「くあ……」 大きな欠伸を一つ。 どうにも、俺は朝の電車に弱い。人のざわめきと、一定のリズムで揺れる車内と、ガタンゴトンと耳朶を打つ響きが、熟睡へと誘っているとしか考えられない。 「くすくす……」 隣でつり革に掴まっていた、桜ノ里学園の女子生徒に笑われる。いつも乗る最後部の車両で出会う、顔見知りの少女だ。いつ頃からか言葉を交わすようになったが、お互いに名前も知らない。 肩を覆うくらいの長さを持つ柔らかそうな髪、整った顔立ちの中でも、意思が強そうに見せる釣り目が印象的な少女だ。それに制服の上からでもわかる、平均以上あるであろう胸。 毎朝のことなのだが、彼女は車内の男性から注目を浴びている。何人かは彼女を見ながら幸せそうに微笑んでいたりする。素直に彼女の魅力は凄いな、と思ってしまうが、俺は『絵に描いた餅よりも、いくらランクが落ちようとも食える方がいい派』なので、彼女をそんな目で見たことはない。まあ、食べられるのなら食べてみたいと思ったことはあるけど。 「いや、電車の中って、こう、乗客を眠くさせるための罠がたくさんあるだろ?」 俺はアクビの言い訳を試みるが、悪戯っぽく彼女は訊いてくる。 「あら。いつも眠そうに欠伸しているのは、夜更かしではなくて電車のせいなんですか?」 「どっちかっつーと、早起きのせいだな……ふぁ〜」 俺は毎朝のジョギングを日課にしている。朝の5時に起きて、1時間ほど走るのだ。いい運動になるのだが、いかんせん睡眠不足は避けられない。家に帰ってからシャワーを浴びたり朝食を食べたりしているうちに登校時間となる。二度寝しようものなら間違いなく遅刻確定。最悪昼休みに登校などとという、重役出勤どころではない話になる。何度かやらかしているが。 そのため、俺は準備ができ次第朝一で登校し、教室で寝ることにしているのだ。これならば遅刻は避けられる。 登校時間には早いこの時刻の乗客は、学生よりも社会人の割合の方が多い。時間が早いおかげでラッシュ時の混雑が避けられるのは、早起きの数少ない利点の一つだ。 「早起きして、何をしているんですか?」 「んー……軽く運動なんぞを」 そろそろ眠気がピークに差しかかってきた。返答もおざなりになる。 『次は〜、桜ヶ丘〜桜ヶ丘〜。降り口〜、左側になりま〜す』 車内アナウンスで、もう少しだと自分を励ます。大きく伸びをして、また欠伸。 「早起きして運動なんて、スポーツがお好きなんですね」 「嫌いじゃあないな」 「それでしたら、何か運動部に入っているんですか?」 「いや。部に入ると、部活に出るのが義務っぽくなるだろ。それが嫌なんだわ。何より時間を部活のために削っていく、ってのが好きじゃない。ま、あちこちの部に、ちょくちょく混ぜてもらったりしてるんだけどな」 電車がブレーキをかけ、乗客が進行方向に傾ぐ。 『桜ヶ丘〜、桜ヶ丘〜』 アナウンスと同時にドアが開き、俺と彼女は電車から降りていく。俺の通う桜ノ宮高校は北口、彼女の通う桜ノ里学園は南口なので、ここでお別れだ。 「じゃあな」 「はい、また明日」 俺は手を振って。彼女は軽くお辞儀をして。 その場を別れた。 いつもの風景だ。 御園山市は、元々は何の特色のなかった町だったが、今では9つの大学がひしめく学園都市として、今もなお発展している。 市内にある大学のうち、半数以上である5校がこの桜ヶ丘に集中していることになる。それに加えて、私立合わせて高校5校も桜ヶ丘に建っており、学生の町として桜ヶ丘は多くの学生を歓迎していた。 大学の周囲には大学生向けのアパートやマンションが立ち並び、学生客を狙って各種店舗が軒を連ねている。 桜ヶ丘駅から徒歩10分ほどのところに、俺の通う桜ノ宮校があった。 キーンコーンカーンコーン―― 四時間目終了の合図であり、昼休み開始の合図である。 にもかかわらず、目の前では未だ教師が熱弁を奮っている。 一気に騒がしくなる校内。廊下からは我先にと購買へと駆け出す生徒の足音が響いている。楽しげな笑い声。なにを血迷ったのか、雄叫びを上げているどこぞの男子生徒。 それを、教室内の生徒全員が羨ましげに聞いている。と同時に、忌々しげに目の前への教師を見る。 小宮山剣。名前はツルギと呼び、教師内ではツルさんなどと平和な名で呼ばれているが、生徒の間での通称は暴君だ。痩身、細面で、小さな四角のふち無し眼鏡をかけている。一見神経質そうに見えるが、その印象は間違っていない。時間に正確で、始業のチャイムと同時に教室内に入ってくる。その割に、終業時間はよくオーヴァーするが。 恐ろしいことにこの暴君、自分の持っている権力を余すとこなく使う。権力とは即ち、成績の決定権である。 自分の意に添わない生徒は、ことごとく成績を下げていく。テストの点数以上に普段の授業態度を重視しているため、期末テストで満点取った生徒が通信簿で『2』をつけられた、なんて噂もまことしやかに囁かれているほどだ。しかも、授業態度が良いのがあたりまえ、という考えなので、テストの点が悪ければ当然成績も下がる。 ここで「もうチャイムが鳴ったので授業を終了してください」と意見しようものなら、魔太郎ノート――出席簿の他に、剣はチェック表を常に持ち歩いているが、誰がこんな名称をつけはじめたのかは不明――にそいつへのペケが一つ増えることになる。 しかも暴君は学年主任であり、生徒指導の教員でもある。はっきり言って、俺らの首根っこは全て暴君が掴んでいることになる。しかもなんらかの武術をやっているらしく、毎年3年生の一部が卒業式に暴君へお礼参りをしているらしいが、全員返り討ちにあい、しかも暴君にはかすり傷一つ残っていないとか。 はっきり言って、この学校で暴君に逆らえる奴は誰もいないのである。 「――では、本日の授業を終了する」 「起立!」 剣の言葉に、すぐさま日直が号令をかける。これができなくても、ペケが増えるのだ。 ざっ、と一糸乱れぬ、とまではいかないまでも、かなり統制された動きで生徒全員が立ちあがる。 「礼!」 やはり、綺麗に全員が礼をする。 「着席!」 全員が席についたところで満足そうに剣が頷き、 「よろしい。では、次の授業で会おう」 まるで鉄芯が入っているのではないか、というようなキビキビとした動きで教壇を降り、教室から去っていった。 それでも、教室内は静まったままだ。全員が黒板の上にある時計を凝視している。 5秒……10秒……15秒。 「はぁ〜」 15秒キッカリ。教室内の張り詰めていた空気が揺るんだ。 「やってらんねぇ〜」 「っそー、もう購買間に合わねぇ〜。今日は弁当買ってくんの忘れてたんだよなー」 「はー、もうやめて欲しいよね、暴君のアレ」 「時間くらい守れ、ってねぇ」 全員の暴君に対する愚痴がしばし教室内を満たす。これも毎度のことだ。 「あーあ」 俺はぐったりと机に寝そべり、ノートの上に頭を預けながら、クラスメートの愚痴に内心で「まったくだ」と同意しておく。 ようやく校内で孤立していた1−Bの教室が、校舎の騒然とした雰囲気に溶け込んだ。俺は鞄の中から登校途中にコンビニで買っておいた菓子パンや調理パン、100円のパックコーヒー牛乳を取り出す。 少し離れた席の女子生徒が振りかえり、俺の昼食を見るやいやらしい笑みを浮かべた。 「おっや〜? 山崎はまたパン食なの? そんなのばっかじゃ身体壊すわよ〜?」 「うっせえなあ」 ニヤニヤしながら寄ってきたのは、園山菜緒だ。なにかにつけて俺にちょっかいをかけてくる、運動神経のカタマリみたいな女である。セミロングの髪をポニーテールにしており、一応、可愛い部類に入る顔立ちで、表情が豊かだ。クラスメートは、こいつの性格を明るく元気、と評しているが、それは威勢がいいの間違いじゃないかと俺は思っている。スタイルも着痩せする質なのでわからないが、実は良い、らしい。どこかの女子が菜緒とそういった話をしており、その女子がどこぞの男子に話し、更にそこから又聞きした男子から聞いた話で、最初の女子が誰だか不明、という既に真偽が怪しくなっている情報だ。一見して、無い。両方とも。 「そんなことよりさ、今日はどうすんの?」 「何をどうするってんだよ」 「部活よ、部活」 「あー……どうすっかなあ」 菓子パンをビニール袋から出しながら、俺は天井を仰いだ。 俺はあちこちの運動部をほぼ日替わりで渡り歩いている。自覚している限りでも、俺は校内じゃ運動神経はいい方で、特に持久力に関しては、毎朝のジョギングが効いているのかトップクラスだ。ちなみに菜緒は陸上部である。 「しばらく陸上部に来てないじゃない。今日来なさいよ、今日。ついでに入っちゃいなさいよ。うん、それいい案ね! そうだろ? あたしもそう思っていたとこなのよ。よし、けってーい」 「……何を一人二役で小芝居うってる」 「うっ」 胸を押さえて、菜緒がよろめく。 「山崎に冷静に突っ込まれた――結構痛い、かも」 「何気に失礼なことを言われている気がしないでもないな」 俺が半眼で菜緒を見ると、慌てて話題を変えた。 「そんなことよりさ、陸上部に入ってよー。一緒に走ろうよー。山崎だって走るの好きじゃーん。楽しいよー?」 今度は、だだっこのように俺の左腕を掴んで左右に揺する。俺は空いてる右腕で菓子パンを口に持っていきながら、くぐもった声で告げる。 「もう廃部の危機は去ったんだろ? だったら俺が入らなくったっていいじゃねえか」 桜ノ宮高校の陸上部は弱小で、部員も少なく、前年度までは知名度も低かった。男女合同の部にしてなんとか保っていたそうだが、今年の新入部員は菜緒ともう1人の男子しかいなかった。2年は1人。3年生は5人いたのだが、後期で部員として数に入らなくなるため、前期の約半年で部員を5人以上にするか、陸上部として結果を出さなければいけなかった。 結論としては、今も陸上部は存続している。目の前のこの女が、200メートル、10000メートル、走り幅跳びにおいて、インターハイ出場をしたからだ。実は他のメートル走全てに登録して、実際二回戦までは全部勝ちぬいていたらしいが、さすがに体力が続かなかったらしく、途中で上の種目のみに勝ちを絞ったらしい。 どうして全メートル走走破などという無茶をしたのか。菜緒曰く「とりあえず全部やるだけやっておけば、どれか一つくらいは勝てるかもしれないでしょ」というのだから、頭が悪すぎるとしか言いようがない。 そこで一躍名を馳せた陸上部は部員獲得に菜緒を担ぎ上げた。彼女の容姿と太ももに下心を刺激された多数の男子が幽霊部員として名簿に名を連ね、今では部員数だけなら校内五指に入る大所帯となっている。 陸上部の名誉のために言っておくが、もちろん真面目に部活をしようと入った男女も多く入部した。単純計算で5倍の15人になっている。 「だってー。あたしと張り合えるのなんて、部内じゃあんたくらいしかいないんだもん。1人で走るのつまんないよー、ねえー、一緒に走ろうよー」 「部内って、俺は部員じゃねえし」 「ちっ」 「……いや、マジで揚げ足とろうとしてたのか、お前」 俺がかなり本気の哀れみと呆れの混じった目で見ると。 「冗談に決まってるじゃない。あんたに合わせてあげてるのよ」 は、と鼻で笑われた。蔑んだ目で俺をを見ている。 「ぐ……」 これはこれで、かなりムカツくものがある。 「ちょおおおっと待ったぁ! マイシスター菜緒!」 と、男子生徒が二人、菜緒を挟むように腕組みして立ちはだかった。 「相馬に牧原……」 菜緒が痛そうに頭を押さえて顔を顰めた。 いや、多分絶対に痛くなってるはずだ。俺も痛いし。 一人は刈り上げた短い髪を脱色し、腕や首元にシルバーアクセサリーをチャラチャラぶら下げている中肉中背の男子。彼は相馬寛一。 もう一人は年齢別全国平均を大きく上回っているというか、成人男性の平均をかなり上回っているというか、むしろ平均値を上げるのに大貢献していそうな、まあ一言で言ってしまえば丸い男子生徒。彼が牧原進吾である。 「マイブラザー拓真は、本日11月11日(火)、我々と遊ぶことになっているのだっ!」 「大人しく引き下がればそれでよし、さもなくば――」 「さもなくば……どうするっていうのよ」 寛一のテンションの高さに少々押されながら、菜緒が聞き返す。 「下着を差し出せば拓真のことは諦めぐっはぁぁぁぁぁぁぁっ!」 台詞の途中で顔面をグーで殴られた相馬は、そこらにあった机や椅子を巻きこんでふっとんでいった。 「ど、同志寛一!?」 慌てる進吾もおかまいなしに、菜緒は顔を赤くしながら悶絶している相馬を怒鳴りつける。 「変なこと大声で叫んでんじゃないわよ! 頭おかしいんじゃないの!?」 「ぐ……心が吐き出す想いをそのまま吐露して、どこをどうして頭がおかしいと言う……」 一撃で満身創痍になりながらも、なんとか立ちあがる寛一。 「園山」 と、真剣な顔つきで菜緒を見た。 「な……なによ」 「染みがついてるのが恥ずかしいのか? 大丈夫だ、むしろ俺的には好感度150%アップヒュァァァァァァァ……」 全力ダッシュで寛一に詰め寄った菜緒が、股間を力一杯蹴り上げた。寛一の悲鳴も呼吸が抜けるような力無いものだったが、無理もない。その瞬間を見ていた、少なくとも俺の視界に映っていた男子は、インパクトの瞬間、同時に身体を震わせていた。 「えぐい……」 誰かが、そう呟いた。自然と、俺を含めた男子数人が首を縦に振る。 そうしている間も、菜緒の攻勢は止まっていない。ぐったりと横に倒れている寛一の鳩尾をトゥキックで蹴り上げ、更には全身にスタンピングの嵐。 「お、おい、さすがに死ぬんじゃないか……?」 恥ずかしさかそれとも激しく身体を動かしたからか、顔を真っ赤にした菜緒がようやく動きを止め、ゆっくりと振り向いた。 「……ふん」 ピクリとも動かない寛一には見向きもせずに、菜緒はこちらに戻ってくる。 「ど、同志寛一!」 入れ替わりに、進吾が小走りに寛一を介抱に向かおうとする。 が。 「助けたら駄目よ。あれくらいしないと反省しないんだから。……いい?」 「アイ・アイ・マム!」 ビシッ、と敬礼して、進吾は菜緒の後をついて戻ってくる。 うん、お前は長生きをしないと駄目だ。犠牲となった寛一のためにも。 戻ってきて俺の前の席に座る菜緒に、俺は控えめに意見する。 「さすがに、今のはやりすぎなんじゃ――」 キッ 睨まれた。瞳には涙が滲んでいる。 「はぁ……」 俺は思わず嘆息する。まったく。泣くほど恥ずかしいほどのもんでもないだろうに。 「相変わらずその手の話題に弱いよな、お前」 「うるっさいわね。ほんっと、信じらんない。3バカが揃うとろくなことが無いわ」 「3バカ?」 「相馬と、牧原と」 ピッと俺に人差し指の先が向く。 「は? 俺かよ!? 俺まであいつらと一括りにしないでもらいたいぞ」 「そうだ! 3バカではないぞ!」 進吾が大きく頷いた。 「我らは3バカではない!」 「ああ、言ってやれ。俺は――」 「3バカではない……そう、我らはボンクラーズだーっ!」 「そう、ボンクラー……って、おい?」 聞き慣れない言葉に、俺は怪訝そうに進吾を見た。だが、進吾は、 「ボンクラーズじゃねぇーっ!」 一瞬前に自分で言った内容を否定しながら、一人で奇妙な踊りを踊るのに忙しそうだった。菜緒は進吾を完璧スルーで話を続ける。 「だって、山崎くらいじゃない? この二人を相手に、まともに意思疎通できてるのって」 踊っている進吾を指差しながら、菜緒がとんでもないことを言う。 「俺だって寛一の嗜好はあんま理解できないし、進吾の言ってることの半分以上は分かってねえんだぞ」 「でも、なんだかんだいって3人で一緒にいること多いじゃない」 「う……まあな」 付き合っていると心身ともにエネルギーを吸収されてこいつらの活動力になってるんじゃないか、っていうぐらいに時間経過に比例してテンションの差が大きくなっていくのだが、少なくとも悪い奴らではない。それに、一緒にいるとそれはそれで楽しい連中ではあるのだ。 「…………!」 はっとする。 楽しいってことは、それなりに俺も感化されてるってことか? ……嫌だ。なんだかとてつもなく嫌だ。人として。 「ふう、いい汗かいたぞ」 いつの間にか踊りをやめていた進吾は、なんだかサッパリした顔つきで額の汗をハンカチで拭いつつ、横の席に座った。 「いや……それはあまり健全ではない汗のような気が」 まあ、せめてこうして突っ込みは入れておくのが最後のラインを越えていない証拠だとしよう。この二人から突っ込みどころを見つけられなかったときが、俺の最後だ。色々な意味で。 「そういうわけで、今日はパスだ」 「なにが――って、ああ、陸上部の話ね。……ほら、なんだかんだ言って付き合いいいじゃない」 少し不機嫌そうに、菜緒。 「仕方ねえだろ。約束してあったのはほんとなんだし」 やれやれ、と菜緒が軽く肩を竦めた瞬間、最後のあがきをした男がいた。 「う……進吾……拓真……」 呼ばれた方を見ると、横になったまま虚ろな瞳でこちらを見ている寛一の姿があった。本当に今にも息を引き取りそうな弱々しい雰囲気が、無意味に生々しくてなんか嫌だ。 「か、寛一っ!?」 ガタン、と音を立てて椅子から立ちあがる進吾。だが、駆け寄ったりはしない。先程の菜緒の命令が今も有効であるのは、彼女の厳しい目つきを見れば一目瞭然だからだ。もちろん、誰も寛一には近づこうともしない。こっちは菜緒が恐いというよりも『これで少しは反省しろ、バカ』ということなのだろう。 「どうした? 何か言いたい言葉があるのか?」 「う……あ……」 弱々しく左腕を宙に持ち上げ、何かを掴もうとするが、その腕は何も掴めぬまま床にくたりと落ちる。 「寛一っ! しっかりしろ! 寝たら最後だぞ! わかっているのか!?」 「ぐ……」 進吾の言葉に励まされてか、弱々しいながらもしっかりとした口調で、寛一は言葉を紡ぐ。 「青と白……の、ストライプ……。縞はいいぞ、縞は……」 それだけ言って、寛一は動かなくなる。満足げな微笑のままで。 「寛一……っ」 くっ、と小さくうめくと、進吾は目許に浮かんだ涙を拭って寛一へと親指を突き立てた。 「Good Job!」 無駄に完璧な発音だった。 その瞬間、静かに、それこそ音もたてずに菜緒がゆっくりと席を立った。 一歩一歩、ゆっくりと、無表情で寛一へと歩み寄っていく。その姿は、まさに死神。確実に死者の魂を狩るために、巨大な鎌を持った死神が近づいていく。 そして、立ち止まる。息を引き取った寛一の真ん前で。 「遺言は、今のでいいわね」 腰に手を当て、ふっ、と遠くを見る。 「くだらない遺言だったわね」 「…………」 死体が震えだした。 表情は遠くからもはっきりとわかるほどに青ざめているが、気のせいだろう。元々あんな色だ。死体だし。というか、これから死体になるのか。 今の寸劇とリアルな現在進行形での死刑執行と、どっちを基準にすればいいのか悩んでいると。 「さようなら、相馬くん。机に飾る菊の花は、あたしが世話してあげるわ」 カタカタカタカタ 音が出るほどに、寛一の身体は震えていた。というよりも、あれは痙攣に近い。 「ぴ」 変な声を出して、寛一の痙攣は止まった。 ひょっとして――恐怖のあまり失神したんじゃないのか? ……マジで? まあ、これから始まる殺戮ショーを経験している記憶が無いのは、幸せなことだろう。いや、前回菜緒から受けた拷問の記憶が蘇って気絶したのか? 後で本人に聞いてみるか。 もちろん、気絶ぐらいで情状酌量の余地を認めるほど、菜緒は慈悲深くない。 無情にも、死神の鎌は振り下ろされる。 「あの世で一生後悔してこぉぉぉぉぉぉぉぉい!」 どこか遠くでゴングの音を聞いた気がした。 一発一発、重い一撃が丹念に寛一の急所を貫いていく。 鈍く、くぐもった打撃音が教室を満たしている中、ようやく生徒の注意が菜緒達から離れていく。この辺のオチは毎度のことだから、皆も見飽きているのだろう。実際、俺も慣れたもので、 「おーい、保険委員は後で寛一を保健室に連れて行けよー」 教室内に声をかけ、まだ残っているパンやコーヒー牛乳を持って、教室から出ていった。 さすがに公開私刑を見ながら食事ができるほど、俺は神経太くない。 毎日とは言わないが、これも普段の風景だ。 「ああ、そうか」 教室から出て中庭に下りた頃、俺はようやく遺言の意味に気付いた。 「パンツか」 そりゃあ菜緒もキレるわ。寛一の奴――なんて無謀な。 俺はそっと寛一の冥福を祈った。 放課後。 今日は進吾の家でダラッと遊ぶことになっていたため、俺達3人は徒歩で牧原家へ歩いていた。ちなみに桜ノ宮校では自転車通学を認めておらず、学校から家が離れている生徒はバスか電車通学を余儀なくされる。学校近くまで自転車を使っている生徒は結構多いのだが、今のところは黙認されている。 進吾は学校から徒歩圏内で、寛一はバス通学をしている。そのため誰かの家に集まるといった用事があるときは、寛一の家がよく使われるのだ。 「いやあ……保健室で目が覚めてから、なんか頭の中がおかしいんだ」 進吾の家へ向かう途中、寛一がしきりに頭を振っていたので理由を訊いてみたところ、そんなことを言い出した。 「なんていうか、頭の中に小さなネジが一本落ちてる感じ? 頭振るたびにカラカラいうんだよ。おっかしいなあ」 寛一は頭をトントンと叩きながら、しきりに首を捻っている。 「……お前、マジで病院行った方がいいぞ」 冷や汗を垂らしながら、本気で忠告する。 不幸中の幸いは、暴虐の限りを尽くされたわりに外傷は湿布2枚とカットバン1枚で手当てが済んだことと、気絶していたおかげで暴行されたの記憶が残っていないことか。 内傷、とくに脳に関しては、これ以上致命的になられても困る。 「うむ、それは我輩も同意するぞ、マイブラザー寛一」 腕組みして、頷く進吾。ふと、以前からの疑問が頭をよぎる。 「……なあ、進吾」 「うん? 何かね、マイブラザー拓真」 「前から思ってたんだけどな、そのマイブラザーとか同志ってのは何だ? 兄弟がどうのという意味じゃなくて、その口調全般の話なんだけどな」 まだ入学して間もない頃は、進吾も普通の一学生だった。どちらかというと、大人しい感じであまり自分から輪に入らないタイプだったように記憶している。それが、いつ頃からか喋り方が今のように大仰になり、良い意味でも悪い意味でも元気になってしまったのだ。 「ふむ、これはだね、我が心の師を真似ているのだよ」 ふふん、と自慢げに口元を歪める進吾。いや、別に羨ましくないし。 「彼こそはオタクの鏡! 日本全国7300万人のオタクの頂点、キング・オブ・オタク! あの威風 堂々たる態度に我輩は心底感動したのだよ! そう、自分が好きなことをするのに、何をためらう必要があるのかと! 収集し、鑑賞し、萌へる! 我輩が突き進む道を選べるのは我輩のみ! ならば往こう、我が道は覇道への道! 我輩は宣言する! ありとあらゆる艱難辛苦を乗り越えて、必ずや頂点を掴み取ろうと!」 「……日本国民の約半分がオタクかい」 「……覇道もいいけど、それ以前に羞恥心は忘れちゃいけないと思うぞ」 示し合わせたかのように、俺と寛一は道端で演説を始めた進吾から早足で離れていく。こいつの仲間だと思われては大変だ。下手すると警察沙汰か、黄色い救急車のお世話になってしまう。 「おっ」 「ん?」 寛一は小さく声を発したやいなや、走り出していた。 どうしたんだ? と思う間もなく止まり、前方に立っていた女性に声をかけていた。 「――あいつはあいつで病気だしな」 俺は頭を押さえながら嘆息混じりに呟いた。 本人曰く「一定レベル以上のクオリティを持つ女性には男として声をかけないのは失礼じゃないか」だそうだ。詳しく聞くと「男性としての本能がウンヌンカンヌン(以下略)」ということで、長ったらしい講釈の必要もなく、寛一はただひたすらに女好きなナンパ師なのである。 精神的疲労を嘆息と共に吐き出し、俺はゆっくりと歩きながら近づいていく。それにつれて、女性の風貌がはっきりと見えてくる。褐色の肌に、長い髪を大きく三つ網にして肩にかけるように垂らしていた。光の加減で髪が紫色に輝いて見える。年齢は、俺と同年代くらいだろうか。目鼻のつくりが日本人に比べてはっきりしている。 彼女は大きな紙袋を2つ抱えており、メモを片手に寛一と楽しげに会話していた。だが、問題は、彼女と意思疎通が通じているのかどうかが問題だ。 ふと、今年の夏休みの一幕を思い出した。 8月のある日曜のことだ。寛一の巻き添えになってドイツ人の女性をナンパしたのだが、言葉がわからないままに寛一が適当に相槌を打っているうちに、何を勘違いされたのか女性に1週間ほど連れ回されて、日本全国名所巡りの旅をしたことがあったのだ。もちろん夜は彼女の予約したホテルに泊まった。 途中からは俺も開き直って旅行を楽しんでいたし、彼女が国に帰ることになった頃には互いに別れを惜しんだものだが、一歩間違えてたらどんな事件になっていたか、今思い返してもゾッとする。 寛一はその件に関しては一切反省していない。そういった次元を跳躍していて、美人ならば見ず知らずの人間にでも連れまわされたいと思っている猛者なのだ。 「よう、彼女、どうしたって?」 寛一の肩を叩いて訊く。 「ああ、桜ヶ丘駅に行く道がわからなくて迷ってたみたいなんだ」 「こんにちは、はじめまして」 「こんちわ」 かなり完璧な日本語だ。俺は会釈しながらほっと胸を撫で下ろす。 「パウさん、こいつが俺の友人、山崎拓真。拓真、この方はパウ・ライナバルトさん。アメリカから我らが学び舎、桜ノ宮に留学生として転入する予定なのだそうだ。いやー、こんな美しい方と同じ学校に通えるなんて、俺は幸せものだなあ」 言葉の後半は、彼女に向けて発した言葉だ。対してライナバルトは、くすくすと口に手を当てて笑っている。 「そんなことは無いのレすよ。私もこんなに早く学校のお友達がレきて嬉しいのレす」 微妙に言葉使いが変だが、ま、これも愛嬌ってとこか。日本語のレベルも意思疎通には充分だし、問題はない。 「で、駅だっけ? 駅なら、この道をしばらく真っ直ぐ行って――」 このままでは寛一が彼女を駅まで送ってしまう流れになる予感がしたので、さっさと道を教えてやることにする。彼女が持っていたメモを見せてもらうが、そこに描いてあった地図は完璧で、逆にどうすれば道に迷えるのか不思議なくらいだった。 「不安だったら、俺が駅みゃっ!」 脇腹に肘を突き込んで、寛一の言葉を遮る。こいつは本当に一度反省させないといけない。問題は、暴力に頼っても寛一はなんだかんだいって決して暴力には屈しないところか。 「それじゃ、またな。同じ学校になるんなら、そのうち顔を合わすだろ」 「はい。よろしくお願いします。……寛一さんは、このままで良いのレすか?」 脇腹を押さえてふるふると震えている寛一を心配そうに伺っている彼女に、俺はおざなりに手を振った。 「あー、いいのいいの。いつものことだから」 本当にいつものことなので、頭が痛くなるのだ。 「ありがとうございました。それレは、失礼します」 ぺこりとお辞儀をして、ライナバルトは俺達の横を通りすぎていった。 そういえば、彼女が向かう先には―― 「あっちゃー、やっぱりか」 未だトランス状態で道の真ん中に仁王立ちしている進吾とライナバルトが遭遇した。 ライナバルトは進吾を見るや、ぎょっとした様子で硬直、しばらく動かなかった。やがて、道の端っこに寄ると、まるで猛獣を刺激しないようにといった感じで、そろそろと横を通りぬけていく。その後、ちらちらと進吾を盗み見ながら小走りに去っていった。 「ああ……日本の恥部を見せた気分だ……」 俺はガックリと肩を落としながら、その恥部を始末するために道を戻り始めた。 「で、これが?」 「そう! 我輩の心の師である!」 ディスプレイには、緑髪の眼鏡を掛けた青年のグラフィックが映っていた。 確かに、進吾の大仰な態度や演劇のような台詞まわしは、このキャラクターに通じるものがある。いや、このキャラクターが進吾のオリジナルなのか。 進吾は手早くゲームを終了させると、パソコンから取り出したCD−ROMをケースに入れ、俺に手渡した。 「というわけで、プレイしたまえ。もれなくこちら側への扉が開くぞ」 「開きたくないなあ……」 「暇があったらでいいからプレイしてみてくれ。悪い作品ではない故」 借りるだけ借りておくか、という軽い気持ちで、俺はゲームを受け取り鞄にしまった。 そうしたわけで、俺達は進吾の部屋にいる。 壁を埋め尽くさんとするアニメやゲームのポスター。本棚にずらっと並ぶ漫画と小説、DVDケース。最近発売されたゲーム機は全部揃っているという、時間を潰す材料には事欠かないのが進吾の部屋なのである。 「そうだ。ゲームといえば――」 進吾は机の横にあった引出しを開け、中にびっしりと詰まっているCDケースの中から、2枚のCDケースを取り出した。 「マイブラザー拓真にはこれも貸そう」 にやり、と深みのある笑みを浮かべる。 「これは?」 「エロゲーだよ、同志」 直球だな、おい。 「何を疲れた顔をしている。ちなみに先程貸したゲームもエロゲーだぞ」 「……そうか」 いや、いいんだ。そういう奴だっていうのは、前から知っていたことだ。 「これはな、ただのエロゲーではないぞ。我輩が激しく推奨するほどのエロゲーだ。エロエロだぞ?」 その一言で、突っ返そうとしていた腕の動きが止まってしまった。 「……ふむ」 カタカナ四文字だけで、心が揺らいでしまった自分が悲しい。 「なにがどうしたって?」 漫画を読んでいた寛一が、先程の単語に反応してこちらに興味を示した。 「いやな、同志寛一。ゲームの話なのだが……猛烈にエロエロなのだよ」 「なに? エロエロだと? いかんなあ――よし、これは先生が没収しよう」 俺は延びてきた腕からCDケースを遠ざける。 「寛一。俺が先に借りようとしていたんだぞ?」 「同志拓真は興味無さそうにしていたではないか」 「……てめえ、さっき殴ったのまだ根に持ってるな!? ちょっと痣になったくらいで女々しい奴!」 「お前こそ、普段から女に興味ありませんって態度のくせに、なんでエロゲーだと反応しているんだよ! ひょっとしてあれか? 二次元フェチか?」 「違う! 俺は彼女になる女にしか興味ないんだよ。それ以外は全部美術館の絵と同じで、ただ見るだけで触れられないもんだから、気にしたってしょうがないだろうが」 「ふっ、大人しく認めたまえ。貴様は空想の女性にしか萌えられないと!」 「どさくさにまぎれてふざけたこと抜かすな! あ、寛一、くそっ、話してる途中に卑怯だぞ! 返せこのっ」 「くっ、いい加減諦めて俺に貸せっ」 「やれやれ……二人とも見苦しいな。いや、むしろ憐れ?」 「なに蚊帳の外で観戦してやがる!」 「この手のゲーム軽く三桁超えて持っている奴に、そんな態度を取る資格は無いぞっ!」 「こんにちはーっ!」 「「「!?」」」 絶対にその場にあってはならない声に、3人の動きはピタリと止まった。 ギリギリと音でも出そうな鈍い動きで、それぞれが声のした方向へ顔を向ける。 「何度もノックしたけど、返事が無いから勝手に入っちゃった」 そこには想像通り、進吾の妹、雪美ちゃんが立っていた。 丈の長いセーターがスカートの半ばまで覆っており、スカートの先からは黒いタイツがのぞいている。彼女の長い髪は見る度に毎回形を変えているが、今日の髪型はツインテールのようだ。切れ長の細い眼をしており、顔の作りが全体的に丁寧だ。俺の知っている女性の中で、最も綺麗になることを期待させるものを持っている。成長すれば、毎朝電車で合う例の桜ノ里学園の彼女を超える美貌になるのも確実だろう。だが、それも将来の話で、今は少女特有のあどけなさの残る顔立ちで――というよりも、年齢的にあどけなさ真っ只中なのだから、残っているのも当然か。 ああ、動揺してる動揺してる。落ちつけ、俺。 「雪……美、ちゃん――」 一番最初に立ち直った俺が、なんとかそれだけを言って、心を落ちつかせる。まだ大丈夫だ。まだ、最悪の結果が出たわけじゃあない。 俺はゆっくりと深呼吸をした後、未だ硬直から抜けきっていない2人の代わりに質問する。 「――いつから……そこにいた?」 「え……と」 彼女は俺から目を逸らし、宙をさ迷わせた後、床を見て、恥ずかしそうに微笑んだ。 「大丈夫だよ。雪美、男の人ってそういうものだって知ってるから」 「「「うわああああああああっ!?」」」 弾かれたようにそれぞれがその場で頭を抱え、身悶えする。 やっちまった。 やっちゃあいけない事をやっちまったよ。 真っ白な布に墨を垂らしてしまったような罪悪感に胸を締め付けられる。 それどころか、5歳も6歳も離れている女の子にフォロー入れられる俺らって……。 ああ、天国のお母さん。あなたの息子はいたいけな少女を強引に大人の階段を昇らせるようなことをしています―― 「こういう風に言ってみな、ってお母さんに言われたけど、どういう意味?」 「え」 なんだって? 言いなさいと言われた? つまり、彼女の言葉じゃあない? 雪美ちゃんは何もわかっていない? つまり、すると、要するに―― 問 題 な し 「神よ……!」 俺はこの瞬間、本気で神に感謝した。 あんたすげーよ偉大だよ皆から拝まれてるだけあるよこれからはもう少し信心深くなるよ。 「ふ――ふう。嫌だな父さん、茶目っ気120パーセントじゃないか」 まだ動揺がありありと残っている進吾は、言ってる言葉はともかく、態度がかなり挙動不審だ。バレているのではないかと不安そうである。 「いやー、参ったよ。雪美ちゃんに一本取られちゃったなあ」 寛一は冷や汗を拭いながら雪美ちゃんに笑いかけているが、普段の女性に対するような下心は見えない。彼女の年齢では寛一の守備範囲外らしい。 「雪美ちゃんはきっと将来は男を手玉に取る悪女になるぞ〜」 「ど、同志寛一! 我が妹に余計な言葉を吹きこむなっ!」 慌てた進吾が、口封じに飛びかかった。というよりも、これはボディプレスの体勢か。 ……マジで洒落にならないかも。 100キロを超える物質が、万有引力の法則に従って落ちていく。ついでに言うと重力加速度もあるからその威力は想像のやや斜め上を行く。悪い方向に。 「――あ」 泣きそうな、半笑いの寛一と目が合った。俺が小さく頷くと、辛そうに顔を歪める。 ほんの一瞬の間に、そんなやり取りをして。 俺は寛一の断末魔を聞いた。 たまにはこんな風景もある。 「じゃ、俺帰るわ」 ドアを開け、最後に振りかえって部屋に残っている二人を見る。 「うーん、うーん。マウンテンがー、マウンテンデューがー。落ちてくるよー、落ちてくるんだよー。重いの恐いよー。窓から落とされるのも恐いんだよー」 ベッドに寝かされている寛一は、しくしくと涙を流しながらうなされていた。どうやらボディプレスの恐怖が菜緒に刻まれた心の傷を開いてしまったらしく、先程からあの調子なのだ。 ――と、いうことになっている。 「しっかりしろ、マイブラザー寛一! 傷は浅いぞ!」 進吾が必至になだめていたが、効果は薄い。 「まあ……ほどほどにな?」 俺が寛一の顔を見ると、一瞬だけ口元を歪めたのが見えた。進吾は気付いていない。 確かに、あのボディープレスは凶悪だった。多少の仕返しをしたくなる気持ちも理解できる。 ちなみに例のゲームは俺の鞄の中にある。寛一と無言の取引をしたのだ。 寛一の仮病? にいち早く気付いた俺だったが、寛一の「ゲームは譲るから黙っていろ」というアイコンタクトに、頷いてしまったためだ。 進吾には悪いが、寛一について話すことは何もない。 やれやれと肩を竦めて、俺はドアを閉める。と同時に廊下の奥にあるドアが開いた。 「山崎さん、もう帰っちゃうの?」 自室から出てきた雪美ちゃんが、近づきながら訊いてくる。 「ああ。あんまり長居するのは悪いからな」 「えー、一緒にご飯食べようよ〜」 「そんなわけにもいかないって」 俺や寛一が遅くまで遊んでいると、ここの家では夕食をご馳走してくれるのだ。何度も牧原一家の食卓に加わって、団欒していたりする。 だが、あまり気を遣わせるのも悪いので、俺はできるだけ夕食前の時間前に帰ることにしている。 夕食が用意されるのも、俺達が進吾の友達だからであって、来客ならば誰にでも夕食を振舞うわけではない。それも俺達に、というよりも進吾に気を遣ってのことだ。 進吾と雪美の血は繋がっていない。雪美ちゃんは、進吾の親父さんが再婚したお袋さんの連れ子なのだ。再婚したのが3ヶ月前の話で、まだ時間が足りないのもあってか、進吾とお袋さんの仲はギクシャクしていた。 余計なお世話と考えつつも、俺と寛一は用を無理矢理作っては、進吾の家を訪れている。やはり、進吾一人で家にいるのと俺達と一緒にいるのとじゃ、違うものがあると考えてのことだ。 「毎回お袋さんに余計な手間をかけさせるのも悪いしな。俺もさすがに気が引ける」 「そんなに気を遣わなくてもいいのに。しょうがないなあ、じゃ、今回は諦めてあげる」 大人ぶって告げる雪美ちゃんの態度が微笑ましい。 多分俺達よりも、進吾にとっては雪美ちゃんの方が心の拠り所になっている。それは頼るという意味ではなく、支えという意味でだ。彼女がいるからこそ、頑張ろうという気持ちを挫けずに持ち続けていられるのだろう。 俺だったら――少なくとも俺だったら、見知らぬ女が突然母親代わりにやってきても仲良くできる自信は無い。 事実、出来なかった。 そのせいもあってか、進吾には頑張ってもらいたいと思っているのだが、これは俺の独り善がりなんだろう。 階段を降りていき、玄関で靴を履く。雪美ちゃんはサンダルを履いている。 「お邪魔しました」 リビングにいるであろうお袋さんに声をかけ、俺は玄関を出た。 「お邪魔しましたー」 雪美ちゃんがニコニコと笑いながら言って、俺の後について出て来る。 さすがにこの時期、6時を過ぎると外は真っ暗だ。街灯、家々から漏れる明かりと、玄関前を照らしている照明が、昼にあった風景の部分部分を浮かびあがらせている。 「じゃあね、バイバイ」 玄関前で立ち止まり、雪美ちゃんは小さく手を振ってきた。 俺も応えてじゃあな、と手を挙げようとして、止める。 「あー……あのな、進吾とお袋さんのこと、よろしく頼むな?」 この言葉の意味がわからないほど、彼女は子供ではない。それに子供だからといって、何もしないことを許されるわけではない。特にこれは彼女にも深く関わってくる問題なのだ。多少難しかろうとも、何もやらずに後悔するよりはマシというものではないだろうか。 俺が余計な世話を焼き続けるのは、何度も後悔したからだ。 彼女はパチパチと目を瞬かせたあと、力強く頷いた。 「うん! 任せて!」 ビッ、とVサインを出してくる。 「その意気や良し!」 俺は握りこぶしを作って、Vサインに応えた。 今度こそじゃあな、と手を振って歩き――出そうとして、止まる。 「言っておくけど、今の話は内緒だからな。誰にも言うなよ」 「わかってるよ。ナイショナイショのナイショ話ね」 雪美ちゃんは人差し指を唇に当てながら「しぃっ」というポーズを決め、ウィンク。 「なんだそりゃ」 俺は笑って歩き出した。 「じゃあな」 背中越しに、ドアが閉まる音を聞いた。雪美ちゃんが家の中に戻ったのだろう。 途端に、周囲から人の気配が消え失せた。住宅街には、俺以外に人の姿が無い。 誰もいない。 自分一人しかいないと思うと、途端にこの風景が映画のセットか書割か、とにかく俺が見ている風景は全て偽者の作り物に感じられてしまう。そんな馬鹿なことがあるわけないのだが、時々外で一人になってしまった瞬間に、俺は世界に一人ぼっちの人間ではないかと思えてしまい、むしょうに人恋しくなる。 牧原家を出て最初の曲がり角を過ぎたところで、正面に人影が一つ見えた。公道なのだから人がいて当然のことなのだが、ほっとしてしまう。直後、ほっとした自分に苦笑。 向こうからこちらへと歩いてきた人が、ちょうど街灯の下に入り、闇に紛れていた姿がはっきりと認識される。 「はぁ!?」 その人影が、見知った人影で、それもここにいるはずの無い人物だったりしたために、俺はちょっと驚いてしまった。 向こうもこちらに気付いたようで、いままで暗い表情だったのを笑顔に変えて近づいてくる。 「これくらい暗いと、こんばんはレすね、山崎さん」 「そうだけどな……」 昼に会ったときと同じ服装、同じ大きな紙袋を持ったライナバルトがそこにいた。 まさか、とは思う。 そんな馬鹿な、と考える。 ただ、予感はあった。 「一応、念のため、違うと思うんだが、確認させてくれ」 道案内をした時に見た、彼女が持っていたメモ。迷う方が難しいというような、駅から目的地までの道のりと詳細な記載のされた地図が描かれていた。 にも関わらず、最初に出会った時、彼女は迷っていたのだ。 「――あれから、今まで?」 疑問をぶつけるのに、述語は必要なかった。 彼女は笑顔をみるみる曇らせていき、泣きそうな顔で俯いてしまった。 それだけで、俺の予感は的中したことを意味した。 「初めて行く場所レは、必ず迷ってしまうのレす」 「それにしたって、限度ってもんが……いや、別に責めるつもりはないんだけどな」 なんだか説教しているような気分になって、俺は言葉を切った。ライナバルトが俺の言葉で辛そうに顔を歪めている様は、端から見ている分には責めているようにしか見えないだろう。 ……まいったな。 俺は頭を掻きながら嘆息した。ここまで筋金入りの方向オンチだったのならば、あの時寛一の脇腹へ肘を突きこまず、素直に駅まで案内してやれば良かった。 確か会ったときが4時前で、今が6時過ぎだ。かれこれ丸2時間は放浪していることになる。ライナバルトも好き好んで道に迷っていたわけではないだろう。そう考えると、さすがに可哀想になってくる。 どうせ俺も帰るのには電車を使うのだし―― 「なあ、ライナバルト。俺も桜ヶ丘駅に行くんだけどな、よかったら一緒に行かないか?」 そう言った瞬間の、ライナバルトの絶望から歓喜への表情の移り変わりは、なかなかの見物だった。 「本当なのレすか?」 「こんなことで嘘つかねえって」 「ありがとうございます!」 ライナバルトは俺の手を握って、ぶんぶんと振りまわした。大袈裟だな、と思いつつも、感謝されるのは悪くない気分だ。 「本当に、本当にありがとうございます。とても嬉しいのレすよ。なんとお詫びをすれば良いか、言葉では言い尽くせないのレす」 「いや、詫びられても」 日本語の使い方が微妙に怪しいが、気にしないでおこう。 「まあ、いいか。行こうか」 「はい」 ライナバルトの返事を訊いて、俺は歩き出した。 お互い反対方向に向かって。 「ちょっと待てぇぇぇぇぇぇぇぇぇい!」 すぐさま立ち止まり、俺はライナバルトをツッコんだ。 静かな住宅街に、俺の絶叫が響き渡る。 「どうしたのレすか?」 果たしてツッコミの意味がきちんと通じたのだろうか。むしろ単に呼び止められたから立ち止まっただけのように感じられるが、とにかく少し離れたところから彼女が訊いてくる。 俺は彼女の問いには答えず、眉間を揉み解しながら空いてる手で手招きする。 俺の前まで歩いてくるライナバルト。 「はい、何なのレすか?」 「あのな、俺はさっきなんて言ったか憶えているか?」 「駅まレ一緒に行こう、と言っていたのレすよ」 「そうだな。だったら、お互いに反対方向へ歩いて行くのはおかしくないか?」 「おかしいのレすね」 「どうしてだと思う?」 「山崎さんが、来た道を戻っていったからなのレす」 「ちっがぁぁぁぁぁぁぁうっ!」 俺の叫びが、再び住宅地の静寂をぶち破った。 よろめいたように数歩後退したライナバルトは、胸に手を当てて、ほう、と息を吐く。 「お……驚いたのレすよ」 駄目だ。ライナバルトと全く意思の疎通ができていない。言うまでも無い、と思っていた俺が悪いのか? 俺なのか? 「……いいか? 俺とお前が一緒に駅へ向かうとしてだ。この場合はどっちが正しいのか、説明するまでもなく一目瞭然だろ?」 「でも、山崎さんは道を間違えて――」 「間違えてない! 間違えてるのはお前の方だ!」 「私は間違えていないのレすよ」 「どうしてそこで胸を張れる……」 俺は脱力してその場にしゃがみ込んでしまった。 こいつには自覚症状ってのが無いのか? つーかアメリカ人って日本人と比べて感性がアバウトだって聞くけど、みんなこんなもんなのか? ……いいや絶対に違う! こいつはワールドスタンダードで常軌を逸している! 「言わないと理解できないんなら言ってやる。お前はいままで道に迷い続けていたんだろ? だったら俺についてくる方が正しいと思わないか?」 「今度こそ会っているのレすよ」 「だから、どうしてそこで自信を持てるんだよ!」 「失敗は成功の母と言うのレすよ。それに、間違いを犯さなければ人は反省せず、反省した人は二度と同じ過ちを繰り返さない、と私のお父さんも言っていたのレす」 「余計なことを……」 おそらく、それがこいつの根拠ゼロからくる自信の源なのだろう。 なんだか、こいつに付き合ってるのがアホらしくなってきた。とてもじゃないが、散々道に迷った人間の吐く台詞ではない。 「最後に訊くぞ。……俺の行く方向と、お前の行く方向、どっちが駅に通じる道だと思う?」 「もちろん、こっちの道なのレす」 と、ライナバルトは先程歩いていったのと同じ方向を指し示す。 「そうか。じゃあここでお別れだな」 最後通牒は受け入れてもらえなかったか。まあ、こんな住宅街で路頭に迷うも何も無いだろうが、せいぜい頑張ってもらうとするか。 「お別れなのレすか? 駅には行かなくてもいいのレすか?」 「駅には行くさ。ただ、お前とは違う道を通るだけだ」 「そっちの道は、絶対に駅には通じていないのレすよ。私がいくら歩いても駅には辿り着けなかったのレすから、間違いないのレすよ?」 いやあ……。それはただ単にお前が見当違いな方向ばっか行ってたからだろ。 そう思っても、口には出さない。意味がないからだ。 「じゃあ、ま、せいぜい頑張ってくれよ」 俺は背中越しに手を振って、ライナバルトとは反対方向へと歩いて行く。 「駅へ行く道はこっちなのレすよー? そっちの道は駅に通じていないのレすよー。いいのレすかー?」 背後からは、俺を心配する声が聞こえてくる。 馬鹿じゃないのか? そっちは駅とは逆方向だ。道は繋がっているが、いままでの調子から察するに、駅になんて一生辿り着けるはずもない。 …………。 このまま別れたら、あいつを見捨てたことになるのかもな。 いや、関係ないか。あいつは一度痛い目に遭った方がいいに決まっている。ほっとけ。 …………。 …………。 嫌な想像が頭に浮かんだ。 あいつ、ひょっとして何度も痛い目に遭っていて、それでも挫けないだけじゃないのか? あの方向オンチっぷりは並じゃない。それでも自分の選択に対して自信を持てるのは、かなり凄いことなんじゃないのか? ……いや、ただ馬鹿なだけか。 …………。 …………。 あいつ、最後まで他人の心配してたな。自分の方がよっぽど大変だってのに。 …………。 …………。 …………。 俺はその場で立ち止まってしまった。 あー、くそっ! 後ろを振り向いた。既にライナバルトの姿は見えない。駆け出して、急いで来た道を戻り始める。息を切らせながら、心の中で毒づく。 こんなに気になるのに放っておけるか! このままじゃ、逆に精神衛生によくないじゃねえかっ! はー……。 やってらんねえ。やってらんねえよなあ。馬鹿らしい、アホ臭い、なんで俺がこんなことをしなきゃならないんだ。別に放っておいたっていいじゃねえか。勝手に自分の道を突き進ませてやれば、あいつも幸せだろうに。 曲がり角の度に闇に目を凝らして人影を探す。 ライナバルトの姿は、三つ目の角で見つかった。ラストスパート。 「おい!」 走って乱れた呼吸を整えながら、俺は彼女の肩を叩いて呼びとめた。 彼女は俺の姿を見て少し驚いた顔をした後、 「良かった。迷ってしまったのではないかと心配していたのレすよ」 微笑んで、俺を見つめた。 ……やれやれ。 やっぱりこいつを見捨てないでおいて良かった。 こんなに頭の中身がゆるゆるなのに、全く救いがないなんて憐れすぎる。 それに。 ライナバルトの隣を歩きながら、俺は――こいつには他人から優しくされる権利がある、と思った。 「じゃ、行くか」 「はい」 肩を並べて、俺達は歩き出した。ライナバルトが行きたがってる道でも、遠回りすれば駅につけないわけではない。駅までのルートを思い浮かべながら、とりあえず道を指示しようとした時。 「次の曲がり角は、どっちに行けばいいのレすかね〜」 前方に見えていた十字路の先をそれぞれ指差し、どれにしようか迷っていた。 「こいつは……」 彼女の言葉、表情、仕草を見ている限り、適当に行く道を決めているようにしか見えなかった。 ――挫けない? ――自分に自信を持って? ……ただ能天気なだけじゃねえのか? 「…………」 深く考えるのはよそう。頭が痛くなるだけだ。 「こっちだ」 「え? まだどれが正しい道か決めていないのレすよ。ちょっと待って――」 「正しい道は決められるもんじゃないっての! 最初っから決まってるもんなんだ!」 「それは違うのレすよ。よく考えれば――」 「いくら考えたって正解が変わることはありえないんだって! いいからついて来い!」 「ちょっと待って欲しいのレすよ。あれ、山崎さん? あれれ? 山崎さん? 私、自分で歩けるのレすよ? そんな引き摺らなくても――山崎さん、話を聞いて欲しいのレすよ? 山崎さん――」 俺はライナバルトの言葉を全て無視することに決め、ただひたすらに足を動かし続けた。 駅の入り口にある時計を見る。 午後7時37分。 普段だったら20分程度で済む距離なのに、およそ3倍の時間がかかったことになる。 それもこれも、曲がり角に差しかかる度に「こっちの道が駅に向かっているのレすよ」「あの道の方が近道になっているのレすよ」などと無根拠な言葉を並べ、あげく3回ほど自分が選ぶルートへ行くことを強行に主張し、折れた――というよりも口論するのに疲れた――俺はその度に駅までの遠回りを余儀なくされた。 おかげで、あの周辺の地理にはすっかり詳しくなってしまった。抜け道もいくつか見つけてしまったが、あんなところはこういう事でもない限り通る道でもないし、使うことはまず無いんだろうが。 「ああ――」 横では、よくわからないが感動しているっぽいライナバルト。 「初めて行った場所で、こんなに早く戻って来られたなんて信じられないのレす」 「正味4時間以上かかって、か」 怒りも呆れも何もかも通り越して、可哀想になってきた。 「苦労してるんだな……」 零れ落ちる涙を拭いもせずに、彼女の肩を慰めるように、ぽん、と叩いてやる。 「……ええと」 俺の涙に彼女はどう接すればいいのか困惑していたが、やがて顔を輝かせて俺を見つめてきた。その瞳に見えるのは――尊敬。 「山崎さん、貴方は凄い人なのレすね」 「いや、凄くない。全然凄くない。とりあえずお前が思っているような凄さは全くない」 何を言わんとしているのか予想がついていた俺は、全力で否定しておく。単に人並みの方向感覚を持っているだけだというのに、妙な尊敬を持たれてもこっちが困る。 「で、お前はどの駅で降りるんだ?」 「笹野原レすね」 「なんだ、俺と同じか。だったら家まで送っていってやるよ」 「そんな……滅相も無い。これ以上迷惑をかけるわけにはいかないのレす」 「じゃあ訊くけどよ。お前、家まで迷わず帰れるのか?」 「…………え?」 何を判り切ったことを訊いているのだろう、といった風に、不思議そうな顔で見返されてしまった。 これは――どっちだ? 帰れるという意味なのか、それとも当然迷うぞ、という意味なのか。まあ、どちらにしても信用できないことには違いない。 「ここまで付き合ったんだから、最後まで面倒見させろ。お前ならマジで街中で路頭に迷いそうだし」 「さすがにそれは誇張しすぎなのレすよ。そんなことは一度も――」 言いかけて、その場で固まる。そして腕を組み、首を傾げる。 間。 「…………」 「……頼むから悩まないでくれ。不安になる」 どうやら自覚症状はあるようだな。 とりあえず、駅の外で延々と話をしていてもしょうがない。 「ライナバルト、こんなとこでいつまでも突っ立ってないで駅に入ろうぜ」 「はい――ああ、山崎さん。私のことはパウと呼んで貰いたいのレす」 「そうか? だったら俺も拓真でいいぜ、パウ」 「はい、拓真さん」 笹野原駅方面へ向かう電車の中で、俺とパウは雑談に華を咲かせた。 「へえ、今日は制服を取りに行っていたのか。じゃ、その紙袋の中に制服が?」 「入っているのレすよ。学校の制服は着るのが初めてなのレ、とても楽しみなのレすよ」 本当に嬉しそうに、パウは告げた。 「学校にはいつから来るんだ?」 「登校は明日からになっているのレす」 「そうか。今更だけど、学年は何年になるんだ?」 「1年生なのレすよ」 「俺も1年だぜ。ひょっとしたら同じクラスになるかもな」 「そうなれるのなら、とっても嬉しいことなのレすよ」 「俺のクラスには今日会った寛一と進吾もいるぜ」 「相馬さんも一緒なのレすか。でも、進吾さんという方とは会っていないのレすよ?」 「あ、そうか。名乗ってはいないけど、会ってはいるぜ? ほら、俺らの後ろにいた――」 「あの方なのレすか。……あの方は少し苦手なのレす」 「大丈夫だ。得意な奴なんて誰もいないから」 そうこうしているうちに、電車は笹野原駅に到着し、俺はパウの告げた住所と『字一荘』というアパート目指して歩き出した。 アパートは俺の知っているものだった。俺が住んでいるマンションの近くに最近建ったばかりの、名前の古臭さとは反比例の綺麗で立派なアパートだ。 綺麗で立派な、アパートだった。 ゴオオオオオオオ―― パチッ、パチパチッ 「…………」 「…………」 燃えていた。 ただひたすらに、燃えていた。 これでもか、っていうくらいに燃えていた。 アパートを炎がすっぽりと包み込んでいて、全てをオレンジ色に染めていた。 顔が熱い。熱が刺さるような感覚。 まるで現実感がない。 テレビのニュースで放映されているところを何度も見たことがあったが、やはり実際に目の当たりにするのとでは、インパクトというか迫力が違いすぎていた。 周囲は騒然としていたが、近くにいた半数以上の人間は、まるで魅入られたかのように、炎の立ち上るアパートから目が離せずにいた。その中の二人が、俺とパウだ。 遠くからサイレンの音が近づいて来るのが聞こえてきた。 呆然と、燃え盛るアパートを眺めていた。 「綺麗――レすね」 感情の抜け落ちた声で、ぽつり、とパウは告げた。 「……そうだな」 まるで上の空で、俺は同意する。 人工的な光の中、赤々と生きた光を放つ巨大な松明と、その明かりに照らされる街並みや人、そして松明を神聖なものとして奉るかのように囲んでいる人々。 全てのしがらみを抜きにして見るこの風景は、なんとも場違いで的外れな感想ではあるのだが、確かに綺麗″と俺は感じていた。 『道を空けてください! 関係車両が通ります! 道を空けてください!』 消防車か救急車か、サイレンと共にスピーカーから吐き出される声を、俺はぼんやりと聞いていた。
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