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No.12  ファームで見つけた恋女房

 1972年(昭47)11月、ライオンズの運営会社はロッテオリオンズの中村長芳オーナーに買収され、西鉄野球株式会社から福岡野球株式会社に代わった。
中村オーナーは保有していたオリオンズの株式をすべてロッテに譲り、ライオンズの運営に専念。命名権をゴルフ場開発会社の太平洋クラブに譲渡した。

西鉄は「黒い霧事件」で主力投手が抜けた70年から3年連続最下位。観客動員も減り続け、シーズン終盤の消化試合では実質100人、200人しか入らないこともあった。

私に球団経営のことはわからない。どんなにお客さんが少なくてもマウンドに立てればよかった。がむしゃらに投げているうちに野手転向願望は消え、投手という仕事にのめり込んでいった。

太平洋1年目の73年、プロ5年目にして15勝14敗と初めて勝ち星が負け数を上回った。だが、72年309回2/3に続いて257回1/3、2年間で567回を投げたツケで疲労性のひじ痛が出た。

74年は開幕から調子が上がってこない。4月0勝3敗、防御率7・50。稲尾和久監督から「トンビをどうしようか?」と聞かれたスコアラーの豊倉孝治が「ファームに落とせばいいじゃないですか」と言いやがったらしい。

豊倉は私の1歳年下で、千葉の安房高から日軽金を経て70年ドラフト3位で入団。  「堀内2世」というふれ込みだったが、早くから打撃投手兼スコアラーになった。

入団発表を終えて寮に来たとき空き部屋がなく、2人部屋を1人で使っていた私の部屋に転がり込んだ。これ幸いとばかり私はその夜、無断外泊。出会ったその日から“留守番” を頼んだ。そんな縁もあって豊倉がスコアラーになってからは徹底的に使った。
「このデータ、信用していいのか?責任取るんか?」先乗りスコアラーの西三雄さんにも同じ和歌山県人の気安さで「このデータ、大丈夫ですね?」と念を押させてもらったが、豊倉はもっと言いやすかった。

自分のことだけでなくようやく相手打者を見る余裕が生まれてきた時期。よく打たれている打者を抑えるにはどうすればいいか。豊倉ととことん話し合った。

そんな関係を知っているからこそ稲尾さんも彼に私の再生法を聞いたようだが、よりによってファームとは・・・。だが、何事も経験。2軍で新たな出会いがあった。早稲田大学からドラフト2位で入団した新人捕手の楠城徹(現楽天編成部長)である。

楠城は私と同い年の23歳。島根の出雲市で行われたウエスタン・リーグのトーナメント大会でバッテリーを組んだ。
肩は強くなかったけど、いい意味でずるさを持った捕手。ウマがあい、野球の話で盛り上がった。1軍に戻るとき稲尾さんに頼んで一緒に上げてもらった。

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