿でかい図体の聖者は御免被りたい。 だが、姜維は徐晃に異様なほどに懐いている。 ひとたび好敵手と認めた相手が、こうも肩を持つ人物ならば、結局のところ容認するしかないのだ。 好敵手たる姜維が認めた相手を愚かであると鼻で嗤うのは、つまりは姜維を、そして廻りに廻って、己自身さえ愚者としてみる事になる。
 
「ご理解頂けましたか?」

「…………、大凡」
 
 心中の葛藤など折込済みと言わんばかりに、にんまりと笑ってみせる姜維から目を逸らし、沈黙の中で屈辱を噛み締めた後、司馬懿はそう答えた。

「それは良かったです……。」
 
 そう言って司馬懿から視線を外すと、まだ的廬とじゃれあっている徐晃の背中へと視線を移し、姜維は微笑ましげに見守った。 今はまだ役に立てなくてもいい。 ただこうして眺めているだけでもそれが姜維のささやかな至福の時であり、彼女の持つ優しげな眼差しを益々輝かせ、それがまるで高貴な宝石のようにも見せた。
 
「…………。」
 
 司馬懿は返す言葉もなく、ただ呆然と、的廬と戯れる徐晃とそれを見守る姜維とを見比べる。 他人の微笑が、かつてこれほど眩く見えたことがあっただろうか。 もとより殺し殺される間柄になると確信した相手である。 司馬懿本人とて、姜維とは冷笑をぶつけ合う事はあっても、柔和な微笑みを拝む事になろうとは想像だにしなかった。 神算鬼謀を幾重にも交錯させ、感情などという過分な物は打ち捨てた先にあるものを、どちらかが得る。 そうなると当然に思っていた。 だが今、姜維は晴れやかに笑っている。 静かに慈しみを込め、慈母の如く徐晃を見つめていた。
 
「…………。 姜維、彼、関係性、仔細、理解」
 
 誰に聞かれるでもなくそう呟いた。 結局のところ、司馬懿はことの始まりから大きく履き違えていたのだろう。 姜維という人間はもっと冷酷で、それを凌駕する苛烈さを内に秘めているのだと思っていた。 期待していたのだが裏切られた。 だが、それが落胆に変わるのかと、問われればそうでもない。 姜維という女はだた単に、司馬懿とは毛色が違うだけで、同類である事は覆しようも無い事実なのだ。 生命を賭けて守り抜き、殉ずるに足りるだけの価値を見出した方向が違うだけ。 ただ司馬懿は、姜維の毛色も自分と同じ色だと思っていただけの話だった。

「彼、価値有? 要観察、必要也」
 
 司馬懿の顔から笑みめいたものが零れ落ちた。 強いて言うならばその笑みは、遊戯に興じている子供に近い。 まるで姜維に寄せる期待よりも遥かに大きく、徐晃と言う人間を見切ろうとすること事態を愉しんでいるようにも見て取れた。 そんな司馬懿の視線に不穏なものを感じたのか姜維は再度、司馬懿の方へと目をやるが、その時にはもう普段の無表情へと変わっていた。
 
「……………。」
 
「……………。」
 
 姜維は不審の眼差しで司馬懿を射抜いてから、ゆっくりとあらためて徐晃の方へと向き直るかと思いきや、中庭への出入り口へと視線を向けた。
 
「――――司馬防さんですね。 どうぞ遠慮なく入って来てください」
 
 有無を言わさぬ呼びかけに、しばしの沈黙の間をおいた後、ほどなくして姜維の呼びかけた人物の影が姿を現した。
 
「ほっほっほ。 では、お言葉に甘えまして、ハイ」
 
 物陰から、人影が現れる。 一見、なぜか姜維はそれを、徐晃よりも遥かに巨大な鬼と見紛った。 だが、陽光はすぐさま錯覚を払い、線の細い司馬防が静かに歩み寄ってその姿を現した。 昼下がりの洛陽を賑わす光の死角を、巧みに立ち位置に選びながら佇む司馬防は、まるで太陽を嫌う化生の類を彷彿とさせる。 事実、貴人の子弟のような容姿とは裏腹に、その正体は姜維でさえも心して挑む必要のある怪人物。 何処を気に入ったのか、徐晃を取り込もうと画策しており、ある意味では司馬懿より、危険度において数段勝る要注意人物だ。
 
「何か御用でしょうか?」
 
 姜維は世間話の抜きにして、司馬防に質した。
 
「えぇ、徐晃さんと荷物のことについてお話しておきたい事がありまして、ハイ」

「荷物……、ですか?」

「できれば、お嬢さんもご一緒していただけると嬉しいのですが……。 ハイ」
 
「…………。」

 まるで孫を見る好々爺めいた朗らかな顔は、今の状況においては明らかに異質である。 もとより、目が笑っておらず、それで見据えるのだから、明らかに姜維を試しているようにしか見えない。 自分の負けず嫌いな性分が仇と合ったか、少し賢しく立ち振る舞いすぎたらしい。 司馬防から一定以上の評価を得れたことには満足だが、この場でそれを強いられても困る。 ただでさえ、司馬懿という強敵を目の前に置いているのに、司馬防もそれに加われば、最悪の場合には二対一の絶望的な舌戦を行わなければならない。 そうなってはいかに姜維といえども勝ち目はあるまい。 一触即発の三つ巴に姜維は迂闊には発言をできないでいた。
 
「おぉ、司馬防さん。 如何されました?」

 だが、例外が一人だけいた。 徐晃の何の疑いも迷いもない、蒼天の如く透き通った双眸は、ただ純然たる歓待をもって司馬防に向けられていた。
 
「お荷物のことに関して少々お話がありまして、ハイ」

「ふむ……、場所を変えたほうが宜しいですか?」
 
「そうですね。 細々した物を必要ですので、ハイ」
 
「分かりました。 行きましょう」
 
 即答だった。 おそらく徐晃は司馬防に対し疑いを持っていないのだろう。 己を欲する者に対して、こうも無防備でいられる徐晃に姜維はかぶりを振って深く息を吐いた。 商人が自分を厚遇してくれる、ということは何からの裏がある。 それぐらいのことには思い至って欲しいものではあるのだが、そんな考えなど頭を掠めたことさえないのだろう。 何とも皮肉な話である。 姜維がどれだけ警戒しようともその一方で、徐晃が司馬防を信頼し、互いに関係を深めるてゆく。 これで溜息を吐かない者がいたら是非お目にかかりたいものである。
 
「姜維も一緒の方がよろしいか?」

「そうですね。 是非とも。 ハイ」

「姜維もそれでいいか?」

「……、はい。 問題ありません」
 
 姜維の心中を余所に着々と話の流れを決めていく二人を、拗ねたように目を眇めて見つめる。 自分が色々と考えている間に、飄々とそれを無視して予想の斜め上を飛翔するものだから、姜維としては面白いわけがない。 だが、そんな姜維の心を斟酌してやれるには徐晃は朴訥にすぎた。
 
「しかし、その前に……。」
 
 これまでの遣り取りの合間、黙して佇んだままの司馬懿に向けて、ゆっくりと歩み寄りながら、徐晃は重く沈んだ声で切り出した。
 
「こいつの、遊び相手になってくれないだろうか?」

「アンッ!」
 
 猫のように首元を摘まれ、司馬懿の眼前に吊るされた的廬が一鳴き。
 
「正気?」
 
「む……? 無論だ」
 
「……………。」
 
 正気の沙汰とは思えない徐晃の申し出に司馬懿は言葉を失った。 自らの相棒と称する大切な犬を、いざこざの原因である司馬懿自身に預けると、徐晃は言うのだ。 今は溜飲が下がってはいるが、再び爆発して的廬の方へ矛先向かうという可能性には到らなかったのだろうか。
 
「恥ずかしい話であるが、此処のところ碌に遊んでやれていなくてな……。 もし良ければ、頼む」
 
「あっ……。」
 
 ひょい、と差し出された的廬を反射的に受け取った司馬懿は、そのあまりにも小さく儚いほどにちっぽけな身体に目を丸くした。 手に掬い取った初雪のように、僅かに揺れ動いただけで崩れてしまいそうな、危ういほどに繊細な手応え。 狭い世界しか知らず、何かを飼った経験などないし、動物とも触れ合ったこともが殆ど無い司馬懿は、実感として知っているわけではないが、手の中にある今まで感じた事のない重い生命の鼓動、これは軽く扱って良い物ではないのだと、司馬懿の心に強く語りかけてくる。

「クゥーン……。」
 
「うん、大人しく抱かれている」

「……………。」
 
「害意の無い、優しい人でないと、こいつはよくむずがって暴れてな……。」
 
 胸元の高さから見上げてくる的廬の黒い瞳は、まるで一対の宝石のようだった。 事実、それは穢れを知らない純粋だけを帯びた稀有な輝石。 司馬懿は戸惑いながらも、的廬の頭に手を載せた。 真綿のようにふわりと柔らかい感触を手に感じる。 的廬はされるがままに身を任せてはいるが、司馬懿は一体どういう力加減であれば良いのか皆目検討も付かず、ただぎこちなく撫で回すだけしかできないでいた。 今になって実感した。 触れてみて初めて分かるものもあるのだと。
 
「では、暫しの間お願いする」
 
「…………、あっ! 待―――ッ」
 
 的廬に意識を向けていた司馬懿は、立ち去る徐晃へ最後の言葉まで投げかけられなかった。 それに口惜しさを感じるならば、順当な感情だっただろう。 だがいま司馬懿の胸を捉えて放さないのは戸惑いの念だった。 嵐のように突如訪れて、また嵐のように去ってゆく。 そのあまりにも理解しがたい思考と行動は、司馬懿の持つものとはほど遠く、彼女の心にどぎつい痕跡を残していった。
 
「………、的廬?」

「クゥーン?」
 
 あっというま間に視界から消え失せた徐晃たち。 そして一人取り残され佇む司馬懿は、物思いに耽るかのような沈鬱な表情を貼り付け深く溜息をついた。

「一時小休止、遊戯、許可」

「アンッ!」
 
 言いようのない蟠りを抱えたまま、司馬懿は自分にじゃれてくる的廬を見守った。 ただ最後に徐晃を呼び止めたとき、もし彼の耳に言葉が届いていたら、司馬懿自身、何と言っていたのだろうか。 それはもう本人にも解らない。 今はただ託された務めを果たすため的廬を見ているだけに思考を回そう。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 広大な敷地を誇る司馬防の私宅の一角にあてがわれた応接室に通されてると、長椅子に司馬防とは差し向かう形で徐晃たちは腰掛けた。 宮廷とまではいかないが、華やいだ雅な気配で満たされた室内は、空気の感触までもが絢爛と威圧を放っているようで、どうにも徐晃の肌には合わない。 獣同然の旅や、市井に騒ぎに混じって酒を飲む、そんな生活を送ってきた徐晃とは、およそ無縁の場所である。 しかし隣に座る姜維は、くつろいだ様子だった。 それがあまりにも意外だったため、徐晃は少なからぬ驚きに目を見開いた。
 
「ささ、お茶をどうぞ。 ハイ」
 
 侍女を使えば事足りるところを司馬防自らが淹れた茶に口をつけて姜維は人知れず唸った。 主自らが持て成す事で、此方に遠慮の気持ちを煽らせる事ができ、商談も進めやすくできる。 それをさり気ない気配りを装って、何気なくこなせるのだから姜維がいくら警戒してはいても、つい引っかかってしまいそうになる。
 
「……、美味い」
 
 そうとは知らず感嘆の息を漏らす徐晃を横目に、姜維も再びお茶で口を湿らせた。 確かに徐晃の言う通り、美味しい。 お茶とただ一言で片付けられない深みがそこにある。 水の質から始まり、茶葉を紡いだ時の出来具合。 蒸す時間、温度、その日の湿度。 質を追求し出せば底抜けに深い世界だ。 ともすれば、美味いお茶を点てられる司馬防の腕前もまた、一級のものというといえるのだろう。
 
「徐晃さんにそう言って頂けてなによりです。 ハイ」
 
 姜維の思案顔に気付いているのかいないのか、司馬防は慇懃に澄ました顔で場を取り仕切る。
 
「さて、今回ここまでお越し頂いたのは、徐晃さんが持ち込まれた荷物の見積もりが済んだ故、その報告を。 ハイ」
 
「わざわざご丁寧に……、重ね重ね申し訳ない」

「それで、いかがされますか? ハイ」
 
「ふむ………。」
 
 徐晃はしばし黙考してから、姜維を見やり切り出した。
 
「あれの大半は姜維の物だ。 どうする?」
 
「そう、ですね……。」
 
 姜維はいったん言葉をきって他の二人の反応を伺い、相手の沈黙を受けて、さらに先を続けた。
 
「司馬防さんが引き取ってくださるのでしたら、それも宜しいかと」
 
「……、それでいいのか?」
 
「はい」
 
 天水で兵士たちから受け取った気持ちを切り捨てるのは、本当に忍びない。 だが、これも前々から何度となく徐晃と話し合い、その上で姜維の頭の中で出した結論でもあった。 どのみちこれから先も旅を続けるのならば、時には大胆な行動にでる必要もあるだろうから、今から強行して押し切ることに慣れておくのも悪くない。
 
「あ、だが毛皮だけは持って行くぞ?」

「狐の、でございますか? ハイ」

「えぇ、あれは少々思い入れがありまして……。」
 
「左様でございましたか。 分かりました、目録から外しておきましょう。 ハイ」
 
 司馬防の手にかかれば、見積もりを頭の中で見直す事など造作もない。 突然の訂正が入っても即座に対応できる冷静さは流石であった。
 
「それで、他の用件は何でしょう?」
 
 椀を手に取りお茶を一口含んだ後、姜維は冷やかに取り澄ました声で問うてから、さらに付け足すように言葉を続けた。 だが、徐晃にしてみれば慮外のものだったのか、訝しげに眉を寄せた。
 
「これだけの話でしたら、別段場所を変える必要はなかったはずです」

「む……、つまり別件の用事が司馬防さんの本題ということか?」
 
「はい、それも余計な人を交えないような話です。 そうですよね? 司馬防さん」
 
 持って回った姜維の言い回しに、まるで模範解答を出した学徒を見守る講師のように、司馬防は朗らかに頷いた。
 
「ほっほっほ。 折り入って頼みたいことがございまして。 ハイ」
 
「頼みごと、ですか……。」
 
 あくまで交渉の主導権は譲らない姿勢を見せる姜維としては、いよいよ気が抜けなくなってきた。 姜維の凄みを帯びた瞳は、普段の穏やかな貞淑さを捨てて、その美貌はにわかに武人の風格すら漂わせていた。 だが、司馬防とて、それで萎縮する程度の人物ではない。 依然、細い目を更に細くした慇懃な笑みを絶やさぬまま、微塵の動揺をみせはしない。
 
「聞けば徐晃さん達は今後、陳留へ向かう御予定とのこと、その際に私の取り扱う積荷も一緒に持っていって貰えれば、と思いまして。 ハイ」
 
「陳留へ……。」
 
 とりあえず外面の動揺を押さえ込んだ姜維は、傍らの徐晃に胡乱げな眼差しを投げかけた。 姜維はそんな話、一言だって聞いていない。 それは徐晃だけが先走ってしまったようなものだ。 ただそこは、まだ流せるにしても、今後の予定先を徐晃ではなく、司馬防の口から初めて聞いたのは、姜維としては面白くないのだ。 拗ねたように目を眇める姜維に、徐晃も決まり悪げな苦笑を浮かべた。
  
「というわけなのだが、姜維もそれでいいか?」

「………、できれば一言欲しかったです」

「面目無い」
 
「まぁ、事後報告ということにしておきます」

 真顔のまま、熱と真摯さを込めた嘘偽り無い徐晃の謝罪に、姜維はつい感情を抑えるのを忘れて苦笑を漏らしそうになった。
 
「私も陳留へ赴くことに関しては異論はありません。 ですが……。」
 
「無論、此方も勉強させていただきます。 ハイ」
 
 そう告げてから司馬防は、かねてから卓上の片隅に用意してあった書簡を徐晃に差し出した。
 
「………、これは?」
 
「刺史を勤めていらっしゃる曹操さんに宛てたもの。 多少なりとも徐晃さんのお役に立てるかと……、ハイ」
 
「司馬防さん……。」
 
 これには徐晃も感極まるものがあった。 短い言葉に重い謝意を込めてから、書簡を懐へと仕舞い込み、無垢なほど澄んだ笑顔を見せる徐晃に、まるで柄にもないことをしてしまったかのように、司馬防は苦笑を漏らした。 商人として己を鑑みれば、疚しさなど微塵も無い。 当然といえば当然である。 しかし司馬防、一個人としての心中を慮れば、徐晃に恩を着せる様な、騙している様な気さえして、暗鬱たるものが、しこりとなって残るのだ。
 
「それで、肝心の積荷とは一体なんでしょう?」
 
 ここで不意に、二人の遣り取りを見守り、沈黙を通していた姜維が口を挿んだ。
 
「魚油でございます。 ハイ」
 
「ふむ、魚油か……。 はは、暫し油臭くなりそうだ」
 
「武具一式、ではなく魚油……、ですか」
 
 姜維の言葉に司馬防は、ほぅ、と感嘆の息を吐いた。 確かに今の時勢において武具は手堅く、それでいて良い値段で売買できる。 だが、司馬防が感心を覚えたのは、姜維の底堅い着眼点ではなく、時勢の流れ、噂の類をしっかりと目と耳に刻み込まなければ出てこないであろう思考そのものだった。 今の洛陽では酒の肴にもならない、賊討伐の話。 だが近い将来、必ず大規模な軍事行動が起こると司馬防は予測している。 そうなれば、今の時点でもそれなりの値で売れる武具が、二倍、いや、三倍の値で取引される。 商人でもなければ、商品を寝かせる、等といった発想には至らないだろうが、それでも素人であるはずの姜維が、いま最も熱い商品をぴたりと言い当てたのは、大商人の司馬防であっても軽く流す事が出来なかったのだ。
 
「ほっほっほ。 それはまた後々、といったところです。 ハイ」

「………、それで、魚油の入った樽。 その一つあたり、いかほどの運賃料が?」
 
「お、おい! 姜維……。」
 
 流石にそれは、はしたないと止めに入る徐晃だったがその言葉を遮るように、姜維は断固とした視線で睨みを利かせてきた。
 
「徐晃様、これは子供のお使いではないんですよ。 契約……、そう受け取って構いませんよね、司馬防さん?」
 
「ほっほ。 私はもとよりそのつもりでしたが、ハイ」
 
「む、むぅ……。」
 
 姜維の問いに、司馬防もこうもきっぱりと頷かれては、徐晃も黙するしかできない。
 
「では、この条件で宜しいでしょうか? ハイ」

「…………。」 
 
 結果としてみれば、司馬防から二つの条件を引き出すことに成功した。 姜維が徐晃を伺う。 徐晃は小さく頷いて、承諾の意志を示した。 上首尾とは言い難いが、落とし所としては充分すぎるのではないだろうか。 姜維とて下手に欲をかき慢心すれば、痛い目を見るのは分かりすぎるほど解っている。 積荷を処分するつもりであったのだが、余計なものを抱え込んでしまったは、本末転倒ではある。 しかし、この洛陽から陳留までの距離であるのなら、べつだん足枷となるようなものでもない。
 
 余談だが。 徐晃の持つ財布の紐は、既に姜維に握られている。 額面通りに言葉を受け取り、素直に過ぎ、それで豪快な性格である徐晃に財布を握らせておけば、他人にいいように言いわれ、どんぶりでもまだ小さすぎる金勘定をするのは想像に難くない。 事実、姜維の故郷の村で似たような前科がある。 それを踏まえれば、姜維が財布の紐を握るのは当然であるし、もとより商談事に徐晃が口を挿む余地など元々なかったし、姜維が是といえば、黙って頷くしかないのだ。
 
「ほっほっほ。 結構です。 それでは条件を書面に写しますので、改めて内容をご確認ください。 ハイ」
 
 司馬防の言葉に徐晃と姜維、共々頷いて商談の場はお開きとなった。






あとがき

恋姫ファンディスクの情報がついにきてしまった……。
どうもギネマム茶です。

現在のHPの情報を見る限りですと、新武将は居ないようなのでホッと胸を撫で下ろしております。
いや、女性版徐晃さんの姿見てみたかった、という気持ち半々、といった感じでしょうか。

さて、いよいよ洛陽編も終了してゲーム原作の流れに乗る一歩手前まで近づいてきました。
果たして、ちゃんと原作キャラと上手く噛み合えるだろうか、と不安が尽きません。
まぁ、それでも遣りたいこと目指して、ぐへへへ、と書き続けるんですがね……。

最後に、最近寒暖の差が激しく、風邪を引きやすい状態が続いていますが、皆様もお体に気をつけてお過ごしください。



[9154] 十六話・流星指刺(スターフィンガ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:0fe1fb8d
Date: 2011/01/19 15:41
 洛陽から丘を一つ離れそこから俯瞰して眺めると、都市というものは、まるで巨大な生き物のように思えて見える。 関所にひしめく荷馬車はもちろんのこと、その合間を縫うようにして徒歩の行商人の姿も見受ける。 それらの往来の激しさは、肉体を循環する血流のように、昼夜を問わず止むことがない。 それは、各々の区画へ強く血を廻らすため、巨額を投じ拡張整備を行った古の帝たちの賜物といえよう。 そんな人の洪水を丘の上より更に高い馬上から見下ろしながら、だが徐晃は遠く彼方でも燦然と輝く洛陽より、彼岸の遠方に広がる深い闇にままならないものを覚える。 絢爛な近景とは対照的に、洛陽の城壁より外側に溢れ出た貧民窟は、死の沈黙に包まれている。
 
 現皇帝は自ら官職を売り、私財を蓄えることに精を出し、そして官職を買い占め、勢力を伸ばしたのが宦官だった。 自分たちの縁者を地方官とし癒着した不当な政策によってその富を独占し、飢饉に苦しむ農民からさらに絞り上げ、栄華の階段を上り続けた。 言うなれば、民草の死肉を貪ることで肥え太ってきた魔都・洛陽。 その爛熟した繁栄が邪なものを孕んで見えるのは、多くの民たちの怨念が影を落としているせいか。 痩せ果て寂れた廃墟を望んで、徐晃は悲嘆の募る侘しさを嘆息と共に吐き出した。
 
 我が身の極小さを思い知らされる、なんと寓意的な眺めだろうか。 そんな風に徐晃は、己の至弱さについて思い到らずにはいられない。 その昔、武を極めんとその身を投じ、溢れ出る生気だけをもって覇を進まん、と柄にも無く意気込んだ頃もあった。 幾多の戦いを経験し、幾重にも、幾重にも、その手を血の色で上塗りしていきながら、しかし徐晃は怯まなかった。 誰かが歓喜すれば、それが徐晃の胸を満たし、もっと多くの人々の笑顔が見たいが為にその身を投げ出した。 だが世界は非情にして広かった。 人々が笑顔であってほしい、と、そう願っても、右側では全てを持ち、満たされた人が居て、左側では飢餓に喘ぐ人々で埋め尽くされている。 ついには村を飛び出し、ただ我武者羅に生きてきたが今では、この体たらく。 一山幾らとも知れぬ、時化た武芸者の一人でしかない。
 
「何を考えているんですか?」
 
 想いに耽る徐晃の背に、荷馬車の歯車の回る音と共に声がかかる。 振り向けば積荷を小山もかくやと乗せた荷馬車を引く爪黄飛電と、御者台に座る姜維だった。
 
「いや、何でもない……。」
 
 風景に見入りながら返事を返す徐晃は、心ここにあらず、の態である。
 
「そうは見えませんけど……。」
 
「心配するな、姜維。 久方ぶりの知人との再会と別れに、な」
 
 剽げた風を装い、さらりと言ってのけてから、徐晃は、何の抵抗もなく虚言を吐き出せた自分自身に驚いた。
 
「そうでしたか……。 でも驚きました」

「ん?」

「徐晃様と司馬防さんはあんなに親しくしたいたのに、別れはあっさりとしたものでしたから……。」
 
 徐晃は姜維の弁舌を横目で見やりながら、丘の下の風景に力無く微笑む。 聡い姜維のことだから、徐晃が何かを隠していることなど見抜いているだろう。 しかし、それをあえて突付かない優しい気配りに、徐晃は己の至らなさに切歯しつつも、姜維の慈愛溢れるその懐の広さに甘えることにした。
 
「是非もない。 出会いあれば、別れもある。 取り分け商人ならば、な」
 
「そんなものでしょうか?」

「そんなものだ」
 
 そう嘯いて、ようやく普段と変わらぬ涼しげな笑みを浮かべた徐晃は、姜維へと向き直る。 姜維もまた内心では徐晃の覇気の無さに訝る気持ちが無きにしも非ずだったが、彼の笑みを目にしたことで、全てを杞憂と割り切ることができた。 ああいう笑い方ができる者は、己の確固たる信念を持ち続けるものだけが浮かべることのできる微笑であるからだ。 徐晃は、胸の内に巣食う悲嘆と鬱屈をすべて払い飛ばすかのように、一度大きく息を吐き出し、洛陽へ背を向けると、後は振り返ることもなく、丘を下り始めた。
 
 徐晃は、自分に対して姜維が懐いている敬意と憧憬を、それとなく知っていた。 ただ何故そこまでの無条件の敬服と信頼を寄せてくれるのか、その理由までは分からない。 だがそれでも、澄んだ揺ぎ無い瞳で見つめる姜維の姿を前に、無様を晒すわけにはいかないことは分かる。 それを姜維の眼差しが、あらためてそう教えてくれた。
 
「しかし……、油臭いな」

 やや剽げた口調で徐晃は後ろから着き従う姜維の荷馬車に目をやった。
 
「はい、でも天水でお爺さんに塗ってもらった軟膏に比べれば、幾分かはまし、ですよ?」
 
 可愛げのある語尾を上げた言い回しではあるが、姜維の眉根には皺が寄っていた。 むべなるかな、と思う。 魚油の独特の臭いを至近距離で嗅いでいるのだ、口では強気を装ってはいても実際のところ辛いのは目に見えている。 やや距離を置いている徐晃としては申し訳ない気持ち半分、同情半分で苦笑いするしかない。
 
「……すまんな。 的廬もこの調子だからな、姜維も辛ければ言ってくれ、代わるぞ」
 
 久方ぶりに羽を伸ばすことができ、大いにはしゃいでいた的廬だったのだが、今は油の臭いに中てられてか、服の上から何度か叩いてはみたものの、徐晃の懐の中で丸まったまま身動ぎ一つしない。
 
「えへへ、大丈夫です。 お気持ちだけ受け取っておきます」
 
 不意にみせた徐晃の気遣いに、姜維はいささか照れくさそうに顔を逸らして、正面を見据えた。 そこからいったん言葉を切って、一呼吸置いた後、徐晃が何かを言い返す前に、さらに言葉を重ねた。
 
「これは大事な品物ですから、爪黄飛電の扱いに慣れていない徐晃様では不安です」

「む……。 だが、しかし……。」
 
「それに、です。 面会と道中までの道筋は私と司馬防さんが立てますが、主役は徐晃様なんですよ。 徐晃様はこれを曹操さんに渡す際の口上を、きっちりと考えて頂かないといけないんですから、余計なことまで背負い込む必要はないんです」
 
「むぅ……。」

 捲くし立てるように言葉を繋げる姜維に、徐晃は言い返すこともできず沈黙してしまった。 ただ姜維とて、ここまで憚りない物言いをするつもりはなかったのだが、どうにも徐晃の気遣いがむず痒く、それを振り払いたいがためか、つい強気な口調となって出てしまったのだ。 要は姜維なりの照れ隠しだったのだが、幸か不幸か徐晃にそれが伝わるまでには到らずに終わった。
 
「勘弁してくれ……、柄にも無く緊張してしまう」

「くふ、自分でも役者ではない、とは分かっているんですね」
 
「………、まぁな」
 
 渋々ながらも、といった体裁を整えから肯定する徐晃に、姜維は思わず吹き出しそうになった。 どうにも徐晃は自分に無様な所は晒せないと、意地を張る部分があるのだが、その姿が子供染みてみえてしまい、逆に滑稽なほど様になりすぎて、それがむしろ愛おしい。 とはいえ、他者の纏う空気には敏感な徐晃のことだから、曹操との面会もさほど心配する必要もないだろう。 普段通り、市井に紛れ込むかの如く、飄々と相手の予想の斜め上を飛翔して遣り過すに違いない。
 
「徐晃様の見事な役者振り、ちゃんと傍で拝見させてもらいますから」
 
「ふん……。 ならば観ていろ、見事大役を果たしてみせるさ。 後で世辞など貰っても聞かんからな」
 
「あやや……。」
 
 少々突っつき過ぎたか、徐晃は拗ねたようにそっぽを向いてしまった。 久しぶりの二人きりのせいか、羽目を外しすぎたらしい。 洛陽を出てまだ幾ばくかもしないうちから機嫌を損ねてしまうとは。 姜維は我が身の迂闊さに歯噛みする、かと思いきや、実際はそうでもない。 普段は楚々とした態度を崩さない徐晃の珍しい一面が見れたのだ、姜維としてはこれを眼に焼き付けない手はない。 徐晃を袋小路へと追い詰めて、その子供染みた膨れ顔をとっくりと堪能してから、姜維は満悦の吐息を吐き出した。
 
「では、今後の方針は如何しましょうか?」
 
 これ以上やると本格的に機嫌を損ねかねないので、姜維は話題を変えにかかった。 こういう匙加減は待針の先端のように、ちくちくと突付くのが一番の適量なのだ。 何も、会いたい時に傍にいてくれなかったことへの不満だったりとか、自分を差し置いて司馬懿や司馬防と、朗らかに談笑していた事へのささやかな八つ当りなどでは断じてない。
 
「……。 当初の通り、陳留へ赴きそこで曹操殿と―――――。」
 
 はじめは抑揚もなく、拗ねたような口調であったのが、徐晃の目線が徐々に空を見上げていくと共に、驚きのものへと変わっていった。 姜維また徐晃に釣られて空を仰ぎ見れば、白昼にはまずお目にかからないものを見つけ、目を見開いた。
 
「流星……、だと?」
 
「わぁ……綺麗です。 でも……。」
 
 そこまで言いさして姜維は、口を噤んだ。 この乱世の兆しが見え隠れしている時勢において、本来有り得ざる真昼の流星は、果たして吉兆か、それとも凶兆なのか。 己の理解の及ばぬ現象に、姜維の身体の芯に、烈しくも心地よい痺れが流れる。 それは隠しようのない武者震い。 そのとき初めて姜維は理解した。 徐晃の、滅多にお目にかかれない珍しいものを見つけ出したときの様な、子供のように無垢な表情。 喜びや驚きに打ち震える感情、これが心躍る、というものなのだと。 そして同刻、今の徐晃たちより遠く離れた地で、同じように空を見上げていた者たちがいた。
 

「……、流れ星? 不吉ね……。」
 
 結い上げていてもなお軽さと柔らかさが見て取れる金髪を揺らし、馬上の高みより瑠璃色の瞳を訝しげに細める。 その体躯は、今でさえ可憐な深窓の令嬢を彷彿とさせるのに、未だ発展途上という末恐ろしさを見せ付けているのだが、居合わせるだけで、空気を引き締めるような、凛烈で厳格な、まさに覇者の風格が、彼女がただの少女などでは無い事を物語っていた。
 
 ふと、意識を空から戻せば、自分を呼ばわる声。 周りを見渡せば既に準備が整っていた。 隊伍を組む騎兵たちの、その屈強な体躯と勇壮に飾り立てられた装備の輝きは、まるで各々が競い合うかのように華々しく精悍だ。 それが後は少女の下知が飛ぶだけで、居並ぶ全ての兵士達が大地を震撼させることとなる。

「………今、流れ星が見えたのよ」

「流れ星、ですか? こんな昼間に」

「あまり吉兆とは思えませんね。 出立を伸ばしましょうか?」
 
 らしくない、と少女は心中で苦笑する。 流れ星如きで意識を外すなどとは、余裕なき心が生んだ影がそうさせたか。 それは己が目指す道とは程遠い。 真に十全であろうとするならば、粛々と、だが誰よりも鮮烈にすべてを当然のように飲み干す器でなければならない。 遍く全ての者の羨望を束ね、導き、魅せるのが覇であるのならば、己はそこには未だ到らず。 だが、それでいい。 己の覇業は至弱より始まるのだから。
 
「吉と取るか、凶と取るかは己次第でしょう。 予定通り出立するわ」
 
「承知いたしました」

「総員、騎乗! 騎乗ッ!」
 
 打てば響く部下達の流麗なる動きに、少女は満足げに頷いた。 そして、馬上の高みより声高らかに少女は兵士たちを宣言する。
 
「無知な悪党どもに奪われた貴重な遺産、何としても取り戻すわよ! ………、出撃!」


 同刻、幽州の地にて爛漫と咲き誇る桃花の下にて三人の乙女達が杯を打ち鳴らした。
 
「我ら三人!」

「姓は違えれども、姉妹の契りを結びしからは!」

「心を同じくして助け合い、みんなで力無き人々を救うのだ!」
 
 そよ風が梢を揺らし、白い花弁は飛沫を散らが如く、盛大に宙へと舞い上がる。 まるで生気に満ち満ち木々たちが、三人の誓いを祝福するかのように。
 
「同年、同月、同日に生まれること得ずとも!」
 
「願わくば同年、同月、同日に死せんことを!」
 
「乾杯、なのだ!」
 
 舞い散る桃の花の下で、いま一つの契りが結ばれた。 花香を孕んだ風が起こしたほんの気紛れか、彼女たちの持つ酒盃の中に、花弁がひらりと舞い落ちる。 それは桃園の木々たちからの雅な贈り物。 彼女たちの新たな門出には、相応しいものといえよう。 だが、温かく清涼な空気がそのとき、不意に言葉を発した桃色髪の少女の手によって破られた。

「あっ! 流れ星!」
 
「――ッ!?」
 
 他の二人も凝然と、少女の指差す空の方角とそこには、まるで雲間から日が射したかのように、一条の光が昼間の空を駆け抜けていった。
 
「流星……? 不吉な……。」
 
「えー、そうかなぁ~?」
 
「そうなのだ。 こんなお日様一杯のお昼に、流星が落ちてくるなんて、どう考えてもおかしいのだ」
 
 のほほんと問う桃色髪の少女とは反対に、他の二人の反応は芳しくない。
 
「うーん……。 二人がそういうなら、そうなのかもだけど……。 でもね、あれが私たちを祝福してくれる為に現れた、って考えると、何だか素敵な感じがしないかな?」
 
 さも他愛のない冗談であるかのように朗らかに笑う少女であったが、それは二人の少女たちにとってみれば、あまりにも予想外過ぎるその一言に言葉を失った。 次いで、何を呑気なことを――と言い返そうとして、溜息だけに留めた。 白昼の流星という、本来ならば有り得ざる存在。 それが現れたということは、妖の類の出現の予兆か、はたまた戦乱への予兆とも限らない。 順当に考えるならば、流星は凶兆の証ともいえる。 だが、だからといって笑い事ではないのだと、桃色髪の何処か気の抜けている主を戒めるのも、それもまた違う。
 
「はぁ~……。 分かってないのだぁ……」
 
「全く……。」
 
 溜息混じりに呟いた二人の従者の言葉は、誰に聞き咎められるでもなく、風に流され消えていった。 素敵、などと云う言葉で楽しまれるのも不本意ではあるが、主の言も一理ある。 とどのつまり、受けての心持一つで、何事も吉兆にも凶兆にも幾らでも変わりようがある、ということだ。 折角の門出である。 ならばせめて、主の想いを穢さぬよう、主と共に自分たちも楽しめば、精神的にも幾分かは楽になる。 しかし、そんな従者の想いを知ってか知らずか、主は実に無垢な子供のように朗らかに笑って言葉を紡ぐ。

「それに、二人が一緒だから怖くないよ。 だから、早くみんなが笑っていられる世の中にしようね?」
 

 荊州南陽の地のとある荒野でも、遠く離れた地で流星を目撃した者たち同様に、彼女らも空を見上げていた。
 
「流星か、ふむ……。 乱世の予兆と見るべきかの?」
 
「あら、大乱は望むところよ。 乱に乗じれば私の野望も達成しやすくなるもの」
 
「全くじゃな」
 
 そう嘯く二人の声は、世が乱れていようとも、まるで他人事であるかのように気安い。 事実、彼女たちが求めるものは大乱の世であった。 さらに掘り下げていうのならな、戦乱の中で得られるであろう名声と理を欲していた。 雄の欲望をそそらせるには充分過ぎる褐色の豊満な体躯を、惜しげもなく揺らす二人は、呵々と笑いあう。
 
「官匪の圧政、盗賊の横行、飢饉の兆候も出始めているようだし……、本当、世も末よね」
 
「うむ。 しかも王朝では宦官が好き勝手やっておると聞く。 本当に……、嘆かわしいことよ」
 
 語り手に似合わぬ憂いの篭った悲愴な言葉を、二人の事を知る者がこの場に居合わせたのなら、断固として異を唱えたことだろう。
 
「今は袁術の客将に甘んじているけど……、乱世の兆しが見え始めた今、早く独立しないとね」
 
 何やら馴れ合い始めた場の空気が一気に霧散した。 野心を隠そうともしない、猛禽の類を彷彿とさせる鋭い双眸に、凄愴な色を宿らせる。 それは戦場という病理に取り憑かれた者だけが纏える、狂おしいまでの情熱であった。 その言外に意味するとこを汲めば、血も凍るほどに凄惨な宣言である。
 
「うむ。 うまうまと我らを組み入れたつもりだろうが……。 いい加減、奴らの下で働くのも飽きてきたしの」
 
 白々しほど思わせ振りな言い回しをした後、氷結した滝を思わせる白銀の髪を手で払いながら、実年齢からは想像だにしがたい、まったくの老いを窺わせない妖艶な体躯を、若き当主の方へと向けた。 永らく宿将として仕える身からすれば、現当主など乳飲み子の頃からの付き合いとなる、扱いなど心得たものだ。 感情の起伏の烈しい当主の心は痛いほどに理解している。 だが、今はその激情はゆっくりと蒸留してもらい、然るべき場所で発散してもらわねば困るのだ。
 
「ふむ……、偵察も終了した。 そろそろ帰ろう」
 
 ここで話は終わりだと、目で訴える宿将の心を、正確に斟酌した当主は、己の逸る気持ちに苦笑を漏らしつつも、折角振って貰った切り上げ話に甘んじて乗ることにするのだった。
 
「そうね。 さっさと帰りましょう」
 

 その日、異なる地で、異なる思いを胸に抱きながら空を仰いだのは、偶然と呼ぶには出来すぎた一致だった。 いずれの者も、その期するところの悲願は同じ。 天下を巡り、それを獲得すべく血で血を洗う者たち。 彼女らが後に英雄と謳われるに到った動乱の世が、いま、声も無く産声をあげた。






あとがき

どうもギネマム茶です。
今回は話の都合上、かなり短めです。 本当にすみません。
場面が飛び飛びだったりで、読みにくくなってしまい、読者の皆様にご迷惑をおかけします。

さて、ようやく恋姫の主要メンバーが語り始めた、と言った感じです。
流星の登場で、静かに開幕のゴングが鳴り、いよいよ動乱の時勢に片足一歩踏み出したって感じですね。
それと、思わせ振りをして申し訳ないですが、この作品には一刀君は登場しません。
……、しかし敢て出るのだとしたら漢女ルート?でしょうか……。
貂蝉と卑弥呼を両手にウッハウハして欲しいものです。

あと、名前を呼び合わなかったのは特に意味ないです。
ちゃんと登場したら、改めて紹介していこうかなぁ~といった感じです。



[9154] 十七話・逃げるんだよォ!アニ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:0fe1fb8d
Date: 2010/05/16 18:24
 ついてない。 風が吹きすさぶ中、燦々と照りつける太陽を睨み据えながら、髭の男は独りごちる。 男の傍らには、今も昔も自分に付き従う部下がただ一人。 周囲を警戒しながら、だが心急くかのように小走り気味に男の背を追ってくる。 そのいつ見ても寂寥の募る侘しい光景を、男はいつものように深く息を吐きながら眺めた。 我が身の凋落を思い知らされる、なんと惨めな眺めだろうか。 そんな風に男は己の不運さについて思い到さずにはいられない。
 
 誰が知ろう。 このうらぶれた髭の男が、つい先日までは、己の腕っ節ひとつで、時化てはいるが五十はいた無頼漢どもを纏め上げていた首領だったとは。 それがどうだろう、いったいどこをどう間違えて自分の予定が裏切られたのか、男は未だに理解しきれない、否、理解したくなかった。 あの日までは一事が万事すべてが上手くいっていた。 雄の本能の赴くままに村々を襲い、貶め、屈服させ、略奪し、存在そのものを汚し尽くす。 そんな昏く澱んだ陵辱の味は、何よりも勝る快楽だった。 こればかりは馬鹿みたいに真面目に働いていては味わえない、傷つけることに悦びを感じる悪の醍醐味であった。 
 
 あの日までの男は、まさに栄華の絶頂にあったといっても過言ではなかった。 逆に言えば、その程度の栄華でしかないのだが、それでも天水の方面まで足を運ぶまでは男は順風満帆だった。 いま思い返せば、その辺りからどうにも雲行きが怪しくなってきた感はあった。 険しい山々を幾つも越えた先にあったのは、時化た村ばかり、当然部下達にも不満が溜まる。
 
 ところで、男が認識する行商人、旅人の類というは、大勢で群れていなければ、弱者である。 腕に覚えのある者を雇い入れては、怯えながら荷物を運ぶだけの小賢しい存在。 だが、自分たちのような存在次第で如何様にも料理することのできる獲物。 荷を運ぶだけしか能の無い者とは、本来そうあるべきなのである。 ならば、雄の欲をそそる見目麗しい少女と、それを護衛する貧弱な小僧が二人だけの一行を見つけた場合、はたしてそれを静観していられただろうか。 答えは否である。
 
 その時の男の行動は、概ね普段通りのものだった。 男を先頭に、五十余人にも及ぶ無頼漢が、猟犬さながらに、恐怖に怯える兎を追い立てるかの如く、哀れな一行に向かって砂塵を巻き上げ、疾駆した。 そして、旅人の一行の元へ到着し、月夜の明かりに照らされた、少女の染み一つない肌、瑞々しい肉を目にした瞬間。 その昂揚たるや、男はあやうく射精して下着を台無しにしかかったほどである。 容姿や身体だけではない、少女には品格があった。 まるで深窓の姫君かのような、慈しみ愛でられて育ってきた存在。 それまで女などただの肉壺だと思っていた男にとって、それは衝撃的な出会いだった。 あの柔肌を貪りたい、悲鳴と嗚咽、赦しを乞い願い、咽び泣く姿が見たい。 想像するだけで、黒い悦びが男の胸に沸く。 男は逸る気持ちを抑えながも、少女たちに襲い掛かった。
 
 が、結論から言って、男の目論見は脆くも崩れ去った。 まず最初に、男は部下を数人ほどけしかけて言い知れぬ不安を感じた。 理由までは分からない。 だが、怒気に殺気を滲ませて長槍を携えた少女の姿に、男は動物めいた本能的直感が警鐘を鳴らしたのだ。 そこから十余人ほどをけしかけて、ようやく不安の正体を確かめた。
 
 崩れない。 いくら執拗に、全方位から襲い掛かろうとも少女の守りが崩せない。 僅か三人、いや、実際に奮戦しているのは少女ただ一人にもかかわらず、である。 ならそれはそれで構わない。 男は動揺に焦る心を抑えつけ、意を決する。 相手がいくら強かろうとも所詮は一人、こちらは手数の利を活かし、少女の消耗を強いて自滅を待てば済むだけの話。 滾る欲に駆られるがままに、男はただ遠からず訪れる未来に、昏くほくそ笑むだけでよかったはずだった。
 
 いま思えば、ここからが男の凋落の始まりだったのだろう。 暗雲立ち込める空から稲妻が落ち、大地を照らし出した。 その一瞬垣間見た冷たく乾いた蒼白。 闇夜に在っては骨で出来た百合を彷彿とさせる衣服を纏った偉丈夫が割り込む。 呆気に取られた部下たちを余所に涼やかに笑う長身の男。
 
 そして僅かの間の言葉の遣り取り。 だが、その時間に費やしてしまったものは、あまりにも甚大だった。 一つ、また一つ、と多勢に膨れ上がっていく怒れる村人たちの篝火。 数を引っくり返された事への脅威。 それを押し返すだけの士気も技量を持ち合わすには、まだ男の部下たちはあまりにも未熟、そう判断するだけの冷静さが男にはあった。
 
 無様にもその場を逃げだし、各方面へと散り散りとなったが、再度合流を果たす前に天水から派兵された騎兵隊の執拗なまでの追跡を受け、ついには昔から男に付き従う矮躯の部下、ただ一人となってしまった。 過日の栄華も夢と消え、今では誰かの走狗として顎で使われる盗人紛いの時化た賊の一人でしかない。 ついてない。 憂愁の想いに浸りながら噛み締める己の不運を、不意に傍らで周囲を警戒していた小男が打ち砕く。
 
「兄貴。 左の方角に!」

「あ? 女でも行き倒れてたか?」
 
 髭の男は捨て鉢に毒づいてみたものの、そんな都合の良い展開がないことなど解りきっている。
 
「旅人……、いや行商人みたいですぜ!」
 
「ほぅ、そりゃいいや」
 
 小男の報告に、髭の男は会心の笑みを噛み殺した。 ただ盗んで巣へ戻るなど、路地裏で寝ている子供にだってできる。 行きがけの駄賃で、懐を暖めるぐらいでないと割に合わない。 いつしか男の胸に、忘れかけていた獰猛な衝動が湧き上がる。 久しく味わっていなかった興奮に身を任せながら、髭の男は周到に辺りを見回した。 視認できる範囲で、動く者は自分たちと、哀れな行商人のみ。 つまり、いつかの時のような邪魔者は居ない。
 
「ほんじゃ、殺っとくか?」

「へい!」
 
 まるでこれから飲みに行くかのような気安さで、憚りなく殺人を犯すと公言する髭の男に、だが小男もまた同意を示す。 今日の収穫は、いったい何処に値打ちがあるのかも疑わしい古びた本が一冊だけ。 しかし、そんな物では、腹も心も満たされない。 そんな時に目の前には運悪く何処へと向かおうとも知れぬ行商人。 腹を空かせた餓狼が立ち上がった今、哀れな彼らには、もはや一片の救済も期待できなはしないのだ。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 朝の爽気から、やや熱を帯び始めた昼に差し掛かるころ、ぽくぽく、と荷馬車の揺れに合わせて姜維は、長閑なこの一時につい欠伸を一つ漏らす。 ここ数日は、昼も夜も硬い荷馬車の上で寝起きしてきたのだから致し方ない。 だが、そんな我慢の成果があってか、肥沃とまではいかないものの、黄土色の土に僅かな湿り気を御者台の上から感じ取る事ができた。 ともすれば、近くに山か森があり、そこから川が流れその恩恵を受けようと人が集まる、つまり目的地が近いということだ。
 
 旅に慣れ始めてきた姜維ではあるが、だからこそ宿屋の有り難味がよく分かる。 何枚にも重ねた柔らかい毛布の下に、などと高望みはしないが、靴紐や帯を緩めた後で、白湯を一杯飲んで落ち着けるだけの場所があるというのは、どれほど心休まることか。 逸る気持ちを抑えつつ姜維は横目で己と同じく、緩やかな歩調で並走する徐晃を見やった。
 
「陳留はもう近いのでしょうか?」
 
「ふむ……、そうだな……。」
 
 徐晃は顎を擦りながら周辺を見回すと、何かに気が付いたのか遠方を指差した。
 
「姜維、あそこに森があるのが見えるか?」

「――――、うぅ……ん? 僅かに、ですが……。」
 
 徐晃の指差す方向を注視し、目を凝らしてようやく見えるか見えないかの距離に、朧気に緑色の点が見えた。 眼の良さには些か以上には自信があった姜維だが、この距離からでも苦もなく目標を見定めた徐晃の視力に驚きを隠せない。
 
「あそこは、緩やかな斜面に沿って森が広がっていてな。 あれを目指して暫く進めば、幾つか丘がある。 そこを越えれば後は直ぐだ」
 
「なるほど……。」
 
「あの辺りの獣は大人しい。 そう急くこともない、のんびりと行こう」
 
 この長閑な一時を楽しむかのように、涼しげな笑みを浮かべたまま、徐晃は前を見据える。 それから数歩ほど歩みを進めると、その曇りの無い晴れた面持ちがなにやら、だしぬけに憮然となった。 嘘のように凪いだまま、安穏と過ぎ去ろうとしていた一日がここにきて暗雲立ち込めるものへと変貌を遂げつつあった。
 
「うーむ……。 あれは……。」
 
 馬上の高みから遠方を見渡す徐晃は、一直線に此方へと向かってくる者を捕捉していた。 絶影を駆ければ一瞬である距離だが、徒歩で考えればまだ先の先、身構えておくには充分すぎる距離の開きがある。 野盗の類とおぼしき人影を見据え、徐晃はこめかみに拳をぐりぐりと押し付ける。 ただ理のみで計るのなら、今ここで賊などに費やしている時間はない。 徐晃が視認する限りではあるが、たかが二人組の賊程度に後れを取るはずもないのだが、今は生憎と大切な荷物を預かっている。 賊との小競り合いの最中、何かの拍子で壊してしまう可能性も否めない。 ならば、追撃に打って出るのが、いま徐晃の取れる最良の選択であるのは明白だ。
 
「あの黄色の頭巾……、どこかで?」
 
 しかし、記憶が定かであるならば、徐晃は此方へと向かってくる二人に覚えがあるのだ。 朧気にしか見えなかった輪郭が、徐々に近づいてくるごとに、はっきりと浮かび上がってくる。 髭が特徴的な男と、小柄な前歯が少し出た男。 風体も目を見張るほど物珍しいはなく、街ですれ違ったとしてもそのまま素通りしてしまいそうなほど、どこにでもある馴染み深いものだった。
 
 徐晃とて街中を行き交う人々の顔を全て把握しているわけではない。 注意を惹くものであれば、流石に記憶にも残るだろうが、往来に馴染みきったような者たち、ともなると判らない。 だが、それでも徐晃は此方に向かってくる者たちに"見覚え"がある。 出会い頭に襲い掛かってくるような賊の類だとばかり思っていたが、そうではない可能性も、無いとはいえない。 ならば此方から迂闊に手を出すわけにもいかない。 これで敵、味方とはっきりと判れば良かったのだが、それもままならない己の頼りない記憶力に、徐晃は臍を咬む。

「………、姜維。 誰か来るぞ、身構えておけ」
 
「えっ? あ、はい!」
 
 予期しなかった展開ではあったものの、徐晃はつとめて冷静に状況を仔細に眺めて検討する。 向かってくる二人組みが知り合いである可能性もあるが、ただの知人という線もないだろう。 経験上、剣を佩いたまま、一目散に向かってくる者が友好的であったことは少ない。 一応の用心で、徐晃は姜維との距離を少し開けておく。 むざむざ近づけさせるのは業腹ではあるが、とりあえず当るだけ当ってみることにする。
 
「案外何とかなるやもしれんしな……。」
 
「……? 何か仰いましたか?」

「いや、何でもない」
 
 耳聡く聞きとがめる姜維に、徐晃は頭を振って場を流す。 そうこうしている間にも二人組みは、やはり迷う事無く徐晃と姜維の方へとやってくる。 
 
「止まれ、そこの二人」
 
 徐晃は低く冷たい口調で、近寄ってくる男たちを会話ができ、かつ斬撃の射程外という微妙な間合いで足を止めさせる。 親しく話そうとするには遠すぎるその距離こそが、いまの徐晃が許す最大限のものだった。
 
「道を訪ねに来たのなら答えよう。 食料が欲しいのなら分けるもの吝かではない。 だが、物取りだというのであれば……。」
 
「―――――。」
 
 言いさして、そこで何の反応を見せず肝を潰したかのように目を白黒させる男たちに、徐晃は不信感と警戒から黙し様子を伺うことにした。 まさか眼前の二人は囮で、注意をそちらに向けている間に、別の者たちが強襲をかけるため身を伏せているのではないのか。 だが、周辺を見渡したところで、身を隠せるような遮蔽物などない。 もしこれが挑発であり、姜維から引き剥がすための策略だとしても決して誘いに乗る徐晃ではない。
 
「あ、あ、兄貴……、こいつ……。」
 
「あ、あぁ……。」
 
 獣のような吐息に肩を震わせつつ、勇み足でやってきた髭の男と出っ歯の小男は、哀れにも徐晃たちを行商人と見間違えてしまった。 そして馬上の高みから自分たちを見下ろす徐晃の姿を見咎めた途端、溢れかえる憎しみと怒りに、思考の全てが上塗りされてしまっていた。 もしまともに思慮が働く状態であったなら、徐晃の背後に見え隠れしていた姜維の存在に気が付いていただろうし、目の前の人物が醸しだす威風は、己の力量では到底及びも付かない存在であると、小動物めいた直感から難なく察する事ができただろう。 そして……。
 
「あッ! お前たちッ!!」

 たった今、危うい空気を察して、御者台から降り徐晃の元へと駆けつけた姜維の存在に、男たちはつに致命的なその瞬間まで気付く事ができなかった。
 
「どうした姜維? 声を荒げて」
 
「気が付きませんか徐晃様! こいつらは、私と旅の同伴者を襲った賊ですよ!」
 
「…………、おぉ! どおりで見覚えがあるわけだ」
 
 暫しの黙考の後、はたと思い至ったのか徐晃は手を打ち鳴らす。 そんな徐晃の様子に姜維は、眉根に深く皺を刻みつつ、諦めにも似た溜息を吐き出すしかなかった。 自分の一大事を瑣末なことと忘れられるのは業腹なことではあるが、裏を返せばその程度のことでしかない、と思えるその心は図太い、いや、大物と呼ぶに相応しいだろう。 しかし徐晃は呑気が過ぎる、そう姜維が思ってしまうのは致し方ないことだろう。
 
「おい、手前ぇら! 無視するんじゃねぇ!」

 まるで空気か何かのように無視したまま、徐晃と姜維の話が進むことに我慢が出来なくなった髭の男は声を荒げた。
 
「ん? あぁ、すまん。 まだお前たちのことが残っていたな」
 
 やおら感情の読めない口調になった徐晃に、男は何か名状しがたい悪寒を感じた瞬間、悟った。 黙殺はむしろ慈悲深かったのだと。 声も発さずこの場から消え失せていれば、まだ命が助かる可能性があったのだと。
 
「あの時は訳あって逃がしたが……、向かってくるのなら容赦はせんぞ?」
 
「あ―――う―――。」
 
 さらりと言い捨てたその言葉は、普段から徐晃と共にある姜維でさえ聞きなれない声音だった。 僅かに冷酷さを帯びたというだけで、男は過日に味わった屈辱も、憎しみに溢れた情念も、怒りの衝動さえも、すべて等しく吹き飛ばしてしまうほど心胆から震え上がった。 狩る者と狩られる者がその実、真逆であったことを理解した故の圧倒的な恐怖だった。
 
 男は、己と同じく恐怖に肩を震わせる小男を横目に一瞥したあと、ふと手に冷たい感触があることに気が付いた。 飾り気のない柄頭から一直線に伸びるありふれた、ただ無骨なだけの剣。 これで幾多の窮地を脱してきたし、それ以上に多くの命を奪ってきた自分の獲物。 だが、これを引き抜くことは叶わない。 その素振りを見せただけで、徐晃か姜維のどちらかが、男たちの命を絶つだろう。
 
「違う……、違うんだ!」
 
 死の淵に立つ時、人はとりわけ饒舌になる。 髭の男はこれまでにないほどに、言葉という言葉を吐き出したい気分になっていた。
 
「たしかに……、あの時あんた達を襲ったことは謝る、あ、あ、謝るよッ! それに、俺たちはもう足を洗ったんだ……。 真っ当な仕事にも就こうと思っている、だ、だから……。」
 
「何を今更! そんな話、到底信じられるものか!」
 
「ほ、本当だって! 嘘じゃねぇ!」
 
「ほぅ……。」
 
 姜維がさらなる反駁を重ねる前に、徐晃は手でそれを制し、さも興味深げに男を見つめる。
 
「面白い、どんな職に付こういうのか興味がある。 是非、聞かせてくれないか?」
 
「そ、それは……。」
 
 そう男たちに微笑みかける徐晃の視線は、限りなく獰猛で残忍だった。 それでいながら謳うように軽い声音は、わずかな殺意の重みさえ感じさせない。 あるいは、これこそが敵と見定めた者を射抜く、徐晃の刃の眼差しなのかもしれない。
 
「それは?」

「お、俺たちは……、その……。」
 
 恐怖に凍えた喉からは、声など出せるはずもなく男は返事に詰まりながら、掠れた声で延命を図ろうと間を引き伸ばすのだが、次の言葉など用意しているはずもなく、隠しようもない怯えに震えながら、縋るような視線を小男の方へと向けるしかできずにいた。 だが、周囲の様子を窺おうとする余裕があった男の方が、むしろ怯えの度合いとしてはまだ低かった。 哀れにも身動ぎひとつできずに立ち竦むしかできず、視線さえそらせないほど徐晃を凝視して固まっている小男は、場の空気に完全に飲み込まれていた。
 
 かと思ったが、小男が不意に徐晃たちの後ろを窺うような動作をみせた途端、ほんのいっときだけ空気の硬直が解けた。
 
「あッ!!」

「む?」

「え?」
 
「な、なん――おわぁぁッ!!」
 
 小男の指差した方向に目をやった徐晃たちだったが、その隙をついて髭の男の腕を引くと、男たちは脱兎の如く駆け出した。 それを狐につままれたような面持ちで数拍のあいだ黙ったあと、姜維は、天にも響き渡る大声で吼えた。

「ひ、卑怯者! 待て!」
 
「待てといわれて、待つ馬鹿はいねぇよ!」
 
 あっという間に距離を離し、遠ざかってゆく男たちの最後の捨て台詞を、取り残された徐晃はむしろ得心顔で頷く。 姜維の言うとおり、まったくもって卑怯な手である。 業腹なことではあるがそれ以上に、恐怖に抗い機転を利かせ、隙を作り出してみせた小男の行動を、徐晃は高く評価していた。 無様ではあるが、ただの命乞いだけに余命を引き伸ばしているよりもよほど賢明な策略といえよう。 それにまんまと乗せられた自分たちは、かっこ悪いほどに間抜けで、ここで追うのは些か座りが悪い。

「うーむ……、逃げられたか」

「逃げられたか……、じゃないですよ! 追いましょう」

 憤懣やるかたない姜維は、逃げる男たちを呑気に見つめる徐晃に向けて、うー、と愛らしい歯を剥いて威嚇するかのように唸った。 理で計るなら姜維の言に利があるだろう。 いかに男たちの足が速いといえど、絶影という駿馬の機動力をもってすれば、瞬きをする間に追いつくこともできる。 だが徐晃は小さくかぶりを振った。 
 
「大事の前の小事、捨て置けばいい」
 
「しかし―――。」
 
 言いさした姜維に向けて、徐晃は先ほど小男が指差した方向を見ろと、目で促した。
 
「あれは……。 官軍? でしょうか?」

「恐らくな。 ふん、あの小男も存外に目がいいようだ。 これで此方が死体など作り上げてみろ、何を言われるか分かったものじゃない。 ここは大人しくしていた方が利口だろう」
 
「面倒なことにならないといいんですが……。」
 
「祈る他あるまい」
 
 遠方より砂塵を巻き上げて迫り来るその軍勢の動向を見守る二人。 大地を蹴り立てて疾駆する馬蹄の音が徐々に大きくなるにつれて、その輪郭を露にする騎馬の軍勢の威風堂々たるや、騎乗する者たちの一人、一人、その悉くが軍を任せられる武将の如く勇壮だった。 その沸き立つ荒波の如き行進を前にして尚、精悍に微笑んでいる徐晃は、余ほどの豪胆か、あるいは極めつけの愚鈍か。
 
「あやや? 誰か此方に向かってきますね」
 
 姜維の言葉に、徐晃が頷いて応じる。 隊列を崩さずにいた軍勢の中からただ一人、こちらに向かって来る者がいた。
 
「そこの旅人! 少し訪ねたいことがある!」
 
 馬でおよそ十歩ほどの間合いを隔てて立ち止まり、凛と響く声で、徐晃たちを呼ばわる。 その身構えることもなく、ごく自然な立ち振る舞いでありながら、挙動からは一切の隙を窺わせない眼前の女性を、徐晃はつぶさに観察する。 癖のない長い黒髪をざっくりと後ろに撫で付けた、端正な女性だった。 まず真っ先に目を惹くのは、後ろに撫で付けた髪の生え際から一房だけ、弧を描いて飛び出た癖毛だをう。 まるで三日月のような湾曲を描いた癖毛には、止め金具でも仕込まれているのだろうか、重力に負けることなくへたれないその強靭さに、徐晃は俄然興味が湧いてくる。
 
「この付近で、年かさの中年男を見かけなんだか!」
 
 あの癖毛を是が非でも引っ張ってみたい。 そんな衝動をおくびにも出さず涼しげな笑みを絶やさず、飄々と答える。
 
「中年……、つい先ほど二人組みの者を見ましたが……。」
 
「そいつらだ! 何処へ向かった、教えろ!」
 
「む……、あちらの方角に向かったが……。」
 
 女性の威圧的な物言いに、徐晃は僅かながら眉根を寄せてたあと、男たちが去っていった方角を指差した。
 
「そうか! 礼をいう、では―――。」
 
「あいや、暫しお待ちを!」

「むッ、なんだ?」
 
 礼もそこそこにその場を立ち去ろうとするのを引き止める徐晃に、女性は目を眇める。 よほど急いているのだろう、徐晃を見る眼差しに苛立ちにも似たものが乗っている。 だが、そんな視線には慣れたものと、妙に涼しい表情で、徐晃は苦笑した。 敵意に慣れて肝が据わることは、はたして良いことなのか。
 
「貴女の後ろにはためく『曹』の一文字。 曹操殿の軍とお見受けするが如何に?」
 
「その通り。 我らは華琳さま引き入る最強の軍団である!」

「ほぅ……、それは僥倖」

「なに……? どういう意味だ」
 
「洛陽より曹操殿へ、と荷物と書状を預かってきました。 差し支えなければ、曹操殿に御目通り願いたい」
 
「むむむ……。」
 
 徐晃がそう言うと、女性は固く口を切り結んで何やら唸りだした。 そして、暫し黙考したかと思うと馬首を返して駆け出してしまう。
 
「暫しそこで待て! どうすれば良いか、聞いてくる!」
 
「……………。」

 あっという間の出来事に、徐晃は咄嗟の言葉もでずただ見送るしか出来ないで居た。 馬を駆り、隊列を整えた騎兵隊の一軍の中へと女性が消えていったのを確認してから、徐晃は姜維に向かって持ち前の分厚い胸板を、さも誇示せんばかりに胸を張った。
 
「どうだ姜維。 見事、大役を果たしたぞ」
 
「あやや……。」
 
 ふふん、と子供のように自慢気に鼻を鳴らす徐晃に、姜維は何と答えてよいのやら分からず苦笑する他なかった。 先ほどの女性は曹操から、『華琳』と真名を許すほどに近しい存在であることは分かったが、しかし何かしらの権限を持ち合わせてはいないようだった。 ならば最終的な判断は、曹操自らが下すのだからまだ役目は終わってはない。 だが、それを徐晃が理解しているのか、していないのか、判然としない。 ただ理解していないのなら、いないで面白い展開になる、と思った姜維は黙って自慢げに笑う徐晃を見守ることに徹するのだった。
 
「お! 戻ってきた」

「ですね」
 
 ほどなくして、騎兵の群れから飛び出してきた女性を見て、姜維はまた黙して場の流れを見守る見物人に徹するのだった。
 
「待たせたな! それは誰からの書状だ」

「司馬……、ではなく。 姜維、何という名前だった?」

「………、呂伯奢ですよ徐晃様」
 
「おぉ、そうだった! 呂伯奢殿からの書状です」
 
「分かった、呂伯奢だな!」
 
 言うが早いか、女性は馬首を返し再び軍勢の中へと舞い戻っていき、それを尻目に徐晃はぽつりと呟いた。
 
「―――――、書状だけ先に渡せば事足りるのではないか?」
 
「そ、それは言わぬが花、というやつですよ」

「ふむ………、しかし、司馬防さんは何故偽名など……。」
 
「その方が、何かと都合が宜しいのでしょう」
 
「ふむ?」

「司馬防さんほどの商人ともなれば、自身のお名前では色々と大きすぎるのでしょうね」
 
 姜維の言葉に、徐晃は顎を撫でて考える。 そして暫しの黙考のあと「ああ」と口にした。 慣れない言葉遣いに気を払いすぎて頭が回らなくなっていたのかもしれない。
 
「自分の名では、何かと嗅ぎまわる連中がでるから、何人もの別の自分と名前を作っておくのか」
 
 徐晃の答えに姜維は改悛した信徒を前にした聖者のように微笑んだ。 よく出来ました、と。 ささやかな疑問が解け、脳も晴れやかになった所で再び女性が舞い戻ってきた。
 
「おい貴様! 華琳さまは、司馬呂伯などという者は知らんそうだぞ!」
 
「いえ、司馬呂伯ではなく、呂伯奢殿です」
 
「むむむ……! ええい、ややこしい! 貴様が華琳さまの前で全てを説明しろ!!」
 
「それは……。」

 そのあまりにも突飛な発言に、その先の言葉が続かない。 むしろ怪訝そうに眉を顰めたのは女性の方だった。
 
「何をぐずぐずしておる! 早くせんか!」
 
 徐晃たちにとって、女性の申し出は願ってもないとこであるのだが、主に仕える彼女の身から考えれば、これでいいのか、と首を傾げざるを得ない。 曹操を余計な危険から守るため単身で徐晃たちと遣りあうのは、ごく普通の対応といえよう。 しかし、面倒だからと危険因子かもしれない徐晃たちを、自ら曹操の元へ案内しては本末転倒ではなかろうか。 そんな徐晃の思いなど知らず、ずんずんと先を進む女性の姿にならい、姜維へ目配せしてからそれに続く。
 
「そういえば姜維、今から曹操殿に目通り叶うということは、だ。 また一から全て説明し直すということか……。」

「そうなりますね。 頑張ってください」
 
「むぅ……、お前、初めからこれを予見していたな?」
 
「あやや、さて何のことでしょう」
 
 あさっての方向を向いて誤魔化しにかかる姜維に、徐晃はさも面白くないとばかりに鼻を鳴らす。 気の無い様子を装ってはみても、長年待ち焦がれたかのような人物を、間近に捉えているのだ。 気が昂ぶりすぎて、その本人と直接話せるという可能性があることさえ失念していた。
 
「まぁ……、当るだけ当ってみるさ」
 
「何か言いましたか?」
 
「いや、なんでもない」
 
 ぽつりと吐いた徐晃の言葉は誰に聞かれるでもなく、風に流れ掻き消された。






あとがき

ガッデム、GW!
どうもギネマム茶です。

いやぁ……、キャラが動くのはいいのですが、その影響で何度かチビと兄貴が死にました orz
チビ、兄貴ごめんね。 まだ活躍の場はあるから三下を甘んじていてくれ……。
あぁ、全国一万人はいるであろう兄貴、チビファンに怒られなければいいのですが……。

さて、ようやく主要キャラとの会話まで持っていけました。
まだ名前出ていませんが春蘭ですね。
短い会話ですが、らしさ、が出ていればいいな、と思います。

次回はいよいよ、リアルチートこと華琳様とご対面です。
徐晃さん、華琳様のカリスマに押し潰されなければいいのですが……。

ではまた次回で



[9154] 十八話・「誰だ?」って聞きたそうな表情してんで自己紹介させて(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:fadb4e6f
Date: 2010/06/04 19:53
 曹操と会見について、徐晃は些か驚かされた。 会見に望むのは徐晃たちと遣り取りを交わした女性の他に介添人がもう一人、と曹操本人を含めても少人数での対面となった。 徐晃にとって、これは願ってもない状況ではあるのだが、僅かな列席者だけで充分とする曹操のその大胆さは、はたして楽観が過ぎないだろうか。 とはいえ、部外者である徐晃がそんなことに気を揉んでも所詮、詮無きことではあるのだが。
 
「春蘭……、この子の報告だと、私宛ての書状と荷を預かってきたそうね?」

「はい、呂伯奢殿から」
 
「秋蘭」

「はッ!」
 
 曹操の隣に侍っていたもう一人の同伴者――秋蘭と呼ばれた女性が、曹操の意を正確に汲み取り、徐晃が手に持つ書状を受け取りにやってくる。 改めて近くで観ると、ひときわ以上に見目麗しい女性であることがよく分かる。 高い鼻梁と凛々しい眉の精悍な顔立ち。 どことなく穏やかでいながら冷静さを秘めた瞳が、女ならではの色香を強く引き立てている。 それを片方だけ、長い前髪で覆い隠す。 それが秋蘭の艶美さをより強く印象付けていた。
 
「これを」

「ありがと、秋蘭」
 
 受け取った書状を手渡すと、粛々と慎み深くまた元の位置へと戻る秋蘭をちらりと一瞥していた徐晃は、半紙を広げ中身を改める曹操とへ戻した。 背丈だけでみれば徐晃など言わずもがな、両隣に並ぶ春蘭と秋蘭でもその体格の優劣は比較にもならない。 唯一、ごく一部の部位を除いて、背丈は姜維と良い勝負だろう小柄な少女。 その華奢な容姿にも拘らず、曹操がどれほどの人物であるか、徐晃は現状からよく分かっている。
 
 居並ぶ勇壮な騎兵の群れは、声一つ漏らすことなく主の下知を待ち、曹操の両隣に立つ二人もまた黙し、動向を窺うことに徹している。 実に訓練の行き届いた集団であるが、それを束ねあげる曹操の実力もまた相当なものなのだろう。 秀でた才を持ち、それを発揮できる実力者は常に、条理の外にいるものなのだ。
 
「ふむ………、確かに呂伯奢殿からの書状のようね」
 
 徐晃の素性がどうあれ、持ってきた書状が本物であると分かった時点で、曹操は警戒を緩めた。 安易に気を許すべきでないことは、重々承知している。 ただ、それを踏まえても、徐晃と司馬防がどういう拘わりがあるにしろ、その身元に間違いがないのは、受け取った半紙が保証している。
 
「積荷は―――、魚油……、か。」
 
「はい、魚油です」
 
 曹操にとっては慣れ親しむほどに見慣れた格式の、一分の隙もなく定型通りの記述内容。 ただしこの紙は、そうそう滅多なことで見かけるものではない。 紙は司馬防の御用達の職人の中でも選りすぐりの者が手ずから漉いた特製品。 複雑に絡む草書の墨跡は、部外者では複製も模造も不可能な匠の技で出来ている。 墨でしたためられた落款と朱印は、見間違えようもなく司馬防本人のものである。 権謀術数入り乱れる商人の社会において、司馬防が決して違えることのない取り決めを結ぶときにのみ用いられる代物。 これを差し出した上での交渉は事実上、司馬防から最大限の信を勝ち取ったことを意味する。
 
「そう。 呂伯奢殿の荷は、確かにこの曹猛徳が受け取ったわ」
 
 曹操とて、そう何度も目にしたことはないが、書面は正式でなんら不備もなく、半紙も本物である。 ならば目の前の男、徐晃が凶手である可能性は万に一つも有り得ない。
 
「良かった。 肩の荷が下りました」
 
 徐晃の長い溜息には、緊張よりも安堵の割合がはるかに大だった。 もとより礼法、礼節などといった言葉とは縁遠い無骨者である、と自覚している徐晃は、要らぬ粗相を知らぬ間にしでかしていないかと、戦々恐々としていたのだった。 ひとたび大役を引き受けたのだから、司馬防の顔に泥を塗るようなまねをしでかさぬように、精一杯の虚勢を張って目の前の少女に対抗するしかなかったのだ。
 
「それで?」
 
「む?」
 
「体軸に揺らぎの一つも見せない手練が、お遣いだけではいお終い、というわけでも無いのでしょう? 私に何の用かしら?」
 
「ふむ……。」

 艶、というものを薄く伸ばしたかのような微笑みを浮かべ、徐晃を見据える曹操。 その充分すぎて余りある威風を、澄ました声音に乗せて問う様は、まるで徐晃の方が見下ろされている、とさえ錯覚させられる。 だがそれを前にしてなお、物怖じせず振舞える徐晃は余程の傑物か、さもなければただの馬鹿か。
 
「忌憚なく申し上げて宜しいでしょうか?」

「構わないわ。 聞かせて頂戴」
 
「純粋な興味から貴女に合ってみたく思い、ここまで来た次第」
 
「へぇ?」
 
 曹操はさも興味深いとばかりに徐晃を見つめた。 呟きに漏れた声がわずかに変わったことを、はたして春蘭と秋蘭でさえも気付かないでいた。 先程までより若干低く、ほんのわずかに抑揚を欠いた、ただそれだけの変化でありながら、曹操の中の何かを劇的なまでに変化させる。 それを強いて云うのならば、遠方を俯瞰して眺める観測者のそれに近い。
 
「私の何処が、貴方の琴線に触れ―――。」
 
「貴様! 華琳さまに向かってなんたる口の聞きかたか!」

 言い終わる前に、春蘭の大音声の一喝が轟き、曹操―――華琳の言葉は虚しくも掻き消された。 柳眉を逆立てた春蘭に、しかし徐晃はまったく動じない。 むしろ、掴みかからんばかりの勢いの彼女を、寛容に見守っているのか、苦笑をもって見据えていられるだけの余裕さえみせている。 

「春蘭……。」
 
「は、はい!」

「少し黙りなさい」
 
 諦めにも似た嘆息とともに、曹操の吐き捨てた声音には、底冷えするような険が混じる。 今の問答に口を出していいのは、徐晃と曹操の二人だけ。 部下の不遜を是とすることはない。
 
「し、しかし……。」
 
「姉者」
 
 春蘭の反駁を最後まで発する事を許さず、秋蘭は小さく、だが断固とかぶりを振る。
 
「ううぅ……。」
 
 もとより主たる曹操より既に命が発せられている、彼女の完璧な忠臣たらんとする春蘭には既に、黙する以外の選択肢はない。 しかし、春蘭が曹操の忠実なる配下だからこそ、納得しかねるのだ。 それは、彼女独自の観点からすると徐晃は度し難い不敬にあるからに、他ならない。 今すぐにでも徐晃へと、斬りかかりたい。 だが、攻め立てることを禁止された今となっては、業腹ではあるが唸って威嚇する程度に留めておくことしかできないのだ。
 
「まったく……、それで貴方たちは―――。」
 
 そこまで言いさすと、曹操はそこではたと何かに思い至ったかのように、やおら表情の読めない面持ちになった。
 
「そういえば、貴方達の名前をまだ聞いていなかったわね」
 
「あぁ、そういえば……。」
 
 徐晃は、目の前の曹操という興味の対象のせいで、名を明かすことさえ失念していた。 何やら気のない生返事に近い呟きを漏らしながら、徐晃は考え込むような仕草を見せたかと思うと、結局、何事もなかったかのように曹操を見据えなおした。
 
「知っているようだけれど、私の名は曹猛徳。 それから彼女達は、夏侯惇と夏侯淵よ」
 
「ふんっ!」

「……………。」
 
 べんだん華という華もない実に簡素な自己紹介。 紹介された夏侯淵は今も物腰こそ丁寧にも目礼で返事を返すのだが、どこか徐晃たちを見つめる眼差しからは警戒の色が消えることはない。 それとは対照的に夏侯惇は、露骨に不機嫌な表情を顔に貼り付け、徐晃たちなど眼中にないかのように、瞳を閉じ鼻を鳴らす。 そんなあまりにも対照的な二人に、徐晃も苦笑してそれらを見届けてから、居住いを正した。
 
「では、今度はこちらが……。」
  
 これまでとは打って変わって静かな、抑揚のない口調で、曹操たちの視線を受け止めた。
 
「姓は徐、名は晃。 字は公明。 そしてこっちが―――。」
 
「姓は姜、名は維。 字は伯約です」
 
 徐晃の後に続く言葉を、姜維本人が慎み深く引き継ぐ。
 
「では徐晃、貴方たちはこの地に赴き、そして私と会った。 なら、この後はどうするのかしら?」
 
「ふむ……。」
 
 曹操の問いに、徐晃は暫しのあいだ思考の海に沈む。 目の前の少女になぜこれほどまでに興味を惹かれるかは解らない。 噂に聞いた洛陽北門の出来事に、ある種の痛快さを感じたせいだろうか。 あらためて徐晃は、曹操を見やる。 人ではなく、服が人を選ぶような、生地と仕立てが明らかに違う濃紺の装束の逸品を、馴染みすぎるほどに馴染ませている。 生まれ持った気品故か、育ちの良さで磨き上げられた彼女には、むしろ彼女の凛とした硬質の雰囲気で引き締められた美貌を飾るに相応しい華となっている。 だが、徐晃は心中でかぶりを振る。 そういった表向きのものではなくもっと内面的な、無意識に近い所で、己は曹操という人物に惹かれたのではあるまいか、と。
 
 では、それは何か。 そう問われれば、徐晃は答えに窮するだろう。 明確な解は未だ出ず、脳内で堂々巡りを繰り返すだけでしかできない。 が、その回答を求めるならば、これは一つの好機といえよう。 つまり、問題が解かれる過程を、道筋を省略して、答えである本人がそこに居るのだから、必ずどこかに明快な解を導き出す方程式があるはずなのだ。 それが一体どのようなものなのか、探すとすれば彼女の傍に居るのが一番いい。 だが、そうなると、徐晃には一つやらねばならぬことがある。
 
「曹操殿、それを答える前に、姜維と二人だけで話をさせて欲しい」
 
「ふむ……、構わないわ」
 
「感謝します」
 
 徐晃は一礼したあとその場から離れると、姜維もまた申し合わせたかのように、素直にその後に従う。 無言のまま歩を進める徐晃の表情は、冷淡で何を考えているのか読み取れない。 そしてここまで来れば、会話は盗み聴きされない、そう確信したところで、徐晃は足を止めた。
 
「姜維」
 
「はい」
 
 上質な鈴を転がしたかのような、凛とした声音の心地よさ。 見上げてくるその瞳は大粒の宝石のようである。 そう、姜維はまさに事実その通りなのだと、徐晃はあらためて痛感する。 磨き上げればこの少女は、更に輝きを増し、奇跡にも等しい輝石となることだろう。
 
「…………。」
 
 固唾を呑んで、黙したままの徐晃を見守り、姜維は次の言葉を待っている。 徐晃から見ても、姜維という少女は出来すぎなぐらいに出来た人物だった。 慎み深くも気遣いは細やかで、徐晃の奔放さを理解しつつ、自分も笑ってそれを受け入れるだけの器を持ち合わせ、忠節を重んじ日々の糧として生きる。 そんな傑物を、そう多くない日数ではあるが、傍にいて間近で見ている事ができた。 思えば、我が身の幸の何と多いことか。 不詳の身であり、こんな無骨者の何処に懐いてくれたのか。 己のこれほどの気運に、徐晃は罪の意識さえ懐いてしまう。
 
「姜維………。」
 
 名を噛み締めるようにして、再び呼ばわる。 そして、見上げてくる瞳の色はまた同じ、無条件の信頼がそこに詰まっている。 思えばそれこそが、徐晃が姜維に対して懐く小さな疚しさの根元なのかもしれない。
 
「俺は、曹操殿に興味惹かれ、ここまでやってきた」
 
「はい……。」
 
「そして出会ってみて、まだ惹かれている。 …………、いや、なおいっそう惹かれている」
 
「…………。」
 
 どう話せばいいのか迷っていたはすが、ひとまず口火を切ってみれば、自分でも驚くほど滑らかに言葉が湧いて出た。 聡い姜維のことだ、真摯に耳を傾けながらも、徐晃の話の終着点を既に察したのかもしれない。 だが、それでも徐晃は、言葉を紡ぐのを止めない。
 
「何故ここまで惹かれるのか、自分でも解らない……、だから、それが一体どういうものなのか俺はそれを理解したい」
 
 遠目に見つめてなお燦然と輝く曹操の偉容。 昼の陽光など嘲笑うかのように示す、その確固たる存在感は、距離を隔てても霞むことさえない。 徐晃も、いざあたらめて実物と相対してみて、その威圧感を肌で感じたとき、自分や姜維、夏侯惇や夏侯淵のような人間とはまた違う、超えようのない一線。 それを嫌というほど意識させられた。
 
「ならば、仕官してみるのも悪くない……。 そう思い至った」
 
「そう、ですか……。」
 
 それは事実上、二人の旅の終わりを意味するも同然の言葉だった。 姜維も予想はしてはいたのだろうが、双肩は萎れ、がっくりと項垂れたまま、力がない。 彼女の中で鬩ぎあう、徐晃の門出を祝いたい思いと、まだ一緒に旅を続けていたと思う心の揺れ動きが、姜維自身すら無自覚にするほど、大仰に現れてでてしまったのだ。 そして、その結果、今の状況を認めたくないという心境の方が大きく影を落としていた。
 
「………………。」
 
「………………。」
 
 長い沈黙の間をおいて、徐晃もいつになく重く沈んだ面持ちで、しばし言葉を選ぶかのように逡巡してから、やがて一つの結論を姜維に向けた。
 
「この三年間、各地を廻った旅に意義を得た。 そう思いたい……。」

「は、い……。」
 
「いや……、武に身を投じた意味を見出したいのかもしれん……。」
 
「――――、私も、私も徐晃様の旅に意味が……、あったのだと、そう思いたいです。 ………、寿ぎたいです」
 
 地に視線を向けたまま、姜維はささやくような掠れた声で言う。 まるで呼吸にさえも痛みを催すほどの病に犯されている末期患者のような、そんな危うさを孕んだ低い声。 事実、姜維は今途方もない苦痛に苛まれていた。 努めて意識すまいと蓋をしていた、いずれ旅が終われば、遠からず訪れるであろう離別と言う名の禁忌。 抑え込まれていたはずのそれが、姜維の胸を突き刺すのだ。
 
「……………。」
 
 どう声をかければいいのかも判らず、徐晃は目を閉じ唇を噛む。 痛みに耐えるかのように面を伏せる姜維もまた、それ以上の言葉が出ずにただ黙するしかできないでいる。 乾いた砂埃が風に流され、静寂に包まれた大地に立ち尽くす二人の合間をすり抜ける。 まるで二人の間にできた亀裂をさらに広げるかのように。

「姜維……。」
 
 応えない。 しかし、耳には届いている。 己の偽らぬ心を伝えれば、きっと姜維の心は更に痛みに苦しむ。 元来が朴訥な徐晃では、本来なら当たり前のように出てくるだろう、慰めの言葉さえ出てこない。 そんな無骨なだけの己自身が、ただ憎らしい。 だが、と徐晃は心中でかぶりを振る。 その場しのぎの痛み止め、嘘で笑わせる即効薬。 そんな物でいったいどれだけの時間、姜維の痛みを忘れさせてやれるのだろうか。 徒に言葉を重ねてもきっと姜維の心の中の空洞を、少し径を広げるだけになってしまうだろう。 だから、今この場で多少なりとも意味をもつ言葉があるとするのならば、それは明確な宣言という名の劇薬しかない。
 
「旅を、終えよう……。」
 
「―――あ―――。」
 
 ぴしり、と。 決定的な亀裂の音が聞こえた気がした。 面を伏したままの姜維の双肩が、危ういほどに激しく震える。 さり気なく目元に触れる指で、滲み出た涙を拭いとる様子に、徐晃はただ黙することしか出来ない。
 
「わかりました……。」
 
 姜維の声音の翳りを、徐晃は耳ざとく聞きとがめる。
 
「徐晃様がそうしたいのであれば、私に否はありません」
 
「………、すまん」
 
「……………。」
 
 詫びの言葉にさえ窮する徐晃に、だが姜維はやんわりとかぶりを振る。 本来であれば姜維から罵倒しつくされても仕方のない事を徐晃は今やらかしている。 己の、言ってしまえば利己的な理由だけで今の関係を絶とうとしているのだから、姜維の心中はさぞ穏やかではないはずだ。 なのに、徐晃の耳に届く声は、いま出来る精一杯の優しさといたわりが込められていた。 そんな姜維の様子に徐晃は改めて己の愚鈍さに腹立たしさを感じる。 快い空気のまま、ことを終わらせたかったのであれば、もっと相応しい言葉を選ぶべきだった。 しかしそれも今となっては、遅きに失した。
 
「謝らないでください……。」

「す……、いや、ありがとう」

「はい」
 
 いま徐晃の胸を焼くのは、悔恨の念。 こんな風に姜維を嘆かせたかったわけではない。 いっそこのまま、全てを投げ出し、背を向けてしまいたい気分に徐晃は駆られる。 最後まで姜維と共にあることよりも、己の欲を優先させた愚かな人間。 そんな愚物が仕官とは笑い話にもならない。 以後はすべての生涯をかけ己を罰し、何も問わず、何も求めず、草木のように無為に生きてゆけばいい。 そこれこそが、或は最良の行動なのではないのだろうか。
 
「―――――、妙な事を考えていますね? 徐晃様」
 
 すかさず夢想を遮って、姜維が戒めの言葉を放った。
 
「償いをする。 そう顔に出ていますが……、そう都合良く生き方を変えられるのなら、今のように私が落ち込むことは無いはずです」
 
「…………。」
 
「そして、これらかもきっと、徐晃様はそうやって生き続けてゆくのでしょうね……。」

 姜維は、ふぅ、と溜息をついた。 まるでむずかる子供の粗相に気疲れした母親のように、優しくありながらも、眉に刻まれた皺は深い。 そんな姜維の様子を徐晃は無言のまま見つめ返す。 拡げていた両の掌を閉じてみれば、じんわり、と汗が滲んでいたことに、この時徐晃は始めて気が付いた。
 
「だから祝うべきです。 徐晃様の旅が、ついに目的地へと辿り着いたのですから」
 
「………、姜維。 お前は……、祝ってくれるのか?」

「勿論です」
 
 慈母の笑みを浮かべたまま、徐晃を肯定してくれる姜維。 その言葉は、徐晃を何よりも励ましてくれるものであるはずだった。 旅で絆を深め寝食を共にした相棒の激励は、徐晃の心を幾分にも軽くしてくれたはずだった。 それなのに、何故か徐晃の胸中を、名状しがたい不安が隙間風のように吹き抜ける。 こういう慈愛に満ちた笑顔で、聞き分けのない子供をあやすかのような表情を作る時は、悪巧みを考えている彼女の母と瓜二つで、どうしても身構えてしまうのだ。
  
「あぁ―――――、そういえば……。 私、これから一人で旅をするんですよね……。」
 
 そこまで言ってから姜維は、白々しいほど思わせ振りに徐晃を凝視した。 姜維にしては珍しい、皮肉げな口調の批難の言葉。 それを受け徐晃は、だがむしろ安心したかのように安堵の息を吐いた。 優しさや慎ましさばかりを表に出して、内面を中々見せてくれない姜維でも、そういった表情や言葉をこんな自分にも見せてくれるのだと。
 
「そう、なるな……。」
 
「しかし、そうなりますと路銀が心許無いですね……。 何処かで雇われてみるのも一興かもしれませんね」
 
「………なに?」
 
 あまりに突飛な言葉に、徐晃は耳を疑う。 その驚きに対して詫びるかのように、姜維はやや口調を緩やかに和らげて続けた。
 
「武と智には少々自信がありますから。 …………、そういえば、前途有望そうな方に仕官を申し出ようとしてる人がいた筈でした。 その人も将となることを目指すのであれば、部下の一人や二人ぐらい雇ってくれるだけの器は持ち合わせているはずでしょう」
 
 その言外に意味するところを汲めば、何と露骨な事か。 ぬけぬけと笑顔でそう言ってのける姜維に、硬くなった頬に失笑の色すら浮かべて、徐晃は頷いた。
 
「だが果たしてその男、お前の眼鏡に適う人物なのかどうか……。」
 
「問題ないでしょう。 自由奔放すぎる所が玉に瑕ではありますが、才気や人となりはそれなり以上のようですから」
 
 そこまで聞かされた徐晃は、だがむしろ冷淡に感情の無い顔で、低く押さえた声音で問うた。
 
「………、あいわかった。 だが姜維、お前はそれでいいのか?」
 
 かつて、姜維と共に村を旅だったあの時も徐晃は、同じ声音と表情で、同じ言葉を、投げかけた。 忘れもしない、あのときの姜維の面持ち。 困ったように、申し訳なさそうに、それでもはにかみながらも、姜維は頷いた。 その慎ましい笑顔に徐晃は折れたのだった。 

「はい。 自分で決めた事ですから……。」

「…………、そうか」
 
「はい」

 それはまるで、あの時の追体験のようだった。 姜維の瞳に宿るのは退転の覚悟。 それをまざまざと見せ付けられては、拒むことなどできるはずもない。 徐晃より、曹操よりもなお幼さを残すこの少女は、まるで慈母の如く、いつも優しく親身に、気兼ねなく接してくれた。 そんな彼女が、我を出して二人の立ち位置に一石を投じたことに、徐晃は嬉しさを感じる反面、やはり一抹の疚しさを感じてしまう。 自分という存在が彼女を縛り付けているのではなかろうか、と。
 
「分かった………。」
 
 抑揚の無い口調で頷く徐晃だったが、不意に厳かな真顔で姜維を見据えた。
 
「一つだけ訊いておきたい事がある」

「なんでしょうか?」
 
「姜維。 俺の真名、受け取ってくれるか?」
 
「………え?」
 
 姜維は驚きのあまり、始めはその言葉の意味を理解できなかった。 むしろ徐晃の言葉が頭に沁み込むよりも先に、総身を激情が震わした。 『真名』それは親、兄弟を除けば真に親しい者にしか、その名を呼ぶことも、預けることも許さない神聖な名前。 ひとたび真名を許しあった絆は、現世と幽世の隔たりすらも踏み越え、死後の魂さえも忠ずる永遠へと昇華された気高き契り。 それを預けることは、即ち絶対の信を意味する。
 
「……すまん。 変な事を言った……。」
 
 放心のていで口を開閉させる姜維に、徐晃はとめどなく胸の中に湧き上がる不安に耐え切れなくなってか、詫びる言葉を口にして肩を落とした。 だが、姜維は慌てたかのようにかぶりを振る。
 
「私………、ごめんなさい。 その、あまりにも嬉しかったものですから、つい……。」
 
 そっと両の掌を胸元で握ると、姜維は優しく囁くように呟いた。
 
「ありがとうございます、徐晃様。 本当に嬉しい」
 
 想いを込めて、秋空の如く晴れやかに笑う姜維の様子に、徐晃はただ途方に暮れるしかない。 悲嘆の心には笑顔を被せ、そして今度は涙のあとに喜びを口にする、少女という性の摩訶不思議さに。
 
「そうか……、ありがとう」
 
「はい」
 
 まるで千年の時を経て花咲いた蓮の如く、その貌は溢れんばかりの喜びに輝いていた。
 
「仁、それが俺の真名だ」
 
「仁……、様」
 
 『礼』『仁』『信』『義』『勇』『知』、人の守るべき六種の徳の一字。 それが徐晃の真名。 その名が口に衝いて出た時、姜維は何の違和感も感じない。 初めて口にしたはずなのに、それでいて懐かしさにも似た響きがそこにあった。 徐晃も遠い昔からそう呼びかけられることを、待ち望んでいたかのような、まんざらでもなさそうな表情で漫然と頷いた。
 
「あぁ……。」
 
 満たされた表情で徐晃は瞼を閉じたとき、不意に姜維から声をかけられる。
 
「仁、様」
 
「ん?」
 
 まだ遠慮の残った口調ではあったものの、徐晃が瞼を開き見やった先にいた姜維は、居住いを正し恭しく拱手抱拳の姿勢を保っていた。 その姿は、やや幼さを残す姜維には勇まし過ぎるほどに愛らしくあったものの、その威風と瞳から注がれる真髄な視線は充分すぎて余りあった。
 
「私の真名……、受け取って頂けますか?」
 
 その言葉に、徐晃は微笑んだ。 その笑みは姜維にとって、どんな財宝よりも勝る宝だ。 浮き足立つ歓喜に包まれながらも姜維は、己の真名を口にする。
 
「我が真名は、空。 この真名、仁様に預けます」
 
「クゥ……、空か……。 うん、刻んだ。 お前の真名」
 
 その時、徐晃の心中に宿る遠い、遠い昔から水面の底にあった難破船を引き上げた現場に居合わせたかのような、奇妙な興奮。 そう、それは何時だったか。 あの時も自分は誰かと真名を渡し合ったのだ。 あれは、自分が村を旅立つ時、戦友たちとの別れの間際ではなかっただろうか。
 
「あぁ……、そうか……。」
 
 そのとき徐晃は、はたと悟った。 あのとき胸に懐いた誇らしさ、それを姜維とともに、再び刻み込めたことが、たまらなく嬉しかったのだ。 そうだ。 こんなにも綺麗で貴い稀有な宝石のような姜維であるが、彼女の村を発つ時に一切の遠慮も気遣いも無用であると、そうまざまざと感じ取ったのではなかったか。 それを忘れていた。 たった今この瞬間まで。
 
「ははっ………、あっはっはっはッ!」
 
「じ、仁様!?」
 
 徐晃の哄笑に、姜維は驚きのあまり声を裏返す。 だが徐晃には聞こえない。 聞こえるのは、ただ在るがままに流れる風の音色。 なぜ今になるまで忘れていたのか。 私欲に負け、姜維を悲嘆させてしまったと、そんな弱気に駆られていた。 愚かな、何という見誤りか。 姜維の懐の、器の広さはまさに深淵だ、底が見えない。 ならば、この程度の些事など易々と越えることだろう。 己が背を預けるに足る相棒と見込んだ女であるのなら、信じていなくてどうするというのだ。
 
「いや、何でもない。 俺も嬉しくてな」
 
「そ、そうですか……。」
 
 不思議と悔恨はなかった。 ただ、ついうっかり些細なものに蹴躓いてしまったという自嘲が、徐晃の口元に苦笑を昇らせる。 ひとくさり己の愚劣さを思い知ったあと、徐晃は真顔を作ると改めて厳粛に姜維へ問いかける。
 
「本当に異存はないのだな? クゥ」
 
「はい」
 
 念を押されても、姜維は動じることなく頷いた。 背を預け、命を託す相手としてこれほど頼もしい存在はあるまい。 かつて背を預けていた戦友たちとは、思考も性格もまるで異なるこの少女。 だが、だからこそ、これより先にある新たな出来事を共に分かち合うに足る存在であるに違いない。
 
「これからも、宜しく頼む」

「私の方こそよろしくお願いします」
 
 今ここに、一つの契りが結ばれた。 両者互いに申し合わせたかのように、二人は健闘を称えあう決闘者のかの如く厳かに手を握り合う。 ただ、真顔ながらも眼差しにだけは悪童じみた稚気を残す姜維に、徐晃は苦笑を返すしか出来ない。 話の流れの表面上は、徐晃が体裁を取り繕うことで終始していたが、視点を切り替え、俯瞰して考えると何故か姜維の術中に嵌ってしまっている気がするのだ。 無論そんなはずが無いことは徐晃も重々承知しているのだが、しかし何故か姜維の挙措から彼女の母親の影が見え隠れする。
 
「では手始めに、この武を曹操殿に買ってもらおうか」
 
 謎めいた姜維の所作から感じるそこはかとない不安を打ち消すかのように、徐晃は嘯いた口調でこちらの動向を窺う曹操たち一行を見つめた。
 
「……、クゥ?」
 
 いつもなら打てば響く素早さで返事を返す姜維だが、この時に限って返答がなかった。 まさかこの至近距離で聞こえていない、というはずはない。 もしかすれば、聡明な姜維のことだから考え事に没頭しているのだろうと中りをつければ、案に違わずやや遅れながらも返事はちゃんと返ってきた。
 
「……えぇ、そうですね。 思い切り高値で買い取って貰いましょう」
 
「はは、そうだな」
 
 徐晃は精悍に微笑んで、待たせていた曹操たちの方へと向かって歩き始めた。 それを後ろから眺めて観てみれば、燦々と照る太陽も、穏やかに流れる風の感触も、諸手を上げて徐晃を祝福しているかのように見えたことだろう。 ふと耳を澄ませば、誰かに呼ばれたような気がした。
 
「クゥ、呼んだか?」
 
「いえ?」
 
「ふむ……? そうか……。」
 
 小首を傾げながらも先を進む徐晃を、姜維はしばしの沈黙とともに見守ってから、その背に艶然とした微笑を投げかける。
 
「くふ、まだまだ甘いですね仁様は……。 相手に罪悪感や同情を煽らせ、後からさらにずぶりと刃を衝きたてる、交渉術の初歩ですよ? やはり、私がいないと……、駄目、ですね。 そう………、まだ、一緒にいてもいいですよね? 仁様……。」
 
 優しい微笑の中に潜む縋るような、姜維の眼差しに、だが徐晃は気が付かない。 彼女は強い、そう徐晃は断じたが、無論そんなわけない。 歳相応の弱さだって姜維にもあるのだ。 それを声に出して徐晃に伝えるべきだと、そう囁く声を理性が押し留める。 僅かな日々であるが、それでも姜維は徐晃の相棒なのだ。 いっそ愚直なまでに言葉を選ばず真っ直ぐで、他人のことを素直に信じきってしまう彼は、味方も多いが、これから先はきっと敵も多くなる。 彼自身が、全身全霊を注ぎ、ことを起こすならば、その無防備となった背を守れる者がいるとしたら、それは自分以外にいない。 だからこれでいい。 深く息をついて、ゆっくりと身体の強張りを解きながら、姜維は胸中を苛む痛みをまるで慈しむかのように、胸を一撫でしたあと徐晃の背を追いかけ歩き始めた。






あとがき

ふと思いました。 恋姫にヤンデレなキャラクターっていないなぁ~っと。
どうもギネマム茶です

ヤンデレって良いですよね、可愛いですよね。 傍から観ているぶんには……。
当事者になるのは、絶対ご勘弁願いたいです。

まぁ私の嗜好はさておいて、今回は徐晃さん姜維の真名解禁の回でした。
二人の真名は初期段階から考えてはいたのですが、このまま無くてもいいんじゃね? とも思っていたりもしたのですが、二人の距離が縮まっている中で、真名を許し合わないのは、義理に欠くんじゃないかなぁ~と思い、今回の話に到りました。
 
原作でも勝手に真名を呼ぶと首切られても仕方なし、的な話はあるのですが、具体的な内容まで突っ込んでないので、此方で勝手に拡大解釈しちゃうぜ、的な感じでこの先掘り下げていければいいな、と思っています。

ではまた次回で



[9154] 十九話・理解不能 理解不能 理解不(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:070acce9
Date: 2010/06/16 19:29
 呑気な胴間声が、殆ど真上に近い位置から降ってくる。 曹操にとっては、その見上げる角度が癪だった。 傍らに付き従う夏侯惇と夏侯淵ほどの背丈があれば、もう少しましな角度であっただろうが、考えても詮無いことである。

「……………。」
 
「あの男のことですか?」

「まぁ、ね」
 
 人を使い万民を統治するのなら、民草が何を求めるところを一目で見抜けなけないようでは務まらない。 そしてその道を躍進する曹操から見ても徐晃という男は、何処か得体の知れない人物だった。 まるで緊張などなく、硬くなった様子などみせず挙措はあくまでしなやかで緩い。 風体だけなら武芸者とも見て取れなくもない男が、まるで妖術か何かのように差し出した司馬防の書状。 これが無ければ、曹操とて臨戦状態を取らざるを得ない類の手合いだった。 とはいえ、司馬防ゆかりの人間であることは半紙が保証している。 邪険に扱う事は出来ない。
 
「華琳さま! 華琳さまが、あのような男にかかずらわる必要などありません!」
 
 真っ直ぐに見つめてくる夏侯惇の視線を、曹操は苦笑をもって受け止めた。 不機嫌の元となっている徐晃が傍にいないにも係わらず、それでもなお不満の色を隠さないのは、曹操が徐晃に対し幾ばくかの興味を示しているところにあるのだろう。 夏侯惇が主たる曹操に寄せる敬慕の念はとりわけ強い。 そのせいか、妹である夏侯淵を除いた他人へ興味の意識を向ける事を極端に嫌がる。 これが侍女や、文官などが報告の為に曹操の傍に侍っていたとしても、まだ彼女の許容範疇内にある。 その程度で目くじらを立てていては、逆に曹猛徳の将など務まらない。 だがそれも、曹操があくまで興味の矛先を向けなかった場合の話である。
 
「姉者」

「むぅぅ、秋蘭だってそう思うだろう?」
 
 落ち着きを払って諌めようとするものの、それでも承服しかねるのか夏侯惇は膨れっ面を隠さない。 幼いことよりずっと、曹操の傍にいた夏侯惇よりも後からやってきた者や、特に男に対しては、何かと風当たりが強いのだ。
 
「春蘭……。」
 
「華琳さまぁ~。」
 
「貴女の私を想う気持ちは嬉しいけれど、駄目よ」
 
 縋るように見つめてくる夏侯惇の視線を、だが曹操は淡々と語って切り捨てた。 すると夏侯惇は叱り付けられた子犬のように、まるで身体ごと縮んでしまったのでは、と錯覚するほど身体を萎ませてしまった。
 
「姉者。 華琳様が駄目だと仰った理由は、ここで彼らを邪険に扱うことは華琳様の沽券に関わるからだぞ」
 
「むむッ……? どういうことだ、秋蘭?」
 
「つまりだ、彼らは客人として扱わないといけない」

「………、そうなのか?」

「そうだ」
 
 狐につままれたような面持ちで、数泊の沈黙の後、夏侯惇は小首を傾げた。 その愛らしい仕草に想うところがなかったわけではない夏侯淵であったが、心中に渦巻く激情を表に出さぬよう、努めて冷静に憮然と頷くのだった。
 
「先程も話しに上がった呂伯奢殿は、華琳様の御祖父である曹騰様の代から懇意にされている豪商だ」
 
「な、なんと……ッ!?」
 
「その遣いの者が門を叩いてやってきたとしたら……、姉者はどうする?」
 
「むろん、不便をかけぬよう丁重に持て成す!」
 
 勢い良くそう宣言する夏侯惇に、曹操は意地の悪い含み笑いを投げかける。
 
「あら春蘭、それは何故?」
 
「な、何故………、と言われましても……。 華琳さまが懇意にされている方の遣いの者であれば、粗相な振る舞いはできません」
 
「つまりそういうことだ、姉者」
 
「どういうことだ?」
 
 そう夏侯惇が言い放ったあと、しばし微妙な空気と共に場が静まり返った。 その沈黙に、まず最初に戸惑いを憶えたは、他ならぬ夏侯惇自身である。 度肝を抜くような奇抜な発言でも、自身より頭の優れた曹操や夏侯淵が理解に苦しむほど難解な発言でもなかったはずだ。 よく理解できないから疑問を投げかけた、ただそれだけのはずなのだから、反応はすぐに現れていいはずだ。 なのに、それがない。
 
「ふぅ………。 もういいわ秋蘭」

「はぁ………。」
 
 ようやく声を上げた二人の反応は、何故か、呆れ顔だった。
 
「あ、あの……、華琳さま? 秋蘭?」
 
「あぁ、気にしなくていいわ春蘭」

「姉者はいつも通りの姉者でいてくれればいい」
 
「は、はぁ……?」
 
 二人と自分との間に横たわる微妙な空気の正体に気が付けないでいる夏侯惇は、気の無い生返事を返す。 今にも頭を抱え出しそうな夏侯淵に、静かな微笑に柔らかな眼差しを投げかけてくる曹操の様子から、夏侯惇自身も思うところが無かったわけではないが、主と妹から気にするなと言われれば、それ以上の思考は無意味なのだろう、と考える事を放棄した。
 
「兎に角、あの二人が粗相でも犯さない限りは自制なさい」
 
 そう曹操が言葉を切ったところで、ふいに、弾けるような勢いで豪快に笑う声が、荒野に轟いた。
 
「な、何だ。 今のは……?」
 
「ふむ、どうやら向こうも話し合いが終わったようね」
 
 曹操の指摘で夏侯惇は思い出す。 無知な悪党どもが、盗人猛々しく曹操の財に手を出し逃走を図った。 それら賊を裁くため兵を挙げ然るべき鉄槌を下す為に、いま此処に居るのだ。 ただ、その任を押し留める不敬な輩がいることも同時に思い出した。
 
「奴らめ……、華琳さまの貴重なお時間を無駄にして、何を話しておったというのだ!」

「だから無為に怒るのを止めなさい、と言っているの」
 
 夏侯惇がさも不機嫌そうに鼻を鳴らすや、すかさず曹操が止めに入る。 これには、さしもの夏侯淵すら呆れ顔を隠せない。 毎度のことではあるが、夏侯惇の手綱を握る二人はどこか諦観にも似た嘆息を吐き出した。
 
「お待たせした。 申し訳ない」
 
 悠然と大地を踏みしめながら、徐晃は曇りの晴れた面持ちで、曹操たちの所まで戻ってくる。 そこには、一大決心を決めたという緊迫感は見受けられない。 もっとも徐晃からすれば、内心に秘めた激情さえも己を刺激して止まない愉しみの一つなのだろう。
 
「いいえ、構わないわ。 それで、答えは出たかしら?」
 
 口調は厳しいものの、曹操は悪戯っぽい笑いに口元を歪ませて、徐晃たちをみやる。
 
「はい。 先も話したとおり、純粋な興味から貴女に合ってみたく思い、ここまで来た次第」

「それで?」
 
 そう静かに口火を切った徐晃に、曹操もまた厳かな、悠然たる居住いで対峙する。 姜維と夏侯惇、夏侯淵らは各自、下手に動かずそれぞれともに事の成り行きを見守ることに徹していた。
 
「その興味が何であるか見定める為やってきましたが、それが未だ判然としない。 そこで、貴女の傍でそれを見極めれば、答えが自ずと出てくる、そう思い至った」
 
「……………。」
 
「故に、貴女の下へ仕官したい」

 聞き様によっては、小馬鹿にしているとも受け取られかねない徐晃の物言いに、曹操も激怒するかと思いきや、ただ微笑するだけに終わった。 その艶美な曹操の顔には、戦場に臨むのと変わらない凛烈さに冴えている。 その様子は、まるで挑みかかってきた挑戦者に対し不敵に、ただ泰然と、ただ堂々と立ちはだかる王の如く雄大だった。
 
「そう……、なら私たちの捜査に協力なさい。 その結果如何によって、また決めるわ」
 
「捜索……、ですか?」
 
「そうよ。 私たちはいま、貴重な遺産を奪った悪党を探しているの。 情報によればこの付近でそれらしい人物を目撃したという報告が上がっているのだけれど……、あなたたち、何か見てないかしら?」
 
 曹操が疑問を口にするや、徐晃は何やら一人で合点がいったかのように暫くの間、唸った。
 
「クゥ、もしかすると先ほどの二人は……?」
 
「恐らくは……、としか言えませんが、その可能性は高いかと……。」
 
 徐晃の問いに、姜維はこの展開に入り込んで良いものかと、恐縮しているのか判然としない微妙な表情で応えた。 だが、二人の言葉を耳聡く聞きとがめる曹操。
 
「なに? 貴方たち、そいつらの顔を見たの?」
 
「俺たちが会った二人で確かなら……。」
 
 それまで悠然と構えていた曹操が、眉一つ動かす事無く、一切の表情を消した面持ちのまま固まった。
 
「春蘭……。」
 
「はッ!」
 
 とりあえず深呼吸して気を鎮めた曹操が、やや低い声で夏侯惇を呼ばわる。 その凛と覇気の溢れ出る声から、惚けているわけではないと見て取った曹操だが、自らが伺い知らぬ経緯がある事を良しとせず、傍らの夏侯惇に疑念の眼差しを投げかけた。
 
「徐晃たちが賊どもの顔を見ていた、なんて報告、受けていないわよ。 もしかして、貴女も聞いていなかったのかしら?」
 
「は、はいッ! その通りです!」
 
「なに……?」
 
 これには徐晃も眉根を寄せた。 既に夏侯惇にその話は伝えてあるはずだ。 それを知らぬ存ぜぬと言われては、徐晃とて穏やかではいられない。
 
「年かさの中年男、そいつらが何処へ向かったか……。 確かに夏侯惇殿にお教えしたはずだが?」
 
「はぁ……、春蘭?」
 
 溜息をつき、あらためて曹操は感情の読めぬ面持ちで夏侯惇を見据えた。
 
「も、申し訳ございません……。」
 
「こういう事は速やかに報告して欲しいものね。 でなければ、上に立つ私の品格が疑われてしまうわ」
 
「お許しください、華琳さま」
 
「駄目よ、赦さないわ」
 
 夏侯惇の謝意に、だが曹操は断固としてかぶりを振る。 その言葉にあわや膝から力が抜け落ちかけた夏侯惇は、何の反応も返せずがくり、と肩を落として曹操の叱責を甘んじて受け入れた。 曹操の次の言葉を聞くまでは。
 
「春蘭、貴女には一から教育を徹底させる必要があるみたいね? だから、今夜私の部屋に来なさい。 たっぷりと教育しなおしてあげるから」
 
「か、華琳さまぁ……。」
 
 玲瓏な深みのある声音に乗せて、艶の色に濡れた曹操の双眸はまるで、夏侯惇の柔肌を舐め回すかのように限りなく淫靡なものだった。 しかし、それを受ける夏侯惇も、まんざらではない様子で、もう何度も目にしたかも分からない曹操のその眼差しに熱い吐息を漏らす。 己を見下ろすかのような、曹操の厳しい視線にさ陶然となる心を抑えて、夏侯惇は己が幸を噛み締めるように頷いた。
 
「華琳様……、姉者をからかうのも、その辺りで……。」
 
「あら、秋蘭。 春蘭一人だけなのが不服なのかしら?」

「いえ、そういうわけでは……。」
 
 そういって夏侯淵に微笑みかける曹操の表情には悪びれもした様子もない。
 
「あらそう? なら今夜は私と春蘭の二人きりで愉しむことにするけれど?」

「……………、姉者の同伴をお許しいただけるのでしたら私も」
 
「ふふ、素直な子は好きよ」
 
 どういう返答が返ってくるか、それを解ってはいても、ついつい事ば姉妹共々からかいたくなってしまうのが曹操の癖だ。 取り残された徐晃と姜維は、この展開にどう反応してよいのやら判断に困りお互い顔を見合わせて苦笑するしかできないでいる。 そんな自分たちの愛を見せ付けるかのような遣り取りを一段落させると、曹操は改めて徐晃へと向き直った。
 
「さて、話が逸れたけれど、貴方たちが見たという男の特徴を教えてくれないかしら」
 
「………、俺とクゥが出会ったのは、首領格とみられるの髭の男と、小柄な前歯が飛び出た男になります」

「そう………、少なくとも聞いている情報と外見は一致するわね。 ………、顔を見れば、見分けは付くかしら?」
 
 徐晃は先ほど出会った二人組みの特徴を思い出しながら、慎重に解答した。
 
「恐らくは……。 特徴的な二人でしたから、姿、格好をみれば……。」
 
「なら問題ないわ。 ………、秋蘭!」
 
「は!」
 
 主の声に、精悍な仕草で一歩前へと出てくる夏侯淵に、曹操は満足そうに頷いてから下知を飛ばす。
 
「まだ連中の手掛かりがあるかもしれないわ。 部隊の半数を辺りの捜索に廻してちょうだい。 残りは一時帰還するわよ」
 
「承りました」
 
 頷くや否や即座に周辺の兵士達のもとへと向かう夏侯淵。 その直後、主の命を受けた居並ぶ軍勢が一斉に動き出し、沸き立つ荒波の如く怒濤の勢いで半数の兵士達が、荒野の先へと消えていった。
 
「さてと。 戻ったら、貴方たちの部屋を準備させましょう。 好きに使うといいわ」
 
「ご厚意に感謝します」
 
 夏侯惇に手綱を引かれやってきた唯一、乗り手のいない空馬に、曹操はその華奢な体躯からは想像もつかぬ身軽さでひらりと馬の背に跨ると、声高らかに謳い上げる。
 
「さぁ、帰還するわよ!」
 
 それに応えて居並ぶ騎乗の兵たちが、一斉に馬具を鳴らして観応する。 それを見つめる徐晃と姜維に向け、圧倒的な自信と誇りを込めて、曹操は二人を睥睨する。
 
「悪いのだけれど、積荷は貴方たちが持ってきてくれないかしら。 その間に部屋の準備はさせておくわ。 あと、貴方達には必要ないだろうけど、一応、護衛を付けて置くわ。 まあ案内役代わりにでもしてちょうだい」
 
「分かりました」
 
「結構。 じゃあ行くわよ、春蘭」
 
「はッ!」
 
 先陣を切って荒野の彼方へと消えてゆく曹操たち。 騎兵の軍勢が駆け抜けたその後には砂塵を巻き挙がり、濛々と立ち上がる砂埃が視界を遮るだけだった。 それを見送った徐晃たちの傍らには、護衛という役目を与えられた兵士たちが、黙したまま此方が動くのを待っている。 それに伴って、徐晃たちも顔を見合わせたあと、お互い示し合わせたかのように頷くと、旅ではお馴染みの定位置へと戻ってゆく。
 
「それでは、お願いします」
 
 姜維がそういって目礼すれば、兵士たちから一斉に略式の軍礼が返ってきた。 その仰々しさに苦笑の色を隠せず、頬を引きつらせながらも姜維は手綱を操って荷馬車を動かすのだった。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 目を開けて、姜維は辺りを見回した。 不思議な感覚だった。 目を開けて、まず見える物が蒼天の青ではなく天井であること、自分の身体を包むのが、綿がたっぷりと詰まった毛布であること。 まるで未だ夢の中にあるようなそんな現実が、姜維の覚醒を遅らせる。 徐晃と一緒に寝泊りしたどの宿屋よりも広い部屋の中、ぽつりと一人だけしかいないその感覚に姜維はまだ慣れない。
 
「……………。」
 
 半身を起こして、手櫛で髪を梳くと、あふ、と慎ましやかに欠伸を漏らした。 充分な休息を得て、身体には充分に英気が宿っている。 曹操が統治する陳留へとやってきてから、数日経った。 旅の疲れを癒すには十分な時間が経過している。 それに伴って、自分や徐晃を取り巻く環境が大きく変化した。

「お仕事か……。」
 
 文官が大いに不足しているせいか、事務仕事を任される事となった姜維は、なんと曹操、夏侯淵と共に並んで、仕事を任されることとなった。 慮外の大役に心労がないといえば嘘になる。 だが今はそれ以上に、武官として夏侯惇の傍でいろはを学んでいる徐晃の方が気がかりだった。
 
「よっと……。」
 
 わずかに寝乱れた着衣を端々を直すと、宛がわれた部屋の扉を開いて廊下へと出る。 その一歩を踏み出せば、真上を向かなければ見えない高い天井、磨き上げられた床に、天井を支える等間隔に並べられた支柱。 司馬防の私宅で眺めたものよりも壮麗でいて、空気は静かに冷え切っている。 それがこの城の主たる曹操と、どこか似ている気さえする。
 
「おはようございます」
 
「あぁ、おはよう」
 
 なるべく明るい声音で、仕事部屋に入ってみれば、そこには既に夏侯淵が事務仕事に取り掛かってる姿があった。 仕事に取り組む彼女の面持ちは真剣そのもので、冷淡な美貌を前面に押し出した彼女に無言で見つめられれば、大抵の人間は萎縮してしまうことだろう。 だが、姜維もここ数日のうちで慣れたのか、注視してみれば意外と感情豊かな夏侯淵の機微にも聡くなった。 そんな姜維からみて、どうやら今の夏侯淵には何か悩みの種があるらしい。
 
「また、夏侯惇さんですか?」
 
「まぁ……、な。 姉者が仕事をサボるものだから、書類がたまってしまってな……。」
 
 いつものことだ、とばかりに気のない様子で嘆息しながらも、夏侯淵の持つ筆は止まらない。
 
「しかし頼られることは、まんざらでもないのでしょう?」
 
 席に着くと、手元に一番近かった書簡を広げ姜維も仕事に入る。 そんな何気なく投げかけられた姜維の揶揄に、夏侯淵は筆を止め姜維の方を向いて二、三度ほど瞬きをしたあと内心で苦笑する。 普段と変わらぬはずの表情が、姜維の目にはどのように映っていたのか。 まだ、ほんの数日の付き合いだというのに、本人すら意識していなかった感情の機微でさえ、目の前の少女に見抜かれるとは、思いもよらなかった。
 
「ふふ……、かもしれん」
 
 驚きこそすれ、動揺はなかった夏侯淵は素直に姜維に頷いた。
 
「甘いですねぇ……。」
 
「そうさせてしまうのが、姉者の魅力なのさ」
 
「ふむぅ………。 何となく分かる気がしますけど……。」
 
「あぁ、早く姉者のあの愛らしさを存分に―――。」
 
 途方もない轟音が早朝の城内に響き渡ったのは、そのときだった。 まるで分厚い城壁に、何者かが猛烈な力で殴打したかのような、攻城兵器でも持ち出さなければ、不可能なほどの相当量の破片を飛び散らかした音。
 
「これは――――。」
 
 姜維が言い切るよりも先に、二度目の轟音。 今度は姜維たちのいる部屋まで震撼させる地響きを起こして、何かが崩れ去った。
 
「姉者………。」
 
 苦しげに呟いた夏侯淵は眩暈でも起こしたのか、手で顔を覆った。 この轟音は、まぎれもなく自分の姉が引き起こしたものだ。 それは同時に壁が壊されたことを意味している。 それも穴が開くなどという生易しい次元ではなく、文字通り跡形もなく破壊しつくされている可能性すらありえるのだ。 そのありありと見て取れる惨憺たる有様を、想像するだけで頭が痛くなる。 元気で活発なことはとても良いことだ。 夏侯淵もその点に関しては太鼓判を押すほどに夏侯惇の爛漫さを好いている。 ただ、もう少しだけ、ほんの少しだけでいいから思慮を持って行動をしてくれないものか、と考えてしまうのは間違えた考えなのだろうか。
 
「………、工兵さんたちを手配しておきますね」
 
「すまん………。」
 
 姜維の言葉に、夏侯淵は重々しく頷いた。 工兵を手配するということは、この騒動の顛末が曹操の耳に入る事を意味する。 だがそれでも、無惨に荒れ果てているであろう城内をそのまま放置するわけにはいかないのだ。
 
「では早速………。」
 
「あら? どこに行くのかしら?」
 
 姜維でも夏侯淵でもない、それは第三者の声だった。 はたして二人の遣り取りをいつから立ち聞きしていたのか、執務室の扉から曹操が現れた。 既に姜維が何処へ向かおうとしているのか、それを承知していることが見て取れる悪戯っぽい笑いに口元を歪めていた。
 
「あ……、曹操さん……。 その、おはようございます」
 
「おはよう、姜維」
 
「おはようございます、華琳様」
 
「えぇ、秋蘭もおはよう」
 
 まるで図ったかのような登場に、動揺したような、困惑したような、わずかに眉を上げる二人をさも面白げに見つめる曹操。

「あの……、曹操さん……。」
 
「何かしら?」
 
「その、所用で席を外したいのですが、よろしいでしょうか?」
 
「構わないわ。 行ってらっしゃい」
 
 いつもの端正な面持ちからは想像も付かない容姿の通り、十代半ばの少女のそれでしかないような、曹操の笑顔は一体なにを暗喩しているのか。 訝る気持ちもそこそこに、微笑して見送る曹操に姜維は素直に頷いておいた。 そして己の横を通り過ぎ、廊下を走り去る姜維を無言のまま見送ってから数拍の間を置いて、曹操は疲れた溜息を漏らす。
 
「もう少し、落ち着きがでればいいのだけれど……、望みすぎかしら?」
 
 曹操の揶揄する対象は無論姜維ではない。
 
「うちの姉がとんだ粗相を……。」
 
「あぁ、別に怒っているわけではないのよ。 私もあの子には、肩身の狭い思いをさせてしまっている落ち度があるのだから」
 
「華琳様……。」
 
 何をか言わんや、である。 白刃の下をかいくぐり、返り血の飛沫を浴び、その手で今度は昼夜を問わず民草を生かすために奔走する日々。 だが幾度修羅場をくぐろうと、その先には必ず曹操の笑顔が、労いの言葉が待っている。 いつの日も変わらず厳しくも優しい、主が迎えてくれる。 それがあれば、己も姉も共にたとえ何があろうとも過酷な務めでも果たしおおせれるのだ。 そう思えば、肩身が狭いなどと如何程の事ではない。
 
「ねぇ秋蘭。 あの子の……、春蘭の相手を務めれるだけの武芸を修めた人間って、ここに一体どれだけいるのかしらね?」
 
 そう言って語りかける曹操の声音は、どこか乾いていた。
 
「私か、貴女か……。 全力のあの子と対峙できる相手なんて、そういるものじゃないわ」
 
「………………。」
 
 賛辞でもなく、皮肉でもなく、飾ることのないただ純然たる事実を語る曹操の言葉に、しかし夏侯淵は憫笑とともに目を逸らす。 己の器を思うたび、夏侯淵は実姉たる夏侯惇の才能に嫉妬じみた羨望を懐く。 だが、運命とはつくづく皮肉に運ぶものらしい。 天賦の才を持つが故に、彼女の修練の相手を務められる者はなく、自分や曹操がその相手をしてやれない時はだた一人きり、黙々と武芸を磨く日々。 それが、曹操の言う肩身の狭い、という意味なのだろう。
 
「だからね、秋蘭。 私は嬉しいのよ」
 
 そう言った後で、陰鬱な空気を払おうとしてか、曹操は口調を明るくする。
 
「私や秋蘭でなくても、春蘭の相手を務めれるだけの人間がいて、春蘭の好きな時に、好きなようにさせてあげられることが……。」
 
「はい……。」
 
 風格こそ颯爽とした威厳に満ちながらも、まるで年端もいかない少女のように、曹操の笑顔は純朴だった。 その嬉しげな曹操に夏侯淵は苦笑して彼女には珍しい、やや皮肉げな口調で混ぜ返した。
 
「しかし、そのお心遣い、姉者本人の前でお見せすれば、きっと喜んだことでしょうに……。」
 
「あら、駄目よ。 そんなの、つまらないじゃない」
 
 あんまり、といえばあんまりなその言葉に、夏侯淵は降参だ、とばかりに肩を竦めて見せた。 いずれにせよ自分の主は、そういう感情をむざむざ面に出すほど素直ではないのだ。
 
「――――で、調子はどう?」
 
 不意打ちのように唐突に曹操が問いかける。 その僅かな言葉の意味を正確に汲み取った夏侯淵は、間をおかず返答を返す。
 
「塵に同ず、かと思いきや猶興の士……、正直、掴めません」
 
「へぇ、秋蘭が持ち上げるなんて、珍しいじゃない?」
 
「腹蔵無く申し上げたまでです」
 
「ふむ………。」
 
 まるで夏侯淵の心中を見透かしているかのように、曹操は不遜な笑みを浮かべたまま、頷いた。 まるで新しい玩具を与えられた子供のように笑う曹操の姿を、とある癖を知った上で見たのなら、きっと嘆息を禁じえないだろう。 眼前の主とは長い付き合いになる夏侯淵とて例外ではなく、諦めにも似た溜息とともに、悪癖の前兆を露にした曹操の次の一言を待った。
 
「欲しいわね……。」
 
「しかしそれは、姜維本人が望まぬでしょう」
 
 夏侯淵は、予め用意しておいた返答を返す。 しかしその程度で意志を曲げる曹操ではない。 無理で道理を蹴散らすこともままある主であるとを、重々承知していても言わずにはいられないのだ。
 
「秋蘭、私だって好き好んで馬に蹴られるつもりはないわ。 ただあの子が、私の直臣となって欲しい、というだけの話よ?」
 
「……………。」
 
 不敵な笑みを浮かべ、そう放言する曹操に、夏侯淵は何も言い返さず黙したままだった。
 
「何か不満かしら?」
 
「いえ………。」
 
「ふふ、安心なさい秋蘭。 私はね、開花する前の花は愛でる性質なの」
 
 数多の言葉を尽くすよりなお雄弁に、語る夏侯淵の表情。 慣れ親しい者であっても見逃してしまいそうになるほど、ほんの僅かに逡巡したあと、小さく吐息を漏らすその仕草を眺めながら、曹操は止めとばかりに言葉を紡ぐ。
 
「安心したかしら、秋蘭?」
 
 少しだけ底意地悪く微笑んで呼びかけると、はたして夏侯淵は言葉に詰まった。
 
「華琳様………、意地悪が過ぎます……。」
 
「ごめんなさいね。 貴女の戸惑う姿が急に観てみたくなってしまったものだから」
 
「姉者のように、感情を素直に面に出さないから……ですか?」
 
「そこが良いのよ。 どう篭絡するのか、それを考えるのが楽しいのよ」
 
 そう放言する曹操に、困憊した面持ちで夏侯淵は息を吐いた。 だというのに、夏侯淵の眼差しは、まるで慈しむかのように穏やかだった。
 
「ふふふ、本当に困ったお人だ」
 
「あら、こんな私は嫌い?」
 
「いいえ」
 
「ならいいじゃない」
 
 涼やかな秋風のように微笑みかける曹操の不思議な眼差し。 見る者によっては、氷結した刃の眼光に変わるそれは、彼女を畏れる一部の手合いが、『鬼』などと渾名しているのも、解らない話ではない。 敵に廻せばこれほど脅威となる人物はいないだろう。 そんな彼女から絶大な信頼を得ている己の幸。 そんな幸福に、夏侯淵はつい嬉しげに笑いを漏らしてしまった。
 
「そう……、ですね」
 
 曹操のためなら生命を賭する。 姉と共にそう心に決めた。 だからこそ、怖かった。 寵愛を向ける者が他にでき、自分たちが不要となることが。 在りし日には、何度も弱気に駆られてしまうこともあった。 だが、それも過去のことだ。
 
「そんな貴女だからこそ、私も、姉者も奮起できるのですよ」
 
「そう? なら今後の期待を込めて今度からは、もう少し厳しく苛めることにするわ」
 
「――――、お手柔らかにお願いします」
 
 自分たちの他にも、曹操に想われている人がいる。 あんなにも怖かったはずのことなのに、今はそれが頼もしいと感じる。 嫉妬がないと言えばそれは嘘になる。 だが、それを補って余りある曹操への信頼が、夏侯淵にはある。 曹操が夏侯淵を信ずるように、夏侯淵も曹操を信じている。 曹操が見定め欲した人物、というそれだけの理由でも今は、疑心よりも安心感が生まれてくる。 過日には考えもつかなかったその事実が、夏侯淵には心地よくて仕方がなかった。






あとがき

暑い……、アイスの様に溶けてしまいそうです。
どうもギネマム茶です。
 
さて、今回はインテル入って無い春蘭と、苦労人秋蘭を中心をとした話になりました。
まぁ私の妄想なのですが、華琳様と秋蘭の二人きりならきっと、華琳様は秋蘭をチクチクと苛めるのではないか、と思いこんな感じに仕上がったのですが………、う~ん、原作のらしさが出ていればいいのですが……。
 
あと次回あたりで、ツン100%なネコ耳軍師様が出せたらいいなぁ~とも思っています。

ではまた次回



[9154] 二十話・あ、あの女の目…養豚場のブタでもみるかのように冷たい目(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:44f88c43
Date: 2010/06/30 19:02
 曹操は、地上より遥か高みから眼下に視線を馳せた。 見下ろす先には兵士たちが己の職務を果たす為、忙しなく動き回っている。 日々の厳しい鍛錬によって鍛え上げられた力強さで、次々と物資を荷台に積み込んでゆく。 その光景に曹操は安心感を覚えると同時に、一抹の悲しさを感じるのだった。 無骨の鎧兜に身を包んだ兵士というものは、その威容だけで見る者を畏怖せしめる。 眼下の兵士たちは民草を守る為の力であり、その為の武装であるが裏を返すなら、それらは民を傷つけ奪う為の暴力にも成り代わる。 つまりは扱う者次第で、如何様にも色変わりするということだが、今はそんなことを考えていても詮無いことである。 己の覇業を達成するまで、彼らは重要な戦力なのだ、今はそれでいい。
 
「物資の積み込みは予定通り、順調に進んでいます。 それと、呂伯奢殿から追加の物資が送られてきました」
 
「分かったわ………。 これで、備えられた油はどれぐらいになったのかしら?」

「大凡、三千石になります」
 
「三千、か……。 心許無いわね……。」
 
 夏侯淵の言葉に曹操は、歯噛みしながら目を閉じる。 磐石を期するのであれば、今の倍は必要だ。 だが、いつ攻めてくるとも知れない賊と対峙したとき、今よりもましな状態である保証など、この乱世の予兆が見える今の時世にはない。 ならば、目先の数字にばかりに囚われていても仕方が無い。 歯痒いことではあるが、無い袖は触れないのである。 硬い面持ちでそう言い聞かせる曹操に、夏侯淵はどこまでも涼やかな笑みで応じた。

「その穴は、我らが埋めてみせましょう」
 
「ふふ、それで私の覇業が直ぐにでも達せられればいいのだけれど……。」
 
 そう嘯いておきながら、他ならぬ曹操自身が、誰よりも自らの部下を信じて疑わずにいる。 

「必ずやご期待にお応え致しましょう」
 
「そう、なら期待しておくわ」
 
 陽光を浴びて茫洋と光る甲冑を鎧を纏う兵士たちをしばし眺めた後、曹操は傍に侍る夏侯淵へと目を向けた。 その時には三寸の奥で懊悩としていた表情はなく、どこまでも不敵な微笑みに固められていた。

「あとは、あの子たちから最終報告を聞くだけね」
 
「はい」 
 
 何の解決にも至らぬというやるせない想いよりも、今の関心事へと話題を切り替える曹操は、至極落ち着きを払ったものだった。 現状はどうあれ、この程度の事柄では曹操の動揺も隙も引き出すことは出来はしない。 それを見て取った夏侯淵は、静かに頷いた。
 
「お! 曹操殿に夏侯淵殿。 こちらに居られたか」
 
「あら、徐晃じゃない。 ………、それと、それは何かしら?」
 
 聳え立つ巨躯の徐晃の姿を認め呼ばわる曹操だったが、彼が携えている物をみると怪訝そうに眉を顰めた。
 
「おぉ、これは李通殿から頂いた物だが………。」
 
「あぁ………。 成る程」

 その一言だけで納得が言ったのか、得心顔で曹操は頷き、徐晃が大儀そうに小脇に抱える麻袋を見やった。 どう見ても、何の変哲も無い麻袋に、それを筋肉逞しい徐晃が携えていると、もはや荷揚げ場の人足といった風情ある。 それに、屈託の無い笑みを付け加えられれば、本人を目の前にしてなお見誤ってしまいそうになってしまうほどだ。 それを何とか苦笑の態で誤魔化しつつ、曹操は麻袋の中身を当てにかかった。
 
「お茶ね?」
 
「はい………、いやぁ……、まいった。」
 
 辟易とそう呟く徐晃に、曹操の面持ちもまた、同情していいのか笑えばいいのか判然としない微妙な表情であった。 徐晃であっても、曹操が内面に隠し飲み込んだ言葉がご愁傷様、であると分かるほど李通という人物は、ことお茶に関しては周囲をうんざりさせる位に煩いのだ。
 
「初めは軍馬を視て回っていたのですが、休憩がてら茶を一杯となり……。」
 
「そこで彼の薀蓄が始まった、と?」
 
「いえ、徐々に話が李通殿の奥方の方にまで及び……。」
 
「あぁ……。 それは話を無理にでも切らなかった貴方が悪いわ」
 
「むぅ………。」
 
 徐晃は精魂疲れ果てた風に嘆息して、胸に溜まった物を吐き出した。 李通は、珍しい茶が在ると聞けば、西方の国の高級な茶葉でも金に糸目をつけず買うほどの好事家であると、徐晃も早い段階かた聞き知ってはいた。 が、それと同等か以上の愛妻家であったなどとは、とても察してやれるものではなかった。 李通が本気で妻を語り始めれば、一昼夜は覚悟せよ、とは曹操麾下においての公然の、決して触れてはならぬ暗部だった。 それが一部とはいえ解き放たれたのだから、被害を受けた徐晃はたまったものではない。 延々と続く妻の自慢に徐晃もついにはお腹いっぱいとなり、憔悴しきった面持ちで嵐が過ぎ去るのをただ待つしかなかったのだ。
 
「まぁ、いいじゃない。 彼が寄越した茶葉なら私も納得できるだけの一級品よ。 ありがたく淹れることね」
 
「しかし、俺は茶を淹れる作法など………。」
 
「知らないの? なら姜維に淹れてもらいなさい」
 
「ほう、それは曹操殿をも唸らせるものですかな?」
 
 いつもとは違うどこか剽げた口調で、徐晃は曹操を見やった。 その挑発めいた口調に何やら愉快げに鼻を鳴らすと、曹操は上質な鈴を転がすかの如く、徐晃の問いに答えた。
 
「まさか。 私から言わせればまだまだだけれど、そうね、お茶も点てられない貴方でも満足できるぐらいには、仕込んであるわよ?」
 
「これは手厳しい……。」

「そう思うなら、礼法の一つでも身につけなさい、あって損はないのだから」
 
「―――――――、武人の心の置き所は、戦場と心得ておりますれば………。」
 
 どうにも風向きが怪しくなるとみるや、徐晃は逃げに徹することを決め込んだ。 所詮、口下手な徐晃が弁舌で曹操に敵うはずもないのだ。 それをお互いに分かりきった上での暇のつぶし合い。 そこには、どちらが勝っただの負けただのといった明確な勝敗は存在しない、いわば芝居のようなものだった。

「あきれた………。 まぁ、それは後々追求するとして、春蘭たちの報告はまだなのかしら?」
 
 曹操は、素気無い言葉と一緒に息を吐くと、待ち人はまだかと周囲を見回した。
 
「あぁ、夏侯惇殿ならばすぐにでも来るでしょう」
 
「あら、分かるの?」

「装備品と兵の確認の最終確認を行っている姿をこの目で見ましたから」
 
「成る程」
 
 得心がいった風に曹操は頷く。 その曹操の頷きに応じるかのように、脚力にものを言わせ慌しい足取りで近づいてくる影が一つ。 遠目からでも解る長い黒髪を靡かせ、曹操の真名を呼びかけてくる声は、案の定、夏侯惇のそれに間違いなかった。
 
「華琳さま、報告が遅れこと申し訳ございません!」
 
「それはいいわ。 それで? ちゃんと数は揃っているのかしら?」
 
「は、はいっ! 全て滞りなく済んでいます」
 
「なら結構」
 
 待ち惚けを喰らっていた曹操は、報告が遅れた夏侯惇を叱責するかと思いきや、あっさりとそれを受け流した。 こういう細やかな部分にまで目を通す気配りをしつつも、倣岸なまでの自信とそれに見合った、寛大なる許容の態度が曹操の持ち味といえよう。 その器の大きさに徐晃は敬服の念を覚えると同時に僅かに目を細める程度の違和感めいたものを感じた。 だがそれも長くは続かない、ふと徐晃は視線を曹操たちよりも遠くへ向ける。 曹操の待ち人である最後の一人が此方へと向かってきている姿があったからだ。
 
「す、すみま、せん……。 遅く……、なり、ました……。」
 
 全力疾走で駆け抜けたのだろう姜維は、息も切れ切れに詫びの言葉を口にする。 普段から鍛錬を怠らず切磋琢磨しているはずの姜維をもってして、この有様なのだから駆け続けた速度は想像を絶することだろう。
 
「あらあら、そう慌てなくても良かったのに……。」
 
「そうも……、いきません。 私の後れが……、全軍の後れに繋がったとなれば……、申し開きが立ちません」
 
「ふむ、いい心構えね」
 
 姜維の謝罪に、曹操は真顔のまま、熱を込めた真摯さで頷いた。
 
「これが、糧食の最終点検の帳簿になります」
 
「確かに、受け取ったわ」
 
 草色の表紙の当てられた紙を、姜維は曹操に手渡した。 そしてあらためて帳簿の内容を子細に読み込む曹操の表情が、はじめは至極落ち着きを払ったものから、徐々に苛立ちが混じった物へと変わってゆく。 その曹操の変化に徐晃たちはやや眉を顰めた。
 
「………、秋蘭」
 
「はッ」
 
「この監督官というのは、一体何者なのかしら?」
 
「はい。 先日、志願してきた新人です。 仕事の手際が良かったので、今回の食料調達を任せてみたのですが……、何か問題でも?」
 
 苛立ちを覘かせる曹操に、問いに答える夏侯淵も当惑の色を隠せない。 曹操の気性を知った上でなら、これほどまでに激情の色をみせるということが、どれほど由々しき事態であるか夏侯淵も理解しているからだ。
 
「ここに呼びなさい。 大至急よ」
 
「はッ!」
 
 夏侯淵の返答は最短だった。 声が曹操の耳に届いた時には、すでに夏侯淵は身を翻し颶風の勢いで地を蹴ると、そのままの監督官の下を目指した。 そして残された徐晃たちは、怒りのあまり、偏頭痛さえ起こしかけた額を神経質に指で叩きながら、持て余す苛立ちを吐息にして吐き出し空を仰ぐ曹操の動向を黙して見守ることに徹していた。
 
「……………。」
 
「……………、遅いわね」
 
「遅いですなぁ…………。」
 
 柔らかい陽光に照らされ、遠方を望めば陽炎がゆらりと揺れている。 にも関わらず、曹操の周りの静謐すぎる空気はまるで凍えたように静止している。 どこか墓所じみたその気配に流石の徐晃も、困窮した様子でこめかみに厳つい拳をぐりぐりと押し付けた。 だが、その空気も夏侯淵の登場で僅かではあるが動きをみせる。
 
「華琳様。 連れて参りました」
 
 大股に通路を進み、件の監督官を引き連れ曹操との距離を詰め、あとはもう手を伸ばせば届く距離まで来て、夏侯淵は足を止める。
 
「おまえが食料の調達を?」
 
「はい。 必要十分な量は、用意したつもりですが……、何か問題でもありましたでしょうか?」
 
 この監督官の態度には、あからさまなな余裕があった。 返答を誤れば死さえありうる状況化の中、その気配を感じてなお、こうも物怖じせずに振舞える監督官に些細な違和感を感じた徐晃たちだった。 それを強いて言うならばその余裕は、遊戯に興じている子供に近い。 この城の主たる曹操の逆鱗に触れたこの状況を、監督官は愉しんでいるのではないのだろうか。
 
「必要十分って……、どういうつもりかしら? 指定した量の半分しか準備できていないじゃない!」
 
 いよいよ激昂も露にした曹操が、怒声で監督官の弁を一蹴する。 だというのに、監督官は焦りや狼狽で表情を曇らせることなく、ただ粛々と曹操の言葉を聞き入れているだけだった。 彼女は彼女なりに、この叱責を予期していたのだろう。
 
「このまま出撃していたら、糧食不足で行き倒れになる所だったわ。 そうなったら、貴女はどう責任をとるつもりかしら?」
 
「いえ。 そうはならないはずです」

 曹操の怒りの色の帯びた眼差しにも、監督官は依然、慎みを保っている。 それはこの状況を打破できる決定的な秘策を握るが故の余裕の顕れなのか、今はまだ判然としないが対峙する曹操を含め、徐晃たちも胡乱げに眉を顰め、監督官を見つめた。
 
「理由は三つあります。 お聞きいただけますか?」
 
「……、説明なさい。 納得がいく理由なら、許してあげてもいいでしょう」
 
 いよいよあちら側が手札を開示するというのならば、曹操も相応の態度で臨む覚悟だった。 元々がすでに女帝さながらの貫禄を示す曹操の美貌が、さらに凄味を帯び、怒りを一度鎮め、冷酷に監督官をみやるその双眸は、今や怜悧な刃を想わせる死神の鎌と化していた。
 
「………、ご納得いただけなければ、それは私の不能がいたす所。 この場で我が首、刎ねていただいても結構にございます」
 
「……、二言はないぞ?」
 
 残忍な瑠璃色の双眸で監督官を見据えたまま、曹操はゆっくりと冷淡に感情のない顔で、低く押さえた声で問うた。 これまで怒気の類しか見せなかった曹操の眼差しからすれば、それはあまりにも陰惨で、空恐ろしいものだった。
 
「はッ。 では、説明させていただきますが………。」
 
 言いさして、監督官は一度だけ深く息を吐いてから続けた。
 
「まず一つ目。 曹操さまは慎重なお方ゆえ、必ずご自分の目で糧食の最終確認をなさいます。 そこで問題があれば、こうして責任者を呼ぶはず。 行き倒れにはなりません」
 
「ば………ッ! 馬鹿にしているの!? 春蘭!」
 
「はッ!」
 
 監督官のあまりにも人を小馬鹿にした発言に、持ち前の高貴な矜持と誇りがあいまって、いま曹操の激情の程は、言葉を詰まらせるほどの有様だった。
 
「ま、待ってください! あと二つ理由が残っていますから、それを聞いてからでも遅くはないかと………。」
 
「姜維の言うとおりかと。 それに華琳様、先ほどの約束は………。」
 
 姜維と夏侯淵の諫言に、沸き上がる怒りを胸に鎮めて、曹操は重ねて問う。
 
「―――、そうだったわね。 で、次は何?」
 
「次に二つ目。 糧食が少なければ身軽になり、輸送部隊の行軍速度も上がります。 よって、討伐行全体にかかる時間は、大幅に短縮できるでしょう」
 
 夏侯惇はしばし無言のまま、監督官の言葉を吟味するかのように、虚空に視線を彷徨わせた。 それから傍に居た夏侯淵を見つめて、曹操の邪魔にならぬよう小声で問うた。
 
「なぁ、秋蘭」
 
「どうした姉者。 そんな難しい顔をして」
 
「行軍速度が早くなっても、移動する時間が短くなるだけではないのか? 討伐にかかる時間までは半分にはならない……、よな?」
 
「………、ならないぞ」
 
 夏侯淵は小さく息を吐いてから答えると、夏侯惇は己の答えに間違えがなかったことを安堵しつつ、それから確信も新たに結論づけた。
 
「良かった。 私の頭が悪くなったのかと思ったぞ」
 
「…………。」
 
「…………………。」
 
 徐晃と姜維は、まるで野原で蝶や花と戯れる少女を眺めるかの如く、静粛をもって夏侯惇の言葉を受け止めた。 そして、ひとくさり夏侯惇を暖かい眼差しで眺めた後で、徐晃は彼女の言葉を引き継ぐ形で別の疑問点を口にした。
 
「しかし、荷を軽くすればその分だけ、焦りを生むことにならないだろうか?」
 
「あ、それは私も気になりますね」
 
 そもそも、今回の討伐に従属する兵の数は三千を超える。 それだけの軍勢を支える輜重隊の数を大幅に減らすということになれば、なるほど、確かに行軍速度は上昇するだろう。 しかし、在るべきはずの物を削るのだから、それは心の余裕を削ることにも等しい。 あってはならない事だが、もし、万が一不測の事態に陥ったとき兵たちは、目標を達成することもなく総崩れで終わってしまうだろう。 それは、徐晃が予想する最悪の一歩手前と考えている。 その不安要素を、目の前の監督官は如何にして取り除くのか。 相手の真意を計りかねるものの、徐晃たちは監督官が上げる最後の理由に耳を傾けた。
 
「三つ目ですが………、私の提案する作戦を採れば、戦闘時間はさらに短くなるでしょう。 よって、この糧食の量で十分だと判断いたしました」
 
 誰もが想像し得なかった答えだった。 姜維は、思わず目を見開き、開いた口もそのままに、曹操と監督官を交互に見つめるしかできないでいる。 徐晃に至っては、はじめそれがあまりにも質の悪い冗談としか思えず、理解するのにさえ二呼吸もする時間を要した。
 
「曹操さま! どうかこの荀彧めを、曹操さまを勝利に導く軍師として、麾下にお加え下さいませ!」
 
「―――――――へぇ?」
 
「な………ッ!?」
 
「何と………。」
 
 誰もが瞠目して声を失う中、しかし曹操だけは真顔のままである。
 
「どうか! どうか! 曹操さま!」
 
 必死に己の存在を曹操に印象付けようとする監督官―――荀彧の声は、もはや泣訴に近かった。 軍事において最重要とも言える兵站を蔑ろにするほどの理由がこれでは、あまりにもお粗末で拙い。 その程度の理由で曹操を煩わせるなどとなれば、首の一つは覚悟しなければならない。 だが、荀彧はそれでもなお曹操との会合を望んだ。 そう、とどのつまり荀彧が曹操と出会った時点で彼女の策は八割方完成していたも同然だったのだ。
 
「………、荀彧。 あなたの真名は?」
 
「桂花にございます」

 曹操の眉根に皺がよる。 憎々しげに顔を歪めるのは、不埒な策略に気がついたが故のものか、烔、と鋭い眼差しが荀彧を射抜く。 今後、生半可な問答をするのなら今度こそ首を刎ねるという無言の警告を込めて。
 
「桂花。 貴女………、この曹操を試したわね?」

「はい」
 
 荀彧は微塵も揺らぐことなく、真っ向から曹操を見据え答えた。 もしここで荀彧が目を逸らすか、震え上がるか、返答に声を詰まらせていたのなら、荀彧の首と胴は泣き別れていたことだろう。 残忍な色に染まった双眸に見つめられてなお、恐怖に身を凍えさせることのない揺るがぬ胆力は、天晴れというほかない。 だが、そんな荀彧の言葉を聴いて夏侯惇は、怒気に顔を歪ませる。
 
「な………ッ! 貴様、何をいけしゃあしゃあと………、華琳さま!このような無礼な輩、即刻首を刎ねてしまいましょう!」
 
 そう怒声を放った夏侯惇の凄味は、普段の威圧的な風格が倍化するほどだった。
 
「あなたは黙っていなさい! 私の運命を決めていいのは、曹操さまだけよ!」
 
「ぐ…………ッ!」
 
 あまりにもきっぱりと断言され、夏侯惇は怒りを向ける矛先を失った。 言い返したい言葉はいくらでもあった。 だが、荀彧の言葉にも一理あることを夏侯惇は悟った。 この女もまた武人なのだ。 片手剣さえ持てそうもない華奢な体躯であるが、それでもその心に唯一無二の主を据え、その身に背負ったのならば、それは形こそ違えど夏侯惇も知る武士のそれだ。 ならば、荀彧の進む道を穢していいわけがない。 それが曹操にまつわる事柄が絡んでいるのであれば尚のことである。 それは自らの憤怒すら保留にできるほど、荀彧の背負う覚悟のほどを夏侯惇は重く受け止めたからにほかならない。
 
「桂花。 軍師としての経験は?」

「はっ。 ここに来るまでは、南皮で軍師をしておりました」

「………、そう」

 気のない様子で嘆息する曹操の様子に、徐晃はしばし考え込んでから小声で夏侯淵に話しかけた。
 
「南皮といえばたしか……、袁紹の本拠地でしたな?」
 
「そうだ。 華琳様と袁紹は昔からの腐れ縁でな……」
 
「なるほど………、だから曹操殿も何か感じ入るところがある、と」
 
「そういうことだ」
 
 世に名高い四世三公の名門袁家と聞けば、威勢良く幅を利かせる大概の輩はことごとく顔色を失う。 漢王朝にその歴史を刻み、今なお大陸全土にその名を轟かす名門中の名門である。 しかし、だからこそか、徐晃の心中に疑念が沸き起こる。
 
「袁家は名門……、ですな……?」
 
「そうだな」
 
「そこの軍師ともなれば、待遇は破格のものでしょう………。」
 
「………、だろうな」

 思案顔で顎を摩りながら、徐晃は疑問に思う大元を口にする。

「ではなぜ荀彧殿のは、その好条件を蹴ってまで曹操殿の元へ?」
 
「は? 言うに事欠いてそれ? これだから損得勘定でしか物をみれない、下種で野蛮な男は嫌なのよ」
 
 決して大きな声ではなかったはずだが、荀彧の耳には聞こえたらしい。 あからさまに見下しきった、侮蔑の眼差しとさえいえる視線を徐晃に向けて、荀彧は冷ややかに鼻で嗤った。
 
「むぅ………。」
 
 まさか自分の言葉の返答に、ここまで高飛車な物言いをされるとは予想外だった徐晃は、いささか毒気を抜かれたかのように困惑顔で顎の下を掻いた。
 
「いいこと、私が曹操さまにお仕えしよう思ったのは、曹操さまが天を取る器であると確信したからよ!」
 
「ふむ………。」
 
「解ってない、て顔ね。 ま、あんたみたいな脳みそまで筋肉で出来ていそうな熊男に、曹操さまの素晴らしさを百万言費やして語ったところで、理解できるわけないでしょうけど……。 というか、だいたい、なんであんたみたいな猿山の大将のような獣が、曹操さまのお傍に――――。」
 
「桂花、そこまでにしなさい」
 
 もはや侮辱と呼ぶには度のすぎる荀彧の言葉を、凛と、透き通る声が制止させる。 曹操だった。 彼女はいつの間にか己の獲物である大鎌を携え、荀彧を真っ直ぐに見据えていた。
 
「桂花………。 貴女は、いったい今、誰と話をしていると思っているのかしら?」
 
「そ、それは………、も、申し訳ございません曹操さま……。」
 
 たった今まで、徐晃を残飯に群がる野良犬でもみるような見下しきった視線でまくしたてていた荀彧が、曹操の一言で恥らうように目を伏せた後、あっさりと我を折った。 誰がどう見ても極端すぎる豹変だった。 だが、徐晃をちらりと一瞥した荀彧は鬼女の形相で、憎悪も露に、冷たい殺意を向けてくるのだから、その性根は逞しいもの、としか言いようがない。
 
「ま、いいでしょう。 貴女が私に取り入ろうとした理由も分かったことだし」
 
「そんな! 取り入ろうだなんて――――ッ!!」
 
 曹操の非情なその言葉に、荀彧は慌て、感情の高ぶるあまり、我を忘れかけるすんでところ自分を抑えた。 今ここで取り乱せば、曹操は躊躇なく呼吸するも同然に荀彧の首を刎ねることだろう。 荀彧の感情を抜きした冷酷な脳髄はそう見立て済ませている。 だが、それでは駄目なのだ。 荀彧とってこれは正真正銘、命を懸けた問答であり、その先にあるもの聞き届けるまでは死ねないのだ。 荀彧は治まらぬ動悸を煩わしくおもいつつも、彼女は思い詰めた固い眼差しで、曹操を見つめた。
 
「桂花。 私がこの世で嫌う事が二つあるの。 一つは嘘をつくこと、そして他人に試されるということ………。」
 
「はッ……。 そこをあえて試させていただきました」
 
 静かに見つめ返す曹操の眼差しに、荀彧は生唾を呑んで返答した。
 
「そう………。 全ては貴女の手のひらというわけ? ならば、こうなる事も貴女には分かっているということよね?」
 
 言い終わる前に、白刃が踊った。 艶やかな髪が宙を舞う。
 
「――――――、桂花。 本当に、振り下ろしていたら、どうするつもりだった?」
 
 その斬撃の見切りは、まさに紙一重。 曹操の大鎌の刃が切り裂いたのは、荀彧の僅かに翻った癖毛の先端だけだった。
  
「曹操さまのご気性からして、試されたのなら、必ず試し返すに違いないと思いましたので、避ける気など毛頭ありませんでした。 それに、私は軍師であって武官ではありませぬ。 あの状態から曹操さまの一撃を防ぐ術は、そもそもありませんでした」
 
「……………、なるほど。 本当に、手のひらの上だったわけか………。」
 
 曹操は一切の感情を欠いた声で、しばし荀彧を見つめたあと一度だけ厳かに頷いた。 そして―――。
 
「…………ふふっ。 あはははははははッ!」

「か、華琳さま?」

 曹操の哄笑が蒼天に迸る。 沸き立つ感情を抑えきれない。 戸惑う夏侯惇たちをよそに、曹操は止まらない笑いに総身を震わせる。 もはや自らの心を括っていた苛立ちさえもが甘く好ましい。 激情のあまり滲み出た涙を拭いつつ、曹操は愛おし気に荀彧を見つめた。
 
「最高よ、桂花。 私を二度も試す度胸とその知謀、気に入ったわ。 取り入る、などと言ったことも取り消しましょう。 貴女の才、私が天下を取るために存分に使わせてもらう事にする。 いいわね?」
 
「はッ!」
 
「ならまずは、この討伐行を成功させてみせなさい。 糧食は半分で良いと言ったのだから……、もし不足したならその失態、身をもって償ってもらうわよ?」

「御意に!」
 
 自分さえも手玉にとる神算鬼謀、それを気に入ったから登用する。 それが曹操の下した決定だった。 笑いに笑ったというのに、まだ腹の底に笑いの種が燻っているのか、曹操の頬に張り付いたまま残っていた。

「さぁ、行くわよ」
 
「はッ!」
 
 踵を返し、悠然と歩み去ってゆく曹操の背に、夏侯惇と夏侯淵が付き従う。 そして今この時より、新たにその背に付き従う者が一人増えた。 その新たな面子を加えた一団を徐晃は言葉もなく見送った。 やがてその姿が視野から消えうせ、吹き渡る風が、ずっと張り詰めいた戦場さながらの空気を流し去った後、徐晃は姜維とともに取り残された事に気が付いて、そこでようやく、すべてが終わったのだと理解し深々と溜息を吐いた。
 
「まるで嵐のようだったな……。」
 
「はい……。」
 
「これで、一層忙しくなりそうだな」
 
「…………、そうですね」
 
 普段であれば打てば響く答えを返すというのに、今回は憮然と答える姜維に、徐晃は小首を傾げて問うた。
 
「どうした、機嫌が悪いようだが?」
 
「……………私、あの人のこと好きになれそうにないです」
 
「ふむ?」
 
「荀彧さんのことです」
 
 愛らしい口元を露骨に尖らせた表情は見るからに不機嫌である。

「何故だ? あぁ………、まぁ………、少々厳しい物言いだが……、うん、まぁ別にどうというほどのことではないだろう?」
 
「仁様は……。」
 
 言葉に詰まってから、姜維は深呼吸をして気を鎮め、抑えた声で先を続けた。
 
「………いえ、仁様がそう仰るのであればいいです」
 
 姜維としては、意中の男性を貶されたことに憤懣やるかたないというのに、侮辱された本人が緊張感のない苦笑でいては、怒気を見せた方が馬鹿を見るのは歴然である。 姜維は諦観にも似た嘆息を吐いて、胸に溜まった怒気の嵩を萎ませた。 ここまで惚けた態度を取るのであれば、本人は本気で気にも留めていないのだろう。 ならば、これ以上突付いたとしても無意味なのだ。
 
「ふむ、そうか………。」
 
「はい」
 
「ところでクゥ、聞きたいことがあるのだが……。」
 
「なんでしょう?」
 
 徐晃は何やら言葉を選ぶかのようにして逡巡したあと、むぅ、と唸りながらまるで罪を白状する罪人のように姜維へと問いかけた。
 
「荀彧殿の曹操殿を見るあの視線………、俺の勘違いでなければ…、その、荀彧殿は曹操殿に恋をしているのか?」
 
「は?」
 
「あ、いや、何だ違うのか………。」
 
 何か慌てて取り繕うにかぶりを振る徐晃だったが、姜維が呆気に取られていたのは別のところにあった。 まさか徐晃の口から恋などという言葉を聴く日がこようとは、有り得るはずがない。 そう思っていただけに、姜維は動転した思考の渦から中々抜け出せきれないでいた。
 
「い、いえ……。 当たっている、と思いますよ?」
 
「おぉ、当たっていたか。 ふふん、どうやら俺の勘も捨てたものではないらしい」
 
「…………………。」
 
 徐晃のあまりにも突拍子もない言葉に断固として否定すればいいのか、姜維は呆れを通り越えて途方に暮れていた。
 
「恋の一念か……、ふむ、それもまた忠の形の一つか」
 
「は、はぁ………。」
 
 曖昧な生返事で苦笑を返す姜維だが、その胸中には口惜しさめいたものが沸々を湧き上がってくる。 なぜ目の前の朴念仁は他人の恋路を理解して、己に向けられた好意にはまったくの無頓着なのか。
 
「ふぅ………。」
 
 溜息を漏らす姜維は、もはや諦観の境地に達していた。 だが、むしろこれは良い傾向なのかもしれない。 他人の色恋に興味を向けるということは、その分だけ外堀を埋めにかかっていた成果が出ている、というこのなのだ。 ここで挫折してはいけない、千里の道も一歩から。 効果が僅かではあるが現れてきているのだ。 そう気を取り直して姜維は弱気の虫を振り払った。
 
「前向きに考えよう………。」
 
 誰に聞かれるでもなく姜維はそう呟いた。 






あとがき

最近、桂花の罵りボイスばかり聞いていたら、何だか変な気分に………。
どうもギネマム茶です。

今回は、予定通りツン100%猫耳軍師こと桂花さんの登場の回でした。
いやぁ……、あのツンツンぷりは、いいものですよね。 最後までデレない彼女に乾杯。

そして、これを見てくださっている皆様方には申し訳ない。
ほぼ原作通りの会話展開になってしまいました。 少しでも捻りを加えられれば良かったですが、私の技量不足ゆえの結果です。 なにとぞご容赦下さい。


さて、ここからは私事なのですが、おそらく次回か次々回をもってチラシ裏を卒業しようと思っております。
板の移動につきましては、その時にまた新たに報告いたします。
しかし、卒業は技量不足ゆえまだ早い、などという意見等ございましたら遠慮無くお願いします。
 
ではまた次回



[9154] 二十一話・「勇気」とは「怖さ」を知ることッ!「恐怖」を我が物とするこ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:44f88c43
Date: 2010/07/08 19:18
 結論から言って、賊の討伐事態は成功した。 だが、荀彧の用いた策が一事が万事すべてにおいて成功を収めたのかと、問われればその限りではなかった。 荀彧本人曰く、糧食を半分以下に抑えても十分に余裕を持たせてある、とのことだったが討伐行の道中で出会った許緒と名乗る少女に全てを狂わされる事となった。 食べる。 兎に角、許緒は食べに食べた。 曹操よりも小柄な体躯のいったい何処に物を詰め込んでいるのか、許緒は一回の食事で大人十人前の食料を簡単に平らげた。
 
 そうやって許緒の胃袋は、荀彧の予想を上回る早さで糧食を食べつくしていった。 とりわけ、帰還途中の糧食不足は深刻で、一時期は全兵士への食料分配が困難な状態にまで陥ったほどだ。 急場凌ぎの再分配でとりあえず事なきを得たものの、曹操の拠点である陳留を目前にして、ついに食料が枯渇してしまった。
 
 それは曹操と荀彧との間で交わした約束を反故したことを意味する。 ならば、荀彧は首を刎ねられたのか、と聞かれれば、実はそうはなってはいなかった。 討伐行に要した時間、兵の消耗の少なさは、曹操にしても予想以上のものだったらしい。 その結果、はたして荀彧は軍師としての地位を手に入れ、そしてそれに伴い、武官・文官問わず主要な人物たちもまた荀彧を曹操軍の筆頭軍師として認めたのだ。 無論、曹操から厳しい仕置きを受けた後でのこと、だが。 
 
 軍師としての地位を確立し、軍事を一手に引き受けた荀彧の見立てでは、もはや大陸全土で決起する農民の反乱に、官軍だけで対応が追いつくのは、あと数ヶ月もないという。 曹操からしてみれば、それは必要にして充分な期間らしい。 もはや王朝に寄せる民たちの希望はなく、新たな時代の幕開けを望んでいる。 ふとした拍子に、火種に火が点けば明日にでも戦いの火蓋は切って落とされるかもしれない。 現在の兵糧と兵数から鑑みるに、対処できる敵の数は一万前後。 大規模な暴動が起こるまでには充分な兵を用意できる期間である。
 
 だが、今の曹操を初めとし、荀彧、夏侯淵、姜維が頭を悩ませているのは、その後のことである。 すなわち、漢王朝に権威無しと見做した諸勢力たちによる群雄割拠の時代である。 当然、その際の兵站への負担は今の比ではない。 最悪の場合、覇道を歩まずして他勢力に食い潰される可能性も十分に考えられる。 曹操たちが戦わなければならないのは反乱を引き起こす者たちだけではない。 むしろ最大の敵というべきは、いずれの雄飛のため身を潜ませている臥龍にある。
 
 その日もいよいよ膨れ上がりが顕著になってきた賊の討伐へ赴いた夏侯惇の代行として、練兵を行ったあと徐晃は、昼食を摂ろうと廊下を歩いていた先で後ろから声をかけられた。
 
「おーい、おじちゃ………、じゃなかった。 兄ちゃーん」
 
「………………。」
 
 出会い頭の一言がほんの僅かに徐晃の胸を痛ませる。 言い直してくれる心遣いは嬉しいのだが、まだ若いと自負している身としては、うら若い少女から小父さん扱いされるのは辛かった。
 
「どうした、季衣?」
 
「なんでもないよー? 兄ちゃんが前を歩いていたから声をかけただけ」
 
「そうか……。」
 
 曹操よりも背の低い体躯である許緒――――季衣は、小走りで近づいてくると、ほとんど真上を見上げるに近い形で徐晃を見やる。 まるで仔犬のような無邪気な瞳で見つめられて、徐晃は沈鬱な気持ちになる。 今は、曹操の親衛隊隊長として曹操の傍に付き従う立場にある季衣であるが、彼女は元々、少しばかり力持ちの村娘でしかないのだ。 確かに季衣の武の才能は天賦のものであった。 その点では、たとえ力に覚えのある武将であっても及びもつかぬほどに優秀だった。 しかし、あくまでそれは武人としてみた場合である。
 
「季衣も今から昼食か?」
 
「うん! そうだよー。」
 
「なら、一緒に食べるか?」
 
「うん、いいよー。 ボクもうお腹ぺこぺこだよ………。」
 
 子供の精神とはどこまでも未熟である。 子供たちは世の多くを知らぬが故に、些細なことで笑い、怒り、泣くことが出来る。 だが裏を返せば、それはまだ充分に精神が育っていない事を意味する。 それ故に、極限の状態を強いられる状態になったとき、子供たちは大人よりも容易に、自らの心を壊してしまうことになる。
 
 無法と化しつつあるこの世で、季衣はたった一人、自分の村を護り続けたという。 それはどれほど苛烈な日々であったことか。 餓狼の群れとなって襲い来る野盗に怯える村人たちを護り抜いた少女。 本来彼らを護るべきはずの役目を負った者たちは、早々と逃げ出し、その事実に季衣は怒りの感情を植え付け、新たに襲いくる賊へとぶつけられる。 そんな激しくも痛ましい命運を、こんなにも華奢な少女が、曹操が見出すまで背負っていたという事実は、徐晃の心に重くのしかかる。 季衣の受難は、まぎれもなく官軍の、それに属する曹操の、その部将である徐晃に責任の一端があるのだ。
 
「そうか、ならしかっりと食べておかないとな」
 
「そうだね、昼ご飯を食べたら華琳さまとクウと一緒に視察に出かけるから頑張らないと!」
 
 そう無邪気に笑いかけてくれることが、徐晃にとってささやかな救いだった。 心を閉ざすことなく笑顔であれるのは、無論、季衣の強い意志があってこそだ。 季衣の固い信念と覚悟は、年端のいかぬ少女には耐え難い苦痛にも抗い、精一杯の力をもって村を護り、そしてそれ以上の人たちを守ろうと季衣は、残酷で非情な世に対し、意志の力で立ち向かおうとする。 その気高い心がどうか穢れることがないことを徐晃は痛切に、心から祈願した。
 
「ほう、視察か」
 
「えっと、ね。 華琳さまが統治する土地が増えたから開墾できそうな土地をみておくって、クウが言ってたよ」
 
「そうか……、クゥも頑張っているのだな……。」
 
 季衣の住まう村周辺を統治していた太守が、盗賊の群れに恐れを成し、私財を持って逃げ出したあと、空白地帯となった土地を管理することとなったのが曹操だった。 逃げ出した者の任を引き継ぐにあたり、村々の有力者との多少の軋轢も予想されたが、陳留の良政を噂に聞いていたのか、現地の者たちは諸手を上げて曹操を歓迎したは徐晃の記憶にも新しい。 それに伴っての飢民への救済など、曹操麾下の頭脳たちへの負担が増したとこは言うまでもないことだ。
 
「そうだよ、この前も春蘭さまと一緒に稽古した時も、あとちょっとで負けちゃったけど、ほとんど互角ぐらい……、だったかなぁ。 それにね、桂花と碁を打ってたときは、ボクには解んなかったけど、華琳さまが良い物を見たって褒めてたから凄い頭も良いんだよ、きっと…………。」
 
 そこで一度言葉を切ると、季衣はまるで我が事のようにその小さな胸を張って続きを口にする。
 
「でもね、兄ちゃん、ボク知ってるんだ。 クウって凄く負けず嫌いなんだよ」
 
「ふむ………。」
 
「でね、春蘭さまに負けた後なんて、誰にも見つからないように一人でずっと、日が暮れても槍を振ってたりする頑張り屋さんなんだ」
 
「そうか、季衣はクゥのそんなところも知っているのか……。」
 
 徐晃は季衣の前で膝をつき、優しげに瞳を細めると、厳つい掌でぐりぐりと季衣の頭を撫でてやった。 しかし季衣は徐晃の行動に戸惑いながらも、何を勘違いしたのか、慌てた様子で言葉の穂を接いだ。
 
「ご、ごめんなさい! 別に覗くつもりじゃなかったんだ。 ご飯の時間になってもクウが来なかったから、心配になって探してたら見つけちゃって………。」
 
「ははは、別にそれを咎めるつもりはない」
 
「本当に?」
 
 涼しげに笑いながらそう答える徐晃の顔を、季衣はその真偽を確かめるかのように覗き込んだ。
 
「あぁ、無論だ。 むしろクゥが無茶をして身体を壊すことがないよう、見張っていてくれ。 季衣が危険だと感じたのであれば殴ってでも止めてもらって構わんよ」
 
「うっ……、殴るのはどうかと思うけど……。 分かったよ、クウが身体を壊さないように見張ってるね」
 
「そうしてくれると助かる。 俺よりも季衣の方が歳も近いからな、クゥも色々と受け入れやすいだろう」
 
 会話が一段落した頃合を見計らって、徐晃は季衣から手を離した。 季衣もされるがままの状態から開放され、若干頭を強く揺すられた為か、やや視界がぐらつくものの神妙な面持ちで、徐晃の言葉に頷いた。
 
「兄ちゃんも、クウのことが心配なんだね」
 
「まぁ……、な」
 
 徐晃は頷く変わりに、曖昧に肩を竦めてみせた。
 
「しかし。 それはクゥには内緒だぞ?」
 
「えー、どうして?」
 
「それも内緒だ」
 
 眩し過ぎるほどに純真な季衣の問いかけてくる瞳に、徐晃は黙したまま意地の悪い笑みを投げかけるだけだった。 眼前の少女の前では、決して明かさない胸の内を、こうも易々と吐露してしまう。 それは姜維への信とも、曹操への忠とも違う、依存の感覚。 徐晃が懐くこの感情は、親が子に向けるそれに近いのかもしれない。
 
「先に言っておくが、これは季衣しか知らぬ内緒の話だ。 だから、他の誰かに漏れれば直ぐにわかるぞ」
 
「むぅぅ……。 分かったよ、内緒にしておくよ」
 
 納得はしていない、という顔でとぼとぼと先を歩き始める季衣の後ろで徐晃は苦笑してそれを見届けてから、後に続いた。 徐晃の周りには、こういう歳相応の反応を返してくれる者は皆無といってよく、大人気ないと解ってはいても、ついつい季衣をからかいたくなってしまうのが最近の徐晃の癖だった。 今ならば、曹操が夏侯惇や夏侯淵、それに荀彧らをからかって楽しむ気持ちが良く分かる。
 
「クゥも季衣も歳相応に育って欲しいのだが………。 時勢、かぁ……。」
 
 醒めきった声音が、ぽつりと廊下に人知れず響いた。 時代が時代であれば姜維も季衣もまだ親元で育っていてもおかしくない年頃だ。 むしろ異常なのが、そんな年端もいかぬ少女達が血と埃と錆びで煙る鉄火場に駆り出される今の情勢にある。 彼女たちがこのまま年齢を重ねたとき、いま起こっている出来事はきっと永く尾を引くことになるだろう。 だがせめて、それが仲間と共にあることで癒えるものであってほしい。 彼女たちが自分の身の上を不遇と思わないほどに、幸多くあってほしい。 そう願うのは徐晃の身勝手でしかない。 だが、その想いが胸を穿つとき、その痛みは、紛れも無く徐晃という男の情愛の証でもあった。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 腹を空かせた兵士というのは、野盗と大差ないものだ。 奴らとの違いは相応の働きをしていさえすれば、寝床と食事、そして給金が手配されるということだろう。 無論、厳しい修練を潜り抜けて培われた鋼の精神があるかぎり、どのような劣悪な環境に立たされようとも、護るべき民草に牙を向けるような真似はしでかさない。 だが、こと食堂に限ってはその不文律も破られる。 食うか、食えないか。 厨房に備えられた食材にも限りがあるし、食事を摂っていられる時間にも限りがある。 その限定された不自由極まる条件を乗り越えた者だけが勝利の味を噛み締めることができる。 そして敗者となった負け犬は、無念そうに勝者を睨み付け、城下街の飯屋へと貨幣を握り締めて、すごすごと立ち去ってゆく、まさに戦場と変わらぬ摂理がここにはあるのだ。
 
「それで、何で私があんたなんかと同じ席で食事を摂らないとならないのよ!」
 
「それは季衣に言ってくれるとありがたい………。」
 
 戦場さながらの喧騒をみせる食堂の一角。 女性特有の甲高い癇癪声に、すわ何事かと振り返る兵士たちの様子など気にも留めない荀彧の怒りは、いま限界に達しようとしていた。 常日頃から愛しい人の為、粉骨砕身の想いで職務を真っ当していたのが功を奏したのか、敬愛してやまない曹操からお褒めの言葉を賜り、さらには今夜は閨の共までも仰せつかったのだ。 そのときの荀彧の心中は、さまに天にも昇る心地だった。 残りの仕事もそこそこに、意気揚々と昼食を摂りにきた荀彧だが、そこで注文待ちのため並んでいた季衣と出会い、今から座る場所を確保するよりも相席を、という話の流れとなったのだった。

「折角のいい気分がぶち壊しよ……、責任を取りなさい」
 
「そう言われても、なぁ………。」
 
「とりあえず、死んで頂戴。 私の見えない所で豚のように惨めに末期の悲鳴を上げながら、この世に生まれたことを詫びながら死になさい」

 荀彧は甚だ気に食わない。 こうもむさ苦しい筋肉達磨が曹操の近くに居るというだけで身の毛がよだつというのに、机を挟んで向かい合うほど間近にその獣臭さを嗅ぎ取らねばならないこの状況は、目の前の熊男を亡き者にでもしない限り荀彧の精神衛生は浄化されない。

「まぁ、そう怒るな桂花殿」
 
「私の真名を軽々しく口にするな! 今すぐ訂正なさい!」
 
「んぐ、んぐ………、うにゃ?」

 そして、百度殺めてなお許し難いことに、荀彧の神聖なる真名まで醜悪なる男の口から放たれるのだ。 逆上しかかった荀彧の様子は、一見、耳にも見える被り物と相俟って鬼女さながらの迫力を醸し出していた。 その視線を嫌でも独占している徐晃からすればたまったものではないのだが、荀彧を食事の同伴に誘った張本人は実に、何もしていない。 こうして徐晃が何とか荀彧を宥めようとしている今も、目の前の拉麺をずるずると胃袋の中に納めることに精を出していた。
 
「あれ? でも兄ちゃんは、華琳さまから桂花の真名を呼ぶことを許されてたよね?」
 
 横合いからそう口を挟んできたのは、よりにもよって、今し方まで拉麺を啜っていた季衣だった。
 
「む、季衣。 もういいのか?」
 
「ううん。 お代わり!」
 
「はは、そうか。 だが、ほどほどにしておけよ? このあと大事な視察があるのだろう?」
 
「大丈夫だよ兄ちゃん。 まだ半分もお腹に溜まってないから」
 
「そ、そうか………。」
 
 季衣の脇には既に、丼で言えば十杯は数える椀がうず高く積み上げられている。 そして新たに運ばれてきた拉麺を満面の笑みで啜る季衣の姿を苦笑して眺める徐晃。 その様子を桂花は、さも忌々しげに目を眇めると、胸に溜まった怒気を吐き出すかのように深々と溜息をついた。
 
「あのね季衣。 確かに華琳さまは、真名を教えあうようお命じになられたわ。 そのことを私は、とやかく言うつもりは無いの。 えぇ、そうよ。 華琳さまの命でなければ、こんな全身精液袋のような男に、神聖な真名を…………。」
 
「――――、桂花殿。 話が妙方向に脱線しているぞ」
 
「うるさい! あんたが仕切るな!」
 
 憎悪感も露にしながら、桂花は吐き捨てるように徐晃の合いの手を一蹴した。
 
「季衣。 いいこと、ここからが重要なの。 華琳さまは真名を教えあうようにお命じになられたけれど、許し合うかどうかまでは、お話になっていない。 つまり、私の真名をこいつが呼んでいい理由はないってことなの! 分かる!?」
 
「――――――、うにゃ?」

 そう桂花が熱弁を振るっても、ご馳走を目の前にした季衣は気の無い返事を返すだけで、理解した素振りはまったくなかった。
 
「あははは! それは詭弁の類ではないのか?」
 
「あんたは喋るな、息するな、真名で呼ぶな、この世から消えてなくなりなさい! 妊娠しちゃうでしょ!」
 
 双眸を紅蓮に燃やし、今度こそ桂花は怒気漲る咆哮を放った。 男という理由だけでこうも見事な嫌われようであれば徐晃としてもいっそ清々しいものである。 確かに今の桂花の様子では、何十年の歳月を要したとしても、決して徐晃に真名を許すということは有り得ない。 むしろ女性であったとしても、桂花の気位からすれば、神聖たる真名を許すことは彼女自身が『格』を認めた相手に対してしか許されることはないだろうし、ここで問答を繰り返したとしても、桂花が我を折ることはない。 この先徐晃が無理に真名で呼び続けたのなら、間違いなく桂花との関係を悪化させる結果をもたらすだろう。
 
「ふぅ………。 ではこうしよう荀彧殿」
  
 桂花の際限ない敵意に辟易した風に嘆息を漏らしながら、徐晃はのっそりと腕を組み、不意打ちのように唐突に話を切り出した。
 
「な、何よ?」

「荀彧殿は、俺がまだ真名を許すに値しない、とみているわけだ。 ならば、認められるだけの功績をあげた時、荀彧殿の真名を呼ぶのを許してもらえないだろうか?」
 
「は? なんでそうなるのよ。 あんたなんかに、私の真名を許すことなんて一生かかってもあるわけないじゃない!」
 
 始めはさも呆れた風の声音だったが、むしろ怒りの色は後からやってきた。 徐晃の人を食った提案は、桂花からすると想像するだけでも不愉快極まるものだったらしい。 桂花の容赦のない敵意の視線を向けられて、会心の妥協案だと思っていたばかりに徐晃はさも困窮したとばかりに、いかつい自身の拳をこめかみにぐりぐりと押し付けた。
 
「華琳殿への義理立てと思って、受けてはもらえまいか?」
 
「………、どういう意味よ?」
 
 なおもおもねるようにして申し出る徐晃の発言に、聞き捨てなら無いものを感じた桂花は低く抑える声ととも眉を上げた。
 
「荀彧殿の言うとおり、華琳殿は真名を教えあうように命じられた。 ここまではいいな?」
 
「えぇ……。」
 
「一般的に考えれば、真名を教えあったのならば、真名で呼び合うのが普通だ」
 
「だからといって、気に入らない相手に真名で呼ばせるほど、真名は安いものではないわ」
  
 徐晃の話を、だが桂花はけんもほろろに一蹴した。 しかし徐晃とて、それで萎縮する程度の人物ではない。 依然、涼やか、と呼ぶには程遠いが苦笑も混じった笑みを絶やさぬまま、微塵の動揺も見せてはいない。
 
「然り、だ。 だが、そこに"教えあった"という体裁があった以上は、曲がりなりにも真名を呼び合うだけの余地がある、ということだ」
 
「……………。」
 
「そして、その状況を作りだした人物は華琳殿なのだが…………。」
 
「……………、チッ。 はいはい! 分かったわ、分かったわよ! 華琳さまへの義理立てというのならば、仕方ないわ。 癪だけれど、あんたの提案を呑もうじゃない!」
 
「そうか、それは重畳……。」
 
 徐晃の言わんとすることを一足飛びで理解した桂花は、もはや話すことはないとばかりに、勢いよく立ち上がると、ずんずんと怒り任せに食堂から出ていってしまう。
 
「ねぇねぇ、兄ちゃん」
 
「む……。 どうした季衣?」
 
 徐晃が季衣の方へ目をやれば、都合、二十杯目を完食し終わったところだった。 その様子に徐晃は、もはや苦笑を通り越えて呆れの表情さえ浮かべている。 明らかに季衣の体積よりも食べた量のほうが多い。 にも関わらず、季衣の身体に目立った変化がないのはいったいどういう仕組みなのだろうか。
 
「さっきの話っていったいどういうことなの?」
 
「あぁ、それか……。」
 
 顎を摩りながら徐晃は、先ほどの話の内容をなるべく季衣が咀嚼して飲み込みやすいよう、どう噛み砕いて説明しようかと黙考する。
 
「………、ふむ。 俺は荀彧殿に認められていないからな……、だから認められるだけの功績を挙げたら荀彧殿の真名を呼んでいい、という約束を取り付けたんだ」
 
「えー!? 桂花ってば、兄ちゃんのこと認めてないの?!」
 
「はは、情けない話しだが、どうやら俺の頑張りが足りないようでな………。」
 
「そんなぁ……。 兄ちゃん凄っく頑張ってるのに………。 ボク、桂花に文句いってくる!」
 
 まだ幼いに季衣には桂花の行動が悪と映ったのだろう。 憤懣やるかたない季衣は机を勢いよく叩いて立ち上がると、瞳を怒りの色に染めて、食堂を出ていった桂花の後を追おうとする。
 
「まてまて、季衣。 これでいいんだ」
 
「なんでだよ、兄ちゃん!」
 
「認めていない相手に真名を呼ばせることを許すほど、真名は軽くはない。 そうだろう?」
 
「それは、そうだけど………。 だって………、兄ちゃんが……。」
 
「季衣の気持ちは嬉しい。 けれど筋を通さないといけないこともある。 たとえ、一度、真名を教えあうように命じられていても、だ」
 
 思わず声を荒げてしまった季衣に、徐晃はできるだけ声音を和らげて宥めるように語り掛ける。 今の季衣は、純粋な子供が正しいことをしたのに怒られたことを理不尽に思っているのと同じ心境にある。 無論、それは悪いことではなく、むしろ徐晃は美点と捉えているが、世の中は不純なことで溢れているのだ。 
 
 そもそも、真名を教えあうよう命じた曹操とて、桂花が曹操以外の者に真名を預けることを嫌がることなど充分に予見していたはずだ。 それはごく儀式的な、名目だけのことだったとしてもだ。 神聖な真名だからこそ、本人が呼ばせることを嫌がれば、此方としてもおいそれと呼ぶわけにはいかない。 だからこそ、真名を譲渡しあった者たちは、預かった真名の扱いに困るのだ。 今にして思えば、それは曹操からの、その時思いつく限り最大の嫌がらせだったのではなかろうか。
 
 命じられたとはいえ、曲がりなりにも真名を許しあった。 そういう体裁があった以上は、余程の理由がない限り真名で呼び合うこととなる。 曹操以外の者には冷たい態度しかみせない普段の桂花の姿からは想像もつかないだろうが、彼女は徹底した自戒の意思だけは人よりも抜きん出ていた。 誰よりも法に厳格であろうとするその自覚こそが、桂花を懊悩とさせる原因であり、曹操がそれを罠に嵌った兎を眺めるかの如く、持ち前の嗜虐味溢れる笑みで黙殺してきたのだった。
  
 しかし、悩める子羊と化した桂花に、救いの手が差し伸べられた。 その相手が徐晃だったというのは、桂花からみれば、まさに慮外であったことだろう。 真名を呼び合うのが嫌ならば、呼ばないだけの理由を作ってしまえばいい。 多少強引ではあったが、曹操への義理立て、という形で桂花を渋々とだが納得させれたのは、考えうる最大限の無難な着地点ではないかと徐晃は思っている。 無論、これ以上桂花に、癇癪を起こされては此方が参ってしまう、という理由を多分に含んだ提案ではあったが。
 
「むぅぅ……、兄ちゃんがそう言うならボクは何もいえないよ………。」
 
 まだ他人を疑うということを知らない季衣は、仕方なしとばかりに頷く。 大人とは、建前なしには動けない偏屈で穢い生き物なのだ。
 
「すまんな、季衣。 俺も早く皆に認められるよう努力する」
 
「あ、でもボクはもう兄ちゃんのこと認めてるから、真名で呼んでも大丈夫だよ?」
 
「ははは、そうかありがとう。 季衣も俺の真名を預けているからな、いつでも呼んで良いぞ?」
 
「うん! わかったよ、兄ちゃん」
 
 そう言って季衣は元気よく頷くが、本当に解っているのか判然としない。 とりあえず、季衣から小父さん呼ばわりされる事態だけは避けれそうなだけ、まだまし、というしかない。 そんな季衣との遣り取りに徐晃は、胸の中で苦笑を漏らす。
 
「それじゃあ、兄ちゃん。 ボク、華琳さまのところに行ってくるよ」
 
「張り切りすぎるなよ?」
 
「大丈夫だって! またねー兄ちゃん!」
 
 華琳たちとの任務を思い出したのか、季衣は別れの挨拶もそこそこに食堂の出入り口まで進むと、去り際に徐晃へ元気よく手を振ってそのまま走り去っていった。
 
「季衣は、良い子だな………。」
 
 まるで娘の成長を見守る父親のような笑みを浮かべる徐晃だったが、しかし遣り場のない無念さが、爪が掌を抉るまで拳を握り締めさせる。 なぜ、季衣のような純真な少女が軍事に関わらないといけないのか。 屈強たる鋼の肉体、流血の代行のため、無用な血を流さなぬよう、鍛えに鍛えた武芸であるはずなのに、なぜこんなにも若者たちが血を流して死んでいくのか。
 
 そのとき、天が割れんばかりの轟音が鳴り響き、徐晃は凝然と音源の方を睨み据えた。 遠雷のように鳴り響くそれは、敵襲を知らせる警鐘に他ならない。 はたして食堂で寛いでいた兵士たちは、まるで水飛沫を飛ばされた猫のように飛び上がり、各自の持ち場へと走り去って行くのは、事態が最悪の方向へ向かっていることに他ならなかった。
 
「……………、くそッ!」
 
 先ほどまで楽しげに語っていた季衣の笑顔が頭を過ぎり、徐晃はかぶりを振ってそれを打ち消した。 状況は寸刻みで悪化の一途を辿っている。 少しでも事態を緩和させたいのならば、今は自分のできることをやるしかない。 徐晃は踵を返し、地を踏むと、一気に廊下を駆け抜け曹操がいるであろう玉座の間へと向かった。






あとがき

キングクリムゾン!
『桂花のお仕置きシーンは無く!』
『季衣がいつの間にか参入したのかさえ認識しない!』
『結果』だけだ!!この作品には『結果』だけが残る!!
 
どうもギネマム茶です。

今回は、討伐行事態がテンプレート通りの展開になるので、思い切って省いてみました。
一応……、最低限の補完はできている……、とは思うのですがどうでしょうか?
あと、季衣の登場の回でもあり、桂花の真名封印の回でもありました。

私の勝手な妄想ですが、多分一刀君だったからこそ真名許されたのではなかろうか?
一刀君も天の御遣いというアドバンテージがあったからというのも大きいでしょうし。
と、まぁ。 そんな妄想の結果、封印とあいなりました。

さて、前回のあとがきで申し上げたのですが次回から、『その他』の掲示板に移動しようと思っています。
ですので、第22話からはその他版からお読みください。
皆様方には大変ご迷惑をおかけすることになってしまい、申し訳なく思いますがどうかご理解のほどよろしくお願いします。
 
ではまた次回からはその他の掲示板で



[9154] 二十二話・おれは誰かとコンビを組んではじめて実力を発揮するタイ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:44f88c43
Date: 2010/07/21 19:15
 徐晃は脚力にものをいわせた駆け足で、依然として混乱に満ちた城内を走りぬける。 目指すは玉座の間。 この騒動で一番頭を痛めているであろう城主とは、おそらくそこで出会うこととなる。 途中で何度か向かいから走り来る兵士とぶつかりそうにもなったが、相手も驚く暇こそあれば、壁側に寄り徐晃へ道を譲る。 徐晃も走りながらも謝意の言葉を口にするが、意識は既に日常のそれから戦意へと切り替わっている。
 
「すまんッ! 遅れたッ!」
 
 ついに廊下を駆け抜けて、重厚な扉を蹴破らんばかりの勢いで開け放つと、徐晃は自分がかなり出遅れていたことを知った。
 
「構わないわ。 いま、放った斥候の報告を待っているところよ」
 
 常人よりも背の高い徐晃よりも高みから呼びかけてくる声は、案の定、曹操のそれに間違いなかった。 頬杖をつきながら玉座より眼下を睥睨する様は、王と呼ぶに相応しい風格を醸し出しており、居並ぶ武将たちもまたそれに合わせて精悍だ。
 
「待機、か……。 歯痒いですな………。」
 
 討伐へと赴いている夏侯惇を抜きにした主要な面子が揃う中、曹操に促される形でその末席に加わる徐晃は、即座に行動に移れない事を歯噛みしながら、そうごちる。
 
「すぐにでも来るわ。 なにせ春蘭と秋蘭がてずから鍛え上げた…………、噂をすれば、何とやらね」
 
 ほどなくして、必要以上に巨大な扉が開け放たれると、静謐に満ちた空気を蹴散らすように、颯爽とした足取りで身に着けた重厚な武具が床を踏み鳴らし、居並ぶ武官たちの列を横切って、玉座に座る曹操の前で恭しく軍礼を取る兵士が一人。 その姿には、己に向けられる幾つの視線にも物怖じした様子はない。
 
「ここより西方、三里の地点にて大凡五千に及ぶ集団を発見! 皆、一様に黄色の頭巾を巻いていたことから、件の賊と推察します!」
 
「ふむ………。 他には?」
 
「はッ! ただ、その者たちは、動く気配を見せず何かを待っている様子でした」
 
「そう……。 それで、他に報告することはあるかしら?」
 
「いえ! ありません!」

「なら下がっていいわ、ありがとう」
 
 頬杖をついていた右手を水平に薙いで、兵士に退出するよう促すと曹操は一度目を閉じて思案に耽った。
 
「…………、桂花」
 
「は!」
 
「この展開、どうみる?」
 
 曹操の真横、唯一その場で他者を見下ろす位置にいることを許され、主の傍らに立つ桂花は、曹操の問いに、考えるまでもなく即答した。
 
「普通に考えるのでしたら、陽動、かと」
 
「そうね、普通に考えれば、ね………。」
 
 目を閉じたまま曹操は桂花の答えに満足げに頷く。 だが、その表情には僅かながら神妙な色に曇っていた。 むしろ、不穏なものを感じ取った、といってもいい。 桂花も曹操の表情に思うところがないわけでもないが、まずは自分の結論から口にしておいた。
 
「しかし、相手は元々が農民くずれの集団です。 戦術など望むべくもありません」
 
「けれど兵法に当て嵌めるなら、戦術紛いのような動きを実際にみせている………。 これはどう思うの?」
 
「………………、知恵、でしょうか? 我らや官軍を相手してきたが故に、場慣れしてきた……。」
 
「まさに生兵法ではあるけれど………。 奴らも必死、というわけね……。」
 
 そう呟いてから曹操はゆっくりと瞼を開ける。 そのとき瞳に宿していたのは、紛れもない静かな殺意の炎だった。 曹操としても、もちろん領地を荒らされ、愛する民たちの安寧が脅かされていることへの憤怒はある。 だが、一方では苦々しくも認めざるを得ない、と言い聞かせる冷徹な己もまたいた。 彼女とて一国の軍勢を率いる者である。 いま自分が冷静さを失うことは、即、多くの人が死ぬことを意味していることを十分すぎるほどに理解している。 その認識が、胸の中に蒸留された烈火の如く滾った怒りを静めるだけの冷却材となっていた。
 
「しかし、たとえ罠だったとしても、五千ともなれば捨て置けんよ」
 
 ここにきて、唐突に徐晃が割り込んだ。 今は曹操と桂花の問答の最中、徐晃の横槍は不遜とも受け止められるが、しかし、その言葉はここにいる武官全員の言葉を代弁したものでもある。
 
「そんなこと、あんたに言われなくても分かっているわ」
 
「では、どうすると?」
 
「それは華琳さまがお決めになることよ」
 
 すげない桂花の答えに肩を竦めて返すと、徐晃は曹操を仰ぎ見た。 その視線に曹操は不適な笑みを浮かべる。

「そうね……、桂花」
 
「は!」
 
「現状で動かせる兵の数はどれほどかしら?」
 
「凡そ、七千になります」
 
「七千、か………。 では―――――。」
 
 城内を震撼させたのは、そのときだった。
 
「急報ッ! 急報にございます!!」
 
 戦場の臭いを撒き散らし、扉が開け放たれるまでの間の時間さえ惜しい、とばかりに蝶番を軋ませるほどの勢いで一人の兵士が玉座の間へと転がり込んできた。 割れた扉の破片を散らしながら、何とか体勢を立て直し曹操の前へと跪く兵士の姿に、一同がぎょっと目を見開いた。 その姿は、今まさに一戦やらかしてきたような戦傷だらけで、無事な場所を探すほうが難しいほど兵士は満身創痍の有様だった。
 
「何事かッ!」
 
 ここには居ない姉に代わって、夏侯淵が兵士を問いただす。 その姉と同じく凛と透き通る声に、夏侯惇を重ねてみたのか、兵士は先ほどまでの動揺ぶりが嘘のように収まり、今更ではあったが略式の軍礼をとり、曹操をみて切り出した。
 
「ここより東に点在する村々を賊が襲撃! その数、凡そ一万!」
 
『なっ!』
 
 苦虫を噛み潰したかのような表情を作るものや、苦渋の面持ちの内側に憤りを隠すもの、兵士の言葉の続く反応は皆様々だった。 その中でも曹操は、一瞬で臨戦態勢に切り替わった刃の如き眼差しは、既に揺らぐこともなく、この危機的状況を報告してくれた兵士へと据えられていた。
 
「そう、今は情報が欲しいわ。 貴方以外にも見た者がいるのなら呼んできて頂戴」
 
「そ、それは………。」
 
「どうしたの?」
 
 兵士は、しばし口ごもるかのような様子を見せてから、やがて観念したかのように、沈鬱な面持ちでぽつりと漏らした。
 
「自分を残して、他の者たちは戦死しました………。」
 
 兵士の告白に、曹操は答えなかった。 項垂れる兵士を見据えたまま、一度だけ深く息を吸い込んでから、ゆっくりと時間をかけて肺に溜まった空気を吐き出した。 曹操にとって、配下の死を聞かされるという経験は、豊富すぎるほどに豊富である。 むしろ数の一つとして処理したくなるほど、日常的なものだった。 その経験から培われた直感は、ただ冷淡に、もはや言葉を交わすまでもなく、もうこの場では詰問も調査も一切必要ないと告げていた。
 
「そう………。 貴方だけでも生還できたことを私は嬉しく思うわ。 下がって身体を休めなさい」
 
「………、は」
 
 力のない返答を返す兵士は、萎れた双肩もそのままに、とぼとぼと玉座の間から退出してゆく。 その背を見送る者たちは、何も声をかけられずにいた。 玉座の間に集うものは多かれ少なかれ、退出して行った兵士と同じ気持ちを経験している。 その経験から、上辺だけの気休めの台詞は、口にした当人だけしか救われないことを、皆知っているからこそ、何も言わないのだった。 彼を本当の意味で救うということは、苦楽を共にし、同じ釜の飯を食べた仲間を黄泉の国から連れ戻すぐらいしかない。
 
「桂花」
 
 扉が閉まり、重々しい空気に語るべき言葉を失って、皆一様に沈黙する。 そんな停滞の中、静かに、ぞっとするほど静かに曹操は傍らに付きしたがっていた桂花を呼ばわった。
 
「は、はいッ!」
 
 抑揚の欠いた曹操の声音に、桂花は思わずたじろいだ。 かつて、己の知略を認めてもらう為に、曹操の逆鱗に意図的に触れたことすらある桂花が、だ。 いま曹操の矮躯から迸るのは、怒りに沸騰した闘気である。 そして軍神もかくたと見紛う威風を纏い、曹操は燃え盛る双眸をまだ見ぬ敵へと据えていた。
 
「現状で動かせる兵数は七千、これに間違いはないわね」
 
「はッ! 相違ございません!」
 
「それは、親衛隊を含めて?」
 
「いえ、彼らを含めますれば、あと二千は上乗せできます」
 
「そう………。」
 
 曹操は眉ひとつ動かさずに、頷いた。 もともと彼女の近衛兵であるだけに、桂花に問いかける意味は薄い。 ただ、確認での意味合いは強く、曹操の頭にある兵数と顔ぶれが増減していないことが、いまは重要なのだ。
 
「ならば………、万億!」
 
「ここに!」
 
「貴方に親衛隊、二千を預ける。 西方の地に居座る狼藉者を蹴散らしてきなさい!」
 
「御意!」
 
 曹操から真名で呼ばれた禿頭の剽悍な男―――李通は、下知を受けるや否や、即座に踵を返して玉座の間から出て行く。 その曹操の決定に異を唱えるものは誰もいない。 もとより曹操から真名で呼ばれ、惜しげもなく親衛隊を預かる者に対して異を唱えるような、底抜けの莫迦はこの場にいることすらかなわない。
 
「仁!」
 
「はッ!」
 
 矢継ぎ早に飛ぶ曹操の下知に、静かな闘気を総身に滾らせたまま、徐晃が一歩進み出る。

「貴方に兵を千、預けるわ。 それをもって万億の補佐に回りなさい」
 
「承った!」
 
 屈強な体躯が倍化したかと錯覚させるほどの気迫は、部屋中に漂っていた鬱屈な空気をすべて払い飛ばすかのようで、その気に中てられた者たちからは、このとき、ようやく微笑の兆しを顕するだけの心の余裕を取り戻すことができていた。
 
「秋蘭! 季衣! クゥ!」
 
『は!』
 
「秋蘭、貴女に五千の兵を預けるわ。 それで東方の我が領内で不届きを行う奴儕から、民草たちを救い出しなさい。 追って援軍を寄越すから、季衣とクゥは秋蘭の指示に従って、補佐に回りなさい。 いいこと、決して打って出る必要はない。 援軍が到着するまでのだけでいいの、村を民たちの生活の場を死守なさい!」
 
『御意!』
 
 するりと身を退いた時の三人は、兵士からの急報を耳に聞く前までとは別人のような威圧感があった。 いかな迷いに曇ることない鋭利に研ぎ上げ、磨き抜かれた剣のように、彼女たちは今、血が滾るほどの激情を静かに凍えさせ、逆鱗の気配だけを残り香に疾風と化して、戦地へ向けて駆け抜けて行った。
 
「桂花………。」
 
 主だった面々の悉くが退出していき、居並ぶ豪傑たちが放っていた華やきが欠け室内は、普段の空気に近いものへと戻りかけていた。 それでも尚、曹操がの動作が、呟く言葉が、空気を動かすだけで、まるで部屋の中に目では見えざる太陽があるかのような燦然とした輝きを取り戻す。
 
「半日だけ時間を与える。 その間に、どれだけの兵をかき集められるかしら?」
 
「それは……。」
 
 桂花は一度、言葉を区切ってから努めて冷静に熟考した。 彼女としては愛する主君の為ならば、いかなる命令でも全力で答えたいし、この危機的状況を打破したいという桂花自身の思いもある。 だが、一方で曹操の忠実なる僕としてではなく、政務に携わる者としての目から見た場合に、これ以上の徴兵は今後、何らかの形で曹操に悪影響を及ぼすことを容易に予見させた。 最悪いままで積み上げてきたものがここから瓦解し、反乱を引き起こす結果をもたらす可能性もある。
 
「二千、いえ、三千は用意してごらんにいれましょう」
 
 とはいえ目下のところ、現状をどうにかしないかぎり、先の話もなにも無いのだ。 むろん桂花とて最悪の展開にことが運ぶところをむざむざと見過ごすつもりは毛頭無い。 曹操本人ものちの民たちの動向を気にかけるだろう、だがそういう些末な部分を主よりも先んじて気を配り、修復しておくのが家臣の役割である、と桂花は思っている。
 
「そう、じゃあ宜しく頼むわ」
 
「はッ! 命に代えましても!」
 
「残りの者たちは、残った千をもって万が一に備えこの城を守り抜きなさい」
 
『御意!』
 
 曹操の下知を受けて、その場がら一斉に動き出した武官たちに呼応するかのように、再び城内が慌しく動き始めた。
 
「…………………。」
 
 そして、玉座の間に曹操だけが残るとなった途端に室内の輝きが翳り、まるでそこだけの空気が、静止したまま彼女を永遠に捕らえ続ける牢獄のように、普段の静謐さを通り越えてむしろ、殺風景な空気を醸し出し始めた。 曹操は、そんなことは既に承知しているのか、気にも留めない様子で、さきほどまで寛いでいた玉座を、そっと指先で触れる。
 
「……………。」
 
 再びその席に腰掛けるのかと思いきや、曹操はあっさりとその場を素通りし、そのまま玉座の背後へと回りこんでしまう。

「―――――、ぐ………。」
 
 ようやく独りとなれたところで、堪えきれぬ嗚咽が漏れた。 流れ落ちる雫が点々と床を濡らすのを、曹操は止められなかった。 身を潜めるには誂え向きのこの場所ならば、誰にも見咎められることは無い。 ここで彼女が仮面を被り続ける必要はない。 そう弁えた上で、少女はただ咽び泣いた。
 
「ごめん、なさい………。」
 
 慟哭に喉を詰まらせながらも、詫びずにはいられなかった。 誰に届くこともない声と知りつつ、少女は繰り返し懺悔した。 いつの日も、彼女は今日よりも明日が良い日であるよう身を削ってきた。 矜持に賭け、誇りに賭けて、そうであったはずだった。 精悍な兵士たち、整いつつある備品、有能な臣下たち。 十全足る力を持ち、それを正しく使ってきた。 そう信じていた。 にも拘わらず、彼女はこのような動乱に至る萌芽を見過ごした。
 
「ごめんなさい………、ごめんなさい…………。」
 
 だとすればこの惨状は、ただの不運などではなく、曹操という治者がもたらした必定の結末だったのだろう。 それは、言い訳など差し挟む余地など無い、華琳という少女の限界を意味していた。 いつの日か、戦乱の世に終止符をうつ時がくるだろう。 それは、今よりも、もっと大勢の人の命を礎として築かれた平和だ。 曹操自身か、はたまた別の誰かによって築かれることとなる。 その過程で負った心の傷は、消えることなく華琳を永遠に蝕み続けることだろう。 贖ないきれぬ罪に怯えながら。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「あと数ヶ月………、なんで大人しくできなかったのかなぁ……?」
 
 誰に聞かせるでもなく、風になびく毛もない禿頭を、陽光に反射させ李通は馬上の高みから、荒野の先を憐憫の眼差しで見つめていた。 その声音には、自問していたにも拘らず既に自答している風であった。 しかし、李通の謎めいた問いかけに、好奇心に負けたのか彼の副官が解答を求めて問うてきた。
 
「何が、あと数ヶ月なんです?」
 
「彼らの国が出来上がるまでの時間だよ」
 
 併走する副官を見やって李通は苦笑混じりに答えた。
 
「国………、ですか?」
 
「そうだよ。 彼らが焚きつけた戦火を免れているのは、涼州の一部と益州では蜀ぐらいだけ。 我らが華琳様の軍備拡張のおかげで増強された戦力なら、この騒ぎの収束も時間の問題だろうね。 そこから各領主たちとの外交交渉の詰めや、各地に飛び散るだろう残党との小競り合いをしてから、完全に、とまでは言わないけど一応の終結までおよそ数ヶ月。 逆にそれができない場合、漢王朝にもはや権威無しとなって、力を蓄えてきた諸勢力から新たな国が続々と誕生。 群雄割拠の時代に突入とあいなりました、というわけさ」
 
「………………。」

 長々と説明に喉が渇いたのか、李通は腰に携えていた竹筒を取り出し栓を抜くと中身を少しずつ空け始めた。 だが、そんな暢気な様子の李通とは打って変わって、副官は背筋に奔る悪寒を止めることができないでいた。 目の前の上官は、自分の生まれ育った国が滅びるという可能性を話すときでさえ、その口調は普段と変わらず軽々しい。 恐ろしくは思わないのだろうか。 なぜそこまで、飄々としていられるのだろうか。
 
「なら……、なぜ彼らは待たなかったんです?」
 
「―――――、彼らはね、今まで散々虐げられてきた。 血税を私腹に肥やし富を得ようとする県令。 賄賂や癒着ばかりの宦官。 民たちの味方だったはずの国家そのもの……。 どれも彼らを一切省みることをしない。 だから彼らは立ち上がった、怒りで振り上げた拳のぶつけどころが欲しいから………。 例えそれが、新たな彼らを生み出す結果となったとしても、もう誰にも止められないし、止まらない。 少しでも自分たちの痛みを思い知らせようとして、いまも僕らを邪魔している」

 深く息を吐いてそう締めくくる李通は何処でもない遠方を眺めた。 そんな李通を見て、おそらく自分は怒られているのだ、と副官は自覚した。 それでも不思議と気落ちはしなかった。 むしろ驚きのあまり手綱捌きを誤らないか、そちらの方に必死で意識が集中しすぎて
いたせいで、深くは気にならなかったのだ。 なにしろ李通が、こんなに饒舌になったのも初めてならば、真面目そのものな言葉を言うのも初めてだったのだから。

「ふむ………。 やれ茶だの、奥方だの、この二つしかないと思っていたが………、高尚な話だ」
 
「おや? 僕は普段から高尚だよ?」
 
 李通を前にして触れてはならない二つの単語を後方から投げかけてくる不届き者に、副官は怒鳴り散らそうかと決め、勢いよく振り返って―――――。
 
「じょ、徐晃将軍………。」
 
 李通たちの後方にいたのは、今回の討伐の同行者であり、別働隊の指揮官である徐晃だった。 これには、副官も大きなことを言えるはずもなく、あわや出かけた罵声を慌てて飲み込んで難を逃れた。 その代償に、蛙の唸り声のような呻きを李通と徐晃に聞かれてしまい、二人から忍び笑いを賜ったがそれでも不敬罪で、大人の男の身丈と同等の大きさの大斧で真っ二つに裂かれるよりは、よほどましである。
 
「ははは、華琳殿も一目置く茶に関しては認めよう」
 
「おやおや、どうやら信じては貰えないらしい………。 なら、折を見て僕の高尚さを教えてあげようじゃないか」
 
 副官の嫌な予感が的中した。 かつて腹いっぱいになるまで惚気話を食わされた苦い経験を持つにも係わらず、同じ蹉跌を踏む徐晃にそれみたことか、と目を眇めて見やった。 しかし、徐晃は何と肩を竦めて苦笑する余裕すら見せているではないか。
 
「それは、奥方に教えてやったほうがいい。 普段は見ぬ李通殿の姿を垣間見れば、大いに驚くことだろうよ」
 
「……………、中々魅力的じゃないか、それは試す価値が十分あるね」
 
 普段とは打って変わった皮肉を織り交ぜた徐晃の口調に、だが李通は本気とも冗談ともつかない真顔のまま唸りを上げ、何度も頷いた。
 
「試すのならやっぱり、お茶の話がいいかな?」
 
「李通殿は、奥方と普段何について話している?」
 
「お茶………、かな?」

「それでは普段通り過ぎて味気ない」
 
 傍目から見れば、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎる話の内容だが、李通本人からするとかなり重大なことらしい。 それに付き合う徐晃も大概ではあるが、その実、惚気話をたっぷりと食べさせられたときの再戦であったとは、副官もとても察してやれるものではなかった。
 
「いやはや……、困った困った。 お茶を取り上げられると、僕はただの小父さんになってしまう」
 
「………………。」
 
 さらには、飄々とした己の上官のこの態度である。 何故、自分の周りの有能な人物たちは揃いも揃って一癖も二癖もあるのか。 それは副官には知る由もないことではある。 しかし、逆説的にそういう者たちこそが、有能なのかもしれない。 ただ、そういう上官を持つ身の者としては、普通の性格で有能な人はいないものだろうか、この際多少偏屈でもいいから軍人らしい上官を持ってみたいと思ってしまうのは、果たして罪なのだろうか。
 
「あのぉ………、そろそろいいですか?」
 
 止めればいいのに、そうは思ってはいても声を変えずにはいられない己の体質を呪いつつ、副官は二人の会話へ強引に割り込んで入っていった。
 
「うん? どうしたんだい?」
 
「目標と接触する頃合です。 そろそろ準備に入っては如何でしょう?」
 
「………、そっか。 もうすぐか」
 
 李通は、これまでとは打って変わって静かな、どことなく冷淡さを匂わせる抑揚のない口調で、副官の視線を受け止めた。 それを見て、ようやく武人らしい顔つきになったか、と胸の中で嘆息を漏らす副官に、禿頭の上官は厳格かな真顔で前方を見据えた。
 
「じゃあ、これより行動を開始する。 目的は敵勢力の排除、及び敵大将の頸だ」
 
「は!」
 
「相手はこちらより手勢は多いけれど、こっちは最精鋭の親衛隊二千、それに加えて徐晃将軍が指揮する部隊だ。 そう気負うこともないさ。 流石に緊張するような面子じゃないと思うけれど、各部隊長にそれとなく言い含めておいてくれ」
 
「御意!」
 
 響きの良い返答を聞いて、李通は微笑んだ。 その堂に入った人に安心感を与える笑みだけを見れば、実に隊を率いる者らしく、ともすれば副官でさえ騙されそうになる。 これで余計な混じり気がなければ言うこと無しなのだが、それは李通の副官に就任してから一週間であきらめた。 そう努めて意識から切り離しておかなければ、彼の副官など、とてもではないが務まらない。
 
「んん!?」
  
「な、何か?!」
 
 すわ何事か、と訪ねてみると李通は竹筒の中身に口をつけたまま、目を見開いていた。 その視線の先は前方。 ならば敵影が見えたのかと、険しい表情で前を見てみると。
 
「いや、今回は香り付けに花をいれてみたんけれど………、これはいい!」
 
 ご満悦の、実に晴れ晴れとした表情で竹筒を見つめる李通に、副官はがっくりと肩を落とす。 切に願った。 せめてほんの一時だけでいい。 戦場という限られた時間だけでいいから緊張感を保ってほしいと心の中で涙を流しながら、李通を見やった。 だが李通は、そんな副官の心情を斟酌した様子などまったく無く、竹筒の中身を満足気に飲み干すと、良くぞ耐えている副官を置き去りにして、楔形の陣形の先陣を目指し、跨る馬の横腹を蹴りそのまま疾駆してしまう。
 
「あぁ……。」
 
 中間管理職の哀愁を漂わせながら、副官は呻いた。
 
「まぁ………、その……、励めよ」
 
 慰めの言葉をかけつつも、底意地の悪い笑みを浮かべる徐晃は、きっとこの空気を楽しんでいる。 それを察知した副官は、拗ねる様にして徐晃に視線を送る。 一軍人とはいえ、子供のような稚気を残す李通を上官に持ってしまっては、そこまで徹底した慎みは望めない。 むしろそれが、李通の部隊の特色のようにも見えるのだから、それはそれで実に稀有な上官と部下の間柄と言えよう。
 
「そう拗ねるな。 それよりも早く李通殿の傍にいってやれ」
 
「え………?」
 
「自ら先陣を切って、敵陣を切り裂く気でいるぞ」
 
「え―――。」
 
 呆然と呟く副官など意にも介さぬかのように、徐晃は人が変わったかのような、凄愴な笑みを浮かべて、李通がいるであろう先陣を見据えている。 徐晃の放つ威圧と、その緊張に張り詰めた大気を敏感に察した副官は、生唾を飲み込んだ。 まるで猛禽が遥か上空から獲物を観察するかの如く、その鋭い瞳は驚くほど事細かに部隊全体を把握している。 これが、曹孟徳から真名を許された者の素顔か。 
 
「まぁ、李通殿であれば、雑作もないことだろうさ……。 だが、君が居なければそれも十全ではない」
 
 そう何の気負いも無しに、徐晃は微笑んでみせた。
 
「え………? あ―――、ぅ―――。」
 
 こんなにも真っ向から、自分が必要なのだと言われる経験など、副官にはないことだった。 驚きや狼狽より、むしろ頬が赤くなるのを止められなかった。 茹で上がった蛸のように顔面を真っ赤にさせながら、何か言葉を吐こうと唇を振るわせる副官の様子を、だが徐晃はまったく斟酌しない。
 
「では、征くとするか」
 
 虎が低く喉を鳴らすような、獰猛で剣呑な唸りが徐晃の喉から漏れる。 だが唇の端を吊り上げた表情は笑みのようにも見えなくもない。 副官は、それがこの男の含み笑いなのだと理解した。
 
「ど、どこへ?」
 
「決まっているだろう。 李通殿の隣だ」
 
 豪快に笑って、徐晃はひょいと副官が跨る馬の手綱を奪い取ってしまうと、一気に駆け上がる。 心の準備も何も出来ていなかった副官の悲鳴は気にもとめず、疾駆する絶影は一直線に李通のもとへと大地を踏み鳴らし突進を始めた。






あとがき

この弱肉強食の『その他』掲示板に移動してみましたが、正直恐怖でちびりそうです。

どうもギネマム茶です。

今回は、覇王としての華琳様と普通の少女の華琳様との心の差、と茶狂いな李通将軍の回でした。
正直ここまで弱々しい華琳様だと、こんなの華琳様じゃねーとお叱りを受けそうなのですが……、どうかご容赦ください。
 
そして、自分で言うのも何なのですが、この副官………、女性だったら萌えません?
上司に振り回されて涙目になる女の子……、私はアリだと思うのです。
でも男の娘も捨てがたい………。
 
まぁ。そんなこんなですが、これからも何卒よろしくお願いします。
 
ではまた次回



[9154] 二十三話・MASSACLE (み な 殺 (ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:7e6a94c8
Date: 2010/07/30 17:35
 ついてる。 見渡す限り人の群れの中で、髭の男は胸の中でそうごちる。 いま五千余にも及ぶ大軍を馬上の高みから見下ろすその位置は、蠢く集団のど真ん中。 男が号令を一つかけるだけで、その集団は己の手足の延長線のように動く。 大集団の中で動かされるのではなく、動かす立場になって初めて分かる得もいえぬ快感は、性交とはまた別種の絶頂感がある。

「兄貴……、どうかしやした?」
 
 ほくそ笑む髭の男を見咎めて、彼の部下である小男がそう呼びかけてくる。
 
「なんでもねぇよ」

「そ、そうですかい………。」
 
 悦楽の余韻に浸っているところを邪魔されてか、髭の男の返事には棘が混じっていた。 ただそれも、その数泊の間を空けてしまえば、何度も辺りを見回しては、ふひひ、と悦に入った忍び笑いを漏らす有様で、小男の横槍など気にした様子などまったくなく、どうみても部隊を率いる将とてしの風格など欠片もない。 陽光に照らされ、磨きぬかれた輝く武具を纏った出で立ちこそ豪奢だが、伝法な口調といい、下卑た笑顔から滲み出る横柄さといい、胡乱な酒場で安酒を呷っていた方が余程様になる風体である。
 
 事実、その絶景を髭の男が今こうして我が物顔で恣にしている有様は、男にそれを率いる実力が備わっていたわけではなかった。 強いて言うのであれば、それはただ運が男に向いたからだった。 

 誰が呼び始めたのか、いま髭の男が属する集団は、黄色の布を頭に巻いてことから黄巾党と称されるようになった。 しかし、誰が知ろう、その母体となったのは、その実、弱者を幇助する地下の結社である侠の集団であったことを。 馬元義、張曼成、波才、羅厳と侠客の間では名の通った者たちが、組織の基盤を固め作り上げてきた誇り高き集団であったはずだった。
 
 しかしそんな肩書きの威勢も過日のもの。 彼らがどれほど好漢侠客の風を吹かせようとも、それを覆い隠す血に飢えた亡者たちの群れが、"義"も"仁"も貶めにかかる。 今日生きるだけの糧を手に入れることさえ困難な今の時勢において、義侠の精神に固執する者たちの頑迷さは、ただ今だけを生きるだけの亡者たちからすれば、物笑いの種でしかあるまい。 だが同様に侠者たちもまた、人と獣の境界線を脅かして憚らない手合いには、どうあっても相容れない。
 
 しかし哀しいかな、いかに人の世に徳と義があろうとも、悪鬼の業に人は抗せず、壮士は去りて還らず、義侠の志は潰え、残る者は化生の本性を隠した羅刹の集団だった。 それゆえ、一方はせめて最小限の己の守るものだけのために動き。 もう一方は、枷を解かれた獣の如く猛り狂い外道を行う。
 
 そして、亡者たちの手中に堕ちた黄巾党は、顔ぶれを一新した大方師たちによって髭の男は、一万余を預かる将に据えられたのだった。 いうなれば、男は大方師たちにとって都合のいい駒である。 しかし、髭の男も鼻の利く小悪党。 大方師たちの目論見は薄々勘付いてはいた。 それに甘んじて走狗にとなっているのも現状が、男にとって旨味があるものであったからだった。
 
「しかし解せねぇ………。」
 
 つい先ほどまで、にやつき顔だった男が出し抜けに憮然とそう呟いた。

「は? 何がでやす?」
 
「なんでもねぇ………。」
 
 荒野の先を見ながら返事を返す男は、心ここにあらずの態である。 小悪党である男は、かつて何人たりとも想像しえなかった漢王朝の打倒という兆しが見え始めた今、大方師たちが自分にその中心部を預けた不可解さに首を傾げていた。 陳留といえば、洛陽とは目と鼻の先である。 言うなれば、この地を落とすことは洛陽で胡坐をかいている宦官の、その先の帝の喉元に刃を突きつけるのと同じことなのだ。 それをいち早く察知した髭の男は、一蹴されることを覚悟で大方師たちに陳留の攻略を進言したのだが、不思議とあっさりそれが通った。 このまま陳留の攻略が成功し、洛陽の陥落まで至れば、そのときの男の功績は計り知れない。 後の歴史にその名を刻み込むことだって夢ではないのだ。 名利に憑かれた大方師たちであれば、それぐらいのことは分かりそうなものなのだが、果たしてその腹の内はどこにあるのか。 まさかとは思うが、何も考えていない、ということはないだろう。 

「やだやだ、考えたくもねぇ………。」
 
 男は小悪党だ。 英傑でも、武人でもない。 己の弱さを自覚して、強い者とは正面からは争わない臆病者だ。 本来であれば、こんな余計な事を考えること自体が無縁であったはずなのだ。 だがそれも、捨て駒とは言え大勢の命を背負い込まされてしまったが故に、策などと賢しいことまで気を回さなければならない始末。
 
「やっぱ、ついてねぇかも………。」
 
 部下の命。 男の人生に決して紛れ込むはずのなかった不純物。 喪ってもかまわない。 痛みさえ感じることすらない。 その程度のものであったからこそ髭の男は、自由気ままに生きてこれたのだろう。 それがいつから変わってしまったのか。 ただ男にとって甘い蜜を吸っていられる都合の良い場所の中から生まれ出てしまったお荷物たち。
 
「はぁ……、逃げ出してぇなぁ……。」
 
 男の小動物めいた直感は、ここが自分にとっての分水嶺になると告げている。 今ここで何もかも抛り投げて逃げ出せば、また過日のように自由に生きていけるのだ、と虚しい希望を自分自身に信じ込ませる。
 
「チッ! でも、遅ぇよな……。」
 
 男は捨て鉢気味にそう漏らす。 彼とて、判ってはいるのだ。 その選択肢はとうの昔に喪われているのだという事実を。
 
「あ、兄貴!」
 
「あ? ……………、あぁ」

 酷く狼狽した様子で傍らに付き従う小男が、髭の男を呼ばわる。 その血相をみただけで、男は状況を察したのだろう、無言のまま視線を前方へとみやれば、遥か彼方より、砂塵を巻き上げて迫り来る軍勢があった。 無論それは味方などではなく、この地帯を治める者の私兵たちである。 襲来するより以前から、その強壮さだけは風の便りに聞いている。 陳留の刺史が変わって以来、瞬く間に男のような存在が住めない場所となってしまった、と。 その原動力となった兵士たちと予想よりもはるかに早く、ぶつかることとなった。 目を凝らせば、不吉にはためく『曹』の一文字。 それは、正義も大義も向こうにあることを示すかのように、染め抜かれた蒼は、まるで蒼天を旗の中に閉じ込めたかのように鮮やかに荒野に映えた。

「……………、中央を厚くしておけ」

「へ、へい!」
 
 数の不利など物ともせず、中央突破を意識した鏃形の陣形に、髭の男は敵騎兵の足を止めるべく陣に厚みを持たせる。 歩兵と騎馬との破壊力の差は歴然ではあるが、幾重にも折り重なってできた総勢五千の肉の壁では、果たして男の元まで届くかどうか。 よしんば、届いたとしても満身創痍の騎兵が数騎、それが限界だろう。 後は、兵を呼び寄せてその密度をもってすれば、即座に討ち取れる。
 
「たかだか二千かそこらで………、ご苦労なこったな」
 
 嘲笑うかのように迫りくる敵兵を見据えながら、じわりじわりと陣の厚みを変えてゆく人の群れ。 相手方の指揮官がまともであれば、陣形のひとつでも変えてくるかと思ったが、それこそ此方が守りを固めるのを幸いとばかりに勢い付いて男たちに向かって襲い掛かってくる。
 
『―――――ウォオオオオオッ!!』

 巻き上げられた砂塵の向こう側から大地に轟く鬨の声が、蒼天の彼方へと突き抜けてゆく。 蜃気楼のように揺らめく朧な騎影に少しずつ色が染み込みだしたとき、髭の男は驚愕に目を見開いた。
 
「はは、ははは……。」

 蠢く人の群れの喧騒の中、憎悪に瞳を血走らせて、髭の男は笑いを漏らした。 その屈強なる体躯と精悍なる顔立ち。 涼しげに口元を吊り上げた微笑。 骨で出来た百合を彷彿とさせる冷たく乾いた蒼白の装飾は疑いようもなく同じであった。 過日、屈辱の敗走へと追いやってくれた男――徐晃。

 待ち望んだときがきた。 この瞬間だけを夢見て犬の様に地べたを這いずり回ってきた。 胸に燃え上がる憎悪の炎は、部下の命も、鳴り響いていた警鐘も、進退極めたその葛藤さえもすべて焼き尽くして灰にする。 今の男にとっては、目の前の者こそが何よりも勝る最上の目的だった。 二度にも渡り、ただの一矢も報いることなく終わった屈辱の記憶が、よりいっそう男の内側で怒りを煽る。
 
「殺せ………。」
 
 憎しみを声に出して発露させるのは、想像を絶する快楽だった。 狂おしいほどの興奮が身体の芯から湧き上がってくる。 高じすぎた憎悪は、歓喜にも似て甘いのだと、このとき男は始めて理解した。 今ならば負けるという気がしない。 奴の心臓を抉り取り、その返り血を満身に浴びることができるのなら、失うものなど何もないとさえ思えてくる。
 
「殺すんだ野郎どもッ!! あの白服の男を殺し潰せッ!」
 
 今こそ恨みを晴らすときが来たのだ。 胸に滾る憎悪を刃に変えて、あの男を圧殺するときがきた。 微笑など、殺し合いの場においては何の足しにもなりはしない。 ご自慢の大斧を踏み砕き、有らん限りの屈辱をもってその顔に泥を塗ってやる。 そう殺意も新たに、怨敵である男、徐晃を見やったその矢先に、視線があった。 標的を見定めた猛禽めいた眼差しを、幾重の人の隙間を塗って髭の男は受け止めた。
 
「うそ………、だろ?」
 
 驚愕に目を見開きながらも、恐懼がじわりと男の思考を蝕んでゆく。 男と徐晃が顔を合わせるのはこれで三度目になるが、互いを知るほどの面識は無いに等しい。 故に知らぬのだ。 涼州に生まれ野山を駆け巡り、常人の視力では及びにもつかない姜維の目をもってしても、視認できなかった男たちの姿を見つけ出した徐晃の異常なまでの視力を。
 
「くそッ! 笑ってるんじゃねぇ!」
 
 髭の男の咆吼に応えるかのように、黄巾の兵士たちが槍を、剣を片手に一斉に駆け出し始めた。 より熾烈に、より凄惨に、歓喜とも憎悪ともつかぬ獣の雄叫びを上げながら、迫り来る『曹』の旗本目掛けて殺到する。

「……………、吶喊ッ!!」
 
 旋風が轟く戦場の中、男は確かにその声を聞いた。 血煙と煌く白刃を挟んだ向こう側に、底冷えする徐晃の下した一命を。
 
「な――――あッ?!」
 
 男が驚愕の声を漏らしたのは、有り得ざる声を聞いただには留まらなかったからである。 大地を穿つ騎馬の一群が、さながら猛る稲光の如く、轟然とその速度を加速させたのだ。 その破壊力たるや、豆腐に箸で裂け目を入れるかの如く、いとも容易く殺到する兵たちを粉砕してみせ、穿ち進んでくる。 なまじ密集していただけに、黄巾の兵たちはその威力を存分以上に受け止める羽目になった。 破砕槌も同じ破壊力と、疾風も同然の機動力をもった騎馬などもはや悪夢以外の何物でもない。

 居並ぶ兵たちを粉砕し、薙ぎ払い、轢き千切れて飛び散った肉片を土砂もろとも踏み荒らしながら、まるで放たれた矢のように、一直線に道を切り開いてゆく。 満ち溢れる血飛沫は、土煙と混じりあい霧のように濃密に戦場に充満し、それを遠目から眺める男でも戦場の見通しが利かない有様だった。 これが渦中のど真ん中にいたのであっては、きっと呼吸すらままならず窒息していたかもしれない。 それでも男は、震える手で手綱を操って、その場から一歩、二歩、と後退せざるを得なかった。 そうでもしなければ、最早おのが理解を超越した眼前の出来事を受け入れられず失禁してしまいそうだったからだ。

 なす術すらなく、ただ轢殺される兵たちの様子に、子供のように脅えながらも、男の焦燥とは裏腹に、徐晃と男の距離は悪夢のように着々と、狭まっいく。 もはや徐晃が握る大斧の間合いまでは幾許もない。
 
「―――――ッ!」
 
 祈るような胸中で、髭の男は己を叱責した。 相手は少数で、こちらは多勢。 間違いなく限界が来る。 五千もの包囲網を掻い潜り、自分の元まで到達するわけがない。 この速度、力加減で突進していればいつか必ず力尽きる。 にも拘らず相手の攻撃が緩む様子がない。 まさかこのまま、向こうが力尽きるより先に、自分の元まで到達してしまうのでは。

「なッ!?」
 
 そして、焦燥に歯噛みする男に、無常にも更なる追い討ちがかかった。 やおら凄まじい勢いで駆け抜けていた騎兵の一団が、さらに分裂したのだ。 しかし、兵法に照らし合わせて言うのなら、それは策としては下策中の下策だ。 ただでさえ少ない兵を分断してしまえば、各個撃破の憂いは免れない。 そして、数の利のある男たちにとってそれは格好の餌食でしかない。 髭の男からしてみれば拍子抜けするほど呆気無い結末である。

「へ、最後は自滅かよ」
 
 有り得ない動きに驚愕した男であったが、それが向こうの限界から来る無駄な足掻きだと判るや、彼は遠巻きから失笑を漏らした。 だが男は知らない。 嘲り笑うその相手が、すでに詰めの段階に入っていたこと、そして何よりも己が敵対した軍勢の、その一人、一人、の誰もが掛け値なしの英傑だったことを。

「ば、馬鹿な……。」
 
 呆然と呟く男の眼下で、うごめく黄巾の兵士たちが分割された少数の曹操軍の兵たちの手によってやすやすと叩き潰されていた。 男の期待を裏切ったあり得ざる光景は、まさしく曹操の親衛隊でこそ叶う不条理だった。 轟雷を彷彿とさせる軍馬の蹄は容赦なく黄巾兵の肉を抉り、山をも穿つその破壊力を欲しいままに、縦横無尽に戦場を駆け抜けるのは李通とその副官。
 
 それは個々の尋常ならざる体術と統率力のみならず、阿吽の呼吸の連携をもってしか為し得ない絶技であった。 その溜息さえ禁じえない優美さをもって隊伍を組み突撃できるのは、おそらくこの大陸全土を探したとしても三組といない。 そして李通たちが猛烈な勢いで駆け抜けたその瞬間、黄巾兵たちの包囲には完全な穴が貫通していた。
 
「ッ! 好機!」

 男まで一直線の道が開かれのを見て取って、徐晃は己が役目を果たすべく、即座に行動を開始していた。 かねてより李通たちと申し合わせていた敵大将と兵たちの意識の分断はこれ以上ないほどの成果をみせている。 徐晃は躊躇なく絶影の腹を蹴り上げ、そして巨獣と呼びたくなる駿馬が、ついに大地を穿った。
 
 急加速に駆られた絶影の突進は、もはや疾駆という名の暴虐だった。 一跳びのうちに奔り抜けた絶影の飛翔は、まさに追い風に翼を預けた燕さながらの勢いをもち、辛くもそれを御しつつ、徐晃が狙うのはたったいま眼前に出現した髭の男である。

「いざ―――――覚悟!!」
 
 そして、絶影の前脚が再び大地に触れたとき、男との距離はもはや十歩にも満たず、その間を阻む者は皆無だった。 遅まきながらも指揮官の窮地を察した兵士たちが慌てて身を翻すが、もう遅い。 大地を踏みしめる力強さと、余人に影さえ踏ませぬその流麗さは、その名に恥じぬ走駆であった。
 
「ひいぃッ!?」
 
 男にとって、まさにそれは予想だにせぬ奇襲であった。 かつて我が物顔で戦場を見下ろしていた彼が、まさか頭上に飛翔する馬をみることになろうとは。 そしてついに敵大将を大斧の間合いに捉えた徐晃の位置は、白兵戦において絶対優位となる頭上。 まさに必勝の好機である。 だが、無様な悲鳴を上げてもなお腰に携えた剣を抜いた男は、幾度も修羅場を潜っただけのことはあった。

「はあぁぁぁぁッ!!」
 
 裂帛の気合をもって振り下ろした大斧と、応じて振り上げられた剣。 だが髭の男が耳にしたのは、ただ一刹那の風切音。
 
「へ…………?」
 
 限りなく鋭く疾い、ただそれだけの気流の響きは、断じて鉄と鉄が触れ合う音ではなかった。 なのに男の上半身は、腹から下を置き去りにして宙を舞った。 まるで身体そのものが男を拒絶するかのように、実に呆気なく途方に暮れた持ち主を見限った。
 
 少人数と侮るべきではなかったのだ。 少ないにも関わらず挑んできたのだから、何か秘策があるのだと疑うべきだった。 それを見通せず戦いを長引かせた時点で、男の敗北は決していた。
 
「うわぁ………。」
 
 痛みさえ感じず陶然と飽和する脳内で、誰に知られるでもなく独りごちる。 あぁ、ついてない。 地べたに叩き付けられ、己から湧き出た鮮やかな赤に染まった湿気たっぷりの土を、霞む目で眺めながら男は青褪めた唇で自虐的に笑った。 次の瞬間、狂乱の騒ぎとなった戦場の中では、上下泣き別れた死体になどかまっていられる余裕などあるはずもなく、誰とも知れぬ足に、男の頭は、果実を割るかのように踏み抜かれた。 

 そんな死に様であったとはいえ、ある意味でそれは、すべてを見届ける羽目となった出っ歯の小男に比べれば、まだ幸せな末路だったのかもしれない。 慮外の奇襲をうけ、巨大な斧によってまるで軽石のように易々と空中に髭の男を吹き飛ばした光景は、もはや悪夢としか言いようがなかった。 ただの肉塊に成り果てた下半身は、大斧に断ち切られてなお、都合三呼吸以上の間は血が吹き出なかった。 悪寒さえ催す太刀筋を受け、男の半身はまるで下肢に根が生えているかのように、不動のまま直立していた。
 
「あ、兄貴……?」
 
 すべてを直視してしまった小男の脳裏には、思考も理解も飛び越えて、ただ桁外れの恐怖だけがもたらされていた。 

「む………? お前は………。」
 
「………………。」
 
 やや距離を隔てながらも徐晃は、小男の姿と認めた。 だが、茫然自失のまま、その場から動く気配を見せない。 そんな小男の様子から、胸の内を見透かしたかのように、徐晃は口元を引き締め厳格な顔で問うた。
 
「謝りはしない。 存分に怨め」
 
「……………、黙れ」
 
「お前は、いや、お前たちは………、曹操殿から遺産を奪った者だな? 何処にある?」

 小男の眼芒に常軌を逸したものが滲ませ、桁外れの恐怖が、逆に起爆剤となって凶暴な怒りを爆発させた。 もはや小男は聞くに堪えなかった。 これ以上、語らせてはならない。 あの口を噤ませねばならない。 耳障りな言葉を封じられないのなら、残る手段はただ一つ。
 
「黙れぇェッ!!」
 
 狂おしく一喝するや、男は剣を振りかざして徐晃に踊りかかった。 先ほどまで動くことのなかった四肢が、今は絶望と恐怖という、なおいっそう禍々しい感情を糧に、躍動するだけの力を取り戻していた。 だが、そんな勢いだけの一太刀が通用する相手ではない。 小男の狂態に徐晃はいっそ憐憫すら懐いた表情で、振り払った大斧ですげなく剣を打ち返す。

 このどうしようもなく非力な敵に対して、徐晃にその気があれば今の一撃ですべてが決していた。 間断なく襲いかかる小男の打ち込みは何の芸もなく徐晃の間合いへと突入し、ただの一度も突破を果たすことなく弾き飛ばされていく。 そもそも圧倒的な体格差の、しかも獲物の間合いが違いすぎる相手に対して、真正面から挑みかかるという行為自体、極めつけの愚挙なのだ。 それでも小男は攻撃の手を緩めない。 無茶な動きに身体が軋もうが、それでも胸の中から湧き上がる衝動に駆り立てられ徐晃へと挑みかかる。

 だが、それが続くのも小男の心の中に燻る憎悪が、身体を突き動かすまでである。 男が激情を吐き出しきった頃には、彼の身体の方が苦痛に耐えかねてその意識を切り落としにかかることだろう。 徐晃は無駄な横槍に注意を払いつつ、ただ悠然と相手をしているだけでいい。 それで鉄壁のうちに勝負は終わる。 彼の生死を決めていいのは徐晃ではないのだから。

 それでも、徐晃はその後の彼の運命を思うと、いっそ早々に命を落としたほうが、まだ救いがあるとさえ思えてくる。 きっと生き長らえる程に痛みと嘆きを積み重ねるしかない。 それを思うと徐晃は、やるせないながらも悲観を懐かざるを得なかった。 なぜなら、曹操の元から財宝を奪った首謀者を見つけた今、小男の命運は、もはや一片の救済も期待できはしないのだから。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 李通も徐晃も、そしてこの騒動を引き起こした髭の男ですらも伺い知らぬことだったが、彼らの動きの一部始終は、ある者たちの監視下にあった。 砂塵舞う荒野の中、高台の影に身を潜めて坦々と目を光らせていたのは、いま轢殺されている黄巾の兵たちと同じ布を頭に巻く者だった。 影に溶け込むよりも、自らが打って出てたほうがよほど様になっているような、荒事に慣れきった体躯の監視者。 しかし、影の中に居るというのは、ある意味で正しかった。
 
「さて、首尾は上々………。」
 
 独りそう呟いた監視者の横顔を、太陽の黄金の輝きが照らし出す。 眼下を見渡す眼芒は、民草ではありえない鋭さを持ち、顔中に走る太刀傷は百戦錬磨の豪傑を彷彿とさせた。
 
「そちらはどうだ…………? 羅厳……。」
 
「うむ、予定通りだ」

 冷ややかな口調で虚空に問いかけたかにみえた言葉に、返答の声が上がった。 男である。 巨躯の男の背後の物陰から、まるで沸いて出たかのように、黄巾党であることを示す布を頭に巻いた男が現れる。
 
「陳留より出立した一軍は、数こそ少ないが………、急場凌ぎとしては上出来であろうて」
 
「さよう。 夏侯妙才めも、猪武者と聞いておったが………、中々どうして……。」
 
 さらに割り込む第三の声。 もはや驚くに値しないとはいえ、またも黄色の布を頭に巻いた男が現れた。 今度は老人とおぼしき枯れはてた声と腰の曲がった矮躯の持ち主である。 もはやこの場に何人の黄巾の者が終結しているのかすら知れたものではない。
 
「波才のほうも終いか………。」
 
「しかし、これで総体に影響を及ぼせるのか? 張曼成」
 
「無論。 彼奴らからすれば指一本欠けた程度のものだろう………。 だが………。」
 
 屈強な体躯の男――羅厳の問いに、顔中に戦傷を残す男――張曼成は間髪入れず返答する。 そして、張曼成の後を引き継ぐようにして、枯れた声の波才が続けた。
 
「さよう。 大した影響でないとはいえ、それでも損失は損失。 指が欠けては、もはや剣は十全に振るえぬよ」
 
「そして、気がついた時には指をさらに失っている、か……。」
 
 納得顔で頷く羅厳だったが、おもむろに表情を曇らせた。
 
「だが………、万全を期すためとはいえ、馬元義は………。」
 
 沈鬱なその物言いは、羅厳が内心穏やかではない思いを懐いていることを、ありありと覗わせていた。 それを耳ざとく聞き取った張曼成は、むずかる子供を落ち着かせるかのように、緩やかな口調で語り始めた。
 
「重過ぎる官軍の腰を上げるには、もはや尻に火をつける他あるまい。 馬元義の蜂起……、決して無益ではない」
 
「さよう。 あ奴こそは真の功夫。 我らが義侠の精神を根絶やしにした亡者どもめに裁きを下す鉄槌となろう。 いずれ、天意は必ずや示される。 そのときこそ………、彼奴らが報いを受ける時ぞ」
 
 乾涸びた喉から悪意もあらわな笑いを搾り出した後で、波才は炯々たる眼光で眼下で死にいく黄巾の兵たちを睨み据えた。 その憎悪と憤りを隠しもしないその瞳は、およそ同じ黄巾を巻く仲間に向けるものではない。 広義においてそれは、怨敵に向けて放つ敵意の視線だった。
 
「うむ……。 糺す義が伴って初めて誅となる。 ただ段平を振りかざすだけで斬奸の名目が立つならば、誰も徳など説きはせん」
 
 言葉では羅厳を戒めながら、だが張曼成、波才ともに表情は苦虫を噛み潰したように渋かった。 二人が思うところもまた羅厳と変わらない。 そう察した羅厳は、重々しく口を開いた。
 
「………、俺とてな、ただ餓狼の如く血を求めるばかりの彼奴らの専横ぶりは目に余る。 だが、いかな仕儀があるにせよ、いま明らかなのは我らの咎よ。 同胞殺しの不義不忠………。 それなりに筋の通しようがあったのではないのか………。 そう思うときがある」
 
「羅厳………。」
 
「さよう。 羅厳よ」
 
「波才?」
 
 短く言い捨てた波才の眼には、老人の陰鬱に乾いた鋭さがあった。
 
「ゆめ忘れるな。 我らは義兄弟の契りで結ばれた侠の輩。 牙で我を通す野犬とは違うのだ。 なればこそ、人心を忘れ鬼となった我らに相応しい末路は、天の采配に委ねるべきであろう」
 
「で、あるか………。」
 
 嘆息して宙を仰ぐ羅厳。 その視線は虚空を流れ、やがて燦然と輝く太陽へと向けられる。
 
「心残りは、やはり歌姫たちよ」

「うむ………。」
 
「我ら亡き後を思えば、気が重い………。」
 
 彼らの守りたい者たち、それらが今後どのような末路を辿る羽目になるのか。 それを想像するだけでも身の毛が粟立つ。 何としてでも守り抜きたい。 彼らの胸中を突き詰めれば、その一点に帰結するのであった。






あとがき

むーざん むーざん♪ とーらの かこい………。
どうもギネマム茶です。
 
ついに殺ってしまった、この作品初のダイレクト殺人。
まぁ世界観的に仕方のないことなのですが、ほのぼのにはほど遠い感じになってしまって申し訳ありません。

さて、今回はモブキャラからみた主要キャラの軍隊の強さ。 といった感じで書いてみたのですが……。
虐め、ぐらいの勢いでやってみたのですが、雰囲気だせていればいいなぁと思っています。

最後に、ごめんね兄貴。 名前さえないモブで終わって……。
でも死に花咲いただけチビよりマシだと思ってくれぃ。

ではまた次回



[9154] 二十四・動物園の檻の中の灰色熊を怖がる子供がおる(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:c8fc74c3
Date: 2010/08/12 19:47
 居並ぶ武官を玉座の高みから見下ろす眺望は、数多ある絶景と比較しても遜色ない。 こと雅さにおいては、四季折々の草花には一歩譲るだろう。 しかし、各々が競う合うかのように華々しく精悍で逞しい威風は、どこの陣営と見比べてもまったく劣るとこはない。 曹操はそう自負して止まず、また臣下たちも揃ってそう納得させるだけの能力を兼ね備えていた。
 
 そんな英雄豪傑たちから跪拝を受け、玉座からそれらを睥睨しならがも、曹操の鬱屈した気分はまったく晴れる見込みがなかった。 偏頭痛を患いつつある額を指で押さえならが、曹操はもて余す苛立ちを吐息にして吐き出した。
 
「……………。」
 
 玉座の間に蟠る重い空気に、場に居並ぶ全員が沈黙する。 誰も、自ら藪を突く役を負いたいとは思わなかった。 ただの沈黙にしてはあまりにも重過ぎる空気の密度が、徐晃の背筋を冷ややかにくすぐる。 思いのほかお冠のようだ、そう胸の内で苦笑しながら静かに瞼を閉じている曹操に視線を向けた。
 
 暴徒の鎮圧から数日。 荒らされた村の救済措置や、消耗した備品の補填など増えるばかりの仕事を急ぎながらも確実にこなしていた合間、不思議と賊たちには目立った行動がみられなかったが、代わりに差し向けられたのが洛陽から書状を携えた使者だった。 表向き何食わぬ顔で、使者を持て成した曹操たちだったが、今や大陸全土に広がっているであろう噂がこれで真実であったと確信した。
 
 曰く、帝の御座す洛陽で、卑賤な賊の蜂起を許した。 朝廷に組するものであれば、さぞや動揺する事態であるのだが、皮肉にも今の曹操の陣営にそれを気にするだけの余裕はなく、また早馬よりも早い噂の流れによって掴んだ情報によって、まるで他人事のように静かに了解しただけだった。 無論、対面した使者にたいしては、さもお気の毒であったという表情は忘れない。
 
 そして漢王朝に弓引く危険因子としてついに認められた賊たちは、黄巾党とその名称を正式に与えられ、逆賊として誅されることとなった。 つまり、一時の間、各々諸侯同士が結託し狐狩りを競う、という催し物である。 戦乱の世で手傷を負った勢力はあれど、まだ壊滅にまで至ったものは事実上一つとしてない。 その全勢力から一斉に標的とされれば、一大勢力を誇る黄巾党といえど風前の灯に違いない。 そう洛陽の面々は思っている。
 
 だが、黄巾党討伐に赴いたとしても余程の旨味がなければ、実際に動く勢力は少ないだろう。 誰もが自領土の治安維持で手一杯の状況下の中、好んで情勢を悪化させよと思うものはいない。 しかし、それは朝廷の、その先で糸を引く宦官たちとしては好ましくない。 そこで、勅の出番である。 帝より預けられたその力を遺憾なく発揮させ、猛獣を打ち据える鞭の如く、絶対の命令を行使して渋る諸侯を黙らせた。
 
 勅そのものは、確かに強力無比なものであるとはいえ、あくまで天子が、天意の代弁として発せられるものでしかない。 その権威は、国の力であってそれを笠に着てしまった使者の横柄な態度は、まさに国に仕えることを辞めてしまった者のそれであった。 そして、とりわけ曹操の胸中に、その光景は黒く鬱屈した感慨を呼び込んだ。 
 
 傍目に見れば心中はどうあれ、曹操の表情は決して怒れる者のそれではなかった。 ただ能面のような無表情のまま、粛々と使者からの言葉を受け取り、丁重にお帰り願った。 だが、胸中に蒸留された憤怒たるや。 後手に回りきりであった官軍の対応。 その官軍の惰弱が地方を治める者たちへの負担を増加させたこと。 挙句、果たして暴徒の鎮圧どろこか完全に暴走を許し天子の喉元にまで刃を迫らせてしまった失態が、結果として曹操たちにかかる負担を増大させたという結末。
 
 ただそれら諸々についての苛立ちについては、これ以上憤慨したところで頭痛の種になるだけで益はない、と曹操も弁えている。 怒りはじっくりと胸の内に仕舞っておき、いずれ発散させるべき場所で心行くまで発散させれば良いのである。 しかし、そういう冷静かつ冷酷な対応をする曹操をもってしても許せないことが一つだけあった。
 
「…………………、春蘭」
 
「は、はぃ………。」
 
 打てば響く素早さで、曹操に返答する普段の夏侯惇とは打って変わって、いっそ情けなさが滲み出た声。 愛する主から受けた主命を果たし、意気揚々と凱旋した夏侯惇だが、無事に責務を果たしその報告を曹操へ伝えたはずが、すべてを聞き終えた彼女の面持ちはいささか以上に堅いものだった。 その様子から夏侯惇は、己がどこかで失態を演じたことを悟ったのだった。
 
「私の耳がおかしくなったのかしら? もう一度説明してもらえる?」
 
 やにわに詰問の色を帯びた曹操の声音に、夏侯惇は持ち前の覇気を萎ませて、まるで叱られた子供のような表情で曹操を仰ぎ見る。
 
「は、はッ…………。 華琳さまより命を受け陳留を出立から二日後、黄巾の賊どもを発見。 これを迎撃しました」
 
「それから、どうしたのかしら?」
 
「奴らを追ううちに……、その、他勢力の者と接触し、その者たちと挟撃をかけ、賊どもを殲滅しました」
 
「……………、つまり国境を越えたのね?」
 
「面目次第もございません……………。」
 
 もう一度、その時の場面を思い起こしながら曹操に語って聞かせる内に自分の失態を悟ってか、夏侯惇は面を伏せて粛々と詫びた。 曹操もそんな夏侯惇の様子に怒気をやや鎮めるも、その面貌はまだ堅い。 つまり、曹操は、彼女の神経を逆撫でしてきた使者よりも、彼女の意図しない部分で失態を犯した夏侯惇に対して、数段勝る怒りを懐いていたのである。 まなじ人並み外れた才に恵まれ、それに追随するように部下も優秀であっただけに、彼女の部下が思いもかけない失敗を犯したとき、きまって曹操は癇癪を持て余してしまうのだった。
 
 ただ曹操とて、些細な失敗であれば、一々それらに目くじらを立てるほど狭量の人間ではない。 今回の件がたまたま、予期せぬ不都合や偶然の積み重ねによって、曹操の許容範囲より逸脱した事態に発展してしまったのだ。 たとえば。 国境を踏み越えて、他勢力の領地へ土足で侵入した挙句、向こう側から温情を賜ってきたなどいう事態は、曹操をもってしても言語道断というほかにない。
 
「大きな借りを作ってしまったわね……………。」
 
 曹操はそう呟いて、怒気を吐き出した。 国境を無断で侵すということは、本来ならば相手側から罵倒しつくされても仕方のないほどの失態である。 それを向こう側は、共闘まで申し出てくれるたというのだから、曹操としても借りを返さねばならない。 そうでなければ、器の底が知れるというものである。
 
「それで、相手の指揮者の名は確か………。」
 
「孫策です」
 
「へぇ―――――。」
 
 打てば響く夏侯惇の返答に曹操は、興味深げにその名を口の中で転がした。 元々人の名を覚えることが苦手な夏侯惇が、たった一度だけしか出会ったことのない者の名を覚えているのは、非常に珍しいからだ。 ともすれば、姿見に奇抜な特徴があるのか、さもなければ、夏侯惇の目にかなうほどの大器であるということである。
 
「春蘭」
 
「はッ」
 
「貴女から見た孫策の印象を教えて頂戴」
 
 こと戦場において夏侯惇以上の信頼を寄せれる者など曹操は知らない。 無論そのなかには、人物評や戦術の献策なども含まれている。 ただ、そんな絶大な信を寄せられているなど露とも知らず、ただ純粋に主の要望に応えるべく夏侯惇は目を閉じて黙考する。
 
「虎………、でしょうか。 内に秘めた鋭い視線は、虎を彷彿とさせました。 ただ…………。」
 
「ただ?」
 
「ただ、手負い………、とでも申しましょうか。 檻か鎖で枷を着けられていた。 そんな印象も受けました」
 
「ふむ、なるほど」
 
 合点がいったとばかりに、曹操は不敵な笑みで夏侯惇の話を聞き届けた。
 
「春蘭、貴女の受けた印象は正しいわ。 その孫策という者。 おそらく、"江東の虎"孫堅の娘でしょう」
 
「な、なんと………。」
 
 曹操が看破してみせたその名に、夏侯惇は息を呑む。 彼女たちにとって聞き飽きるほどに聞き知った名ではあったが、なるほど、母の威名に恥じぬ、大器と呼ぶに相応しい人物である。 だが、素性が知れたところでなお、疑問を残す者がいた。
 
「仁様……。」
 
「うん? どうした?」
 
「孫堅さん………、とはどのような人なのでしょうか?」
 
 そう小声で徐晃を呼ぶのは、姜維であった。 内地のさらに奥にある涼州で生まれ育った故に、地図で照らせばその対極に位置する場所で活躍した人物のことを姜維は知らなかった。 
 
「ふむ、風の噂程度のことしか分からぬが、それで構わないか?」
 
「はい、何も知らないよりは………。」
 
「では……、どこから話したものか――――――。」
 
 孫文台。 春秋時代の兵家である孫武の子孫であり、江東一帯を荒らしまわっていた川賊を完膚無きまでに叩き潰し、これを鎮圧したことから畏怖と畏敬の念を込め江東の虎と称されるまでに至った稀代の傑物である。
 
 数多の功績を上げ、いくつかの県の次官を歴任したが、どこでも評判は良く、役人も民衆も孫堅になついたらしいが、彼女は切れ者過ぎた。 磐石とは言えない戦力を補うべく袁術と利用し、利用される関係を築いていた孫堅は、ある日袁術の依頼により襄陽の劉表を攻めた。 しかし、襄陽近辺の山で孫堅が一人でいる時に、何者かに射殺された。
 
 孫堅の突然の死によって、孫家は凋落と悲運の末路を辿ることとなり、袁家――――袁術の勢力が破竹の勢いで領土を拡大していった時期は同じくしている。 そのため表裏問わず袁術と劉表の陰謀を囁く者は多い。 果たして、現在の孫堅の娘である孫策の状況を考えれば、まさに市井で囁かれている通りであった。 ただ噂の真偽は闇の中であるが、栄華を誇っていた頃の孫家の兵力を丸々吸収して、孫策を始め、孫家所縁の者を顎で扱っておきながら、まさか探られても腹は痛くない、ということはあるまい。 にもかかわらず、共謀の疑いのある劉表とはいつの間にか和議が結ばれていた有様で、そのあからさまに疑ってくれと言わんばかりの対応に、様子見を決め込んでいた各諸侯は色も言葉も無くしたほどであった。
 
「―――――とまぁ、ざっと説明するとこうなるな」
 
「あやや………、孫策さんにはそんな事情があったのですね。 なるほど、春蘭さんと共闘を果たしたその実力………。 虎と評した理由、納得しました」
 
「それで、二人の睦言は終わったかしら?」
 
「あやッ?!」

 二人の会話に割って入ったのは、持ち前の不敵な笑みを嗜虐の色に染めた曹操だった。 しかし、曹操が茶々を入れたのはここまで、あとは劇を楽しむ観客のように、自身は玉座の高みから顔を赤くして慌てふためく姜維を見守るだけだった。 ただ優雅に泰然と、せいぜい姜維がいらぬ墓穴を掘る瞬間を肴にすることで、仕置きは完了する。 人が話をしている脇で、仲睦まじくされては胸焼けを起こすな、というのが無理な話しである。
 
「か、華琳しゃん! む、む、む、睦言だなんてッ! そんなッ!」
 
「む? クゥと俺が親しく言葉を交わすのはおかしなことか?」
 
「―――――――はぁ………。 いえ、おかしくないわ」
 
 曹操は眉を顰めて溜息をついた。 まるで笑えない道化師の芸に興醒めしたかのような表情で聳え立つ徐晃を見下ろした。 その明らかに目論見が外れて不貞腐れた仕草は、街を駆け回る悪童となんら変わらない。 だというのに、威風堂々たる居住まいは微塵も揺るがないのだから、ことさらに性質が悪い。
 
「クゥも、クゥだ。 華琳殿はお前をからかっているのだから、慌てふためけば思う壺だぞ」
 
「う………? から、かう?」
 
「その通り。 華琳殿も悪ふざけはその程度にしておいて頂きたい」
 
 場の空気などまったく理解していない徐晃は、冷ややかにそう宣言した。
 
「えぇ、そうね。 少しからかい過ぎたわ」
 
 そう言われても溜飲が下がりきったわけではなかったが、苦笑いしながらも曹操はこれ以上の悪ふざけを打ち切った。 この先まで踏み込めば、それは姜維の心の中に秘められた恋慕の情を赤裸々に暴き立てることになりそうで、さすがにそれは曹操としても気が引けた。 姜維がただ徐晃の傍に居たい、というささやかな幸の拠り所としていることは、曹操も重々承知していたからだ。
 
「とは言え、あなた達は人の話をちゃんと聞くべきね」
 
「む………。 あいすまん」
 
「ご、ごめんなさい」
 
「結構。 まぁ、孫策の現状に関しては大方、仁が説明した通りなのだけれど………。 春蘭」
 
 呆れ半分の溜息をともに曹操が夏侯惇を呼ばわる。

「はッ!」
 
「貴女の目から見て、孫策は檻の中で大人しくしていられる類の人間かしら?」
 
「ありえません」
 
 即答だった。 一度だけの出会いでありながらもそう断言する夏侯惇は、よほど孫策に響くところがあったのか、我がことのように胸を張ったまま、曹操の視線を真っ向から受け止めた。
 
「袁術が如何程の者かは存じませぬが、孫策を飼い殺すなど、到底不可能でしょう」
 
 ふぅん、と関心げに唸りながら、曹操は何やら不穏な笑みを浮かべた。 それを見て取った面々の心中は皆同じものである。 おそらく冗談の類であろうが、それでも一同、彼女の悪癖に呆れて苦笑いするしかなかった。
 
「貴女であれば飼い殺せる、と?」
 
「あら、虎程度を飼い慣らすことぐらい雑作もないことよ?」
 
 曹操の不敵な言い分に、だが異を唱えるものは誰一人としていなかった。 ひとたび政争の戦場の先陣を切る彼女の姿を目にすれば、それが驕りでも何でもない事実であると理解できる。 ただ、そこまで言い切ったあと何やら神妙な色に表情を曇らせて、曹操は不本意そうに眉をひそめた。
 
「ただ、借りをきっちり返した後となると、ふむ………。」
 
 そこまで言い差して、曹操は思考する。 仮に、あくまで架空の絵空事ではあるが、現状で袁術と対峙することとなれば、孫策の陣営は極めつけの鬼札となることだろう。 それでも真っ向から勝負する限りにおいては、負けるという気がしない。 たがそれは、あくまでも袁術という枷に囚われ、檻に閉じ込められた孫策の話である。 しかし、夏侯惇の人物評と摺り合わせて、さらに孫策が枷から解き放たれたする。 そのとき曹操の眼前に立ちはだかる人物は、果たして虎如きで収まりきるものだろうか。
 
「あの、華琳さま?」
 
 黙考する曹操を見守る夏侯惇が、不安げに声をかける。
 
「はぁ………。 虎が虎のままであれば、どれほど楽なことか………。 解ってはいたけれど、我が覇業成就までの道のりは、長いものになりそうね」
 
 曹操の仄めかしに、ますます夏侯惇は当惑する。 何か己に至らぬところがあったのか、そう思い煩うほどであった。 もはや思考を放棄して成り行きを見守れば楽であるのに、夏侯惇の曹操を慕う気持ちが空回りに拍車をかけてしまうのだった。 そんな夏侯惇の様子を知ってか知らずか、曹操は終始、不穏な笑みを絶やさない。 本来笑顔というものは見る者の気分を和ませるものであるはずなのに、あいにく曹操の笑顔から漏れ出る喜悦は、彼女を知っている者であれば、その内容を想像するだけでも不安を煽られるものでしかない。
 
「まぁ……、それも春蘭が見定めた相手だもの。 良しとしましょう」
 
「は、はぁ………?」
 
 おそらくは、夏侯惇の報告に上がった孫策の存在が、曹操の心境に何かしらの変化をもたらしたのだろう。 不敵な笑みを浮かべたまま、曹操だけにしか立ち入れない場所を見つめている風な目つきになった。 それを見届ける面々は、過去にも似たような光景を何度も目にしているためか、小さく溜息を吐くだけに終わった。  解せない顔のままでいる夏侯惇に向けて、曹操は悠然と微笑を浮かべたまま先を続けた。
 
「でも、春蘭?」
 
「は、はッ……。」
 
「失態は失態、よ。 貴女には然るべき罰を与えます。 沙汰を待ちなさい」
 
「はい………。 申し訳ありませんでした華琳さま」
 
 普段よりも幾分か大人しい声で、夏侯惇は粛々と詫びた。 曹操もつい別の方向に熱を入れて、半ば頭の隅に追いやってしまっていたが、やはり賞罰は厳格でなければならない。 ただ曹操とてそこまで厳しい罰を与える気はない。 甘え癖のある子犬に"待て"を躾けることは主たる曹操の務めなのだ。 で、あるから多少の趣味と実利を兼ねた私事が含まれてしまっても仕方のないことなのだ。
 
「さて、報告はこれですべてかしら?」
 
 居並ぶ者たちの反応を見るべく語りに間を開けたが、軍師である桂花を始めほかの者たちも沈黙のままに身を任せている。
 
「―――――では、秋蘭」
 
「はッ」
 
「あの者たちをここへ」
 
「かしこまりました」
 
 曹操の下知を受け、夏侯淵が玉座の間から退出していく。 床を鳴らす音が、ひめやかに消えていったに残ったのは奇妙な沈黙の間だった。 その沈黙を霧散させるかのように、徐晃がふと疑問に思ったことを口にする。
 
「……………、華琳殿。 あの者たち、とは?」
 
「ふふふ、それは見てからのお楽しみよ」
 
 曹操は悪戯っぽい笑みに口元を歪めて、徐晃の問いかけに明確な返答を返さなかった。 その思わせぶりな口調からおそらく、それに見合うだけの物を隠していることだけは窺えるのだが、曹操が"そういう"笑みを浮かべるということは、大抵の人間は仰天する出来事であることには違いない。
 
「華琳さま、連れて参りました」
 
「そう、入りなさい」
 
「はッ………。 お前たち、粗相がないように注意しろよ」
 
 一足先に玉座の間へと入る夏侯淵は、後に続いて扉を潜ってくる年頃の娘たちに小声で注意を促した。 姜維よりもやや歳を重ねたほどの容姿は、その場に居合わせるには些か以上に違和感を懐くものの、彼女たちの挙動からは無駄を感じることはなく、その身に刻み込んだ武を察するには充分すぎて余りあるものだった。
 
「紹介するわ。 楽進、于禁、李典よ」
 
 厳かにそう宣言してから、黙したまま様子を伺う皆の反応に曹操は、居並ぶ武官たちの視線に晒され続けている三人の娘たちにを見やってから一度だけ頷いた。 ここから先は自分たちで説明せよ、とのことらしい。 その中で曹操の意図を正確に汲み取った少女の一人が一歩前に踏み出て、淡々とした口調で口火を切った。
 
「我ら三人は、大梁義勇軍の者です。 黄巾党の暴乱に抵抗すべく兵を挙げたのですが、先の戦で敵の力量を見誤り、窮地に陥ったところを曹操さまに救われました」
 
「ふむ……、その義勇軍が何故ここへ?」
 
 そう話に口を挟んだのは徐晃だった。
 
「はい、聞けば曹操さまもこの国の未来を憂いておられるとのこと。 一臂の力ではありますが、その大業に是非とも我々の力もお加えくださいますよう、願い出た次第」
 
 武人然としながらも、女性ならではの甘くも凛と通る声で徐晃の問いに答える少女。 姜維や曹操とも近いであろう年齢の彼女は、動向を見守る二人とは違い艶とは無縁だった。 遠目から見ても端正な美人だとわかるが、常に最前線で戦い抜いてきたのだろう、衣服の隙間から見え隠れする生肌から浮き出た戦傷と、身に纏う威風が怜悧な刃を彷彿とさせ、それがことさらに居合わせる者を緊張させた。 

「なるほど……。」
 
「そういうわけよ。 納得してもらえたかしら?」
 
「えぇ、充分に」
 
 そう答えた徐晃を見て、曹操は涼州に住む姜維の母を思い起こさせる背筋に冷たいものが走る笑みを浮かべた。

「それで、彼女たちのことなのだけれど………、仁。 貴方に彼女たちの面倒をまかせます。 私の指示が有るときを除いては、貴方が指示をだすように」
 
「なっ………。」
 
 曹操の宣言に徐晃は息を呑む。 うら若い少女が己の部下になる。 そのことについての、確かに驚きはあった。 だが、驚愕に値することか、と問われればその実、そうでもない。 戦場に立てば嫌でも年若い者の姿が目に入る。 それらを率いる者として指揮してきた徐晃にとって、悲しいことではあるが、日常とも呼べる光景だった。 むしろ驚きの理由は別にある。
 
「…………、それは俺の副官という立場に納まる、と考えてよろしいか?」
 
「私はそう言ったつもりだけれど?」
 
 当人は至って意識しているつもりはないのだろうが、不敵に取り繕った表情が、笑いを堪えている小刻みに震えていた。 

「しかし華琳殿……、俺はそこまでの戦功を挙げてはいない」
 
「あら、敵大将の頸を取ったと報告が入ってきているけれど?」
 
「…………。 確かに撥ねたはしたが、戦乱の中で見失ってしまった。 何よりその戦功を挙げれたのも、李通殿の援護あってこそのもの。 称えるべきは、李通殿にある」
 
 徐晃が、何よりも驚いたのは然したる功績を挙げていないにも関わらず、部下を三人も寄越すという破格の恩賞にあった。 だが、それを嬉々として受け取れるほど、徐晃は浅ましくはなし、李通たちの健闘を思えばそう易々と恩賞を受け取るのは、何か釈然としないのだ。 そう思えばこそ淡々と平坦に、徐晃は長年を修身に努めてきた武人ならではの謙虚さで、かぶりを振って曹操の賛辞を退けた。
 
「ふふ、そうくるのね」
 
 徐晃の辞退に対しても、曹操の怪しく光る瑠璃色の瞳は、依然、何を考えているのかまるで窺い知れない。
 
「では仁、こう考えなさい。―――――、貴方の部下であるクゥは私の指示で動くことが多いわ。 でも、それでは貴方の身動きが取りにくくなる。 だから、クゥ代わりにあの子たちを使いなさい」
 
「……………、クゥが俺の部下になったとは初耳なのですが?」
 
「深く考える必要はないわ。 立場上そうなっている、というだけのことよ」
 
「ふむ………。」
 
 そう喉を唸らせて、徐晃は静かに目を閉じ黙考する。 曹操が追い求めるもの、それは覇業の完遂だ。 今はまだ脆弱な一勢力でしかないが、いずれ大陸全土にその名を轟かせ、さらには数千年の世を経て尚、その名を残し続けるだけの器を曹操は持つと徐晃は確信している。 だが、そこまでの過程に横たわる苦難の数々は想像に難くない。 ではその過程を進むとき、徐晃に求められるものは何か。
 
 考えるまでもなく、先陣を切って敵陣を切り裂くことにある。 それが一兵卒としてか、将として軍を率いる者としてかは、まだその時になってみなければ判らない。 判らないが、曹操は徐晃の将としての才覚に期待を寄せていることだけは、解る。 すなわち来るべき時に備え、徐晃本人も含め、楽進、于禁、李典の三人の娘たちの器を鍛え上げておけ、という曹操からの無言の命令に他ならない。 今後はさらに苛烈さを増すであろう戦乱の世を思えば、少しでも曹操の上り行く道の基盤は固めておかねばならないだろう。 そこまで考えを巡らせた後、徐晃はゆっくりと瞼を開き、曹操を見据えて己の中で出た答えを吐く。
 
「…………、あいわかった。 お引き受けいたす」
 
「えぇ、お願いするわ」
 
 黙考していた徐晃の表情を見ていた曹操が、またも得心げに微笑する。 彼女も彼女なりに、徐晃の答えを予期していたのだろう。
 
「ただ一つだけ、確認しておきたいことが」
 
「なにかしら?」
 
 徐晃はいつになく神妙な面持ちで、しばし言葉を選ぶかのように逡巡してから、問いを曹操に投げかけた。

「クゥは、俺の部下のまま、ということでよろしいか?」
 
「勿論よ。 私の指示が無いときは、常に貴方のことを優先させるわ」
 
「そうか……、よかった」
 
 軽く溜息をついたのは、徐晃自身すら自覚しなかった感情の機微によるものだった。 今の曹操の陣営において、誰が誰の部下であるなど然したる問題ではないし、徐晃本人もそういったことを深くは考えてはいない。 だが、徐晃の中には、僅かな期間ではあったが共に旅をして己の背中を預けられる相棒が、形式上であったても離れてしまうことを認めたくないという子供染みた心境と、それ以上に姜維がまだ自分の傍にいることへの安堵が重なって彼の口から重い息を吐かせたのだった。
 
「だ、そうよクゥ? よかったわね」
 
「あやッ!? あやや、あやや………。 そ、その嬉しいです……。」

 そう水を向けられ、身体をもじもじとさせながら伏せ目がちにほんのりと頬を赤らめ徐晃を眺める姜維の眼差しに、彼もまた涼やかな笑みを浮かべた。
 
「クゥ。 これからもよろしく頼む」
 
「はいッ!」
 
 両者の認識には大きな隔たりがあるだろうが、それでも曹操は人知れず安堵の溜息をついた。 姜維は自分たちと対話するより、やはり徐晃と一緒にいるほうが明らかに華がある。 無論、その差を見逃す曹操ではない。 それは好む好まざるの問題ではなく、姜維が心に懐く淡い感情によるものだった。 その感情とは、傍目から眺めても歴然である。 どういう経緯で、姜維が徐晃に好意以上の感情を寄せたのかまでは、曹操も知らないし、そんな惚気話を好んでお腹いっぱいになるまで聞きたいとも思わない。 それでも第三者として、眺めている分にはとても微笑ましいことであるし、姜維のことを応援することも吝かではない。
 
 しかし、曹操は国の運用を優先させ、姜維を頼り、徐晃と過ごす時間を削ってしまっている。 それでも姜維は快諾してくれるだろうが、曹操は心底から歓迎できるものではなかった。 国の、そこで暮らす民の為とはいえ結果として、曹操の行為が二人の間に水を差したことになってしまう。 些か以上に心苦しい現状に、だが、誇り高い曹操の矜持がそれを良しとしない。 余計なお世話と知りつつも、こうして事あらば気にかけて少しでも姜維の助力になれば、と背中を押してやるのだった。
 
「そして、お前たちもこれからよろしく頼む」
 
「は、はぁ………。」
 
 途中から口を挟む余地の無い展開に、全身に戦傷を刻む少女が生返事を返す。
 
「まぁ、親交を深め合うのは貴方たちでやりなさい」
 
「ふむ……。 そうするとしよう」
 
「えぇ、そうなさい。 ではこれにて会合を終了する。 以上、解散!」

 曹操の宣言に、その場に居合わせた者たちが動き始めた。 今は不気味な静けさを保っている黄巾党であるが、いつ何時動き出すともかぎらず、武官、文官問わず平時よりも仕事の密度は倍増している。 今現在も玉座の間にいない兵士たちがそこかしこで、走り回っていることだろう。 ともあれ、この乱世を生き延びるためとあっては是非もない。 手間もかかれば重労働でもあるが困難というほどのことでもない作業である。 手を抜く理由などどこにもない。 各自所定の位置を目指し、玉座の間から皆早足気味に退出していった。






あとがき

長年連れ添っていた相棒(PC)が天に召されてしまいました。 急遽購入したPC……、お前も長続きしてくれよ?
どうもギネマム茶です。

さて、今回は先の騒動の処理と魏の三羽烏こと楽進、于禁、李典の紹介の回でした。
とりあえず、この三人組を話に馴染ませることが目下の課題になりそうです

ちょいちょい、とほのぼの話がかければ良いのですが………。
まぁ、とりあえず次回



[9154] 二十五話・ンまぁーーーーいッ!! 味に目醒め(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:c8fc74c3
Date: 2010/08/25 18:42
 曹操が居を構える城から出て市街の大通りより、二区画離れた区域に、兵士たちの屯所がある。 手狭かと思いきや、意外と奥行きがあり想像していた以上の敷地面積に、中へと通された頬や腕の戦傷が目立つ少女―――楽進は驚きの色を僅かに顔に乗せながら、無遠慮にならない程度に周りを見渡した。
 
「………………。」
 
 よく手入れの行き届いた石造りの城のような聳え立つ威圧感は皆無だが、それでもどこか時代を感じさせる壁の汚れ具合は、楽進の生まれた村の寂れた家々の壁を思い起こさせる。 市街の大通りにも近い一等地とも呼べる一画を占有し、尚且つ長い期間に渡ってこの建物が宅地開発の波から逃れて存在し続けていられたのは、もしかしたら嘗ては有力な豪族の所有物だったのか、或いは何らかの曰くのある家屋だったのかもしれない。
 
「……………むぅ。」
 
 一度意識してしまうと、物陰の向こうに何かが身を潜めているかのような陰鬱な雰囲気に見えてきてしまう。 ところが、楽進の後ろに付き従う于禁などは、不気味さ溢れる家屋の様子を全く気にした風もなく、むしろ何やらうきうきと楽しげに辺りを見回している。 まるで初めて遠出した先の土地で冒険心を擽られた子供といった趣だ。 彼女がこうして垣間見せる稚気は、微笑ましいやらあきれるやらで、いつものことではあるが楽進は反応に困った。
 
「うん? どうかしたのか?」
 
「い、いえ! 何でもありません!」
 
 幾多の戦場を駆け抜けてきた徐晃にとっては背後の動きを察するなど慣れたもので、楽進の判り易い気配の静動を見抜くことなど如何ほどのこともない。
 
「ふむ、そうか」
 
 楽進の慌てようなど気にした様子も見せず、徐晃は引き続き付き従う楽進たちを先導しつつ、屯所の諸情報の解説を再開する。 丁度、曲がり角を指差した先にあったのは厠であった。
 
「―――、あそこ以外にもう一ヶ所。 今から案内する執務室を出て左に進み、突き当りを右に行ったところにある。 そこは男がよく使用しているから注意しておいてくれ」
 
 どうやら男女別に用意されているので、どうしようもない緊急のとき以外は注意しろ、ということらしい。 そういう話はもう少し包み込んだ言い方をしてほしい楽進であったが、苦笑顔で頷いておいた。 そうやって、徐晃と初めて出会った玉座の間から始まり、城内からここにいたるまで粗方検分してまわった楽進たちであったが、ほどなく先行する徐晃が、地味な色ながらも時の流れを感じさせる扉の前で止まった。 どうやら目的地に着いたらしい。
 
「ここが、執務室となる」
 
「なんだか頼りない扉なの………。」
 
「お、おい沙和!」
 
 楽進の後ろにいた沙和こと于禁は、身も蓋も無い物言いで目の前の扉を見つめた。 しかしその発言に肝を潰す楽進としては、于禁を諌めつつも脇に控える徐晃の顔色を伺わずにはいられなかった。 しかし、徐晃の反応は意外と平坦なもので于禁の発言などどこ吹く風だった。

「いいさ、本当のことだ」
 
 磊落に笑ってみせた後、徐晃は勝手知ったる執務室の扉を開いて、楽進たちを中に入るように促した。 長年旅を続けてきた徐晃にとっては野営など慣れたもので、雨風凌げるなら多少不気味さがある程度の屯所など如何ほどのこともない。 むしろ徐晃としては、うら若い乙女が日光の当たりにくい家屋に対し、その程度の文句で済ませてくれたのは僥倖とさえ思っていた。
 
「これで大凡の所は見て回ったつもりだが、何か不明な点はあるか?」
 
「これといって特には。 ありがとうございました」
 
「そうか、ならよかった」
 
 三人を代表した楽進の答えに徐晃は小さく溜息を漏らした。 元来が朴訥な徐晃は、楽進たちをどう扱っていいものか、未だに判断がつかないでいた。 事ここに至っても、徐晃に彼女らを託した曹操の言葉についても半信半疑な状態である。 今思い返してみれば、女性の扱いに長けているわけではない徐晃に、期待を寄せる部下を預けてしまって良いものだったのだろうか。 犬や猫を二、三日の期間だけ預かっているのとは訳が違う。 必要な説明以外は極力口を噤んでいたが、談話の一つでも挟むべきでったのだろうか。 こんな時、彼女たちとも歳の近い姜維が傍にいてくれたのなら、どんなに心強かったことだろう。
 
「まぁ、腰を落ち着けてくれ」
 
 執務室は、徐晃たちに先駆けてこの場に訪れ、委細準備を整えてから退去した兵士たちによって楽進たちの専用の机と椅子が備えられてあった。 曹操たちが使うそれよりも若干古びてはいるものの、むこう十年余りは充分に活躍できるだけの作りをしている。 これが、つい先日まで城の土蔵の奥で、埃を被って鎮座していた物だったなどとは誰も思うまい。
 
「さて、今後の方針について話ておくが………。 茶の一つも無いのは味気ないな、暫し待て」
 
「あ! いえ、そんな……、徐晃将軍の手を煩わせるわけには……。」
 
「なに、構わんよ」
 
 立ち上がろうとする楽進を手で制し、涼やかに笑いながら返事を返すと、徐晃は席を立って執務室を後にする。 ぱたり、と静かに扉が閉じられ立ち去る徐晃の足音の反響も聞えなくなった頃、子供のようにはしゃいでいた于禁は、先ほどとはうって変わって真顔に転じ、何やら深刻そうに思案を始めた。
 
「どうしたんや、沙和? 今更緊張してきたんか?」
 
「ううん。 凪ちゃんと真桜ちゃんが居るからそれは平気なの」
 
「ならどうしたというんだ?」
 
 于禁の様子に、凪――楽進と、喋り方に独特の訛りのある真桜――李典が心配そうに顔を覗き込んだ。
 
「徐晃将軍って身体が大きくて、凄く怖そうだったけど意外と優しそうな感じで安心したの」
 
 物見遊山の気分に浮かれていただけかと思いきや、于禁も押さえるところだけは押さえていたらしい。 年頃の女性らしい感性を持つ于禁ではあるが、腐っても一角の武人。 己の上官となる者の挙動を見逃すことはない。 しかし、それに反駁する者がいた。
 
「えー、そうかぁ? ウチは凪みたいにお堅い感じがしたで?」
 
「……………、結構なことじゃないか。 真桜のような不真面目な方であるより、よほどいい」
 
「うわッ! ひどッ!?」
 
 李典の物言いに、憮然となりながら毒を吐く楽進の声音が我知らず厳しくなった。 女、三人寄れば姦しいとは言うが、三者三様の意見は、それぞれの性格を濃く現しているといえよう。 或いはそれを見越して徐晃は、三人で話し合う時間を設けるために、この場を離れたのかもしれない。 いくら義勇軍を立ち上げ、戦場を駆けるだけの肝の太さを持つとはいえ、三人は花も恥らう乙女というべき年頃である。 急な環境の変化から、戸惑いの一つや二つが生まれても不思議ではない。 不器用で女性の機微には疎い徐晃らしい精一杯の気の回し方であった。
 
「じゃあ、凪ちゃんはどう思うの?」
 
「せや、凪はそこんところ、どう思ってるねん」
 
「真面目そうな方で良かったと思ってる。 それに、曹操様が真名を預けたお方だ、従うことに是非はない」
 
『…………………。』
 
 楽進が毅然と放った宣言に、二人は黙した。
 
「な、なんだ?」
 
「いや…………。」
 
「凪ちゃんらしい答えだなぁって思ったの」
 
「―――――、お前たち………。」
 
 さも白けきったと言わんばかりの二人の反応に、さしもの楽進も苛立ちを覚えて、思わず語気を荒げる。 だが、そんな楽進の剣幕を意にも介さず、からかい半分の于禁と李典の二人は示し合わせていたかのように、顔を見合って苦笑を作る。 そのあまりにも自然な二人の振る舞いに、楽進は怒りを通り越して鼻白む。 毎度のことではあったが、二人と己との間には、うめがたい感性の溝があることを再認識する楽進であった。
 
「はぁ………。」
 
 楽進が困憊した風に溜息をついた直後、今まで沈黙していた扉が開く音が聞えた。 三人ともそちらを向けば、盆の上に茶器を乗せ、部屋に入ってくる徐晃の姿があった。 その立ち姿は、戦場で大斧を振り回している徐晃を知る者であれば、何かの冗談かと笑い飛ばしてしまいそうになるほど、奇妙な存在感を醸し出していた。
 
「む、すまん。 待たせてしまったか?」
 
「い、いえ! 大丈夫です」
 
「そうか……。」
 
 丁度、楽進の溜息が耳に入り要らぬ勘違いをした徐晃だったが、即座にそうではないと判ると微笑しながらも安堵の溜息を漏らした。
 
「世辞にも達者とは言えん腕前だが……。 その……、飲んで感想を聞かせてもらえると嬉しい」
 
 本人の言うとおり、机の上に茶器を置いて準備を始める手つきは荒々しく極端で、茶人と呼ぶには程遠いものだった。 よく見れば、普段通り涼やかに笑って見える徐晃の横顔も、慣れない作業に強張った薄笑いで塗り固まっているのがよく分かる。
 
「華琳殿から、こういう作法の一つは知っておけと、叱られてな………。」
 
 はは、と徐晃は妙に照れくさそうに笑いながら茶盤の上に茶壷を置き、茶葉を入れ始めた。
 
「あ、茶海と茶杯もお湯で温めておかないと駄目なの」
 
「む、そうだったな」
 
 さも些細な失敗であるかのように徐晃は気安く頷いて、茶壷に入った茶葉を取り除いた。 生まれてこのかた茶器など扱ったことのない徐晃なのだから、当然、茶葉の量をどれほど入れれば良いかなど知るはずもない。 作法の指摘をした于禁は戦々恐々としながら徐晃の動作を目で追っているが、あきらかに手順がおかしい。 そもそも何故、茶海や茶杯も温めるのか、といった理由を知っているのかさえ怪しい。 流石に豪快に茶葉を入れすぎたと察したようで、茶壷の底に薄く茶を敷きつめる程度に抑えているものの、この暴挙を李通が目の当たりにしたのなら、丸一日を費やして説教をしていたことだろう。
 
「蓋をして、湯をかけ温め………、茶海に移す………、だったか?」
 
「……………………。」
 
 子供が刃物を扱っているかのような危うい手つきの徐晃の作業が、早く終わらないものかと願って止まない楽進と李典であった。 せめてもの救いは、作法を知る于禁が横から口を挟まない所を見るに、致命的な間違いは起こしていない、ということだ。 それでも、于禁が目を見開いたり、息を呑むたびに、楽進と李典は戦場さながらの緊張感が背筋を伝う。
 
「あ、あの………。 侍女に任せては、駄目なのでしょうか?」
 
「駄目だ。 それでは上達しない」
 
 では、自分たちは徐晃の更なる高みを目指すための生贄なのだろうか。 半ば本気でそんなことを脳裏に過ぎらせた楽進だった。
 
「いささか時間をかけてしまったが、まぁ大丈夫だろう。 さぁ飲んでみてくれ」
 
『………………。』
 
 不安しか覚えない徐晃の言葉に三人は、身を硬くする。 しかしそんな様子を全く斟酌しない徐晃は嬉々として三つの茶杯を差し出すのだった。
 
「ッ! えぇいッ!!」
 
「凪ちゃん…………。」
 
「凪………。」
 
 どう見てもただお茶を飲むには程遠い気迫を持って楽進は、がぶりと一息に中身を飲み干した。 その華奢な体躯でありながら、大酒飲みの男にも勝るとも劣らぬ豪胆な呷りようは、何を勘違いしたのか、徐晃さえも愉しげに微笑するほどだった。
 
「―――で、味はどうだった?」
 
 得意満面の笑みで徐晃は、不意打ちのように唐突に楽進に問いかけた。
 
「………、ぇ?」
 
「だから、味だ」
 
 楽進は口ごもった。 ただ普通にもてなされ、出されたお茶であれば楽進とて不器用ながらも、言葉を選んで回答することができただろう。 だが、女は度胸と、気合一喝で味など二の次で飲み干してしまっては、どう答えて良いのかさえも判断がつかない。 状況からみて仕方のないこととはいえ、己の上官となる人が、一応はもてなしで出してくれた物に対して分からないでは、面目を潰してしまう。 もはや、美味い不味いはこのさい問題ではない。 
 
「け、結構な……、お手前で………。」
 
「そうか……、良かった」
 
 楽進の強張った声音に、しかし徐晃は表情を弛め静かに頷いた。 それは微笑みと呼ぶにはあまりに淡いものだったかもしれない。 だが徐晃の笑みめいた表情は、確かに安堵の色が窺えた。 それは、拙いながらも誰かに美味しいと言ってもらえたことへの喜びが芽吹いた証であった。
 
「そういえば、まだお前たちの感想を聞かせてもらってないな」
 
 いよいよ徐晃が于禁と李典にそう水を向けたとき、彼女たちは楽進よりも幾分かは余裕を持って対応することができた。 しかし、徐晃の淹れた手順を見てしまっていただけに、必要以上の警戒をしているのか、僅かながらの躊躇をみせる。 だが、それでも差し出された杯は拒むことなく、喉に流し込んだ。
 
「あ、美味しいの………。」
 
「ほんまや………。」
 
 言葉に出してみる二人であったが、あまりに味が普通だった為に、その先の言葉が続かない。 しばらく呆け顔で立ち尽くした二人だが、思えばべつだん驚くほどのものではなかった。 于禁が徐晃の掌を穴が開くほどに注視していたのだ。 致命的な間違いを犯していなかった時点で、驚愕するほど不味い物が出るはずがない。 
 
「ははは………。 そこまで意外そうな顔をされると、流石に落ち込むな」
 
「あッ! ご、ごめんなさいなの」
 
「す、すんません」
 
「なに、いいさ」
 
 徐晃は力無く微笑むとまず一杯、自分の茶杯に茶海の中身を注いで一口だけ口に含んだ。
 
「ふむ………。 やはり李通殿のようにはいかんか……。」
 
 独り言にしては大きすぎる声音であったが、眉根を下げ、かぶりを振る姿は徐晃にしては珍しい弱気を滲ませたものだった。 だがよく見れば、その口元に浮かぶ表情は、今までと変わらない秋空のように涼やかな微笑があった。 それは失敗を恐れず、諦めなど知りもしない、未知を求め続けた探求者のそれ。 自分の内側に、まったく未知の領域を見出してしまったかのような、そんな漠然とした高揚感。
 
「まぁ、それも今後次第か……。 ふむ………。」
 
 徐晃は小さく息をついて腕を組むと、黙考して暫しのあいだ唸りをあげた。
 
「やはり、気の利いた台詞が浮かばんな……。」
 
 皮肉げに口元を吊り上げて徐晃は卑屈に笑ってみせる。 四の五の考えてみたものの、やはり己は雅さな似合わぬ無骨者であった。 そもそも貴人のような鮮やかな言葉を吐こうなどとは思ってもいなかったが、それでも新たに部下を持つ者としては、少しぐらい格好を良く見せたいものなのだ。 しかし、お茶の一杯で場を和ませてからと要らぬ行動を起こしてしまったが、それは欲張りすぎであったと、徐晃は内心で猛省する。 ならば、残っているものは己の偽らぬ心を伝えるのみである。
 
「この際だ。 身内の恥をさらす次第で羞恥の極みだが、腹蔵なく言う」
 
 楽進、于禁、李典の三人の娘たちを見据えて徐晃はそう静かに口火を切った。
 
「今……、我らの置かれている現状は、芳しくない。 兵士の不足、備品の不足、民たちへの配慮の不足……、枚挙に暇がないな……。 だが、何より足りていないのが、指揮官の……、兵たちを束ねられる者がいないことだ」
 
『………………。』
 
「華琳殿や、それに付き従う者たちとて万能ではない。 足りなければ他から補うのが定石だが……、しかし無い袖は触れん」
 
 切り出したのだから、もはや取り繕う必要はないと判断したのだろう。 徐晃は黙考するかのように一度目を閉じ、眉一つ動かすことなく、巌のような声で先を続ける。
 
「が、何もそこまで万事が悲観に満ちたものではない。 前向きな材料もまた多くある。 その一つがお前たちの参入だ」
 
「私たち………、ですか?」
 
「あぁ、もしお前たちが華琳殿の下に集ってくれなければ、事態はより深刻だっただろう」
 
 それは現状からくる皮肉ではなく、徐晃はただ淡白に純然たる事実を告げた。 彼女たちを得られたことは、この世の金銀財宝を目の前につみあげられたとしても、なお余りある価値を持つ。 もし楽進たちの存在がないまま黄巾党たちと対決する羽目になっていたら、今までにない最悪の戦死者数を出していたことだろう。 ただ唯一不安の材料があるとすれば、それは彼女たちを預かった徐晃の手腕にある。 果たして曹操の目論見通り、楽進たちを一級の将の器まで鍛え上げることができるのかどうか、全てはその一点にかかっている。
 
「現状、我ら武官の力量は各々みてもそれなり以上のものだ。 しかし、それは個々の武であり統率する者として見ると………、皆、癖が強い」
 
 そう言って、徐晃が一番に思い浮かべたのは、やはり夏侯惇だった。 次に李通と、浮かんでは消える武将たちの顔だったが、もし徐晃の頭の中を覗き見ることの出来る者がこの場に居合わせていたのなら、断固としてなぜ自分の顔を真っ先に思い浮かべないのか、と異を唱えたことだろう。
 
「お前たちの人としての癖の強さは、まだ俺は知らん。 だが、指揮官としてみればまだ日が浅い。 つまり、下手な癖の無い状態にあるということだ」
 
『…………………。』
 
「話が長くなってすまん。 結論を言おう、お前たちを指揮官として鍛え上げる。 それが上官としての俺の務めだ」
 
 徐晃がそう放った宣言に、しばし場が静まりかえった。 話を聞き届けた三人は、驚きに目を見開きながら互いに顔を覗き込むようにして徐晃の説明を飲み込もうとしている様は、明らかに動揺からくるものだった。 それを見て、徐晃はむべなるかな、と胸内で苦笑する。 義勇軍から、今は至弱であるが将来は至強へとなる可能性を大いに秘めた一軍を預けられる、その候補者として選ばれたのだから。
 
「さて……。 何か質問はあるか?」
 
 硬い声で三人の反応を見るべく語りに間を開けた。
 
「――――――、なんでもいいぞ? 俺に答えられるものなら答えよう」
 
 些か厳しい口調だったか、と徐晃はそこでようやく表情を普段のものへと弛めた。
 
「で、では………。」
 
「うん?」
 
「具体的に、私たちは一体何をすればいいのでしょうか?」
 
「今は、別段何も……。」

「え?」
 
 驚きに息を呑む楽進に、徐晃は皮肉めかした笑いに口元を歪めて、先を続ける。
 
「いや、それは正確ではなかったか。 ふむ……。 最初は手習い程度……、市街の警邏からになるな。 この屯所を基点として、街全域の道を網羅してもらうことになる」
 
「ぜ、全域……、ですか?」
 
「無論だ。 盗人など好んで路地裏に逃げ込む。 そんな時、道を知らなかったでは話にならんよ」
 
 なるほど道理である。 しかし、全ての道ともなれば、まさに蜘蛛の巣のように散る細い路地も存在する。 さらに、流民が多く生活する区画など流体の如く、不定形に道が動くため、把握するのは、素人目では容易ではない。
 
「だが、まぁ………、いきなりは無理だな。 俺や、他の兵士たちの後を付いて回って追々覚えていけばいい」
 
 一見、複雑に入り組んで見える路地裏も、その特徴を見抜いてしまえば苦はないことだった。 どのような場所でもやはり力関係というものは存在する。 路上で商いをするのならば、出来るだけ人通りの多い場所で、そう思うのが人の心理だ。 その基部となるのは、別区画に通じる出入り口に二ヶ所。 さらに、その二ヶ所には劣るが、やはり人為的に生み出された人の流れが集中する要地があと二つ流民街の中心に存在する。 充分な旨味を吸い上げられる箇所が部分的にあるだけで、その場所を押さえられなかった力のない末端が絶えず移動を繰り返しているのだ。
 
「始めのうちは戸惑うだろが、慣れてしまえばそう難しいことではないぞ。 何せ俺でも覚えられるぐらいだからな」
 
 そう言っ豪放に笑い飛ばす徐晃は、まるで悪戯の言い訳をする子供のような悪びれもしない表情であった。 そうして途方に暮れる三人に、徐晃は晴れやかにこう語るのだった。
 
「そう難しく考える必要はない。 とりあえず壁に当たるまで突き進んでしまえばいい。 案外何とかなるもんだぞ?」
 
「………………。」
 
 つい先ほど、楽進は徐晃を真面目そうだ、と評したがそれを心の中で訂正した。 屈託のない徐晃の笑顔を正視できず、楽進は虚空に視線を彷徨わせて嘆息を漏らす。 案内をしてもらっていた最中や、曹操陣営の現状を説明していた時の顔から、とても厳格な人だと思っていたが、冗談ではない。 悪びれもせずに笑いながら楽進たちを見る徐晃は、まぎれもなく于禁や李典と同じ人種だ。 すなわち己の趣味嗜好を優先させる快楽主義者に他ならない。 さらに、楽進には悪いことに徐晃は、二人よりも輪にかけてどぎつい色を醸し出している。

「はぁ…………。」
 
 なぜ自分の周りには、こういった人種が集まってくるのだろうか。 やるせない感慨を持て余しながら、いったいどんな顔をして徐晃に向き合えばいいのやら判らず、いっそ消え去ってしまいたいほどの心境に楽進はなっていた。 于禁と李典の二人と一緒に行動するようになって以来、楽進は胃痛の気配ばかりを感じていた。 だが今回は、本当に胃に穴が開く覚悟をしなければなさそうだ。 楽進は、目を閉じてもう一度、小さく吐息をついた。 再び視界を開いたときには、もしかしたら世界はもう少しだけ自分に優しく接してくれるのではないか。 そんな淡くも無常な期待を懐きつつ、楽進は無意識のうちに腹回りを撫で回すのだった。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 街に出よう、そう提案した徐晃は、有無を言わさず楽進、于禁、李典の三人を引っ張りまわした。 無論、徐晃としては少しでも早く街に馴染んで欲しい一心からくる気遣いだったが、三人からすれば嵐に巻き込まれたようなものである。 そもそも、繊細な乙女心など意にも介えさない徐晃が三人を気遣おうなどと、笑い話でしかない。 そして当然のように右へ、左へ、と連れまわされた三人の最後など、もはや立っている余力さえなく道端に膝をつきかけた有様であった。
 
「ふむ………、鍛錬不足か?」
 
 そう独りごちる徐晃は、いま城内を闊歩していた。
 
「まずは体力作りから、か………。 兵たちと一緒に城の外を走らせてみるか………。」
 
 徐晃に担がれ、各自の寝室に放り込まれた三人が聞けば、血も凍るほどの事項を徐晃は鉄の意志でそう心に決めた。 そんな度外れた事を思い描きながら歩いていた徐晃は、途中の廊下でばったりと姜維と出会した。
 
「む………、クゥか?」
 
「あや? 仁様ですか?」
 
 曹操と変わらぬ背丈の姜維が両の手に持ち、積み上げられた竹簡で姜維の上半身が隠れてしまい、一見すれば竹簡の物の怪といった風体だった。 崩れそうで崩れない絶妙な体勢を維持しつつも、苦労しいしい歩く姜維の姿は、職人の下へ弟子入りしたばかりの子供のようで、見ている方としては愛らしさえ感じさせる。
 
「持つぞ」
 
「あ………ッ!」
 
 何か言い返す前に、竹簡を半分ほど奪い去られてしまい、姜維は申し訳なさそうな表情で徐晃を見つめた。
 
「すみません……。」
 
「構わんよ。 行く先は同じだからな」
 
「う? 政務室に、ですか……?」
 
 文官でもない者は、あまり寄り付かない場所に赴こうとする徐晃の発言に興味を惹かれたのか、姜維は眉を上げてみせる。 徐晃本人もらくないと自覚しているようで、乾いた苦笑混じりに姜維の問いに答えた。
 
「まぁ、華琳殿に報告したいことがあってな」
 
「あぁ……、そうだったんですか。 あッ! でも………。」
 
「うん? どうかしたのか?」
 
 さも言い難そうに姜維は、視線を左右に彷徨わせたあと、眉根を下げ心底申し訳なさそうに答えた。
 
「いま、華琳さんは休憩がてら散歩に出ていまして、政務室にはいないんです……。」
 
「ふむ、そうだったのか」
 
「あの、何でしたら部屋で待ちますか?」
 
「いや、いいさ。 それほど重要な用、というわけでもないしな」
 
 さして重要でもない用事なら、わざわざ政務室まで出向くだろうか。 些細な疑問であったが、妙に律儀なところがある徐晃らしい、といえばらしい行動であったため、姜維も深くは考えなかった。 その後は、特に会話もなく、二人の間にできた微妙な空白の時間。 気まずい空気の沈黙というわけではなく、穏やかな小春日和の陽光と風が頬を撫でてゆく、そんな居心地の良い空白だった。
 
「…………、そう言えば仁様」
 
「ん? 何だ?」
 
 先に沈黙を破ったのは意外にも姜維だった。
 
「楽進さん達が率いていた義勇軍と、先の戦で徴兵され、まだ軍に残って下さっている有志の方々の再編成のことなんですが………。」
 
「ふむ……。」
 
「もしかすると仁様の下に集められることになりそうです」
 
「ほぅ……、それで?」
 
「まだ内々の話なのですが、つい先日の小会議で華琳さんがそう切り出したんですよ。 と言ってもまだ仮の話……、なのですが」
 
 意外な事情に、ふと徐晃は視線で姜維に問いを投げかけている自分に気が付いた。 姜維はそんな徐晃の視線をやんわりと受け止め、我が事のように誇らしげに、大きな胸を張って先を続ける。
 
「態度にこそ出しませんが、楽進さん、于禁さん、李典さんの加入は華琳さんにとっても喜ばしい事のはずです。 そして彼女たちを任せられた仁様に寄せている期待もまた大きいものです。 さらに、上手くいけば、なのですが……、いま私が取り組んでいる案件が通れば、微力ながらも仁様の力添えになれるはずです」
 
 普段は落ち着いた様子の姜維なのだが、よほど取り組んでいる案件とやらに力を入れていると見え、何やら興奮冷めやらぬ状態である。 その眼差しからは、徐晃に向けられる信頼と情愛がありありと窺えた。 だが、瞳を真っ直ぐに見据える姜維に、徐晃は苦笑交じりに話の穂を接いだ。
 
「そこまで持ち上げられると、面映ゆいを超えて畏れ多いな」
 
「そんなことないですッ! 仁様はもっとご自身を主張なさるべきです」
 
 なぜか自分が意固地になっていることさえ気付かずに、姜維は食い下がる。
 
「先の評定の時もそうですが、与えられた恩賞は、ちゃんと受け取るべきですよ……。 謙虚なのは良いことですが、行過ぎれば嫌味になりかねませんから……。」
 
「それはまぁ……、クゥの言いたいことは、判らんでもないが……。 俺が前へ前へと出しゃばる必要もなかろう?」
 
 苦笑しながら嘯く徐晃を、姜維はまじまじと見つめた。 てっきり、まるで他人事のように涼しい顔で笑いながら言い出すものだ、と思っていた姜維としては、徐晃の反応はやや意外なものだったからだ。
 
「華琳殿は言うに及ばず、春蘭殿、秋蘭殿、季衣にそしてクゥ……。 現在の華琳殿の幕下にある一軍を担うに値する武将で華やいだ人物をあげれば、もう五人だ。 そこに今は、鍛え上げている段階だが、いずれ楽進、于禁、李典の名が加わるのだ、俺が割って入っても仕方ないことだろう?」
 
 事も無げに語る徐晃を前にして、姜維は内心忸怩たる思いを禁じえない。
 
「幸い、俺なんぞよりも、華琳殿やお前のお墨付きのある、あの三人に恵まれた。 図体だけ無駄に大きい俺は、お前や彼女らの才を発揮できるよう身体を張れればそれでいい」
 
「それは………。」
 
 姜維の口を衝いて出かかる言葉はしかし、喉よりも先へ出ることはなかった。 論で折れたというよりも、徐晃の秋空のように濁りなく涼しげな笑みに姜維は敗北したのだった。 そしてその微笑の中にある揺ぎ無い意思を感じたからこそ、姜維はただ黙して一歩身を引くことを選択する。 徐晃が笑いながらそう言うのなら、姜維にとって優先させるべきことでもあったし、何よりそれは間違いのないことなのかもしれないから。
 
「ともかく、クゥ………。 そんなことで気を揉まんで欲しい」
 
「……………、分かりました」
 
 姜維が胸に秘める葛藤を、徐晃もまた何となしに察したのだろうか。 困ったように、申し訳なさそうに、それでも瞳だけは優しくはにかんだ笑顔を姜維へと向けた。
 
「む、着いたな」
 
 話が落ち着いたところで、都合よく姜維の目的地である政務室の前に辿り着いた。 両手が塞がっている姜維に変わって、徐晃の厳つい手が扉を開けると、中には入らず手に持った竹簡を再び持ち主の元へと戻した。
 
「あ、ありがとうございました」
 
「なんの。 ではな」
 
 別れも言葉もそこそこに、その場から背を向けて立ち去っていく徐晃の背を、姜維は部屋の中にいた夏侯淵から声をかけられるまで、竹簡の脇から覗き込むようにして見送り続けた。 その視線を背に受けながら徐晃は、ゆっくりと、だが決然とした足取りで、廊下を進む。
 
「すまんな、クゥ。 嘘をついた」
 
 本人を前にしない謝罪など意味を成さない。 だが、そう言わずにわいられなかった。
 
「華琳殿への用件、重要なものなんだ………。 お前たちみたいな華のある者には話せん、な」






あとがき

お盆も終わってようやく通常稼動な日々に戻ってホッっとしております。
どうもギネマム茶です。
 
さて今回は、前回のあとがきでも述べました通り、三人娘を話しに馴染ませるための回といった感じです。
いや、まだその下準備といった感じでしょうか。

華琳様の陣営も徐々に人数が増えてきまして、色々なキャラに焦点を当て難くなってきました……。
もう少し、魏陣営だけで頑張っていきたいのですが、そろそろ他の勢力の描写も入れてみて気分を変えてみようかとも思っています。
 
でもまぁ、大風呂敷広げすぎないように注意しないといけませんね。

ではまた次回



[9154] 二十六話・このままッ!!親指を!こいつの!目の中に(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:347180a6
Date: 2010/09/10 19:42
 城内の中庭に広がるのは、普段の激務から開放され癒しを求め作られた庭園がある。 文官、武官問わず憩いの場所として大いに活躍しているその空間は、城下町への近道という利便性を兼ね備えていた。 ただ、一方で鬱蒼と生える木々が景観を空虚にし、人の足を遠ざける場所も存在する。 庭師の手入れが行き届いているため、流石に背の高い雑草などは生えてはいないが、それでも人の気配が感じられない空気は、夜ともなれば月明かりに照らされた木々が、緑の陰鬱な不気味な暗闇を醸し出すことだろう。 人目を忍んで話をするには、なるほど、うってつけの場所である。
 
 更なる拡張を考慮して幅広に設けられた敷地を、徐晃はむしろ堂々と歩んだ。 相対する相手もまた、燦然と輝く太陽すらも恥らうほどに、その偉容は輝かしい。 余人を交えず徐晃を待つ人影は、この城の主である曹操で間違いなかった。 どこか硬い鉄面皮を装った徐晃とは違い、妙に涼しい表情の曹操は、これより密談を行おうとする者とは思えない。 だが徐晃は小さく息を吐くと意識を切り替え、己よりも遥かに背の低いにも係わらず、自分こそ見下ろされているいるような錯角を起こさせる曹操と対峙した。
 
「遅れて申し訳ない」
 
 開口一番、徐晃はまずは謝罪の言葉を口にする。
 
「構わないわ。 無理を言って呼びつけたのは、私なのだから」
 
「恐縮です。 華琳殿」
 
 寛大なる許容の態度に、徐晃は痛み入ったとばかりに目を伏せた。 それをみて頷いた曹操は真顔のまま、どこか冷淡な口調で徐晃に語りかけた。
 
「それで、何か分かったかしら?」
 
「………、むしろ謎が深まりました」
 
「どういうこと?」
 
 曹操の問いに、徐晃は皮肉めかした笑いに口元を歪めて、続ける。
 
「黄巾党の構成員は若者が中心となっており、各地の盗賊団を吸収し散発的な暴力活動を行っているが主張らしい主張は、今のところはなく現状のところ、連中の目的は不明……。」
 
「そうね……。 私たちが知っている奴らの情報はその程度のこと。 だからこそ、今はどんなに些細な情報でも欲しいのよ」
 
「えぇ、そこで吉報が……。 黄巾党の首領の名が判明しました」
 
「ッ!? その名は?」
 
 徐晃の言葉に曹操は驚きのあまり瞠目した。 だが、それも一瞬のこと。 刃の如く視線を鋭くし、唇を切り結んで徐晃を見据える曹操の表情は険しい。
 
「張角」
 
「張、角………。」
 
 つい、口に出して呟いていた。 連日の順回路と時間の変更。 兵士や民たちから齎された情報、賊の足取りと出没地域の予測。 思いつく限りの策を巡らせ、小さな噂話の類にも耳を傾けた。 にも係わらず、未だ正体が掴めず、まるで底なしの闇と向かい合っているかのような感覚に囚われていたところに舞い降りた首領の名は、焦りが募る曹操にとってまさに福音であった。 遠のいていた敵影が、ようやく朧気ながらも形を現したのだから。
 
「さらに言えば、姉か妹のどちらかが二人います。 連中の間では張三姉妹と呼ばれているそうです」
 
「三姉妹……。 ふむ……。」
 
 白魚のような指先で顎を摩りながら曹操は黙考する。 曹操の持つ情報網は思いのほか広い。 だが張角は、その網にかからず暗躍し続け、尚且つ自分の情報は尻尾の先さえ見せないその手口は敵ながら天晴れというほかない。 が、そこまで人心を掌握する力を秘めていながら、軍団を用いて統率する者としての能力はあまりにもお粗末なものである。 無論、戦闘で発揮されるものと、人望によるものとを直結して考える曹操ではない。 人の心を掴むことに長けている者は大勢いるし、そのやり方も多種多様に存在する。 その中には自分以上の能力を持った者がいたとしても曹操は決して稀有なものとは思っていない。 

「どうやら張角は、人心を掴むことだけに関しては、かなりの才を有しているようね」
 
「そのようですな」
 
 だが、幾たびか戦場で観察した黄巾の賊の有様から推し量るに、あれがはたして本当に人心を掌握できているのかどうか。 ともかく、確信を持って言えることは、張角の行動原理が何であれ、必ずや曹操の行く手に立ちはだかってくる。 それに、たとえ首領である張角を失ったところで、憚りもなく狼藉を働く賊どもは、大人しく此方に従うような手合いではない。 それが彼女の覇業を阻むことになるのは明白だ。
 
「他に分かったことは?」
 
「些細なことではありますが、どうやら奴らも一枚岩ではない様子。 俗な言い方をすれば、張角派と無頼派、といった具合ですな」
 
 成る程、満足いく得心とともに曹操は頷いた。 執拗な尋問を繰り返そうとも貝のように口を閉ざし続ける者と、刃をちらつかせるだけの簡単な脅し程度で小鳥のように囀る者の差が、今までは不可解なものとして映ったがこれで筋道が通った。 
 
「その二つの派閥が内部で反目しあっているわけか………。」

「はい、しかし残念ながら情報を持っていた者は、無頼派でした」
 
「うん……? じゃあ、よく張角の情報が手に入ったわね?」

「それなりの地位にいた者から、聞き出せましたので」

「そう………。」
 
 昨日の時点ではまだ名前さえも知りえなかったのだから、充分すぎる情報を得たといえるかもしれない。 だが、ささやかな情報を得てしまったからこそ曹操の思考を曇らせる。
 
「謎が深まった、か……。 仁の言葉の意味、理解したわ」
 
 現状を委細漏らさず叩き込んだ聡明な曹操の頭脳は、混沌に入り乱れた様子を呈していた。 張角の目的も気になるが、曹操にとってよりいっそう気懸かりなのは、洛陽で蜂起した者たちについてだ。 彼らの行動原理は定かではない。 が、洛陽を襲ったという黄巾党の軍勢が、無頼派ではないということは間違いあるまい。 そうでなければ、意味を成さない危ない橋を渡ったことになる。
 
 蜂起事態は失敗に終わったが、もし仮に成功したとしても、無頼派には御旗が存在しない。 ただでさえ収拾がつかないほどに膨れ上がった亡者たちの群れが野に放たれることになる。 そうなれば、それぞれが割拠し混乱分裂することは目に見えている。 最悪の場合、曹操を含む諸侯らに各個撃破されることとなり、黄巾党自体が消滅することになりかねない。 それが嫌であれば略奪もそこそこにして、自己防衛にあたるべきなのだ。
 
 では、張角派は。 曹操は深い溜息を吐き、空を仰ぎ見た。 結局のところ、懸念が行き着くところは"そこ"なのだ。 曹操には張角という人物がどういう意図でこの混乱を引き起こしたのか、未だに理解できない。 徐晃の報告を聞くまでは、曹操は、黄巾党の面々は張角の傀儡となって動いているのかと睨んでいた。 だが、奴らは何を血迷ったのか内輪揉めを起こしているらしい。 ともすれば、無頼派と張角派の軋轢は、結果として曹操に利する形の僥倖をもたらしたことになる。
 
「はぁ……。止めよ、止め」
 
 かぶりを振って焦りに囚われる自分自身を諫めた。 いま自分が優先的に片付けなければならない事柄は他に沢山ある。 この大陸全土を巻き込んだ戦乱も、曹操の観点からみれば、ただの通過点にしか過ぎない。 たとえ張角の意図が謎のままでも、そこに拘泥して肝心なことを忘れてしまうようでは、元も子もないのだ。 そんな事さえも見落とすとは、これは判断力が曇り始めた兆候かもしれない。
 
「む……? では報告はこれで終えますか?」
 
 予想だにしなかった曹操の言葉に徐晃は一瞬だけ呆気に取られたが、すぐに表情を引き締めた。
 
「ッ! ―――――-あぁ。 違うのよ、そうじゃないの」

「ふむ……?」
 
「こっちのことよ、気にしないで」
 
 胸の内に生じた僅かな動揺など、顔には微塵も出さず曹操は微笑んで見せた。 曹孟徳は、気の迷い、などというものを自分に許すことは決してない。 そんな弱体は命取りに直結するからだ。 だが、部下を目の前にして尚、深く思考の渦に囚われていたことから目を逸らすのも、それはそれで冷静な態度ではない。 そう。 認めたくはないが、事実だった。 とかく権力志向の強いものは、こと目的意識については人並み以上に明々白々なのだが、通例だ。 だからこそ、相手が何を欲しているのかを見抜き、与え、どこを目指して進んでいるのかを見極めることができたからこそ、曹操はこれまで何者にも脅かされることなく、今の地位を築き上げることができた。 それだけに黄巾党の、張角のような表も裏も解らない敵というのは最大の脅威である。
 
 まるで遥か高みからせせら笑われているような、こちらを物陰から覗き見ているかのような、まさに原初の恐怖とでも言うべき悪寒。 しかしこれも、為政者の曹孟徳であったのなら、現状にも眉一つ動かさず、ただ淡々と最善の打開策を見出すことに専念していただろう。 だが、深い思考の中から僅かに漏れ出した華琳という少女はどうしもうもなく危うく脆弱だった。 それは、苛烈なる現状に延々と益体のない思考に耽ってしまうほど追い詰められていたことを意味していた。
 
「ふむ………。 では、続きを………。」
 
 曹操の複雑な内情はどうであれ、額縁通りに言葉を受け取った徐晃はさして気に留めた様子を見せなかった。

「――――――、と言いたいですが黄巾党の件で判明したのはこれだけです」
 
「それで?」
 
「うん?」
 
「黄巾党の件、と言うからには、他にもあるのでしょう?」
 
「はは、まぁ一応………。」
 
 苦笑いをして見せたつもりが、さも言いたくなさげな重い口調と交じり合い、それが事の重大さを逆に露呈してしまっていた。
 
「報告を怠るのは厳罰の対象よ、仁?」
 
「それは、怖いですな………。」
 
 乾いた小さな笑い声で濁しながらも、萎れたかのように覇気のない双肩は隠しようもない。 徐晃は、いつになく重く沈んだ面持ちで、しばし黙したあと、やがて一つの問いを曹操に向けた。
 
「華琳殿……。」
 
「なにかしら?」
 
「俺と華琳殿が出会った時のこと、覚えておられますか?」

 曹操は徐晃の真意を掴めず当惑の面持ちながらも答えた。

「勿論よ、それがどうしたの?」
 
「…………、その時、問われましたな。 貴重な遺産を奪った悪党を探していて、その者たちを見ていないか、と」
 
「――――、待ちなさい仁。 まさかッ!?」
 
「はい、盗んだ張本人を捕らえました」
 
 曹操は驚きのあまりに徐晃の言葉に瞠目した。
 
「先日の戦場で、敵大将の副官をしていたところを捕らえる事ができました。 さらに言えば、今回の情報源もそやつから吐かせました」
 
「そう………。」
 
 徐晃の告白に、だが意外にも曹操は淡白に流した。 それどころか徐晃の口上に耳を傾けていたのかどうなのか、妙に冷え冷えとした表情で口元を歪めていた。  今までの不敵な微笑とは違う、見るものを震えさせずにはいられない笑み。
 
「奴の話ですと、華琳殿の追う遺産はある盗賊団に謙譲され、その盗賊団は黄巾党に吸収されたとのこと……。」
 
「だとすれば、張角への供物となった可能性が高い、か」
 
「はい、おそらく………。」
 
 話を聞き終えた曹操は、それで納得がいったと言わんばかりに一度だけ大きく頷くと、再び持ち前の不敵な微笑を浮かべた。

「…………、成る程。 もしそれが本当であれば、私が審判するに値する賊のようね」
 
  寛容にして残忍な絶対者たる者が放ったその言外にすることをを汲めば、血も凍るほどに凄惨な宣言であった。 だが、それを聞き届けた徐晃の心中は先ほどよりも増して重いものになっていた。
 
「華琳殿……。 無理を承知で申し上げますが、その者は尋問の際に、少々手荒く攻め立てたものでして………。」
 
「えぇ、無理ね。 その者は、酌量の余地無く極刑に値するわ」
 
「……………。」
 
 徐晃の言葉を最後まで言い切らせることなく、曹操はきっぱりと宣言する。 尋問と、この宣言と、はたしてどちらが"情報提供者"にとって慈悲深いものなのか。 少なくとも、自分の足で立つこともできない瀕死の状態から開放されるぶん、むしろ全てを終わらせられる方が幸せなのかもしれない。
 
「………、差し出がましい物言い、申し訳ない」
 
 歯に布を着せぬ磊落な徐晃がここまで心を責め悩ますのは悔恨の念である。 激痛のあまり喉を潰すほど悲鳴を上げていた情報提供者の有様に顔を顰めはしたが、徐晃が一番心を締め付けているのは、曹操にこのような人としての徳も倫理も眼中にない、ただ冷酷なものだけしかない場所に踏み入らせることにあった。 無論、それは徐晃の手前勝手な意見でしかないし、一国を統べる者であれば知っていなければならない義務である。 だが、それでも徐晃は、この気高く凛々しい少女には、正道を歩んで欲しいと願ってしまう。 常に揺るがぬ信念をもって、前を見て皆を率いて突き進む。 そんな姿こそが、曹操には相応しいからだ。
 
「しかし………。」
 
 徐晃はいったん言葉を切って曹操の反応を伺い、相手の沈黙を受けてさらに先を続けた。
 
「その者は華琳殿が手ずからの誅戮をするほどの者ではありません。 ですが、華琳殿の庭を荒らす害獣であれば、この俺が始末致しましょうぞ」
 
「仁………、私は、私が審判する。 そう言ったはずよ? それとも私の決定に異を唱えるということ?」
 
「滅相もない。 しかし、他の者でも手に余るような人物であるのならばまだしも、相手は庭を荒らすことしか能のない獣………。」
 
 よりいっそう冷え冷えとした曹操の視線に射抜かれながらも徐晃は言葉を接いだ。
 
「であるのなら、駆除するのは庭師の仕事。 華琳殿の『絶』を庭師の鋤も同然に扱うわけにもいかぬ、と愚考した次第」
 
「………………。」
 
 深く息をつき瞼を閉じて、曹操は沈黙した。 確かに、有り得ない。 己の分身ともいえる一振りを白昼に晒すには、ただの賊徒とあっては余りにも釣り合いが取れない。 だが、貴重な遺産を盗み出した罪を問えば、曹操自身が手を下さなければならない手合いであることもまた事実である。
 
「――――――。 仁」
 
「は……。」
 
「貴方。 どうあっても私に手を出させたくないようね?」
 
「……………。」
 
 今度は徐晃が沈黙する番だった。 徐晃とて自分なりに無理を言っているという自覚はあるのだ。 しかし、その真意を知らない曹操は重ねて問い質す。
 
「どうしてそこまでして、自分で手を下すことに拘るのかしら?」
 
「……………。」
 
 一向に解せない徐晃の意図を訝りつつも、曹操は答えを待った。 暫しの間、沈黙が続く。 たかが手前勝手な想いで踏み込んではいけない域にある案件だと、徐晃は承知している。 それは法の問題であり、徐晃個人がどうこうできる話ではない。 それでも徐晃は、曹操を虚言であしらった。
 
「申し訳ない華琳殿。 先の戦で、明確な首を上げることができず……、ちと焦っておりました」
 
 功を焦る猪武者。 つまりは、少しでも多く功績を挙げ曹操の役に立ちたいが、その功績を取り上げられそうで焦っている愚か者、という設定を捏造した。 はたして曹操は徐晃の内心に気付いているのか、いないのか。 さして面白くもなさそうに聞き届けるばかりだった。
 
「――――ふん。 つまらない理由ね」
 
 そして全てを聞き届けて発した第一声がそれだった。
 
「………………。」
 
「まぁいいわ。 貴方がそこまで言うのであれば、私も貴方に采配を委ねることに吝かではないつもりよ」
 
「え……?」
 
 先ほどまでとは一転した曹操の発言に、徐晃は思わず声を漏らした。 そんな徐晃の動揺に、曹操は持ち前の嗜虐味溢れる笑みを湛え、満足げに一度だけ小さく頷いた。
 
「やっぱり………。 貴方がどういう意図があって真意を伏せたのかは知らないけれど………。 賢しく立ち振る舞いすぎたわね、仁。 貴方、顔に思っていることが出すぎているわよ? そもそも私を係わらせたくないのであれば、内々で処理してしまえばいいものを馬鹿正直に報告までしてくるのだもの………、律儀というか、不器用なのか………。」
 
「………、申し訳ありません」
 
「結構。 私も貴方がどうやって処断を下すのか興味が出てきたわ」
 
 その言葉が戯れか真意か、徐晃には、にわかに判別がつかない。 内心で、目の前の少女に対する評価を再認しながらも、徐晃は平静を装った。
 
「…………。」
 
「無論、私もそこ場に立ち会うけれど、構わないでしょう?」
 
「は……。」
 
 問いという体裁ではあるが、事実上の命令である。 これでは徐晃も頷くしかない。 どうあっても賊の最後を見届ける気でいる曹操の様子に、徐晃は人知れず深く息を吐くのだった。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 闇に閉ざされたとある部屋の中は、冷ややかに湿った空気と、饐えたような匂い、そして壁と言わず部屋全体から香るまで染み付いた血臭は、かなりの時間をかけて数多の人々から血を啜りとってきたことを伺わせた。 その中で、一般の男性より身長が低すぎるせいか、手枷に繋がれ壁際に張り付けられている小男は、半ば吊るされている形でまだ生き長らえていた。
 
「……………。」
 
 身体の感覚は殆どないなく、体重を受け止めている両肩は今にも抜け落ちそうなほどに悲鳴を上げているものの、小男にとってそれすらも脳裏に去来するものに比べれば、如何程のこともなかった。 目の前で兄と慕った者を殺され、結局仇を討つことができなかった。 あまつさえ捕らえられ痛めつけられた挙句、苦痛に負け自分の知る全てを洗いざらい吐き出させられてしまった。 その口惜しさと慚愧が、身体の痛みよりなお痛烈に男の心を打ちのめす。
 
「…………しょう……、ちく、しょう……。」
 
 そして、追憶の幻視も儚く消えたあと、胸の内を黒く塗り潰すのは、白装束を身に纏った男の澄まし顔。 今もてるありったけの力で、既に枯れきった喉を磨り潰し小男は怨嗟をひりだした。
 
「畜生……、畜生ッ、畜生ッ!!」
 
 嗚咽が木霊する深い闇の中に、抗いようのない死の足音が男のいる部屋へと近づいてくる。 そしてゆっくりと扉が開け放たれた途端、男はまるでこの場が、どこかの王宮の一角にでもなったかのような錯覚に囚われた。 匂いも、肌に纏わりつく湿った空気は依然として男に不快感を与えている。 だというのに、もはや雰囲気としか言いようのない気配の感触が、明らかに変質した。
 
「この者が?」
 
「はい、こやつがそうです」
 
 床を踏み鳴らし、手に携えた真新しい剣を杖のように突き鳴らしながら、小男のいる壁際に近づいてくる巨躯は、他でもない怨嗟の相手、徐公明のものだった。 だが、もはや罵倒を浴びせる気力さえない男が、まだ顔に納まっている左目を驚きに見開いたのは、徐晃に続き部屋に踏み込んできた少女の姿にあった。
 
「へ、へへ……。 女連れとは、大層な身分だなぁ……。」
 
 今となっては喋ることすら難儀であろうに、それでも声音に憎しみ搾り出して言い捨てる男に、曹操は僅かに眉を顰めた。
 
「それとも、あれかい? こんな様に……、してくれた罪滅ぼしに、その女を抱かせてくれ―――――。」
 
 言い終わるよりも先に、徐晃は男の喉笛を鷲掴みにした。 樫の木のような掌で喉仏を圧迫され、たまらず噎せそうになる男の様子など意にも介さず、徐晃は片腕一本だけで首を掴んだまま、己の目線まで軽々と宙に吊り上げた。
 
「徒言を吐くな。 お前も賊徒とはいえ、一廉の将であろう、人品の欠けた物言いは慎め」
 
 呼吸を求めて喘ぐ男の顔を睨み据え、捨て置くように無造作に喉元から手を離した。 支えを失った男の身体は、再び放り捨てられる形で、ぶら下がる全体重を両肩で受け止めることとなり、その衝撃に、男は小さな呻きを漏らすが、依然として憎悪と殺意の篭った眼差しは衰えない。 むしろ、憎悪の対象を目の前にして、ますますその色を強めている。
 
「―――――、お前に機会をやる」
 
 厳格な声で語りかける徐晃は、何を思ったのか男の自由を奪っていた手枷を解いた。 両肩の苦痛から開放されると同時に、立つことさえ難儀していた男は、頽れて頭陀袋のようにどさり、と冷えた床に落ちる。
 
「曹操殿の元から宝を盗み出した所業……、許しがたいものである」
 
 だが、と徐晃は言葉を切って携えていた剣を男へ放って寄越す。
 
「将たらんとするのならば…………、これで自害しろ」
 
「………ッ!」
 
 蛇のような冷酷さと非情さを混ぜ合わせたその視線に小男は思わず生唾を飲み込んだ。 自分は死ぬ。 徐晃が訪れる前から覚悟していた抗いようのない事実を、ここに来て再び突きつけられた男は、だが動転する思考とは別の、心の中の一番醒めた部分で、すでに自分が死ぬことを容認していた。 自分が生きて外の空気を吸うことのできる可能性は、事ここに至って、それは皆無に等しい。 あと数瞬でも剣を握ることを拒めば、徐晃の足が男の顔を踏み抜くかもしれない。 選択の余地などどこにもないのだ。 全てを喪うのであれば、将として潔い最期を迎えることは、男の人生を省みても十分すぎる気高い死に様なのではないのだろうか。
 
「……………へッ」
 
 投げ寄越された剣を、彼は昏く虚ろな、抜け殻のような眼差しで見据えて、それから徐晃へと視線を向け、邪に口元を歪めながら、男は怨敵に向け憎々しく挑発する。
 
「くだらねぇ……、くらだらねぇよッ!」
 
 外道に堕ちた身から、徐晃たちを眺めれば、なんと傲慢で愚かしい姿だろうか。 生きることこそが全てだ。 そこに正邪などありはしない。 徐晃たちは選んで殺し、小男たちは無差別に殺してきた。 ただそれだけの差でしかないはずなのに、名誉だの誇りだの能書きばかりが達者なだけで、さも自分たちの行いが尊いものであるかのように見せ付ける。 そんな度し難い存在の言う事を聞き入れてやるほど、腐ってなどいないのだ。
 
「選んで殺すのが、そんなに上等なことかよッ!」
 
 意識は朦朧と曇りながらも、獣のような吐息に肩を振るわせつつ、男は最後の命の灯火をもって立ち上がった。
 
「はぁぁッ、ああぁッ!!」
 
 獣の咆哮とともに、男の左手の掴んだ剣が殺意に溢れる。 ただ激情に駆られるがまま、今生最後の一太刀が振り下ろされた。 もはや呼吸も型もなく、剣技ですらない斬り込みとはいえ、戦意も緊張も窺わせない弛緩しきった佇まいの徐晃にとって、それは致命的な凶刃となるはずだった。 が、そんな剣をすげなく阻んだのは、あろうことか徐晃の素手だった。
 
「そうか……。」
 
 憐憫すら通り越え嘆息交じりに呟いた徐晃とは逆に、渾身で押し迫る男の剣はびくともしない。 その圧倒的な膂力の落差は、徐晃の五指を豆腐のように削り落としたい男の気持ちとは裏腹に、非情なまでに現実を突き付ける。 だがそれでも男は、なおも怒りと憎しみを注いで微動だにしない剣を圧し込める。
 
「それがお前が選んだ死に様か」
 
 言い放つや否や、徐晃は刀身を掴む手とは逆の手を握り締めると、岩のような拳に力を込めて、男の額の真ん中を柘榴のように撃ち抜いた。 鼻から上が跡形もなく消し飛んだ後も、彼の口元だけは怨嗟の叫びに歪んだままだった。
 
「……………。」
 
 まさに電光石火の早業。 苦痛に襲われる暇すらない、迅速な死。 殺す者の心はどうあれ、死を送られた方は生き地獄を味わうことなく逝けたのだから、それは幸せなことだろう。 頭を潰されてなお小男の勢いは止まらず、徐晃へと迫るが、それでも身を躱さなかった。 結果、弛緩しきったまだ温かみのある男の骸は、廃墟が崩れるかのように頽れて、徐晃の胸の中に転がり込んできた。 奇しくも兄と慕った者と同じ末路を辿ったわけだが、いまの徐晃の胸に渦巻く遣る瀬無さは、あのときの比ではなかった。
 
「…………、馬鹿め」
 
 数拍の沈黙の後、物言わぬ骸を抱えたまま、徐晃は短くそう罵った。
 
「こうなる可能性は、貴方だって解っていたはずよ……、仁」
 
「………………。」
 
 徐晃は黙したまま答えないが、その沈黙は肯定を意味していた。
 
「存外、甘い男なのね、貴方……。 けれど……、私は悪くないと思うわ」
 
 徐晃は小さくかぶりを振った。 冷めゆく体温を腕の中に感じながら、いま徐晃の胸を捉えて放さないのは、得体の知れない焦りの念だった。 大儀もなく、理想もない、ただ我欲のままに弱者を嬲る獣の群れ。 その生き方はあまりに徐晃の知るものとは遠く、決して相容れない。 だがそれでも、と徐晃はもうこれ以上冷たくなりようもない、男の亡骸に目を向けた。
 
「華琳殿――――。」
 
 たとえ不回避なる死の運命だとしても、だからこそ、名目だけでも選択の余地だけは自由にさせてやりたかった。 己の意志と覚悟で選び抜いたという自負の念。 死することになろうとも、決して運命に流されたわけではない、そう誇れる気高さをもって逝ってほしかった。 だが、何かを、致命的に間違えた。 今更のように徐晃はそう痛感した。 偽ることをしない、憎悪を剥き出しにし隠すことをしなかった男の言葉の意味を思えば、彼にはもっと違う死に様があったはずではないのか。 
 
「――――、最後にこやつが吐いた言葉……。 もしこやつが生きていたとしたら、俺は何と答え返せばよかったのでしょう?」
 
 それは、もう考えても詮無い問いかけだった。 徐晃が振り向いて曹操に見せた苦笑いは、自嘲であったのかもしれない。
 
「……………。」
 
「いえ、戯言でした。 忘れて欲しい」
 
 秘めた憂いに曇っていた徐晃の表情に、このとき、ようやく微笑の兆しを顕した。 それを見て取った曹操は、徐晃の覇気の無さもすべて杞憂と割り切ることができた。 誰よりも貪欲に、生を謳歌しようと突き進む徐晃のああいう笑みは、どんな壁にぶつかろうとも己の信念をもって乗り越えようと、すでに足掻いている微笑だ。 ならば、どんな遠慮も気遣いも無用である。
 
「そう、分かったわ」
 
 そしてを見届けたうえで、その采配も、その行いも、曹操はよしとした。 相手から理解されることなくとも、曹孟徳だけは、正しい姿であったと理解していればそれでいい。
 今はただ彼を休ませてあげるべきだ。 表情こそ苦にもした様子を見せてはいないが、意識下には気付かぬうちに着実に心労が蓄積し、予期せぬところで集中力を鈍らせてしまうかもしれない。 それは今後を思えば、避けたいところである。 非情な言い方をしてしまえば、徐晃にはこんな些細な事柄で気を揉む暇さえ与えている余裕などないのだ。
 
「まずは、私の代行者として、この者の処断を下したこと、大儀であった」
 
「恐縮です。 華琳殿」
 
 淡々と平坦に礼を返す徐晃に、少女の心が鈍い痛みを訴えてくる。 しかし、それでも曹操はそれを無視して先を続ける。
 
「褒美として、湯の仕度をさせておくわ。 今日のことは、その鮮血と共にすべて洗い流しなさい」
 
「……………、は」
 
「遣いの者を寄越すから、それまでの間………。 悪いのだけれど此処で待機していてちょうだい」
 
「承知しました。 お心遣い痛み入ります」
 
 別れの言葉はなく、淀みのない足取りで、この湿りきった部屋から出て行こうと曹操は、ふと足を止め、戸惑い気味の声で徐晃を呼ばわった。
 
「ねぇ、仁……。」
 
「ん? 何か?」
 
 肩越しに振り向いた徐晃の双眸を、しばらく見つめた後、曹操は浅い溜息とともに目を伏せた。
 
「言ったでしょう。 貴方、顔に出やすいわよ?」
 
「何が……、見えますか?」
 
「さぁ? それは貴方が一番よく解っていることでしょう。 ただその顔は、皆の前では見せないことね」
 
「―――――そう、ですか……。 うん、そうですな」
 
 低く相槌を打つ徐晃の姿を見届け、曹操は再び背を向け、そのまま静かに扉を閉めた。 まるで、性根が素直すぎる彼を労わるかのように。






あとがき

わぁ! サラマンダーよりずっと早い!
どうもギネマム茶です

最近無性に『バハムートラグーン』がやりたくなり、押入れの置くから引っ張り出してきました。
しかし、私の心奥底に眠るトラウマは知っている! あの教会を! あぁ、あのシーンは見たくない! でも続きをしたくてたまらない
あれですかね? 脱臼するとクセになると言いますが、それと同じような感じで、何度もプレイしていると、それがクセになって止められなくってしまうのでしょうかね。
 
と、まぁ私の近状はいいとしまして、今回は裏の汚い部分、といった感じのお話でまとめてみました。
どこかで徐晃さんをションボリさせる的な話も欲しかったので、今回は都合が良かったといえばよかったです。
しかし、それを抜きにしましても、原作のゲーム内ではこういった拷問だとか、そういう部分には触れていなかったので、例の如く此方で勝手に拡大解釈しちゃうぜ、的な感じでやらせて頂きました。
 
次回……、次々回あたりから本格的な黄巾党討伐が始めれればいいなぁ、と思っています。

ではまた次回



[9154] 二十七話・な…なんて日だ…まったく今日はやく日だ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:9fdc852c
Date: 2010/09/29 19:40
「厄日だ……。」
 
 姜維を連れ、屯所の執務室へと立ち寄った徐晃の開口一番の台詞がそれだった。 いったい何があったのか、服には埃や泥が跳ね飛んでおり、その有様は確かに厄介事に巻き込まれていた証拠である。 だが、執務室に居た楽進たちがまず最初に目を向けたのは、白い服に飛び散った黒の斑点ではなく、徐晃の額だった。
 
「将軍……、いったいどうされたのですか?」
 
「あぁ……、これか?」
 
 苛立たしげに嘆息して、椅子に腰を下ろしてから徐晃は、己の額を指差した。 楽進が心配する通り、徐晃の額は赤く腫れ上がっており、取りあえずの処置として、姜維が手に持つ冷えた水の入った桶と布で凌いではいるものの、傍目から見る者としては、とても痛々しい有様であった。
 
「まぁ……、ちょっと、な……。」
 
「は、はぁ……。」
 
 あまり触れられたくない話題なのだろう、徐晃の口調には普段の歯切れの良さがない。 楽進を含め、その場にいた于禁と李典も反射的に姜維を見やったが、彼女も本人が話す気が無いのなら、と苦笑を浮かべて場を誤魔化すつもりらしく、口を開く気配はない。
 
「うわぁ……、痛そうなの」
 
「ほんまやで、どなんすればここまで腫れ上がるんや」
 
 恐る恐るといった風に、腫れた額をまじまじと見つめる二人に、徐晃は痛みからくる苛立ちを溜息にして吐き出し、姜維に絞ってもらった冷えた布を額に宛がいながら呟いた。
 
「触るなよ?」
 
「えー、どなんしよっかなぁ?」
 
「理由を教えてくれたら、止めてもいいの」
 
「…………………。」

「ッ!? こら! お前ら!」
 
 徐晃のこめかみに薄っすらと青筋が走ったのを見た楽進は、慌てて二人を諫める。
 
「いや、いいさ、楽進……。」
 
「徐晃将軍……、しかし」
 
 だが、それを止めに入ったのは、意外にもからかわれていた徐晃本人だった。
 
「ここ数日、どうにも神経を尖らせすぎていた……。 これも、単に巡り合わせが悪かっただけのことなのにな……。」
 
「はぁ……?」
 
 そう自らに言い聞かせるかのように苦笑を漏らす徐晃の姿に、その言葉の真意を知らない楽進は生返事を返すことしかできないでいた。 そう。 これは腐った床を踏み抜いたようなものだ。 雨上がりの日、服に泥が跳ねたようなものなのだ。 そんな瑣末な出来事に苛立ちを覚え、部下の前にまでその感情を表に出してしまったことを恥を覚えるべきなのだ。
 
「いや、なんでもない………。」
 
 そう言葉を区切ってから、徐晃は話を続けた。
 
「まぁ……、これを作ってしまったのは、俺の間抜けが招いた結果だ」
 
「仁様、よろしいのですか?」
 
「なに、構わんよ」
 
 姜維の問いに、はは、と徐晃は苦笑しながら、持っていた布を再度桶に浸し、力強く絞ってまた額に宛てたあと、語り始めた。
 
「ことの始まりは、クゥをここに招こうとしたところからだな。 お前たちは、まだ顔合わせ程度の面識しかなかっただろう?」
 
「はい、まだそれぐらいしか……。」
 
「だから食事でも一緒にして、交友を深めて貰おうと思ったのだ」
 
「あぁ、成る程。 だから彼女はここに……。」
 
 得心したように頷き、姜維を見やる三人の様子を受け、さらに徐晃は言葉を続ける。
 
「それで、だ。 呼び出そうと政務室まで赴いたはいいが、間が悪かったらしく、扉に手をかけようとした途端に、な……。」
 
「こう……、がつん! と鈍い音がして、慌てて外の様子を見ると、仁様の額が……。」
 
「うわぁ……、それは痛いの……。」
 
 徐晃の言葉を引き継ぐ形で姜維が、その時の状況を説明した。 その様子をありありと思い浮かべてしまった于禁など、己の額を手で覆って、よく見れば眦には涙まで溜めている。 李典も于禁ほどではないが、その表情は思わしくない。 だが、徐晃が意外に思ったのは楽進の反応だった。 彼女が三人の中で一番、精神面が強いものだとばかり思っていたが、瞠目したまま震えているその姿を見る限り、こういった痛々しい話など、精神的にくるものには弱いのかもしれない。
 
「ただそれだけならば、俺の不注意の招いた結果だ……、甘んじて受け入れるさ。 しかし、クゥ。 いま思い返してみても……、あれは俺が悪いのか?」
 
「……………、仁様が悪いです」
 
「なんや、なんや? ウチらにも分かるように説明してぇな」
 
 徐晃の問いかけに、何やら不満げに眉根を寄せる姜維。 そんな二人の内輪話に李典が割って入ってくる。
 
「あ、あぁ……、すまん。 ともかく、姜維を連れ出すことに成功した後のことだ、この腫れの原因は……。」
 
「城内を歩いていたときに、春蘭さんと秋蘭さんと出会ったんですよね」
 
 いよいよ話も確信に迫ろうとする段になると、その場面を思い出してか、徐晃の表情はまるで悪戯を怒られた童といった風になっている。 そんな不貞腐れた徐晃を前に、姜維は苦笑してから、きまり悪そうに語り始めた。
 
「普段、春蘭さんは……、その……、あまり政務に係わっていないのですが、今日は秋蘭さんが付き添う形で、そのぉ……、お勤めを果たそうとしていた所だったんですよ。 ね、仁様?」
 
「あぁ、珍しく竹簡を山のように積み上げて、な。 萎えた春蘭殿と、今から始まりだというのに、もう困憊した様子の秋蘭殿の表情は中々に見物だったな……。」
 
「じ、仁様!」
 
 夏侯惇の尊厳を如何に傷つけず話を進めようかと、言葉を選ぶのだったが、その合いの手に加わった徐晃の身も蓋も無い台詞に、さしもの姜維も慌てて語気を荒げる。 だが、余程のことがあったのか、未だ腹に据えかねた様子で鼻息を荒くする徐晃に、話を聞く三人は要らぬ刺激を与えないよう黙したまま、話の続きを待った。
 
「こほん……。 ともかく、お忙しそうでしたので、挨拶もそこそこにして、去ろうと思ったのですが……。」
 
「竹簡のせいで前の見えなかった春蘭殿が、突然躓いてしまってな。 傍にいた俺が慌てて受け止めたんだ」
 
「春蘭さんの胸を握りながら、ですけどね………。」
 
 雪よりもなお冷えた氷柱のような冷ややかな視線に乗せ、何やら棘を含んだ姜維の発言に、徐晃はますます憮然となる。
 
「あれは、不可抗力だ……。 他意はない」
 
「どうでしょう? その割には長い時間、触っていたようですが?」
 
「む、むぅ。 咄嗟のことで頭が回らなかった、としか言いようが無い……。」
 
 徐晃は不服そうに疲れた溜息をもらしながら、額の熱で温くなった布を水に浸した。 徐晃とてもちろん、女性の乳房が何故膨らんでいて、そこにあるかぐらいは知っている。 無論、子を産み乳を与える母ほどの理解はないにせよ、それでも赤ん坊を育てる上で、特に重要な部位であると知っている。 だが実際、このときの徐晃の理解は、姜維たちの認識とはあまりにもかけ離れていたといえよう。 それがただ触れてしまっただけだとしても、夏侯惇に対し、ずいぶんな非礼を働いていたことに、徐晃はまだ気付いていなかった。
 
「あー、なる程なぁ。 それで将軍は思いっ切り、殴られたっちゅうわけやな?」
 
「あぁ、そうだ。 よく分かったな?」
 
「誰でも分かるの……。」
 
「むしろ、その程度で済んで良かった、と思うべきかと」
 
 事の顛末を先読みした三人の反応は案の定、手厳しいものだった。
 
「…………、やはり俺が悪いのか?」
 
「徐晃将軍は、女心を分からなさすぎなの」
 
 于禁の言葉は、この場にいる女性全員の気持ちを代弁したものらしく、全員が揃って頷いてみせるものだから、徐晃はやや困った風に拳をぐりぐりとこめかみに押し当ててから、眉根を下げ呟いた。
 
「そうか、俺が悪かったのか………。」
 
 夏侯惇と同性である四人もの女から一様に自分が悪いと言われてしまえば、徐晃とて渋々であるが納得せざるを得なかった。 ただ、何故殴られたのか、その理由についてうっかり失念してう、そんな自分のだめさ加減について自覚がないのは、徐晃にとって幸いなのか不幸なのか。
 
「ふむ……。 春蘭殿には、次に会った時に謝っておく」
 
「そうした方がいいでしょう」
 
「せやね……。 一応、筋だけは通しておいたほうがええとおもうで?」
 
「でも、そうすると徐晃将軍、また殴られちゃうかもなの……。」
 
 そんなどこか抜けている徐晃を余所に、まるで息子の粗相の後始末に困窮する母親の如く、唸りを上げる三人は真剣そのものである。 初めて従う上官が着任早々、首と胴が泣き別れた、などとなっては目覚めも悪い。 さて、どうしたものかと顔をつき合わせて、頭を悩ませる三人に向け、徐晃はさらに話を切り出した。
 
「まぁお前ら、その件は俺と春蘭殿との問題だ。 心配してくれるのは有難いが、何とか怒りの矛先を収めてもらうさ、問題ない。 それに殴られはしたが、それで終いなら、俺の額もここまで赤くはならんよ」
 
「えぇッ?! まだ続きがあるん?」
 
「あるぞ、だから厄日だと言ったのだ………。」
 
 李典の驚きを余所に、嘆息交じりに徐晃は絞った布を額にそっと宛がった。
 
「身体に染み付いた癖が仇になってな……、春蘭殿の拳を都合三発、額で受け止めたのが響いた……。 ここに来る途中で、突風で飛ばされた看板やら置物などが、ぶつかってきてな……。 それでこの有様だ」
 
「うわぁ……、悲惨なの~。」
 
「何や、呪われてるとちゃいます将軍……?」
 
「む、むぅ……。」
 
 理屈を抜きにした超常的な要因が絡んでいると、そんな冗談めいたことを言われても、徐晃は即座に否定することができなかった。 かつて徐晃が戦場で大斧の錆びにしてきた者たちや、つい先日の恨み節を吐いていた者の事を思い起こせば、考えうる限りでも両手では余りある数の恨みを買っている。 その中、何らかの過程で犠牲となった人々の怨念が形を持ち、徐晃へ襲い掛かったとしても何ら不思議なことではないのだ。

「呪いの類は信じていないのだがなぁ……。」
 
 しかし、その可能性は極めて低いと徐晃は思っている。 徐晃を呪い殺さんと亡者たちが暗躍していたとしたら、彼の命は既に無いものとみてよかったからだった。 過去にそれだけの恨みを買っておいて、今更になってから報復に出てくるとは考えにくい。 ともかく、確信を持って言えることは、今回の怪我は徐晃の不注意が招いた必然の結果であるということだ。
 
「でもでも将軍、ちょっとこれを見て欲しいの」
 
「うん?」
 
 そう言って、于禁が取り出したのは書店に並ぶ書物よりも、やや大きめの作りになっている一冊の本だった。
 
「あそ、あそ?」
 
「そう! 阿蘇阿蘇なのー。」
 
 表紙に記載された文字は、普段の徐晃の生活の中には馴染みのないもので、開かれた項目に目を通せば、成る程、徐晃には馴染みがなくて当然であった。 いま開かれている項目の右側に目をやれば、流行の服らしい情報が記載されている。 それを嬉々として持ち出す于禁は、つい先ほどまで徐晃の怪我話の時とは一転して、語りに熱を込め本の中身を指差す様子は、年頃の街娘と変わらない。 そんな于禁に、徐晃もどう対応してよいのやら皆目見当も付かず、苦笑しつつも彼女の動向に付き合うことにしたのだった。
 
「見て、見てー! ここに今月の運勢表が載ってるの。 将軍の誕生日はいつ?」
 
「誕生日? それが運勢と何か関係するのか?」
 
「いいから、早く教えるのー!」
 
「う、うむ……。 春先だから………、これ、だな……。」
 
「成る程なの。 出身はー?」
 
 どうやら于禁は、徐晃の理解の及ばぬ方法で何かを掴んだらしく、ふむふむ、と真剣な表情で何度も頷いていた。
 
「やっぱり、なの」
 
「何が矢張りなんだ?」
 
 そして最後に、得心がいったとばかりに于禁は大きく頷いた。
 
「今月の将軍の健康運と仕事運、ばつで最悪なの」
 
「仕事……、苦難多し。 健康は怪我多し……、か。 ふむ……、当たっているな」
 
「でしょ、でしょ! あっ! でも備考に貴金属を身に付けると吉ってあるから、それで運を逃がさないように出来るの」
 
「成る程な……、だが于禁には申し訳ないのだが……。 俺はあまり占いの類は信じていないんだ」
 
 苦笑しながら嘯く徐晃の言葉に、てっきり腹を立てるものかと思いきや、于禁は平坦に頷いてみせるだけだった。
 
「まぁ、考え方は人それぞれだし、仕方ないの。 でもでも、当たるも当たらないも、人の気の持ちようだと沙和は思うの」
 
「ふむ……。」
 
 なるほど、道理である。 何事も捉え様によっては前向きにも後ろ向きにも考え方が変わる。 徐晃に見舞われた不運にしても、悲観に暮れるにはまだ早い。 別の視点から物事を見直せば、何か打開策が見出せるかもしれないし、注意深く周辺を観察するようにしていれば、それだけでも危険を察知できるかもしれない。 占いを信じる信じないは、この際脇に追いやってしまい、于禁の言う通りに行動してみるのも一つの手段ではあるのだ。
 
「ならば、于禁の話に乗ってみるのも悪くない、か……。」
 
「そうそう、色々試してみるのも悪くないの」
 
「あぁ、そうだな」
 
 そう笑って徐晃は胸に巣くっていた苛立ちの根源を追い払った。
 
「では、貴金属だったか? それならば、俺の得物は鉄なのだが……、それでは駄目なのか?」
 
「いや……、それはどうかとおもうで?」
 
「普段から身に付けられるような小物の類が、この場合好ましいかと……。」
 
「むむぅ……。 仁様にあるような小物?」

 首をかしげて、その場にいる全員に問いかけてみたのだが、反応は思わしくなかった。 よく考えてみれば、徐晃がそういう洒落た装飾品を身に着けたところを見たことが無かった。 そこから、腕だの首だのに装飾品を着けた姿を想像しろというのは、難しい話である。 眉間に皺を寄せて考え抜く一同に習って、徐晃も視線を宙に彷徨わせていると、何となしに備品置き場へと目が向かった。
 
「ふむぅ……。 額当てなど、どうだろう?」
 
「なるほど、私は仁様らしくて良いと思いますよ?」
 
「ウチは、将軍がそれでええって言うんなら……。」
 
 今度は、そう悪い反応ではなかった。 皆の様子を見て頷いた徐晃は、早々に結論を出す。
 
「では、それにしよう」
 
 いわゆる着飾るというものは、徐晃の趣味ではない。 彼はあくまで武人であって、貴人ではないのだ。 得物を振るう際に至極邪魔になる物など、百害あっても一利もない。 そんな物を身に着けるぐらいであれば、もっと実用的な物を装備していたほうが、戦術的にも優位に立てるのではないか、と徐晃は考えていた。 そんな華の無い、徐晃の無骨な思考など知る由もない面々は、備品の入っている戸棚を開いて、目的の物を漁り始めた。
 
「あ、これやない?」
 
「うん、これだな」
 
 李典が見つけ出し物を見て楽進が同意を示し、手に持った額当てを徐晃に見えるよう掲げ持った。
 
「髑髏……、だな」
 
「髑髏なの」
 
「髑髏ですね」
 
 目的の物が見つかったのはいいが、額当ての真ん中には髑髏が彫ってあった。 鎧兜にも似たような装飾が施されていることから、どうやら、曹操軍の兵士たちに配給されているものらしく、鈍い灰色に輝く金属部分以外の布地は、深い蒼色に染め抜かれている。 普段からこれを頭に巻くとなると、些か以上に人目に止まることだろうが、幸いにも徐晃の場合、頭巾を被ってしまいさえすれば、目立つことは無い。
 
「まぁ……、いいだろう」
 
 髑髏の彫刻など気にした様子などなく、李典から額当てを受け取りあとはもう巻くだけというところまで来て、今は額を痛めていることを思い出し、既の所で接触を回避した。
 
「あや? 巻かないのですか?」
 
「うむ、腫れが引いたら、な」
 
「あっ! そう言えば、そうでした……。」
 
 失念していたとばかりに手を合わせ姜維は頷いた。 そしてその直後、何やら真剣な顔で、しげしげと徐晃を見つめだした。
 
「うぅん……。 先ほどよりも、ましにはなりましたが、まだ腫れていますね……。」
 
「是非も無い。 あれだけ痛めつけられたんだ、それがこの程度の軽傷で済んだのだから、僥倖だろうよ」
 
 聞く者によっては、皮肉にしか聞こえないその言葉であっても姜維は苦笑しつつも、同意せざるを得なかった。 徐晃は、楽進たちに軽い口調で語ってみせているが、実際の所、人によっては命に係わる不運に見舞われていたと言っていい。 とりわけ、曹操軍の雄たる夏侯惇の全力で振るわれた拳は、三発も放たれている。 それはつまり、一般人程度の者ならば三回は殴殺されていることを意味する。 それを額を赤くするだけで徐晃は済ませているのだから、その頑強さの秘密は一体どこにあるのだろうか、と姜維は思わずにはいわれなかった。
 
「まぁ兎も角だ。 これで運気を逃がさんようには、できたわけだな?」
 
「多分……、大丈夫だと思うの」
 
「ならばいい。 これで改善されないようならば、仕方ないさ」
 
 豪胆に笑って、徐晃は華奢な于禁の細い肩を叩く。 その勢いに呻きをあげ、膝を折りそうになりかけた于禁だったが、なんとかその場で踏ん張って耐えた。
 
「ちょっ……!? 将軍、痛いの……。」
 
「ははは、すまんすまん。 さて、これで心置きなく皆で外を歩けるな」
 
「皆で……、ですか?」
 
「何だ楽進、忘れたのか? 皆で食事に行くと言っただろう?」
 
「あっ……、そうでした。 気が回りませんでした、申し訳ありません」
 
 徐晃の指摘に、何故自分の上官がここにきたのかを思い出した楽進は、心底申し訳なさそうに眉を下げた。 別段、徐晃の心遣いを蔑ろにしていたわけではないのだが、話の流れとその内容の痛々しさで、つい頭の隅に追いやってしまっていたのだったが、生真面目な楽進からすれば、それは無礼千万のことだったらしく、徐晃本人からすれば、気にも留めないことにも、気を揉んでしまっていた。
 
「何、気にするな。 これから美味いものを食いに行こうというのに、そんな顔をするな」
 
 はたして徐晃は、楽進の胸中を汲み取ってのことか、豪胆にまるで酒の席の痴れ事であるかのように笑い飛ばしながら、彼女の細くも戦傷の目立つ肩を叩いていなす。 そんな相変わらずの呑気な笑顔を向けられては、楽進とて苦笑顔でそれを受け入れるほか無い。 己の煩悶など馬鹿らしくさえ思えてしまうほど、今の徐晃の笑顔は子供のように濁りが無かったからだ。
 
「そう、ですね……。」
 
「うむ、では行こうか」
 
 楽進の同意に、徐晃は満足顔で頷くと悠々たる足取りで執務室から一足先に出ようとする。
 
「あ、もう行き先は決まっているのですか?」
 
「あぁ、ここ最近になって急に味が良くなった店があると噂に聞いてな。 気になって仕方が無いのだ」

 子供のように無垢な光りを輝かせる丸い目から察するに、既にもう、件の店で食事をすることが徐晃の頭の中では決定しているらしい。 食事に出かけるのであれば、当然ながら外で摂ることになるのだが、興味が沸けば意地でも突き進む徐晃が必要以上の趣味に走っていることは、どう見ても決定的なものだろう。 こうなってしまえば、姜維を含め他の三人にも最早止める術はなく、顔を見合わせ苦笑を漏らしつつ、後に着いて行くしか選択肢はないのだ。
 
「美味しいお店……、ですか………。」
 
「ん? 楽進も気になるのか?」
 
「あー、将軍。 こうみえても凪は、ウチらの中で一番の食通なんやで?」
 
「ほう……。」
 
 李典からの意外な一言に、徐晃はさも興味深げに楽進を見つめた。
 
「こ、こら真桜……。」
 
「えぇやんか、本当のことやし」
 
「む、むぅ……。」
 
 楽進本人も傍目から見える自分の印象を自覚しているらしく、その武官然とした普段の様子からあまりにも離れた己の行動を暴露されたことが気恥ずかしいのか、頬を赤らめながら李典を諫める声にも、普段の覇気がない。 そんな意外な楽進の一面を垣間見た徐晃は笑顔で応じながら、ふと問いを投げかけた。
 
「よく食べ比べとかしているのか?」
 
「はい……、ですが華琳さまたちのように、上等な食事を好んで食す、というわけではありません」
 
「ふむ……。」
 
「値段や見た目には拘らず、ただ美味しい料理を食べ、そして出来れば、それを自分の手で再現したいと思っているだけです」
 
「成る程なぁ……。」
 
 意外な楽進の一面ではあったが、そのなかにもやはり勤勉で真面目な彼女ならではの性格が覗える。 これは他の面々にも言えたことだが、己の飽くなき向上心を満足させるため、人には見せることのない隠れた努力を惜しまないその武骨な心意気は、徐晃からみても、とても好感を懐けるものだった。 自然と顔を綻ばせていた徐晃は、そこで何に思い当たったのやら、だしぬけに憮然となった。
 
「………、そうなると、だ。 もしかしたら既にその店は、楽進が賞味した後かも知れんということか………。」
 
 その可能性に思い至らなかった己の思慮の無さを嘆いてか、がくりと肩を落とす徐晃の姿に、姜維が慌てて助け舟をだした。
 
「しかし、楽進さんがまだ行った事のないお店かもしれませんし、まだ可能性は残っていますよ」

「ふむぅ……。 まぁ行ってみないことには分からんか」
 
「はい」
 
 そう気を持ち直して、徐晃は弱気の虫を追い払った。 そもそも今回は食事を摂れる場所であれば、どこでも良かったのだ。 肝心なのは、姜維たち女性陣の関係が円滑に回ることにある。 ならば、たとえ己の満足行く場所をもとめなくても、彼女たちが話し合いお互いの理解を深め合うことにこそ意義があるのだ。
 
「あぁ……。 そう言えば、噂のその店は麻婆が絶品らしいぞ?」
 
「将軍! それは本当ですかッ!?」
 
「あ、あぁ……、俺はそう聞いたが……。」
 
 何となしに、のほほんと話題を振ってみたのだが、思いのほか食い付きの良い楽進の姿に徐晃は思わず面食らってしまう。 べつに鬼気迫るほどの気迫があったわけではないが、普段から冷静な態度を崩さない楽進が、子供のように心弾ませている様は、意外と言えば意外で、徐晃もやや反応に窮したのだ。
 
「わぁぁ……、楽しみです。 早く行きましょう!」
 
「そう急かさずとも、店は逃げんよ」
 
「あぅ……。 それは、そうなのですが……。」
 
 たった今まで、子犬のような無邪気な笑顔で皆を急かしていた楽進だったが、徐晃に窘められるや、途端に自分が舞い上がりすぎていたと感じ取ったらしく、頬を赤らめ俯いてしまった。 そしてその瞬間を狙ったかのように、いつのまにか楽進の背後に回りこんでいた李典が、覆いかぶさるように抱きついた。 首に腕を回し、楽進の頬を突く李典の笑みはやや底意地の悪いものに歪んでいる。
 
「あー、将軍は知らんかったんか。 あんな、凪は激辛料理が大好きやねん」
 
「ちょっ! 真桜……ッ! や、やめ……、将軍の前だぞ!」
 
 先ほどの失態も合間ってか、恥ずかしさの度合いでいうならば、自分の趣味を暴露された時でさえ、楽進はここまで赤面しなかったと断言しただろう。
 
「なんだ、楽進は辛いのが好きだから、あれほど喜んでいたのか」
 
「ッ!」
 
「俺も辛いのは好きだ。 酒の肴によく食べる」
 
 呑気に緩みきった声で、徐晃は楽進に同意するかのように何度も頷いた。

「そうですよね! 辛いの料理が好きでも、別に普通ですよね」
 
 そんな言葉に我が意を得たとばかりに楽進は笑顔を取り戻し、覆いかぶさる李典を振り払うと徐晃の手を取るり何度も上下に振るう。 こういう感情の切り替わりの素早さは女性特有のものなのか、未だ慣れない徐晃はまだまだ面食らうことも多いが、今回はやんわりと笑顔で応じることが出来た。 それは、仕事上の関係だけでは絶対に垣間見ることのできない、彼女たちの意外な一面が見れた嬉しさが、驚きよりも先に感情として湧き上がったことが要因となっているのかもしれない。
 
「うむ、問題ない。 だが、この話の続きは、後にしよう。 時間があまりない」
 
「あ、そうでした………。」
 
 当初の目的が未だ達成されていない現状を見て、楽進は申し訳なさそうに眉根を下げた。 つい先ほどまでは満面の笑顔だったというのに、傍目から見る楽進の百面相は、徐晃が思っていた以上に面白いものだった。 
 
「では、行くとしよう」
 
「おー、なの」
 
「へーい」
 
「はい!」
 
「―――――――、何とも締りの無い……。」
 
 拳を高々と上げ、何やら上機嫌な于禁に生返事な李典。 果てには律儀にも敬礼で返す楽進と姜維の言うとおり、三人の反応は個々の性格を濃く表した何とも纏まりのないものであった。 個性と言えば聞こえは良いだろうが、彼女らの纏め役である徐晃からすれば、今後、大変な苦労を強いることになるであろうことは想像に難くない。 ただ、僅かな時間ではあるが、姜維が見た限りでは三人とも悪い性格の持ち主たちではないように感じていた。 これならば、己の不在でも今のところ安心していられそうである。 ただし、ある一点を除いて、のことだが。
 
「御三方………、仁様の隣は譲る気はありませんよ……?」
 
 誰に聞かれるでもなくそう呟いた姜維は、先を歩く徐晃たちの背を追い歩き始める。 楽進たちと会話らしい会話をしたのは、これが初めてであったが、姜維が不安に思っていた事態にはなっていない様子だったので、ひとまずは胸を撫で下ろす。 だが、まだ安心は出来ない。 戦場とは何処にでも存在する。 すなわち、恋とは戦であり、戦とは騙撃、裏切りなど当たり前に起こりうる場所なのだ。 孫武曰く、兵は詭道なりという。 ならば、どうして油断などできようか。

「まぁ……、ここは様子見が上策でしょうか」
 
 ただ、現段階では、徐晃に何の感情を懐いていないところへ、下手に藪を突いて蛇が出てくるような展開になってしまっては姜維としては面白くはない。 今は放置し泳がせておくのが手である。 まずは敵になるのかどうか、それを知ることが肝要だろう。
 
「くふ……、ならば反間を作らないといけませんね」
 
 自分の前を歩く徐晃たちの背を眺めながら、姜維は面白がるように底意地の悪い笑みを作り、次の瞬間には普段のものとまったく変わらない微笑へと戻っていた。 常日頃から、曹操と共にいる時間が長い影響か、姜維も随分と良い性格になってきている。 この調子でいけば、母を越える日もそう遠くないのかもしれない。






あとがき

思い出の教会は完膚無きまでに、破壊尽くしてやるのがデフォだと思っています。 大人になるって悲しいことなの……。
どうもギネマム茶です。
 
今回は、ワンクッション置いて、三人娘を中心としたほのぼの物にしてみたつもりなのですが、如何だったでしょうか?
ちゃんとキャラ通りに動かせているかが心配ではありますが、早く馴染ませられるよう努力していきたいと思います。
 
さて、次回から黄巾の乱が本格化できたらいいなぁ、と思っていますが、どうなるか……。
とりあえずグダらないよう頑張ります!
 
ではまた次回。



[9154] 二十八話・これは唐辛子ビタビタといいまして、漢人はみィ~んな大好物でございますよ。おいピィ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:f55bbafb
Date: 2010/10/16 19:13
 明るい陽光に照らし出された市街地は、巷で暴れまわっている暴徒の影など微塵もない長閑な日常の空気を、今もなお保っていた。 徐晃が案内した店もまた雑踏の賑わいをを見せており、暗い話題の多い時勢であっても皆が笑顔を絶やさず食事を摂っている。 雇われ給仕と思われる少女が、飛び交う注文に右往左往と、忙しそうに動き回っているが、その顔にはやはり勤労意欲に沸いた明るい笑みが浮かんでいる。

「悪い、クウ。 ちょっと酢醤油とってんか」
 
「あ、はい。 どうぞ真桜さん」
 
「ねぇ、凪ちゃん。 餃子一個食べる?」
 
「もぐ……、ん、食べる」
 
 徐晃たちが囲う卓上には各々が注文した料理が並び、それを仲睦まじく分け合いながら食し、談笑し合う姜維たちの様子は、まるで歳の近い姉妹のように微笑ましく、和やかな空気の中で食事を摂っていた。 そんな彼女たちを徐晃は不思議な感覚を持って眺めていた。 長い時間を共に過ごしてきたわけでもなく、さりとて戦場で背中を預けあうにはまだお互いのことを知らなさ過ぎる。 にも関わらず、真名を許しあえるだけの関係を築き上げられる女性ならでわの不可思議さ。 男の友情や絆とはまた違う友情の確立の仕方がとても奇妙で面白い。
 
「ふむ………。」
 
 徐晃は蓮華を片手に、彼女たちと同じ卓を囲んだこの時間、共に微笑みあう姿を決して忘れることなく胸に刻みつけておこうと心に決めた。 いまだ黄巾党の動きは不鮮明で大人しいものだが、それでも無意識のうちに予感だけは懐いていたのかもしれない。 この日々の日常が詰まった幸福な光景は、きっとそう多く見られるものではなくなってしまうのだと。
 
「――――――――、それにしても……。 この麻婆は、辛いな……。」
 
 いつからか、ひとたび考え始めると際限なく意識をしめつづけ、息苦しささえ感じるようになったそれを追い払い、ぽつり、とそう漏らす徐晃は場の空気を混ぜ返すように呟いた。
 
「うわっ!? 将軍、凄い汗やな……。」
 
「あ、あの仁様……。 あまり無理をされないほうが……。」
 
「いや、大丈夫だクゥ」
 
 そう言いつつ、ちらりと楽進の方を一瞥してみれば、彼女は黙々と料理を口に運んでいる。 額から滲み出る汗を拭いながら徐晃は苦笑しつつも自分の取り分の皿を見れば、楽進がいま食しているものと同じ料理が、まだ半分近くも残っていた。
 
「美味いが……、辛いな……。」
 
「だから、止めとけ言うたやろ?」
 
「好奇心に負けた将軍がわるいの」
 
 好奇心は猫をも殺すとはよくできた言葉である。 于禁と李典の忠告を無視して、物珍しさから豆腐の白ささえ見ない真っ赤に染まった麻婆を楽進と一緒に注文した徐晃の浅はかな行動がすべて悪いのだろう。 麻婆の他にも麻婆茄子、回鍋肉などを注文しているが、どれもこれも皿が赤一色に染まり上がっている。 楽進が注文した辣子鶏に至っては、元々が辛い料理なのに、更に唐辛子を混ぜ込んだ激辛仕立てになっており、人一倍好奇心が旺盛な徐晃と言えど、これを食すだけの度胸は流石になく、諸手を挙げて降伏するしかなかった。
 
「これが、唐辛子ビタビタか……。」
 
 脳の奥にまで突き刺す痛みに、徐晃は為す術がなかった。 なにせ額を叩いて痛みを外に追い出そうにも、今は怪我をしているためそれもできない。 徐晃は、内から外から刺激してくる痛みに頭をさすることすらできず、ただ、苦悶の表情を浮かべるしかなかった。
 
「ごめんなさい………。」
 
「何を謝る楽進。 俺が自分を弁えなかった結果だ、致し方ない」
 
 あまり食の進まない様子を気にしてか、眉根をさげて謝る楽進を前にして、徐晃はひりつく痛みを抑え何とか苦笑を返しながら、つくづく眼前の料理の破壊力に恐怖した。
 
「しかし……、辛くないのか?」
 
「むぐむぐ…………、もぐ、……、はい大丈夫です」
 
 さも当然のことだと言わんばかりに、楽進は涼しい顔で頷く。 この生真面目な部下は、想像以上の健啖家であるらしい。

「そうか……、よく噛んで食べろよ」
 
「もぐ……、はい、分かりました。 むぐむぐ……。」

 とはいえ、この今にも口から火を噴出したくなるような辛い料理こそが、楽進の力の源なのかもしれない。 于禁や李典とは違い、獲物を用いず『氣』を練って己が武器とする彼女の消耗は、早い。 しかし、それも仕方の無いことである。 『氣』は言わば人の生きる為に必要な活力だ。 それを武器として使用しているのだから、曹操陣営の武官の中では誰よりも体力をつける必要がある。 だからこそ、補って余りある爆発力を得るために、楽進の身体の方が自然と食事を欲しているのではないのだろうか。
 
「―――――――、そんなに辛いんですか?」
 
 まるで小動物のように、もくもく、と口の中に料理を運ぶ楽進の様子を目を細めて眺めていると、興味深そうな声で、姜維がしげしげと楽進の周りにある大皿を覗き込んできた。 姜維の問いに、徐晃は焼け付くような痛みを押さえ込むように瞼を閉じると、一度だけ喉から唸りをあげてから、心底困窮した面持ちで答えた。
 
「あぁ、辛いぞ」
 
「そう、ですか……、うぅぅ………。 怖いもの見たさと言いましょうか、何だか気になりますね」
 
「よせよせ、止めておいたほうが―――――。」
 
 そこまで徐晃が言いさしたところで、姜維は恐る恐る麻婆茄子に箸を伸ばし、ひょい、と唐辛子の赤一色に埋もれていた茄子を口の中に放り込んでしまった。
 
「あむっ………、むぐむぐ…………。」
 
「あ……、馬鹿者が……。」
 
 そう溜息とともに吐き捨てた徐晃の表情は、この後おこるであろう惨劇を予想してのものか、さも困った風に口をへの字に曲げたものだった。 普段の聡明な姜維であれば、ここまで短慮な行動にはずなのだが、おそらく、真名を許しあえる同姓、それも年齢の近い者ができた嬉しさに、ことの危険性の認識が欠如してしまったのかもしれない。 ただ、それも仕方なしと、徐晃も水が必要となることは目に見えていたので、とりあえず、杯には並々と水を注いでおいた。 
 
「あ、なんだ。 そこまで辛くは………ッ?!」
 
 そらきたぞ、と徐晃は臓腑の底から沸き上がってくるあの辛さを思い出し、姜維が今それを体感している様を苦笑しつつ眺めることに徹した。
 
「はあぁあぁあぁぁぁあぁぁぁぁ!!?」
 
「だから止めろと言ったのだ」
 
「まぁ、それでも唐辛子ビタビタの辣子鶏よりましやで……。 ウチもそれで四日ぐらいは腹痛めたもんや」
 
 過去の出来事となってしまえば他人事か、李典は底意地の悪い笑みを浮かべながら、声にならない悲鳴を上げ手足をばたつかせる姜維を見やった。 そんな李典の姿に徐晃もいい性格をしていると、思わなくも無かったが自分も同じ穴の狢であるが故に、特に窘めることもしない。 むしろこの場の空気についてゆけず、驚き固まっているのは今まで黙々と食事をしていた楽進一人だけだった。
 
「ほら、水だ」
 
「あ、ありがとうござ………、ッ……んぐんぐ………、はぁぁ……。」
  
 顔を赤くして、涙目になりながら飲み物を探す姜維の様子を一頻り楽しんだ後で、些か遅れたがちになってしまった水を手渡した。
 
「大丈夫? クウちゃん……。」
 
「ふにゅぅぅ……。 し、舌が……。 陵辱されて……、しまいました……。」
 
「何を言っているんだ、お前は?」
 
 どうやら、あまりの辛さに姜維の思考は麻痺しているらしい。 だが、姜伯約の名誉の為に言えば、彼女とて市井に出回っている程度の辛い料理であればここまで取り乱すことはなかった。 いま自分たちが囲う卓上にならぶ料理の数々が、味覚ではなく痛覚を刺激してくる類のものであることも理解している。 特に辣子鶏などはその最たるものであることも。 だから姜維は、たとえどんなに唐辛子がふんだんに使用された料理であっても、決して動揺するまいと決めていた。 そう思っていた。 今この瞬間までは。
 
「なぜ……。 何故、仁様はただ辛い、であれを食せるのしゅか?!」
 
 呂律も回っていない姜維の想定した限度は、あくまで辛さは脳を適度に刺激するものであり、身体を程よく熱くさせるものでしかなかったのだ。 だが今、彼女が口に入れた物体は、それより先の領域にあった。 喩えるなら、それは地獄の茹で釜の中身である。
 
「何故と言われてもなぁ……。 辛い、以外でどうあれを表現しろというのだ」
 
「……………。」
 
 徐晃の舌が変なのか、それとも豚よりも劣る痛覚しか持ち合わせていないのか、どう受け止めればよいのか判断に苦しむ姜維は、とりあえず嘆息を交えて改めて眼前の男の出鱈目な身体の構造を思い知らされた。
 
「………………、美味しいのに」
 
 ぼそり、と呟いたのは楽進だった。 彼女からすれば、普段食べ慣れた物をここまで扱き下ろされるのは不満なのだろう。
 
「ん? いや、美味いぞ楽進。 ただ辛いだけだ」
 
「その辛さが、美味しいんです……。」
 
「まぁ、な。 でなければ麻婆ではないよな」
 
 小さく頬を膨らませてむくれてみせる辛党の部下に、徐晃は嘯きながら呵々と笑ってみせて楽進を宥めにかかる。 その様子は、歳の近い兄妹のようであり、傍目にはとても微笑ましいものに見えたことだろう。
 
「分からないでふ……、なぜあれが……。」
 
「まぁまぁ、クウ。 ウチらと将軍たちとじゃあ身体の作りが違うんや」
 
「真桜ちゃんの言うとおりなの。 沙和たちみたいな普通の舌の子は、辛いものより甘い物を食べてるのが一番幸せなの」
 
「ふにゅぅぅ……。」
 
 甚だしく不本意な話ではあるが、于禁たちの言うとおり深く考え過ぎないほうがきっと精神衛生的にもよいのだろう。 先ほどまでと比べれば幾分かはましになったとはいえ、未だ呂律が回らない。 姜維は、手にした杯の中身を少しずつ口に含む。 口だけとは言わず、喉の奥まで焼け付く痛みをやり過ごしながら、己の思慮の無さを呪った。 余人が同伴者として付いてきているものの、久方ぶりに徐晃と一緒に食事が摂れるからといって舞い上がるべきではなかったのだ。
 
「はぁ………。」
 
 店に入ってよりこのかた、徐晃は自分よりも楽進たちの様子を気にしているところがある。 たしかに彼女たちは、自分よりも徐晃との関係も浅く、そちらの絆を深めることも重要なことでもある。 なにより姜維本人のためを思って、提供してくれ場なのだからそれを有意義に使わなければ罰が当たってしまう。 そこは、理解しているのだ。 こちらから話題を振れば向こうも応じてくれるし、逆もまた然りである。 だからこそ、真名を明かし合えるだけの関係を築けたのだ。 

「中々……、難しいものでしゅねぇ……。」
 
 徐晃たちには、とても失礼なことだが、それでも、と姜維は思ってしまう。 なにも徐晃と積極的に会話をしてはいけないわけでは無い。 ならば、と、口を開きかかったところで、彼女たちと話す時に見せる徐晃の笑みをみて姜維は言葉に詰まる。 話したいことは山ほどあるのだ。 警邏の仕事は順調かどうか。 そこであった出来事。 姜維が曹操のもとで体験した得難い経験の数々。 どれもこれも吐き出してしまいたい反面、いま笑っている徐晃たちの間に割って入れば、場を白けさせてしまうことになる。 きっと何一つ予想を裏切ることなく、姜維が描く筋書き通りの展開となることが分かりきっているため躊躇してしまう。
 
「どうしたのクウちゃん? お腹でも痛いの?」
 
「あんな辛いもん胃に入れたんや、無理したらあかんで?」
 
 曇り顔のまま俯いていた姜維の様子を心配してか、于禁たちが気遣ってくる。 その優しさに暗い顔と考えを引っ込め、姜維は微笑でかぶりを振った。
 
「あ、大丈夫でしゅ。 ただひょっと考え事をしていただけでひゅので……。」
 
「ほんま、大丈夫か? 呂律、回っとらんで」
 
「はい、しばらくしゅれば何とか……。」
 
 当人はそんな意識はないだろうが、端から聞けば実に辿々しい喋り方である。 姜維の元々の幼い顔立ちと、今の舌っ足らず話し方が合間ってか、本人の年齢よりも遥かに幼い印象を受け、それが于禁たちの母性を刺激するらしく、必要以上に世話を焼きたいらしい。
 
「ほらほら、あまーい杏仁豆腐でも食べるの」
 
「ありがとう、ございまふ。 では、少しだけ……。」
 
 そう言って于禁から、器を受け取り中身を掬って口に入れかけたそのとき、小さくも耳に届いていた店内の賑わう声に、濁りが混じった。
 
「む……?」
  
「はやや………? お城の兵士さんでしゅね。 何かあったのでしょうは?」

 小さな囁き声に沸く方を向けば、一人の兵士が窓から店内の様子を覗っている姿が見えた。 不審者や物取りの捜索かとも思ったが、徐晃たちと常日頃から付き合いの長い警邏隊の者とは僅かに鎧兜の装飾や彫刻が違う。 となれば、姜維の言うとおり城の兵士なのだろう。 しかし、そうなると一つの疑問が浮かび上がってくる。 即ち、城内勤務の兵士が、何故市街地にまで足を運んできたのか、ということだ。 無論、食事を摂るためという可能性も否定はできないが、店の外から一々店内を覗ったあと、徐晃たちを見咎めるとすぐさま店の中に足を運ぶあたり、一時の憩いを求めてこの店を選んだとは考えにくい。
 
「ふむ………、良い話であればいいのだがな」
 
 白装束の巨漢が目印ともなれば、兵の歩みには迷いがなく目当てであろう徐晃が呼びかけて、手を振る必要すらなかった。
 
「お食事のところ申し訳ありません、徐晃将軍」
 
「構わんさ。 …………、急か?」
 
 異常事態が起こったのか、それに類する何かを伝えにきた兵を前にしても、徐晃の態度は至極落ち着いたものだった。 事の成り行きを怪しむよりも、彼にとっては今この場面だけが、関心事のすべてなのだろう。
 
「いえ……。 ですが、お急ぎ頂けるのでしたら、できれば……。」
 
「ふむ……。」
 
 そう言葉を濁しながら遠慮がちに、卓上に並べられた料理の数々を見やる兵士の様子から察するに、あまり長い時間を食事に費やして欲しくない、ということらしい。 ただ徐晃たちの元へ訪れながらも、慌てた様子もない、ということは事態が逼迫しているといわけではなさそうである。
 
「定例会議は、まだ先だったはずだな……。 何か尻尾でも掴んだか?」
 
「私はそこまでは、知らされておりませんゆえ……。 申し訳ありません」
 
「ふむぅ………。」
 
 徐晃は腕組みをして黙考する。 伝令にきたこの兵士も事の内容を知らされていないというこは、軍の中でも上位の地位にいる者にしかまだ伝えられない案件なのだろう。 さらに、曹操の傍で政務に励んでいる姜維が間近にいるにも関わらず、徐晃の方に声がかかった、ということがどういう意味を持ち合わすのか。 すなわち、政務ではなく軍務に関わる事柄であう可能性が高いということだ。 それも、ごく少数の者たちにしか話せない類の。
 
「まぁ……。 お呼びとあらば、何処へでも馳せ参じねばな」
 
 沈黙が気まずくならないよう、そう嘯いて混ぜ返すと、徐晃はおもむろに蓮華を手に持った。
 
「だが、まずはこれを片付けなければ、な」
 
「じ、仁ひゃま!?」
 
 姜維が瞠目する前で、徐晃が対峙するは唐辛子によってその身を朱に染め上げた麻婆。 あの悶絶しそうになる辛さに、喉を掻き毟りたくなる容赦のない後味。 だが、これを処理しないことには、先には進めないのだ。 でなければ、これを作ってくれた者にたいして失礼というものである。
 
「むぐむぐ……………、辛い……。」
 
 豪快に口へ放り込んだはいいが、その直後、腹腔に焼き鏝を押し入れられたのような猛烈な灼熱感が、徐晃の身体の内側から焼き焦がす。 あまりの熱さに、全身の穴という穴から汗が滲み出そうになった。 まるで血流が暴れ狂うように沸騰し、心臓が破裂せんばかりに早鐘を打ちはじめる。 だが、その辛さこそが、この麻婆の美味さの秘訣でもあるのだ。 そしてついに大皿を空にすると、徐晃は満足そうに頷き席を立った。
  
「では、行ってくる。 お前たちは、ゆっくりしているといい…………、辛……。」
 
「は、はひ。 お気をつけて、仁ひゃま」
 
「ん……。 クゥもあまり無理して喋るな」
 
 そう言い、姜維の頭に手を載せ何度も力加減なしに撫で回した。 途端に姜維が、呆気にとられたかのように目を見開くが、徐晃はお構いなしである。 そして、それ以上の言葉は無く、別れは無言のままに徐晃は、店の者を呼ばわると勘定を済ませ、店の給仕をしていた少女の明るい声に見送られその場を後にした。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「この場所に、この面子……。 どうにも穏やかな話じゃなさそうだ」
 
 城内のとある一室。 重苦しい緊迫した空気を混ぜ返すように、禿頭の剽悍な李通が普段と変わらぬ気楽な声で、そう切り出した。
 
「とは言え、茶会なんて催し物であれば、俺たちは呼ばれんよ」
 
「おや、それだったら是が非でも参加したいね。 天気の良い日に飲む一杯なんて最高だ。 今からでも一考の余地ありだとおもうけれど……。 華琳様、どうだろう?」
 
 李通は剽げた仕草で肩を竦めながら、徐晃たちを呼び寄せた張本人である曹操へと水を向ける。 食事中でもまだ余裕を持ってここまで来た徐晃はともかく、練兵の為、城外に出ていた最中だった李通は、軽口一つでも叩かないと割に合わないといった面持ちだ。 そんな李通の胸中を正しく汲んでか、苦笑いを顔に貼り付けながら曹操は、居並ぶ面子の目の前の卓に拡げられた、彼女が統治する領内全域を収めた地図の一点を見つめた。
 
「ふふ、万億の提案はとても魅力的だけれど、先んじて片付けなければならないことがあるわ。 …………、桂花」
 
「はッ!」
 
 曹操に促された桂花は、引き継ぐ形で、黄巾党についての諸情報の解説を始める。
 
「先日の奴らの襲撃からここ数日の沈黙まで……、その間にいくつか判ったことがあるわ。 まず一つ、奴らは移動手段の一つとして干上がって使われなくなった水路を使用する、ということ」
 
「あぁ……、なるほど。 だから哨戒にも……。」
 
「そう、引っかからなかった……。 これは、盲点だったわ………。」

 徐晃の呟きに同意するかのように、忌々しげに嘆息する桂花。 ただそれは、徐晃と同意見だったことに対して怒りを懐いたわけではなく、賊徒の浅知恵に気づかず、まんまと侵攻を許してしまった己の不甲斐無さに憤っているのだ。 無論、そんな状況をそのまま放置しておく桂花ではない。 手痛い失態から学んだ十重、二十重の防衛策は当然のことなのだが、その副次的な産物から黄巾党の足取りを掴めたことが一番の成果であることが、むしろ、桂花としては腹立たしい。 誇り高い彼女としては自力のみで解決策に至れなかったことが、心底悔しいのだ。
 
「そして次に、この水路を基点にして奴らの足取りを辿ると、すべてこの地点に集結するとになることが判ったわ」
 
 予め印を付けておいた箇所を指差して、桂花は問題の位置を皆に示した。 だが、主要な都市や貿易路から離れたその場所は一見すれば、戦略上、特に重要な地点とは思えなかった。 しかし、桂花が開示した情報に一同が納得顔で頷きその中で、夏侯淵が皆の心中を代弁するかのように、ぽつり、と呟いた。
 
「衢地か……。」
 
「となれば、相当数の部隊が守りを固めているはずだけれど……。 軍師殿はどうお考えかな?」
 
「無論、策はあるわ。 言ったでしょう? 干上がって使われなくなった水路がある、って。 つまりそう言う事よ」
 
「成る程ね。 策があるのは分かったよ。 けれども、戦略上こんな美味しい場所に食らい付かない奴は、いないんじゃないかな? 僕たちが意気揚々と向かってみたものの、骨と皮しか残っていませんでした、じゃあまさに骨折り損だ」
 
 桂花の策略に対し、たたみかけるように異を唱える李通に、しかし彼女はどこ吹く風だ。 むしろ、李通の粗探しを歓迎している風ですらある。
 
「確かに、その懸念は捨てきれないわ。 けれど、主戦場より離れた地にあり、小競り合いを征するだけで満足しきっている愚昧な官軍が目を付ける可能性は低いとみていいわ」
 
「それは、理由付けとしては弱いよ」
 
 桂花の答えに納得がいかないのか、李通は呟きながらかぶりを振った。
 
「諸侯の中には、見所のある人たちもいるからね。 この地の近場なら……、公孫賛か、袁紹の参入も考えられないかな?」
 
「無いわ。 袁紹はあれ、だし。 公孫賛は、蛮族と国境を境目に睨み合いをしていたところに、黄巾党まで相手取らなければならない始末。 とてもではなけど、そこまで気を回す余裕は………。」
 
「いい加減にせぬか、貴様ら!」
 
 ここにきて、今度は唐突に夏侯惇が割り込んだ。
 
「先ほどから聞いておれば……。 貴様らそれでも華琳さまの臣下かッ!」
 
「な、なんですって!?」
 
 夏侯惇の怒声に、いや、その話の内容には流石の桂花も顔色をなくした。 両者互いに交錯した眼差しが怒気を孕ませて凍る。 桂花のそれを受け止める夏侯惇は、逆撫でするのを承知の上でますます怒声を荒げ、もはやその凄味は、ただでさえ圧倒的な彼女の威圧感が倍に膨れ上がったかと錯覚するほどだった。
 
「いま我らが為すべきことは、諸侯の様子伺いか? いや、そんなものではない。 無辜の民の絶望を是とし、恐怖の伝播を悦とする亡者どもを打ち滅ぼすことではないのかッ! それなのに、貴様らは良く分からん話ばかりしおって……、彼奴らの居場所を掴んだのであれば、さっさと倒しに出向いてしまえばよいではないか!」
 
「……………………。」
 
 桂花も李通も言い返せなかった。 夏侯惇の指摘は正論だ。 途中、後半の即断即決を地で行く彼女らしい理由には、言い返したい部分は山ほどあったが、たしかに自分たちの行動理念の根本にあるものは、いずれ曹操に駆逐されていく運命の他勢力の動向伺いなどではなく、今を苦しんでいる民草の安寧を取り戻すことにある。
 
「どうどう、落ち着きなさい春蘭」
 
「か、華琳さま……。 しかし……。」
 
「貴女の言いたいことは、良く分かるわ。 桂花も万億も、熱くなるのは良いけれど、話が逸れてきていたわよ」
 
「はい……。 申し訳ございませんでした」
 
 慎ましく謝罪の言葉を口にするものの、桂花の心中は穏やかではない。 なぜなら、愛しの主の横では、己が意見に同意してもらい、尚且つ桂花が叱られている姿も合間ってか、露骨に胸を張ってさも愉快そうな夏侯惇の表情を見なければならないこの現状は、曹操軍筆頭軍師の地位を持つ知者として甚だ不本意であった。 ただ、ここで癇癪を起こそうにも、つい今し方曹操に窘められた手前何も言えず、一時の間だけではあるが、怒気を飲み込んでおく。
 
「それで……、何処まで話しを戻せばよいのかしら?」
 
「ふむ。 敵の移動手段と位置、そして討伐のための策はある、という所までは分かっていますな」
 
 曹操の問いに、徐晃が何やら思案顔で答えた。
 
「ならば、その続きから説明して頂戴」
 
「はっ……。」
 
 桂花は一度、そこで言葉を区切ってから、胸に溜まった熱の篭った息を吐き出した。
 
「皆も実感していると思うけれど、ここ最近、野戦に現れる敵の数が減っている……、何故か分かるかしら?」
 
「ふんっ!簡単なことだ。 我らに恐れをなしたからに決まっている!」
 
「違うぞ……、姉者」
 
 握り拳を固め、唾飛ばすほどの勢いでそう結論を出す夏侯惇に、夏侯淵はため息を漏らしながら姉の答えを否定する。

「なに!? 違う……、のか?」
 
「重要な拠点……、もっと言ってしまえば本拠地の死守のために兵力が割かれているから、とお考えかな?」
 
 相変わらずの剽げた口調の李通であったが、話の内容は桂花が欲していた答えを的確に射抜いていた。 夏侯惇、夏侯淵に次ぐ古参の武将であり、曹操から真名を預けられているだけあって、その実力は文武ともに本物である。 これには男嫌いの桂花とて表にこそ出さないものの、この禿頭のお茶狂いの評価を改めて再認しなければならなかった。
 
「えぇ、その通りよ。 最初にも話したけれど、奴らの足取りは掴んでいる。 そこから、敵の本拠地の位置、兵数、物資の量……。大凡の目星がついているの………。」
 
「ということは……。」
 
 この説明の後に予期される一同の反応を思って、桂花はそこで話を一度止めた。 皆が、咀嚼して飲み込んでくれなければ意味が無いからだ。 ただ、逆に言えば、それだけの事をしなければ、後に控えている発言意味さえも理解できないだろうが。
 
「結論を言ってしまえば、先ほどまで話した衢地の拠点の撃破は、あくまでも前座。 本命は黄巾党本拠地の制圧よ」
 
「な、なんと……………。」
 
 夏侯惇以外の者たちは、言葉も発しないが、その視線の動きやら気配やらは、桂花の大胆不敵な発言に揺れ動いていた。 むべなるかな、それが武将として当然の反応だ。
 
「まてまて、荀彧殿。 敵本陣はかなりの数の兵が割かれているのではないのか?」
 
「えぇ、そうよ。 それが何?」
 
「それが……、とは……。 いや、重要なことだろう」
 
 実にあっけらかんとした桂花に、徐晃はむしろ毒気を抜かれてしまった。

「何度も同じような話を繰り返させないでちょうだい。 私だって、勝算がなければこんなことは言わないわよ……。 だからあんたは黙っていればいいのよ」
 
「む、むぅ………。」
 
 そう言われてしまえば、徐晃とてこれ以上の反論はできない。 性格にこそ多少の難があれど、桂花の頭脳は一級であることは疑いの余地すらない。 内政を司る者として、軍師としての彼女が冷徹に物事を天秤にかけ、弾き出した勝算である。 そんな彼女が今までに無い大規模な遠征を行う事を良しとする。 ということは既に桂花の頭の中では必勝の策が出来上がっているのだろう。
 
「あんた以外にも懸念を懐いている人が多いようだから、この際、言ってしまうけれど……。 今回の案は既に華琳様から了解を得ているわ」
 
「ほぅ……。 それは初耳だ」
 
 武官といえど、政務にも深く携わる夏侯淵は、敬愛する主と恋敵でもある軍師が二人きりで密談を交わしていたことに対する嫉妬よりも、むしろ、自分にさえも密にするほどの大掛かりな作戦を企てていた桂花に対しての興味と驚きの感情のほうが遥かに大だった。 そしてさも興味深いと、形の良い眉を大仰に上げてみせ桂花を見つめると、彼女も分かっているとばかりに、話の穂を接いだ。

「秋蘭にも伏せていたのは、これには試験的な意味が大きかったからよ。 そんなことをわざわざ貴女にまで話して、事を大きくして、悪戯に現場を慌てさせるのは、私としても華琳様としも避けたかったの」
 
「ふむ………、そういう事情か」
 
 端的な説明でありながら夏侯淵は桂花の言わんとすることを理解したようで、得心顔で頷いた。
 
「むむむ………。 どういう事情なのだ、秋蘭……?」
 
「――――ふむ、そうだな………。 姉者」
 
「お、おう……。」
 
 あまり事情が飲み込めずにいる夏侯惇に対し、どう噛み砕いて話したものか、と思案顔の夏侯淵。 暫しの沈黙の後、唐突に話しを切り出した夏侯淵に、若干及び腰になる自分の姉の表情がとても愛らしくもあるが、今は彼女にでも桂花が話した内容の意味を理解させることに専念しなければならないのだ。
 
「今まで我らが行ってきた遠征の規模は、姉者の目から見てどう映る? 正直な感想を聞かせて欲しい」
 
「そう、だな。 そこまで大きくない、精々が中規模ぐらいだ」
 
「うむ。 ならば、大規模な軍事遠征自体、我々は経験したことが無い。 そういうことだな?」
 
「あぁ……、そうなるな」
 
 まるで聞き分けのない子供をあやすように、夏侯淵は姉の凝り固まった思考の糸を丁寧に解きほぐしていく。 その手並みは、生まれてこのかた、常に一緒に過ごしてきただけあり、余人では及ばぬ域にまで達していた。
 
「そこで桂花は、兵たちに経験をつませる為、大規模な作戦行動を華琳様と考えていたのだ」
 
「む……、ちょっと待て! なぜ桂花の奴が華琳さまと二人きりでそんなことを! 軍務に関わることであれば、私であろう!」
 
「ふぅ………、ならば聞こう姉者。 姉者は、従軍する兵の装備から、糧食、備品に至るまでしっかりと数を把握して何処に割り振ればいいのか、それを報告書に纏めるだけでなく、華琳様から問いかけられればすぐさま答えられるか?」
 
「うっ……。 それは………。」
 
「…………、そういうことだ。 そういった細々したことは、私か桂花に任せておけばいい」
 
 夏侯淵はつい、いつもの癖で姉をからかってしまったが、当然、話は逸れてしまっている。 眦には涙を溜めて困り顔のまま、縋るように己を見つめてくる夏侯惇の頭を撫でたい欲求を何とか抑えつつ、咳払いして、夏侯淵は先を続けた。
 
「まぁ、姉者を蔑ろにするわけではないから安心してくれ。 ただ今回は、事が事だったようだからな……。」
 
「う、うむ……。」
 
「ふふ、そう身構えないでくれ姉者。 話の続きだが、大規模な遠征ともなれば、それだけで兵たちにかかる緊張も負担も増すだろう。 しかも、黄巾党の本拠地に攻め入ると知れれば尚のことだ」
 
 巷を騒がせる黄巾党の正体が、農民崩れの有象無象の集団だとしても、数が揃い防備を固めたとなれば相手が雑兵といえど攻略は難しくなってくる。 しかも、それが遠方へ足を伸ばして疲弊しているところで行われるのだ。 たとえ此方に充分な士気の高さがあろうとも、守りを堅めに入った大軍を前にして、疲れを残している状態で攻城を試みるなど自殺行為も同然である。 無論、その程度の道理は桂花とて弁えている。 だからこその試験的運用なのだ。
 
「だから、桂花は余計な気負いを持たせない為に、寸での所まで黙したまま語らず、兵たちの試金石として前座を用意しておいたのさ」
 
「つまり、敵の本陣を攻めるかどうかを、そこで判断する、ということか?」
 
「その通りだ姉者。 ちゃんと心得ているじゃないか」
 
 我が意を得たとばかりに夏侯淵は微笑を浮かべ、何度も頷いた。 こういう端的な理解の仕方は夏侯惇の美点である。
 
「ふふんッ!」
 
「何で私に向かって、自慢げに胸を張るのよ!」
 
 特に褒められたわけではないのだが、不適に笑ってみせる夏侯惇だったが、今回の作戦の立案者である桂花に自慢してみせるあたり、本当に話の趣旨を理解しているのかどうか。 根気よく説明してみせた夏侯淵は、そこはかとなく不安を覚えるが、この程度のことで思い煩っていては夏侯元譲の妹は務まらない。 つまり、平たく言ってしまえば、説明はしたのだから後はどうにでもなれである。
 
「さて、春蘭も理解できたということは、全員が理解できたということでしょうから、話を続けるわ」
 
「か、華琳さまぁ……。 あんまりですぅ……。」
 
 あまりな言い様に流石の夏侯惇も異議を申し立てるが、だが曹操はそれを斟酌してくれない。
 
「今までに無い規模で軍を動かすことになるから、心苦しいけれど皆には夜を徹して作業を進めさせることになるでしょう。 恐らく馬上で休むことになるから、その間、事態に即応できる人間を作っておいて頂戴」
 
「あぁ……、成る程」
 
 つまり、今からお前たちを馬車馬の如く働かせるから代理人を立てておけ、という曹操からの宣言を賜るために今回、曹操軍の主要な面子が集められたのだ。
 
「何か質問はあるかしら?」
 
 そう皆の反応を伺ってみるが、異議を唱える者など出ようはずもない。 他人を動かす以上に己が誰よりも働く曹操である。 その彼女から心苦しいと、本心からの労わりの言葉を賜っている以上、家臣としては苦労は多かれど達成させねばならないことである。 そんな家臣たちの沈黙の気概を肌で感じてか、曹操は会議の終結とみてとったらしい。
 
「無いのであれば、これで終わりにするわ。 各自の一層の奮励に期待する。 以上、解散!」
 
「あ、春蘭殿。 少しいいか?」
 
「む……? どうかしたのか?」
 
 淀みの足取りで部屋から退出する曹操に続いて出て行こうとする夏侯惇を呼び止める。 やはりと言うべきか、夏侯惇の表情は徐晃との間に起こった少し前の一件があってなのか思わしくない。 だが、その程度のことで怯む徐晃ではない。 いま必要なのは、彼女との間にしこりを残さないための解決方だ。 それは即ち、偽らない、本心からの謝罪である。
 
「うむ……。 実は、だな…………。」
 
 その後。 徐晃が夏侯惇から四発目となる鉄拳を額に受けたのは、余談である。






あとがき

恋姫に出てくる料理絵は、なんであぁも美味しそうなのだろう……。 腹が減って仕方ありません。
どうもギネマム茶です。
 
しかし、ゲーム中で語られていた麻婆の辛さとは一体どれほどのものだったのだろう……。
気になるところではありますが、暴君ハバネロ食べた翌日、悲鳴を上げた私には想像もつかない世界なのだろうなぁ、きっと……。


さて、今回は女性陣の真名解禁と黄巾党討伐に乗り出す一歩手前といった回でした。
次回から一気に話が流れてくれればいいなぁと思います。
 
 
ではまた次回



[9154] 二十九話・そして今、ふたりの運命は完全にひとつとな(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:2355caec
Date: 2010/10/25 19:38
「……………………。」
 
「空に何かあるのかしら?」
 
 馬上の高みより更に遥か高みに広がる蒼天に見入っていると、ふと背中から声をかけられた。
 
「……………、華琳殿か、如何されました?」
 
「如何されました、ではないわ。 まったく……、春蘭たちが先行している今、相応できる貴方がその体たらくでは困るのよ」
 
「む………。 それは申し訳ない」
 
 空を見上げていた徐晃の様子が、どうやら気だるげなものに見えてしまったらしく、曹操の表情は思わしくない。 そもそも、雲の動きを眺めているあまりすっかり失念していたが、今は徐晃と曹操ぐらいしか部隊の指揮を取れるものがいなかったのだ。 なのに、まだ道のりは長いと気を緩ませてしまうとは。 徐晃は我が身の迂闊さに歯噛みする。
 
「それで? 何かあったのかしら?」
 
「む?」
 
 眼差しだけがまるで拗ねるかのように、目を眇めてみせる曹操の問いかけに、徐晃は困惑する。
 
「ずっと空を見上げていたでしょう? だから、何か気になることでもあったのかしらって、聞いているの」
 
「あぁ………。」
 
 ぽむ、と得心顔で手を打ち鳴らす徐晃。 どうやら、猫のような気紛れさを持つ少女は、自分だけ除け者扱いされているようで、面白くないらしい。
 
「空が、少々高い、と思いまして………。」
 
「空が?」
 
「えぇ……。」
 
 徐晃の妙な言い回しに曹操は眉を上げる。 ただ、徐晃の言わんとする意味は、何となしに理解できる。 ほのかに黎明に染まり始めた冬の澄んだ空気の中で、空を仰いだ時。 優しく大地を濡らしていた雨が上がった後、春一番の風が雲間を割いたとき。 そんなときは、曹操も漠然とだが、普段よりも世界が広く感じることがある。 いつもとは違う空気を肌で感じたとき、人は感慨に浸りたくなるものなのだ。
 
「意外ね」
 
「何が、でしょう?」
 
「貴方が、物思いに耽るなんて」
 
「はは、心外ですな。 俺とて人の子……、多少なりとも、そういう事もありましょう」
 
 あまりな曹操の言い様ではあるが、徐晃本人も自覚があるのかあまり強く言い返さない。 口ではとてもではないが敵わず、と肩を竦めて降参の姿勢をとるのだが、曹操はまるで子猫をからかうような悪びれない笑みで追い打ちをかけてくる。
 
「それなら、もっと風情のあることを考えたらどうなの?」
 
「…………、手厳しいですな」
 
 曹操の底意地の悪い笑みには嫣然としたものさえ感じさせる。 話の内容よりも、徐晃の戸惑う様子を肴に眺めているかのような、そんな笑い方。 だが、徐晃はそれを不愉快に感じたことはない。 それが余人との付き合い下手な彼女なりの距離の測り方なのだと、徐晃も理解してるからだ。 むしろ、そんな曹操の不器用な自己表現の仕方に微笑ましささえ感じ始めてさえいる。
 
「そう思うのであれば、まだ改善するべき点があるということよ」
 
「ふむ………、そんなものでしょうか?」
 
「そんなものよ」
 
 そこで、ぴたりと、会話が途切れ、曹操は自分でも気が付かないうちに浅く息を漏らしていた。 別に会話に疲れたわけではない。 甘い物を食べた後に塩気のあるものが欲しくなるように、ただ何となしに沈黙を味わいたかっただけ。
 
「………………………。」
 
 大地を踏みしめる軍馬が蹄を鳴らし、歩兵が着込む鎧兜の擦れる金属音だけが耳周りを騒がせる。 横目に徐晃を見やれば、また証拠にもなく空を仰いでいた。
 
「随分と、遠くまできましたな……。」
 
 独り言にしては大きすぎる一言である。 それを耳にした曹操の反応はてっきり沈黙を保つか、つい先ほどのような軽口が返ってくるものだとばかり思っていた徐晃だったが、口を開いた彼女の声音が予想に反し重く沈んだものだった。
 
「そうね………。 私たちがここまで来なければならないほど、この国は弱りきっている」
 
「華琳殿………。」
 
 ただ生きたかった。 たまたま食料を持っていたから殺して奪った。 そんな理由のためだけに多くの命が奪われ、故郷を踏み荒らされた民たちこそ、さぞや無念だったろう。 この土地にも本来であれば、領地も利権も、そこに伴う責任も、すべて曹操のように国より任され、背負うべき責務を託された者がいるはずなのだ。 それを抛り投げ、自らは民草を置き去りにして賊徒の凶刃から早々と逃げ去って行く。 無論、己の命は一つしかないのだから、とても大切な物だし守りたいのは解る。 それが誹りを受ける行為だとしても、生きようと足掻くのは人の業だ。
 
「国が、誰かが……、ではなく、自分たちでどうにかしなければならないほど、抜き差しならないところまできてしまった………。」

 しかし、土地に根付き先祖代々、脈々と受け継がれてきたものを守ろうとする民たちは違う。 村と共に生き、そして死ぬ彼らにとって、命を狙われているからといって村の外の世界へ逃げるという選択肢が最初から存在しないのだ。 いや、村での生活以外に生きる術を知らないから逃げられない。 だから、彼らは奪われ、そして死んでいく。 やがて、すべてを失いながらも生き残ってしまった者が、今度は絶望を糧に他者への痛みを是とし、奪う側に回る。 それが、いまこの地上で起こっている殺戮のすべてだ。
 
「だから私たちが止めなければいけない。 これ以上の負の連鎖を断ち切るためにも……。」
 
「………………。」
 
「そのためには、この遠征は必ず成功させなければいけないわ」
 
 そう決意も新たに、瞳の奥にで炎を滾らせる曹操の姿に、だが徐晃は途方に暮れて立ちすくむしかできなかった。 曹操の表情も振る舞いも、玉座の間で対峙する時の様な颯爽たる風格を醸し出しているというのに、何故か徐晃の目には、ほんの一瞬だけ、傷つき、怯え切った子供のように、今にも泣き出しそうなほど追い詰められた表情に見えてしまったのだ。 まるで、手負いの獣が弱さを覆い隠そうと必死になって体を大きく見せているかのような。
 
「む……、華琳殿」
 
 だが、そんな戸惑いも一瞬のことである。 前方より早馬で此方に駆け寄ってくる兵士の姿を、曹操よりも先んじて発見した徐晃の意識が自然と切り替わった。
 
「どうやら、春蘭たちが何か見つけたようね」
 
 徐晃の声音を聞いただけで、曹操は状況を察したのだろう。 呟いた彼女の声は、思いのほか静かで、徐晃にも馴染み深い固さと冷たさを取り戻していた。 即ち、冷酷かつ周到な絶対者、曹孟徳の顔であった。
 
「曹操さま! 曹操さまはいらっしゃいますか!」

 予想よりも早い、戦いの報せが曹操の耳を撫でる。 だが、曹操には微塵の動揺はなく、ただ泰然と、急報を待ちわびた。
 
「どうした!」
 
「はッ! 夏侯惇先遣隊、敵拠点を発見しました。 ただ……。」
 
「ただ?」
 
 凛と通る声で問いかける曹操に、兵士も素早く、だが早口にならぬように先を続ける。
 
「拠点より西方の地点にて砂塵を確認。 恐らく黄巾党とどこかの軍が戦っているものと思われます」
 
「そう……。 旗は確認できたか?」
 
「残念ながら………。 しかし、李通将軍から義勇軍である可能背が高い、と……。」
 
 兵士の答えに納得がいったのか、曹操は満足そうに一度だけ大きく頷いた。 もう少しだけ委細を確認したいところだが時間が惜しい。 現状と、李通の性格を知っていれば、のんびりとはしていられない。 彼は主たる曹操が相手でも味な真似をしてくれる猪口才な奴なのだ。 そして今回もそうであるかを確認するため、兵にはいま一つ問い質さなければならないことがある。
 
「あとは、そうね………。 万億のことだから、噛み癖のある猫を躾けてくる、とか言っていそうだけれど、どうかしら?」
 
「そ、その通りです」
 
「さもなりなん、ね。 まったく、どちらが躾のなっていない猫なのか……。」
 
 困り顔で、まるで子供の粗相を母親が窘めるかの如く、曹操の声音はこの場にあっては場違いなほど穏やかで優しかった。
 
「図らずとも万億の懸念が的中した、か。 まぁいいわ……。 仁!」
 
「は!」
 
「寝扱けてる連中を叩き起こしなさい。 全速で春蘭たちの下へ向かうわ」
 
「承った!」
 
 徐晃はさも痛快そうに、獰猛な含み笑いを漏らしながら駆け出した。 それを見送った曹操は、今度は兵へと下知をくだす。 夏侯惇や李通の実力を疑っているわけでは無いが、義勇軍と戯れている程度の烏合の衆といえど、並みの盗賊より手強いことには、まず間違いない。 ならば、ここは本隊も全面に押し出して、敵陣ごと圧殺してやるのが、此方の一番被害が少なくて済む。
 
「貴方は殿について、脱落した兵を回収しながら付いてきなさい。 以降は本隊と合流するまで、遊撃部隊の指揮を任せます。 いいわね?」
 
「はッ!」
 
「よろしいッ! 総員、全速前進! 追いつけない者は置いていくわよ!」
 
 永きに渡る戦いに終止符を打つため、曹孟徳という王者が征く覇道を信じて供に馳せることを誇りに、輝く騎馬の精鋭たちは、昂ぶる血潮を歓喜にしながら、勝ち鬨にも似た嘶きを張り上げて疾駆しはじめた。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 外見は年端のいかぬ小児そのものの二人組みに、関雲長は始めのうちは戸惑いを覚えた。 話を聞けば戦乱の世を憂いて、人々のために己が力を振るいたいと、彼女たちはさる高名な先生のもとから飛び出してきたという。 その後先のを考えない行動力と肝の太さは、外見には似合わぬ物を持ち合わせているようだが、腕っ節は姿見そのままだった。 無論、外見の幼さが武勇に直結するわけではないことを関羽は痛いほど良く理解している。 だが、件の二人の歩く仕草、視線の動き、一挙手一投足が外年齢通りの子供そのものだった。 明らかに彼女たちは、荒事には慣れれていなかった。 彼女たちより幼い村の童女でさえ、もう少し機敏な動きを見せる。

 だが、軍師として、兵法を用いて知略を総動員させた時の彼女たちの働き振りは、幼い容姿からは想像もつかないほど目覚しいものだった。 まさか、此方の倍以上もいる敵を相手取りながらも、拮抗に持ち込むどころか圧倒的な大差を付けて、関羽たちに勝利を齎してくれようなどとは、思いもしなかった。 だが、結果は結果である。 眼前に突きつけられた大勝利の立役者を無碍に扱うほど関羽も狭量な人間ではない。

「敗残兵が潜んでいるかもしれん。 各員、陣地内をくまなく調査しろ!」
 
 戦場での大立ち回りを演じきった後も、毛ほどの憔悴も窺わせず関羽は、立て続けに舞い込む雑事の処理をこなす。 黒曜石を溶かして結いたかのような黒髪を風に靡かせ、凛とした声を張る様は、触れることすら躊躇させるまさしく戦場に咲く華であった。
 
「見つけた物資には手を付けず、すぐに私たちに報告してくださいね」
 
「応ッ!」
 
 その傍らでまだ余力を残す兵士たちに指示を飛ばすのは、件の二人組みの内が一人、諸葛孔明その人だった。 既に軍師として、関羽たちが束ねてきた義勇兵を己が手足として扱っているが、先ほど経験した戦が初陣であったなど、いったい誰が信じようか。 だが、彼女はまぎれもなく此方の倍する敵を封殺してのけた、神算鬼謀の持ち主である。
 
「ふぅ~。 とりあえず一段落かな? 皆ご苦労様でした」
 
「桃香様こそ、本陣の指揮、お疲れ様でした」
 
 聞き知った声に振り返ると、案の定、予想通りの人物が立っており、きりりと精澄に張り詰めた関羽の雰囲気が、一気に軟化した。
 
「あはは、そんなことないよ。 殆ど雛里ちゃんのおかげだったし」
 
 小春日和の陽光にも似た、慈愛と母性を形にした様な笑みを浮かべ、桃香こと劉玄徳は自分の後ろに隠れていた今回の立役者の一人の背をそっと押して、前に出してやった。 諸葛亮と旅を共にしていた小さな軍師が片割れ、鳳士元である。
 
「あわわ。 そ、そんなことありませんよ! 桃香様は凄く勇敢に戦っておられました。 だからこそ、兵の皆さんが桃香様についていったんです」
 
「ううん。 雛里ちゃんが頑張ってくれたから、私は殆ど指揮しなくて済んだから、凄く楽ができちゃった。 だからありがとうね」
 
「あわ………。 あ、ありがとうございましゅ……。」
 
 よほど褒められた事が気恥ずかしかったのか、鳳統は頬といわず耳まで真っ赤に染め、被っていた帽子を深々と目元まで下げてしまう。
 
「あはは、これからもよろしくね、朱里ちゃん、雛里ちゃん」
 
 圧倒的な統率力を持って、数千を超える義勇兵を操ってみせた諸葛亮たち手並みに最早、幼いことを理由に異を唱える者は誰も居なかった。

「はいッ!」
 
「よろしくおねがいします」
 
 柔和で優しい声に乗せ、劉備は二人の手を取ってやんわりとした握手を交わす。 たったそれだけのことのはずなのに、胸襟を開いてしまいそうな、彼女の支えになってやりたくなるような、そんな気分にさせてしまう不思議な魅力を劉備は持っていた。 それは邪気の一切を感じさせない聖母のような清らかな表情がなせるものなのか、実に笑顔一つで心をとろかされてしまいそうになる。 そして、満面の笑顔で頷く少女たちに、劉備は穏やかな笑みで頷くと、小さな二つの掌からそっと手を離した。
 
「申し上げます!」
 
「はいはーい。 どうかしたの?」

 和やかな空気が、不意に現れた兵士の乱入にかき乱された。 あまりにも唐突な出来事に、一同が僅かながらも身を固くさせていた中、劉備だけが普段と変わらぬ物腰で対応する。 その微塵の動揺も感じさせない立ち振る舞いは、なるほど、数千もの兵を率いる長に足るものであった。 
 
「はッ。 陣地の南方に官軍らしき軍団が現れ、我らの部隊の指揮官にお会いしたいと………。」
 
「官軍らしき、とはどういうことだ?」
 
「それが………、通常、官軍が使用する旗を用いず『曹』と書かれた旗を掲げているのです」
 
 蚊の命ほど儚い僅かな隙とはいえ、劉備に付き従う関羽たちもまた、戦闘に関しては一級の武人である。 瞬きをする暇こそあらば、落ち着きは払い、兵士の表情から状況の切迫具合を読み取ることなど雑作もないことだった。
 
「官軍を名乗りながら、官軍の旗は用いず………。 恐らく黄巾党征伐に乗り出した諸侯でしょうね」
 
「曹と言えば……、陳留を中心に勢力を伸ばしている曹操さんかと」
 
 関羽たちのような瞬発的な理解力はなくとも、僅かな情報だけで事態をたちどころに把握した二人の軍師は、己が第一に感じた率直な意見を劉備に伝える。 神算鬼謀を旨とする伏龍と鳳雛の面目躍如。 その小さな頭脳には、緻密にして完璧な数万にも及ぶ地図から、地方を治める諸侯の人物像から、その動きまで余すことなく網羅し尽していた。
 
「う~ん……。 曹操さんって味方でしょ? じゃあ挨拶はしておいた方がいいよね」
 
「そうですね。 上手くいけば共同戦線を張れる可能性もありますし」
 
 普段からおっとりとした雰囲気でいて、不思議と決めるべき場面は心得ている劉備であった。
 
「しかし………、我らの手柄を横取りするということも考えられるのでは?」
 
「普通の官軍ならばそうでしょう。 でも私が聞き知っている曹操さんが、そんな恥知らずなことをするとは思えません……。」
 
 関羽の懸念に、だが鳳統は被りを振り、解せない様子の者たちに己の分析内容を説明した。
 
「誇り高き覇者……。 器量、能力、兵力、そして財力。 すべてを兼ね備えいるといっても過言じゃない人物でしょう………。」
 
「ほわぁ………、なにその完璧超人さん」
 
 だからそんな人物が、人の手柄を横取りするなんて破廉恥な真似をするはずがない。 そう結論づける鳳統の言葉の裏の意味をいったいどれだけの人間が理解できたことだろうか。 劉備が指摘する通り、完璧すぎる相手が、今はまだ同じ敵を前にして大人しくしているが、いずれの時は牙を剥くべき敵となりうる存在である。 その時は、此方も本気で喉笛を噛み千切る覚悟でなければならないのだ。
 
「そのような人物が、どうして我らのような弱小部隊に声を掛けたのだ?」
 
「それは、分かりませんけど………。」
 
 鳳統の胸中を正しく汲み取った諸葛亮は、沈鬱な呟きで関羽の問いに答えた。 己の中にある曹孟徳の人物像から、現在に至った経緯が、どうしても見出せなかったからだ。 そもそも、今回の曹操からのお誘いの声は、突発的偶然から端を発したものであり、こと戦闘を行った事に関しては無関係、と結論するしかなかった。 此方と相手の戦力差は、文字通り比べ物にならない。 本来であれば、此方は歯牙にもかけられない弱小勢力なのだが、まさか、関羽の当初懐いた懸念通り、手柄の横取りか、と卑しい考えが頭を掠める。 あくまでも可能性の一つではあるが、答えの出ない思考が、そんな最悪の事態すら考えねばならないほど、今は警戒に値するのだ。
 
「分からないなら、会っちゃえばいいんだよ」
 
「そうはそうですけど……。」
 
「じゃあ、決まり!」
 
 懊悩とする諸葛亮を尻目に、実にあっけらかんとした態度で事を運ぶ劉備の対応に、小さな軍師はその体躯に見合った苦笑を漏らした。 何事にも、ただどうしようもなく雄大に物事を受け止められる劉備の、その器量の大きさに。
 
「曹操さんに、歓迎しますって伝えてきてくれるかな?」
 
「はっ! あの……。 此方でお会いされるのですか?」
 
 主から既に下知がくだされているにも関わらず、不遜と知りつつも質問を投げかける兵に、関羽は堂々と胸を張って答えた。
 
「あぁ、向こうが声を掛けてきたのだから、此方から出向かなければならない道理は無い。 相手が諸侯と言えども、我らは堂々、ここで出迎える」
 
「愛紗さんの言う通りです……。 礼儀は必要ですが、必要以上に阿ることはありません。 端然とした態度で呼んできてください」
 
 関羽に同意するように頷く諸葛亮だが、彼女の場合、打算も含まれていないといえば嘘になる。
 
「分かりました。 では……!」
 
 目の前の兵士が走り去るのを確認してから、諸葛亮はより前向きなことを思考することにした。 何にせよ、大軍を率いて現れた不確定要素を放置しておけないが、全てを悲観するにはまだ早い。 幸いにも噂に聞く曹操は高潔な人物と聞くから、いきなり刃をちらつかせてくる、なんて展開はないだろうと、諸葛亮も予想している。 そうなるとむしろ脅威になるのは、大軍の利を活かして此方の兵を取り込んでくる可能性だ。 労せず兵を吸収できるのであれば、諸葛亮でも実行に移すだろう。 ただ、そうなると兵糧の備蓄という点が問題が浮上してくるし、吸収兵の統制も厄介なものになってくる。 現状から察するに曹操の軍は、遠征中であり極力面倒ごとは避けたいはずだ。 いまだ此方に接触してきた理由は定かではないが、角が立つような行動は起こしてこないだろう。
 
「曹操さんかぁ………。 どんな人だろう?」
 
 軍師らしく、物事を理詰めて考え抜く諸葛亮とは対照的に、どうにも、のほほんとした雰囲気が抜け切れない劉備。 それが彼女の持ち味でもあるのだが、眼前に大軍が迫ってきているのだからもう少しだけ、眉を寄せて緊張感を出しても罰は当たるまい。
 
「そうですね……。 治世の能臣であり、詩人でもあり……。 そして何より、乱世を生き抜く奸雄でもある人物だって噂です」
 
「治世の能臣、乱世の奸雄……。 善悪定かならずというやつだな」
 
 諸葛亮の話す曹操の人物像を聞いて、関羽は数拍の間、言葉の意味を吟味するかのように喉を唸らせてから、低く厳粛な声でそう結論を出した。 だが、それに異を唱える者が一人。
 
「それは管輅の評であり言わば影よ、貴女の評価ではないわ。 それを出会ってもいないうちから、貴女は影だけを見て人を語るのかしら?」
 
 その声は、劉備たちの知らない第三者のものだった。 果たして彼女たちの遣り取りをいつから立ち聞きしていたのか、武官を連れ立って現れた一人の少女。 凛烈な氷を思わせる微笑を口元に浮かべ、品位と理知によって磨かれた威厳は、まさに女帝の風格を漂わせていた。
 
「始めまして。 陳留を収めている、曹孟徳よ」
 
「うわッ!? び、びっくりした………。 こ、こんにちは……。」
 
 それが、曹孟徳と劉玄徳の初めての交わした言葉だった。






あとがき
 
最近……、生まれて初めて松茸ご飯を食べました。
どうもギネマム茶です。
 
今回かなり短めで申し訳ないです。
とりあえず次回に向けて、といった感じのも含め、前々から出したかった蜀メンバーが少し紹介できてよかったです。
ただ一気にキャラを出すと私の技量が追いつかないので………、鈴々ごめんなさい。 本当に出番ハショってごめん。
後で出番一杯だせるといいなぁ、と思っているから許して……。

さて、サクサクと黄巾党編進められればいいんですが……。
ではまた次回。



[9154] 三十話・あたしは老酒をもってまいりましたの、通ってもよろ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:51e4fbfc
Date: 2010/11/15 18:56
 一つの闘争を終えた後の荒野は、生き物の気配さえ感じさせない普段の静けさとは程遠く、積荷をいっぱいに載せた荷車を引く馬や、荷揚げ人足よろしく動き回る兵士たちによって静謐な空気をかき乱されていた。 そんな中、立て続けに届けられる兵からの報告を手早く処理している者の姿が二つ。 姜維と楽進である。 彼女らの動きは実に迅速かつ的確で、従う兵士たちの動きにも澱みがない。 普段はどうしても彼女らの長たる徐晃の巨体の影に隠れて目立たず注目されないが、中々どうして見事な指揮者ぶりを発揮していた。
 
「クゥ………、そちらの撤収作業は順調か?」
 
「な、なんとか間に合いそうです………。」
 
 曹操の命を受け、黙々と任務をこなす二人ではあるが、この役割をこなすべき者は、本来徐晃である。 しかし彼は今、義勇軍の下へ物資を届けに動いているため、その代役として彼女たちが指揮をとっていたのだった。
 
「よかった………。 なんとか将軍の代役を果たせそうだ………。」
 
「最初に、二人だけで何とかしろ、と言われたときは流石に焦りましたけれどね」
 
「真桜は、工兵隊の指揮を。 沙和は、後方部隊の支援へ、皆出払ってしまっているからな……。」
 
 だから仕方のないことだと、やんわりとかぶりを振る楽進に姜維も頷く。 常に命令には忠実に、責務には従順に、倫理には厳格に。 そう努めてきた楽進である。 曹操から無茶な要請が下ろうとも、それが必要に迫られた上での、選択であるのだと理解しているからこそ、楽進たちも戦闘で疲れてきっている身体に鞭打つことを厭わないのだ。
 
「お二方が居なければ立ち回らないところもありますからね。 その分、お二人とも苦労は絶えなさそうですが……。」
 
「…………、だろうな」
 
「あや? どうかしましたか?」
 
「いや………、なんでもない」
 
 絶え間ない兵士との応酬が一段落し、息をついて何気ない会話が出来るまでに落ち着きをみせた頃。 ふと楽進は、徐晃と初めて出会った時のことを思い起こしていた。
 
「そうですか?」
 
「あぁ………。」
 
 最初は真面目な人物だと思っていたのに、どこまでも子供の様な稚気を残した上官。 彼は楽進を含め、于禁や李典を一級の武将に鍛え上げるのが自分の務めだと言った。 事実、数々の得難い経験を体験した時にはいつも徐晃の根回しがあったし、彼本人から直接指導を受けることもあった。 そのお陰で楽進は今もこうして兵士たちに慌てることなく指示を飛ばすだけでなく、余裕を持って雑談さえ交わせるまで己を器を拡げることができた。
 
「…………、負けられないッ」

「? 何か言いましたか?」
 
「何でもない…………。」
 
 だが、楽進は癖者揃いの上、負けず嫌いばかりが集う曹操陣営内においても、かなりの負けず嫌いだった。 そんな彼女が、常日頃から行動を共にしてきた于禁や李典が、自分とは別の重要な任務を与えられたらどう思うか。 おそらく楽進の心中は穏やかではないだろう。 つまり二人が評価を受け、先に進んでいってしまうのが面白くないないのだ。
 
「は、はぁ………?」
 
「……………………。」
 
 不器用な自分には無い、ただ戦うだけではない、別種の才覚を持ち合わす于禁と李典。 無論、二人に負けないだけの成果を出すためには努力を惜しむつもりは微塵もない。 ただ自分も頑張っているのだから褒めてほしい所ではあるのだが、それを態々表に出すほど楽進も子供ではない。 

「こほん……。 それよりも、クゥ」
 
「何でしょう?」
 
 咳払い一つを交えてお茶を濁す腹か、楽進は一呼吸の間を空けてから、別の話へと姜維を誘導しにかかった。
 
「今回の義勇軍との共闘………、どう思う?」
 
「そう………、ですねぇ………。」
 
 楽進の問いに姜維は思案顔になって腕を組む。 遠方を見やれば自陣とは別の旗を立てている部隊がある。 そして、それこそが、姜維と楽進を忙しくさせていた元凶であった。 そのせいか、義勇軍を見据える姜維の視線は自然と険しいものに転じていく。

「正直に言えば、不安は拭えません。 此方には充分な量の糧秣があり、兵数も士気も万全です。 元々、共闘するまでもなく自陣のみの力だけで、黄巾党を討ち倒す予定のだったのですから、私としては不安要素は極力排除しておきたいのが本音です………。」
 
「しかし、華琳様自らが赴き、見定め、答えを出したのだから……、向こうも最低限の働きはしてくれる………、と思う」
 
 語尾が小さくなるのは、曹操という信用の置ける基準があっても絶対、とは言えないからだろう。 ただ姜維も、楽進の言には納得済みなようで、特に反論らしい反論はなく、大人しく頷いた。
 
「まぁ、凪さんの言う通りなのですが、華琳さんが義勇軍の皆さんに求めていたのは、恐らく戦働き、とは別のものだと思いますよ」
 
「別の……、もの……?」
 
「相手にあって、私達にないもの………。 例えば、情報とかどうでしょう?」
 
 姜維の言葉に、だが楽進は首を傾げた。
 
「確かに……、もし仮にあちらが何らかの情報を掴んでいるのであれば、それは手を組むだけの価値はある。 だが、クゥ……。 言っては悪いが相手は義勇軍だ。 此方以上の情報を得ているとは思えない」
 
 自分が元義勇兵だった頃の経験から語っている楽進の言葉は、なるほど、説得力がある。 しかし、解せない様子の楽進に姜維はやんわりとかぶりを振る。
 
「だからこそ、引っかかりを覚えるんです。 向こうは碌な訓練さえ積んでいない農民上がりの方たちが寄せ集まった義勇軍のはず。 なのに、一見すれば戦略上、さほど重要視されそうもないこの地点が、その実、衢地となっていることを察知した………。」
 
「それも、優秀な軍師が居れば………。」
 
 楽進の意見に、だが姜維はまたしてもかぶりを振った。
 
「たしかに、最終的にこの地点を見抜いた慧眼は素晴らしいものですが、納得は出来ない点が残ります。 賊徒を平定するだけでしたら、ここを狙う理由はないはず。 それこそ、組みし易い相手なら幾らでもいますからね。 なのに、何処でもなく、此処に狙いを定めていた」
 
「………………。」
 
「おそらく、最低限の労力だけで、従来の十倍、二十倍にも膨らむ名声を得られる場所を意図的に選んだ。 凪さんの言う、優秀な軍師が誰にも意識させず誘導したのか、はたまた向こうの長さんが、率先してそう命じたのか、までは分かりかねますが………。 黄巾党が使用していた寂れた砦は、地図にも載っていない程古いもので、誰よりも積極的に情報を入手しようと思わない限りは、この衢地にまで辿り着くことは、まずあり得ません」
 
「だから、向こうもそれなり以上の情報を持ち合わせている?」
 
 しばしの間を置いてから、姜維はきっぱりと頷いた。

「はい、だから私達の不安要素になり得るんです」
 
「ん? そこまで"出来る"相手らなら、むしろ頼もしいと思う……。」
 
「現状ではそうでしょう。 しかし、その後は厄介なことになりそうですが………。 華琳さんはその辺りを面白がっていそうですからねぇ……。」
 
 心底嫌そうな表情をして、姜維はそう自己完結した。 楽進はその言葉の裏に隠れている意味を理解しようと、思考を巡らせる。 この小さな知者が、後に厄介なことになる、と結論づけるのだから、今ではなく、少なくとも黄巾党討伐が終えた後に問題が生じてくるのだと推察できる。 しかも、他人の輝かしい才を見つけたのなら磨かずにはいられない曹操が、あろうことか面白がる事態に発展すること。 即ち、余人とって極上の厄介事であることを示している。
 
「………、華琳様の悪い癖か」
 
「私は、事が終わったら後ろから……、と秋蘭さんか………、まぁ荀彧さんに進言したい所ですけれどね」
 
 つい桂花の名を濁してしまったのは、姜維自身すら自覚しなかった機微によるものだった。 瞬時に頭を掠めたのが、徐晃を抜かせば次に付き合いが長いだろう夏侯淵だったこともある。 だが、それ以上に、彼女の頭の中では、桂花と始めて出会った時に抱いてしまった意識が大きな影を落としていた。
 
「そ、それは…………。」
 
「あやや、冗談ですよ冗談」
 
 嘘だ。 慎ましく笑う姜維の表情は、愛想良くというにはあまりにも冷淡だった。 曹操が、興味を示しただけでなく、徐晃までもが物資搬入などと、託けて色々と動き回るほどの手合いなのだ。 このまま放置しておくのは得策ではない、と考えるのは仕方のないことである。 ただ姜維とて、そんな姑息な手段に訴えられない程度のことは弁えている。 曹操が一度、相手方をつぶさに観察すると決定付けたのだから、その障害となるような行動は命に係わる。
 
「仁様も何やら異様なまでに興味を示していますからね………、手が出せませんよ」
 
「本音はそっちか」
 
 楽進が胡乱な視線で姜維を見据えるが、当人は何処吹く風といった様子である。
 
「仕方ないじゃないですか。 あんな子供の様に瞳を輝かせていたら………。」
 
「…………、それは分からないでもない」
 
「それに、です」
 
「それに?」
 
 そこで言葉を区切って姜維は、遠方で着々と撤収作用を進めている義勇軍の方を向いた。 普段の穏和なそれとは程遠い、姜維の表情には半ば敵意めいたものさえ孕ませている。 親の敵を前にした者の表情とは、さながらこんな風情かもしれない。 妄執めいた気迫を隠そうともしない姜維の顔を、楽進は驚きも半分にまじまじと見つめた。
 
「……………、いえ。 後は勘ですから」
 
「はぁ……?」
 
「まぁ、自分の手で決着をつけ無ければならない予感があるんです」
 
 そう長くない人生を過ごしてきた姜維であるが、小さな恋心を懐き、育み、それを成就せんと努力を積み重ねてきた彼女は、数多の女性たちがそうであったように、女ならではの超感覚を持ち合わせるまでに至った。 即ち、"女の勘"である。

「だから、今此処で潰すなんて、そんな勿体ないことをするなんて、出来るわけないじゃないですか」
 
 脳の奥で警鐘が鳴り響く。 今ならば姜維には解る。 徐晃が俄然興味を示した理由、それは統率力が執れすぎた義勇軍全体に対してのものではない。 その内部に居た誰かに狙いを定めたのだ。 しかもそれは、女性である可能性が高い。
 
「ふふふ…………。」
 
「……………??」
 
 まだ見ぬ恋敵になるかもしれない者の事を思うと自然と気持ちが高揚し、姜維はつい楽しげに笑みを漏らしてしまった。 そんな姜維の心中など、とても察してやれるものではない楽進は、訝しげにそれを横目で見遣る。 あきらかに気まずい空気でありながら、姜維はまったく斟酌せず淡々と小さな笑いを漏らすばかりであった。 



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 黄巾の賊徒を討伐し、占拠した砦を放棄して、新たな目的地を目指して出立して暫くした頃には、空は茜色に染まりつつあった。 曹操と劉備の会合より、共同戦線を張るまでに至り、そこから必要な物資や兵力を宛がって貰い食い扶持をどうにかして、何とか体裁を整えている状態ではあるが、外見までは流石に如何ともし難かった。
 
「………………。」
 
 気概一つで戦場に身を投じて、劉備の理想の手助けをしてくれている勇者たち。 その手に持つ武器は剣やら槍やら弓やら、と多種に及ぶが、その悉くが蔵の奥から引っ張り出してきたかのような、それほど古めかしい物ばかりだった。 無論、武具の優劣だけで人を判断するほど関羽は落ちぶれてなど居ない。 どれほど姿が見窄らしくとも、その胸に秘めた気高き想いは、錦でできている。 ならば、堂々と胸をはり、曹操の軍と比類すればいいのだ。
 
「ふぅ………。」
 
 ただ、本来の関羽であれば、事も無げに流していたであろう事柄にも目が移ってしまうのは、理由があった。 曹操の軍師、荀彧からもたらされた情報と此方の持つ情報を擦り合わせた結果、黄巾党の本拠地を攻め込むという結論に至った。 彼女たちの話によれば、冀州を中心に黄巾党の大規模な部隊が点在しており、官軍を含めた他の諸侯らも淡々と包囲網を狭めに動き出しているらしい。 だが、いくら曹操の陣営と共闘しているとはいえ、この程度の兵力で既に総兵力数、五十万とも百万とも噂されている黄巾党の本陣に挑むなど無謀の極みである。 無論、その程度の考えに至らない軍師たちではなく、聞けば、黄巾党の中心人物である者たちが居らず、それに伴い主力部隊も出払っており本拠地の防衛兵力は、さほど多くない状態にあるという。
 
 そうと解ればしめたものであるが、曇りのない勝利を志す関羽にとって、まるで空き巣狙い同然のこの作戦は、彼女を鼻白ませるには十分な内容でもあった。 関羽の私情を挟めば、正々堂々と正面から挑みかかりたいのが、彼女の本音である。 ただ、確かに己の考えとは相容れない作戦ではあるが、さすがに、一個人の我が儘で戦略に異を唱えるほど関羽とて猪ではないし、そんなことに兵士たちを巻き込んでいい道理がない。
 
 今では、頼もしいとさえ感じさせる小さな軍師たちも彼女たちなりに出した結論がこれなのである。 権謀術数による勝利というものを完全否定する関羽ではないし、必勝を万全としたい気持ちも解らないでもない。 それに諸葛亮たちならば、戦場に立つ者たちの誇りを損なうような戦略は決して選ばないだろう。 自ら戦場に立てない小さな軍師たちの戦闘代行者たる関羽は、共に理想を目指す者として、彼女たちに全幅の信頼を置いていた。 同じ出自を誇り劉備と轡を並べるかぎり、彼女たちは決して期待を裏切ることはない、と。
 
 奇妙な話ではなるが、むしろ関羽が不安に吐息をつく理由は、正面の少数兵である自陣ではなく、大兵力を犇めかせている背後にあった。 彼女の主である劉備と共闘を誓った曹操は、此方とは全く異なる意図と方針で動いていることだろう。 現に関羽が今こうして、息をついているこの瞬間にも、自分たちを黄巾党を釣る餌と見なして、何か画策しているのではないだろうか。 いや、そう覚悟しておいて間違いあるまい。 弱小部隊の悲哀か、どうしても兵力の差に屈してしまう所がある。 都合のいい盾として用いられ、使い潰されてしまうと分かってはいても、悔しいが何もできない。 そのもどかしさが自然と彼女の口から深い息を吐かせるのだった。
 
「如何ともしがたい、か…………。」
 
 夕闇が訪れ始めた荒野の真ん中で、延びきった影法師を見つめながら関羽は奥歯を噛みしめた。 真っ先に危険に晒される兵士たちに何もしてやれない自分が情けない。 決戦を目前にして、心をそこに集中できないのが歯痒い。 既に行軍を停止し、本格的な夜に備え皆が野営の準備に取りかかっている中、北風の冷たさが殊更に厳しく関羽の総身を苛めにかかる。
 
「関羽殿! 関羽殿は、おられますか?!」
 
「どうした!」
 
 不意に自分を呼ばわる兵士の声に、野営の準備のためそこらで聞こえる雑音に負けぬよう、関羽も声を張り上げそれに応じた。
 
「曹操軍から物資を届けにきた方が、関羽殿にお目通り願いたいと」
 
「私に………、だと?」
 
「はい………。」
 
 兵からもたらされた奇妙な報告に関羽は首を傾げた。 食料の配分調整から、部隊の配置決めまで一手に引き受けている諸葛亮や鳳統ならまだ解る。 だが、一武将でしかない者を呼び出す理由とは、一体どういうものなのか。
 
「私ではなく、朱里や雛里のほうが適任なはずだ。 向こうには悪いが、そちらに回って貰うよう伝えてくれないか?」
 
 当然の回答を提示する関羽だが、兵士もそれに同意なのか、僅かに申し訳なさそうな表情で既に用意しておいた返答で答えた。
 
「それがですね……。 向こうは、関羽殿を名指しで指名してきまして………。」
 
 兵士の答えに益々当惑の色を深める関羽だった。 だが、それ以上に困り顔の兵を見れば、彼もまたこの不可解な出来事に巻き込まれた側にあることを物語っている。 そんな兵の姿を見てしまっては、関羽も助け船を出さざるを得ない。

「そうか、なら仕方ない。 連れてきてもらえるか?」
 
「はっ、了解しました」

 心底助かったといった表情で走り去っていく兵士の姿を尻目に、関羽は小さく息をついた。 いったい誰が自分との会合を望んだかは知らないが、向こう側の無駄な道草にならないことを祈るのみである。 これで無駄骨だったなどと難癖を付けられたらたまったものではないが、今は曹操陣営の物資が頼みの綱であり、これを絶たれるとかなり困ったことになってしまう。 極力機嫌を損ねず波風立てずに帰ってもらうしかない。
 
「気が重いな……。」
 
 関羽の心中はどうあれ、事は既に動き出してしまっているのだから、後は実行に移すしかない。 本当ならば、諸葛亮なり鳳統が側にいてくれればとても心強いのだが、彼女たちも彼女たちの仕事があるのでそうもいっていられないのだ。
 
「はぁ…………。」
 
 気の乗らないときほど時間が間延びして感じられるものである。 一体どれほどの間、待っていただろうか。 ふと関羽は、ただの兵士にしては異質すぎる巨大な質量を感知して、素知らぬ顔をして振り振り向けば、彼女の記憶を刺激する懐かしい声が頭上より遥か高見より振ってきたのは、その直後だった。
 
「やはり、愛紗だったか! 久しいな!」
 
 まず始めに関羽の目に飛び込んできたのは、月明かりに照らされた百合を彷彿とさせる蒼白。 汚れのない白の装束に包まれた体躯は、身の丈、八尺は優に超えて余りある。 そのいかつく分厚い筋肉で覆われ張り詰めた身体は、途方に暮れるほどの修練の果てに手に入れた努力の結晶であることを関羽は知っている。 彫り深い面貌に、手入れの足りない無精髭は、相変わらず獣めいた風体でだらしないことこの上ない。 そんな格好の大男が、道端で偶然出会ったかの様な気安さで関羽に片手を上げて、近づいてくる。 普段であればそんな見るからに怪しい者など殴り飛ばして、引っ立てているところだが、そうもいかなかった。
 
「な、ぜ……?」
 
 茫然自失の態で大男を仰ぎ見る関羽はなぜそこに、かつて背を預け合った戦友がそこに居るのか、事の次第がまったく飲み込めなかった。 もしまともに思慮が働く状態であったのなら、つい先ほど兵士が、誰を何の目的で呼びに行ったのか直ぐさま理解できただろうし、遡れば、関羽を名指しすできるだけ彼女のことを知った人間が、曹操陣営内いたことを難なく察することができただろう。
 
「なぜお前が此処にいる、仁!」
 
「なぜ、と言われてもなぁ………。」

 未だ混乱から抜け出せない関羽は、やや語気を荒げ、男の真名を呼ばわった。 だが、そんな関羽の様子にとは裏腹に、大男である徐晃は何やら呑気にぼりぼりと顎を掻いていた。 その、のほほんと和んだ風情は、関羽の剣幕とは裏腹で実に対照的であった。
 
「華琳殿………、いや、曹操殿の幕下に加えてもらえることができてな……。 だから此処にいる」
 
「そ、そうか………。 そうだったのか……。」
 
 そう頷いて見せたものの、そこから先の言葉がみつからない。 曹操の下で立身出世を果たした事を寿げばいいのか、突然の再会を喜べばいいのか、戸惑えばいいのかさえ、今の関羽には判断に迷う。 たった三年、されど三年だった。 少し窶れた、そう直ぐさま見て取れるぐらいに近しい間柄であったはずなのに、それ以上のことが頭に浮かんでこない。
 
「息災そうで何よりだが………、少し痩せたか?」

「あぁ………、お前もな」
 
 何ら気負うことを知らない徐晃の性格が今は憎い。 気まずい沈黙が出来ないよう必死で頭を働かせている関羽とは違い、口元を綻ばせ、懐かしさを噛み締めるような視線を向けてくる徐晃の視線は、昔と変わらない。

「しかし、驚いたぞ愛紗。 まさかお前が義勇軍、とはな……。」
 
「むっ………。 なんだ、その含みのある言い方は……?」
 
 胡乱げに目を細め、眉根を寄せる関羽に、だが徐晃はやんわりとかぶりを振った。
 
「いや、お前の実力は知っているつもりだからな……、愛紗ならば、仕官先に困ることなどなかっただろう。 だが、仕官せずにいる」
 
「…………、だったら何だというのだ?」
 
「そう怒るなよ。 俺が言いたいのは、だ。 お前をそうまでさせる人物此処にいるのだろう? ならば余程の御仁なのだろう、と興味が沸いてな……。」
 
 関羽は、一呼吸の間だけ呆気にとられ、それからまるで悪戯を言い訳をする子供の様な悪びれもせず磊落に笑う徐晃を改めて見据えると、昔の懐かしい思い出が一気に頭の中を駆け巡っていった。 三年の月日が、徐晃の角を取って丸くした印象を受けるが、彼の根本にある童心の夢想をそのまま胸に懐いて大きくなってしまった少年、という部分は一切変わっていなかった。 それはもういっそ清々しいほどに。
 
「ぷッ………。 あははは…………、仁、お前は変わらんな」
 
「む? そうか?」
 
「あぁ、そうだとも。 この三年の間で、腑抜けていなかったことは嬉しいぞ」
 
 厳格に、実直にそう努めて生きてきた関羽である、眉間に縦皺を寄せていた普段の彼女を知る者がこの場を見咎めたのならば、さぞ驚いたことだろう。 剽げた口調で軽口を叩き肩の力を抜いて、眉を下げている様は一見すれば別人にすらみえる。 かつて少女だった昔、関羽のほうがまだ背が高かった頃から、いつの間にか追い抜かれ、そして長い月日を隔てた今に至っても、徐晃が関羽に接する態度は何一つ変わらなかった。 目の前の幼馴染は、まるで本物の兄妹のように気兼ねなく、そして子供のような無邪気さで接してくる。
 
 そんな徐晃の姿を見てしまえば、弱気になって何を話せば、などと懊悩とすることすら馬鹿らしく感じてきてしまう。 何と愚かしいことだろうか。 悩む必要など何もなかった。 ただ昔と同じように声をかければ、それだけ良かった。 それだけで、相手は全てを正面から受け止めてくれる。
 
「ふん。 お前こそ、携えている青龍刀は、錆ついてはいまいな?」
 
「ぬかせ………。 "独活の仁"め」
 
 三年越しであっても、いささかの曇りなく鮮烈に、関羽を過ぎし日へと呼び戻してくれる。 かつて彼女を中心にして活動していた義賊紛いの集団の参謀的役割を果たしていたのが徐晃だった。 故郷の近くの巨大な塩湖。 塩の売買が盛んであったが、それ故に暴利を貪る商人が後を絶たず、そんな輩を許せず戦友らと共に成敗していたことも、そのせいで命を狙われたことも一度や二度ではない。 今となっては何もかもが懐かしいあの日々の記憶は色褪せることなく、心に刻み込まれていた。
 
「む………、憎まれ口は錆びていないようだな。 "猪愛紗"」
 
「なッ!? だ、誰が猪かっ!」
 
「お前だ、他に誰がいる。 あの時、など特にそう思ったぞ」
 
 ただそれが、自分が忘れ去っていた記憶であったとしても、相手が刻み込んでいる場合もある。
 
「な、な……、なんの話だ?」
 
「米も収穫を目前に控えた、あの秋の日だ。 夜の田畑で声が聞こえてくるものだから、盗人か、などといきり立ちおって……。 皆で止めたのにお前ときたら……。」
 
「? ……………………ッ!? わー! わー! わー!!」
 
 本人さえ無かった事にして忘れ去っていた記憶をあっさりと掘り起こす徐晃。 思い出したくなどなかった恥部を曝け出され、関羽は動転のあまり我を忘れて奇声を上げた。
 
「そそそ、それは………、だな………。」
 
「命を救った男と、救われた女。 差し入れの時には必ずあいつが一番。 それも特別の手製、となれば俺だって気がつくぞ………。」
 
 その時の出来事が余程のことだったのだろう、徐晃は何が哀しいのか沈鬱に眉根を寄せて、深々と溜息を漏した。 そんな攻めるような視線を感じて、徐晃を正視できず、関羽は顔を逸らした。 なぜこの大男は、忘れていてほしい事柄に限ってばかり、覚えているのだろうか。 しかも、無自覚に人をそれで追い詰めにかかるのだから余計に性質が悪い。
 
「うぅぅ………。」
 
 恥ずかしさのあまり、喉を鳴らして俯いてみたものの、いったいどんな顔をして徐晃に向き合えばいいのやら判らず、いっそ消え入りたいほどの心境になっていた関羽が、最早、藁にも縋る心境で周囲に視線を彷徨わせ見ると、状況を打開できそうなものが目に映りこんだ。 諸葛亮である。
 
「あッ! 朱里!」
 
「…………愛紗さん?」

 遠目に映った諸葛亮を呼ばわったのは、もちろん話題逸らしの為である。 現在、徐晃が此処にいる理由は名目上、物資の手配なのだから、諸葛亮を取り込みそれに乗じて話を有耶無耶にしてしまうつもりだった。 果たして諸葛亮は、小動物のように己を呼ばわった人物を探し、関羽の目論見通り彼女を見つけ出すと、愛らしい笑みを浮かべこちらに歩み寄ってくる。
 
「はわッ!? くくく、熊でしゅ!!」
 
「は?」

 遠くからでも判る巨漢の、圧倒的な存在感。 自分より遥かに巨大な背丈と、それに見合った筋骨隆々体躯は、距離を隔ててなお、獣染みた香りが嗅ぎ取れてしまいそうなほどである。 義勇兵の中にも無骨な筋肉の塊のような連中はいるし、無論、そういった手合いでも、問題なく相手が出来る諸葛亮ではあるが、これはその比ではない。 まず最初に、猛禽の類を髣髴とさせる鋭い双眸だけで、彼女は腹を見せて降服しかけた。 最早、理屈を抜きにして、ただ大きいだけではない、尋常ならざる人物であると諸葛亮は、なかば小動物めいた本能的直感で察したのだ。
 
「あ、愛紗さん! 死んだ振り! 死んだ振りです!」
 
「おい、朱里………。」
 
 色々な意味で駄目だったが、ともかく諸葛亮は今出来る精一杯の知恵を総動員して目の前の筋肉をやり過ごそうとする。
 
「ふむ………。」
 
 目を回し、右往左往する諸葛亮の姿が面白く、顎を擦りながらその様子を眺めていた徐晃が、彼女に向かって歩き始めた。 その大地の底から揺らすかのような巨躯が、輪にかけて大きくなったのは気のせいだろうか。
  
「おい」

「ぴぃッ!?」
 
 諸葛亮の浮かべた怯えの表情が、わずかに徐晃の胸を痛ませる。 大きい物体とは活発な少年とは違い、繊細な幼女とあっては、畏怖の対象になりやすく、仕方のないこととはいえ、やはり眼前で怯えられるのは流石に辛かった。
 
「なあ」
 
「はわッはわッ!」

 極力怖がらせぬよう穏やかな声で言い直して、徐晃は諸葛亮にのしかかるように、樫の木を思わせる豪腕を伸ばした。
 
「飴、食べるか?」
 
「へ…………?」
 
 食べられる、比喩ではなくそう思った諸葛亮であったが、徐晃が伸ばした手は彼女を捕食するためではなく、その手の中に入っていた飴玉を渡すためであった。 その事実に気がつくまで諸葛亮は、ただ呆然と徐晃を見上げるしか出来ないでいた。
 
「あ、あめ………?」
 
「うむ、美味いぞ」
 
 劉備のものとは別種のどことなく人を安心させる朗らかな笑みを浮かべ、諸葛亮を見やる徐晃。 その表情に安堵の息をつきかけた直後、諸葛亮は浮遊感に見舞われた。 徐晃が彼女の襟首を掴んで、ひょいと羽毛でも扱うかのように軽々しく持ち上げたのだ。 そのとき、彼女はようやく合点がいった。 徐晃が輪にかけて巨大化したのは、自分が腰を抜かして地面に座り込んでいたからだったのだ。
 
「は、はうぅ~」
 
「あ……、おい! 朱里ッ!」
 
「む、むぅ………。 これは、どうしたものか?」
 
 どうやらここまでが、諸葛亮の精神の限界だらしく彼女は糸が切れた人形のように体を弛緩させ意識を落とした。 咄嗟に抱き留めてみたものの、傍目から眺めれば、変質者扱いされても言い逃れできない状況である。 幸いにも近くに関羽が居るため大事には至らないだろうが、それでも困った状態であることに変わりはない。 片手が開いていれば、こめかみに拳を押し付けている所であるが、今は腕の中に諸葛亮がいるためそれも出来ない。
 
「困ったな………。」
 
 夜闇が迫り、自陣の見張り番もしなければならない。 ただ関羽が惚れ込んだ人物をこの目で確かめたかっただけだったのだが、そうも言っていられない現状に、徐晃は深い溜息をついた。






あとがき

最近、脳がイカに侵略され気味な気がします。
どうもギネマム茶です。

今回は、姜維にライバル出現か? 徐晃と愛紗メインの回でした。
いや、某戦略ゲームの三国志の攻略サイトを覗いていた時に、親愛・嫌悪ボーナスなるものがありまして、そこでは関羽と徐晃は親友という設定だったのですよ。
これはもうネタにするしかないと、思いまして今回に至ります。
 
まぁ、徐晃って関羽の死亡原因の遠因だったりするんじゃね?的なことは思わなくもないのですが、まぁ気にしない方向でいきます。
原作キャラと、旧知の仲となるとゲーム設定との歪みが出てくることが、今度も多々あるとは思いますが、なるべく苦しくないよう改変できれば、と思います。
 
最後に、スパムやら広告が乱舞して、その都度対応してくださった管理人さん。 本当にご苦労様です、ありがとうございました。
 

ではまた次回



[9154] 三十一話・3個か!? 甘いの3個ほしいのか!? 3個…イヤし(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:56727303
Date: 2010/11/29 19:54
 意識を失ったままの諸葛亮を放って置くわけにもいかず、彼女の身を休ませる場所として選ばれたのは、義勇軍の陣内において最も大きな天幕であった。 即ち、劉備が使用するそれである。 普段であれば部外者である徐晃の入室は、難しいことだっただろう。 しかし、今回だけで言えば、彼は名目上、曹操の下から遥々物資の届けに来てくれた将であり、一応はもてなしを受けるだけの理由を持ち合わせていた。
 
「どうした、仁?」
 
「いや………、なんでもない」
 
 静かな声でかぶりを振った徐晃は、自分の手がじんわりと汗ばむのを感じていた。 むべなるかな、義勇軍とはいえ、それを率いる長と対峙しようというのだから、それも仕方のないことである。
 
「そうか、ならいいが………。 仁」
 
「ん?」
 
「…………、粗相がないようにしろよ?」
 
「信用がないなぁ……。 これでも一介の将だ。 礼儀作法は身につけているんだぞ?」
 
 それを聞いて関羽は苦々しい表情を思わず作ってしまう。 野宿ともなれば、食事から何まで、全て素手で片付けようとする文明人と呼ぶには程遠い過去の経歴を持つ徐晃を知っている身としては、判断に苦しむ所であった。 まさに野生児そのまますぎて、甚だしく不安であったが、ああ見えても徐晃は人の心に入り込むのが、出鱈目なほど上手いのは確かである。 酒というものを好まない関羽にとって、まったく理解が及ばないことではあるが、酒を酌み交わすだけで相手を懐柔してしまう手並みは見事だと、素直に感心してしまうほどに、だ。
 
「どうだかな………。 おっと……。」
 
「変わるか?」
 
「………、こればかりは、お前とて任せられん」
 
 関羽は首元にかかる小さな吐息に、くすぐったさを覚えながらも背中に掛かる重みの位置を調節する。 規則正しい寝息を関羽の背中でつくのは諸葛亮である。 子供特有の体温の高さが、此方の心まで温かくしてくれるようで、何とも言えぬ心地よさが関羽の胸を擽る。

「さもありなん、だな。 大切な軍師殿だ、部外者には任せられん話であったか……。 いや、困らせることを言った、すまん」
 
「いや……、気持ちだけ受け取っておく」
 
 関羽には子育ての経験などないが、子を持った母とはこういうものなのか、と漠然とだが感じ取れた気がした。 そんな彼女の心中を余所に、徐晃の訝るような、僅かに眉根を寄せた表情で、ぽつり、と言葉を漏らした。
 
「しかし………、この子が軍師、か」
 
「やはり意外に感じるか?」
 
 苦笑する関羽に、徐晃は素直に頷いた。 傍目からみれば諸葛亮の姿は、どこからどう見ても幼女のそれである。 だが、外見がそのまま能力に直結するものでないことは、徐晃も理解している。 彼の陣営で言えば、季衣や姜維がその最たるもので、彼女たちのじゃれ合いの後に城壁が音を立てて崩れたのは徐晃の記憶にも新しいし、そんな彼女たちの力は、だが曹操軍内においては稀有な存在ではない。 しかし、それでもまだ子供と呼ぶに十分すぎる少女たちが戦場に立つ、という事態だけでも徐晃が顔を顰めさせるには充分な理由だった。
 
「忌憚なく言わせてもらえば………。 お前なら何があっても反対すると思った」
 
 語調は荒くはなかったが、それでも徐晃の声音は硬かった。
 
「……………、能力云々も確かにあるが、朱里が自身の意志で決めたことだ。 是非はない」
 
「そうか………、腹立たしい話だ」
 
「そう、だな………。」
 
 眉根を下げ、同意を示す関羽は、しばし黙して俯いた。 徐晃もその姿を横目に見やるだけで、それ以上の追求を迫ることはなかった。 彼も出過ぎた感傷であると理解しているのだろう。 諸葛亮という少女個人ではなく、彼女が戦場を駆けなければならなくなってしまった時代の、その取り巻く情勢にどれだけ憤りを感じても、それは徐晃が口にすることは筋違いなのだと。 だからこそ、諸葛亮本人を含めた周囲の人たちが出した結論をとやかく言うつもりはなく、沈黙を決め込んだのだった。
 
「………………。」
 
 嫌な沈黙が、微妙な空白の間に冷えた風を流し込んでくる。 
 
「なぁ、愛紗」
 
「うん?」
 
 出来るだけ柔らかな口調を心掛けなから、徐晃は静かに沈黙を破った。
 
「平和な世に、早くしたいな」
 
「…………、馬鹿を言うな」
 
 眉を寄せ、さもわざとらしく怒っているという風な表情を顔に貼り付けた関羽は、生真面目な彼女には珍しい混ぜ返した口調で先を続けた。
 
「したい、ではない。 するのだ! 我らの手でな」
 
「そうだな。 ―――――あぁ、その通りだ」
 
 徐晃は精悍に微笑んで、横目に見やっていた関羽から視線を外して前を向いた。 面と向き合い話し合うのは久しいというのに、そんな月日が流れていたとは思えないほど、昔の関係のままのやり取りに、徐晃はある種の安堵を覚える。 遠い故郷の地での関羽は確かに猪でもあったが、それ以上に清廉な武人であったことを。 かつて彼女とともに戦ってきて、関羽のもっとも血塗られた側面までも知っているからこそ、余計にそう感じた。
 
「まったく………、お前はいつもどこか抜けているな」
 
 さも呆れたと言わんばかりに、溜息を吐く関羽だが、徐晃はそこに彼女なりの冗談と気配を嗅ぎ取った。 陰鬱な空気を払おうとする関羽の心遣いに甘えて、徐晃も笑いを返してこの場を流すことに徹した。
 
「はっ!………。 愛紗ほどではない」
 
「ふん、口ではどうとでも言える」

「――――――なら、覚えているか? お前が始めて鴨を仕留めた時の………。」
 
「よせッ! それ以上、何も言うな!」
 
 半ば反射的に漏れた声音は、関羽本人が思っていたよりも大きいものだった。 本人さえも忘れ去っている恥部を知られていることがよほど悔しいのか、顔を赤らめて睨むようにして徐晃を見やる。 こうしている彼女の姿は、年齢が徐晃とほぼ変わらないとはとても思えない、まるで年端もいかない少女のように、どこまでも無防備だった。 そんな関羽に徐晃は意地の悪い含み笑いを投げかけ、頬を膨らませる幼馴染をいなすのだった。
 
「まったく、お前というやつは………。」
 
 そう目を眇める関羽を余所に、徐晃はあくまで意地の悪い笑みを崩さない。 幼い頃から互いを知り合う間柄だけに、このようなやり取りなど飽くがくるほどに慣れている。 変に取り繕うこともしないせいか、お互いの物言いにも遠慮がなかった。
 
「お……! あれか」
 
 指差す徐晃に、関羽が頷いて応じる。 周囲で、兵たちが建てている天幕よりも二周りは大きいそれは、明らかに地位の高い人間が使用することを容易に想像させるだけの威風を醸し出していた。
 
「仁、ひとまずここで待て」
 
「あぁ」
 
 関羽は、天幕の外で警護を行っている兵士に一言、二言、何か言葉を交わすと、諸葛亮を担いだまま中へと入っていってしまった。 徐晃もまた彼女の対応は織り込み済みなのか、さして戸惑う様子を見せることもなく、大人しく黙したまま猪突猛進のきらいがある幼馴染の帰りを待つ。 いくら二人が親しい間柄であっても、それは私的な関係でしかない。 ともに公人としての立場がある以上は、まず筋道を通す必要があるのだ。
 
「しゅ、朱里ちゃん!? いったいどうしたの?!」
 
 関羽が、天幕に入ってから数拍の間のあと、女性の叫び声が響いた。
 
「うぅん………。 これは拙いか?」
 
 さも困窮したとばかりに、徐晃はこめかみへ拳を押し当てる。 諸葛亮を気絶させた原因は、徐晃本人の仕業なのは確かだ。 しかし、ただそれだけで、外傷を負わせたわけでもない。 だが、もし仮にである。 想像するだけでも厭わしいが、諸葛亮は関羽たち義勇兵にとってなくてはらない軍師であり、その軍師が倒れた原因を理由に、徐晃の、その後ろにいる曹操へ何かしらの要求を迫ってきたとしたら。
 
「………………。」
 
 関羽や、その主がそんな姑息な手段に訴えるなどという可能性は、万に一つもありえないことだろうが、それでも最悪を想定しなければならないのが、今の徐晃の地位であり立場である。 遣いの一つも満足に果たせず、あまつさえ相手方の不興をかってしまったとなれば、首の一つは覚悟しておかなければならないだろう。
 
「仁、入って来い」
 
 幕内から上半身だけ身を乗り出した姿勢で、関羽が顎で促して、徐晃を呼ばわる。
 
「よし…………。」
 
 顎で中に入るよう促す関羽が、再び奥へとひっこんだのを確認してから、徐晃は気を取り直し、歩を進めた。 手に汗握っているというのに、最初の一歩は、緊張しているとは思えないほどに、無駄なく自然な動作で踏み出すことができた。 一歩、また一歩。 中に踏み込むだけを残した最期の一歩を踏みしめ終わった時には、己の心の在りようが切り替わっていく感覚をまざまざと感じつつ、徐晃はいよいよ関羽の主との対面を果たすこととなった。
 
「…………………。」
 
 徐晃が天幕に入った瞬間、幾つもの視線が己に浴びせられるのを感じ取った。 慣れ知ったものが一つに、興味深そうに此方を観察してくるものが二つ。 視線を流せば、目当ての人物は、すぐに見分けがついた。 春の麗らかな風ような柔和な笑みを湛えた人物。 彼女こそが、徐晃が興味を持って此処までやってきた目的の人である。
 
「曹操軍配下が一人、徐公明にございます。 お目通り願えたこと、まず感謝いたします」
 
 そう言うや否や、踵を鳴らし精悍な仕草で略式の礼を取る徐晃に、義勇軍の長である劉備は暫くの間、呆気に取られていたが、それどころではないのだと思い至ったようで、慌てて返答を返した。

「へ? ―――――――あッ! あぁ、劉玄徳です。 態々、こんな所にお越しいただいたうえに、食料まで工面してもらっちゃって………、こっちこそ感謝の気持ちでいっぱいです」

「………………、いえ。 それは曹操殿が取り決めた約束事故………。」

 曹操のような、雪のように輝く玲瓏な美貌とは真逆とも言える、小春日和の陽光のようなあたたかな慈愛にを湛えた劉備の表情に、徐晃は僅かに息を呑んだ。 こういう類の美人は、徐晃の周りには少なく、どちらかといえば、曹操のような氷のような怜悧な印象を受ける美人が多すぎたのが、彼の動揺を誘った原因の一つでもあった。
 
「でも………。」
 
「………………。」
 
「じゃ、じゃあ……、曹操さんによろしくお伝えください」

 礼の姿勢を崩さぬまま、かぶりを振って淡白にその先の言葉を遮る徐晃に、しかし劉備もただで引くような性格ではなかった。 柔和な面持ちでありながら、だがきっぱりと自分の要求を突きつけてくるのは、なるほど、中々に強情な性格をしている、と徐晃は内心で唸った。
 
「それならば、間違いなくお伝えいたしま…………。」
 
 そこまで言いさして、徐晃は自分に近づいてくる子供に目を向けた。 幼いながらも、無駄のない身のこなしから、武に通じていることを容易に想像させる赤い髪の女の子。
 
「――――はぁ~。 おっちゃん、でっかいのだ」
 
「……………。」

 開口一番が、小父さん発言では流石の徐晃も言葉をなくした。 いくら公の場とて、子供相手に怒鳴り散らすなどといった、強引な手段もうって出るわけにいかず徐晃がどう扱ってよいか困っていると、満面の笑顔を咲かせて少女が問うてくる。
 
「どうすれば、そこまで、でっかくなれるのだ?」
 
「りりり、鈴々ちゃんッ?!」
 
「こ、これ、鈴々! お前は、なんと言う……。」
 
 劉備は驚きに、そして関羽は怒りも混じった、ともに鈴々と呼ばれた少女の行動に瞠目した。 だが、そんな諌める声も、幼い少女にはまるで届いていない。 返答を待ち、期待に目を輝かせる、少年のようなやんちゃな女の子に、徐晃もまた苦笑で応じながら、隠し持っていた諸葛亮に渡しそびれてしまった、いわくつきの飴玉を差し出す。
 
「―――――飴、食べるか? 美味いぞ」
 
「いいのか!?」
 
 差し出された乳白色の飴玉は、一目で少女の心を虜にした。 最早、最初の質問のことなど忘れて大はしゃぎしている様など、彼女の外見の年齢を考えれば、年相応の反応を見ているようで徐晃としても好ましかった。 職業柄のせいか、どうにも歳不相応にませた感性を持ち合わせた子ばかりが、周りに集まっているので余計にそう感じるのかもしれない。
 
「おっちゃん、ありがとうなのだ!」
 
「はは、気に入ってくれたのなら、俺も嬉しいよ」
 
 慌てて駆け寄って少女を諌めようとする関羽を手で制して、徐晃は劉備のほうに視線を向けた。 すると彼女も心底申し訳なさそうな表情で頷く。 どうやら、相手方が満足するまで付き合ってやってくれ、というこという結論に達したのは劉備も同じであったようだ。

「なぁ、君の名はなんという? 俺の名は徐晃というんだ」
 
「鈴々は、張飛なのだ!」
 
「そうか、張飛か。 良い名だ」
 
 はしゃぐ張飛の頭を撫でながら、朗らかに笑ってみせる徐晃は、休日の村の広場で子供を見つめる、どこにでもいる父親の和みきった面持ちであった。 だというのに、一抹の悲しさが徐晃の表情を曇らせる。
 
「鈴々の名前がかっこいいのは、当然なのだおっちゃん」
 
「…………………………、そうか、それはすまん」
 
 何故、こうも涙を噛み殺したくなるのだろうか。 子供というのは、実に素直で本音を曝け出すことに躊躇が無い。 その点では、子供と同じ感性を持つ張飛もまた遠慮というものが一切無かった。 そんな苦々しい思いに、表情を曇らせる徐晃の姿に関羽は思わず笑いそうになってしまった。 それを見て徐晃は憮然となる。
 
「おい愛紗、何がそんなにおかしい?」
 
「普段は、細かいことなど気にも留めんお前が、こうも気落ちしていると、な」
 
 苦笑いする関羽に、徐晃は不服そうに疲れた吐息を漏らす。

「ふん………。 血抜きもせずに鴨を丸焼きにしようとしたお前がよくもまぁ、俺をことを……。」
 
「う、うるさいッ! あの時は貴様が、ただ焼くだけの簡単な物だ、などと言ったから信じたのに………。 全然違ったではないか!」
 
 友誼によるじゃれあいなのか、ただの貶めあいなのか、どうにも判別しがたい関羽と徐晃のやり取りを、劉備は意外なものを見たとばかりに、大仰に眉を吊り上げながら、いつにない興奮の色を乗せ、今にも掴み掛からんばかりの勢いで二人に詰め寄ってきた。
 
「ちょっと待って………、ちょっと待って二人とも! え、え? 二人は知り合いなの?」
 
 唐突な劉備の乱入に二人は、まさか話を腰を折られるとは思ってもなく、驚きに目を丸くしながらもぎこちなく頷いた。
 
「は、はい。 こやつとは、育った村は違いますが、村同士での交流は盛んに行われていたため、いつの間にか腐れ縁という間柄に………。」
 
「はぁ~、そうだったんだ………、しかも真名まで許しあってるなんて。 あの愛紗ちゃんが……。」
 
 笑み崩れた顔を誤魔化しもせず、劉備は何やら含みのある視線を関羽に投げかける。 その様に不穏なものを感じ取ってか、形の整った眉を訝しげ寄せる関羽。
 
「…………、何か?」
 
「ううん。 別にぃ~」
 
「――――――、何やら含みのある物言いですね、桃香様。 思ったことを正直に仰って貰っても結構ですよ?」
 
「やーん、愛紗ちゃんが怖い」
 
 目を眇めて見据える関羽の威圧に怖じけることもなく、悪戯が成功したことを喜ぶ子供の様な風情で劉備は、実に楽しげな笑みを漏らした。
 
「まったく………。 困ったお人だ……。 で、だ」
 
 関羽は、当て付けるように深々と溜息を吐くと今度は徐晃と張飛のほうへと向き直り、吐き出した息を取り戻すかのように、盛大に空気を肺に溜め込むと。
 
「お前たち!! いったい何をしているんだッ!!?」
 
「お?」

「にゃ?」
 
 もはや抑えきれぬ怒りのあまりに、声を掠らせる関羽とは対照的な徐晃と張飛の反応。
 
「はぁ……。 お前は、相変わらず熱くなりやすいな。 俺はただ張飛に飴玉をくれてやっていただけだぞ?」
 
「にゃ~、あと二つも貰っちゃったのだ」
 
「お前らは…………。」
 
 最早、言葉すら出ないほどだった。 関羽は怒りすら通り越し、貧血めいた眩暈に囚われながら、全身を身震いさせていた。 いきなり現れて、己の主に合わせろ、などとあまりにも突拍子もないことを言い出したのは、まだ流そう。 もはや、曹操の遣いの者という自覚など端から意に介していないとしか思えない破天荒ぶりを見せる徐晃だが、人を食った態度はいつものことである。 張飛が、口の中で転がしている飴玉以外で、まだ二つも飴を受け取っていたことも、まだいい。 だが、生真面目な関羽にとって一番に許せないことは、話が捻じ曲がった発端を作った本人たちが、今も、さもくつろいだ風に、のほほんと飴玉をなめていることが許せなかった。 一応は公の場での出来事なのだ、普通に考えたら有り得ない。
 
「そう怒るなよ、愛紗」
 
「そうだぞー。 愛紗」
 
「ッ!?」
 
 思わず出掛かった拳を止めたのは、以外にも徐晃の次の台詞だった。
 
「まぁ、愛紗よ。 俺に怒りを向けるのは兎も角、張飛は許せ」
 
「……………、どういうことだ?」
 
 これまでとはうって変わって静かな、巌のような口調の徐晃の視線に、関羽もこれが真面目な対話であると読み取った。 そうと解った時点で彼女も、ひとまず怒気も語調も鎮め、舌鋒によって応じることにした。
 
「なに………、聞けば張飛以外にも、小さな子があと二人居るそうじゃないか」
 
「む、鈴々は小さくないのだ!」
 
「ははは、俺から見れば、十分小さいさ」
 
 磊落に笑って張飛の頭を加減無しに撫で回す徐晃。 だが、張飛ほどの年頃の子供というのは、歳不相応にませた思考を持ち合わせ、行動しようと躍起になるものだ。 その中でも背丈とは自身を大人に見せるための重要な要素の一つである。 確かに、徐晃のような巨漢から見れば大概の人間は小さく映るだろうが、それでも張飛の心情的には、己の身長が低いことを認めなくないと思う気持ちが大半だった。 現に、今も飴玉を貰った手前、そう大きな癇癪を起こすことはしないが、愛らしい口元を露骨にとんがらせた表情は見るからに不機嫌である。
 
「まぁいいではないか、張飛」
 
 にかり、と無邪気に笑った顔で張飛を見やる。
 
「今は小さくとも、いずれは嫌でも大きくなるのだ。 なら、今の自分を楽しんでおかないのは、損というものだ」
 
「むぅ………。」
 
 他愛のな冗談であるかのように笑って流す徐晃に、頭に手を置かれ、されるがままに撫で回されている張飛の顔は、相変わらず膨れたままだった。 しかし、何も言わずにいるとこを見るに反駁するような気概はもうないらしい。 それでも最後の意地か、徐晃の笑顔を正視せず、顔を逸らす張飛。 その姿は、我侭を言う妹とそれを宥める兄の様で、傍目から眺める分には、充分微笑ましいものだった。
 
「で……、仁よ。 鈴々は上手く丸め込んだようだが、まだ私との話が残っているぞ?」
 
「? ……………、おぉ! そうだった。」
 
「まったく……。 お前はすぐに人を煙に巻こうとする」
 
「そういう意図は微塵も無いのだがなぁ………。」
 
 頬を掻きながら、徐晃は苦笑を漏らす。 その後、屈託のない笑顔を張飛に向け二度、三度、と力強く彼女の頭を撫で回した。
 
「まぁ愛紗よ。 この子はな、他の………、そこで寝ている軍師殿の分と、もう一人の分の飴玉が欲しかっただけなんだ」
 
「……………………。」
 
「優しい子ではないか………。 まさか愛紗も、そんな子の優しさを咎めるような真似はせんよな?」
 
「むむむ………。」

 関羽は低く唸るしかなかった。 徐晃の性格からして、関羽を諭そうとしたわけでは、決してないのだろう。 むしろ、からかっているも同然なのだ。 張飛の友を想う気持ちを斟酌すれば、関羽とて怒る事など出来ようはずもなく、そんな彼女の性格を熟知している幼馴染だからこそ知りうる隙を突かれる形となってしまった。
 
「うぅぅ…………。」
 
「どうした愛紗? 何か反駁するようなことでもあるか?」
 
 ぐうの音も出ない関羽に向けて、徐晃が不遜な笑みを投げかける。 いつもであれば柳眉を逆立てるはずの関羽も、この時ばかりは鋭い一瞥だけで、口調にも普段のような切れ味がなかった。

「ふ、ふんッ! 何が、そういう意図は微塵も無い、だ。 この性悪の嘘つきめ!」
 
「……………、子供かお前は」
 
 最早、可哀想な者を眺めるのよな眼差しで関羽を見やる徐晃。
 
「うるさい、うるさい! どうしてお前はいつもそうやって……………。」
 
 顔を真っ赤にして、食って掛かる関羽に、それを大仰に肩を竦めていなす徐晃。 そんな二人の遣り取りを、驚きも半分に眺める者が二人。 関羽の義姉妹の契りを結んだ劉備と張飛である。
 
「にゃぁ………。 いつもの愛紗じゃないのだ………。」
 
「だねぇ~。 あれが、昔の愛紗ちゃん…………、なのかな?」
 
 各地の村々から志願兵が集まり、既に総数一万を超えるだけの大規模な義勇軍を束ねることとなった劉備。 それは、彼女一人の能力だけで運営しているわけではなく、諸葛亮や鳳統のような緻密な計算を行ってくれる軍師や、関羽や張飛のような雄々しい武将の畏敬があってこそ、初めて成り立っているのである。 そんな劉備陣営の一翼と担ってくれている関羽は、とても実直で厳格な人物だった。 慎み深くも、女性らしい細やかな気遣いもでき、しかし芯は強て熱く諫言にも躊躇しない、でも他人の言葉には傷つきやすい女の子。 それが劉備の、関羽に抱く人物像だった。
 
 それが、目の前にいる少女は、果たして普段から懐いていた関羽像とは、まったく掛け離れたもであった。 その衝撃たるや、何故自分たちには、徐晃の前でみせる年不相応な子供のような態度を見せてくれないのか、とか。 いま絡んでいる相手は、一応曹操軍の遣いの者として来ているのだからもう少し穏やかに、とか。 色々想うところあるが、劉備が一番に衝撃を受けたのが、こういった益体もなく、からかわれ倒されることを嫌う関羽が、嫌がっていないのだ。 口では何と言っていようが、徐晃に向ける視線やら、雰囲気やらでそれが容易く読み取れた。
 
「なんか、羨ましいな………。」
 
「にゃ?」
 
 劉備の見守る視線の先で、関羽は今にも掴み掛からん勢いで徐晃に詰め寄っている。 そんな関羽の姿を見ていたら自然と言葉に出ていた。
 
「ううん。 なんでもないよ」
 
 桃園での誓いより、劉備は三人姉妹の長女となった。 無論、関羽と張飛とは血の繋がりは無い義理の関係である。 だが、血の濃さよりなお固く、強く結ばれた繋がりであると劉備は確信しているし、本物の姉妹のように、長女として親身に、気兼ねなく接してきたつもりだ。 そんな彼女たちであるが、義姉妹という間柄以外にも、三人の間には明確な線引きが存在する。
 
「……………………………。」
 
 それは、劉備が、他の二人の主君であるということだった。 事の発端はほんの些細なこと、関羽たちから臣下の礼を取られ、劉備もそれを受け入れた。 それは彼女たちの間には、有ってないような取るに足らない線引きだが、それでも関羽たちは劉備の下に位置する存在であることを意味していた。 だからこそ、関羽が自分と同じ立ち位置で肩を並べてくる未来は訪れないのだという諦観が、劉備の心に一抹の侘しさを齎した。
 
「お姉ちゃん、どうかしたのか? お腹でも痛いのだ?」
 
「大丈夫だよ鈴々ちゃん。 いつもと違う愛紗ちゃんが珍しくてつい、見入っちゃっただけだから……。」
 
「なんだ、そうなのかぁ」
 
「うん………。」
 
 微笑みを浮かべながらも、劉備は曖昧に言葉を濁した。 それは彼女の心中の顕れのようであり、それでいてどこか、全てを受け入れた、静かな笑顔だった。 そんな劉備の憂鬱を知りもせず、張飛はさらに熱を上げている関羽たちの様子に見入っている。
 
「いつも鈴々を子ども扱いするくせに、あんなに騒いでる愛紗のほうが子供っぽいのだ」
 
「まぁまぁ。 久しぶりの再開なんだから、愛紗ちゃんも舞い上がっちゃってるんだよ」
 
「それが子供なのだ」
 
 そうきっぱりと言いきる張飛に、だが劉備は今の関羽の姿を目の当たりにしてしまっては、援護に回ることができず、苦笑を漏らすしか出来ないでいた。
 
「――――――、鈴々ちゃんは不安にならない?」
 
「にゃ?」
 
 不意の質問に問い返す張飛に、劉備は、やや言いにくそうに視線を下げた。
 
「えっとね――――。 ああやってる愛紗ちゃんて楽しそうだよね。 けど、徐晃さんと話している愛紗ちゃんを見てると、何だか遠くに居るように見えるというか………、何と言うか………。」
 
「うぅ~、お姉ちゃんの言ってること、難しすぎてよく解らないのだ」
 
「あはは、ごめんね。 気にしないでいいよ」
 
 未だ思考が纏まっていないせいか、上手く説明が出来なかったがつまり、劉備は畏れているのだ。 自分さえも知りえない関羽の側面を知って、それを引き出せる徐晃の存在が怖いのだ。 もし、徐晃との何気ない会話の中で、劉備の中の関羽の像を打ち砕いてしまうほど衝撃的なことが語られたら。 その可能性は有り得ないと言いきるには、彼女たちの中は親密にすぎて、劉備には否定できるだけのものを持ち合わせていないのだ。 だからだろう、関羽と徐晃の間柄が親しいものだと知って以来、不安を感じるようになったのは。
 
「鈴々にはよく解らないけど、愛紗は何処にも行かないのだ」
 
「え?」
 
 今度は、劉備が問い返す番になった。
 
「えっとね……。 愛紗は、お姉ちゃんのこと大好きだし、鈴々もお姉ちゃんのこと大好きなのだ。 だから、鈴々たちはずっと一緒なのだ」
 
「鈴々ちゃん………。」
 
 子供ならではの鋭い直感で、張飛は劉備の胸中に渦巻く不安を察したのかもしれない。 いつも以上に明るく元気に、そう振舞うことが劉備の心に日を差し込ませることができるのだと。 そんな張飛に、だが劉備はそれ以上、心配をかける気はなかった。 そこで、たはと、思い至った。
 
「あッ! そうか………。」
 
 張飛の無自覚な優しい気配りを受け、そこまでしてようやく劉備は悟った。 唐突に、だが数多の言葉を尽くすよりもなお雄弁に、己の内面に沈殿していた感情の正体を。 思えば薄々察してはいたのだ。 だからこそ確かめるのが怖かった。
 
「えへへ、人の心って不思議だよね。 鈴々ちゃん」
  
 今ならば、劉備はありのままに受け入れられる。 自分が徐晃に不安を感じていた理由、それは彼に嫉妬していたのだ。 関羽をより深く知る人間の出現に、焦っていた。 だが、それはまったくの見当外れなものでしかないのだと、張飛に教えられた。 隣の芝生は青い、とはよく言うが、まさしくそれである。 どちらが、共に多くの時間を過ごしてきたのか、とか。 どちらが、より深くその人を理解できている、なんて意識を持つこと自体が無意味なのだ。
 
 劉備が、張飛の気配りに気がつけたように、徐晃も関羽の機微に聡い、ただそれだけである。 どちらも、自分しか知りえない人の側面という部分があるし、それぞれが共感しあえる部分もあるのだ。 当たり前のように知っていたつもりだったが、改めて再確認できた答えに、劉備はつい楽しげな笑みを漏らしていた。
 
「うん、人は分かり合える。 いがみ合っているばかりじゃ、ないんだよね」

「にゃぁ………、お姉ちゃんまでおかしくなっちゃったのだ………。」
 
 大好きな人のことを、誰かが知っている。 あんなにも不安だったはずなのに、今はその事実がとても嬉しくて仕方が無い。 名も知らない他人同士が、共有の友から知り合い、親睦を深め合い、友情を育み、また人の輪が広がっていく。 それは、とても素晴らしいことであり、劉備が目指す理想に近しいものがあった。 人と人が手を取り合い、相互の理解を深め合う世界。 それを現実のものとするのは、言うより難し、だろう。 だが、それでも劉備は確信も新たに結論付けることができた。
 
 自分でもちゃんと理解できたのだから、他の人たちにも、できないことはないのだ。 後は、少しずつで良い、お互いを理解し合える心の有り様を拡げて行き、それが大陸全土まで浸透していけばよいのだ、と。






あとがき

あぁ……、もう一ヶ月を切ってしまった。 やつが来る……。 憎い憎い憎いクリスマスが………。
どうもギネマム茶です。
 
さて、今回は徐晃さんのささやかな目的達成と、桃香ちゃん悩むの回といった感じでしょうか。
私としては、桃香の内面がかけて満足なのですが、彼女らしさが出ていれば幸いです。
あと、やっと鈴々出せた………。 徐々に出番増やしてやるからなぁ~待ってろよぅ。
 
最後に、いい加減、黄巾の乱も終わらせないとなぁ、と思いつつも………、もうちょっとだけ続くのじゃ。

では、また次回



[9154] 三十二話・SEX―――必要な(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:afdd781e
Date: 2010/12/11 22:01
 昏く塗り込められた闇の中。 燭台に灯された淡い輝きが、女の苦悶の表情を照らし出していた。

「かっ………、は………ぁ……。」
 
 もがき苦しみ助けを求める女の様子など意にも介さない男は、指先に感じる柔肉が圧搾されない程度の無造作で、女のきめ細かな柔肌を貪り尽くしてゆく。 その容赦の無い指遣いは、女人の身体を扱いよりも、むしろ相手の肉体を扱うのであれば、引き裂いて叩き潰し、挽肉にする。 そういう構造をしていた。
 
「ひぐ……ッ!」
 
 漏れる吐息はもはや悲鳴である。 そういう悲鳴が、なおいっそう男の――――卜己の嗜虐心を煽る。 さながら猟犬が、追い立てられる兎から恐怖の気配を嗅ぎ分けるように、動物的恐怖というものは、被虐者の精神を本能的を擽る。 特に喉を締め付けられ、溺死寸前で必死に救いを求めて手がかりを探している様は、卜己に更なる黒い喜びを運び込んできてくれる。
 
「ぐ………、が…………、ひ……、ぁひ」
 
 女衒で媚びるように男を誘うような二流の遊び女とは一線を化す、染みひとつない肌に、瑞々しい肉も生まれの違いが一目で判る、そんな女。 それを気分に合わせて服を変えるかのように、好きに扱うことができる卜己だが、これが道端で寝扱けている浮浪者ならば、嫉妬逆恨みの的にもなっただろう。 だが、卜己は今は天下にその名を轟かせる黄巾党の一員、それも腕っ節一つで大方師にまでのし上がり、今では黄巾党の一大派閥の総元締めとして君臨する男である。 たとえ大陸一番の美女を囲ったとしても、難癖をつける者は出てこないだろう。
 
 まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの大出世だが、全てが万事順調なわけではない。 性戯においても百戦錬磨の卜己であっても、いまや数十万までに膨れ上がった己の派閥の人間を食べさせていくのは、そう容易なことではなかった。 異常な速度で人が集結してきたせいもある。 調子に乗って戦果を求めすぎたのも確かだ。 だが。
 
「――――――、ふぅ」
 
 事を終えた卜己は余韻に浸るころもなく、さっさと身を起こして水差しに口をつける。 外は生憎の雨模様だった。 乾いた寒さに耐える季節から、湿った暑さに備えることを知らせる風物詩。 延々と、飽くことなく天が繰り返してきた豊穣の恵みが今、雫となって滴り落ちる。 水はやがて土に還り、人を、動物を、街を潤してくれる。
 
 だが、卜己は雨が嫌いだった。 その日の酒代欲しさに身売りされた時の事を思い出す。 母は我が身可愛さに救いを求める卜己から視線を逸らし、酒に依存していた父は嬉々として我が子を売り飛ばした。 おそらくあの様子では母も遠くない日に身売りされていることだろう。 長く残酷な時を隔てた今でさえ顔を顰めたくなる悪夢。 現世は夢と誰かが言った。 ならば今卜己が直面する現実も、或いは遠き日の彼が両親と共にあばら家で空腹に魘されている折に垣間見ている悪夢なのだろうか。
 
「…………、馬鹿馬鹿しい」
 
 卜己はそう己を一喝して戒める。 いまや、この世全てが自分の財産そのものと言っても語弊はない。 汲めども尽きぬ財宝を片手に、他者の命を消費する。 そうやって風格を身に着けた卜己はすでに王者なのだ。 もはやどんな悪鬼の所業を犯そうとも誰の手によっても裁くこと適うまい。 いつ何処で誰を何人殺そうとも、彼の自由だ。 そうするだけの力を卜己は有している。 この世のありとあらゆる物を恣にできるというのならば、それらは全て卜己の所有物も同然である。 大将軍も帝も比較にならない。 ならば、過ぎ去った日に味わった取るに足らない苦渋など如何程のものであろうか。 
 
 そう、ここに至るまで、どれだけ数多くの油断ならない駆け引きを征し、いまの磐石なる地位を手に入れたことか。 とりわけ、現在黄巾党が所持する兵糧の四割近くを保有するこの砦を居城とするにあたり、黄巾の内部でも異端であり、人外化生とも称される波才と遣り合ったときなど、さすがの卜己とて肝を潰した。
 
 波才たち一派がこちらを欺いて水面下で妨害を行っていたのは、もちろん卜己も承知している。 他の連中ならいざ知らず、こちらの兵を殺ぎにかかり、兵站を切るような動きを見せられれば流石に気がつく。 しかし、此方には殊更に馬鹿な連中が多い。 相手は当然その点を突いてくるし、扱いなど熟知しきっている。 どう対応するべきか頭を悩ませたのだが、いざ怪物と称された者と対峙してみれば、その威名に身を竦ませていたのは最初うちだけで、卜己と喋る波才は往生間近の木乃伊とそう大差ないほど、覇気と言うものがなかった。 意気込んで事に望んでいた卜己からしてみれば、拍子抜けするほどに手応えのない展開である。 むしろ、拠点を確保した後の兵士たちの移動やら物資の搬入など、そういった細々した所が円滑に進まず手を焼いたほどであった。
 
 そうやって、まんまと拠点を確保したのがつい数日前のことである。 何が波才をそこまで耄碌させたのかは定かではないが、おそらくは先日の、要塞も同然に仕立て上げた砦が墜ちたことが発端であろう。 聞けば、少数の義勇軍と相対したそうだが、察するに、そこを守備していた部下たちが予想以上に脆弱だったのかもしれない。 普段から義侠だの仁義だの息巻いておいて肝心なところで漢を魅せられないのであれば、今回の波才の判断にも納得がいく。
 
『好きに使いが良い。 何やら官軍が煩く飛び回っておるが、それを蹴散らしてしまえば恐れる必要もあるまいて、後は時が経つのを待てばよい』
 
 それが波才の捨て台詞だった。 おそらく、農民崩れの脆弱な義勇軍と比してすら、勝利を収めること適わなかった己の部下の、そして自分の能力の無さに、今更になって気がついたのだろう。
 
 脱ぎ捨てていた衣服を纏い、未だ汗に肌を濡らし息も絶え絶えな女には一瞥もくれず部屋から立ち去ろうとした時、卜己はふと、外の騒がしさに気がついた。 情事に及んでいた時は女の喧しさで遮られていたが、どうにも兵たちが慌しく動き回っているようである。 おそらく波才に要求しておいたものが届いたのだろう。 彼らが後生大事に慈しみ愛でてきた存在である張角、張宝、張梁の三姉妹を寄越すように命令しておいたことをすっかり失念していた。
 
 あの高慢な老いぼれは、何を思っているのか、あの三人を此方の事情に巻き込まないよう取り計らっている節があった。 しかし、それも今では亡者だの獣だの蔑んできた相手の慰み物に差し出さなければ、己の命さえ危ぶまれるほど立場を落としているのだから、運命とは皮肉なものである。 声もなくほくそ笑んでから、卜己は廊下へと通じる扉から離れ、外の様子を一度だけ確認しようと窓から顔を覗かせ。
 
「………ッ!!?」
 
 次の瞬間、稲妻のような鏃の一撃に、その肩を刺し穿たれていた。

 激痛、恐怖、そしてそれに勝る驚愕。 弓矢の一撃など予期できようはずもなく卜己は、信じられない思いで眼下を臨み、狙撃手の姿を探す。 否、それ以上の出来事に下手人を探すことすら忘れ去ってしまった。 砦の頂から、睥睨する世界は混沌としており彼方此方で火の手が上がり、慌てふためき逃げ惑う黄巾の兵たちに、甲冑を纏った兵士たちが、それを追い回している。 そして、遠方を望めば立ち込める水煙の遥か奥に、敵軍と思しき影を確認した。
 
 陽動も兼ねて油を使用しているのだろう、立ち上がる独特の煙の色。 卜己も村々を襲撃したときによく使用していたのだ、忘れるはずもない。 そして、その破壊力もまた卜己の記憶に新しく残っている。 轟々と燃え上がる炎は、凍みるような雨水さえも焦がして、天へと舞い上っていく。 熱風が卜己の顔を撫で、鼻を擽るのは生き物を焼いた臭い。 まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。 その有様を瞳と言わず、脳に直接叩き込まれたその瞬間、卜己は紅蓮の炎の奥に波才の哄笑を幻視したのだった。

「ぐ、ぎぎぃ………ッ!」

 憎しみを通り越した殺意に、肩を震わせながら卜己は歯を食いしばって耐えた。 今すぐにでも波才の下へ行き、皺首を力の限り締め上げ、へし折りたい。 そんな抗いがたい衝動が、卜己の内側で猛り狂う。 だが、目の前に居ない者の首は折れないし、それで現状が好転するわけでもない。 仮にも黄巾党を束ねる者を自負する者であるならば、火の手があがっている食料庫を見過ごしてはいけないのだ。 ことを処理しなければならない、それも早急に。
 
 いまこの砦には黄巾党の兵糧の半数近くが収められている。 それらが、全て灰になったとしたら、総数五十万を越える兵士たちへの食料はいったいどうなるのか。 数とは確かに力となるが、それを維持できなければ自分の首を絞める諸刃の刃となる。 つい先ほどまで捨て台詞だったとしか認識していなかった波才の言葉。 あの老いぼれの真意は、ここに隠れていたのだ。 官軍を蹴散らせないのであれば、新たなる敵を呼び込むこととなる。 そうなれば、恐れるまでも、そう恐怖する暇すらなく卜己は死ぬのである。
 
「お前の思い通りになど……ッ」
 
 混乱を極める黄巾の兵たちを落ち着かせるため、卜己は踵を返し扉のほうへ、一歩を踏み出そうとして。
 
「…………、あ?」
 
 肋骨の隙間から滑らかに侵入してきた異物の感触に、卜己は顔を顰めた。 剣、だった。 それも己がいつも腰に携えている見間違いようのない得物で、である。 机の上に置きっぱなしにしておいたはずなのだが、それがいつのまにか心臓を突き破っている。 殺意も、何の予兆もなく、刺された卜己でさえも、胸の激痛が何を意味するのか咄嗟に理解できないほど正確無比な刺突であった。
 
「儁………、が、い……?」

 それでも、心臓の最後の一鼓動だけの合間、卜己には思考するだけの猶予が残されていた。 よろめく足取りで振り向き、冷然と侮蔑以上の無関心でもって手を血に染めた裸体の女の視線を受け止めた卜己は、だが最後まで、その眼差しに理解の色を宿すことなく、ただ呆けた顔のまま、床に倒れ付した。
 
 おそらく卜己は最後まで自分が抱いていた女が無力な、脆くて臆病な小娘という認識しかなかったのだろう。 粗暴で粗野な卜己らしい最後と言えば、それまでである。 無双と頼んだ己の腕一本だけを武器に上ばかりを眺め、すぐ足許に口を開けた陥落に、ついぞ目を遣ることすらせず、影に隠れ潜む者の存在すら警戒しない、その程度の人物だった。
 
「…………………………。」
 
 冷えゆく亡骸の傍らで女は、かつて己を良い様に玩んだ男に寄せる感情など最初から無かったかのような振る舞いで、黙々と剥ぎ取られた服を着込んだ。 そしてそのまま、着替え終わるまで、どれほどの時が流れただろうか。 まだ遠くに聞こえた喧騒の音が徐々に迫ってきていた。 このまま事が進めば、この部屋に誰かが殴りこみに来るのはすぐのことだろう。
 
「…………………。」
 
 女は床に転がったままの、卜己の脇腹に突き刺さった剣を無造作に抜き払うと、何の感情を伺わせることなく、無表情のまま彼の首を切り落とした。
 
「……………。」
 
 じわりと鮮血が床を滲ませる様を、女は無言で見送った。 そして血を滴らせる剣を何の躊躇も無く放り捨て、もげ落ちた卜己の頸を無造作に引っ掴み手早く布で包むと、それ以上見苦しい死相を見ることを厭うかのように、女は廊下へと繋がる扉のほうに目を向けた。 聞こえてくるのは罵声と悲鳴。 どれもこれも聞き覚えのある黄巾の兵のものばかりである。
 
「――――――――――。」
 
 途方もない振動が部屋全体を揺るがしたのは、その時だった。 砦の主を守るべくこの部屋だけに備えられていた厚い鉄で出来ている頑強な扉が、外から内側に歪み撓んだ。 何者かが猛烈な力で鉄扉を殴打している。 室内にまで攻城兵器を動員しなければ不可能な荒技であったが、女にとってそれは特に驚くべき事態などではなく、むしろ焦りと怒りが同居する、静かながらも切迫した表情がそこにはあった。
 
「チッ…………。」

 初めて女が垣間見せたそれは、恐怖とはまた別の危機感だ。 彼女が恐れているのは、この部屋を目指している侵入者自体ではなく、今この場でその者と対峙することの方なのだろう。 彼女と卜己が情事に耽る前は、確かにまだ何事も起こっていなかった。 それがほんの僅かな間で、この砦の最深部まで侵入を許してしまうという事態にまで発展したということは、つまるところ、この砦の最後が近いということだ。
 
 とはいえ、彼女もまた卜己を殺害せしめた時の動作から鑑みるに相当の手練であることは、まず間違いない。 階下から侵入してきた何者かが、この部屋に辿り着くまでの所要時間と、先ほどの鉄扉への一撃から、相手方の力量とたちどころに理解した女は、この対処を如何にすべきか思考を動員し終えていた。 相手は少数、それも相当の手練が最低でも二人はいる。 その目的には微塵も興味ない。 現状においてすべてに優先するのは、早急なる撤収。 そしてそれを可能としうる手段においてもっとも最速のそれは―――――。
 
「ちょいやぁぁぁぁッ!!」
 
 再び部屋全体に激震が走った。 先に屈服したのは鉄扉そのものではなく、蝶番の埋まった壁のほうだった。 割れた石の欠片を散らしながら、扉が部屋の内側へと倒れこむ。 矩形に切り抜かれた外界は、墨汁を滴らしたかのような闇一色。 その中から鉄の塊を振り回し登場したのは、春巻きのように髪を結った女の子、曹操親衛隊隊長である許緒こと季衣だった。
 
「もう逃げられないぞ悪者どもめ! さっさと観念して…………。」
 
 荒々しい力業によって鉄扉を打ち破り、勇ましく室内へと侵入を果たした季衣の口上がそれ以上続くことはなかった。
 
「ぇ―――――、どうして……?」
 
 季衣にとって、それは掛け値無しの不意打ちだった。 即座に理解できはのは、総身を血に染めた男の身体が、首を無くした状態で打ち捨てられ床に転がっていることだった。 季衣とて幼いとはいえ武人である。 その心胆には、あらゆる不条理さえ飲み込み直視する覚悟がある。 ならば、たとえどんな不意打で人の死を目の当たりにしようとも、動揺も狼狽も決してすることはない。 だが、流石の季衣とてこれには驚かざるを得なかった。 なにせ、目標と定めていた人物が既に死亡しているのだから。
 
「どうした、季衣?」
 
「あ、秋蘭さま………。」
 
 勢いよく飛び込んでいったはいいが、それ以上の動きが無い季衣の様子を伺いに、夏侯淵がやってきた。
 
「これは………。」
 
 季衣の視線につられ夏侯淵も室内の奥へと目をやり、一呼吸の間だけ呆気に取られ、そして重々しく息を吐いた。 事態は、もはや誰に問うまでもなく、一目瞭然だったからだ。 即ち、夏侯淵や同盟を結んでいる劉備の陣営のものではない第三者の存在が、この部屋にいたということ。
 
「季衣、周囲の警戒を強化しておくよう兵士たちに伝えておいてくれ」
 
「は、はい!」
 
「それから、"敵将を討ち取った"と流布してまわってくれ」
 
「え、でも………。」
 
「嘘も方便、というやつさ。 それで黄巾兵たちの混乱がさらに拡大すれば、華琳様たちが動きやすくなる」
 
「あ、なるほど………、判りました!」
 
 そう言って頷くや、駆け出していく季衣を見送って夏侯淵は一応の用心で、部屋の中をくまなく捜索して廻る。 この部屋に至るまでの経路は一本道であり、その道すがらで出会った者たちは、みな黄巾を巻いた兵士だけであり、敵総大将の首を取るような暗殺者などは、間違っても混じってなどいなかった。 では、敵大将の首を取った者はいったい何処に消えたのだろうか。 事前調査によれば、隠し通路の類はないとされていることから、脱出できる経路などほぼ限られているのだが、少ない選択の中からそれを実行に移すには余程の身体能力が必要となってくる。
 
「ふむ………。」
 
 やがて、さほどの苦労もなく部屋の隅のほうに転がっていた血に塗れた剣を見つけた時点で、彼女の予感は確信へと変わった。 季衣は慌てた様子で気づきもしなかったようだが、寝台の上には、乱れに乱れた毛布と、嗅覚を不快に刺激する男と女が交わった僅かな残り香が、どうやって敵将が殺されたのかを示唆していた。 さらに確信を確証へと固めるために、夏侯淵は既にこれ以上冷たくなりようの無い骸を仔細に検証し、そして戦慄した。
 
「………………………。」

 それは、夏侯淵の武士として培ってきた経験が、あらゆる角度から状況を想定して弾き出した結論だった。 この暗殺を成し遂げた者は、こと武器の扱いという点においては、夏侯淵の知る限り、随一の使い手としていい手練である。 そも、扱う得物とは自分の分身と言いえ変えもいい。 それは長い年月をかけ修練に臨んだからこそ、自分の手足の延長線如く振るえるのであって、昨日今日で握ったばかりの剣をもって、こうも見事な刺殺を行えることは断じてあってはならない。

「ふぅ…………。」
 
 今回の作戦を軍師たちよ一緒に煮詰めていた当初からすればまったく予期しなかった展開に、夏侯淵はつとめて冷静になりながら改めて状況を確認する。 室内に戦闘の痕跡はない。 放置された寝台の様子から男女の情事が行われていた事を伺わせる。 この部屋で行為に及んだ後、何者かが男が携えていた剣で闇討ちを行った。 そう見て取って、間違いないだろう。 そしてこの推理が辿り着く先の重く苦々しい回答に、夏侯淵は再び深い溜息をついた。
 
「まさか、此処から飛び降りるとは……、な」
 
 開けっ放しとなっていた窓の縁に手をやって外の様子を伺えば、地上より遥か高みより外界を一望することが出来る。 その高さは、断じて人が飛び降りてよい高さではない。
 
「いったい、何者なのだ……?」
 
 つい、口に出して呟いていた。 だが、それ以上の思考を巡らせることを状況が許さない。 彼女の位置からでは、愛する主君の陣営を望むことが出来ないが、代わりに頼りになる味方が丁度城門を突破してみせたところであった。 こうなれば、自分たちと一緒に侵入を果たした兵士たちを動かし、味方への更なる援護が必要となってくる。 この部屋も、もう少し詳しく調べればまだ新しい情報が得られるかもしれないが、必要最低限の情報を持ち出せるだけで良しとしなければ、作戦事態に支障をきたしてしまうかもしれない。 そうなれば、本末転倒もいいところである。
 
「…………………。」
 
 一度だけ、部屋全体を見回してから踵を返し駆け出した夏侯淵の表情には、もうこの部屋に対する未練は何も残っていなかった。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 小高い丘の頂上から、漫然と曹操が見下ろしているのは彼女が標的と定めた黄巾党の本拠地と、そこを攻め取ろうと城壁に取り付く兵たちの群れである。 彼女の頭脳とも呼べる猫耳の頭巾を被った軍師の談の通り、此方の陣営に対応して襲い掛かってくる敵の数がかなり少ない。 その理由は、目の前にぶら下げられた餌に釣られたからである。 
 
 愚鈍と称される官軍にしては聡明な将によって指揮されていたのか、この地域にまで足を伸ばして、この拠点に狙いを定めていた戦略眼は中々のものであるが、それも血気盛んな黄巾の兵たちが大挙となって押し寄せられてしまっては、それも十全には発揮できまい。 念のために放っておいた細作からの報告から予想するに、遠からず官軍が勝利を収めることとなるだろうが、その時には、黄巾党の本拠地は曹操たちの手によって潰されている。 よしんば、黄巾の賊徒が勝利しようとも、数を減じさせ疲れ果てている農民崩れなど物の数ではない。 どちらか一方が敗退したところで、曹操の勝ち戦に花を添えるだけで結果は変わらないのだ。
 
「華琳様、お身体に障ります……。 天幕へお戻りください」
 
「…………、桂花」
 
 自軍の筆頭軍師の名前を呼ばわったとき、吐いた息が僅かに白くなった。
 
「もう少しだけ………、こうさせて」
 
「華琳様…………。」
 
 降り注ぐ雨の直中で、曹操は寒気に震えることもなく、濡れ髪に嘆くこともせず、水と土で煙る戦場に視線を据えたきり、微塵も動く素振りを見せなかった。 傍らに付き従う桂花もまた主に習い、戦地を見つめる。 雨の帳に煙り、輪郭を虚ろに暈された兵士たちはまるで一葉の水墨画のようだった。
 
「桂花」
 
「はッ!」
 
「今回の遠征は、成功とみてよいのかしら?」
 
 瞼を閉じながら、曹操は少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。 遠征の件については徹頭徹尾、桂花の作戦通り事を運ばせている。 それを誰よりも間近で眺めていながら、桂花自身に結果の合否を判断させようというだから曹操も人が悪い。 だが、曹操の意図など理解していないような素振りでいて、胸を張って誇らしげに頷いてみせる桂花もさるものである。

「勿論でございます」

「そう?」
 
 さして、興味がない風を装ってはいても、その実、目の前の猫耳軍師の聡明さには、絶大なる信頼を寄せているのに、それを示してみせないのが、曹操流の愛情表現なのだろう。 片目だけ開けて、横目にちらりと桂花を一瞥すると、曹操は再び視線を戦場に戻すのだった。
 
「私には、問題が浮き彫りになったようにみえるのだけれど?」
 
 まるで他人事を話題にして興じるかのように、曹操は穏やかに自身の子房へと問いかけた。 
 
「むしろ、それで良いといえるでしょう。 この世の全てが試行錯誤の繰り返し。 それが停滞し何も浮かび上がってこなくなるほうが、私は恐ろしく思います。 今回の主眼はあくまでも黄巾党の本拠地の制圧にありましたが、その目的達成の上で、若干の誤差が生じることは、むしろ前提。 問題はその誤差の揺らぎが作戦の許容範囲内に収まるか否か。 それが、此度の遠征の成果であり、私が成功であるとする理由でございます………。」
 
「そう……。」

 必要以上に阿ることのない端然とした桂花の一礼を受け、曹操は首肯して認めた。 これ以上の成果は望むべくもないことは、彼女とて理解している。 だが、それと同時に曹操の胸に苦いものが湧き上がる。 果たして問題点が浮き彫りになってくるということは、その分だけ兵士たちに負担を強いていたというだ。 彼らは最前線に立ち敵と相対し、防衛の為に陣地を形成し奮闘する労力を、どれだけ曹操は理解しているというのか。
 
 本当であれば酒を振舞い、彼らの一人、一人を慰撫して回りたい所であるが、それも難しい。 しかし、ほんのせめてもの慰めにと、食事を中心とした兵士たちの娯楽要素の改善には大いに取り組んできたつもりである。 無論、兵士たちの士気にも関わり、戦略上、非常に重要であることから力を入れていた部分もあるが、それでも兵たちに不便を感じないよう計らってきたもの事実だった。 しかし、逆に言えばそれだけのことをやってもまだ問題点が挙がってくるのだ。
 
「……………、未だ道は遠い、か」
 
「はい」
 
 曹操の自嘲的な呟きに、桂花は斟酌なく頷いた。

「…………、恐れながら華琳様。 今はそれを考えるときではありません。 必要なことだけに意識を向けてください」

「……………………。」

 静かに、だがきっぱりと断じるように桂花は、曹操を律した。 こういう時として主君以上に情感を切り捨て容赦なく冷淡になれる彼女の在り方は、曹操を眼前の現実へと引き戻すのに、それは容赦ないほどに覿面だった。 瞼を閉じ、黙した曹操は胸の中が冷えていくのを感じる。 冷めきった心は、兵たちに寄せる思いも遠く霞んでいる。 

「ならば、私の軍師に尋ねるわ」
 
 決然と眼を見開き桂花を見やると、何やら含みのある笑みを覗かせてから、やおら曹操は瑠璃色の瞳に威圧を込めて、試すかのように桂花を見据えた。

「私たちに今、何が必要なのかを、ね?」

 そのとき、天が割れんばかりの轟音が鳴り響いた。 雷鳴のようなそれは、鉄壁を誇った砦の城門を突破したからに他ならない。 はたして遠方から眺めても、いまや砂上の楼閣と成り果てた黄巾の砦に取り付いているのは、曹操軍が一翼を担う徐晃の部隊に他ならなかった。 事態は寸刻みで、変幻万化の変わり様をみせている。 戦いの趨勢は既に決していようとも、まだ着地点ではない。 特に、曹操からの一言があった後では尚のことそう感じさせた。
 
「それは、簡単なこと…………。」
 
 一度、そこで言葉を区切ると、桂花は深く息を吐いた。
 
「我らも前に出ます」
 
「あら? 劉備たちを助ける、ということかしら」
 
 その答えに曹操は破顔した。
 
「結果的にはそうなりましょう。 時間を無駄にしたくない、というのが本音でもありますが………。」
 
 虚勢をはることもなく正々と白状する桂花に、曹操は悪戯っぽく眉を上げる。
 
「うん? あぁ………、余計な邪魔者が近くにいるものね」
 
「はい」
 
「ふむ………。 良いでしょう、貴女の好きになさい。 此度の遠征はすべて貴女に一任しているのだから」
 
「御意!」
 
 不敵な笑みを浮かべ傲岸にそう言い放つと、曹操は傍らで待たせていた愛馬にひらりと跨り、布陣する兵士たちの中心へと駆け去っていった。 先ほどの宣言通り桂花にすべてを任せるという腹か。 こういう寛大なる許容の態度を、何の衒いもなく誇示できるところが、曹操の持ち味といえよう。 その器の大きさに、桂花は改めて敬服の念を示すのだった。 

「……………。」
 
 ほどなく、遠のいていく軍馬の蹄の音が雨音にかき消されるまで、頭を垂れ礼の姿勢を崩さずにいた桂花が、決意も新たに面を上げた。
 
「よしッ! やるわよ!」
 
 そう意気込んで、桂花は丘の上から眼下を見渡す。 曹操軍の最精鋭を率いて砦の内部に侵入を果たした夏侯淵の手によって、黒煙を吹き上げ、崩れ落ちていく黄巾の拠点は、まるで声にならない断末魔をあげる巨獣のようであった。






あとがき

今回の序盤を書いている最中、ヱヴァンゲリヲン新劇場版『破』に出てくるエヴァ二号機のザ・ビーストに頭を丸齧りされたい衝動に駆られていました。
どうもギネマム茶です

何かアウト臭い感じでごめんなさい、自重しませんでした。
 
まぁ、今回はこんな感じでしたが、次回はもっとほのぼのした感じでいければいいなぁと思っています。

ではまた次回



[9154] 三十三話・なんていうか……その…下品なんですが…フフ…卜己……しちゃ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:53414de8
Date: 2011/01/02 22:11
「あらあら、事は上手く運んだようね?」
 
 薄暗闇の中に燭台の赤い光と雨降りだというのに、遠い雲の切れ間から幻のように差し込む青く淡い月明かりのみがたゆたう。 典雅な宮廷衣装に似たゆったりとした装い同様、殊更いたわるような態度で、袁本初の軍師がひとり、田元皓が、一目見れば幽鬼と見紛いそうになる張儁乂に尋ねる。 春麗らかな陽気のような、ゆっくりと穏やかな振る舞いで巡らす相好に、蝋燭の朱色の光が毒々しい影を落とした。
 
「………………………。」
 
 何し負う河北袁家の軍師が使用するこの一室。 下手を打てば生きては帰れない魔窟と呼んで差し支えない場所にいるにも関わらず、漆黒の凶手は、物怖じもせずに極めて事務的に首肯で返事をする。 つい先頃、黄巾党の一大派閥の頭目の頸を捥ぎ取ってきた。 その事実は未だ、世間を騒がせるような重大な影響は出ていない。 意図して秘匿しているか、それとも時機を見て喧伝するのか、田豊はまだ動く気配を見せてないままだ。 とはいえ、ただの暗殺者である張恰にとってみれば、甚だどうでもいい話であった。
 
「あらあら、それは重畳………。」
 
 さも大儀であったとばかりに、頬に手を当てて溜息をついて張恰を労わるこの典雅な装いの軍師が、本心では黄巾の頭目など毛ほども関心を示していないことなど、張恰にも分かり切っていた。
 
「しかし………、この老いぼれの記憶が確かなら、敵将の………、あらあら? なんと言ったかしら?」
 
「…………………。」
 
「卜己? あぁ、そうそう………、卜己を仕留めるのは、まだ先だったはず。 いったいどうしたの?」
 
 暗がりの中で燃えるような赤い眼光が揶揄するように揺れる。 わざとらしい問いかけに、事の下手人は言葉に詰まる。 そう、卜己の頸を頂戴するには些か時機が早かった。 本来であれば、田豊が下した号令と共に一気に戦局を動かすはずが、何の偶然か曹孟徳の出現によって予定を早めるしかなかったのだ。 彼女の出現は、張恰にとっても田豊にとっても、まったく予期しないことだった。
 
「……………………。」

「あらあら………、『顔を見られるわけには、いかなかった……。』と、言いたいのね?」
 
「…………………。」

 いちいち事細かに確認せずにいられないのは、職業柄故か、持ち前の嗜虐心を満足させたいがためか。 おそらく両方なのだろう、と思いながらも、そんな田豊の反応にさえ関心がないらしく、張恰は悠然と必要最低限の動作で頷いた。
 
「なら、何処の勢力か確認できず仕舞い、ということかしら?」
 
「………………。」
 
「あらあら、華琳ちゃんが? そう………、あの子が……。」
 
 発した本人自ら、その言葉の重みを味わうかのように、田豊がゆっくりと目を閉じる。
 
「それは拙いことになったわ」

 柔和な面持ちの田豊から苦り切った言葉が漏れ出た。 それに同調するかのように、それまで、暗闇と一体化し彫像のように沈黙を守っていた暗殺者さえも、重々しく頷いてしまった。 何故なら彼女らは、よりにもよって曹操の風評だけは断じて見過ごさないであろう人物を、とてもよく知っていたからである。

「姫様が癇癪を起こさないとよいのだけれど………。」
 
 さも困憊したという情感を、持ち前の温和な面持ちで糊塗した。 そんな田豊の態度こそ、彼女たちが主君と仰ぐ人物を現しているといえるだろう。 生まれから既に王であり貴き血統を継ぐ、誰よりも高貴なる者の何たるかを体現しているが、それに見合った気儘ま性格の持ち主。 しかし、どのような性格であれ、何をしようともそれだけで、貴賎の上下が覆るものではなく、田豊の忠義が揺らぐことはない。 だが、そんな彼女をもってしても、主君が好敵手と目する存在だけは、頭痛の種だったのだ。
 
「陶謙のこともあるし、次の戦までの間は、兵站を整えておきたかったのだけれど………、ふむ………。 銀」
 
「………………。」
 
「華琳ちゃんの頸? あらあら、違うわよ。 韓馥の頸が欲しいの。 次の次の戦の為にね」
 
「……………………。」
 
「そうそう、いつもの通りで構わないわ。 彼の部下の耿武と閔純の二人は………、そうね……………。 消しなさい」
 
田豊の声から温かさが消えた。 彼女の瞳に紅の光がうっすらと灯る。
 
「…………………。」
 
 張恰は、首肯するや否や踵を返し、まるで霧のようにその姿を影の中に消した。 しばしの間、雨音だけが場を支配し、影のように佇んでいた張恰の存在など泡沫の夢であったかのように、部屋の空気さも微塵も乱されていなかった。 田豊は、彼女から報告を聞いていた体勢のまま、ある一点に目を向けた。
 
「これ、どうしようかしら?」
 
 張恰の手によって捥ぎ取られてきた卜己の頸を包んでいる布を見て、田豊は溜息をついた。 卜己の頸の使い道など、考えれば幾通りも存在する。 だが現状、使って得られる利益と、支払う代価を天秤に掛けた場合、はたして旨味はどれだけ残っているのだろうか。
 
「華琳ちゃんってば、慌てん坊さんなんだから…………。 折角、銀を忍ばせておいたというのに………。」
 
 ゆるゆると、身に纏っている衣装以上に優雅な動作で、田豊は床に転がされたままの卜己の頸を手に取り、興味なさげに彼を覆い隠していた布を剥がし取った。 現れたのは、何故自分が死んだのかも理解していない間抜けな男だった。 その表情を見て、田豊はますます憂鬱な溜息を漏らす。 張恰から運ばれてくる頸の表情はいつもこれだ。 確かに、護身の心得があろうとも、身近な周囲の警戒をしなくてもよい、私的な空間の認識の外から凶刃が放たれれば、こうもなろう。 しかし、これを幾度となく繰り返し拝まないとならない身とすれば、飽きが来るのは仕方のないことである。
 
「でも………。 ここまで動いてくれるのであればいっその事…………。 あらあら、それはそれで面白いわ」
 
 田豊は何かに思い至ったようで、聖者のような清らかな笑顔で卜己の頸を弄びながら、薄暗闇に覆われた部屋を後にする。 残るのは彼女の瞳と同じ、朱い毒々しいまでの蝋燭の光だけだった。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 大地を纏綿と叩く雨音をに耳を傾けながら、徐晃は生姜湯を口にする。
 
「………………、ふぅ」
 
 暗い空の温度に、漏れ出た息が白く染まる。 滝のように流れ降りる雨は、布越しとはいえ分厚い天蓋を突き破らんばかりの勢いで、止む気配がない。 春先とはいえ、凍みるほどの寒さに、薪を燃やして暖をとる兵士たちの姿が見受けられ、かくいう徐晃もこうして、雨を凌ぎながらも懐に相棒を忍ばせていなければ、きっと寒さに震えていたことだろう。
 
「止まんな、的盧」
 
「クゥーン?」
 
 徐晃に呼ばわれ、定位置となっている服の胸元から顔を覗かせて、的盧は小首を傾げた。

「ふむ……………。 明日には止みそうか?」
 
「アンッ!」
 
「そうか………。」

 涼しく笑えば、また口元から白い息が漏れ出た。 手に持つ椀がじんわりと掌を暖かくして、何ともくすぐったい。 再び生姜湯に口をつけながら、ふと、遠方を望めば、僅かに見え微かに見える山々が、水煙にけぶって消えて、また現れる。 吹き込む夜風に乗って、数滴の雨水が頬を撫でては、徐晃の身体を冷やしにかかる。 だが、今はそれが、むしろ肌に心地よかった。
 
「そういえば………。 戦、戦と碌にお前の相手もしてやれなかったな………。」

 悔恨が炎のように徐晃の胸中を苛む。 本当であれば、己の相棒をこのような危険な場所にまで連れて来たくなどなかった。 だが、的盧は徐晃の口からしか食事を取れず、陳留に置き去りになどしてしまえば、残る運命はもはや朽ちるのを待つ石像と変わらないだろう。 なぜ、的盧が嫌がってでも強く躾けておかなかったのだろうか。 それを思うたび徐晃の心が騒ぐ。
 
「戻った時に、もう少しゆっくりとできるよう掛け合ってみるか?」
 
「アン! アンッ!」
 
「ははは、そうか………。」
 
 まるで徐晃に同意するかのように、元気に鳴く的盧を軽く撫でてやる。 今の的盧は人間でいってもまだまだ幼い子供のようなもので、本来であれば一時たりとも凝っとなどしていられないだろうに、いつからだろう、いつの間にか大人しくなったのは。 修練ばかり打ち込む徐晃に、いつも的盧は遊び相手を探して歩き回っていた。 あの時、構ってやれなかった分を、今からでもできるだろうか。
 
「仁様」
 
 不意に、声をかけられた。 知らぬ声でははい。 もう幾度となく隣で聞いている馴染みの声だった。
 
「クゥか」
 
「はい」
 
 徐晃は的盧を頭を撫でながら姜維の方を見やれば、雨降りの中、ここまで駆けてきたのだろう、髪や肩が濡れていた。 浅い呼吸が姜維の口から漏れるたびに、彼女の肌にも似た乳白色の靄が視界を覆っては消えていく。 雨水で湿った髪などが相俟って、普段とは違うどこか艶っぽい印象を受けた。

「生姜湯のお代わり、如何ですか?」
 
「…………。」

「……………、如何です?」
 
 再度、まるで甘く懇願するかのような声で、濛々と湯気を吐き出す椀を差し出してくる姜維。 雨の振る中、身体を濡らして此処まできた彼女のほうが、どう見ても椀の中身を飲み干したほうがいいのは傍目から見ても明らかである。 だが、徐晃は差し出された生姜湯を姜維に薦めて飲ませるのかと思いきや、あっさりと椀を受け取って、換わりに空になっていた自分の物を彼女に手渡した。
 
「貰おう………。」

「はい……。」
 
 態々、自分の為に姜維がここまでしてくれているのに、それを無碍に断ることが憚られた。 しかし、だからといって安直に受け取るわけにもいかない。
 
「ただし、半分だけな」
 
「あッ!」
 
 湯気が立ち込める椀を傾けて徐晃は、姜維が手に持つ空になっている椀へと中身を注ぎ入れた。
 
「飲め。 一人で啜っていても味気ない」
 
 涼やかに笑いながら、ちらりと横目に姜維を見やれば、拗ねたような表情を作っていた。 おそらく、突然の徐晃の行動が原因なのだろうが、姜維の無言の抗議など何処吹く風で、生姜湯を口にする。
 
「もう………、仁様は………。」
 
 そう悪態をつきながらも、姜維の口元は綻んでいた。 最初は付き返そうかとも思い、僅かながらも躊躇を見せたが、不器用な徐晃の優しさに、今は素直に甘えようと生姜湯の入った椀を口元に近づけて、姜維は金縛りにあったかのように動けなくなってしまった。
 
「…………………、あ。」
 
 今、己の持っている椀はいったい誰が使用していたものだっただろう。

「…………………。」

 現在、この場にある椀は二つだけ。 姜維が持ってきた真新しい椀は、徐晃が使用している。 ならば残るのは、つい先ほどまで彼が口を付けていた物、ということになる。 それが今、姜維の手の中にあり、尚且つ、合法的に口をつけても何の違和もなく許される状況にあるのだ。
 
「――――――――、ごくり………。」
 
「?」
 
 本来であれば、そのようなはしたない行為など、できるはずもない。 だが、しかしである。 姜維はいま、髪や衣服まで雨に濡れて寒さに打ち震える一匹の小さな子犬のようなものなのだ。 そんな哀れな子犬の前に、暖かな飲み物が差し出されたとしたら、それを飲まずにいる、という選択はまずありえない。 ならば、進むべき道など一つしかあるまい。
 
「えいッ!」
 
 逡巡は一瞬であった。 しかし、徐晃が口をつけた所と同じ場所で飲むのは流石に憚られたようで、ほんの少しだけ、気持ち一つ分だけ横にずらしてに口を付けていた。
 
「なぁ、クゥ……。 そんなに気合を入れるほど熱かったか?」

「い、いえッ! そんなことありませんよ?」
 
 姜維の内心など露知らず、徐晃は疑問符を浮かべながら彼女の顔を覗きこんだ。

「ふむ……、そうか?」
 
 過去を通じて今においても、終始、姜維が己に向けて寄せている情の意味を見誤ってきた徐晃は、今回もまた、その思いに気が付くことなく、さして気にした風もなく、徐晃は仄かな笑みを浮かべて頷いた。 そんな、ただひたすら愚鈍とも呼ぶべき態度は、姜維から見れば本来なら、青筋を立てるほどの出来事である。 しかし、今回だけに限って言えば、徐晃の鈍さが救いであった。 
 
「そ、そんなことよりもッ! 義勇軍の視察は如何でしたか?」
 
 誰がみても不自然すぎる話題の切り替えに、徐晃はむしろ心配げな表情を向ける。 今の姜維の闊達な明るさの真相を見抜けずにいる徐晃は、姜維がどこか無理をしているように感じたのだ。
 
「まぁ……、中々に心躍るものだったな」
 
「そうですか………。」
 
 満足そうな声で語る徐晃であったが、どうも姜維の様子に釈然としなかった。 何となしの、その場の勢いで語ってみたものの、己の興味本位の行動のせいで、姜維もそうだが、楽進にも自分の仕事を代行させてしまっていたことを、はたと思い出した。 普段以上の仕事をこなしたとなれば、今もこうして口を開いているのも一苦労なところを、無理を押して世話を焼きにきてくれているのかもしれない。 そう思えば、姜維の仕草に違和感を感じたのも納得がいく。
 
「だが、お前にも無理を言って、仕事の代役を頼んでしまったな………。 すまん、迷惑をかけた」
 
「あぁ……。 別にあれぐらいでしたら問題ありませんよ? 気になさるほどの事ではありませんから」
 
 そう言いながら、姜維は冗談めかした仕草をしてみせる。 顔には疲れなど微塵も感じさせない、普段通りの気心知れた笑顔がそこにはあった。 彼女の言葉よりも、徐晃は姜維のあっけらかんとした笑顔に安堵の息を漏らした。 表情はいくらでも取り繕うことができるが、目はそうもいかない。 その点でいうと、今の姜維の瞳の奥底は、嘘を言っている様子がなかったからだ。 だがしかし、それ以外の色を瞳に宿していたことを、徐晃は気づけないでいた。
 
「まぁ……、急に物資を届ける役を買って出た時は驚きましたが………。」
 
 無邪気な笑顔を浮かべて、まるで謡うように滑らかに姜維の口は言葉を紡ぐ。

「いったい、どんな人だったんですか? 仁様が会いたかったという人は…………。」
 
「クゥ……、気づいていたのか?」
 
「えぇ、もちろん………。 それが、どうかしましたか?」

 まるで夢を見るかのように、どこか遠くを見つめているようでいて、しかし視線だけは徐晃から外れない。
 
「あぁ、まぁ………、なんだ。 人に押し付けておいて、後でばれていると知ると何とも面映いな……。」

「あはは、仁様は顔に出やすいですからね、とても分かりやすかったですよ」
 
「む、むぅ………。」

 徐晃の心の奥底で激しく警鐘が鳴り響く。 姜維の清楚な笑顔が、今はどことなく歪なものに見える。 まるで戦場の渦中に放り込まれたかのような、緊張感が背筋を擽ってくるというのに、その原因が判然としない。 今、分かる事といえば、まるで此方の頭の中まで見透かしているかのような、姜維の瞳から視線が離せない、ということだけ。
 
「―――――で、仁様」

 何故だろう。 徐晃は、蛇に睨まれた蛙の心境で、身動きも取れぬまま姜維の視線を受け止めた。
 
「そこまでしたのですから無論、私たちにも紹介してくださいますよね?」
 
「まぁ……、それは構わんが……。」
 
 徐晃は、つられて無意識に答える。 そんな曖昧な返答にも関わらず、姜維は破顔して満足そうに頷くのだった。
 
「約束ですよ?」
 
「向こうの都合もあるからそう早く、とはいかないかもしれないがな……。」
 
「勿論です」
 
 姜維が、何を理由に義勇軍へ俄然興味を示したのか、徐晃には判然としない。 だが、彼女の武人の嗅覚が、義勇軍の陣営内から漂う強者の匂いを嗅ぎ取ったのだとすれば、何処となく浮き足立っている現状にも説明が付く。 過日、天水の地でも張遼と一戦を交えたときのように、今回もまた自らの武を競いたいのだろうと、徐晃はあたりをつけるのだった。
 
「そういえば、仁様。 仁様の知り合いの方のお名前は、何というのでしょうか?」
 
「おぉ……、そういえばお前にもまだ言っていなかったか」
 
 二人で旅をしていた時など、何気ない話程度で、決して多くを語って聞かせていたわけではないが、自身の過去の話などしたものだが、そこではたと、徐晃は思い至る。 過去の話をする時は、当然自分を中心に話していたが、自分の周りにいた人間の事を暈しすぎていたことを。 内輪話になりすぎて、姜維が退屈しないようにと配慮したつもりだったのだのだが、結果は振るわなかったようだ。
 
「うん、あいつの名は―――――――。」
 
 すらりと、戦友の名を口に出した徐晃は、雨に煙る陣内の一角へと目を向ける。 兵士たちが使用している天幕よりも一回りほど小さなそれは、少人数で、それも余人に邪魔されず語らいあう程度であれば、なるほど、文句のつけようのないの場所である。 それを現在、曹操と劉備が使用し慎重を期すため、それぞれに介添人が一名。 その相手方の護衛役が、徐晃の幼馴染である。 願わくば、己の部下でもあり新たな戦友となった姜維とも良好な関係を築き上げてほしいのだが、両者互いに誇り高き武人であるのだから、響きあうものもあるだろうし、問題ないだろう。 そう、安易な展開を思い描きながら、徐晃は酒嫌いで今も辟易としているであろう幼馴染がいる天幕を涼しげな笑みを浮かべながら見つめるのだった。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 己の真横に腰を下ろす少女の顔を横目に見やり、曹操は口につけようとしていた酒杯を一度下ろして、浅く息を吐いた。 黄巾の食料砦を攻め落としたことによって、今後の戦局が大きく変わる。 その立役者となった曹操の名声は爆発的な拡がりをみせることだろう。 それは、彼女の掲げる覇業への足がかりであり、覇道の一歩をまた踏みしめたことに他ならない。 無論、その程度のことで満足する曹操ではないが、今は勝利の美酒に酔い、皆と喜びを分かち合うときである。 眉を寄せて政務に励んでいる普段の顔を崩して、一個人の我を場に出しても咎められない場だ。 にも関わらず手に持つ杯は、苛立ちに小さく震えていた。
 
「……………………。」
 
 人知れず息を吐いて、曹操は忌々しげに酒杯を膳の上に置いた。
 
「あれぇ? もう飲まないんですか、曹操さん」
 
 食料砦の攻略のもう一人の立役者である劉備は、酒で赤らめた頬もそのままに、妙に間延びした声で曹操に問いかける。 真横にいた彼女は曹操の纏う空気に、酔っ払いながらも何かしらの変化があったのを感じ取ったらしい。
 
「―――――ふふふ、こういう時はね劉備。 場の空気に酔いしれるのが粋というものなのよ」
 
「ふえぇ……。 そういうものなんですか?」
 
「えぇ………。」
 
 劉備に悟られぬよう緩やかに首肯して、曹操は瞼を閉じた。 現在、曹操たちがいる帷幕の中には、彼女たちの他にそれぞれの護衛として関羽と夏侯惇が脇で待機している。 天幕の外では、雨が降り続いている。 幾億という雨滴が天幕を叩き、滴り落ちた水滴が大地に落ちる音。 その合間を、戦勝を祝う兵士たちの宴が風のように吹き抜ける。 そんな音色の重なりを、まるでもつれた糸を解すかのように聞き分けながら、曹操は再度、息を吐いた。 今いるこの帷幕は、予想よりも勝る活躍を見せてくれた劉備たちを慰労するために設えたものだというのに、その機能を十全に果たしているとは言いがたかった。
 
 劉備たちには伏せているが、黄巾党の食料砦を落とす直前に、敵大将が何者かの手によって討ち取られていた。 その出来事は、自然物をそのまま仕舞い込んだかのような緻密可憐な絵に、一点の染みを見つけ出してしまったかのような不快感が、曹操を宴の席に没頭させてくれない。 戦略的に見れば充分すぎる戦果であるが、あくまで個人的な視点でみると、納得できかねるのが、曹操の苛立ちの原因だった。 無論、その程度のことを表に出して劉備にまで怒りの矛先をぶつけるつもりは毛ほどにもない。 しかし、他人の横槍というものをあまり経験したことが少ない彼女は、どうしても癇症を持て余してしまい、それが場の空気を硬化させる要因ともなってたのだった。
 
「そういえば、劉備………。」
 
「はいはい、なんでしょう?」
 
 空気を重くしているのは自分だと、曹操も自覚しているようで、妙に明るい口調で劉備に問いかけた。
 
「貴女たちは今後どうするつもりなのかしら?」
 
「へ?」
 
 曹操からすれば、ごく当たり前に水を向けたつもりだったのだが、劉備からすれば水飛沫を飛ばされたような心境であった。
 
「『へ?』ではないわよ。 まさか、貴女………。 何も考えていなかったのかしら?」
 
「ままま、まさかッ! そ、そんなことありません、よ?」
 
「そう? まぁ、こうして奴らの本陣を潰したのだから、もはや逃げも隠れもできないでしょうよ。 影に潜んでいた連中は表に出ざるを得ない………。 となれば、奴らに引導を渡すのも、そう遠くの話ではないわ」
 
「………………………………。」

 何処となく説明臭い曹操の話は、劉備では考えもしなかったことであった。 無論、彼女を支えるべく奮闘している諸葛亮や鳳統の存在が、劉備の頭脳となり幾多の進むべき道を用意してくれていることだろうから、そう深く物思いに耽る必要がなかったという側面も確かにあった。 そして、挙がってきた案件を劉備も含め、主要な面々と相談して納得した上で進んだ道であれば、何も問題はないのだろう。 だが、果たして本当にそれで良いのだろうか。
 
 自身でも忘れがちだが、劉備は小さいながらも義勇軍の頭である。 争いのない世の中にしたいと、目に映る人の不幸が見過ごせないと、ただ我武者羅に戦地へと身を投じてきたのだ。 そこで、様々な人々と出会い、自分の考えに共感してもらって、今では関羽や張飛という、最高の義姉妹まででき、諸葛亮や鳳統という軍師が傍にいてくれる。 彼女たちが居てくれれば、そう遠くない日に、この動乱を鎮め、争いのない世を作り上げることができるのではないだろうか。 
 
「私は………、その……。」
 
 そう思う一方で劉備の胸中に、どうしようもない口惜しさが駆け巡る。 自分は、果たして曹操のように、溢れんばかりの自信をもって、自らの考えを人に語って聞かせることができるだろうか。 ただ、皆の背中に身を隠して、最後まで政務でも戦場でも何の役に立つことなく戦いの結末を迎えるのではないのだろうか。
 
「愛紗ちゃん……………。」
 
「桃香様?」
 
 ちらり、と劉備は頼もしすぎる義妹に意見を伺おうとして横目で一瞥しかかったところで、自制した。 皆で手と手を取り合って、苦難に立ち向かい解決する。 その考えを変えるつもりは劉備には無い。 しかし、頼りすぎて、寄りかかるだけになってしまえば、自分は駄目になる。 そんな自身の危うさを、曹操という強大な存在を目の前にた今にして、ようやく気がつけたきがした。
 
「曹操さん」
 
「なにかしら?」
 
 一度だけ目を閉じ、深くゆっくりと息を吐く。 そして、再び目を見開いた時、劉備の瞳には決然とした堅い意思を灯していた。
 
「あの………、その………。 身勝手で本当に申し訳ないんですけど、今後は曹操さんたちとは別行動を取りたいなぁ…………、って」
 
「と、桃香様………。」

「あら、そう?」 
 
 軍全体に関わることを、さらりと言い放たれては、さすがの関羽とて驚きに目を丸くせざるを得なかった。 しかし、そこに非難の色は無い。 むしろ、戦略面で最重要な糧食を分け与えなくてもよくなったはずの曹操の方が、猫が獲物を弄ぶかのような、底意地の悪い笑みを浮かべて劉備を見据えるのだった。
 
「どこかで食料を確保できるあてが出来たのかしら?」
 
「あぅ……、いえ、そういのは、まだ…………。」
 
「ないの? その場の勢いだけの発言だとしたら、関心しないわね」
 
 てっきり、劉備の軍師たちが着々と下準備を進めていたとばかり思っていた曹操は、一瞬だけ呆気に取られたが、すぐに表情を厳しく引き締めた。 だが、劉備もそんな曹操の叱咤を予期していたのか、特に動揺した様子を見せず、己の考えを口にした。
 
「あの……。 さっき、曹操さんが話してくれじゃないですか。 黄巾党の本陣を潰すことができたって」
 
「えぇ、そうね」
 
「それで私、思ったんです。 この先は、別れて行動したほうが、より多くの人たちの為になるんじゃないかなって」
 
「ふむ……。」
 
 劉備はまるで子供のように、説明に要領を得ない。 だが、曹操は彼女の話に何か感じるところがあったのか、意味を噛みしめ吟味して、言葉以上の意味を理解しようとする。 劉備が本気で曹操たちと袂を分かつつもりいるのは、その表情からみれば容易に察することができる。 なにより、そこまでして劉備を突き動かすものが何であるか、それが何となしに見えてきた時点で曹操は、ふむ、と感慨深げに息をつく。
 
「なるほど………、悪くないわ」
 
 つまり、敵本拠地を潰した時点で、もはやこれ以上の大規模な黄巾党の叛乱はおこりようもなく、後は局地的な小競り合いに終始することとなる。 であるならば、大人数で纏まって行動するよりも、従来通り、劉備たち義勇軍は北へ南へと、その身の軽さを活かしたほうが、理があるということだ。
 
「じゃ、じゃあ………。」
 
「好きにするといいわ。 元々、相互利益があってこその関係だったのだし、旨味が無くなったのであれば手を切るのも当然でしょうよ」
 
「あぅ………。」
 
 曹操はさも愉しそうに、にんまりと底意地の悪い笑みを浮かべる。 たっぷりと皮肉を込めて詰められてしまった劉備は、返す言葉なく心底申し訳なさそうに眉を下げて、肩を窄めてしまった。
 
「でも、そう………。 ふふ……。」
 
「あ、あのぉ……。 なにか?」
 
 何が曹操の琴線に触れたのか、いよいよ持ち前の傲岸さを剥き出しにした嗜虐味溢れる笑みを劉備に向けた。
 
「なに、意外と貴女のような子が天下を治めるのも悪くはない………。 そう思ったのよ」
 
「え、え……? えぇえぇえぇぇぇぇッ!!?」
 
「かかかか、華琳さま?!」
 
 その場に居合わす、曹操以外の人間全員が、呆気に取られた。 護衛のため傍に付き従っていた夏侯惇など、錯乱のあまり、もはや己の立場を忘れて詰め寄らんばかりの勢いだった。 しかし、それも当然である。 曹操こそ唯一絶対の主であり、夏侯惇の世界は彼女を中心として回っているのが理由の一つでもある。 だが、曹孟徳が他人に自らの夢を譲るような発言をしたことの方が、驚愕の度合いとして遥かに上回っていたのだ。
 
「何を驚いているの劉備。 貴女は劉姓なのよ? なら、漢帝国を引き継ぐ大義名分には充分すぎるでしょう」
 
 夏侯惇の慌てようなど、意に介した様子を見せず、実に淡々としした曹操とは逆に含みのある彼女の言い分に、劉備の心臓の鼓動が思わず跳ね上がった。
 
「高祖……、劉邦の例えあるわ。 人心を思い乱世を憂い、天下万民を慰撫し治めること適えば、貴女が天子となることだって不可能ではないわ」
 
「てッ!」
 
「天子ですとッ! ふ、不遜ですぞ曹操殿!!」
 
 劉備は驚きに、そして関羽は怒りのあまり、ともに曹操の言葉に瞠目した。 
 
「不遜、か………。 なるほど……、ならば貴女は、漢と劉備が収めるであろう世を秤にかけ、漢にこそ価値ありと、そう判断するわけね?」
 
「ッ! そ、れは………。」
 
 すかさず反論しようとしたものの、関羽は言葉に詰まった。
 
「あら………。 どうやら、貴女の主は、まんざらでもなさそうよ?」
 
 それまでの、猫が獲物を嬲るかのような嗜虐心溢れた表情とは裏腹に、曹操は粛然と声を落として、姿勢を改めて劉備と向かい合った。 まるで、運命の人に出会ったかのような無垢でいじましい微笑だというのに、言葉なく、確たる目配せや意図などない、それでいてこれ以上ないほどに淫靡な凝視は、それゆえに致命的におぞましかった。
 
「ねぇ、劉備? 貴女はどうしたいの?」
 
「えっ………と……。」
 
 曹操の視線に、名状しがたい不安が隙間風となって吹き抜ける。 そんな怯えた様子をみせる劉備に向けて、曹操はまるでむずかる子供をあやすかのように優しい言葉で先を続ける。
 
「漢帝国の御旗の下、人々の安寧を慮らんとするのかしら? それとも、あなた自身が天子となり民の平穏を、繁栄を望むのかしら?」
 
 穏やかな口調で微笑を浮かべる曹操であったが、その目だけは笑っていない。 回答次第では、即座に切って捨てる。 そう思わせるだけの気迫が今の曹操にはあった。 そんな彼女のただならぬ気配に、関羽も思わず青龍刀の柄へと手をかけた。
 
「―――――ッ!」
 
 瞬間、剥き出しの、だが研ぎ澄ましたかのように関羽だけに狙いを定めた殺気が飛来してくる。 夏侯惇だった。 口を一文字に刻んだ彼女の意図は、言葉に出さずとも視線だけで雄弁と語っていた。 無論、関羽とて殺気を孕ませた威圧程度でどうとなるほど柔ではない。 夏侯惇の視線を真っ向から受け止め、両者は互いの必殺を見計らいあい、いつでも主の動向如何によっては、いつでも動けるようにしておく。
 
「あ、あの………。 私は………。」
 
 一触即発の青龍刀と大剣。 劉備の次の一言を待ち、空気が冷たく重い緊張感に包まれる。
 
『―――――!?』
 
 そのとき、不意に轟いた雷鳴が、世界を白一色に染め上げた。 






あとがき

クリスマス当日、昼間のホテルからカップルを乗せた車が、車道へ出たそうにしていましたが、当然無視して入れてやりませんでした。 勿論、後続車も同じ対応でしたよ、えぇ。
どうも、あけましておめでとうございますギネマム茶です。

今回もグダってしまって本当に申し訳ないです。

さて、今回は三国志の逸話しっている方にはニヤリとしていただけたらなぁ……。と思って書いていた回でした。
こんな感じで、チマチマと話の中に挟んでいけたらいいなぁと思っております。
まぁ、それが原因でグダるのが続くようでしたら考え直します………。
 
ではまた次回



[9154] 三十四話・「覚悟」とは!!暗闇の荒野に!!進むべき道を切り開く(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:65e8c4a0
Date: 2011/01/18 19:20
 劉備を慰労したあの凍えるような寒い日が嘘のように、いまは重く湿った空気を、真夏もかくやというほど強烈な日差しがじっとりと蒸し揚げて、そこかしこに陽炎を生んでいる。 まるで己が主君の心中を体現しているかのような天気に、兵士たちもそこはとなく、次なる戦地の臭いを感じ取っていた。 黄巾党の最後。 それは転戦に継ぐ転戦に神経を尖らせ、疲れを色濃く見せ始めてきた兵士たちにとっては、活力をを取り戻す言葉であり、是が非でもその目に焼き付けておきたいものであった。
 
 果てしなく続いた遠征に、数多の兵たちが故郷を遠く離れた地で果てた。 彼らは進み続ける主君を、将軍たちを、仲間の背中をその目に焼き付けて逝った。 ならば、生き残った者たちは、示さなければならない。 彼らが願った平穏の祈りの為に。 "あの方たち"と共に轡を並べられた誉れを汚さない為に。 いつか墓前で誇らしげに笑えるように。 死した後、朋友と語り合うその日まで。
 
「聞け! 我が忠勇なる兵士たちよ!!」
 
 太陽さえも恥らうほどの輝きを放つ美しい金髪を揺らし、曹操は居並ぶ兵士たちの隊列を前に、限りなく誇らしげに、高らかに、兵士たちを焚きつけるため鼓舞を行っている。
 
「皆の活躍により、今や黄巾党の数は激減し、最早その命は風前の灯火となった。 奴らにどれだけの兵力が残っていようが、それらは既に形骸である。 だからこそ私は敢て諸君らに命じよう―――――。」
 
 初めは、抑揚すらなく冷淡な印象すらあった。 むしろ内に秘めた激情は後から遅れて現れた。 愛馬に跨り、瑠璃色の瞳の奥を紅蓮の炎で燃やし曹操は、声高らかに謳いあげる。 それに応える居並ぶ騎上の兵士たちの笑みは、精悍で逞しく、誰もが英傑と称するに相応しい威風を纏っていた。
 
「踏破せよ!」

 短く、だが絶対の命令が下った。
 
「無辜の民の安寧を脅かし、諸君らの家族の命さえも奪おうとした狼藉者には、もはや一片の情けをかける余地などありはしない!」
 
『然り! 然り! 然り!』
 
 無窮の蒼天。 兵士たちの斉唱は大地をどよもし、どこまでも彼方へと突き抜けてゆく。 いかな大軍も、鉄壁の城塞も、曹孟徳の下知を受けた勇者たちの敵ではない。 陽光に輝く騎馬の精鋭たちの心が一つとなった今、農民崩れの烏合の衆など雲霞の群れにも等しい。

「よろしい………。 ならば、我らの征く道に立ちはだかる者は皆、蹂躙せよ!」
 
『おおおおおおおおおッ!!!』
 
 機は、満ちたり。 佩いていた己の得物である大鎌――『絶』を抜き払い、曹操は圧倒的な自信を込めて、高らかに振り上げる。 光が集った。 まるで曹操の征く道を照らし飾ることこそ至上の勤めであるかのように、燦然とかがやく太陽の光を浴びた絶は眩い輝きを束ね、主の勝利を約束する。
 
「全軍………、前進ッ!!」
 
 容赦なく躊躇なく、断固と轟く曹操の号令。 それに応じる鬨の声。 沸き立つ荒波のごとき軍勢の喝采を一身に浴びてなお、曹操はただ泰然と振舞う。 そんな彼女の様子を眺めていた徐晃がぽつりと呟いた。

「ふむ……。 いつになく気合が乗っているな」
 
「はは、仕方ないよ。 久しく出来なかった友達が現れてくれたんだから」
 
「李通殿……。」
 
 ただの独り言であったはずの徐晃の言葉に、何処からともなく現れて、返答を述べる李通。 禿頭を陽光に反射させ、場を混ぜ返すかのような剽げた軽い口調も普段とまったく変わらず、今から戦地に赴こうというのに緊張感の欠片すら窺わせない。 だが、李通も武人か。 命の遣り取りに臨もうとする者が浮かべる特有の笑みを口元に刻んでいた。

「見てみなよ、あの嬉しそうな華琳様の笑みを」
 
「ふむ………。」

 そう促されて視線だけを曹操の方に向けてみれば、やはりと言うべきなのだろう不敵な笑みを浮かべるその立ち姿は、崚厳たる孤峰の如く、まさに王者と称するに相応しい破格の威圧感を放っていた。 その威風を身に纏った瑠璃色の瞳に宿るのは、血のような愉悦。 死地へ赴くことに歓喜を見出す戦士のそれとはまるで違う、徐晃たちでは決して知りえぬ王のみが知りえる、尋常の埒外にある感覚。 だが、それでもその表情の意味だけは理解できる。

「なるほど、劉備か」
 
 納得がいったとばかりに頷く徐晃は、どこか寿ぐかのように曹操を見やった。 そんな徐晃の答えに李通は満足そうに頷く。 そう、あれは、好敵手の出現に得も言えぬ喜びを噛み締めている、といったほうが正しいのだろう。

「そういうこと、だから無様は見せられないってね」

「ふむ………、華琳殿が、か。 人の心とは得てして不可思議なものだ」

 曹操は、天才と呼ばれる人種であり、それは、誰もが異論を挟みはせず、素直に認める共通の認識だった。 限界に悩まされることなく、人並み外れた才能を遺憾なく発揮して曹操は天才であり続けた。 そして、そんな彼女は羨望と嫉妬を一身に集める立場になる。 だが、そんな嫉妬に駆られ、彼女の行く手を阻もうと画策する存在さえ歯牙にかけぬほど、彼女は誰よりも抜きん出ていた。 しかし、それは逆に言えば彼女と共に肩を並べて歩けるだけの存在がいなかったことを意味する。
 
 無論、彼女を超えるほどの知や武を持ち合わす者が居ないわけではないし、幼少の事よりずっと傍にいる夏侯惇など、武人としての能力だけを見れば、曹操を凌いで余りある。 だが、彼女は独りだった。 桂花、夏侯惇、夏侯淵や季衣など、曹操を良く理解しその背を支える者たちは確かにいてくれる。 しかし、彼女たちは曹操の隣に並び立とうとはしてくれない。 かつて、その身の程を弁えず曹操さえも超えようとした唯一の存在を除いては。

 そんな永きに渡って苦痛さえともなう心の乾きに喘ぐ日々に、今ようやく、新たな敵足りうる相手を見出したのだ。 今は脆弱なれど、いずれは全力を以って争覇するに値する者となる。 その存在が他でもない劉玄徳であった。
 
「まぁ、我らが華琳様の件もそうだけれど、世の中、不条理だからこそ楽しいのさ」
 
「なんとも………。 将の吐く台詞ではないな」
 
「おや、この世に生まれたからには、どんなことでも人生楽しみきらないと損じゃないか」
 
 そう言って大仰に肩を竦めてみせる李通。 物臭で酔狂でありながらも、合理性を兼ね合わせ、確たる結果を出す彼が、どこか達観したような口調で語らうと、どんなにいい加減な話の内容でも不思議と哲学的に聞こえてしまい、徐晃でさえ騙されそうになってしまう。

「その調子では、すぐにでも隠居生活に入られてしまいそうだ………。」
 
「ふむ………、それも悪くないねぇ……。」
 
 顎に手を当てて、思案顔になる李通。 付き合いの浅いものでも良くわかる、あれはお茶の事を考えているぐらいに本気の顔だ。 さて、どう声をかけたものかと、徐晃は頭を悩ませ、拳を額に押し当てたその時、二人の聞き知った声が何処からともなく耳に届いてきた。
 
「た、い、ちょうぅぅ…………。」
 
 地獄の底から湧き上がってくかのような怨みに満ちた声の主は、李通の副官であった。
 
「おや? 君か……、いったいどうしたんだい?」
 
「どうした、ではないでしょう! ふらふらと持ち場を離れて、徐晃将軍にちょっかいを出して!! あまつ、もう楽をしようと考えるだなんて言語道断です!」
 
 どうやら李通は有能な副官に万事を任せていたらしいが、副官は突如として姿を消した上官の姿を追い求め、探す宛てもないままに各部隊を馳せ巡っていたらしく、徐晃たちを前にしているため佇まいを崩すことはないが、だがそれでも表情ばかりは憔悴の色を隠せていなかった。 もはや意地なのか、愚直なまでの忠誠心なのか、徐晃はある種の尊敬の念を懐かずにはいられなかった。 子は親に似るとは良く聞く話ではあるが、よくぞここまで李通の部隊の色に染まらず、腐らず生真面目を突き通せるたものである。

「いやぁ~。 僕が頑張らなくても、若い子達が働いてくれるものだから、つい」
 
 部下からの非難など、まるで意にも介していないのか、李通は何ら悪びれた風もなく飄々とした態度で笑い飛ばした。
 
「つい、ではありません!」
 
「いやはや、君も働き者だねぇ……。 いくら真面目な僕でもこの炎天下じゃあ動こうにも動けないというのに」
 
 勤労意欲の欠片さえ窺わせない李通と、生真面目な副官の態度の落差に徐晃は思わず噴出しそうになった。 だが、李通の部下に納まる者にとっては、笑って済まされる話ではない。 この物臭過ぎる上官をなんとしてでも持ち場に据えなければ、自分の胃がもたないのだ。
 
「まぁそれは、華琳様も同じなはずさ」
 
「―――――――え?」
 
 唐突に、雲よりも遥かに上な人物の名前を持ち出され、副官の思考が止まった。
 
「無論、進軍はこのまま続くよ? でも、この暑さだ。 一戦交える前に消耗している兵たちの鋭気を養うために、必ず食事と休憩を挟むはずさ」
 
「……………、だから、配置につくのはその後でも十分に間に合う、と?」
 
「その通り!」
 
 我が意をを得たと言わんばかりに、李通は破顔する。 だが副官は対照的に、そんな意思疎通など当然だと言わんばかりに、胡乱げな視線を乗せ、溜息を漏らした。 それぐらいの思考を読み取るぐらいには、上官と部下の関係は長いし、そんな無駄な事が達者になっても何の自慢にもならないからだ。
 
「それなら、尚のこと配置に戻ってもらわないと困ります!」
  
 副官の要請に、李通はさも困った風に、頭をぺちんと叩いた後、しごく真剣な顔で問いかけた。

「え……。 君が指示を出すだけじゃあ駄目かい?」
 
「だ、め、で、す!!」
 
 そう言って、李通に二の句を告げさせず渾身の力をもって引っ張っていく。 こんな思慮も分別も常識も全て、母の胎内に置き去りにして育ってしまった李通を将軍に据えて、自分をそこに配属した人間は、もしかしたらゆっくりと時間をかけて自分を殺したいのではあるまいか。 副官は、そんな被害妄想を超えた域にまで精神が達しようとしていた。
 
「やれやれ………。」
 
 己の副官を終始からかい倒す李通と、意固地になって彼を引っ張って遠ざかる姿を、嵐が過ぎてゆくのを眺めるかのように遠い目で見守っていた徐晃は、人知れず溜息を吐いた。 それでも李通たちが視界から消える間際に聞こえた癇癪交じりの喚き声に、慎ましいながらも口元に笑みが漏れる。 何だかんだと、文句を言いながらも李通に付き従うのは、彼が曹操軍内でも三指に入る実力者であることを知っているからだ。 遊びに興じて戯れられても、根っこの部分はしっかりと上官と部下をやっているし、傍目から見ても充分仲睦まじいものであることが判る。
 
「あぁ~。 なんや………、台風一過って感じやね」
 
「あの副官さん……。 なんだか可哀想なの」
 
 微妙に弛緩した空気の中、徐晃の副官である楽進、李典、于禁の三人娘が苦笑を浮かべながら向かってくる。 どうやら、かなり前から此方の様子を伺っていたらしい。
 
「……………、李通将軍も、もう少し身を引き締めてほしいものです」
 
 苦々しげに呟く楽進の表情は、いつもの端正な横顔とは違う一面を覗かせていた。 直接の上司というわけではないので、面にこそ出さなかったが彼女は、内心では大いに不満を感じていたに違いない。 そんな生真面目な部下の心情を察するなど容易すぎて、徐晃はどう言葉をかけようかと、困り果てた顔で苦笑した。
 
「まぁ、お前がそう思うのも無理もない話しだが………。」
 
「いえ、判ってはいるんです。 戦場に出れば、李通将軍ほど頼りになるお方もそうはいない、と」
 
 しかし、感情では理解したくはないようで、楽進は不服そうに息をついた。 そんな本音を垣間見せる彼女に、徐晃は思わず笑ってしまった。 それをみて楽進はますます憮然と表情を硬くする。
 
「将軍………、なにも笑うことはないでしょう」
 
「いや、すまん。 だが、李通殿もあれで気を回してくれているのだろう」
 
「気を………、ですか?」
 
 楽進は耳ざとく聞き咎める。
 
「俺たちの部隊は、つい最近徴兵された農民や義勇軍の……、言ってしまえば寄せ集め的な所があるからな………。 まぁ………、お前たちのお陰で、目立った粗もなくここまで来たが、春蘭殿の部隊のような、古参の集まった精鋭と比べれば、兵たちも精神的に抱えている不安も多いだろうからな」
 
「……………、だから自らが道化を演じて兵士たちの緊張を和らげようとしたと?」
 
「えぇー。 あれは絶対に、場を引っ掻き回して愉しんでいるだけやって」
 
「ははは………。」
 
 普段の素行のせいか、いまいち信用されない李通。 辛辣な李典の意見に、だが徐晃は乾いた苦笑を顔に貼り付けて、曖昧に場を濁すか出来ないでいた。
 
「しかしまぁ………、今は問題も起こっていないが、それでも注意しておくに越した事はない。 お前たちもその辺りは弁えているだろうが、留意しておいてくれ」
 
「わかったの」
 
「へーい」
 
「了解しました」
 
 そんな三者三様の返事に満足したのか、徐晃も涼しげな笑みを浮かべて頷いた。
 
「ふむ………。 このまま何事もなく、一太刀のもと賊徒どもを一蹴できる展開であれば、皆も楽ができるのだがなぁ……。」
 
「徐晃将軍まで、李通将軍のようなことを………。」
 
 暢気が過ぎる徐晃の様子に胡乱に目を細める楽進。 どうも、自分の上官は、おおらかが過ぎるというか周囲の人間の感性を受け止めすぎる節がある。 今も李通の物臭ぶりに触発させられてか、どうにも緊張感が持続しない。 ここは、気合一括をもって部下として具申するのも一つの手段ではあるのだが、ああも緊張感のない笑顔で遇されたのでは、怒気を見せた方が馬鹿を見るのは歴然である。
 
「まぁええやん? そう肩に力入れて気張りすぎてもしゃあないって」
 
 横合いからそう口を挟んだのは、よりにもよって、楽進と同じく、徐晃から部隊を預かる身である李典だった。 楽観が過ぎる親友の発言に、楽進はますます面持ちを硬く強張らせる。
 
「真桜………。」

「うーん。 凪ちゃんは、もう少し力を抜いたほうがいいかなぁって、沙和も思うの」
 
「沙和………。 お前まで……。」
 
 孤立無援。 相次ぐ味方の裏切りに、眉間に刻まれた縦皺を一本増やしながらも湧き上がる怒りを胸に静めて楽進は、深く溜息をつく。 その時だった。
 
「ほらー凪ちゃん。 笑って笑ってー! むにむにぃ~」
 
「さ、沙和?! やへふぇ、やへふぇふへ!」
 
 何を思ったのか于禁が突然、楽進の頬を麺を伸ばすかのように引っ張り始めた。 そんないい様に遊ばれている楽進に、李典はこれ幸いにと、さも愉しそうに、にんまりと底意地の悪い笑みを浮かべた。
 
「お、沙和ぁ! もっとちょっと、引っ張ったほうがええんちゃう?」
 
「ひゃへー! ひゃへろ、ひょうふんたひゅけへ!」
 
 いったい何処にそんな力が眠っていたのやら、無手を得意とする楽進が渾身の力を込めて引き剥がしにかかっているのに于禁はお構いなしと、普段の彼女からは想像もできない強引さと力強さで、ぐいぐいと親友の口を広げにかかる。 そんな二人のじゃれ合いに、徐晃も割ってはいるは無粋とばかりに、涼しい笑みを浮かべて流すのだった。
 
「まぁ、いいじゃないか。 お前はもっと笑っていたほうが、ずっといい」
 
「そうなの。 凪ちゃんはもっと笑った方がいいの!」
 
「せやな。 将軍のお墨付きを頂いたところで……! 沙和、やってまえ!」
 
 そう高らかに宣告する李典の表情は、まさに悪童のそれだった。
 
「おー! ほらほら、こっちもこうやってー」
 
「やめへー!」
 
 未だ無駄な抵抗を続けてはみるものの、哀れ、されるがままに頬を蹂躙される楽進の悲鳴は気にもとめず、于禁の両の手は柔らかな彼女の肌を摘み上げる。
 
「はは、大人しくしておけ楽進」
 
「ひょ、ひょんなー!!」
 
 やにわに襲い掛かってきた絶望が、楽進の瞳を丸くさせる。 悪鬼たちが徐晃からお墨付きを得てしまった今、彼女の頬肉はもはや顎を支えるだけの力が残されることはないだろう。 自分の上官さえも裏切りに走られた楽進には、もう一片の救済も期待できはしなかった。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 大地をどよもし、砂煙を巻き上げて迫りくる一団。 あまりにも圧倒的な存在感だけは、遥か彼方の地から眺めても、まるで陽炎のように揺らめき感じ取ることができる。 襲来する以前より、その苛烈さは風の便りに聞こえている。 宦官の叔父であっても、罪を犯せば躊躇無く処断するその苛烈さから始まり、此方が意図したとはいえ、僅かに作った隙を的確に突いて、愚鈍ではあったが黄巾党の一大派閥であった卜己一党を瞬く間に下し、近隣の町村にまで平穏を齎した風雲児、曹孟徳。
 
 その勢いはもはや誰にも止めることはできず、終には波才を中心とする一派までもを追い詰めようとしている。 無論、祖国を影から支えてきた侠客たちは、誇りさえ失い亡者のように義侠の精神を根絶やしにしてきた連中とは違う。 男たちは侠の名に賭けて、曹操の軍勢を迎え撃つ。 ほんの少し、たった少しだけ自分たちと時間を共に過ごしてしまったが為に、いまや漢帝国の反逆者の烙印を捺されてしまった彼女たちの為に。
 
 神意なく、大義もなく、残酷な運命に翻弄されることとなってしまった姉妹。 張角、張宝、張梁、彼女たちを一命を賭して守護することこそ、未来ある彼女たちの道を壊してしまった自分たちに出来る数少ないことだ。 その為に多くの同胞が命を落とすだろう。 仮に生き延びたとしても、黄巾党の残党という名を背負わされ一生涯を影で惨めに過ごすか、路頭で朽ちるしかない。
 
 だが、構わない。 波才たちの決断は遅すぎた。 もし彼らが、張角たちを手元に置かないで、すぐさま巡業の旅に出していたならば、三人の姉妹は仲睦まじく笑いあっていただろう。 かつて波才たちが張角たちの歌に聞き惚れてしまったが故に、何の咎もない彼女たちの運命を歪ませた。
 
 もはや、それを償う術はない。 それでも贖罪の道があるとすれば、せめて彼女たちの未来の人生を少しでも取り戻すことしかない。 それが漢に、自分を育んでくれた国に仇なすことになろうとも、張角たちの救済が、その先にしかないのであれば進むしかない。
 
「…………………。」
 
 杖をつきながら波才は、薄暗い廊下をゆっくりと、だが決然とした足取りで歩を進める。 その途中、壁に背を預けて波才を待つ男と出くわした。
 
「別れはすませたか?」
 
「うむ……。」
 
 自嘲とも寂寥ともつかぬ乾いた色が、波才の双眸を掠めすぎる。 そんな波才の様子に、普段の彼を知る張曼成は鼻を鳴らす。 すると、途端にそれまでの態度を嘘のように収めて、波才は口元を歪める。 およそ人間らしい情緒など欠片も窺えない、怪物の笑みだった。
 
「あの子たちは、最後までお前のこと好々爺と思っていたのだろうな」
 
「身も蓋も無い物言いよな。 左様、確かに儂は外道よ……。 だが、先行き危うい娘子を案ずるぐらいの情は残ってはおるさね」
 
「ふむ………。」
 
 遠くを眺めるように目を細める波才の表情は、どこか髑髏を彷彿とさせる。 もとより笑うということが出来ないとさえ思えるほど、枯れ果て萎びた声と四肢は木乃伊のようで、とてもではないが孫ほどの年の差のある少女たちを可愛がるような人物には見えない。
 
「………………、だが大勢を巻き込む羽目となった」
 
「左様、多くを供物として捧げた」
 
 張曼成が、搾り出すようにして吐き出した言葉に、波才の心にも暗鬱たるものが立ち込める。

「しかしのぅ………。 これで漸く、よ」

 それでも、波才の落ち窪んだ眼下の奥の光だけは、炯々とした鋭さを保っており衰える気配すらない。 その容姿から風格から尋常ならざるものが醸し出る。

「………………………。」
 
「我等のような外道では、祈ることすら不義であろうが………。」
 
「あぁ、後は未来ある者に託すしかあるまい」

 唾棄すべき亡者どもを贄にした。 朋友さえも捧げた。 この血肉の最後の一滴まで燃え尽きることになろうとも、波才たちは成し遂げなければならない。 そうでなければ、すべてが無意味となる。 出来ることなら、あの少女たちの行く末を見届けたい。 だが、その役目は波才たちでは請け負えないし、もとより資格がない。 だから祈るしかないのだ。 未来の命が保証されている者たちが、張角たちの手を引いてくれる者が、どうか善き人であらんことを。
 
「…………、では逝くか」
 
「あぁ」
 
 波才たちは、そう決意も新たにもう戻れぬ一本道を歩き始めた。 程なく訪れる軍団を迎え撃つため。






あとがき
やつがやってくる……。 私は今年もバレンタイン中止を強く応援します
どうもギネマム茶です。

今回は短くなってしまって申し訳ないです。
だというのになんで書き上げるまでに、こうも時間を費やしてしまったのか………。

捻り出すのに何故か苦労した割には展開が駆け足で本当にごめんなさい。
まったりやりすぎますと、間延びしすぎて終わりが見えなくなりそうなので、一気にいきたいと思います。
そういう事情から、皆様にはかゆい所に手が届かないような展開になってしまうかと思いますがご理解いただければ幸いです。

ではまた次回



[9154] 三十五話・ゲロを吐くぐらいこわがらなくてもいいじゃ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:65e8c4a0
Date: 2011/02/28 19:24
 照りつける日差しがじりじりと影の角度を変えていくのを、徐晃は椅子にするのに丁度いい大きさの岩に腰を下ろしたまま、まんじりともせずに見守っていた。 つい先頃、曹操から下された大休止の一報に兵士たちは、各々が腰を落ち着けて気を抜いているというのに、徐晃の身体は依然、神経を張り詰めたまま休息を求めようとしない。 決戦を間近に控えた状況下だからこそ隙を見計らって休みを取り、いざというときに万全の姿勢で臨めるよう体調を整えておくのが、武人の心得である、というのにだ。
 
 休息をとる前、何人かの斥候を放った結果、いま徐晃たちがいる近辺に敵影はなく、もし誰かが攻めてきたとしても見渡しのいい荒野であれば即座に対応することもできる。 待機状態で、曹操の次なる号令を待つ今ならば、充分とは言い難いだろうが、それでも行軍で蓄積された疲労を消化するぐらいなら可能だろう。 だが、徐晃の肌身に迫って感じる予感めいたものが、休息を拒むのだ。

「………………………。」
 
 真夏もかくやというほど強烈に降り注ぐ日差しの中、陽炎のように揺れる己の影に視線を置いたままふと徐晃は、関羽と共に義賊紛いなことをしていた頃のことを思い出した。 血気盛んだった自分よりも輪をかけて猪突猛進な彼女がいたため、徐晃本人が先陣を切って突っ込んでいった経験は、思い返してみると意外と少なかった。 常に先頭をひた走る関羽が罠などにかからぬ様、裏方に徹する経験は豊富すぎるほどに豊富だが、それでも身体を休めないほど気を張るという経験は意外なほど少ない。
 
 思えば徐晃は、先陣を切るよりも常に誰かの補佐に回っていた。 無論その役割自体は誰かがやらなければならない必要なことであるし、徐晃本人もむしろ望んでことにあたってきた。 しかし、今は自らが正面切って強襲をかける立場に立っている。 たしかに夏侯惇たちのような猛将と比較されれば、経験不足と言わざるを得ないだろうが、それでもやってやれないことはないし、実際に少なからず戦功は立てているはずである。 敵陣へ飛び込むことには、なんら気負いはない。

「……………。」
 
 だというのに形の無い、焦燥にも似た感覚が肌に纏わりついて離れない。 だが、徐晃はこの感覚の正体を知っている。 そして、その正体がどうにも子供染みていて、そんな感情を制御できていない自分が情けないく感じてしまう。

「俺もまだ未熟者か………。」

 ぽつりと、自虐的な笑みを作りながらそう漏らした。 この焦燥感にも似た奇妙な高揚はつまり、血気に逸る気持ちが身体の奥底で燻っていたからに他ならなかった。 若さ一辺倒で無茶をやらかす年頃は、もう過ぎ去ったと思い込んでいたはずなのに、徐晃は自分の血の気の多さに我ながら呆れて苦笑した。 だが、そんな逸る気持ちも無常かな。 迫る激戦を予感させ滾る血潮は、残念ながら今回は燻らせておかざるを得ないのだ。
 
「まぁ………。 楽進たちに任せるか」
 
 徐晃はおそらく、戦場で大斧を振るう機会が巡ってくることはそうないだろう、と思っている。 徐晃は他の部隊とは違い、実力が一つも二つも飛びぬけている部下を、図らずも有している立場にあった。 彼女たちが隊を指揮し、さらに俯瞰してそれらを眺める徐晃が後方から帳尻を合わせていく、それで大概のことは苦も無く勝負が決まるからだ。

「まだ李通将軍のようなことを………。」
 
「ははは………。 これでは、俺も李通殿のことを悪く言えんか?」
 
「まったく、笑い事ではありません!」
 
 ぽつりと漏れでた徐晃の一言に、慣れ親しんだ声が背中越しにかかってくる。 持ち前の巨躯に相応しく、大きく肩を揺らしながらのっそりと振り返ってみれば、胡乱げな視線を向けてくる普段より頬が緩んだ楽進の姿がそこにあった。 その数歩下がった位置には、何故か頭に大きな瘤を作って、なんとも情けない表情を浮かべた于禁と李典。 つい先頃起こった彼女たちとの一件がまだ尾を引いているのか、二人と距離をおき、此方に視線に乗せる楽進の面持ちは些か冷たく、心なしか眉間の縦皺も二本ほど多い気がする。 
 
「そう怒るな。 お前たちを頼りにしている、というだけの話ではないか」
 
「戦場に立てば嫌が応にも将軍が指揮を執るのですから、もう少し気を張っていただきたいのです」
 
「ふむ………。 そう言われてもなぁ………。」

 胸内に渦巻く闘争心を表に出すことなく、あくまで、のほほんと和んだ風情を崩さない徐晃だが、流石の楽進もそこまで彼の心中を察してやれるものではなかった。

「…………………。」

 一見すれば、物臭がすぎる徐晃の一言に言葉に詰まり、楽進は深呼吸して気を鎮め、再び抑えた声で諭そうとしたその時、図ったかのように楽進に助勢する者が現れた。 

「凪の言う通り、そう気楽にいてもらっても困るよ」
 
「む………。」
 
 母性というよりも、どことなく穏やかでいながら冷静さを秘めた瞳の艶美さが際立つ女性。 常日頃、勇猛果敢な姉か、凛烈で厳格な雰囲気を漂わせる曹操の傍で静かに佇んでいる姿が印象的なその人は、徐晃や楽進たちにも見覚えるあるものだった。
 
「秋蘭様………。」
 
「はは、今日は千客万来だな」
 
 突然の夏侯淵の出現に驚く三人とは別に徐晃は、悪戯っぽい笑いに口元を歪めて、剽げた口調で彼女の訪問を歓迎した。

「おや、私の他に誰か来ていたのか?」
 
「うむ、少し前に李通殿がな」
 
「ほぅ………、あいつがな。 ふむ………、お前たちも随分と気にかけてもらっているようだな」
 
 李通の名に、夏侯淵は眉根を上げ興味深そうな表情をみせるが、それも一瞬のこと。 瞬く間に普段の冷静沈着な表情に戻った彼女は、含みを込めて、新米指揮官である三人を見やった。
 
「まぁ、華琳殿が直々に見出した秘蔵っ子たちだ。 俺のような無作法者の手元にあっては、気にもなるのだろう」
 
「ふむ……………。」
 
 そう気安く放言して、豪放に笑い飛ばす徐晃。 実に自虐的な発言であるのだが、彼自身の雰囲気がなせるものなのか、不思議とそう聞こえてこない。 そんな徐晃の様子に夏侯淵は小さく苦笑を浮かべて、肯定とも否定ともつかない息を漏らすのだった。 そして、次に徐晃たちに視線を向けたときの夏侯淵の表情が、日常的なものから、戦場のそれへと切り替わる。
 
「―――――だがまぁ、今はその秘蔵っ子の力を借り受けたいのだが?」
 
「ほぅ………。」

 天よ割れろとばかりに呵々大笑していた徐晃の面から表情が消え、戦場に立つ武人の顔になる。
 
「一仕事か」
 
「うむ。 つい先ほど戻ったばかりの斥候からの報告によれば、此方をあからさまに誘っている一団がいるそうだ」
 
「罠か………。」
 
 鼻を鳴らして徐晃は獰猛な笑みに口元を歪めた。 たとえ幾重にも罠を張り巡らせ、敵がより自分に有利な戦場に誘い込もうとする腹であろうとも、そんな小細工に臆するほど徐晃は脆弱ではなく、また彼が背を預ける者たちも貧弱ではない。
 
「うむ。 だが、たとえ罠だとしても、放ってはおけんよ」
 
「然り……。 では、俺たちがその一団を追えばよい、と?」
 
 いよいよ戦場の匂いが濃くなってきたというのに、徐晃の声に緊張を顕すことなく、依然、悠々と落ち着きを払ったまま応じる。 臨戦の状態においてまだ涼しい笑みを浮かべられている余裕は、すなわち優秀な部下に託した信頼の証でもあった。 相手の誘いにみすみす乗るのは、無論危険が伴う。 だが、徐晃一人では対応しきれない不測の事態に陥ったとしても、楽進たちが傍にいる限りどれだけ相手の土俵に立とうが負ける気がしない。 そう思える程度には、徐晃も彼女たちの成長を見守ってきたつもりなのだ。
 
「いや、私たちは別件で動く」
 
「む…………?」
 
 いざ戦場へ。 そう意気込んでみたはいいものの、行き成りの肩透かしに徐晃は思わず前のめりになりかかる。 しかし、含みの詰まった意味ありげな発言にすぐさま体勢を立て直し、視線だけを夏侯淵に向け、問いただす。
 
「律儀にも戦う場所を選んで、誘おうとしている手合いならば、姉者のほうが適任だろうよ。 ならば、我々はその後ろで糸を引くものを探ったほうがいい」

「ふむ……。 ならまずは小手調べ、という具合か」
 
「うむ」
 
 そう頷く夏侯淵に、徐晃もまた不適な笑みを返す。

「しかし………、小石のように軽ければ、そのまま圧し飛ばしてしまって構わんのだろうか?」
 
「ふふふ、できるのならば、な?」
 
 夏侯淵の面持ちは、姉と会話をしているかのように柔らかなものでありながら、あえて挑発するかのような軽い口調で徐晃へ返答を返す。

「ははは、手痛いな秋蘭殿は………。」
 
 剽げた風に笑いながらも、その双眸には、獣じみた鋭い眼光が宿っている。 まだ暢気な構えを解いていないとはいえ、それでも武人としての魂は、すでに戦場へと向かっていた。 そんな徐晃を脇から眺めていた楽進の胸を占める想念は、頼もしさより、ようやく、という呆れのほうが勝っていた。 さらに加えて言うのならば、彼女の心の大部分を占領していたのは、これで徐晃が真面目になってくれるのなら万軍に攻められても構わないという気持ちだった。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 時が止まったかのような静かな景色の中を、ゆるゆると風が流れ、天高い空を彩る雲たちもまた羊のような緩慢な動きで山の向こうへと流れ去っていく。 まるで平和を絵にしたような穏やかな時間に、だが、それを甘受しようとする者は一人としていない。
 
 もはや訪う人もいない、うち捨てられた出城が、今や黄巾党残党となった波才たち一派の根城である。 金箔は残らず剥ぎ取られ、鮮やかな朱に塗り込められたはずの柱や梁も、色落ちして生木を晒している。 往時にはどれほどの人が訪れたのかも定かではないが、長年に渡って宴などの催し物で焚かれたのであろう、香の残り香は、朽ちかけた建材に染み付いて今も離れない。 そんな黴と、香の残滓の漂う空気が、今はどこか獣の巣めいた底冷えするものに変わっている。
 
 そんな人を拒絶する氷で閉ざされたような荒廃した城内に設けられた中庭は、在りし日の明媚さを想い偲べば、今の無惨さには涙さえ禁じえなかった。 過日この庭を沸かせていた花々たちも、人が去り、物取りの類に物色された後も、棄民や何やらに蹂躙され尽くしたのだろう。 根元から掘り起こされ食い散らかされた木々たちは、もう二度と花を結ぶことなくねじくれ立ち枯れるている。 まるで天に縋ろうとして手を伸ばす梢は、亡者の指先のようだった。
 
「いよいよか………。」

「あぁ…………。」
 
「うむ……。」

 傾いた四阿に身をくつろがせ、廃景となった死の庭園を、哀悼を捧げるかのように瞼を閉じて時を待つものたちが三人。 黄巾党の最古参、波才、張曼成、羅厳。 否、今となっては、そんな肩書きはこの見る影もなく寂れはてた庭園と同じであった。 かつて義と仁を誇りにした組織も、彼らに付き従った輩も、甘い汁に群がりにきた狗も等しくてずから破滅に導いた。 そんな者たちに相応しい肩書きなど、外道以外にありはしない。
 
 だが、多くを巻き込み、未来ある若者たちの道を潰したというのに、彼らの眼差しに昏い翳りは微塵もない。 外道に堕ち人心を忘れた鬼に身を窶した者たちが、いま待ち続けるものは、天の鉄槌のみである。 それを、それだけを、どれほど待ちかねたことか。
 
「黄巾の屋台骨を折った者も、我らも時期に消える…………。 大義と志しあらば、人の輪は幾度でも蘇る。 だが、漢はもう終わりよ」
 
 世の行く末を占うこの一戦の舞台となった荒廃した城。 すべての因果を閉ざすには、なるほど相応しい場所かもしれない。 この景色こそ衰え弱りいく漢帝国の姿そのものを皮肉っているかのようにも見え、余計にそう思えた。 もはや若き臥龍たちが生まれ出るための苗床でしかない存在。 いや、馬元義が洛陽で蜂起して都に火を放った時、漢はすでに終わっていたのだ。
 
「それだけのことをした甲斐はあったか?」
 
「充分に。 ……………が、まだ仕上がってはいないがのぉ」
 
 まるで他人事であるかのように、さも愉快げに老人は喉の奥から湿った笑いを漏らす。 そんな波才の態度に呆れたかのように鼻を鳴らすと、羅厳は腕を組みながら朋友二人を見やった。
 
「………………………。」
 
 遠い日、はるか悠揚たる長江を渡って届いた風を満身に浴び、灼熱の乾いた荒野を駆け抜けた過ぎ去りし日の開豁なる爽気はもうない。 老いたる帝国は死に際さえままならず、生きたまま、その身体を貪り食われる。 その有様を偲び、遠く虚ろな眼差しで追憶に浸るのは、過ぎた時代を駆け抜けた記憶を持つ者だけの特権である。 そんな資格を正しく備えた三人は、ただあるがまま、過ぎた時代の郷愁に浸りつつ来るべき時を待った。
 
「――――――きたか」
 
「あぁ………。」
 
「うむ」

 慌しく動き回る若い気配が、こちらへ近づいてくることを三人がそれぞれ感知した。 波才たちは追憶を打ち切り、視線だけを気配のほうへと向けて様子を窺う。
 
「ここにいましたか、あにき………、いや、大方師」
 
「なんぞ動きでもあったか?」
 
「はい……。」
 
 形ばかりの挨拶を交わすことなど無用と、用件のみを尋ねる波才に黄巾の若者もまた、淡々とした口調で語り始める。
 
「――――予想通り、軍団を分断しました。 囮の一団へ向かった旗印は『夏侯』と『姜』の二つ。 『夏侯』の旗は、色からして姉のほうかと」
 
「ほぅ………。 やはりここ一番は、姉を動かすか」
 
 奇妙な話ではあるが、自分たちを追いかけてきた曹操たちの行動を見て波才たちは、ある種の信頼を寄せていた。 たしかにお互い相容れない立ち位置にあるが、曹孟徳が自らの誇りを前提として動いていることに疑いの余地は無く、むしろ雌雄を決するためならば正面から堂々と挑んでくると踏んでいた。 無論、そう都合よく事が運ばなかったにしても、相手の手の内を探ることはできる。 その為に、有志を募って囮役をかって出てもらったのだ。
  
「で、あろうな………。 しかし、『姜』か………、聞かぬな」

「妹を態々外したのだ、それなりの切れ者か………。」
 
「猪を御するだけの狸か」
 
 羅厳の疑問に張曼成と波才が続けて答える。 当然だが、有名無名の差だけの憶測でものを言っている波才たちではない。 曹操ならばこの重要な局面で無能者を前に出すようなまねはしないだろうという判断も波才たちの頭にあってのことだった。
 
「しかし…………、売り言葉に買い言葉とはよく言ったものよ」
 
「あぁ、若い若い………。」
 
 にんまりと湿った笑みを漏らす波才の台詞に、張曼成が苦笑を浮かべながら相槌を打った。
 
「捨て置けば良いものを、態々潰そうというのだからのぉ………。」
 
「それも切り札を先に出すというのだから、いや………、敵ながら大したものだ」
 
「ともすれば、戦力を削いで尚、我らに勝つ心算がある、ともとれる………。 何とも傲岸なことではないか」
 
 より堅実な策を講じるのであれば、無闇に嘴を突っ込まず、それでも抜かりなく監視だけは行っていればいい。 だが、曹孟徳という人物は、こと準備においては用意周到でありながら、それでいていざ実行に移す段になると相手の力量を試す癖があるのか、慢心とも取れる行動にでることがある。 だからこそ囮という餌を目の前に放ってみせ、相手の戦場での性格の一端を覗いてみたのである。 結果は見事に予想通り。 曹操は引くことを是としない、まさに筋金入りの昔ながらの堅物といえた。
 
「良い良い、心高鳴るではないか」
 
 戦傷まみれのいかつい顎を撫でながら、張曼成はさも満足げに頷いた。
 
「年甲斐も無く血を滾らせるか張曼成」
 
「敵が強大であるほどに、血沸く。 久しく感じてなかった感覚よ………。」
 
「はははッ! 然り! ならば存分に挑むとしようではないか」
 
 張曼成の一言がよほど痛快だったのだろう、雲をつく巨躯を揺らし笑う羅厳の姿は、どうにも傍目から見ると人間というよりも、地震や台風といった天災と向き合っているような気分になるほど巨大だった。
 
「たわけ、気を逸らせるではないわ」
 
「む……、波才…………。」
 
 さも呆れた風な枯れた声と共に、羅厳の太股にぺしんと波才の持っていた杖が炸裂した。 そんな老人の非力な一撃など屈強たる体躯を持ち合わす羅厳にしてみれば、蚊の一撃ほどの些細なものであったが、曹操軍を迎え撃とういう現状を考えれば波才の言うとおり年甲斐も無く闘志を滾らせた己の軽率さに、羅厳も思わず口篭ってしまう。
 
「一手打つだけで終わる曹操ではあるまい。 肝心なのは、本隊の動きよ。 そこを、もそっと聞かせてくれんかの?」
 
「は、はい」
 
 波才は現状をさも愉しんでいるとばかりに、にんまりと底意地の悪い笑みを浮かべた。 まるで事の全てが手中に収まっているかのような、そんな表情である。
 
「囮へ向かった一団とは別に、本隊より切り離され、此方へ向かってくる軍団が一つ。 旗印は『夏侯』『徐』『楽』『于』『李』の五つ」
 
「―――――ほッ! 随分と大所帯で攻め入ってくるの」
 
「ふむ…………。 妹を此方に回してくるか」
 
 予期していた事態ではある。 今まで観察してみた曹孟徳の性格から鑑みれば、正面切ってのぶつかり合いを望んでいることは明らかだ。 ならば、それなりの将兵を動員してくることは予想できていた。 だからこそ、この展開は波才たちにとって望ましい最良の展開だった。
 
「……………、うん? 『李』というのは李通のものか?」
 
 ふと沸いた疑問を投げかける張曼成。

「いえ、旗の色が違うものだったので、おそらく別の者だと………。」
 
「そうか………。」
 
 若者の答えに特に気にした様子も見せず張曼成は頷いてみせた。 可能であれば、李通も此方に向かってきてくれればよかったのだが、あいにく同じ李性でも別の人間が来るらしい。 だが問題はない。 卜己たちが殲滅されたあと、波才とてただ無為に時間を消費していたわけではない。 誰が来ようが歓迎の準備はすでに整っている。 曹操たちが、波才たちとの決着を望んでいる以上、こちら望むとおりの展開に沿う他に術はないのだ。
 
「まぁ、誰であれ此方のすることは変わらん。 むしろ、まとめて相手取ったほうが手早くすむというものだ」
 
「お主はまた………、身も蓋も無い物言いをしよって…………。」
 
 持ち前の体躯に相応しい豪胆きわまりない羅厳の言葉に、波才はさも呆れたとばかりに表情を崩す。
 
「応うとも。 あれで卜己は、それなりの使い手であった。 それを屠ったのであればその技の冴え、ぜひ一つ指南賜りたいでわないか」
 
 勿体つけた羅厳の口上に、波才たちは失笑を漏らす。 卜己の力量を正しく知るものからすれば、ご指南が聞いて呆れる。 あの程度の力量ならば、子供に寝首を掻かれたとしても意外には思わない。 だが、そんな理を解するのは、波才たちのような古参の者だけ。 他の者たちは、あくまでも黄巾党内でも腕利きの男が敗れた、と思っていることだろう。 だが羅厳はそれをあえて混ぜ返すことで、卜己の死など瑣末なことであると印象付けようとしたのだった。 此処にいる若者のために。
 
「いよいよ………、なんですね」
 
「うん?」
 
「卜己の一派を潰した、あの曹操とやりあうのが、です」
 
 やおら神妙な面持ちで羅厳を見つめる若者は、面構えばかりは一端の侠客だが、波才たちを窺い見る眼差しには純朴な畏敬の念と、今から対峙する曹操軍への畏怖の念が混ざり合っていた。
 
「元紹……。」
 
 裴元紹。 波才たちを兄と慕う弟分で、普段は情報屋の真似事で糊口を凌いでいる三下だが、時には波才たちの使い走りを務めることがあった。 その縁故なのか、今も道を踏み外せば死が待つこの現状を理解していながら、まるで過日の延長線のように、波才たちの手足となって情報を収集してきてくれる。 だが、そんな疑うことを知らない子供のような無垢な心酔者に対し、波才たちの表情は硬くなる。
 
「それは、お前の気にすることではない」
 
「左様………。 ぬしは、ぬしの役目を果たせ」

「け、けれど兄貴……ッ!」
 
 誰の目があるとも知れぬ中庭とあった、今まで取り繕った姿勢だった裴元紹。 だが、若さ故か思わず感情を剥き出しにして波才たちに食ってかかるも、それに応じる古き者たちは小さく、しかし断固としてかぶりを振るのだった。
 
「良いのだ元紹……。」
 
「けど………、だけどッ!」
 
 説明にならない否定で頑なに羅厳の言葉を否定しようとするのは、半ば本能的なものだったのかもしれない。 裴元紹にとっては、大侠客たる波才たちが何よりも大事だと、決して戦場に向かわせてはならないと、そう裴元紹の魂が叫んでいた。 そんな、まるで怯える様に身体を震わせる裴元紹に向けて、波才はまるでむずがる孫をあやす翁の様に柔和な面持ちで言葉をかける。
 
「歌姫たちの守は、そんなに不服かの?」
 
「そ、それは………。」
 
 波才の問いかけに、裴元紹は思わず口ごもってしまった。 別に眼前の老人の眼の奥底に炯々と宿る鋭い眼光の威圧に臆したわけはない。 黄巾党の首魁とされてしまった張角たちであるが、彼女たちはあくまで善良な旅芸者である。 戦など血生臭い荒事に巻き込んでいい道理がない。 弟分としてではなく、侠客としての視点で立つならば、波才の言の方が筋を通していることは裴元紹とて理解している。 だが、だからこそ彼は口惜しく感じるのだ。 彼らに張角たちの守りを言い渡されてしまったが故に、共に轡を並べること叶わない己のままならなさを。
 
「分かってます……………、分かってますよ………。 けど、俺は悔しいんです…………ッ」
 
 口を衝いて出たのは彼の最後の抵抗からか、そう言った後そっぽを向き、口を閉ざしてしまう。 そんな裴元紹の態度に、だが波才たちは微笑んだ。
 
「……………生きよ、元紹」
  
「左様。 全てを見届け、そして生き存えて後生に語るのだ。 侠の在り方を。 それが儂らがぬしへ託す想いよ」
 
 もはや、岩のような決意は揺るがすことはなく、波才たちは断固と、だが朗らかに笑いながら裴元紹を見やった。 磊落に笑って励ますように背中をひっぱたく羅厳の力が強すぎたせいで、背骨から肋骨まで揺さぶられ、若い弟分は咽せかかる。 暗鬱とした空気を払拭したかったのだろうが、こういう荒々しい混ぜ返すような方法は願い下げしたい裴元紹であった。
 
「あ、兄貴………。」
 
「ほれ、しゃんとせんか」
 
 あまりにも痛烈な一撃は、裴元紹の声が裏返るほどだった。 その貧弱ぶりを哀しく思うかのように羅厳が苦笑を漏らす。 彼の体格を考えれば、仕方の無いことだというのに、このあまりにも理不尽な反応に、裴元紹自身にも訳の分からない癇癪に駆られて喚き散らした。
 
「なんだよ兄貴…………。 何だよ、それだけの力があるのに………。 なんだよ……、何でだよ………。」
 
「…………………。」
 
「何で兄貴たちは死にたがるんだよ――――――――ッ!」
 
 搾り出すように吐き出したその言葉は、裴元紹の剥き出しの心なのだろう。 侠客としてではなく、ただの人として垣間見せた弟分の業に波才たちは尊いものを見るかのような、慈しむ視線を投げかける。
 
「すまんの、元紹。 迷惑をかける」
 
「最後まで付き合わせてやれんで、すまんな」

「ッ!」

 三人の兄貴分の笑みが何を意味するのか理解できた途端、裴元紹の内側の、一番強固に見せかけていた部分が崩壊した。 偉大なる侠客と一緒ならば死ねる。 そう意地を張り通して、怯えて震える心を隠し通しておきながら、ばれるときは、実に呆気なくほんの一瞬でしかなかった。
 
「あ…………、あにぎぃぃ……。」
 
 一気に溢れ出た涙の量があまりにも多すぎて、それが鼻水と交じり合うものだから、裴元紹の顔全体は滅茶苦茶なありさまだった。 三人は軍師でも戦略家はないものの、勝負の帰趨がとうに決していることも充分に承知していた。 だが、それはそれとして、意地を通さなければならないことがあるだ。 諦観でも絶望でも、ましてや自棄になったわけではない。 最後まで我を貫き通すには、曹操と相対する以外の処方など、何一つ思い当たらなかっただけなのだ。 

 だが、そこに裴元紹が入り込む余地は何処にもなかった。 波才たちに死んでほしくないと思ったのは、事実だ。 もし死ぬのならば一緒にとさえ思った。 なのに彼らは裴元紹を置いて逝くことを決めた。 この土壇場になって、僅かな隙間から漏れ出てしまった生への執着が、そういう決定を下してしまったのだ。 その浅ましい執着心に、他でもない裴元紹自身が恥じ入り、俯いて泣いた。
 
「困ったやつよの…………。」
 
「この期に及んで、涙を流す奴があるか馬鹿者め」
 
 素っ気無い波才と張曼成の台詞に、裴元紹の肩が大きく震えた。 己の臆病さに呆れているかもしれない大侠客たちの顔を想像するだけで、この場から消え入りたくなる。 出来ることなら出会った経緯さえも消し去ってしまいたいほどだ。

「……………………。」
 
 もう、兄と慕う者たちの背を見送ることさえも出来ず、後は彼らがこの場から去るまで独り無様に佇むばかりと、そう思っていた裴元紹の肩に、そのとき、優しく力強く包み込むものがあった。 その硬く大きく暖かい感触に、他ならぬ裴元紹が面食らった。

「あに………、き?」

 羅厳の手。 つい先ほどまで裴元紹の事をを引っ叩いていた彼の五指が、今は優しく肩に添えられている。
 
「心得違いをするな元紹。 お前のそういうところが、即ち生きる者の証なのだぞ? お前は小胆だ。 恐怖を押し殺して、決死の覚悟を決めて尚、生きようと足掻いている。 だからこそ、我らの遺志を託せるのだ」
 
「…………、それ慰めてないでしょう、馬鹿にしてますよね?」
 
「そうとも。 元紹、お前は馬鹿だ」
 
 悪びれもせずに笑いながら、羅厳は断言した。
 
「生きようと願うことに何故、恥を感じる? 涙を流すのだ? お前が生きたいと思うということは、この場が人生最大の華を咲かせる場所ではない、ということだ。 ならばこの先いずれ、お前が真に尊いと誇れる生き様を見出したその時にこそ、命を賭せばいい。 ……………、だからな元紹。 馬鹿なお前は、己の戦場を見つけるまで生き続けろ」
 
「……………………。」
 
 屈託無く笑う羅厳の様子に、裴元紹はここにきてようやく苦笑めいたものを覗かせた。 馬鹿だと言われて喜ぶ馬鹿が、いったいこの世のどこにいるというのか。 そう思っていながら、裴元紹は心が軽くなったのを感じる。 無様な泣きっ面を晒して尚、この偉大な侠客は自分を認めてくれているのだ。 それが、どうしようもなく嬉しかった。
 
「大方師ッ! 大方師方はどこですかッ!!」
 
 和やかに収まりかけて場の空気を、まるでかき乱すかのように枯れ果てた中庭に響き渡った。 その音源の正体は、黄巾を巻いた兵士だった。 中庭にその姿を現せば、しきりに周囲を見渡し、波才たちを探すその様は鬼気迫るほど必死で、それだけで事の次第が尋常ならざるものであると理解できる。 
 
「きたか………。」
 
 低い声でそう呟く羅厳は、既に戦場に挑む戦士の声色だった。 それを聞いた裴元紹は、もう彼らとは二度と再会を果たすこと叶わないのだと、こうして顔を合わせるのがこれが最後になるのだと理解した。 最後の戦いの火蓋が今、切って落とされたのだ。 裴元紹の胸に秘めた葛藤など関係なく。






あとがき
私はそれと分かるほど神経を張り詰めてこれを書いている。
今日の夜までには、もうバレンタインは終わっているだろうから。
そろそろケリをつけてしまおう。
紙袋が開く音が鳴っている。
何かアマアマしたリア充たちが愛ををつむぎ合う音を。
窮極の愛を語ったところで、私は見てはいやしない。

いや、そんな! あの手の繋ぎ方は何だ!
ああ!バレンタイン! バレンタイン!












莫迦め………ウァレンティヌスは死んだわ!! ケッ!
どうもギネマム茶です。
更新遅れて申し訳ありません。 黄巾編もそろそろケリが着きそうな感じになって気が抜けていました………。
物語が一番盛り上がるのは、これらなので、一発気合入れていきこうと思います。

ではまた次回



[9154] 三十六話・ボラボラボラボラボラボラーレ・ヴィ(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:65e8c4a0
Date: 2011/03/29 19:20
 夏侯淵を総指揮官として曹操軍より切り離された先遣隊が黄巾党の砦を発見し、交戦を開始する。 その戦いの様相を、俯瞰して見つめる者が一人。 徐晃は、黄巾の砦に取り付かんと決死の覚悟で砦を攻略しにかかる自軍の兵士たちを息を詰めて見守っていた。 今になってようやく、あの焦りにも似た焦燥感が何故沸き起こったのか分かった気がする。
 
 曹操軍は兵士の士気、錬度、装備ともに黄巾党の賊徒を遥かに凌駕する。 加えて、曹操軍最古参の夏侯淵を始め、新米ながらも優秀な指揮者の片鱗を垣間見せる楽進、于禁、李典たちの存在がより強力に軍としての機能を増幅させているのだ。 いくら数が多くとも、農民崩れの烏合の衆でしかない黄巾党にとって、これは致命的ともいえる差である。 野戦に持ち込めば無論であるが、吹けば飛ぶような廃墟じみた砦に篭城する敵程度では万に一つも負けはない。 幾度か戦場で矛を交えてみて推し量るに、少なくとも敵は戦闘においては素人も同然、と結論するしかなかった。
 
「ぬかったか………。」
 
 しかし、いま思えば黄巾党の首魁である張角の、姿はおろか名前すら出回らぬよう情報をひた隠していたいたのも、また彼らではなかったか。 所詮は烏合の衆と決めてかかっていた彼らはその実、張角派と呼ばれる、決して絶つことの出来ない硬い結束で結ばれている者たちだったとしたら。 ならば此方の襲撃など事前に読んでおり、委細準備を整えた上で迎え撃ってきたのだと考えてしかるべきだ。
 
 徐晃たちが曹操率いる本隊を待たず、先遣隊のみで攻城戦に臨む腹積もりがついたのは、あくまで敵が動きが、鈍牛以下の烏合の衆だからこそ決行したのであって、士気も錬度もそれなり以上に備わった者を相手にした攻城戦とあっては、些か以上に分が悪くなる。 無論それでも、夏侯淵をはじめ末端の兵士まで最強を自負する曹操軍の兵士たちであれば、この程度の苦境など恐れるに値しない。
 
 だが、それでも分が悪いことに変わりはない。 徐晃が周囲の兵士に激を飛ばしながらも見つめる先の様相は、決して楽観視できる展開ではなかった。 兵士たちは、黄巾の者たちが引き篭もる寂れた砦など、木っ端の如く吹き飛ばさんと怒涛の勢いで攻め立てている。 その中心となって活躍する楽進、于禁、李典の三人の少女らの戦いぶりは、まさに獅子奮迅と呼ぶに相応しいものであった。 しかし、確実に一人、二人と敵を排除しているのにも関わらず城門は硬く口を閉ざしたまま、一向に開く気配すら見せない。
 
 文字通り津波のように押し寄せ打ち崩さんとする曹操軍であったが、それは同時に、それだけ怒涛の勢いで攻め立てて尚、完全に防ぎきられているという窮状をも意味していた。 現状は、業腹なことではるが向こうに戦いの主導権があるといっていい。 敵は焦って勝ちを急ぐことなもく、此方をあしらうだけに必要な兵力を逐次動員していくことで、戦いを膠着させて此方が疲弊の色を見せるか、撤退の動きを見せたところで追い討ちをかける意図だろう。 そして徐晃たちは、その術中に嵌ってしまっている。
 
 敵が万全の準備を整えていると知っていれば徐晃たちも、むざむざ攻め立てて消耗戦に陥るよりは、たとえ臆病の誹りを受けようとも、本隊の到着を待って曹操の判断を仰ぐという選択しても取れたかもしれない。
 
「いや…………。」
 
 そんな後悔は軟弱だ。 そう心中でごちって徐晃は苦笑を漏らす。 曹操軍麾下の武将であるのならば、この程度の苦境で嘆くなどあってはならない。 それでは、徐晃たちに先鋒を任せた曹操の信頼を汚すことになってしまう。
 
「誰かある!」
 
「ここにッ!」
 
 精悍な略式の礼をとる兵に、徐晃は矢継ぎ早に指示を飛ばす。
 
「楽進を俺のところへ寄越してくれ、それに伴い出来た穴は于禁隊と李典隊に埋めるよう伝達」
 
「は!」
 
「………………、さて次だ」
 
 そう言うや徐晃は愛馬である絶影の脇腹を蹴り、その場から一気に駆け出す。 向かう先は弓兵隊を指揮する夏侯淵の部隊。 大地を蹴り穿つ相棒の力強さに頼もしさすら感じつつ徐晃は一向に趨勢が定まらない戦場を疾駆した。
 
「秋蘭殿!」
 
 際限なく現れては射殺されていく黄巾の賊徒を、もうどれほど射抜いただろうか。 始めの一人を射抜いてから、既に矢筒の中に納まっていた矢はもう数本となかった。 いまだ疲弊の色を見せぬ夏侯淵であったが、さすがに浮かべる表情は苦々しかった。 曹操軍内でも指折りの武人たちが猛威を振るっているというのに、黄巾の兵たちが支える寂れた砦は、なおも堕ちることがない。 焦燥に心が急かされそうになるのを押さえ、戦場を見据えていた彼女の下に徐晃の声が聞こえたのは、そういう折りのことであった。
 
「このままでは埒があかん。 このあたりで一つ、仕掛ける気は?」
 
 前置きも抜きにして、徐晃は早急に切り出した。 さしもの彼も、今回ばかりは普段の悠々たる余裕はない。
 
「ふむ。 お前がそう言うのであれば勝算があるのだろう。 ――――――――良いだろう、乗ったぞ」
 
 快諾して頷きながら夏侯淵は、徐晃を見やった。 普段の豪放磊落な性格の彼からは想像も出来ないだろうが、こと用兵に関しては大胆、という言葉とは縁遠い、むしろ慎重に戦場を見測る人物である。 そんな彼が、動くと決めた。 ならばやってみる価値は充分にある、そう夏侯淵は判断を下したのだった。
 
「鍵は楽進が握っている」

「ふむ」

「今からあいつをあそこへ抛りこむ。 秋蘭殿は、その援護を頼みたい」
 
 徐晃の頼みに、夏侯淵は不敵に微笑んだ。
 
「む? ふふふ、それぐらい造作もない」
 
「良し。 ならば先鋒は俺と楽進で務める。 後はあいつの到着次第だ」
 
 いっそ、頼もしさすら覚える夏侯淵の涼しい微笑をみて頷くと徐晃は、勝利の鍵となる少女の到来を待った。 粗方の方針が決まったとはいえ、問題は策を実行した時に生じる連携の齟齬にあった。 時間にして、わずか一呼吸にも満たない時間で事は決する。 その後に生じるであろう敵陣の揺らぎをどれだけ大きくかつ、長く保ち、そこへ別働隊をどこまで捩じ込めるかが問題なのだ。 その任を託せるだけの心の余裕が、今の楽進にあるのかどうか、それを見極めなければならない。
 
「楽進、推参致しました。 将軍……、何か?」
 
 程なくして、徐晃たちの下に訪れた楽進は案の定、一見冷静そのものに見えたが、心中はそう穏やかなものではない様子だった。 それもむべなるかな、である。 今まさに黄巾の牙城を切り崩さんと奮迅の働きをしてみせているというのに、相手は倒れるどころかむしろ此方が小さくない出血を強いられている状況にある。 そこに、ただでさえ現場は窮する状態にあるというのに徐晃からの召喚が加われば、瞳の奥に苛立ちが見え隠れするのも致し方ないともいえよう。
 
「うむ、楽進。 このままでは埒があかん。 ここは一度、身体を休めておけ」
 
 馬上の高みからそう命ずる徐晃に、楽進は怒気の混じる声で返した。
 
「何を言います、将軍! ここまで来て食いさながらねば―――――。」
 
「そう言っても手詰まりだろう。 俺に考えがある。 任せてもらえないか?」
 
「………ッ」
 
 是非もなかった。 たとえ急場凌ぎの策であったとしても、膠着した現状が少しでも動くのであれば楽進も否はなかった。 彼女の沈黙を首肯と受け止めた徐晃は、絶影から降りると、誰が聞き耳を立てているわけでもないのに、とっておきの秘密を打ち明けるかのように楽進の耳元に口を近づけるのだった。
 
「いいか、まずは………………。」
 
 ぼそぼそと耳打ちする徐晃の話の内容に、楽進の瞳の色は、最初のうちこそ胡乱げなものであったが、次第にそれが驚愕へと染まっていく。
 
「本気…………、なのですか?」
 
 全てを聞き終えてからそう問うた楽進に、徐晃は。
 
「無論だ」
 
 あっけらかんと即答した。 とはいえ巫山戯ているわけではないのは、真剣な面持ちから明らかである。 むしろ、楽進だからこそ任せたいのだ、とその目が無言のうちに語りかけていた。
 
「………………。」
 
 だが、彼女は即答を控えた。 いま徐晃から聞かされた策の内容は博打としての要素が大きい。 おそらく成功する確率は五分とみていいだろう。 それは軍略を司る者にとって、もっとも重く苦しいものだ。 勝てる見込みが半分であるのならば、残りの半分は即ち敗北。 そんな策と呼ぶことも出来ないものに頼ろうなどと、理性ある指揮官であれば発想し得ないものであるし、他の者たちからも力尽くでも止められることになるだろう。

「…………………。」

 だが、現状を鑑みればそんな切迫した局面になってしまったからこそ、活路を見出すためには仕方のない、苦肉の策なのだとも言えた。 そんな作戦に乗るかどうか、その判断を実行者である楽進本人に委ねようというのだ、暫しの逡巡も仕方のないことといえよう。 さらに言えば、それだけ重く彼女を考えてくれた徐晃の想いをきちんと正面から受け止めて、答えを出さねばならないのだ。
 
「……………、分かりました将軍。 この楽文謙の命、貴方の策に託します」
 
 硬い面持ちでそう自分に言い聞かせるように呟く楽進の意中には、すでに苛立ちの色は見えない。 活路を拓くための一手を見据え、勝つ為に、余計な事柄に心を割くことを止めたのだ。 胸中で燻る蟠りをあっさり棚上げして己を律することが出来たのは、楽進の武人としての武錬の賜物であった。
 
「すまん………。 預かる」
 
「いえ…………。」
 
 楽進は自身の真名と同じように凪いだ湖水の如く静かな、穏やかな微笑を浮かべながらかぶりを振った。
 
「では、于禁隊と李典隊にも指示を飛ばす。 頃合となったら一気に動く、それまでの間は、休息に充てておけ」
 
「はい、そうさせてもらいます」
 
 先ほどのような反駁はもうなく、従来の従順な性格と落ち着きを取り戻した楽進は他の部隊に指示を飛ばしている徐晃たちの邪魔にならぬよう背を向けて、ただ独りとなり氣息の導引だけに意識を向ける。 静かに、己が心の最深部に揺らめくものと向き合い、薄氷を踏むかの如く慎重に、手足に走る三陰三陽十二経から始まり、丹田で練り上げた氣を全身に巡らせ、森羅万象の気運に身を委ねる。
 
「ふぅぅぅ――――――。」
 
 一瞬の判断が要求される戦場とは違い、充分な時間をかけて練り上げられた氣は蜃気楼のように楽進に纏わって身体を覆い隠す。 いま彼女から迸る氣は逆巻く風を呼び、その気圧差によって小規模な竜巻が生み出されるほどの密度を孕んでいた。 その中心にいる楽進は、ただひたすら機を待つ。
 
「――――――――――。」
 
 分の悪い賭け、そう楽進は承知している。 その結果、志半ばしにして命を散らすことになるかもしれない。 だが、それを見据えてなお彼女の口元には笑みが浮かんでいた。 もしかしたら、策を思いついた徐晃よりも必勝を信じて疑わずにいる、そんな何処までも透き通った笑み。
 
「楽進ッ!!」
 
 どれだけ氣息の導引きに時間を費やしたのだろうか。 徐晃の声に呼応して見開かれた楽進の眼の先に見えたのは一本の道だった。 まるで全ての兵士たちが彼女の進撃を讃えるかのように、楽進と城砦の間には一直線の道が出来上がっていた。 全ては手筈通りである。
 
「…………………、征きますッ!」
 
 今こそ、勝負の時。 瞬間、鋼色の疾風と化して、楽進は大地を駆け抜ける。 氣功使いの面目躍如。 流れ星の如く尾を引いた紅蓮の閃光は、彼女の氣の残滓であり、彼女の過ぎ去った後に渦巻いた旋風はもはや嵐のそれであった。 まさに氣功使いならではの脚力を駆使して、軍馬すら凌ぐ速度で地を蹴る楽進ではあったが、一切の遮蔽物がない広大な大地は、上方から掃射を浴びせかけれる位置にいる黄巾の兵たちにとっては絶好の的と同義でもあった。 だが、それでも彼女は走る速度を緩めない。 いま楽文謙の心は恐怖とも焦りとも無縁の境地に合った。
 
"将軍………、頼みました!!"
 
 楽進の思いに呼応するかのように、その強壮なる勝ち鬨にも似た嘶きが天に響き渡る。 かつて徐晃と共に黄巾の兵を蹄にかけたときの比ではないそれは、絶影のものであった。
 
「駆けろッ! 絶影ぃ!!」
 
 瞬く間のうちに豆粒の大きさまで遠ざかる楽進を見つめながら、徐晃も己が背に預けた獲物である大斧を抜き放つ。 無茶無謀と嗤われ圧し止められても仕方のない策に乗り、徐晃を信じていま愚直にも敵の城砦へと吶喊する部下の想いに答えるため、今こそ武士の道を示さんと力を滾らせる。
 
 徐晃の咆哮とともに、大地を蹴り立てて突進する怒涛の蹄。 点でしか見えなかった楽進との距離を瞬時のうちに走破する絶影の走駆。 瞬き一つの間にはもう、巨獣と称するに相応しい威容は津波の如くすぐ彼女の背にまで肉薄している。
 
「…………、な、馬鹿な………。」
 
 城壁の上から楽進と徐晃の行動を余すことなく見届けた黄巾の兵士は、今が戦闘中だということを忘れ、茫然自失の態で、そう呟くしかできなかった。 正気の沙汰とは思えなかった。 瞬く間に楽進との距離を詰めた徐晃は、あろうことか味方である彼女へ獲物である大斧を振るったのだ。
 
 すわ謀反かとも黄巾の兵たちは思いもした。 しかし、程度の差はあれど黄巾の者たちも、それだけを理由に攻撃の手を休めるには至らない。 氣功使いの軽功術。 黄巾党内においても僅かながら使い手が存在するゆえに、彼らも見知らぬものではなかった。 だがそれでも、目にも留まらぬ速さで振りぬかれた大斧を足場として活用して、それだけでは厭きたらず、疾駆する軍馬の速度すら利用して砦に向かって引き絞られた弓の如く跳躍して滑空することが可能かと問われれば、一笑に伏しただろう。 今この悪夢のような光景を目の当たりしなければ。
 
「ッ! 弓兵構えぇッ!!」
 
 悲鳴に近い叱咤で、古参の兵士が未だ呆然とした態の仲間たちをけしかける。 だがもう遅い。 渦巻く豪風を耳に聞きながら、楽進はただ一直線に敵の牙城目掛けて虚空を滑空した。 徐晃と絶影の協力で得られた加速と、彼女の周りに纏わりつく突風が、羽毛の如く柔らかく長い三つ編みを引き千切らんばかりに翻弄する。
 
「――――――――ッ!」
 
 風圧に歯を食いしばったのも束の間、何人かの兵士たちが楽進へ向け、喉笛を刺し穿たんと弓を引き終える姿が目に留まった。 鈍い灰色の鏃、その切っ先が、陽光に照らされ禍々しい光を放って迫り来る彼女を睨み据える。 もはや空中にその身を預ける状態とあっては、制動をかけることも叶わず楽進はなすがまま、致命的な勢いで黄巾の兵との距離を詰める。
 
「がッ―――――?!」
 
"秋蘭様!!"
 
 あわや命散らさんという寸前に、楽進の頬を擦り抜けて黄巾の者たちの下へ殺到するものがあった。 人が豆粒よりもまだ小さく見える距離にあってなお、寸分の狂いなく敵の眉間を射抜くことが出来る人物などこの場にはただ一人、曹操軍最古参の古強者、夏侯妙才において他にいない。 そのほんの数発の援護射撃が、弓を構えていた敵兵の悉くを粉砕した。

「はぁあぁぁぁッ!!」

 逆巻く烈風。 生と死の錯綜。 紅蓮に舞った血の華をくぐり抜け、楽進は敵が犇く城内へと突入する。 すぐさま身を捻らせ、鞠のように床を転がって着地の衝撃を分散。 そのまま勢いを殺しきる前に床を蹴って立ち上がり、身に滾らせていた氣弾を放つまでが一動作。 武芸者として極限の修行を積んだ者ならではの離れ芸である。 素早く周囲に視線を巡らし、吹き飛ばした敵兵の存在を確認しながらも、まず楽進は手短な黄巾の兵士を殴り飛ばした。
 
「一番槍は曹操様が家臣が一人、楽文謙が貰った!!」
 
 声高らかにそう宣言する楽進は、自分を囮として動き始めたであろう別働隊への援護に入る。 だが、彼女が陽動の役割を果せる時間はそう長くない。 連中は、今は楽進の侵入と攻撃を受け混乱の極みにあるが、それも次第に収まり始めることだろう。 彼女の武勇と今までの黄巾の賊徒との力量を比較すれば、天と地ほどの差の開きがあるが、実のところは楽観できるほどの状況ではない。 ざっと見て推し量るにこの砦の兵士たちであれば、それなりの数で囲み落ち着いて対応すれば、楽進であっても危ういものがあった。 奇襲による戦術的優位性を消化した時点で、引き際と見切りを付けて防衛のみに専念するべきだろう。
 
 城門の開放を、いかに短時間で行えるか。 今現在も、于禁隊と李典隊は敵兵への更なる陽動をかねて果敢にも砦の攻略を開始している。 可能な限り味方の兵士たちを城内へと招きいれ、そして出来ることなら騒ぎに乗じて内側から門の開放を行うのが楽進たちの務めになる。 つまり万事は新米指揮者である楽進たち三人の暴れ方次第だ。 首を獲られるつもりは毛頭無いが、あまり度を過ぎた暴れ方をして、危険を感じた大将格に逃げられてしまっても困ることになる。
 
「呵ッ!!」
 
 鋭い吐気とともに放つ渾身の一撃。 横隔膜を中心に、全身へと発散された氣の衝撃波は、五臓六腑の悉くを破壊し尽くす。 今回その餌食となったのは、忘我の境地からいち早く復帰した老練なる兵士だった。 正規の軍隊ならいざ知らず、賊徒の群れとあっては重厚な硬い鎧など望むべくもなく、彼らの身を守る軽装な革の鎧では楽進の一撃を耐えることなど到底不可能なことであった。
 
 はたして、熟練の実力者が全身の穴という穴から血を噴出して倒れ伏す様を目の当たりにした黄巾の兵士たちは思わずたじろいだ。 そして、そんな絶好の隙を見逃す楽進ではない。 次に彼女の餌食となったのは二人。 うち片方は思慮を取り戻すことなくそのまま、そしてもう独りは、鋭い楽進の眼光に身を竦ませたところで、どちらも彼女の拳の餌食と化すまでに、一呼吸以下の時差しか有しなかった。 だが、楽進の一方的な展開はそこまでだった。

「ッ!! 掛かれぇぇ!!」

 二人の兵士が血飛沫を噴き上げ頽れたのを合図に、黄巾の兵士たちが雪崩を打って彼女へと殺到する。 剣風と絶叫が、死闘の第二戦目の口火となった。
 
「はあぁぁぁッ!」
 
 多勢に無勢の窮地にあっても、楽進は一歩も退かなかった。 いくら潰そうとも新手が増え続ける状況下に身を置きながらなお、彼女は決して臆せず、屈せずただひたむきに勝利を信じて拳を振るった。 もはや無尽蔵と思えるほど際限なく現れては叩き潰される黄巾を被った男たちの群れに、すでに戦場は文字通り泥沼と化しそうだった。 折り重なる死体に、撒き散らされた汚物と血が混じりあい、それを蹴散らす黄巾の兵たちに攪拌されて、見目麗しい楽進の顔を、四肢を汚していく。
 
「ッ?!」
 
 そのときだった、軽功の極みをみせた楽進の足運びが僅かに鈍る。 土砂降りの後の地面も同然となっていた足場に、足を滑らせたのだろう。 僅かに下肢に力を篭らせ、踏ん張りを入れた結果、動きが停滞する。 その万金にも値する隙を衝いて、背後から彼女の首に屈強な男の腕が巻きついた。 楽進も締め上げられる前に掴み取ろうと反射的に手を伸ばしたものの、だが、血に濡れた手甲は、虚しく皮膚の滑るだけだった。
 
「しまッ…………?!」
 
 万事休す。 完全に動きを封じられた楽進を、拘束する男ごと屠らんと無数の刃が殺到し。

「さぁぁぁせぇえぇなあぁぁいぃいいぃのぉぉおぉ!!」

 白刃が閃き、そのとき黄巾の兵士たちを薙ぎ払った。 縛めを解かれ、大きく息を吸って咽た楽進の眼前に、この戦場には不釣合いな髑髏の小物入れを腰に携え、どこか年頃の女性を意識した戦支度の少女の背中が割り込む。
 
「凪ちゃん、大丈夫!?」
 
 親友の窮地とあっては、汚れなど気にしていられない。 昨日よりも明日のために、より美しくなるため決して手入れを欠かすことのなかった自慢の手に、今は己が獲物である二対の剣『二天』を握り締め于文則は細く優美な手首を刃で返し、熾烈な勢いで敵を屠りぬく。
 
「沙和………。 どうして?」
 
「凪ちゃんのお陰なの!」
 
 楽進の問いに、于禁は艶やかに片目を閉じて視線を送って答えた。
 
「凪ちゃんがここで頑張って、敵の目を惹きつけてくれたからここまで辿り着けたの」
 
 于禁の言い分は、まず真っ先に楽進の窮状を救った説明にはなっていない。 むしろ、城壁を登りきったのならば、後続のためそちらの援護を優先させるべきなのだ。 だが、楽進は戦術よりも自分を優先してくれた于禁を怒るようなまねはしなかった。 ただ口元に笑みを刻んで頷くと、于禁の隣に進み出る。 が、それをやんわりとだが拒むように于禁は押し止めた。
 
「……………、凪ちゃん」

「うん?」
 
「今、将軍が城門を破ろうとしてくれているの。 凪ちゃんは、何人か連れて城内の制圧に向かってくれないかな?」
 
 助け出されたときよりもむしろ、そんな于禁の突然の提案に、楽進は瞠目させられた。 段々とではあるが、味方の兵士たちの姿を確認することができる。 だがそれでもまだ、予断を許す状況ではない。 一瞬の隙が命を落とすことに繋がることも于禁は理解していよう。 それでもこの人一倍優しい親友は、己の手助けよりも任務を優先せよと促している。

「だが、それでは……………。」
 
 言い返そうとしたところで、楽進は悟った。 その身に背負った責務を果すため、楽進の想いに答えるため、いま彼女たちの上官もまた命を削って陽動をかっていることを。 でなければ、こうも早く于禁がこの場に来ることはできなかったはずだ。
 
「味方もすぐに来てくれるから、沙和は平気なの。 それもよも早く将軍を助けてあげなきゃ駄目なの」
 
 楽進は歯噛みして目を閉じた。 今ここで于禁の身を案じて時間を費やすことはそのまま、徐晃を窮地へ追いやることに繋がるのだ。 彼とて退き際は心得ているだろうが、それが命を落とさない保証にはならない。 徐晃の身を案ずるのであれば、一刻も早く敵の首級を上げ、この混乱を治める他に方法は無いだろう。
 
「………………、死ぬなよ沙和」
 
「当ったり前なの! 凪ちゃんもさっさとお仕事を片付けて来るの。 そして終わったら、後で皆でお茶会をしようね」
 
 重い、決意を秘めた楽進の一言を、だが于禁はまるで世間話かなにかであるかのように軽く流しながら視線を投げかけてくる。 こんな安い場所で死ぬつもりはないのだと、まだまだ買いたい物も沢山あるし、遣り残したことがあるのだと。 言葉に出さずとも于禁が醸し出す生への執着は、親友である楽進でもなくもと理解できるほど強いものだった。
 
「お前は………、まったく………。」
 
 戦闘の最中だというのに、普段とまったくかわらない于禁の態度に、楽進はあきれたように苦笑を漏らした。
 
「――――――――あぁ、分かった。 だが今度はお前が淹れてくれ。 味の分からないお茶は、もう懲り懲りだ」
 
「あははー。 そんなこと言ったら将軍が可哀相なの」
 
 生真面目な楽進には珍しい冗談めかした物言いに、やんわりと諌める于禁の口調。 だがそれでも悪童のような笑みは隠せていない。 戦場という緊迫した空気の中にあっても、于禁という清涼剤が楽進の心を澱ます諸々の想いを、洗い流してくれる。 そんな得難い親友の存在に感謝しつつ、心軽やかとなった楽進は決然とした足取りで踵を返し、いま自分の向かうべき場所へと歩を進めた。
 
「……………、悪いけどここは通さないの」
 
 傷だらけの親友が遠ざかったのを確認してから于禁は、新たな侵入者の力量を測りあぐねいて攻勢に出かねている黄巾の兵士たちを睨み据えた。 彼女としてはこのままどちらも傷付くことなく時が過ぎてくれることが一番なのだが、そうもいかないだろう。 ならば。
 
「お前たち! 玉が付いてるならさっさと来やがれ!」
 
 僅かでもいい、此方に注意を惹き付けて親友の後を追わせないように仕向ける。 その為なら、慣れない汚い言葉だって使い切ってみせる。
 
「怖いのか! さぁ早くしろ、玉無しの糞蟲ども!」
 
「~~~ッ! 懸かれぇ!」
 
 誰かの一言が皮切りに、死闘の第三戦目の口火となった。






あとがき

ぽぽぽぽ~ん♪ これが耳から離れません
どうもギネマム茶です。

生きています。
私の住まう地域は、大きな被害もなく皆無事でした。

被災者の方々におかれましては、一刻も早い復興と元の生活に戻れるよう心から願っております。

ではまた次回



[9154] 三十七話・だが…堕ちたな……ただのゲス野郎の心(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:65e8c4a0
Date: 2011/04/13 16:24
 静寂の中、焦臭い匂いが鼻をつく。 広い城内のどこかで火の手が上がったらしい。 耳を澄ませてみたが、どうやらこの周囲ではまだ騒動の気配はなく、臭気の密度からして、火の手はまだ遠い。 全身の筋肉を適度に緩ませながらも、その一方で精神は夜の湖水の如き静謐の鏡となって、周囲一帯の全景を映し出している。 狼の鼻より鋭く、蝙蝠の耳より鋭敏に、どんな些細な動きがあろうとも即座に見抜く探針に自らを変えて、楽進は薄闇の中をそぞろ歩いていく。
 
 澱みの無い静かな足取りで、楽進は無人となっている城内の何処かにいるであろう敵大将を探して回る。 それは結果的に、待ち伏せを警戒して引き連れてきた部下たちを遊ばせてしまうことになってしまったが、今の彼女にそれを悔やむ感情は皆無だった。 むしろ、何の抵抗も受けず無人の野を行くの如く制圧に乗り出せるのだから僥倖とすら言えるだろう。 だが、それに合わせて感じる違和感も、彼女の胸内では無視できないものになっていた。 それを強いて言葉にするのならば、不気味、だろうか。
 
 こと野戦での敵の抵抗は激しく、相応の準備と覚悟を整えて楽進たち先遣隊を迎え撃っていたとみていい。 だというのに、一度城内に侵入してみれば守りの備えを講じた形跡が見受けられない。 要害としての基盤がない脆弱な廃城なのだから、せめて簡易な罠や障壁の類を設えて侵入者の動きを阻害するぐらいは当然の行いのはずだ。 そんな準備もなく、まるで居城を明け渡すかのような杜撰な兵士の配置の仕方は、楽進からすればまず有り得ない。 百歩譲って、城内への侵入を許さず全て城外で討ち取る腹積もりで戦力の全てをそこへ注ぎ込んでいたのだとしても、ならば何故、防戦に不向きな寂れた砦に篭城したのか。
 
「まさか………、いや…………。」

 周到に下準備を整えておきながら、まるで後の事を考えていない黄巾の賊の矛盾した行動に、楽進は一つの可能性を思い浮かべる。 いや、ここまでくれば彼女も、合点するしかなかった。 つまりこの城に篭城している黄巾の兵士たちにとって自分の命など二の次なのだ。 でなければ、援軍の望みのない篭城などという自殺も同然の行動など起こせようはずもあるまい。 なら彼らは生き存えるためではなく、もっと別の何かに目的を置いている。 その理由は定かではないし、それを解き明かしたいとも思わない。
 
 ただ見過ごせない点があるとするならば、彼らの在りようだ。 今まで戦ってきた黄巾の賊徒とは違う、目的の為に命すら投げ出す胆力は、形は違えど楽進の知る武士の在り方に良く似ていた。 一体彼らは、何を守り抜きたかったのか、今となってはもはや思案するのも虚しい試みだ。 彼らの目的の為に、こちらが守るべきものたちを放棄するすることなど、楽進にはできないことなのだから。

「そこまで……………。」
 
 思わず止まりそうになった足を強引に動かし続ける。 お互い譲れないもののため、自分の道を突き進む。 それだけを事実として受け入れ、行く手を阻むだけの障害物へと意味合いを堕さなければ、彼らを『敵』として認識してしまいそうになる。
 
 楽進にとってたとえどんなに強敵であろうとも、挑むべき相手が牙で我を通すような野良犬では、感情の対象とはならない。 畏れることも、侮ることもなく容赦せず、ただ淡々と排除することを意図するだけだ。 かつての黄巾党の亡者たちは、そうやって遇してきたし、これまでと同様に今回もまた、何の感慨もないまま、ことにあたるつもりでいたのだ。 だが、敵は歪なれど武士の片鱗を垣間見せた。 これは断じて捨て置くことはできない。
 
「そこまでの心胆を持ち合わせておいて、この有様か――――ッ!」
 
 ぎちり、と楽進の奥歯が危ういほどに軋んだ。 人の世において不可欠な六徳を忘却し、生ける亡者へと身を堕とした者たちならいざ知らず、仮にも己が命を賭し守らんとする気概を持ち合わせておきながらも、悪鬼へと身を窶した者たち。 その所業は、最初から抗うことをしなかった亡者たちよりも遥かに劣る、武人の風上にも置けない外道のそれだ。 生命を賭けて守り抜き、殉ずるに足るだけのものを見出しておきながら、それだけの行いができる強い心をもっていながら、黄巾の賊徒どもは人間であることを辞めたのだ。
 
 四肢の一部を欠いて尚、歯を食いしばって立ち上がろうとする人がいる。 怒りや悲しみ、痛みや苦しみを乗り越えて笑顔であろうと、もがく人がいる。 明日がくるという喜びと、明日より先に待っている幸福を信じて人間であろうとする人達の、気高く、雄々しい信念をここまで貶められ愚弄されたのだ。 ならばそれを赦せようか。
 
 否。 断じて否である。 故に、楽進は己が怒りではなく義務の為に敵を屠らねばならない。 たとえ傷つき倒れることになろうとも、外道たちをあるべき場所へ還すため、武人の尊厳を貶める者を捨て置くことは許されない。

「―――――!」
 
 そして決意も新たに一歩を踏み出そうとしたそのとき、武人としての感覚が見据える廊下の奥から、何かが飛来してくるのを感じ取った。 ただ無造作に楽進の方へ投げ寄越されたのは、球形の物体だった。 投げ込んだ者の所作に殺気は感じなかったため、取り敢えず脅威の対象ではないらしいが、歪に撥ねながら転がり込んでくるそれが足元で止まった時、楽進は思わず顔を顰めた。  見覚えのある男の双眸が、死相となって彼女に無念を下から訴えている。
 
 楽進と共に城内への侵入を果し、先行していたはずの部下の一人。 今や生首と成り果てたそれは、むろん今から彼女が向おうとしている先で待ち構えている者が刈り取ってきたのだろう。 義勇軍を立ち上げた時からの付き合いだった輩の最後に、数瞬の僅かな間に弔いを済ませ、次の瞬間には何事も無かったかのように、生首の上を跨いで歩を進める。 最後まで果敢に役目を果したであろう部下を弔ってやりたいものの、なればこそ立ち止まれない。 いま彼女が前へと踏み出すこの一歩こそ、散っていった戦友への弔いなのだから。
 
「………………。」
 
 相手は、楽進たちが部下の死相をみて、畏怖するか、激昂に駆られることを期待でもしたのだろうか。 だとしたら、見当外れもいいところである。 こんなものを転がす代わりに、矢の一つでも飛ばしてきたほうがよほど有効だ。 だが、奴らにとって安易な処刑よりも、まずは楽進たちへ宣戦布告することこそ肝要なのだろう。 もはや、廊下の奥から漏れ出る気配は、その存在を隠そうともしていなかった。
 
「お前たち、私の後ろに付け」
 
 小隊長の硬い口調に、付き従っていた兵士たちは粛々と従った。 お互いに死角を作らぬように補い合い、だが、正面の隙はもう頓着しない。 今は限りなく頼もしい上官が正面へ睨みを利かせているからだ。 歩を進めるごとに募りゆく戦場特有の昂揚。 何所かで上がった火の手によって暖められた空気の熱が頬を撫ぜる。 だが、気にならない。 胸の内に滾る血潮のほうが遥かに熱い。
 
「行くぞ……。」
 
 そして、邂逅は廊下の最奥。 過日、客人を持成す為に使われていたのだろう大広間。 闇に閉ざされていた室内に、楽進は己と同じく全身に戦傷を纏った男を見出し。 閉ざされた室内に入り込んだ光に浮かび上がった人型を、張曼成は自分と似た武具を身に着けた少女を見定める。
 
 奇しくも、その手に握るのは同じ得物。 互いの殺意に両者共に熾烈な最後を覚悟した。 ならば、もはや言葉を交わす意味などありはしない。 無言のまま、全身に氣を滾らせ疾駆する楽進。 風を巻いて迫るその影を、巨木の如く腰を落して迎え撃つ張曼成。 出会った二人の対決は音も無く幕を切って落とした。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 燃え上がる炎は既に、黄巾党の兵糧を保存していた蔵を灰に還すだけでは飽き足らず、そこかしこに飛び散ってはちらちらと踊り始めている。 壁を天井を這う炎の舌は、李典の総身を嘗め回さんと、煉獄へと続く標となって誘い招こうと密かに機会を窺っている。 天を焦がす熱気に人脂の焼ける匂い。 努めて神経を張り巡らせていなければ、きっと呼吸すらままならず満ち溢れる戦場の狂気に窒息死させられていたことだろう。
 
 盛大に城門の突破を試みる徐晃や、城壁の上で陽動を行っている于禁はもとより、内部制圧にまで踏み切った楽進の活躍によって李典は悠々と破壊工作に専念することができた。 それが、大勢の人間の混乱と死を招くことになると知りつつも、彼女は手を止めることはしなかった。 それは、運気に助けられた部分もあるとはいえ、今が戦況の趨勢を一気に塗り替える好機であるからだと、李典も弁えているからである。
 
 そもそも李典は、真っ向からの闘争よりも権謀術数といった搦め手を用いた効率的な運用を好む人間であった。 その点、彼女の観念は、武人というよりも軍師に近いものだと言える。 強いて言うなら、文字を眺めるよりは身体を動かしていたほうが幾分か楽、というのが李典を武官たらしめる理由だろう。 だからだろうか、たとえ卑劣とも揶揄されそうな裏方作業であっても彼女は一片の疚しさを感じることはなかった。
 
「さぁ~て………、仕込みは上々やな」
 
 黒煙が天に舞い上がって踊る。 たとえその場限りの混乱しか引き起こせなかったとしても、後続の曹操たちへの合図となることを考えれば、意味としては極めて大きい。 今の状態であれば、たとえ内部の混乱が鎮圧された場合でも、曹操たちの兵力を考えれば充分に勝機が見出せる。
 
 現状、おそらくは徐晃の部隊が城門を突破して、足場を固めることに成功できれば、戦いの趨勢は決まるだろう。 裏方に徹している李典はただ、必要なだけの工作を繰り返して待つのみだ。 ここで彼女に憂慮すべきものがあるとするのなら、戦いの行方ではなくそこに至るまでの流血を目的とするような埒外な存在が出現した場合だろうか。 今は相手を焦らし、空回りさせ戦局の主導権を握ることで、此方に優位な風が流れてきているが、噛み合せが少しでも悪くなれば風向きが一気に悪くなりかねない。 順調に事を進めようとするのならば、常に戦局をこちらから作り出し、先制権を常に確保し続ける必要がある。
 
 敵はおそらく、城中に忍び込んだ放火犯を探し出そうと、各区画から虱潰しに探索してくるだろう。 いま李典がいる兵糧庫には、幸いにも人目が無く、即座に動けばまた敵の目を欺く準備を整えることができる。 李典は次なる有効的な発火箇所を頭の中で検討しつつ、早足気味にその場から立ち去ろうとして―――そこで立ち止まった。
 
 見られている。 味方のそれとは気配が違う。 鬱蒼と生える茂みの奥から此方を窺う猛獣のような、だが獣ではない決してありえない人間独特の視線が遠くから浴びせかけられているのを感知する。 そして李典が足を止めた途端、まるで挑発するかのようにあからさまな気配が飛んできた。

「………………。」
 
 暫しの無言の後、気配の主は明らかに此方を捕捉していながらも、距離を詰めるではなく、むしろゆっくりと遠ざかっていく。 それが意味するとことは。
 
「こっちに来ぃや、ちゅうわけかいな」
 
 相手の意図を正確に汲み取った李典は、これからの行動を邪魔された苛立ちを紛らわすかのように、ぞんざいに頭を掻いた。 此方を捕捉した相手は単独であることは確実だ。 さもなければ、彼女はより早い段階で包囲網を敷かれていたことだろう。 だが、もうこの場所は危険だ。 敵が、単独行動を好む自我の強い人間であったとしても、それが仲間へ李典のことを報告していない、と考えるのは都合が良すぎる話である。 で、あるならどちらにしろ動かざるを得ない。
 
 強引に向うの意に沿わなければならないのが業腹なことではあるが、相手が律儀にも場所を選ぶような手合いだと言うのなら、まだ遇しかたは幾通りも存在する。 ただ、真正面からの対峙を希望するというのであれば、武官の身としては乗るのも吝かではない、という思いもまたある。
 
「はは、こういうの凪の専門なんやけどなぁ……。 伝染されてもうたか?」
 
 そう剽げた口調で親友の顔を思い浮かべる李典の声には、依然、余裕すら感じられた。 そうやって悠々と落ち着き払ったままの態度を保っていられるのも、すなわち背中を預けられる頼もしい戦友の存在があってのものである。 それを証明するかのように、遠ざかっていく方角に向け、歩き出す李典の足取りには一切の怯えがない。
 
「けどまぁ………、やらなアカンことやし、給金分の仕事はせな、なぁ」
 
 呵々と笑いながら蜜の香りに誘われる蝶の如く、李典は此方を誘う気配に連れられ歩を進めていく。 彼女は頭の中に叩き込んである各所の城の見取り図から照らし合わせて、相手が向っている場所を模索する。 城とは攻めるに難く守り易い作りでなければならない。 それは、貴重な財産や物品、さらには命を守るためのものであるからだ。 無論、地形や環境によって作り、形は様々だろうが要害の態としての観点から見れば、どれも大差はない。 つまり他の部署との連携や効率を考えれば、配置は何処もほぼ同じなのだ。
 
 多少の誤差を考慮して、脳内の見取り図に修正を加えてみても、おそらく向う先は練兵所であると李典は予測する。 出城としては小規模なもので、たいした広さもないだろうが、腕に自身がある者が大暴れするには、なるほど、うってつけの場所である。 そして、納得もいった。 決闘者の如く、尋常な立会いを所望する手合いであり、余計な犠牲者を出すようなことは厭うからこそ、相手は独りだったのだ。 そんな無骨な心意気は、どこか彼女の上官を彷彿とさせ、親近感すら沸いてくるがそれはそれである。 むしろ日々の不満をここで解消してしまういい機会ではないだろうか。
 
「なぁ、あんたもそう思うやろ?」
 
 幾千もの人間が集い、激しく動き回ることを考慮して設けられた幅広の敷地の中を、巨漢の男――羅厳はすでに逃げるも隠れるもせず姿を現し、李典の隣を堂々と歩んだ。 長く暗い廊下を進み、再び外気に晒された先に見えた無人の練兵所は、普段の活気を知る李典からみると、まるで自分たち以外の人が死に絶えてしまったかのような錯覚を起こさせるほど物寂しげなものだった。

「さて、お主が何を考えているか分からんが………。」
 
 無人の広場に躍り出て、真ん中の位置まで進むと二人は、およそ十歩ほどの間合いを隔てて立ち止まり対峙した。

「お主が俺の誘いに応じた猛者である、ということは分かる」
 
「あー。 なんや、世辞が上手いなおっちゃん」
 
 低い声で讃える羅厳に、李典は何やら擽ったそうに肩を竦めた。
 
「いや、その闘気……、女だてらに見上げたものだ」
 
「女、なぁ………。」
 
「褒めている。 腰の抜けた男どもを斬って捨たのでは、俺の面目に関わる。 最初の一人が骨のある奴で嬉しいぞ」
 
 そう言って、雲をつく巨躯が振り上げた得物は、まさしく鉄塊だった。 いや、良く目を凝らせばそれには柄があり棍棒であることが見て取れたかもしれないが、生憎と李典には興味の無いことであった。 あるとすれば、総重量何百斤あるとも知れない質量が齎す破壊力であろうか。
 
「まぁウチも女だから、なんて言うて舐めてくるような阿呆やなくて、ちょっと安心したで」
 
 それでも相手に何らかの不満があるとすれば、あんなものでか弱い乙女を殴ろうとする相手の精神構造ぐらいだろう。 だが今から命の遣り取りに臨み、のみならず奪おうとする自分の事を思えば、高望みがすぎることだろう。 そう心の中でごちって 李典は己が得物である槍を抜き払った。 

「それじゃあ始めよか?」
 
「あぁ」
 
 己が得物を構え、対峙する二人。 だが、果たして李典が抜いた得物は槍と呼びうる代物であったかどうか。 それはあまりにも異形の武器だった。 柄があり、切っ先も存在する。 だが、穂先にあたる部分が、あまりにも巨大で槍としての形状を逸脱しすぎている。 まるで雀蜂の毒針が付いた尾っぽだ。 それが何段にも連なる円柱となった挽き臼のようにゆっくりと、交互に回転を続ける。

「なんとも珍妙な……。」

 驚きを通り超えて、もはや呆れた顔で李典の槍『螺旋槍』を眺める羅厳。

「はは、ウチの螺旋槍はまだまだこんなものやないでぇ」

 羅厳の評価はむしろ褒め言葉だと言わんばかりに、一転ごとに疾く、より疾く旋転の速度を上げ螺旋槍は風を切り裂き唸りを上げる。 直撃は無論のこと、今の旋転速度でならば掠めただけでも間違いなく死に繋がる。 だが、その脅威を直視してなお、羅厳は心は微塵たりとも動じず凪いだままであった。
 
「行儀良く力比べをする気ぃなんて、ウチには毛頭無い。 さっさとあんたを片して、ウチはウチの仕事に戻らせてもらうで」
 
「ふ、なら来るがいい。 お主に俺が打ち倒せるのならな」
 
「あぁ、そうさせてもらうで!」

 不敵に嘯く羅厳へと、一歩を踏み出そうとした―――その直後。 李典の背筋に悪寒が走った。
 
「な?!」
 
 彼女は無意識のうちに半身を反らし。 轟、と風を切る唸りを聞いたのは、そのときだった。
 
「はあぁぁぁぁッ!」
 
 鉄と鉄が噛み合い、李典の眼前で火花が狂い咲く。 旋転で巻き上げられた風が、鉄を削り焦がす匂いが、鼻先の寸前のところまで迫り来る。 そこまできてようやく李典は、事態を把握した。 たった今まで、十歩あまり離れた位置にいた羅厳が瞬きの間には既に自分の目の前に、鼻面をつき合わすほどの距離にまで詰め寄ったことを。 なによりも、真正面から近寄られたはずなのに、身体が反応できたのが相手の二撃目であったことを。
 
「ほぅ、よく凌いだ」
 
「…………、ッ」
 
 声を押し殺しつつ、李典が五歩ばかり退いて羅厳の棍棒から離れる。 羅厳は泰然と構えたまま追わない。
 
「…………………。」
 
 攻防と呼ぶにはささやかな一手。 だが、当事者たちには、お互いの力量を把握するには充分すぎるものだった。 
 
"………このおっちゃん、出来る!"
 
 意識は羅厳へ向けたまま、李典はちらりと先ほどの攻防で出来た爪跡を一瞥する。 そこは硬い石畳の地面だったはずだ。 それが今は、人の顔ほどの大きさの穴で陥没している。 油断はなかった、と言えば嘘になる。 だが、牙門旗ほどの重さがあろうかという棍棒を担いだ巨漢が、まさか李典の親友並みの速度で突っ込んでくるなどとは。 あれを小枝の如く振り回す腕力も驚愕に値するが、それ以上に超重量の得物を担いでなお衰えぬその瞬発力に驚かされる。
 
「どうした、先ほどまでの威勢はどこにいったのだ?」
 
 そう低く挑発する口調で李典を見据える羅厳は、担いでいた鉄塊を地面に預けた。 瞬間、ずん、と重々しい地響きを立てて、それは石畳の地面を破壊してめり込んだ。
 
「それとも、もう怖気づいたか?」
 
 不敵な笑みを浮かべ呟く羅厳と、沈黙を保ったままの李典。 そんな彼女が不意に彼の持つ棍棒のある一点を指差した。
 
「それ………。」
 
「なッ!」
 
 驚愕の声を漏らし、羅厳が凝然と見つめたのは蜘蛛の巣の如く、無数の亀裂が入った鉄塊だった。 切り結んだのは僅かに、一合。 小手調べと呼ぶにもささやか過ぎる刹那の打ち合い。 にも関わらず羅厳の得物である棍棒は、惨憺たる破壊の爪痕が刻まれていた。 その威力、ただの一撃がそのまま致命傷になりかねない、まさに蜂の一刺しであった。
 
「言ったやろ? 力比べはせぇへん、て」
 
「―――――なんと、まったく」
 
 つくづく途方もない槍である、と羅厳はまるで他人事のように呆れつつも感心していた。 その呆れ顔を見届けて、李典は悪戯が成功した子供のような笑みを口元に刻んだ。
 
「だが、侮るなよ娘」
 
 明らかな脅威を前にしてなお羅厳は、獰猛な含み笑いに口元を歪めた。
 
「防ぎえぬ槍ならば、先に斬り伏せるまでのこと。 覚悟してもらおうか」
 
 地面に突き立った棍棒を抜き払い、羅厳は再び構えを取った。 李典の槍を脅威とみなすのはあくまでぶつかり合った時の話である。 武具の優劣が致命的であるのならば、全て躱わしてしまえば同じ事。 太い成木の幹ほどもある鉄の塊を鉋屑も同然に粉砕せしめる得物が相手とあっては、生身では掠めただけでも致命傷となるのは明らかだ。 ならば防御など最初から考えなければいいだけの話である。
 
「あちゃー。 逆に火ぃ点けてもうたか……。」
 
 羅厳の気迫を見て取って、さも失敗したと言わんばかりの李典の呟きは、だが状況に即して考えるなら呑気に過ぎる言葉であった。 羅厳が放つ次の一撃が乾坤一擲の覚悟でいることは、誰の目にも明らかである。 先の彼の突進力を思えば、李典に一発を叩き込むことは充分に可能だろう。 彼女も次の一撃を捕捉できなければ、すなわち死の末路が待っている。 だというのに李典の面持ちは、どこか親しい友人を思い出したかのような朗らかなものだった。
 
「けどまぁ。 おっちゃんの、その潔さ嫌いやないで?」
 
 あえて挑発するかのような剽げた口調の李典に対し、だがそんな言葉に惑わされることもなく、羅厳は不敵な笑みで応じる。
 
「その軽口、次の打ち込みを受けてた後でも出来るか?」
 
「おっちゃんの速さは見た。 ならもう、間合いを外すことはあらへん」
 
「ほぅ……、ならばその言葉が嘘でないことを見せてもらおうか」
 
 羅厳は野獣の如き勢いで、石畳の舗装を蹴散らして突進する。 敵として申し分ない力量を持つ李典目掛けて、心に沸く悦びを渦巻かせながら。






あとがき
関西弁が上手く表現できない……、どうすればいいのか……。
どうもギネマム茶です。

ようやく黄巾党編もラストスパートといったところ。
このまま駆け抜けられればいいな、と思っています。

さて、今回は最終決着の前段階と言った感じでしょうか。
未だ慣れない戦闘描写に次回あたりで四苦八苦することになるのでしょうが………、頑張ります。
 
ではまた次回



[9154] 三十八話・答える必要はな(ry
Name: ギネマム茶◆aa993394 ID:65e8c4a0
Date: 2011/10/12 19:29
 黄巾党残党の砦から上がった黒煙は、当然、本隊を指揮する曹操の目にも留まっていた。 先遣隊として先行していた夏侯淵たちから、敵の抵抗強し、との報を受け取っていたが、それでも彼女たちは独力で曹操の期待に見事応えてくれた。 既に戦いの趨勢は決しているだろうが、曹操は攻勢の手を緩める気は一切ない。 たとえ此方の主攻正面を見極めるためだけに、威力偵察の名を借りた決死隊をぶつけてこなければならないほど脆弱な相手であってもだ。
 
「皆の者、聞け!」
 
 曹操は限りなく不敵に、獰猛に、口元を歪めて微笑むと、腰に佩いた『絶』を抜き放ち、陽炎に霞む大地に居並ぶ大軍勢を前に対峙する。 その姿、ただ一身にして峻厳たる孤峰の如し。 彼女の覇気を前に、兵士たちは奔放に猛り狂った鬼気を内面に押さえ込み、咳きひとつもたてず、主の命を待つ。
 
「汲めない霧は葉の上に集い、すでにただの雫と成り果てた! 山を歩き、情報を求めて霧の中を彷徨う時期はもうおしまい。 今度は此方が呑み干してやる番!」
 
 曹操の心に応じるかのように、熱砂の風が頬を焦がす。
 
「敵は今日までしぶとく生き抜いた羅刹! ならば相手にとって不足なし! いざ益荒男たちよ、悪鬼どもに我らが覇道を示そうぞ!」

『おおおおおおおッ!!』

 誰もが曹操の号令のもと悠々と、だが天地に馬蹄を轟かせ、未だ戦の匂いでむせる廃城を目指した。 既に敵の偵察隊を降しているであろう夏侯惇たちと目的地で合流を果そうと思っていたのだが、意外なことにその姿を捉えることなく、曹操は彼女たちよりも早く黄巾党の砦に到着したのだった。
 
 見渡す視野に写る敵の姿は疎らだ。 北門より攻め立てている夏侯淵たち先遣隊に気を取られすぎているのか、搦め手として南門に取り付いている曹操たちの方は、いっそ不気味と言えるほど、敵の抵抗を未だ受けていない。 となれば、反撃があるとすれば砦の中であろう。
 
 濛々と立ち込める黒煙に覆い隠される空と、今にも崩れそうな外壁を暫し見据えた後、曹操は愛馬の手綱を操りつつ、兵士たちの攻城を見守った。 進軍してきた勢いもそのままに、城門を突き破って建物の中に兵たちが雪崩れ込む。
 
 李通の部隊を先陣に置き、虎豹騎を率いる季衣の部隊を遊撃隊に据え、万が一に備え曹操は後曲に据えて入城は後とする。 小さいながらも砦としての用途を持つだけあって、全軍を収容できるだけの広さはあるだろうが、所々が打ち崩れて瓦礫の山となっていたり、もはや利用者も居ない家屋が埃じみた空気を澱ませ、空間を圧迫してくる。 軍馬の野太い嘶きも、遠雷のように各地で響く黄巾の兵士たちの怒号によって泥のように沈んでいく。
 
 曹操は油断のない眼差しで先行する兵士たちの姿を眺めつつ、横目で周囲の様子を窺った。 四方に蟠る濃い戦の匂い。 そこかしこに転がる瓦礫の山。 伏兵を配置するには事欠かない。 戦場が近すぎるせいで鼻が利きにくい今、敵の殺意に鈍感になっているこの時が、一番無防備で危険な時である。 そして何より彼女の直感が、不穏な空気を感じ取っていた。
 
「―――――――――な、に?」
 
 それは一瞬我が目を疑った驚愕の声。 まさに慮外の出来事だった。
 
「がッ?! ぁ…………。」
 
 直後、肉を切り裂く濡れた音。 僅かに漏れ出た断末魔と血飛沫の紅蓮。 どうと倒れる味方の骸を、周囲の警戒に当たっていた兵士たちは信じられない想いで凝視した。 まったく予期せぬうちに、血塗られた戦地へ放り込まれたことへの動揺。 だが、何にも増して彼らを瞠目させたのは、この凶行に及んだ下手人が文字通り、地面から死人の如く這い出て来たことだった。
 
「――――――――――。」
 
まるで自らが大地そのものであるかのように地中に身を潜め、曹操たちの感知を逃れていた凶手たち。 その頭や腕に巻かれた黄色の布は、もう何度も目にし、対峙してきた見間違いの無いないものだ。 そう、黄巾党の兵士である。 波才たちの下知をにより、ただひたすら地面の下で息を潜め続け、ついには曹操を仕留める格好の期とみて飛び出してきたのだ。

 灼熱に焦がされた砂を頭まで被り、人間が一人入るにも窮屈な穴の中で息を殺しながら機会を窺っていたらしく、一様に身体から水分が抜け出て、落ち窪んだ昏い眼差しに、そぎ落としたように窶れた頬は一見すれば幽鬼と見紛うほどだった。 だが、双眸だけがまるで熱病に犯された野犬の如く、炯々と光を放つ鬼の相。 一度火蓋が気って落とされたと察知するや否や、穴を偽装するため覆っていた襤褸を払いのけ、一人、また一人と地中から生ける亡者となって這い出てくる。

「死ねいィ!! 曹孟徳ッ!」
 
 獣にも似た咆哮とともに立て続けの凶刃にも、曹操と親衛隊たちはとっさに反応できた。 身を挺して主君を凶手より庇う幾多の兵士たち。 しかし、既に放たれた無数の弓矢が、まるで雨粒の飛沫を散らすかの如く曹操を襲う。
 
「チィッ!」
 
 強制的な下馬を余儀なくされ、苛立ちを顔に伝える暇もあらばこそ、曹操の続く行動は電光石火の早業だった。 抜き払いざまに横薙ぎに振るった大鎌が、虚空で激しい火花を散らす。 際どくも一瞬の直前に、己の危険を察知でき九死に一生を得た曹操であったが、それでも代償は大きい。 彼女が直々に見出し慈しみながら育て上げた愛馬は、文字通り針鼠と成り果て、己が背を預けるに足る万夫不当の豪傑たちも何人か喪ってしまった。

 直後、言いようのない喪失感が曹操の胸中を駆け巡るが、それを戦意で押しつぶす。 そして小柄な彼女からは想像もできない、猛禽のような素早さで疾駆しながら、曹操はこの荒事に対応しきれていない細腕の軍師の傍へと駆け寄った。 
 
「桂花!」
 
「か、華琳さまッ!」

 油断なく大鎌を構えたまま、曹操は非力な軍師を庇い敵と対峙する。
 
「どうやら、追い詰めていたつもりが、此方が誘い込まれていたようね」

「申し訳ございません華琳さま。 この程度の策略、測してしかるべきでした」
 
 この痛恨の成り行きに、桂花は臓腑を吐き出さんばかりの勢いで、その可憐な面貌を苦渋の色に染め上げた。 事実、この展開は軍師である彼女にとって言い訳の余地のない失態だったのだ。 此度の戦を大局的に眺めれば、曹操軍の勝利は揺るがない。 そんな驕りが現状を招いてしまった。
 
 可能性としてなら、桂花とて黄巾党の奇襲は予想していたものの、曹操軍の兵数、装備、錬度、その備えはあらゆる点から敵を慎重にさせるだけの抑止力を有していた。 加えて、進軍途中で出現した偵察部隊が、此方の主攻正面を見極めるための決死隊であると、たちどころに見抜いた桂花はここで一手を打つ。 夏侯姉妹を別々の部隊に分け、破壊力を生かして夏侯惇を偵察隊へ、沈着に戦場を指揮できる夏侯淵は、黄巾党の砦の防備状況を見極めてもらおうと、画策したのだ。
 
 そして蓋を開ければ策は見事的中し、夏侯淵たち先遣隊は城の内部まで進攻せしめ、桂花たちも黄巾党の砦への侵入を果した。 まさに全てが彼女が頭の中で思い描いていた通り、全て計画通りに事が運んだのである。 それがさも自然の理であるかのような、ごく当たり前の流れでだ。
 
「いいえ、桂花。 これは大局で物を見すぎてしまっていた私の落ち度よ」

「そ、そんな華琳さまは………。」

 だが、その流れに違和感を感じさせなかったこと事態が既に敵の罠であった。 為政者である曹操は、物事を大局的に見るように意識している。 それは軍師である桂花もまた同じだ。 しかし彼女らが万を超える軍勢を指揮し、まるで一個の生命体のように動かそうとも、末端は全て『一人』という極小の単位でしかない。 視点を転じて見れば、どれほどの大軍を自在に操ってみせ、守りを強固なものにしようとも曹操を核とする中枢部に目を向ければ、そこを守る人の数は百人と満たない。 そして敵が付け入ってきたのは、まさしく古今の戦において寡兵が取るであろう行動のそれであった。 ただしある一点を除いて、だが。
 
「乾坤一擲か。 まさか、ここまで視野を狭めてくるなんて………。」
 
 そう言って息を吐く曹操の表情は苦虫を噛み潰したかような渋面を作り、桂花も曹操の言わんとすることを即座に理解し、驚きに目を見開いた。

「あの食料砦の兵士の少なさは、この為の布石………? やつらは初めからこの機のみを………、華琳さまのお命のみに的を絞っていたッ!?」
 
 総大将とは、決して討ち取られてはならない、唯一無二の存在である。 故にその存在を死守するため十重二十重に防備を固め、万が一を起こさないため備えは万全であることが常である。 しかし、それでも神ならざる人が行うことであれば、必ず何処かに穴はできる。 古の戦を紐解いてみれば寡兵で奇襲をかけ、万全を期していた大軍を破った、などという話も決して無いわけではないのだ。

 極端な話ではあるが、総大将一人を討ち取れるのならば、寡兵でも構わないのだ。 全軍を危険に晒し、もはや玉砕となんら変わらない、ただの自滅も覚悟して戦を組み立て、総大将一人の命を絶つ為に合戦すら利用し尽くせば、あるいはその牙が本来なら決して届かぬ高みにも届く可能性もある、ということも在り得る。
  
 つまり黄巾党の面子は、曹操がこのうらぶれた砦に向け全戦力を投入してくることすら想定して、最初から乾坤一擲の覚悟をもって彼女を討ち取る腹積もりだったのだ。 だがそれは、もう戦術などと呼べるものではない。 いや、すでに戦ですらない。 それはもう、ただの自殺である。

「なんて………、無茶苦茶………。」

 思わず漏れ出た畏怖に振るえる桂花の声音を、だが曹操は咎めなかった。 予想の範囲内の動きでありながら、まったくの想像外と言える狂気すら孕んだ敵の行動に、曹操すら悪意や殺意とは別種の、もっと根源的な本能の域からくる寒さを背に感じたのだから。
 
「誰もがこの砦の陥落に意識を向ける瞬間、その間隙を見事に突かれた、か………。 さて、いよいよもって窮地ね」
 
「そ、そんな悠長に構えている場合では――――。」
 
 だが絶体絶命の危機に瀕してなお、曹操は謳うかのように眼前の敵を見据えた。 敵に出し抜かれたことは業腹なことではあるが、まだ形勢が傾いたわけでもない。 ならば春の花の香りの如く、余裕をもって事にあたるのが覇道を目指す者の器ではなかろうか。 そう思って曹操は戦意で心を塗り替える。

「ここで果てるのであれば、我が天命もその程度のものだったのでしょうよ」
  
 周囲を見渡せば敵ばかり。 最悪の展開をすぐさま導き出してしまう己の知性の豊かさに、桂花は顔を青くさせ、そんな彼女の思考を見透かしてか、曹操は不敵な笑みを浮かべ、それでも視線だけは黄巾の兵たちから逸らすことなく、傍らの軍師に呼びかける。

「けれどね桂花。 私は………、私の覇業を此処で終わらせる気は微塵もなくってよ?」

「華琳さま………。」

 限りなく透明で凄烈な曹操の覇気に、桂花は思わず状況を忘れて見惚れてしまった。 いや、惚れ直したと言い換えてもいい。 自身の命すら危ぶまれるほどの凄惨な戦場であってなお、彼女は胸を高鳴らせている。 まるで己が信心を確かめる敬虔な信徒の如く、誰よりも苛烈に試練を求め、苦難の度合いが増すほどに深化してゆくかのように。 覇道を謳い、覇道を示す故に曹操は求め臨む。 彼女の行く手に屹立する艱難を踏み越えるために。 その背はただ、ただ、眩かった。
 
「とは言え、状況を打破するには策がいる」

「―――――は」
 
 不敵に、だがいっそ優雅ですらある曹操の微笑に桂花は姿勢を改めた。 具体的にどのような下知が下されるか、そこは曹操の一存である。 だが、彼女がどれほど奇抜な命令を授けようと、桂花は応じてのける覚悟を決めた。 たとえ、曹操がこの場から撤退できるだけの時間を稼ぐためだけに、捨石にされようともである。
 
 逆に活路を見出し味方と合流を果せと言われれば、桂花の頭脳は一瞬にして幾数もの策を編み出し、敵の包囲網を食い破るだろう。 虎豹騎や季衣との合流さえ果せさえすれば、曹操の生存率は格段に向上する。 そうなれば、後は身を犠牲にしてでも、味方が曹操の危急に気がつき駆けつけてくれるまでの時間を稼ぎきればいい。 それが軍師だ。 主君が、愛すべき人が生き残れるのであれば、どのような無理も押し通す。 その為だけに知略を尽くす。
 
「だからね、桂花」

 甘く囁くかのような声は耳にでなく、桂花の魂の根幹そのものに働きかけてくるかのようだった。 その決して聞き違えることのない主の声が、断固と明確に宣言する。

「良きに計らいなさい」
 
「………………へ?」
 
 この逼迫した状況において、どう解釈すればいいのか、理解しようもない余りにも信じがたいその一言に、さしもの桂花も、思わず間抜けな声を漏らしてしまった。
 
「何をそんなに驚いているの? 此度の遠征は徹頭徹尾、余すことなく貴女に任せているのよ。 なら現状も貴女が采を振るう場面ではなくて?」
 
「か、華琳さま」
 
 あくまで堂々と、悠然と、曹孟徳は宣言する。 軍略を司る者にとって、敬愛して止まぬ一人の女にとって、決して喪ってはならない生命を、簡単に手渡してきた。 それも他人に動かされることを最も厭う曹操が、である。 しかも今は、己が命運をかけた渦中の真っ只中。 ならば、尚のこと余人に自分の運命を委ねていいはずがない。
 
「さぁ、采を振るいなさい」

 それでも曹操は、桂花に戦場を委ねる。 まるで、この窮地が存在していないかのように、だが真顔ながらも眼差しにだけは悪童じみた稚気を残して、曹操は頭巾を被った軍師を見つめる。

「―――――――よろしいのですね?」
 
「無論よ。 むしろ、問題があるなら聞きたいわ」
 
 そう言ってどこまでも不敵な、雄々しい笑みを浮かべる曹操の眼差しは、あくまで勝利のみを見据えている。 そしてその自信は決して虚勢ではない。 窮地などと嘯いておきながら、他ならぬ曹操自身が誰よりもこの状況を愉しみ、そして桂花が紡ぎだす必勝の策を疑わずにいる。 ならば、やることはただ一つだ。

「分かりました。 ならば華琳さまは円陣の内へお隠れください」
 
 腹を決めた桂花の答えは、曹操を守りきるというものであった。 しかし、それだけでは圧倒的に足りない。 戦術的優位性を奪われている今では、何度かの攻勢は凌げても結局は、援軍を待たずに磨り潰されることとなる。 その程度、軍師である桂花ならば理解しているはずなのだ。 つまり彼女は、そうと分かりきっていてなお、彼女は曹操を陣の中心へ据えたことになる。
 
「ふむ………。 その後は?」
  
「撤退します」
 
 その進言に、曹操の片方の眉が僅かに上がった。

「何処へ……、かしら?」
 
 聞きようによっては、落胆したかのようにも取れる小さな曹操の呟きに、空気が重さを持った。
 
「敵兵の中央を突き破り、その先へ………。」
 
 あえて淡々とした口調で語る桂花の隣で、彼女の言を聞き届けつつも油断なく構える曹操の纏う空気の緊張が、今まさに最高潮に達しつつあるのを感じていた。 彼女たちと味方との間を寸断する黄巾の兵士たちは、ざっと見て百人程度。 数だけを見れば少数なれど、曹操の命を奪うために選りすぐった精兵らしくこちらの近衛兵を相手取っても臆することなく立ち向かってくる。
 
 遡れば張角の名を暴き出した一件から此処に至るまで、綿密に用意周到に事を運ぶだけの能力を用いながら、なぜ彼らは自滅も同然の策を決行したのかは定かではない。 が、桂花は敵が死兵も同然と見て取るや、援軍の到着を待つのではなく、即座に陣形を動かして突破を試みる、真っ向から対峙する構図に持ち込んだ。
 
 だが数の上では、ほぼ同数ではあるがこの場の趨勢は歴然だ。 埒外の奇襲による混乱。 総大将である曹操の窮地からくる焦燥。 さらには、圧倒的な武威を誇り、曹操の親衛隊の隊長である季衣の不在。 明らかにこの場は、黄巾の賊徒が優勢だ。 それでもなお、桂花は前へ進むと言う。
 
 季衣と言う曹操の守護する上での最大戦力がこの場に居てくれたならば、まだしも曹操を守り抜く目処が立っただろう。 なのに何故桂花は、みすみす主たる曹操までをも危険に晒してまで、敵の囲いを抜け出すことを選んだのか。

「―――――なるほどね。 春秋戦国時代の軍記物語にも載りそうな正々堂々ぶりね。 いや、この場合は物狂いぶり……、かしら?」
 
 現状はどう控えめにみても地獄だ。 だというのに、曹操は秋晴れの空でも見上げているかのような表情で桂花に微笑みかける。 まるでこの地獄を楽しんでいるかのようなその落ち着きぶりは、あるいは開き直りの心境を勘くぐってしまうほどだ。
 
「冷徹な狂気こそ、軍師の本分とえいましょう。 故に、華琳さまの望む戦をすることが、この場の最良であると私は愚考いたします」
 
「――――――ふふ」

 そう締めくくる桂花に、曹操は改めて破顔した。 まるで解に辿り着いた学徒を褒める教諭のように。
 
「そう? なら私の望む戦とやらを見せて頂戴」
 
「御意」
 
 居住まいを正し礼をとった後、桂花は改めて彼我の戦力差を見極めにかかる。 士気旺盛にして敵陣の真っ只中にあってなお萎えぬ敵兵の戦意。 攻め落とすはずだった城砦が、今は筌のように入城を果した兵士たちの"返し"となって此方へ援軍を送ることを見事に邪魔している。 だが、それだけである。 障害はたったそれだけしかないのだ。
 
 曹操は言った。 此処で終わらせるつもりはないのだと。 ならば、亀のように縮こまってやり過ごす、なんて選択肢は有り得ない。 活路は唯一、突破あるのみだ。 故に曹操には、兵士たちの突破力の核となる中心に据わってもらわなければならなかった。
 
「各員に伝達。 我らはこれより敵の中央突破を図る。 なお突破にあたり不必要な戦闘を禁ずる」
 
 冷厳に、兵士たちの不興すら厭わない桂花の断固とした声音。 そこには、兵士にも己にも許容しない、ただ無慈悲な鉄の理だけがあった。
 
「目標は敵、黄巾兵後方である。 以上、全員前へ―――――。」
 
 そこまで桂花が言いさしたところで、不意に不気味にきしるような忍び笑いが、冷ややかに、戦場に熱された彼女たちの血の滾りを凍えさせにかかる。 およそ人とは思えぬ痩せ枯れた声音は、凍みるような雨のように身体の芯に冷めたものを桂花たちの背に落とす。
 
「呵々、そう生き急いでどうするね、姑娘」
 
 黄巾の兵士たちの隙間から、ぞわりと影が這い出てくる。 現れたのは、見た目は乾いた枯れ枝のような萎びた容姿の翁だ。 皺に埋もれた口元を歪ませどこか好々爺めいた微笑を浮かべてはいるが、その正体がどれほど危険な存在か、老いてなお炯と鋭く光る眼差しが、曹操たちの脳裏に静かな警鐘を鳴らす。
 
「案ずるな娘らよ。 儂のように歳を取るとな、若い話し相手が欲しくなるのよ。 ぬしらも儂を探しておったようだし、丁度よかろうて」
 
 現状においては、あまりにも場違いな対話の申し入れ。 無論、曹操たちもそんな話を額縁どおりに受け取ることはしないが、言外に名乗りを謳う人物となれば、曹操たちに心当たりのある人物は一人しかいない。
 
「まさか、張、角……?」
 
「ほぅ……? その名が出るとは……。 成る程、それなりには探りを入れていたようだの」
 
 剽げた口調で言ってから翁は、にたり、と人外の笑みを溢した。
 
「その姿形………、あの洛陽の鬼の北部尉の曹孟徳と見るが、相違ないかの?」
 
「いかにも」
 
 嗄れ声の問いかけに含まれた懐かしい響きに、曹操は苦笑交じりの首肯で応じる。

「ふむ、なるほどのぉ………。 鬼などと呼ばれておるから、どれだけ"出来る"のかと、こやつらに突かせてみたが……。 噂は事実であったか」

「その口振り……………、此方のことを調べてるようだけれど、なら私たちが貴方の頸を欲していることなど当然知っているでしょう。 それを知っていながら姿を曝した、と?」
 
 曹操の問いの直後、ひゅう、と枯れ木が軋り鳴くような不気味な音が沸いた。 ややあって、彼女にはそれが、この老人の忍び笑いだと解った。
 
「左様。 他愛のない好奇心、といったところかの。 儂の頸を狙う者が、いったいどれ程のものか、ひとつこの目で直々に見届けてやりたくなったのでな」
 
「あらそう? なら、貴方の目的も果せたようだし、最早雌雄は決したのだからこれ以上無駄な血を流す前に、さっさとこの戦を終わらせたいのだけれど、いいかしら?」
 
「雌雄は……、決している? 呵々々、そんなものは端から決まっておったも同然じゃわい。 馬元義の蜂起が成った時点で黄巾党の命運はそこで尽きたわい」
 
 眼前の老人の信じ難い発言に、曹操は驚きのあまり言葉を無くした。 それは、彼の弄言がまったくの戯言であったから、と言うわけではなくむしろ事実そのものだったからだ。 しかしそれと同時に曹操の胸内に、何故という疑問が際限なく湧き上がってくる。
 
「解せないわね。 洛陽での蜂起失敗が黄巾党の瓦解に繋がったと解っていながら、それをただ黙って見ていたと言うの?」
 
 相手の真意を見極めるため、冷淡に感情の読めない顔で問う曹操に、翁は鼻を鳴らす。
 
「儂に言わせれば、自ら黄巾党の屋台骨を折り、袂を別ったあの畜生どもこそ莫迦の極みぞ。 官職に金、土地に贅。 利権が絡めば彼奴ら―――『玉無し』どもが付き纏う。 彼奴らの富への執着振りを知っておるなら、下手な手出しなどせず様子見に徹しておるのが当然であろうに………。」
 
 そう言って、沈鬱にゆっくりとかぶりを振る翁の喉からは、その立ち姿とは逆に、さも愉しげな湿った笑いが漏れ出ていた。 その掠れ声が、曹操には堪らなく耳障りだった。
 
「儂らはな、ただ静かに、国の裏側に居ればよかった。 それを分を弁えず欲をかいて……、ほれあのザマじゃ。 今の黄巾党は明らかに無駄な肉が付き過ぎておる。 故に、まずは余分な脂肪を切り落としてやることが必要でな」
 
「…………………。」
 
 どこか剽げた口調で言ってから、歪みきった笑みで相好を崩すこの老人は、おそらく、誰よりも永く、深くこの国の歴史を裏から見てきたのだろう。 まるで可愛い孫の悪戯で汚されてしまった一張羅について語るかのような、どこか諦観にも似た空気を纏った祖父の姿がそこにはあった。

「では、此処にいる者たちは、信に足りる部下ではない、と? 残党を束ね、黄巾の再興を図ろうと思うなら、何故一人でも多く貴様に従う者を集い、逃がさない?」

 だが、今この時に至るまでに各地で起こった惨劇に対する悔恨や慙愧は、この老人から見て取れなかった。 その姿を見て曹操の脳裏には、遠征の道程で見た幼子の哀れな姿がまざまざと蘇る。
 
「いやなに、思慮のない阿呆どもを隠れ蓑にできれば、それに越したことはなかったんじゃが、どうにも儂は堪え性が無くてのォ……。 あの愚図どもの無様な末路を見届ける誘惑に抗いきれんかったわい。 それで、ほれ逃げ遅れてこの様よ」
 
「――――――、外道が」

 笑う老翁の掠れ声に掻き消された桂花の呟きは、彼女が自ら意識してのものではなかった。 元来が男嫌いの潔癖症であるこの軍師にとって、それほどまでに眼前の翁の存在は容認しがたいものがあったのだ。
 
「貴様は、味方の死を愉しんで見ていたと言うの?」
 
 嫌悪も露に侮蔑の表情を隠そうともしない桂花とは逆に表情を押し殺して、低く冷淡に曹操は問う。 すると老人は、心底驚いたと眉を上げると、今度はからかい混じりに喉を鳴らすのだった。
 
「おぉ……、心外よな娘よ。 お主の自慰による惨状に比べれば、儂の外道など児戯と呼ぶにも値しないわい」
 
「―――――なん、ですって?」
 
 楽進たちと出会う切欠となった賊の襲来。 玉座の裏で零した涙。 その記憶が、曹操の脳裏に去来する。

「ほっ! これは、いささか買い被りすぎたかの。 てっきり自身の悪辣さを自覚しているものだとばかり思っておったが………。  呵々、青い、青い」
 
 その瞬間、曹操の静かな殺意が周囲の気温を数度下げるにまで至らしめた。 もはや聞くに堪えなかった。 これ以上語らせることなどなく、寸刻の猶予も与えぬままに横薙ぎの一閃でこの老体を両断せんと、深く一歩を踏み込む。 だが、曹操の足運びだけで殺意の程を見て取ったのだろう、翁はそれ以上いたずらに彼女を刺激するような口上を続けることなく、代わりに、さっと手を振るい傍に居る黄巾の兵士たちに合図を送る。
 
「……………………。」

 その効果の程は覿面で、ふたたび曹操の動きを止めさせるには充分なものだった。 黄巾の兵士たちが引き絞った弓矢の射線の先にある標的。 桂花だ。 その無数の鏃の脅威を思えば、なるほど迂闊に動くこと叶わない。 故に、曹操はこう呟くに留まった。
 
「――――――――してやられた、と言うわけか。」
 
 曹操の立間合いを考えれば、仮に矢が放たとしても充分に対処ができる。 つまり、この場で桂花の命を盾にして人質としたつもりでも、曹操の武技をもってすれば、彼女の行動を妨げるほどの枷にもならないのだ。 更には、彼女にとって最も尊い魂の領域を辱められたのだ。 ならば、内側で持て余す筆舌尽くし難いほどの黒い憤怒の念を叩きつけてやることは、曹操にとってもはや決定事項ですらあった。
 
 だが、許容しがたい憤怒を叩き付けんが為に、一歩を踏み出してしまったからこそ、曹操はそれ以上、動くことができなくなった。 それは他ならぬ彼女自身が、これ以上ないほど目に見える形で、怒りに任せた行動をとってしまったが故に桂花に降りかかる危険を、僅かでも被る可能性を作り出してしまったに起因する。 たかだか我が身の自尊心を満足させるために覇道を謳っているのだと。 くだらない矜持を満たすためだけに民を、兵士たちを傷付け危険に晒しているのだと。 つい今し方、己が我意を揶揄されたが故に、曹操は己の行動を顧みなければならなかった。
 
「小賢しい………。 その性根はまさに蛆虫の類ね」
 
「おぉ、怖い怖い。 青いとはいえ、この老骨では睨まれただけでも堪えるわい」
 
 そう怖がってみせても、この老人が余裕の態度を崩さないのは、曹操が絶対に切り込んでこないという確信があるからだろう。 そしてそれは事実であり、彼女は自身の高すぎる矜持が故に、動きを封じられている。 ここで一歩でも踏み出し、眼前の翁に斬りかかろうものなら、それは曹操が曹操でなくなることを意味するからだ。
 
 誰よりも気高く、誰よりも鮮烈に、覇道を目指すものならば、"そう"でなければならない。 突きつけられた挑発に背を向けることは誇りが良しとせず、しかし、自身の怒りよりなお先に、指揮官たるものが果さなければならない責任が、曹操の小さな背に乗っている。 故に、彼女は動かないのだ。 個人の感情を押し殺してでも、覇者たらんとする曹孟徳であるために。 たとえそんな彼女の性格や行動を見抜いたうえで、この老体が挑発に及んでいたとしてもだ。
 
「―――――、それで? 用向きはなに?」
 
「うん?」
 
「くだらない御託を並べる為だけに、此処まで来たわけではないでしょう? でなければ、私たちの動きを封じるてまで対話に臨むものか」
 
 これ以上の挑発は聞く耳持たないと、やり場のない憤りを噛み殺しつつ、曹操はどこか小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。 普段であれば、ここまで噛み付かんばかりの敵意を剥き出しにする曹操ではなかったが、眼前の、甚だ気に喰わない老人に対しては徹底して強行に押し切る方針でいくと、彼女はいま決めた。 
 
「呵々、いやなに。 こんな儂でもな、ほれ、こうして儂に従ってくれた先行き危うい若人たちの身を、ちと案じておってのぉ……。」
 
 含みのある老人の言い分に、曹操は訝しげに目を細め、二人の会話を見守る桂花もまたこれには釈然としない面持ちだった。
 
「………………、何を企んでいる?」
 
「取引よ、曹孟徳。 ぬしの喉元から刃を引かせよう。 それと引き換えに、投降の意思を示す者あらば、それを受け入れい」
 
 曹操は、この老人のあまりの要求に一呼吸の間だけ呆気に取られ、それから侮蔑も露に失笑した。
 
「はっ――――。 何を言い出すかと思えば……。 大層な物言いの割には、結局のことろ我が身可愛さの命乞いか」
 
「呵々ッ…………、聞き手の品格を疑いたくなる答えじゃの」
 
 曹操の解釈に、今度は老人が哄笑をあげながら、存分に見下した冷笑を投げかける。
 
「だが、まぁ置いておこう。 儂はな、儂に付き従った者たちの生き様の果てに辿りついた結末が滅びならば、応とも悔やみなどありはせぬ……。 だがな、それは武士の生き方よ」
 
「…………、つまり?」
 
「数多の地にて雌伏して時を待つ同胞らの中には、力無き女子供も居る、そやつらの先行きを思えばのぉ……。」
 
 もって回った翁の言い回しに曹操は冷然と頷いた。 要するに、この老人の懸念するところは黄巾党に大小関わらず加担した非戦闘員の生命の保証ということだろう。 だが、徹底した諜報作戦を展開し、自身の姿形すら窺わせずにいたにも関わらず、この土壇場になってからの急な交渉。 加えて全滅すら厭わない士気旺盛な黄巾の兵士たちにを用いているにも関わらず、消極的過ぎるほどの用兵。 相手の内情が不透明過ぎて何かを企んでいるかと思っていただけに、外面にこそ出さなかったが、これに曹操は釈然としないものを感じた。

「もとより我らは、平伏した者を斬るような趣味は持ち合わせてなどなく。 もし、女子供であっても容赦なく斬り捨てる悪鬼と同一視されていたのなら、これ以上ない屈辱だわ」
 
 反抗の芽の無い者にまで、あえて拳を振り下ろすなど曹操の主義に反する。 そんな想像することすら厭わしい行いを、彼女の軍がすることなどあろうはずもなく、曹操は自然と険しい面持ちで翁にを見据えると、ひときわ断固たる口調で言い放ったのだった。

「ほっ。 ならば交渉成立とみて良いな?」
 
「ふんっ。 貴方などに話を持ちかけられるまでもなく、私たちは力を持たぬ者たちへ充分な配慮を払っているわ」
 
 それを聞いて翁は内心ほくそ笑んだ。 自身の気位の高さに加え、武人としての誇りや栄誉を重んじる曹操が、一度吐いた言葉を違えるとこは、まずない。 この言葉こそ翁が交渉の場に引きずり出したかったものだ。 全ては彼の目論見通り、である。
 
「その配慮を明文化せいと、要求しておるのだ」
 
 老人はまるで満足した猫が喉を鳴らすかのように陰鬱な、にんまりと含み笑いを漏らした。
 
「――――、我が名に賭け、非戦闘員を保護することを確約する。 …………、これでもまだ不服なら覚書でも用意させましょうか?」
 
「いや、結構」
 
「そう……、これで其方が提示した条件を呑んだ。 なら、今度は貴方が此方の要求を呑む番よ」
 
 そう言ってこの交渉の主導権を主張するかのようにどこまでも高飛車な態度で、曹操は唐突に切り出した。
 
「――――――いま、なんと?」
 
「理解できない? ならば、言い直しましょう。 我々が行うべきこと、それをこの場で明確にしたかった貴方は、私と交渉して言質を取った。 そちらが最初に言い出したことでしょう? これは取引だと。 なら貴方は対価となる物を提示しなければならない。 品物を求め、受け取ったのなら代金を支払う。 それは当然のことだと思うのだけれど?」
 
 すらすらと淀みなく、いっそ傲岸なまでの態度で語る曹操に、それまで悠然と構えていた老人も、面から表情が消えた。
 
「娘、儂の記憶が正しければ、たしかに申し付けたはずじゃがの。 主らの喉元から刃を引かせる代わりに、と」

「えぇ、確かに聞いた」
 
「ならば―――――。」
 
「だから、それがなに?」
 
 翁の言葉を最後まで言い切らせること無く、曹操は眉一つ動かすことなく、きっぱりと言い切った。 それがどうした、と。 さらに彼女は冷ややかに取り澄ました声で、不敵に続きの言葉をを付け足した。
 
「我らは最強の兵を統べるが故に、たかが脅迫程度で屈することなどあろうはずもなく。 本来であれば、姑息にも手段を選ばぬ卑劣漢の言を聞き入れる事などありはしない。 ――――ただ、そちらの弱者に対する考えを受け止めた上で、こちらが一考したまでのこと」
 
「…………………。」
 
「其方が何かしらの対価を支払えないと言うのであれば、まぁそれもいいでしょう。 そうなれば、当初の予定通り、ここを突破して貴方たちを殲滅するだけよ」
 
 そのあまりにも理不尽極まる要求は、聞き手によっては色を無くすことだろう。 だが、この傲岸なまでの尊大さは、なるほど曹孟徳という人物に相応しい。 それが嫌味にならないだけの風格を彼女は兼ね備えている。

「……………………。」

「時間は無いものと知りなさい。 我が護衛は、すぐそこまで来ているのだから」

 ここまで憚りのない物言いをされて尚、曹操の言い分に対し、老人は何の反駁も返さない。 その沈黙が意味するとことは充分に明確だった。 是が非でも曹操に要求を飲ませたかったから、危険を承知で姿を曝したのだ。 ならば、目的を果そうと思うなら、交渉以外の手段は無い。
 
「……………、いいだろう、娘」
 
 冷え切った声音で翁はそう答えた。 もとより他に選択肢は無かった。

「なに?」
 
「この頸、欲しがっておったな。 なら、好きにせい」

 それまで冷然と構えていた曹操も、さすがにこれには瞠目した。 しかしその一方で、彼女の脳裏に潜む冷徹な部分が一切の感情を排し、曹孟徳を人ならざる一つの観測機へと淡々と切り替えていく。 曹操は冷ややかに値踏みする眼差しで老人を眺めるも、それを受け止める当の本人は、後はそちらの出方待ちだとばかりに平然としている。 余程相手を舐めているか、さもなくば―――。
 
「貴方―――――、死ぬ気?」
 
「ほっ。 まさか心痛である、などとは言うまいな? 官軍の指揮官殿」
 
「………………。」
 
 どう見ても巫山戯ているとはとは思えない翁の様子に、彼の本気を曹操も理解した。 だがそれと同時に、さも大儀そうに杖に寄りかかりながら、いよいよ持ち前の人外の微笑を剥き出しに此方を見据える老人へ懐く印象が、今までのそれとは違ってくる。 いや、今まで釈然としせずにいた相手の内情を僅かなりとも垣間見たが故に、道筋が見えてきたと言うべきか。
 
「確かに、黄巾党首魁の頸となればこれ以上に無い対価ね」

 翁が差し出した条件に、一定の満足を抱きながらも、しかし曹操の声音は固かった。

「でも、だからこそ解せない。 貴方の行動は死にたがりのそれよ」
 
「我らから滲み出た妄執。 それを雪ぐは、我らの手で果さねばならぬからのぉ」
 
 真意を隠す返答に、曹操は当たり前のように聞き流すかとおもいきや、だがむしろ冷淡に感情の無い顔で、低く抑えた声で問うた。

「―――――二言はないな? "張角"」
 
「呵々々。 応とも」
 
「ならば良し。 最後になって漸く馬脚を顕したようだけど…………、捨て置きましょう」
 
 いま優先的に片付けなければならない事柄は、他に大勢ある。 たとえ眼前の老人の狙っていた意図が見えてきたとしても、そこに拘泥して肝心なものを忘れるほど曹操も愚かではない。 指揮者という観点からみれば、未だ続いているこの戦を速やかに終決させる必要がある。 張角を名乗るこの翁を討ち取れば、全ての決着がつく。 ならば胸内に蟠りを残すようで気にくわないが、"そう"するべきなのだ。
 
「あぁ……、そうだった」
 
 自らの得物である『絶』を抜き払い、翁の首筋にひたり、と凍るほど冷めた刃をあてる距離まで近づくと、曹操は白々しいほどに、さも失念していたとばかりの表情を作った。
 
「―――――――――――――――。」
 
 まるで秘密の話でもするかのように、曹操は老人の耳にしか届かない声音で『何か』を話す。 その姿を、桂花は周囲の黄巾の兵へ睨みを効かせながら見守っていた。

「ほっ。 さぁて、のぉ………。 何であろうな」
 
「語る気はない、と」
 
「呵々。 知りたくば冥府まで着いてくればよかろうて。 さすれば、万言かけて語りつくしてやろうぞ」
 
「ただの一言で済むところを万言語るとは………。 お生憎様、私にはまだやるべき事が死ぬほど残っているの、そちらへは当分行けそうに無いわ」
 
 これ以上は問答の余地なしと見て取った曹操は、瑠璃色の双眸に、剣呑な色を顕した。 漢に弓引いた逆賊であることはもとより、平和を祈り日々を生きてきた何ら罪のない民を死へと追いやった者どもの長とあっては、生かしておくだけの理由が無い。 それが曹孟徳の決定だった。

「でもまぁ、席は作っておきなさい。 私は遅れて行くわ」




 ほどなくして、黄巾党首魁を討ち取ったという知らせが大陸全土を駆け巡ることとなる。 これにより、民衆への苛政から端を発したとされる農民を中心とした大反乱である『黄巾の乱』は一気に終息へと向うこととなる。 だが、漸く訪れたはずの平穏は、新たな戦乱までの一時的なものにすぎなかった。






あとがき
別の作品に浮気してました。
どうもギネマム茶です
 
戦闘描写が書けないから他の作者様たちの作品を拝見しいたりで現実逃避していたら、まさかこんなことになろうとは……。
 
そう、これは私が悪いのではない。 面白いものを書き上げる作者様たちがいけないのである。
けしからん!実にけしからん!

そしてまた他の作品をウキウキウォッチングする時間が始まる。
…………続きを書きつつ。
 
今後はここまで期間があかないよう頑張りますorz

ではまた次回


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