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満蒙の土:1部・開拓民の記憶/13止 語る 自決に失敗し生還 /長野

 ◇出征していた男たちは泣き崩れた。話すのは嫌だが「悲劇」伝えなければ--豊丘村・久保田諫さん

 <当時15歳の久保田諫(いさむ)さん(81)=豊丘村在住=ら旧満州(現中国東北部)の石碑嶺(せきひれい)河野村開拓団員約70人は敗戦翌日の1945年8月16日深夜、逃避行中のトウモロコシ畑で将来を悲観し、集団自決を試みる。久保田さんと、耳が不自由で日本軍に徴兵されず開拓団に残った中川好一さん(25)は女性や子供の自殺をほう助した後に、最後に石で殴り合い死のうとする。だが、気絶後に息を吹き返す>

 ものすごいスコールのような通り雨が来て、バケツで水をぶちかけられたようだった。目を開けると、真上に太陽があった。8月17日の昼近くになっていたんだと思う。中川さんもほとんど同時に目を覚ました。5、6時間は失神しとったんだろうな。

 出血もしていたから、ぼうっとして簡単には起き上がれなかった。口が渇いてしょうがないから、畑の足跡にたまった泥水をはいつくばってすすってな。幾らか精がついた。

 気が付いてみたら、シャツもないし、ズボンもはいてなかった。下着だけ。中国人がはぎ取っていったんだな。周りの死体を見ても、服がほとんどなかった。死体の服まで取られるということには心が痛んだな。

 <2人だけ生き残った久保田さんと中川さんは、本能的に元居た石碑嶺河野村に向かって歩き出す。死ぬ気力は失っていた>

 着るものもなかったから河野村で知り合いだった苦力(クーリー=現地雇用の農業労働者)の頭(かしら)の中国人男性の家に助けを求めた。男性宅で着るものを用意してもらい、17日の晩は泊めてもらった。朝飯には、中国人が正月や節句にしか食べない貴重な白米を炊いて出してくれたんだに。おかずは卵焼き。今考えても涙が出るほどうれしかった。衰弱している俺たちのことを心配してくれていたと思えばな。

 頭の男性は「(満州国の首都だった)新京の町へ出て電車に乗り、日本へ帰る船に乗るように」と言って、弟ら4人の中国人を護衛につけてくれて、新京(現長春市)の町へたどり着けたんだ。

 <新京で、敗戦直前に徴兵された元開拓団員の男たちと偶然再会する>

 村から15日朝に出兵した男らに会った。聞いた話では、村の女や子供が集団自決した翌日の17日、出征していた男の1人が開拓団が心配で河野村に戻ったと言っていた。でも、村はもぬけの殻で、家族の姿を見つけられないまま新京に戻ってきたらしいんだ。

 そこで俺が15日から16日深夜の集団自決に至るまでの過程を説明したんだ。すると、みんな泣き崩れてしまった。「もう少し早く戻ってやれれば」と泣き叫んでいたなあ……。

 <帰国後、集団自決の記憶をずっと胸にしまい、口外しなかった。転機は15年ほど前、旧満州での体験を人に語り継いでいた別の元開拓団員の向田満(みつ)さん(故人、豊丘村)に出会い、勇気をもらう。現在、年4回ほど集会などで体験を話す>

 女性の向田さんは「引き揚げるのに子供は足手まといになる」と中国人に預けてきたんだ。戦後、子供に再会したが、子供は「中国に育ててくれた親がいるから」と帰国するのを拒んだ。向田さんが自分の悲劇を話しているのを聞いて、伝えていかなければという気持ちに変わった。

 だけど、本当は嫌なんだ。話すのは……。昨日のことも忘れてしまうような年になってきたが、あの日のことは一日たりとも忘れたことはない。忘れられるようなことではないんだ。これからも「こんな悲劇があった」ということを一人でも多くの人に聞いてほしいと、元気なうちは頑張っていこうと思っとる。【満蒙(まんもう)開拓団企画取材班】=1部おわり

毎日新聞 2011年10月13日 地方版

 
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