時代の風

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時代の風:「正しい独裁者」の死=東京大教授・坂村健

 ◇試される我々の力量

坂村健 東京大教授=久保玲撮影
坂村健 東京大教授=久保玲撮影

 「正しい独裁者」という言葉がある。トルコの建国の父、ケマル・アタチュルクを紹介するときに使われる言葉だ。政教分離から始まり、メートル法やアルファベットベースのトルコ文字の導入、女性がベールを必要としないという服装改革まで。一説には明治維新を参考にしたと言われるが、それ以上のことをケマルは十数年という短期間で、ほぼ一人の力で行った。宗教社会の改革のため強い独裁権を必要とした彼は、一度自ら引退する。議会が国内の混乱に困って「戻ってきてくれ」と泣きつくのを待ち「私の提案に対し議会は討議なしに採決すること」という条件を飲ませ大統領になる。

 「我が国民が進歩への道をしっかりと方向を間違えずに歩けるようになったとき、私は全ての権力を手放すつもりだ。だが、我が国民の歩みは始まったばかりなのだ。すなわち、私を殺すことはトルコ国民の未来を奪うことだ。もっとはっきり言おう! 現在の時点においては私がトルコだ!」--いわゆる「守旧派」による暗殺が失敗した翌日、形ばかりの議会で彼が行った大演説だ。

 そして多くの改革を成し遂げ「あと10年たてば引退できるだろう」と述べた2年後の1938年、ケマルは執務中に倒れ帰らぬ人となる。確かに彼は独裁者だった。しかし、その独裁により国民の識字率は大きく向上し、アラブどころか当時の西欧でも珍しかった女性国会議員や女性官僚まで生まれる。今日の民主主義国の一般の評価基準からいって結果が「正しい」ものであったのは確かだ。「正しい」目的と、それを実現できるだけの桁外れの能力、そしてブレない心--そのような稀有(けう)の資質を持った「独裁者」が存在するなら、彼に社会を任せるのが多分人間社会の運営法としてベストなのだろう。

 しかし、問題はそのような人間はほとんどいないこと。そして、もしいたとしても「絶対権力は、絶対に腐敗する」。「正しい独裁者」も人間--いずれ能力も心もすり減る。そのとき「自分が独裁しつづけることが、皆のため」という思いが手段から目的化していれば、残されているのは悲劇しかない。だからこそ、属人を排し衆知を集めるシステムとしての民主主義がベストではないものの実現可能なベターとして先進国で採用されている。

 ケマルはまさにその資質を持った「正しい独裁者」だった。しかし、彼が倒れなかったとして、8年たてば人は変わる。その時の彼が言葉通りに引退したかはわからない。

 その意味で、悲しいことではあるとしても、その早逝まで含めてまさにケマルは理想的な「正しい独裁者」であったとも言える。事実、彼の心配は杞憂(きゆう)に終わる。彼亡き後のトルコは立派に国父の庇護(ひご)から自立し、アラブ世界の中で稀有な近代国家として発展した。その「正しい独裁者」という言葉と、ケマルの人生を私が思い出したのは、仕事で訪れている海外のホテルで開いたブラウザーのニュース画面を見た瞬間だ。

 スティーブ・ジョブズ、享年56--あまりに有名で説明の必要もないだろう。史上最高の経営者とも言われるが、やはり彼を一言でいうなら改革者。Macintosh--個人が使うコンピューターというコンセプトの確立。iPod&iTunes Music Store--音楽流通の根本からの変革。iPhone--携帯電話を個人の持つ基本的な情報端末として組み直し。iPad--タブレット端末による、紙や本やテレビといった既存メディアの置き換え。どれ一つとっても、驚くほどの改革。それを一人の人間が短期間で実現した。それができたのも、ジョブズもまた「正しい独裁者」だったからだ。一度追い出されたアップル社から、立て直しのために泣きつかれて就任。その顛末(てんまつ)で、株主におもねることなく「独裁」ができる強い立場を築いたこともケマルに迫る。

 実際iOS上のソフトやコンテンツの流通に対し絶対的な決定権を維持し、維持し続けるために自らの支配の及ばないアプリケーション流通を可能にするFlash等の技術は、どんなにユーザーの要望が強くても受け入れなかった。アダルト系のソフトを何の通告もなく削除したり、ジョブズ批判の電子ブックの流通を禁止したり--民主主義的な性向の強いオープン系の情報通信関係者からは、まさに「独裁者」と非難されていたくらいだ。しかし、ネットの世界の変化は早い。アップル社が推していたインターネット上の最新技術であるHTML5は、Flash以上にアプリケーション流通をOSから自由にする技術に成長した。ジョブズが必死で維持していたiOS上での流通支配権は早晩崩れる運命にあった。

 ケマル推定享年57。ジョブズ享年56。皆に惜しまれる早過ぎる死まで含め、彼らはまさに「正しい独裁者」を全うした。次に試されるのは我々。残されたトルコのように、アップル社が--そして情報社会を引き継ぐ我々が、「国父」の庇護を離れ、成熟した民主的な体制を広大なネットの中に確立する。それこそがジョブズへの最大の恩返しなのであろう。=毎週日曜日に掲載

 =久保玲撮影

毎日新聞 2011年10月9日 東京朝刊

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