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【放送芸能】

中村とうようさん お別れ会

 世界のポピュラー音楽の本質を、音楽を生んだ社会の構造や歴史からえぐり出し、音盤制作も行った中村とうようさん(享年79)が亡くなって二カ月余り。突然の死を悼むお別れ会が東京都内でいくつかもたれた。故人創刊の「ミュージック・マガジン」は十月号で追悼特集を載せ、増刊号で未発表原稿を含むアンソロジーを刊行した。 (中村信也)

 最大規模のお別れ会は九月二十八日に開かれ、付き合いの深かった約二百三十人が参列。元ニッポン放送社長の亀渕昭信さんが「とてもつらい会。でも、とうようさんの頑固一徹を知る人だけの会ですから、にぎやかに」と司会の弁を述べ、全員で遺影に黙とうした。

 発起人代表は、ビートルズを担当したことなどで知られる元日本レコード協会会長の石坂敬一さん。あいさつの最後で「ああいう人は、もう出ないっ」と声を詰まらせた。

 音楽評論家の湯川れい子さんは「(自死することを)知っていたら髪振り乱して止めたと思うけど…止められなかったでしょう。たとえ、つえを突いてもやれることはある。大好きでした。今も好きです」と切々と悼んだ。

 とうようさんの遺言の一部が、司会の亀渕さんによって明らかにされた。葬儀社の餌食になるな、公的な火葬場で焼いて骨は宅配便で送れ、一カ月後にお別れ会をせよ、会費は七千円前後で非宗教、故人の生涯を一時間にまとめた映像を上映せよ−。ビデオ上映など多くが実現された。会の案内状に紹介された「悪口を言うなり、自由にやってくれ」という遺言に最も応えたのはロックの内田裕也だった。

 「俺は頭に来ている。死に方が気にいらないんだ。(会場の雰囲気などに)ロックのロの字もない。『ミュージック・マガジン』はロックだろッ」

 マガジン創刊の一九六九年、とうようさんは「第一回日本ロックフェスティバル」を開き、裕也は三度も出演するなど同志的な関係だったが、諸事情で決裂した。「しばらく会ってなかったけど、忘れたことはなかった。日本のロック史に大事な人。残念だけど、ゆっくり休んでください。ロックンロール!」と締めくくった。

 音楽家ではこのほか、あがた森魚、小嶋さちほ、サエキけんぞう、サンディー、渋谷毅、芸能山城組などが参列し、それぞれに追悼の気持ちを表した。

 とうようさんは“毒舌家”だったが、元日本レコード協会会長の佐藤修さんは「フェアでした」と、おえつをこらえた。

 「業界の問題点を雑誌で特集され、再販制についての批判は一方的すぎると抗議すると、こちらの反論を全部書いてくれ、感激しました」

 遺言執行者の折田育造さん(元ポリドール社長)は、自死の三日前にタクシーで送ったことを語った。車を降り、足に手をやって別れを告げると「痛いっ、折田くん」と声を上げた。それが最後の言葉になったという。

 とうようさんの遺骨は東京・四谷の東長寺に納められた。戒名は「響鑑東洋信士」。生前、確認していたという。

 

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