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2011-01-31

自衛隊員いじめの番組を観て(京王アートマンを断罪する)

自衛隊のいじめの番組を観て、以前の職場を思い出した。以前の職場京王アートマンでは言葉による暴力、恫喝は日常茶飯事だった。ある上司には蹴られた事もある。
 私の他にも言葉の暴力で辞めた方も何人もいます。あれほど離職率が高い会社はない。
 私が辞める最後の方ではあるパートのおばさんが私の勤務態度の事を上司に報告し、その上司が私にこう言った。
「秋山君、周りに変ったと思われなきゃ駄目だよ。早く会社に来て、掃除するとかさ」
と言った。呆れる事然りだった。まあ、色々あるが、労働基準監督所に訴えればよかったと反省している。 言葉の暴力、いじめは黙った方がいいのか・・・。断罪されるべきだ。特に京王電鉄かから出向してきた、ある人は一生許さないだろう。私1人を部屋に呼び出し恫喝した。録音すべきだったと悔やまれる。
 いつかきちんと文章として纏めて公表するつもりである。

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2010-09-28

『三島由紀夫研究』メルマガ

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
      平成22年(2010)9月24日(金曜日)
          通巻第426号 
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 「三島由紀夫と二・二六事件〜靖國神社を巡って」

                                秋山大輔


今年の終戦記念日は例年にない猛暑だった。
茹だる様な暑さの中、靖国神社に参拝した。本年は気温が高い事もあってだろうか、靖国神社が熱気に被われていたと感じたのは私だけだろうか。左派政権の成立で英霊追悼の機運は低下し、菅内閣の閣僚が誰も参拝しないという織り込み済みの亡国的事態が発生した。
菅直人は6月15日の参院本会議で靖國神社参拝拒否の理由を「靖国神社はA級戦犯が合祀されているといった問題などから、首相や閣僚が参拝することには問題がある」という下らない通例通りの答弁を行った。

中韓の内政干渉により弛緩した国会議員の精神状態で参拝されては英霊に申し訳ない。猛暑日の気温と参拝客の熱気が合わさり、靖國神社全体が熱を帯びているようだ。
私は大村益次郎像を横目に、国民集会のテント横で西村幸祐先生と握手をしてから、汗を拭いながら熱を帯びた石畳の上を歩き、本殿に向う。

そこである三島由紀夫のエッセイを思い出した。
昭和三十六年四月新潮で書かれた『美に逆らうもの』において、香港の感想と共にちらりと靖國神社について触れている。
「実に異様な、戦慄的な町の只中で、私はしかし、永らく探しあぐねていたものに、ようやくめぐり会ったような感じがする。私は今までにこんなものを見たことがない。強いて記憶を辿れば、幼時に見た招魂社の見世物小屋の絵看板が、辛うじてこれに匹敵するであろう」と短い文面ではあるが、靖國神社について触れている。
三島は商業的処女作『仮面の告白』において「自分が生まれた時の光景を見たことがある」と論じているが、この言葉を素直に受け止め事実とするならば、三島は靖國神社で見た絵看板も画力があったのならば正確に書き出したことであろう。
誕生を人間が初めて味わう苦痛とするならば、相当なインパクトであったことは想像に難くない。三島は靖國神社論を草することはなかった(無論昔東京に居を構えていた人間なら靖国神社に参拝することは当然だろうが)。
この短い一節で幼い三島が恐怖心を植え付けられた体験をした場所に時空を超えているのだと認識すると靖國神社が違う空間に思えてくる。幼い三島は名作『春の雪』の冒頭で登場する、日露戦役の英霊に手を合わせていたのだろうか。
私の周りに様々な年齢層の人々がいる。幼い子、小学生、大人、老人・・・。彼らの肉体の中で血液の中で様々な日本を護る為に殉じた英霊の遺伝子がある。


▲靖国参拝風景に酷似

『春の雪』に次の様な一節がある。
主人公の松枝清顕が、家にある日露戦争の写真集の描写である。「得利寺附近の戦没者の弔祭」で数千人もの兵士が中央の白木の墓標に向って集結している。その様子を三島はこう描いている。「すべては中央の、小さな白い祭壇と、花と、墓標に向って、波のように押し寄せる心を捧げているのだ。野の果てまでひろがるその巨きな集団から、一つの、口につくせぬ思いが、中央に向って、その重い鉄のような巨大な環を徐々にしめつけてくる。・・・・・・」
この様子は現在の靖國参拝の状況に酷似している。
我々が靖國に対峙して祀られた英霊の魂に頭を垂れるその瞬間を描写しても同様の表現になるであろう。
言葉では表現出来ない荘厳な力を文章上から体感することが可能だ。三島の幼少時代においては主に招魂社に合祀されていたのは戊辰戦争以来の英霊、日清戦争、そして『春の雪』において、印象的に登場する日露戦争で散華された英霊に他ならない。そして三島が感じていた「巨大な環」は大東亜戦争の英霊へと繋がっているのである。その環は永遠に循環して我々の肉体を包み込んでいるのである。

私が靖國神社で参拝した時に、確かに私は幼き日の「三島由紀夫」を感じたのだ。
三島は戦後日本を如何に慨嘆していたのか。様々な論文を残しているが印象深い作品は『私の中のヒロシマ』だ。三島が原爆に対して論じた数少ない小論文の一つであり、戦後日本の矛盾を正鵠に言い当てた予言に私には思えてならない。
あくまで文学者として観念、言葉に包み込めることでしか発言出来ない、核兵器はイメージ外であるとしながら、戦後日本人がGHQによって晒された屈辱的状況を言い当てている。

「八月十五日を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかえるという奇妙な転換をやってのけた。一つはおのれの傷口を誇りにする“ヒロシマ平和運動”であり、もう一つは東京オリンピックに象徴される工業力誇示である。だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだろうか。
いま日本は工業化、都市化の道を進んでいる。明らかに“核”をつくる文化を受け入れて生きている。日本は核時代に向うほかない。単なる被爆国として、手を汚さずに生きて行けるものではない」
と、現代ではごく自然にすんなりと耳に入るが、当時は日教組の左翼教育全盛期だっただろうから可成りアレルギー反応を示した読者も沢山いたことであろう。
しかし北朝鮮、テロの脅威で核武装論も普通の議論の遡上にあがる今となっては三島の先見の明に頭が下がるばかりである。
三島は良心の呵責なく核をつくることが可能なのは唯一の被爆国である「日本」のみであると定義し、人間は「観念的」に原爆が悲惨であろうと想定していても必ず使用していたであろう、その意味での核抑止戦略としてヒロシマがあるのだと述べている。
この論が発表されたのは昭和四十二年の『週刊朝日』八月十一日号であるが、あの朝日がよく掲載したのもだと感心する。臭い物に何十もの蓋をして妄言を垂れ流してきた朝日の唯一の功績であると述べても差し支えあるまい。


▲こころのなかで二二六の英霊と三島森田烈士を合祀

私は靖國神社に参拝する際、必ずしていることがある。
それは心の中で二・二六事件の英霊と三島由紀夫、森田必勝を合祀している。祈りの際には願い事をしてはならないのは原則ではあるが「日本の安寧」を祈念している。
原爆を投下した亜米利加と日米安保と改定案が現在まで脈々と日本を保護しているという幻想を齎している。二・二六事件の精神的指導者とされた北一輝は亜米利加との交戦はすべきではないと考えていたが、その矛盾の上に我々が生きている事実。我々はこの矛盾と常に対峙している認識を強く精神的に保ち続けるべきではないか。

その先駆的な事件が三島由紀夫の決起であった。
河野司の『二・二六事件』や二・二六事件の首謀者とされた磯部浅一の遺書を研究した三島由紀夫だからこそ、無論靖國神社にも造詣が深かっただろうとは想像するに難くないがその文章は殆ど見受けられない。
自身が徴兵されなかった事と、三島と同年代の兵士が合祀されている点から直接的に靖國神社について書くことは避け、文学作品や評論で英霊へ感情を書き記したのではあるまいか。
二・二六事件では磯部浅一の『獄中手記』を中心に語られることが多い。この事件で一番三島由紀夫らしさを感じたのは安藤輝三陸軍歩兵大尉である。
安藤は事件終盤に森田大尉、渋谷連隊長から「すでに奉勅命令が正式に下達された」事を告げられた。自身の身柄が「昭和維新」「尊皇討好」の実現に邁進する決起部隊から叛乱軍へ移行していく事を感じた。奉勅命令は野中四郎大尉以下決起部隊の将校は誰も見ていない。

正式に発令されているのならば総長宮殿下の御署名入りの命令文書を確認させて欲しいと要求し、安藤はこう続ける。
「連隊長殿にも森田さんにも誠に申し訳ありませんが、決起に踏み切ってから今日まで、私の気持ちにはいささかの変化も動揺もありません。また今後とも絶対に変らないでしょう。安藤は千早城に立て篭った楠正成になるつもりです。その頃、正成は逆賊扱いをされていましたが、正成が評価されて“無二の忠臣として称えられるようになったのは、彼が死んでから何百年も経った後のことです。私は今、逆賊、反乱軍といわれ、やがては殺されるでありましょう。しかし、正成と同じように何十年、あるいは何百年が経った後に、国民が、また後世の歴史家が、必ず正しく評価してくれるものと信じています」(『二・二六事件』河出文庫)
と述べているが、大塩平八郎の乱にしろ、西郷南州も、その行動が鑑みられるのは半世紀を経てからであり、革命を希求する者の死は少数の一般市民を覚醒させるのも可成りの時間的認識が必要とされるものだ。
そしてこの安藤の発言は三島が楯の会の会員に語った「右翼は心情である」という発言と共通している。
一見すると戦前と戦後は日教組やGHQにより歴史が分断され、時間を繋ぐ「橋」が消滅した様な錯覚に捕われるが「三島事件」がその溜飲を下げているのは間違いあるまい。そして彼らに共通する概念は「天皇への恋心」であり、たとえ一方通行であっても「行為」を完遂しなければならないという歴史的使命感であった。
安藤の発言と三島の言葉が垂直に繋がっていると実感出来る言葉がある。楯の会例会にての発言である。
「左翼は積み重ね方式だが我々は違う。我々はぎりぎりの戦いをするしかない。後世は信じても未来は信ずるな。未来のための行動は、文化の成熟を否定するし、伝統の高貴を否定する。自分自らを、歴史の精華を具現する最後の者とせよ。それが神風特攻隊の行動原理“あとに続く者ありと信じず”の思想だ。政治は結果責任を負わなければならないが我々は行動責任だけは負わなければならない。武士道とは死ぬことと見つけたりとは、朝起きたらその日が最後と思うことだ。だから歴史の精華を具現するのは自分が最後だと思うことが、武士道なのだ」(『裁判記録「三島由紀夫裁判」』講談社)。

 歴史判断は後世の歴史家が忖度し、判断するかもしれないが今一瞬の行動に責任を持ち、終結させる事こそが安藤や三島が求めていた行動の「美」ではないのだろうか。そして今私が疑問に思うのは三島が述べた「政治家は結果責任を負う」ことを遂行されていない紛れもない事実だ。磯部浅一の遺稿にある一節「余は断じて後世の安穏をいのらない。一信一念に維新を祈るのだ」に似ている。

我々は文献や当時の映像からしか、二・二六事件の時代背景を知る事はできない。
しかし現在の政治家を見ているとその体たらくぶりと事件当時の政治家を比べる事は失礼に当たる事は重々承知であるが、第一次大戦後の不況等深刻な政治状況を鑑みれば青年将校が一部の政治家等を「君臣ノ奸臣軍閥」として討伐し、維新を完結させようとした思いは感情的には「理解」出来る。
安藤大尉は決起の失敗により死を決意するが、その死に場所として考えていたのは靖國神社であった。(結果は未遂)そして決起勃発時に中隊編成の名目としていたのは、午後一時に靖国神社参拝という事にしていたのだ。
さまざまな議論があるが、三島の敬愛する二・二六事件の青年将校や特攻隊の精神的な支柱は靖國神社であり、事実を何人も揺るがす事は不可能なのだ。


▲耳の痛い言葉

現在の何代かの内閣総理大臣は、特定アジアに怯えて靖國神社に公式参拝が出来ていない。考えてみれば、政治は常に純粋な訴えを黙殺してきた過去がある。
二・二六事件終結後は特例で沈静後に敷かれた戒厳令下で「暗黒裁判」と呼ばれた「特設陸軍軍法会議」で一方的に裁かれ、磯部が望んだ法廷闘争の道が断たれる。何故ならば五・一五事件や、永山鉄山軍務局長殺害事件を引き起こした相沢三郎中佐により法廷闘争に持ち込まれた苦い事例があったからだ。麦屋清済少尉は「我々は以後軍国会議において堂々と所信を述べ腐敗堕落と昭和維新断行への憂国の情を、天下に知らしめるため刑務所に入った」と書いているが、事実審理のみで思想信条を訴える事は遂に叶わなかったのである。

この歴史的事実は政治家が中国を恐れて、靖國に祀られる英霊の声なき声を黙殺している事に通じているのではないだろうか。
三島が事件に際し小賀正義への命令書には「君の任務は同志古賀浩靖君とともに人質を護送し、これを安全に引き渡したるのち、いさぎよく縛につき、楯の会の精神を堂々と、法廷に於て陳述することである。今回の事件は、楯の会隊長たる三島が、計画立案、命令し学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上、当然のことなるも、森田必勝の自刃は、自ら進んで楯の会全会員及び現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範を垂れて、青年の心意気を示さんとする。鬼神を哭かしむ凛冽の行為である。三島はともあれ、森田の精神を後世に向って恢弘せよ」とある。

三島は死した後の裁判闘争に己の思想を世に知らしめる事を眼目としたのである。昭和維新における「真意」の表明を黙殺された二・二六事件の将校が抱いた無念を晴らすように・・・。
三島は昭和四十二年三月、雑誌『文芸』において『「道義的革命」の論理ム磯部一等主計の遺稿について』を草し、自作『英霊の声』の分析を試みている。
『憂国』の主人公のモデルと類推される河野寿陸軍航空兵大尉の切腹自決を清らかな武人の最後と定義しながらも、その行為は磯部の不思議な影響力を免れた為の所産と言うほど、三島とって磯部はイコン的存在であったのは疑い様のない事実である。

ここで三島の文章の中身を詳細に分析はしないが、私が目を止めたのは後半の一節であった。
「それにしても、遺稿の中に出てくる裁判官たちのスケッチは、昭和の転回点をなしたこの大事件の公判に臨む人間として、戯画以上のものである。「アクビをし、居ねむりをし、終始顔をいじり、(顔面シンケイ痛の少佐裁官)(居ねむりは肥大せる少佐裁官)、等々出タラメのかぎりをしているではないか」
昭和十一年に居眠りをし、昭和十一年に出鱈目の限りを尽くしていた連中の末裔は、昭和四十二年にも居眠りをし、昭和四十二年にも出鱈目の限りをつくしている。われわれのまわりは、仮寝の鼾に埋まっていて、豚小屋のようである」 

私には耳が痛い。
「昭和四十二年」という時間軸はその当時のみでなく現在まで、平成の御代まで直線となって延びている。支那を恐れて靖國神社を参拝しない国会議員。未だにA級戦犯を持ち出す不勉強な輩、「次の総理も、その次の総理も靖國神社に参拝して欲しい」と言いながら、自分が総理になると参拝しない人物。世の中は欺瞞に満ちている。
 石原都知事が「私は心の中で(A級戦犯)分祀している」と仰っていたが、「憂国の士」という点では二・二六事件の処刑された将校も、三島由紀夫も森田必勝も、靖國の森に祀られている英霊も同じである。無論靖國神社の合祀基準は理解しているが、心の中で全てを「合祀」するもの自由な筈である。
純粋で、情熱に対して真摯に対峙し向き合う時代を希求する精神が疲弊した世の中に確実に存在するのを望むのは決して間違いではないと信じたい。  
 
(あきやまだいすけ氏は三島研究会会員)
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MMMMMMM 三島 MMMMMMMMMMMM 三島 MMMMMMMMM
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(編集部から)小誌は「三島由紀夫研究会」(昭和四十六年創設)の会員だけに限定せずに、三島研究の論文、エッセイをつねに募集しております。比較文学論(たとえば「村上春樹と三島」とか)、作品論(たとえば『美しい星』や『仮面の告白』に新解釈)、読後感、政治論、芸術論。まるで分野を問いません。三島さん自身、古典から前衛まで、映画からシャンソンまで万能の人でしたから。
 「憂国忌」への御感想、御希望でも構いません。皆さんからの御投稿を広くお待ちします。原則として実名。簡単な肩書きをつけて下さい。ただし三島文学批判も構いませんが、明らかな誹謗中傷のたぐいの投稿は採用しません。ゲスト寄稿者コーナーも常設しております。一部の原稿は年二回以上発行のメルマガ合本に掲載させていただくことがあります。    
     ◎ ◎ ◎
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  三島由紀夫研究会 HP URL http://mishima.xii.jp/
      メール  yukokuki@hotmail.com
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(C)三島由紀夫研究会 2010  ◎転送自由
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2010-08-26

小沢一郎よ!!総理大臣になれ!!

民主党代表選は私が楽しみとする構図になった。バカVSバカの構図は変わらないが、金権支那大好きバカと、青年運動家上がりの無能バカの戦いである。しかしこれが民主党分裂の布石になると考える。
 呆れるのが、幹事長を辞任して三ヶ月くらいしか経ていないのに『禊ぎ』が終わったと勘違いしているのか。小沢が総理大臣になった場合もう証人喚問は必要ない。首相になれば、土地転がしで秘書に罪を被せた闇金問題だって答弁しなくてはならない。野党自民党等からは金問題等で突き上げられ政権運営なんて出来ないだろうし、法案なんて可決出来ない。それこそ、福田政権下で模索した大連立を実現しない限り「小沢総理」なんて数ヶ月も保たないだろう。支那に寄り添って、亜米利加をバカ呼ばわりする小沢。こんな奴を亜米利加は無視するだろうし、小沢を冷遇するだろう。亜米利加に楯突いた総理大臣は橋本元総理からの教訓で身を滅ぼすことは明瞭だ。
 小沢が菅に負けたとしたら必ず党を割り、政界再編に直結する。私の希望を言えば、そこで巨大な第三局となる保守政党の誕生を私は希求するのである。
 小沢の検察審査会結果封じという声もあるが総理大臣の立場で起訴されるのも見物である。
 小沢が総理になって政権運営がままならず、辞任、総選挙になれば小沢の求心力が消滅し政界引退になるだろう。
 小沢が勝とうが負けようがイバラの道である事は間違いないだろうし、小沢には「悪夢」しかあり得ないのだ。
 しかし、鳩山の日和見ぶりはみっともなかったね。
Daisukeさんの投稿 - 21:29:24 - 2 コメント - トラックバック(0)

2010-07-04

本日期日前投票いたしました。

期日前投票 山田宏 比例 藤井厳喜に投票



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2010-07-03

三島由紀夫の通ったお店

三島由紀夫が通ったお店を集めてみました。三島由紀夫が愛した味を堪能したいものです。
 何か皆様情報ありましたら、ご一報ください。


  かつ吉水道橋店 03-3812-6268 (毎日11:30に開店します)
 http://www.bodaijyu.co.jp/suidoubashi/suidoubashi1.htm


 新宿 居酒屋どん底
新宿区新宿3−10−2 TEL 03-3354-7749 営業時間 18:00〜1:00 17:00〜0:00(土・日・祭)
http://www.donzoko.co.jp/

世界的水準/三島由紀夫

 クノッフ出版社のストラウス編集長夫妻が、新宿へ遊びに行きたいというので、案内して、まず若い人の大ぜい集まるロシヤ風の酒場「どん底」へゆき、焼鳥キャバレー二軒をまわったところ、夫婦は大よろこびであった。

 酒場「どん底」では、どん底歌集というものを売っていて、ある歌を一人が歌い出すと、期せずして若人の大合唱となる。喚声と音楽が一しょになって、なまなましいエネルギーが、一種のハーモニィを作り上げる。何んとも言えぬハリ切った健康な享楽場である。夫婦はしきりにこれをアメリカの酒場との比較して、日本人の享楽がかくも友好的で、なごやかで、けんかっぽくないのにおどろいていたが、私も、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの酒場の暗い絶望的なふんいきを思いうかべた。

 しかしワビだのサビだのといっていた日本人が、集団的な享楽の仕方を学び、とにもかくにも一夕の歓楽の渦巻を作りうるようになったのは、戦後の現象で銀座の高級バアーでコソコソ個人的享楽にふけっている連中にくらべると、焼鳥キャバレーやどん底酒場のほうが、よほで世界的水準に近づいているように、私には思われるのであった。

トリカッポウシンバシスエゲン
鳥割烹 新橋 末げん 三島が事件前日に食べにいったお店です。
http://r.gnavi.co.jp/g404300/


レストラン カナユニ  
http://www.kanauni.jp/

オニオングラタンスープ(Onion Gratin Soup)

世界のスープの中で、ブイヤベースと並んで、この最も香気溢れるスープをカナユニと云うレストランでは、確かに大切に扱っているようだ。
ディナータイムのコースの1部として、これを選ぶ人。夜会のあとなどにオニオングラタンとガーリックのパン、それにブドー酒などを楽しむ人……。

それらの人々の気持ちを、この店では心憎いほどあざやかに演出してくれる。
1966年 三島由紀夫氏より


日新堂 菓子店 静岡県下田市3-3-7
TEL&FAX : 0558-22-2263
受付時間:年中無休(9時30分〜20時)
http://www.geocities.jp/nisshindo_shop/top.html


ボンネット
 基本情報
店名 ボンネット
住所 静岡県熱海市銀座町8-14
営業時間 9:00?18:00
定休日 日曜、1・3・5・7・8・10・12月最終土曜
谷崎潤一郎や三島由紀夫が愛した店。ジャズが流れるレトロな店内、ジューシーでどこか上品なハンバーガーが人気。長年熱海を見続けて来たマスターが温かく迎えてくれる。ハンバーガー=500円/コーヒー=400円/ハンバーガーセット=700円/
http://www.hotpepper.jp/strJ000385718/ 


【珈琲アロー】
 熊本市花畑町10-10 TEL 096-352-8945
http://www.dandl.co.jp/gold/news2007/20070528arrow/
八井厳さんが珈琲アローを熊本市内に開店したのは、昭和39年11月1日の東京オリンピック開催の年。八井さんは熊本県小川町の出身で、昭和31年頃から当時ハイカラな店で人気のあった「山小屋」でバーテンダー、更には菓子職人などを経て、いつの間にか本格的な珈琲に興味を持ち、琥珀色の珈琲(通常の褐色の珈琲とは全く異質なもの)に魅了され現在に至っている。
 そもそも筆者が同店に足を運んだのは、25年前に某新聞社に勤務していた頃。当時の上司から連れて行かれたことに始まる。最初に度肝を抜かれたのは、珈琲の色が透き通った琥珀色(珈琲ルンバの歌詞には確かに琥珀色とある)であり、褐色でビターな珈琲に慣れていた筆者の珈琲に対する認識が完全に覆された。

 昭和43年、三島由紀夫が同店を訪ねたという。それは三島が割腹自殺をする2年前のこと。当時店内での会話を、「珈琲嫌いの三島由紀夫先生は、珈琲は要らんと言いなはったっですたい。しかし、物を見て判断して、嫌なら捨ててよかですて言ったとですよ。そしたら美味かて言うて飲んでもらいました。他に「機雷」で直木賞ばとんなはった光岡明先生も、よう来てもらいました。」と得意げに語る八井さん。

 今回、十数年ぶりに足を運んだのだが、同店のルールに従い1杯目は水の平焼きのカップ(青なまこ)、そして2杯目は水の平焼き(赤なまこ/写真左上)を飲み干し、更に3杯目を頂いた。琥珀色の珈琲に映し出されたシャンデリアは、43年間カウンターを照らしてきたレトロなもの。実は八井さんが昭和31年に働いていたハイカラな店「山小屋」にあった物らしい。

 沈黙の中に「常にお客さんとの勝負!」と言って珈琲に向かう八井さんの姿は実に若い。どう見ても71歳の老人というよりダンディズムを感じさせるハイカラさんである。・・・琥珀色の珈琲が若返りの秘訣なのだろうか?

■三島由紀夫
 ノーベル文学賞にもノミネートされた偉大な作家。代表作は「仮面の告白」、「金閣寺」、「潮騒」、「豊饒の海」。その他、戯曲に「サド侯爵夫人」、「わが友ヒットラー」、「近代能楽集」などが挙げられる。ちなみにノーベル文学賞受賞作家である川端康成も三島文学を高く評価し、「煙草」で文壇デビューをさせた経緯もある。また、今から約50年前のことだが、剣を愛した三島由紀夫は熊本市内の剣道場「龍驤館」再建にも携わっている。

■龍驤館 http://www.dandl.co.jp/gold/news2003/20031103kendo/index.html

<柏水堂>
03-3295-1208
神田神保町1-10http://otome.chips.jp/kawaii/313
柏水堂は昭和4年創業の老舗洋菓子店。かつて三島由紀夫や松本清張、向田邦子などがひいきにしており、最近では漫画『ハチミツとクローバー』に登場したことでも話題に。併設されたこぢんまりとした喫茶室も乙女度が高いと評判だ。 


六本木 アマンド
http://www.roppongi-almond.jp/ 

宮崎正弘氏発言
森田と三島さんの事実上の最初の出会いは、昭和43年3月です。森田の遺稿集にあるように、前年に六本木のアマンドで、早稲田の国防部数名と三島さんと会合があるのですが、このとき森田もいたか、どうかは定かではありません。
 第一回の楯の会の前身となる三島小隊の体験入隊は昭和四十三年三月でした。
三島さんも十数日参加した、自衛隊富士学校滝ヶ原分屯地での一ヶ月間の体験入隊で、参加予定の中大生5人が、中大のスト解除に伴う試験再開で直前に参加できなくなって、森田らが急遽駆り出されたんです。
森田は体験入隊から帰ってくると、私の前で机に座り、滅多にかかない手紙を書く。三島さん宛に「先生のためには、いつでも命を捨てます」と礼状を書いた。
生きていくのに必死だった若者の多くにあって、森田はどうやって死のうかを考えていた。
理解できない飛躍のある思考の持ち主なのか、或いはこうした短絡的思考で走ることの出来るタイプの人か、私には分からなかった。
その手紙を出して数日後に三島さんから「あの手紙には参った」という電話が森田にあった。それから二人は親密化していった。
『三島由紀夫の総合研究』 
     (三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
       平成19(2007)年12月2日(日曜日)   貳
           通巻第205号  所収
 
Daisukeさんの投稿 - 23:03:01 - 1 コメント - トラックバック(0)
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