誤字脱字ってどの程度待っていって欲しいのでしょうか
今読ませていただいている作品の中に、これは作者としては恥ずかしいのではと思う誤字脱字がたくさんあります。
年齢を重ねていけばわかる言葉の使い方も、まだ若いからでは済ませることも、済ませられないこともあります。
作者として作品を発表する場が、身内の中であれば笑い事で済ませられることもります。
ネットの中で不特定多数の方に作品を出していると誤字脱字は恥ずかしいことではないかと思うのですが人に言われるのもなんか嫌じゃないですか?
メールなどで何度か感想などのやりとりのあった作家さんたちなら結構すんなり言えるんですけれどね。
間違ってませんか? あの意味なんですか?とか。
でもなぁ
あまり人に言われたくないですよねぇ。
>しかしながら、文章を文字を弄くる立場としては辞書のひとつも引いて欲しいと思っております。
それは、nakagawa さまの想いかと存じます。
それが学校であればおそらく正義でもあろうかと存じます。
ですが、作品は公開されているのです。作者は未だしも、作品を楽しみにしている読者に、nakagawaさまの想いは関係ないことです。
公開されているということに思いを及ばせてください。
此処には(確率的に考えて)間違いなく余命宣告された読者も居るのです。
仮に
>創作の世界を広げることにはなりませんでしょうか?
であったとしても、
それが為に気になる続きを読めずに世を去る読者が居た場合なんとするのでしょうか?
その人に
「作者の成長のためだから続きはあの世で読んでください」
というのであれば私はそれを人でなしだと思います。
指導を前提としている学校であれば作者の教育が最優先でしょう。ですが、作品を公開し、(楽しみにしているかもしれない)読者がいる状態となった場合、そこで人格は(作者の完成度に拘らず読者が存在する故をもって)完成しています。
作者の更なる成長を望むゆえの純然たる好意からの行動であったとしても、それが作者の創作意欲を削ぐ結果となれば、作品を楽しみにしている読者の立場はどうなるのでしょうか?
確かに高天原を追われたスサノオ神は大活躍します。
ですが、岩戸隠れによって絶望の内に力尽きた存在が居るとすれば、そのその存在にとって岩戸隠れの原因を作った存在を許せるとは限りません。
nakagawa さまが待てるか待てないかでは無いのです。
作者がそれを喜ぶか否か?
作品を心待ちにしている読者一人一人がその向こう側に居る。
読者である私はそう主張しているのです。
一読者ではございますが、私の偽らざる本音を申し上げました。何卒よろしくお願いいたします。