今年は4年に一度行われる“バレーの祭典”ワールドカップイヤー。フジテレビのワールドカップ宣伝ポスターに登場していただいた伝説の選手たちに、自身が出場した大会の思い出を振り返っていただきます。第3回は、1985年、89年大会に出場され、全日本男子チーム、そしてバレー人気を牽引した、川合俊一さんです。

ワールドカップレジェンドインタビュー第三回:川合俊一さん

川合俊一(かわいしゅんいち):
1963年2月3日生まれ、新潟県西頸城郡青海町(現・糸魚川市)出身。明大中野高から日本体育大に進み、83年に全日本入り。切れ味鋭いスパイクとブロックを武器に活躍し、84年ロサンゼルス五輪、88年ソウル五輪に出場。ワールドカップには85、89年大会の2度出場し、89年大会では主将としてチームを牽引した。実力のみならずその甘いマスクで絶大な人気を誇り、現役引退後はタレント、解説者としても活躍。現在は、日本ビーチバレー連盟会長、公益財団法人日本バレーボール協会強化事業副本部長など要職にも就き、バレー界の発展に寄与している。

川合さんは85年、学生時代から憧れたワールドカップに、ユニバーシアード優勝の実績をひっさげ初出場。人気・実力を兼ね備えたセンタープレーヤーが大舞台で躍動しました。

Photo

写真提供:月刊バレーボール

――85、89年と2度大会に出場された川合さんですが、元々ご自身にとってワールドカップはどのような位置づけの大会でしたか?

川合「ボクの中ではオリンピックと同じ、いや日本国内でやる大会ということで、オリンピック以上に気合が入る、燃える大会でした。中学3年のとき初めて観た国際大会も77年ワールドカップ。世界中にすごい選手がいて、中でもポーランドのヴォイトヴィッチが一番印象に残っています。バックアタックをまともに見たのが初めてで、『後ろから打ってあんなに決まるんだ!』とすごく印象に残って。あれから、練習ではバックアタックばかりしたりしましたよ(笑)」

――そんな、ご自身も憧れを抱いたワールドカップは85年に初出場。同年夏の神戸ユニバーシアードで金メダルを獲り、そのときのメンバーとともに全日本に名を連ねました。

川合「ユニバメンバーは、熊田康則、井上謙、海藤正樹、田中直樹に、今、全日本女子監督の眞鍋政義かな。皆大きかったですし、すごく強かった。ユニバでは、準決勝で当たった韓国には代表正セッターの金浩哲がいたし、決勝のロシアも、代表エースのソロコレートとか、ほとんどナショナルチームで来てましたからね。その2つにフルセットで勝って金メダル。自信になりましたし、ワールドカップに向けてもかなり気合が入っていました。メダルを獲れる手ごたえもありましたね」

――しかし、大会ではアルゼンチンとエジプトに勝利するも、2勝5敗の6位という悔しい結果でした。

川合「あのメンバーのときにメダルを取れなきゃ、いつ取れるんだというくらい、いいメンバーが揃っていた。でもうまくいかなかった。チーム全員の調子が最高潮を迎えたのがユニバで、さすがに大きな大会が1年で2つあると、いい状態を持続することは難しかったんです。ボク自身も腰とヒザを痛めていたんですが、治す暇もなくボロボロで夏から秋へ入っていってしまったんです。治したかったなぁ…」

――そんな戦いの中で、一番印象に残った試合というと?

川合「試合のことはほとんど覚えてないんですが、韓国に負けたのは覚えていますね。本当に悔しかった。韓国には、オリンピックやアジア選手権では負けないのに、ワールドカップになると負けてしまう。このころの韓国は、とにかく『ワールドカップの大舞台で日本に勝つ』ということに本気になっていました。公式インタビューでも『日本だけに勝つために来た』と言っていたくらいでしたから。当時は今以上に『打倒日本』がヒシヒシと伝わってきていましたね」

――そのほか、85年大会といえば、アメリカとソ連の2強対決にも注目が集まりました。

川合「あのときのアメリカは頭一つ抜けていました。特に守備では、ジャンプサーブ以外はレシーブのうまい二人だけでレシーブするというシステムをはじめて導入したんです。カーチ・キライ(大会MVP&ベスト6賞)がレシーブに入ったんですが、彼は元々ビーチバレーの選手だったから、砂の上でもないし、風もないインドアで取り易くてしょうがなかったらしいです。ボクらは『二人では絶対出来ない』って思っていたんですけどね」

――そんなアメリカに対する対策はありましたか?

川合「ボクはわざと遅く入って相手のブロックの手が出たのを見てから打つタイプだったんですけど、アメリカはボクが打つときにはまだブロックができてなくて、打ってもワンタッチを取ろうとしてくるから決まりづらかった。苦手でしたね。だからアメリカ戦のときはいつも、『速いタイミングで打つ選手を出せばいいのになぁ』と思っていました(笑)。逆にソ連は、高さはあったけど、ブロックで手が出てないところから打てばよかったし、『AクイックのときはAのブロック』というようにシステマティックだったからやり易かった。ソ連には何度も負けてるけど、毎回負けた気がしなかったんですよ。身長差で負けただけで、バレー自体はこっちのほうがうまかったですから」

Photo

写真提供:月刊バレーボール

――話は変わりますが、川合さんと言えば、すごかったのはその人気。バレンタインのチョコがトラック4台分届いたと言われ、写真集やイメージビデオも発売と、まさにアイドル顔負けでした。

川合「いろんなものが出てましたね(笑)。当時はコートサイト3万円とかのチケット(注・ワールドカップは1万円)が真っ先に売れたり、バレー人気がすごかった。寮にも電話やファンが来たりというのはよくありました。やりすぎはイヤでしたけど、強くなって、露出して、子どもたちに『バレーをやりたい、あんな選手になりたい』と思われたいと。今の選手たちにも、強さはもちろん、魅力を与えられるようになってもらいたいと思いますよね」

そして、89年大会。2度目のワールドカップの舞台へ上がった川合さんは、世代交代の全日本を牽引するキャプテンという重責を担い、最後の国際舞台に臨みました。

Photo

写真提供:月刊バレーボール

――そして、その4年後にも、川合さんは大会にも出場されました。この89年大会で一番思い出されることは何ですか?

川合「この年も試合のことをよく覚えていないんですが、このときは足が痛かった。実は大会の2日ほど前の練習中に左足の小指辺りを疲労骨折したんです。でも病院に行くと試合に出るなと言われちゃうからテーピングで押さえて…。このときも体がボロボロでしたね。年間120試合くらいやっていたから体を治すことができなかった。一番の状態でプレーしたかったんですけどね…」

――そんな中、川合さんはチームのキャプテンを務め、チームを牽引しました。

川合「本当は88年のソウル五輪で引退するつもりでした。そうしたら当時の南将之監督にキャプテンをやってくれと。バレー人生を振り返ってキャプテンというのは一度もやったことがなかったので、『1回くらいやってみようかな』っていう感じでやってみた(笑)。それで1年間、夜飲みにも行かず、皆がビックリするくらい真面目な生活をしたんです。そうしたら調子が悪くなった。それで練習に集中しすぎて疲労骨折(笑)。まぁ、それは置いておいて、下の選手たちの面倒もみなきゃいけなかったですから、ホント大変でしたね」

――前年のソウル五輪から半分以上入れ替わり、若い選手が多くメンバー入りしました。

川合「五輪後、半分以上の選手が入れ替わったことで、新しく入った中垣内祐一(現全日本男子コーチ)や荻野正二(現サントリーヘッドコーチ)など若い選手たちに『全日本とは何たるものか』『日の丸を背負うということ』を教えなければならなかった。学生気分とか、いち企業の代表みたいな感覚ではいけないし、高校や大学で選抜されたことがあっても、最高レベルでの代表というのはまったく違うということ。そこはしっかり教えなければいけなかったですね。でも、ガミガミ言うほうでもなかったので、そこはプレーで。練習でも『全日本のレシーブを見せてやれ、川合!』ってワンマンレシーブ(の練習)をやらされたりしながら(笑)。北京五輪のときにキャプテンを務めた荻野と同じような感じですよね」

――そして、この大会が川合さんにとって最後の国際舞台となりました。引退を決意したのはいつですか?

川合「大会後です。体もボロボロでしたし、若手と同じ練習して、見本にもなってというのは厳しかった。ケガさえ治ればまだまだ日本で一番だと思ってましたけど、治す暇もなかった。ボクは世界の大きくて強いチームと戦うのが楽しくて大好きでした。ワールドカップのすごいところは、オリンピックと同じく相手が体調もプレーも100パーセントの状態できたこと。前の大会と比べてもバージョンアップしてきていることもわかったり、それがうれしかった。なのに自分の状態は60パーセントくらいでしか戦えなかった。このまま体も治せないのでは、この先も相手に失礼にあたると思ったんですね」

――大会を終え、キャプテンの働きも全うできたからいう気持ちもありましたか?

川合「それもありました。中垣内や荻野とか、若手が大会で活躍してくれてホッとした部分もありましたね。コレなら引退しても大丈夫かなと。活躍できなかったら、もう1年と思ったかもしれないけど、ワールドカップという大きな大会で活躍してくれたし、いろいろ伝えられたと思いますね」

引退して22年。川合さんは今年から日本バレーボール協会の「強化事業副本部長」に就任されました。スタッフの一員としても、今年の大会での活躍を誓っています。

Photo

――今年は、日本バレーボール協会の「強化事業副本部長」としてもチーム強化にあたられていらっしゃいますが、現役時代と違った意気込みがあると思います。

川合「監督の植田、眞鍋もそうだし、アナリスト、コーチと男子、女子とも最高のスタッフが揃っているので安心しています。選手も一つでも多く勝って3位に入り、ここで五輪出場権を獲得してほしいと思います。来年最終予選に回ることになれば、ピークをそこに持っていかなければならなくなる。ボクのユニバとワールドカップが一緒だった85年と同じで、年に2回、世界大会のピークを持っていくのは厳しいんです。来年、五輪に向けて調整を続けるためにも、何としても出場権を獲得してもらいたいですね」

――そのためにカギとなるプレー、ここを見てもらいたいというプレーはどこになりますか?

川合「今は、サーブがよくないと勝てない時代。あの高いロシアでさえもサーブで崩れるとブロックされたりします。そういう意味でも、まず男子は一人だけでなく6人全員が90点以上のサーブを打てる、“世界一サーブの国”を目指してやってもらいたい。合宿でも集中して練習していますし、コーチで中垣内が入ったことで、去年よりもスキルアップしたチームになると思います。女子については、木村、迫田らの速いバックアタックや、ブラジル男子のように、4人一斉に動く攻撃にも取り組んでいるので、ぜひ見てもらいたいですね」

――最後に改めて、川合さんにとって『ワールドカップ』というのはどういうものですか?

川合「バレーで一番燃える大会! 日本で行われるから、皆が一生懸命応援してくれる。だからボクにとっては一番やる気を起こさせてくれる大会でした。ボク自身、応援もないとやっていてもつまらなかったですから(笑)、ファンの皆さんも、頑張る選手たちに応援をよろしくお願いします!」

ご自身のポスターと・川合俊一さん
インタビュートップへ