鉄板を囲んでコの字型に20余りの座席が並ぶ。鉄板と座席とは30センチ足らず。広島市中区のお好み焼き店「新ちゃん」では、店主の河口富晴さん(78)の流れるような手さばきが、眼前で繰り広げられる。薄皮の上にキャベツ、モヤシ、ネギを計ったように均等につかみ入れ、程よく焼けたら一気にひっくり返す。傍らに薄くのばしておいた卵の上に載せて「はいどうぞ」。ほおばる客の笑顔が連なった。
広島市内に800軒とも千軒とも言われるお好み焼き店。「街を歩けば、郵便ポストよりも多く感じるでしょう」と話すのは、味や歴史などお好み焼きを多方面から研究している市職員、国本善平さん(57)。東日本大震災の被災地でもボランティアでコテをふるった。
お好み焼きの歩みは、ヒロシマ復興の足跡に重なるというのが国本さんの持論。戦前、西日本の各地にあった「一銭洋食」をルーツに、広島では駄菓子店などで薄皮にネギなどを載せて、鉄板で焼いて提供されていた。そこを襲ったのが原爆だった。
市中心部が焦土と化す中、男手を失った下町の女性たちが、日々の糧を得るつてとしたのがお好み焼きだ。食料難の時代、焼け残った鉄板を使って、薄皮に野菜のくずや冷や飯などを載せて焼いたという。食材はその後、肉は豚バラ、野菜はキャベツといった具合に、薄皮に合うものが自然と選ばれていった。「原爆投下から約10年間、被爆者に対する支援がなく、多くの人が傷ついたままになっていた広島で、お好み焼きは笑顔を支えた」と国本さん。
昭和30年代になると、空腹の労働者の胃袋を満たすためにそばの麺が入るようになり、今に至る「広島風」のスタイルが完成。市中心部の新天地広場には屋台が並んだ。一帯の公園整備に伴い、屋台は一つのビルにまとまって移転し、観光名所でもある「お好み村」となった。河口さんが営む「新ちゃん」は、ここで45年の歴史を刻んでいる。
一見、どの店のお好み焼きも同じだが、味わいはさまざま。麺がカリッと香ばしかったり、「新ちゃん」のように隠し味にとろろ昆布を使ったり。屋台文化といい、店ごとのこだわりといい、博多ラーメンとどこか通じる、多彩な食なのだ。
ここでいったん、市中心部を離れ、電車で30分ほど西へ。工場が並ぶ一角に卵形の建物がそびえる。調味料メーカー「オタフクソース」が2009年に開いた博物館「Wood Egg お好み焼館」だ。館内では昭和時代に民家の軒先に併設された店を再現し、お好み焼き発展の歴史をパネルで紹介。実際に焼いて楽しむ体験教室のほか、開業希望者向けの本格的な経営講座まで実施している。
館内はほのかにソースの香りが漂う。体験教室では、20人ほどの子どもたちが焼きたてをワイワイほおばっていた。
見学後、市の中心部に戻って、再びのれんをくぐるとカップルの姿が。
女性「口にソースついとるよ」
男性「そう言うおまえは歯にアオノリが」
ここにも笑顔。囲めばより親しくなる、鉄板の魔法だ。
× ×
メモ
「お好み村」はJR広島駅前から広島電鉄の路面電車に乗り、八丁堀電停で下車、徒歩3分。「Wood Egg お好み焼館」は同電鉄宮島線の井口電停で下車、徒歩10分。事前に申し込めば「オタフクソース」の工場見学もできる。土日曜とお盆、年末年始は休館。お好み焼館=082(277)7116。
=2011/10/10 西日本新聞朝刊=