平成23年10月22日発売
月刊日本10月号
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平成23年10月号
野田総理よ、米国の顔色を窺うな!! 衆議院議員・国民新党代表 亀井静香
野田政権を対米従属路線に戻らせない
―― 一昨年九月に民主党政権がスタートしてまもなく二年が経ち、野田佳彦氏が三人目の首相に就任した。亀井さんは、民主党政権発足前に対米自立を宣言したが、この二年間の民主党政権はそれを実現できたのか。
亀井: 国家にとって、自らの足で立ち、自らの利益のために政策を決定することは、最も重要なことだ。ところが、長期間続いた自民党政権は、アメリカに過度に依存してしまった。アメリカに守ってもらい、アメリカに付き従っていさえすればよいという「奴隷の幸福」状態を恥とも思わなくなっていた。
民主党政権の誕生は、こうした状態から抜け出し、日本が自立国家になる絶好の機会だった。だからこそ、私は鳩山政権発足前の一昨年五月に訪米し、「日本は自立する」と宣言してきたのだ。
国家安全保障会議(NSC)のセイモア調整官やNSCアジア上級部長のジェフリー・ベーダー氏ら米政府高官に会って、「従来のようにアメリカが勝手に方針を決定して、日本はそれに協力しなさい、と言われても新政権下ではそうはいかない」と宣言してきた。「在日米軍を使って新政権を倒すことなどできない。亀井静香をCIAが暗殺しない限り新政権の動きを阻止することなどできない」とまで、言ってきた。
「対等な日米関係」を掲げた鳩山政権には、当初対米自立に向けたエネルギーが感じられた。「対等な日米関係」と言ったのは、歴代の総理の中で鳩山首相が初めてだった。私は、鳩山政権が、長期間続いてきた対米従属政治から決別することを期待していた。
しかし、普天間問題でつまずいてしまった。私は、鳩山総理に「普天間の移設問題は、事務レベルの純技術的、純軍事的な議論に陥ってはいけない」と言っていた。海兵隊の運用という視点だけでの議論は、日本の防衛省とペンタゴン(米国防総省)の協議に過ぎない。基地問題を今後の日米関係の在り方という大きな枠組みの中で考えるべきだと助言していた。ところが、鳩山首相は、普天間の問題をうまく処理できなかった。そして、従来の対米従属路線へ後退してしまったのだ。従来の日米関係から脱却できないマスコミも、民主党政権が自民党時代の対米従属路線に逆戻りすべく後押しした。
もちろん、日米関係は重要だ。しかし、日米両国がお互いに独立国家として、お互いに尊重し合う関係でなければ、真の友好関係は確立できない。経済面だけではなく、文化の面でも、安全保障の面でも、お互いを尊重し、協力し合うという姿勢がなければ、国家の関係は安定しない。
小泉政権は、アメリカの言うがままに、新自由主義的な経済政策を進め、わが国の共同体を破壊してしまった。アメリカの言いなりになることは保守の立場ではない。保守とは長い歴史の中で培われた日本人の生活の仕方、文化を守ることなのだ。
TPPもまた、アメリカが自国の利益のために戦略的に進めていることだ。アメリカは、自分たちの要求を外国に飲ませていくために、TPPを利用しようとしているに過ぎない。通商的要求を、TPPというオブラートに包んで実現しようとしているのだ。「関税全面撤廃」という大きな投網をかけておいて、自国の利益になる自由化政策を要求しようとしている。
にもかかわらず、菅直人前総理は、まるで小学生のように、アメリカの言うがまま、前のめりの姿勢でTPPに乗ろうとした。ここにも、自民党時代の対米従属的体質と同じ流れが示されている。
TPPにどう対応するかは、まずわが国の経済的利益を踏まえた上で決めるべきであって、アメリカの政策がどうであるかということは、決定の際の参考に過ぎない。
私は野田総理にも言ったが、日米関係は大事だが、アメリカが日本に十分配慮してこそ、真の友好関係は成り立つのだ。日本が一方的にアメリカの顔色を窺って、アメリカの気持ちを一方的に忖度して日本の政策を決めるようでは、真の友好関係は築けない。野田総理は、「わかっています」と言っているが、今後それが具体的な形で示せるかどうかが問われている。
―― TPPは菅前首相が唐突に言い始め、当時外務大臣だった前原誠司氏は、「対GDP比で僅か一・五%に過ぎない第一次産業の保護のため他の分野が犠牲になるのはおかしい」などと主張して、TPPを推進しようとした。そして、前原氏は野田政権の政調会長に就いた。野田政権は、対米従属の度合いを強めていく恐れがあるのではないか。
亀井: そうした外交を展開させるようなことになっては、我々が連立を組んだ意味はない。我々は、そうした対米従属に歯止めをかける。
以下全文は本誌10月号をご覧ください。
平成23年10月号
亡国の財務省支配を打破せよ 政治評論家 中村慶一郎
税・財務相ワンサイド内閣だ
―― 野田新政権が発足したが、早くも鉢呂経産大臣辞任など、前途は多難だ。この政権をどう見るか。
永田町、霞ヶ関だけでなく、マスコミが先導する世論も増税にミスリードされつつある。財務省を頂点として、財界、読売・朝日を始めとする大マスコミ、そこに有識者として増税やむなしの議論を垂れ流す御用学者による世論支配があり、それらを後ろ盾に増税を実現しようとしている。
まず内閣の布陣を検討しよう。安住財務大臣、五十嵐財務副大臣(再任)という財務省のトップは明白な増税派だ。もともと安住氏は財務には素人同然で、実際、初の国際デビューであるG7では誰からも相手にされなかったのだが、被災地選出議員である安住氏を財務大臣に据えることによって増税は震災復興のためであるというマスコットにしたかったのだという観測もある。
民主党政調会長には増税に慎重な前原誠司氏が就いたものの、そのすぐ下には増税強硬推進派の仙谷由人氏が政調会長代行に就いている。党税調会長には大蔵官僚出身で一貫して増税を推進してきた藤井裕久氏、同事務局長には財務政務官を努めた古本伸一郎氏だ。経済財政担当大臣と法務大臣にはそれぞれ大蔵OBの古川元久氏、平岡秀夫氏が任命された。特に法務大臣は絶大な権力を握っている。反増税派に睨みを利かしていると言っても良い。衆院予算委員会筆頭理事には岡田克也氏という重鎮を充て、増税への並々ならぬ意欲を示している。
「挙党一致」「ノーサイド」を標榜しているが、実際には党内での議論もまとまっていないのに、財務省の傀儡を要職に配し、大きく増税に踏み出している。増税内閣、財務省ワンサイド内閣だ。
ここで起きているのは、要するに、民主党の自民党化だ。かつての55年体制下で、自民党は財務省(旧大蔵省)の主導のままに政治を行ってきた。その当時はそれでうまく回ってきたという面もあるが、財務省主導政治が破綻し、そのために現在の財政赤字、不況があり、自民党の下野がある。
民主党は二年前、「官僚主導の政治を打破する」と訴え、それが国民の熱狂的支持を得た。だが結局、毎年総理が代わり、財務省支配下に戻るという、自民党とまったく変わらない内閣になってしまったのだ。民主党が一旦は廃止した事務次官会議も「各府省連絡会議」という名で復活させたが、その座長は国交省出身の竹歳官房副長官というのも、結局は官僚政治を打破できなかった象徴だと言える。
増税は亡国の議論
―― 三党合意が反故にされつつある。
中村: 「三党合意」には2011年8月9日に自民、公明と交わされたものと、2009年9月9日、すなわち政権交代直後に連立与党であった国民新党、社民党と交わされたものの二つがある。野田総理は亀井静香・国民新党代表と「三党合意を尊重する」との覚書を交わしたが、これはもちろん、09年の政権交代直後の合意を守るという意味だ。そこには消費税増税をしないということが明記されている。
そこで持ちだしたのが、消費税は増税しないが、他の税目ならいいだろう、という安住財務大臣が提唱している議論だ。すなわち、消費税は将来の社会福祉目的税として担保しておき、今は所得税・法人税を増税する、というものだ。
しかし、三党合意に示されているのは「家計に対する支援を再重点と位置づけ、国民の可処分所得を増やす」という理念である。それはすなわち、国民の可処分所得に手を突っ込んで徴税するという所得税は三党合意に違反するということだ。
具体的には所得税一率10%アップが語られているが、これを実現したら国民生活は本当に危機に陥るだろう。ただでさえ現在、若者は低所得に苦しんでいる。年収200万円という若者がたくさんいるのだ。所得税増税はこうした若者を直撃し、窮地に追いやるだろう。
額面20万円の月給から税、社会保障費を引かれ、そこから家賃光熱費などの生活出費を差し引けば、可処分所得は2〜3万円も残ればいいほうだろう。そこからさらに10%、所得税を増税して取り上げるというのだ。国民生活は根底から崩れるし、生活不安が高まれば社会不安も高まる。民主党が行おうとしているのは亡国への増税だ。
―― 「後世にツケを回すな」を合言葉に、増税やむなしとの雰囲気を醸成している
中村: 「三党合意」には2011年8月9日に自民、公明と交わされたものと、2009年9月9日、すなわち政権交代直後に連立与党であった国民新党、社民党と交わされたものの二つがある。野田総理は亀井静香・国民新党代表と「三党合意を尊重する」との覚書を交わしたが、これはもちろん、09年の政権交代直後の合意を守るという意味だ。そこには消費税増税をしないということが明記されている。
そこで持ちだしたのが、消費税は増税しないが、他の税目ならいいだろう、という安住財務大臣が提唱している議論だ。すなわち、消費税は将来の社会福祉目的税として担保しておき、今は所得税・法人税を増税する、というものだ。
しかし、三党合意に示されているのは「家計に対する支援を再重点と位置づけ、国民の可処分所得を増やす」という理念である。それはすなわち、国民の可処分所得に手を突っ込んで徴税するという所得税は三党合意に違反するということだ。
具体的には所得税一率10%アップが語られているが、これを実現したら国民生活は本当に危機に陥るだろう。ただでさえ現在、若者は低所得に苦しんでいる。年収200万円という若者がたくさんいるのだ。所得税増税はこうした若者を直撃し、窮地に追いやるだろう。
額面20万円の月給から税、社会保障費を引かれ、そこから家賃光熱費などの生活出費を差し引けば、可処分所得は2〜3万円も残ればいいほうだろう。そこからさらに10%、所得税を増税して取り上げるというのだ。国民生活は根底から崩れるし、生活不安が高まれば社会不安も高まる。民主党が行おうとしているのは亡国への増税だ。
―― 「後世にツケを回すな」を合言葉に、増税やむなしとの雰囲気を醸成している。
中村: 財務省が自らの責任を逃れるために流布している卑劣な議論だ。竹森俊平慶応大学教授が示しているが、この18年間にわたるデフレの間、日本の名目経済成長率はわずか0・8%だ。名目でその数字なのだから、実質成長率はもっと低いだろう。実際、GDPで見るならば、97年には513兆円だったのが09年には475兆円と、米・中に次いで世界三位に転落している。近い将来に400兆円を下回るのではないかとの観測もあるほどだ。
経済失政は明らかで、財務省にはその失政の責任がある。だが、失政を認めて行政改革・財政改革もせずに、自らの高給は維持しながら増税を推進するというのは無責任だし、卑怯も甚だしいと言われても仕方がない。
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平成23年10月号
私は日本の父親になる! 衆議院議員 馬淵澄夫
私の政治の原点は田中角栄だ
―― 民主党代表選では無謀と言われながらも出馬された。代表選へ出馬した馬淵氏の思いを伺いたい。
内閣、党の要職は当選回数の多い順に割り振られていくのが慣例ですが、この政治風土に風穴を開けたかった。当選回数が重視されるのは、選挙で磐石の基盤を持っているという証だからです。要職に就くということは、いざ選挙となったら自分の選挙区を留守にして、候補者の応援に全国を駆け巡るということであり、総理ならなおさらのことです。すなわち、選挙区を留守にして他人の応援に出かけていても当選できるほどの強固な支持基盤を持っていなければならない。
逆に言えば、当選回数が少なくても、磐石の基盤を持っていればいいのです。私は国政を志したときに、同時に、当選三回までに、微動だにしない支持基盤をつくろうと決心しました。辛勝するのでなく、圧勝できる基盤です。小選挙区で戦った相手を比例で復活させないこと、さらには、選挙区を留守にしていてもダブルスコアで相手を下すことができること、これを目標に選挙に臨んだのです。そして、03年の初当選以来、05年、09年と、この自分の掲げた目標を一つ一つクリアしてきました。前回の選挙では選挙応援のため自分の選挙区をほとんど留守にしなければなりませんでしたが、ダブルスコアで当選を果たしました。
こうして磐石の選挙基盤の証を立てたので、次のステップとしていよいよ総理の座に挑戦するというのは、自分の中では必然でした。確かに傍目からは無謀な出馬と受け止められたかもしれませんが、自らに課したハードルをクリアし、全国民に代表選という場で政治家・馬淵澄夫の政治理念を語れたという目標は果たしました。そして、私はもう次の戦いを始めています。総理になるというハードルに向けて走りだしています。
―― 代表選演説では、自らの政治の原点として、あえて、世間ではあまり良い印象を持たれない「田中角栄」を持ちだした。
馬淵: 私が政治を志した原点だからです。1972年7月5日水曜日、私はまだ小学六年生でした。その時、学校の先生が授業を中断して自民党総裁選のテレビ中継をつけました。第64代総理・田中角栄の誕生の瞬間を目撃したのです。小卒の人間が総理になった、今太閤だ、と、日本国中は沸き立ちました。その出世譚以上に、田中角栄の掲げた理念に国民は熱狂したのです。
私の目には、田中角栄の姿が一人のヒーロー、日本という国の父親として映りました。むろん、当時は子供ですから、政治家の何たるかはわかっていなかった。しかし、子供心に、こんな大人になりたい、政治家というもの、総理大臣になりたい、と思ったのです。
この想いはその後も色褪せることなく、ずっと持ち続けています。初当選後、角栄の国会議事録1226篇をすぐに取り寄せ、それらをすべて読み込みました。そこで、田中角栄という政治家の真の凄さ、偉大さを再確認したのです。
角栄ほど誤解されている政治家はいません。利権政治の権化のように語られますが、その政治理念が何であったのかは語られることが少ない。しかし、今こそ田中角栄が掲げた理念が日本に必要とされている時代はない。だから、あえて代表選では角栄の名前を出したのです。
―― 田中角栄の理念とは。
馬淵: 田中角栄本人が語っているのです。お父さんが仕事を終えて、家に帰ってきて嫁、子供の顔を見ながら冷奴で一杯やる。それから、家族を連れて盆踊りに出かける。こういう、ささやかだが本当に豊かと思える生活を、どの地域でも、どの世代でも、日本国民全員が送れるようにしたい、というのです。私は、これこそが日本政治の立ち帰るべき原点だと思います。
明治維新以来、日本は必死に近代化を推進してきた。その先人たちの努力は素晴らしいものですが、近代化の過程で、日本人として生きるということはどういうことか、日本人の幸福とは何かということを我々は見失ってしまったように思います。物質主義、行き過ぎた個人主義が家族という社会の最小構成単位を解体しつつある。この歪が噴出しているのが現代日本ではないでしょうか。日本人は「個人」や「物質」という西洋近代からの借り物の衣装に、倦み疲れているのではないでしょうか。
確かに角栄は日本列島改造論を掲げ、道路を中心に物質的に日本を豊かにした。しかしそれは物質至上主義ではなく、その結果、日本津々浦々に至るまで、ささやかながら心豊かな暮らしをできるようにするための、日本人の生活レベルを底上げするための手段だったのです。
今、田中角栄が生きていたら、何を考え、どのような政策を打ち出すか。それが今でも私の原点にあるのです。
以下全文は本誌10月号をご覧ください。
平成23年10月号
脱原発なくして対米自立なし 核拡散防止体制から離脱せよ
国際政治学者 藤井厳喜/作家・慶応義塾大学講師 竹田恒泰
原発は一度の事故でゲーム・オーバーだ……竹田
国民は、大津波への対策は十分に講じられていると思っていました。ところが、全く対策は講じられていなかった。今回事故が起こっていなかったとしても、五十年、百年という期間で見れば、いつか、どこかで原発事故は起きていた可能性は高いと思います。今回、「想定外」という言葉が氾濫しましたが、あらゆる事態を想定するのが安全対策の基本です。事故の当事者が「想定外」などと言って責任を回避するのは許し難いことです。
電源をもっと上部に設置しておくべきだったとか、そういった小手先のことではありません。大津波に対する様々な対策を講じていなかったにもかかわらず、安全だと言ってきたことが問題なのです。
原発推進派は、「この部分を少し工夫すれば、より安全になる」というような言い方をしていますが、原発事故の被害はあまりにも甚大で、一度の事故も許されません。もちろん、列車事故や飛行機事故の被害も大きな被害をもたらすケースがありますが、原発事故の被害はそれらの事故の被害とは桁が違います。原発の場合には、事故を繰り返し、試行錯誤をして、安全なシステムに改善していくというようなことは許されないのです。絶対にミスを犯してはいけない。「今回ここに問題があったので事故が発生しましたが、そこを改善しましたから同じ原因の事故は起こらないでしょう」というようなことは、原発に関する限り成り立たないのです。原発は一度でも事故が起きたら、そこでゲーム・オーバーなのです。
原発は一度事故が起きれば、取り返しのつかないことになります。竹田さんの前だから言うわけではありませんが、今回の原発事故について、私は心から天皇陛下に対して申し訳ない、靖国の英霊に対して申し訳ないと思います。広島、長崎への原爆投下は許せないことではありますが、戦争中に敵がやったことです。これに対して、今回の事故は、三発目の原爆を日本人の手で落としたに等しいのです。とんでもないことをしてしまった。ところが、当事者には大変なことを仕出かしてしまったという感覚がない。
那須の御用邸にも放射能汚染は広がっています。東京の中心にある皇居も僅かではありますが、放射能汚染を受けてしまいました。もちろん一般国民にも健康被害が広がっていくかもしれない。国を愛する者として、そういうことに思いいたらず、ただの事故で済ませてしまうことはできません。
「自動車事故では年間七千人死んでいるが、原発事故では死んでいないではないか」という議論がありますが、これは事故とテクノロジーの本質を全く理解していない議論なのです。自動車は完成されたテクノロジーです。しかし、それでも事故は起こる。ただし、自動車事故はほとんどの場合、技術的な問題によって事故が起こるわけではなく、人為的なミスで起こるのです。ところが、原発は運転しているうちに、やがて事故が起こるようにできているのです。技術として未完成なのです。
しかも、何億年も動かない岩盤があるという条件があるならばまだしも、地震列島日本で安全に原発を動かすことなどできません。実際に事故は起こったのです。ここにいたれば、もう原発は諦めるしかないのだと思います。
竹田: 完璧な技術など、もともとないのです。飛行機は、どんなに安全になったとはいえ、墜落することもあります。ライト兄弟が空を飛んでからまだ百年ちょっとしか経っていません。人類が五千メートル以上の深海に潜る技術を開発したのも、つい数十年前の話なのです。人類は未だマントルまで掘る技術を持っていません。私たちは意外と地球のことをわかっていないのです。
蚊が飛ぶ原理も人類はまだ解明していません。鳥が飛ぶ原理は、航空力学上、説明がつくのですが、蚊は飛び立つときの周波数が高過ぎて、理論上は飛ばないらしいのです。蚊が飛ぶ原理がわからないほど人類は無知だということです。そのことがわかれば、原発を安全に動かせるという考えが人類の奢りであることもわかります。
藤井: 非常に漠然とした言い方になりますが、原子を燃やすというのは非常に難しいことなのです。いままでは分子を燃やしてエネルギーにしてきましたが、原発は原子を燃やしてエネルギーに変えようとしているのです。原発は、従来とは全然次元の違うテクノロジーなのであり、確立されたものではありません。
核保有のためには脱原発しかない……藤井
── 脱原発と核保有は両立するのでしょうか。
藤井: 両立するというよりも、核保有のためには脱原発をするしかないのです。原発を推進するためにはNPTに加盟していなければならいのです。NPTに入っている限り、核武装はできません。NPT体制とは、憲法九条体制と同じように、日本の自立した防衛力の整備を不可能にする体制なのです。
一九五三年のアイゼンハワー大統領の「平和のための原子力」演説以来、いわゆる原子力の平和的利用が促進されてきました。これに対応して、日本への原発導入の旗を振ってきたのが、中曽根康弘氏や正力松太郎氏です。
しかし、アメリカは、原子力の平和的利用を促進する一方、核保有国を増やさないという方針を貫いてきたのです。つまり、原発を推進することと核兵器を保有しないこととは、予めパッケージなのです。これが条約として明文化されたのが、NPT体制にほかならないのです。「原発をやらせてやる、そのために原料もノウハウも提供してやる。しかし、絶対に核兵器を持ってはいけない」ということです。
実際、私が「核武装しよう」と言うと、「それはだめだ。原発が止まる」と言った原発推進派の人がいました。その通りなのです。NPTを脱退すれば、核燃料を輸入できなくなります。そして、NPTに加盟している限り核武装は推進できないのです。二律背反なのです。
竹田 IAEAという組織は、世界中の原子力を隈なく監視しているのかと思いきや、その予算の七割までを日本の監視に割いてきたのです。世界の原発の一割しかない日本の原発に予算の七割を割いています。つまり、IAEAとは「日本核武装監視機構」なのです。日本の核武装を監視するために作られた機構であることは間違いないのです
藤井: 未だに、第二次世界大戦の戦勝国体制が続いているわけです。国連安全保障理事会の常任理事国は、すべて核兵器を保有しています。NPT体制とは、彼らの核独占体制のために結ばれたものなのです。 IAEA事務局長に天野之弥氏が就任したことは、困ったことだと思いました。日本は、ますますIAEAにがんじがらめにされてしまいます。
竹田: 日本が原発を止めてしまったら、国連もIAEAも、アメリカも中国も困ってしまうのです。
すでに核兵器の原料はある……竹田
藤井: 原発を推進し続けてプルトニウムを蓄積すれば、核武装に近づくというのは幻想です。プルトニウムがあるだけでは、処理に困るだけで、核兵器にはならないのです。日本の自立のために、核武装するのだという「政治的意志」を定めたとき、はじめてプルトニウムは役に立つのです。
竹田: 原発を持っていてはじめて核武装ができるというのは、イメージに過ぎないのです。実際、核兵器は原発のない時代から開発されていました。
原発を運転し、技術を蓄積することによって核兵器を持ちやすくなるといった主張がありますが、いくら原発を運転しても技術の蓄積にはなりません。タクシー会社がどんなに運転技術を蓄積しても、いい自動車を開発するための技術は蓄積できないのと同じことです。
核兵器は原発があればできるのではなく、技術力と政治的意志によってできるのです。いま、どこの国が核兵器を保有しているのでしょうか。インド、パキスタン、北朝鮮といった国です。こうした国が核保有しているのに、世界最高の鉄道技術やエレクトロニクスの技術を持っている日本が核保有できないと考える方がおかしい。
── 核燃料サイクルの確立が核兵器開発の条件だとする考えも根強くあります。
竹田: 一度も原発を動かしたことがなければ話は別ですが、すでに日本は原発を運転し、プルトニウムを持っているのです。
藤井: すでにプルトニウムが四十トンぐらいあるのですからね。もちろん、核兵器開発の過程では、原子炉が一基はないといけません。別に今原発を止めたところで、長崎型原爆ならいくつでも作れます。四十トンあれば相当できますよね。
竹田: 相当できますよ。売るほどできますよ。
藤井: 核保有しようと思えば、一度は脱原発をせざるを得ないのです。
竹田: 厳密に言えば、核兵器に必要なプルトニウム二三九を用意するためには、原子炉一基、再処理工場、そして高速増殖炉が一基あれば良いのです。原子炉は、一〇〇万キロワット級の大型原子炉を五十基も持っている必要はなく、小型の原子炉が一基あればそれで足りるのです。大学や企業も原子炉を持っている場合があり、それらでも核兵器に必要なプルトニウムを得ることができます。たとえば、京都大学・近畿大学・東芝などは自前の原子炉を持っています。
使用済み核燃料からウランとプルトニウムを取り出し、精製する必要がありますが、この「再処理」を行う工場として、茨城県東海村の東海再処理施設と青森県六ヶ所村の六ヶ所再処理工場があります。
極端な言い方をすると、すでに「もんじゅ」と「常陽」には高濃度のプルトニウム二三九が残されたまま放置されているため、これを分離すればいまでも簡単に核兵器の原料を手にすることができます。
藤井: 対米自立のためには核武装が必要であり、そのためには一旦原発をやめる必要があるということです。アメリカも中国も、日本が原発を推進している限り、核武装はできないから安心だと考えているのです。対米自立と言っている人が原発推進と言っているのは、全くの矛盾なのです。
皮肉な言い方をすれば、核実験をし、核武装をした国だけが、比較的安全に原発を運転することができるということです。原発を作っている国は、フランスにしろロシアにしろ、核兵器を持っている国です。つまり、それらの国は核爆発に関する生のデータを持っています。そうしたデータに基づいて、核保有国は原発を作っています。ところが、わが国にはこうした生データがないのです。だから、原発事故が発生したときの対応にも限界があるのです。
日本は核兵器保有国ではないから、原発の本当のしくみがわかっていないのです。だから、本質的な安全を確保できないまま、原発を動かしてきたのです。
竹田: 元データがないから、改良を加えようとしても、どうしていいのかわからないのです。自ら製造したものであれば、改良できますが、借りてきた技術は改良の余地が少ないのです。
藤井: 原発を止めていく過程で、原発を国家管理下に置く必要があります。では、どの省に担当させるのがいいでしょうか。一般的には経済産業省が考えられますが、福島原発事故で表れた経産省保安院の体たらくをみれば、誰も経産省に原発運営を任せたいとは思わないでしょう。それ以上に、原発翼賛体制の一角を担ってきた経産省に原発の運営を任せる事はできません。
危険な施設の管理は危険物取扱いの専門家集団に任せるべきであり、防衛省に原発の運営管理を任せる事が最も適切です。自衛隊の中では、陸上自衛隊が最もこの任務に適しています。もちろん、防衛省、陸上自衛隊の中に、専門家を養成する必要はあります。
核兵器保有できるか否かは国家意志次第だ!……藤井
藤井: 私は核兵器が好ましいものだとは思っていませんが、現状では日本の自立のためには核保有以外に選択肢がないという考え方です。
日本の政治家で公然と核武装論を唱えているのは、西村眞吾先生しかいません。誰もこの当然の主張をしようとはしません。言った途端に猛烈に叩かれるからです。
竹田: 私も、核武装以外の選択肢を考えたいという立場です。ただし、脱原発自体が国際的に強いメッセージを発することになると考えています。
日本が「常陽」と「もんじゅ」を持っていられるのは、核燃料サイクル計画の一環であるという商業上の正当な理由があったからです。しかし、もし日本が商業用の原発を全て廃止したにもかかわらず、「常陽」だけを持っていたら、国際社会は「日本は核武装の意図がある」と疑ってかかるでしょう。であるならば、日本は原発を廃止した上で、「常陽」を廃炉にするかどうか、じっくり時間をかけて国内で議論をすれば良いのではないでしょうか。この議論は、まさに将来日本が核武装をする可能性の議論となります。
そのような議論をすること自体、国際的な批判をかわしつつも、しかも核兵器を保有せず、実際にこれを保有したのに近い外交カードを手にすることになります。
── NPT体制から離脱することは政治的に可能でしょうか。
藤井: 私は親米派ですが、日本が核武装した上でアメリカと仲良くすればいいという考え方です。インドは一九七四年に最初の核実験に成功し、一九九八年には二回目の実験を行いました。アメリカはこれに反発し、二十年以上も経済制裁を受け続けました。しかし、チャイナの核戦力が拡大すると、インドの核兵器は許されることになりました。
NPT脱退という決断は、一時的には苦しい状況を招くかもしれませんが、それを凌げば核保有できるのです。わが国の自立のためには核武装が必要なのです。
二〇〇〇年に出されたアメリカのアーミテージ・レポートは、日本をイギリス並の同盟国として扱いたいと書いてあるのです。負担をしてもらう代わりに自己決定力も持ってもらおうという発想です。もちろん、そこには「日本の核武装を許す」とは書いていませんが、「イギリス並み」とある行間を読めば、独立した核を保有し、親米国家としてやっていくことを容認する方向だとも読めます。
インドやパキスタンにできたことが、日本にできないはずはありません。ただ、地下で一度は核実験をする必要があります。そこで、私はすでに核実験を行ったインドの核実験場を使わせてもらうという選択肢も考えています。また、ノウハウを持っているイスラエルの協力を得るというのも一つの選択肢でしょう。
問題は、国家の意志なのです。対米自立のためには、そして、国連安保理常任理事国である核大国の覇権体制から独立するためには、核武装が不可欠です。そのためにこそ、NPTを脱退して、脱原発するしかないのです。
(聞き手・構成 坪内隆彦)
平成23年10月号
すめらみことへの水俣の祈り 三浦小太郎
「苦界浄土」近代に殺された人々の記録水俣病が日本窒素の工場廃液により生じた「公害病」「文明病」であることは言うまでもない。しかし、これは単に悪辣な企業による環境破壊と隠ぺい工作ではない。それは今回の震災を、東電批判や原子力利権を論じて終わるのと同様、政治的次元の解釈にすぎず、それは逆の立場からデータを解釈すれば反証は可能なのだ。この点をきちんと分類して論じたのも渡辺京二で、彼は窒素側の偽善をよく知りつつも、会社側の「被害はお気の毒に思う、何とかしたいとは思うが、その補償は金銭の形でしかできないし、その額は患者側との交渉で決めるしかない」という言い分を、「近代資本制の論理としては当然のもの」と認めていた。
そして、革命運動や反資本主義運動として水俣病患者闘争をとらえる新左翼にも、またヒューマニズムの観点から患者に同情を寄せる善意の支援者にも、この問題の本質はそこにはないのだと説き続けたのである。
水俣病が始まる前から、この村の跡継ぎは減り始めていた。水俣病が起きてから、一層この傾向には拍車がかかった。自らの技術に誇りを持って生きてきた漁民たちを時代が切り捨て始めたのだ。それは1960年代の高度経済成長の時代、日本に残されていた地域共同体の崩壊だった。いや、正確に言えば、明治以後の西欧近代化が、大東亜戦争の敗戦(物理的敗北だけではなく欧米への精神的屈服)により遂に完成を見つつあったといってもよい。
「苦界浄土」は、漁民だけではなく、村民たちの声を通じて、この喪失感を静かに伝えている。彼らの娘も息子も、畦道をどう作るか、田んぼの水をどう引くか、そのような老人たちの智慧を受け継ぐことはない。仮に農業を継いだとしても、彼らが求めるのは智慧ではなく、最新の耕耘機である。老人たちは耕耘機を「嘆声とも怨嗟ともつかぬ」声を上げて見つめる。
「いやあ、今は、機械持ってるものが殿さんばい。昔は牛や馬なら、一代かかって働けば何とか買えよったばってんのう。機械を買いきればのう、殿さんじゃが」
この人たちが水俣病をどう受け止めたか。それは、「機械」に押しつぶされていく過程で生じた、村の破壊が自らの体にも襲い掛かることだった。
山中九平という少年の患者は、この破壊を断固として拒否し続ける象徴として現れる。彼は1949年に生まれた。父は代々漁師だったが病死、少年の姉も水俣病で若くして亡くなった。彼も1955年水俣病を発病、母と二人で住んでいる。彼の楽しみはラジオであるが、彼が本当にその放送を喜んでいるのかどうかはわからない。とにかく彼は、石牟礼道子であれ、市役所職員であれ、あるいは医者であれ、だれかが家を訪れるとラジオの前に座り込んでしまうのだ。その姿を、石牟礼道子は、おそらく彼女にしか書けなかっただろう不思議な魅力をたたえた文章で描いている。
「(彼の背中は)引き絞られて撓んだ弓の柄のように、ただならぬ気迫に満ちて構えられており、けれども、それは引き絞られるばかりで、ついに狙い定めた的にぴゅうと放つことが、まだ一度もできない悲しみに撓んでいるようにも見える」
彼の家を訪れる市の役人は、今どきの官僚には絶対にいないだろうと思われる誠実な人物だ。心を閉ざしている少年に語りかけ、病院に行こうと誘い、背を向けたままラジオを聞いていれば、流れている野球の話をしてあげる。ラジオの番組が終わるまでじっと待ち、それから再び病院に行くことを誘う。しかし、少年は次のような、まるで世界のすべてを否定しているかのような言葉で答えるのだ。
「いやばい、殺さるるもね」
「殺さるる?なんの、そげんこたなか。熊大のえらか先生たちの来て、よう診てくれよらすとぞ。」
「いや。行けば殺さるるもね」
誠実な官僚も、良心的な医師も、この水俣病の実態を告発しようとするジャーナリストも、10歳で発病し、短い生涯を有機水銀の毒と戦いながら、全身を破壊されつつ生きていくしかないこの少年にとっては、みな窒素と同じ、いや、日本の「近代」と同じ敵なのである。「苦界浄土」の偉大さは、このような患者の思いを描き切ったことにある
以下全文は本誌10月号をご覧ください。
平成23年10月号
うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ 本誌主幹/南丘喜八郎
良寛は生涯で、百をこえる俳句、二百近い漢詩、千三百首余りの和歌を残している。
あづさゆみ 春さり来れば 飯乞ふと 里にい行けば 里子ども 道のちまたに 手毬つく 我も交りぬ
そが中に 一二三四五六七 汝がつけば 我は歌ひ 我がうたへば 汝はつきて つきて歌ひて 霞立つ
永き春日を 暮らしつるかも
この里に 手毬つきつつ 子どもらと 遊ぶ春日は 暮れずともよし
良寛は宝暦八年(一七五八)、越後国出雲崎の名家橘屋の長男として生れた。
越後の海に開かれた出雲崎は北前船の停泊地で、佐渡の銀山開発に伴って発展した港町である。橘屋は地元の庄屋と諸大名が宿泊する本陣を兼ね、近隣に並ぶもののない程の権勢を誇っていた。しかし、江戸後期になり、父親が良寛に家督を継ぐ頃から、新興勢力が台頭してきて、橘屋は没落し始める。
父親は「以南」と号して俳諧の道に逃避するなど、世俗的な経営能力に欠如しており、良寛は十八歳で名主役見習となる。だが、「幼にして頴異、流俗の事を好まず」と評された良寛も、商売には馴染めなかった。
「良寛禅師は十八歳といふ年にかしらおろし給ひて備中の国玉島(今の岡山県倉敷市)なる円通寺の和尚国仙といふ大徳の聖におはしけるを師となして、年頃其処に物し玉ひしとぞ」(貞心尼『蓮の露』)
三十四歳までの十二年間、良寛は国仙禅師の下、円通寺で厳しい禅修行を続けた。
良寛が生きた江戸後期は、最も幕政が乱れた時代だった。良寛十歳の明和四年、田沼意次が御側用人となって推し進めた積極的な経済政策は賄賂政治に堕し、世相は虚飾と欺瞞に満ちていた。こうした世情に呼応するかのように、浅間山大噴火や旱魃、大暴風雨などの天変地異が相次いで、凶作が続き、病死者や餓死者が続出した。
円通寺で厳しい修行を続けた良寛はその後、諸国を托鉢行脚して「乞食行」を重ねた。故郷出雲崎に帰ったのは三十九歳の時だった。その後、国上寺の五合庵を生活の場にするようになったのは四十八歳の時だった。良寛は戒律の厳しい禅宗・曹洞宗の僧でありながら、般若湯(酒)を好み、彼を慕う村民と杯を交わした。日中は、いつもニコニコ顔で子どもたちと良く遊んだ良寛だったが、もう一つの厳しい顔が隠されていた。
良寛は難解で知られる道元の『正法眼蔵』を愛読し、日が落ちると五合庵で机前に正座し、同書に向った。良寛に『正法眼蔵』を詠んだ格調高い「夜永平録を読む」がある。七言三十六句のかなり長い漢詩である。 蒼茫たり 草庵の夜/寒雨 杉竹に灑ぐ/寂寥を慰めんと欲するも良に由無く
暗裏模索す 永平録/幽窓の下 書案の上/香を焼き燈を点じて正に拝読す
一夜燈前 涙留らず/湿し尽す 永平古仏録(流した涙で『正法眼蔵』が濡れてしまった)
吾に問ふ この書如何ぞ湿ふと/夜来の屋漏 書笈を湿すと(村人がなぜ本が濡れたのかと尋ねると、昨日降った雪が解けて、本がぬれてしまったのだ、と答えた)
夭逝した作家立松和平は著書『良寛に生き、良寛に死す』で、「この道元の思想を身と心で実現しようとしたのが、良寛なのである。良寛という生き方とは道元思想の実現に他ならない」と記している。
出雲崎に海に向って座る良寛の銅像がある。雪の降る、凍てつく様な冬の荒海を見つめて座禅を組む後ろ姿は、孤独で厳しく、日頃子どもたちと屈託なく遊んでいる良寛の優しさはない。山折哲雄は「人間の魂をほんとうに揺り動かすためには、北の寒さというものが必要なのかもしれません」と書いている。
良寛を慕う人は多い。夏目漱石も正岡子規も良寛に魅せられ、五木寛之は「良寛に出会わなくて、どうして無事に晩年を過ごせる日本の知識人がいますかね」と述べている。
名書家として知られた良寛だが、子どもたちから凧に文字を書いて欲しいと頼まれた時、喜んで「天上大風」の四文字を書いた。この書が今も残されている。白洲正子は「この書に接する時、私たちは心身ともに軽くなって、虚空に遊ぶ心地になる。いつしか良寛の書は消えてなくなり、ただ良寛の魂にふれる想いがするのである」(『風姿抄』)と書いている。
老境に達した良寛が親しく交わった、四十歳余り年下の才媛で美貌の人・貞心尼に辞世の句を託した。
うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ
平成23年10月号
書評 編集部が薦める一冊
『イーリアス』日記 森山康介 著 春風社 2940円古典を読むという行為は、個人的生活の視座から離脱して、自らを歴史の視座から見つめ直すという行為だ。我々は時間の流れの渦中にいるので、川の流れのどのあたりにいるのか、うまく泳げているのか、あるいは単に流されているだけなのか、自分ではよくわからない。時間を超越して受け継がれてきた古典は我々に鳥瞰図を与えてくれ、だからこそ古典には何度でも立ち返る必要がある。いわば、我々が古典を読むのではなく、古典が我々を読むのだ。
立ち返るべき古典を自国のものに限定する必要はない。なにしろ、現代人にとって『古事記』はおろか、『源氏物語』さえほとんど外国語と変わらないし、その心性も懸隔は甚だしい。自らを省みる鏡として手に取るのが『古事記』であろうが『イーリアス』であろうが、人間世界への揺るぎない観察の視座としては、さほど違いはない。 本書の著者は毎年、『イーリアス』全二十四巻を原語で通読しており(すなわち月に二巻ずつ)、本書はその記録と身辺雑事、随想を記したものである。したがって、古典ギリシア語の英雄六脚詩について詳細な解説があるわけでも、『イーリアス』入門書になっているわけでもない。ただ淡々と、その日その日に読んで気になった箇所、感銘を受けた箇所が原文と共に示され、そこから連想的に考えたこと、思い出されたことが書かれている。深い洞察や思索的構築物ではなく、「怒りを歌え、女神よ、ペーレウスの子アキレウスの怒りを」で始まる『イーリアス』という怒りと死と悲嘆の連鎖の物語に触れて揺れ動いた心のさまが、揺れ動いたままに書き留められている。
著者は古典ギリシア語の専門家でもなければ、アカデミズムの研究学徒でもない。趣味で俳句を嗜む「一市井人」である。そこに本書の価値がある。専門家が『イーリアス』を読むのは、言ってしまえば、メシのタネだからだ。専門家から学ぶべきことは多いが、誠実なアマチュアからは、感ずるべきことが多い。アマチュアの語源は「amare(愛)」と同根である。本書に漲っているのは、『イーリアス』と共に生きている人間の、やがて死すべき人間への不動のまなざしである。
この読書は文字通り365日休むことなく続けられ、著者の母親が危篤となった時にも、『イーリアス』読解は続く。それは頑固冷徹ゆえのためではなく、『イーリアス』という古典が著者の血肉となっていることを物語っている。
原文が示されているのは衒いのためではなく、古典ギリシア語が持つ音の響きを通じて初めて看取できる、古典の魂がそこにあるからである。パトロクロスの死を描く「ホンポト・モンゴオ・オーサリ・プーサンドロ・テータカイ・ヘーベーン(彼の死を泣きながら、雄々しさと若さを去りながら)」の句の「ゴオオーサ(泣きながら)」という音韻に著者は嗚咽を聞きつける。
音韻への敏感さはもちろん著者の母語である日本語にも向けられており、その思考は時に、『平家物語』『枕草子』を貫く日本語の響きへも派生してゆく。言霊という言葉こそ用いていないが、本書を貫くのは言霊への鋭敏な感覚なのである。古典が我々を読むと書いたが、それは、我々の口を通じてホメーロスが語るということであり、言霊によって死者たちが蘇り、死者たちが生ける我々に影響を与えるということだ。
しかし何よりも、本書を通じてわかるのは、原語で『イーリアス』を毎年読み続ける「一市井人」が存在するという、日本の知的底力だ。マスメディアだけを見ていると日本の知的頽廃を憂慮せざるをえないが、実際には著者のように真に知的営為を積み重ねている人がいる。日本精神や日本の文明力を声高に宣伝したところで日本は強化されない。真の強さは不断の知的営為の中に宿る。
著者が異常で特別な人間なわけではない。本書には次のようなエピソードが書き留められている。
〈もう20年以上前、日本橋高島屋裏手の路地に靴磨き屋がいた。ごま塩髭でくすんだ身なりの初老の男だ。たまたま脇を通りかかったとき、本を読んでいるのが見えた。近づいてみると岩波文庫版『純粋理性批判』ではないか。これは面白いと思って靴を磨いてもらった。たしかに岩波文庫3冊本で、表紙は陽光に晒された跡が歴然としており、頁も繰り返しめくられた様子だ。100円か200円か勘定を済まして立ち上がると、男はカントに戻る。(中略)数年に渡って何度か立ち寄った。客はなくいつも『純粋理性批判』を読んでいた。そのたびに客となって靴を磨いてもらったのだが、高いところに座っているのがなんとも居心地悪かった。男は靴を磨きながら純粋理性も磨いていたのだろう〉
我々が模範とすべき人々は、こんなにも身近にいる。
(副編集長 尾崎秀英)
八月十五日の神話 佐藤卓己 著 筑摩書房 861円
8月15日は終戦記念日である。毎年この日を迎えると、靖国神社の周辺が俄に騒がしくなる。英霊を追悼せんとする気持ちには共感できるが、そうであれば、旧日本軍のコスプレで軍歌を歌うなどして自己に酔いしれるのではなく、厳粛とした気持ちで静かに参拝すべきではなかろうか。
現在では、この「8月15日=終戦記念日」という公式を、何の疑問も抱かずに受け入れている人が多いように思う。しかし本書を読めば、この公式が無条件に正しいとは言い切れないことがわかる。例えば、終戦記念日が8月15日であると法的に定められたのは、1963年に第二次池田勇人内閣で閣議決定された「全国戦没者追悼式実施要項」においてである(本書261頁)。終戦記念日の歴史はそれほど古いものではないのだ。
また、歴史的事実という側面から見ても、この公式には疑問が残る。昭和天皇が終戦の詔書に署名されたのは14日であり、この日に最高戦争指導会議と閣議の連合会議が招集され、ポツダム宣言受諾が確定された。実際、石橋湛山は14日を「永遠に記念すべき新日本門出の日」と言っている(79頁)。また、帝国大本営が麾下の全軍隊に対して休戦命令を出したのは16日であり、江藤淳はこの重要性を強調している(86頁)。
さらに、国際的には、連合国の多くが、日本がミズーリ号で降伏文書に調印した9月2日を対日戦勝記念日としている(52頁)。もっとも、このグローバルスタンダードを受け入れる必要性はどこにもない。それはTPP参加と同様、グローバルスタンダードに合わせることを無条件に善とする極めて短絡的な発想だ。国の歴史は暦にまで及ぶ。それ故、我々は元号と西暦とを共に使用し続けているのである。
それでは、我々が8月15日を終戦記念日として受けいれているのは何故か。それはひとえに、その日に玉音放送がなされたからである。天皇陛下より直接国民全体に語りかけられた日だからである。これほど左様に、わが国においては天皇という存在は大きいのである。この事実は尊重されてしかるべきであろう。
しかし、幾年を経て教条化してしまった「8月15日=終戦記念日」からは、抜け落ちてしまう視点があることも忘れてはならない。その一つに、沖縄が挙げられる。沖縄において、日本守備軍の組織的戦闘が終わったのは6月23日であり、この日は「沖縄慰霊の日」と定められている。また、アメリカ軍が沖縄作戦の終了を宣言したのは7月2日であり、残存した日本軍が公式に降伏文書に調印したのは9月7日である。この日は沖縄では「市民平和の日」と定められている。さらに、米軍による沖縄占領は1972年5月15日まで続いたのであり、この「復帰記念日」を終戦記念日とする立場も有力である(260頁)。
また、ソビエト軍は八月末から北方領土に対して攻撃を開始し、歯舞群島は9月5日に完全占領された。北方領土の島民にとっても、「8月15日=終戦記念日」は受け入れがたいものであろう。
この両者を巡る問題は、現在に至るまで解決をみていない。「8月15日=終戦記念日」が教条化すればするほど、沖縄と北方領土がますます日本から遠のくことになりはしないだろうか。そして、最も強調すべき点は、「終戦」という表現の曖昧さである。「敗戦/終戦」論争は戦後直後は盛んに行われていたが、現在では目立って行われていない。しかし、いくら目を背けようとも、日本はアメリカを代表とする連合国に「敗戦」したのである。この事実を覆すことはできない。
私は、物量において圧倒的に優るアメリカと戦争したのは愚かなことであった、という考えに与するものではない。それは所詮後付けの議論にすぎず、事後法的に物事を断罪するのは不誠実であろう。
しかし、これから先に起こるであろう戦争に関しては、この考えは大いに適用可能である。日本は二度と圧倒的な物量差のある国家と戦争してはならないのだ。先の敗戦に際しては、日本の叡智が結集し、皇室の存続、日本国家の維持を何とか実現することができた。しかし、日本に次はない。今度戦争に負けることがあれば、日本は消滅するだろう。
現在の日本の政界や論壇には、国家とは消滅し得るものであるという視点が欠如しているように思う。核武装していたソ連でさえ消滅したのだ。
日本人は優秀であるとか、底力があるとか、その民族性や宗教性を念仏の如く唱えたところで、日本を維持することはできない。以前はそれでも良かったかもしれないが、3・11以後の日本には、そのような余裕はもはやない。我々が考えなければならないのは、いかにして日本を維持するか、ただこの一点だけであり、全ての政策や言論はそれに基づいて為されるべきである。
(編集委員 中村友哉)
平成23年10月号
読者より
3月11日の意味を問う 高田浩一(42歳)
現在は危機の時代である。政治家や知識人たちは、口々にそう主張する。3月11日は日本の歴史における転換点であり、今後の振舞い如何によって日本の将来は左右される。震災直後より、この手の言説を多く目にしてきた。
私もそれに同意する。3月11日の大震災によって、世界の位相が変化した。村上春樹の小説で言うならば、日本は月が二つ存在する世界に突入したのである。
しかし、である。世界が激変したというにも関わらず、政治家や言論人たちの言動は、震災前と何ら変わっていない。例えば、震災前に反米国主義を掲げていた人間たちは、震災後も相も変わらず反米国主義を掲げている。あるいは、反中国や反韓国を掲げていたもの、逆に親米国や親中国、親韓国を掲げていたものたちも、震災後もその主張に何ら変化が見られないように思われる。
さらに、震災前に小沢一郎議員を支持していたものたちは、震災後も相も変わらず小沢議員を支持し、震災前に小沢議員を批判していたものたちは、震災後も相も変わらず小沢議員を批判している。
3月11日に世界が変わったことを認識できているならば、世界の変化と共に自らの立場設定も変化させて当然であろう。それが、3月11日の意味を理解している人間のあるべき姿である。それこそが、プレーヤーとして日本の歴史に参加している人間のあるべき姿である。3月11日を契機に何らかの立場設定の変更を行っていないならば、その人間にとって3月11日は存在してもしなくても同じであったということだ。要するに、3月11日で世界が変わったと口では言いながら、真の意味でそれを理解できている人はほとんどいないのである。
あえて言おう。震災前後で立場設定が変わっていないものは、日本にとって不必要な人間である。彼らは傍観者であり、もっと言えば単なる野次馬に過ぎない。そうした人間は、日本がこの危機の時代を乗り切るための足かせになるので、一刻も早く政界や言論界から退出していただきたい。
もっとも、私はこの点については楽観的である。危機の時代を生き抜くことができるのは、本物だけである。偽物は必ず淘汰される。そして、その淘汰はすでに始まっているように思う。
そのような中、3月11日の意味を理解できている政治家を、私は一人だけ見いだす。前原誠司議員である。彼は元々そのタカ派的な主張が、若い世代を中心に人気を集めていたように思う。実際、前原議員は沖縄北方担当相だった2009年には、北方領土について「(ロシアによる)不法占拠という言葉はその通りだし、言い続けなければならない」と主張していた。 しかし、外相時代のロシアとの交渉、そして先日北方領土を訪問した際の言動を見ると、明らかに立場が変わっている。ただひたすら日本の正当性だけを主張したところで、北方領土は一ミリたりとも日本に近づかないということを認識したかのようである。前原議員が3月11日をきっかけに立場設定を変更したかどうかは定かではないが、大きな転換を遂げたのは政治家では彼だけであろう。
私は震災前、グローバリズムに対して余りにもナイーブに見える前原議員に批判的であった。しかし、世界は変わった。それ故、私も立場設定を変更しようと思う。代表選の結果は残念であったが、是非とも前原議員には、命を懸けて日本のためにその使命を全うしていただきたい。
■ 編集部より
帝政ロシア末期に、ゴンチャロフという作家が『オブローモフ』という小説を発表しました。主人公オブローモフは教養のある有閑貴族で、頭の中であれこれと素晴らしい計画を思い描くのですが、同時に、あれこれ理由をつけて結局それらを実行することはなく、結局何一つ達成できないまま無為に日々は流れ、その生活は漠然とした無気力感と無力感に彩られています。実際、600ページに及ぶ大長編の半分近く、オブローモフはベッドの中にほとんど寝たきりなのです。
3・11後、いやしくも日本の選良である国会議員諸氏は、この危機にいかに対応すべきか、日夜叡智を絞っているはずです。しかし、理念は高く、行動は地道にであればいいのですが、行動のないオブローモフであっては困ります。
オブローモフは帝政末期に「ヴ・ナロード(人民の中へ)」と言いながらも、結局何もできなかった当時の社会指導者たちに共通する空気を体現しており、この「オブローモフ的なもの」、つまり、現実を変革しようという意志・意欲・行動力の欠如を克服することができず、ロシア帝国は崩壊へ向かったのでした。
前原議員始め、政党を問わず、今後の政治を担うリーダー候補たちは、はたしてオブローモフなのか、それとも行動するオブローモフなのか、はたまたオブローモフ以下の、閨房に淫するだけのケダモノなのか、国民が見極めることが必要です。そのための材料を本誌が提供できればと存じます。
脱原発と憲法九条 合沢新一(39歳)
最近、日本国内で脱原発運動が盛んになっている。言論の世界でも左右を問わず、脱原発が主流となっているようだ。脱原発に明確に反対しているのは、吉本隆明など、ごくわずかな人達だけである。
左派では、ドイツが脱原発に向けて舵を切った事を根拠に、日本も脱原発に進むべきだと主張されることが多い。しかし、この認識は本当に正しいだろうか。
ドイツの脱原発宣言を受けて、チェコはドイツに対する電力輸出の増加を打ち出した。チェコ国内では、世論の大きな支持を受け、原子炉の増設を着々と進めている。福島原発事故の後に行われた世論調査では、55%ものチェコ人が、チェコはもっと原発を作るべきだと回答したという(4月20日付Bloomberg)。同様に、ロシアもドイツへのエネルギー輸出増を期待している。要するに、ドイツで廃止された分の原発が、チェコなど他の国家に移動したという、ただそれだけの話である。
これは日本周辺においても当てはまる。福島原発事故後も、中国や韓国、ロシアは脱原発に向けた動きなど示していない。特に中国は相変わらず原発増設を図っている。それは、あたかも福島原発事故など存在しなかったかのような振舞いである。 ここからわかることは、脱原発というものは、一国だけで主張しても無意味だということだ。本当に脱原発を実現しようと思うのであれば、地球上の全ての国家が同時に行わなくては、何の効果も得られないだろう。 このような脱原発という発想を見ていると、私は憲法九条を思い出さずにはおれない。憲法九条の理念は、周辺諸国もまた国際平和を希求しない限り、すなわち、周辺諸国も日本と同様に憲法九条を制定しない限り、実現し得ないものだ。日本一国だけ憲法九条を掲げていても、国際平和がもたらされるなどという事はあり得ない。ここには、脱原発と極めて類似した思想を見いだし得よう。
どうやら日本人は“憲法九条的なるもの"がお好きなようである。それは、日本人の国際政治に対する感度の低さとパラレルであろう。大きな危険を招いた原発に感情的に反発したくなる気持ちはわかるが、国際政治は感情に基づいて動いているのではない。その原動力は冷徹なリアリズムだ。日本人はもう少し腰を落ちつけて、原発について議論する必要があるのではないだろうか。
■ 編集部より
子供の頃、スペースシャトルの打ち上げを世界同時生中継で見た記憶があります。カウントダウン、そして真っ青な空に白煙を鮮やかにたなびかせながら駆け登ってゆくチャレンジャー号。まさに人類の希望が具現化した映像でした。そしてその十数秒後、不規則な軌道を描き、盛大に爆発しました。人類の未来は閉ざされたかのように思えたものです。
しかし、事故からわずか一時間ほど後に、時の大統領ロナルド・レーガンは歴史的演説を行います。意気消沈するアメリカ国民に向けて、「臆病者に未来はない。未来は勇気ある者のものだ」と、悲劇を乗り越えて、挑戦を続けることを訴え、国民を鼓舞したのです。
進歩を盲目的に信じることと、進歩への挑戦を続けることは異なります。自然へのおそれを持つことと、自然に拝跪することは異なります。反省することは大事ですが、その反省はさらなる一歩を生み出すものであって欲しいものです。
賛成派、反対派という党派性とは異なった視点で、今後も原発問題は継続して取り組んで参ります。
鉢呂発言は本当にあったのか 大坪正規
鉢呂経産大臣が辞任したが、その大きな理由は「死の街」発言よりも、オフレコでの「放射能うつすぞ」発言だったようだ。しかし、オフレコという性質上、その発言の真偽は明らかでなく、第一報を報じたフジテレビも、担当の女性記者はその場にいなかったという。伝聞という不確かな情報をメディアスクラムで拡大し、辞任に追い込んだと見えるのだが、考え過ぎだろうか。
私が死んだら、この湯呑はただの古い、何の価値もない湯呑みとなる。私と共に私の思い出も消えてゆき、この世に姉がいたことを思い出す者もおるまい。
はてさて、これを如何せんと思い悩むのが今の生活である。
■ 編集部より
言った、言わないの水掛け論を避けるために、取材では録音・録画を行うのですが、先月号で登場していただいたジャーナリスト・上杉隆氏によると、オフレコというのは日本独特のものだそうです。オフレコと言われてしまえば、独自取材でつかんだ事実がオフレコの内容と一致した場合、報道できなくなってしまうので、ジャーナリズムがオフレコ自体をそもそも拒否するのだそうです。
今回の鉢呂発言は、政治家としての脂質以上に、マスコミの取材・報道のあり方への問題提起となっているのではないでしょうか。松本大臣の時には録画がありましたが、今回はそれもないので、冤罪・捏造という疑いをマスコミが抱かれかねません。辞任に追い込まれる大臣も、証拠をつきつけられて責められたほうがすがすがしく辞任できるというものです。
オフレコ問題を含め、マスコミ問題は今後も取り組みます。
(以上文責 副編集長 尾崎秀英)
2011年7月
真北風(まにし)が吹けば―琉球組踊続十番
「沖縄の心を理解するためには、どんな本を読んだらいいかと尋ねられれば、私は「沖縄初の芥川賞作家である大城立裕先生の本に沖縄の魂が埋込まれているJ と答える。
民族には、その心をもっとも正確に表現できる形態がある。日本の場合は五七五七七で作られる短歌の形態だが、沖縄の場合は八八八六で表現される「琉歌」だ。このサンパチロクを基本に組み立てられた歌劇が「組踊」である。
元外務省主任分析官 作家 佐藤優
大城 立裕 (著)
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