2011-08-09
カオスラウンジの創作活動が批判されてたけど個人的には好きです
|Pixivの中の人とズブズブだとかそういった事情は知りません。
金が絡んだ話で嫌われているというのなら、とりあえずどっちも叩いておけばいいかなと。そういう話ではなく、個人的な好みの話です。
まあ勝手に他人の絵を使ってボロボロにしたり落書きしたりですね、そういった活動に対しては個人的には批判するようなもんじゃないと思ってます。
あくまで個人的な見解で、原作者の批判ももっともだと思いますし、カオスラウンジは一般の人や他の創作者にもクズと糾弾されて当然だとも思います。
それはそれとして、個人的な好みとしてはカオスラウンジの活動は嫌いじゃないという話です。
ニコニコ動画なんかでは他人の作ったアニメを色々編集して加工するMAD動画なるものが、既にニコニコの中の文化として形成されていますよね。
それと似たように、芸術に他人の創作物を使うという発想は結構昔からあると思うのです。
ニコニコ大百科では似たようなことやってるニコ厨が何故かボロクソにカオスラウンジを叩いています。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%AB%E3%82%AA%E3%82%B9*%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%B8
人の振り見て我が振り直せってのはいい言葉ですね。少なくともこういった議論を生み出した時点でカオスラウンジの活動は意義があると思います。
まあ普通に生きて他人の創作物を勝手に作ったり二次利用したりなんて話がリアルにイメージできない一般人にとってはどうでもいい話ですが。
そういう一般人も結構コピー禁止のものをコピーしたり、Youtubeの違法アップロード動画を見たことを悪びれずに言ったりもしますが、それはまたそれとして。
例えばレゴを使った大規模なお城であったり、自動掃除機iRobotにライトをつけて長時間露光で撮影した写真なんて作品もありますね。
それは努力や技術、発想が自分で作った部分として作品として認められているわけですが、カオスラウンジの場合はちょっと違います。
どちらかと言えば、他人の作成物を水に濡らしてボロボロにしたり、ほとんど加工をしていないようなものが、作品として、芸術として認められるのかどうかという問題ですね。
しかもそれが全くの他人の努力を掠め取るような方法なら尚更です。批判されて当然です。ゲスの極みです。
でもそれは、一応先人が通った道でもあるのです。創作活動をやらない、という活動が流行った時期があったのですね。
実はダダイズムという反芸術運動が1910年あたりにあったのです。
これは第一次世界大戦への抵抗やそれにより生まれた虚無という価値観が根底としてあるらしいですが、カオスラウンジは何があるのか知りません。
ゆとり教育によって崩壊した努力に対する価値観と就職難が原因だという事にしておけば色んな方面に喧嘩を売れるでしょう。
ダダイズムの有名な作品には、有名なものには『L.H.O.O.Q』がありますね。
モナリザの複製画にひげを書き加え、「彼女は性的に興奮している」という意味のあるタイトルをつけた作品です。
創作する気ゼロです。複製画にひげをつけてタイトルつけただけなんですから。
でも、これでも有名になっているということは、何かしら人の心に影響する部分があったという事です。
メッセージ性が無いこと、芸術を創作すること自体への批判そのものが芸術として認められることもあるということです。本当にそうなのかは知りませんが。
他にも、『泉』という作品もあります。L.H.O.O.Qと同じくMarcel Duchampの作品です。
カオスラウンジなんてカスを批判しているような人が見たらびっくりするんじゃないかと思います。
これは、既製品の男子用小便器にサインをしただけの作品なのです。当然この作品は色々と波紋を呼んだそうです。出展取り消されたり。
後々、Marcel Duchampはこのように語っています。
『マット氏が自分の手で『泉』を制作したかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのだ。彼は日用品を選び、それを新しい主題と観点のもと、その有用性が消失するようにした。そのオブジェについての新しい思考を創造したのだ』
この作品はこれまでの美術の枠を超えた作品として評価されるようになりました。
2004年に、世界の芸術をリードする500人に最もインパクトのある現代芸術の作品として一位に選ばれたのです。
解釈は色々あって当然です。解釈そのものすら芸術として捉えることができる、という概念を作り出したのがMarcel Duchampなのですから。
(この私の考えも自由に解釈・批判して構いませんし、この説には議論の余地があると私自身もそう感じています)
見るものが芸術を作るという概念が生まれてから、二十世紀以降の新美術は混沌としていきます。
ピカソの子供のような絵が評価される理由は色々と理由はあると思いますが、彼が評価されているのは、『ものを一つの視点から見て描く』『あるものをそのまま描く』という概念を壊して、芸術の新しい可能性を広げたからだと思うんですよね。これも個人的な意見です。
自分でも色々考えてみたいなら、キュビズムについて調べてみるといいと思います。
芸術の概念は様々なものが壊されました。見たままの色を描くこと、見たままの形を描くこと、ひとつの止まった瞬間を描くこと。
そして、ダダイズムによって『創作する』という概念すら壊されたのです。
今の美術界で新しい事をやろうとするのは大変です。きっと、普通の人が思いつくことはやりつくされています。
例えば、地球自身を題材にしたアースワークなんていうのもあるそうですよ。
そういえば、カオスラウンジの話なのでした。
彼らが『創作をしない』という概念を作り出そうという考えからああいった活動をしているなら、批判しなければなりません。
彼らのしている事がただのダダイズムの模倣であるなら、存在価値は無いからです。
新しい事をしようとして、結局過去の模倣になっているだけならお話になりません。もしそうなら、美術界からもカオスラウンジは批判されなければなりません。
しかし、彼らの伝えかったことはそれだけなのでしょうか。
いや恐らく、何も考えていないと思います。思慮があればニセ札作るなんてバカはしません。
でも、鑑賞者としてただカオスラウンジの活動をパクりだと批判するだけで終わったら、色々と勿体無いと思うのです。
勿論個人的な話ですよ。全ての鑑賞者に鑑賞者たるものの姿勢を強要する気は全くありません。感じた通りの意見を言い、批判をすればいいと思います。
芸術は見るものが作り出すものでもあるのですから。
彼らの活動が批判されて終わるだけなら、結局彼らの活動に芸術として認められるだけの価値が無かったということです。
現代ではついていけない感性なんて言い訳の仕方も、現代を捉えて評価されるものを作れなかったという批判もあるでしょう。
私は中立ではありません。私がカオスラウンジに下す評価は「好き」、これだけです。肯定も否定もしません。論理ではなく、感情による評価です。
現代の法律やら、パクられた原作者やらの事なんか知りません。それらは現代という時代、それが作り出す社会が好きに批判して、なるようになればいいと思います。
私は、カオスラウンジの活動は、ダダイズムの感性を受け継ぐと共に、改めて『他人のものをこの法律がらめの現代社会でパクるとどうなるか』という視点から見るにあたって、芸術的にも社会的にも意義があったのではないかと思います。
今やるから意味があるのです。ダダイズムの時代のような法律の整備されていないような時代にやるのとは訳が違います。
例えばこの活動によって、似たような事をしている同人誌作家やニコ厨などのバカがあぶり出されました。彼らはダブルスタンダードに挟まれて、カオスラウンジの作り出した、パクる事に対しての社会に漂う批判的な空気の中を漂わなければならなくなったのです。
これが一種の社会的なメッセージだとしたら、ものすごく内輪すぎて一般には広まらない考えだと思いますが。
彼らはパクることによって、新たに社会に対してグレーゾーンに対しての評価を投げ込んだのです。
それは大して大きな波紋を生み出しませんでしたが、彼らもそれなりに評価される時がきっとくると思います。
きっと、このパクることによる不信感やグレーゾーンに対する不安は、日本のオタク層によって作り出された構造的な問題なのですから。
いつかはそれを批判するために、評価を投げかけるために、新たな価値観を作るために、誰かが問題提起をする必要がありました。
今回の場合、それがカオスラウンジだった。それだけの事だと思うのです。
評価は鑑賞者の自由です。
好きに感想を言って構いませんし、好きに批判して構いません。
ですが、ただの批判で終わるその前に、彼らが何を伝えたかったのか考えてみることも大切なのではないでしょうか。
改めて考えてみて、それでもやはり批判だけで社会の評価が下されるなら、彼らは現代社会に必要とされなかったということです。
ゴッホの絵が生前には一枚しか売れなかったというのは有名な話ですが、彼の描いたひまわりの絵は、芸術界ではほとんどの人に知られています。
芸術に対する評価というものは最大風速だけではありません。現代だけの評価で完結する必要はありません。
むしろその作品や概念が、その時代にあったことそのものが重要なのであると思います。
評価は後づけであったり、闇に埋もれる事もありますが、それはさておき、評価に関わらず、その時代にその作品が生まれたということは、その時代に生まれた何らかの欲求や意義が絡んでいる場合もあると思うのです。
需要があったから生まれ、需要があったから現代まで生き残った。今も評価される美術というものは、恐らくそういうものです。
カオスラウンジがどうだかは知りません。でも私は社会の中の一個人として、彼らの活動が好きである、ただそれだけの評価を下すのみです。
以上、美術とは畑違いの、沖縄高専の文芸部に所属する鎌田六月の感想でした。
実際のところ、私はカオスラウンジが具体的にどんな事をやったのか詳しくは知りません。
ニュースやら噂話やらtwitterのTLを眺めたりで適当に情報をかいつまんだだけです。
最後に保身に走るとは醜いものですが、何か大きな間違いがあるといけないと思うので。
いちおう、騒動を初日からずっと追ってる身なんで、意見を書いてみる。
何故彼らが叩かれることになったか。主たる理由は二つ。
・複数キャラが組み合わせられた通称「キメこな」ちゃんを、創作した名無しさん(=どこかの誰か)から奪い、梅沢の作品であると偽った点。技法どうこう以前に、単なる泥棒。
・「カオスラウンジ宣言」なる動画の中で、主宰の黒瀬が「これからもキャラを掠め取って使っていく。そのことによって弱いコミュニティが潰れても仕方がないし、そこにごめんねは無い」と発言したこと。
一点目。例えば、梅沢が「これはネット上から拾ってきたものである」と明確に説明していたなら、問題にならなかった、というかできなかった。
コラージュという技法によるものだ、と突っぱねられれば、それ以上の追及は難しかったのに、彼はそうせず、苦しい言い訳を繰り返し、畢竟そのことによって自ら作品の芸術性を毀損した。
それに、「パクリ」という言葉の意味の揺れが、理解を難しくしている面もあると思う。
一般的に「パクリ」と呼ぶとき、それは元となる絵を描き写したもの、あるいはその行為を指す。そこからすると、梅沢のやったことは「パクリ」ではない。何故なら、元となる絵そのものをコピペして使っているから。
つまり、梅沢の絵は二次創作ですらない。盗用だから。この点で、同人誌などと梅沢は同じじゃないか、という言い方は妥当でないことがはっきりする。
そして二点目。これは、大げさでなく、全世界の一次創作者に対する宣戦布告である。
ネット上にある画像はすべて素材であり、拾って1ドットでも変更すればそれは我が創作物になる、とまで発言しているわけで、これを聞いて、絵を描いてネット上に発表している人間が、おいちょっと待て、と腹を立てないはずがないわけで。
スーパーフラットなアーキテクチャが云々、という主張にしても、彼らのオリジナルではなく借り物だと判明していて、どこまで租借してみても、カオスラウンジという存在には芯が無い。徹頭徹尾すべて借用し剽窃して塗り固めただけの張り子の虎だった。
まるで、ネットにはしぜんに絵が湧いて出てくる、みたいな勘違いを彼らは犯している。
どんな絵であれ、それは作者がいるのであり、名無しで発表されたものだから価値がない……などということは断じて無い。そのことに彼らは気づいていない。現在も。
百歩譲って、絵を盗んで使い続ける、というのならそれでもよかった。その結果、法と勝負するところまで貫くのであれば、ね。それならば、後世に再評価される道もあったかもしれない。
だけど、彼らはなんやかやと言説をこねくり回して、これは罪には当たらないだの何だのと言い訳をするから見苦しいし、アートからどんどん遠ざかるし、叩く側へ燃料を供給し続ける結果になっているわけで。
この件については、知れば知るほど虚脱感に襲われるよ。カオスラウンジなるものの、あまりの空っぽさ加減に。ダダイズムとかデュシャンとかも、言い訳のための駒としてしか彼らは使ってない。引き合いに出すのも失礼なほどで、そんな域までとてもとても達していない。
作品や行動原理に、一片の妥当性はあったかもしれないが、それを芸術と呼べる域にまでもっていくには、彼らはあまりに卑屈で稚拙すぎた、というのが結論ですな。
商売をせずにしこしこと作品作りをしていれば問題無かった
ニコ厨のMADは商売していないから(権利者からお咎めがない限り)問題無い
ニコ厨はあくまで趣味としてやっているからいいけど
カオスラウンジはそのパクリ作品で金稼いでいるから問題なんだよ