防衛大学校と吉田茂
      一防衛大生の吉田邸訪問記


1 訪問のいきさつ

 吉田総理邸訪問のいきさつは、 防衛大学校第1期生の卒業アルバム作成にさかのぼる。 卒業アルバムの編集長であった私は、 内外諸大学の卒業アルバムをまず参考のために集めることとし、 アメリカ海軍兵学校やアメリカの大学の卒業アルバムは横須賀にあるアメリカ海軍基地の士官や、 その奥さんから借りた。 国内の大学のアルバムは同期の兄弟や姉妹から借り、 集めたアルバムの数は30種類ほどに達したように思う。 しかし、 当時は貧しい昭和30年代の初期であり、 外国のアルバムに比べれば、 いずれも貧弱なもので、 アメリカ陸軍士官学校のアルバムが、 一番内容もあり立派であった。しかし、 それを業者に見積もらせたところ、 大学出の初任給が1万3千8百円と歌われていた当時の金額で、 1万ということであった。その当時の常識に従って、1冊2000円か3000円程度のアルバムで妥協すべきか否かを迷っていた時、 目に止まったのが聖心女学校のアルバム末尾に掲載されている広告であった。 「そうだ! 広告を載せよう」と衆議一決。 電通の宣伝部長(?)が元陸軍士官学校出身者であると聞いていたので、 早速広告募集の依頼に行ったところ、 「三00万ほどあればよいね」と気安く引き受けてくれた。意気揚々と帰校。

 1ケ月ほどは何の話しもなかったが、 電通のその部長が友人である防衛庁の高官(政務次官であったと思う)に、 「俺は今、 防衛大学校の1期生に頼まれて広告を集めているが、 1期生の卒業アルバムへ広告が載せられると聞いて、 業者はそれは歴史的な価値もあると広告主が殺到している」と語ったことから大問題となってしまった。 卒業アルバムに業者の広告を載せるか否かで防衛庁内は大騒ぎ、 中央からは槙校長に「学生が卒業アルバムに業者の広告を載せるそうだ。 校長は知っているか。 どう思うか」との問い合わせ。 広告を載せると報告すれば「止めよ」というに決まっていると報告しなかったことから大変なことになってしまった。「とんでもないことをしてくれた。何をするかわからないので、 お前はもう東京に行ってはいけない」、 と東京方面外出禁止を宣告されてしまった。 また校長室に呼ばれ、 あの温厚なことでは定評のある槙校長から、「いくら学生が作るといっても、 防衛庁のレベルで物事は考えなければならない。 なぜ自分達だけのお金で作らないのか。 他人のお金を当てにして卒業アルバムを作るなど以ての外。 私企業から広告を貰うなどということは認められない」と一喝。 散々油を絞られた。 しかし、 もう広告掲載を前提に発注済との説明に、 校長は仕方ないから私も資金について考えようと言ってくれた。

 1週間ほどして校長秘書から校長室に来るようにとの連絡があった。 おそるおそる出向くと、 校長は前回とは打って変わって上機嫌、 寄付の協力を得るならば、 本当に防衛大学校に愛情を持っている人から戴くべきで、 吉田元総理と木村元防衛庁長官等に話したら、 「喜んで出してくれました」と金一封を渡された。 しかし、 吉田総理は「どんな学生が出来たかね。 学生と直接話をしたいので、 是非とも学生をよこすように」と言われたので、 「平間君、 今度の日曜日に大磯に行ってらっしゃい」ということから吉田邸訪問となったのである。 このようなわけで、 この訪問記は品行方正とか学業優秀とかとは最も遠い存在の学生の訪問記である。 「どのような学生が出来たかね。 家によこしてくれ」と言う総理も総理ならば、 このヤンチャ学生に行ってらっしゃいと注意一つ与えず行かせた校長も校長のように思う。 しかし、 このような校長であったからこそ、 吉田総理に初代校長として選ばれたのであろう。

2 吉田邸訪問

 それは昭和32年の卒業直前の2月初旬のことであった。 アルバム編集委員の陸上自衛官任官予定の林嘉彦、 海上自衛官任官予定の私、 それに航空自衛官任官予定の奥原広人の3名が、 こうなったらアルバムに総理の写真を載せなければと、 吉田さんの嫌いなカメラをぶら下げて出掛けることにした。しかし、 どこに住んでいるのか。 大磯であることは知っていたが、住所を調べようにも調べようがなく、 とにかく大磯駅まで行って、 駅前の駐在所で聞けば判るだろうと大磯駅に着いた。 しかし、 あいにくと大磯駅前に駐在所はなかった。 通り掛かりの人に、 「あの、吉田元総理大臣のお宅はどちらでしょうか」と聞いたところ、 一瞬けげんな顔をしたが、 それでも海の方に向かい国道にぶつかったら、 右に曲がり松並木の道に沿って行けば大きな木に囲まれた家があるのですぐ判ると教えてくれた。歩くこと10数分、なんとなく大きな木に囲まれた家があるが門にも玄関にも表札がない。 そこで再び屋敷外に出て通行人に、 「ここが吉田総理のお宅ですか」ときくと。 間違いなく、 この家ですとの返事。 そこで勇気を出して呼び鈴を押した。 しかし、 なかなか人が出て来ない。 多少不安になったころ「小リンさん」が現れた。 「あら、 玄関からとばかり思っていたのに、 通用口から来るなんて」。 「どうぞ、玄関にお廻りください」と。 なんということはない大磯駅に近い勝手口から侵入してしまったわけだ。

 勝手口から玄関に回り、 玄関右手の応接室に坂本喜代子さんはわれわれを案内して出て行った。 落ち着いた風をして周囲を見渡す。 正面には世界各国の元首や大統領の写真が4段か5段のボードに並び、 目の前のテーブルには菊のご紋章の付いたシガレットケースが置かれてあり、 その雰囲気にさすが心臓の強いわたくしもたじたじだった。 待つこと数分、 階段から人の降りてくる気配いを感じたが、 まず驚いたのは着物を着て白足袋を履いておられたことだった。 総理を風刺した新聞などの漫画に描かれているそのままの姿、 まさか家でも白足袋に袴とは思っていなかったので、 そのときの驚きと興奮は今でも忘れられない。 葉巻をくわえ白足袋、和服に袴のいで立ちは漫画で見たとおりだったが、 その実物がここに居られると思うと身が奮えた。 しかし、 総理は上機嫌で、 われわれを愛でるような慈悲に溢れた目で眺め、 笑顔を向けられたのにはほっとしたことを覚えている。

 学校のことや自衛隊に対する期待など色々な話しをされたが、 途中葉巻を吸われ、 そしてわれわれにも勧められた。 おそるおそる菊のご紋章の入ったシガレッケースから葉巻を取り出し、 セロハンを剥かずに、 また端も切らずに火を付けようとした学生(私であったということになっている)に、 君達葉巻は口にくわえて切るんだよと教えられて、 また赤面。 次におそるおそる総理は写真と新聞記者が嫌いと聞いておりますが、 卒業アルバムに載せるので1枚取らせて下さいと申し出たところ。 新聞記者には嫌いな人が多いが中には立派な人もいる。 しかし、 彼らは目先の功を焦ってスクープを追うし、 他人の迷惑や国家の利益をも無視する人が多いから嫌いだ。 でも私が新聞記者嫌いというのも新聞屋が作った間違ったイメージで、 本当ではない。 「また写真も嫌いということになっているが、 本当は好きなんだよ」、 と廊下に出られ逆光になるからと向きを変えてとの注文にも気軽に応じられたが、 「君達が撮るのより出来の良いのを送るから、 それをアルバムに使ってくれ」と注文も出されたので、 われわれ1期生のアルバムには、 その後に送られた署名入りの写真が載せられている。

 このように写真を採ったり話したり、 タバコで悪戦苦闘をしている間にも来客が有るらしく、 小リさんが何回も取り次ぐが、 そのたびに「今学生さんと話している。 待たしておけ。」の連発。 最後はとうとう男の人が入ってきて、 「鳩山(他の人であったかもしれない)さんがお待ちです」と来たが、 またも「若い学生さんが来ているので、 待たしておけ。」には驚いた。 そして、「ソ連を相手に何を話しても話しにならない。 相手にする必要はないんだよ。 あんな国は。」と言われ、 われわれに相槌を求めたが、 どう答えたのかは覚えていない。しばらく話された後に、 再び小リンさんを呼び「学生さんは若いんだから、 腹を空かして帰えす訳にはいかない。 何か食べさせてやりなさい。」と言われ、 われわれは鳩山さんのために応接室を空け、 裏手にある食堂か台所みたいなところ、 椅子とテーブルがあったダイニングで大阪寿司を御馳走になり、 吉田邸を辞したのは夕方に近かったように思う。

 玄関には大勢の人が来ているので勝手口から帰ろうとしたら、 小リさんから「将来のある若い人が勝手口から帰るなんていけません。」と注意され玄関から送られた。 門まで20から30メートルはある庭を眺めながら正門を出た。 そして、 ほっとするとともに現実に帰り、 「帰校時間に間に合うかな」との考えがふと浮かんだように思う。 帰りは高い松の木のあったのと、 庭の和風の建物、 後でそれが五賢堂(明治の五元老を祭ってある)と知ったが、 そのたたずまいが、 いまだに強い印象に残っている。 帰りは正門から出たが警官が居たようにも思うし、 居なかったようにも思う。 それにしても現在であったならば、 機動隊員が居て、 たやすく勝手口から入るようなことはできなかったであろう。 学生を大切にし、 そして信用し期待してくれた良き時代に育ったことを感謝するとともに、 良き時代が過去のものになってしまったことを寂しく思う。

3 総理との会話

 会話というよりは総理の一方的な話しで、 座談の名手という感じを強く受けた。 話題は主として防衛問題であったが、 国防は国の基本である。 しかし、 今の日本はアメリカとの安全保障の下に経済復興を図るのが第一で、 アメリカが守ってやるというのだから守って貰えばよいではないか。また、 憲兵に追われ投獄され取調べを受けたが、 かれらのものの解らないのにはどうにもならなかった。 だから僕は陸軍が嫌いだ。 昔のようにものの解らない片輪な人間を作ってはならない。 そのためには東大出身者は固くて分からず屋が多いので駄目だ。 防衛大学校の校長を決めるには随分考えたよ。 昔のような軍人を作らないために。 それにはイギリス的教育を受けた人が良いと思い、 今の槙校長に慶応から来て貰った。 ところで、 校長の指導方針は何かね。 上がってしまい「はい、 自由と規律です」と答えると、 「どこかで聞いたような言葉だね」、 いや間違えました。 「自由には規律が必要で、 規律なき自由はない」とか、 「立派な社会人になることが、 立派な軍人になることです」とか、 答えたように思うが何を言ったかはあまり覚えていない。 総理の一方的な話しばかりだったように思う。

 そのなかで、 どきもを抜かれたのが鳩山内閣、 特に鳩山総理の外交姿勢に対する激しい非難であった。 その趣旨は日本人自身もっと自分の国に自信を持つべきであるのに、 その外交はソ連に行って「どうか魚を取らせて下さい」と頼んで逆に脅かされ、 中国に行って物を買って下さいと頭を下げる。 ソ連との外交は脅かすか、 利益をちらつかせるか、 この二つしかないんだよ。 それを誠意を持って話し合いで行くという。 ソ連に話したって聞いていないよ。 困った人だなどといっておられたが、 2ケ月前まで自衛隊の最高指揮官であった元総理大臣の悪口に、 「はい。 そうですね」といってよいのかいけないのか、 などと考えたことまでは覚えているが、 何と合槌を打つたかは覚えていない。 また、 国防についても話されたが、 それは自分の国を自分で守るという趣旨は良いが、 現在世界に一国でも自国を守れる国なんてありやしない。 フランスにしてもドイツにしても、ことごとくイギリスやアメリカの兵隊を置いて共同して守りましょうと言っている。 アメリカだって一種の共同防衛をとり、 ソ連に対して自由主義国家として共同防衛体制をとっているのに、 日本だけが安保反対とかゴー・ホーム・ヤンキーなどと反対などしているが酒落臭い話しだ。

 井の中の蛙大海を知らずだ。 日本一国で国を守るなどということは馬鹿の骨頂だよ。 頭を働かせるべきで日本一国でソ連に対する軍隊や軍備など持てるものではない。 今日独立して自分の国を守れる国など一国もない。 イギリスにもアメリカの航空部隊がいるし、 ドイツやフランスにも他国の軍隊がいるが、 これらの国で基地がどうの、 反対だなどとケチなこと言っていないよ。 よその国の軍隊が自分の国を守ってくれ、 自分の国の軍隊が他国を守るのはお互い様なのだ。 不名誉でもなんでもない。もう、 一国が自分の独力で守るという時代は過ぎてしまって、 集団で国を防衛する時代になったんだ。 その集団の一国が他の国の基地を自分の国に置いても、 ちっとも恥かしいことではないんだ。 それを馬鹿な奴らが基地を置くことを植民地にでもなったように19世紀の頭で考えているのだから困まったことだよ。最後に、 卒業アルバムに載せたいので何か一筆書いてくださいとお願いしたら。 わたくしの好きな言葉「治に於いて乱を忘るな」を書いて上げようとも思っている。 それから軍人として大切なことも書いてあげようと送られてきたのが、 写真の書であり次に示す一文であった。

「防大生に与える
 「独立国の国民として、国の独立程大事なものはなく、 この独立を守る事こそ、 国民としての名誉であり、 誇りであり、 この誇りが愛国心の基礎をなすものである。 国民に独立を愛し、 独立を守る決心なくんばその国の存在はあり得ない。この決心が一国の興隆繁栄を来すのである。 第一次世界大戦の始め、 パリーがドイツ軍に、 正に占領せられんとする時、 首相クレマンソーは国民に告げて日く、 「パリーの外で守り、 パリーの内で守り、 又、 パリーの外において守るべし」と。 仏国民にもこの決心ありたるが故に、 破竹の勢ひを以て、 攻め来たりたるドイツ軍を遂にパリーの外に退け得たのである。第二次世界大戦おいて、 英国軍が仏白国境に破れて、 ダンケルクより3〇万余の敗残兵僅かに身を以て英国本国に引揚げ、 武器、 弾薬、 悉く大陸に遺棄し、 国内には国を守る何等の兵備なく、 ドイツ軍の英国侵入は時の問題とも思われた時、 チャーチルは議会に演説して日く、 「英国内において敵を防ぎ、 英国外においてこれと戦い、 遠くカナダに退いてドイツ軍と戦う」と言った。 英国々民の戦闘意識を最も明白なる言葉を以つて言ひ表はしたものである。

 クレマンソー及びチャーチルのこの決心がパリーを守り、 英国を守り得たのである。 然しながら、 兵器は凶器である。 これを用ふるは苟もすべきではない。 又、 これを用ふるにおいてはこれを止むる用意がなければならない。 所謂、 武なる文字は、 矛を止むると書くのである。 日露戦争の時児玉参謀総長は、 奉天会戦を以て日露戦争を終わるべき時なり、 と大本営に進言して、 兵を収めて日露戦役の功を全うした。 この遠謀深慮ありてこそ武将と言うべく、 然るに、 第二次世界大戦における我が軍は、 その勇戦善戦、 日露戦争当時に比べて優るとも劣ることなかりしにも拘らず、 進むを知って退くを知らず、 遠くブーゲンビル、 ラバウルまで出進して徒に大兵を孤島に集中暴露して、 日本本土との連絡の用意なく、 米軍のために我が艦船、 飛行機等の皆滅せらるるや、 遂に本国との連絡を絶たれて、 大兵空しく、 南洋海上の孤島に置去りにされて全敗、 遂に南方作戦は頓挫した。 歴史の示すところは、 以って、 将来の戒めとすべく、 兵を用いて兵をとどむるの用意なくんば、 善謀善戦も何の益するところなし。 兵を学ぶ諸君、 常に茲に心を致されんことを望む。」

 歴史観に裏打ちされたこの一文は国防に当たる者、 軍事指導者の留意すべき原点であり、 この訓示はその後も自衛官の心すべき諌めとして、 防衛大学校では繰り返し繰り返し教え続けられている。また、 総理は帰り際に、 「君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されり、 歓迎されることなく自衛隊を終わるかも知れない。 きっと非難とか誹ぼうばかりの一生かもしれない。 御苦労なことだと思う。 しかし、 自衛隊が国民から歓迎され、 ちゃやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡の時とか、 災害派遣の時とか国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。 言葉を変えれば君達が日陰者であるときのほうが、 国民や日本は幸せなのだ。 堪えて貰いたい。 一生御苦労なことだと思うが、 国家のために忍び堪え頑張って貰いたい。 自衛隊の将来は君達の双肩にかかっている。 しっかり頼むよ」といわれた。 そして、 この言葉が私の脳裏に強く残り防衛大学校卒業以来、 世間の誹ぼうや非難に堪え自衛官としての道を誇りを持って歩ませ、定年を迎えさせたのでもあった。 また吉田総理のこの言葉が低い礼遇や社会的地位に甘んじて、 われわれ1期生を、 防衛大学校卒業生を、 国家、 国益、 国民という価値基準に縛り付け自衛官としての一生を歩まし続けているのでもある。

4 防衛大学校と総理

 いわゆる再軍備には頑なに反対していた総理ではあったが、 「どんな学生が出来たかね」と自宅に招くなど、 防衛大学校には多大の関心をもたれ、生前には前後7回も来校され、 わが防衛大学校校では創設の父と敬愛されている。例年防衛大学校の卒業式には総理大臣が来校し、 卒業生に訓示を与えるのが慣例となっているが、 吉田総理は総理としてだけではなく、 総理をやめられてからも卒業式などに来校されたが、 特に1期生が在校した昭和28年から32年の4年間に、 総理という多忙な職務にも拘らず3回も来校された。第1回の来校は開校半年後の昭和28年1〇月17日で、 どのような施設で、どのような教育が行われているかを気に留めての来校であったといわれている。 この来校に際して施設も何も整わない防衛大学校として何をお見せすればよいかとの議論があり、 その時に学生の観閲行進をお見せすることになったが、 これが慣例の貴賓来校時の防衛大学校名物、 観閲行進の始まりとなった。

 第2回目の来校は横須賀の米軍を訪問し、 時間が取れたからとの突然の来校であり、 第3回目の来校は卒業式であった。 第2回目に来校された時は学生食堂で会食し、 次に示す防衛大学校の教育の在り方と、 まじめに勉強せよとの訓示をされた。 勉強せよとの訓示の出だしの言葉が「不肖の息子となるなかれ」という「不肖の息子論」であった。 槙校長が総理を本校創設には種々の指導と助言を与えられた、「いわば本校生みの親とも申すべき方で」と紹介すると、 総理はその話を受けて「もし、僕が親なら、諸君の出来の悪いのは不肖の息子である」。 「まじめに勉強せよ」とジョークで話しを継がれ、 この時の「不肖の息子」発言以来、 だれ言うとなく公式には防衛大学校創設の父、 非公式には「オヤジさん」と言われるようになったのである。なお、 防衛大学校教育の在り方に関しては次のように話された。

 「私はいつも思うのであるが、 軍人が戦争の専門家に偏することは、 戦争そのものには或は強くなるかも知れないが、 一般政治や国際外交の常識に欠けるところが生じ、 外交を誤り、 国を誤ることになる。 大東亜戦争などは誠によい例である。 総じて軍人が政治を支配することを防ぐことは、 各国とも大きな内政上の問題である。 一方また軍人自身もその分を弁えて政治に深入りしないようにすることが特に肝要であって、 それには広い視野と豊かな常識とが必要である。 英国などでは、 貴族や富豪階級の子弟が、 軍人軍職にあることを名誉と考え、 生活または職業のためではなく、 真に公職に奉ずる考えから、 高い教養を身につけて軍人を志するものが多く、 これらは内外に亘る常識を備えており、 伝統的にも軍人が政治に関与し、 または関与してもらって出世の手段とするを潔しとしない風がある。 さすがは英国だとかねてから思っていた私は、 特に大東亜戦争の苦い経験に鑑み、 警察予備隊ができると同時に、 この軍隊に代わる新しい部隊についてその幹部養成の問題に気をつけた。 そして特にその常識的教養の面に重きを置いて行きたいと考え、 且つそのように努力した。 今後とも防衛大学校の現状に満足することなく。 ますます内容の充実向上をはかり、 単に技術的のみならず、 教養的に自衛隊の質を高めてゆく努力を怠らないよう、 局に当たるものにお願いしたい次第である」

上に挙げた訓辞は戦争末期に憲兵隊の留置所に入れられ、 苦渋をなめた吉田総理が、 その接触した軍人の頑固さ、 自分の考えかたのみに固執する偏狭さ、 視野の狭さ等を苦しく思ったその人が宰相となり、 かかる将校を決してつくるまいと期した気持ちがよく文中に出ているが、 それを具体化したのが防衛大学校のカリキュラムであり、そして、 選ばれたのがイギリスのオックスフォード大学出身の当時の慶応大学評議員であった槙智雄校長であった。 このような吉田総理の意向を受け防衛大学校は自衛隊の幹部を養成する学校でありながら、 軍事的職業教育は教育科目的にみても、 配当時間的にみても少なく、 いわゆる普通学と呼ばれる一般大学等で教授されているのと同じ科目を重視し、 これが防衛大学校の教育の一つの柱となり、 また防衛大学校校の教育をユニークなものにしているのである。

著者は防衛大学校1期生、卒業後護衛艦ちとせ艦長、第31護 衛隊司令、練習艦隊主席幕僚、呉地方総監部防衛部長等を歴任し、 昭和63年に定年退職(海将補)、 現在は防衛大学校海軍戦史の教授。

吉田邸焼失の報を聞いて(2009年4月)に追加
 吉田邸焼失5ヶ月前に行われた七賢堂例祭に、来年は神奈川県県に寄贈され管理権が移るので、内部などの公開も制限されるだろうと、吉田記念財団からの示唆もあり5年ぶりに参加した。
 大阪寿司を頂いたキッチンは改良され、応接室のソファーなども変えられていた。間違えて入った裏玄関や吉田総理が降りてきた階段は変わっていなかった。
 「2偕もどうぞ」と言われ総理の部屋を拝見したが、大きさは6畳くらいだったろうか、真ん中に座り机があり、その右側の袋戸棚の中には官邸との黒いダイヤル式の電話が隠されていた。

 「ここに座って国家の未来を考えていたのですね」と言うと、「座って良いですよ」と言われ写真を撮って戴いた。この写真を見ながら吉田総理のように国家の未来を考えたいと机の上に飾っている。なお、その下に「老いてなお 命の限り 国のため われ書き語らん 日の本の危機」という下手な和歌を書き込んでいる。(吉田邸焼失の報を聞いた2009年3月)