「永遠の命と思って夢を持ち、今日限りの命と思って生きるんだ。」
下記の陳述書は、昨年、高松家庭裁判所に提出したものです。この陳述書を、生田先生は、平成23年7月19日(火)にテレビ電話会議システムで行われた裁判に向けて提出されました。
なお、次回のブログには、創価学会に対する訴状と当事者照会を掲載する予定です。また、池田大作氏に対する当事者照会の第二弾も掲載致します。
記
陳述書(9) これまでの経緯について(その1)
平成22年11月15日
髙倉良一
はじめに
妻和美と同様に、創価学会の熱心な活動家であった私が、なぜ、創価学会の池田名誉会長と創価学会に対する認識が変わり、日記の中で創価学会のことを「創価学会池田カルト」と書くまでになったのか、そして、妻和美が宗教的呪縛状態にあると考え、妻和美を覚醒しようと考えるようになったのかに関する経緯を述べることにします。
陳述書(1)で述べたように、私の願いは、何としても家族の絆を取り戻したいということです。そして、家族の絆を取り戻すことができる日まで、忍耐強く精進を重ねようという覚悟をしています。
これまでの経緯を踏まえれば、妻和美の離婚請求は、わが国の裁判所の法的判断には馴染まないものです。その理由を明らかにする上でも、これまで明確に述べていなかった真実を全て明らかに致します。
創価学会との出会い
創価学会と出会ったのは、昭和52年7月初旬でした。当時、九州大学法学部の学生だった私は、入学時から所属していた法律研究会を通じて知り合った先輩の鯰越溢弘氏(現在新潟大学法科大学院教授)のお宅に伺いました。すると、奥さんの鯰越則子氏は、鯰越氏が創価学会に入会されたと言われました。元中核派の学生運動の活動家だった鯰越氏が創価学会に入会したと聞き、私はとても驚きました。
鯰越氏はマルクス主義の用語を使いながら、南無妙法蓮華経という題目の意味を説明するとともに、創価学会のことを熱心に話されました。
そこで、私は鯰越氏に2つの質問をしました。まず、なぜ、鯰越氏が創価学会に入ったかという質問をしました。この質問に対して、鯰越氏は創価学会で社会革命ができると思ったと言われました。
つぎに、私は、この頃悩んでいた自身の天邪鬼な性格に関する質問をしました。私は、相手のことを好きなのに嫌いだと述べてしまうようなことがあったからです。この質問に対して、鯰越氏は、天邪鬼を治すためには、相手のことを大切に思って、それを実践することだと言われました。
この言葉を聞いて、私は目から鱗が落ちたような気がしました。私は、鯰越氏の答えを聞いて、自分自身が自己中心的な生き方をしていたのだということを思い知らされました。私に欠けているのは、相手のことを大切に思うことなのだと痛感しました。とともに、鯰越氏の変化に驚かされました。私は、鯰越氏が、なぜ、こんな発言をするようになったのだろうかと疑問を持ちました。
翌日、私は、書店で創価学会に関する本を3冊購入しました。当時、私は大学院受験の勉強をしていましたが、勉強に取り掛かる前に、まず創価学会の本を30分間ほど読むことにしました。仏法の知識がほとんどなかった私にとっては、その内容はとても新鮮でした。
疑問を持ったのはただ1カ所のみでした。それは、三証の原理という箇所でした。三証とは、日蓮大聖人が宗教の正邪を判定するために唱えられた基準のことです。自身の教えの中に、宗教の正邪を判定する基準があるということは、自己を正当化するだけのことではないかと感じました。しかし、これ以外は本当にその通りだと考えました。
7月末からは、朝、太陽に向かって南無妙法蓮華経という題目を唱えるようになりました。9月に入ると、朝だけではなく、夜、月に向かって題目を唱えるようになりました。そして、9月に行われた大学院入試に合格したことは、題目を唱えた功徳だと思いました。
そして、さらに創価学会に関する本を購入し読み進めました。その結果、12月の中旬頃には、日蓮大聖人の仏法を根本とする創価学会の教義は正しいと確信するようになりました。しかし、この時点では、私は創価学会に入会しようとは思いませんでした。組織に加入し拘束されることには抵抗があったからです。
創価学会の座談会に出席
昭和53年の1月、鯰越氏が夕食をご馳走するから自宅に来るようにと言われました。そこで、鯰越氏の自宅に伺うと、今からお前を創価学会の座談会に連れて行くから、その場で創価学会に入会するとの決意発表をするようにと言われました。
この発言に対して、私は、政治学を研究していた大学院の先輩安倍俊二
(現長崎大学教育学部講師)氏から、創価学会に入るのは考えた方がいいよと言われたことを話しました。すると、鯰越氏は、安倍氏のことを彼は評論家だと言いました。そして、俺は実践家だと言われました。この言葉を聞いて、私は吹っ切れた感じがしました。そして、私は実践家として生きようと思いました。
それから、鯰越氏の案内で、団地内の一室で開催されていた創価学会の座談会に参加しました。その会場には、部屋が一杯になるほどの創価学会員が詰め掛けていました。ちょうど、この日は、創価学会の教学試験(創価学会では、日蓮大聖人の仏法を会員が理解することを目的とした試験を行なっています。)が終了した直後の座談会でした。
この座談会の席で、年配の男性が、たどたどしい言い方で「自分は、学校を満足に出ておらず、文字も読むことができなかった。しかし、教学試験に挑戦するために、大学ノートで字の読み書きを練習することから勉強を始めた。」との発言を聞いた時には、私は、心の底から感動しました。さらに、創価学会員達が自ら進んで次々と手を挙げて自分の意見を述べている姿に接し、「地沸の菩薩」(法華経を流布するために生まれてきた人間のことを指します。)とは、この方々のことだと感じました。
この座談会には、聖教新聞社に勤務している本部職員が、座談会での御書講義(創価学会の座談会では、日蓮大聖人の手紙の一節を幹部が講義することになっています。)の担当幹部として参加されていました。座談会終了後に、私は、この幹部に対して、私であれば、このように講義すると述べました。今にして思えば、生意気だったと思いますが、その時は、日蓮大聖人の教えをもっと分かり易く講義して欲しいと感じたからです。
その翌日、鯰越氏から電話が架かってきました、この座談会に参加していた創価学会の本部職員(創価学会の専従職員のことを本部職員と呼んでいます。)が、鯰越氏の自宅を訪問し、私のことを、創価学会に是非とも必要な人材であるから入会して欲しいと言われたとのことでした。鯰越氏は、お前の代わりに入会申し込みのカードを書いて良いかと言われましたので、私はお願いしますと述べました。
創価学会の青年部幹部との出会い
昭和53年7月7日に、私は、日蓮正宗の御本尊を授与され、正式に創価学会の会員になりました。それ以来、私は夢中になって活動をしました。
それから半年程過ぎた頃、本部職員の田村隆雄氏と出会いました。九州大学出身だった田村氏は、私に、創価学会本部から九州の創価学会青年部担当の最高幹部として派遣されて来られた佐藤政春氏を紹介して下さいました。佐藤氏は、早稲田大学大学院の修士課程を修了後、本部職員となった方です。九州創価学会男子部の最高幹部だった田村氏は、佐藤氏が大学院を修了されていたので、私を指導するのに相応しいと考えられたようです。
佐藤氏は、学生部の最高幹部達が、大学卒業後、続々と創価学会の本部職員となることに疑問を持たれたそうです。このままでは創価学会は必ず官僚主義になってしまうと危機感を持たれ、創価学会の官僚主義化を阻止すべく、早稲田大学の大学院に進学し、なぜ、ソビエト共産党が官僚主義に陥ってしまったのかをテーマに研究されていたとのことです。
しかし、大学院の指導教授が亡くなられ、その直後に、池田大作創価学会会長(当時は会長)から「これからどうする」と尋ねられたので、「お願いします」と答えたところ、本部職員として採用されたそうです。
私は、佐藤氏が創価学会の会館の宿直を担当される際には、佐藤氏を訪ねることにしました。そして、創価学会の活動や、日蓮大聖人の仏法、大学院での研究や指導教官との対応などに関して、佐藤氏から指導を受けるようになりました。
当時、大学院では、私の指導教官だった有地亨教授から創価学会の活動をやり過ぎているのではと厳しい指摘を受けていました。大学院の集中講義に来られた東京大学の稲本洋之助教授に、指導教官有地教授が、私が学会員であるということを話したところ、そんな人間は大学院を辞めさせてしまえと言われたと告げられたこともありました。
しかし、このような指導教官有地教授の反対にも関わらず、私は、創価学会の活動に熱心に取り組んでいました。そして、鯰越氏の所属していた支部の男子部から、私の地元の学生部(創価学会員の学生と大学院生の組織)に所属を変更してもらい活動するようになりました。また、学術部(大学や研究所に勤務している研究者の組織)のメンバーにも加えてもらいました。
入会後の悩み
学生部に移行した頃、佐藤氏から思いがけないことを言われました。佐藤氏は、創価学会は平和と文化と教育の団体であるとの看板を掲げているものの、その中身が明確ではないので、その内容を考えるようにと言われました。さらに、将来必ず宗教連合という時代が来るので、その時に備えて宗教連合が可能となるような理論を考えるようにと言われました。
私は、佐藤氏の発言に大変驚きました。私は、自分自身の変革を願って日蓮正宗に入信し、創価学会で活動するようになったのです。社会変革を願って入会した訳ではありません。しかも、宗教連合という発想は、他の宗教を邪宗だと批判する日蓮大聖人の教えに反するものだと考えたからです。佐藤氏の発言は、私にとっては驚き以外の何物でもありませんでした。
ちょうどこの頃、中国を訪問していた池田会長が福岡に立ち寄ることがありました。その時、九州大学の学生部に所属していた会員には、池田会長が出席する会合に参加するようにとの連絡がありました。私は、この会合に勇んで駆け付けました。そして、会合終了後、池田会長に「先生、先生に指導を受けたいことがあります。」と呼び掛けました。すると、池田会長は私の方を振り向いて、「そんなことは自分で解決しろ。」と言われました。
その瞬間、確かに、社会の変革を目指して行動するかどうかということは自分自身で決めることだと閃きました。しかし、宗教連合のことに関しては、何としても池田会長の指導を受けたいと思いました。そこで、池田会長が移動された後を追い続けましたが、結局、指導を受けることはできませんでした。
この日、自宅に戻って、夜の勤行をしようと仏壇の前に座った瞬間「そんなことは自分で解決しろ。」という池田会長の指導は、私が御本尊を受持しているということを教えて下さったものだと思いました。
しかし、後述の野崎至亮氏(元創価学会副教学部長)との出会いで、池田会長の発言は誤魔化しであったということが分かりました。しかし、この時点では、全く疑問を感じませんでした。そして、ますます、創価学会の活動に熱心に取り組むようになりました。
妻和美との出会い
昭和60年の4月末日、九州創価学会男子部の最高幹部だった田村氏から電話が架かって来ました。田村氏は、坂本利勝氏から一人娘の結婚相手を見つけて欲しいと依頼されたとのことでした。田村氏は、現在、この女性は女子部の本部長をしているが、このままでは女子部の最高幹部になることは確実で、そうなると結婚するのが遅れてしまうと坂本利勝氏は心配していると言われました。
坂本利勝氏は、北九州の小倉で洋服の問屋を経営されている資産家で、自分の店を継がせるつもりはなく、将来、自分の資産を創価学会と公明党のために使ってくれるような人物を、娘の夫にしたいと言われたそうです。そして、田村氏は、自分が結婚したい程だとも言われました。
5月の連休の頃、坂本利勝氏の自宅で見合いすべく、私は田村氏夫婦とともに北九州に参りました。小倉駅で私達を迎えた女性が、後に私と結婚することになる妻和美でした。出会った瞬間、私のこれまでの人生は、この女性とめぐり合うためにあったのだと直感しました。
私は、この女性と結婚すると決めて交際することにしました。結婚するまでの間は、沢山の手紙をやり取りしましたが、創価学会の活動に真剣に取り組もうという内容が中心でした。見合いの後、私の父親と継母(実母は私が20歳の時に亡くなり、父親は再婚しました。)に結婚のことを伝え、小倉の坂本利勝氏の自宅で結納をしました。その後、私の指導教官の有地教授夫妻に仲人をお願いし、昭和61年の2月23日に、小倉の日蓮正宗のお寺で結婚式をし、小倉国際ホテルで結婚披露宴を行いました。
この頃、私は九州大学法学部の助手でした。しかし、九州大学法学部の内規で、助手の任期は昭和61年の3月末日までとなっていました。4月からは、西日本短期大学の常勤講師となる予定でした。ところが、実際には非常勤講師でした。そこで、私と妻和美は、私の塾でのアルバイト収入と妻和美の実家からの援助で暮らしていました。
5月の中旬頃だったと思います。香川大学教育学部が、法律学を担当する助手を募集しているという話を、指導教官の有地教授から伝えられました。そこで、私は応募することにしました。
ところが、応募書類の準備をしている最中に、私の大学院の先輩達が、私が創価学会員であることを理由として、就職活動の妨害をするようになりました。香川大学教育学部の中でも、私が創価学会員であることを理由として採用に反対する動きがあったようです。その結果、指導教官の有地教授も、どうせ創価学会員だから就職は駄目になるに決まっていると言い出し、二度と推薦書は書かないと言われました。
そこで、私は妻和美ととともに、一生懸命題目を上げました。すると、9月初めに香川大学教育学部から、私の面接をするとの通知がありました。この面接を受けた時に採用の内定を告げられ、9月中旬に正式に採用通知がありました。私と妻和美は、この採用通知を信心の功徳を考え、お互いに喜び合いました。
高松での活動
昭和61年10月1日から、香川大学教育学部の助手として勤務を始めました。その後しばらくして、創価学会では、男子部の部長に任命されました。また、創価学会の会館警備を担当する牙城会のメンバーにも任命されました。妻和美は、婦人部のヤングミセスという組織のメンバーに任命されました。その後、妻和美は29歳の時に支部の婦人部長に任命されました。この年齢で支部婦人部長に任命されたことは極めて異例のことで、当時、香川県では最年少の支部婦人部長でした。
この時期は、夫婦二人で一生懸命活動に取り組みました。公明党の選挙活動では、二人揃って上京し友人や親戚に投票の依頼をしました。聖教新聞の啓蒙活動(新聞の購読を依頼することを、新聞啓蒙と呼んでいます。)や折伏(入信の勧誘)にも真剣に取り組みました。
財務(創価学会が、毎年1度実施する一口1万円からの寄付のことです。)については、夫婦で相談しその金額を決めていました。私は、創価学会の会館で大勢の会員を前にして、財務の体験発表をしたこともあります。天引きの共済預金で貯めていた金額300万円を全額引き出し、その全てを財務としたこともありました。
もっとも、財務の額に関しては、妻和美と言い争いになることもありました。妻和美は、可能な限り多くの財務をしたいと考えていました。妻和美は、財務のことを宇宙銀行にお金を預けるようなものだと発言していました。
しかし、私は、やり過ぎではないかと考えたこともありました。財務の金額で口論をしていた時に、涙ながらに財務のことを訴える妻和美の姿に接し、妻和美は、私を成仏させるために私の妻になったのだと感じたこともありました。そこで、反対したことを心から謝罪して、妻和美の希望する通りの金額を財務としたこともあります。
その後、私の父親が、手術不能と言われた末期の腎臓ガンの手術に成功した時には、毎年100万円の財務を10年間続けようと決意しました。そして妻和美も同意してくれたので、夫婦で財務を続けました。
学会幹部に対する不信
創価学会の婦人部の活動に、文字通り一心不乱に打ち込んでいた妻和美は、体調を崩しました。病院に行くと、医師からはストレスが原因であると言われ、のんびりした生活をするようにと言われました。
そこで、妻和美は、当時、四国の最高幹部だった和田興亜副会長に連絡し、指導を受けました。すると、和田副会長は医師の言う通りにすべきだと言われました。
ところが、婦人部の幹部達は、自分達の頭越しに、直接、和田副会長に指導を受けたということを問題視しました。それまでも、妻和美は、婦人部の幹部達から嫉まれ虐められていました。妻和美が、現場の一般会員達のことを第一に考え、一般会員に無理な活動を強いる婦人部の幹部達に意見することがあったからです。妻和美の発言は、婦人部の幹部達の不評を買っていたようです。
結局、妻和美は、支部婦人部長から支部副婦人部長に降格されました。これは極めて異例な処置でした。学会の役職が変わる時には、その上の役職に任命することが通例だったからです。
支部婦人部長の交代式の前夜、妻和美は一生懸命挨拶の原稿を書いていました。ところが、その交代式では、妻和美は一言も挨拶をさせてもらえませんでした。このことは、妻和美には大ショックだったようです。私も本当にびっくりしました。このことが、私が、高松の創価学会の組織の在り方に嫌気が差す契機となりました。
また、この頃、私は相続に関する問題で、香川県の創価学会の最高幹部の一人に、夫婦揃って指導を受けたことがあります。すると、その数日後、香川県の学術部のメンバーから、この幹部が、私達夫婦が指導を受けに来たことを吹聴していると聞かされました。プライバシーに関する事柄を言い触らしている幹部に、私は失望しました。
しかしながら、この頃は個々の幹部に失望し官僚的な体質には問題点を感じたものも、池田名誉会長や創価学会の在り方自体には疑問を持つことはありませんでした。
創価学会に関する疑問の芽生え
創価学会に対する疑問を持つようになったのは、私は、日蓮大聖人の仏法に感銘して入信したことが、その根本にあると思います。私は、当時の池田会長の思想や行動に感銘して入会したのではありません。
入信した当初、聖教新聞には、当時の池田会長のことを人生の師匠であると賛嘆する記事が数多く掲載されていました。しかし、本来、師匠は日蓮大聖人です。池田会長は信者の代表に過ぎません。
ところが、私の周囲の会員達は、皆、池田会長を崇拝していました。公明党の選挙活動では、国会議員を初めとする候補者は、皆口々に、池田先生に勝利の報告をし喜んで頂くとの演説をしていました。そして、創価学会の幹部達は、創価学会を批判する政治家は仏敵だと発言していました。
本来、議員は国民の代表として、国民全体のために活動すべきであるにもかかわらず、池田先生のためにと連呼しながら選挙活動をしていることに違和感がありました。
中国の天安門事件の直後、創価学会の青年部が訪中団を公募しました。私は、この訪中団の一員として中国の北京と上海を訪問しました。創価学会では、池田名誉会長のことを日本と中国との国交回復の最大の功労者であり、中国の民衆も高く評価していると聖教新聞では報道されていました。しかし、中国を訪問した際に、聖教新聞は情報操作しているのではないかと感じるような体験をしました。
その後、創価学会は日蓮正宗と対立し、結局、池田名誉会長と創価学会は宗門から破門されました。宗門との対立が明確になってからは、聖教新聞には、連日のように宗門を罵倒する記事が掲載されました。
それまでも、創価学会の内部情報を漏らした創価学会の元顧問弁護士達や創価学会を批判した政治家達については、罵詈雑言を浴びせる記事が掲載されていました。しかし、宗門に対する記事は、それらをはるかに凌ぐものでした。
聖教新聞の購読を、創価学会に入会していない大学教授や友人達にお願いしていた私は、このような記事を掲載することに強い違和感を懐きました。そこで、聖教新聞本社に勤務し、池田名誉会長のゴーストライターの一人でもある知人の友岡雅弥氏に電話で抗議したところ、多くの会員達から、私と同様の電話が架かって来ていると言われました。しかし、このような記事を掲載するのは、全て池田名誉会長の指示だから、どうすることもできないと言われました。
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なお、次回のブログには、創価学会に対する訴状と当事者照会を掲載する予定です。また、池田大作氏に対する当事者照会の第二弾も掲載致します。
記
陳述書(9) これまでの経緯について(その1)
平成22年11月15日
髙倉良一
はじめに
妻和美と同様に、創価学会の熱心な活動家であった私が、なぜ、創価学会の池田名誉会長と創価学会に対する認識が変わり、日記の中で創価学会のことを「創価学会池田カルト」と書くまでになったのか、そして、妻和美が宗教的呪縛状態にあると考え、妻和美を覚醒しようと考えるようになったのかに関する経緯を述べることにします。
陳述書(1)で述べたように、私の願いは、何としても家族の絆を取り戻したいということです。そして、家族の絆を取り戻すことができる日まで、忍耐強く精進を重ねようという覚悟をしています。
これまでの経緯を踏まえれば、妻和美の離婚請求は、わが国の裁判所の法的判断には馴染まないものです。その理由を明らかにする上でも、これまで明確に述べていなかった真実を全て明らかに致します。
創価学会との出会い
創価学会と出会ったのは、昭和52年7月初旬でした。当時、九州大学法学部の学生だった私は、入学時から所属していた法律研究会を通じて知り合った先輩の鯰越溢弘氏(現在新潟大学法科大学院教授)のお宅に伺いました。すると、奥さんの鯰越則子氏は、鯰越氏が創価学会に入会されたと言われました。元中核派の学生運動の活動家だった鯰越氏が創価学会に入会したと聞き、私はとても驚きました。
鯰越氏はマルクス主義の用語を使いながら、南無妙法蓮華経という題目の意味を説明するとともに、創価学会のことを熱心に話されました。
そこで、私は鯰越氏に2つの質問をしました。まず、なぜ、鯰越氏が創価学会に入ったかという質問をしました。この質問に対して、鯰越氏は創価学会で社会革命ができると思ったと言われました。
つぎに、私は、この頃悩んでいた自身の天邪鬼な性格に関する質問をしました。私は、相手のことを好きなのに嫌いだと述べてしまうようなことがあったからです。この質問に対して、鯰越氏は、天邪鬼を治すためには、相手のことを大切に思って、それを実践することだと言われました。
この言葉を聞いて、私は目から鱗が落ちたような気がしました。私は、鯰越氏の答えを聞いて、自分自身が自己中心的な生き方をしていたのだということを思い知らされました。私に欠けているのは、相手のことを大切に思うことなのだと痛感しました。とともに、鯰越氏の変化に驚かされました。私は、鯰越氏が、なぜ、こんな発言をするようになったのだろうかと疑問を持ちました。
翌日、私は、書店で創価学会に関する本を3冊購入しました。当時、私は大学院受験の勉強をしていましたが、勉強に取り掛かる前に、まず創価学会の本を30分間ほど読むことにしました。仏法の知識がほとんどなかった私にとっては、その内容はとても新鮮でした。
疑問を持ったのはただ1カ所のみでした。それは、三証の原理という箇所でした。三証とは、日蓮大聖人が宗教の正邪を判定するために唱えられた基準のことです。自身の教えの中に、宗教の正邪を判定する基準があるということは、自己を正当化するだけのことではないかと感じました。しかし、これ以外は本当にその通りだと考えました。
7月末からは、朝、太陽に向かって南無妙法蓮華経という題目を唱えるようになりました。9月に入ると、朝だけではなく、夜、月に向かって題目を唱えるようになりました。そして、9月に行われた大学院入試に合格したことは、題目を唱えた功徳だと思いました。
そして、さらに創価学会に関する本を購入し読み進めました。その結果、12月の中旬頃には、日蓮大聖人の仏法を根本とする創価学会の教義は正しいと確信するようになりました。しかし、この時点では、私は創価学会に入会しようとは思いませんでした。組織に加入し拘束されることには抵抗があったからです。
創価学会の座談会に出席
昭和53年の1月、鯰越氏が夕食をご馳走するから自宅に来るようにと言われました。そこで、鯰越氏の自宅に伺うと、今からお前を創価学会の座談会に連れて行くから、その場で創価学会に入会するとの決意発表をするようにと言われました。
この発言に対して、私は、政治学を研究していた大学院の先輩安倍俊二
それから、鯰越氏の案内で、団地内の一室で開催されていた創価学会の座談会に参加しました。その会場には、部屋が一杯になるほどの創価学会員が詰め掛けていました。ちょうど、この日は、創価学会の教学試験(創価学会では、日蓮大聖人の仏法を会員が理解することを目的とした試験を行なっています。)が終了した直後の座談会でした。
この座談会の席で、年配の男性が、たどたどしい言い方で「自分は、学校を満足に出ておらず、文字も読むことができなかった。しかし、教学試験に挑戦するために、大学ノートで字の読み書きを練習することから勉強を始めた。」との発言を聞いた時には、私は、心の底から感動しました。さらに、創価学会員達が自ら進んで次々と手を挙げて自分の意見を述べている姿に接し、「地沸の菩薩」(法華経を流布するために生まれてきた人間のことを指します。)とは、この方々のことだと感じました。
この座談会には、聖教新聞社に勤務している本部職員が、座談会での御書講義(創価学会の座談会では、日蓮大聖人の手紙の一節を幹部が講義することになっています。)の担当幹部として参加されていました。座談会終了後に、私は、この幹部に対して、私であれば、このように講義すると述べました。今にして思えば、生意気だったと思いますが、その時は、日蓮大聖人の教えをもっと分かり易く講義して欲しいと感じたからです。
その翌日、鯰越氏から電話が架かってきました、この座談会に参加していた創価学会の本部職員(創価学会の専従職員のことを本部職員と呼んでいます。)が、鯰越氏の自宅を訪問し、私のことを、創価学会に是非とも必要な人材であるから入会して欲しいと言われたとのことでした。鯰越氏は、お前の代わりに入会申し込みのカードを書いて良いかと言われましたので、私はお願いしますと述べました。
創価学会の青年部幹部との出会い
昭和53年7月7日に、私は、日蓮正宗の御本尊を授与され、正式に創価学会の会員になりました。それ以来、私は夢中になって活動をしました。
それから半年程過ぎた頃、本部職員の田村隆雄氏と出会いました。九州大学出身だった田村氏は、私に、創価学会本部から九州の創価学会青年部担当の最高幹部として派遣されて来られた佐藤政春氏を紹介して下さいました。佐藤氏は、早稲田大学大学院の修士課程を修了後、本部職員となった方です。九州創価学会男子部の最高幹部だった田村氏は、佐藤氏が大学院を修了されていたので、私を指導するのに相応しいと考えられたようです。
佐藤氏は、学生部の最高幹部達が、大学卒業後、続々と創価学会の本部職員となることに疑問を持たれたそうです。このままでは創価学会は必ず官僚主義になってしまうと危機感を持たれ、創価学会の官僚主義化を阻止すべく、早稲田大学の大学院に進学し、なぜ、ソビエト共産党が官僚主義に陥ってしまったのかをテーマに研究されていたとのことです。
しかし、大学院の指導教授が亡くなられ、その直後に、池田大作創価学会会長(当時は会長)から「これからどうする」と尋ねられたので、「お願いします」と答えたところ、本部職員として採用されたそうです。
私は、佐藤氏が創価学会の会館の宿直を担当される際には、佐藤氏を訪ねることにしました。そして、創価学会の活動や、日蓮大聖人の仏法、大学院での研究や指導教官との対応などに関して、佐藤氏から指導を受けるようになりました。
当時、大学院では、私の指導教官だった有地亨教授から創価学会の活動をやり過ぎているのではと厳しい指摘を受けていました。大学院の集中講義に来られた東京大学の稲本洋之助教授に、指導教官有地教授が、私が学会員であるということを話したところ、そんな人間は大学院を辞めさせてしまえと言われたと告げられたこともありました。
しかし、このような指導教官有地教授の反対にも関わらず、私は、創価学会の活動に熱心に取り組んでいました。そして、鯰越氏の所属していた支部の男子部から、私の地元の学生部(創価学会員の学生と大学院生の組織)に所属を変更してもらい活動するようになりました。また、学術部(大学や研究所に勤務している研究者の組織)のメンバーにも加えてもらいました。
入会後の悩み
学生部に移行した頃、佐藤氏から思いがけないことを言われました。佐藤氏は、創価学会は平和と文化と教育の団体であるとの看板を掲げているものの、その中身が明確ではないので、その内容を考えるようにと言われました。さらに、将来必ず宗教連合という時代が来るので、その時に備えて宗教連合が可能となるような理論を考えるようにと言われました。
私は、佐藤氏の発言に大変驚きました。私は、自分自身の変革を願って日蓮正宗に入信し、創価学会で活動するようになったのです。社会変革を願って入会した訳ではありません。しかも、宗教連合という発想は、他の宗教を邪宗だと批判する日蓮大聖人の教えに反するものだと考えたからです。佐藤氏の発言は、私にとっては驚き以外の何物でもありませんでした。
ちょうどこの頃、中国を訪問していた池田会長が福岡に立ち寄ることがありました。その時、九州大学の学生部に所属していた会員には、池田会長が出席する会合に参加するようにとの連絡がありました。私は、この会合に勇んで駆け付けました。そして、会合終了後、池田会長に「先生、先生に指導を受けたいことがあります。」と呼び掛けました。すると、池田会長は私の方を振り向いて、「そんなことは自分で解決しろ。」と言われました。
その瞬間、確かに、社会の変革を目指して行動するかどうかということは自分自身で決めることだと閃きました。しかし、宗教連合のことに関しては、何としても池田会長の指導を受けたいと思いました。そこで、池田会長が移動された後を追い続けましたが、結局、指導を受けることはできませんでした。
この日、自宅に戻って、夜の勤行をしようと仏壇の前に座った瞬間「そんなことは自分で解決しろ。」という池田会長の指導は、私が御本尊を受持しているということを教えて下さったものだと思いました。
しかし、後述の野崎至亮氏(元創価学会副教学部長)との出会いで、池田会長の発言は誤魔化しであったということが分かりました。しかし、この時点では、全く疑問を感じませんでした。そして、ますます、創価学会の活動に熱心に取り組むようになりました。
妻和美との出会い
昭和60年の4月末日、九州創価学会男子部の最高幹部だった田村氏から電話が架かって来ました。田村氏は、坂本利勝氏から一人娘の結婚相手を見つけて欲しいと依頼されたとのことでした。田村氏は、現在、この女性は女子部の本部長をしているが、このままでは女子部の最高幹部になることは確実で、そうなると結婚するのが遅れてしまうと坂本利勝氏は心配していると言われました。
坂本利勝氏は、北九州の小倉で洋服の問屋を経営されている資産家で、自分の店を継がせるつもりはなく、将来、自分の資産を創価学会と公明党のために使ってくれるような人物を、娘の夫にしたいと言われたそうです。そして、田村氏は、自分が結婚したい程だとも言われました。
5月の連休の頃、坂本利勝氏の自宅で見合いすべく、私は田村氏夫婦とともに北九州に参りました。小倉駅で私達を迎えた女性が、後に私と結婚することになる妻和美でした。出会った瞬間、私のこれまでの人生は、この女性とめぐり合うためにあったのだと直感しました。
私は、この女性と結婚すると決めて交際することにしました。結婚するまでの間は、沢山の手紙をやり取りしましたが、創価学会の活動に真剣に取り組もうという内容が中心でした。見合いの後、私の父親と継母(実母は私が20歳の時に亡くなり、父親は再婚しました。)に結婚のことを伝え、小倉の坂本利勝氏の自宅で結納をしました。その後、私の指導教官の有地教授夫妻に仲人をお願いし、昭和61年の2月23日に、小倉の日蓮正宗のお寺で結婚式をし、小倉国際ホテルで結婚披露宴を行いました。
この頃、私は九州大学法学部の助手でした。しかし、九州大学法学部の内規で、助手の任期は昭和61年の3月末日までとなっていました。4月からは、西日本短期大学の常勤講師となる予定でした。ところが、実際には非常勤講師でした。そこで、私と妻和美は、私の塾でのアルバイト収入と妻和美の実家からの援助で暮らしていました。
5月の中旬頃だったと思います。香川大学教育学部が、法律学を担当する助手を募集しているという話を、指導教官の有地教授から伝えられました。そこで、私は応募することにしました。
ところが、応募書類の準備をしている最中に、私の大学院の先輩達が、私が創価学会員であることを理由として、就職活動の妨害をするようになりました。香川大学教育学部の中でも、私が創価学会員であることを理由として採用に反対する動きがあったようです。その結果、指導教官の有地教授も、どうせ創価学会員だから就職は駄目になるに決まっていると言い出し、二度と推薦書は書かないと言われました。
そこで、私は妻和美ととともに、一生懸命題目を上げました。すると、9月初めに香川大学教育学部から、私の面接をするとの通知がありました。この面接を受けた時に採用の内定を告げられ、9月中旬に正式に採用通知がありました。私と妻和美は、この採用通知を信心の功徳を考え、お互いに喜び合いました。
高松での活動
昭和61年10月1日から、香川大学教育学部の助手として勤務を始めました。その後しばらくして、創価学会では、男子部の部長に任命されました。また、創価学会の会館警備を担当する牙城会のメンバーにも任命されました。妻和美は、婦人部のヤングミセスという組織のメンバーに任命されました。その後、妻和美は29歳の時に支部の婦人部長に任命されました。この年齢で支部婦人部長に任命されたことは極めて異例のことで、当時、香川県では最年少の支部婦人部長でした。
この時期は、夫婦二人で一生懸命活動に取り組みました。公明党の選挙活動では、二人揃って上京し友人や親戚に投票の依頼をしました。聖教新聞の啓蒙活動(新聞の購読を依頼することを、新聞啓蒙と呼んでいます。)や折伏(入信の勧誘)にも真剣に取り組みました。
財務(創価学会が、毎年1度実施する一口1万円からの寄付のことです。)については、夫婦で相談しその金額を決めていました。私は、創価学会の会館で大勢の会員を前にして、財務の体験発表をしたこともあります。天引きの共済預金で貯めていた金額300万円を全額引き出し、その全てを財務としたこともありました。
もっとも、財務の額に関しては、妻和美と言い争いになることもありました。妻和美は、可能な限り多くの財務をしたいと考えていました。妻和美は、財務のことを宇宙銀行にお金を預けるようなものだと発言していました。
しかし、私は、やり過ぎではないかと考えたこともありました。財務の金額で口論をしていた時に、涙ながらに財務のことを訴える妻和美の姿に接し、妻和美は、私を成仏させるために私の妻になったのだと感じたこともありました。そこで、反対したことを心から謝罪して、妻和美の希望する通りの金額を財務としたこともあります。
その後、私の父親が、手術不能と言われた末期の腎臓ガンの手術に成功した時には、毎年100万円の財務を10年間続けようと決意しました。そして妻和美も同意してくれたので、夫婦で財務を続けました。
学会幹部に対する不信
創価学会の婦人部の活動に、文字通り一心不乱に打ち込んでいた妻和美は、体調を崩しました。病院に行くと、医師からはストレスが原因であると言われ、のんびりした生活をするようにと言われました。
そこで、妻和美は、当時、四国の最高幹部だった和田興亜副会長に連絡し、指導を受けました。すると、和田副会長は医師の言う通りにすべきだと言われました。
ところが、婦人部の幹部達は、自分達の頭越しに、直接、和田副会長に指導を受けたということを問題視しました。それまでも、妻和美は、婦人部の幹部達から嫉まれ虐められていました。妻和美が、現場の一般会員達のことを第一に考え、一般会員に無理な活動を強いる婦人部の幹部達に意見することがあったからです。妻和美の発言は、婦人部の幹部達の不評を買っていたようです。
結局、妻和美は、支部婦人部長から支部副婦人部長に降格されました。これは極めて異例な処置でした。学会の役職が変わる時には、その上の役職に任命することが通例だったからです。
支部婦人部長の交代式の前夜、妻和美は一生懸命挨拶の原稿を書いていました。ところが、その交代式では、妻和美は一言も挨拶をさせてもらえませんでした。このことは、妻和美には大ショックだったようです。私も本当にびっくりしました。このことが、私が、高松の創価学会の組織の在り方に嫌気が差す契機となりました。
また、この頃、私は相続に関する問題で、香川県の創価学会の最高幹部の一人に、夫婦揃って指導を受けたことがあります。すると、その数日後、香川県の学術部のメンバーから、この幹部が、私達夫婦が指導を受けに来たことを吹聴していると聞かされました。プライバシーに関する事柄を言い触らしている幹部に、私は失望しました。
しかしながら、この頃は個々の幹部に失望し官僚的な体質には問題点を感じたものも、池田名誉会長や創価学会の在り方自体には疑問を持つことはありませんでした。
創価学会に関する疑問の芽生え
創価学会に対する疑問を持つようになったのは、私は、日蓮大聖人の仏法に感銘して入信したことが、その根本にあると思います。私は、当時の池田会長の思想や行動に感銘して入会したのではありません。
入信した当初、聖教新聞には、当時の池田会長のことを人生の師匠であると賛嘆する記事が数多く掲載されていました。しかし、本来、師匠は日蓮大聖人です。池田会長は信者の代表に過ぎません。
ところが、私の周囲の会員達は、皆、池田会長を崇拝していました。公明党の選挙活動では、国会議員を初めとする候補者は、皆口々に、池田先生に勝利の報告をし喜んで頂くとの演説をしていました。そして、創価学会の幹部達は、創価学会を批判する政治家は仏敵だと発言していました。
本来、議員は国民の代表として、国民全体のために活動すべきであるにもかかわらず、池田先生のためにと連呼しながら選挙活動をしていることに違和感がありました。
中国の天安門事件の直後、創価学会の青年部が訪中団を公募しました。私は、この訪中団の一員として中国の北京と上海を訪問しました。創価学会では、池田名誉会長のことを日本と中国との国交回復の最大の功労者であり、中国の民衆も高く評価していると聖教新聞では報道されていました。しかし、中国を訪問した際に、聖教新聞は情報操作しているのではないかと感じるような体験をしました。
その後、創価学会は日蓮正宗と対立し、結局、池田名誉会長と創価学会は宗門から破門されました。宗門との対立が明確になってからは、聖教新聞には、連日のように宗門を罵倒する記事が掲載されました。
それまでも、創価学会の内部情報を漏らした創価学会の元顧問弁護士達や創価学会を批判した政治家達については、罵詈雑言を浴びせる記事が掲載されていました。しかし、宗門に対する記事は、それらをはるかに凌ぐものでした。
聖教新聞の購読を、創価学会に入会していない大学教授や友人達にお願いしていた私は、このような記事を掲載することに強い違和感を懐きました。そこで、聖教新聞本社に勤務し、池田名誉会長のゴーストライターの一人でもある知人の友岡雅弥氏に電話で抗議したところ、多くの会員達から、私と同様の電話が架かって来ていると言われました。しかし、このような記事を掲載するのは、全て池田名誉会長の指示だから、どうすることもできないと言われました。
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プロフィール
HN:
本名:髙倉良一(たかくらりょういち)
性別:
男性
職業:
大学教員
趣味:
思索と散歩と映画鑑賞
自己紹介:
HN:希望
大学と各種の専門学校で、法律学、哲学、社会学、家族社会学、家族福祉論、初等社会、公民授業研究、論理的思考などの科目を担当しています。
KJ法、マインド・マップ、ロールプレイングなどの技法を取り入れ、映画なども教材として活用しながら、学生と教員が相互に学び合うという参画型の授業を実践しています。現在の研究テーマの中心は、法教育です。
私は命ある限り、人間を不幸にする悪と闘い抜く覚悟です。111歳までは、仕事をしようと決意しています。
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