UP DATE…2004,06,01



電車通学

【1】






 この人は分かっているのだろうか。ここに居るのが僕だということを。





 毎朝七時十三分の電車、車両は前から五番目。一番人数が多い車両だ。並んでいる時からそれは分かりきっているから別の場所に移動すれば良いのだが、僕には移動できない理由があった。
 駅員の叫び虚しく皆別れて乗り込むなんて面倒な事はしない。朝の貴重な時間、例え不快でも着いた後の事を考えたらこの付近に留まるのが一番楽なのだ。
 僕は最後尾に位置付け、駅員に背中を押されながら鮨詰めの中に何とか収まった。ドアに顔を押し潰されないように気を付けている内に、プシューッと空気が抜けるような音を立てて閉まる。
 …これで、こっちのドアは僕の降りる駅まで開かない。
 僕は浅く深呼吸をして、鞄を腹に抱えた。
 程無く電車が動きだす。冷房が効いている筈なのに酷く蒸し暑い車内は詰襟の学生服だと汗を掻く程だ。ちらほらと同じ制服の生徒が見えるが、誰にも声を掛けないし気付かれたりもしない。頭を項垂れ、息を潜めて僕はただじっとそこに立っている。
「…」
 電車の揺れに合わせて人々が揺れる。傾きに合わせて出来た隙間に、すっと入り込む物があった。
「…っ」
 それは僕の鞄の下に潜り込み、包まれたそこをそっと押さえてくる。僕は静かに深呼吸をしてその衝動を深い息と共に吐き出した。やがてそれは股下に入り、下から僕を持ち上げる。決して強引ではなく、優しく、優しく。
 僕は震える吐息を鞄にぶつけ、次第に揉みしだく動きに変わって行くその手の動きに背筋を嘶(いなな)かせた。


 毎朝同じ電車の同じ車両の同じ場所。今日でもう一月になる。初めて痴漢された時僕は半泣きになりながら必死でその手を引き剥がそうとした。信じられなかった。その手が明らかに男の物だと解ったから尚更混乱し、無我夢中でそれを引っ掻いたりしたけれど、生憎規則に五月蝿いうちの学校の検査の日だったので爪は伸びておらず傷一つ付けられない。
 男が男に痴漢されているなんて恥ずかしくて言えないし、叫んだ所で白い目で見られるだけなのは解りきっていた。背が低いわけではない。平均身長はあるし、顔だって普通だから女の子に間違われているので無いのははっきりしている。第一、学ランを着ている僕の股間を直接握り込んで来たのだから、明らかに男子を狙った痴漢だ。
 何より僕が混乱したのは、その時僕は自分の性癖に疑問を持ち始めた所だったからだ。際どい女性の写真を見せられてもちっとも興奮できない自分。女の子に興味を持てない自分。中学迄はきっと性成長にはそれぞれ格差があるからと気にもしなかったけれど、高校に入り既に二年、遅すぎる開花に僕は焦っていた。夢精もするし勃起もする。でも、その原因が決して女性と関連していないのだ。自慰をしてみようとネットで怪しいサイトを巡り女性の写真を見ても、僕は自分が興奮できない事を知った。
 それでも、その事を、自分が同性愛者かも知れないという事を受け止めたくは無い。たまたま反応しなかっただけで、きっとその内普通の男性と同じ反応をする様になる。そう、信じていた。
 硬くなる股間が僕に現実に目を向けろと主張してくる。男の手は次第にエスカレートしていき、制服のチャックを下ろし始めた。ゆっくりなるべく音を立てない様に下ろされて行くその動作が、僕にとってはじわじわ追い詰められている様に感じられる。
 ―――ほら、もうすぐ辿り着く。本当に触れて欲しいと願っている場所に。
 心臓がばくばく音を立てる。抵抗する手は確かに空いているのに、僕は男の手に自分の手を沿えるだけで、それを阻む事をしていない。震える手の平が汗ばむ。
 下着一枚を隔て、男の手が僕の股間を包んだ。硬くなっているのを確かめる様に、数度押し付けられ、僕は固く目を瞑った。それから、男の手から自分の手を離し、鞄を両手で抱えた。指が前立てを掻き分け直に触れてくる。引きずり出されるペニスを、僕はただ目を瞑り、固く口を結んで男の手に委ねたのだ。


 あの頃の様な遠慮は無く、男の手はさっさと僕のペニスを外気に晒す。そうしてそこにゴムを被せ、強弱を付けて扱き出した。
「…っふ…っ」
 いつも最初に強く握り込みぎゅっと押し出す様な動きをされ、僕のペニスはその一瞬で硬度を持つ。漏れる息を必死で押し殺し、額をドアに預けて寝ている振りをするのは三度目に覚えた事だ。この車両は丁度連結部分にあたり、その先頭に居るから僕がドアに向かって身を預けると誰にも僕の前で何が行われているのか解りはしない。目を瞑って、じっと快感に浸っているなんて、誰にも気付かれない。
 男の手は袋も丁寧に愛撫してくれる。僕はそれがとても好きだった。指で挟んで皮を遊ばせるその仕草は心地良い快感を与えてくれるのだ。
 立ち上がったペニスを上から包み、指先がそこを弄くる。腹に押し付けられるペニスの強い快感と、袋への擽ったい様な快感。二つの異なる感覚に翻弄され、僕の先端からじわじわ先走りが漏れ始めた。
「…ぅ…ん…」
 鞄を抱える手に力が篭る。気持ちが良い。もっと触って欲しい。
 僕の心を読んだ様に男の手が愛撫の仕方を変える。竿を中心に解放に向かって少し強めの愛撫へと。ゴムの中で僕のペニスはしとどに濡れて、カリの部分を指先で転がされると更にそれは酷くなる。早く、早く達かせて欲しい。親指の腹が先端を押し潰す様な動きをする。前後に擦られ、背筋が震える。
「…っ…っ…」
 生理的な涙が目尻に浮かぶ。もうすぐ達きそうだ。
 くるりと全身を包まれ、上下に激しく扱かれる。僕は息を飲み、震える身体を我慢できず数度ドアに向けて腰を突き出し背を反らせ、ゴムの中で精液を吐き出した。
「…はぁ…はぁ…」
 押さえた荒い息を吐きながら僕は何とか息を整える。まだ降車駅迄五駅ある。もう一度してくれないだろうか。今日は少し早かった気がする。
 僕はペニスからゴムが取り外されるのを黙って待ちながらそんな事を考えた。ちらりと目を開け下を覗くと、微かに力を残している僕のペニスが白いハンカチで拭われている所だった。男の手は左手。手首にスポーツタイプの腕時計が見える。骨ばった、完成された男の手だ。あの手が僕のペニスに触れて、僕に快感を与える。そう考えるだけで、ただ拭いているだけなのに僕のペニスは硬くなっていった。
 男の手が少し止まる。頭上で、微かな笑い声が聞こえた。
「今日はもうお終いだ」
 ビクッと肩が震える。低い声。少し掠れて、でも耳障りじゃ無い。どちらかと言うと腰にクる声だ。それに、まだ若そうな感じがする。手だけを見てもそう感じたけれど、スーツを着ている様だから学生では無いと思っていた。
 初めて声を聞いた僕は、声を掛けてもらった事に高揚して思わず顔を上げようとした。しかしそれは男の次の行動で阻まれる。
「あっ」
 思わず漏れた声を慌てて唇を噛む事で潜めた。心臓は今以上にどきどきしている。
 男は、僕の耳を噛んだ。甘く、優しく。必然的に顔を向ける事は出来ず、歯の隙間からちろちろと出てくる舌に僕の思考は真っ白になってしまった。耳の頭を噛んでいた歯はやがて引っ込み、舌だけが耳を舐め始める。耳殻を繊細なタッチで辿られると、いつも与えられる直接的な刺激とはまた違う、仄かな快感が僕を包み始めた。
 擽ったいのだけれど、でも気持ち良い。時折吸われるのが解り、微かに触れる男の肌に僕は興奮した。耳の裏にきつく吸い付かれる。痕が残りそうな位、きつく。
 僕は思わず瞑っていた目を少し開け、窓に微かに映る男の顔を見ようと思ったけれどそれは叶わなかった。見えたのは顎の輪郭と、反っている咽喉。綺麗に浮き出ている喉仏と筋に触れてみたいと思った。
 顔は見えなかったけれど、彼が僕を包み込む様に周りから隔離している事に気付き、何だか嬉しかった。


 彼は間違いなく法を犯している痴漢だし、周りに悟られない様に万全を期すのは当然なのだろう。身の保身の為にそういう格好になるのももちろん解る。でも、僕は彼の優しさを知っている。自分の欲望の解消の為だけに僕に触れるのなら、僕のペニスにゴムを被せたり、ましてや後始末をしてくれたりなんかする筈が無い。痴漢されて感じているのだからと、僕を電車から連れ出し強姦したりもしない。
 それに、最初、彼は抱き締めてくれたんだ。初めて他人の、しかも男の手で吐精させられ、快感よりもショックが大きくて声も無く涙を零してしまっていた僕を。
 痴漢されてその痴漢した張本人に慰められるなんて矛盾もいい所だ。笑いが込み上げてきて、僕が抱えられた頭を彼の腕に擦り付けると、彼の腕も震えて笑っているのが解った。
 僕は嫌悪感よりも彼のその仕草に興味を惹かれた。痴漢なんてする癖に、変に小まめで優しくて。僕の降りる駅の名前がアナウンスされるとその腕は離れて行き、顔を捩って見上げた先には背中しかなかった。僕よりも頭半分位背の高い男の人。きっとこの人が僕に痴漢したんだ。ゴムを外され、丁寧に拭き取られたそこには快感の余韻しか無い。
「明日も…」
 僕は自分でも考えていなかった呟きが自然と漏れて行くのを、どこかぼんやりとしながら聞いていた。そっと手が伸びてきて、僕の手をさらりと撫でて去って行くまで。


 僕は顔を見るのを諦め、彼が僕の髪に頬を当てるのを感じていた。そっと体重を背中に掛けると、突然腰に腕が廻った。いつの間にか処理を終えた左手だ。
 ぐいと引き寄せられ、僕は顔が真っ赤になる。
「…熱いだろ」
 右の耳に唇が触れる。腰の下…尻の谷間に沿って宛がわれる、彼の熱。
 僕は小さく頷いた。爪先立ちになり、そこに自分の身体を押し付けると耳元で小さく息を吸い込む気配がする。
「…よせ、いっちまう」
 電車の揺れの所為か、それとも自分で動いているのか、彼も僕のそこに腰を押し付けたり離したりしていた。初めてだ。彼も興奮しているのだと知ったのは。
 僕は動かすのを止め、じっとその熱さを感じていた。どくん、どくん、と脈打っている。

 これがもし、僕の中に入ったら…。

 今迄そんな事考えた事無かった。いつも触れられるばかりで一人で達かされていたから、彼がどうとか、その後の事とか、全く気にしていなかった。
 でも今確かに僕の後ろを強く主張する彼のペニスが在る。僕に押し付け、熱い息を吐く彼が居る。
「…入れる…?」
 小さな小さな呟きは、間近に居る彼には確かに届いた。
「…良いのか…?…こんな、見知らぬ痴漢野郎に掘らせて…」
 僕は強く頷いた。欲しいと思ったから。
 彼に触れられるようになってから、僕は自分の性癖を受け入れた。彼の手を思い出し自慰をする、彼の触り方を思い出し自分の股間に手を伸ばす。男の人の手が僕を絶頂へと導く想像を頭の中で巡らすと、強い快感が僕を襲った。
 男の人に触れられて快感を得る事を覚えた僕は、毎朝の電車での逢瀬が待ち遠しくなってしまった。男に痴漢する彼なのだから、きっと彼もゲイなのだ。身近な所に同士が居ると思うと気持ち的にも楽になり、今まで我慢していた性欲が堰を切ったように溢れ出す。それを解放してくれる唯一の人だったから。
 それに、僕は彼の事が多分好きだ。顔も知らないし痴漢だけど、慰めてくれる優しさを持った人。いつも優しく追い上げて解放してくれる。他の人を知っているわけでは無いけど、彼の手はとても優しいのだ。
 手と、背中しか知らない。顔を見たら吃驚する位オジサンかもしれない。でも、僕は彼の優しさが好きだった。今は低い、掠れた声も好き。
「あなただから…」
 自分を卑下した言い方に、僕はそう答えた。
「……また、明日な」
 右の耳に唇が落ちる。アナウンスが流れる。
「うん…」
 明日、明日、明日。

 僕は彼と繋がる。



<gontaccle@>



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