■台詞で創作100のお題■
副題/やーさんとオカマの恋物語
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■1〜10 ■11〜20 ■21〜30 ■31〜40 ■41〜 50 ■51〜60 ■61〜70 ■71〜80 ■81〜90 ■91〜100
【1】 いやはや、参った。 |
そもそも新條にそっちの趣味は無い。否、無かったと過去形の方が正しいだろう。連れて行かれたクラブの従業員の質の高さに、ものの見事に騙されたのだ。 「…おい、坂崎…」 異変に気付いたのは、いつもなら一時間もしない内に気に入った女をお持ち帰りする同僚が、いつまで経っても席を立たずに酌をさせているのを見付けた時。店に来て、裕に一時間半は過ぎている。 「ん?」 丁度良い具合に酔っているのだろう、僅かに目元を赤く染め、坂崎は新條に流し目をやった。 「行かないのか?」 彼の横に居る女はクラブでも群を抜いて美人だった。ケバ過ぎないきつい目の化粧が良く似合い、モカブラウンに染めた髪を無造作にかき上げる仕草に色気が漂う。いつもの坂崎なら迷わず一緒に消える類の女だ。 「ああ…俺はここでは酒を飲むだけって決めてんだよ。神谷のシマでゴタゴタになったら、後が怖いからな」 本気か冗談か解らない事を笑って言う。坂崎の女癖の悪さは今に始まった事ではないし、刃傷沙汰も珍しくない。新條にそうかと納得させるだけの理由は背負っていた。 「気に入ったコが居たら、連れて行って下さって構いませんよ」 和服の似合うママが妖艶に笑う。少し裏のありそうなその笑い方に若干のひっかかりを覚えたが、新條とてそんな些細な事にびくびくする様な生き方はしていない。何より、最近暇だとぼやいた自分に同僚が誘ってくれたクラブで何かあるとは思いもしなかった。 「そうか…」 空になった新條のグラスに隣に座っていた女が新しい酒を注ぎ、そっと差し出す。それを手に取り、一口舐める様に飲むとぐるりと店内を見渡した。 奥のボックスに通されている為大して見渡す事はできないが、目に付いた女に白羽の矢を立てる。 「なら、あれにするかな」 一番男のあしらいに慣れていそうな女だった。後腐れなく、一夜限りの相手に最適だと思ったのだ。 ママはお目が高いと新條に目を細め、女を呼びに席を立った。声を掛けられた女は一瞬視線を新條に向け、僅かだがその眉間に皺を寄せる。それはほんの一瞬で、よくよく注意して見ていなくては解らない仕草だったが、新條の目には確かに女の不快が伝わった。 自分の見誤りかと舌打ちしたい気分を酒を飲む事で誤魔化し、今更別の者に取り替えろと言うのも負ける様で気に食わない。女に対し闘争心を燃やす新條の心情を知る者など居はしない、近付く女を新條は極上の笑みを乗せて迎えたのだった。 女は深紅のチャイナドレスの下にパンツを履いていた。こういう店で露出が低いのも珍しいものだと、新條は隣に座らせた女を観察する。 線が細い。第一印象はそれだった。どこもかしこもほっそりとしていて、手首など新條のそれの半分ほども無いのではなかろうかと思うほど。しかし、肉付きの薄い身体は決して不健康そうでは無かった。若柳という言葉が浮かぶ。豊かな黒髪を一括りにし、無造作に背中に流すその姿は日本的な美しさがある。白過ぎない肌色に、新條は選択を間違えていない事を確信した。 「お前、名前は」 ボックスに来た時もぺこりと頭を下げるだけで、愛想のあの字も見せない相手にママはしきりに謝っていたが、新條は中々新鮮な思いを味わっていたのでそれは手であしらった。 「…」 しかし女はちらりと新條の顔を見ただけで、ふいと視線を横に逸らし応える事を拒否する。 その反応に、新條は思わず笑った。 「良いな、その反応。全く期待を裏切る」 女はそんな新條の言葉に、呆れた様に溜息を吐くと酒を作って渡した。 「…普通、接客したコを選ぶでしょう。何で指名も無いアタシが選ばれるんですか」 初めて聞いた声は思ったよりも低かったが、不快ではなかった。新條は貰った酒を口に含みながら思い付いて女の顎に指を掛けた。 「…っん!」 僅かに空いた隙間に忍ばせた舌を伝い、女の喉に強い酒が落ちる。軽く眉を顰めながら、しかし咽る事無く飲みきった女の強さに新條はまた笑った。 「目に付いたからな。何だ、後で文句を言われるのが嫌だからあんな態度か」 「…、それも、ありますけど」 自分の口紅が移った新條の唇をハンカチで拭いながら、僅かに視線を新條の後ろの坂崎に移す。楽しそうに細められた視線に女はまた溜息を吐いた。 「知りませんよ、後悔しても」 ひょいと片眉を上げる気障な仕草が似合う男を、店の皆が来店当初から狙っているのは気付いていた。そして誰もが男がこの店の趣向を理解していない事も。 「しないさ。…しない夜に、させてやるさ」 肩に回された手の平が強く女を抱き、再び酒を伴った口付けがなされるのを甘受しながら、女は心の中で「そんなワケあるか」と、一人毒吐いていた。 新條は生まれて初めて戸惑いと言う物に立ち向かっていた。ほど良く酔っていた酒はどこかに飛んでいってしまっている。 縺れる様にキスをしながら倒れ込んだ先のベッドで組み敷いた女。一夜限りの相手に相応しいと、キスだけで思った。煽る事に、煽られる事に慣れている。 豊かな黒髪が清潔そうなシーツに波打っていた。現実逃避に新條は綺麗な景色だと、馬鹿な事を考えている。 「…だから、言ったのに…」 溜息を吐きながらの台詞は、先ほど聞いた音程より更に低かった。 胸の上に置いた手が、膨らみを潰すまで、新條はその事に全く気が付かなかった。 女の喉元に、有る筈の無い膨らみが在るなどと。 「…男…」 「あそこ、オカマバー」 「…何だって…」 「ニューハーフに囲まれてたんだよ、あなた」 「…ああ、そうか…」 面白い所に連れて行ってやる。坂崎はそう言っていた。 「だから言ったでしょう。後悔するよって」 新條の下からまた溜息が零れた。新條は頭をフル回転させ、気付かれない様に深呼吸を繰り返す。それから、余裕を取り戻した。 「俺はしない夜にさせてやると、言っただろう」 にやりと不敵な笑いを浮かべ、僅かに目を見開く女…否、男を見下す。 「性転換はしていない様だな。下もそのままか」 言うなりいきなり急所を柔らかく包まれ、男は息を飲んだ。そのまま揉み始める新條の手に戸惑いの表情が浮かぶ。 「生憎男は初めてだが…まあ、やっちまえば一緒だろう」 腹を括ったのか投げ出したのか、兎に角ここで引き下がるわけには行かなかった。ここで止めては坂崎にも笑われる事間違い無しだ。いっそ突っ込んですっきりさせ、ケロリと食ったと言って見せたいという可笑しなプライドだ。 「…勃つんですか、男に」 「さあな」 「役に立たないまま圧し掛かられても、嬉しくはないですよ」 「勃つさ。お前が良い声で鳴いて、良い顔で喘ぐならな」 「あなたが上手ければ、自然とそうなりますよ」 「お前からのサービスは無しか?」 「されなければ勃たないなら、止めておいた方が良いと思いますが」 「…後悔するなよ」 「お手並み拝見といきましょうか」 挑む様な目付きで互いに睨み合い、交わす口接けに閉じられる瞼は無かった。 |
【2】 スキ・キライ・スキ、…スキ。 ▲This page top |
カウンターでダリアを片手に、その花弁を千切っては捨て、ゴミを増やす従業員にママは苦笑いを零す。 「マコちゃん、今時花占いなんて流行らないわよ」 びくっと肩を揺らすマコを観て、また零れる笑い。 「ママ…」 「憂いを帯びるなんて、マコちゃんには一番縁遠い言葉だと思っていたけど…」 背中に流れる黒髪を優しく撫で、ママはマコの横に腰を落ち着けた。マコは散らばった花弁を掻き集め、頬杖を付き溜息を吐く。 「アタシだって、そう思ってましたよ…」 しかし漏れる溜息は何故か桃色。恋する乙女の色だった。 「…彼かしら、新條さん」 数日前に坂崎に連れられてやってきた新顔の客。ブランドスーツに身を包み、裏社会の危険な香りを漂わせ、見る者を魅了するマスクに恵まれた体躯。部下を連れていないのが不思議に思えるほどの威厳と威圧があった。 「あんなのに自分が嵌まるなんて、信じられない」 両手で顔を覆い、思い出すのはあの夜の出来事。 絶対に抱かないと思った。巧みなキスに翻弄されながらも、胸に手を置かれた時点で終わりだと疑いもしなかったのに、新條は何だか執拗に優しくマコを愛撫し、鳴かせ、快感に狂わせた。 肌を滑る手が僅かな反応の違いも見逃さないかの様に繊細で、かと思ったら荒々しく求めてくる激しさを見せる。 最初に急所を触られた事にも驚いたが、まさか口に含むなどと考えもしなかった。自分だって強要されない限り絶対にしたくない事だ。好きで好きで止まない相手の物なら厭わず含むかもしれないが、初対面の、しかも女と思っていた相手に。 流石に飲むには至らなかったが、嫌な顔どころか自分の反応に満足そうに笑みを浮かべる余裕が癪に障った。どうだ、参ったかと、そう言われている様で。 ムカついたのでサービス無しと言ったにも関わらず、自分も新條の股間に顔を埋めようとして止められた。今迄自分の物を含んでいた口で優しくキスをされ、 「今この唇は、俺とキスをする為だけにあるんだ…いいな」 有無を言わさない強い口調で、何て恥ずかしい事を。それに頷いた自分が信じられない。 翻弄される事を良しとした後に来るのは快感の波だけ。 セックスだけで終わっていたら、こんなに引き摺る事は無かっただろう。風呂に入れられ、朝日が昇るまで同じベッドでまるで大事なものを抱き締める様に抱かれていなければ。目が覚めて、優しい笑顔を向けられたりしなければ。優しいキスを、贈られなければ。 背中に回した手が、回された手が、互いを抱き締めなければ。 「…会いたい…」 ぽつりと漏れた言葉は、それでも叶わない事を知っている。 繰り返し自問自答。本当に?…スキ、キライ、スキ、…スキ。 |
【3】 はい、馬鹿決定。 ▲This page top |
坂崎は事務所の安いパイプ椅子に背を前にして座り、煙草を吸っていた。目の前には面倒臭そうに書類に目を通す同僚。 「坂崎、暇なら町金の見回りでも行ってきたらどうだ」 「そんな事は下っ端にやらせるモンでしょう」 「たまには上が顔を出さないと、締りが悪い」 「なら新條が行ってきたら?」 「それならお前がこの書類に判を押すか?」 「冗談。何でデスクワーク」 軽く肩を竦める同僚を鼻で笑い、新條は再び書類に目を落とした。 「…な、聞いても良いか?」 最初から何か聞きたくてここに居るのは分かっていると、新條は坂崎を見ずに小さく頷く。 「マコちゃんとやっちゃったのか?」 しかしその問いに、新條は首を傾げた。言われた名前に心当たりが無いからだ。 「誰だ、それ」 「誰って…この前お持ち帰りしちゃったコ」 最近お持ち帰りしたと言うと、あれしか無い。見る見る内に眉間に深い皺を刻んでいく新條を見て、坂崎は自分のお遊びにまんまと引っ掛かった同僚から椅子共一歩距離をとった。 あれから数日が経っている。翌日会った時に怒られる事も無く昨日の事等無かったかの様に過ごす新條に、何となく事の顛末を聞きそびれていたのだ。満を持しての問い掛けはもしかしなくても地雷だったのだろうか。 「えーと…」 「…マコって言うのか、あれ」 眉間の皺は解かれぬまま、新條は深い溜息を吐く。 「店ではそう呼ばれてるけど…新條?」 「坂崎、今夜ちょっと付き合え」 何だかお悩みモードな同僚に坂崎は分かったとだけ答え、その話題は打ち切られた。 まず最初に断っておくがと前置きされ、話された内容に坂崎は目を瞠った。 「何、新條、開花しちゃったの?!」 だから違うと、新條は大袈裟に驚く同僚を軽く叩いた。 「止まらなくなっただけだ」 飾りだった胸の膨らみを取り去った後のマコの胸に、小さく色付く果実を指先で擽った時のマコの声に。ピクリと震えた身体の反応に。 本能の赴くままに、自分では考えずに体が動いた。今迄していた自分本位のセックスが嘘の様に、マコの反応を一々確認しながら事を進めた。彼の雄を口に含んだのは自分でも驚いた程だ。思ったよりも平気だと、流石に飲むわけにはいかなかったが吐精したマコの壮絶な色香にやられた。あまつさえ彼も自分の物を口に含もうとするから馬鹿な台詞で止めたのだが、恐らくあのままフェラをされていたらものの二分も経たない内に出していただろう。 後孔を解すのにも躊躇いは無かった。むしろ、自分の指に、舌に一々声を上げ、身体を捩るマコが可愛くて仕方ないと思った。繋がりたいと思ったのは初めてだ。突っ込みたいとは何度も思ったが、涙で濡れた目で懇願されて、手を伸ばされて、抱き合った瞬間に一つになりたいなんて。 「頭から離れない」 あの日から、一度だけ女を抱いた。本物の女を。しかし、最中に思い出すのはマコの姿ばかり。嫌気が差してやはり自分本位のセックスに女が喘ぐのを冷めた目で見ていた。 「…やっぱり開花しちゃったんだ…」 坂崎の呟きに、新條は今度は否定しなかった。 「どうしたら良い」 「それを俺に聞くか…」 知るか、と言えないのはこれでも付き合いの長い友人だからだ。 「まあとりあえず、もう一回会ってみて、それからじゃないか?」 友人の助言に素直に頷く。適当に流されたとは夢にも思わない。 「何かプレゼント、買って行った方が良いか」 真剣に問い掛ける新條に、坂崎は噴出したいのを必死で我慢した。 「そうだなぁ。バラとかどう?深紅のバラ百本位ぽん、と渡すと目の色変わるよ」 それは女の場合だが、新條はやはり真剣に頷いた。 |
【4】 言葉にするぐらいなら目で語れ。 ▲This page top |
深紅のバラを百本。本気で用意した新條に坂崎は呆れを通り越して寧ろ感嘆すら覚えた。自分に相談する前にすでに新條の中で答えは決まっているではないか、と。 「…自分で花屋に行ったのか…?」 「プレゼントは自分で選ぶもんだろう」 それが贈り物をする立場として当然だと、いまや一事務所を任されている同僚が言う。 「…ていうか、目立つな…」 車から降りて直ぐの所にある店だが、降り立った途端に新條の腕に抱かれたバラの花束と新條の容姿に視線は集中した。だれもがこの男の相手を想像し、悔しがっている。しかし立っている店はその手の店だ。場所柄入り乱れてはいるが、極上の部類に属する男がオカマを相手にするのかと不思議な視線も混じっていた。 「マコは毎日出勤しているのか?」 地下へ続く階段を降りながら、今更な質問をしてくる同僚に坂崎は今度は呆れを覚える。 「居なかったらそのバラどうするんだよ」 「捨てるな。必要無いから」 「…ママに確認済みだよ。今日は居るってさ」 「そうか」 呆れられている事など気にも留めず、新條は店のドアへと辿り着いた。開いた先に居た出迎えの女達は皆一様に瞠目し、挨拶も忘れ新條とその手に抱かれるバラへと視線を注ぐ。 「マコは居るか」 挨拶をしない女達を特に気にも留めず、新條はただ自分の目的のみを口にする。一人が我に返り、ただ今呼んで来ますと言う言葉に鷹揚に頷き、途端ばたばたし始める女に促されるまま以前と同じ席に通された。 店はそこそこ繁盛している様で、カウンターにもボックスにも客は居た。知らずマコを探す自分の視線に苦笑いを零し、どうせすぐ来るのだとバラを片手に坂崎を従え、新條はいつもの様にソファに深く腰掛けたのだった。 やってきたマコは今日は黒のチャイナドレスを身に纏っていた。僅かに眉間に皺が寄っている。呼ばれた相手が新條だと分かっている筈なのに、訝しむ視線がバラと新條の顔に交互に注がれた。 「…こんばんは、いらっしゃいませ」 お座なりな挨拶がマコの口から漏れる。新條はそれに口端を上げる事で応え、横に座る様促した。 「お前にだ」 促されるまま腰掛けたマコに酒を作る暇を与えずバラを与える。瞠目するマコの反応に満足を覚え、坂崎の提案も悪くなかったと自己満足。 「何でですか」 しかしマコは瞠目した目を細く窄め、更に訝しさ全開で新條を見た。 「解るだろう」 わざとおどけた風を装えば、更に眉間に皺が寄る。夜の女としてその顔は失格だと誰か教えてやらねばなるまい。 マコは与えられたバラをそっと自分の隣に移し、嘆息しながら酒を作り始めた。カランと大振りな氷がグラスの中で音を立てる。注がれる琥珀色の液体が芳醇な香りを漂わせた。 「…どうぞ」 差し出されたグラスに添えられたマコの指が綺麗だと、思った時にはその指先に口接けていた。 「っ?!」 ビクッと震えるマコに、新條は目だけを向ける。指先に舌を這わせ、目を合わせたまま愛撫する仕草にマコの心臓が早鐘を打ち始める。 「あ…あの…」 戸惑うのはマコばかりではない。とりあえず新條の横に座り、お気に入りの女を侍らしている坂崎とて新條の行動が読めなかった。 見詰められたまま、指先にあった唇は手の平を吸い上げ、ゆっくり離れていく。手首を掴んでいた新條の手も離され、それはすいと上に上がるとマコの頬を擽った。初めてこの席に迎えられた時と同じ極上の笑みを伴って。 「俺の物になれ」 新條の目の中に自分が居ると、思った。見詰められ、自然に落ちる瞼。近付く唇に全てを委ねたくなる。手の中に落ちてくる、落ちていく錯覚が二人を絡め取った。 |
【5】 嫌なモンは嫌なの。 ▲This page top |
長い口接けの果て、くたりとソファに背を預けるマコの口から漏れる吐息すら新條は奪いに行く。 「ん…っ」 覆い被さるようにマコを包み、腰を抱き、苦しそうに顰められる顔に欲情する。 「…ふ、う…」 いつ終わるのか、抗議の指先が新條のスーツを掴んだ。続きはまた後かと、新條は周りに集まる好奇の視線を受け止めながら最後に吸い上げマコを解放してやる。 白い頬を上気させ、とろりとした目であらぬ方向を見るマコの視線を自分の方に向けさせようと、新條は肩に腕を廻し自分の懐にマコを抱きこんだ。 「今日もお持ち帰りか?」 「そうだな」 苦笑いを浮かべながら自分を見る坂崎に、新條は片眉を上げながら肯定する。先ほど作られた酒に手を伸ばし、腕の中で息を整えようと深呼吸を繰り返すマコの髪を撫でながら。 「す…すみません…」 僅かに胸を押されたかと思うと、マコが新條の腕から起き上がろうとしている。新條がそれを許すはずも無く、笑いながら抱き込む腕に力を込めた。 「何だ、もう少しゆっくりしておけばいいだろう」 夜は長いと繋げられた言葉に、マコは胸を押す力を強めた。眉間に縦皺を作るのは今度は新條だった。基本的に、自分の思い通りに動かない物は許さない性質である。服従させる事に慣れた男は反抗的な態度を取るマコも許しはしない。 「大人しくしておけ」 些かトーンの落ちた響きはその席にいた他の女には効果的だったようだ。息を飲む音が聞こえた。 「…離して下さい」 しかし、マコには通じない様だ。抵抗する腕は力を強め、抱き込もうとする新條の腕に必死で抗う。やはり夜の女としてその態度は失格だと、誰かマコに教えてやらねばなるまい。 「興醒めだな…帰る」 案の定機嫌を損ねた新條は、どん、とマコを突き放し立ち上がった。慌てたのは他の女で、立ち上がった新條をまた座らせるのに必死になるが、そんな事で新條の機嫌が直るわけでもない。 坂崎もここまで頑なに拒まれてそれに執着する様な男ではないと認識している同僚の行動に付き合い席を立った。せっかくのバラも台無しだと、バラの上に倒れ込んだまま起き上がらないマコの表情を窺うが、それは俯き解らなかった。良い金蔓だと思うんだけどと、マコの態度に疑問を覚えるがそれはマコの問題だ。坂崎が口を出す事でもない。新條の恋もここまでかと、僅かながらに彼に同情したりもしていたが。 「今日は帰るがな」 それもボックス席を出たところで足を止めた同僚が、バラに埋もれたマコに声を掛けるまで。 「お前が俺の物だと言う事は肝に命じておけ」 あ、そういう事ねと肩を竦める坂崎。 不機嫌も露わにガシガシと足を進める新條に付いて行きながら、込み上げる笑いを抑えるのに苦労した。 新條が去ったのを確認してから、マコは漸く体を起こす。バラに倒れ込んでどこか怪我は無かったかと心配する同僚に首を横に振った。驚く事に、貰ったバラの棘は全て抜かれていたのだ。 「もう、びっくりしちゃった。マコちゃん勿体無いことするわよねー」 呆れた様に片づけを始める同僚に、マコはうん、と力なく答える。 「…ママに叱られるかな」 「えー、そりゃそうでしょうよ。ここはお客様を良い気分にさせてあげる為の場所よー?不機嫌にさせて帰られちゃったら、もう減俸モンでしょう」 やはりそうか。自分の所為で潰れてしまったバラの花を整えながら、マコは小さく嘆息した。 新條が自分を呼んでいると言われた瞬間浮上した心は、このバラを見た事で沈没していってしまった。所詮自分は夜に生きる偽者の女。貢がせてなんぼの世界に身を置く自分が、酷く嫌になったのだ。そうしてそれを当然と受け止めて自分を物扱いする新條にも。 嬉しいと思わない事も無かった。ただ、新條が自分をどう見ているのか分かってしまうだけに、どうしても頷くのが嫌だった。その他大勢に埋もれる位なら、いっそ。 「マコちゃん、後で良いわね?」 厳しい顔をしたママが控え室に戻ろうとしていたマコに声を掛ける。マコは小さく頷き、これから先の事を朧気に考えた。抱えたバラは、潰れても甘い香りを放っている。そうして自分がそんな花になれない事を、マコは痛い程分かっていた。 |
【6】 逃げても無駄、隠れても無駄。 ▲This page top |
そうなる事は予想の範疇にあった。あそこで拒まれたのだ、自分の素性を知っている店が次に取る行動など手に取る様に分かる。 「お前ね、組を私情に使うなよ…」 「俺の為に何かすると言って聞かない奴だ、気にする事はないだろう」 坂崎は探偵の真似をさせられているであろう下っ端の組員、盲目的に新條に傾倒している小栗の顔を思い出しながら溜息を吐いた。一体あのオカマバーに連れて行ってから何度目の溜息だろう。楽しい事には変わりないが、どうにも心労が絶えない。 「本気で惚れちゃったのねー」 「…さあ、どうだろうな。逃げると追いたくなるのが人間心理というヤツだろう?」 それは獣の心理ですと、坂崎は吐いて出そうになる口を閉ざした。 「××区の『みのり』って店です。前に居た高級クラブとは天と地程の差がありますけど、やっぱりカマバーですね。マンションも引っ越して、店の近くのボロアパートに今は居るみたいです。あ、で、昼間にもちょっとバイトしてるんですよ。『みのり』のすぐ近くにある雑貨屋で女の格好したまま。長いスカート履いて胸ありましたよ。貧乳もいいとこでしたけどね」 飛んで火に入る夏の虫。いや、今は秋口だけどと坂崎は新條に話している小栗の報告を聞いていた。 「これ一応写真です。俺カメラ上手くないんですよね、すんません」 謙遜しているわけではなく、本当にどこを写しているのか分からない様な写真だったが、雑貨屋の外で店のディスプレイを弄っている姿や、『みのり』に出勤する途中の姿がそれとなく写っている。 「上出来だ。悪かったな、つまらん事に時間取らせて」 「そんな!滅相も無いッすよ!」 どうだ一本と新條に煙草を勧められるまま、小栗は平身低頭でそれを恭しく受け取った。同じく煙草を咥えた新條に火を付け、暫らく逡巡した後貰った煙草を大事そうに握り締める。 小栗の新條コレクションがまた一つ増えたと、坂崎が笑うがそれを見咎める者は居ない。 「どうしましょ、新條さん。このコの身辺も調べましょうか?」 今回新條はマコの足取りを追えとしか小栗に言わなかった。それ以上をしても構わなかったのだが、以前必要以上の事をして怒られた事のある小栗は、それ以降新條からの私情の命令は言われた事のみを実行している。 「…いや、良い。あまり嗅ぎ回ると気付かれるからな」 「気付かれちゃ不味いのか?」 てっきり押して押して押し捲る勢いで行くのかと思った坂崎はつい口を出す。 「また逃げられたら敵わん」 坂崎の眉が器用に片方上がる。 「それに…」 「ん?」 言い掛けてやめた新條の続きを促す坂崎だったが、それに新條が応える事はなかった。ただ黙って煙草を燻らす。少し遠くを見ている目が、何かを探している様だった。 マコが選んだ『みのり』は前の店から二つ、区を跨いだ所にあった。同僚が気を利かせて紹介してくれたのだ。店の格は落ちるが、品位は高かったので即決した。ママと従業員が八人、マコを入れると九人。その内常勤が三人の小さな店。近くの雑貨屋でもバイトとして雇ってもらえ、順調な再スタートを切ったと思い、気持ちも落ち着いてきた矢先の事だった。 やって来たのだ、新條が。客ではなく、この区を仕切っている組のトップとして。 「あら島ちゃん、カッコ良い方連れちゃって。どなた?」 「ママさん、こちら俺の事務所の組長の新條さん。粗相の無い様に頼むね」 四十絡みの島本が軽いノリのママに慌てて言うのを、マコは呆然と見ていた。 「中々感じの良い店だな…。従業員も…まぁ、ぼちぼちか」 「あらヒドイ、これでも顔で雇っているんですよ」 新條の冗談に島本もほっと緊張を解く。いつもなら勝手に集金に回らせるのに、何故か今月に限って付いていくと言い出した新條に、一体自分の何を疑っているのかとどきどきしていたのだ。確かに稀に集金をくすねる輩も居るには居るが、自分は一度としてそんな事をした覚えもないのだから。 「座らせてもらうぞ」 「ええ、ええ、もちろんどうぞ。サービスさせてもらいます」 カウンターに居たバーテンに目配せをしながら新條を席へと案内するママに、新條は世間話の延長で尋ねた。 「新しいのを雇ったそうだな。違う区から来たんだって?」 島本は、この新條の問いで今日付いて来られた理由を悟った。偵察に来たのだろうと。 別の区からの流れ者は用心するに越した事が無い。一体何を連れてくるのか分からないからだ。それは例えば薬だったり拳銃だったり斡旋業だったり。荒らされる前に潰すか取り込むかしなければ、区を仕切っている組の面子に関わる。 「お耳が早いですね、ほら、あのコですよ。マコちゃんって言うんです。綺麗なコでしょう、今時着物も着られるし、礼儀正しくて重宝しちゃう」 嬉しそうに話すママに新條は優しく笑う。ぽっと年甲斐も無く頬を染めるママは、まだまだ現役。 「あのコ付けてもらって良いか?」 新條が言い出す前に島本が口を出した。 「もちろん、マコちゃん、こちらお願いね」 店に来てから初めて新條は視線をマコに向けた。先程から不躾なほどこちらを凝視しているマコに気付いてはいたが、あくまで偶然を装う積りだったのだ。 「…はい、いらっしゃいませ。どうぞこちらに」 目が合った瞬間、やはり感じるのは捕縛感。何故逃げられると思ったのか、この感情の嵐から。 「逃げても無駄だと、痛感中か?」 心の内を読んだ新條の笑いを含んだ声はマコにしか届かない距離。 「何で隠れようと思わなかったのかと、考えただけです」 「まぁ、隠れても無駄だがな」 クク、と新條が笑う。密やかな会話を邪魔する者は、ここには居なかった。 |
【7】 そんな事言うと…ふさぐよ? ▲This page top |
自分ばかりが本気かと思うと、どうにも塞ぎがちになる。 結局新條の良い様にされている自分は、母親の影から逃げられないのかと。 新條が再びマコの前に姿を現してから、早くも一月が経とうとしている。毎夜足繁く、と言うわけでもなく、新條は気が向いた時に『みのり』へ現れマコをホテルへ誘った。逢瀬の数は両手を超えたが、未だにやはり客というスタンスを崩さない新條に、次第にマコの気持ちが焦ってくる。 あの、バラをくれた時の言葉につい縋りたくなるのだ。自分が新條の物だと、実感させて欲しいと。 「…馬鹿馬鹿しい…」 自嘲と共に漏れた弱い声に、苦笑いが浮かぶ。本当に馬鹿だと思ったからだ。 最初から望めない関係を何故求めるのか。所詮は客、そう割り切れれば楽なのに。 「大体、何でアタシはあの男に操立てしてんだろ」 他の客に誘われても断っている自分の行動。新條がマコにそれを求めているのかも解らないのに、そんな事をしてしまうのはやはり自分の気持ちの問題なのだ。 新條以外に触れさせたく無いと。 「どうせあの男はそこ等中でつまみ食いしまくってるのに」 自分で言って自分で傷付く。安物のベッドに転がっていたマコは、その顔を枕に埋めた。 本気になってしまった男が、何故父親と同じ種類の男なのか。血筋かと、笑い出したくなった。 マコは、身も心も女になりたいと思った事は一度も無い。ならば何故女の格好をし、あまつさえ商売にすらしているのかと問われれば、男で居たくなかったからだと答えるだろう。そして何故女になりきらないのかと問われれば、女になりたくないからだと答えるだろう。 マコの母親はヤクザの愛人の一人だった。父親と言われた男は、皇雲会(こううんかい)の幹部にくっ付く優男。その顔と身体で数多の女を操っていた、所謂コマシという奴だ。母親は彼が父親だとマコに言い聞かせていたが、本当の所は解らない。彼女もまた、それは自分に言い聞かせていたに過ぎないのかもしれなかった。 自分だけが特別である事への執着。子供の目の前で繰り広げられる情事。男に狂う母親は、他の男に宛がわれながらも只管に父親に尽くして果てた。 まるで駒の様に母親を扱う父親と呼ばれる男を見て育ったマコは、自分がその男と同じ性だと言うのがどうしても許せなかった。また、良い様に玩ばれながら女を捨てなかった母親の様にもなりたくなかった。その結果、男にも女にも成り切れない自分が出来上がったのだ。 中途半端を嘆く事はしない。これが自分だと、胸を張って言える。それでも。 「結局ママと同じ道じゃん…」 どう足掻いても、この泥沼から抜け出す方法は無さそうだった。 「あらいらっしゃい新條さん、マコちゃん、いらっしゃったわよ」 すっかり顔馴染みになった新條に『みのり』のママは笑顔を向けマコを呼んだ。他の客の相手をしていたマコは、客に断りの笑顔を向けて新條へと向かう。 「こんばんは、どうぞ」 今日のマコの出で立ちは和装。深い赤の地に橙色の梅が上品な流れを作っている。大振りな紅葉模様の帯はクリーム色で、半襟は黒刺繍だった。 「これはまた…何とも粋な格好をしているな。良く似合う」 「お褒め頂いて光栄です」 小さく頭を下げ、マコは微笑む。その笑顔は客に対する作った笑顔だったが、滲み出る嬉しさが僅かに赤く染まった耳朶に現れていた。それに気付かない新條ではない。 「マコには着物の方が合う。…どうだ、今度一緒に見に行かないか」 案内された席で、横に座ったマコの手を取りその甲に口接けながら新條はいつもの笑みを浮かべた。 「デートのお誘いですか?高く付きますよ」 同伴出勤と見做して笑うマコに、新條は頷く。 「好きな物を選べば良い。俺には着物の良し悪しは解らないからな」 「…ありがとうございます。じゃあまた、機会がありましたらお願いしますね」 するりと抜けていくマコの手は、酒を作り始めてしまう。振られたかと新條は苦笑いを零すが、しかしそろそろ次の段階に踏み出したい所だ。いや、マコが拒否をしたとて強引に事を進める気ではいるのだ、今の誘いは建前の文句を口にしたに過ぎなかった。 他愛の無いお喋りと酒で一時間ほど潰した新條は、挨拶に寄ったママにそのまま座る様促した。 「よろしいんですか?折角のお時間を」 初めて来店した時から、マコ以外指名した事の無い新條にママは意味深な視線を向ける。お気に入りなのは周知の事実、店を出た後の事等想像に容易い。 「ああ…ちょっと込み入った話があってな」 僅かに目を開くのはマコ。縄張りの事ならば席を外そうかと逡巡している内に耳に入ってきた新條の次の台詞に更に目を見開いた。 「実はマコに店を辞めさせたいんだ」 「…まぁ…」 ママはチラリとマコを見て、慌てて首を振る彼女に小さく頷く。 「でも新條さん、マコちゃんはまだここに来て二月も経ってないんですよ。お店を持たせてあげたい気持ちは解りますけど、本人にやる気がなくちゃ、お店は成り立ちませんよ」 店を辞めさせるのを店主に相談すると言う事は、即ち同じ区で別の店を立ち上げたいと言っているのだと解釈したママは、まだマコに固定客がきちんと付いて居ない事も含め暗に新條の考えを否定した。 新條は心配そうなママの気遣いともとれる不安を一笑に付し、違う、と一言言い置いた。 「…違うと申しますと…?お店を持たせるお積りじゃ」 「働かせる気は無い」 「新條さん、ちょっと待って下さい」 ママと話をすると言うから、マコも新條が自分の店を作る積りなのだと思ったが、どうも雲行きが怪しい。一体何をする積りかと、マコは慌てて新條の腕に手を掛けた。 「あんたには言っていなかったが、実はマコを前の店に居た時から知っていたんだ。いつか自分だけの物にしたいと思っていた矢先に姿を消されて、偶然この店で見つけた。これはもう、奪わない手は無いだろう?」 にやりと不敵な笑いを浮かべる新條を、ママはぱちぱちと瞬きを繰り返し見遣る。 「…あら…まぁ…。惚れたはれたのお話なら、私はご遠慮させてもらいますよ」 クスクスと零れだす笑いを手で隠しながら、マコに視線を向けるとマコは下唇を噛み締め俯いてしまった。髪を上げている所為で露わになっている首筋が僅かに赤い。全く嫌なわけではないのだと、言葉ではなく体が語っていた。 「入ったばかりだからな…一応念の為に、断りをと思ったんだ」 「まぁまぁ、律儀な方ですね新條さんは。マコちゃん幸せにしてくれるんでしたら、どうぞお持ち帰りになって下さいな」 コロコロ笑ってママは席を立ってしまう。マコは俯いたまま、膝の上で握り拳に力を込めていた。 「…どうだ、一緒に来るか」 不意打ちも良い所だ。嬉しくない筈は無いが、それでも躊躇するのは母親の影の所為。 「アタシは…」 「嫌だと言う言葉は受け付けないがな」 そうだと思った。聞いておきながら、その実新條はすでに全ての根回しを終えているに違いない。 「…物好きな方ですね」 「全くだな」 僅かな自嘲を含んだ新條の物言いに、マコも苦笑いを零す。 これから自分の生活が一体どうなるのか見当も付かない。働かせる気は無いと言った新條だが、果たしてその本心はさっぱり見えなかった。まさか専業主婦の真似事などさせられはしまいと、マコの笑いは深くなる。 それでも。 「追ってきてまで、店辞めさせて…」 「ん?」 「自分の物だなんて、他の方にも言っているんじゃないでしょうね」 からかいを含んだ物言いの中に、醜い嫉妬心を隠したマコの問いに新條は片眉を上げて見せる。 「言っていたらどうする」 戯言だ。マコは笑いを納めないまま、そっと新條に寄り掛かった。 「そんな事言ったら…」 吐息ごと、その口を塞いでしまおうか? できもしない、する気も無い。そっと重ねた口接けは、初めてのマコからの贈り物だった。 |
【8】 話して、その尊い未来の事を。 ▲This page top |
こういう商売の男がどこまでも自分勝手だったと、マコはしみじみ感じ入っていた。 マコの意思を無視して辞める話を進められてしまった店の事、そうして今、目の前に広がる部屋の惨状。 「…不法侵入も、良い所」 背後に立つ新條はそ知らぬ顔で、マコの襟足を弄っている。 「どうかしたか?」 どうかしたかなんてものじゃない。 「何でアタシの部屋の物がここに転がっているんですか」 「持ってきたからだろう。何だ、足り無い物でもあったか?全部運ぶ様に言ったんだがな」 足り無い物は無い。だから怖いのだ。 今日は雑貨屋のバイトの後、一度アパートに戻ってそこで着物に着替え出勤した。出て来る時、自分の部屋は何一つ触られていなかった筈で。たった三時間程の間に、何もかもを運び出され、そうして新しい部屋に行儀良く配置されてしまっている。 「…すぐには、お店辞めませんよ」 「何を言っているんだ。今日辞めて来た筈だろう」 今日辞めるなんて一言も言っていない。新條の持ち物になる事を承諾はしたが、それは追々と思っていたのだ。それなのに、新條はもうマコが店に行く事を許さないと言う。 「アタシにだって、都合っていうモノがあるんです」 「それがどうした」 一応言ってみただけだとは、心の中だけで愚痴る。隠し切れない溜息をホゥと吐き、マコは見慣れた物が並ぶ見慣れない部屋へ足を踏み入れた。 連れて来られたのは一般的なマンションより、ワンランク高そうな所だった。ホテルのロビーの様なエントランスには何故か水が流れている。暗証番号と部屋の鍵を合わせたマンションの入り口は観音開きの扉。外から見る限り、部屋数もそう多くは無さそうだった。如何にも新條ランクの男が好みそうな、セキュリティーのしっかりしているそこには常駐の警備員が二人。 「雑貨屋のバイトは許すが、クラブは無しだ。良いな」 ぐい、と腰を抱かれ、耳元に低く落とされた声にマコの背中が震える。それを感じ取った新條はクスリと小さな笑いを零し、その口から舌を覗かせた。 「ん…」 耳の裏を丁寧に舐め上げられ、溜息とも取れる快感の吐息がマコの口から漏れる。着物の袷から侵入を果たした男の手が、硬くしこる胸の飾りを探し出すのも容易い事だった様だ。 「ふ…ぅ…っ」 もっと舐めて欲しいと訴える様にマコの首筋が露わになる。僅かに香る化粧の匂いに、新條は一瞬今自分が腕に抱いているのを女と錯覚した。 マコは不思議な生き物だと、会う度に思う。格好は女の筈なのに、仕草に女臭さが全く無いのだ。仕事中は矢張りそれを商売にしているだけあって媚びる仕草を見せたりするが、それでもどこか凛とした空気を纏っている。決して手折れない高嶺の花。そんな雰囲気が、マコからはした。 面倒な帯をそのままに、無理矢理開かせた袷から覗く素肌は平均的な肌色。白くも無く、黒くも無く。滑り込んだ股間に息衝く象徴に、確かに今自分が手にしているのが男だと実感する。 「…下着、履いていないのか」 「…着物、着る時は…」 少し恥ずかしそうに呟くマコを、無性に抱き締めたくなる衝動を堪え新條は含み笑いを漏らすに留めた。自分を見失うのを良しとしない。捕われてはいけないのだ、自分が捕らえた獲物に。 「立ったままするのも良いが、ベッドへ行くか」 マンションに着いて、まずマコが案内された部屋はマコの荷物が綺麗に配置された一室。リビングとダイニングキッチンを通り抜けた先だった。ファミリータイプのマンションだ、部屋数も二、三ある。 着物は肌蹴たまま、腰を抱かれ連れて行かれたのはマコの部屋とは反対側に位置する部屋だった。木目調の優しい雰囲気のそこは、ベッドだけが鎮座する異質な空間。いや、寝室と言えば聞こえは良いかもしれないが。 「…何か、大きくないですか…」 「こんなものだろう」 キングサイズのダブルベッド以外何も無い。未だ窓に、カーテンすら取り付けられていなかった。 「俺が来る時はこっちで寝ろ」 それはマコの部屋と認識できるあの部屋にも、持ち込まれたパイプベッドがあるからだが。 「…はい」 ああ、やはりと、マコは動き出した新條の愛撫に身を任せながら目を閉じた。 所詮は囲われ者。金を、寝る場所を与えられ、その代償に身体を差し出す。 見えない鎖で雁字搦めに縛られて、その鎖にすがり付いて。どこまでも馬鹿だった母親の背を、一体いつまで自分は追い続けるのか。 「んっあ…!」 衝撃に喉が反る。噛み付かれた喉仏に一瞬息が止まり、マコは生理的な涙とそうでない涙を一緒に流して果てた。 目が覚めた時、そこに新條は居なかった。日は高くすでに昼が近い時間だ、恐らく仕事に向かったのだろう。上に行けば行くほど自由な時間は減る物だと知っている。皺になっているだろう着物を探したが、それは何故か丁寧に畳まれ部屋の隅に帯や小物と一緒に置かれていた。 「…着物、畳めるんだ」 新條が正座をし、着物を畳んでいる姿を想像すると少し笑える。 寝室を出てダイニングに向かうとテーブルに封筒と部屋の鍵が置いてあった。一緒に添えられていたメモに書かれている字は、外見通りのしなやかな書体。 「生活用品を揃えろって…」 キッチンにはマコの家にあった物がそのまま運び込まれている。自炊もしていたので、鍋やフライパン、その他調理器具は一通りあった。足り無いと言えば食器類だ。何分一人暮らしが長く、その間誰かと共同生活をする事も無かったので、マコが持っていたのは全て一人分。 「…あの人の分も、そろえて良いのかな」 少しだけ、胸が高鳴った。続いて冷蔵庫を覗くと食べ物は何も無かったが、調味料類はやはりマコの冷蔵庫からそのまま持って来られたらしく、使いかけのそれらが並べられていた。 「食材と…あと、カーテンも欲しいし。あ、お風呂場とかも見てみないと」 足を向けかけ、テーブルに置いたままの封筒に目をやる。揃えろと言われたからには、恐らくこの封筒には新條からの軍資金が入っているのだろう。しかし怪しい厚みだ。見るのが怖い気がする。 「…一本、かな」 百万位だろう。そんな大金を現金で、しかも無造作にダイニングテーブルに置いておいて良いのだろうか。取り敢えずマコはそれには手を付けず、自分のカードで支払いを済ませることにした。掛かった金額の半分を抜き、銀行に振り込んでおく。全て自分の金で片を付けても良かったのだが、思いの外金が嵩み如何せん懐が痛くなってきた。ここは一つ、新條の好意に甘えておくかと判断したのだった。 マコの部屋しか生活感の無かったマンションの一室が、一気に生活感溢れる空間に変わる。久々に作る二人分の食事にマコは自然浮き足立った。新條は一体何時頃に来るのだろうか、食事は一緒に食べられるのだろうかと。 しかし、そんな気持ちも夜の十二時を回ればしぼんでいく。連絡手段も無いこの部屋に、当然新條から何か連絡が入ってくる事も無い。冷め切った夕食をラップに包み冷蔵庫へと仕舞うのも物悲しかった。 「…今日は、来ないのかな」 店に居た時だって毎日訪れたわけではなかった。それを考えると、三日に一度位の割合で来る積りなのかもしれない。携帯の番号さえ知らされていない、マコの番号も新條には知られていない筈だった。 「それでも、初日位は来てくれてもいいのに」 一人ごちて、マコは僅かな隙間に落ちた悲しみを誤魔化す。じわじわと広がりそうになる気持ちを洗い流す様にシャワーを浴び、いつまで経ってもやって来ない新條を夜中の三時迄待ち、漸く自分のベッドで眠りに就いた。 朝起きても新條が来た様子は無く、マコは一人で朝食を取るとバイトへと向かった。軽く化粧をし、髪を流してスカートを履く。店の誰にも自分が本当は男だと言っていないが、恐らく店長は気付いているだろう。カツン、と響くパンプスの音に、マコの溜息が混じった。 三日後、新條は日付を越えた頃にやって来て、マコを抱いて眠った。朝起きて朝食を一緒にと思ったが新條はそれを断りコーヒーだけを所望した。 「朝は何も入らん」 寝起きの所為か、少し機嫌の悪い新條の言葉はきつい響きを伴っている。マコはそうですか、と答えるに留まった。 昨日着てきたスーツを着込み、起きて一時間もしない内に新條は部屋を出て行く。行き様、マコに顔を寄せ甘いキスを落としていったが、マコは暗くなる気持ちを抑える事ができなかった。 結局、夕食も一緒には食べていなかった。突然来て、抱き、眠り、去っていく。交わした言葉の数は幾つだっただろうか。店に居た時の方が会話があったと思うと、暗い気持ちに拍車が掛かった。 それから、新條はやはり三日置き位に部屋を訪れた。手の内にある安心感か、以前ほどマコに執着を見せない。生活費としてたまに金を置いていく新條に、マコは一体自分は何なんだと自問自答を繰り返し、それでもここから出たいと思えない自分を哂った。 一ヶ月が経ち、冬の気配が色濃くなってきた頃、新條が訪れるのを指折り数えて待つばかりの自分が嫌になってきた。彼の手に落ち、望んだのはこんな生活ではなかった。新條にしてみればお気に入りのおもちゃを自分の手元に置く事で落ち着いたのかもしれないが、おもちゃにも感情はある。 もしかしたら一緒に夕食を食べてくれるかもしれないと、作り続けるのも。 もしかしたら毎夜訪れてくれるようになるかもしれないと、期待し続けるのも。 「…疲れた…」 堪え性が無いのだろうか。贅沢なのだろうか。手にした財布とコートを握り締め、マコは部屋を出た。 夜、十時の事だった。 「どこに行っていた」 二時間程して戻ると、そこには居るはずの無い新條の姿があった。昨日来たばかりだ、今日来る確率が一番低いと思って出かけたのに、そんな時に限って来るなんて。 「…ちょっと、お酒を飲みに」 「勝手に出歩くな」 腕を捕まれ、寝室に引き摺られる。放り出された先のベッドで圧し掛かる男に、マコは溜息を吐かずにはいられなかった。何で今日に来るのだろう、いつもの様に、三日後に来れば良いのにと。 「…っ!」 パンッと、乾いた音がしたのをどこか客観的に捕らえ、やがてじわりと痛みを伴い広がる熱にマコは自分が叩かれたのだと知った。 「お前は一体誰のオンナだ、ええ?優しくしてやれば付け上がりやがって、何様の積りだ」 低い新條の声には怒気が含まれている。マコは、吐き出した溜息が聞こえたのだと悟った。 「…すみません…」 目を伏せ小さく謝ると顎を掴まれる。目を合わせと言われているのは解ったが、その勇気は無かった。目を合わせてしまえば、きっと自分は我慢しきれなくなる。自分勝手な目の前の男を、詰りたくて仕方が無いのだから。 「おい」 膨れ上がった怒気が破裂しそうだ。 いっそこのまま、縁を切られても良いかもしれないと思った時だった。 「…嫌なのか」 どこか、自信の無さそうな凡そ新條の声とは思えないものがマコの耳に届いた。 「…え…?」 「そんなに嫌なのか」 顎を掴んだ手が離れる。圧し掛かっていた体温が離れる。 「チ…ッ」 新條は起き上がると、そのまま寝室を出て行ってしまった。呆然としたままだったマコは、一体新條に何が起こったのか解らないまま慌てて起き上がりその背を追う。 新條はキッチンに居り、冷蔵庫を開けて固まっていた。目当ての物が無くて当たられるだろうかと一瞬躊躇したが、マコはそのまま新條の傍に近寄った。 「…あの、すみません、アタシ…」 囲われていながら、主人が来る時に留守をしていたのは自分に非がある。 「何か、買ってきましょうか…?」 下手に出て新條を窺えば、新條は深く溜息を吐き出し冷蔵庫から何かを取り出した。 「あ…それは…」 「お前が作ったのか」 昨日の夜のおかずだ。千切りキャベツを添えてある豚のしょうが焼き。それと蛸とキュウリの酢味噌和え。共に一人分。新條の視線は同じ皿が水切りに伏せられているのを見付けていた。これが自分の分だと、解らない馬鹿ではない。 「飯はあるのか」 「え…」 「温めろ、食うから」 一瞬何を言われたのか解らなかったマコだが、新條がダイニングテーブルに腰掛けた事で悟った。食べてくれるのだ、自分の作った、彼の為の夕食を。 「あ、は、はい!」 慌てて用意するマコの後姿は、嬉しさに震えていた。先に出された緑茶を飲みながら、新條はこの一月の自分の行動を振り返る。マコに自由であれと思い、自分が接触する時間をなるべく削ったのだが果たしてそれが一体マコにどう映っていたのか。 こうしてここで食事をする事を喜ぶマコを見ていると、全てが裏目に出ていた様な気がしてくる。自分の強引さは解っていた。マコを手にする為に、有無を言わさず為した事を恨まれる事も覚悟の上だった。大人しくこの部屋に納まったマコが信じられない気持ちもあったが、それでも見えない鎖は確かにマコを繋いだのだ、逃げられない事も解っている。 「…美味いな」 一度冷えて固まってしまった肉は温め直しても本来の柔らかさを取り戻してはくれなかったが、新條は衒い無くその言葉を口にした。 「…ありがとうございます」 新條を窺いながら前の席に腰を下ろしたマコは、ぺこりと頭を下げた。さらりと落ちる黒髪が、赤くなった耳を隠す。 「どこへ行っていたんだ」 食事をしながら、新條は先程と同じ質問を繰り返した。マコは自分の分のお茶を啜りながら、ちらりと新條を上目遣いに見上げる。 「…『みのり』に、飲みに行ってたんです。あの、お客として…」 バイトは禁止されたが、出入りまで禁止された覚えは無いと訴える目。怒られるかもしれないと怯えているのが見て取れ、新條の口許に苦笑いが浮かんだ。 「そうか。今日は雑貨屋のバイトは無かったのか?」 「は…い。お店、定休日なんです」 「じゃあ昨日来ておいて正解だったな」 「!…そうですね。ゆっくりさせていただきました」 にやりと歪む新條の口許に、マコの頬が赤く染まる。抱かれた後の鈍痛はいつまで経っても慣れるものではない。乱暴にされるわけではないが、丁寧過ぎる愛撫に快感が過ぎ、心も身体もへとへとに疲れるのだ。 「そう思っていただけるなら、もうちょっと手加減して下さい」 「それは無理だな。つい度が過ぎるのは俺だけの所為じゃないさ」 「アタシの所為でもあるって言うんですか?」 「昨日は二度ほどお前から求めて来たと思うんだが…俺の記憶違いだったかな」 「…そ、それは…」 肉の最後の一切れを口に放り込みながら、新條の表情は柔らかかった。恨みがましい目で睨み付けるマコを茶化して遊んでいるのがありありと解る。不貞腐れるのを我慢できず、マコは分が悪いと気を取り直す為にお茶を入れ替えに立った。 「俺にもくれ」 「はい」 差し出された湯呑み。新條の為に新しく買い揃えた物の一つだ。それが今日初めて使われたと思うと、じわりと胸が温かくなる。 無意識にマコの口許に浮かんだ笑みを見付け、新條は新しくお茶を入れられた湯呑みを差し出すマコの手を包んだ。 「…新條さん…?」 「もっと来ても良いのか」 一瞬何を言われているのか解らず、マコは首を傾げる。 「この部屋に、もっと来ても良いのかと聞いているんだ」 どきりと心臓が高い音を立てる。真っ直ぐ見詰めてくる新條の目を見返すマコの瞳が揺れていた。言ってしまっても良いのか迷っている、そんな瞳。 「…どうしたいのか、言ってみろ。これからお前は俺が死ぬまでここで生活していくんだ。お前の未来は、全てこの部屋から紡ぎだされる。俺にして欲しい事があるなら遠慮無く言え。その全てを叶えてやる事はできないが、聞く事はできる。お前が何を考えているのか、知ることはできる。…マコ、一人で抱え込むことは無いんだ。ほら、言ってみろ。どうしたいんだ、どうして欲しいんだ」 その全てを強引に自分勝手に決めてしまった相手から、期待する事を許される。マコは真剣な瞳をぶつけてくる新條の視線に息を飲んだ。 「…あなたが、死ぬまで…ここで…」 「そうだ。手放す気は無い」 「…一緒に…」 湯呑みから離した手で新條の手を握る。僅かに眉を上げた新條が、それでも視線を逸らさずマコの言葉を待っていた。 「…ごはん、食べてもらって良いですか?今日みたいにお話して、アタシの作ったごはん、食べてもらっても良いですか?夜は帰ってきて欲しいです。一緒に眠って欲しいです。アタシを…一人にしないで下さい」 ぎゅっと握り締められた手が震える。マコの震えが新條に伝わり、新條の体温がマコの心に伝わる。 ぐい、と引っ張られ、マコの身体は椅子に座ったままの新條の腕に納まった。優しい抱擁に涙腺が緩くなるのを感じ、マコは唇を噛む。それでも放たれた両手が新條を抱き締める。離して欲しく無いと、言葉よりも雄弁に語っていた。 「分かった」 何一つ拒否の言葉が無かった事に、マコの涙腺は決壊した。 |
【9】 無闇に己惚れないで。 ▲This page top |
先に食器を片付けてしまいたいと、自分を取り戻したマコは恥ずかしそうに新條に告げ体を離した。新條はリビングのソファに座り、そんなマコの後姿を見るとも無しに眺めている。 今座っているソファもマコが買い揃えた物だ。恐らくイタリア製だろう、二人掛けの何ともシンプルなフォルムだが脚部分が透明のアクリルになっている。座り心地も上々だが、見るべきポイントは二人掛け。まるで新婚家庭のリビングだと、新條は口許に笑いを浮かべた。 実際、今日こうして初めて部屋の中をゆっくりと見渡すとマコのセンスが良く解る。一見シンプルでどこにでもありそうな形なのに、その一部に細かな拘りが見え隠れするもの達。マコ自身にある拘りを現した様な、そんな空間に出来上がっていた。 初日に好きに使えと渡した金額は僅かに百万。それだけでここまで揃えられるものかと考えるが、物の良し悪しは解っても物価までは把握していない新條は深く考える事を止めた。考えるべきは値段ではなく、これらを揃えたマコの心情。 先程ダイニングキッチンで泣き出したマコが、一体どういう思いで二人分の食器を揃え、二人掛けのソファを買い、この部屋に生活の空気を送り込んだのか。表面だけを掬い取るならマコは愛人として、たまにやって来る新條へ居心地の良い空間を作り出したに過ぎないのだろう。だが、マコは一緒に時間を過ごして欲しいと泣いたのだ。一人にして欲しく無いと。 「…惚れられたか?」 呟きがマコに届く事はないが、届いていれば恐らく「己惚れないで下さい」とでも返されるだろう。自分の立場を解っている振りをして、それ以上を求める自分を知ったマコの最後の砦と言う所か。 新條自身、マコに執着する自分の心の内を僅かにしか理解していない。珍しい物見たさに傍に置きたいだけなのか…それにしては、執着の度が過ぎるのだが。 「お待たせしました。先にシャワー浴びてきても良いですか?」 ここに新條が訪れる事即ちマコを抱きに来る事だというのは間違いではない。マコの言葉の先に含まれる色に、先程の涙を思って新條は頷いた。 「ああ。寝間を着てベッドへ入っていろ。俺も後でもらう」 数度の瞬きを繰り返し、マコは小さくお辞儀をしてバスルームへ向かった。僅かな疑問が頭の中を過ぎった事だろう。新條はローテーブルに置いてある湯呑みに手を伸ばし、そこで違和感に苦笑いを零した。 「何で酒を出さないんだ」 曲がりなりにもクラブを経てスナックに勤めていたマコなのに、新條を待たせる間の場繋ぎに置いておかれたのは熱い緑茶だった。 「俺はジジィか」 呟きはどこか楽しそうな響きを伴い、久し振りに味わう寛いだ空間に新條はほっと息を吐いた。 マコと入れ違いにシャワーを浴び、用意された寝間着を着てマコが待っているだろう寝室へ向かう。言われた通り横になっているマコの隣に身を滑らせ、背を向けていたマコを自分の方に向かせた。 僅かな緊張が伝わってくる。少し早い心音も。 「…おやすみ」 「え」 力強い腕に抱かれ、額に落ちた優しい口接けに、掛けられた声。戸惑いを露わにするマコを尻目に、新條はそれきり目を開けることも無く、静かに寝息を立て始めた。 「…新條さん…?」 マコを抱く腕の力は緩まない。寒くなり始めたこの季節に、人肌が心地良かった。戸惑ったまま、それでもマコも安心感に負け目を閉じ、その身を新條の腕に委ねたのだった。 「…」 規則正しい寝息。カーテンで仕切られた暗闇には、グリッドの入ったセラミック素材で作られたスタンドライトが淡い光を灯している。その光の優しさが、まるでマコが求める物の様な気がして新條は腕の力を少し緩めた。 「無闇に己惚れるな…か」 新條の与えた空間で、一体何を新條に求めるのか。己惚れるなと言う方が無理だと、擦り寄ってくるマコの額にもう一度口接けを落としながら、新條も再び目を閉じた。 |
【10】 諦めろ、恋人。 ▲This page top |
区全体の不動産、金融業、飲食店。その他裏売買。目まぐるしく流動するそれらの統括本部として構えられているのは、小さな事務所。地下に防音完備の貸しスタジオ、一階に来客用のオフィス、二階に本部、三階に仮眠室、そして屋上。洒落た外観は凡そ組事務所には見えないが、出入りする人間はそうもいかなかった。 「…またここか」 「はい、どうも根付きが悪い様で…」 「立地条件はそう悪く無いんだがな」 「あれですかね、駐車場がある割りに道が細くて一方通行じゃないですか。しかも歩行者は多いし」 「服屋だっただろう。人通りが多ければ車云々は関係無いんじゃないか?」 「うーん…。まあ、店の力量ですかね、その辺は」 「それは当たり前だ。しかしその前も半年持たずに畳んだだろう。何か原因が他にあるんだろうな…」 「いっそお祓いでもしてみますか?」 「前の経営者からそういう話題が少しでも上っていたならそうしておけ。二階以上はもう三年持っているんだ、一階の一番入り易い店舗だけ入れ替わりが激しいのも怪しいからな」 「あ、はい!解りやした!!」 まさか本当にお祓いをするよう言われるとは思わなかった南は、書類を睨み始めた新條に腰を折り慌てて事務所を出た。新條にしてみれば、考えるのが面倒になって許可したに過ぎないのだが。普通はそんな端末の事に新條が口を出すことは無い。そもそも、新條の許に上がっても来ないのだが、如何せん南の言う物件は入れ替わりが激し過ぎて下には手に余った様だ。 面倒な物件はどこにでもあると、新條は小さく溜め息を吐く。 「おそよーさん。今日もお仕事頑張っているねぇ」 別の書類を捲りながら、不動産情報を流し読みしていた新條の許に坂崎が現れた。 「お前も少しは働け。如何に実戦型か知らんが、今は平和な世の中だ」 「はいはい、訓練は怠っていませんよ。それよか新條、小栗ちゃんがストーキングしてたけど、あれはひょっとしなくてもお前の指示だったりする?」 一瞬新條の書類を捲る手が止まったが、すぐにまた動き出す。一呼吸置いて、新條は口を開いた。 「そうだ。それが何だ」 からかわれるのは解っていた事だと開き直っている新條を興味深気に眺め、坂崎は小さく笑いを漏らした。 「いやぁ、ゾッコンなんだなーと思って」 「ぞ…?」 「あれ、通じないか?おかしいな、同じ年代の筈なのに…」 少し恥ずかしそうに鼻の頭を掻く坂崎をちらりと見遣り、意味は解ったがそれがどれに対して言われているのか理解しかねただけだとは言わずにおく。 「それにしても、最近は本宅に戻らないっておやっさんがぼやいてたぞ。どこに行ってるんだ?」 「ああ、マコの…」 そこまで言って、新條は言葉を止めた。 「…小栗にマコを見張らせているのは、一応俺の持ち物だからだ。変な行動を起こされたら敵わんからな。元々神谷のシマから来たんだ、何と接触するか解らんだろう」 突然饒舌になった新條を坂崎は目を丸くして見詰める。自分でもしまったと思ったのか、新條は少し俯きわざとらしい咳払いをしてみせた。それが自分の言葉の嘘臭さを助長させる結果になったと気付いたのは、すでに坂崎が爆笑の渦に飲み込まれてしまった後。 「ぎゃはハハハはハッハッヒーッヒヒッ、ヒハッハハッ…ゲホッゴホッ」 くしゃりと書類が音を立てて皺を作る。普段顔色を滅多に変えない新條だが、今は怒りの為か羞恥の為か、僅かに目元が赤らんでいた。 「…坂崎、貴様…」 「は、は…はぁ、はぁ、わ、悪い、スマン、いや、ほんとに…プッ」 ひゅんっと勢い良く飛んだのはペーパーウェイトだった。そのままぶつかれば恐らく救急車物だろう。 「あっぶねぇな!殺す気か!!」 「死なれても後悔せんな」 「…へいへい」 一瞬目が真剣になった新條に、坂崎は漸く笑いを治めた。 「無自覚って言うのは怖いな。でもこれで自覚したんだろう?」 「…何をだ」 「しらばっくれたって無駄だぜ、新條。三十四になって、初めての恋を知るってか?うおっ待て待て、笑ってないだろう!」 思わず懐に手を差し込み立ち上がった新條だった。 深い青の空間は、まるで海の底か月光の世界。落ち着いた雰囲気のバーに坂崎は新條を誘った。 昼間からかい過ぎて危うく命を落とす所だったが、坂崎は新條がどうしても認めなかった彼の本心を暴き、尚且つそれを認めさせる事に成功した。今夜は、新條の初恋記念だと豪語する。 「大体、マコちゃんて歳幾つなんだよ。結構若いんじゃないか?憎いね、コイツは」 そういう坂崎だとて、手を出すオンナは若いのばかりだ。大人のオンナは世間を知り過ぎていてつまらないとぼやいている。 「…マコの歳…?さあ、考えた事も無いな」 「あ?聞こうとか思わないのか?」 「必要無い」 「…えーと、じゃあ、誕生日とか」 「知ってどうする」 「まさか、本名は知ってるよな?」 「知らんな。呼ぶのに支障は無い」 「おいおい、そんな調子じゃ携帯のアドレスも知らないと言い出しそうだぞ」 「それがどうした」 「お前どうやってマコちゃんと連絡取ってんだよ!」 「マンションに行けば居る」 「………あ、そう」 肩を落とす坂崎を、新條は不思議そうに眺めた。新條にしてみれば、自分の目に映るマコが全てだと言いたいだけなのだが、それを言ってしまうと更に呆れられ兼ねない。小さなグラスを傾け、氷の音を楽しみながら坂崎が復活するのを静かに待った。 「…新條お前さ、マコちゃんをどうして囲っちゃったんだ?」 「目の届く所に置いておきたかったのが大前提だな。後は…常に顔を見られればと、触れれば…そんなモンか」 「つまりマコちゃんさえ居れば、その周囲を取り巻くものなんて全然要らないって事か?」 その通りなので、新條は素直に頷く。 「それじゃあ、例えば俺がマコちゃんの携帯ナンバーを知っていたとする。で、お前は知らない。と言う事は、お前の知らない間に俺とマコちゃんは親密な遣り取りをしているわけだ。お前はどう思う?」 「ムカツクな」 間髪入れずに返ってきた答えに、坂崎は苦笑いを零した。 「だろ?っつー事は、お前はマコちゃんの交友関係を知りたいと思っているわけだ。ひいてはマコちゃんのアドレスも知りたいと。自分だけが仲間外れなのはムカツクだろ?」 今度は少し躊躇いながら、小さく頷く。坂崎は胸の中がむにゃむにゃと痒くなる様な思いを味わっていた。新條がとてつもなく幼い子供に見えるのだ。 「誕生日だってそうだ。マコちゃんの誕生日をお前は知らないで別の男が知ってて、誕生日にプレゼント持ってくる。マコちゃんは大喜び、さてどうだ。ムカツクだろう」 「…そうだな」 「本名だって、年齢だって、家族構成だって、過去だって、マコちゃんの事に関して自分は知らずに他の野郎が知っていたらムカツクだろう。それが独占欲、恋と愛の始まりだぜ」 決まった、と坂崎はほんの少し自己陶酔に入る。新條は確かにマコに対して独占欲を感じているのは自分でも認めていたので、何となく納得させられた形になった。 「しっかしマコちゃんも物好きだよな。何でこんな馬鹿な男に惚れちゃったんだろう」 実際マコの口からそんな言葉を聞いた事の無い新條にしてみれば、坂崎の苦笑いに便乗する気にはなれなかったが、今夜の目標はできた。 何はともあれ、マコを質問攻めにしなくては。例え寝る間を惜しんでも。 その夜、マコが眠りに就いたのは夜も明けようかと言う午前五時。答えるまで達かせてもらえず身体はへとへと。一体自分が何の質問に対しどう答えたのかも定かな記憶が無い。 案外思い込んだら一直線な新條に惚れられたのが運の尽き。「諦めろ、恋人」と、坂崎が言ったとか言わなかったとか…。 第一部:完 |