単純に内包された複雑性。

・複雑系とは、変化を伴う構造を示す高度に構造化された系のことである (N. Goldenfeld and Kadanoff)
・複雑系とは、その展開が初期条件やわずかな摂動に対して非常に鋭敏な系、相互に作用する独立な構成要因の数が非常に多い系、あるいは系を変化させることのできる経路が複数あるような系のことである。(Whitesides and Ismagilov)
・複雑系とは、それが描く模様やそれを描く函数からは理解も検証も困難な系のことである。(Weng, Bhalla and Iyengar)
・複雑系とは、多数の異なる構成要因の間の複数の相互作用の存在する系のことである。(D. Rind)
・複雑系とは、その過程において一定の漸近的な変化と時間を掛けて現れる変化とを併せ持つような系のことである。(W. Brian Arthur).
・複雑系は還元主義的なアプローチが適用できない系として有名である。そのため現象を単純な法則や原理に落とし込むことで理解したとする、今までの科学がとってきた基本姿勢に対し、複雑系の分野の研究姿勢はその基本的立場に関して若干の違いを持つ。複雑系の分野を貫く基本スタンスとして「複雑な現象を複雑なまま理解しようとする姿勢」を挙げることができる。

(Wikepedia「複雑系」より)

結局、複雑系とは複雑だ、ということでいいのではないだろうか。複雑系についてボクたちが理解すべきことは、これくらい。「複雑な現象を複雑なまま理解しようとする姿勢」、こんなこと当たり前じゃないか、とあるときは腹立たしく、また、あるときは滑稽に感じる表現だ。しかし、これが近代科学への反省から出てきた概念だということが、少し冷静に考えれば分かる。デカルトの方法論があまりにも強力で有効だったため、分断、分析、還元のループから抜け出せないでいた。多くの成果を手にしたと同時に負債も抱えてしまった。科学技術の発展とともに物質的豊かさとその闇を手にしてしまった。それは科学という単純化する行為の中に内包された複雑性を解き放つことを意味した。単純だと思われた世界が、実は一皮むけば複雑性に満ち満ちた時空間だったということを露にした。

複雑系は、自然科学、数学、社会科学など広範なフィールドで研究されているが、システム論、複雑性理論、システム生態学、サイバネティック等々でそれに特化した研究が行われている。なんだか単純化という亡霊を打ち払わんがためにアデミックな総力を結集して、「複雑系って複雑なんだよ。単純じゃないんだよ」と主張しているようだ。この世界は複雑だ、ということを一所懸命に訴えかけている。ボクたち一般人からしたら不思議な光景だ。

しかし、この類いの出来事は、会社の会議、町内会の寄り合い、家庭での会話に頻繁にみられるのではないだろうか。あまりにも近視眼的になり過ぎて、普通に考えたら何とはないことに必死でしがみつき言語化を図る。ちょっと退いて眺めれば全体の構造が簡単に分かったりするのに。ユズレナイ、気持ちでいっぱいになっているのかもしれない。

いま、ボクたちはこの世界が複雑なものであるという当たり前の視点を再獲得しなければならない。単純に本質だけを切り取って、断定することは避けなければならない。単純化することで問題の本質に迫るという手法がうまく機能しなくなっているからだ。これは人間という系を理解する場合にもいえることだ。「この人はこういう人だ」と単純化してはいけない。複雑なものを複雑なものとして受け容れ理解する努力が求められているのだ。意見や考えもそうだ。「一言でいうとどうなる?」、上司からよくいわれるフレーズではないだろうか。多くの場合、ポイントレスな説明が続くときに発せられる。しかし、単純化できない概念を説明するときは仕方ない。相手の理解力に合わせることはできない。そのときは潔くあきらめよう。

ソーシャルイノベーションの大前提がこの複雑性の受容である。

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