POLESTARⅠ lesson8
ポールスターⅠ lesson8
Rice and Ducks
①
福永大吾氏は鹿児島県でイネを栽培する農業経営者である。何年も前、彼は10アールの小さな水田を、除草剤を使わずに耕作した。彼と彼の母親はよくかがんで雑草を手で抜いたものだった。それは大変な作業で母親が言った。「もし除草剤を使ったら、雑草を手で抜く必要はないだろうに。」けれども彼は考えを変えようとしなかった。
なぜ福永氏はそんなに固く決心していたのだろうか?
1960年代、熊本県水俣の化学工場が海に水銀を流した。これがそこに生息する魚を汚染し、その魚を食べた人は重い病気になった。その病気は水俣病と呼ばれた。2,200人以上の人々がそれに苦しんだと考えられている。
そのころベトナム戦争が起きていた。アメリカの戦闘機はベトコンが身を隠す木を枯らすために化学薬品を散布した。これらの化学薬品は多くのベトナムの人々に害を与えた。戦争後、15万人もの子供たちが重大な障害をかかえて生まれた。
もしこうした悲劇が起こっていなければ、福永氏はおそらく除草剤かその他の化学薬品を使っていただろう。
②
1990年のある日、福永氏は新聞でイネを育てるアイガモ農法についての記事をみた。それを読みながら彼は思った。「これだ!この方法によって有機米を栽培できるかもしれない。」
アイガモはカモとアヒルの交配種である。アイガモはもともとおいしい肉のために飼育された。水田で、彼らは害虫や雑草を食べるがイネは食べない。水田にアイガモを放すことによってこの行動をうまく利用する農業経営者もいる。このようにして彼らはいかなる化学薬品も使わずにイネを安全に育てることができる。アイガモは水田を泳ぎまわるあいだ、水田の泥を足でかき混ぜる。これが泥への酸素供給量を増やし、イネが育つのを助ける。さらによいことに、アイガモのフンは天然肥料である。
まもなく福永氏はアイガモ農法に挑戦し、改良した。彼の夢がかなっているかのようだった。
③
次に挙げるのはアイガモ農法のいくつか重要な点である。
第1に、農業経営者はイネの苗を植えて数週間後に若いアイガモを放すべきである。もしアイガモを放すのがこれより遅くなったら、雑草は彼らが食べるには大きくなりすぎるだろう。
第2に、アイガモは放すとき生後1、4週間であるべきである。その理由はそれより年を取って大きくなったアイガモは新しく植えた植えられたイネを傷つけてしまうかもしれないからである。
第3に、10アールの水田に対して約15羽というのが適切な数である。少なすぎたら彼らは雑草を十分雑草を食べることができない。もし多すぎたら、フンが多く出すぎる。イネは肥料が多すぎるとうまく育たない。
第4に、イヌやカラス、他の動物をアイガモに近づけさせないようにしておくことが必要である。農業経営者は水田の周りにネットを張るべきである。彼らはまた夜アイガモを守るために避難所を作るべきである。
最後に、イネの穂が出たら農業経営者はアイガモを水田から取り出すべきである。もしそうしなかったら、アイガモはコメを食べるだろう。
④
アイガモ農法はあなたが思うより有益である。米の収穫高は普通の米の約90パーセントである。けれども真に化学薬品なしで栽培されるため、普通の米より30パーセント高い値段で売れる。そのうえ、アイガモはイネの収穫が終わったあとは肉のために売ることができる。
何より、アイガモ農法は生産者と消費者の両方にとって安全である。それは日本が誇ってよい有機農法である。現在、もし韓国や中国、ベトナム、それ以外のいくつかのアジアの国にもし行くなら、あなたはまたアイガモが水田を泳ぎ回っているのを見ることができるかもしれない。
アイガモ農法を導入してから6年後、福永氏は無農薬水田の面積を80アールに増やした。「有機農法には大きな喜びがあります。」彼は言う。「しかし消費者の支持がなかったら、私の努力は失敗していたでしょう。アイガモはかわいいし、自分の仕事が健全であることがうれしいです。
アイガモを放した水田にはホタルが戻ってきた。夏には、大都市の学校の子供たちがアイガモとイネを観察しに来る。そこでは彼らは豊かな自然環境と触れ合うことができる。
もし福永氏が1990年にアイガモ農法についての新聞記事を読まなかったら、このすべては起こっていなかっただろう。/