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[28800] 【習作 短編集】Alchemical Works (マナケミア)
Name: 秋月 桂◆02e75bbd ID:922c878b
Date: 2011/09/30 23:01
皆様はじめまして、秋月 桂 と申します。
感想板でお会いした方もいらっしゃるかもしれませんね。

当スレッドは複数の短編から成る短編集となります。
題材はマナケミア。1が多めですが、そのうち2も載せるかもしれません。

些か癖が強いものも混じると思いますので不安な方はお品書きをご覧ください。
簡単に作品の傾向と設定を書いておきました。

以下、注意事項です。
1、一部独自設定が含まれております。
2、キャラ崩壊があるかもしれません。
3、恋愛要素を含んだものがあります。
4、作者は遅筆です、忘れた頃にやってきます。
5、用法用量を守って正しくお読みください

お品書き (随時追加予定)

『パメラのさがしもの』
…パメラEND前提。初作ということで癖は特にはないはずです。

『Only My Wish』
…アンナEND前提。場面がよく飛ぶので分かりづらいかもしれません。
原作プレイ前提。時期はイゾルデ戦からラスボス戦まで。

『Is this a hero ?』
…グンナルEND前提。初の前後編です。
シリアス皆無の喜劇を目指しました。
  

『双子の月』
…初のオリ主ものです。1より20年、2より5年後の学園にて。
ある原作キャラを幸せにする為だけに書き上げました。後悔なんてあるわけない。

『幼年期の終わり』
…引き続きオリ主もの。1より15年後、2開始とほぼ同時期のとある村にて。
某傑作SF小説とは何の関係もありません。


いまだ未熟な作品ではありますが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。



[28800] パメラのさがしもの
Name: 秋月 桂◆02e75bbd ID:922c878b
Date: 2011/07/22 18:03

アトリエへの廊下を歩いていたヴェイン・アウレオルスは窓から降り注ぐ日光に目を細めた。
空には雲ひとつない快晴。日差しはさほど強くもなく、時折吹く風が心地よい。
いい天気だなぁ、とヴェインは呟く。足元を歩むサルファは返答代わりにあくびを漏らすだけだったが、ヴェインとしては半分独り言のようなものだったのでかまわない。
なにより気持ちは良く分かった。こう天気がいいと昼寝のひとつでもしたくなるものだ。
あくびをかみ殺しながらヴェインは今日の予定を思い返す。

(確か魚類の素材が底を尽きかけていた筈だから……高台で釣りをしようか。この天気なら気持ちもいいだろうし。ついでにふさふさも補充して……)

ヴェインがあれこれ考えながら歩いているといつの間にやらアトリエの前に立っていた。
ぼーっとし過ぎだぞとあきれたように言うサルファに謝りつつヴェインがアトリエに入るとなにやら微妙な顔をしているアンナとニケがいた。

「あれ? ふたりだけ?」

「あ、先輩」

「やっほ、ヴェイン」

ヴェインが声をかけると微妙な顔のままの二人が振り向いた。
アンナは掃除でもしていたのか箒を握っており、ニケは菓子の入った紙袋を持っている。

「他のみんなは?」

「フィロとロクシスはまだ。グンちゃんとムーぺは一回来たんだけど……」

ニケがいったん言葉を切ると、アンナが困ったような顔をして補足した。

「ふたりで入ってくるなり、素材や装備をいくつか持ってそのままアタノール室に……」

「……なにか作りたい装備でもあったのかな?」

いい加減体が騒動に慣れたのか、なんだか嫌な予感して仕方がないヴェインがそう言うとアンナは小首を傾げて答えた。

「分かりません、ヴェイン先輩の新コスチュームがどうとか言ってましたが」

「……………」

ヴェインは思わず黙り込んだ、なんだかこの時点でろくなものとは思えない。
まして今回はムーぺも一緒らしいというのがその考えに拍車をかける。
ニケから感じる哀れなものを見る目がヴェインにはとても痛かった。

「…はぁ」

ため息をついて自分の今後を心配していたヴェインはふと疑問に思った、まだ話題に出ていないアトリエメンバーが一人いる。

「そういえば、パメラは?」

ヴェインが尋ねるとニケとアンナは歯切れ悪く答えた。

「あー、それなんだけど…」

「…パメラ先輩なら…」

アンナが指差した先、アトリエの奥にヴェインが目を向けるとそこにはアトリエのあちらこちらをふわふわと右往左往するパメラの姿があった。
入ってきたヴェインにも気づいていないようだった。

「……パメラ?」

「……ふわふわ……おろおろ」

「…………ねぇパメラってば」

「……うろうろ……あせあせ」

「…………」

思わずヴェインが視線を向けるとニケとアンナはなんとかしてくれとばかりにヴェインを見ていた。

「なんかすごい勢いでアトリエに入ってきたかと思えばずっとあの調子なの。
うちが声かけても生返事だし」

「様子を見る限りなにか困っているようなのですが…」

相談してくれれば力になるのに、とアンナは呟いた。
こういうところをみると本当にアンナは世話好きと言うか頼りがいがあるとヴェインは思う。思い余って暴走することがあるのが玉に瑕だが。
本人が聞けば憤慨しそうなことを考えていたヴェインはパメラの後姿を見ていて妙な感覚を覚えた。デジャヴと言えばいいのか、これと似たような光景を前に見たことがある気がする。

(ああ、そうか)

思い出そうとすれば割とすぐに思い当たった。パメラがまだアトリエに参加して間もない頃に、様子は少し違うが似たような姿を見た覚えがある。確かあの時はこのアトリエが可愛くないと駄々をこねられた。
そう昔のことでもないはずだがなにか妙に懐かしいのは過ごした時間の密度が濃かったからかもしれないとヴェインは思う。

(まぁ、それはともかく、パメラはどうしたんだろう?)

尋ねてみようと自然と思った。騒動に巻き込まれるのは目に見えているが、それこそこのアトリエでは日常茶飯事だったし、悩んでいるのなら助けてあげたいとも思う。
なにより、少し前にパメラを学園から出してあげる約束をしてから、ヴェインはパメラに振り回されることに不思議と抵抗が湧かなかった。
それが何故かはヴェインにもよく分からないが、これも慣れなのかもと苦笑が漏れる。

「パメラ? パメラってば!」

近づきながら強めの口調で声をかけたヴェインにパメラはぞんざいに返した。

「なによ~、今忙しいからあとにして~」

「一体どうしたの?」

「ヴぇいんくんがどこにもいないの~、探してるけど見当たらないの~」

「……はい?」

背中をむけたまま、若干ふてくされたように呟かれたその言葉にヴェインは間の抜けた声を出してしまったが、それも気にせずパメラは探し物を続けている。いつのまにか近づいてきていたニケとアンナも疑問符を浮かべていた。

「パメラはヴェインを探してたの?」

「そうなの? パメラ?」

「ち~が~う~の~。私が探してるのはヴぇいんくんであって、ヴェイン君じゃないの~」

「どういうことなんですか……」

話しながらも錬金釜の中や机の下をのぞきこんでいたパメラは業を煮やしたのかヴェインたちのほうを振り向いた。

「だ~か~ら~、私がさがしてるのは……」

振り向いたパメラはちょうどヴェインを真正面から見つめる形となっていた。この時初めてパメラはヴェインの存在に気づいたらしく一瞬きょとんとヴェインの顔を見つめて……。

「で~た~~~~~~!!」

叫んだ。
いや、その驚き方は幽霊としてどうなのよと妙に冷静に突っ込むニケを無視してパメラはあわあわと分かりやすく慌てていた。

「ヴェ、ヴェイン君いつからそこに!?」

「少し前からだけど……」

本当に気づいてなかったんだ、とヴェインが答える。

「ねぇ、パメラ。さっきからなにを探して……」

しかしパメラは目を泳がせながらヴェインの疑問を遮った。

「わ、わたし図書館のお掃除頼まれてたのよ~、みんなまたね~」

え、とヴェイン言ってる間にパメラは壁をすり抜けて出て行ってしまった。
アンナは不可解そうな顔で、パメラ先輩が……掃除? と呟く。
呆気にとられていたヴェインとニケはその呟きに答えることができず、アトリエに静寂が生まれ……

「怪しいな、実に怪しい」

「うわっ!」

いつの間にかヴェイン達の背後に立っていた男、グンナルがそれを破った。

※ ※ ※ ※ ※

「いい加減突然背後に立つのやめてくださいよ」

ヴェインは疲れたように言ったがグンナルはやはりというか取り合わなかった。
腕を組み不敵な笑みを浮かべている。

「男が細かいことを気にするな、それよりパメラのことだ」

「はぁ」

活き活きしているグンナルに気おされ思わず生返事を返したヴェインだったがかまわずグンナルは続ける。

「なにを気の抜けた返事をしている。これは事件だぞ!」

こんな面白いこと逃すものかと目が語っている。
横を見るとニケとアンナは仕方ないとばかりにため息をついていた。しかし止めようとしないあたり気にはなっているらしい。

「一応聞きますけど止めても無駄なんですよね」

「無論だ。さてどうやって聞き出すか」

即答した後、ふむと考え込むグンナルを見てニケは言った。

「普通に聞けば良いんじゃないの?」

追いかけてさ。と続けるニケにヴェインは首を振った。
ついで以前の騒動を思い出す。

「それはそうだけど、きっと追いかけて聞いても教えてくれないよ」

「うむ、前回それで失敗したからな」

前回があったんですか、と自分を見るアンナの視線にヴェインはどこか居心地の悪いものを感じた。それが何故かは分からなかったが。

「前があったんなら、その時うまくいった手を使えば良いんじゃないの?」

「でも、同じ手に……」

引っかかるかなと言おうとしたヴェインは前回あまりにも簡単にパメラが引っかかったことを思い出して思わず口を閉じた。

「あれで割りと単純な人ですから」

ヴェインがなにを言おうとして何を考えたのか、大体察したらしいアンナがそう言うのを見て、そういうアンナは割りと容赦がないなとヴェインは思う。
もちろん口には出さなかった。

「二番煎じというのも芸がないが、まぁいい」

ニケの台詞にグンナルは渋い顔をしながら懐に手を入れる。

「てれてってーん! 俺様の秘密道具その弐十壱! 幽霊取餅!」

エコーと共にグンナルは透明な袋に入った取餅を取り出した。
ヴェインは隣のニケがこんなんで大丈夫なの? と疑問に満ちた目をしていることに気づいたが効果のほどは実証済だから仕方ない。アンナは鳥もちを突きながら他のことが気になったらしかった。

「毎回思うんですが、このエコーはどうやってかけてるんですか?」

「毎度のごとく企業秘密だ。で、あとはおびき寄せるためのエサが必要なわけだが…」

と言いながらヴェインの方を見やるグンナル。

「まぁ、ぬいぐるみでいいですよね」

我ながら無難な線だとヴェインは思う。前回も人形を使ったはずだ。

「ワシリーサ人形、余ってたよね?」

材料を集めるのも難しくなく、アクセサリの中でも比較的作りやすいワシリーサ人形は一年生の頃こそ作り、戦闘で重宝したが、三年生になった今ではあまり持ち出さない。
確かかつて作ったものが二つ、三つ残っていた筈だとヴェインは思った。
しかし、アクセサリ用のカゴを覗き込んだアンナは首を傾げている。

「あれ……おかしいですね。ひとつもありません」

「……ひとつも?」

ヴェインは首を傾げる。なにかの装備を作るときに使っただろうかとも思うが少なくとも彼には覚えがない。

「ニケ、最近なにか作った?」

「うちは知らないけど……そもそも装備にも使いづらいし、グンちゃんは?」

確かにあまり頻繁に使うものでもないしな、とヴェインは頷きながらグンナルのほうを見ると……彼は眉根を寄せていた。

「むう……」

「覚えがあるんですか?」

アンナが怪訝そうに聞くとグンナルはゆっくり頷いた。

「うむ、そもそも俺様が戻ってきたのもそれが理由でな」

足りなくなったのだ。とグンナルは言う。

「足りなくなったって……人形がですか?」

何に使ったんだろうとヴェインが疑問に思っているとニケがなにか思い出したように言った。

「それってひょっとして朝から作ってたやつ?」

再び頷くグンナルを見てヴェインは微妙な顔になる。先ほどアンナに聞いた話と合わせて、自分は何を着ろと言われるのか、言い知れない不安がこみ上げてきたのだった。
アンナがため息を吐く。

「あまり変なものに使い込まないでください」

「まぁいいではないか、無ければ作ればいいのだ」

グンナルは悪びれないがやはりいつものことである。
アンナはそれを見てさらになにか言い募ろうとして……なにか気づいたのか、首をかしげた。

「あれ?」

「アンナ?」

ヴェインの声には答えずアンナはアトリエを振り返る。少し見渡してからアトリエの片隅に目を留めた。そこにはいくつかの小物が置かれた棚がある。

「グンナル先輩、あの棚にあった人形も使ったんですか?」

アンナに問われたグンナルはむ? と考えるように目線を上に向ける。

「首にリボンがついたワシリーサ人形なんですけど」

「そんなのあったっけ?」

ニケの疑問にアンナはすぐに頷いてヴェインのほうに顔を向ける。

「先輩覚えてませんか? いっしょにアトリエの掃除した時見たと思うんですか」

言われてみればあったかもしれない、とヴェインは考える。正直あまり覚えてはいなかったが、いつもアトリエの掃除をしているアンナが言うならあったんだろうと思う。

「そういえば棚の前に落ちていたものを使ったような気はするが……思い出せんな」

「アンナのだったの? それ」

ニケが意外そうに問うとアンナはいえ、私のではなく、と前置きして続けた。

「確かにパメラ先輩の物だったはずです。楽しそうに抱きしめているのを見た覚えがあります」

「へー、パメラの……って、え?」

なるほどと全員が頷いて……同時に硬直した。
アンナも発言してからその可能性に気づき動きを止める。
朝から探し物をしていたパメラ、ヴェインではないヴぇいん君、グンナルが装備を作るのに使ったという人形とアトリエから消えたパメラのお気に入りの人形。

「ひょっとして……」

ニケがおずおずとその可能性を口に出す。

「パメラが探してるのってその人形のことなんじゃ……」

沈黙がアトリエを支配する。ヴェイン、アンナ、ニケの三人は何も言わずにグンナルを見る。一様に、どこか痛ましいもの見る目だった。

「……う、む…いや、しかしまて、パメラは同じ人形を二つ、三つ持っていたはずだ」

グンナルは顔を引きつらせて言う。強引ではあるが決して無神経ではないアトリエの主は珍しく追い詰められていた。

「はい? そなの?」

「一時期パメラが錬金術に凝っていたときがあったろう、あの時だ」

薬以外にも作っていたのか、とヴェインは少し不安になった。

「安心しろ、薬品類以外は割と普通だ」

ヴェインの顔を見て言いたいことが分かったらしい。しかし、割ととつけたところがそこはかとなく不安だった。

「しかし、数があれば材料にしていいというものではありません」

じと目でにらむアンナを見てニケも援護に入る。

「……グンちゃん、素直に謝ったほうがいいよ、これは」

「そうです。パメラ先輩、あの人形を本当に大切にしていたようですし……」

「先輩……」

後輩三人の言葉をうけてグンナルは静かに眼を閉じる。

「うむ……」

腕組みしたままグンナルは頷く。
それを見たアンナもまた頷き提案する。

「ひとまずパメラ先輩を探さなくてはなりません」

「といってもどこにいるのか……」

先ほどの台詞通り図書館にいるとも思えない。言外に言った言葉はちゃんとアトリエメンバーに伝わっていた。
……否、その場にいる、ある一人以外の全員に。

「……みんな誰か探してるの~?」

「ああ、ちょうどよかった、パメラも一緒にパメラ探すの手伝ってよ」

ニケは後ろから尋ねてくるその声に答える。
アンナは人手が増えますね、と呟こうとして再び固まった。

「私を? どうして~?」

それは皆が良く知る声だった。
ニケは声の主に背を向けたまま答える。

「グンちゃんがパメラのぬいぐるみを錬金術に使っちゃって、謝らなくちゃならないんだよ…………え?」

答えてからようやく気づく、どこか間延びした、アトリエ最年長の少女の声。

「……それ本当なの~?」

いつの間にか、壁をすり抜けてアトリエに入ってきていた幽霊少女。
パメラ・イービスがそこにいた。

※ ※ ※ ※ ※

「ひどい! ひどいわ! あんまりよ~!」

「悪かった! 許せ!」

フィロメール・アルトゥングがアトリエに入って最初に見たのは眉を吊り上げて怒るパメラの姿だった。様子を見る限り叱られているのはグンナルらしいことを知り、何をやったんだろうと首を傾げる。

「ねぇ、ニケちゃん」

「ん? ああ、フィロ」

「フィロ先輩、おはようございます」

声をかけるとニケとアンナが振り向いた。ヴェインはフィロが入ってきたことに気づいていない、グンナルからの、なんとかしろといわんばかりのアイコンタクトにそれどころじゃないらしい。

「どうしたの?」

聞くとアンナは、一瞬グンナルのほうに目を向けてから答えた。

「実は、グンナル先輩がパメラのぬいぐるみを材料にしてしまって」

「ふぇ?」

フィロはパメラの脇を浮かぶくまに目を向ける。疑問符を浮かべたままのフィロを見てニケは言いたいことを察して苦笑いを浮かべた。

「あー、あれじゃなくて、ワシリーサ人形だよ。パメラのお気に入りだったんだって」

「……え? それってまさか……」

フィロには心当たりがあった。顔が引きつるのを自覚する。

「フィロ先輩?」

なにか知っているのですか? とアンナが続けようとしたが、フィロは聞いていなかった。
直前のヴェインたちの会話に気を取られたから。

「パメラ、もう許してあげたほうが……」

「ダメよ~、あれは大切な……」

「ワシリーサ人形なら代わりを作るのは難しくないし、ね? 僕も協力するから……」

まずいと思ったのは一瞬。
とりなすようなヴェインの言葉を聞いて思わずフィロは叫んだ。

「だめ! ヴェイン君!!」

「え?」

フィロの声に驚いたよう振り向くヴェイン。だが、フィロはヴェインのほうではなくその奥にいるパメラを見ていた。
アトリエにいる誰もが大声を出したフィロを見ていた。パメラ以外の誰もが。
だからパメラの様子を見ていたのもフィロだけだった。
ヴェインの言葉を聞いたパメラは一瞬驚いたように目を見開いて、うつむく。
そしてぼそりと呟いた。

「……くまさん、おねがい」

呼応するように、ピンクのくまのぬいぐるみが巨大化していく。きらりと瞳が輝き、こめかみに青筋を浮かべて。

「ヴェイン君の……」

悪寒を感じたヴェインが振り向くとそこにはヴェインの背丈をはるかに越えるくまのぬいぐるみ。そしてその前で満面の笑みを浮かべるパメラだった。

「ばかーーーーーーーーーーーー!!!」

そしてアトリエに血の花が咲く。

※ ※ ※ ※ ※

「昨日ね、パメラが私の部屋を訪ねてきたの」

フィロは静かに話し始める。
パメラが去った後のアトリエ。
グンナル、ニケ、アンナの三人は何も言わずにそれを聞いている。

「ぬいぐるみを直してくれないかって」

「ぬいぐるみ? それって…」

ニケは聞くが、それはどちらかというと疑問と言うより確認に近かった。
さすがにこの状況では察しが着いていた。

「うん、ワシリーサ人形だって」

「直す、ということは壊れていたのか?」

グンナルは手元にある、拳大の機械をいじりながら聞く。

「探索の最中モンスターの攻撃で少し破けちゃったそうです」

フィロは答えを聞いて、思い出したようにアンナは言う。

「探索……そういえば少し前に、ひどく気落ちした様子で戻ってきたことがありましたけど……すぐに資料室に戻ってしまいましたが」

材料だけアトリエに置いてさっさと資料室に戻っていったと言う。
後から聞いたら嫌なことがあったから早く寝てしまったとは本人の談らしい。

「んで、それがヴぇいんくん?」

「やはり名前だったんですね」

頷くフィロを見て、苦笑を浮かべてニケは言う。アンナは納得がいったように頷き返している。

「しかし、それならばぬいぐるみはフィロの所にあるはずではないか?」

「アトリエに置いたまま忘れてきちゃったそうです。取りに行くっていってアトリエの方に飛んでったんですけど……」

なかなか戻ってこないからここまで来た、とフィロは言う。
しかし、グンナルは得心がいかないのか、顔を上げる。

「あの様子は尋常のものではなかった。複数の人形の中でもそれが殊更気に入っていたということか?」

フィロは再び頷く。そしてグンナルが手に持つ機械。
グンナル的秘密道具その拾五、戸乱恣意場亜を見つめながら、真剣な面持ちで口を開いた。

「はい、確かにパメラはワシリーサ人形なら同じものを2、3個持ってる。でも、破けてしまった人形は……」

※ ※ ※ ※ ※

「僕がパメラのために作ったものだった」

ヴェインは走りながら呟く。
フィロの話は全て胸ポケットに入れた戸乱恣意場亜から聞こえていた。
あの後、パメラを追いかけろとフィロらしからぬ強い剣幕で言われたヴェインは、グンナルに投げ渡された戸乱恣意場亜片手にパメラを追いかけていた。
おそらく必要になる、と判断したのだろう。現にヴェインは助かった。
しかし同時に言われなければ気づけなかった自分を情けなく思う。
代わりなら簡単に作れる。おそらくヴェインにだけは言われたくなかった台詞だったのだろう、自分が大切にしていた人形を作った、その人にだけは。
悪いことを言ってしまったと思う。正直何といって謝れば良いかも分からない。
いっそ戸乱恣意場亜の向こうにいる皆に聞ければ楽なのだろう。しかしそれではいけない、悪いと思う自分が自分の言葉で謝らなければならない。ヴェインは戸乱恣意場亜のスイッチを切る。どうすればいいか、なにを言えばいいか、それは誰かに聞くようなことじゃないと思うから。
視界の隅で、美しい銀髪がひるがえる。
アルレビス学園・資料室、その最奥である未整理区域、終着点はそこだった。

※ ※ ※ ※ ※

「まぁ、ヴェインなら問題なかろう、決めるところは決める男だ」

スイッチを切られて沈黙した戸乱恣意場亜を懐にしまいながらグンナルは言う。

「元々、グンちゃんのせいだけどねー」

「そうですよ、ちゃんとパメラに謝ってくださいね」

「わかったわかった」

しっかりと釘をさすニケとフィロから微妙に視線をはずして答えるグンナル。
残るアンナはぼんやりとアトリエの入り口を見ていた。

「アンナちゃん? どうしたの?」

「え? あ、はいなんでしょう?」

一瞬気の抜けた返事を返してからようやく反応するアンナにフィロは首を傾げる。

「どうしたの? ヴェイン君たちが心配?」

「いえ、そうじゃないんです。そうじゃなくて……」

ひどく歯切れが悪い。珍しいこともあるなとフィロは思う。
しかしアンナ自身どう言えばいいのか困惑しているようだった。やがてどこか困ったようにも見える顔を振ってアンナは話題を変える。

「いえ、なんでもありません。それよりロクシス先輩遅いですね」

「む、そういえば一度も顔を見ていないな」

「んー、アトリエにはまだ顔出してないよね」

グンナルとニケが会話に加わる。
気になったフィロではあったが改めて聞きなおすのもなんとなくはばかられて話題に乗ることにする。それに件の眼鏡をかけた同級生についてなら本人から話を聞いている。

「ロクシス君なら、やることがあるから少し遅れるって廊下で会ったときに言ってたよ」

「やること?」

宿題か何か? とニケは言うがグンナルが否定する。

「それはないな、奴は夏休みの宿題を始めの三日で終わらせるタイプだ」

「グンちゃんは最後の三日で終わらせるタイプだよね」

ニケは茶化すようにグンナルに言うが、彼は首を振って否定する。

「いや、最後までやらないタイプだ」

「自慢気に言うことではありません」

二年連続留年だけは本当にやめてください、とアンナがいうが本人はあまり取り合わない。

「授業自体は出ているから問題あるまい、まぁロクシスならそのうち来るだろう」

「私がどうかしましたか」

聞こえてきた声に、全員が入り口に目を向けて……ある一点に凝視した。

「……なんだ、一体」

一種異様な光景にロクシスが引く。しかしそんな彼にかまわず全員が彼の手元を見ていた。
引きつった顔でこちらを見る。金髪長髪の眼鏡の男子生徒、それはいい。問題はそこじゃない。問題は彼が片手に持つ小さめのかばん。そこから垣間見えるいくつかのアクセサリ。
フレイムリングなどの中にまぎれる、黒いリボンをつけた……。

「あーーーーーー!!!」

いっせいに指差されたロクシスは困惑したように呟く。

「何なんだ一体……」

※ ※ ※ ※ ※

「パメラ!!」

無数の本が無造作に積まれた、埃っぽい資料室の一角。
部屋の中でも殊更高い本の塔に隠れるようにして、ヴェインの探し人はそこにいた。
体の半分だけ出してこちらをじっとりと見つめるパメラの姿にヴェインは思わず気おされそうになるが、なんとか一歩踏み出す。

「パメラ、少し聞いて欲しいことが……」

「私はないもん」

一言で切り捨てられるが、ヴェインはめげない。

「そんなこといわないで」

「……ふーん」

そっぽを向くパメラの様子にヴェインは困ったように頭をかく。
しかし、逃げずに立ち止まってくれているということは、そういうことなんだろうと考え直した。

「えっと、まずごめん。パメラがそんなに大事にしてくれていたとは思わなくて……」

「別に、ヴェイン君からもらったものだからじゃないもん。可愛かったからだもん」

なんだかいつになく子どもっぽい口調のパメラに思わず苦笑がもれる。

「なにがおもしろいの~?」

まずいと思って向き直ったときにはもう遅く、パメラは先ほどより三割り増しに剣呑な視線を向けてくる。

「ごめんね。本当に悪かったと思ってるんだ、なんでもするから許してくれないかな?」

これ以上怒らせると目も当てられないとばかりにヴェインは謝り倒す。
しばらく頬を膨らませて黙っていたパメラはやがてぽつりとこぼした。

「ほんとになんでも?」

改めて聞き返されて、こっちはこっちでまずいこと言っちゃったかなと後悔しかけたのは一瞬。まっすぐパメラを見つめ返す。

「僕にできることなら」

パメラはさらに念を押す。

「言ったわよ? 聞いちゃったからね?」

「うん」

いつの間にかパメラは笑みを浮かべていた。
ヴェインが見慣れた笑顔に少しだけいたずらっぽいものを混ぜて。

「すごいこと言っちゃうわよ?」

ヴェインもまた知らずうちに微笑んでいた。
パメラと話すときよく浮かべる、苦笑交じりの笑みを。

「いいよ」

「じゃあ……」

パメラはそのお願いを口にする。
それを聞いてヴェインは少し驚いたあと、苦笑を浮かべたまま頷いた。

※ ※ ※ ※ ※

「ようやく来たか」

パメラと共にアトリエに戻ったヴェインを迎えたのはロクシスのそんな一言だった。
今日は一度も見ることがなかった同級生の姿にヴェインは目を丸くする。

「あれ? おはよう、ロクシス」

「ロクシス君こんにちは~」

ヴェインの横からパメラが笑顔で挨拶をする。
一目見て分かる程に上機嫌のパメラを見て、ロクシスの後ろから様子を伺っていたアトリエメンバー達はほっとしたように息をついていた。

「その様子だとうまくいったんですね?」

「うむ、貴様ならうまくやると思っていたぞ」

「まぁ、なんとか」

答えながらもヴェインは少しグンナルに抗議したくなった。

「でもグンナル先輩……」

「わかっている。みなまで言うな。言うのならあれを見てからにしろ」

グンナルの指差す先を見たヴェインは目を丸くする。
横で首を傾げていたパメラもそちらに視線を向けて大声を上げた。

「あ~~~~~~! ヴぇいんくん~~~!!」

アトリエの机の上、首に黒いリボンを巻かれたワシリーサ人形が鎮座していた。
急いで駆け寄ったパメラが胸に抱きしめて笑みを深める。

「あの人形は……、あれ? 先輩が材料にしたんじゃ……」

「俺様が使ったのは違う奴だ。元凶はロクシスだったぞ」

グンナルの隣のロクシスは心底心外そうにしている。

「そうなの?」

ヴェインが尋ねるとため息をひとつ吐いて頷く。

「持ち出したという意味なら確かにそうだ。アトリエのアクセサリの一部が戦闘の影響で損傷していたからな、補修していたんだ」

そこまで言って、ロクシスは黙って話を聞いていたパメラに顔を向けて頭を下げる。

「申し訳ない。ここまで大事になるとは思っていませんでした」

パメラは笑顔のまま首を振る。

「いいのよ~、むしろ直してくれたんですもの、ありがと~ロクシス君」

そんなパメラの様子を見ながら、ヴェインの元にそのほかの女性陣が近づいてくる。

「仲直りできたのはよかったけど……」

「なんかもう怖いくらいに上機嫌ね」

「なんていったんですか、先輩?」

三人の問いになんて答えたものだろうかとヴェインは少し考えて結局ありのままに答えることにした。

「うん、なんでもするから許して欲しいって言ったらね……」

三人の顔が引きつった。

「な、なんていうか。ヴェイン迂闊すぎない?」

ニケの台詞にヴェインは苦笑する。一体どんなこと言われたと思っているんだろうか、とそこまで思って自分もなにを言われるのか緊張したことを思い出して、人のことはいえないなぁと笑みを深くした。

「それでなんて言われたの?」

「うん、実はね……」

※ ※ ※ ※ ※

「まぁ、それでワシリーサ人形を百個も作ることになったんだけどね」

「にゃおん」

誰に向かって言っているんだ。と訝しげに言うサルファになんでもないよと曖昧に笑いかけて。ヴェインは手を止めていた裁縫を再開する。
アトリエにはヴェインとパメラしかいない。他のメンバーは人形のための材料を調達しに行ってくるといっていた。なんだかんだで手伝ってくれるのはありがたいとヴェインは思う。思うが、彼には分からないことがひとつある。

「全員で行く必要あったのかな……?」

人形の主だった材料がある生きし森は一年生が最初に出入りするダンジョン。
学園でも屈指の戦闘能力を誇るグンナルのアトリエのメンバーなら一人でも出入り可能なはずだった。

(そういえば、ニケと先輩がごゆっくりって言っていたけど、あれはどういう意味だったんだろう?)

ふたりの浮かべていた、どこか悪戯っぽい顔を思い出してそこはかとなく不安が募った。

(まぁ、課題とは違って時間制限があるわけじゃないからゆっくり作れるといえば作れるけど)

彼には分からない。
そんなヴェインの横ではパメラが楽しそうに色とりどりの布を浮かべている。

「うふふ~、次はこの色の布を使って~、あ、同じ形のばかりだとなんだから次の次の子は頭に工夫を……」

楽しそうに呟くパメラを視界におさめてぽつりと呟く。

「本当に、僕も慣れてきたなぁ」

この距離感はずっと変わらないのだろうとヴェインは漠然と思う。
そしてそれをどこか心地よく感じている自分に少しおかしくなった。

「ヴェイン君? なにか言った?」

なんでもないよ。と笑って答える。
さぁ、あと七十二個だ。
ヴェインは首を傾げるパメラの顔を見ながら作業を再開する。

アトリエの片隅。
棚の上におかれたピンクのくまのぬいぐるみと黒いリボンを巻かれた人形、ふたつの寄り添うように置かれた人形がそんなふたりを静かに見守っていた。



[28800] ONLY MY WISH
Name: 秋月 桂◆02e75bbd ID:922c878b
Date: 2011/08/10 18:57
一瞬の浮遊感。
魔力を伴った燐光に包まれたかと思えば、少女の目の前には恐ろしく冷めた瞳をもつ女性が立っていた。

「え……?」

つい先ほどまで少女と女性はそこそこの距離をおいて対峙していた。それは少女が女性に対して警戒心を抱いていたからであり、共に対峙していた仲間たちも同様に、少女のすぐ傍に居るはずだった。

しかし、その警戒はその瞬間完全に意味の無いものと化していた。
手が伸ばせば届くような距離。戦闘における一刀一足の間合いですらない、長い得物を振るのも苦労するような完全な至近距離だ。

転移魔法。

それも詠唱も予備動作もほぼ不必要なほどに完成された高等魔術。
自分がそれをかけられたと悟ると同時、身体の中心に穴が開いたような激痛が生まれた。

「っ!」

警戒する間もない完全な不意打ち。
後ろで息を呑む仲間達ですら何の動作も起こせなかった、完璧といっていいその一撃は確かに少女の急所を貫いていた。

「あなた、は……」

刺されたという確信はもはや意味を成さない。
それを生かすにはあまりにも遅い時間だった。

「大丈夫よ、確信があるから」

目に暗い光を宿して女性は言う。
そこには自分が今まさに手にかけた少女への感慨はほとんど含まれていない。
死に至ることは無いと知っている試薬を与え、苦しむラットを観察する科学者のような、奇妙な確信と氷のような冷徹さだけがそこにある。
そして少女にはその真意を問いかけるような時間は無い。
自分の身体だけあって、もはや自分が手遅れであるということも確信できた。

「くっ……無念」

悔しそうに呟くその声に、もはやいつもの張りはなく。
あっけないほど簡単に。

その日、アンナ・レムリは命を落とした。

※ ※ ※ ※ ※

「ん……あれ?」

意識を取り戻したその時、アンナは最初自分がどこに居るのか分からなかった。
薬品の匂いが漂う部屋である。
卵とはいえ錬金術師である彼女にとって薬品の匂いはかぎなれたものだったが、その部屋に漂っている匂いはアトリエのそれより少し濃い。
自分の目線の先には見慣れない天井。
背のふかふかという感触が自分がベッドの上に横たわっていることを教えてくれる。
目線を少しずらせばベッドと部屋を区切る白いカーテン。開け放たれた窓からは茜色の空が垣間見えた。
こうして横になった記憶こそないものの、少女にとってその場所は幾度となく来たことがある場所である。

「保健室……?」

体を起こして首を傾げる。
場所は分かっても、どうして自分がここにいるのかは分からない。
寝起きでうまく働かない頭に喝を入れつつ。少しずつ、糸を手繰るように記憶を探る。

(私は、確か……アトリエにイゾルデ先生が来て……先輩たちといっしょに資料室の未整理区画に行って……)

鮮明に呼び起こされていく光景。そして、

(そして、その後……っ!!)

自身の体を貫く灼熱の感触を思い出した。

「あ……」

それに至った瞬間、強い寒気と共に体が震えた。
息を吸うことにすら苦痛が伴うのは呼吸のリズムが狂っているからか、
嫌な汗が体を伝って、ひどい吐き気が襲い掛かってきた。

「くぅっ……うぅ」

震えを無理やり押さえ込むように自分の体を掻き抱いた。
それでも震えはとまらず、小刻みに体が揺れる。

一度自覚した瞬間、堰を切ったようにあふれ出す感覚。

体の奥底が何かに焼かれるような灼熱感。
次の瞬間、自分の中から急激に何かが抜けていく感覚。
一転して冷えていく自分の身体。
絶え間ない激痛と共に埋没していく意識。

「ううぅ……」

掻き抱いた手が右胸、心臓の辺りをつかむように動く。
なんの異常もなく、傷ひとつない身体。
だというのに有り得もしない痛みが未だに自身を苛んでいるような気がした。
苦しいほどに胸を打つ鼓動を抑えるように、切れた息を整えるように努力をしてもそれらはまったく静まる気配を見せない。

「情け、ない……」

死ぬ覚悟が出来ていたなどという気は微塵もない。だが、武道に身を置くものとして心構えぐらいは出来ていると思っていた、そのはずだったのに。
実際に触れた死はどこまでも冷たくて、どこまでも恐ろしいものだった。

途方もない寂寥感が沸き起こった。親とはぐれた子どものような心細さはその全身を包み込むように湧き出てくる。
この部屋に自分以外の誰も居ないことは既に確認済みだった。
生来の気丈さが、弱っているところを誰にも見せたくないと安堵する。
無自覚ですらあった弱い部分が、孤独の恐怖に怯えている。
誰も居なくて良かった、けれども誰か傍に居て欲しい。
相反する感情の板ばさみに、助けを求めるように辺りを見回したアンナは、程なく視界の隅にそれを捉えた。

「あ……」

ベッド脇の小机。自分の帽子と共に置かれていたそれは。

※ ※ ※ ※ ※

「先輩!」

どこまでも広がる蒼穹。その中に幾つも点在する巨大な骨。
橋のように不安定な白い骨の道が浮かぶその地、竜の墓場に鋭い声が響いた。

「へ? ……うわ!」

切羽詰った声で呼ばれた声に、どこか間の抜けた声を出しながら振り返った少年、ヴェインはこちらを睨む異形の姿に顔を引きつらせた。
鎧を着込み剣を携えた、竜と人とを足して二で割ったような異形、リザードロードが今まさにヴェインに切りかからんと剣を振り上げている。
耳障りな咆哮と殺気に満ちた、爬虫類特有の残忍な目を認めた瞬間、ヴェインは条件反射にも等しい速度で片手に握った剣を振り上げた、だが。

(間に合わない!)

一瞬、しかしことここに至っては絶望的な時間差が立ちはだかる。
振り下ろされた剣、それは吸い込まれるようにヴェインの身体に向かい、

「っやぁぁぁぁ!!」

裂帛の気合と共に腕ごとあらぬ方向へ切り飛ばされた。

「グ、ガ……?」

側面、第三者からの攻撃。
一瞬、リザードロードなにが起こったのか把握すらできず、それができた瞬間には、間髪居れず放たれたヴェインの斬撃がその首を跳ね飛ばした。

「先輩! 大丈夫ですか!?」

「……なんとかね」

盛大に血を吹きながら崩れ落ちた胴体に目を向けながらヴェインはため息をついた。
生きた心地がしなかったとは正にこのことである。実際、今彼に駆け寄ってきた少女、アンナの助けがなければ冗談抜きに死んでいた。
先ほどの状況をいまさらながらに自覚して、ヴェインは背筋をブルリと振るわせた。










「戦闘中に気を抜くなんてなに考えてるんですか!」

「う、うん、ごめんアンナ」

文字通り血相を変えて援護を飛ばしてくれたアンナは今は一転、顔を真っ赤に染めて怒鳴っていた。聞き手のヴェインは正座である。その座り方はヴェインの知るものではなく、正座と言う名前自体彼は知らなかったのだが、何故だかこう座らないといけない気がして、彼は硬質な骨の上でしびれる足を必死で耐えていた。

「一歩遅かったら本当に死んでたんですよ!?」

「ごめんなさい……」

常の落ち着きはどこへやら。どうやら本気で怒っているらしいアンナの様子にひたすら平身低頭のヴェインである。
先の様子からもよほど心配をかけたことがよく分かって、ヴェインはなんだかとても申し訳なかった。

今ふたりが居るのは先の戦場から少し離れた地点。竜の墓場入り口付近の少しスペースがある場所である。
あの場においてあれが最後の敵だったこともあり、ふたりは戦利品回収も手早く、この地点まで戻ってきていた。
ここに移動するまでのアンナは一言もしゃべることはなくずんずん前を突き進んでいてヴェインは非常に怖かった。道をふさぐようにモンスターが現れても、出現した瞬間に無言で一刀両断していた彼女から、先のリザードロードよりも強いプレッシャーを受けたことは黙っておくべきだろうとヴェインは思う。

「聞いてるんですか!」

「本当にごめんなさい!」

もはやそれしか道はないとばかりに謝り倒すヴェインをアンナはじっとりと睨む。
一秒、二秒、ひどく居心地が悪いことこの上ないヴェインだったが、唐突にふっと眼力が緩んだ。蛇に睨まれた蛙のごとく萎縮していた身体が軽くなった気さえする。
彼がおそるおそる下げていた目線を上げると、そこには疲れたようにため息を吐くアンナの姿があった。

「はぁ……」

どうやらこれ以上説教を続けるわけではないらしいと思わずほっと息をついたヴェインを一睨みして、アンナはヴェインの真横、ベンチのように突き出た大きな骨に腰を下ろした。
足はもう崩して良いですよ、と前置きして彼女は口を開く。

「先輩、最近ぼーっとしてます」

ぽつりと呟くように言って、アンナはヴェインへと視線を向ける。

「えっと……」

「今日だけじゃありません」

念を押すように繰り返して返答を促してくるアンナの様子に、ヴェインは答えに窮した。
別に後ろ暗いことがあるわけではない、むしろ彼にとってアンナに言われたことは無自覚のことだった。言われて初めて思い当たったのだ。
故に彼女が求めている答えもすぐには見つからない。
最近の自分へと思いを馳せ、考え込むように視線を上に向ける。
問いかけたアンナもそこらへんは予想していたのか、心得たようにヴェインの答えを待っている。

「色々、考えることがあったから……かな?」

はたして、ヴェインの口から出たのは考えてから出したにしてはあまりにも曖昧な答えだった。アンナからの視線が微妙にきつくなるのに少し焦りながらもヴェインは補足するように言葉を足していく。

「卒業のこと、これからのこととか」

「進路のこと、ということですか?」

どこか訝しげに、首を傾げるアンナにヴェインは頷く。
そして続けた言葉はどこか言い辛そうなものだった。

「それに、サルファのこととか」

彼の横で、アンナから見てヴェインを挟んだ位置に丸くなっている黒猫を目で指す彼は、どこか困ったような様子だった。

「……」

それを見て、アンナはどこか反省するように、気落ちしたようにヴェインへ向けた視線を逸らす。

こちらを一瞥した後、我関せずと言わんばかりに目を閉じた黒猫がついこの間までろくに動けない状態だったのはアンナも知っている。
そしてそれを回復せしめた原因が、他ならぬヴェインにあるではないか、そう思っているのは自分だけではないということもまた彼女も理解していた。
竜の墓場、最深層にて彼女を含めたアトリエメンバー全員が見た、目を覆わんばかりの強い光。ヴェインの身体から溢れ出したその光が何だったのか。
サルファはその光によって完治したのではないか。
その疑問はアトリエメンバー全員の共通のものなのだろう。
そう、おそらくはヴェインも含めた、全員の。

しかし、くだんの一件からその疑問を口に出したものはいない。
皆、避けていたのだ。それは今の心地よい環境に何らかの変化を齎すものだと無意識のうちに理解していたからか、それは自分たちが変わらずとも、周りが変わらざるを得ないような類のものだと予感していたからか。

その場の勢いで聞き質すようなことではない。
それを理解していたからこそ、不用意にそこへと触れてしまった自分の迂闊さをアンナは悔いていた。

「……戻ろうか?」

そして、ヴェインもまたそんな様子のアンナに気まずいものを感じていた。
思わず逃げるような発言をしてアンナへと視線を向ける。

「はい……」

いや、それは確かに逃げだったのだろう。彼自身いつかはっきりさせないといけないと理解している。その機会を先延ばしにしただけ。
だが、今がその時でないこともまた確かだとヴェインは思う。
そうと遠くない時、その時は来る、そう彼は予感していたのだった。

もっとも、それがつい先ほどまで自分を案じ、今もまた自分のことに気を回して落ち込んでいる少女の死という、彼にとって想定すらできないほどの最悪だとは彼には知る由もなかったのだが。

「……」

未だ見ぬ、未来へと目を向けるヴェインの様子にアンナは底知れぬ不安を感じていた。
彼女にもその正体は分からない、漠然と湧き出た衝動。
それに突き動かされたように、いつのまにか彼女は声を出していた。

「あ、せ、先輩!」

「えっと、どうしたの?」

きょとんとした様子で聞き返すヴェイン、しかし、対するアンナは頭が真っ白になっていた。

「あ、う、その、えっと」

なにせ感情のままに呼びかけていたのである。彼女自身どうして呼び止めたか分からないのに続く言葉などあるはずがない。

「え、あ、あうう」

「あ、アンナ?」

彼女自身よく分からない、うめき声のようなものがもれる。
いよいよおかしいと思ったのか、ヴェインはアンナの顔を覗き込むように身をかがめる。

(か、顔が……ち、近……!)

いよいよもって混乱の極致にあるアンナの顔が見る見る紅くなっていく。
何故か同時に動悸も激しくなってきており、目がぐるぐると回っているような感覚すら覚えた。

「アンナ? ねぇ、ちょっと、アンナってば!」

(なにか、なにか答えねば、えっと、話題、話題、羽鯛、話題……)

なにか途中混じった気がするが知ったことではない。
果たして空回り気味に思考をまわすアンナは、

「そうだ!」

「へっ?」

やがて天啓が降りたかのような錯覚と共に話題を見つけた。

「先輩!」

「え、な、何? 後さっきのそうだって一体何のこt」

「これ、持っておいてください!」

混乱状態から一転、息を吹き返したように詰め寄る後輩の姿にヴェインの身体がわずかに引き気味になる。
しかし、当人は気づいているのかいないのか、いまだわずかに紅い顔をこちらに向けて何かを突き出してきた。

「えっと…?」

勢いからか、アンナが突き出してきたなにかを片手で思わず受け取ってしまったヴェインは、手のひらを開いてそれを見る。

それは朱色を主体とした小さく、長方形の平べったい布袋のようなものだった。
金色の糸などで装飾され、中央に達筆な字が縫い合わせられているそれは何かの民族工芸品のようにも見える。

「アンナ、これは何?」

「はい? なにってそれは……ああ、そういえばこちら側にこういうものはありませんでしたか」

新しく作ったアイテムかなと思いつつヴェインが尋ねると、アンナはきょとんとした顔になった。渡した本人からしてもそのリアクションは予想外だったらしい。
一瞬小首を傾げたアンナは、しかしすぐに納得言ったらしく頷いていた。

「それは私の住んでいた地方にあるお守りです」

「お守り?」

なんでも神社という施設でもらえる厄除けの一種らしい。
へー、と納得しながら手のひらのそれを見ているヴェインにアンナは元気に頷いた。

「はい! その、最近の先輩はなんだか危なっかしいので……」

「あー」

あんなことがあった手前、そういわれると何をいえないな、とヴェインは苦笑する。
だが、心配してくれるのは純粋に嬉しい。

「ありがとう、アンナ」

「え、あ、はい……」

感謝をこめてお礼を言ったつもりだったが、どうにも反応が芳しくない。
煮え切らない態度のアンナも珍しいなとヴェインは首を傾げる。

「えっと、その、そろそろ戻りましょうか?」

何故か目線を微妙に泳がせながら提案するアンナを不思議に思いながらも、断る理由もないのでヴェインは頷く。

「あ、そうだ。アンナ」

いざ帰ろうと、アンナについていこうとしたとき、ヴェインはあること思いついた。
アイテムなどを入れておくためのバッグに手を入れて目的のものを探る。

「はい?」

「これ」

そういって差し出したヴェインの手のひらに乗っているのはシンプルなデザインのペンダントだった。
どこか荒削りながらも綺麗な彫刻の施された枠の中に深い青色の鉱石が嵌っているそれは、アンナから見ても中々質の良いものに見えた。

「この間、調合してたら材料が微妙に余って。暇に飽かして作ってみたんだ」

「これを……私に、ですか?」

「うん、お守りのお返しにどうかと思って……えっと、気に入らない?」

何故か微妙に膠着状態のアンナの様子にヴェインが尋ねると、アンナは即座に首を振った。

「い、いえ! あ、ありがとうございます」

反応がなかったので少しばかり不安だったが、杞憂だったらしい。
ペンダントを胸に抱いて、笑顔で大切にすると告げるアンナの様子にヴェインはほっと息をつく。

「帰りましょう、先輩!」

「うん」

前を進むアンナはヴェインの目から見ても機嫌が良いように見える。
ちょっとしたお礼のつもりだったが、ここまで喜んでもらえるとはヴェイン自身想定外だった。自然ヴェインも頬が緩み、

「たぁぁぁぁ!」

軽やかな足取りで帰路の敵を切り刻むアンナの様子に、緩めた頬を即座に引きつらせた。

※ ※ ※ ※ ※

すがるように伸びた手の先。
それをつかんだアンナはゆっくりと手を自身の元に引き寄せた。
硬質な、ひんやりとした感触を伝えるそれはアンナの手の中できらりと光る。
青い鉱石をはめこんだ、精緻な意匠のペンダント。

「……はぁ」

自身を落ちつかせるように深呼吸をひとつ、握ったそれを自身の胸元に引き寄せ目を閉じる。

「……」

遠く、澄ました耳に夕暮れの喧騒が届く。
変化はゆっくりと、しかし確実なものだった。
先ほどまで早鐘のように鳴っていた心音が少しづつ、確かに静まっていくのを感じた。恐怖で凝り固まった心が解け、じんわりと温まっていく。
凍えるような死の影は鳴りを潜め、鈍くなった感情が平静を取り戻してゆく。
自分の手の中にあるのは綺麗な、けれどもいってしまえばそれだけでしかないペンダント。

だと言うのに。

(どうして……)

どうしてこうも心が落ち着くのだろうか。
降って湧いたような安心感は果たしてどこから来るものか。

なにがではなく、なぜという点においてそれはアンナの理解の及ぶものではなかったが、
それでも、今彼女が抱いている温かな感情は確かなものだった。

「本当に、なぜでしょうね?」

問う言葉は果たして誰に当てられたものだったか。
微笑みながら呟いた言葉は虚空に消えて。

疑問を胸に、アンナはベッドから立ち上がった。
簡単に身支度を整えて、張られていたカーテンを勢いよく引く。
気配から察しはついていたが、夕暮れ時の保健室は自分のほかには誰も居なかったらしい。
常駐しているべき保険医すらいないのはどうなのだろうかとアンナは首を傾げたが、よくよく考えて先ほどの自分の呟きを人に聞かれることはなんだかとても恥ずかしいことのように思えて、アンナはほっと胸をなでおろした。
保険医の机にあったそれ専用の紙とペンを使って走り書きの書置きを残すと、アンナは足早に保健室を出る。
特に急ぐ用事が在るわけでもなく、けれどアンナの動きは機敏なものだった。
それは行動する前に思考する理性的な彼女には珍しい、しかし最近妙に増えてきた気がする。ひどく衝動的な動機である。
だが不思議とその選択をとることに否はなく、ただ淀みなく少女は足を速めた。
目的の地は判然とせず、けれど確かな動機がそこにある。

無性に、会いたい人がいたのだ。

※ ※ ※ ※ ※

「ヴェインならいないぞ」

男子寮の前、今の時間なら居る可能性が高いと踏んで訪ねたそこで返された台詞がそれだった。へ、思わず彼女らしくも無い間の抜けた返事を返してからアンナはきょとんとした顔で目の前の男子生徒を見つめる。
そんなアンナの様子を珍しいものを見たと、多少の驚きと共に見ながら長い金髪と眼鏡が特徴的な生徒、ロクシス・ローゼンクロイツは続けた。

「少なくとも部屋にはいない。……何かあいつに用があったのか?」

「用、というほどのものでもないのですが……」

同じアトリエのメンバーでもあり、事情を知っている数少ない仲間にして先輩であるロクシスの言葉に思わずアンナは言いよどむ。
返した言葉に嘘は無く、本当に用というほどのものではない。
ただ無性に会いたくなった、というのが訪ねた理由ではあれど、それを口にするのはなんだかとても気が引けた。
そんなアンナの様子を訝しげに思いながらもロクシスは言う。

「私はアトリエから戻ったばかりだ。向こうにも居る可能性は低いだろう」

「そう、ですか……」

想定していなかった訳ではないがそれでも落胆は隠せない。
部屋に戻らねばならない時間まではもう少しばかり。探すにしても急がなければならない。
だが、礼を述べて立ち去ろうとしたアンナをロクシスが止めた。

「待て、今から探しにいくのか」

頷くアンナにロクシスは少し考える素振りを見せてから言う。

「あんなことがあったばかりだ、少しそっとしておいた方がいいんじゃないか?」

「それは……」

あんなことという言葉に含まれる意味。ヴェインのメンタル面の他に、自分の身体に対しての懸念があることをアンナは感じ取っていた。
つい数時間前、確かに即死した状況から生還を果たしたのである。
彼女自身、特別体調が悪く感じることはなく、むしろすこぶる快調といっても良かったが、イレギュラーだらけの出来事の後である、用心に用心を重ねて悪いと言うことはあるまい。
それはアンナも理解はしている。自分があまり動き回るべきではないことも、それに、自分が訪ねようとしている先輩が今、不安定な状態にあるであろうことも。
だが……。

「すみません」

その一言に込められた意味に、ロクシスはため息をつきたくなる。
どうして自分のアトリエの連中はこうも面倒な者たちばかりなのかと。

“しかし、それは汝も同じことであろう?”

意地の悪い、笑みを含んだ言葉が聞こえた気がして、今度こそ本当に彼はため息をつく。

「ロクシス先輩?」

「……なんでもない、引き止めてすまなかったな」

急に黙り込んだロクシスを不思議そうに見ていたアンナだったが、やがて踵を返したロクシスに対し、頭をひとつ下げてから足早に駆けていく。
決して時間が有り余っているわけでもなし、彼女の行動は迅速だった。
一度だけ振り返り、その後姿を見やって彼は再びため息をつく。

「迷ってばかりのあいつとは対照的だな」

しかしだからこそ、ということもあるのかもしれない。
ただでさえ優柔不断な同級生の姿が頭によぎりロクシスは顔をしかめる。

(悩んでいるあいつの姿を見るのもストレスが溜まる……)

精々、隣の後輩にでも叱られるなりして、しっかりして欲しいものだ。

でないと、張り合いが無い。

遠く、刻々と沈み行く太陽を視界に納め、ロクシスは再び歩き出す。
ひとまずの懸念は消えた。アンナはこと妄想癖さえ入らなければアトリエでも屈指のしっかりものだ、まずいことにはならないだろう。
とはいえこうまで心がざわめくのは何故なのか。

(何事も無ければいいのだが……)

硬質な足音を響かせながらロクシスは寮の中へと消える。
誰も居なくなった廊下、誰も見ることの無い窓の外、鮮血のごとき光を撒き散らす太陽が静かに、しかし確実に沈んでいく。

静寂と共に影に包み込まれていく世界。

暗く、暗く、世界が染まり、

やがて、夜は来た。

※ ※ ※ ※ ※

アンナは焦っていた。
食堂、購買、図書室、教室、あらゆる場所を走り回った彼女だが、探し人はついぞとして見つけることが出来なかった。

(入れ違いにでもなったのでしょうか……)

寮に居なければならない時刻は既に1時間を切っている。
日ごろ鍛えているからか疲労こそ無かったが、もとより精神面では本調子ではないアンナである。タイムリミットへの焦りも相まっていささか鬱々とした感情が芽生え始めていた。

「はぁ」

ため息ひとつ。屋上への廊下を歩きながらアンナは考える。
見上げた先には、わずかに赤い残照を漏らす鉄扉。遠くからは寮に戻ることを促す低く、長い鐘の音が聞こえ始めていた。

(時間も時間です、日没までそう長くは無いですし……)

ここにいなければ寮に戻ろうか、とアンナはノブに手をかけ、

瞬間、

凄まじい寒気と共にアンナは反射に近い動きでノブから手を離した。

「……っ!!」

扉から即座に一歩離れる。
幾千、幾万もの練習を正確になぞらえ、背負った刀を腰へ片手を鯉口へ、もう片手を柄へと走らせた。
即座に抜刀できるように重心をわずかに下げ、一瞬にして全ての戦闘準備を整え終える。

何か、いる。

硬質な鉄扉の向こうに得体の知れない何かが存在している。

それを確信したのは思考ではなく、研ぎ澄まされた勘でもなく、
もっと深く、生物に根ざした本能であった。

(なん、ですか……?)

卵であるとはいえ、仮にも魔法やらなんやら様々な“力”を扱う錬金術師の端くれである。
モンスターとの戦いを始め、身の危険を感じる事態など珍しいものでもない。

だが、これは違う。
危険だとかそういうものではない
見たくも無いものを無理やり見せ付けられることにも似た嫌悪、あるいは忌避にも近い何かがしきりに警鐘を鳴らしていた。

つい先ほどまで何の変哲も無かった鉄扉が恐るべき異界への扉にも見えてくる錯覚。

「……」

それでも扉を開けることに躊躇しなかったのが何故なのか。
蛮勇という言葉はアンナという少女にとって縁遠い言葉の一つだ。現に彼女を突き動かしたのはそんなものではなく、彼女自身言葉にするのが難しい確信にも似た何かだった。
錆びれた鉄がこすれあう不快な音を聞きながらゆっくりと手に力を込めていく。
斜陽、そして新鮮な風が徐々に校内に漏れ出していき、警鐘はより強くなっていく。
のどが渇くのを感じながら、一息に力を入れて扉を開け放ち、
そして、彼女はそれを見た。

それは何より黒く、暗く、澱んだ姿をしていた。
黒く、生々しい肉の球体、それらがいくつもいくつもいくつも寄りあい、集まり、溶け合い、合わさり、巨大で歪んだひとつの球体となっていた。
側面からはだらりと垂れ下がった一対の青白い、触手にも見える腕が伸び、球体の下部からは用途が分からない器官にも似たなにかが垂れ下がっている。

だが、アンナの注意を引いたのはのはそれらではない。
目だ。
球体の中央、そこに輝く、赤い、巨大なひとつの眼。

それは傲慢であった。

それは嫉妬であった。

それは憤怒であった。

それは怠惰であった。

それは強欲であった。

それは暴食であった。

それは色欲であった。

それは何より狂気であり、孤独であった。

誰もが忌避し、直視することを怖れ、されども誰もが持ちうる、人間の負の側面。
凝縮されたそれらがからみつくようなその視線にこめられていた。

血よりも赤く、深く、色濃く、絶望に濡れた瞳。

常人ならば狂乱してもおかしくないようなそれに対して、一歩後ずさるのみで済んだのは何故だったのか。
それは彼女が幼少の頃より受けた精神鍛錬の賜物であったかもしれない。
だが、断じてそれだけではなかった、彼女は気づいていたのだ。この場にいる、もう一人の人間の存在に。
彼は球体の根本ともいうべき場所にいた。
どこかくすんだ色の銀髪に学園の男子学生服、どこか虚ろな表情を浮かべたその人は、アンナがつい先ほどまで探していた人物。

「ヴェイン、先輩……?」

かすれた、消え入るような呼びかけ。
それは目的の人物に届くよりも先に、彼女自身を正気に戻す役割を果たした。

「先輩!」

自分を見つめる球体がどういうものなのかはいまだに分からない。
それでも、明らかに尋常な事態ではないことは読み取れる。
茫然自失の彼に、明らかに精神面において健全とは思えないなにか。
見えない何かに突き動かされるようにアンナは駆けた。即座に抜刀、対処出来るように球体を警戒しつつもいまだこちらに気づいているかも定かではないヴェインに接近する。

しかし、予想に反して球体に動きはなく、拍子抜けするほどあっさりとヴェインのもとに辿り着いたアンナは驚愕に目を開いた。
先ほどまでぼんやりと虚空を見やっていた彼の視線が、自分に向けられて居ることに気づいたからだ。その瞳には確かな理性と知性の色があり、その表情は彼がよく浮かべるどこか困ったような苦笑だった。

だが、それを見たアンナが抱いたのは安堵ではなく、強烈な違和感と確信であった。

(違う)

姿形は確かにアンナが良く知るヴェインでこそあるが、

(この人は、先輩じゃない)

「本当に、」

立て続けに起こる事態に混乱の極みにありながらもアンナはその呟きを聞いた。

「彼は想われているね」

す、とヴェインによく似た少年がアンナに向けて手を翳す。

「羨ましいほどだよ」

どこか寂しげで少しだけ嬉しそうなそんな呟きを最後まで聞いたその時に。
アンナの意識は闇へと落ちた。

※ ※ ※ ※ ※

「ア……! ……ナ! アンナってば!」

遠く、自分を呼ぶような声が聞こえた気がして、アンナは重い目蓋をこじ開けた。

「……あれ?」

明けた視界に写った、見知った顔を見てアンナはぽつりと呟く。

「ヴェイン、先輩?」

「アンナ……」

なんで、と疑問を続けようとして、日射病にも似た頭痛を感じ、顔を顰める。

「大丈夫?」

問いかけるヴェインの背景には赤い空が広がっている。
現在、自分は仰向けの体制にあるらしい。そして妙にヴェインの顔が近くにある。
どうやら顔を覗き込まれるような形になっていることを知って、彼女自身不思議なほどに上ずった声が飛び出した。

「っ! せ、先輩、顔が近いです」

「あ、ごめん」

なんだか無性に気恥ずかしく思いながら言うと、彼自身は非常にあっさりとした様子で顔を引いた。

「……」

「どうしたの?」

「なんでもありません」

何故だかその様子に面白くないものを感じつつ、意図せず平坦な声でいうと、ヴェインが少し引いていた。なにかあったのだろうかと首を傾げる。

「それはそうと、どうして私はこんなところに……」

問いかけようとして、思い出す。
探し回って最後にたどりついた屋上、斜陽を背に存在していたのは……

「せ、先輩! あれはどこですか!?」

飛び起きるように身を起こすと、立ち眩みと共に視界が揺れた。

「ちょ、ちょっとアンナ! 落ち着いて」

よろめくように体制を崩したアンナの肩をヴェインは慌てて掴み、支える。
同年代と比較してもかなり小柄な、少し力を入れれば折れてしまいそうな華奢な体躯は、今まさに緊張にこわばっているのが分かる。だが、どうにもヴェインにはその理由が分かりかねた。

「なにをのんきな……!」

自身とは対照的に緊張感がない台詞を聞いて、アンナは思わず苛立つ
気を失う前、あれを見たときの警鐘を彼女はしっかりと覚えている。
あの球体が発していた、独特にして禍々しい気配はいままで対峙したあらゆるモンスターと比べても異質な危険を孕んでいるようだった。
しかも、いまだ日が沈んでいないことから、おそらく遭遇からあまり時間は経っていない。
警戒するなという方が難しかった。
アンナは台詞を切りながら素早く周囲に視線を巡らせるが、

「あれ?」


なにもいなかった。


夕暮れの屋上に落ちた影は二つ。
巨体の球体型モンスターはおろか、常ならばいっしょにいるはずのヴェインのマナ
(もっとも、本当は違うということがつい最近証明されてしまったが)であるところのサルファすらいない。正真正銘二人きりである。

「大丈夫?」

茫然と辺りを見回すアンナにヴェインが言う。

「悪い夢でも見たんじゃないかな」

その声にふるふると首を振る。あれは夢と呼ぶにはあまりにも生生しい。
そう、自分が目にしたあれは……、

「あ、れ?」

目にしたものは、なんだったろうか?

自分自身信じられないその問いはアンナの心に滑り込むようにして湧いてきた。

扉を開けたその先に、なにか恐ろしいものがいたのを覚えている。
だが、その警戒していたはずの何かが思い出せない。

それは大きかったか、小さかったか。

どんな色をしていたか。

いかなる形をしていたか。

記憶の中の輪郭がぼやけるようにして消えていく感覚。

急速に色あせていく、頭の中にあった、あったはずの風景。

なにより、その明らかに異様な忘却に疑問を抱けない。

「夢……?」

投げかけられたその言葉がにわかに真実味を帯びていく。
心が急速に整合性を整えていく。

「なにも、いませんでしたか?」

「アンナが怖がるようなものは、特には」

口にした後、そもそもアンナが怖がるものって、と疑問に思い始めた失礼な少年をじと目で黙らせる。

「……先輩は私を何だと思っているんですか?」

「ご、ごめん。でも、ほら、アンナって物怖じしないから、色々と」

甚だ心外であった。
その意味を込めて睨み続ける。

「……」

「……ごめんなさい」

ちゃんと謝ることが出来るのは美徳だとアンナは思う。
よろしい、と睨むのをやめると、ヴェインはほっと一息ついていた。

「うん、やっぱりあるよね、アンナにも」

「そりゃあ、私も人の子ですから」

まして年頃の娘である。
怖いもの知らずという評価はあまり嬉しいものはではない。
そう言外に告げた時、ヴェインは思い出したように言った。

「……河童とか?」

「……」

この絶妙なタイミングで、実に嫌な記憶を引っ張り出してくれたこの人はどれだけ間が悪いのだろうか。

その後、ヴェインはひたすら平謝りすることになったのはいうまでもない。

※ ※ ※ ※ ※

夕日を背にふたりは向かい合う。

「それで、本当に大丈夫なの?」

心底、心配してくれていることが分かるその口調に心配性だと苦笑すると同時、少しだけ嬉しく思ってしまうのは不謹慎だろうかとアンナは思う。

「はい、特に不調もありません」

「そっか」

よかった、と安堵するヴェインを見て、妙に頬が熱くなるのはなぜなのか、少女には未だに分からない。

「それで、どうしたの?」

「?、なにがですか?」

「いや、門限も近いし、屋上になにか用があったのかなと思って」

「……えっと」

思わず返答に窮する。というのも、この時点で彼女自身ここに来た目的を忘れかけていた。
はて、と首をかしげたのは一瞬、それらしい答えを見つけてアンナは今度こそ、首まで真っ赤になる。

(よくよく考えて、その、あなたに会いたくなったから、というのは……すごく、恥ずかしい理由なんじゃないでしょうか……!?)

ほとんど衝動に突き動かされるように脚を進めてきたアンナである、一旦冷静になってしまうと自分の行動を客観的に見る余裕も出てくる。
顔を真っ赤に黙り込んだアンナを見ながらヴェインは怪訝そうに首をかしげた。

(というか、最近こんな状況が多いような……そうです! 前のようになにか! なにかごまかすための案を!)

竜の墓場でのやり取りを思い出して、アンナの頭が筆記試験時にも匹敵する速さで回転を始める。
錬金術師において発想の力とは極めて重要なものだ。
既存の物の形を変えて新たなものを生み出すという錬金術。
その為の最たる力とは柔軟な発想に他ならない。
型にとらわれない発想力を養う事は学園指定の教科書でも推奨されている。
とはいっても、こういう時にそれが発揮されていることに、思うものがないかというとそれもまた違った。

(どうして、日頃の成果をこんなところで発揮しているのでしょうか、私は)

少しばかりへこみ気味のアンナの心境とは裏腹に、彼女の努力は確かに良案を捻りだす。
といっても、それは苦し紛れの案では決してない。本当の意味での良案であった。
むしろこれまでどうして思いつかなかったのかと、アンナは少しばかり恥ずかしく思う。

「あの、お礼を、言いたくて……」

「お礼って……」

一瞬、何のことか分からなかったようだが、すぐに思い至ったらしい。
どこか気まずげに、ヴェインは視線を逸らして言った。

「あれは、僕も、無我夢中で……そもそも何をしたのかも分からなくて……」

「いいえ」

だから、感謝なんて、と言いかけたヴェインの台詞をアンナは決して大きくない声で、しかし、きっぱりと否定した。
思わず、逸らした視線を向けたヴェインに、決然と告げる。

「それを、私を助けることを、強く願ってくれたのでしょう?」

だから、とアンナは言葉を切って顔を上げる。そして真っ直ぐに、彼の目を見つめた。
結果だけでなく、それを必死に、思ってくれたことへの感謝を。

だから、

「ありがとうございます」

静かに、それでも真摯な思いを込めて、アンナはその言葉を贈った。

「……っ!」

それをヴェインは一瞬、茫然と見つめた後、なにか信じられないものでも見たかのように見開いた。
一瞬、自分がなにか変なことでも言っただろうかと不安になったアンナだが……すぐに思い直した。自分は特におかしなことは言ってないはずだと思ったのと、どうにも彼の様子がおかしいと気づいたからである。
それはどちらかといえばアンナに向けられている感情ではなく、他のなにかに向けられたもののような。

「先輩?」

だが、彼女がそれを問い質す時間はなかった。
遠く、ひび割れるような、聞き様によっては不吉にも取れる鐘の音。
先ほど聞いた予鈴ではない、帰寮の時間を告げるその音階はアンナの問いを打ち消すには十分なものだった。

「……戻る時間みたいだね」

はっと我に返ったようにヴェインは呟く。
そこになんの異常もなく、まるでいつも通りの彼にアンナには見えた。

「え、はい、そうみたいですね」

「僕もすぐに戻るよ、アンナも早く戻った方がいい」

「分かりました……それでは先輩、また、明日」

「うん、またね」

挨拶と共にアンナは校舎へと戻り、暗い廊下を歩き始める。
気分は存外悪くない。やはり先輩と話せたのが大きいのだろうか? と首を傾げる。
足取り軽く、アンナは寮へと帰る。

彼女はまだ知らなかった。
ロクシスの懸念はたしかに正しかったことを。
未来、全てを知った後の自分が、この時の自分の行動を心の底から後悔することを。

※ ※ ※ ※ ※

軋むような重い金属音と共に扉が閉まるのを見て、ヴェインはぐったりとフェンスに身を預けた。ぎしり、という独特の音と共に彼の身体がわずかに沈む。
大きく深呼吸するように息を吐いて、掌で顔を覆うように押さえこむ。
身体の奥底から湧き上がってくる様々な感情、それらを抑えつけるように、きつく手に力を込めた。

「……っ」

反芻するのは先ほどの一幕、自分にとって大事な後輩であり、頼れる仲間である少女と交わしたやりとり。

あの時。

ありがとう、と彼女は言った。
夕日を背に、その言葉と共にアンナが浮かべたのはどこまでも純粋な、ヴェインがいままで見たことがない程に、心から綺麗だと思える笑顔だった。
万人が見て、一人たりとも見惚れぬ者はいないと彼は断言しても良い。
だが、しかし、その時ヴェインに去来した気持ちは、果たしてなんだったろうか。
その笑顔を見て、自分が願ったのは、望んだものは何だっただろうか。

「駄目だ……」

それはなにか、とても綺麗なものに対して抱いた冒涜の念、そしてそれを一瞬でも夢想した自分自身に対しての羞恥であり、罪悪感。
彼女の在り方を示すような、まっすぐに向けられた輝きを見て。
違うと言いたかった、自分はそんな笑顔を向けられるべき人間ではないと、声を大きくして叫びたかった。

遺跡の最奧にて、告げられた言葉が蘇る。
促された認識が彼を蝕んでいく。

自分の力は危険だ。

強く望めば道理も摂理も全てを捻じ曲げて叶えてしまう。
世界のあり方すらも、やろうと思えば変えられるだろう。
だが、それは、果たして存在していい力なのだろうか?

そんな力を振るえる自分は、存在していていいのだろうか?

ましてや、あの時。あの笑顔を見た瞬間に。


危険だからと消えるのならば、せめて彼女と共に消えたいと、そう思ってしまった自分は。


「う、ああああ……」

日の光は堕ち、完全に宵闇へと沈んだ屋上で。
願いと力、絶望に身を焦がす少年を、紅く、濁った瞳が見つめていた。

※ ※ ※ ※ ※

時は翌日へと流れ、

そして、場面は移る。

作り出された孤独の地、心の檻へ

※ ※ ※ ※ ※

「例えばの話だけど」

瞬きと共に流れて消える光の粒子を眺めながら、もうひとりのヴェインは世間話をするような気安さで口を開いた。

「よく古い小説かなにかで窮地に陥った登場人物が、本来の能力から鑑みて異常としか思えないような粘り強さや機転の良さを発揮して、その場面を切り抜けたりすることがあるだろう?」

上手い言い回しを探しているのか、考え込むようにして腕を組んでいる姿にはおよそ緊迫感や緊張感というものが存在していない。
それはいっそその場に不釣り合いなほどに穏やかで平然とした口調だった。

「強烈な意志や爆発した感情に揺り動かされた精神が、肉体の性能をはるかに凌駕して限界以上のスペックを引き出す。合理的とはとても言えないと否定する錬金術師も多くいるけど、ああいうのはあながち馬鹿に出来たものでもないんだよ」

その彼の言葉に答える気がある者も、答える事が出来る者もいない。
誰しもが黙り込んだその場にて、唯一響くその声は緩やかに、ただ沈黙を守るばかりの者達の耳へと届く。

「特に、彼の願望実現能力なんかはその最たるものだ。
確固とした方向性さえ得ればその力はどんどん強くなっていく」

ただ垂れ流される力というのは効率が悪いんだ、と少年は苦笑する。
手間のかかる子供を見るような目線は未だ虚空の光に注がれていた。

「きっかけは本人さえも気付かないようなささいなものだったかもしれない。
けれど、どれほど小さいものだとしても輪郭を得る為のとっかかりとなってしまえば、それで十分過ぎるほどの影響が出る」

その目は、あるいは昨日に見た夕日でも思い出していたのかもしれない。
美しく、どこか悲しさを伴うその光景を、そこで交わされた言葉を彼は確かに覚えていた。
そして、それが現在の彼女たちの窮地を呼び込んだものの一端であるという事も。

「今の彼は強いよ。悲しい程に遠く、君たちの力では届かない」

傲慢ではなく、彼は本当にそう思っている。それがよく分かる声色。

「まして、もう戦えるのは君一人だ」

「……っ」

憐憫も優越も無くただ事実を告げるもうひとりのヴェインをアンナはきっと睨みつける。
それは決して無事な姿ではなかった。
身体の各所に刻まれた傷からは薄く血がにじみ、荒い呼吸は彼女の消耗のほどを指し示している。唯一幸いなのは五体が正常に機能することか。
それすらも適わず、身動きもとれない仲間は彼女の周りに伏している。

巨剣にもたれかかるように膝をつくグンナル。

札を握ったまま伏すロクシス。

眠るように目を瞑るフィロ。

ぬいぐるみを残して消えたパメラ。

得物を投げ出すように倒れたニケ。

前線で剣を振るうアンナが比較的軽傷なのも彼らの援護があったからに他ならない。
しかし彼らが倒れ、手持ちの薬品も尽きた今、もはやそれも望めないだろう。
それでも目には不屈の闘志を宿らせアンナはただ刀を構えた。
目の前の虚空、足場も無く浮かぶのは虚ろな瞳でかつての仲間を一蹴したヴェインの姿。

「まだです、まだ決着はついていません……」

ヴェインの後方、戦闘の成り行きを見守っていたもうひとりのヴェインは本体の傍らに佇む緋眼の異形を見上げながら困ったように問うた。

「彼の願いはそれほどまでに許容できないものかい?」

それに対して首を振るアンナの目に迷いは無い。
それをどこか眩しそうに見るもうひとりのヴェインの姿が、同じ顔をした先輩の顔と重なって、振り払うようにもう一度首を振る。

「それ以前の問題です……私は、まだ答えを得てはいないのですから」

「彼の願いは確定している、現状がそれを示しているよ」

「…………」

アンナは何も答えない。
それは返答に窮しているからではなく、ただ行動でそれを示そうとしているだけだと言うことはすぐに分かった。
静かに目を閉じたその姿はまさに彼女のあり方そのものを表している。

「強情だね……」

ざりっと小石がこすれる音。
力を貯めるように片足を下げて手のひらを柄へと滑らせる。
窮地に在って尚、凛とした空気がアンナを中心として研ぎ澄まされていく。
ぼんやりとただ自身の願いのままに動くヴェインもその空気の流れは感じ取れた。
俯かせていた顔をわずかに上げ、侍るようにそこにある異形へと意思を伝えていく。
指揮者のように持ち上げた手にはただ純粋な攻撃の意思だけが宿った。

「……参ります」

そして、少女は駆けた。

※ ※ ※ ※ ※

怒涛の勢いで迫る黒色の、驚くほどに硬質な触手を避けながらアンナはただただ駆け抜ける。
まっすぐに、避け、払い、断ち切り、横殴りに降る黒い雨の中を突き進んでいく。
当然無傷とは言えない。討ち漏らした触手は彼女の身体を掠り、裂き、刻んでいく。
傷を癒す時間などあるはずも無く、少しずつ、残り少ない余力が削がれていく。
それでも歩は進んでいた、着実に。
ただでさえ不利な状況、長期戦など論外といっていい。
見込みを賭けるのは短期決戦。体力の都合からも機会は一度、全身全霊の一撃でヴェインの目を覚まさせなければならない。
肉を切らせて骨を絶つといえば聞こえは良いが、元々、アンナは身体がそこまで丈夫な方ではない。それが分の悪い賭けだということも理解していた。

(それでも……)

見つめる先には自分を幾度と無く助けてくれた少年の姿がある。
恩がある。道を示してくれた人がいる。迷っている時かけてくれた言葉を、覚えてる。

「だから……だから……!!」

じりじりと彼女の生命と引き換えに削られる距離。
結んだ髪は解け、乱れた青く、長い髪は舞い散る血の色と共に輝いている。
もはや傷の無い場所は無いといってよく、もはや悲惨と言うべき有様だった。
だが、その傷は決して無駄ではなかったとアンナは断言できる。

一刀一足、刃先が届くその距離へ至る為に。

そしてアンナは確かにその為の道筋を見た。

アンナの耳に届く全ての音が消失する。
痛みも無く、頭にあるのはただ打つべき一撃だけ。

傍らに自身のマナの姿を見て、アンナは全てを断ち切る一閃を打ち放つ。

「は、ああああああ!!」

裂帛の気合と共に彼女を取り巻いていた触手が断ち切られる。
文字通り瞬きする暇すらない神速の一撃は障害となる全てを薙ぎ払う。
ただ一直線、向かうべき道をたどる彼女はただその刃を走らせ、

リンと、硬質ななにかが落ちる音を聞いた。

※ ※ ※ ※ ※

呆れるほどに遅く感じていた時間が元に戻る。

駆け抜けた反動と、遅れて感じる風を浴びて、アンナは静かに目線を落とす。
今の技、それは彼女にとって最高の出来だった。
踏み込み、タイミング、威力、全てが申し分ない、最高の一撃。
しかし、それならば何故。

「……くっ」

この一撃は届かなかったのか。

全身をさいなむ灼熱の如き熱さと、それが抜けていく寒気。
ごほり、と漏らした咳には苦い、苦い鉄の味。

見上げるとそこには自分の返り血を浴びて、先ほどとはまったく違う、確かな感情を宿してこちらを凝視するヴェインの姿。

(負けることで目的を達すると言うのも……情けない話です……)

意思が足りなかった、最後の最後で気を抜いた。
ひとたび剣を持てば迷わぬようにと、心がけてきたはずなのに。

(まったく……本当に……情けない……)

血溜りに沈むそれをアンナはよく知っている。
千切れた鎖、血に汚れてしまって尚、青く光る鉱石をつけた、ペンダント。

自分が最後の瞬間に気を取られたそれを見て、アンナの手から刀が落ちた。

※ ※ ※ ※ ※

「あ、アンナ……?」

「不覚……です。私としたことが……」

他のものに気を取られるとは、とアンナは無念そうに呟く。
しかし、どこかその顔には苦笑めいたものを含んでいたのは何故なのか。

「アンナ……僕、は……」

信じられないものを見るようにヴェインは目の前の少女を見つめた。
何本もの黒く鋭利な触手に貫かれた少女が居る。
小柄な体躯の各所に突き刺さったそれらはその身体を引き裂くのみならず貫通し、向こう側へと突き抜けていた。
彼女が常に身に着けていた赤を基調とした衣装はより強い色、どす黒い血によって染め上げられ、最早元の色の名残も無い。
ずぶり、と触手が抜かれて、その身体のどこにそこまでの量があったのかと不思議に思うほどの血が吹き出る。よろりとふらついた身体、それでも鞘を杖に、地に伏すことを拒んだのは彼女の意地だったのかもしれない。

「それが、あなたの、本当の答え、だと言うのならば……否は、ありません。
私の命も、もっていけばいい」

だが、常の彼女からは考えられないほど掠れた声はその状態を如実に示していた。
否、声が無くとも、姿を一目見れば子どもでも分かる。


致命傷だ。それも、手遅れといっていい程の。


「ですが、本当に、それはあなたが、心から……望むものなのですか?」

命を削りながら紡がれる声。
それを自覚しながらも彼女は喋ることを止めない。
伝えなければならない言葉がある。
自分自身を騙しながら、望みもしない虚ろな願いを叶えようとする大切な人へ。

思えば最初から違和感があった。
彼の願望実現能力は万能だ。今までの例を見る限り制約と呼ぶべき制約もなく、強く願いさえすればほぼ思い描いた像との誤差もなくそれを叶える。
アンナ自身その力を直に受けた身である。古代魔法の解除から死者の蘇生まで、困難な事象を大した時間もかけず成し遂げてしまうことを考えても、規格外という言葉しか当て嵌められず、正直な話底が見えない。

けれど、それではひとつの疑問が浮かぶ。
彼が自分達を打倒して共に消えることを願うのならば、何故自分はつい先ほどまで彼とまともに戦うことが出来ていたのか。
違和感はそこにある。もしヴェインが本当にこちら側を打倒しようと考えたのならば、目の前に、対峙したその瞬間に自分達は全滅しているはずなのだ。
相手に死を与えることすらできる力のはずなのに、それができない道理もない。
ならば何故か。何故、曲がりなりにも自分達は抗えたのか。

「迷いは、ありませんか? それを選んで、悔いを残さないと、胸を張って言えますか?
もし、あなたのその願いが悔いが残るような答えだというのなら……私は……」

満身創痍、文字通り必死の体で、それでも自分の為に言葉を遺そうするアンナの姿に、胸の奥からいくつもの雑然とした感情が湧いてくるのを感じる。
その姿は、彼女にどう見えていたのだろうか。
くすり、と微笑んだアンナの顔は、いつもの小言を言うときのような、仕方ないものを見るようなそれで。

「教えて、ください……あなたの、本当の願いを……それが、どんなものでも、私は……」

力、に……


その言葉を最後に、その笑みが、ゆっくりと、今度こそ地へと落ちた。


「あ、んな……?」

重い、水気のある物が落ちるような音と共に、辺りは沈黙に包まれる。

感情は既にその状況を理解することを拒否していた。

心臓を初めとして、自分の身体が機能していることすら実感が湧かない。自分がふらふらと夢遊病者のような足取りで歩いていたことも、血溜りの中から、その小柄な身体を抱き上げたことも、気づいたのはそれを行ってからだった。

驚くほどに軽く、冷たいその身体が彼の状況の把握を急速に促していく。
そしてすぐに悟ることになった。

その身体は二度と動くことは無い。

その目蓋は二度と開くことは無い。

そして、そうしたのは、ほかならぬ自分だ。

「そう、それが君の望みだったはずだ」

背後から聞こえる声をヴェインはよく知っている。
初めて声帯を振るわせた時から聞き慣れたその声は、ヴェイン自身のものと寸分も違わない。

「消えたかったのだろう?」

そうだ、自分は消えなければならなかった。だって自分の力は危険だから。

「けれど、一人は寂しい」

そう、一人は嫌だ。一人は冷たい、二度と味わいたくないほどに。

「だから、みんなと消えたいと思った。違うかい……?」

順番が変わっただけだともう一人の自分は言う。
今なら、力尽きた仲間と共に消滅できると、願いが叶うと無邪気に笑う。


だが、


「違う」


その声に含まれていた感情は果たしてなんだったのか。

『教えて、ください……あなたの、本当の願いを……』

今更だということは分かった。
手遅れだということも自覚している。
どれだけ身勝手なことを言っているかも理解していた。
わめき散らすその言葉は愚者の妄言に過ぎない。

けれど、

「アンナ……」

ごめん、と泣きそうに歪めた顔でヴェインは言った。

こんなことに巻き込んでしまって。
こんな目にあわせてしまって。

アンナだけではない。傷つけてしまった、迷惑をかけてしまった仲間たちへ。

静かに告げた謝罪の言葉は凄まじい地響きの音にかき消される。
空間そのものが軋む音、獣のうなり声にも似た不吉な音階は徐々に大きく、激しさを増していく。

世界が壊れていた。

張り巡らされた蜘蛛の巣のようにひび割れた空間。
垣間見えるその向こうにはぽっかりと、どこまでも暗い深遠の闇が広がり、飲み込まれた瓦礫がどこまでもどこまでも深い奈落へと落ちていく。
崩れていく足場は少しずつ、しかし確実にその面積を狭くしていた。

自分の願いの残滓がその空間を蝕んでいることが分かった。
振るわれた力は正しく、世界を変える力。
既に回りだした歯車はそう簡単には止められない。
自分の願いは学園を消滅させる。ここも長くは持たないだろう。

「そしてなにより君自身の根底にある思考は、自分は消えるべきだという確信を未だに君の中に根付かせている」

もうひとりのヴェインはこの際においても穏やかな口調でそう言った。

「この力は君の願いを無意識下において実現させる。それを否定することは自分自身の願望への反逆に他ならない」

しみこんでくるようなその言葉の意味は既に理解している。
自分がどれほど困難なことをしようとしているかも、全て。

「それでも」

抱きしめた体は想像以上に軽く、冷たい。
閉じられた目蓋の下、頬についている血を拭おうとも思ったが、
自分の手がべっとりと血に濡れていることに気づいてやめる。
そして少しだけ笑ってしまった、まるで今の自分の有様そのものだ。

「それでも、僕が傷つけてしまったから」

自分が消えるのは構わない。
むしろ、そうあるべきなのだろう。
でも、それを防ごうと戦ってくれた人たちがいた。
必死になってくれた娘がいた。

「みんなには消えて欲しくないんだ」

奥底の感情が心中を望むのならば、理性をもって願いを殺そう。

それは矛盾した考えだろう、望むのは一人、否定するのもただ一人。
挙句の果てには自己完結。出来が悪い、笑えない一人芝居のようだった。
それでも、やらなければならないことがある。

制服の上着を脱ぎ去り、そこにアンナを横たえる。
不安定な場所に置いていくことに不安はあるが、こればかりは仕方ない。
身じろぎもしないその姿を、自分のやったことを刻み付けるように目に焼き付けて、彼は自分自身に言い聞かせるように決然と告げた。

「願いを変えるよ。僕には、ひとつだけ叶えたい願いがある」

そういって背後に向き直ったヴェインの目の先には紅い瞳を持つ異形が佇んでいた。
静かな敵意に当てられて、ぶるりと身体を震えさせた異形はその禍々しい目を見開いて咆哮を上げた。
そもそも声帯があるとも思えない異形のそれは、どこか、慟哭にも似ていた。

「お前一人じゃ無理だな」

ふいに声が聞こえた。
どこか老人のような深みを感じさせるヴェインにとっては聞きなれた声。
視線を下げるとこちらを見ている一匹の黒猫と目が合った。

「サルファ……」

「つくづく世話が焼ける」

「……ごめん」

いままで口出ししてこなかっただけでずっと見ていたのだろう。
静かにこちらを見上げる彼に謝ると、その目がふいに柔らかくなった気がした。

「いいさ、これが最後かもしれないしな。付き合おう」

「ありがとう……」

サルファの身体が影の中へと沈みこむ。
盛り上がった影はそのままヴェインの全身を包み込むように広がり、
彼を守る軽鎧と振るうべき剣に変化する。
具合を確かめるように手のひらを閉開し、やがてヴェインは紅眼の異形へと剣を向ける。
誓いを立てるように突きつけられた剣が一瞬の照り返しに煌くと同時。

最後の戦いが始まった。





戦いが始まったのを確認して、もうひとりのヴェインは微笑を浮かべて距離をとった。
元々、彼にどちらかに、否、どちらの意思に加勢しようという気は無い。
ただ、その行動の結果を見届ける為に、最適な位置を確保していたかった。

「いいよ、ならやってみるといい。
強引ではあるけど、ひょっとしたら君の考えている願いの上書きもできるかもしれない」

虚空に溶けたその言葉は破壊音にかき消され、
壊れかけた世界で戦う少年に届くことはなかった。

※ ※ ※ ※ ※

「もし自分が周りの人達にすごい迷惑をかけそうになったら、ですか?」

紅茶の入ったカップから口を離してアンナは小首をかしげる。
本来なら緑茶のほうが好きなアンナだったが、いざ飲んでみるとこれはこれで良さがある。
その香りに頬を緩ませながら聞き返すと、アトリエに設置されている釜の様子を見ながらヴェインが頷いた。

「うん、アンナだったらどうする?」

放課後のアトリエ。
各々用事があるらしく、現在ヴェインとアンナしかいないそこには、学園の喧騒から隔絶されたかのように静かで穏やかな空気があった。
喧騒は遠く、余った素材を使ってお茶請けを作っているヴェインの近くからはチーズケーキだろうか、うっすらと甘い匂いが漂っている。
年長者に茶請けの用意させて座っているのは、と恐縮したアンナであるが、肩を押されて押し切られてしまっていた。今度は自分が用意しようと密かに決意しつつ、唐突に振られた問いかけについて考えてみる。

「答えるのは良いですけど……どうして突然そんなことを?」

返答こそすぐに用意できたが、いまいち意図が読み取れない。
ここ最近なにかあっただろうかとアンナは思考の中に沈みこんでいく。

「えっと……」

思わず言いよどんだのは、ヴェインとしては本当に意図もなく振った話題だったからだ。
ふと、思いついたという表現が正しく。
彼自身どうしてそんなことを思ったのかはいまいち判然としない。
だが聡くはあるが迷走が目立つこの後輩は存外深読みしてしまったらしい。
アンナは愕然と目を見開いた。

「はっ! まさか……」

「待って、戻ってきてアンナ……」

その様子を見たヴェインが盛大に顔を引きつらせる。
アンナがその台詞を言うとき、大抵はろくなことを考えていない。

「自首しましょう先輩!」

「いや、何もしてないよ! アンナの中で僕はどんな犯罪者になったの!?」

どんな結論に至ったのか、鬼気迫る勢いで自首を勧める後輩の姿にため息を吐きたかった。
周りの人間のことで親身になれるのは美徳だとヴェインは思うが、しかし、もう少しこの暴走はどうにかならないものだろうか。

「それともまさか……」

「駄目だ、聞いてない……!」

「前の私の成績に関する一件が先輩としては本当はものすごく迷惑で……暗に私に反省しろと……!!」

「考えてないから!」

いつもの如くまったく人の話を聞いてくれないことに諦観を覚えつつあるヴェインではあったが、ショックを受けたように声を戦慄かせる姿に思わず口を挟む。
アトリエの仲間としても彼個人としても、そこは修正しなければならない一線だった。

「いえ、でも……」

「アンナは僕たちの後輩なんだし、困ってることがあれば力になってあげたいと思うよ」

それはいつか、高台で口にしたのと同じ言葉だった。
それにヴェインが気づくと同時、アンナもそのことに思い至ったらしい。一瞬、目を見開いてから安心したように、少しだけうれしそうに微笑む。

「本当、ですか?」

「うん、同じアトリエの仲間だしね」

その言葉にアンナはなにか感じるものがあったらしい。
少しの間考えるような仕草をして、なにか思いついたように口を開いた。

「そう、ですか……それなら私も、そう答えるのでしょうね」

「え?」

「さっきの答えです」

ヴェインは一瞬何のことかと頭をめぐらせ、すぐに自分が聞いた最初の問いの答えだということに気づく。

「え? ……でも」

「先輩は私の先輩ですし、同じアトリエの仲間です、それに、私はあなたに恩もあります」

「恩って……あのときのことならそんなに気にしなくても……」

困ったように苦笑する。
彼女の言う恩とは高台で悩みを聞いたことだろう。
だが、ヴェインにはそのことがこうまで大袈裟にとられるようなことだとも思えない。
実際、何の解決にもならないような言葉しか言ってない気がする。
が、アンナの方はそうは思っていないらしかった。

「あなたは良くても私は気にするんです!」

「え、あ、ご、ごめん」

彼自身悪いことは言ってないし、してないはずだが、思わず謝ってしまうのは生来の気の弱さだろう。
その様子にため息をひとつ吐いてから、アンナはふいにヴェインの顔を見つめた。
その顔は真剣そのもので、ともすれば威圧感すら感じるほどだったが、そこに怒りなどの刺々しい感情は無い。あるのはただただ真摯な澄んだ瞳だった。
その様子に思わず姿勢を正してしまうヴェインを気にせず、静かな口調でアンナは言った。

「ですから、助けさせてください、困ったことがあったなら遠慮なく言ってください。
それがどんなことでも、どれほど大変なことでも、私は力になりますから」

一瞬、呆気にとられたヴェインだったが、それはすぐに苦笑へと変わった。
少し大仰な気はしたが、それを無碍にするのも気が引けたし、その言葉は素直に嬉しかった。なによりその生真面目な態度がいかにもアンナらしい。

「うん……ありがとう」

「はいっ!」

返事をするアンナに笑みを深めていると、こちら側に近づいてくる足音が聞こえた。
間を置かず扉が開けられると、尻尾と耳を揺らしてニケが、それに続くようにしてフィロが入ってくる。

「お? ふたりしてなに食べてんの?」

「わぁ、いい匂い」

爛々と目を輝かせて入ってきたニケ、その様子に苦笑しているフィロの声もまた弾んでいた。基本的に苦手な分野を持たないヴェインではあるが、食物の分野においてもアトリエ内で定評がある。
基本的に彼が作ればはずれはない、がアトリエ内の共通認識であった。
アンナとしても気持ちは分かる、分かるのだが……。

「おはようございます……お二人とも意地汚いですよ」

「う、でも」

「でも、じゃありません」

挨拶もせずに開口一番それはどうなのか。
どもるニケとあははと笑って誤魔化すフィロにアンナの眉がよる。
すわこのまま説教かと仲裁に入る為に身構えたヴェインであるが、意外にもアンナはため息ひとつ吐いて注意をするに留めた。入学当初のことを考えると彼女もまた変わっているのかもしれない。

「あら、みんな楽しそうね~、私は食べられないけど~、うふふふふ」

「わぁ! パ、パメラ、後ろから出てくるのやめてってば!」

羨ましげなのか恨めしげなのか分からないような能天気な声がフィロの後ろから文字通り降って沸いた。壁を背にしていたフィロの位置からすれば元来あり得ないことなのだが、相手が壁を透過するのなら話は別である。もっとも心臓に悪いことこの上ないが。

ぬっと顔を出して笑うパメラの様子はなかなかにホラーだった。
子どもだったら泣くかもしれない。

「取らせるほうが悪いのだ未熟者め!」

「そしてなんかこっちにもいた……」

そして自分の後ろには筋肉質の赤毛の男が立っていた。
いい加減背中に立たれるのも慣れてしまった自分がすごく嫌だが、おそらく一生聞き入れてもらえまい。

「騒々しいな」

「これが若さって奴だな」

「……当然のように私の隣に立つのはやめてくれ」

いつのまにか入り口に立っていた(というより浮かんでいた)。謎のつぼ型宇宙船に乗って頷くムーぺとそれを迷惑そうに見遣るロクシスに妙な既視観を覚える。
関わりたくないという雰囲気をにじませているその姿に微妙な諦観と哀愁がある辺り、彼もこのアトリエに馴染んだなぁという妙な感慨が起こる。
が、それはそれとして問題が発生した。

「チーズケーキ足りるかな……」

図ったように続々と終結するメンバーの様子にヴェインの顔が引きつる。
どう考えても足りない。いっそ新しいのを作ってしまうか。

「ヴェインー、あたしかぼ芋のパイがいいー」

「好き嫌いは駄目だよニケちゃん」

背後から聞こえる会話に苦笑しつつ、材料を確かめる。
シャリオチーズにバニラシロップ、モンスクッキーにかぼ芋。
タイヤキは加工せずに出してしまうとして、幸いなことに全員を満足させられる量はありそうだった。
問題は人手にあるが、それも隣で食材を漁るアンナの姿をみれば消えてしまった。
後ろの仲間たちも各々お茶会への準備を始めている。
仏頂面で紅茶を入れるロクシスなどはともかくとして食器を浮かべて運ぶパメラが危なっかしくてしょうがない。
そして先輩とムーぺは働いて欲しい。
ため息をつくヴェインはいつの間にか、隣で準備しているアンナがこちらを見ていることに気づいた。身長差の関係から上目遣いで向けられる、こちらの内心を見透かしてしまいそうな深い瞳。
いや、勘のいい彼女には自分の考えていることなど本当にお見通しなのかもしれない。
魅入られたようにアンナを見つめてヴェインはぼんやりとそんなことを思う。

「先輩」

「……なに?」

「うまくいきますよ、きっと。みんなでやるなら、きっと大丈夫です」

だからこそその台詞に驚くことは無かった。
アンナには分かっていたのだ、自分が持て余している得体の知れない不安を。
そして、その上で、全幅の信頼と精一杯の励ましを持ってその言葉を贈ってくれた。

「……うん、そうだね」

その心遣いがどうしようもなく嬉しくて。
今も騒ぎながら笑いあっている仲間たちが途方も無く心強くて。

「ありがとう、アンナ」

ヴェインは彼らに出会えてよかったと、心の底から実感した。

※ ※ ※ ※ ※

それはまどろみの中に見た夢か、いつか見た過去の残影か。
あるいは、自分が勝手に作り出した都合のいい幻想か。

「うん、きっと、みんな一緒なら……」

どれであってもいい。どうでもいいとヴェインは思う。
最後まで微笑んでくれた彼女は、きっとそう言うだろうと確信がある。
確信できる。

遠く、割れていく空が垣間見れる。
比喩ではなく崩れ去っていく世界がそこにあった。
その様子をヴェインは仰向けに横たわって見ていた。
左腕と右足の感覚が無い、先ほどまで激痛を訴えていたはずだが、もはや感覚も麻痺してしまったのかもしれない。
その身体におよそ無事な箇所は無く、もはや指先ひとつ動かすことすら億劫だった。
早急に治療を受けなければならないほどの深手であることは知っていたが、それでも焦燥感は湧かない。そもそももはやそれも必要ない。
自分から少し離れたところに横たわる異形を見て、そう思う。

「まさか、本当にひとりで成し遂げるとはね」

いつの間にか傍らからこちらを見下ろしていた、もう一人の自分が口を開いた。
その声には呆れと感心が等分。自分が出したことの無いような声色、それが自分とまったく同じ声で出されたことに妙な感覚を覚える。

「事実上、皆と消えるという願いはキャンセルされたとみて良いだろう。
いまならば上書きも出来るはずだ。
しかし、君はそれでなにを願うというんだい?」

「僕は……」

問われて思うのは、彼女の最後の言葉。
迷って、間違えて、傷つけて、それでも最後に自分が思った本当の願い。

「もう一度……目指したい。
みんなが、必死に探していた未来を……」

自分勝手極まりない、ひどい言葉。
元凶がそれを言うかと内心自嘲ってしまう。
けれど、まぎれもなく、どこまでも残酷で身勝手なそれこそが自分が抱いた最後の願いだった。

自分を取り囲むように円形の光が広がる。周囲に淡い光が満ちていく。

「僕が壊してしまった結末を、もう一度、目指したい……! みんなで!」

振り絞るような言霊が響き、やがて全ては光の中に消えた。

※ ※ ※ ※ ※

水底から徐々に浮かび上がっていくような浮遊感。
乾いた風と枯れ草の匂いに包まれて、足の裏に硬質な感触を捉える。
立ち眩みのようなおぼろげな違和感を感じながら、

目を開けたヴェインはその先に無限の蒼穹を見た。

虚空に点在する巨竜の白骨、耳に痛いほどの風の音を彼は良く知っている。

「竜の、墓場……」

呆然と呟いたその言葉は無意識のうちに放たれたもの。
自分の居る場所、それを認識した彼は不意につかみ所の無い違和感にとらわれた。

どうして自分はここにいるのだったか。

降って湧いた疑問は、それそのものへの怪訝に変わる。何故いるのかといえば、それは自分がこの場所に来たからに決まっている。朝練の為に、ここに来ることは半ば日課になっていた。なにもおかしいことなどない。

「先輩?」

だというのに。

「どうかしましたか?」

怪訝な顔でこちらを見るアンナの声を聞いて、


無性に泣きたくなるのは何故だろうか。


理由も分からず、ただの声を聞けることが嬉しくて。
なんでもない、とその一言を言うのにひどく苦労した。

「……はぁ」

少し、訝しむようにこちらを見ていたアンナはやがて仕方なさそうに息をついた。
どこか半眼でこちらをみる目の前の少女は聡い。暴走しがちな妄想癖のせいで見落としがちだが、その人を見ること自体はかなり長けているといっていい。
自分の様子がおかしいということには感づいているだろう。

「帰りましょう、先輩」

それでも、なにも言わないで手を引いてくれることがありがたい。
この娘には、本当に叶わないと実感する。

(どちらが先輩なんだかわからないなぁ……)

正直な話、ヴェインが抱いていたのは彼自身説明が難しい、
不安ともいえないような漠然としたものだ。
自分が人間ではないと知ってから、徐々に心の奥底に溜まりはじめた黒い感情の残滓。
感じたのは泡のように浮かび上がってきたそれだったのかもしれない。

(もう少し……)

きっともう少しで答えはでると確信していた。
逃げることは出来ない。それがどのようなものであろうと、自分は自分だ、
いつか向き合うことになるだろう。
それは破滅かもしれない。それは絶望かもしれない。

(でも……)

握り返した掌はひどく温かく思えた。
それだけで、不思議と心が満ちていく。

今はそれだけでいい、とそう思えて、ヴェインは前を見て歩き始めた。

※ ※ ※ ※ ※

ちりん、とヴェインのポケットに入ったままの青い鉱石を嵌め込んだペンダントが硬質な音を立てる。

そして、それに気づいたものは、いなかった。





[28800] Is this a hero ? 前編
Name: 秋月 桂◆02e75bbd ID:922c878b
Date: 2011/08/11 01:05
遠く、授業終了を告げる鐘の音を聞いてヴェインは錬金釜から顔を上げた。

「もうこんな時間か……」

本日の学業から解放されたであろう下級生達による喧騒を聞きながら、壁掛け時計を見ると既に作業を開始してから結構な時間が経っていた。
頭をかいて辺りを見渡すに、使い終わった器具や余った材料が散乱するアトリエの様子が見て取れる。
本来ならばそんな様子を見れば真っ先に掃除を始めるであろう後輩が居るが、彼女は今、ヴェインの隣で精密作業の真っ最中である。

「…………」

隣で慎重にフラスコの中身を移すアンナは鐘の音にも気づかなかったらしい。
相変わらずすごい集中力だと感心しながら、ヴェインはこうなった経緯を思い返す。

勉強を教えて欲しい、とアンナがヴェインに申し出てきたのは少し前のことだった。
応用はある程度できる癖に基礎がおろそか、という偏った彼女の成績をアトリエメンバー総出で矯正して少し経った頃である。
いつかの高台にて、いざというときは頼って欲しいと大言壮語(本人にそういったら全力で否定されたが、少なくともヴェインはそう思う)した身でもある。
快諾してからは暇を見てこうして勉強会を開いていた。
もっともそういうときは大抵フィロかロクシス(他のメンバーは己の趣味の分野に全力で特化している為に向いていない)がいるものだが今日に限ってはそのふたりはおろか誰も居ない。
自由時間が増え始める3年生ということもあって各々何かしているのかもしれないが、ここまで誰も居ないのは珍しかった。
なんだか妙にアトリエが広く、静かに思うヴェインであるが、その心中に寂しさとかそういう感情は皆無といっていい。
どうせ嵐の前の静けさと言う奴である、今ぐらいは平穏無事で良いと思う。
騒動らしい騒動もなく、後輩と二人で静かに勉強をしているというシチュエーションに妙な安らぎを感じつつ、ヴェインが意識を戻すとアンナはようやく作業を終えたようだった。

「ふぅ、できました……どうでしょうか?」

「えっと……」

手に持った教本を開いて見る限り、フラスコの薬品はこちらが意図した通りの性質を得たように思える。
うん、と頷くとアンナはほっと息をついた。

「よかった……ここらへんは少し不安だったんです」

「もう少し自信を持っていいと思うよ、なんだかもう僕が教えられるようなところもなくなってきたし」

最高学年であるヴェインもいよいよ卒業を意識してくる時期である。
最近まで将来などまったく考えたこともなかったヴェインであるが、進路相談からこっち、学園の中にもにわかにその独特の空気がでてきたのを感じ取れるようになってきた。
ここ三年間の経験から得たちょっとしたコツならばともかく、おおっぴらに教授できるようなことは減ってきた(あまり早く先の分野を教えても碌なことにならないのは証明済みである)。そう思っての発言だったのだが。

「…………」

目の前の後輩には聊か重い話題だったのか、眉を八の字にして黙り込んでしまった。

「やっぱり、寂しいかな……?」

「それもあるのですが……」

現在のアトリエのメンバーの大半はヴェイン達、三年生である。
卒業すればもう会う機会はそうそうないだろう。それを気遣っての発言だったのだが。

「濃いメンバーが残ったな、と思いまして」

「…………」

現在の三年生を抜いたアトリエメンバーは二年生であるアンナとムーペ。
それにもはや何年生かも分からないパメラの三人。
まさかの宇宙人と幽霊のタッグコンビである。

下級生の勧誘もありますし、私がしっかりしなければと気合を入れるアンナに「その濃いメンバーの中にはアンナも含まれるよね」とは言えないヴェインであった。

「……そ、それにしても……みんな来ないね」

「そうですね……」

口にしないほうがいい事実もある。それはヴェインがこの学校で学んだ大事な教訓のひとつだ。
これ以上のこの話題は危険だと判断しての話題変換だったが、功を奏したらしい。
あっさりと食いついてくれた。

「フィロ先輩はここ三日姿が見えませんし、ミケ先輩はれこーでぃんぐとやらで忙しいみたいです……ロクシス先輩は後からくるみたいですけど」

「フィロが来ないのは珍しいよね」

おそらくアトリエの誰より錬金術が大好きなピンク色の髪の同級生を思い出して、ヴェインが首を傾げる。
ミケに関してはそもそもれこーでぃんぐというものからして分からない。
なお、話題に出ない残り三人に至っては行動パターンがフリーダム過ぎるのであえて触れなかった二人である。普段の行いが如実に出てくる会話だった。

「……とりあえず、次の調合でキリのいいところだから。そこまでやっちゃおうか?」

「はい……」

気を取り直してヴェインがテキストをめくると、紅い炎の装飾が施された壺についてのページにいきあたる。

「地獄の火炎の精製なんだけど、えっと……自動発火装置から入ろうか、プロージョンはあるかな?」

「はい! プロージョンですね? えっと……」

元気に返事をしてヴェインの傍ら、材料を漁り始めるアンナ。
しかし、始めは機敏だったその動きが段々鈍くなっていっていることにヴェインが気づいた時。

アンナは完全に作業を止めて、なにか考えるように黙り込んでいた。

「アンナ?」

やがて振り向いたアンナはどこか困ったように小首をかしげている。
その顔には大きな困惑がありありと浮かんでいた。

「あの、先輩、材料が足りないのですが」

一瞬なにかあったのかと思ったヴェインだったが返答を聞いて少し拍子抜けしてしまった。
錬金術ではさして珍しくもないことである。足りないのならもっと前の精製段階から作ってしまえばいい。

「あ、そうなの? だったら先にそっちから作っちゃおうか」

「あ、いえ、そうじゃなく、その」

そう思っての発言であるが、対するアンナの反応は依然として芳しくない。
そして、それはその事態が完全にヴェインの想定の外にあったことを意味する。

実際、次のアンナの言葉を聞いた時、ヴェインは一瞬意味が分からなかった。

「足りないんです、鉄鋼石や黒い粉はもちろん、材料が全部」

「はい?」

ヴェインの手元にある、風に吹かれた本のページが彼の間抜けな声と共に一枚めくれた。

※ ※ ※ ※ ※

「金属類を中心に火気厳禁の爆発物も持っていかれているな」

材料保管用の箱を確認しながらロクシスが呟いた。
その顔にはやっかいなことに直面した者特有の苦々しさがあるが、それは苦笑と諦観の違いこそあれヴェインとアンナも同じである。
各々、先ほど決めて割り振った材料の保管場所漁るも、出てくる結果に気分が沈む。

「僕達が気づかないうちに自然と消費したってことは……」

「それは……ないと思います。少し前に皆さんで採集しましたし」

「……行動予定表が採集の欄で綺麗に統一されてたよね」

各々、これぐらいなら作れるだろうと考えてほぼ同タイミングで発注してしまった調合依頼。
そして最悪のタイミングで発生した調合課題。
ちょっとしたニアミス、しかし結果として山となった発注書、成績に響く要求調合品、それらと照らし合わせて絶対的に足りない材料を見たヴェイン達が決断したのは総アトリエメンバーによる一斉採取だった。
完全に悪乗りしたグンナルの号令の元、三三五に散ったメンバーは各地で情け容赦なく(それでも自然に影響が出ないギリギリのラインである。この場合は主に他の生徒に対して)材料を刈りつくしたのは記憶に新しい。今更ながら他のアトリエの方々に申し訳なく思うヴェインである。

しかし、それにしても、全ての依頼、課題を終わらせた現在において、少しのストックはある筈だった。

「加えて、最近大規模な装備の改良を行ったわけでもない。それでなくとも順当に使用したにしては消費が激しすぎる」

「だよね」

やはり人為的なものかとヴェインは当たって欲しくなかった予感の的中を確信する。どういう意図かは分からないが、これで厄介事は確定である。
ため息をついて調査の手を書棚も兼ねているエリアに伸ばしたヴェインは、ふと、本棚の隅にいくつかの見慣れない本が数冊あるのを発見する。
否、巻数が割り振られたそれの表紙とサイズを見る限り、本というより漫画というべきだろう。そして、おそらく狙ってそうしたのであろう荒々しい文字で綴られるタイトルはヴェインがどこかで聞いたものだった。

「なんだそれは」

「うわっ……驚かさないでよ、ロクシス」

なんでこんなものがここに、と少しばかり愕然としていたヴェインの背後には、いつのまにやら作業を終えたらしいロクシスが立っていた。
怪訝そうに見やるその先にはヴェインが手にしている漫画がある。
そこには各所に魚の意匠を凝らした青い装甲を持つロボット(というらしい)が写されていた。表紙の片隅に貼ってある“布教用”の付箋がいい感じに意味不明である。

「私にその意図はないが……ギョカイザー?」

「ムーペの故郷で人気になっていた本らしいよ」

ヴェインの持つ物とは違う巻を取って胡散臭そうに背表紙を見たりし始めたロクシスにそう説明すると、なにかとても嫌そうに顔を顰めた。
ヴェインとしても気持ちが分からない訳ではない。

「ムーペのか……」

ため息混じりにそう呟くものの、一度手に取った以上は軽く目を通す気なのか軽くページを捲り始めたロクシス。なんとなくそれにならってヴェインも自分の持っているものに目線を落とす。

「…………」

「…………」

ヴェインが持っていたものは二巻だったが、ある程度読み進めると状況も大まかに分かってくる。
よく分からない単語も稀に出てきたが読むのに支障があるほどでもない。
無言のままにページを捲っていた二人であったが、やがてロクシスがぼそりと呟いた。

「…………このセンスは理解できないな」

「僕もちょっとね……」

軽く横目で見ると、そこにはロボットの中に乗って必殺技を叫ぶムーペに似た生物が写っていた。シュールだが無駄に熱い。同意を示すと、すぐに二人とも読書に戻る。

「…………でも、このロボットはなかなか」

「…………それはどちらかといえば、こちらの方がよくないか」

琴線に触れたロボットのデザインを示すとロクシスが自分の見ている巻のページを示した。
後で確認しておくことにする。

「…………」

「…………」

三度読書に戻った二人であったが、存外集中していたらしい。すぐ傍に立つ呆れ顔の少女に気付けなかった。

「……なにしてるんですか、お二人とも」

「「うわぁっ」」

この時の二人の声は完全に合っていた、と後にアンナは語る。

※ ※ ※ ※ ※

「まったく……まじめにやってください」

「ご、ごめん」

「私としたことが……」

ため息混じりの後輩の台詞に平身低頭の二人である。
つい先ほどまでの自分がよほどショックだったらしく、ロクシスの落ち込みっぷりが凄まじい。
そっとしておいてあげようと結論づけたヴェインは、ふと、アンナが未開封の、白い封筒のようなものを持っていることに気づく。
それは学園のシンボルが入ったもので私的に使用するものではなかったはずだ。

「アンナ、それは?」

「これですか?」

訊ねられて、一瞬きょとんとしたアンナは、すぐに思い至ったのか、ああ、と頷いてこちら側に見えるようにその表を差し出した。
開封されていないが故に内容は分からないが、それでも十分な程度の情報はあった。
封筒の表にはそこには無機質な文字でこう書いてあったのである。

「督促状?」

「資料室からだな」

首を傾げてその文字を見ていると、いつのまにか復帰したらしいロクシスが口をはさんだ。
何事もなかったかのように振舞っている辺り、やはり触れない方が良さそうだった。

「テーブルの下に落ちていたものです。アトリエの誰かのものだと思うのですが……その様子から見るとお二人ではないようですね」

フィロ先輩辺りでしょうか、と首をかしげるアンナは、これ以上その話をするつもりはないらしい。
後で届ける為だろう、懐に封筒を仕舞うと表情を改めて二人に向き直る。
色々と横道に逸れたものの、三人共、当初の目的は忘れていない。
代表するようにロクシスが調査結果をまとめ始める。

「とりあえず、整理するぞ。消えたのは金属類、爆発物を中心に基本的な材料全般」

偏りはあれどやはり全体的に減っている、と見て間違いはないらしい
その偏りが爆発物である辺り穏やかではないが……。

「食物系は比較的残ってました、後はアクセサリが少しです」

報告するアンナは非常に嫌そうだった。
無くなった物の中に精製が難しい品が混じっていることもそうだが、自分も精製に携わった物が何に使われたのか、未だ分からないのが不快らしい。
とはいえ、ここまではまだ良かった。ヴェインは自分が話さなければならない報告を鑑みて、なんだか貧乏くじでも引いたような気分になりながら、およそ二人のものより、よほど深刻な気分になるであろう事柄を繰り出すことにする。

「あと……コアもいくつか無くなってたけど……」

「「…………」」

ロクシスとアンナ、ふたりが同時に天を仰いだ。
ここで全員の頭痛の種となった材料、コアとはマナの力、あるいは魂そのものが結晶化した希少かつ特殊な材料である。凶悪極まりない力を持つモンスターが徘徊しているため、一般の生徒はおろか教員でさえも立ち入りを禁じられたダンジョン、アルレビス学園・旧校舎・閉鎖区域の深層でしか手に入らない。
学園の生徒の中において破格の力を持つヴェインたちでも命がけで挑んでようやく少量手に入る冗談のような代物である。
当然、リスクに見合うだけの力を持つ強力な材料ではあるのだが……。

「今の状況を鑑みるに、嫌な予感しかしないな……」

「というより完全な確信犯です、コアなんてよほどの事がない限り持ち出しません」

「保管用の箱にもわざわざカムフラージュがされてたしね」

だからこそ気づくのに遅れたわけだけど、とヴェインが言い終わるのと同時、三者三様にため息をつく。
ことここに至っては本格的に後戻りが利かないことを確信したからである。
元より真面目な気性のアンナはともかく、ロクシスとヴェインは正直もう帰りたい気分だった。
この時点で碌な事態ではないことは分かりきっている。騒動は日常茶飯事、けれども好き好んで火の輪をくぐる気には到底なれないし、なりたくない。そこまで達観するのは年齢的にも早すぎる。

とはいえ、逃げ道が封じられたこともまた確か。
コアまで持ち出されたとあれば最悪、累は学園全体にも及ぶだろう。
故にそのため息はいい加減覚悟を決めることに対する諦観そのものであった。

「話を進めるぞ……」

通夜のような顔でロクシスは言った。

「こういうことをしそうな人物に心当たりは?」

それは一種の現実逃避だったのだろう。しかし、無常にもヴェインとアンナは頷く。
ここまでのことを今の今まで気づかれずに行い、ご丁寧にも隠蔽工作すらできる余裕を持っている以上、外部犯は考えづらい。おそらくやったのはアトリエメンバーの誰か。
となると、心当たりなど一人しかいない(正確にはもう一匹いるが、優先順位は低めで良いだろう)。

しばし、漂った静寂。それを破る為、口を開いたのはアンナだった。

「行きましょう」

強い意志を宿した小柄な少女はその姿に似合わぬ覇気すら漂わせて、決然と告げる。

「グンナル先輩を、探すんです」

そして誰もいなくなったアトリエ。
人が消えたそこに、扉が閉まる音が寒々しく響いた。

※ ※ ※ ※ ※

「……とは言っても」

学園の屋上、青空の下にて眼下を見下ろしてヴェインはため息をつく。
屋上から見える中庭ではのんびり寝転がっていたり、談笑したり、遅めの昼食なのか、お弁当を食べている生徒達の姿が見られた。快晴の下で見る彼らの様子は誰もが楽しそうで、なんだか無性にそれが眩しい。こんな日に自分は何をやっているんだろうか?

「はぁ……アンナ達はうまくいったのかな……」

手分けして探したほうがいいという結果に落ち着いたのが25分ほど前。
見つけても見つけなくても30分後にアトリエの前に戻る、という打ち合わせで決めた為にそろそろ戻らなければならない、のだが。
彼としては少しばかりアトリエに戻りづらい。というのも……

「まさか手がかりひとつ見つからないなんて……」

まったくの空振りである。彼としてはサボっていた気は欠片も無いが、それでも少しばかり後ろめたいものが無いわけでもない。
とはいえ、この状況はヴェインとしても聊か意外だった。確かにグンナルという男は神出鬼没極まりない面はあるものの、あの体格と燃えるような赤毛は遠目からでも一目で分かるし、そもそも彼は学園でも一二を争う勢いでの有名人だ。だというのにまったく成果がない。

「まったく、どこに行ったんですか先輩……」

「なんだ、なにをしているのかと思っていたが、探していたのは俺様か」

唐突に生まれた気配に跳ねるように後ろを向いた。
幾分か慣れてきた面はあれど、この状況でのこれは心臓に悪い。

「……一体、いつからいたんですか……?」

「これぐらいは読めるようになれ、未熟者」

呆然と尋ねたそれには答えず、貴様はいずれ正義の味方、ひいては俺様の敵になるのだからな、とその気配の主、グンナル・ダムは不敵に笑った。
そんな無茶な、と思うと同時。いつかの旧校舎にて、いずれ世界征服に乗り出すといったのは本気だったらしいということを悟ってヴェインは嘆息する。
まして、目の前の人物はそれを本気で成し遂げてしまいかねないのが笑えない。
……いつか世界の平穏をかけて剣を交える自分達を容易に想像できてしまった自分が悲しくてならなかった。

「で、何故貴様らは俺様を探していたのだ?」

閑話休題とばかりに放たれたグンナルの台詞。
それを聞いて、うな垂れていたヴェインの胸にわずかな期待が宿った。

「心当たりが……ないんですか?」

「ありすぎて分からん。どれだ?」

逆の意味で期待を裏切られた。

「……アトリエの材料が無くなってたんです。コアも……」

天を仰いで告げるに、得心が行ったとばかりにグンナルは頷く。
不敵な笑みと瞳に嫌な予感しかない。

「あれか、いくつか細工を施しておいたが、もうバレたか」

思ったよりも早かったな、とあっさり認めるグンナルの様子にもはやため息もでない。

「一体、何に使ったんですか? 相当な量だったはずですけど」

「まだ言えん。いつか見せることになると思うが、まだ未完成だからな」

見たくない。全力でそう思ったヴェインである。賭けてもいいが碌なものではない。

「しかし、そうなると奴も感づいているか、厄介な……」

舌打ちして呟くグンナルの様子に、誰のことを指しているのか想像がついた。
そもそもこの傍若無人が服を着ているような男に対抗できる存在など実力的、精神的に見てもヴェインの後輩ぐらいである。

「おとなしく返したほうがいいんじゃ……怒ってましたよ、アンナ」

「8割はもはや使った。むしろ足りないほどだ」

「本当に何に使ったんですか……」

その後、ええい、なんとかしろ。いや、無茶ですって等と言い合っていた彼らだが、それも唐突に終わることになった。
不意にグンナルが台詞を切り上げて鋭い目を扉に向けたからだ。
つられて扉に視線を向けたヴェインは一瞬目を疑った。
扉に線が刻まれたのだ。鋼鉄製の扉に、である。

「覚悟――――!!」

そして次の瞬間、扉が両断されて、ヴェインがよく知る蒼髪の少女が飛び出してきた。

「アンナ!?」

「来たか!!」

神速といっていい速度で抜刀したアンナはそのままグンナルへと切りかかる。
常人ならば瞬きひとつできずに受けることになるであろう完成された抜刀術。
しかし、仕掛けた少女の技量が並みのものでなければ、受けた男の技量もまた並でなかった。
攻撃に即座に対応したグンナルは背負った機械剣を振りぬき、既にその斬撃を弾き飛ばしていた。続いて二撃、三撃と放たれた斬撃もまた、大剣と刀という振り回しの相性すら無視せんばかりに防がれる。

「ぬうん!」

弾いた反動を利用しての反撃、横薙ぎに振るわれた機械剣を後方に宙返りして回避、アンナは軽業師のように着地を決める。そのまま即座にバックステップし、手を刀の柄に当てた状態で体制を整える。

「仕留め切れませんでしたか! しかし、まだ!」

「いや、仕留めちゃだめだよ! 落ち着いてよアンナ!」

あまりに急転直下の展開に思わず呆然としてしまったヴェインが、ようやく我に返る。
割って入って説得に取り掛かる。今の攻防、第三者の視点から見ていたヴェインから見ても容易に分かるほどに本気だと言うことが窺い知れた。
さすがに殺意は篭っていなかったが、逆に言えばそれだけだ。
材料を持ち出したのはどうかと思うが、さすがにやりすぎである。
そう思って止めたつもりだったが、アンナの攻撃の理由は彼の想定の斜め上を行った。

「どいてください先輩! グンナル先輩をここで倒さなければ未曾有のバイオハザードが!!」

「このタイミングでその癖出ちゃったの!?」

真面目で常識人。面倒見の良い少女として評価されているアンナであるが、やはり人間に二分は無いらしい。これさえなければと周囲に言わしめる、彼女の最大の欠点、度を過ぎた妄想癖が全力で発揮されていた。
最後に会ったときはその兆候はなかったので、おそらく捜索中になったものと思われる。
これはまずい、とヴェインは思う。この状態になったアンナは色々な意味で手がつけられない。
そしてこの場における最大の不運は、基本的に惨劇しか生まないアンナの思い込みを喜劇変えんとした男がいたことである。

「ほう、よくぞ突き止めたな、アンナ・レムリよ」

「……!?」

「っ! やはり……!」

勘違いを完全に肯定するグンナルの発言にヴェインが目を剥き、アンナはさらに確信(見当違いだが)を深めた。

「悪乗りするつもりですか!?」

声を潜めてそういうヴェインにグンナルは何も言わない。ただ目が語っていた。
面白そうだからな、と。
そしてその目を見た瞬間、ヴェインは諦めた。色々なことを。

「学園をあなたの好きにはさせません! 覚悟しなさい!!」

もう僕よりアンナの方が正義の味方に向いてるんじゃないかな、と現実逃避気味に思うヴェインである。しかし、そんな彼を完全に置いて事態は動く。

「よかろう……だが、我々の決着をつける場はここではない」

不敵な笑みに腕組みといういつもの姿勢で、そのまま背後へ跳躍。
屋上の落下防止用の柵の上に降り立ったグンナル。

「っ! 待ちなさい!」

まさか退くとは思ってはおらず、慌てて追撃姿勢に入ったアンナにグンナルがなにかを放り投げる。パイナップル、遠い国にあるという果実のような形状をしたそれはアンナの目の前で着弾。


爆発した。


「くぅっ……!!」

「っアンナ!」

しかし、その中からは爆炎はおろか殺傷用の破片も飛び出すことは無く、ただただ凄まじい爆光を生み出した。
そのお陰で傷は無い、しかし完全に視界が潰された。おまけに何らかの作用なのか意識が段々遠のいていくのを感じる。

「安心しろ。グンナル的秘密道具、その参拾五、巣短愚例根意怒。非殺傷用の爆弾だ」

失った視界の中、思わず蹲ったヴェインの耳にグンナルの声が聞こえてくる。

「アンナ! そしてヴェインよ! 俺様を止めたくば、旧校舎へと来るがいい!!」

ふはははははは、と高笑いをあげながら遠ざかっていく声を聞きながら、ヴェインはようやく手探りでアンナを見つけた。
声が聞こえないことから予想はついていたが、どうやら気絶していたらしい。
そして、それを確認したのを最後に、ヴェインもまた意識を失った。

※ ※ ※ ※ ※

「想像以上に妙なことになっているな」

「うん……」

しかめ面で呟くロクシスに同意しながらヴェインは錬金釜を掻き回す。

「君が気絶したアンナを背負って入ってきた時は何事かと思ったが……」

「サルファがいてくれて助かったよ」

置き土産を置いてグンナルが姿を消した、あの後。
ペシペシと頬を叩くサルファの肉球に起こされたヴェインは、目は覚ましたものの例の爆弾の影響が激しいアンナを背負い、かすむ視界の中、苦心してアトリエに連れ込んだのだった。

「僕は少しづつ回復はしていたけど……アンナはそうじゃなかったみたいだね」

「話を聞く限り、至近距離で炸裂したのだろう? ならば影響の差も頷ける」

しかし、悪辣な爆弾だ。と呆れた様に呟いてロクシスは紅茶を口に含む。
それに困ったように苦笑を返して、ヴェインは釜で調合した薬品をマグカップに移し替える。
湯気を立てるそれを御盆に載せてアトリエの椅子のひとつに腰掛けるアンナの元に持っていく。

「薬だけど、飲める? アンナ」

「うう、大丈夫です……」

気落ちしたように呟くアンナには目隠しが巻かれている。
ヴェインがおぼつかない手つきでカップを探す後輩に気をつけて、と声をかけてからカップを握らせてやると、アンナは両手で包み込むようにしてカップを握り、ありがとうございます、とお礼を言った。
しかし、ゆっくりと口に近づけて、不意に手を止める。

「あの、先輩。これは本当にキュアポットですよね? その、匂いが物凄いのですが……」

「そのはずだけど……」

少しだけ躊躇いながらヴェインはそう言って、通常のキュアポッドと異なる紫色の薬品をなんとも言えない顔で見つめた。
彼の言うその薬品、キュアポットはヴェイン達も手持ちにいくつか常時ストックしているポピュラーな回復薬である、作り方は簡単だが、猛毒を始めとするあらゆる状態異常を一瞬で中和する良薬として学園生徒達に親しまれている。
が、どんな出鱈目な調合であの爆弾を作ったのか、少なくともそれではアンナが受けた影響への治癒には弱かった。故に今、彼が調合したのは薬効を強めた特別製である。

「……やっぱり自然に治るのを待つ? 苦いらしいし……」

最初はロクシスの薦めもあり、視界回復を待ってから再びアンナを背負って保健室に向かったヴェインであるが、保険医のメルヒス先生曰く、即効性はあってもそこまで不味いものでもないらしい。ほっとけば自然治癒するとか。
それでも直に動く必要があるとアンナが主張。ならばこれをと渡されたレシピを受け取った。
だが、同時。死ぬほど苦いと念を押されたことを思い返す。

「い、いえ! どんな得体の知れない薬でも先輩が作って下さったものですから! その、ありがたくいただきます……」

得体が知れないって……と立ち上る匂いで自分が口にしようとしている物に不安を抱いた後輩の容赦のない言葉に、ヴェインが苦笑する。
もちろんヴェインとしても、曲がりなりにも自分の後輩に出すものである、調合には細心の注意を払ったし、効果の方には自信があった。
しかし、それは元来、飲みやすさや味に直結するようなものではない。どこの世界でも良薬は口に苦いのだ。おまけに今知ったがアンナは猫舌らしい。
一生懸命息で薬を冷ましながら、うう、と泣きそうな顔でちびちびと薬品を飲むアンナの仕草が思いのほか幼く見えて、思わず苦笑ではない笑みが漏れた。

「話を進めていいか……」

「え、あ、ごめんロクシス」

話の進行を問うロクシスは、妙に疲れているというか辟易したような様子だった。
薬の匂いが苦手だったのかもしれない、とヴェインは思う。

「続けるぞ、これからの方針についてだが……行くのか?」

気乗りしないようにロクシスは言う。気持ちはよく分かる。
分かるが……

「行かない訳にも……」

「いかないでしょう」

ヴェインの言葉を引き継ぐようにしてアンナが言う。
目隠しをしたままでもその決意の程が伝わるきっぱりとした口調だった。

「このままではグンナル先輩によるバイオハザードが起こります。なんとしても止めなくては……」

「「…………」」

なんのことだ、と目で問うロクシスにヴェインは沈痛な顔で首を振って見せた。
いい加減付き合いが長くなってきた古参のアトリエメンバーだけあり、ロクシスはそれだけで状況を理解できたらしい。ヴェインと同じく沈痛な面持ちで額に手を当て天を仰いだ。

とはいえやはり、バイオハザードとまでいかずとも、放っておけば碌でもないことになるのは容易に想像できるし、元々のやることは変わっていない。

「……となると、やはり私達だけでやることになるな」

「フィロ達は? やっぱり連絡取れなかった?」

それに対しては予想通りというべきか彼は首を横に振った。
調合に少し時間がかかることもあって、話し合いの前に他のメンバーの様子を見てきたというロクシスだが、どうやら全員空振りだったらしい。

「二ケは音楽室に、パメラは資料室に釘付けにされている状態だ。とてもじゃないがた話を切り出せなかった……ムーペは、分からない。というより私には彼の交友関係からして分からない」

ようは話を聞くことも難しかったということなのだろう。

「フィロ先輩はどうでしたか?」

いよいよ薬を飲みほして、具合悪そうにしていたアンナが口をはさむ。
しかし発言してから即座に身体を丸めて呻きだした。
気分がすぐれない癖に口を開いたせいで何かがぶり返してきたらしい。
そんな哀れな後輩の背をさすってやりつつ、ヴェインが口直しにと用意しておいたフルーツ120%を手渡してやると、アンナはゆっくりとそれに口をつけ始めた。
律儀な彼女がお礼も言えない辺り、どんな凄まじい苦みだったのか想像もできない。
そして話を促す意でロクシスを見ると、彼はなにやら心底嫌そうな顔をしていた。

「ロクシス?」

「不明だ」

「……へ?」

重苦しい顔のままロクシスは言う。
一瞬、発言の意味が分からず、思わず間抜けな返答を返すと、ロクシスは深々とため息をついた。

「フィロの足取りがまったくと言っていい程に掴めない。元来、交友関係が広い彼女の足取りが、だ」

不自然だ。と彼は言う。
分け隔てなく人と仲良くしようとするフィロは、それに比例して知り合いとの関係も広く、良好だ。
だというのに、ここ2、3日はほとんどその行動が掴めない。
長期の材料採集にでも行ったのならともかく、人の多さにはこと欠かない学園でこれはおかしい。

「……探してみる?」

「いや……」

それはフィロの身を案じての発言だったが、予想に反してロクシスは首を振る。
依然として厳しい顔なのは変わらず、しかし、ロクシスはあまりフィロを心配しているということはないようだった。

「他に、何か分かったのですか?」

それを察して、ようやく気分が本調子に戻ってきたアンナが言う。
どうなのかとヴェインもまた無言で問うと、彼は気が進まなそうにこう言った。

「フィロが最後に目撃された時、彼女は人と一緒にいたんだ」

「……まさか」

その言葉を聞いて、ヴェインはようやく彼が嫌そうな顔をしていた理由を察する。

「君の予想通りだ。フィロはグンナル先輩と共に目撃されたんだ……旧校舎でな」

だから妙なことになっている、と言っただろう。ロクシスは仏頂面でそう締めくくった。

※ ※ ※ ※ ※

「しかし、どうしてフィロ先輩はグンナル先輩といっしょだったのでしょうか?」

旧校舎への道すがら、倒したモンスターの戦利品を漁りながら、アンナは言う。
その目にもはや目隠しはなく、彼女の視界が万全であることを示している。

各々、武器の様子を見ていたヴェインとロクシスがその言葉に振り返った。
結局、あの後、この二件が関連したものである可能性が高いと判断したアトリエメンバー達である。

「……お菓子で釣られたとか」

「……彼女の場合、ありそうで怖いな」

以前、格闘大会の折、誘拐されたフィロのことを思い出した三人はそう思ってげんなりする。
本人がいたら憤慨するかもしれない場面であった。

「いい加減、知っている人でも怪しい人にはついて言ってはいけないと言い聞かせないと……」

「それはそれで問題がでるんじゃ……」

というか、なんだかアンナ、フィロのお母さんみたいだな、と思ったヴェインであるが、あまりにもはまり役過ぎて、すぐにその考えを打ち切った。

「なんだか、甚だ不本意なことを考えられた気が……」

それでも的確にその気配を察するアンナの勘の良さに戦々恐々のヴェインである。
じっとりと睨んでくるアンナの目から逃れるように、彼は視線を泳がせて状況を打開するための話題を探す。

「そ、そういえば、アンナはなんで屋上にいたの?」

咄嗟に出したにしては上出来な話題だと思った。というより、その時からささやかながら気になっていた疑問でもある。少なくとも、アンナは知らなかった筈だが、何故彼女はあらかじめグンナルがいることを知っていたかのように乱入できたのだろうか?

「ああ、そのことですか。地上から見えたんですよ。先輩達が」

お二人ともフェンスに近い位置に立っていたでしょう、とアンナは言うが、もはや視力がどうとかいう距離ではなかった気がするヴェインである。
というかナチュラルに先輩にもできるでしょう、という顔をしていることが彼には辛い。どうにもアンナの中の自分の評価がおかしなことになっている気がしてならない。

「……二人とも」

「どうしたの?」

不意に、静かな声を出したロクシスの様子に訝しむような声を出して、アンナもまた同じ様子であることに気づく。

「来ましたか……」

先の様子とは違う、緊張感を孕んだアンナの声が向けられる先にはひとつの施設と一人の人間が立っていた。

施設の名前はアルレビス学園・旧校舎。
新校舎が建つにあたり使用されることがなくなり、やがてモンスターは住み着いてダンジョンと化した古い施設。

そして、その校舎の前に立つのは一人の男子生徒だった。

「よく来たな」

「君は……」

ヴェインはその生徒に覚えがあった。
確か彼は、グンナルが誘拐(狂言だったが)された折、ヴェインと剣を交えることになったグンナル配下の生徒の一人である。

思わず、声をかけそうになったヴェインに、しかしその生徒は口の前に指を当てて笑んだ。

「……知っているんですか? 先輩?」

その様子を訝しんでアンナが問うと、ヴェインではなく生徒が答えた。

「彼は知らないよ、なにもな……それに、俺が何者であろうと、関係はないだろう?」

やることなど一つなのだから。

そう言って、生徒は腰に下げていた片手の剣を引き抜いた。

「ここを通りたくば俺を倒すことだ」

これ以上は剣で語る、そう言外に告げて切っ先をこちらに向ける生徒の闘気を受けて、ヴェイン達はアイコンタクトを交わして武器を構えた。

「さぁ来い!」

そして、古き校舎に剣戟の音が響く。

※ ※ ※ ※ ※

「始まったか……」

薄暗い、しかし、かなり広いことが容易に分かる旧校舎の一室。
腕を組んで仁王立ち、いつものスタイルで立っているグンナルはそう言って口の端を歪めた。
彼の周りには幾人かの少年少女の姿が見受けられる。
皆が皆、武器とアイテムのチェックに余念がなく、来るべき指示を待っていた。
そんな中、複数人の中で唯一、彼の傍らに控えるように立つ一人の女子生徒がグンナルへと問いをかける。

「彼らは来るでしょうか? 今回配備したのは我らが組織でも選りすぐりの精鋭です」

もっとも、数こそさして揃いませんでしたが、と無表情にいう少女は、しかし、確かにそれを疑問に思っているようだった。

「間違いなくな、奴らは俺様のアトリエのメンバーだぞ?」

これは失礼しました、と頭を下げる女子生徒に、かまわん、と手を振って下がらせると、グンナルは自身の後方に前を向いたままで声をかけた。

「ムーペ! 進渉状況はどうだ!」

かけられた声はその部屋によく響く。
そしてその声に答えるように、呼びかけられた方も大きく声を張り上げた。

「ムー!」

「言葉で話せ!!」

さっぱり分からん、と切って捨てると、やがて彼の前に複数枚からなる報告書の束を持った先ほどの女子生徒が現れた。こちらの方が早いと判断したらしい。

「やはり、間に合いそうもないか……」

どこまで機能を切ったものか、と思考するグンナルはひどく楽しそうに笑う。
それは困難の中にあって、それを楽しむことが出来る一人の王の笑みだった。

「ままならんな……まったくもってままならん」

だが、それも良し! そう笑って彼はマントを翻して配下へと命を与える。

「心してかかれ! これよりお前達が相手にするのは学園最強のアトリエのメンバーだぞ!!」

号令を受けて、数人の生徒が扉から飛び出していく。
それを満足げに見て、グンナルは静かに呟いた。

「さて、お前達がここに来るまでどれほどかかるか、見せてもらおうか。正義の味方よ」

そして悪として歩むことを決めた男の笑いが、高らかにその部屋に響いた。



[28800] Is this a hero ? 後編
Name: 秋月 桂◆02e75bbd ID:a8ac91cf
Date: 2011/08/25 13:13
「ふぅ……」

かちり、と手入れを終えた刀を納刀すると、身体の奥からどっと疲れが押し寄せてくる気がした。
戦闘中はまだまだいけると思っていたが、思いのほか消耗していたらしい。

「お疲れ様」

アンナが顔を上げると、そこにはヴェインが水筒を片手に立っていた。
礼を言って受け取った簡易式のコップから水を飲むと、それが思いのほか美味しく感じられて、思わずまじまじとコップを見つめてしまう。

「疲れている時はやっぱりおいしく感じられるよね」

その様子に苦笑しながらヴェインが言う。
なんだか子ども扱いされたようでむっとしたアンナであるが、水のこともあって、不満げに睨むに留める。
それに対してごめんと謝ってからヴェインは辺りを改めて見回した。

旧校舎が現在の新校舎に移ったのは老朽化が原因だといわれている。
実際、移ってからかなり経つこともあってその内部、外部と問わず建物は相当傷んでいる。
そのあまりのボロボロっぷりは学園の七不思議の材料にもなるほどだ。(ちなみにその七不思議、『怪奇!シロアリの階段』を怪談と呼んでいいのか未だに疑問なヴェインである)

だが、今、ヴェインたちが居るそこは、廃棄された校舎と呼ぶには不釣合いなほどに整った施設だった。
地下特有の埃っぽさと閉塞感を出しながらも定期的に掃除されていることが伺い知れる一室。
元は特別教室だったと思われるそこには、どういう技術を使っているのか、その部屋を暗く感じさせない程度の照明が確保されていた。

「こんなものを何時の間に……」

巧妙に隠されていた地下への階段を発見してから今まで、何度となく思った疑問が漏れた。
もはや驚嘆を通り越して呆れしか浮かばないその有様に、改めて自分の先輩の底の知れなさを感じてため息をつく。

「あの人はどこに向かっているのでしょうか……」

言いたいこと察して同じようにため息をつくアンナに、本人は世界征服を目指すつもりらしいよ、とは言えないヴェインである。
そんなことを言い合いながら休憩していると、今まで無言で自分の装備の修復をしていたロクシスが立ち上がった。

「どう? ロクシス」

「粗方問題はない。修復といっても微調整のようなものだ……」

とはいえ、消耗品も併せてここまで削られるとは思わなかったがな。
そう苦々しく言う彼はここに来るまでの戦いを反芻しているようだった。

「何人ぐらい倒したかな?」

「……大体十に届くか届かないか、と言ったところでしょう」

身体の疲労具合を考えて、もう少し戦っていたような気がしたヴェインは思わず、そんな数だったっけと首を傾げるが。

「……いや、十分異常だ。元々、一介の生徒がここまでの戦力を集めること自体がおかしい」

「なにより一人一人の練度が高すぎます……組織単位での特殊訓練を施されているとしか思えません」

ロクシスとアンナの意見は違ったらしい。
ヴェインとしては一度、グンナル配下の生徒と戦ったこともあって、そこまで気にしてはおらず、相変わらず妙に強いな、程度の認識だったのだが。

「ここまで会った者たちの様子を見ても、金銭等による雇用関係とも違う。この求心力は一体なんなんだ……」

「まぁ、グンナル先輩だし……」

額を押さえるロクシスにそう言うと。何か得体の知れない説得力が生まれた気がした。
あの人なら何をやってもおかしくない。改めてそう認識した三人である。

「とはいえ、このままの勢いで戦い続けては遠からず力尽きてしまいます……」

そう言って自分の鞄を覗き込むアンナの顔は厳しい。
元々、単純な数という点で見て、フルメンバーの半分以下の戦力しかないヴェイン達である。
ローテーションを組むことも出来ないこの人数ではなし崩しに消耗していくしかない。
これでもう少し相手が弱ければとも思うが、ヘブンズゲートやコールメテオの詠唱すら始める相手を見れば、そんな仮定が無意味であることがよく分かる。
その手の大規模魔法をキャンセルできるスキルを持つロクシスがいなければ、もっと状況は悲惨なものになっていただろう。

「だが、相当奥まで来た筈だ。この地下空間が閉鎖区域に繋がってでもいなければ……」

「そろそろ終わりってこと……だよね」

確認するように言うと、ロクシスが地図を片手に頷いた。

「では……行きましょうか?」

促すように言うアンナにうん、と返して、傍らで毛づくろいをしていたサルファを肩に乗せる。
他の二人が準備を終えたことを確認したヴェインは奥への扉へと手をかける。

そして、なにが来ても対応できるよう身構えながらヴェインは扉を開け放った。

※ ※ ※ ※ ※

そこは異様な空間だった。
意図的にだろう。光量を落としてある為に奥まで見通すことができないが、少なくとも学園の教室の3倍の面積はあることが窺い知れ、天井は吹き抜けのごとく高い。
壁も床もここまでの通路や部屋と異なり、より金属質で頑丈なものに変えられていた。
耳に低く届く風の音は不気味な響きを伴い、肌寒さすら覚えるその流れはただ部屋の奥へと続いている。
風の回廊でも似た感覚を覚えることがあるが、それよりも閉鎖的で暗い印象を受けた。

「ようやく来たか……」

そして、そんな空間の中央、薄闇の中にその男の姿はぼんやりと浮かび上がっていた。

「グンナル先輩!!」

「ようやくはこちらの台詞です……」

即座に刀を構えて戦闘体勢を整えたアンナとは対照的にロクシスはうんざりとため息をついた。
ヴェインとしてもどちらかと問われたら後者に同意である。変な達成感と疲労感がどっとのしかかってきたような錯覚すら覚えた。

「なんだ後ろ二人。ノリが悪いぞ、ようやく待ちに待ったクライマックスではないか」

不満そうにもっと盛り上がれと言うグンナルの様子に無茶言わないでくださいよ……とヴェインはうな垂れる。
ここにきて一気に気力が削がれていっているのを感じた。

「そんなことはどうでもいいですから観念してください! そして材料を返しなさい!」

そんな空気すら一刀両断せんと叫ぶアンナにグンナルが満足そうに頷く。
あの顔は、こうではなくては、とか考えてる顔だろうな、とヴェインは思い、ロクシスはいよいよ帰りたくなっていた。
しかし、そんな二人を置いてけぼりにして事態は進む。

「返せ、といわれてもな。既に全て使ったから欠片も残っとらんぞ」

「あれだけの量を……一体何に使い込んだんですか……?」

あっけらかんとそう告げたグンナルに即座に切りかかろうとしたアンナを後ろから押さえつつ、ヴェインは言う。
最終的に実力行使な展開になるのは避けられないような気がしてきたが、それでももう少し粘ってみようと思ったのだった。

そんな諦観交じりの努力をしていたヴェインであったが、

「よくぞ聞いた!」

最高に輝かしい目でそう言ったグンナルを見て、ああ、これはもう駄目かな、と思った。

「見るがいい! これこそがグンナル的発明品その百十一……」

マントをはためかせ高らかに叫ぶグンナルの身体が、徐々に浮かび上がっていく。
否、彼の身体が浮かんでいるのではない、彼の立っている足場こそが昇降機のように上昇している。
加えて、(初めから狙っていたとしか思えないタイミングで)四方から眩いばかりの光源が出現。グンナルの周囲をライトアップさせた。

構造上、あらかじめ掘り下げられていたらしい校舎の床に埋まっているように見えるその巨体は、目も覚めるような青い装甲に金属質な光沢を持っていた。

腕には魚を模した意匠、各所に施されたえらなどの装飾が無駄に細かい。

浮かび上がるように現れたその巨人を(実物でこそ無かったが)、ヴェインとロクシスは見たことがあった。

「「ギョ……」」

「ぎょ?」

愕然とした呟き。どうにも先輩二人の様子がおかしい、怪訝な顔で後ろを振り返ったアンナは奇妙な光景に遭遇した。

「「ギョカイザー……!?」」

その声は少しだけ弾んでいた。

「……お二人ともなにか楽しんでいませんか?」

まさか、この二人が再び声を揃えることがあるとは、と思いながらもじっとりとアンナが睨むと、ふたりとも気まずそうに顔を背けた。

「……関連書籍は置いておいたが、ロクシスもかかるとはな」

ヴェインならば気づくと思ったが、と興味深そうに呟くグンナルの目は今まさに自己嫌悪に苛まれているロクシスへと向けられていた。思わず呟いてしまった自分がすごく嫌だったらしい。

「僕ならって……というより、あれを置いたのは先輩だったんですか」

「ああ、ムーぺから借りてな。俺様もどっぷりはまった口だ」

やはり巨大ロボはいいものだ。と笑う様子から、ヴェインはようやく今回の事件の顛末を悟った。
今をもって無言でたたずむ青い巨人。
等身大ギョカイザーと呼ばれるべきそれは、もはや感嘆すら出そうなレベルでの悪乗りと120%の趣味、そして大量の材料からが生み出された狂気の産物だった。

「よくもまぁ……はぁ」

ここまでに会った構成員達はみんなこれの製造に携わっていたのかと考えると、先の激戦すらも霞むような脱力しか生まれない。

「なるほど、話は分かりました……では、そろそろ壊しても構いませんね?」

そして、そんなヴェインの、思いのほか近くから一片の容赦すらない破壊宣告が聞こえたのはそんな時である。

「あ、アンナ?」

「先輩。離して頂けますか……?」

「はい……」

飛び出さないようにと押さえられた体制のまま、低い声でそういうアンナの様子に一瞬の躊躇も無く手を離すヴェインである。目が本気だった。本気と書いてマジと読んだ。

「壊す、か……」

だが、そんな様子も見えていない、否、取るに足らないことと言わんばかりのグンナルの態度は得体の知れない自信に満ち溢れている。
いつもの態度のおよそ3割り増しほどのその姿に、ヴェインとしては嫌な予感しかしない。

そして、それはものの見事に的中した。

「いいだろう。やれるものならやってみるがいい!」

「お願いだから煽らないで下さい……」

嘆願するように呟かれたその言葉を聞くものはその場に誰もいない、それを知って世界から争いが無くならない理由を垣間見たヴェインである。

「やぁぁぁぁぁぁ!」

切っ先から放たれた斬撃、その衝撃波が虚空を走りその青い胴体へと直撃する。
そのまま立て続けに二連、三連、四連、五連。鞘走りの音が響く度に飛来する不可視の刃は、その全てがギョカイザーへと吸い込まれるように消えていく。
着弾箇所から爆発音も聞こえる辺り、いつそうしたのか、フラムを始めとする爆発物も放り込んだらしい。それも爆発音から察するにテラフラムやレヘレヘレヘルン、フェリオス星団儀等の高位アイテムの大盤振る舞い。
相手が無抵抗なのをいいことに放たれる、情け容赦の無い連続攻撃だった。

「うわぁ……」

「……これはひどい」

あんまりにもあんまりな光景にヴェインが思わず引き気味になると、いつの間にやら復帰したロクシスが呆れたように呟いていた。
相手の巨体から鑑みて、かならずしも致命打になるとは思わなかった二人であるが、目の前の光景を見ているとその考えも変わってきた。
これが生き物なら可愛そうになるレベルでのオーバーキルである。

しかし、

盛大に鳴る耳障りな金属音はせめぎ合うように響いて溶け、やがて土煙の中から姿を現したのは、僅かな亀裂と所々が焦げた、しかし健在であることが一目で分かる青い装甲だった。

「っ!?」

「効いてない……!?」

「それだけではないぞ!」

思わず瞠目する三人を活き活きとした声が出迎える。
嵐のような連撃から逃れる為か、いつの間にか掌から床へと降り立ったグンナルは悪戯を成功させた子供の様な笑みを浮かべていた。
規模を別として考えれば案外似たようなものかもしない。
ともあれ、彼が今まさに指差す先、攻撃の着弾地点である、ギョカイザーの胸部がどこから現われたかも知れない光沢を持つ液体で包まれていた。

「……ロクシス」

「言うな」

どこかで似たような光景を見たことがある気がして、思わず確認するようにヴェインが呟くと、天を仰いだロクシスがそれを拒絶した。
染み込むように、泡立つように蠢くそれらが姿を消したその時、もはや亀裂すらない無傷の装甲が照明の光を照り返して輝いていた。

「超再生スキン……!」

「ムーぺのだね……」

呟くアンナの声は心底悔しそうで、フォローの言葉も浮かばない。

「出鱈目に混ぜ合わせた合金が、なんの因果か凄まじい強度になってな。せっかくなので事故修復機能も持たせたいとムーぺに相談してみたのだが……これが奇跡的にうまくいったのだ」

どうだ、凄かろう! 笑うグンナルを見て、そんな奇跡をもたらした神様がいるとしたらアンナが即座に切り捨てるだろうなとヴェインは思う。

「というか、やっぱりムーペも協力してたんですね……」

「うむ、我らが頼れる技術者、兼パイロットだ」

仕置きの対象が増えただけです、と隣で呟くアンナがとても怖い。
しかし……、

「技術者っていうのは分かりますけど……パイロット?」

確か原作においてはギョカイザーは人(ではなかったが……)が乗り込んで操作する物だったとヴェインは記憶している。

「まさか、乗ってるんですか、今?」

ヴェインとしてはまさかそこまで忠実に再現したのか、という意味での問いだったのだが、グンナルはそうは思わなかったらしい。

「うむ、本来なら貴様が乗る筈だったのだが、テストパイロットとしてどうしても、とムーペが聞かなくてな。それで仕方n」

「待ってください」

話の途中ではあるが、決して聞き流してはならない台詞があった気がする。

「今……乗るのは僕って……」

それは否定を求めての言葉だった。
確かに(あまり大っぴらに認めるのに抵抗はあれど)漫画として見たギョカイザーが面白かったとヴェインも思う。
しかし、だからといって同じように戦いたいかと問われれば、彼としては首を傾げざるを得ないし、何より自分があれに乗って何をさせられるのかが恐ろしい。
巨大怪獣と戦わせられたりする自分を想像して頭を抱えると、強引であることに定評(というより悪評)がある赤毛の先輩は追い打ちとばかりに、知りたくもない真実を告げていく。

「言ったぞ。というより、元々の計画では貴様が着込むパワードスーツを作る予定だったしな……まぁ、設計段階で手当たり次第に機能を追加していったらこのサイズになることに気付いた時に、こちらの路線に変更することを決めたわけだが」

アンナ達の前だからだろう、極力表現を歪めて明言を避けているがヴェインには分かった。

(危うく変身ヒーローにされてしまうところだった……)

まさか拉致されて改造されることはないだろうが、次からはこれを使え、と妙なベルトを渡されることになっていたかもしれない。それぐらいならこの人はやる。

瞬時に弾きだした推論は即座に確信へと変わり、生々しささえ伴った想像にヴェインは身震いする。
なまじその囁きを受け入れていしまいそうな自分が怖かった。

「しかし、だとするとあれには今、ムーペが乗っているのか」

あったかもしれないIFを考えて、なんとも言えない気分になった彼を引き戻したのはそんなロクシスの呟きだった。
思案するその横顔が、さりげなく目配せしてきたことを受けて、ヴェインはその意図を察する。

「ムーペ! 聞こえてる?」

青い巨体の中にいる友人へ声を上げて呼びかける。
こちらの考えに気付いたらしいグンナルがほう、と興味深そうに呟く。

「本体をどうにかする気か」

「目配せだけでそこまで……いよいよ先輩も場馴れしてきましたね……!」

なぜか嬉しそうなアンナの様子に首を傾げながらも、ヴェインは案を思い返す。
先のアンナの攻撃を受けてあのダメージ、加えて自己修復機能。攻撃能力は未知数だが、少なくとも脅威ではないレベルだということは有り得ないだろう。
ギョカイザー自体を倒すことは困難であると判断した上での打開策。
それがムーペ本人へのコミュニケーションだった。
説得できるならそれでよし、そうじゃなくても何らかの取掛かりになるかもしれない、それを見越してのものだったわけだが。

「ガガガがガがががガガggggggg……」

「……は?」

その呆けた疑問符が誰のものだったか、ヴェインには分からなかったし、それは恐らくアンナやロクシス、グンナルのまた同じだったろう。
その場にいた他の誰かのものだったかもしれないし、あるいは気づいていないだけで自分が漏らしたものだったかもしれない。なにはともあれ、その場において四人の思考はほぼ同一のものであり、

「ぶるぅああああああああああああああああああああ!!」

その状況が予想外だったことだけははっきりしていた。

※ ※ ※ ※ ※

「貫け……!」

魔法陣を描きながら掲げられたロクシスの指先に集った魔力が、一瞬の瞬きと共に天へと消える。指向性も持たされ放たれたそれはやがて巨大な落雷へと姿を変えて、ギョカイザーへと降り注ぐ。

「……行けぇ!」

そしてそれにわずかに遅れてヴェイン。向かい合わせた掌の間に、輝く光球を作り出した彼はそれを振りかぶるような仕草と共に投擲。
放射線を描くことなく、真っ直ぐに放たれたそれは落雷の直撃を受けて動きを止めたギョカイザーの胸部へと突き刺さった。

轟音と共に揺れる巨体は、しかし、すぐに何事も無かったかのように動き出す。

「……っ! ヴェイン! 奴の弱点は本当にこれでいいのか!?」

「間違いない、と思うよ。機械系の敵は共通してこれに弱いし……でも」

それにしても硬すぎると言うヴェインの言葉に、ロクシスが顔を顰める。
元々、長い付き合いである。ロクシスとしてもヴェインの解析能力は認めていた。が、それでも思わず聞き返してしまうようなタフさ加減である。
属性では有意のはずだが、とてもじゃないが有効であるとは思えない。攻撃を受けた箇所が即座に再生用の液体金属で覆われることを考えればダメージ自体はあるのかもしれないが、即座に直るのでは限が無い。

「とはいえ、下級の魔法じゃ弾かれちゃうし……」

「このままでは長くはもたないぞ……!」

再び放たれたロクシスの魔法、その直撃と共に暴力的なまでの光に包まれたギョカイザーから目をそらして、ヴェインは先の一撃で消費した魔力の量に顔を顰める。元々、状況が状況である為に、コモンスペルにアレンジを加えた即席の魔法だったが、思いのほか消耗が激しい。
そしてそんな風に考えていたのが悪かったらしい。

「ヴェイン!」

「え?」

切羽詰ったロクシスの声に、ヴェインが顔を上げると、大きく拳を振り上げたギョカイザーの姿があった。

「うわっ!」

次に訪れる死の予感に顔を引きつらせる。
が、彼にとっては幸いなことにその拳が振り下ろされることはなかった。

「やぁっ!」

聞き慣れた高い声が聞こえたかと思えば、途端にギョカイザーの動きが鈍くなった。
一瞬、つっかえるように動きを止め、今度はバランスを崩して倒れこんで来る。

「ちょっ……」

その時、降って湧いた二つ目の災難にもはや絶句するしかない彼の襟首が掴まれ、強引に彼の後方に開いていた裂け目の中に引きずり込まれた。
一瞬、決して目に優しいとは言えないような色で視界が覆いつくされたかと思えば、急転するように先ほどとは違う光景が目に映る。

轟音と共に校舎を巻き込んで倒れ行くギョカイザー、それをその後方から眺めて、ヴェインはようやく自分が空間を移動したこと、それと自分の襟首を掴んでいる人物に気付いた。
というより、こんなことが出来る人物自体一人しかいない。

「アンナ!」

「先輩の集中力の欠如は今後の課題ですね……」

助けてくれたことに対して礼を言うべきなのは分かったが、ぼそりと呟いてこちらを睨むアンナが怖くて思わず失念する。
そして後でありがたいお説教をもらうことが確定したことをヴェインが悟った瞬間だった。

「gggggggggggggうろおおgaaaaaaaaaaaaaおおおおオアオアオアオおaaaaa!!」

倒れこんだギョカイザーは未だバランスを崩した状態で、なんとか立ち上がろうともがいているところだった。
よく見ると、両足の関節の部分が凍結し、白い冷気を撒き散らしているのが分かる。
おそらくアンナの仕業だろう。機体全体には無理でも、要所を凍らせて動きを縛ったらしい。

「一応、あれも人間の動きを模したものですから上手くいきました……あのサイズとなると要所だけでも消費する魔力が馬鹿にならないんですが……」

それに長くは持ちません、とため息を吐くアンナの言うとおり。ギョカイザーが暴れるのに併せて、間接からボロボロと層になった氷が剥がれ落ちていた。
加えて、何の影響も受けていない上半身は依然として敵を求めて振り回されている。拳が当たった校舎の壁に盛大にひびが入っていた。このままでは崩落する危険すらある。

「しかし、景気良く暴れているな」

いっそ天晴れだ、という呟きにヴェインが上を向くと、天井が崩れて出来た瓦礫の上に仁王立ちになるグンナルの姿があった。気配も何も無かったが、もはやそれも常である。
首謀者にもかかわらず悪びれないその様子に、青筋を立てるアンナの手をつかんでなんとか思い留まらせる。一瞬睨まれるが、本人もそんな場合ではないと悟ったのか、すぐにおとなしくなった。

「……すみません」

「気にしないで」

その上で改めて向き直ると、何故かグンナルは感心したように頷いてヴェインを見ていた。
その様子が気にはなったが、それを聞くと禄でもないことになる予感がしたヴェインはあえてそこには触れずに、先ほどから思っていた疑問を口にする。

「一体、どうしてああなったんですか? あれにはムーぺが乗ってたはずじゃ……」

その言葉を受けて、ふむ、と片手で顎をするようにして上を向くグンナルは言葉を選んでいるように見えた。詳しく知っているのならばこの人しかいないだろうというヴェインの見立ては当たっていたらしい。少なくともある程度の推測はついているようだった。

「おそらくはコアだな」

「コア、ですか?」

立っている場所の高さもあって、自然と見下ろすような形になるグンナルの視線は、ロクシスの手によって関節部分に氷結魔法を重ねがけされてもがくギョカイザーに向けられていた。

「コアは元来、マナの魂が結晶化した物だということは知っているな?」

「はい、知ってますけど……」

ヴェイン達錬金術師と割かし身近な存在であるマナだが、その正体は一種の力の塊なのだとする説がある。その身体の中に渦巻く膨大な力はそれこそ街ひとつを吹き飛ばして尚余るほどなのだとか……そしてその魂が結晶化したのがくだんのコアである。

「考えても見ろ、力の塊とも言われるものではあるが、マナ自身は物ではなく確固たる意思を持っている。結晶になった時点でそれは失われて久しいもののようだが、それにしたって残留思念程度は残っていてもおかしくはあるまい」

もっとも、確固たる意思というには程遠いがな、と言う。グンナルの様子にヴェインとアンナは思わず顔を見合わせた。
話の内容には驚いたし、思うところもあるが、それにしたってグンナルが饒舌にこういう話をすることに違和感しかない。

「なんというか……詳しいですね」

「ロボを作る過程でいくつかその手の文献を見てな……」

「本当に趣味に対しては全力を注ぎますね、趣味にだけは」

そう褒めるな、褒めてませんというやり取りを聞きながらヴェインは今の話を反芻する。
ここまでの話を総合すると、

「あれを動かしているのはムーぺじゃなくて、そのマナの意思って言うことなんですか?」

「言っただろう、意思というほど上等なものではない。完全に本能に支配、というより元よりそれしかないのか。その上不安定だからな。放っておいても自然消滅するだろう」

あの気性の荒さを見る限り火のマナ辺りか、と呟くグンナルに対して口を挟んだのはアンナだった。

「かといって、それを悠長に待っているわけにもいきません」

結局はそれが結論である。

彼としては進んで戦いたいとは思わない、かといって止めない訳にもいかない。
以前戦った双子のマナのことを思い出して、気分が沈みそうになる。意思と呼ぶほどのものではないと言われても、やはり思うところが無いわけではない。

「にゃおん」

考えすぎだ、と頬を肉球で叩く感触に驚いて振り向くと、肩に乗ったサルファが仕方ないものを見るような目で見返してきた。
それにありがとうと返してグンナルとアンナに向き直る。落ち込んでいる暇はないと分かって、再び変身したサルファを身に纏った。

「それで、あれはどうしたら倒せるんですか?」

現実問題、手が見つからない。意図せず時間稼ぎをする羽目になっているロクシスの為にも早めに結論を出さなければいけないのだが……、

「シンプルだ。再生しきれないほどのダメージを中枢に叩き込めばいい」

身も蓋も無かった。

「本当にシンプルですね」

「というか中枢って……」

呆れたように言うアンナを横目に、ヴェインは遠く暴れるギョカイザーを指差す。
正確には、その胸部。ちょうど開閉式のハッチのようなものがあるのだが……確かあそこは漫画ではコックピットとなっていたはずである。

「ムーぺは大丈夫なんですか……?」

「………………ああ」

「その間はなんですか」

目線が微妙に上にずれている辺り、甚だ信用のならない返事だった。
それを見てアンナの目線が微妙にきつくなる。

「あれでも一応、うちのアトリエのメンバーですし……本当に大丈夫なんですか?」

「……アンナ」

実はアンナが一番酷い扱いをしているような気がしてきたヴェインである。
この後輩は時たまナチュラルに毒を吐くから始末が悪い。

「まぁ、超再生スキンに入ったまま搭乗したから問題はなかろう。下手すると翼竜の突進すら弾くぞ、あれは」

「まぁ、そうですけど……」

さりげなく防御能力には定評のあるムーペだった。今まさに苦戦させられているギョカイザーの装甲の原型だ。硬さのほうは折り紙付きである。
とはいえ不安が無いわけでは決して無いのだが、目の前の二人は完全に本気の目をしていた。
迷いの見えないその様子を見るにそれ以外に道は無いと悟っていたらしい。
ついでに言えばそろそろロクシスが限界だった。

「ムーぺごめん……」

剣を一振りして、未だどういう状態かもいまいち判然としていない友人に謝ると、残りの二人も神妙な顔をして頷いた。

「決して忘れません……」

「お前はいい男だったぞ……」

「やっぱり二人とも無事に済むとは思ってないんだね……」

さすがに死ぬとは思っていないだろうがそれにしても縁起が悪い。
ことが終わったらお詫びとしてムーペに何か、好物でも作ってあげようと思ったヴェインである。

※ ※ ※ ※ ※

「話は分かりましたが……」

なにやら納得がいかないという顔をしているのは一人時間稼ぎをさせられたロクシスである。
必要なことだとは分かったが、どうにも貧乏くじを引かされた気がしてならない彼は、現在、魔力回復効果のあるポーションをこれでもかと腹に詰め込んでいた。
尽きかけの魔力のことを考えればこちらもこちらで必要なことだが、後で絶対に体調を崩すと分かる量である、げんなりするのも仕方がない。

「ええい、男ならば四の五の言うな。そのぐらいで腹は壊れん」

「元凶がそれをいいますか、というより私の身体をあなたと同じ基準で考えるのはやめてください」

心底嫌そうにロクシスはグンナルに言う。話が通じないという点でアトリエでもトップクラスの男との会話に精神への負担を如実に感じながら、二人揃って凍結魔法をかけるヴェインとアンナを視界に納める。

攻撃への下準備として動きを止めておく為に、やはり関節部位への部分凍結が一番効率がいいと結論付けたヴェインたちの動きは早かった。
消耗が激しいロクシスを休ませ、魔法への適正が低いグンナルを説明役として残し(人数不足故の苦渋の決断である)、ヴェインとアンナが一斉攻撃の間だけでも動けないようにと念入りに魔法をかけておく。
元々、巨体に任せた肉体での打撃に終始していたギョカイザーはこれに対する対抗策を取れずになす術も無く巨大な氷のオブジェと化していった。

「いっそ、このまま固まってくれたら早いのですが……」

「無理だな。元々のパワーからして動きを止めるのが精一杯だろう」

「でしょうね……」

まったく、厄介なものを作ってくれた、と思うが口には出さない。無駄なことはしない主義なのだ。

「火器の類があればまた違ったのだろうがな」

「……無いのですか?」

ロクシスとしても、それは足止めをしていた時からの疑問だった。
今、展開されている作戦そのものがギョカイザーが飛び道具を持たないことを前提として立てられ、実際それは上手くいっている訳だが。
もしこの前提が崩れていたら目も当てられないことになっていた。
そして目の前の男ならばいかにもそういうものを積み込みそうなものだ、これだけ大規模なものを作っていてそこだけ妥協するとも思えない。

「開発はしていたのだがな、お前たちが予想外に早くここに辿り着いたために結局積み込む暇が無かったのだ」

「……そうですか」

急いで来て良かった、とロクシスが心から思った瞬間である。

「……来たか」

ヴェインとアンナが駆けて来るのを見て、グンナルが立ち上がる。
高位の魔法を打ち続けて大分消耗しているように見える二人だが、事前にある程度の余力は残しておくようにとは話していたらしい。戦い慣れている分その辺りで下手を打つことは無いだろう。

「……面白そうだから、と放っておくかと思っていました」

下準備を終えた二人の後輩へ向けて歩き出すその背にロクシスが声をかける。
それはこの後始末にグンナルが参加することへの問い。
協力は確かに欲しかったが、意外と言えば意外な行動だった。
そう言外に告げる言葉を聞いて振り返ったグンナルは一瞬、怪訝な顔になって、やがてにやり笑って再び背を向ける。

そして、その男はこう言った。

「あれに次に乗るのは俺様だからな、早いところ降りてもらわねばならん」

とりあえずその背にカードを投擲することにしたロクシスだった。

※ ※ ※ ※ ※

「つまりはどういうこと?」

無言無表情でカードを投げるロクシスとそれを避けるグンナルという意味不明な光景にヴェインが首を傾げる。

「言ったでしょう」

それを聞いてアンナは頷く。
ちらりとヴェインへと向けられた彼女の視線は、今は少し距離をおいたところにあるギョカイザーへと向けられている。
そしてその口調は既に何度も読んだ小説を音読するような、ひどく退屈そうなものだった。

「やっぱり、あんなのでも私たちのアトリエの一人だと言うことです」

そして、総攻撃が始まる。

※ ※ ※ ※ ※

「やあああああああ!!」

刹那の内に放たれた実に十六もの斬撃が蒼い装甲に深い切れ込みを加える。

攻撃を終え、風にその青い髪を暴れさせるアンナは、それが重力に落ちる間すらなく離脱。
そしてそれに入れ違うように赤毛の大男が、その図体をしても不可能だとしか思えない大きさのドリルを携えて突撃。
金属同士がぶつかる、耳を塞ぎたくなる轟音を立てて激突する。

ギョカイザーの持つ装甲。
偶然かつ奇跡的に作られた特殊合金で覆われたそれの硬さは、書類上のスペックと強度試験を見たその目をもって存分に知っているグンナルである。
彼の組織の開発陣をしてアイアスシールドと同格とまで言わしめたそれが、決して虚仮脅しの代物ではないと理解していた。

しかし……

「この程度で俺様は止まらんぞ!!」

そんなものは関係ないとばかりに、彼のドリルは青い装甲を削り、砕き、破壊していく。
再生用の液体金属すら風圧ではじき飛ばすその姿は、舞い散るそれによって雄雄しく輝いている。
元々、とある娯楽書物にてあった、天を突くドリル、というフレーズが気に入って取り入れたロマン100パーセントの変形形態だったわけだが、マナの力すら取り入れるという無駄にすごい凝りようによって強化された代物である。
元来実用性皆無のドリルという武器をして規格外の破壊力だった。

だが、この場においてはそのドリルすら前段階の攻撃に過ぎない。

「……十分だ! しくじるなよ!!」

そう言ってドリルの形態を解除。グンナルもまた、追撃に当たらぬよう離脱する。
彼の役目はアンナの斬撃で切れ込みを加えられ、対物理強度を落とした外部装甲に穴を開けること。

そしてそれに続く攻撃とは当然。

「はい! ……行きます!」

「裁きの時間だ……!」

開けた穴。その内部への攻撃に他ならない。

暗く、澱んだ闇によって編まれ、形を成した大剣、そしてその隣にそれとは対照的な、神秘的とさえ感じるような光を放つ球体。
指揮者のように手を掲げる、各々の作り手に呼応するように、脈打つ大剣と回転する光球。
何の知識もないものが見ても一目で感じ取れる、莫大な破壊のエネルギーを秘めたふたつは同時に振り下ろされた手に応えてギョカイザーへと飛来する。

吸い込まれるように、グンナルが開けた大穴へと入り込み、突き刺さったそれらはその内部で炸裂、爆発音と共にギョカイザーの巨体を吹き飛ばした。

轟音と共に旧校舎の壁に背中から激突したギョカイザーはそのままずるずると崩れ落ちる。

「……本気で攻撃しちゃったけど……本当に大丈夫なのかな」

すごい音したけど、と呟くヴェインの両隣に後方にいたアンナとグンナルが戻ってくる。

「まぁ、問題はあるまい、しかし、拍子抜けする位あっさりと決まったな」

「下準備が万全でしたから」

と言いながらも警戒を怠る様子がないあたり、この二人はすごいなぁと思いつつ、もさすがに警戒し過ぎじゃないだろうかとヴェインは考える。
そしてその傍ら、技の行使の疲れを抜くように一息ついて、ロクシスが言った。

「やったか……」

正確に言うと、言ってしまった。

「…………」

「…………」

「…………?」

「……なんだ?」

自分に向けられる、アンナとグンナルの、信じられないものを見るような目にロクシスが引く。
ヴェインはどうして二人がそんな態度を取ったのかこそ分からなかったが、ロクシスの発言を境に、場の空気が凍りついたことを悟り、ここで口を開くべきではないと言う結論に達する。
対するアンナとグンナルは、この場において不吉極まりない台詞を言ってしまったロクシスに愕然としていた。

「なんて演技でもない真似を……」

「貴様取り返しのつかないことをしたな……」

「な、何なんだ……私が一体何をしたと……!」

あんまりにもあんまりな視線を向けられて思わず彼がうろたえたその時、思いのほか近くからなにか重々しい音と機械特有の駆動音がすることに一同は気づいた。

「冗談はともかく、だ……貴様ら、あとどれぐらい戦える?」

「全力の一撃、という意味でしたら、私とヴェイン先輩は後一度が限界です……薬品類も既に使い果たしました」

そちらはどうですか、と水を振られたのはロクシスである。
先ほどのやりとりのせいか、心なしか動揺しているような気がするのは気のせいだろう。

「あ、ああ、ある程度は余力がある……だが私の切り札は発動まで若干のタイムラグがあるぞ」

元々、ロクシスの必殺技は、そのタイムラグを仲間がフォローする形で使用される。
先程のようにあらかじめ準備ができるというのならともかく、現状では現実的とは言い難い。

「つくづく今仕留められなかったのは痛手だったな」

羅列される不利な条件、しかしそれに反して楽しそうにグンナルは呟く。
その逆境こそが愉快と言わんばかりの態度にアンナが嘆息する。

「不謹慎ですよ……しかしこれは……」

「人数不足の影響が如実に出たな。本来なら今ので詰みだ」

補足するようにロクシスが呟く。せめてもう一人いれば、と思わず愚痴めいたものになってしまうが、それも仕方ない。逃したチャンスはあまりにも大きかった。
凍結魔法による足止めも困難。できたとしても決め手が足りない。
とはいえ……

「諦める訳にもいかないんですよね……」

「そういうことだ、なんだ、貴様も随分図太くなったな」

心底楽しそうに笑われて、それは喜ぶべき変化なのだろうかとヴェインは首を傾げる。

しかし。

仕方なさそうに首を振るロクシス、何故かひどく嬉しそうに頷くアンナ、そのどちらの手にも武器が握られているのを見て、それもどうでもよくなった。

「……では、行くとするか」

機械剣をかついで敵に向き直るグンナルがその総意を示す。
カメラアイを赤く輝かせて咆哮するギョカイザー、先ほどまで完封状態にあった鬱憤を晴らさんとばかりに気合をいれるその様子に思わず、ヴェインが引き気味になる。啖呵は切ったが結局嫌なものは嫌だったりした。

それを呆れ顔で見るアンナ、引き締められた空気が微妙に情けなく緩まったその時、状況が動いたのはその瞬間だったりした。

「みんなっ!」

ふたつにまとめられた、特徴的なピンク色の髪。それを靡かせてひとりの少女がその場に乱入する。

待ち望んだ援軍、しかし、その瞬間にヴェイン達一同が感じたのは歓喜でも安堵でもなく、何故か言いようもない寒気だった。

後に一同は語る。

その瞬間のフィロは自分達にとって重要な鍵であり、同時に最大の地雷だったと。

※ ※ ※ ※ ※

フィロメール・アルトゥングにとってそこは理想の職場だった。

自分が好きな、彼女曰く、錬金術っぽい錬金術が存分にできるうえに、小遣い程度ながらお金がもらえるのである。
元々、あまりお金に執着がないフィロではあるが、かといってまったく使わない訳ではない、むしろ、よく使う。一般の生徒の二倍ほどを怪しげな材料の数々につぎ込んでいる。

普通ならあまりにも怪しいその職務内容をして、疑う事もなく、そのアルバイトを持ちこんだのは彼女のアトリエの先輩であるからして、面接などもなく即採用だったことに運がいいなぁ、とすら思っていた。

あまりにも無防備過ぎて、むしろ詐欺師すら騙すことを躊躇うような世間知らずっぷりだった訳だが、しかし、彼女は別に騙されていた訳ではない。
お給料はちゃんと出たし、福利厚生もしっかりしていた。
バイト仲間の人たちは気さくで親切で、職場の雰囲気も明るかった。時たま錬金釜を大爆発させてみんなで後片付けをしたのはいい思い出だ。
だからこそ、作製した品をアトリエの仲間に使用すると言われた時、驚いたし憤慨した訳だが。
結局、それは現実のものとはならなかったにせよ、詳しい経緯と状況を知ったフィロが仲間達がいるというフロアまで駆け下りてきたのは自然なことだったし、当然のことだった。
アトリエメンバーの中でも専ら救護要員として活躍するだけあって彼女はその手の状況には敏感なのだ。

そして、予想通り苦戦していると思しき仲間の元に辿り着いて、軽く状況を説明した訳だが。

「まさか、こっちの繋がりでしたか……」

「というか、それは絶対騙されていると思うよフィロ……」

遭遇したのはそれはもう悶絶する勢いで頭を抱えた仲間たちだった。

「失礼なことを言うな。ただ爆発物を作るだけの簡単なお仕事として紹介しただけだぞ」

「その場に我々がいたら全力で止める勧誘ですね……」

心外だとばかりに言うグンナルにため息をつくロクシス。
元々、メンバーの中でもずれた感性の持ち主として知られていたフィロだが、これは色々とひどかった。
流石はケーキでつられた揚句に無自覚で誘拐されて、救出されるまでお昼寝していただけのことはある。
アンナやパメラとは違ったベクトルで困った性格だとヴェインは思った。

「……なにやら」

「失礼なことを思われたような……」

そしてどうして女子というのはこうも勘が鋭いのか疑問が尽きないヴェインである。

「じゃれあいはここまでにしよう。いつばれるか気が気じゃない」

そう言って話をまとめたロクシスの目は自分達を覆っている白いマントに注がれている。
否、マントというより、それは巨大過ぎる毛布という方が正しいように思えた。なにせヴェイン達五人をすっぽりと覆って尚余裕がある大きさである。

「しかし便利ですね、これ」

呆れたように呟くアンナにヴェインもまた同意する。
毛布の外ではせわしなくギョカイザーが動きまわっている。突如として自分の視界から消えたヴェイン達を探しているのだ。

そして、その状況を作り出したのは紛れもなくフィロが持ち出してきた毛布の力だった。

正式な名前が決まっていない為に、基になったアイテムの名を借りるのならば、この毛布の名をトレハンマント(毛布)という。

包み込んだ対象透明にしてくれるこのアイテムは、元々は煩わしいモンスターを避けてダンジョンに潜りたい時に使用するアイテムである。
マントという形状から使用したままでは激しい動きができない(あまりはためくのも不味いから)ということと、空間が微妙に歪んで見えることから、特別勘が鋭いものや、その特性を知っている錬金術師などには見破られてしまうということ、最後に作製が意外に難しいという欠点があるものの、その有用性は高く、世の錬金術師からいい意味でも悪い意味でも重宝される一品だった。

「我が組織でも開発中の品だ。未だ一部の奴には見破られてしまうことから完成とは言えんが……」

「しないでください。永遠に」

語るグンナルを切って捨てるアンナは妙に機嫌が悪い。
先程爆発物以外の物も作れるのかと考えて、フィロを怒らせたことから平謝りしていた訳だが、その時からのように思える。真面目で他人に向けられた失言も許さない性質なのは分かっていたが、そろそろ機嫌を直して欲しい、フィロはもう許してくれたわけだし。と考えて困るヴェインである。
悩んだ彼がそうしてなんとなく視線を巡らせてみるに、

「聞け……!」

青筋を立てたロクシスと目が合って慌てて姿勢を正した。
そして、意図せずドスを効かせた声がでたことで、周りの視線が集まった事を知ったロクシスは、取り繕うように咳払いをする。
彼としては不本意な理由だったが、目的を達することができたのは幸いだった。

とりあえず話を進める事にする。

「フィロが来たのは幸いだったが、正直問題が解決したとは言い難い。改善はあれど悪条件は未だに多いし、一番の問題である決定力不足は……そのままだ」

攻撃という点においては他のメンバーと比べて、正直長けているとは言い難いフィロである。
事実とは言え多少躊躇いながら発言した訳だが、彼女は特に気にした様子はない。
それどころか、ヴェインやロクシスにとって完全に予想外の発言をした。

「大丈夫だよ、ロクシス君! 私にいい考えがあるの!」

「…………」

笑顔で言うフィロに、思わずロクシスのみならず、その場にいた全員が気圧された。
それは敵意やそれに類するあらゆる負の想念とは無縁の、完全な善意によるものだった、むしろ若干わくわくしているような節さえ見える。
だというのに、一同は先程感じた寒気とプラスされた嫌な予感を感じ取った。
まぎれもない直感から齎されたそれは彼らに即座の警戒を促す、が。

結論から言うと、無駄だった。

笑顔のまま、自分の脇に置いてあった、一見おしゃれなだけの鞄を手に取ったフィロは、ヴェイン達が制止の声を発するその前に、その行動を終えていた。

「こうすれば……」

彼女はそう言って、鞄の口をトレハン毛布越しに、ギョカイザーへと向けていた。

ここで重要なのは、フィロという少女にとって鞄を開けて相手に向けるという行動は、立派な攻撃動作であるという事だ。
もはや異次元とまで呼ばれるに至った彼女の鞄はその中に得体の知れないなにかを存分に詰め込んでおり、フィロの号令と口の解放を今か今かと待っているそれらは、それが叶った瞬間に恐るべき速度で対象へと殺到する。
冗談としか思えないようなその攻撃の破壊力はヴェインもよく知っており、その物の濁流に飲み込まれたモンスターを彼は何度も見てきた。
そしてそれ以上に問題だったのは、彼女の鞄の中に入っていたものが常のものより、遙かに危険な代物だった、ということである。

「いっくよー」

いっそ軽いその掛け声と共に、鞄の中から発射されたそれらは、細長いものから丸いものまで様々な形状をしていたが、共通して鉛色の鋼で覆われており、それが直感的に、危険なものだと分かるような独特で剣呑な印象を与えていた。

後方から盛大に炎を撒き散らしながら轟音と共に高速で飛来する、未だ名もなきその兵器の名は、後にフィロ的秘密兵器その一、美災流と名付けられることになる。

「うgggggggggooooooooooooooooああああaaaaaaaaaaa!!」

真っ直ぐにギョカイザーに向かっていった美災流の群れは閃光と爆炎を伴って、およそ原型すら残さないのではないかと思える様な圧倒的な破壊力を見せつけ、ただ立ち尽くすしかない一同の耳にギョカイザーの断末魔の悲鳴を聞かせることに終始した。

※ ※ ※ ※ ※

前にも後にも色々と言いたいとこがあり過ぎて、逆に何も言えなくなってしまったヴェインであるが、かわりに彼はその場で優先すべきであろう事柄だけはしておくことにした。

「アンナ!」

次々と鞄から吐き出される破壊兵器の数々は元々はギョカイザーに積み込むべき火気兵装であったという。
一歩間違えばこれらが自分達に向けられていたという恐ろしい事実は極力意識しないようにしつつヴェインが発したその声は、小さな声であるにもかかわらず、不思議とそれらが奏でる険呑極まりないBGMの中でも聞き取れるものだった。

そしてそれを聞いたアンナは全て承知しているとばかりに頷く。

「はっ!」

気合と共に視認することも難しい速度で放たれた刀、聞き取りづらい金属音と共にアンナの横脇、斬りつけられた空間そのものが、捲れ上がった布のようにその断面を露わにした。

小柄なアンナが楽々通れるようなサイズの空間の穴、そこに慣れた様子で飛び込んだアンナの視界が突如として逆転する。
彼女にとっては慣れ親しんだ空間の穴を潜る奇妙な感覚、それを感じながら、爆炎と業火に彩られる青空(戦闘の余波は天井にまで及んでいたらしい)に身を投げ出すように、アンナはそこに出現した

ギョカイザーの真上。上空にいるアンナは自分の目線の先に、よく分からない機械が取り付けられた輝く鉱石の様なもの、コアを確認する。
あらかじめ狙っていたとはいえ、こうまで正確な位置に出てこられたことに安堵しつつ、アンナは静かに目を閉じる。

「参ります……」

爆発の余波で高く放りだされたそれに、不安定な状態すら考慮するに値しないとばかりに刀を振るう。硬い、わずかな抵抗の中に滑るように刃を走らせる。

「はあっ!」

確かな手ごたえと、背後で響いた硬質な音。
真っ二つになったコアの破片がキラキラと瞬きながら散っていく。

(後は……)

振り向かず、最後までそれを確認することは無かったアンナが視線を移す。
ヴェインがアンナに促した、この場において成すべき事は二つあった。
ひとつは空中に投げだされたコアの破壊。そして、もうひとつ。

くるくると回転しながら舞うそれを、刀を握る手とは別に空けていた左手を伸ばして掴み取る。

「むぎゅっ!」

「苦情は受けつけません」

奇怪な鳴き声のようなものを垂れ流しながら舞いあがる壺の回収。

片手で持つには些か重いその壷に、バランスを取るのに苦心しながらアンナは右手に握った右手を振るう。
鈍い感触と共にズブリと空間に沈みこんだ刀を真一文字に走らせる、片手であることが些か不安だったが、その手ごたえに上手くいったことを確信した。

が、

眼下で発生した爆発。派生した爆風に煽られて体制が崩れた。

「くっ!」

仕上げの段階で生じたわずかな油断。
だが、それに気づいたとき、既に位置のずれは致命的なものとなっていた。裂け目の丁度真横を通過する落下コース。なまじ空中にいるばかりに調整がきかない。
おまけに眼下では未だに爆炎が広がる地獄絵図。
一際大きく咲いた炎の華がアンナの身体を飲み込むように広がり、

「い、けぇ!」

遠く。およそ、聞こえるはずのないヴェインの声が聞こえた気がした。

「……っ!」

すぐそば、突如として出現した渦巻く暴風。
魔法を使用した時特有のわずかなマナの粒子をアンナが感じ取った時、それは彼女の身体を炎から逸らし、そのまま裂け目へと放り込んだ。

※ ※ ※ ※ ※

「……ふぅ」

咄嗟に放ったトルネードの魔法が思い通りの効果を発揮したのを確認してヴェインはほっと一息ついた。
元々は攻撃用の魔法であるために、こういう使い方は試したことも無かったが、うまくいったようでよかった。
間違ってアンナに直撃させてしまったら目も当てられない。

横で同じようにほっとしている仲間たちを横目に、自分の目の前にある空間の裂け目から気配を感じて、そちらに向かって両手を出した。

「きゃっ……」

僅かな悲鳴と共に落ちてきた人影を抱きとめる。
思いのほか勢いがあった為か(重量があったから、とは考えない)、腕が抜けるのではないかという痛みが走ってよろけながらもなんとか止めることに成功する。
遠目から見た限り、いかにも痛そうな体制で落下しているように見えたのもあり、受け止められたことに安堵した。

「…………あれ?」

けしかけたのは自分であることもあって、最後のフォローぐらいはしようという考えだったのだが、アンナとしては予想外の出来事だったらしい。
自分の腕の中で目を白黒させる様子に、常にはない微笑ましさを感じつつ、ヴェインは労いの言葉をかけた。

「お疲れ様、アンナ」

「…………」

きょとんと、自分を抱える先輩の顔を見ていたアンナは、その言葉を聞いて、深い深いため息をついた。
そして息を吐き終わるともたれかかるように身体を預けてぽつりと呟く。

「いつもより数倍疲れた気がします」

ぐったりとして言う、後輩の様子に思わず笑って同意する。

耳を押さえたくなるような爆発音は既に無い。
いい加減に尽きたからか、もうその必要も無いからか。フェロによる攻撃、というか砲撃も終わっていた。
いそいそと鞄を仕舞うピンク色の少女の背景、遠くで巨大な人形のシルエットが沈む。

それを確認して、ヴェインはぼそりと呟いた。

「この後始末、どうするんだろう……」

こうしてひょんなことから始まり、唐突極まりなく無差別に人々を巻き込んだこの事件は、すさまじい徒労と脱力感だけを残して嵐のように去っていったのだった。

※ ※ ※ ※ ※

そしてそんな事件から三日程経ったある日。

ヴェインは資料室の一角で本の整理をしていた。

「む~、みんなあたしのこと除け者にしてそんな風に遊んでたのね~」

パメラの愚痴を聞きながら。

「いや、遊んでたわけじゃ……あの後も大変だったし」

不貞腐れたように寝転がりながら(実体が無いので空中で)文句を言うパメラに苦笑して弁解する。
どうにも詳しく聞いたところ、あの事件の際、資料室にパメラが缶詰にされていたのは彼女の意思ではなかったらしい。
いい加減仕事をしろと司書たちに怒られて整理を手伝わされていたとか。
本来は、特に学園側から仕事を割り振られているわけでもなく、悠々自適に幽霊ライフ(なにか矛盾しているような気もする)を送っているパメラである。
職員でも生徒でもない以上、勤労の義務などは無かったはずだが……、

「みんな、私が資料室を汚くしてるとか言うのよ~!」

義務どころか、マナーの方が悪かったらしい。

「パメラは片付けをしないからね……」

彼女の心情を示すように飛び回る本を、苦心して掴んで本棚に押し込みながら、思わず本音を漏らしたヴェインにパメラが憤慨したように眦を上げる。
本人としては甚だ心外なことだったらしい。

「ひどい~、ヴェイン君までそんなこというの~?」

ただ、元の場所に戻すのが面倒なだけよ~、と言いながら手近な所にまったくジャンルの違う本を突っ込もうとしているパメラからなんとか本を取り上げて、仕事している横でこれをされたら大変だろうなぁとヴェインはしみじみ思う。
長いこと学園にいるせいかこの少女は基本的にズボラなのだ。

「というより本が多すぎるのよ~!」

かくして司書たちから仕事を割り振られたパメラだったが、中々仕事が終わらず、本を返しに来たヴェインを引きずり込んだ次第である。
そんなパメラの主張はそもそも本が多すぎて仕事が大変というものであったが、資料室に本が無いのもそれはそれで問題なのではないだろうか。

そう思いながらヴェインは、自分が返却しに持ち込み、今は整理することになっている本の表紙を眺めた。
年季を感じさせる古びた装丁のその本には仰々しい文字で『異星超科学読本』と銘打たれ、つい三日前にヴェインが対峙する羽目になった青い巨人が表紙を飾っていた。

「グンナル君が借りてた本ってそれのことなの~?」

「……うん、全ての発端」

いつの間にか近づいてきて、肩越しに表紙を覗き込んだパメラが尋ねる。
フィロ曰く、なんでもグンナルは資料室でこの本を見つけてギョカイザーを作ろうと考えたらしい。
アンナがアトリエで見つけた督促状もこれの返還要求だったのだ。
事実を知ったアンナとロクシスは即座にこれを処分するべきだと主張したが、古く、貴重なものだからそれは、とおそるおそる止めた校長先生によってその意見は除けられることになった。
発言した瞬間に睨まれた校長が哀れなぐらいに縮こまっていたのが印象的だった。

「ムーぺ君の故郷の本だったんですって~?」

「なんで置いてあるのかは分からないけどね……」

そう言いながらも、資料館・未整理区域に置いてあるムーぺに良く似た銅像のことを思い出して、思わず唸るヴェインである。
知りたいような知りたくないような妙な気分だった。

ふーん、と『異星超科学読本』眺めていたパメラだったが、すぐに興味をなくしたのか、再びヴェインの後方を漂い始める。

「それで、そのあとどうなったの~?」

「へ?」

「続きよ~、話の続き~」

こちらのほうがよほど暇を潰せると考えたのか、そんなふうに話の続きをせがむパメラは見るからに勤労意欲0だった。
それに思わないところがないわけでもないが、ある意味彼女らしいとも言える。
そう考えてヴェインはギョカイザーを倒した後のことを思い返していく。

「えっとね……」

あの後、騒ぎを聞きつけた教員によって学園へと連行されたヴェインたち(ムーぺだけは医務室)はそのまま校長室へと直行。
うろたえている校長先生の横でにこやかに微笑む教頭先生に長い長いお説教と反省文の用紙をもらう運びとなった。
理路整然と並べ立てられる言葉の数々にひたすら縮こまってどれほど経ったか、気づけば外はすっかり暗くなっていた。
戻ったら即座に就寝しなければ明日は辛いだろうことは想像に難くなかったが、ヴェインたちの倍ほどの反省文を頂いたフィロなんかは寝れる時間があるかは甚だ疑問だった。
反省文が重い、と物理的ではなく精神的な重さで半泣きになっていたフィロは現在、ようやくその苦行から解放されて泥のように眠っているらしい。
差し入れをとケーキを持って言った際、アンナがそう教えてくれた。

「どうしてフィロちゃんだけ~?」

「直接製造に関わったからだって教頭先生は言っていたけど……」

本当はその他の理由に元々、その方面でフィロが目をつけられていたということもあるのだが、本人に口止めされている以上、話すわけにもいかないヴェインは言葉を濁した。

「あれだけの騒ぎを起こして反省文で済むってだけで十分温情だって、ロクシスは言ってたけどね」

「そうね~退学でもされちゃったら寂しくなっちゃうところだったわ~」

停学だったら歓迎だけど~と呟くパメラの口調はいつもどおりのものだったが、
それだけに本心だということが窺い知れた。
やはり自分だけ学園に残ることに思うところがあるらしい。以前、アンナがパメラを成仏させんと迫ったことがあったが、あれ以来パメラの心境にも変化があるようだった。

「えっと……」

「それで、みんな反省文を書いて大丈夫だったってことなのね~」

なにか声をかけようと、しかし、なんといえばいいのか分からなかったヴェインだったが、それにも気づかないようにパメラは話題を戻した。
あっけらかんとしたその様子はまったくいつも通りで、この切り替えの早さも彼女らしいといえるのかもしれなかった。

「……えっと、全員、ではなかったかな」

「どういうこと?」

少し考えながらそう言うと、こてんとパメラが首を傾げる。

「先輩だけ何時の間にかいなくなってたんだよ……」

ため息交じりのその言葉を聞いて、パメラは困った子ね~とくすくす笑った。


何時の間にか仕事は終わっていた。


※ ※ ※ ※ ※

消灯時間も過ぎた学園の廊下は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
場所そのものはまったく同じ、だが光源も少なく人がいないという条件を加えただけで空気すらも変質したような錯覚に囚われる。
肝試しのときも感じたことではあったが、改めて別世界のようだとヴェインは思った。

「遅くなっちゃったな……」

あの後、お茶会があるとパメラに言われ、首を傾げながらついていったヴェインは、ゾンビぷに等のアンデット系のモンスターに囲まれて、直前までの自分の行動を後悔したりしていた。
いつだったか、カオス99パーセントチョコでケーキを作って欲しいとパメラに頼まれたことがあったのだが、このために必要だったのかと妙に冷静に納得してしまった。
食べ物を食べることができないパメラだが、その場にいた“パメラのお友達”には好評だったらしい。喜んでもらえるのは嬉しいヴェインだったが、目と腕がいくつもある骸骨の騎士や、目玉が浮かびあがっている剣などの集団の中でお茶の味を楽しむには少し人生経験が足りなかった。

残念そうなパメラに見送りを受けて抜け出した頃には結構な時間が経っていた。

「いい人(?)ではあるみたいなんだけどなぁ……」

さすがにぞっとしないものがあるよ、と苦笑していると、いつのまにか自分の部屋の前についていた。本を運ぶのに凝った肩を回しながら部屋の扉を開ける。
薄暗い、しかし目を瞑っていてもどこになにがあるのか分かる程度には見慣れた部屋がヴェインの前に広がる。そこで彼は、部屋を出るときには無かったはずの変化を見つけた。

「窓が開いてる……?」

部屋にひとつだけある窓が開け放たれていた。少し肌寒く感じる夜の空気にが勢いよく舞い込みカーテンを揺らしていた。

閉め忘れたかだろうか、と考えながら窓を閉めたヴェインは、光源がないのも不便なので、とりあえずベット脇の机の上に置いてあるランタンに火を入れることにした。

ぼんやりと浮かび上がる光、それに照らされ、確保される視界。

「ん……?」

そこで初めて、自分の机の上になにかが乗っていることに気づいた。

それは真上から見て、丁度円になるシルエット。
第一印象としてはベルトが一番近いように思えた。
しかし、それにしては妙に色々なものがごちゃごちゃとつけられ、ゴツイ印象がある。

仮にベルトだとしたら妙に使いにくそうだと、そう思いながらヴェインはその謎の物体にランタンを近づけ。

それを見た瞬間、戦慄した。

「こ、これは……」

同時に確信する、ベルトだと思った自分の考えは決して間違ってはいなかった、と。

ランタンの光に照らされて、心なしか誇らしげに輝いているように見えるそれを、ヴェインはグンナルに進められて読んだ本で見たことがあった。

「とりあえず、改造手術は受けなくても良いんだ……」

呆然と、そして思わず、明らかに突っ込みどころを間違えたヴェインは、視界に入るだけで妙に目立つそれ、俗に言う変身ベルトを前にして途方にくれた。



[28800] 双子の月 前編
Name: 秋月 桂◆02e75bbd ID:a8ac91cf
Date: 2011/09/16 04:01
金属同士がぶつかり合う不快な音。それに紛れるようにささやかれる詠唱の言葉。
幾多もの紫色の水晶に照らされたその場所は紛れもない戦場だった。
幾人かの年若い少年少女が、剣を、刀を、鈍器を、呪文が刻まれた札を、思い思いの得物を構えてそれに相対する。

迎え撃つのは二人の、人あらざる少女。

歯車にも手裏剣にも見える奇妙な大剣に寄り添い、魔法で、剣で、己に向けて放たれた技を迎撃していく。
冷静に、いっそ機械的とさえ言ってもよいほど正確に、精密に、己の持つ持ち札を切っていく。だが少年らもまた、時に仲間を援護し、傷を癒し、隙あれば攻撃し、自分たちが鍛え上げた技の全てを持って戦った。
長い戦いだった。日常の生活からしてみればさほどのものではない、だがそれが極めてハイレベルな戦闘だということを考慮すれば十分な長期戦だった。
決着をつけたのはどこかくすんだ銀髪を持つ少年。
動きを阻害しない程度の軽鎧に身を包み、半ば腕と同化しているようにさえ見える長剣を
携えた少年だった。
少女達が放つ魔法を凌ぎ、飛来する刃を弾き、自身の間合いに少女達をとらえた少年は剣を振りかぶる。
その刹那、少年は自身が斬ろうとしている少女達と目があった。
薄暗いその空間であってなお輝く、二対の瞳。
憎悪と悲哀に濡れた瞳、その目を見た瞬間に少年は少女達の、無言の訴えを聞いた。

どうして……?

純粋な疑問。
少女達の境遇は知っている。それでも正直、少女達が何故自分にそう問いかけるのかは分からない。けれど……それでも少女達がどれほどの絶望を持って自分を見ているのかは、それだけは痛いほどに伝わってきた。

「く……う、ぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!!」

剣を振り下ろす。
声無き断末魔と共に少女達の気配が弱まり、そして消える。

戦いは終わった。

少年の背後から治癒の魔法が掛けられる。傷が癒え、身体に活力が戻ってくる。
それども少年はしばらく立てなかった。

ただうつむいて、座り込んでいた。

※ ※ ※ ※ ※

そこは薄暗く、幻想的で、妙に湿気が強い空間だった。
紋様が刻まれた石造りの壁と床は風化してところどころが崩れ、辺りには紫色の水晶の破片が散乱している。
部屋の半分ほどまでは水没しており、わずかな波の中で細かい水晶の欠片が海岸の砂のようにゆらめいていた。ひび割れ、崩壊した壁から差し込む光に照らされたそれはきらきらと輝き、水底を紫に染めている。

そんな部屋の一角、水没を免れた空間に少女たちはいた。

歯車とも剣とも言える奇妙な、金属質の物体。それに寄り添うように在るふたりの少女。
妖精のような、幻想的な美しさを持つ異形の少女たち。
少女たちは人間ではなかった。
風火地水、光に闇、時間に空間、世界のあらゆる概念を内包する存在、マナと呼ばれる存在。それが少女たちだった。
自我を持った瞬間から少女たちは共にいた、互いにひとつの概念を内包する、双子といってもよいふたりのマナは永き時を生きてきたが今まで離れたことはないし、離れようと思ったこともない。

だから力尽きようとしているその時もまた、いっしょだった。

既に片割れの黒きマナはその意識を失っている、意識を保つほどの力も残っていないのだろう。もう片方の白きマナはそのことに気づいていたがどうすることもできなかった。
最初こそ強く呼びかけてはいたが、今はそれもしていない、同一の存在である白きマナには片割れがどういう状態なのかがよく分かったし、なにより限界なのは白きマナも同じだった。この世界で存在を保つだけでも精一杯の少女たちはそれも長く続かないであろうこともまた、理解できていた。

何も言わず、身じろぎもしない片割れを抱きしめてその顔を見つめる。

自分達が彼らに打ち倒されてからどれほどの時間が経過したのか、白きマナは覚えていない。いかなる理由か、自分たちがいた遺跡が崩れ、すさまじい轟音と衝撃が辺りを襲った。
それからさらに幾ばくかの時がたったが、もとより寿命というものが存在するかすら怪しい彼女たちである。まして活動らしい活動はなにもせずじっとしていたのだから思うところなどありはしない。
元来マナである少女たちは故郷とも言うべき世界とこちら側の世界を行き来できるはずだったが、いまは何故かそれができなかった。かつて自分たちを縛っていた紫水晶の檻の力がまだ残っていたのかもしれないし、それとは別の結界が作用しているのかもしれない。
檻が消滅したときは解放されたものかと思っていたが、この分だとぬか喜びだったようだ。
白きマナには自分たちがこれからどうなるのか分からない。存在自体が消滅するのか、あるいは自分たちがあるべき地に還るのか。

後者なら良い、ようやく帰れるのだ。
だが、故郷に戻ろうとしてもそれができない現状を考えれば、それはあまりにも楽観的な考えにしか白きマナは思えなかった。
しかしそれならば、自分たちは……、

(きえ、る……?)

わからない、ただ怖かった。未知は生物にとって最も分かりやすい恐怖である、マナである少女たちもまた例外ではなかった。
ひとり白きマナは思う、自分たちが果たしてなにをしたというのか、自分勝手な、忌々しき錬金術士たちに裏切られ、利用され、使い捨てられた。
実験と称され痛めつけられた記憶は深く白きマナに刻まれている、泣き叫んでも、助けを求めても彼らは続けた。ただただ自分勝手なエゴにまみれた、彼らの目的のために。
自分たちだけではない。たくさんの同胞が捕まった。

紫水晶から見た地獄を少女たちは決して忘れない。

自分たちが苦しむさまを、顔色ひとつ変えずに見ていた、彼らへの憤怒と憎悪を、少女たちは絶対に忘れはしない。

目が霞む、耳が遠い、くらくらとゆれる自分の頭を必死でマナは支える。が、消え行く意識がそれを許さない。
ぼんやりとした世界の中、なにかの気配が近づいてくることを白きマナは感じた。
しかし頭が回らない、それがなにか分からない。
けれどその時の白きマナにとってそれがどんな存在か、そんなことはどうでもよかった。
自分がどんなことになるかも分からぬ状態で外に気を払える存在など世界にどれほどいるものか。そんな余裕はとてもじゃないがありはしない。

だが、それでも、そんな状態でも。その感覚だけは絶対に看過できるものじゃなかった。

ぷつり、と自分の肌を破る異物の感触。

「……っ!!」

虚ろな意識の中で古い記憶が蘇る。
注射器を片手に近づいてくる錬金術士たち。
まざまざとまぶたに浮かぶ苦痛の日々。

「……! ……っ!」

もはやそれは反射といってよかった。力の残量など考えず、今ある全力の力で抵抗する。
黒きマナが気を失っていることを差し引いても、白きマナが元々持つ力と比べてあまりにも弱い、攻撃。
それでも大幅に削り取られていく力、急速に意識が遠のいてゆく。
それでも少女は力を振るうのをやめない。完全に狂乱し、混乱した思考。
少女が思うことはただひとつ。それは少女の行動と矛盾すらする望み。

(わ、たし…は……わた、し……たちは……)

けれどそれはどこまでも純粋な願い。

「きえ……た、く……な…… い」

閉じた目蓋から一筋のしずくが落ちる。
次の瞬間、白きマナは自分を包み込むような温かさを感じた。
異物感が消える。少女に嫌悪感と恐怖心を与えていた感覚が消える。
変わりに与えられたのは何故かひどく懐かしい、心が満たされていくのを感じる、そんな温かさだった。
徐々に恐怖が消えてく、冷え切った心がすこしずつ温かくなっていく。
ほぅ、と白きマナは一息ついた。
なにが起きているのか分からない。何より嫌な目に遭ったと思ったら、今度は真逆のものを得た。理由など分かるわけがない。けれどひどく安らかな気分だった。
白きマナを睡魔が襲う、柔らかなまどろみに包まり、マナの意識がさらに深く沈んでいく。
己が抱きしめている片割れもまた、同じ感覚をかんじているだろうか? 
白きマナに疑問が浮かぶ。そうならいいなと、そうじゃなきゃ駄目だと続けて思った。
ひとりじゃ嬉しいことも半分だから、だからふたり一緒のほうがいい。
最後にそれだけ思って……白きマナの意識は落ちた。

永きにわたり忘れていた、穏やかな眠りの淵へ。

※ ※ ※ ※ ※

少年は父と母のかつての話を聞くのが好きだった。
特にふたりの学生時代の話は聞いているだけでわくわくするような、そんな話ばかりだったから。文化祭で行った格闘大会やクイズ大会、肝試しに自由研究、そしてアトリエでの日常。騒がしい、けれど楽しい仲間との日々。
それを話している時の両親は本当に楽しそうに、懐かしそうに数々の話をしてくれた。
もっとも話しているうちに惚気話になるのは勘弁願いたかったが、それでも少年はそれらの話が、それらの話をしている時の父と母が好きだった。
しかし、同時に少年には疑問に思う事があった、父と母はせがめば色々な話をしてくれたが不思議と父の卒業間際の、三年生の時代の話をしてくれなかった。
不自然に感じないようにと工夫して聞かせていたのかもしれないが、それでも少年は気付いた。それは少年がそれだけそれらの話が好きだったことの証拠でもある。
疑問をぶつけたときの父の顔を少年はいまでも覚えている。
体質なのかは分からないが、不思議と色々な騒動に巻き込まれる父はよく、どこか困ったような苦笑を浮かべていたがあの時の父は本気に困っていたようだった。

しかし少年もひかなかった、何度も、駄々をこねるように話しをせがむ息子の様子に父は
とうとう折れた。そして一度だけ、その話をしてくれた。
今ならば少年にも分かる。細部を随分とぼかしていたが、確かにその話は、世界の悪意というものを知らない子供に聞かせるような話ではなかった。
実際、話した後に、母から叱られて成す術もなくうなだれていた父を思うと少年はどうにも申し訳なく思えてならない。

父がしてくれた話はそう長い話ではない。
父の父、つまりは少年の祖父のことを知りたかった父が、それを知るために仲間たちと共に遺跡の奥に行った。要約すればそれだけの話。
そしてその遺跡の最奥で、ひと組の悲しいマナに出会った。

本当に、ただそれだけの話だった。

※ ※ ※ ※ ※

「あらかた……集め終わったかな?」

片手に剣を、片手にメモ用紙を持つその少年は呟く。
少し癖のあるくすんだ銀髪。ぼんやりとした、温和なまなざしをしたその少年は強い潮風に黒いコートをはためかせてたたずんでいる。

アルレビス学園のから少しはなれた海底遺跡・マナ遺跡のはずれ。
陸地と遺跡が接する場所に彼はいた。

「……うん、採集終わりっと」

片手で扱うには少々難儀しそうな、幅の広い長剣を軽々と一振りしてから腰に下げた鞘に戻す。その後でんー、と腕を上げて伸びをした。空を見上げる。

空はよく晴れていた。
少し暑いぐらいの日差しだが風が強いのでさして気にもならない。

「いい天気だなぁ」

なんだかすぐに戻るのももったいないように少年には思えた。
厄介な課題も宿題も既に終わらせている。急いで戻る理由もない。
さて、散歩でもしていこうかと少年は歩き出そうとして、動きを止めた。

「……ん?」

少年の視線がにわかに鋭くなる。
静かに腰の剣の柄に手をかけて、少年はゆっくりとあたりを見回す。
そのまま二、三度同じことを繰り返して少年はようやく柄から手を離した。

「なんだろう?」

首を傾げる。ひどく言葉にし辛い、直感のようなものが少年に行動を促している。
身に迫る危険を感知した、とかではない。訳あって(彼にとっては甚だ不本意なことに)、危険感知能力にはそこそこ自信がある少年だったが、これは違うと思った。やはり言葉にし難いことではあるが何か違う。

目線をあげて辺りを見回す。その後で静かに目をつぶって耳を澄ませた。

遺跡の石壁にぶつかっては砕ける波の音。上空を飛ぶ鳥の鳴き声。風に揺れる木の葉同士がこすれあう音。そして……正確には聴覚ではない、頭に直接囁くような誰かの……。

弾かれたように少年が動いた。水に濡れて滑る足場の悪さなどものともせず、飛び石を渡るように朽ちた遺跡を踏んで駆けていく。
時折なにかを確かめるように立ち止まっては辺りを見回す。
そして方向を定めては再び足を動かす。
そんなことを何度か繰り返して、少年はようやくその場所に辿り着いた。
周りと比べて殊更大きく、海面から突き出た遺跡。
その側面の壁の前に立ち、風化して崩れかけた壁の一部分を睨む。
ひび割れ、握り拳ひとつ分程の穴が開いたその先は底知れぬ闇に包まれ、内部をうかがい知ることはできない。しかし少年は構わなかった。
腰に下げた鞘から素早く剣を抜き放つ、そのまま両手で握って上段に振り上げる。
顔はどこか険しいまま、少年はためらいをまったく感じさせない動作で剣を振り下ろす。
耳障りな音が響きもろくなっていた壁を大きく削る。再び振り上げてもう一度。徐々に壁と壁の隙間が大きくなる。
刀身が痛むことは分かっていたが少年は構わない。もとよりこれぐらいで折れるような鍛え方をしたつもりは少年にはなかったし、なによりこの奥にいるであろう存在のことを考えたら些事に過ぎない。

三度の破壊音。ようやく人一人が通れるほどの隙間ができた。

剣を鞘に納めて中に踏み込む。内部は思っていたより広い、足元は浸水こそしているもののしっかりと床を踏むことができる。
目に付いたのは散乱した紫の水晶の欠片。

そして……、

「……っ!」

それらに囲まれるように在る、淡く、弱弱しい光に包まれたふたりのマナだった。
こちらに注意を向ける余裕すらないらしく、歯車にも手裏剣にも見える奇妙な大剣にぐったりとその身を任せている。
一目見てまずいと少年は感じた。ただ単に元の世界に戻ろうとしている可能性もあったが、どうも様子がおかしいと思う。まして彼女たちがいるこの場所こそが不安を助長させる。

少年は知っている。聞いたことがあったのだ。このマナ遺跡はかつて……。

頭を振った。今はそんなことを考えている場合ではない。
水飛沫を飛ばしながら駆け寄る。水を吸って重くなったズボンとコートがひどく煩わしい。マナたちがいる陸地にようやく辿り着いた少年はここまで近づいてもなんの反応も返さない彼女たちの様子に焦りながら懐に手を突っ込む。

取り出したのは小瓶。透き通ったエメラルドグリーンの薬品と白い花が入っている。
陸地に片膝を着いて小瓶を置く。次に懐から取り出したのは密閉された容器に収まった小さい注射器。

それを取り出してから小瓶の蓋を素早く、慎重にはずす。

「……落ち着け」

言い聞かせるように少年は呟く。
少年の見立てでは少女たちは力を大きく失っているせいで身動きが取れないだけ。
ならば、月の花を使って調合したこの薬で回復するはず。
注射器に針を装着する、その先を薬品に浸し適量の薬品を吸い出す。
少年は緊張していた。これほど弱ったマナに薬品を投与するのは彼も初めてである。
だがその手つきに淀みはない、いっそ手慣れているといってもよい見事な手際だった。

「……よし」

気合を入れる意味で小さく掛け声を一つ。だが力みすぎないように。
彼は白き少女の手をとる。細く、いっそ病的とさえ言ってよい白さを持つ腕。
ゆっくりと注射器を近づける。

そして、ぷつりと針の先がわずかに肌に埋まった、そのときだった。

「……っ!!」

無言の、しかしそれゆえに余計に悲しく、痛々しい叫びが上がる。
それと同時、白き少女が寄りかかっていた奇妙な剣の一部が分離、二振りの刃が浮かび上がった。白き少女が発した、攻撃の意思をのせた魔力。
それを身にまとった刃は主の意思を果たすべく行動を開始する。

「ぐぅっ!!」

少年が呻く。二振りの刃、その片方は少年の二の腕、もう片方は彼のわき腹に深々と突き刺さる。
白き少女の持つ力が元々限界に近かった事が幸いしたのか、刃はそれ以上の動きを見せずに彼の体内に留まる。
だが、それとて、これ以上少年の身体が蝕まれることがないということでしかない。

「つっ……くぅ……」

少年の身体の激痛が走る。あまりに大きなそれに、思わず注射器を取り落としそうになった彼は慌てて腕に力を込め直す。血が抜けているからか、別の理由からか、腕に力が入らなくなってきたのをはっきりと自覚した。

だが彼は注射器を離さない。

絶対に、離しはしない。

はぁ、はぁと自分の吐く息がやけにはっきり感じ取れる。心臓がいやにうるさい。
大丈夫、と少年は再び自分に言い聞かせて薬を送り続ける。

(かろうじて骨まではいってない。それに刃が抜けてないお陰で出血もそこまでじゃない)

ならばしばらく手当はいらない。彼はそう断定する。
命まで届かない程度の怪我が何だというのか。
自分の前にはその命が危うい存在が二人もいるのだ。
仮にその怪我をつけたのが、助けようとしているその二人だとしても、ここで手を引く理由になど断じてなりはしない。

自分は馬鹿なのだろうか、とふと思った。
同じアトリエに所属する仲間の一人によく馬鹿呼ばわりされることがあるが、現状を鑑みるに案外反論出来ない事のように思えてくる。
見ず知らずの二人のマナを助けようとして、文字通り痛い目に遭っている状況は、やはりあの毒舌の少女から見て馬鹿と呼ぶに値する状況なのかもしれない。

だが、同時に少年は思うのだ。その光景を見て、声を聞いて確信したのだ。
自分はこの判断をとってよかったと。尊敬する両親に胸を張れると、断言できる。

だってそのマナは泣いていたのだから。
泣きながら、消えたくないと、とても小さな、それこそわずかな波の音にさえ消されそうな声で、そういったのだから。

「うん、大丈夫」

少年は呟くように、けれどどこまでも力強く断言する。
しかし、台詞と反して体はよろめく。ようやく注射器の中身が空になると同時、前のめりになった身体は刃との間に少女を挟み込むような形となる。
これはまずいと少年は身体に鞭を打つ、なんとか体重をかけないように体勢を整えるのが精いっぱいだった。ここで彼は自分が完全に少女達を包むように抱きしめる体勢になっていることに気づき、意識が向いたのはむしろ少女達の体の冷たさだった。
人間とマナでは身体の構造が違うのかもしれないが、いくらなんでも冷たすぎる。
少女達が司るものが冬や雪といったものとも思えない。

(というより、震えている?)

まぁ、自分としても無理に動きたくないし、丁度いい、と彼はナチュラルにそう思った。本当に純粋にそう思っていたのだった。
彼はよく友人知人からマイペースだといわれていたが、もはやそれで済ませていいレベルか正直微妙だった。

空の注射器を地面に置いてから、苦心して刃を抜く、結構な量の血が流れたがこの際関係ないとばかりに上から回復の魔法をかける。
ヒーリングでは出血の速度に間に合わなくて死ぬ可能性があるので奮発してメガヒールにしようと少年は魔力を練り上げる。
奮発とかそういう問題じゃないと突っ込む人材はどこにもいなかった。
自分の治療がひと段落した彼は顔の角度をわずかに下げる。
薬が効いたらしくなんとか燐光も収まりつつあった。正直、抵抗された時の消費で消えかけていた事を考えるとありえないほどの即効性である。
彼女たちに投与した薬は少年がいままで調合した薬でも最高傑作といっていい出来だった。
薬品類の中ではかなりマイナーで教科書にも載ってない薬だったが、少年はこの薬の調合ではだれにも負けない自信がある。
だが、それでもよかったと少年は一息つく。今回はそれほどにギリギリだった
そしてその後で彼は思わず笑ってしまう。癒えきっていない傷が疼くが、それでも彼の笑みは収まらない。

なぜなら、少年の顔から数十センチ先にある顔は、彼が助けた少女達の寝顔は、親に甘える子供のような、本当に安らかなものだったから。

※ ※ ※ ※ ※

海から突き出た古き文明の遺産。
まぁ、恰好よくいっても結局は水没した廃墟だよな、とその筋の錬金術士に聞かれたら間違いなく説教をくらうであろうことを考えながら少年は歩く。
懐に入っている薬のことを考えてため息をつく、さして研究に使うわけでもない癖に大分減ってきたそれはかなり珍しい材料をひとつ使うことで知られる。
ほかの材料はともかくその材料、月の花だけはそこらへんに生えているような薬草ではない。手に入れる為に大分危険なダンジョンに潜らなければならなかった。
自分の事情の為に友人を巻き込むのは気がひけたが、むしろまったく頼らないのも叱られそうな気がする。ただでさえ最近は訝しがられているし。

なにより自分の身が危ない。幼少のころから鍛錬だの次代の正義の味方育成だのと様々な名目で鍛えられてきた自分であったが、死ぬ時は死ぬのだ。
微妙に打点をずらしてダメージを逃がしただとかいって不死者のごとく立ち上がるとかは無理である、無理と言ったら無理である。気合で魔法を弾くとか人間業じゃないと思う。
まして自分はマナとの契約すら交わしていない半人前の錬金術士。
絶対的に必要という訳ではないがやはりいると助かるらしい、戦術の幅も広がるし。

少年に錬金術を教えた恩師のひとりもかつてはマナと契約してもらうために東奔西走したという。ちなみにとばっちりをくらったのはやはり父であったらしい。
少年が通う学園から出された課題やそれに自然と付随する戦闘も、いままでは身体能力と勉強でなんとかカバーしてきたがそれとて割とギリギリだった。

時折、教師陣から怪物をみるような妙な視線を感じたが彼は気のせいだと思う。
自分は両親やその友人たちのようなびっくり人間ではないのである。
少年はそう自分の思考に結論付けたところで立ち止まる。目的地に着いたのだ。

周りと比べてひと際大きい、遺跡の一部分。
その脇の、人が一人通れるほどの隙間があいた壁。
少年は少し前からそこに通っていた。マナの力を増幅させるための薬を携えて、ふたりの少女に会うために。

「やぁ」

少年が挨拶しながら隙間をくぐる。はたして暗闇から返ってきたのは言葉ではなく二振りの刃だった。少年は慌てず、苦笑すら浮かべて腰に下げた剣の柄を跳ね上げる。
甲高い金属音と共に刃は弾かれ、己を投擲した主のもとへと返って行った。
ぱしっと軽い音がして一泊、ようやく刃ではなく言葉が少年に向けられる。

「何を、しに来たの?」

「治療をしに」

暗がりの奥から自分を睨むふたりの少女に、少年は何事もなかったように答えた。
少年がマナの少女達に出会って既に三カ月が経過していた。

「いい加減素直に治療されてくれないかな?」

「………………」

少年は困ったように言うが返答は無し。いや、沈黙こそが答えなんだろうなと少年は思う。

ここに通い始めた頃からずっとこの調子である。最初は人見知りかと思ったがすぐに違うと思い直した。

こちらに向ける視線が兎角に冷たく厳しいのである。

人間に、あるいは錬金術士にでもひどい目に遭わされたか、理由は判然としないが、とりあえずこちらが嫌われていることは確かだった。
初めてちゃんと顔をあわせたときに若干の距離があってよかったと思う。いくらなんでも抱え込んだ体制からの攻撃は回避できなかった。
だが、嫌われているからといってはい、そうですかと帰るほど少年は物分りのいい性格はしていない。なにより、この双子のマナたちは完治した訳ではないのである。
ある程度の力を取り戻しただろう、しかし逆に言えばそれだけ。
いくら薬を投与したとはいえおそらく長い間枯渇状態にあった力はそう簡単には戻らない。
少しずつ慣らしていって体に定着させる為にも、薬は何回かに分けて投与する必要があった。そのため少年はこまめに、といってもほぼ毎日この場所に通っていたのだが……。

「おっと」

少年の足元に刃が刺さる。それ以上近づけば容赦しないという意思表示であろう。
はぁ、と少年はため息を吐いて双子を見つめる。

「危害を加えるつもりはない……といっても信じてくれない?」

無言、けれどその目に浮かぶ首肯の意味は読み取れた。
あまり口を利いてくれない双子ではあったが目は口ほどにものを言うらしい、大体何を伝えたいのかは察することができるようになっていた。

「……薬はここに置いとくよ」

再びため息をついて妥協案を上げる。自分はいなくなるので薬は飲むように、と言外に告げている。立ち去っても飲まない、という選択肢を少年は想定しない。
始めの頃こそそういうこともあったが、一度力ずくで押さえ込んで無理やり飲ませたことが効いていると彼は考えている。

非常事態だったんだからしょうがない、と彼は誰にともなく言い訳して双子に背を向ける。
明日になれば空の容器が転がっていることだろう。

なんだか猫の世話をしているみたいだなと少年が考え、実家で飼っている黒猫を想像した瞬間、背後からじっとりとした視線と共に刃が飛んできた。勘が鋭い。

※ ※ ※ ※ ※

少年がその場を離れて少し。

おかしな人間が去った。そう悟った白きマナはため息を吐いた。
投擲した刃を本体である大剣の元に戻す。
そんな簡単な能力行使にすら胸に刺すような痛みが走った。
力が枯渇した状態で無理に能力を行使したのだ、ある意味当然といえる。
本来ならこれで済むような痛みではないはずだが、無理やり飲まされた薬が効いたのか、そこまででもなかった。
とはいえこれ以上の無理は悪影響というものでは済まないだろう。
先の人間は、あるいはこれを察して立ち去ったのかもしれない。いつもならもう少し粘る。
考えすぎだろうが、もしそうなのだとしたらつくづく小賢しく、おかしな人間である。

(……?)

片割れの黒きマナが不思議そうにこちらを見ている。
大丈夫、と伝えてから再び考えるのは例の人間のことだった。
はじめてはっきりその姿を知覚したとき、あの人間は自分たちから少しはなれたところで体を伸ばしていた。
寝違えただのなんだのと妙なことを呟いていた気がするがよく覚えていない。そのとき既に自分は頭に血を上らせていたから。
相手が人間であるというその一点から即座に殺害することを決めた。
力尽きたはずの自分たちがどうして意識を取り戻したか、そんな疑問すら浮かばなかった。
こちらに背を向けて立っていたその人間にはこちらの挙動は見えないはずだったが、そいつはあっさりとこちらが投擲した刃を腰の長剣ではじいた。

そのときは最初から気づいていたのかとも思ったが、本人曰く反射で体が動いたらしい。

正直意味が分からなかった。

さらには自分が殺されかけた直後だというのに、のほほんとした顔であんまり動くと体に障るなどといってきた。

自分を殺そうとした存在に、である。

本格的に意味不明だった。

しかしこの時の双子はその言葉すら聞いていなかったので、少年の言動を訝しむのはもう少しあとのこととなる。
刃が弾かれたと気づいた瞬間には双子は既に次の攻撃態勢にはいっていた、魔力を練り上げて、ふたりがもっとも得意とする攻撃魔法を行使する。否、正確には行使しようとした。彼女たちが使用しようとしたのは中位の火炎魔法。

しかして出現したのは初級の火炎魔法にすらはるか届かぬ火花としか形容しようがないもの。おまけに与えられたのは魔力不足による胸を突き刺すような鋭い痛み。
そもそも先ほどまで消えかけていたにもかかわらず力の消費が激しい魔法など使えばこうなるのは当たり前だった。
気づいたときにはもう遅い、ただ、薄れ行く意識の中で見た人間の顔はひどく慌てていたのをよく覚えている。
胸にもやもやとしたなにかが溜まるのを感じる。苛立ちにも似た何かがひどく不快だった。
どうしてそんな顔をするのか、自分が攻撃されたことが分かっていないのか?

そして、なぜ……、

(なぜ……うらまないの?)

過去を振り返ることに没頭していた白きマナはぽつりと呟く。

会うたびに攻撃しているのに、殺そうと、しているのに。

呟きは虚空に溶ける。黒きマナはなにも答えない。自分に向けられた言葉ではなかったし、片割れが求める答えは持ち合わせていなかったから。
ただ、ここ最近で妙に考え事が多くなった、自分にとって姉妹といっていい存在を見つめるだけである。戸惑っているのは白きマナだけではなかった。

※ ※ ※ ※ ※

それからさらに数日、代わり映えもない日々が続いた。

少年は薬を持って双子の元に通い続け、双子はそれを拒絶し続ける。
それでも着実に変化は訪れつつあった。

「力が……戻ってきてる」

「……」

黒きマナは呟くように言う。それは独り言のようにも報告のようにも聞こえた。
だが元来、一心同体といっていい二人にとってそんな言葉は必要ない。
なにせ自分のことである、それでも黒きマナがそれをわざわざ口にしたのは様子を伺うためか、それともこれからのことについての意見を聞きたかったからか。
それは呟いた本人である黒きマナにすら判然としないことだった。
片割れが思い悩んでいる。それは少し前から察していた。本人はなんでもないといっているがその程度でごまかされるとは向こうもおもってはいまい。

心当たりはあった。

(あの人間か……)

黒きマナは最近自分達にちょっかいをかける存在について考える。
自分たちに力を与える薬品を投与し、その消滅を防いだ、錬金術士のことを。
錬金術士、それは双子にとって怨敵といっていい相手だった。
永きに渡る憎悪は深く、その心に楔を打つ。
復讐を、ただ純粋なまでの殺意を、敵意を、ありったけの害意を奴らにぶつける。
それだけを考えて過ごしてきた。それしか双子にはなかった。
楔はやがて柱に変わり、憎悪は歪んだ寄る辺となった。
降ったように与えられた善意、けれど少女たちはそれを信じられない。
信じられるわけがなく、同時に、信じるわけにもいかなかった。
それをすれば、なにかが壊れてしまうと思ったから。

「あれは敵だよ」

再び呟く。言い聞かせるように。強く、刷り込ませるように。
白きマナは一瞬びくりと体を震わせ、頷いた。
その様子を見て黒きマナの胸にはただ漠然とした焦燥感がわく。

いけない、とそう思う。この兆候は、良くない。

「憎くないの?」

あの憎悪を忘れたのか。

「憎い」

白きマナは即答した。
忘れてなどいない。忘れられるわけがない。

「怨んでいないの?」

人間たちを。

「怨んでいる」

心の底から。

「ならば、なぜ……」

ためらうの?

「……っ」

言葉に詰まった、その事実に一番驚いたのは誰だったのか。
白きマナの目が見開かれる。茫然と。
言葉に詰まった自分自身が信じられなかったのかもしれない。
黒きマナは何も言わない。ただ片割れの少女の言葉を待った。

「違う……」

はたして口にしたのは否定の言葉。それはだれに対しての返答なのか。

「ためらってなんか、いない……!!」

消え入りそうな、小さな声。けれど聴く者に押し殺された激情を感じさせる声だった。
白きマナの瞳に光が宿る、決意の色。

それがどういうものかを感じて、黒きマナは呟く。これでいい、と。

「信じても裏切られるだけ……」

傷つけられるのはもういやだった。もうこりごりだった。
そんな目に遭うぐらいだったら、いっそ。

(期待なんて、いらない。痛みに変わる絆なんていらない……!)

そして歯車はまわる。ギリギリと耳障りな音を立てて。

※ ※ ※ ※ ※

「……ん?」

ばさっ、と何かの落下音が聞こえて少年の意識は浮上する。
音源である足元を見ると、自分が意識を失う瞬間まで読んでいた本が落ちている。
どうやら危うくうたた寝する所だったらしい。

それを悟った少年の顔が渋いものになる、自分がマイペースであるとある程度の自覚はあったつもりだがこれはひどいかもしれないと思った、いくら眠かったからといってモンスターが出現するところでうたた寝するのはまずい。

眠気を振り払いながら本を拾って、身体を預けていた柱から身を離す。
欠伸混じりに、眠そうなまなざしで辺りを見回した。
辺りはひどく薄暗く、ほこりっぽい。塔を成す本に、自分の身長を優に超す本棚。
自分がおいたランタンに照らされ、静かに佇むそれらは彼の呼吸音すらも吸収してしまう錯覚を覚える。

アルレビス学園・資料室。それがこの場所の名前だった。
時計を取り出し時間を確認すると既に深夜といっていい時間である。
連日こもって探していた資料がようやく揃い始めて調子に乗ってしまった、見回りの教員に見つからないように寮に戻るのは骨が折れそうだ。
少年は自分の周りにある、調べ物の為に集めた無数の本を黙々と棚に戻していく。
その大半はマナに関する本、そして学園の歴史書の類だった。
ひどく古いものも混じっており、文字がかすれて読み取るのが難しいものまである。
作業をつづけながら再び欠伸を漏らす、眠気と疲労で身体が重い、体の節々が不調を訴えていた。
だが同時に苦労に見合う成果は出たと思う。欲しい情報は大体出揃った。
棚に入れる本がなくなったんを確認、少年は自分がランタンを置いた机のほうに向かう。
そして机の上に広げられたそれを見た。

丸めるのにも気を使いそうなほどぼろぼろの、古い地図である。
そこに描かれているのは地形ではなく、建物の断面図だった。
階段、通路、部屋、様々な情報が事細かに描かれたそれには後から加えられたらしい無数の書き込みがある。進入不可、通行不可などの様々な注意事項。
ひどく古い、かすれた文字のものもあれば比較的新しいものもある。
それは時間の流れと卒業して行ったであろう数多の錬金術師たちのもの。
おそらく彼らが実際に目で見て付け足していったのだろうその地図は本などに書かれたものよりよほど詳しく分かりやすい。
おまけにどうやって見つけたのか隠し通路などの情報も記されていた。
地図の端にはマナ遺跡、表層~深層というタイトルと共に後に、後に続く後輩たちへと書かれている。
いつごろからは分からないが連綿と受け継がれてきたらしいその地図は一種の遺産といっていい。
中でもひときわ目をひく書き込み、断面図を斜めに横切る長い線がある。そこには以下水没地帯、とだけあった。数年前、アルレビス学園が墜落した際に書かれたものなのだろう、いまでは想像もできないがかつてこの学園は空を浮かんでいたというのは有名な話だ。
目線を下げる、水没を表すエリアとそれを免れたエリア、双方が混じる書き込みからさらに下げてきてやがて地図の最も下のエリアで目を留める。
紫水晶の部屋、と書かれた広大な空間。そこが地図における最終地点だったはずだが少年は更に目線を下げる、そして地図の一番下、空白に書かれた書き込みを睨む。

隠し部屋があるかもしれない。

その地図には珍しい曖昧な記述だった。紫水晶の部屋から伸びていると目された隠し通路ではあったが、そもそも学園墜落の影響で現在では紫水晶の部屋までの通路が全て通行止めらしい。
おそらく文献かなにかで知ったはいいが、検証できなかったのだろう。
少年はしばらくの間、常にはない厳しさを持った顔でその部分を見ていた。
推測が正しければ自分が、あの双子に会ったあの日から探している部屋はこの場所にある。
信頼に当たるであろう資料は既に見つけた。あとは確かめて、相応の対処を取るだけ。
そうすれば……そうすれば、自分があの双子に会うことはもうないだろう。
そのことに少しだけ寂しさを覚えている自分を自覚した。
そのことに自嘲めいた笑みを浮かべながら、地図を丁寧に丸めてそれ専用のケースに入れる。その後それを資料室の片隅に立てかけた。

一眠りしたら出かけよう、と少年は思う。

見上げる天窓に映る空は、暗く濁った色をしていた。

※ ※ ※ ※ ※

いつもの攻撃がない。そのことと共に感じたのは寒気すら催すほどの、殺気。

石壁の裂け目から入って映る光景。それはいつもとなにも変わらない。
紫水晶の破片、わずかに波打つ水面、突き出た陸地、そして歯車にも手裏剣にも見える奇妙な大剣と、それに寄り添う二人の少女。
けれど空気が違う。常とはまるで異なる、肌があわ立つような、ピンと張った糸のような緊張感が辺りを支配している。
のどが渇く、ごくりとつばを飲み込んでこの空気の発生源へ、双子のマナへと視線をやる。

そして、ぞっとした。

無表情。そうとしか言いようがない、そうとしか表現しようがない表情。
目を閉じた、能面のようなそれは元来の容貌と相まり、神秘さと不気味さを内包している。
それでいて、一切の感情を排しているとすら、そう思えるにもかかわらず明確に感じ取れる殺気。
つい先日まで向けられていたものと同じ、けれどあまりにも濃度が違うそれに、少年の体が硬直する。常の彼ならばありえないほどの隙。

故に、それを避ける事が出来たのは奇跡と言ってよかった。

きぃぃぃん。

金属音と共に大剣から分離する二振りの刃。

「……っ!」

悪寒。反射といっていい動きで首をひねる少年の耳に、一泊遅れて届く風切り音。
高速で飛来した刃、それに生み出されたかまいたちが浅く頬を裂く。だがそれに構っている暇はなく、二撃目。

これはかろうじて抜き放った剣で弾く。

「っぐ……!」

重い。ただの一撃で芯まで響いた。一泊遅れていたら剣を手放していたかもしれない。
跳ね上げられた刃はそのまま回転しつつ周囲を旋回する。
時間差で攻撃を仕掛けるつもりらしい。ただの二振り刃。だが回転しながら中を舞うそれらを見て、さながら檻にでも閉じ込められている気分になる。

ここにきて少年は完全に悟っていた。
日課のように行われていた攻撃。殺気、害意こそあったあれは、その実、手加減という言葉すらおこがましいほどのじゃれあいに過ぎなかった。
体のことを考え、力をセーブしていることは分かっていたが、それでもこれは段違いといっていい。

(本気か……!)

歯噛みする。彼女たちが人間に恨みを持っていることは予想していた。
その理由もまた、見当はついていた。
ならば、この襲撃はむしろ想定してしかるべきことだったのだろう。

「遍く全てを灰燼に……焼け」

がきり、歯車の音ともに紡がれる言葉を聞いて、躊躇なく床を転がる。
頭から海水を引っかぶることになるが知ったことではなかった。

目に映るのは前方、ゆらゆらとわずかに揺れながら宙に浮かんでいる大剣、その柄の両サイドに腰掛ける双子のマナ。

“ヘルフレイム”

白きマナが翳した手。先ほどまで自分がいた空間が真っ赤に染まる。床に満ちる海水が沸騰せんばかりに熱せられ、蒸発。発生した白い靄があたりを包み込み双方の姿を隠した。
立ち上がり体制を整える。剣を正眼に構え双子がいるはずの靄の先をじっと睨む。
靄の発生は相手にとっても予想外だったらしく、連続攻撃の手が止まる。
だが、それも長くないことは容易に想像できた。

(いまのうちに打開策を……)

必死に頭を巡らせるがなかなか手が浮かばない。常よりはるかに鈍いそれに対して心中で舌打ちをひとつ。目の前の戦いにまるで集中できていなかった。

風切り音。

靄を切り裂いて飛んできた刃を半身になって、背後からの二撃目を伏せて回避した。
それでも完全に避けきれずに背に浅い傷ができる。

(打開策……?)

疑問が浮かぶ。そもそもこの場合の打開とはなにか。

(倒す、のか……?)

あの双子を、消えたくないと泣いていた少女を、自分は斬るのだろうか?

違う、と思った。少なくとも彼女たちを敵だとはどうしても思えない。
戦意が湧かない。構えた剣先が揺れる。
いついかなる時でも、剣を握った以上は迷うなと、そう言われながら剣を習ったのに。
情けない自分に吐き気がした。

風切り音。

先ほどと同質の音。だが、今度のそれは明らかに、先のそれより大きい。

(さっきの攻撃からの周期が短すぎる! これは……)

ようやく晴れた視界。目を向けた先の双子、うつむき、表情が見えない彼女たちは、互いの体に寄り添うように佇んでいた。歯車にも見える奇妙な大剣は、どこにもない。

衝撃。

本体である大剣の激突。
とっさに受けた剣ごとはじかれ、木の葉のように派手に吹き飛んだ。
背中から壁に叩きつけられ、少年の視界が明滅する。

「か、は……」

がきり、歯車の音が響く。

「其は果て無き天門……」

白きマナの澄んだ声が聞こえる。
その表情はうかがい知れず。淡々と、機械的とも言うべき祈りの言葉。

「白き扉、光の標……」

朗々と響くその内容に、なんの魔法を使用しようとしているのかを悟り、焦りが募る。

「来たれ、汝は門衛、古く白き番人……」

意思に反して体の反応は鈍く、壁を背に、剣を杖に、かろうじて立ち上がる。

「天界への鍵を持ちて……」

少年は霞む目で双子を見つめる。
不思議と少年は彼女たちに対する憎悪を抱かなかった。
ただ、失敗したなぁ、と少しばかり自分の不甲斐なさにため息が出る。
もう少しうまくできなかったのか、なにか手を打てたのではないか。そればかり考えて、そんな自身を女々しく思って更に気分が沈む。
少女たちが人間を恨んでいる。それを知っていながら、こうなることを防げなかった。
少年は思う、この子達はこれからもずっと人間を恨んで生きていくのだろうか?
こうして、誰かを傷つけて、戦い続けて、やがては誰かに返り討ちに会ったりして、呪詛の言葉を吐きながら消えていくのだろうか?

(あんまりじゃないか、そんなの……)

見ていられない程に痛々しく、手を貸したくなるほどに悲しい。今まさにとどめを刺されんとしている自分が、その相手の未来を気にするなど滑稽以外の何者でもないのかもしれないが……。

「彼の者達を……」

それでも、何とかしてやりたかった。
正直な話、少年には、いままでの治療と称した行動についてひとつの打算があった。
それはこの場所に通うようになって、抱くようになった、小さな期待。
話をしようとした。他愛もないことを話題にして、何度も話しかけた。

人間に対する意識を、少しだけでも変えれないかと。

恩を着せるつもりなどない。元より好きでやったこと。
それでも、話ぐらいはできる存在なのだと思ってもらえないかと、そんなことを考えた。
今は無理でも、いつかそうなるための取っ掛かりにならないかと。

けれど……、

(やっぱり無理だったのかな……)

「その地へ導かん……」

詠唱が終わる。“力”が満ちていくのを感じた。
はたして召喚されたのは、長槍を携えた異界の存在。
大きく振りかぶったその切っ先に更なる魔力が集い、標的たる彼へと狙いを定める。
二人のマナは指揮者のごとくその手を振り上げ、

そして……、

「二度と、ここに来ないで……」

「え……?」

かすれるような響き、懇願するように、どこか必死な、悲しい声色。
二人のマナが顔を上げる。そこにあるのは変わらぬ無表情。だが、ひとつだけ、決定的に違うところがあった。それは頬を伝う、どこまでも透明な……、

“ヘブンズゲート”

少年は一瞬だけその光景を眼にして。

世界に、光が満ちた。



[28800] 双子の月 後編
Name: 秋月 桂◆02e75bbd ID:a8ac91cf
Date: 2011/09/16 14:00
最寄の町からかなり離れた森の奥深く。

人の目から逃れるように、隠れるように、ひっそりとその屋敷は佇んでいた。
ひどく静かな場所だったが、廃屋特有の寂しさや侘しさはない。
かつて少年の祖父にあたる錬金術士が立てたというそこは明らかにただの住居以上のもの、アトリエであることを求めて作られたのだと分かる。
なにに使うのか分からない無数の器具や設備、棚に収められた薬品類、散乱した大量のレシピや学術書、元はモンスターの一部であったろう材料、そして大きな錬金釜。

そんなに長く暮らしていたわけではなかったが、少年はその場所が結構気に入っていた。ときたま変わった菓子をもらえたり、おもしろい本があったのもあるが、研究している父の様子を見ているだけでなんだかわくわくしたのだった。

だが、その時の少年にはそんな弾むような気分は微塵もなく、ただただ沈んだ表情で項垂れていたのを覚えている。
舌っ足らずな声で父に話をせがんだ結果に聞いた、父が会ったというマナの話。

少年にとってマナとは不思議な力を持つ、友人のような存在だった。
母や父の友人たちが契約しているマナともよく遊んでもらっていたし、物知りな彼らとは話しているだけでも楽しかった。
だが父が語ったマナは勝手な錬金術士にひどい目に遭わされ、当然のように彼らを憎んでいたという。幼かった頃の彼には衝撃だった。
泣きそうだった少年を見て父はひどく慌てながら話したことを後悔しているようだった。

だが、困惑しながらも、なんとかこちらを落ち着かせようと頭を撫でてくれた父の手の感触は、とても大きくて、温かいもので。

手を差し伸べてくれる人の温かさを、彼はその時改めて知った。


※ ※ ※ ※ ※

「……ん、んん?」

目覚めは決して爽やかなものではなかった。体の節々に鈍痛があり、おまけにだるい。

だが、意外にも気分はそこまで悪くなかった。
なんだかひどく懐かしい夢を見た気がして少年は首をひねるが、よく思い出せない。
目に映ったのは、見知った天井。どうやらここは寮の自室であるらしかった。
あたりはひどく暗く、静かで、時計の針の音の他は何も聞こえない。
わずかに首を動かし時計を見れば、夜と朝の境とも言うべき時間帯だった。

「あれ……?」

彼は疑問に思う。どうして自分は寝ているんだろうか?

(たしか、いつも通り遺跡のほうに行って……)


二度と、ここにはこないで……


「……っ!」

一気に頭が覚めた。視界がクリアになり、跳ね起きるように起き上が、れなかった

「っ~~~~!!」

痛みがぶり返して、思わず悶絶する。一気に体を動かしたのが不味かったらしい。
しばし悶え、結局元の仰向けの体制に戻った。
ため息をひとつ、天井を見上げながら気を失う前のことを思い返す。

「……負けたのか」

ぽつりと漏らして懐を探る。制服のまま寝かせられていたらしく、胸のポケットに目的のものがあった。

翼を象ったアクセサリ。

入学時に手渡されるアイテムにして、戦いに負けた生徒のための救済措置。イカロスの翼。
瀕死になった自分を、これが学園にまで転移させてくれたのだろうと思う。
手のひらでそれを弄びながら先の勝負を思い返した。
いや勝負にもなってなかった、と彼は呟く。

(碌に抵抗すらできなかったし、そもそも戦意すら……)

再びため息を吐く。
思うのはふたつ。どうすればよかったのか。そして、これからどうするべきなのか。

(……まぁ、決まってるよな)

苦笑が漏れた。
このままで、言われるがままに引き下がるなど自分らしくないと少年は思う。
なにより、彼にはどうしても気になることがある。それが解決するまで、この件をうやむやにするつもりはなかった。
ベッドから降り、立ち上がる。痛みは気合で無視した。
見据える先にあるのは、壁に立てかけられた愛用の剣。
歩み寄って握る。鞘から刀身を抜き放って、窓から差し込む月光に照らすと、柔らかい光に金属質の光沢がきらりと光った。刃こぼれなどはなく、透き通った刀身に少しぼやけた自分の顔が映る。
それがひどく頼もしく思えて、思わず少年は笑う。
いまからあの双子の所へ行けば、まず間違いなく戦闘になる、と少年ほぼ確信している。
躊躇いは、ないとは言えなかった。

だが……と彼は思い返す。脳裏に浮かぶのは気を失う直前の光景。

「……」

あの時の戦闘。少年には双子を倒したとしても、力づくで解決できるとは思えなかった。彼女たちの心底には自分を含めた全ての錬金術士への憎悪がある。
ここから自分が出来ることはないと、そう思った。だからこそ、迷った。
だが、果たしてそれだけなのかと今は疑問に思っている。彼女たちの真意はもっと深いところにあるのではないか、そして、それを知ることは、自分が出来る事へと繋がるのではないか。そう思えてならない。

彼女たちの真意を聞く。そのためには……、

「ごめん。もう少しだけ付き合ってくれ」

鞘に剣を収め、他に必要なものはと考えた、その時だった。
ふと、少年の目が鋭くなる。重心を少し落として姿勢は中腰に、目だけを動かして辺りを見回す。依然として変わらない光景。
静寂そのものが支配する部屋。自分のほかに動くものはなく、当然警戒するものなどない、筈だった。

「……っ!」

少年が動いた。脚を軸に身体を反転させ、先ほどまで死角となっていた背後へと向き直る。

「ほぉ、腕を上げたな」

低い、覚えのある声を聞いて一気に脱力した。警戒を解いてため息をつく。

いつの間にかそこには一人の男が腕を組んで仁王立ちしていた。
壁に背を預け、こちらを見るその姿からは覇気とでもいうべきものが滲み出ており、その存在感はどうして背後に立たれるまで気付けなかったのか、不思議に思うほどであった。だが少年としてはさしたる感慨もない、とっくに慣れたことだったからである。
大柄といっていいだろう体躯、長く赤い髪を後頭部でしばっている。細長い草を一本口にくわえ、不敵な笑みを浮かべるその男を少年はよく知っていた。

「……グンナルおじさん、いい加減背後をとるのはやめてくださいよ」

「貴様の父もよくそう言っていたな、やはり親子か」

どこか面白そうにそういう男、グンナル・ダムの言葉に、親子二代にわたって悩まされているのかと少年はげっそりした。

「……毎回神出鬼没ですが、教頭先生ってそんなに暇なんですか?」

ましてこんな時間にと、じと目で聞くが当然の如くグンナルは意に介さない。

「そうでもないぞ、俺様が現れるのはそれが必要な時だからだ」

「……必要な時、ですか」

いや、あんた結構面白がって出てきてるだろ、という言葉を飲み込んで表情を改めた。
どうやらまじめな話らしい。

「あの双子の元にいくつもりか?」

「……!」

少年は驚いたようにグンナルを見上げる。一瞬、どこまで、と思ったが、すぐに考え直した。あるいは、この男なら全てを知っていても不思議ではなかった。

「おじさん……」

「二、三時間前まで……」

言葉を遮りグンナルは続ける、その目は閉じられ、その口調はいつになく静かなものだった。

「ここには貴様のアトリエの連中がいた」

「っ……」

「保健室から貴様をここに運んだのも連中だ」

少年の目が伏せられる。後ろめたさをつかれ、申し訳ない気持でいっぱいになった。

「貴様が何故、それほどまでにあのマナに拘るのかは知らん」

だがな、とグンナルは一旦言葉を切る。目を開き、まっすぐに少年を見据える。

「そんな貴様を案じている者達がいる。それを忘れるな」

「……はい」

脳裏に同じアトリエの仲間たちの顔が浮かぶ。
気のいい彼らならば、きっと力を貸してくれるだろう。だが……、

「すいません」

頭を下げる。それでも、この件だけは自分の手で片を着けたかった。

理由は分からない。くだらない意地なのかもしれない。それでも、この考えを覆すつもりはなかった。

「そうか……」

そういってグンナルは背を向ける。元より自分の答えを予想していたのかもしれない。
去りゆく男の背に、もう一度頭を下げた。

そうして自らも踵を返そうとして、

「持っていけ」

その言葉に振り返った。視界に入ったのは宙を浮くひとつのビン。
慌てて受け取るとかすかな薬品の匂いが鼻を突く。

「戦いの前に十全の体調を整えておく、基本中の基本だ」

背を向けたまま、歩みを止めずにグンナルは言う。
果たしてどうやったのか、彼はその体制のままそれを放り投げたらしい。

「……ありがとうございます」

「俺様は預かり物を届けただけだ。礼はそれを作ったものたちに言うことだな」

「……はい!」

答えてから改めて頭を下げる。そして自分に様々なことを教えてくれた人々の一人を、その背を見送った。腕の中のビンを見下ろす。

エリキシル剤。錬金術師が作るあらゆる薬品の中でも最高クラスの性能を誇る回復薬。
仲間たちが作ったであろう見舞いの品は、さぞかしよく効きそうで、よく沁みそうだと少年は笑った。

※ ※ ※ ※ ※

暗闇の中、二人の少女はうずくまる。遠く響くは潮騒の音、夜明けが近いからか鳥の鳴き声もかすかに聞こえる。

「……」

少女の片割れ、白きマナはかすかに顔を上げる。虚ろな目で見つめるのは壁の裂け目。
光がいまだ差し込まぬそこ、その先はただ薄闇に包まれている。

「……っ」

はっとしたように顔を歪める白きマナ。まるでそこを意識した自分を恥じるように目を伏せる。もう片方、黒きマナはその様子を横目で見て、同じように目を伏せた。

「……」

「……」

双方に言葉はなく、ただ時間が過ぎてゆく。

黒きマナは唇をかみしめる。片割れの心から流れてくるそれは限りなく彼女を陰鬱にさせる。心の中が空っぽになったような、途方もない虚無感。それはしみ込むように心を侵していく。

「……」

胸に巣くうそれから目をそむけるように黒きマナはかつての記憶に思いをはせる。

あの忌まわしき実験が行われる前、はるかな昔、自分たちが人間を信じ、錬金術士と呼ばれるもの達と肩を並べて歩んでいた時代。
今では思い出すことすら難しいあの頃、自分たちはどんな気持ちで彼らと言葉を交わしていたのだったか、どんな人間がいたのかもよく覚えていない。
どんな会話をしたのかも、どんな出会いをしたのかさえも。
あの頃の自分たちはどんな思いで彼らと接していたのだったか。

思い出せない。

本当に?

「……っ」

自問の言葉が心をえぐった。

駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ……!

思考を止める、心の痛みに蓋をする。
考えてはいけない。気に留めてはいけない。否定をやめてはいけない。

自分は、自分たちは、ただ人に、錬金術士たちに復讐する、そのためだけに……!

「……あ」

思考に没頭していた黒きマナはその声で意識を現実へと戻した。
見るとそこには片割れたる白きマナ。信じられないものをみるような、呆然とした表情を壁の亀裂に向けていた。

※ ※ ※ ※ ※

薄闇の中、白きマナは無言でひざを抱えていた。
考えるのはひとりの人間。彼女とその片割れたる少女を救い、そして、白きマナがその手で討った少年のことだった。

「……」

初めて会って、殺意を向けた。
顔を見るたび、刃を向けた。
話しかけられる度、拒絶を返した。

悪意や害意、そういった負の想念は肉体よりむしろ精神を疲弊させる。
たとえ言葉を交わさなくとも視線や仕草をもって伝わるそれは、向けられるだけで害を及ぼすのだ。
それらは忌避されてしかるべきものであり、大抵はそこから距離を置くか、同質の感情を持って、それを返すか。大体はこの二通りとなる。

まして、それらを向けてくる相手が自分が助けた者たちであるのならば、恩をあだで返すようなことをしてくる相手ならば尚のこと。
それでもよかった。怒るのならば怒ればいい、離れるのならば離れればいい、もとより友好など求めてすらいない。

だが、あの人間はどちらでもなかった。
何度攻撃しても、拒絶しても、悪意をぶつけても、あの人間は怒ることもなく、離れることもなく、ただ苦笑を浮かべて話しかけてきた。
その顔を見るたび苛立って、その顔を見るたび泣きそうになって、心が乱れて嫌だった。

だから、討った。

刃で斬って、魔法で焼いた。
病み上がりとはいえ手心は加えなかった、ただ全力で攻撃した。

「……ぅぅ」

水晶の檻の中でずっと考えていたこと。錬金術師への復讐。
心が晴れるとは最初から思っていない、それでも掲げた永き悲願。
会うたびに感じたわけの分からない感情。どちらも解決できる手段のはずだった。
それなのに、そのはずだったのに。

どうしてこんなに心が苦しいのだろう。

「……ぁぁ」

うっすらと錆びた鉄にも似たにおいが鼻をつく。潮の匂いにかすかにまぎれるそれは白きマナにとって強く覚えがあるもの。
自分の体を強くかき抱いた。最後まで反撃されることはなく、傷ひとつないその身。
にもかかわらずその場にただよう血臭、その全ては、自分が討った人間のもの。
その事実に気づいて呻きをあげる。心が軋む音を聞く。
無性に寒く感じる。心底からじんわりと滲み出すような寒気。
心細かった、温もりが欲しかった。隣に座る片割れの手を握る。
だがその手に温かさはなく、それは片割れもまた自分と同じ気持ちだからだからと悟って、寒気はより強くなった。
かたかたと小さく震える哀れなマナに、周囲を見回す余裕はなく。

故に、一瞬それがなんであるか、気づけなかった。
それは覚えのある気配だった。

「……あ」

それは白きマナが良く知る気配で、同時に今、最も会いたくないと思っていた人のもの。

「どう、して……?」

疑問は一瞬。復讐という言葉がよぎって震えが強くなった。
手のかかる子どもを見るように苦笑していたその顔が憎悪に歪む様を想像して、どうしようもない恐怖が起こって、そんな自分の身勝手さに吐き気がした。
あれだけのことをしておいて、今更悪意を向けられるのが怖いと感じる自分がたまらなく嫌だった。
掴んでいた片割れの手に力を込める。意図を読んだ黒きマナと顔を見合わせる。
その瞳に映った自分はあまりにもひどい顔で、そんな自分を見ていたくなくて、睨むように前を見据える。

人影が、見えた。

「なにを、しにきたの?」

見せ掛けの悪意に固められた虚勢の声。
自分すら騙せぬ嘘を纏ったそれは、必死に親を探す迷子の声にも似ていた。

※ ※ ※ ※ ※

夜明け前。空が既に白み始めた頃に少年は遺跡跡地に到着した。

それは彼自身が想定していた時刻よりよほど早い時刻であり、それができたのは学園を出る際に彼が飲んだ、エリキシル剤によるものが大きかった。

恐ろしく即効性があったそれは、もはや全快を通り越して、怪我する前より体が軽く思える程によく効いた。そのことに仲間の心遣いを感じて、同時にそれを使ってさらに無茶を重ねたことがばれたときのことを考えて冷や汗が止まらない。
これから赴く戦いより、むしろその後、仲間に会うのが怖いというのは我ながらどうなのだろうと彼はため息を吐く。

「といっても……まぁ、とりあえずは……」

こちらのほうだな。

小さく呟いて、もはや見慣れた遺跡を一瞥する。
躊躇なく、ともすればいつもの散歩でもするような気安さで亀裂をくぐると、代わり映えもしない内部の様子が見てとれた。
静かに、小さく波打つ水面に、風化した石の壁。紫の水晶片。
双子がここで放った魔法の威力を考えれば、小さいクレーターぐらいできていてもおかしくなかったが、それもない。
落ちたるとはいえ古の遺跡ということか、なにか建物自体に細工が施されているのかもしれない。
そんなことを考えながらも、少年の意識のほとんどはその奥へと向けられている。

奥に座する双子の少女。
彼女たちは彼が入ってきても、なにもせず、語ることもなく、ただ沈黙を守っている。
だが、彼女らの意識もまた、彼に向けられていることはその視線が雄弁に物語っていた。
自分が再びここに来たことへの動揺か、はたまたそれ以外の何かか、揺れる二対の視線を真っ向から受け止めながら、少年は内心、前回と同じような奇襲を受けずに済んでほっとしていた。自分が考えてきた案を、意思を伝えられそうだという安堵だった。
全てを話し合いですませるなどと理想を語るつもりは毛頭ないが、それでも剣だけで自分の意思を伝えるなどという体育会系のノリも持たない彼である、言葉で伝えるべきことだけは伝えられそうでよかったと思う。

もっとも、口火を切ったのは意外なことに双子のほうであり、その声は少年に、やはりここにきて正解だったと思わせる声だった。

「なにを、しにきたの?」

「話を聞きに」

彼は即答する。そのためには強引な手段も厭うつもりはなく、対話の為に剣を握るという一種の矛盾すらも背負おうと、その意思を露わにする。

「話すことなど、ない」

黒きマナは断定する。だが、少年は当然のようにそれを想定していた。

「そちらはそうかもしれない、でもこちらはそうじゃない」

「……」

風切り音。

無言のままに放たれた二振りの刃は彼の左右を素通りし、彼のコートを大きくはためかせる。少年は一歩も動かなかった。瞬きのひとつもせず、彼の目は双子たちから離れることはない。

「二度と来ないで、わたしたちはそう言った」

白きマナは静かに告げる。次は当てる、と。
放たれる殺気は、それでも彼の意思をくじくことはなく。

「聞いた。でも、何度やられても僕はここに来る」

「……っ!」

呆然と、信じられないものを見るように双子が少年を見詰める。
先に我に返ったのは黒きマナだった。

「本当に、あなたは状況がわかっているの?」

「…………」

静かな声、だがそれは冷静に努めるように抑えているだけで、その裏には荒れ狂う激情が渦巻いていることがうかがい知れた。

「次は無いと、その警告が分からなかったとは言わせない。何度やられても? あなたはなにを言っているの?」

そんなもので済むと、本当に考えているのかと黒きマナは問う。
それは殺意を含んだ嘲りの言葉。哀れで愚かなものを見る視線。
口の端は吊り上り、歪んだ笑みを形作る。しかし、どこまでも暗い愉悦に酔うその表情は、

「だったら、どうして僕はここにいるんだ」

次の瞬間凍りついた。

「な、にを……」

「どうして僕に止めを刺さなかった?」

少年は静かに、しかし有無を言わせぬ口調で黒きマナに告げた。

「イカロスの翼は確かに強力なアイテムだけど、それでも万能というわけじゃない。
本気で僕を殺すつもりなら、転移される直前に首をはねてしまえばよかった」

ため息を吐く。

「実際やろうと思えばできたはずだ。それでも君たちは二度とここに来るなという言葉を残して、僕を見逃した……というか、そもそも殺意を抱いている相手に警告を送ること自体おかしい」

警告というのは元来、相手が不幸な目に遭わないようにという配慮から発せられるもの。
威嚇の意味で使用されることもあるが、それとて相手との争いを避けたいという意図をもつ。間違っても殺したいほどに憎い怨敵に放たれるべき言葉ではない。

都合のいい考えにも思えた。少年自身、自分がこうあって欲しいという願望からこんな考えが出たのではないかとも思った。
だが、それでも彼は信じたかった。愚かと、甘いと言われようと、そう信じていたかった。

「君たちは最初から僕を殺すつもりなんてなかった。痛い目にあわせることで、ここから遠ざけようとした、それだけだったんじゃないのか?」

「だったら!」

少年の言葉に半ば被せるように声を発したのは白きマナだった。

「だったらなんだというの? 私たちがあの時あなたを見逃すつもりだったとして、なにが変わるというの!?」

きっ、と少年を見据える。
それは彼が一度も聴いたことのない、白きマナの確かな感情の発露だった。

「わたしたちとあなたは敵同士。そこになんの変わりはなく、次見逃す保証もない!」

「少なくとも」

けれど彼は退かない。語調は決して強くなく、けれど確かな強さを感じる言葉でそれに答える。

「僕は君たちを敵だと思ったことはない」

「……っ!」

絶句した白きマナの代わりに答えたのは、その片割れたる黒きマナ。
彼女は既に戦闘は不可避であると判断していた。この男は退かない、目を見ればそれが分かった。頭に血が上るのを自覚する、どうしてだ、どうしてこうなるのか、どうして…!

(どうしてわたしたちを恨んでくれないの……!)

「もういい……あくまでそう思うのならそう思っていればいい、儚き理想と幻想を胸に、消えなさい……!!」

自身の、心中の呟きを疑問に思う余裕はなく。黒きマナは宣言する。
誰も望まぬ、けれども不可避の戦闘が、始まった。

※ ※ ※ ※ ※

風切り音。

恐ろしく速く、こちらに向かってくる二振りの刃を見て、彼は剣を持っている方とは逆の手を懐に突っ込んだ。
瞬間、なにか硬質なものが割れる音と共に、彼に迫っていた刃が急激に失速した。

「……!?」

気づくと少年の手は既に抜き取られて、否、振りぬかれていた。
地に付かんばかりに力を失った刃の通った後には、その軌跡を示すような少量の液体の跡とガラス片。
目視することが難しい速度を出していた刃に、薬品のアンプルをぶつけられたのだと双子が悟った時、少年は既に走り出している。
驚愕に目を見開く双子を見ながら、彼は懐に収められた各種の薬品の残量を意識していた。
戦闘も序盤ということもあって結構なストックがあったが、やはりそれらも有限である。
元々、独りでこんな強力なマナと戦うこと自体が異常だった。あまり時間をかけるのは得策ではない。
慌てて力を込め直したのだろう刃を掻い潜りながら、彼は片手を懐へ。
次の瞬間には既に投擲された簡易爆弾、レヘルンが双子の足元で爆発する。
直撃しなかったものの、即座に足元の海水が凍りつき、相手の動きを封じることに成功する。

黒きマナが一瞬でそれを砕くが、その一拍。

「はぁっ!」

即座に肉薄した少年の剣が振るわれ、双子の寄り添う大剣と激突。
辺りに耳障りな音を響かせた。

敵と思わないことと剣を向けること、少年にとってこの二つは決して矛盾することではない。話し合いという手段に限界があるのなら他の手段に頼る。
彼にとっての剣とはそういう側面をもっていた。
聞きようによってはかなり乱暴な考え方だが、彼自身そこまで突飛な考えとも思っていない。人間、理性や理解だけで生きているわけではないのだから、感情のままにぶつかったほうがいい場合もあるのではないかとも思うのだ。

かならずしも敵を打ち倒すためというわけではなく、互いの持つ何かを確かめるために。
戦うこと自体はあまり好きではないことから、あまり取ることも少ない選択肢ではあったが、それが有効であると確信した以上、彼は迷わない。

それ故に、初戦の際とは比べ物にならないほど彼の頭は冴え渡っていた。

叩いた瞬間、少年の剣が脈動するように震える。
剣身から、対象の耐性から余力、種族特性にいたるまであらゆる情報が流れてくるのを感じながら、少年は顔を顰めた。

(手ごたえが浅い、対物理防御?)

振りぬいたまま体を半回転。同時、ぎぎぎ、と歯車が回る音がする。
こちらを見据えた白きマナが魔法詠唱にはいるのを聞いた。

「っ!」

“ヘルフレイム”

舌打ちをひとつ。飛びのくようにその場を離れた彼は眼前に炎の壁を見た。

広範囲にわたって広がった業火は少年を飲み込み、遺跡内全体を紅く染め上げた。
発生した水蒸気による靄を掻き分け彼は走り続ける。眼前の靄を切り裂いて迫る刃にアンプルを投げつけ、牽制。

二本目にも同様の対処を施し、靄の先、双子がいるであろう方向を一瞥した。

「……穿て!」

“テンペスト”

素早く詠唱を終えて手をかざす。
靄が晴れると同時、轟音と共に遺跡の床壁が割れ、突き出した石の刃が双子に殺到する。
決まり手にはならないだろうが牽制程度には役立つだろうと目論んだ一撃。
しかし。

「無駄」

白きマナの冷徹な言葉と共に、その手にいつのまにか握られた杖が一閃、石刃が何か見えない壁に阻まれたかのようにその勢いを落とした。

「なっ……魔法防御!?」

「こちらの番…!」

歯車が回る音。双子のマナが中に浮かび、その身から大剣が離れる。
同時、大剣は高速で回転しながら少年へ走り出した。

「っ!」

「逃がさない」

大剣が地面と接触し響かせる轟音。同時、二つの風切り音が彼の耳へと届く。

(間に合え……!)

懐のアンプルを抜き出し、体を真横へ投げ出す。
本体たる大剣はかろうじて回避、飛来した片方の刃にアンプルをぶつけて剣でいなしたものの、もう一振りに対処が遅れる。

「っぐ!」

肉を裂く音と共に脚部、太ももの辺りに灼熱の如き熱が生まれる。
投げ出した体がごろごろと転がすようにして回り、その勢いを利用して起き上がった。
荒い息をつきながら、少年は前方を見据える。
海水が染み込んだ服がひどく重く、塩分が足の傷口に激痛をもたらす。
指に挟んだアンプルの蓋を器用に片手で開けて、中身を裂けた肉へと落とした。
もはや転げまわりたくなるような痛みの激流に少年が低く呻く。
危惧していた追撃はなく、双子は無言でそれを見ていた。

「まだ、立つの?」

白きマナがかすれた声で問うのに、少年は剣を構えて答える。

「あなたの力では何も変わらない、変えられない」

黒きマナが手元に戻した刃に再び力を込めるのを手で制し、白きマナは言葉を重ねる。

「……」

「これ以上来るというのなら、本当にあなたは……」

「いまの言葉を聞いて、」

消えることになる。白きマナの、後に続く言葉を遮り、少年は静かに笑んだ。

「尚のこと、負けるわけにはいかなくなった……!」

台詞と共に放たれるのはいくつものレヘルン。

「分からず屋……!」

白きマナは唇かんで手を振り上げる。
弧を描いて双子に迫るそれらはしかし、飛来した刃にぶつかり爆発。爆風で弾かれたもの、誘爆したものも彼女たちに命中するものはなく双子の周囲に氷柱を作り出すにとどまった。

「降りしきれ!」

“アイスレイン”

レヘルンの隙間を縫うように、上空よりあらわれるのは巨大な、幾本ものつらら。
生み出され、自身を貫かんとするそれに対して、白きマナは冷めた目を向けた。
隣からこちらに視線を向ける片割れを一瞥。合図としてはそれで十分だった。

「「従え」」

ただ一言。だがその一言は確かに戦況に影響をもたらした。

少年にとって最悪の方向に。

周囲の魔力が、自身の使った魔法がその一言で確かに変質したのを感じとって少年は絶句する。
つらら同士が寄り集まり、その姿を変えていく、双子が寄り添う大剣、それとそっくりな両刃の剣へと。

それを見て彼は目を見開きながら直感する。

(……支配権を、奪われた?)

アイスレインは指向性を持たせた魔力を配置して自動的に対象を攻撃させる、いわゆるタイム型と呼ばれる魔法である。その性質上、設置後は手元の操作から離すことになるが、それでも魔法の支配権を奪われるなど聞いたこともない。

が、その窮地は確かな現実だった。

「っく」

「「終わり」」

剣が殺到する。彼は一瞬だけそれを避けようと動きかけ、止めた。
いままで片手で握っていた剣を両手で支える。自身の剣を前に掲げて迎えうつ姿勢へ。
既に布石は打った。そしてそれを生かせる機会は、おそらくこれが最初で最後の機会になる。ならばと、彼は静かに魔法の言葉を口ずさむ。

それは彼が扱う中でも最も弱い攻撃魔法。
その胸に絶望感はなく、ただ必勝の思いを掲げて。

鉄がぶつかる音と、どこまでも赤い血飛沫がその空間を染め上げた。

※ ※ ※ ※ ※

剣と剣がぶつかり、轟音と共に少年の剣が弾き飛ばされる。

終わった、と黒きマナは思った。
胸を焦がす激情の炎は既になく、勝利に対する歓喜もなく、何の感慨もない虚ろな確信。
体中も支配していたなにかが抜け出たように力が抜けて、だからこそ。

「……!」

未だ戦意を消さずに立ち上がる少年の姿に目を疑った。

彼の黒いコートは、ここに着たそのときより心なしかその色を濃くしていた。
染み込んだ血によって重ねて染め上げられたそれからは赤い海水が滴っている。
肩から、腕から、腹部から、太ももから、足から、広がる傷跡は深い。
それは明らかにいまの一撃によるものだけではなく、一度ふさがった傷が開いたことによるもの。
杖にするべき剣もなく。彼は静かに前を見据え、そして駆けた。

「っく」

呆然と、彼を見ていた白きマナは我に返って刃を操作する。
ガラスの割れる、澄んだ音が響いて、迫る二振りの刃はその勢いを落とす。
少年の脇をすべるように飛ぶ刃。そして彼は。

「アイストーム」

極限まで省いた凍結の呪文と共に、それを掴んだ。
柄などなく、むき出しの刃を強く握る。生み出された凍気は腕ごと刃を氷で包み込んだ。

「そんな……!」

白きマナは慌ててそれらを操作しようとして、それらがまるで言うことを聞かないことに気づく。
あの二振りの刃は彼女たちのマナが実体化したもの、いうなれば彼女たちの体の一部といっても過言ではない。それがまるで言うことを聞かない。

(まさか…)

彼が自分の腕ごと刃を凍らせたのは、おそらく現在の握力に自信がなかったから。
おそらく手のひらと刃の間にも氷を張って手を保護しているのだろうと初め彼女は考えた。

だが、おそらくそれだけではない。

彼が生み出した氷。それは通常の無色のそれではなく、薄く色づけされたもの。
その色はいままで旋回する刃から少年を守ってきた薬品と同じ色だった。

(薬品を、凍結させて……)

操作を取り戻すこと、それ自体は不可能ではなかった。力を注ぎ込んで強引に氷を砕けばよい。だが、それができるのは自分ではない。
ならば、と彼女は隣の黒きマナへと目配せする。
瞬時に意図を読み取った片割れはすぐに頷き、

歯車が回せ、なかった。

「……!?」

白きマナが慌てて己が乗る大剣を見下ろす。
大剣の中央、大きい歯車が収まる部位が完全に凍結していた。

※ ※ ※ ※ ※

(一見複雑、多彩に見える攻撃にもパターンがあった)

後三歩、小さく数えながら少年は思う。
踏み込む。速射性を重視した魔力の塊が的確に手首を打った。
氷が砕ける。度を過ぎた冷気に感覚が麻痺した腕を振りかぶって、投擲。

(そして、本来ならありえない、物理と魔法に対する二重の防御)

後二歩、小さく数えながら少年は考える。
踏み込む。投擲した剣が白きマナが持つ杖を弾いたのを視界に納めて、もう片方の腕に固定された剣を意識した。
先ほど結界に剣をはじかれたのを思い出し、けれど構わず駆ける。

後一歩、小さく数えながら少年は呟く。

「互いの特性を補うことで、多彩な攻撃、防御パターンを有する。
言うだけなら簡単だけど一秒、一瞬で状況が変わる戦場で、タイムラグをほとんどなくそれを行うのは極めて難しい。けれど、それを一定のリズムと合図で入れ替えるのなら、不可能じゃない」

二つの防御結界もその一つ。場面場面で入れ替えることができれば、それは鉄壁の壁になる。
そう、入れ替えることができれば。

見つめる先にあるのは凍りついた歯車。

彼が見つけ出した、確かな合図だった。

零歩。

少年は呟き、攻撃の準備は整った。

※ ※ ※ ※ ※

「っ!」

どうする、白きマナは思考する。
目の前には剣を携えた一人の少年。
合図なしのお粗末な連携がこの戦況で役に立つとは思えず、この距離では碌な魔法も打てない。

(いやだいやだいやだいやだ、負けるのは、負けて奪われるのは、もう…!)

錯乱しかけたその思考、逃げるように動く視界の中で見慣れたなにかが光った。
彼の手から零れ落ちたもう一振りの刃、杖を弾いた事で氷塊を撒き散らしたそれが目に入る。完全に氷が取り除かれたわけではない、だが短期の操作なら可能だとすぐに分かった。即座に操作すれば、この距離である。回避は間に合わず、深々と彼の胸に突き刺すだろう。敵に奪われた刃は迫り、取り戻せた刃はすぐそばにある。

力を込めた。撃てる、そう確信した。そして、それを彼に向けようとして……。

彼の目を、見た。

濁りは無い、どこまでもひたむきなそれは、かつてどこかで見た…。

「あ、う」

わずかに、本当にわずかな時間、白きマナは手を止めた。止めてしまった。
一瞬の停滞。その中で、自分のミスを呪った彼女は確かに見て、そして聞いた。
それは心底嬉しそうな声。

「言っただろ」

してやったり、とでもいうような。悪戯っぽい笑顔だった。

「だから、敵じゃないって言ったんだ」

言葉と共に振り下ろされた刃は白きマナの真横。後ろの氷壁に深々と突き刺さった。

※ ※ ※ ※ ※

結局のところ、あの人間と自分たちとでは戦っているフィールドからして違ったのだろうと白きマナは思う。
そういう意味では最初から彼には勝つつもりなど微塵もなかった、少なくとも殺し合いと言う意味では。
彼の勝利条件はこちらが必死で言い張った主張を真っ向から否定して、自分の主張を証明すること。手段はともかく、その本質は完全に舌戦といっていい。
彼女たち双子が、彼女たち自身の手で彼の主張を証明してしまった瞬間に勝敗は決した。

本当はあの人間を殺したくなんてないと、そう証明してしまった瞬間に。

実際にあの瞬間確かに、彼女たちは完全に戦意をくじいていた。戦う気が、失せていた。

「……やなひと」

あんなにぼろぼろになっていたのに、あんなに血だらけになっていたのに。
こちらの害意も、敵意も、関係ないとばかりに飲み込んで、そんなくだらないことを考えていた。自分の考えが正しいと言う保障はどこにもないのに。
一歩間違えば、本当に死んでいたのに。
あんなに、必死になってまで。

「……」

件の少年はここにはいない。戦闘が終わったあと、最低限の応急処置を済ませて遺跡のさらに奥へと進んでいった。
この部屋の外。完全に水没した通路を通り、最深部へと。
おそらく水中でも探索活動を可能とするアイテムなのだろう。
青い飴玉を口に放り込んで迷うことなく水の中へと潜っていった。
やるべきことが、あるらしい。

「本当、やなひと」

好き放題するだけして、言いたい放題言うだけ言って、霞のように去っていった少年を思う。

「……はぁ」

いじけたように呟く白き少女を見て、黒き少女はため息を吐いた。

※ ※ ※ ※ ※

それを前にして少年はため息を吐いた。

どこか気だるげな様子ではあったが、その佇まいに隙はなく、ゆらりと長剣を抜き放つ。

そこは巨大な石造りの空洞だった。ちょっとした小屋なら丸々収まるであろうそこは、先ほど少年が双子のマナと対峙した部屋と同じく、浅く海水が満ちている。
しかし、同時にどこか窮屈な印象を受けるのは、部屋の大半を占める水晶の塔のせいであろう。怪しく紫色に輝くそれは部屋全体の光源となると同時、ブゥゥゥゥンと低く不気味な起動音を響かせていた。
そんな部屋の唯一の出入り口、水没した通路を背にして彼は立っている。

「こんな大掛かりなものまで作ったんだな」

そこはマナ遺跡の最下層エリア、隠し通路で隠されたその先。
ほとんどの存在に忘れ去られた、錬金術師の卵たちが残した地図にのみ記された場所。

マナ遺跡の真の中枢区域にして古のマナたちを縛り続けた結界の大元だった。

少年はため息を吐く。
彼の目の前にあるものは現代の錬金術では再現が難しい、古代の錬金術師の遺産といっていい。見るものが見れば狂喜しそうな代物である。
しかし、少年がその部屋を見た際の感情は驚愕でも感嘆でもなく、少々の呆れと多大な苛立ち。

「本当に、ご苦労様なことだ」

彼の心情など知らぬと言わんばかりに塔が明滅する。
塔の周辺、巨岩といっていい大きさの水晶がその姿を変え、怪しく輝く四肢を、牙を持つ獣の姿へと変わった。
変化はそれにとどまらず、巨獣に付き従うように、それより一回り小さい三つの獣が警戒するように少年のほうへとじりじりと近づく。
紫水晶で形作られた獣がどうやっているのか、あり得もしないのどをならして唸った。
しかし、彼はそれを見ていない。ただ目の前の巨大な塔を、幾多の嘆きと慟哭の響きを聞いた、マナたちの墓標を見据える。

「そうまでして……」

彼の心から苛立ちが消え、新たなる感情へと変わっていくのを彼は自覚する。
心底から湧き上がり、はらわたを煮る黒く熱い感情。

それは怒りだった

そう、彼は怒っていた。剣で突き刺されようが魔法で焼かれようが湧くことはなかった灼熱の如き明確な感情。

「そうまでしてあの子達を縛りたかったか……!」

剣を構える。傷はある。疲労も相まって次の瞬間に倒れてもおかしくない体。
けれど彼は不思議と負ける気がしなかった。その切っ先は揺らぐはなく、全身からは覇気が溢れる。

「行くぞ」

知人たる少女たちを縛り続けた檻、そしてそれを作り上げた錬金術士たちに、

「ひとつ残らず叩き潰す……!」

彼は激怒していた。

※ ※ ※ ※ ※

大規模な災害でも起こったのかと問いたくなるような、圧倒的な破壊の跡。
威容を誇っていたであろう水晶の建造物は完全に崩壊しており、もはやどういう形状をしていたのかも分からない。足元には小石サイズの水晶が転がり、どんな熱を当てたのか一度は溶けたらしい水晶が薄く床に張り付いていた。
床、壁、天井問わず残るクレーターからは時折細かい砂利が落ちてくる。

そんなこれ以上なく壊れきった部屋の片隅に彼は居た。
裂傷、火傷、打撲にその他諸々。傷がないところを探す方が難しいといわんばかりの体を壁に預け、その癖、遊び疲れた子供のような顔で目を瞑っている。

「ん……?」

ふと気配を感じて、まどろむように意識が明滅する。
少年が薄く目を開けるとどこか似通ったふたりのマナの顔が見えた。
彼にとっては見慣れた無表情。だが、やはり彼にはそれが表面だけのものに見える。
人ではあり得ぬ色彩をした澄んだ瞳、そこには表情では語らぬ感情の渦が渦巻いていた。
それが具体的にどういうものかは彼には分からないが、少なくとも敵意や殺意といった類のものではないと悟れて、そんなことが少し嬉しかった。
ふたりは彼の顔を覗き込むようにして立っていたが、彼が目を開けたことに気づくとじりじりと後ろに下がって距離をとる。
しばらく様子を見ていた双子だったが、ため息ひとつ、黒きマナが静かに口を開いた。

「あのアイテムはどうしたの?」

「うん?」

首をかしげたのは一瞬、イカロスの翼のことだと気づき頷いた。
ようするにそんなにボロボロなら何故帰らないのかといいたいのだろう。

「えーと」

なんと言ったらいいのか、思案するように目線を上げていた少年だったが、やがてばつが悪そうな顔で自分から少し離れたところに転がっている鞄を視線で指した。

「「……」」

「あ、ははは」

呆れたような視線を受けて彼の顔が引きつる。
少し離れた場所に転がっているそれは、焦げ臭い匂いを漂わせて横たわっている鞄? だった。相当な衝撃や熱を当てられたらしい、おそらく中に入っていたものは全滅であろうことは一目で分かった。

「まぁ、その、なんというか」

「……帰れないの?」

「……はい」

気まず気に述べようとした現実を一言で言われて、少年ががっくりとうな垂れる。
我ながら調子に乗りすぎた……とぶつぶつ呟いていたが、双子にはよく分からない。

正直な話、マナ遺跡から学園まで、決して歩いて戻れない距離ではない。
だが、それはあくまで常の体調ならば、の話である。
歩くことすら覚束ない体では難しいと言わざるを得ず、まして道中にはモンスターもいるのだ。そう時間もかからず彼らの夕食になるのは想像に難くない。
せめてリフュールポットなどの回復薬があれば良いのだが、そんなものはイカロスの翼と共にお陀仏である。

「まぁ、どうにかするさ」

だが、この状況においても少年の顔に焦りは無い。
それは彼自身の性格故か。危機感が欠如しているのではないかと思われるほどのマイペースさであったが、かといって諦めているわけでもない。
少なくとも現状打てる手はない、故に少しでも体力を回復するべきだと彼は判断していた。
何も考えていないような、能天気な態度や目的に愚直に向かう傾向が目立つ少年だったが、その実内面は強かであるといっていい。
この場である最善手は休むこと。それが次の手につながるのなら是非もなし。
思い立ったら真っ直ぐ、誰に似たのかその特性をいかんなく発揮した彼は今とても眠い。

「というわけでそろそろ僕は休もうと思うんだ」

「……あなた先ほどまで刃を交えていた相手に……いや、もういい……」

ゆるゆると手を振ってそんなことをいう少年に黒きマナが嘆息する。
なんかもう最後らへんの言葉が投げやりになっていたのは仕方ないことといっていい。

「それじゃあ、おやすみ」

その様子に少し微笑んで彼は目を閉じる。

※ ※ ※ ※ ※

自分の目の前でボロボロのコートに包まる少年が目を閉じてからしばらく。
本当に眠ってしまったことを確信して白きマナはため息を吐いた。

「……あなたはどこまで」

消えいりそうなほどに小さい呟き、傍らに目を向ける。
自分と同じように大剣に背を預ける片割れは自分と同じような顔をしていた。
視線を前に戻してまだあどけなさが残る寝顔を見つめる。警戒心の欠片もないその顔になんとなく腹が立って、手を伸ばす。

「……」

やがて頬に達した指が頬の肉をわずかにつまんだ。

「……」

そのまま引っ張る。痛みを感じない程度に止めてから離して、また掴む。

「……」

衝動のまま何度か繰り返しても少年は起きない。
それをいいことに、好きなように頬の柔らかさを感じながら。白きマナが呟いた。

「……うそつき」

努めたのか、そうでないのか、少年は明るくなんとかなると、大丈夫だと言った。
笑って、そういっていた。

(そんなはず、ないのに)

彼が直面している今の状況。それは決して笑えるようなものではないと白きマナは理解していた。帰還用アイテムも、回復アイテムもなく、場所の特性から救援が来る可能性も低い。加えて、応急手当をしたとはいえ、十分に深手と言っていい怪我を負っている。
ましてここは特殊な立地ではあるとはいえダンジョンなのだ、血の匂いにつられてモンスターも来るだろう。

「……」

だというのに、それを欠片も悟らせようとしなかったのは、暗に別れを告げていたからか。
この場所にあった紫水晶はもうない、数多のマナの怨嗟と慟哭にまみれた鎖は断ち切られた。それを成し遂げたのは、間違いなく目の前の少年だ。
体が軽い、もはや当たり前のように感じていた重圧感はない。
少しづつ、抑えられていた力が戻ってくるのが分かった。
今ならば故郷たる地に帰ることもできるだろう。ずっと帰りたいと思っていた、そこに。

「……ねぇ」

白きマナは静かに黒きマナに語りかけた。
それは黒きマナが久しく聞いた、どこまでも穏やかな声色。

「わたし、ね……思い出したよ……」

なにを、とは言わない。言う必要がない。
片割れたる彼女もまた自分と同じ気持ちだろうと確信していたから。
ずっと忘れていたこと。忘れようと、思っていたこと。
古い記憶。彼女たちがまだ、錬金術士と呼ばれる人々と共に在った頃の記憶。

「辛いものばかりじゃなかった……」

大切ななにかをかみ締めるように少女は呟く。

「ひどい人たちばかりじゃなかった……!」

頬を伝うのはここ数日で何度か見た雫。けれどその意味は正反対のもので。
少年の頬から指を離す。やはり寝辛かったのか、微妙に顔を顰めている。
それを見て、白きマナはやんわりと笑んだ。

それは後に、目を覚ました少年が見惚れるほどの、綺麗な笑みだった。

※ ※ ※ ※ ※

麗らかな日だった。
心地の良い風に波打つ草の海。どこまでも続く無限の蒼穹。
一本だけ生えた木の下、葉と葉の間から柔らかな光が漏れるそこに、

一人の少年が寝ころんでいた。

「ん……」

遠く、深い蒼中を飛ぶ鳥の姿を視界に収めて目を細める。群れをなした小さい青い鳥。
空の色に溶けるように在るそれらは不思議と見失うことはなく、ゆっくりと流れていく姿を目で追う。
やがてそれらが視界の隅から出て行ったのを確認して、くぁ、と彼は欠伸を漏らす。

「眠い……」

目蓋が重くなってきたのを確認してそんなこと呟いてみれば、ただでさえ重かった眠気がより重量を増してきた気がした。

まぁ、それも仕方ないかー、この陽気だしなー。

敵は強大、抗う選択肢はなくすぐさま敗北後の言い訳と共に降伏する。
だだっ広い草原に少年ひとり。他に誰もいないことは誰が見ても明らかだったが、それでも、あまりにもあんまりな戦いに対して物申したい存在はいたらしい。

「ん?」

そうと決まれば善は急げとばかりに閉じた彼の瞼がピクリと揺れる。
幸せそうに寝入らんとしていた彼はどこか困ったように眉を寄せて口を開く。

「う、いやでも、この陽気だよ?」

周囲に聞こえるのは少年の声のみ、けれど彼の様子は確かに誰かと会話しているようだった。しばし耳を澄ませるようにじっとしていたが、やがて小さくため息をつく。

「やっぱりまずいかな、抜け出してきたの」

あれからまだ三日だしなー、とまったく悪びれずに呟く彼はしかし反論するように虚空に目を向ける。

「いや、でも保険医の先生は安静っていってたよ?」

そこには何もなくただきらきら光る木の葉がある。ただそこにあるだけで綺麗なそれを、少年は楽しそうに見ていた。が、やがて目を瞬かせながら首をかしげる。

「ん? いや、安静って安全な場所で静かに動けってことでしょう?」

どこかの誰かに聞いたと思ったけど、はて、誰に聞いたんだったか。
などと阿呆なことを呟いていた少年は次の瞬間身体を硬直させた。心なしか顔が青い。

「……基本的に動いちゃだめなの?」

なにかを懇願するようなニュアンスで呟いた彼は少しの間黙っていたと思えば、やがてせきを切ったように言い訳を並べていく。

「ほら、アトリエのみんなには先生の言う事を聞くように言われてね? なら動いても大丈夫じゃないかと思ってね? でもそもそもからして前提が間違っていたんだ、へー」

ははははははは、と小さく虚ろに笑っていた彼はやがて力尽きたように黙り込む。
そしてぽつりともらした。

「そんな理由があるわけだけれど、みんな許してくれると思う?」

静寂があたりを支配する。否、少年の優秀な聴覚はほんの数秒前から聞こえ始めた遠方からのかすかな足音を確かに感じ取っていた。
それはゆっくりと、しかし確実にこちらに距離を詰めてきている。
それを聞きながら、少年は彼自身信じられないような平坦な声で話し合いの結論を述べた。

「ですよねー」

そして草原は光に包まれた。

※ ※ ※ ※ ※

何故かところどころが焦げたり、凍結してたり切り倒されたりしている草原。
過ぎ去っていく数人の人影をある双子のマナが見つめていた。
歯車にも手裏剣にも見える奇妙な大剣に寄り添うように立つ双子のマナは、先ほど少年が寝ころんでいた場所、丘の上の木の下から彼らの姿を見ている。

ひとりは黒い肌の黒い衣装をまとった少女の姿を持つマナ。
ぴくりとも動かず引きずられていく自らの契約者の姿にため息をついている。
その瞳はどこか険がはいったものだったが、少なくとも憎悪の色はなかった。

ひとりは白い肌に白い装束をまとった少女の姿を持つマナ。
少しばかり手荒な、けれどどこか温かさを感じる少年少女の姿を懐かしそうに眺めている。
その瞳はどこか複雑そうなものだったが、少なくとも悲哀の色はなかった。

ふたりの表情は一見すると無表情だったが、その瞳にはたしかな感情の色があった。
手を取り合って剣に寄り添う二人のマナはやがて顔を見合わせて苦笑した。

ふいに強い風が吹く、草花を舞いあがらせるほどの突風。
道を行く少年少女らの追い風となって、その背を押したその風が消えたとき、双子の姿は既になく。

やがて、その草原には誰もいなくなった。



[28800] 幼年期の終わり 前編
Name: 秋月 桂◆02e75bbd ID:922c878b
Date: 2011/09/30 18:59

硬質な紙がわずかな音と共にめくられる。

質の良さが一目で分かる黒い木製のテーブル、そこに裏返しで並べられた何枚ものカード。
規則性を持って並べられたそれらを、細く、白い指先が絵柄を描かれた表へと返していく。

「…………」

一枚、また一枚。

その指先に淀みはなく、迷いはなく。
ただ淡々と、いっそ機械的なまでの無機質さで作業は続けられる。

作業をするのは未だ幼き少女だった。
後に花開くであろう美しさを秘めた幼い容貌、二つに纏められた金糸のような長い髪、透き通るような白い肌、その手の審美眼がなくとも上質だと分かる黒いドレスとリボン。
今少し成長したうえで社交場にでも立てばさぞかし映えるだろう、間違っても市井の者とは思えぬ、そんな少女だった。

「…………」

そして、その少女は現在、まったくの無言かつ無表情でただ目の前のカードを捲っていた。
捲られたカードに描かれている絵柄は一枚一枚違っていて、同じものはなにひとつない。
吊られた男、恋人、世界、星、死神、正義……番号と共にそれらの絵柄が描かれたカード。それはタロットカードと呼ばれ、主に占いで用いられる特殊なカードだった。

そしてその例に漏れず、少女は現在占いを行っている。

「…………」

占いは少女にとって数少ない趣味の一つだった。
父から誕生日にプレゼントされたタロットカード。
それがどういうものなのかを聞かされて始めた数少ない娯楽。
後は、読書ぐらいしかやることがない少女がそれを始めたのは必然だったのだろう。

占う対象は自分、というより彼女は自分以外の対象を占った事がない。
そもそも占おうにも適当な対象がいないし、必然、誰かを占おうという発想すら湧かない。
例外と言えば少女の両親であったが、そもそも彼女に占いを仕込んだのはその親である。
自然とそういう対象からは外れていた。

「…………」

それに対して少女は特にどうとも思ってはいなかった。
彼女の交友関係は、その手の対人関係に疎い少女自身が自覚できる程に狭いものではあったが、それを不満に思ったことはないし、状況を変えようと思ったこともない。
そもそもからして、少女には友人というものがどういうものかも分からない。知識としてはあっても経験として、前例がないのでピンと来ないのだ。

で、あるからして。

「…………?」

カードを捲っていた手が初めて止まる。
最後に捲った一枚の絵柄を見て、少女の無表情がわずかばかり、困惑に染まった。

「いい出会いが……ある……?」

今まで一度も出した事のない結果に困惑するのも仕方なかった。

そんなことを言われても、と無表情で困り果てる少女の名は、クリスティア・ローゼンクライツ。

代々続く錬金術士の一族、ローゼンクロイツ家の令嬢だった。

※ ※ ※ ※ ※

クリスティアにとって勉強というものは一日の大半を占めるものだ。
午前の勉強、午後の勉強、夕方の勉強に夜の勉強。時間の許す限りの知識を叩き込まれることで彼女の一日は過ぎていく。

それを疑問に思ったことはない。その全てはローゼンクライツの令嬢として恥ずかしくないように、そう言われて、漠然とそういうものなのだろうと思った。

そういう発言を聞く度に、父と母が渋い顔をするのが不思議ではあったが、その理由を尋ねても父はいずれ分かるとしか教えてはくれなかった。それと、根を詰め過ぎるなと。
クリスティアとしても無理をしているつもりはない。そう伝えると父は無言で頭を撫でた。
あの時は前髪が邪魔していたせいで見えなかった為に、クリスティアはその時の父がどういう顔をしていたかは知らない。

そんなクリスティアではあったが、勉強以外の時間がまったくないかと言われれば、それもまた違った。といっても、専ら、それは占いか読書に費やされることになるため、一般的な同年代の子供のものとは些か趣が異なる訳だが。

「…………」

そんな彼女は自由時間を基本的に屋敷の中庭で過ごしている。
少ないとはいえ植物も植えられたそこは、年中の大半を屋敷で過ごすクリスティアにとって唯一自然に触れる事が出来る場所であり、木陰に設置されたベンチに座って読書をすることは彼女のお気に入りの時間の過ごし方だった。

だが、今日の彼女はそうではなかった。というより、そうできなかった。

「…………雨」

自室の窓を叩く雨粒の群れに向かって呟くその声は、どこか恨めしげな響きがある。
たとえ、中庭であっても現在の自分は常のように読書に耽ることはないだろう。なんとなくそれが分かっていても、思うところがない訳ではなかった。

消え入りそうな小さい吐息をひとつ、窓に背を向けて寄りかかったクリスティアの目に彼女の見慣れた自室の風景が映る。

高価であるという事は分かる、けれどそれを感じさせない上品な調度品が置かれた部屋。だが、そもそも自室にごちゃごちゃと物を置くことを好まない主の気性を反映させた様にその部屋には物が少ない。
眠るためのベッド、その脇にある小机とその上のランタン。
部屋の中央にある小さいテーブルと一脚の椅子、そこに纏めて置かれたタロットとお気に入りの小説。

小部屋ならばともかく、一人用の部屋にしては大きい間取りがとられているクリスティアの部屋に置かれた最低限の家具は、その部屋に対してどこか殺風景な印象を与えていた。

そんな風景をぼんやりとみるクリスティアの瞳には光がなかった。常ならばどこか眠そうに見える彼女の碧眼が、艶消しでもかけられたかのようにその輝きを失っている。
それは深く考え事をしている時に出る、彼女特有の癖だった。

彼女の頭の中で同時に展開されるいくつもの思考、常なら最近学んだ錬金術の復習とこれからの予習、ちょうど開いている小説の読み取りなどに費やされるそれらは、今、その大半が同じ事象に割り当てられていた。

「出会い……?」

首を傾げて、視線の先、机の上に置かれたタロットカードを見やる。

かの結果が出てからおよそ三日。
あれから何度占っても同じ結果がでたことがクリスティア悩ませていた。

「何度も、同じ……」

それはつまり、彼女という個人にとってその未来は極めて重要な意味を持つ。強い影響を決定づけるものだという事だ。
同じ結果が出続けるということ、それ自体はクリスティアにとってそうまで珍しいものではない。今までも何度か同じ結果が出るという事はあった。

だが、今回はそれらとは少し違う。

回数が異常なのだ。今までは多くて四、五回。どんなに強い未来でも十には届かなかった。
しかし、今回はそうではない。十、二十ではきかず、何十回と行った全てにおいて同じ結果が出されたのだ。ここまで強い未来を彼女は見たことがない。

まして、そうして出された結果が未知の事象であるということが、クリスティアという少女の精神に波紋を投げかけている。

「…………」

無言のまま、クリスティアは自分の胸に手を当てる。
とくり、とくりと静かに、しかし、常より少しばかり早いように思える鼓動を感じる。

未知の結果。そしてそれが持つ、自分への影響。
それに目を向ける時、クリスティアは自分の心に感じた事のない感覚が広がることに気づいていた。

「…………これは、何……?」

首を傾げるが、答えは出ない。

両親をして、頭の回転は恐ろしく速いが、自らの心の機微には恐ろしく鈍い。そう思われて心配されている事を知らない彼女が、自分がわくわくしているということに気づくのはもう少し先の話である。

※ ※ ※ ※ ※

歩きながら見る町並みはいつも通りに平穏そのものだった。

道行く人にかけられる商人の呼び込み、子連れの親子の楽しそうな会話、値切りを求める青年の声、はしゃぎながら走り回る子供達。

そんな風景の中を一人の少年が歩いていた。

体型に合わせて拵えられた黒いコート、腰に差した刃渡り三十センチほどの木剣、風に揺れるくすんだ銀髪が特徴的な、十に届いていないであろう、年齢を考慮しても小柄な少年である。

手に持ったメモを睨みながら店を探すその様子は、お使いの途中であるという事が容易に窺えて微笑ましい。

「お、先生のところの坊主か?」

「あ……おじさん、こんにちは」

そんな彼に一人の行商人の男が親しげに話しかける。
自分に話しかけてきたその顔を見て、一瞬首を傾げた少年は、しかしすぐに相手が誰かを思い出し笑顔を浮かべて挨拶した。
少年の記憶が正しければ、確か彼は父が贔屓にしている商人の一人だった筈である。

「お使いか?」

「ハウレン草が足りなくなったって父さんが……」

簡易設置式の錬金釜を前に困っていた時の自分の父の顔を思い出しながら少年が言うと、行商人の男は豪快に笑った。

「あの人も案外抜けてるんだなぁ、ハウレン草なら安くしとくが、買ってくかい?」

「うん」

断る理由もないので頷くと、行商人の男は毎度あり、と言って束にした濃緑色の草、ハウレンをまとめて少年に手渡す。
メモにある通りの量なのを確認して代金を渡す。その後で父から渡されたバッグに仕舞うと、再びメモをとって内容を確認した。

「他にもなにかあるかい?」

一通りはあるはずだが、という彼にううん、と首を振って答えると、少年は不思議そうに男の顔を見た。

「どうした、坊主?」

怪訝に思って男が訊ねると、少年はしばらく迷っていたようだが、やがて言いにくそうに口を開く。それは少年が以前より抱いていた疑問でもあった。

「……おじさん達は錬金術が怖くないの?」

「怖い?」

うん、と頷く少年の問い。それを疑問に思う時間は短く、行商人の男はすぐに質問の意図を察した。

「ああ……そういえば地方によっては錬金術は恐れられるもんだったか」

錬金術という学問は決してマイナーな分野ではない。その有用性は広く知られているし、教育機関などを設立して大いに推奨している国も存在する。
が、かといって大陸中の人間が知っているかというとそれも違う。辺境などの地方によっては全くと言っていい程認知されていない所もあり、そういう場所は往々にして排他的だ。
そういう場所にアトリエを作った錬金術士などが歓迎されることは極稀であり、ひどい時には迫害されることもある。

そして、少年の父親は流れの錬金術士であった。
子供達に簡単な錬金術を教えたり、怪我をした人に薬を配ったりと、穏やかな人となりもあって、この街では先生という呼称で慕われている人物だが、いつもがいつもそうだったわけではない。

それは仕方のないことだ、そう言って少年の父は寂しそうに笑っていたが、少なくとも今彼らが逗留しているこの街の人々は、少年達親子に対して驚くほど好意的だった。

「まぁ、俺は行商人だからなぁ。そんなこと気にしてたら商売にならんし……」

頬を掻きながら男はそう言う。研究なんかで使う材料を求める錬金術士という人種は彼のような商人からしてみれば上客といっていい。彼らが買い物をするときは基本的にまとめて色々買っていくので非常に助かる。

「んー、他の人は?」

「そっちは……あれだ、多分貴族様の影響だな」

「貴族?」

聞き慣れない単語なのか、首を傾げる少年の様子に苦笑しながら行商人の男は説明してやることにした。
行商人の男が言うには、この付近に屋敷を構えている貴族が代々錬金術士の家系であり、今代の当主が人格者として知られているらしい。専門の教育機関で錬金術を納めたという彼は、その技術で街に貢献することもあり、街の人からひどく慕われているんだとか。

「ローゼンクライツ家っていえば錬金術士の中でもかなり有名な一族らしい……最も、最近は落ち目だとか色々噂されてたみたいだが」

「そうなの?」

「ああ、今代の当主が盛り返したらしい」

優秀な跡取りってのはいいなぁ、と頷く商人の男。
なにかあったのかな、と首を傾げながら続いて彼に問う。

「ということは、ここの人たちが親切なのは……」

「その貴族のお陰ってこったな……おっと客が来た」

悪いな坊主、とひらひら手を振る彼にお礼を言ってから少年は再び人ごみに紛れる。
メモを仕舞って歩く少年の足取りが少しだけ軽いのは、疑問が解消したことだけが原因ではないだろう。

街の人からの挨拶に笑顔で応えながら少年は父がいる宿へと歩みを進める。

「ん?」

しかし、ほどなくその足は止まった。
立ち止まって一点を注視する少年の目線の先は、街の中に網のように広がる細い路地裏。
正確にはそこにいる一匹の黒い子猫だった。

「…………」

家々の間、太陽の光が壁と尾根に遮られて日陰ができたそこで静かに毛づくろいをしていた猫は、すぐに視線に気づいたらしい。
なんぞ、とでも言いたげな目が、少年の視線と交差した。

「「…………」」

両者、一言も喋ることもなく(片方は当たり前である)、しばし見つめ合う。
何故か流れる奇妙な緊張感。張りつめたそれは両者の間で徐々に高まっていき……、

「…………」

「あっ!」

猫の逃亡という形で収束した。

突然の挙動に驚いた少年は、その目を逃げる子猫の背中と自分の鞄の間で一瞬だけさまよわせる。

「……よし」

葛藤は一瞬。頼まれたお使いより逃げる子猫を取った少年は、全力でその追跡にかかる。
逃げる子猫、追う少年。奇妙な追走劇を始めた彼らの頭にはもはや逃げる事と追う事しかなかった。

その逃亡に理由などない、追われているから逃げるのだ。
そして、その追跡に意味などない。そこに猫がいるから走るのだ。

葛藤の後、お使いという元々の目的をはるか忘却の彼方へと投げ捨て、衝動に突き動かされるように猫を追うその少年。

彼の名はソリス・アウレオルス。

父に憧れその道を志す、未だ幼き錬金術士だった。

※ ※ ※ ※ ※

その日は昨日の大雨が嘘のような快晴だった。
少し暑いくらいの日差しがクリスティアのいる木陰に色濃い黒を刻んでいる。
ベンチの上に座った彼女の目は虚ろで、どこも見ていないその瞳はその目は今日の朝食時に伝えられた事項について向けられていた。

屋敷のメイドによると遠方にいる両親の帰りが予定よりも遅くなるらしい。
機械的に朝食を咀嚼しながらその情報を聞いていたクリスティアは、ただでさえ多忙で予定に忠実な父の、珍しい計画変更に彼がなんらかのトラブルに巻き込まれたことを察した。が、それが心配に値するものではないこともまた、なんとなく感じ取っていた。

というのも、侍女の言葉の端々にどうにもクリスティアが敬愛して止まない“おじ様”の気配があるからである。
空前絶後のトラブルメイカーである彼絡みのトラブルならば大惨事は必至だろうが、少なくとも命の危機などはない筈だ。

そんなことを考えながら無言、無表情で(これが彼女のデフォルトである)口を動かすクリスティアは、自分だけが食事をしているだだっ広い広間を目だけを動かし見渡して、帰ったら、と話していた父と母との食事の約束が遠のいたことを感じた。
かれこれ両親と最後に食事をしたのはいつだっただろうかと考えて、そんなことを思う自分自身に首を傾げる。食事など栄養摂取の手段でしかない筈なのにそんなことを考えた自分を不思議に感じたからだ。

しかし、両親についての心配がいらないのはいいが、父の帰りが遅くなる以上、占いについての相談は当分先のことになるということが確定した。
決して芳しい情報ではないが、こればかりは仕方がない。

胸中、もやもやとした謎の感覚に襲われながら、侍女の報告と今日の予定について、一言だけ返事をした彼女は席を立ったのだった。

その後、午前の勉強を終わらせてから中庭に出たわけだが、どうにも気分は優れない。

いつもならば熱中する小説、『アルレビス学園の快男児伝説 ~正義の味方編~』などにも集中できずに、ただ虚空を見つめて埒もない思索に励んでいる。

先日、その胸中にあった不思議な高揚感も鳴りを潜めつつあった。代わりに現れたのは、先の見えない未来への不安である。
こちらもやはり彼女にとっては無自覚な心の機微であった訳だが、その暗い影響がクリスティアの心に影を落としていることもまた確かなことであった。

はぁ、と息をついて、集中もできない本を開いたクリスティアは、不意に感じた強い風に自分の髪が乱されるのを感じた。開いた本、その上にあったはずのある物が視界から突如として消える。それは最初の占い、その最後に引いたタロットの一枚。
栞代わりに挟んでいた、彼女の悩みの種。

「…………あ」

原因としてはなんのことはない。ただの風によって飛ばされたそれを掴もうとして、その手が空を切る。
唯でさえ日常生活において所作が遅いと言われる彼女には少しばかり無茶な事だったらしい。
仕方なしにのろのろと立ちあがったクリスティアは、飛んでいったカードを探す。
件のカードはすぐに見つかった。
中庭にある、ひと際大きい木。その根本に引っかかったそれは、一転して弱いそよ風に揺れて彼女を待っていた。

かがんでそれをとったクリスティアは不意に、頬を叩く葉の感触を感じて視線を上げた。
彼女の前に立つ木、木漏れ日を漏らしながら輝く葉の群れ、その下を伸びる太い枝、それらを見上げた彼女の視界に、ほどなくしてそれが映った。

「………………え?」

彼女の両親でさえ聞いた事のない呆けた声。

思わず、といった様子でその声を漏らしたクリスティアはきょとんとした顔でそれを見つめる。

その瞬間を、彼女は生涯忘れる事はないだろう。

その木の中でも一際太い枝、そこから垂れ下がる黒いコート、そしてそれに包まるようにして寝ている黒い子猫。

そして、

「……男、の子?」

猫と一緒に幸せそうに寝ている、銀髪の少年。

いつのまにか、彼女の胸中から、鬱々とした感情が消えていた。

※ ※ ※ ※ ※

「クリスティアっていうの? 僕はソリスっていうんだ」

「……そう」

笑顔で自己紹介する少年、ソリスに頷きながら、どうしてこうなったのだろうか、とクリスティアは疑問に思った。

「この子は……なんていうんだろ? 分からないけどいい子だよ」

「…………そう」

胸に抱いた子猫の頬をぐにぐにと指で弄りながらソリスは首を傾げている。対する子猫は鬱陶しそうにしながらも大人しくなっていた。
名前を知らない辺り飼い猫ではないのだろうが、驚くほどにされるがままだった。
元々、猫は警戒心が強い動物の筈だがそんな諸説などなにするものとソリスは子猫を弄り倒している。
本気で嫌なら振り払うのだろうが、どうにも少年はその辺のツボを心得ているのか、むしろ心地よさそうに喉を鳴らさせたりしていた。

「……触ってみる?」

「…………」

じっと子猫を見ていたのをどう感じたのか、ソリスは子猫を持ちあげてそう訊いた。
なんと答えていいのかとっさの返答に窮したクリスティアに、子猫が手渡される。
答えていないにもかかわらず渡すあたり、どうにもこの少年は人の話を聞かないきらいがあるらしい。

「…………」

クリスティアは猫を触ったことがない。というより動物全般に触ったことがない。
獣毛が服につくとかそんな理由で禁止されていた気がするが、聞き流していたのであまり覚えていない。ただそう言われていたからそうしていただけだ。
初めて触った猫はぐんにゃりとしていて生温かくて、覇気の欠片もない無気力状態だった。
柔らかい毛に指を通して撫でると心地よさそうに子猫は目を閉じる。

その様子を見ながら、そういえば言いつけを破ったのはこれが初めてだったか、とクリスティアはぼんやりと思った。
長年守ってきた言いつけを破ること。なんとなく守ってきたことだったからか、それとも両親ではなく侍女に言われたことだったからか、何の感慨もなくそれを受け入れた事をクリスティアは不思議に思う。

だが、目下の子猫の様子を見ていたらそんなこともどうでも良くなってしまった。

そこにあるのは無言、無表情で子猫をなでる金髪の少女という、一種シュールな光景だったが、そんなクリスティアをソリスは笑顔で見ていた。

「猫、いいよね」

「…………うん」

そうして、しばらく子猫を撫でていたクリスティアは、ふと目の前の少年に聞かなければならないことがあるのを思い出した。
半分忘れかけていたことだが、ここはローゼンクロイツ家の中庭である。彼はどうしてここにいるのか、どうやってここに来たのかを聞いていなかった。

「あなたは、どうしてここに?」

尋ねてから、そういえば、目の前の少年が不法侵入者だという可能性があると考えたクリスティアだったが、どうにも警戒する気にもなれなかった。
今更だという事や侵入者が昼寝などするかということもあったが、なんとなく目の前の少年と話しているとそういう警戒心も湧かない。
彼はそういう空気を持っているように思える。警戒していてもいつの間にか笑顔で目の前に立っているような、そんな印象があった。

「うん?」

そんなことを考えられているとも露知らず。質問の意図を読み取れなかったのか、小首を傾げたソリスは、しばらく考え込むように首を捻って、やがてこう言った。

「この子を追いかけて、路地裏や小道を走っていたんだ」

「……うん」

「垣根を潜ったり、塀を飛び越えたり……」

「…………うん?」

「そうしたら、いつのまにかここにいて……」

「………………」

「木に登って降りられなくなっていたこの子を見つけて、助けたはいいんだけど、なんだかそのまま眠くなってしまって……」

「………………それで?」

「そのまま一緒に寝てたんだ」

「………………」

完全無欠の不法侵入者だった。

今日はいい天気だよね、と能天気に言う彼は、そもそも自分がどういう場所にいるのかも分かっていないのだろう、そう思ってクリスティアは、ため息をついた。
同時に、見つけたのが自分で良かったとも思った。侍女の一人にでも見つかっていれば、問答無用で彼は叩き出されていたかもしれない。

「…………ここ、私の家」

「え?」

「私の家の庭」

そう言うと、ソリスは一気に頬を引きつらせた。さすがにそれは不味いと悟ったのである。

「ひょっとしなくても、まずい?」

「とても」

即答すると、彼はいっそ分かりやすくうなだれた。
その様子をクリスティアは、はじっと見つめる。彼女の目も前にいる少年は今まで彼女が会ってきた誰よりも感情豊かだ。それを見ているのは、そう。

(面白い……)

自然と、彼女自身無自覚に、クリスティアの頬が緩む。
ほんの一瞬、かつ極微細なその変化にうなだれていた少年は気付かない。

そしてそんなことを考えていたからだろう。

「……いい」

「え?」

気がつけば少女はそんなことを言っていた。

「……私が許可する。そうすれば……勝手にはいったことにならない」

今までに無い程に長い台詞を言いきった、クリスティアの顔をソリスはきょとんと見つめて、一拍置いて破顔した。

「ありがとう!」

「……いい」

心底嬉しそうなその顔を、何故か直視できなくて、頬に感じたことのない熱を感じながらクリスティアは微妙に視線を反らす。
先程まではその表情をみることが楽しかったのに何故だろうかと内心、首を傾げた。
だが、言っておくべきことを忘れる訳にもいかないので、重要なことは伝えておくにする。

「……でも、このことは誰にも言わないで」

「分かった! 二人だけの秘密!」

許可を出したとはいえ、当主でもない自分の独断である。やはり知られるのはまずいというクリスティアの判断だったのだが。
ソリスの台詞の中に今までの自分とはおよそ無縁な単語を見つけて、思わず訊き返した。

「秘密?」

「秘密!」

笑顔でサムズアップするソリスに釣られて、同じようにサムズアップしながら、今日は初めての事が多いと改めて自覚する。

そんなことをしていたら、いつの間にか時間が経っていたらしい。
遠くから少女の名を呼ぶ声が聞こえた。

「…………」

クリスティアは子猫をソリスへと渡して、立ち上がる。

「家の人?」

「……ただのメイド」

「そっか……」

なら、行かないとね、とソリスは残念そうに言う。
そのまま踵を返して立ち去ろうとする彼の様子を見てクリスティアは目線を下げた。
ただ少し話しただけの少年と別れることを惜しむ自分を見つけて、そんな自分に驚いた。
ソリスが振り向いたのはその時である。

「明日も来ていい?」

「…………え?」

弾かれたようにクリスティアが顔を上げると、ソリスは不思議そうに首を傾げていた。

「まだまだ話したい事がたくさんあるんだ。せっかく友達になれたんだし、また来てもいい?」

「……友、達」

茫然と呟くクリスティアは、しかし、意味を悟るその前に頷いていた。

「そっか。それじゃあ、またね。クリス」

それはつまり、明日もまた不法侵入をするということなのだが、それにも気付いていないのか、あるいは気にしていないのか、嬉しそうに笑むソリスを見て、クリスティアもなんだかどうでも良くなっていた。

そんなことより気になることがあったということもある。

「……クリス?」

「うん、そっちのほうが呼びやすくて友達っぽいかなって思ったんだけど……嫌だった?」

「……クリス」

愛称で呼ばれることなど初めてだったクリスティアは、思わずきょとんとした顔になると、口の中で反芻するように、何度かつけられた愛称を呟いてみた。

「……クリス……私は、クリス」

確認するように口にするクリスティアは不思議な気分だった。どこかふわふわと柔らかい、羽毛のような慣れない感覚。
そのまま浮かび上がってしまいそうなそれはクリスティアにとってやはり初めて感じるものだったが……悪くない。

そう、それは決して彼女にとって不快なものではなかった。

「うん、あ、そうだ。僕の事もソルって呼んでくれないかな」

仲のいい人はそう呼んでくれるんだけど、言い忘れてたよ。
気に入ったらしいクリスティアの様子にほっとしながらそう言って、ソリスは鞄を肩まで引き上げる。

「分かった……ソル」

「うん。それじゃあまたね、クリス」

最後までそう屈託なく笑って、背を向けるソル。

コートを翻して走り去るクリスにとっての初めての友達。

その後ろ姿を、クリスは見えなくなるまで見送っていたのだった。

※ ※ ※ ※ ※

何冊もの本が納められた、一定の間隔で設置された本棚。
棚に陽光が直接降り注がないよう絶妙な位置に作られた窓から、心地の良い風を取り入れたその部屋。ローゼンクライツ家の邸内図書室に異様な風景が展開されていた。

片隅に設置されたテーブルと椅子。その上に広げられているのは高く積まれた錬金術の教本と何十枚にも及ぼうかというゼッテル紙。
机の上に置かれた当初は白紙だったそれも、現在は隙間なく、しかし読みやすいように整然とした文字を書き込まれて横から横へと流され、積まれている。

「………………」

ガリガリガリとおよそ聞いた事もないような連続した音と共に羽ペンが怒涛の勢いで紙面を走り、紙へと筆者の考えを刻みこんでいく。

「…………あ、あの、お嬢様?」

「………………?」

おずおずとかけられた声に反応して、黙々と、一心不乱に文字を書き込んでいたクリスティアが顔を上げた。
クリスティアと向かい合うようにして座っているのは、メイド服を着込んだ、彼女と同い年にも見える気の弱そうな少女だった。メイドでありながら優れた錬金術師であり、普段のメイドとしての業務のほか、クリスティアの家庭教師も任されている少女である。

表情の読めない無表情で少女を見つめるクリスティア。その虚ろな目は彼女の癖を良く知る少女にその思考が現在フル回転していることを伝えていた。
複数の物事を同時に考え、手の届く範囲で同時に実行できる器用さがクリスティアには備わっている。現に、顔を上げながらもその手は些かもスピードを落としてはおらず、少女が出題した考察文の作成に労力を費やしていた。
おそらく会話の為に頭のリソースを回してはいるのだろうが、それにしても少し怖いと、少女は気圧されてしまう。

「えっと、すみません。なんでもないです……」

「………………そう」

再びリソースを振り直して全力で作業に戻るクリスティアの様子に少女は困り果てていた。
元々、少女の使える主は(彼女はクリスティア専属のメイドなのだ)勉学に対して、決して消極的で無ければ、積極的でもなかった。
基本的には言われたからやる、というスタンスを崩さない彼女はそれが本人の興味を引く数少ない分野であるのならばともかく、それ以外に関しては全くと言っていい程に無関心であった。予習、復習も欠かしはしないがそれは決して興味があるからでなく、必要だからしていることに過ぎない(最も、彼女の記憶力を鑑みれば、それすらも本当に必要なのかは甚だ疑わしいが)。

家庭教師としては喜ぶべき生徒なのかもしれないが、知識を吸収する喜びを知ってもらいたいと考える少女にとってはどうにも諸手を上げて喜べない。

そんなことを考えていたのだが。

(なにがあったんでしょうか……)

ここ数日間、クリスティアが見せているやる気に少女はとても驚いていた。
いつもならば淡々と、処理という言葉が相応しいように勉強していた彼女が最近、それこそ全力で勉強に取り組んでいる。

「………………ん」

楽しいから、というわけでなく、処理速度が上がっただけのように思えるのが残念ではあれど、その事情が気にならないと言えば嘘になる。
ちなみに余談だが、元々羽ペンとは使用する都度、ペン先をインクに浸けなければならず、クリスティアがしているような連続使用は不可能なのだが、そこは驚異の錬金術パワーの出番であった。その程度の改造は容易い。

「………………ん!」

「……っ! はい、なんでしょうかお嬢様!」

どこに対するものかも分からない説明と、主の豹変について頭を使っていた少女は、いつのまにか作業を終わらせて脇に立っていたクリスティアに驚いて、思わず声が裏返った。
期せずして犯した自分の痴態に少女は顔を赤らめたが、クリスティアは眠そうな目で首を傾げただけだった。普段は心配に思う主の気性も今はありがたい。
取り繕うように咳払いをして考察文を受け取ると、ずしりと重い紙の感触が少女の腕に伝わってきた。およそその年頃の娘がまとめるようなものでは間違っても無い量、そして、今までクリスティアが示してきた成績からしても薄い内容ではないだろう。

「…………じー」

「………………」

つい先ほど作られた、数十枚からなるそれに軽く目を通し始めると、横から視線を感じた。

「…………じー」

「…………うぅ」

謎の口頭での擬音と眠そうな視線に少女は軽く泣きたくなった。本人にその意図は無いのだろうが、早く読み終われとばかりに急かされているような気がして仕方が無い。
垂れた目蓋の先にあるのは、どういう理由か爛々と輝く碧眼。常に無気力にも拘らず妙に目力が強いクリスティアの視線は少女の精神力をガリガリと削り取っていく。
読み終わるまでの数分をひどく長く感じつつ、考察文を読み終えたときには既に少女は疲れきっていた。

「……えぇっと、要点は大体掴めていると思います。いくつか気になる点はありましたが、それは次回詰めていきましょう」

「……次は?」

「へ?」

「次は、何?」

「は、はい。そうですね……」

見上げた時計の針は既に真上を指さんとしていた。
いつもならばそろそろ切り上げる時間だ。

「えっと、今日はここまでにしましょう」

そう言った途端、クリスティアは普段とは比較にならない速度で、後片付けを始めた。
羽ペンを仕舞い、教本を棚に戻す。てきぱきと作業を行い、いつもなら五分はかけるところを三分で終わらせる。

そしてその様子に呆然とする少女に一言。

「……行く?」

「え、ええ、はい。どうぞ」

この場合、もう言ってもいいか、という意味だと即座に悟って返答すると、呆然とする少女を残してクリスティアは去っていった。

※ ※ ※ ※ ※

「……ということがあった」

「いや、そこはちゃんと受けてあげようよ……」

せっかく教えてくれてるんだし……とソリスが苦笑すると、クリスティアはふいっと明後日の方向に顔を向けた。

「実技の方が好き……」

「うん、それは分かる」

同意するように頷くソリス、横目でちらりとそれを見てクリスティアは静かに、調合、楽しい……と呟いた。

初めての邂逅から一週間ほど経った頃の話である。
やはり屋敷のものにばれるのはまずい、という結論に達した二人は、ならばばれなければいいといっそ分かりやすく開き直り、こうして隠れて交流していた。
午前の授業終了後の昼休み、午後の授業終了後の夕方、クリスティアの都合上、一日の時間の隙間を縫うような時間だったが、それでもソリスは毎日欠かさずクリスティアの元に来ていた。
都合の方は大丈夫なのかとクリスティアは不思議に思ったが、ソリスとしても親の手伝いのほか、やることといったら錬金術の勉強ぐらいである。特に問題はなかった。

「自習で出来る事なんて座学ぐらいだしね……」

「ご法度」

国の法律において、専門の教育機関で教育を受けていない民間人による調合は違法である。なので、ソリス一人でできることといったらそれぐらいしかない。
正式な認可を受けた錬金術師の元ならそれもまた違うのだが、ソリスの父は兎角に忙しいので指導に回せる時間も少ない。
ちなみに、お互いの親が錬金術士だと二人が知ったのもこの話題が出た時である。

「……どかーん」

そう呟きながら、クリスティアは自分の手元にある指と指の間にはさめる程度の大きさをもつ赤い球体を指で弾いた。
放射線を描いて放られた球体は、地面に落ちる前にパンッという軽い音と共に弾けた。
火花とは違う、わずかな閃光と共に炸裂したそれは、ソリスが持ち込んだ爆竹フラムというお遊びのアイテムである。
錬金術の練習として作った、子供に直撃させても怪我を負わない安心仕様だ。

「……こっちの方が錬金術らしいって、誰かが」

「僕も似たようなことを聞いた覚えがあるよ」

錬金術は派手でないと、と言っていたピンク色の女性を脳裏に浮かべてクリスティアが呟くと、ソリスもまたその言葉に既視感のようなものを覚えた。
案外、似たような人はそこらへんにいるのかもしれないと二人は思う。


そうして、他愛もない話をしていると、遠い空の果てに太陽が沈んでいくのが見えた。


「そろそろ、行くね?」

そういってソリスは腰を上げようとして、不意に袖を掴む小さい手の存在に気づいた。

「……ソル」

「クリス? どうしたの?」

座ったまま、上目遣いに見上げてくるその相貌はいつも通りの無表情。
だが、赤い夕日に照らされた、ここ最近で急速に見慣れたその顔に、どこかいつもとは違うなにかを感じて、ソリスは内心で思わず身構えた。
根拠はない。しかし、彼自身が強く信頼する直感が彼にそれを促したのだ。
これから行われる問答がクリスティアにとって重要なものであると、彼は深いところで理解していたのかもしれない。

「ソルは……お父様とお母様のことは好き?」

だが、それとは裏腹に、クリスティアが提示した問いは彼にとって即座に解答できるものだった。

「好きだよ」

即答したソリスの様子に、クリスティアは少しの間黙っていた。
じっと、ともすれば睨んでいるようにも思える強い視線は、しかし、相反するようにもろく崩れてしまいそうな弱さを宿して揺れていた。

「……そう」

そして、その瞳を見ていたからだろうか、ソリスの胸に、その問いかけが浮かんだのは。

「クリスは?」

「……?」

「クリスは、クリスのお父さんとお母さんのことは好き?」

「…………」

問い返された少女は再び黙りこくった。
それをソリスは咎めることも、急かすことも無い、が、少しばかり意外には思っていた。

(即答できるとは思わなかったけど……)

ソリスがクリスティアと出会ったのはごく最近のことだ。一日に会える時間も少なく。交わした言葉は決して多いとは言えないかもしれない。

だが、その少ない交わりの中でも分かることがある。
否、たとえまったく言葉を交わしたことが無い人間がいたとして、今の少女の様子を見れば、嫌が応にもそれを理解できると断言できた。

「私、は……」

「好き、だけど……」

そう。

「けど?」

「お父様とお母様は……私の事、好きじゃないかもしれない」

そう、不安に揺れるその瞳を見れば、少女が両親のことが大好きなのだろうということは、すぐにでも分かることだった。

「どうしてそう思うの?」

「それは……」

感情の振幅が激しい、長らく心に沈んでいた考えが噴出している。
だからこそ、先ほどは即答できなかったのだろうとソリスは考えた。
自分は感情が薄い、といつだったか、クリスティアは言ったが、彼からしてみればそれこそまさかである。
無表情であるからこそそういう印象が形作られたのかもしれないが、ソルはこれほどまでに感情豊かな人物を知らない。

「あんまり会えないから?」

「……それもある、けど」

そして、だからこそ、それに揺れ動いている時にこそ友達とは力になってあげるべき存在なのだろうかとソリスは考えるのだ。

それは少年が抱いたひとつの決意であった。
家庭の事情にはあまり深く立ち入るべきではないとも聞いたこともあるが、これぐらいは許されるだろう。
なにより、この状態のクリスティアを放っておくわけにもいかない。

そう思って、ソルは再び姿勢を正し、

「私は……可愛げがない」

「…………うん?」

疑問符が漏らした。

「……私のように、あまり感情を表に出さないのは、あまり……好ましいことではないらしいから」

「…………」

彼としてはどうにも肩透かしを食らったような気分であった。
目の前の少女がコミュニケーションという面でひどく不器用どということは、ソリスとしても薄々感じていたことではあったが。

「……私と話す人は、あまり楽しそうではないから」

「ご両親も、そうなんじゃないかって?」

「………………ん」

「うーん……」

いつもより若干長めの間を置いて頷くクリスティアを前にしてソリスは腕を組む。
どうにも想像以上に彼女は自分の在り方を気に病んでいるらしかった。
訊けば、クリスティアという少女は生まれてこの方、ずっと今の様な性格、態度で日々を過ごしてきたらしい。ならば当然、彼女の両親はこの彼女の性格と数年来、世界中において最も長い間付き合ってきたことになる筈である。
最近友達となった自分ですら気付いた彼女の内面、それに気づかないということがあるだろうか、とソリスとしては甚だ疑問に思うわけだが、それを説明しても彼女は納得しないような気がした。

それを察することが出来る程度にはソリス・アウレオルスという少年は聡明だったと言える訳だが、しかし、かといって即座に妙手が浮かぶほどに彼は子供離れした思考能力を保持していた訳でもなかった。
それを求めるのは年齢という点で見てもあまりにも酷であったろうし、そもそも、彼自身はあまり自分が説得等の話術に長けているとは思えなかった。

そして、それはある意味どうしようもなく的を得ている。

「……言いたいことは分かったよ……でもね、クリス」

彼は間違っても言を弄して結果を掴める小器用な人間ではない。むしろ愚直に素直に言葉を並べる事しかできない不器用な、ある意味これ以上になく子供らしい子供だった。

そして、だからこそ、

「僕は好きだよ? クリスの事」

素直に自分の考えを伝える事にしたのだ。

「え…………?」

「クリスの話を聞くのは楽しい。話を聞いてもらうのが嬉しい」

ゆっくりと、心に浸透するような声にクリスティアは息をのんだ。

「………………っ」

「いっしょにいると、なにか落ち着く。もっといっしょにいたいと思う」

斜陽が赤く、彼の背からあふれ出していた。
夕焼け空を背にそう言って笑むその顔をクリスティアはどこかで見たことがある気がする。

「自身がないっていうのは伝わった。でも……可愛げがないとか、そんなことはないと思うんだ。ほんの少し前に友達になった僕が思うくらいだから。だから……」


きっと、クリスのお父さんも、クリスのことが大好きだよ。


その声を訊いて、クリスティア無性に泣きたくなった。
そう、彼女はその笑みを知っていた。思い出せないようないつかの日、確かにそれを見たことがあった。向けてきた人間は違う。顔は似ても似つかない。

けれど、

どうしようもなく優しくて自然と身を任せたくなるようなその温かい笑みは。

かつて両親が自分を抱きしめてくれたときに向けてくれたもので……クリスティアがなにより大好きだった笑みだった。

「…………滅茶苦茶」

理論もなにもありはしない、支離滅裂だとそういった。
俯いた顔、開いた口から出たその言葉を、涙混じりのものにしないようにクリスティアは苦心した。

今出すべきはそんな声ではないと、彼女は思った。

「でも……ありがとう」

間違っても、お礼の言葉に涙があってはいけないと思ったのだ。

※ ※ ※ ※ ※

ごみごみと物で溢れかえる店内。
ただでさえ狭い建物の中は並べ立てられた棚や床にいくつも置いてある壷や奇怪な装置などでさらにその面積を縮めていた。
足の踏み場もない、とまでは言わないが、ただ振り返ることすら難儀しそうなそこでソリスは目的のものを探して棚を漁っている。

「……後ふたつ」

陰鬱に呟いてメモを覗き込む彼を斜陽が照らす。

先ほどまで、友人の相談事を終えた彼はそのまま家路に着かんと歩いていた。
思い悩む友人が、他ならぬ自分に話してくれた悩み事。ソリスとしてもう少し気の聞いた言葉の一つでもと自分自身のボキャブラリィに絶望していたのだが、クリスティアからしてみればそれでも十分だったらしい。
去り際の彼女の無表情の中に少しだけ笑みが混じっていたように思えた。
不出来な自分の言葉が、少しでも彼女の力に慣れたのなら彼としても嬉しく思う。

そんな風にさわやかな気分で屋敷を後にした彼が、自分のポケットの中に入っているお使い用メモ用紙に気づいたのは、彼が父の古い友人兼家族に出会ったからであろう。

黒い体毛にしなやかな身体、彼にしても馴染みのある一匹の黒猫。

彼が先日追いかけた猫よりも二周りほど大きいそいつはソリスにとって父親の飼い猫という意味だけを孕む存在ではない。
彼が生まれてから毎日欠かさず顔を合わせていた大切な家族である。

当然のごとく笑顔で挨拶しようとしたソリスだったが、そこでその猫から、連鎖的に父の頼みごとを思い出して青ざめる。
温和な父のこと、叱り付けるような真似はしないだろう。しかし、むしろだからこそそれが心に痛いものとなることはソリスも簡単に予想がつく。

故にこそ、どことなく仕方の無いものを見るような黒猫の視線に促されるようにして、ソリスは馴染みの商店へと駆け込んだ。

そして、今に至る、のだが。

「…………ない」

目的のものが中々見つからない。

「そこの棚にないかい? 昼間にはあったと思うんだがなぁ……」

売っちまったかもねぇ、とカウンターで肘をつく中年の店長の言葉がソリスの胸に刺さる。
次からは用事を済ましてから遊びに行こうと考えるも、後悔は先に立たない。時間ばかりが無常に過ぎていく。

その時だった。

「店主、この鉱石はいくらだ?」

若い男の声だった。

思わず振り返るソリスの目に映ったのは、草臥れた衣服を纏った一人の青年。
白髪交じりの黒髪に彫りの深い顔立ち。精悍な顔立ちではあれど、どこか疲れたような雰囲気も相まって、三十台ほどであろうその横顔は、しかし、まるで老人のような印象を残す。

しかしそんな男の風体などソリスの目には入っていなかった。

彼の視線を釘付けにしていたのは男が持っている鉱石。
白く濁った色合いのその鉱石は今まさにソリスが探していたものだった。

「あ!」

「……ん?」

思わず声を出して指を指すと、首を傾げた男が振り返った。
そして、自分を見つめる少年が指差すものに気づいて、手の中にある鉱石に目を落とす。

「「…………」」

ソリスと男の沈黙が重なる。

ソリスとしては思わず指差してしまったものの、まさかそれを下さいと平然と言えるほど神経が太い訳でもなく硬直。
男としても、状況がいまいち読めなくて途方に暮れるしかない。目の前の少年は自分を指したまま硬直したままであり、まさか無視して鉱石を買うのも気が引ける

完全に停滞した雰囲気を察して声をかけたのは、そのどちらでもない声だった。

「あー、お客さん……」

頭をかきながら言う、店の店主はなんだかとても面倒臭そうだった。

「その石なんだがな? 申し訳ないんだが、そこの坊主に譲ってやっちゃあくれないか? その坊主そいつを探してかれこれ一時間はそこにいたんだわ」

他のものはサービスしとくからよ、と言う店主の声に男がようやく再起動を果たす。

「あ、ああ。俺は構わない。必ずしも必要と言うわけでもなかった」

そういって鉱石を差し出す男を前にソリスはと惑った。

「えっと、でも……」

「餓鬼が遠慮なんかすんな、そこのお客さんはいいって言ってんだろ」

ひらひらと手を振りながら言う店主に苦笑して男は言う。

「店主の言うとおりだ。遠慮せずに受け取ってくれ」

ほら、と握らされた鉱石が手の中できらめく。
少し申し訳ないような気がしたソリスだが、この期に及んでごちゃごちゃ言うのも気が引けた。おとなしく受け取ることにする。

「えっと、ありがとうございます」

「別に構わないが、少年はお使いか?」

年のころから見てもソリス自身が錬金術士であるようには見えなかったのだろう、男の疑問に頷いて答えるにそうか、と彼は微笑んだ。

「その坊主の親父さんが錬金術士なんだよ、坊主は見習いだったな?」

時間も時間だからか閉店の準備を始める店主が口を挟む。
得心したように頷く男は少しだけ嬉しそうだった。

「おじさんも錬金術士なんですか?」

「……ああ、昔かじっていた程度だがな。といっても落ちこぼれだったが……」

「へー」

その言葉にソリスは目を輝かせる。
付け加えられた言葉はあっても、彼にとって錬金術士が憧憬の対象であることに何ら代わりはなかった。いずれ自分もと志している身としては憧れざるを得ない。
が、それを受ける男は少しだけ居心地が悪そうではあった。

そして、男は取り繕うように口を開く。

「錬金術は好きか?」

そうして発せられた言葉は、しかし、紛れも無く真剣そのものであった。
ソリスはそこに込められたなんらかの意思を感じ取ったが、それがどういうものなのかは分からない。
だが、それが男にとって重要な意味を孕むものだということは察することができた。

「とても!」

しかし、仮に、どんな事情があったとしても、ソリスの返答は変わらなかったのだろう。
それは彼が歩んできた人生を鑑みても断言できた。錬金術士、それを目指す以外の未来などその少年にはどうしても考えがたいことだったのだ。

「……そうか」

なにか眩しいものを見るような目でソリスを見て、男はその頭をなでた。
そして何かをかみ締めるような顔をすると、おもむろに踵を返す。

「話ができてよかったよ。ありがとう少年」

「……こっちこそ、ありがとうございます」

一瞬、きょとんと目を瞬かせたソリスは、すぐにお礼の言葉と共に頭を下げた。
彼からしてみれば訳が分からないといえばそうなのだが、どうにもあの男にとっては大切なやりとりだったらしい。よく分からないが力になれたなら良かったんじゃないかと彼は思う。背を向けたまま手を振る男は、そのまま店を出て斜陽に満ちる外へと消えていった。

「なんかいい話で纏まったところ悪いが……坊主、必要なものは後ひとつあったんじゃなかったか? もう店閉めるぞ?」

呆れたような店主の声に少年が自分の仕事を思い出す。
うぇっ! という奇怪な声と共に飛び跳ねたソリスに店主は溜息を吐く。

「マジで忘れてたのか……今日は早めに閉めるってお前が来たとき話しただろうが……」

「なんで今日だけ!?」

タイミング的に最悪と言わざるを得ない。
気まぐれとか答えるようなら断固抗議の姿勢を崩すまいと心に決めつつ、棚漁りを大慌てで再開させた少年の様子に店主は再び溜息を吐いた。

「なんでってお前、そりゃあ……ああ、そういえば坊主は知らなかったか。明日は祭りがあんだよ。だから今日は早いんだ」

「…………祭り?」

なにやら興味深い単語が聞こえて振り返ったソリスに、手ぇ動かせ! と店主の怒鳴り声が飛んだ。

※ ※ ※ ※ ※

「……それは収穫祭のこと」

「収穫祭?」

いつも通りの無表情で言うクリスティアの言葉を鸚鵡返しにしてソリスは首を傾げた。
木漏れ日の木の下、向かい合って座り込み、日課の雑談に興じていたソリスが不意に持ち出した話。それを聞いたクリスティアは自身の頭の中にある知識と照らし合わせて淡々と述べていく。

「年に二度、春と秋においてこの街ではその季節の収穫を祝う祭りが開催される……」

「へぇ、だから人通りが激しかったんだ」

こくりと頷くクリスティアであったが、正直な話、彼女もそこまでその行事について詳しいわけではなかった。
頭の中にその知識は豊富にあれど、経験を伴っていない以上、彼女はそれについて十分な理解をもっているとは言えないと考える。

世間一般においてアトリエに引きこもってばかりの印象がある錬金術士ではあるが、実際のところそれは正しいとは言い難い。
ただの学者であるのならともかく、実験に使う材料を自力で集めることの多い錬金術士にとって、フィールドワークとは慣れ親しんだサイクルである。
実際に目で見、手で触れ、耳で聞くことは彼らにとって書物では得られない貴重な経験であり、新たなる発想の始発点だ。ただの学者よりもよほど実践的な人種と言える。
加えて、店では売っていないような物を手にするためとはいえ、武装し、薬品を揃えて森や洞窟に分け入り、モンスターと戦う彼らはともすればそんじょそこらの国の正規兵よりもよほど強い。この事実が彼らを頭でっかちという言葉とは無縁であることを表している。

そして、一時期は没落していたとはいえ、錬金術という分野において名門と呼ばれた家で育ったクリスティアにとっても、本を読めば理解できたといえるなどという考えはなく、それが間違いだと教え込まれてもいた。

「つまるところ?」

「私は行ったことはないけど……いつか経験のひとつとして体験するべきかも知れないということ」

要するに行ってみたいらしい。
いつか、というその瞳が(無自覚なのだろうが)きらきらと輝いている様を見ればいかにクリスティアという少女がその時を楽しみにしているかがよく分かる。
無表情のままというのが些かシュールではあったが、ソリスからしてみればいつも虚空に投げかけられている少女の視線が生き生きしているのを見るのは中々に楽しい。
いってみれば小動物じみた微笑ましさがある。

「お祭り……ね……」

淡々と、しかし常の彼女には無い、明らかな熱を感じさせる説明を聞くソリスの胸に、言いようの無い悪戯じみた感情が湧き上がっていた。
渦巻くそれらはやがて形を成して、ある計画の様相を呈す。

「ねぇ……」

ソリスは祭りというものを経験として知らない。それは彼とその父が根無し草として各国を放浪するなか、そういう機会に恵まれなかったことに起因する。
だが、話を聞く限りではひどく面白そうだとは思った。同時に、気になった。
これほどまでにその時を楽しみにする、無表情ながらも好奇心旺盛な彼女がその祭りに参加する時、クリスティアはどのような顔をするのだろうか?

湧き上がった感情の正体など単純にして明快だ。
好奇心、目の前の少女が見せているそれとなんら変わらない。

「お祭り。言ってみない?」

「…………え?」

それはクリスティアという少女が屋敷の者のいいつけを再び破ることを決めた、その前日の出来事だった。


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