東日本大震災発生から一夜明けた3月12日。東京都千代田区の石油連盟に1枚のファクスが届いた。経済産業省資源エネルギー庁の安藤久佳資源・燃料部長名で、被災地への燃料の安定供給を要請するわずか4行。
連盟幹部は驚く。「石油の量や移送方法など具体的な内容もない。これでどうしろというのか」
元売り大手14社でつくる石油連盟の緊急対策本部は当時、燃料不足の病院や避難所の住所を官邸から五月雨式に知らされていた。国との災害時の枠組みはなく、東京都との協定を参考にどの社がどこに届けるかを割り当て、ピンポイント輸送を続けた。
だが現地の燃料不足は深刻だった。「避難所で高齢者が凍死しそうだ」「救急車を動かせない」。宮城県に置かれた政府の現地対策本部に訴えが相次ぐ。14日本部に入った阿久津幸彦内閣府政務官はガソリンスタンドや石油会社へ片っ端から電話させたが、一向に好転しない。同庁幹部からは「燃料はすぐに回復する」と聞かされていた。「なのになぜ回ってこないんだ」
その日、政府の緊急災害対策本部。海江田万里経産相は「生産量は足りている。ちゃんと手を打っている」と報告した。耳に入っていた状況との落差を感じた片山善博総務相が「具体的に何をしているのか」とただすと、同庁幹部は「これから工夫します」。片山総務相は気づいた。「(物流の)動脈を動かさず、出前みたいに末端に運ぶことばかりやっている」
最大の障害はタンクローリーの大幅な不足だった。東北6県には元々700台あったが、津波で100台以上が流されたうえ、所有する運送会社も被災した。経産省の内部資料によると、16日時点で稼働していたのはわずか68台。石油各社は個別に東北以外から調達し現地に派遣したが、事態は改善されなかった。
原因の一つが関東で14日から始まった計画停電だ。首都圏のガソリンスタンドにも長蛇の列ができる。大手石油会社幹部は「燃料を心配する顧客が買いだめに走った。その需要にも応えなければならず、ローリーを簡単には回せなかった」と明かす。石油業界は01年の完全自由化で合理化が進み、ローリーの数自体、13年前の半分以下の5300台にまで減っていた。
太平洋側の油槽所が被災したため、新潟など日本海側の油槽所から被災地に石油を運ぶには、他の地域に多少の不自由があっても全国からローリーを大量投入する必要があった。同庁が業界からの聞き取りでこうした実態に気づくのは15日以降。同庁資源・燃料部政策課の加藤庸之課長は「石油の生産量ではなく、物流の問題だった。それに気づくのが遅れた」と悔やむ。
発生から1週間目の17日、ようやく「動脈」を動かす試みが始まる。海江田経産相は記者会見で国民に燃料不足をわび、「ローリーを西日本から300台移す」と発表した。
経産省が当初、被災地への石油供給を業界任せにしていた背景には、業界を指導・監督する石油業法が廃止されたことがある。電気やガスと異なり、災害対策基本法に基づく防災業務計画にも燃料は盛り込まれていない。
「業界との連携が足りなかった」と加藤課長は認める。業界からは「自由競争を強いながら、震災になると国が安定供給を求めるのは矛盾する」との声も上がる。
阿久津政務官は言う。「原発事故の裏で、経産省はもう一つの人災を起こしてしまった」(肩書は当時)
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大震災で中央官庁はどう動いたのか。官邸や自治体、民間との連携は十分だったのか。【震災検証取材班】<12・13面に特集>
毎日新聞 2011年10月2日 東京朝刊