2011年10月07日 (金) | 編集 |
風邪を引いた。どうやら息子からうつされたようだ。
もつ鍋食ってあったまったのでおいおい治る…と信じたい。
さて…
コメント欄でいただいた疑問。
「アスペルガー者から定型者への歩み寄りはあるのか?」
これは障害に関する自覚の有無によって異なるだろうとしか言いようがない。
今回はコミュニケーション面だけに限って考えてみる。
自覚の段階を三段階に分けてみよう
1アスペルガー症候群である自覚がある場合
2何となく自身のコミュニケーション能力に問題を感じている場合。
3自分には何のコミュニケーション能力上の問題がないと考えている場合。
1と2の場合は確実に定型者に歩み寄っている。
いろいろ考えていることだけはほぼ間違いない。
(打開策になっているかは別問題として。)
問題は3の場合なんだろうと思う。
きっかけがなければ、自分がアスペルガー症候群であることすら気がつかない。
そうなれば
「何で自分ばかり責められるのか?」
「何で自分ばかり避けられるのか」
などの原因を他者にばかり求めて周囲に対して怒りや恨みを持ったりしやすいだろう。
他者を振り回してしまう例もあるかもしれない。
歩み寄りというのにはほど遠い。
だが、これが責められる問題なのか?というと話は別だ。
なぜなら、障害の自覚ないのだから。
こういうケースでは本人が自分の障害に関して気づくきっかけがあることを祈るばかりだ。
さて、1.2のケースに話を戻すが、
定型者サイドの歩み寄り要求が大きすぎるのではと思うことがある。
支援者側からの言い分としてアスペルガー症候群は
「支援しがいがない障害」
と言われることがある。
一言で言ってしまえば、障害特性を十分理解していない支援者なのだなあとも思うが、
定型発達の支援者側が「感謝の態度」はじめ、「良好なコミュニケーション」というものを被支援者に求めてしまう事による行き違いである。
ノンバーバルコミュニケーションがうまく機能しないこと、
コミュニケーション自体がうまくいきにくい事
が障害の大きな部分であるにもかかわらず、意識しないとつい定型発達者はこれらをアスペルガー症候群者に求めてしまう。
当事者が必死の思いで「ありがとう」と口にしても、
支援者は「棒読みで心がこもっていない」と感じてしまう。
これはありがちな事だろう。
ちょっと待って!と言いたくなる現象だ。
誰も白杖を持った盲人に「見えるようになれ」とは言わない。
だが、アスペルガー症候群者に対しては、障害がわかっていても
「もうちょっと察しろ」
「もうちょっと愛想よく」
「もうちょっと態度で示してくれ」
「もうちょっと即時に反応してくれ」
といった要求がなされてしまう。
ある意味不思議な現象だ。
記事「アスペルガー症候群者は正直であるしかない」のコメント欄で大福さんが指摘されているように、定型発達者とアスペルガー症候群者で歩み寄り像が異なることもその原因だろう。
まあ、定型発達者の分析と努力次第で定型者の望むような姿を「ある程度」演出できなくもないが、所詮「ある程度」であるので、常に、
「もうちょっとできないのか?」
「できるんならはじめからやれ!」
と言われる可能性をはらんでいる。
すなわち「定型者への歩み寄り」が「歩み寄り要求」のエスカレートを生む訳だ。
見えない障害、そして、コミュニケーションの障害というのは、このような矛盾をはらんだ障害なのだということ。
そして、無理をして「歩み寄り」をしようとし過ぎればそれ自体のストレスで
二次障害にもなりやすい。
ここんところ、定型発達者にすべて理解してもらうというのは現実的には無理である。が、できれば福祉関係者はじめ、支援者と呼ばれる人にはもうちょっと理解して欲しいと思うのである。
アスペルガー症候群者サイドでも、この構造、理解しておいたほうが二次障害の防止のために有用ではないだろうか。
そう考える。

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って、関係ないっすが
…
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おひとつ。
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「アスペルガー者から定型者への歩み寄りはあるのか?」
これは障害に関する自覚の有無によって異なるだろうとしか言いようがない。
今回はコミュニケーション面だけに限って考えてみる。
自覚の段階を三段階に分けてみよう
1アスペルガー症候群である自覚がある場合
2何となく自身のコミュニケーション能力に問題を感じている場合。
3自分には何のコミュニケーション能力上の問題がないと考えている場合。
1と2の場合は確実に定型者に歩み寄っている。
いろいろ考えていることだけはほぼ間違いない。
(打開策になっているかは別問題として。)
問題は3の場合なんだろうと思う。
きっかけがなければ、自分がアスペルガー症候群であることすら気がつかない。
そうなれば
「何で自分ばかり責められるのか?」
「何で自分ばかり避けられるのか」
などの原因を他者にばかり求めて周囲に対して怒りや恨みを持ったりしやすいだろう。
他者を振り回してしまう例もあるかもしれない。
歩み寄りというのにはほど遠い。
だが、これが責められる問題なのか?というと話は別だ。
なぜなら、障害の自覚ないのだから。
こういうケースでは本人が自分の障害に関して気づくきっかけがあることを祈るばかりだ。
さて、1.2のケースに話を戻すが、
定型者サイドの歩み寄り要求が大きすぎるのではと思うことがある。
支援者側からの言い分としてアスペルガー症候群は
「支援しがいがない障害」
と言われることがある。
一言で言ってしまえば、障害特性を十分理解していない支援者なのだなあとも思うが、
定型発達の支援者側が「感謝の態度」はじめ、「良好なコミュニケーション」というものを被支援者に求めてしまう事による行き違いである。
ノンバーバルコミュニケーションがうまく機能しないこと、
コミュニケーション自体がうまくいきにくい事
が障害の大きな部分であるにもかかわらず、意識しないとつい定型発達者はこれらをアスペルガー症候群者に求めてしまう。
当事者が必死の思いで「ありがとう」と口にしても、
支援者は「棒読みで心がこもっていない」と感じてしまう。
これはありがちな事だろう。
ちょっと待って!と言いたくなる現象だ。
誰も白杖を持った盲人に「見えるようになれ」とは言わない。
だが、アスペルガー症候群者に対しては、障害がわかっていても
「もうちょっと察しろ」
「もうちょっと愛想よく」
「もうちょっと態度で示してくれ」
「もうちょっと即時に反応してくれ」
といった要求がなされてしまう。
ある意味不思議な現象だ。
記事「アスペルガー症候群者は正直であるしかない」のコメント欄で大福さんが指摘されているように、定型発達者とアスペルガー症候群者で歩み寄り像が異なることもその原因だろう。
まあ、定型発達者の分析と努力次第で定型者の望むような姿を「ある程度」演出できなくもないが、所詮「ある程度」であるので、常に、
「もうちょっとできないのか?」
「できるんならはじめからやれ!」
と言われる可能性をはらんでいる。
すなわち「定型者への歩み寄り」が「歩み寄り要求」のエスカレートを生む訳だ。
見えない障害、そして、コミュニケーションの障害というのは、このような矛盾をはらんだ障害なのだということ。
そして、無理をして「歩み寄り」をしようとし過ぎればそれ自体のストレスで
二次障害にもなりやすい。
ここんところ、定型発達者にすべて理解してもらうというのは現実的には無理である。が、できれば福祉関係者はじめ、支援者と呼ばれる人にはもうちょっと理解して欲しいと思うのである。
アスペルガー症候群者サイドでも、この構造、理解しておいたほうが二次障害の防止のために有用ではないだろうか。
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この記事へのコメント
知的障害をともなう不定形発達障害の息子がおります。。母親から感じる支援者への困り感と共通点が多くて、うなづきながら読ませていただきました。。察しの悪いのはどちらなのかとため息ですね( ̄◇ ̄;)
2011/10/07(Fri) 20:02 | URL | ほとん #-[ 編集]
「支援しがいのない」というのは支援者のわがままな都合であり、傲慢だと思います。
2011/10/07(Fri) 20:22 | URL | キング?カズ #-[ 編集]
アスペルガーについては知識だけ、カナーの人と会ったことがあり、自閉症、自閉傾向については多少知識がある者です。
狸穴猫さんのように、インターネット上でなら、整った文章と言葉使いで自分の考えや感情を表現できる人もいるのであれば、こういうサイトやブログの存在を知ってもらい、健常者に読んでもらう事で、アスペルガー者も感情を伝えようと歩み寄りをしている事の証明になるのではないでしょうか?
それが難しいのが現状なのでしょうが。
直接顔をあわせての会話で誤解されるのが問題なのは分かるのですがね。
もっとこの問題が周知されないといけませんね。
狸穴猫さんのように、インターネット上でなら、整った文章と言葉使いで自分の考えや感情を表現できる人もいるのであれば、こういうサイトやブログの存在を知ってもらい、健常者に読んでもらう事で、アスペルガー者も感情を伝えようと歩み寄りをしている事の証明になるのではないでしょうか?
それが難しいのが現状なのでしょうが。
直接顔をあわせての会話で誤解されるのが問題なのは分かるのですがね。
もっとこの問題が周知されないといけませんね。
2011/10/07(Fri) 22:34 | URL | うさぽん #fzBJ7G76[ 編集]
自覚がないときは、「なんで自分ばかりが責められるんだろう?」という疑問ばっかりでした。
自覚した今は、それはなくなったけれど、果たしてどこまで、定型さんに受け入れられるレベルまで頑張れるか・・・気が重たくなってます。
今日は通院日で、その帰り道で考えたことは、今の職場で、なかばいじめに近い処遇に遭い、それがトラウマになりかけていること。あのときの、あの人の、この人の、あの言葉や私にした仕打ちが忘れられず今もドロドロした記憶の残る職場に、果たして復帰して、うまくいくのかどうなのか・・・。自信をなくしている最中です。。。
わかっていても、なんで少しばかり脳みその働きが違うだけで、ここまでの思いをしないといけないのか・・。
自覚がない時期はそれはそれでつらかったけど、自覚した今は、とんでもない努力が必要なことに呆然とするばかりです。
私も杖がほしいものです。正直、そう思ってしまいました。
次回アスパラのスピーチは、こだわりをテーマにしたお話をする予定です(私の気が変わらないかぎり)。こだわり1つとっても「なんでそんなことに、そこまでこだわるの?」と言われると失望してしまいますね。苦笑。
自覚した今は、それはなくなったけれど、果たしてどこまで、定型さんに受け入れられるレベルまで頑張れるか・・・気が重たくなってます。
今日は通院日で、その帰り道で考えたことは、今の職場で、なかばいじめに近い処遇に遭い、それがトラウマになりかけていること。あのときの、あの人の、この人の、あの言葉や私にした仕打ちが忘れられず今もドロドロした記憶の残る職場に、果たして復帰して、うまくいくのかどうなのか・・・。自信をなくしている最中です。。。
わかっていても、なんで少しばかり脳みその働きが違うだけで、ここまでの思いをしないといけないのか・・。
自覚がない時期はそれはそれでつらかったけど、自覚した今は、とんでもない努力が必要なことに呆然とするばかりです。
私も杖がほしいものです。正直、そう思ってしまいました。
次回アスパラのスピーチは、こだわりをテーマにしたお話をする予定です(私の気が変わらないかぎり)。こだわり1つとっても「なんでそんなことに、そこまでこだわるの?」と言われると失望してしまいますね。苦笑。
2011/10/07(Fri) 22:37 | URL | あずき #-[ 編集]
こんばんは、連投ですみません。
「支援のしがいがない」のところで、私ははっとさせられました。
それで、今日のブログの記事が一本出来てしまいました。
結論からいえば、「支援者も人間」なのです。
「ありがとう」の言葉を支えに仕事している、という部分があるんだ、ってこと。
これは大きな発見でした。
記事の公開は、たぶん明日の朝になると思います。
「支援のしがいがない」のところで、私ははっとさせられました。
それで、今日のブログの記事が一本出来てしまいました。
結論からいえば、「支援者も人間」なのです。
「ありがとう」の言葉を支えに仕事している、という部分があるんだ、ってこと。
これは大きな発見でした。
記事の公開は、たぶん明日の朝になると思います。
あずきさんの「支援者も人間」という言葉に乗っかる形になりますが、記事を読んでよくよく考えた結論を書いてみます。
支援者の多くは福祉や医療関係者が大半だと思うのですが、福祉・医療業界に属する人間だからこそ「支援のしがいのなさ感」に悩むのではないか、というのが私の結論です。
その理由として、
1.(支援の)対象者の反応は自分が行った支援の結果であり、それが次へのステップの指標になるためOKかNGはっきりとした反応が欲しい
2.問題の改善や解決には支援者と対象者の相互協力が必要なため、自分の支援が押し付けになっていないか確実に確認したい(言葉だけではなく感覚としても手応えが欲しい)
ということがまず始めに上げられます。
支援する側は(特にそれを職業として行う場合)対象者の抱える問題・悩み・不安・困り事に介入するに当たって到達目標をあげて介入方法を考えて実行します。そして、常に到達目標にどこまで近づいているか、介入方法に間違いはないか、修正・変更の必要はないかアセスメントしています。アセスメントの基になるのは対象者の反応です。この時に定型の支援者は相手の言葉だけで反応を確認してはいません。むしろ言葉だけを信じることはしないと言っても過言ではないでしょう。
支援者は自分の五感+第六感をフル活用して感じ取り、確認し、判断しています。福祉・医療関係の有資格者であればそのトレーニングが課せられています。有資格者でなくとも、人を相手とする職業であれば日々そうした感覚と思考回路が鍛えられてしまうのです。そのため、「感謝をしてほしい」というよりは自分の仕事に対する手応えが欲しいのです。そして、その欲求を無意識に強く持っているが故に、「発達障害者から定型者と同等の手応えを得るのは難しい」ことを理屈としては理解していても、ついつい癖で期待してしまうのです。
また、支援に対する反応や手応えを支援者は対象者本人からのみ得ようとはしていません。対象者の周囲の反応や変化も観察していきます。
対象者が発達障害の場合、周囲の人間の多くが障害を理解していません。支援者ですら完全に理解できていないため、ある程度の理解すらもできない関係者の方が多いと言えるでしょう。そのため周囲の人間は、支援者が介入した結果改善があると更なる改善を期待します。
発達障害の方々の努力に限界があるように、周囲の関係者の理解にも限界があります。その両者の間に立つ支援者はどうしても板挟みになり疲弊してしまうケースが多く、対象者が定型であれば比較的容易に分かりやすい達成感も得にくいため「支援のしがいのない」と言葉に出してしまうのだと私は思います。そして、対象者に対して「もう少し察して欲しい」「少しは空気読めないかなぁ?」と望むのと同じくらい、周囲の関係者にも「もう少し分かってやれよ」「四の五の言わずに受け入れてやれよ」と苛立ってもいます。
もちろん、あずきさんの言うように「ありがとう」の言葉を支えに仕事をしていることも大きいでしょう。
人間相手の仕事はマニュアルや工程表通りには進みませんし、事務的、機械的にこなす訳には行かない分、精神的なストレスや疲労が重くつきまといます。その割に金銭的報酬は「こんな程度か」と虚しくなる額です。それでも、福祉・医療関係の仕事を続けられるのは対象者の「ありがとう」の言葉や明るい表情、幸せな気配、溌剌とした様子などから自分の仕事の結果を手応えとして感じる瞬間の喜びがあるからです。
発達障害の当事者と支援者間での歩み寄りということで考えると、歩み寄ろうとするからこそお互いもっと理解して欲しいと望み、理解し合えないことのジレンマやフラストレーションが大きくなってしまうのかもしれないなあと、人間の欲深さを考えさせられる記事でした。
支援者の多くは福祉や医療関係者が大半だと思うのですが、福祉・医療業界に属する人間だからこそ「支援のしがいのなさ感」に悩むのではないか、というのが私の結論です。
その理由として、
1.(支援の)対象者の反応は自分が行った支援の結果であり、それが次へのステップの指標になるためOKかNGはっきりとした反応が欲しい
2.問題の改善や解決には支援者と対象者の相互協力が必要なため、自分の支援が押し付けになっていないか確実に確認したい(言葉だけではなく感覚としても手応えが欲しい)
ということがまず始めに上げられます。
支援する側は(特にそれを職業として行う場合)対象者の抱える問題・悩み・不安・困り事に介入するに当たって到達目標をあげて介入方法を考えて実行します。そして、常に到達目標にどこまで近づいているか、介入方法に間違いはないか、修正・変更の必要はないかアセスメントしています。アセスメントの基になるのは対象者の反応です。この時に定型の支援者は相手の言葉だけで反応を確認してはいません。むしろ言葉だけを信じることはしないと言っても過言ではないでしょう。
支援者は自分の五感+第六感をフル活用して感じ取り、確認し、判断しています。福祉・医療関係の有資格者であればそのトレーニングが課せられています。有資格者でなくとも、人を相手とする職業であれば日々そうした感覚と思考回路が鍛えられてしまうのです。そのため、「感謝をしてほしい」というよりは自分の仕事に対する手応えが欲しいのです。そして、その欲求を無意識に強く持っているが故に、「発達障害者から定型者と同等の手応えを得るのは難しい」ことを理屈としては理解していても、ついつい癖で期待してしまうのです。
また、支援に対する反応や手応えを支援者は対象者本人からのみ得ようとはしていません。対象者の周囲の反応や変化も観察していきます。
対象者が発達障害の場合、周囲の人間の多くが障害を理解していません。支援者ですら完全に理解できていないため、ある程度の理解すらもできない関係者の方が多いと言えるでしょう。そのため周囲の人間は、支援者が介入した結果改善があると更なる改善を期待します。
発達障害の方々の努力に限界があるように、周囲の関係者の理解にも限界があります。その両者の間に立つ支援者はどうしても板挟みになり疲弊してしまうケースが多く、対象者が定型であれば比較的容易に分かりやすい達成感も得にくいため「支援のしがいのない」と言葉に出してしまうのだと私は思います。そして、対象者に対して「もう少し察して欲しい」「少しは空気読めないかなぁ?」と望むのと同じくらい、周囲の関係者にも「もう少し分かってやれよ」「四の五の言わずに受け入れてやれよ」と苛立ってもいます。
もちろん、あずきさんの言うように「ありがとう」の言葉を支えに仕事をしていることも大きいでしょう。
人間相手の仕事はマニュアルや工程表通りには進みませんし、事務的、機械的にこなす訳には行かない分、精神的なストレスや疲労が重くつきまといます。その割に金銭的報酬は「こんな程度か」と虚しくなる額です。それでも、福祉・医療関係の仕事を続けられるのは対象者の「ありがとう」の言葉や明るい表情、幸せな気配、溌剌とした様子などから自分の仕事の結果を手応えとして感じる瞬間の喜びがあるからです。
発達障害の当事者と支援者間での歩み寄りということで考えると、歩み寄ろうとするからこそお互いもっと理解して欲しいと望み、理解し合えないことのジレンマやフラストレーションが大きくなってしまうのかもしれないなあと、人間の欲深さを考えさせられる記事でした。
2011/10/09(Sun) 02:55 | URL | 凪 #-[ 編集]
発達障害に求めすぎたら、逆に大袈裟なやり方をしそうで、却って危険度増しますよ!
私自身が、その典型的なパターンですが。
何故なら、それじゃないと、私には分かりにくいんですよ。定型のやり方は分かりにくくて、学習しにくくないですか?
悲しいけれど、発達障害者からの歩み寄りに、そんな危険性を孕んでんです。
私自身が、その典型的なパターンですが。
何故なら、それじゃないと、私には分かりにくいんですよ。定型のやり方は分かりにくくて、学習しにくくないですか?
悲しいけれど、発達障害者からの歩み寄りに、そんな危険性を孕んでんです。
2011/10/09(Sun) 03:03 | URL | スコブル子 #hazNMWfU[ 編集]
先日、発達障害者の就職支援をしている会社の説明会を聴いてきました。
そこでは、基本的なビジネスマナー(いわゆるホウレンソウ等)や時間の管理方法、PCの使い方等をレクチャーし、発達障害者に合った仕事、就職の支援をする、ということでした。
その会社の代表者と話しましたが、基本的には発達障害者を定形に合わせさせるスタンスでした。
現状では、発達障害に理解ある職場というのはほとんど無いということ。なので、定形に歩み寄る事も必要だと。
発達障害者であろうと無かろうと、メリットのある人しか会社は採用したくはないわけですから、そのスタンスは理解出来ます。
ただ、周りの理解が薄い状況で送り出された人達は、会社の都合で環境が変わったりした場合どうなるのか疑問は残りますね。
まぁ、子供じゃないんだからって事なんでしょうけど、環境が変わる時って発達障害者には苦手な事がいくつも起きるのでね。
私のように不適応で会社を辞めなければいいなと思います。
そこでは、基本的なビジネスマナー(いわゆるホウレンソウ等)や時間の管理方法、PCの使い方等をレクチャーし、発達障害者に合った仕事、就職の支援をする、ということでした。
その会社の代表者と話しましたが、基本的には発達障害者を定形に合わせさせるスタンスでした。
現状では、発達障害に理解ある職場というのはほとんど無いということ。なので、定形に歩み寄る事も必要だと。
発達障害者であろうと無かろうと、メリットのある人しか会社は採用したくはないわけですから、そのスタンスは理解出来ます。
ただ、周りの理解が薄い状況で送り出された人達は、会社の都合で環境が変わったりした場合どうなるのか疑問は残りますね。
まぁ、子供じゃないんだからって事なんでしょうけど、環境が変わる時って発達障害者には苦手な事がいくつも起きるのでね。
私のように不適応で会社を辞めなければいいなと思います。
私は肢体不自由者ですが、アスペルガーに罵倒されました。肢体不自由者が自分の足りない身体機能を補うのを、アスペルガーに無駄だの逆効果だの罵られ、何回説明しても「こんな人に何を言っても無駄、判っちゃいない」と罵倒されました。否定するなら否定するに足る根拠を示してから進言するのが常識ですが、彼は一方的に否定しますが、代替方も何も示しません。
否定する根拠を尋ねたら、酷い非難を浴びせられたと言い始めたので、私が彼に何を言ったのか尋ねたら何回も酷い非難を浴びせられたが内容は覚えてないと子供のように拗ねました。そんなに頻繁に非難を浴びせられたら内容を覚えていない筈がありません。
言い逃れや事故弁護も正当化も出来ない状況となるとその場を去るか、通話を切ります。
彼以外にも身近にアスペルガーはおりましたが、自分の言動で社長を怒らせてもふて腐れるか、俯いて無言を通し謝罪の言葉は全く聞いた事がありません。
私は肢体不自由者となり、工夫を余儀なくされてます。肢体不自由者は足手まといになり、足りない機能を工夫して補わなければ生きる屍です。生きる屍になりたくないので創意工夫してます。
精神障害と重複してる時に言われたように、障害者だけで離島に行き互いに理解し円滑に生活出来るでしょうか?ある程度の理解は得られますが、生活は成り立ちません。同じようにアスペルガーだけで村や町を造ったらどうでしょうか?。
私は不当だとか理不尽な扱いをされたと不平や不満を言い、健常者から離島発言を返され障害者の特権意識に気付き、それを棄てました。障害は盾でもなく矢でもありません。障害を武器にしている間は疎まれるばかりです。健常者から見れば、肢体不自由者もアスペルガーも傷病利得追求者です。マジョリティーが障害者を支えていますが、我々障害者は受ける恩恵に比して貢献度が低く非難されて当然です。尊大な態度の障害者など支援を拒まれます。
否定する根拠を尋ねたら、酷い非難を浴びせられたと言い始めたので、私が彼に何を言ったのか尋ねたら何回も酷い非難を浴びせられたが内容は覚えてないと子供のように拗ねました。そんなに頻繁に非難を浴びせられたら内容を覚えていない筈がありません。
言い逃れや事故弁護も正当化も出来ない状況となるとその場を去るか、通話を切ります。
彼以外にも身近にアスペルガーはおりましたが、自分の言動で社長を怒らせてもふて腐れるか、俯いて無言を通し謝罪の言葉は全く聞いた事がありません。
私は肢体不自由者となり、工夫を余儀なくされてます。肢体不自由者は足手まといになり、足りない機能を工夫して補わなければ生きる屍です。生きる屍になりたくないので創意工夫してます。
精神障害と重複してる時に言われたように、障害者だけで離島に行き互いに理解し円滑に生活出来るでしょうか?ある程度の理解は得られますが、生活は成り立ちません。同じようにアスペルガーだけで村や町を造ったらどうでしょうか?。
私は不当だとか理不尽な扱いをされたと不平や不満を言い、健常者から離島発言を返され障害者の特権意識に気付き、それを棄てました。障害は盾でもなく矢でもありません。障害を武器にしている間は疎まれるばかりです。健常者から見れば、肢体不自由者もアスペルガーも傷病利得追求者です。マジョリティーが障害者を支えていますが、我々障害者は受ける恩恵に比して貢献度が低く非難されて当然です。尊大な態度の障害者など支援を拒まれます。
2011/10/10(Mon) 04:51 | URL | アンチ綺麗事 #C9dGvS9s[ 編集]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011/10/10(Mon) 09:21 | | #[ 編集]
>アンチ綺麗事氏
貴方の見てきたASD者って高々数名ですよね?
それで、全体を見た気に成っているとしたら、相当の傲慢だと思いますがね。
貴方はASD者に対する個人的な憎悪を、自分に敵意を向けた相手と向き合うのではなく。
赤の他人に八つ当たりする事で晴らそうとしている様に見えます。
貴方自身、四肢不自由者としての苦労も有るでしょうし。
その、生き方を否定された過去は許せないものかも知れませんが
それを「綺麗事は嫌い」と言う言葉で武装して、自分は他人の意見を聞かず
相手を責め続けるという逃避行動を取る。
私には、貴方が語る中に出てくるASD者と貴方自身の在り方や。
傲慢さ理不尽さに何かの違いを見出す事は出来ません。
所謂、同じ穴の狢、類は友を呼ぶ。
ただ、それだけな気がして成りません。
貴方の見てきたASD者って高々数名ですよね?
それで、全体を見た気に成っているとしたら、相当の傲慢だと思いますがね。
貴方はASD者に対する個人的な憎悪を、自分に敵意を向けた相手と向き合うのではなく。
赤の他人に八つ当たりする事で晴らそうとしている様に見えます。
貴方自身、四肢不自由者としての苦労も有るでしょうし。
その、生き方を否定された過去は許せないものかも知れませんが
それを「綺麗事は嫌い」と言う言葉で武装して、自分は他人の意見を聞かず
相手を責め続けるという逃避行動を取る。
私には、貴方が語る中に出てくるASD者と貴方自身の在り方や。
傲慢さ理不尽さに何かの違いを見出す事は出来ません。
所謂、同じ穴の狢、類は友を呼ぶ。
ただ、それだけな気がして成りません。
2011/10/10(Mon) 12:07 | URL | 六花 #WN.qh7SA[ 編集]
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