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ドイツ軍最後の砦を突破

ドイツ軍最後の砦を突破

 ブリエアで多大な死傷者を出した第442連隊は、多くの補充兵が投入された後、1945年4月、極秘でイタリアに戻った。ドイツ軍が9カ月かけて築いた北イタリアの防衛線「ゴシックライン」が、日系部隊が離れていた半年間、まったく前進していなかったため呼び戻されたのだ。「日系部隊が来たからには、1週間で突破できる」と期待された防衛線の砦モルゴリト山は、第442連隊の奇襲作戦によりわずか31分で陥落した。連合軍がゴシックラインを突破して半月後、ヒトラーが自殺し、翌月、ドイツ軍は降伏した。

【元日系兵士の証言】
「覚えているのは砲弾の嵐だけ」
■元第100大隊マサト・タカハシさん

 44年にマンザナーから志願しました。兄も志願して第442連隊にいましたし、家族は全員マンザナーの収容所にいたので、何とかしなければ、という思いがありました。私たちの部隊は、訓練期間をあと2週間残した段階で、急遽フランス線戦に行くことになりました。「失われた大隊」救出の後です。第100大隊の配属になりましたが、その時は人が足りないとしか知りませんでした。その頃前線に出ていたのはほとんどが補充兵で、初戦から参戦したハワイ兵は、数えるほどしか残っていませんでした。
 そこからイタリア線戦に行きゴシックライン攻撃に参戦しましたが、覚えていることと言えば、砲弾の嵐以外にありません。とにかくものすごい数の砲弾が打ち込まれました。その後、イタリアで終戦になりましたが、もう前進しなくていいんだという安堵が何よりも大きかったですね。

「家族は収容所の中で他に手段がなかった」

■元第442連隊テツオ・アサトさん

ハートマウンテン収容所から44年に徴兵されました。志願兵の募集が始まった時は17歳だったので、志願したかったのにできなかったんです。私の知る国はアメリカしかなかったので、徴兵されなくても戦争に行くつもりでした。開戦の翌日、FBIに連行された父も「分別のつく年なのだから、自分で決めればいい」と言ってくれました。
 私が参戦したのはブリエアの後で、イタリア線戦に向かいました。ドイツ軍に我々の動きを知られないために、移動する時は連隊記章を外すように指示されました。ゴシックラインは3000フィートの高地で、ドイツ軍最強の部隊が最後の砦として頂上を守っていました。3大隊が夜を徹して山を登り奇襲をかける作戦で、認識章など音を立てそうな物はすべて服に縫い付けました。何千人もの兵士が、どうやって物音1つ立てずに登れたのか、私にもわかりません。
 最初にワンプカプカが輝かしい戦功を立て、我々が後に続いたわけですが、やはり何かを証明しなければならないという思いが強かったのだと思います。だって我々が国のために戦っている時も、家族は収容所の中にいたわけですから。日系人の口ぐせは「仕方がない」でしたが、それはできることにベストを尽くそうということです。日系人の政治家もいなかった当時は、それ以外に手段がなかったのです。

前線からの手紙

国のために尽くし
犬死はしません

 日本語しか読み書きできない両親のために、兵士たちはつたない日本語を駆使して親へ便りをしたためた。ノボル・フジナカさんは3人兄弟の末っ子で、子供が生まれたばかりの長兄に代わって、2番目の兄とともに志願した。以下はフジナカさんが両親に宛てた手紙だ。
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 「長らく御無沙汰致してすいません。御父母様は如何ですか。(中略)僕は長いあいだ日本語をつかわないので今では頭をしぼりながら此の手紙を書いて居ます。僕もまださいさい日本語で御父母様に御手紙を書きとうはございましたが、なんと言ってもへたな僕ですからどうぞかんにんして下さい。(中略)御父母様、僕達の事は心配して下さるな。何事にも気をつけますから、どうぞ御安心下さいませ。かならず犬じにはしません。御母様のいったとおりしぬる事はだれでも出来ます。ほんとうのてがらはよく国のためにつくし、その上、いきてかえるのがてがらです。(中略)では、御父母様どうそ御体を大切にして下さい。(中略)僕達兄弟のことは御心配しないようにして下さい。出来るだけようじんをいたします。けしてつまらない事はしません。えんがあれば又僕達兄弟は御父母様のこいしきあいをうける事が出来ますでしょう。ではめでたい日まで。さようなら
こいしき登よりこいしき御父母様え」 (原文ママ)
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 フジナカさんは「失われた大隊」救出作戦2日目、ボージュの森の中で戦死した。23歳だった。

戦地の息子に捧げる
母の祈り

戦場で最期の言葉は
日本語で「お母さん」

 息子の無事を祈る母は、日々陰膳を備え、仏壇に拝みつつ、激励の手紙を書いた。毎日息子の足を洗うつもりで、石を2個風呂に持って入り、足を温めるつもりで石を布団に入れて寝たのは、元442連隊のミノル・キシャバさんの母だ。雨と雪が続いたブリエアでは、多くの兵士が足に凍傷を負っていった。
 元442連隊のサミュエル・ササイさんの母は、「星の旗をよく守りなさい。ササイの家に恥をかけることをしてはいけません」と書いて送った。戦死した兵士たちが今際のきわに絞り出した言葉は、ほとんどが日本語の「おかあさん…」だったという。

資料:「ブリエアの解放者たち」ドウス昌代著、「Japanese Eyes, American Heart」Hawaii Nikkei History Editorial Board編集