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[29700] Master Bra!【マスター・ブラ!】 (未来⇒現代へトリップの、ブラ絡みなファンタジー物語)
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/29 00:46
【あらすじ】
16歳の少々勝気な女子高生、久住理子が自宅近くで偶然出会った超タイプの男、コウ。
マイペースな 【 マスター・ブラ 】 のコウにいいように振り回される、ちょっぴり哀れな少女の、
基本はコミカルで時々超~シリアスな、〝ブラ de ラブファンタジー〟物語。

◇自サイトにも掲載しています

◇ジャンルはおそらく恋愛ファンタジー。
 物語の展開上、ブラジャーの話題がちょくちょく出ますが、そんなにエロくはないです、多分。

 ・溺愛
 ・年の差あり
 ・二重人格




[29700] Chapter1 : Dramatic love! 【1】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 09:10

 ―― 運命の日の朝は完璧すぎるほどの晴天だった。
 
 雲ひとつ見当たらない爽秋の空。
 愛犬のミニチュアダックスフンド、ヌーベル( 愛称・ヌゥちゃん ) との散歩の足取りが、最近はとても軽い。

「ヌゥちゃん、ちょっとそんなに急がないでってば!」

 はしゃぐ愛犬がかなりの勢いで引っ張るリードをしっかりと握り締め、小走りでその後を追う。ショートヘアーの柔らかい髪の毛が、走るリズムに合わせてふわりふわりと何度も大きく揺れた。
 現在子犬に引きずりかけられているこの少女、久住理子くずみりこは、水砂丘みさおか私立高校の二年生。毎朝六時に起きてこのやんちゃなヌーベルを散歩させるのが日課だ。
 
 ……うん、今日もひんやりとしてとっても美味しい! これがマイナスイオンの味なのかな?

 十月の爽涼とした秋風。その心地よさと爽快感にひたる。
 まだ早朝のこの時間帯は外を歩く人もまばらで、公園内は清々しい気配に満ち溢れている。冷たい空気の中に溶け込んでいる陰イオンを胸いっぱいに吸い込んでみると、身体の細胞が内部から次々と活性化していく様子が体感できるような気がした。
 散歩コースにしているこの公園で出会う人々は、大抵決まった顔ぶれだ。その顔馴染みの人々といつものように軽い朝の挨拶を交わし始める。

「おはようございまーす!」

 公園に入って最初に挨拶をしたのはどちらも少し太め体型の熟年夫婦だ。二人共ふぅふぅと息を切らせ、額から滝のような大量の汗を流している。
「おう、おはようっ」
「あら、お嬢ちゃんおはよう! ワンちゃんもおはようね!」
 ヌーベルも嬉しそうにワン、と答える。
 健康促進のためなのか、はたまたダイエットのためなのか、この夫婦はいつも揃いのジャージ姿でジョギングに励んでいる。

「おはようございまーす!」

 次に出会ったのは、こんな早朝からきちんとスーツを着込んでいるにもかかわらず、どこかくたびれた様子の眠そうな中年サラリーマン。
「……あぁ、おはよう……」
 いつもこんな時刻に安息の我が家から職場という名の戦場に出動中ということは、この男性の戦いの場はかなりの遠方にあるのだろう。
 負債を払い終わる頃にはすでに戦死リタイアしているのでは、と焦燥させる、一般人には気の遠くなるようなホームローンでも組んでこの郊外に家でも建てたのかもしれない。
 トボトボと歩くその足取りと背中に深い哀愁が漂っていて、何だかとても痛々しく見えた。

 ちゃんと朝ごはん食べているのかなぁ……?

 余計なお世話だということは充分に分かってはいるが、そんな心配をしながらその後姿を見送る。すぐに次の顔見知りが現れた。
「あっ、おはようございまーす!」
「おはようさん。あんたはいつも元気だねぇ」
 朝食前の時間を持て余してここに散歩に来ていると思われる、どことなく物憂げな顔の初老の男性が感心した顔で理子を眺める。
「はい! それだけが取り柄なんです!」
「そうかい、そうかい。それはいいことだ」
 老人はうんうん、と頷く。理子を見る眼差しは可愛い孫娘を見るようなそれと同じで、皺だらけの顔にさらに多くの皺を寄せ集めて老人はゆったりと微笑んだ。

 現在、理子が顔馴染みになっているのはこの四人だ。
 欲しかった念願の小型犬をようやく買ってもらい、こうして早朝に公園に来るようになってからもうすぐ一ヶ月が経とうとしている。だが、理子はまだ自分と同じ年頃の人間をここで見かけたことが無い。

 やっぱり皆、この時間はまだ寝ているのかな。

 そう思いながら公園内にある大きな池を一周し始める。周りを見渡してもやはり同い年ぐらいの人間は一人も見当たらない。しかしヌーベルが来る前は、自分もこの時間はまだベッドの中でグッスリと熟睡中だったことを思い出して、心の中で少し笑った。

 その時、前を走っていたヌーベルの足取りがさらに速さを増す。
 がくん、と一瞬身体が前のめりになった。慌てて理子も速度を倍に上げる。
「ちょっとヌゥちゃんってば! そんなに急がないでゆっくりお散歩しようよ!」
 だが、前方に大いに自分の興味を惹く対象物を見つけてしまったヌーベルは、飼い主の命令など何処吹く風、といった様子でどんどん先へと突き進む。

「ちょっとヌゥちゃん!」

 握っていたリードを力をこめて引っ張った。青いリードがピン、と一直線に張り詰める。
 細く非力な理子ではあるが、さすがにミニチュアダックスフンドを抑えることぐらいは何とか出来る。強引に止められたヌーベルはクゥンと寂しそうな鳴き声を一つあげ、恨めしそうに飼い主を見上げた。そして「ほら見てみなさい」と言いたげに少し離れた池のほとりにフイと鼻を向ける。
「なに? ヌゥちゃん、あっちに何かあるの?」
 ヌーベルの見ている方向に理子も目を向けてみる。

 ―― あ……


 理子は何度か目を瞬かせた。でもそれは幻ではないようだ。何度瞬きをしてみても目の前のその光景は変わらない。
 約六十メートルほど先にある、池の側に設置された背もたれ付きの大きなウッドベンチ。そこに若い男が腰を掛けていた。手には何かの雑誌を持っており、熱心にそれを読みふけっているようだ。遠目だったが、目を伏せて雑誌のページを見つめるその横顔はなかなか整った顔をしている。


 ……う、うわぁ、朝のこの公園で初めて若い人見た……。しかもあの人、ちょっとかっこいいかも……!


 早朝にこの公園に来るようになって初めて出会った若い人間、しかも異性。プラス素敵。 さらに倍率ドンというところか。だから鼓動が意思に関係なく段々と早まり始めているのも、当然と言えば当然の成り行き。
 ヌーベルが “ ねぇねぇ理子ちゃん、あの人にも挨拶してみようよ! ”と言いたげにワン、と強く吠えた。
「う、うん、分かったからゆっくり行こうね、ヌゥちゃん」
 飼い主の言葉にヌーベルはその胴長の体をブルン、と一度だけ大きく震わせる。まるで「了解しましたよ」と答えたかのようだ。ヌーベルがまた急に走り出さないようにリードに気を配りながらも、少しずつ距離が縮まっていくその人物に遠慮がちに、しかし何度も熱い視線を注ぐ。


 ―― どどどどうしよう! やっぱりかっこいいよあの人……!


 なぜか一番最初に頭に浮かんだ彼のキャッチコピーは 【 優しい、らいおん 】。
 髪の色は鮮やかなレッドブラウン。少々大胆なカラーリングだ。羽織っているハーフコートが黒なので余計に際立って見える。
 少々クセのある髪なのか、わずかにウェーブがかった長めの髪はトップからサイドにかけて緩やかに流れていた。
 傍らにはコーヒー缶がある。
 でもその缶が今時あまり見かけないロングサイズ缶なので、この人物が甘党なのだということがそこから伺えた。
 少しずつ狭まる距離。深呼吸をし、落ち着け、落ち着け、と自分に暗示をかける。


 女の子を幾つかのタイプに分類した場合、理子はボーイッシュ系に属する少女だ。
 身長百六十五センチ。ショートカット。ちょっぴり男勝りなはつらつとした性格。 
 しかしボーイッシュ系でもそこは十六歳の乙女らしく、彼氏がいたらいいな、とは時々思っている。


 ……というのは嘘で、本当は“ 時々 ”どころか、“ 常々 ”、“しょっちゅう”、“ 全時間 ”、“オールタイム ”で熱望している。


 だが身体の凹凸こそかなり少なめなものの、くりっとした瞳に真っ直ぐに通った鼻筋、そしてきめ細かな肌を持つ理子の容貌を見れば、「素敵な彼氏をゲット!」という野望は傍から見るとあっさりと達成できるのではないかと誰もが思うところだ。


 だが現実は悲しいかな。
 素敵な異性との遭遇率が極端に悪いのか、元々縁遠い呪われた体質なのか、理子は「あぁんかっこいい彼氏が欲しい~!」と今日もどこかの中心でまだ出会えぬ恋人を求める日々を送っている真っ最中だ。
 しかも乙女ゴコロは複雑なので、出来れば恋の始まりは劇的に始まりたい、という願望が理子にはある。重要キーワードはズバリ、「 ドラマチック + カッコイイ 」。


 幾つか凡例を挙げるならば、
「食パン咥えて必死に走っている所を死角から走ってきたカッコイイ男の子と衝突して、始まっちゃう恋愛」、
「傘を忘れて雨宿りしている所にカッコイイ男の子がそっと差し出してきた傘がきっかけで、始まっちゃう恋愛」、
「小さい時から仲の良かったカッコイイ幼馴染が実は自分をずっと思っていてくれたと分かり、始まっちゃう恋愛」
 なんていう、とにかく「カッコイイ」が入った、ワンパターンストーリーの一場面ような恋愛願望、ウルトラドリームを持っていたりするのだ。


 だが現実に即して考えてみると、
 食パン咥えて人の往来が多い通りを疾走なんて真似は恥ずかしくて出来ないし、
 最近は秋晴れが続いていてこのところ雨もなかなか降らないし、
 ましてやカッコイイ幼馴染なんていう存在もいない。


 だからこそ今のこのシチュエイションは理子にとってまさに千載一遇の好機であり、チャンスの女神の前髪がまるで南京玉すだれのように目前に垂れ下がってきた、と言っても過言ではない。是非ここでその長い前髪すべてを引っこ抜いてスキンヘッドにするくらいの勢いで、力強くがしっとチャンスをつかみたいところだ。





[29700] Chapter1 : Dramatic love! 【2】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 09:33

 再び熱視線を池のほとりに向ける。
 長い足を組んでベンチに座っているその男は完全に手元の雑誌に目を奪われている。理子やヌーベルがどんどんと近づいているのにその気配に気付きもしていない。

 乙女は一人、激しく悩む。
 現在、理子の頭の中は乙女の超妄想ファンタジー回路(※夢見る十六歳仕様)がバリバリに発動しまくっている。この妄想回路は物凄いスピードで急速に拡大し、シムシティ並みに更に大きく発展中だ。
プレイ、スタート。

(……う~ん、どうしよう、気付いてくれないから「おはようございます!」って声かけづらいなぁ……。でっ、でもここで臆しちゃダメだよね! まずはきっかけ、そうよ、きっかけを作らなくっちゃ! えっと、まずは元気よく挨拶をするでしょっ、そしたらきっとあの人も「おはよう」って応えてくれるわよね、優しそうな顔しているし! で、挨拶が終わったらあの人がふっと黙り込んで私の顔をじーっと見て、「君、今時間ある? もしあるんだったら、良かったらここに座ってちょっと話でもしないか?」なんて誘ってきてくれたりしたら素敵よね! それで話も思い切り弾んじゃったりなんかして、でも学校があるから「じゃあそろそろ……」って私が帰ろうとしたら、あの人が「ちょっと待ってくれ」って私の手を掴んで引き止めるの! そして「参ったな、俺、君のこと本気で気に入ったかもしれない」っていきなり告白っっ! 人生十六年目にしてとうとう私も念願の初彼氏をげぇぇぇぇっと! なーんて展開になったら、あぁ、もう最高にロマンチックだなぁ……!)

 ―― 見よ。

 遊戯開始時は豆粒ほどだった妄想都市は、このわずか数秒で地方小都市クラスにまで発展を遂げている。しかもそれはまだまだ大都市クラスにまで成長する気配を見せているのだが、残念なことにベンチまではもう目と鼻の先。よって、【 理子の妄想シムシティ 】は一旦ここでセーブ。男の視線は相変わらず雑誌に釘付けだ。

 あの人ってばさっきから随分熱心にあの本を見ているよね……。一体何の本を見ているのかなぁ……?

 それは可憐な乙女の胸に湧き起こったちょっとした好奇心。もちろん若さゆえ、ためらわずに実行だ。
 現在歩いている道から一旦横にずれて、もう一本あるベンチの後ろ側の道に移動してみた。そして男の側に近づき、後ろからそっと手元の雑誌を覗いてみる。

「いぇぇぇぇぇぇぇぇッ!?」

 雑誌の中身を見た理子の口からなんとも奇妙な叫び声が上がった。
 その声に男が振り返る。
 赤茶系のミディアムヘアは昇る朝日に照らされてさらに赤みが増して見えた。その姿はどことなくだが赤いたてがみを持つ若い雄ライオンを彷彿とさせる。だが鳶色の瞳は優しそうな光を湛えていて、百獣の王に例えるにはそこはあまり似つかわしくない部分かもしれない。
 至近距離であらためて見ると、童顔気味ではあるが少し下がり目の柔和なその顔つきは、横からだけではなく、正面から見ても確実に二枚目の部類に入る顔だ。確実に。

 顔を強張らせ、固まってしまっている理子を男は不思議そうに見つめている。
 すかさずヌーベルが男の足元に駆け寄り、挨拶代わりに一度だけ吠えた。すると男は身をかがめ、優しい眼差しでヌーベルの頭をゆっくり二度三度と撫でる。頭を撫でられたヌーベルはちぎれんばかりに短い尻尾を何度も振り、ハッハッと荒い息を吐きながらその喜びを全身に表し続けている。
 男はもう一度後ろを振り返り、雑誌から理子に完全に視線を移した。

「おはようございます。可愛い犬ですね。貴女はこの辺りにお住まいなのですか?」

 それはとても慇懃な挨拶だった。
 穏やかな声に丁寧な言葉遣い。ジェントルマンの資質は十二分にありそうだ。
 しかし理子は引きつった表情のまま、まだ動けない。
「もしかしてご気分が優れないのでしょうか? 顔が赤くなってますよ。大丈夫ですか?」
 男は心配そうな表情で理子を気遣う。
「っ、っ、っ……!」
 真っ赤な顔で何とか声を出そうとしたが、腹話術人形タロー君のようにただ口をぱくぱくさせるだけ。でも操作してくれる相方が横にいないせいでカッコつかないことこの上ない。そんな理子の様子に男は微笑んだ。
「変わったお嬢さんですね」
 笑うとさらに幼く見える。ライトフレグランスをつけているようで、ほのかに香るそれはマスカットの香りによく似ていた。
「……あっ、あっ、あな……た……!」
 とりあえずそこまでは声を絞り出せた。しかしその後の言葉は慌てて飲み込む。その方が賢明だと咄嗟に判断したからだ。その代わり、心の中で目一杯に叫ぶ。


 こっ、この人ッ、きっとヘンタイだぁぁぁぁぁぁ――――ッ!!


 飲み込んだ言葉を自分の中だけで叫び、理子は男の手元の雑誌に再び視線を向ける。 その雑誌は某女性ファッション雑誌で、男が熱心に読んでいたページは女性の矯正下着がビッシリと掲載されているランジェリーの特集ページだったのだ。

 ブラ、ブラ、ショーツ、ショーツ、ブラ、ブラ、ショーツ、ショーツ、ブラ、ブラ……!!

 言ってて嫌になるくらい、規則正しく掲載されているランジェリーラインナップ。すべての色を網羅しているのでは、と思わせる、両面ページに広がるパステルからビビットまでのその多彩なカラーバリエィション。もちろんその豊富な色の正体は全部下着。間違いない。
 モデルも数人、写っている。当然の如く全員うら若き美女だ。この女性の中の誰かを眺めていたのだろうか。

『 ボンッ!・キュッ!・BOMB (ボム)!』

 の非常に分かりやすいキャッチコピーを従えて、モデル達は腰をくねらせ、胸を突き出し、その妖艶なボディラインを惜しげもなく、というよりは見せつけるように晒している。まるでこの矯正下着をつければあなたもすぐにこんなナイスバディになれますよ、とでも言いたいかのように。


 ―― どどどどどうしよう!! タイヘンだ! ヘンタイだ! 
 こんな朝っぱらからヘンタイに遭遇っ! 
 こんな下着ページを穴の開くほどじぃぃぃぃぃーっと見つめていた、
 超ヘンタイ男に 遭遇っ! 
 とととっ、とにかく逃げなくっちゃ!!


 脳内判断指令に迅速に従い、とにかく一刻も早くここから逃げよう! と怯えた理子がヌーベルのリードを引っ張った時。
「あぁちょうど良かったです」
 男は今まさに頭上に広がっているこの清々しい秋空のような、一点の曇りも無い爽やかな笑顔で立ち上がった。素材はカシミアだろうか、質の良さそうなハーフコートの裾が大きく翻る。そして男はそのまま理子に近づくと明るく言った。

「あの、貴女が今着けておられるブラをちょっと僕に見せていただけますか?」



 ―― ななななななななな!!!!!!



 「ヘンターイッ!!」
 の叫び声と共に、早朝の公園に威勢のいい平手打ちがこだましたのはその二秒後のことだった。





[29700] Chapter1 : Dramatic love! 【3】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 09:16

 ここは水砂丘高校一階にある女子ロッカールーム。
 六時限目の体育に備え、ただ今柔肌の乙女達がせっせと生着替え中だ。

「……理子、今日なんか荒れてない? あの日?」

 一番仲の良いクラスメイト、親友の井関いぜき真央まおが白のジャージに腕を通しながら心配そうに尋ねた。
「違うっ」
「じゃあなんで今日はそんなにイライラしているのよ。理子らしくないよ?」
 口にヘアゴムを咥え、真央は肩までのストレートの黒髪を両脇で二つに結わえだした。
 ちなみに真央が属するタイプは女の子らしさたっぷりの“ フェミニン系 ”だ。

 ―― イライラもするってもんよ!

 制服を入れたロッカーの扉を乱暴に閉じながら理子は内心で愚痴る。
 やった! カッコイイ男の人とお話できるチャンスだ! とワクワクしたのも束の間、その相手が思いっ切りのヘンタイだったのだから。
 “ 恋の始まりはドラマチックに! ” とは確かに願っていた。そう願ってはいたけれど、その運命の出会いが「貴女のブラを見せてください」ではあまりにも強烈すぎる。

「……今朝、ヘンタイに遭遇したのよっ」

 「じゃあどうして?」と重ねて尋ねてくる真央に、不機嫌な声でそう答える。  しかしそれがあまりにも大きな声だったのでクラス中がその声の主を探した。当然、主はすぐに見つかり、すでに着替えの終わっていた理子の周りに、たちまち騒々しい少女の人垣が出来あがる。
「何? 理子、電車で痴漢に遭ったの?」
「あれってムカツクよね~! 実はアタシも先週お尻触られてるのよ!」
「ウッソ! 私は一昨日! ねぇ、ちゃんと通報した?」
「ううん、逃げられちゃったんだぁ~! でもホント最低だよね、こっちが反撃できないと思ってさ! 女の敵って感じ!」
「私、次やられたら絶対鉄道警察に突き出してやるもんね! あ~思い出したらまた頭に来たーっ! ちょっと理子ッ! あんたもちゃんとしなさいよ!? こっちにも隙があるからやられちゃうんだからね!」
「えっ!? あ、う、うん。そうだね。分かった、気をつける……」
 思っても見ない方向に事態が展開していったので理子は小さな声で嘘をつき、とりあえず周りに話を合わせた。

 そこへナイスなタイミングで休み時間終了のチャイム。

 クラスメイト達はお喋りを止めてぞろぞろとグラウンドへ向かい出した。理子はホッと胸を撫で下ろし、親友を促す。
「真央、行こっ」
 うん、と真央は頷いたが、理子に向かって小さく手招きをした。
「何? 真央」
「ちょっと耳かして」
 真央は理子よりも身長が低いので理子が身をかがめないと耳打ちが出来ない。言われた通りに少しだけ身をかがめる。すると周りに聞こえないようにと気を配った、真央の小さな声が鼓膜に届いた。

「……理子、本当は痴漢になんて遭ってないでしょ?」

 人間、驚くと一瞬背筋が伸びるのは本当だ。
「な、なんで!?」
「適当に話し合わせたの、ミエミエよ?」
「だ、だって、あの流れじゃ本当のこと言えなかったんだもん!」
「じゃあヘンタイに遭った、って一体どういうことなの?」
「……う、うん、実は今朝ヌゥちゃんといつもの朝のお散歩に行ったんだけどね……」

 グラウンドへ向かいながら、真子に今朝の出来事の一部始終を話した。説明しているうちにまた朝のあの光景がありありと甦り、勝手に気持ちがヒートアップしてくる。

「……ふぅん、確かにちょっと気味悪いわね」
「ちょっとどころじゃないわよっ! だってブラの写真がこれでもか! とばかりに載っているページを一人でじーっと真剣に見つめててさ、そんで最後に私に向かって“ ブラ見せてくれ ”よ!? もうヘンタイよ、筋金入りのヘンターイッ!

 ちょうどすれ違おうとしていた男子生徒が自分に向けられた言葉かと勘違いし、慌てて飛びのいている。

「理子、怒るのは分かるけどもうちょっと声抑えて……」
 真央は困ったような笑い顔で理子をたしなめた。
「……いけない、つい我を忘れて……」
「でね、理子。“ ブラ見せて ”って言われた後、その人になんて言ったの?」
「なっ、何も言うわけないじゃないのぉーッ!」
「理子ッ、シーッ!」
「あ!」
 慌てて自分の口元を一旦手で押さえる。声を落として教えたが、ボリュームを下げすぎて今度は囁き声になってしまった。
「……何も言わないで頬に平手打ちして逃げてきたわよ……」
「ウソ! 理子ってばスゴイ……」
「だ、だって“ ブラ見せて ”よ!? すっごく恥ずかしくて、もう顔から火が出そうだったんだから! それにいきなり面と向かってそんなこと言われたら普通の女の子なら当然引っぱたくぐらいすると思うけど?」
「でも“ 見せてくれない? ”って聞いてきただけでしょ? 無理やり実力行使してきたわけでもないのに、いきなりそれはちょっとやり過ぎのような気がするな。それにきっと私だったら驚いていつまでも立ち尽くしていそう」
 のんびりとした性格の真央は理子を見上げてフフッと笑う。
「……そ、そっかな……」
 親友からそう言われた理子は、やっぱりあの時いきなり引っぱたいたのはちょっとやり過ぎだったかな、と少しだけ反省した。

 早朝の公園。
 パーンという乾いた音が辺り一円に響き、みるみるうちに赤くなる左頬を手で押さえ、理子を呆然と見つめていたあの男の顔を思い出す。

 ―― うん、そういえば真面目に頼んできたような気がしないわけでもなかったような……。痛かったかな、あの人。痛かったよね。だって思い切り引っぱたいたから、頬、あんなに真っ赤になっちゃってたもん……。





[29700] Chapter1 : Dramatic love! 【4】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 09:19

「やだ、理子、大変!」

 真央が急に焦った声を出す。珍しい。
「早く行かないと授業に遅れちゃう!」
 さっきまで一緒に歩いていたクラスメイトはどこにも見当たらない。
 いつの間にか足が止まり、廊下で立ち話をしていたせいだ。
「えーっ! 遅れたら広部先生にグラウンド三周させられるーっ!」
「急ぎましょ!」

 二人は急いで靴を履き替え、外に向かって走り出した。しかし体育教師の広部ひろべおさむはもうすでにグラウンドに来ており、クラスメイトは全員体育座りをして広部の話を聞いている最中だった。
 岩のように大柄な体格の広部は走ってくる理子と真央に気付くと、隆々とした筋肉がついた両肩をいからせながら二人に向かって大声で怒鳴る。

「くぉらぁ! お前達遅いぞ!」
「す、すみませーん!」
「遅刻の罰だ! そのままグラウンド三周! とっとと行ってこーい!」
「は~い……」
「理子~! 真央~! ファイト~!」
「しっかりね~!」
 クラスメイト達が叱られた二人をめいめいに茶化す。人事だと思って。
「真央~、ごめんね……。私のせいでグラウンド三周の刑になっちゃって……」
「うぅん、色々聞いたのは私だし。私の方こそごめんね。じゃ行こ!」
 二人はお互いの顔を見てニコッと笑いあい、走り始めた。しかしこの後の体育のことを考えて、体力温存のために走るスピードをお互いさりげなく加減するのは忘れない。

「ふぅ、あと一周だね、理子」

 運動オンチな真央はもう半分ばてているようだ。
「今日の体育がマラソンじゃなくて良かったよね、真央」
「ホント。この後また走らされたら私はビリ確実よ」
「真央は体育が苦手だもんね…………って!? ひええぇぇぇーッ!?
「な、何? 急に変な声出してどうしたの、理子?」
「まっ、真央! 走って! もっと早くっ!」
「え? どうしたのよ? だって体力を残しておかないと……」
「いいからッ!」

 真央の手首を掴み、スピードを上げて残りの距離を一気に走り切った。
 息を切らせながらクラスメイト達の元に戻ると、先ほどまで渋い表情をしていた広部が日に焼けた両腕を組み、一人感動している。

「久住! お前最後の周に急にペースを上げたじゃないか! 井関の手を引いてあれだけ早く走れるなんて大したもんだ!」
「い、いえ……」
 三周目を必死に走った理由をこの場で言えない理子はそう言葉を濁すしかなかった。横で真央が理由を聞きたそうな顔をしていたが、「後で」と小声で呟き目配せをする。

 
 その四十分後。
 体育の授業が終わりロッカールームに戻る途中で、理子は真央が尋ねてくる前に自分の方から勢い込んで話し出す。
「真央! いっ、いたのよ、あの男がッ!」
「あの男?」
「朝のヘンタイ男よッ!」
 口角泡を飛ばしかねないほどの勢いで理子は叫ぶ。
「さっきグラウンドを走っていた時、フェンスの向こう側にいたの! 私の方を見て手を振ってた!」
「あぁ、朝の人ってあの男の人なの? 私も見たわよ。髪が赤くて背の高い男の人でしょ? 理子、あの人に学校教えたの?」
「おっ、教えるわけないじゃないっ!」
「じゃあなんで理子がここにいるって分かったのかしらね」

 アルカリに反応したリトマス試験紙のように理子の顔色が即座に変わる。

「真央っ、もしかしてストーカーだったらどうしようっ!」
「う~ん、ストーカーではないと思うけどなぁ……」
「もうっ、真央は他人事だからそんなお気楽なことが言えるのよーっ!」
 ロッカールーム内に入り、絶叫する親友に「うぅん、そんなことないよ?」と答えた後、真央は両脇のゴムをほどき始める。
「そりゃあ、私もさっきの理子の話だけを聞いた時はちょっと不安を感じたけど、でも実際に見てみたら全然そんな雰囲気の人じゃないんだもの。だってあの人、とっても優しそうな顔で理子の方を見てたよ? 単に理子の事が好きになってここに会いに来ただけじゃないの?」
「エッ……!?」

 真子がサラリと言い出したその言葉は理子のハートを一瞬強く突いた。でもそれは心地良い痛みだった。

「でももしそうだったら理子ってばいいなぁ~。だってあの男の人、かなりかっこよかったもん! どっちが先に彼氏ができるかな、なんてこの間私言ったけど、この分じゃ理子にあっさり先越されちゃうかもね?」
 この真央の言葉でスイッチがONに切り替わる。
 待ってました! とばかりに乙女妄想回路がここぞとばかりにフル稼働を始めた。


 ……私のことが好きになって会いに来た……? 本当に……?  


 今回の妄想回路が巻き起こす現象は【 演劇 】だ。
 理子の脳内のみ限定で只今絶賛公開中の妄想劇場は今、厳かに幕が上がる。
 ただし、たった今上演開始になったばかりなのに、すでにクライマックスシーンなのはご愛嬌。
 白いタキシードに身を包んだあの赤い髪の男が胸に手を当て、女王に永遠の忠誠を誓う騎士スタイルで理子の目前にスッと片膝をつき、「どうか自分と付き合って下さい!」と 告白している場面が何度も繰り返されている。放っておくと無限に続いてゆく、恐怖のループシアターだ。
 しかしそんな夢見心地な時もほんのわずかな時間で強制終了する。

「理子? 私の話、ちゃんと聞いてる?」

 真央の言葉でハッと現実に戻り、理子の妄想劇場は敢え無くカーテンコールを迎えた。
 そして舞台衣装をつけたまま急遽楽屋に戻らされたせいで、とても重要だが気付きたくなかった事実にまで気付いてしまう。

「……真央……今、一瞬でも彼氏が出来るかも、なんて夢見た私は馬鹿みたい……」
 肩を落とす理子に「どうして?」と、真央が尋ねる。
 制服に着替えるために脱いだ体操着のシャツを胸の前で抱え、理子は周りに聞こえないように小声で叫んだ。
「だって、だってよ? いくら好きになったからって言ったって……! どこの世界に会っていきなり “ ブラ見せて ” なんて頼んでくる男がいるっていうのよッ……!?」
「……あ、そうか、それもそうだよね……うん……」

 上半身、水色のブラ一枚でガックリ落ち込む理子にさすがに上手くフォローする言葉が見当たらず、真央はそそくさと自分も着替えを始めたのだった。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


  
 六時限目の体育が終わり、帰りのホームルームが始まる。 
 担任が明日の行事予定をエンエンと話していたが、数分おきに教室の窓ガラスから何度もチラチラと外を見ていた理子はその半分以上は上の空で聞いていた。


 ……あの人、もしかしてまだあそこにいるのかなぁ……。今日はこれで学校も終わりだし、帰りに待ち伏せされていたらどうしよう……。


 確かにいきなり引っぱたいた事はほんの少しだけ反省した。それは事実。
 だがあの男が再び目の前に現れ、、またしても「ブラ見せて」などとフザけた事を言ってきたら、脳から電気信号で送られる条件反射で、あの端正な顔をもう一度引っぱたいてしまいそうな気がしてならなかった。





[29700] Chapter1 : Dramatic love! 【5】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 09:22

「あぁどうかもうあのヘンタイがいなくなってますように……!」
 
 帰宅の途につく理子は胸の前で軽く十字を切り、恐る恐る校門の外へと出てみる。
 いつもは真央と一緒に帰っているのだが、最悪な事に今日に限って生徒会の書記をしている真央が急に開かれることになった総会に出席することになったため、一人で帰る事になってしまったのだ。

 ―― 神様、か弱い子羊をどうかお守り下さいっ!

 女性の下着に異常な情熱を持っているようなヘンタイに気に入られちゃったのかも、と思うとズッシリと気が重くなった。
 しかしなぜかここで未練がましく大きなため息を一つ。

 見かけはあんなにイイのになぁ……!  

 朝に引き続き、つい一時間ほど前に見たあの男の笑顔が脳裏から離れない。
 正直な所、あの男のルックスは完全に理子の好みだった。
 そう、野球に例えるならまさにストライクど真ん中。これ以上無い絶好球。完全にジャストミート。白球は上空を一直線に切り裂き、場外へ飛び込む特大ホームラン。間違いなくMVP。結果、それ行け華のお立ち台コースだったのだ。
 背も百八十近くはあったし、マスクもいいし、細身だがただ細いだけではなくてどことなく筋肉質っぽい所も、全部ぜーんぶひっくるめて理子のタイプだった。強いて難点をあげるとすればあのちょっと派手な赤い髪ぐらいだ。それだけに、それだけに本当に残念でならない。

 一度大きく息を吸い、覚悟を決めて正門を出る。
 すぐに前後左右、辺り一帯をか弱き小動物インパラのようにキョロキョロと見渡す。が、周囲に赤い髪のライオン……もとい人影は見当たらない。 とにかく今のうちだ。
 急いで帰ろうと小走りになりかけたが、高校のすぐ隣にある小さなファンシー雑貨屋で一旦足を止める。シャープペンシルの芯がもう切れそうだったのをふと思い出したのだ。さっさと芯を買って帰ろうと店先に近づいたが、綺麗に並べてあるたくさんのシャープペンシルが目に留まり、何気なくその一つを手に取る。

 ―― あ、これCMで見て欲しかったやつだ。買っちゃおうかな?

 シャープペンシル本体は買わなくてもたくさん持っていたが、これはグリップ部分にオイルのようなものを注入してあって、長時間字を書いても手が疲れにくいというのが売りの最新式のものだ。
 デザインは黒と白のみのシンプルだが素っ気無いものから、ノック部分に動物の立体キャラクターがつけられているキュート系の物まで様々なタイプがある。それぞれのタイプを一通り手に取り、カチカチとノック部分を押しながらあれこれ吟味する。これにしよう、と決めて芯と一緒にそれをレジに持っていこうとした時。


「貴女はヒヨコがお好きなんですか?」


 上から声が降ってきた。
 背後にまったく人の気配を感じなかったので、驚きは倍になり、思わずシャープペンシルを取り落としそうになる。今朝聞いたばかりのその穏やかな声には当然まだ聞き覚えがあった。
 慌てて振り返ると、朝に横っ面を引っぱたいた、そして体育の授業中にフェンスの向こう側で手を振っていた、例の “ 見かけは爽やか好青年 ” が、
「またお会いしましたね」
 などと言いながらいつのまにか目の前に立って微笑んでいる。黒のハーフコートが理子の方に向かって揺れ、またかすかにマスカットの香りがした。

「今朝の貴女の一発、かなり効きました。おかげで一気に目が覚めましたよ」

 確かに失言があったとはいえ、今朝理子にいきなり引っぱたかれたのに、怒るどころか男は反対にニコニコと笑っている。責める様子もまったく感じられない。
「あ、あなた! 今日私の体育の授業を覗きに来たでしょ!?」
 理子は脅えを悟られないように男に攻めの口調で応酬しながらも、いざとなったらこの雑貨屋の中に逃げ込んで助けを求めようと考えていた。

 自分の事は自分で守る! 神様に頼ってばかりもいられないっ!

「覗きに来た、とは随分な言われ様ですね」
 しかし男は特に気分を害した様子も無く、変わらずに笑みを浮かべている。本当に優しげで穏やかなその笑顔にまたしても魅入りそうになってしまう。

 ―― あぁん! これで今朝「ブラ見せて」なんて変なこと聞いてこなかったら、この人のこと、絶対に好きになってるのにーっ!

 地球の裏側にまで突き抜けるぐらいの強さで地団駄を踏みたい気分だ。
「これ、お返しします。貴女、あの後これを落として行かれたんですよ」
 男はハーフコートの左ポケットからスッと何かを取り出した。
「あっ!」
 男の手のひらの上に鎮座しているものを見た理子は思わず大声を出す。
 そこには小さなピンク色の小銭入れがあった。
 朝の散歩の途中で何か飲みたくなった場合に備え、散歩の時だけに理子が持ち歩いている物だ。
「あ、ありがとう……」
 少々気まずかったがとりあえず礼を言ってその小銭入れを受け取った。
 しかしそれはそれ、これはこれだ。再びキッと男を見上げて問い詰めるように尋ねる。
「あ、あなた、まさかストーカーじゃないでしょうねっ!?」
「ストーカー……ですか?」
 男はキョトンとした顔で問い返す。
「済みません……その言葉の意味がよく分からないのですが……」
「エェ!?」
 理子は驚きの声を上げた。

 ―― 信じられない! 今時ストーカーの意味を知らない人がいるなんて! この人、テレビや新聞を一切見ない人なの!?

「ちょっと失礼します」
 たった今、小銭入れを出したポケットと反対の場所から、古びた黒い小型の事典のようなものを男は取り出した。
「載っているかな……」
 そう呟きながら中のページをめくり出す。男が手にしているその本の背表紙がちょうど理子の目線と同位置だったせいで、かすれてはいるがその本のタイトルが目に入った。

 “ 東方行事艶語録 ”

 その本には剥げた金字でそう書かれてあった。著者名の方は完全に剥げきっていて読むことができない。
 どうやらその本には載っていなかったらしい。本を閉じ、男は至極真面目に尋ねてくる。
「あの、よろしければ今の言葉の意味を教えていただけますか?」
 これは本気だ。本気で知らないらしい。
「だ、だから! ス、ストーカーっていうのは、特定の人物の後を勝手につけまわす人間のこと!」
 理子のこの短い説明で男はすぐに理解したようだった。
「あぁ、分かりました。ここではストーカーっていうのですね」
「は……?」
「あ、いえいえ、こちらの話です。失礼しました」
 男は優雅に手を振った後、少し心外だという様子で理子の顔を見る。
「あの、逆にお尋ねしたいのですが、なぜ僕が貴女の後をつけまわしていると思ったのでしょうか?」
「だ、だってどうしてあなた、私の高校が分かったの!? この中には小銭しか入れてなかったのに……!」
 それを聞いた男は「あぁ、なるほどですね」と呟くと笑顔のままで少し身をかがめ、理子の顔を人差し指で指した。目の前に突きつけられたその手は男性とは思えないほど綺麗な手だ。
「それは簡単に分かりました。貴女の名前は “くずみ りこ ”さんって言うんですよね? そしてこの高校に在籍する二年生です」

 ―― 嫌な予感は現実に。
 やっぱりこの人ストーカー!? 
 お店の中に逃げ込む前に一度きゃぁぁと叫ぶべき?

 その怯えた顔を見れば今の理子の心の中を読むのは誰でも出来る容易いことだ。男はおかしそうにまた笑う。
「そんなに警戒しなくてもいいですよ。実は貴女のご友人に教えてもらったんです」
「ゆ、友人? もしかして真央のこと?」
「マオ? いえ、違います。ほら、貴女があの公園で毎朝会っておられる、ちょっと寂しそうな顔のお爺さんがいらっしゃいますよね?」
「あ……」

 そういえばあのお爺さんに名前と学校を訊かれたことがある。

「貴女が走り去ってしまわれた後、それが落ちていることに気付いたんです。どうしようかと困っていたら、その方、芝田さんと仰るんですけど、僕らの一部始終を見ていたらしく、貴女のお名前と通っている高校を教えて下さったんです」
「そ、そうだったの……」
 やってしまった。完全な勘違い。とにかく謝らなければ。
「あ、あの……失礼なこと言っちゃってごめんなさい……」
 すると男は優しげな表情のまま、小さく首を振る。
「いえ、いいんです。貴女にもう一度お会いしたかったから……」
「えぇ!?」


 どどどどどどどどどういう意味ッ!?





[29700] Chapter1 : Dramatic love! 【6】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 09:24

 カァン、と高らかなゴングが鳴り、いきなりの強烈な右ストレートだ。
 心臓の鼓動が一気に早まる。ファイティングポーズを取る間も無く、ダウン寸前の理子は一人あわあわと小パニックに陥った。しかしまだ敵のラッシュは終わらない。

「リコさん……」

 今度は名前で呼ばれた。
「ははは、はいぃっ!?」
 混乱レベルは最大MAXだ。
 乙女妄想回路も許容値を大幅に超えた高負荷により、完全にシステムダウン。リングに投げ込む白タオルが必要かもしれない。

 こ、こ、こ、こ、告白っ!?
 告白されちゃう、私ッ!?


 背筋を伸ばし、直立不動の体勢を取ると、男は大きく前方に身体を折った。
「今朝は本当に申し訳ありませんでした……! 初対面の女性にいきなりあんなことをお願いしてしまって……。完全に僕の配慮不足でした。でも悪気は無かったんです。どうかそれだけは信じて下さい。お願いします……!」
 さらに身体が深く折れ曲がる。デパガのお株をあっさりと奪う、ナイスな角度だ。角度にして優に四十五度を軽く超えている。

 ―― なんだ……、告白じゃなくて謝りたかっただけなのかぁ……。

 微妙にガッカリしつつも、真摯な態度で平謝りするコウの姿を見て理子の中にある疑問が浮かび出す。

 ―― このヒトってもしかしてエッチな目的でブラを見せてほしい、って頼んできたんじゃないんじゃない?

 でもそうだとしたらそれは一体どんな理由なのだろう。それを確かめたかった。
「あ、あなたの名前はなんて言うの?」
 理子の口調から棘が消えたので男の顔にホッとした色が浮かぶ。
「あ、そうですね。そういえば僕だけ貴女のお名前や年齢を知ってるのは不公平ですよね。僕の名前はコウと言います。年は二十四です」
「にっ、二十四歳ッ!?」
「はい」
「見えない……」
 と理子は呟いた。
 童顔のせいか、そんな年には見えない。せいぜい二十歳くらいかと思っていた。
「よく言われます」
 コウは照れたように笑った。
 さぁいよいよ本題だ。

「……あ、あのさ、女の子のブラなんか見てどうするの? 私、今朝は驚いていきなり引っぱたいちゃったけど、今はあなたが単にエッチな興味本位であんなことを頼んできたようにはもう思えない。も、もしかして何か特別な理由があったりするとか?」

 この言葉でコウの顔から急に笑みが消えた。そして正面の理子をまじまじと見つめる。向き合ったその顔は恐ろしいほどに真剣で、好みのタイプの男性から見つめられて、自分の視線の先の置き場所が分からなくなる。
 右にするべきか、それとも左に流すべきか。
 結局恥らいながらわずかに目を伏せた。

「……リコさんの仰るとおり、理由はあります。僕にとっては重大な理由です」

 どうやらかなり深刻な理由らしい。真面目に語るその顔は百%本気の顔だ。
「ど、どんな理由?」
「僕自身の成長のためです」
「はぁ?」
 その言葉の意味が分からない。

 ―― 僕自身の成長? なにそれ? その成長とやらの為に出会う女の子に片っ端から「ブラ見せて」なんて頼んでいるってこと? や、やっぱりこの人ヘンタイなのかなぁ……?

「……でもこんなに早く見つけられるとは思いませんでした」

 そのコウの言葉に理子の視線は再び正面遥か上へと昇る。
「み、見つけたって……、な、何を?」
「貴女をです」
「は?」
 今度の意味も分からない。

 ―― 私が何? っていうか今ブラの話をしていたはずじゃあ?

「それ、僕にプレゼントさせて下さいませんか」

「え?」
 コウが指差す先は手の中の淡い黄色のヒヨコペン。話題をくるくると変えられ、返事が遅れたその隙にヒヨコはするりと上に逃げていく。
 唖然とする理子の手からそれを取り上げるとコウは雑貨屋の中へ入っていってしまった。やがて三十秒もしないうちに小さな袋を手に戻ってくる。

「どうぞ」

 白い紙袋が目の前に差し出される。
 雑貨屋のおばちゃんが紙袋をケチッたのか、どう見ても入らないだろう、という小さい袋に無理やり商品を突っ込んでいるのでヒヨコのノック部分がはみ出していた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 買ってもらう理由なんかない! しかも私、あなたを引っぱたいてるのに! お金、ちゃんと払うからっ!」
「いいんです。遠慮なさらないで下さい」
「だっ、駄目だってば! お金払うっ!」
 少額とはいえ、買ってもらう理由も無いのに受け取るわけにはいかない。頑なに固辞し、慌てて青のスクールバッグから自分の財布を取り出そうとした。しかしファスナーを開けようとした理子の腕をコウの手が優しく掴み、押し留める。
「ひゃぁっ!?」
 心臓がビクンと跳ねあがり、思わず叫んでしまった。?異性との接触経験値?はまだまだ若葉マークレベルの理子には腕を取られたこの程度でもかなりの刺激だ。

「リコさん」

 またいきなり名前を呼ばれ、反射的に「はいっ?」と答えた声は面白いぐらいに声が裏返っていた。
 掴まれている腕の部分が暖かい。
 コウの手はとても綺麗な手だが、制服のジャケット越しに伝わる指の間接や節々の感触は確かに男性のもので、そのギャップにまた理子の胸は大きく高鳴る。
「よろしければ明日お時間を取っていただけないでしょうか?」
「あ、明日?」
「はい。まだ貴女にお話したいことがあります」
「はっ、話があるなら今ここでしてよっ!」

 理子は虚勢を張り、必死で強気の口調を保つ。そうしないとこのまま自分の気持ちごと、コウのペースに流されてすべてを持ち去られてしまいそうだったから。

「僕もそうしたいのですが、この後、人と待ち合わせをしていますので……」
 コウは残念そうに暮れ始めている秋の空を見上げた。
「リコさん、明日も今日お連れになっていた犬の散歩に行かれるのでしょう? 明日の朝、今朝と同じ時刻に僕はまたあのベンチにいますので来て下さい。では今日はこれで失礼します」
 一方的に用件を伝え、去りかけたコウを理子は慌てて呼び止める。
「あ、ちょっと待ってよ!」 
「では明日お待ちしています」
「ちょっと! だから、まっ、まだ私行くって言ってな……!」
 だが待ち合わせに遅れそうなのか、急いだ様子のコウは最後に会釈をし、身を翻すとかなりのスピードで走り去っていってしまった。
「足、早っ……!」
 コウの俊足に思わず独り言が漏れる。
 そして遠ざかる黒コート姿が完全に見えなくなると、理子は回れ右をして家路につき始めた。

 ―― 明日、どうしよう……。

 行くべきか行かざるべきか。
 あのコウという青年がヘンタイでないという確証はまだ取れていないのにノコノコと出かけていくのは危険ではないだろうか。
 でも今日の真央ではないが、こうしてもう一度コウと話をしてみて、どうしても悪い人間には見えなかった。その思いはさらに強くなる。

 どうしよう、どうすればいい?

 視線を落とした先にあったのは、たった今コウからプレゼントされたシャープペン。紙袋からはみ出している黄色のヒヨコとバッチリ目が合う。
 飛び出たまん丸の目の部分があちこちにくるくると動き、そのお間抜けでひょうきんな愛くるしさに無意識に微笑んでしまった。胸が少しだけ軽くなる。


 ―― うん、明日目を覚ましてから考えようっと!


 そう、とりあえず明日だ明日っ!
 理子はそう決断するとヒヨコペンを大切そうにバッグにしまいこんだ。




[29700] Chapter2 : コウの秘密 【1】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 09:25

 ピピピピピピピピピ


 勤勉、実直さが最大の売りである時の番人は怠ける事など許されない。
 本日も“ 自分の目前で睡眠を貪る輩を警報によって起床させる ”という、己に課せられた職務の一つをプログラム通りに忠実に遂行し始めた。
 警告音は二秒毎にステップアップでその音量を増してゆく。

 実はその前からとっくに目が覚めていた理子だったが、とりあえずこのやかましい警報を止めるため、ベッドから半身を乗り出して時の番人の頭を手の平でバシン、と殴打した。
 少々暴力的ではあったが、一番効果的な方法で再び沈黙を強要された番人は、渋々と時を刻むという本来の最重要業務に戻る。

「あーっ、どうしようっ!」

 アラームを仮停止した後、毛布をガバッと頭からかぶり、そう声に出してみる。
 明日の朝考えよう、と思って寝たのだが、結局コウと会うかどうかまだ決断できていないのだ。
 だがいつもは目覚まし時計の力がなければ起きられない自分が、空が白み始める頃からこうして目を覚ましてしまっていたのはなぜだろう、と考えると思い当たることは一つしかない。

 ……会いに行っちゃおうかな? 

 だ、だってヘンタイかどうかまだちゃんと確認してないし! と自分で自分に言い訳をする。

 ―― でもヘンタイでないとしたら、なぜ「ブラを見せて」なんて頼んできたんだろう?
 “僕自身の成長のため”って言ってたけど、それについて詳しく話したくて今朝私を呼び出したのかなぁ……。

 天井を見つめながらぐるぐると思考を巡らす。


 成長のため…………成長のため………………成長のため…………? 


 突然脳内に閃光。稲妻が走りまくる。
 ある一つの仮説が閃いた理子は頬を上気させてベッドから一気に起き上がった。


 分かったぁぁぁぁぁぁ――ッ!!
 そうかっ、あれはお仕事だったんだっ!! きっとあの人はどこかの有名下着メーカーにお勤めしていて、ここに新作ブラのマーケティングに来ているんだ! そうよね、あの人がヘンタイなんておかしいと思ったもん! あっ! そしてもしかして私をブラのモデルにスカウトしようとか考えてたりして!? でっ、でもそうだったらどうしよう! だって私、胸全然大きくないし……。あ! でもCMとかに映っているバストってフツーサイズのバストだよね! 巨乳や爆乳サイズなんていないもん! ま、それはさておいて、じゃあ、あのコウって人は別にヘンタイでもなんでもないじゃないの! 私の勘違いだったんだぁーっ!!


 ―― 乙女妄想回路、起動――。

 来るか、妄想美術館ミュージアム

 白い天井が巨大なキャンバスに早変わりする。
 そこにまず描かれたのは巨大な薔薇庭園ローズガーデン
 その上空は目の覚めるような真っ青な空。無数の幸福の白い鳩がその青空をバックに群れをなして飛行中だ。さらに薔薇園の前を、あのヒヨコペンのヒヨコ達が、まん丸の目をくるくると回しながら一列になってぴよぴよと賑やかに大行進中。
 それはまるで低学年の小学生が想像するポエムのごとき世界観。イラストタッチはもちろんクレヨン画で決まりだ。


 ―― うんっ、やっぱり行ってみようっと!!

 そう決断すれば後は早いものだ。
 五分後に再び鳴る予定のアラームを完全に解除し、ベッドから抜け出すと手早く身支度を始める。白のTシャツに薄手のグリーンのパーカーを羽織り、ジーンズを履こうとして悩んだ。

 ……もうちょっと女の子らしい格好した方がいいかな?

 しかし結局ボトムはジーンズにした。なんだか浮かれすぎている自分が急に恥ずかしくなってきたからだ。
 まだ眠っている母親と弟を起こさないよう気をつけながら一階に下り、洗顔を済ませると居間の隅にあるお気に入りのタオルケットの上で安眠を貪っていたヌーベルを揺さぶって起こした。

「ヌゥちゃん、起きて起きて! お散歩に行こ!」

 もしヌーベルが人語を話すことができたなら、“ 朝っぱらから何をあなたはそんなに張り切っているのですか”、と告げたに違いない。それぐらいに迷惑そうな眠たげな顔でヌーベルはのろのろと半目を開ける。
「ほらほら、行こっ!」
 勝手にハイテンションになっている理子は長い胴をツンツンと突つく。
 ふわぁ、と大きなあくびを一つし、ヌーベルはプルプルと首を振った。覚醒まで数分を要したがやがてヌーベルの尻尾がピンと立ち上がる。こちらも準備オーケーだ。





[29700] Chapter2 : コウの秘密 【2】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 09:25

 約束の公園は理子の家からすぐ側の場所にある。

 結局いつもより二十分以上も早く来てしまったせいで、顔馴染みの人達もまだ誰も来ていないようだ。ベンチへと一目散に向かったが、そこにまだコウの姿は無かった。
「早く来すぎちゃった……」
 と脱力した声で呟く。昨日コウが座っていたベンチにストンと座り、目の前の池をなんとはなしに眺め出す。

 ―― あ、霧……!?

 朝、家を出たときから今朝は少し外の空気が違うとは思っていたのだが、公園内にうっすらと白い朝もやが立ち込め始めている。それは少しずつ濃くなってきているようだ。
 ほんの百メートル先も今はあまり見えなくなってしまっている。辺り一面、白一色の霧の世界に包まれるのに五分もかからなかった。
 先ほどからベンチに座る理子を木の陰からじっと見ている人影がいる。だが、この視界のきかない状態にいる理子はまだそのことに気付いていない。

 ―― ど、どうしよう……。もしここで通り魔でも現れたら……。
 
 最近、連日のようにテレビや新聞を騒がす物騒なニュースの数々を思い出し、理子は小さく身震いをした。しかも今はまだ早朝で公園内に人気もほとんどない。本気で怖くなってきた理子は急いで帰った方がいいのか悩み出した。
 でももしこれでコウともう二度と会えなくなったら、と思うとなかなか帰る決心がつかない。自分で思っていたよりも遥かに強くコウに惹かれ出していることを、この霧が教えてくれたようなものだ。
 足元でヌーベルが不安そうにキュウンと鳴く。
「……ヌゥちゃんも怖い? やっぱり帰ろうか……」
 後ろ髪を引かれる思いでベンチから立ち上がる。その瞬間、背後から右肩にポン、と大きな手が置かれた。

「ひゃぁあああぁぁぁ―――ッ!?」

 理子の悲鳴にすかさず反応したヌーベルが、大好きなご主人様をこの身に変えても守ろうとその小さな身体を精一杯に膨らませ、後ろのシルエットに向かって何度も吠え立て、威嚇する。

「リコさんっ、僕です! コウです!」

 叫ぶのを止めた理子が振り返ると後ろにはコウが立っていた。高さの違う缶コーヒーを二本、左手だけで器用に掴んでいる。
 ヌーベルは人影がコウだと分かると途端におとなしく鳴き止んだ。
「驚かせてすみません、先に声をかけるべきでしたね」
 理子の口から漏れた安堵のため息に、コウは自分の非礼を詫びる。
「すごい霧ですね。このベンチまで来るのに大変でした。やっとここまで来たんですが、リコさんが帰ろうとしておられたようなので、見失わないように慌てて肩を掴んでしまったんです」
 コウは微笑むと手の中のコーヒーを一本、理子に差し出した。
「お飲みになりますか?」
「あ、ありがとう」
 差し出されたコーヒーはショート缶。それに書かれている文字は≪ほんのり微糖≫。
「ブラックの方が良かったですか?」
「うぅん、甘い方が好き」
「あ、じゃあこちらにしますか?」
 コウは自分の手の中に残っているロング缶を差し出した。
 理子は「うぅん、こっちでいい」と辞退する。コウがかなり甘めのコーヒーを好きなことはもう昨日の朝の光景でとっくに知っている。渡されたコーヒー缶はホットで、冷え始めていた手にじんわりと温もりが伝わってきた。
 コウが先にベンチに腰を下ろしたので少し間隔を空けてその隣に座る。だが座った後でちょっと間隔空けすぎたかな、と後悔する。はっきり言って一人で意識しまくりだ。

「リコさん。僕、昨日一晩考えたんです」

 激甘コーヒー缶のプルトップを開けながらコウが先に口火を切った。
「実は貴女に折り入って頼みたいことがあるんです」
 即座に理子の瞳が輝く。
「分かってる! 何かのアンケートに答えるんでしょっ?」
「え?」
 コーヒーを飲もうとしていたコウの動きが止まる。
「私、もう分かってるの! あなたさ、どっかの下着メーカーの社員さんなんでしょ!? だからモニターを探してるんでしょ!? 新作ブラの!」

 途端にコウは快活な笑い声を上げ、ベンチの背に大きく寄り掛かかるとまだ口を付けていないコーヒ缶を右脇に置いた。

「なるほど、見事な推理ですね」
「当たった!?」
「いえ、でもちょっと違います」
「違うの?」
「はい。でも驚きました。ここでは女性に“ブラを見せて下さい”と頼むとそうとう顰蹙を買うようですね。つい、自分のいた所の癖で聞いてしまったのですが」

 純粋に驚いた。声が一オクターブ上がる。

「じゃっ、じゃあ、あなたが住んでいる所では普通に女の子にああいう事を聞くの!?」
「コウ、って呼んで下さい」
 穏やかなその声に優しく頼まれるとなんでもいう事を聞いてしまいそうになる。一応八つも年上なのにいいのかな、と思いつつ、どぎまぎしながら「コウ」と呼ぶ。
 名を呼ばれ、コウは満足そうに笑うと、唐突に理子におかしな質問を投げかけた。

「……リコさん、貴女はなにか嫌な事があったらその事を親や友達、大切な人に話すタイプですか? それとも気分が晴れるまで自分の胸の中に閉じこめておくタイプですか?」

 何かの性格占いだろうか、と思いつつ理子は答える。
「……う~ん……、楽しい事や嬉しい事なら皆に言いたいけど、嫌な事や辛い事なら言わないで黙っているかなぁ……」
「どうしてですか?」
「きっとそれを聞かされた人も同じ嫌な気分になっちゃうだろうから」
「なるほど……」
 コウは理子の答えを聞くと空中の霧を見つめた。
「あともう一ついいですか? ……口は堅い方ですか?」
「う、うん。“誰にも言わないで”と言われたら大丈夫だと思うけど?」
 その返事にコウはもたれかかっていたベンチからゆっくりと身を起こす。

「では、これから僕が話すことを誰にも言わないでいただきたいのです。どうか僕とリコさん二人だけの秘密で」

 両手の外側がふと温かくなった。
 見るとコーヒー缶を持っている自分の両手の上に、さらにコウの大きな片手が重ねられている。

 ―― ええッ、私、手を握られているのッ!? 夢じゃないよね? うん、夢じゃないよ! だってだって、こんなに温かい温度が伝わってくるもん……!  

 またまた激しい拍動に襲われ始めた矢先。

「手、冷たいですね……」

 そう呟くとコウのは理子の両手を優しくさすり出した。何度も優しく撫でられ、暖められる。
「ひえッ!? ちょ、ちょっと、コウ!?」
「済みません、僕がリコさんをお待たせしてしまったからですね……」
 労わるようにコウは手をさすり続ける。
「やっ……」
 止めて、と言おうとしたがおかしなことに声が出ない。手をさすられているだけなのに、なぜか身体全体から急速に力が抜けていく。

 ……なんで? どうして? 力が入らないよぅ……

 とにかく触り方が絶妙なのだ。
 どうすれば快楽のツボを突くのかを熟知しているかのようなこのソフトな動き。その気持ちよさにのぼせた状態の理子はすでにコウのなすがままになってしまっている。

 そんな半分意識が飛びかけている理子の耳元に落ち着きのある甘い声が響く。
 今にも理子の右頬に唇が触れそうなぐらいの距離にまで顔を寄せ、コウは手をさすり続けながら自分の秘密をそっと囁いた。

「……あのリコさん、驚かないで聞いて下さいね? 実は僕、未来からこの時代に来た、時空転送者トラベラーなんです」







[29700] Chapter2 : コウの秘密 【3】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 09:26

 ……ひたすらにリカイフノー。何言ってるのかワカラナイ。日本語だったけどワカラナイ。

 理子にとってまったくもって意味不明な電波混じりの今の言葉。
 最初は自分をからかっているのかと思ったが、目の前のコウの顔は相変わらずの真剣な顔つきだ。それに元々冗談を言うようなタイプにも見えない。

「急にこんな事を話して信じてください、と言っても難しいことは十分に分かっているのですが……」

 コウはさすっていた手を静かに離し、心を落ち着けるためか一つ大きく息を吐く。
「リコさん、これから僕の事をお話ししますから聞くだけ聞いていただけますか?」
「う、うん」
 とりあえず頷いておくことにする。
 するとコウは「まずは僕の職業からお話します」と前置きし、池の方に視線を移すとゆっくりと語りだした。

「僕は “ マスターファンデーション ” という職業に就いています」
「ますたー・ふぁんでーしょんっ?」
「はい。簡単に言うと “ 女性下着の専門請負人 ” ですね」

 ―― 初めて聞く職業だ。

「リコさん、僕のいる時代はこの時代と違って、女性下着ファンデーションの類は企業の既製生産ではなく、それぞれの請負人、つまり僕ら女性下着請負人マスターファンデーションが受注する、 “ 完全個人生産 ”、カスタムハンドメイドの時代になっているんです。だからすべての女性はそれぞれ自分の身体にジャストフィットした、請負人名マスターネーム入りの個別注文下着オーダーファンデーションを身に着けています。僕、この時代のショップや雑誌を色々と見てみましたが、やはりこちらの女性下着ファンデーションに対する意識はまだ少々遅れていると思いました」

 長々と饒舌に自分の職業を語り出したコウの目は、自信に溢れ、とても生き生きしている。そしてそんな横顔に思わず話そっちのけで見惚れてしまっている乙女が一人。

「僕の家は祖父の代からの女性下着専門店ファンデーションショップなんです。家族でそれぞれ女性下着ファンデーションの製作を分担しています。そして僕はその中でも主にブラを専門に作るので、【 マスター・ブラ 】とも呼ばれています」

 
 ―― もしかしてここって笑うところ?


 でも昨日下着のページを熱心に見ていた理由も一応はこれでつくよね……。そういえばバストサイズを詳しく測って、フルオーダーで作るブラの会社がある、って聞いたことがあるし。だからコウがブラに携わる仕事をしているのはたぶん事実なんだろうなぁ……。まぁ“未来から来ましたウンヌン”は、もちろん冗談なんだろうけど。

 二人の足元で暇を持て余したヌーベルが、コウの膝の上に乗ろうと足元でジタバタし始めている。
「おいで」
 コウは一旦話を切り、ヌーベルを抱えあげると膝の上に乗せる。そして昨日のように優しく頭を撫でてやった。
「本当に可愛い犬ですね。名前はなんていうんですか?」
「ヌーベルっていうの」
「そうですか。よろしく、ヌーベル」

 名前を呼ばれたヌーベルはコウの体に顔をこすりつけ、わずか五センチの尻尾をピタピタと可愛らしく振り続ける。人見知りの激しいヌーベルがコウに懐いているのを見て、理由は分からないがわけもなく嬉しくなった。

「犬ってこんなに可愛いんですね……知りませんでした」
「コウは犬、飼ったことないの?」
「えぇ、家の仕事の関係で動物は飼ってもらえませんでした」
 おとなしくなったヌーベルは心地よさそうに目を閉じ、コウの膝の上で眠りだそうとしている。コウは小さく息を吐くと再びベンチに背を預けた。

「……ここは本当に素晴らしい所ですよね」

 その声にはしみじみとした思いがこもっている。
「周りは緑の自然が一杯残っているし、動物も多い。居住地を選択する自由もあるし……」
 理子の住む地域は首都の近郊に位置する地域で、お世辞にも決して緑が多い地域ではない。むしろ少ない方だ。しかしこの状態の街でも「緑が多い」と言うコウに理子は違和感を覚えた。

 ―― コウって今までどんな所に住んでいたんだろう?

 不意にコウは理子の方に大きく向き直る。
「あの、リコさん。ここまでの僕の話、信じていただけましたか?」
「へ? コウ、今までの話って半分は冗談でしょ? 」
 初めてコウの顔に穏やかな笑顔以外の不満げな表情が浮かぶ。
「違います!」
「ううん、絶対に嘘だ!」
「嘘ではないです!」
「確かにブラのお仕事はしているんだろうけど、でも?“未来から来た”っていうのは作り話でしょ!?」
「だから違いますって! どうして信じていただけないのですか?」
「じゃっ、じゃあ証拠見せてよっ!」
「証拠?」
「だってそんな話だけじゃ信じられるわけないじゃない!」

 段々口喧嘩の様相を呈してきた。

「証拠ですか……」
 眉根を寄せ、コウは考え込み、
「そう、証拠!」
 と畳み掛ける理子。
「……間違いなく信じていただける証拠はあるのですが、残念ながら今、彼とは別行動中でして」
「彼って?」
「僕の家族です。名は武蔵むさしといいます」

 あの宮本武蔵から取った名なんですよ、とコウの追加説明が入る。
 武蔵。未来の人間にしてはこれまた随分古めかしい名だ。

「どんな人なの、その武蔵って人?」
 コーヒー缶を弄びながらコウはまたしばし考え込む。
「そうですね……一言で言えば信義に厚い、男らしい男ですよ。ただちょっと口が悪いのがたまに傷ですが」

 脳内にゴツくてガサツで「ガハハハ」と笑うような毛むくじゃらの大男が浮かんだ。もしこのイメージ通りなら、理子のタイプからは一番程遠い男性だ。

「分かりました。では武蔵が戻ってくるまでこの問題はお預けにしておきましょう」
 これ以上議論しても進展は無いと判断したのだろう、コウは自らそう言い出した。やっと終った作り話にやれやれ、と思ったが、ここで理子にふとある考えがよぎる。

 ―― もしかしてコウは私との会話をスムーズにするために、一生懸命この冗談を考えてきたのかなぁ……?

 もしそうだとしたら作戦は大成功の部類に入る。
 未来から来た、という作り話は突飛すぎて面白くなかったけど、少し言い合いもしたせいで、お互いの間に昨日まであった、ぎくしゃくした雰囲気が無くなっているからだ。

 段々と霧が晴れだし、目の前の池に再び朝日が反射し出す。
 明るさを取り戻してきた公園内。気配を消し、少し離れた木陰からずっと二人を見ていた一人の男が静かにその場を去っていった。





[29700] Chapter2 : コウの秘密 【4】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 09:28

「晴れてきましたね」

 水面に乱反射する光に襲われたのか、コウは顔の前に手をかざす。
「ところでお時間の方は大丈夫ですか?」
「だっ、大丈夫! 今日いつもより早く来たし、まだ時間あるから!」

 ―― せっかく打ち解けてきたところなのに! 

 焦った理子は話題を探す。

「コ、コウの好きな食べ物って何?」

 そのあまりのテンプレート的な質問に、口に出した後でへこむ。
 ばったり道で知人にあった時に話し出すきっかけとして「きょうはいい天気ですね」と言うようなものだ。
「好きな食べ物ですか?」
 コウは顎に手を当てて唸る。
「うーん…………たい焼きのしっぽですね」
「た、たい焼きのしっぽ!?」

 まさか一番に菓子系を出してくるとは思わなかった。しかも “ たい焼きのしっぽ ” ときている。

「えぇ、あの尾の部分の優しいほのかな甘さが安心するというか……。あの部分がうまく中和しているんですよね、強烈な餡子の甘さを」

 そんな激甘なコーヒーを飲んでいるくせに「ほのかな甘さがいい」なんて言うのがおかしかった。
「あと和菓子も好きです」
 次に挙げてきたのもまた菓子系だ。相当な甘党らしい。
「うん、和菓子、美味しいよね。コウが一番好きな和菓子って何なの?」
 即座に戻ってくる返答。

「“ ニヒル・ピンク ” ですね」

「は?」
「あ、すみません……。えっと何て名前でしたでしょうか……、あぁ、度忘れしてしまったようです。す……、す……。確か、 “ す ” がついていたような気がするのですが……」
とかその和菓子名を思い出そうと、コウの左足はタンタンとリズムを刻み始める。

「……もしかして、“ すあま ”?」

「あぁ、そう、それです!」
 喉元まで出掛かっている言葉がなかなか出ないのは気持ちの悪いものだ。理子の口から該当する和菓子名が出てきたのでコウはスッキリとした顔で頷く。
「なに、その、ニ、ニ、……なんだっけ?」
「 “ ニヒル・ピンク ” です。直訳すると “ 虚無的な桃色 ” という意味ですね。世界標準語にすべて対応させるために、日本語しか名称の無いものには全部新たな名がつけられているんです。おかしいと感じられるかもしれませんが、でも僕みたいにそれに慣れてしまうと、元々あった本来の名称がすぐ出てこなくなってしまうんですよ」
「…………」

 ―― まだ続けるんだ、この作り話……。

 そこまで言うなら突っ込んでみることにした。
「じゃっ、じゃあさ、大福はなんて言うの?」
「大福ですか? “ 内包する雪肌インヴォーヴ・スノー”です」
「……羊羹は?」
「“暗褐色の陶器ダークブラウン・パーテリィ”です」
「……ヨモギ餅は?」
「“早熟な若草プレコーシャス・グラス”です」
「……きんつばは?」
「“焦熱の漆黒箱スコーチング・ジェットブラック”です」

 コウはスラスラと淀みなく答える。

「すごい……。どれを言われても全然ピンと来ない……」
「武蔵が来なくてもこれで少しは信じてもらえましたか?」
 本当に凄い。もちろん作り話をここまで練ってあることに、だ。
「あ、聞き忘れていた! たい焼きは?」
 見たそのままの名ですよ、とコウは笑う。
「見たそのまま……? スウィートフイッシュ?」
「いえ、“ 小麦の魚皮フイッシュスキン・フラワー ”です」
「へぇ……」
 とにもかくにも驚いた。ただし繰り返すが、この作り話の綿密さに、だ。
「じゃ、じゃあ次の質問!」

 どうせならとことんテンプレートな質問で押してみることにする。

「嫌いな食べ物は?」
「うーん、嫌いなものですか……。辛いもの、ちょっと苦手かもしれないです。食べられますが」
 辛いものが苦手なんだ。甘いものがそんなに大好きなら当然なのかもしれない。
「じゃあ次は好きな色!」
「ダークグリーンですね」
「嫌いな色は?」
「レッド、でしょうか」
 その答えを聞き、思わずコウの髪の毛を見る。コウは理子の言いたいことがすぐに分かったようだ。
「この髪、目立ちますよね」
「うん。赤が嫌いなのにどうして髪の毛を赤くしているの?」

 しかしコウはその質問には答えず、温厚な笑みを見せる。

「……なんだか僕個人の質問ばかりですね。今度は僕からさせて下さい」
  質問者の立場になったコウは 「好きな色は何色ですか?」と訊ねる。
 理子は元気に「黄色!」と答えた。あぁ、分かります、とコウは頷く。
「どうして?」
「理子さんは、太陽のようにはつらつとして元気がいいですからね。黄色のイメージを持ってました」
「次に聞くのは嫌いな色でしょ?」
「いえ、違います」
「違うの?」
「はい」

 てっきり自分と同じ質問を続けると思っていたが、違うようだ。
 コウがベンチの上で急に居住まいを正したので、眠っていた地盤が大きく揺れ、何事かと驚いたヌーベルが起きぬけに一つくしゃみをする。

「あ、すみません、ヌーベル。起こしてしまいましたね」
 憤慨したのか、ヌーベルはガサゴソとコウの膝の上から降り、今度は飼い主の元へとよじ登る。理子はヌーベルを抱き上げ、膝に置くと「じゃあ質問はなに?」と問い返した。
 コウは理子の胸の辺りにスッと視線を落とす。

「リコさんのバストってこの時代のサイズで言えばBの65でしょう?」

「えぇぇっ!? なっ、なんで分かるのっ!?」
 ズバリと自分のサイズをコウに言い当てられ、慌てて自分の胸を両腕でガードする。
「服を着ていたってそれぐらいなら分かります。僕、マスター・ブラですよ?」
「…………」
 真っ赤になった理子に、コウが軽くフォローを入れる。
「リコさん、別に恥ずかしがることなどないですよ。僕は仕事で大勢の女性のバストを見てきているのですから」
 何気ないそのコウの一言に乙女の胸がズキン、と一瞬だけ強く痛んだ。この痛みは少しも心地良くない。

 ……そっかぁ……コウは女の人の胸を見たことがあるんだ……しかもたくさん……。そうだよね、お仕事で見るんだろうし、それにモテそうだもんね……。

「あの、よろしければ今度僕にブラを作らせてくれませんか? ヌードサイズを測らせていただけたら、リコさんのバストにピッタリとフィットするカップで最高のブラをお作りします」
「い、い、いいってば! いらないっいらないっ!!」
 全力で、もうこれでもかというぐらいに拒絶する。

 ―― じょっ、冗談じゃないっ! コウにこんな小さい胸なんか見せられないよっ! 万一見られたら恥ずかしさできっと悶死しちゃうっ!!  

 赤面した理子に激しく拒絶されてコウは残念そうな表情を浮かべたが、それ以上無理強いはしてこなかった。

 ただ代わりに。

「ちょっと失礼します」
 と言うや否や、コウは理子の胸に両手を当てた。ご丁寧に手でカップの形を作ってだ。細くて長い指があまりご立派ではない理子の両胸をパーカーの上から優しく覆う。
 鳩尾のすぐ上の部分からほんのわずかだけふわりと持ち上げられるような感触。
 とくん、と胸が震えた。
 女性の体に触り慣れた感のあるその動きはあまりにも自然で、不覚にも叫ぶ事を完全に忘れてしまう。


「目視だけでは自信が無いのでカップの形をハンド採寸させていただきました。後はアンダーとトップを測らせて下されば、早速リコさんに似合う素敵なブラを作らせていただきます。ご遠慮なさらないで下さいね」


 胸から両手を離し、穏やかに笑うコウ。
 その台詞でハッと正気に戻る理子。


「ひぃゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――ッ!!」


 乙女の絶叫の二秒後、霧が晴れた公園内に昨日とまったく同じ打音が高らかに響く。
 その音に朝の散歩を終えて自宅に戻ろうとしていた芝田しばた大吾だいごは足を止めた。

「おぉ、あのお嬢さんがまたやりおった……! ケンカするほど仲が良い、とは言うが、 いやはや、最近の若いモンの愛情表現はなんとも過激なもんじゃなぁ……くわばらくわばら」

 理子の放った見事な平手の横一閃を惚れ惚れと眺め、芝田老人はほっほっと楽しげに肩を揺らしつつのんびりとその場を去っていった。





[29700] Chapter3 : Come on! my house! 【1】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 09:28

 水砂丘高校、昼休み直前。
 机に頬杖をつき、理子は窓の外を呆けた表情で見ていた。
 その右肩をポン、と軽く叩かれたのは四時間目終了のチャイムが鳴る三十秒前のことだ。

「私の授業はそんなにつまらないですか? 久住さん」

 頬杖をついていた手を外し、理子はギクリとして右上を見上げる。するとそこには社会科担当の男性教師、桐生きりゅうはじめの憂い顔があった。
「授業が始まってからずっとそうやって窓の外を見てましたよね……」
 桐生はかけていた眼鏡を中指でクイと押し上げた後、今度はその指でコツコツ、と理子の机をリズム良く叩き始める。
「す、すみません!」
 両肩を竦め、これ以上ないくらいにまで小さくなる。まるでエアーが完璧に抜けた着ぐるみのようだ。

 その時、救いの鐘の音が鳴り始め、授業終了のチャイムに教室内に落胆にも似た小さなため息が漏れる。ちなみにため息をついたのは全員女子生徒だ。

 現在、この桐生の授業は校内の半数以上の女子生徒が胸を躍らせ、待ち望んでいるとも言われている。もちろんその目当てが授業ではないのは言うまでもない。
 高校という閉鎖された区域は、当たり前だが成人男性の率が低く、そのおかげで、どうみても見た目がパッとしない男性教師でもそこそこ女生徒にモテる、という面白い現象がしばしば起こることがある。

 いわゆる、“ 区域内魔法エリアマジック ”だ。

 無論それはこの水砂丘高校も例外ではなく、そんな奇妙なマジック渦巻くこのエリアの中でまだ若干二十五歳、しかもそんな区域魔法の力を借りなくとも、涼しげな中に知的なマスクを持つ正統派の桐生は、綺羅星の如く女生徒の人気をその身に一身に集めている、現在ダントツ人気一位の教師だ。
 一ヶ月前に前任の社会科教師が身体を壊し、その後任として桐生がこの高校に赴任してきた時、素敵な先生だなぁと理子も思ったことがあった。
 だが、真央を始めとして周りに恋敵ライバルがあまりに多く、その段違いな競争率の高さに、好きというよりは漠然と憧れている状態だった。…………そう、昨日までは。
 
 ようやくコツコツという音が止まった。

「じゃあ時間になったことですし、今回は特別に大目にみましょう。ただし、あれを社会科準備室に戻しておくこと。いいですね?」
 教壇の横にあるA4倍世界地図が入った大きな筒を桐生は指差す。
「は~い……」
「ではお願いします」

 桐生が教室を出て行くと真央がくすくすと笑いながら理子の机にまでやってきた。

「理子ってばせっかくの桐生先生の授業もそっちのけでずーっと外見てたんだ?」
「う、うん」
「もしかして昨日のあの男の人の事考えてたの?」
「……ッ!」
 途端にガシャン、という耳障りな音がした。図星を突かれ、ギクリとした拍子に筆箱を落としてしまったのだ。だがすでに教室内は昼の準備に向けてざわめき出していたので特に目立つことはなかった。
「あ、拾ってあげる」
 真央が散らばった筆記用具を拾い集める。
「わぁ、これ初めて見た! カワイイ! 隣の雑貨屋さんで買ったの?」
 昨日コウに買ってもらったヒヨコペンが真央の手の中でまた目を回している。
「そ、そう」
「ねぇ理子。昨日は結局帰りにいなかったんでしょ? あの赤い髪の人」

 真央がまた話題をコウに戻してきたので理子は急いで椅子から立ち上がった。昨日の帰りに会ったことはもちろん、今朝公園で話をしたことも全部内緒にしているのだ。
 理由はもちろん、コウが理子にしてきたあの忌まわしき衝撃行為(胸タッチ)を話せないからである。

「ご、ごめん、真央! あれを準備室に戻してくるっ!」
「あ、じゃあ私も一緒に行こうか?」
「ううんいいよ。走って行ってくるから!」
「あ、それなら私は待ってた方が早いよね。行ってらっしゃい」
「うん、すぐに戻ってくるからお昼の準備してて!」
 そう真央に伝えると理子は教壇に歩み寄った。そして黒板の右端に立てかけてあった特大地図が入った筒をうんしょ、と持ち上げる。

「重っ……!」

 さすが縦横どちらも一メートルを越す巨大地図が入っているだけのことはある。筒の縦の長さなどは理子の背とほぼ変わらない。しかしこれも授業そっちのけでボーッと外を眺めていた自分が悪い。当然のペナルティーだ。
 抱えるというよりはしがみつくような持ち方で教室のある四階から三階の社会科準備室に向けての長い旅がいざスタートする……はずだった。
 ちょっぴりズルをしてほんの少しだけ筒の底をズリズリと引きずりながら廊下を進んでいた時、とんでもない光景が廊下の窓ガラスから視界に飛び込んでくる。

 ―― あれは、ま、まさか……!

 慌てて窓枠に駆け寄りガラリと窓を開け、落ちないように気をつけながら身を乗り出す。
 なんと一つ下の三階の渡り廊下を赤い髪が悠々と移動中。
 それは呆れるほどにナチュラルで、感心するほど堂々としていた。

 ―― あれはどうみてもやっぱり絶対コウだ! なっ、何やってんのよ、あの男はっ!!

 学内に不審者が侵入した、と誰かが教師に告げにいっては一大事だ。
 その場に特大筒を放置すると、理子は三階の渡り廊下目指して走り出した。





[29700] Chapter3 : Come on! my house! 【2】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/13 23:44

 下へと続く階段を飛ぶように駆け降りる。

 ―― 何しに来たの、アイツ! 勝手に胸触った事はまだ許してないんだからね!

 確かにコウは一応「失礼します」とは断ってきたが、こっちが許可していなかったのだからあれでは了承を得た事にはならない。
 三階に着くと真っ直ぐに渡り廊下に向かって走る。
 幸いなことに、教師だけではなく、生徒も見あたらない。今は昼休みに入ったばかりで各自教室で昼食にしているからだろう。しかし三階の端には職員室がある。教師と鉢合わせしていないことを祈るのみだ。

 ―― 急がなくちゃ!

 理子はさらにスピードを上げて渡り廊下への最後のコーナーを曲がった。

「あぁ、リコさん!」

 ちょうど廊下を渡りきってきたコウが理子を見て嬉しそうに名を呼ぶ。
 全力を使い切った理子はハァハァと息を切らせながら叫んだ。
「コッ、コウ! あっ、あんた、何してんのよ、こんな所でっ!」
「はい、リコさんに会いにきました」

 なんとも潔い返事だ。その飾り気の無い素朴さが、逆に乙女のハートに直に響く。
 しかし今はそんな事を言っている場合ではない。

「どっどうやって校内に入ったのよ!? 正門の側には守衛室があるのに!」
「正門からは入りませんでしたから」
「じゃあどこから!?」
「南側の大きな建物の裏からです」
「みっ、南側って、まさか体育館の裏!? だ、だってあそこにはフェンスが……」
 水砂丘高校の体育館側には五メートルを越す高いフェンスがそびえているのだ。
「乗り越えました」
 とコウは事も無げに軽く言う。
 それが本当だとしたらなんて身が軽いんだろう、と思いつつ、理子はコウの顔をビシッと指差す。穏やかな笑みの相手に向かって激怒するのはあまりいい気持ちがしないが、いたしかたない。
「コ、コウ! 言っとくけど、私はまだ朝の事を許してないからね!?」
 コウは軽く目を伏せた。
「済みません……。どうしても僕の作るブラをリコさんに着けてもらいたくて……」
「だ、だからいいって断ったでしょ!?」
「リコさん……僕の腕が信用できないのでしょうか?」
 喉元に手を当て、真顔で尋ねてくるコウ。
「違ーう!! そうじゃなくて!」
 
 ―― あー、もう! この人ってなーんかどっかのネジがずれているんだよなぁ……。

「コウの腕が信用出来ない、とかいうんじゃなくて、だ、だから、つまり、はっ、恥ずかしいの!」
「リコさん、どうか恥ずかしがらないで下さい。僕は貴女にピッタリのブラを差し上げたいだけなんです。決してリコさんの胸が見たいからとかそんな邪な気持ちで言っているわけではありません」
「だ、だからそれは分かってるけど……」
「でしたら是非。ジャストフィットするブラをつけることは身体にもとてもいいことなんです。合わないブラをつけているとバストの形も悪くなりますし、肌が赤く腫れたり肩こりがおきることもあります。本来ならバストにつくべき部分が他の部分に流れて、メリハリの無い体型になってしまいますよ?」

 ……カチン。

 最後の言葉が思い切り引っかかった。

 ―― フンッ、どーせ私はメリハリの無い凹凸少なめ体型ですよーだ!

 コウの言っていることは確かに正論かもしれないが、男性に面と向かってそんな事を 言われるとなんだか一瞬だけ殺意が湧く。
 しかし熱弁をふるったコウは一歩も引く構えを見せない。このままではバストをコウに見せることになってしまいそうだ。理子は窮地に立たされる。なんとか上手く断ってここから追い出さねばならない。
 そう考えた矢先、廊下の先から大声が聞こえてきた。

「……しかし藤野先生、あの桐生先生はどうにかなりませんかね!? 俺はあの先生と話す度に頭の血管が毎回ぶちぶちと切れているような気がしますよ!」
「はっはっはっ、広部先生、また桐生先生と揉めたんですか? あなたたちは水と油のように離反する関係ですからなぁ」
「あの妙にえらぶった態度が気に食わないんです! この間も廊下を走っていた女生徒を俺が叱っていたら、桐生先生がスッと現れて、『もうそれぐらいでよろしいではありませんか。いつもそう大声で生徒達を怒鳴るばかりでは少々能が無いのでは?』なんて、逆に俺に説教かましてきやがってですね……」

 ―― まずい! あの声は広部先生だ! 見つかれば怒鳴られるだけでは飽き足らず、“ グラウンド十周 ”は確定コースッ!!

「コ、コウ! ちょっとこっちに来て!」
 理子はコウの手を取り、一番手近な社会科準備室に飛び込む。
「あのリコさん……」
「シッ! ちょっと静かにして!」

 やがて二人の教師の話し声がすぐ近くまで聞こえてくる。今コウが通ってきた渡り廊下の先には職員室がある。だからこの廊下は教師がよく通るコースなのだ。
 まったくよくここまで誰にも見つからないで来れたものだと理子はコウの運の強さに感心する。
 すると広部達が歩いて来た反対側からも教師がやってきて、最悪な事に理子達が隠れている部屋の前で立ち話が始まったようだ。

「これは藤野先生に広部先生。今日はどちらでお昼になさるんですか?」
「あぁ桐生先生。私達は裏の天宝飯店に行くところですが、よろしければ先生もご一緒にどうですか?」
「ふっ、藤野先生!」
 広部の慌てた声が聞こえてくる。
「いいじゃありませんか、昼は大勢で食べたほうが美味しいですよ」
「でっ、ですが……!」

 どうやら立ち話は長くなりそうだ。

「……どうしよう、出られなくなっちゃった……」
 理子はポツリと呟いた。
「どうしてですか?」
 と頭上から暢気な問い。小声で叱り飛ばす。
「何言ってんのっ。コウが見つかったらタイヘンなことになるでしょっ」
「僕がこの建物に入るのはいけないのですか?」
「あたりまえでしょっ。部外者が校内に入ってるのが分かったら大騒ぎになるわよっ。だから先生方がいなくなるまでここでやり過ごさなくっちゃいけないのっ。もっと自分の立場を考えなさいよ、まったくっ」
 それを聞いたコウは小さく身じろぎをし、次に発せられた言葉には深い感動の響きが混じっていた。

「リコさん……」

「なに?」
「……じゃあリコさんは僕の身を案じてこうして必死に庇って下さっているんですね……?」
「へ?」

 身をよける暇も無かった。
 制服がほんのわずかだけ、くしゃり、と小さな悲鳴を上げる。
 そしてあっという間に包み込まれていた。マスカットの香りと、コウの腕の中に。





[29700] Chapter3 : Come on! my house! 【3】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 09:30

「ひぇっ!?」

 異性に抱きしめられるなんてもちろん初めての経験だ。混乱で思わず叫んでしまう。

「あれ? 今生徒の声が聞こえたような……?」

 桐生の声だ。慌てて口を閉じる。
「気のせいではないですか? 今生徒達は全員昼を食べているからこんな所まで来ないでしょう。ねぇ広部先生?」
「あぁ、そうですねっ!」
 なにやら廊下は不穏な空気が漂っているが、一方のコウはまだ感動のオンパレード中らしい。

「リコさん……ありがとうございます、僕のために……!」

 しかもどうやらその感動はエレクトリカルパレード級のようだ。
 ますます強くぎゅぅぅ、と抱きしめられ、全身の至る所にコウの身体が触れて頭がくらくらしてくる。不整脈が激しすぎて、心臓が二倍くらいに肥大していそうな気がした。
 このままだと本気で悶死してしまいそうなので、必死にコウの身体を押し返し、精一杯の抵抗を試みる。
「ちょっ、ちょっとコウ、離してってばっ!」
 するとコウは少しだけ身を離したが、代わりに今度は壁に両手をつき、理子をその中にすっぽりと収める。

「……そういえば以前、武蔵に教えてもらったことがあります」

「は? な、何を?」
「惚れた女性を口説く時は “ 一押し二金三男 ”。とにかく押して押して押しまくれと」
 そう言いながらコウは自分の体ごと理子を壁際に一気に押し付けてきた。
「わぁっ!? おっ、押す意味が違うでしょうがっ!」

 ―― やっぱりこの人、ちょっとヘンだよ!! 

 と誰かに同意を求めたいが、残念なことに今二人の側に佇んでいるのはわずかに埃を積もらせた球径五十センチの巨大地球儀のみだ。
 その時、社会科準備室の扉がガラリと開く。

「誰かいるのかい?」

 ―― 桐生先生だ!

 声の主はそのまま室内の中へと入ってくる。
 二人がいた場所は幸いなことに戸口からは死角になる部分、地図などの資料が収められているスチール戸棚の影だったので、桐生は理子とコウにはまだ気付いていない。

 ―― と、とにかく息を殺してこの場をやり過ごさないと! 
 こんな所を見つかったら、コウの校内不法侵入罪だけじゃなく、私にも不純異性交遊罪とかそーいう何らかのペナルティーがありそう!

 コウに視線で “ 静かにして ” と必死に訴える。
 どうやら伝わったようだ。コウは微笑みながら小さく頷く。

 しかし良かった、と思ったのも束の間だった。

 今が抵抗出来ない状況なのを見越してか、再びグイ、と抱き寄せられる。後頭部にそっと手が添えられ、そのまま胸元にまで深く引き入れられた。
 緊張で身を強張らせながらも戸口に桐生がいるので声も出せず、糸の切れたマリオネットのようにこれを受け入れるしか今の理子に残された道は無い。

 コツコツ、と革靴の音が室内に響き、桐生が社会科準備室内に入ってきた。

 二人はピッタリと抱き合いながら静かに息を殺す。
 右の耳元にコウのわずかな息遣いを感じ、勝手にドキドキしてしまう理子。
 こうして体を完全に密着させているとコウの全身の筋肉の様子がはっきりと分かった。明らかに鍛えていそうな筋肉だ。そこに “ 男 ” を感じ、ますます身体が強張る。どうかこの心臓の鼓動の早さがコウに伝わってませんように、と下を向いて祈るばかりだ。

 今にも右頬に触れそうな位置にコウの唇があるのを感じる。顔がまた勝手に赤くなってきたのでその距離を広げるべく、わずかに身をよじる。
 すると手がスッと伸びてきて、本当に男性とは思えない滑らかな長い指が理子の顎にそっとあてがわれた。そして伏せていた顔をクイ、と上げさせられる。
 強制的に視線を合わせられたその先には、優しげな光が佇む双眸が自分を見つめていた。
 その瞬間、心臓がホップ・ステップ・ジャンプ! と三段跳びで跳ね上がる。


 ―― こっ、こここここここここのパターンは!!
 映画やドラマやマンガでよくありがちなこのパターン! 
 こうやって顎を上げられて、顔を固定されて、そんでもって最後に起こる展開は――っ!


 さっきはうっかり一度流してしまったが、つい今しがたコウに言われた言葉が甦る。


   “ 惚れた女性を口説く時はとにかく押して押して押しまくれ ”


 ―― って……! ちょっ、ちょっと待ってよ!! せめてこんなところじゃ……、じゃなくて! タイムタイム! ストップストップ!!  ブレイクだってばコウ!!

 もがきまくる理子。しかし。

 結局目を閉じる余裕も与えられなかった。

「んっ……!」
 木枯らしが吹く外をずっと歩いてきたのか、コウの体温は少し低めだ。
 だから柔らかくて、少し冷たいのだけれど、でもその中心はだけかすかに熱を持っているような…………例えるならそんな感じ。コウの唇はそんな感触がした。

 もちろん男性とキスをするのはこれが初めてだったが、そんな理子ですらコウのキスの巧みさが分かった。異様に手馴れているのだ。
 まずは唇を優しく押し当ててきた後、次に左の口角から右の口角まで、やわやわと甘噛みされる。そのなんともいえない気持ちよさに気が遠くなりかけ、押し返すためにコウの胸に当てていた手に力が入り、黒のハーフコートを思い切り握り締めてしまう。
 それが許諾の合図と受け取ったのか、ますますコウは抱きしめる腕に力をこめ、再び深い口づけをしてきた。

「素晴らしいですね……」

 窓際にまで歩み寄った桐生は外の見事な紅葉を眺めて一人呟いている。
 実はその左脇の戸棚の影では韓流ドラマも真っ青の熱烈ラブシーン中なのだが。

「ほら桐生先生、ここに誰かがいるなんてやっぱり先生の思い違いだったでしょう? さぁ一緒に天宝飯店に行きましょう。早くしないと席が埋まってしまいますよ?」

 スキャンをしたらそのまま特売価格が表示されそうな見事なバーコード頭を手で撫でつけながら、藤野が準備室内に入ってくる。
「えぇ、ではご一緒させていただきます。……よろしいですか、広部先生?」
 桐生は余裕にも取れる落ち着いた笑みを見せ、廊下に残っていた広部は不貞腐れた 表情で大きく腕を組んだ。
「あーはいはい! どうぞどうぞ!」
「じゃまいりましょうか」
 藤野の言葉で準備室の戸が閉まると三人の教師の足音はゆっくりと遠ざかっていった。





[29700] Chapter3 : Come on! my house! 【4】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/13 23:46

「ぷはっ!」

 元々体育会系体質で、中でも肺活量には自信がある理子だったが、さすがに一分近くにも及んだ無呼吸接吻は堪えた。勢い良くコウから顔を外し、ぜいぜいと荒い息を繰り返す。
 驚いたのがコウの息が何一つ乱れていないことだった。慈愛に満ちた眼差しと涼しい笑顔で理子を見下ろしている。
 両肩に怒りを乗せ、理子はコウを睨みつけた。

「コウ、あ、あんたねぇ……!」

 ―― 信じられない! せっかくの、ここまで大切にしてきた、最初のファースト……がっ! ものすごーくものすごーく痺れるようなドラマチックな展開で体験しようと思ってたのにーッ!! それがこんな雑然とした部屋でしかもほぼ強引! 息が苦しくて死ぬかと思ったし、もう今度こそ絶対に許さな……

「リコさん、これ、受け取って下さい」

「は?」
 突然顔の前に差し出されたキラキラと光るそれに理子は思わず目を凝らす。
 
 ……これって……どうみても鍵……よね?

 コウの長い指の先がつまんでいるのは真新しい銀の鍵。それが社会科準備室の窓から差し込む陽光を浴びて白い光を放っていたのだ。
「僕が借りている家の鍵です。今朝、これをお渡ししようと思っていたのですが、リコさんが急に僕を引っぱたいて帰ってしまわれたので……」
「あっ、当たり前でしょ! コウがいきなり胸なんか触ってくるから!」

 思い出したらまたむかっ腹が立ってきた。

「先ほど武蔵から夕方までには戻ってくると連絡が入ったんです。家の住所はこの紙に 簡単な地図を書いておきました。ここからならそれほど遠くありませんので、今日学校が終わったらいらして下さい。もし僕が外出していたら、この鍵を使って中で待っていて下さいね」
 コウは一枚のメモ紙と鍵を理子の制服のポケットにスッと入れた。
「ではお待ちしてます」
 そう告げるとその場に理子を残し、コウは身を翻して準備室を後にしようとする。
 理子はキレた。本気で完璧にキレた。

 ―― もうーッ! どうしてこの人はいつも勝手になんでも自分のペースで物事を進めようとするのよッ!! 私の都合も聞かないで!!

「い、行かないからね! 絶対!」

 身勝手な背中に向けて怒鳴ると去りかけていた足音がピタリと止まった。
 コウは再び理子の前に戻ってくる。
「なぜですか? 今朝リコさんは仰っていたではありませんか、僕が未来から来たという証拠を見せろ、と」
「もうその作り話はたくさんよ! なんと言われても絶対に行かないからね!」
「……分かりました」

 へぇ、随分素直に諦めたなぁ……。
 あっさりとコウが受諾したので思わず拍子抜けしてしまった。そして今、胸の中をほんの少しだけ寂しい風が通り抜けた気がするのは気のせいだと思い込む。

「ではこれを頂いていきます」
「は?」
 しゅるん、という衣擦れの音。
 あっという間に胸元の濃緑のリボンタイが抜き去られる。見事な手際だった。
「武蔵がよく言っているんです。“ 女は約束を破るのが性でそれが専売特許みたいなものだから、必ず質草の代わりになるようなものを取っておけ ” と。 では失礼いたします」
「あーっ! ちょっと! リボン返してよっ!」
「夕方お待ちしてますねっ」
 扉越しに振り返り、質に取ったリボンを大きく掲げるとコウは社会科準備室から軽やかに出て行く。
「待ちなさいコウッ!」
 慌てて廊下に飛び出したが、その姿はもうどこにも見えない。

 ―― 嘘!? こんな一瞬でいなくなる!?

 目の前の廊下の窓の一つが開いていることに気付く。
 ハッと予感が走り、窓に駆け寄ると中庭をコウが走り去っていくのが見えた。
 左手に握られた緑のリボンタイがまるで “ バイバイ ” と言っているかのようにひらひらと楽しげに舞っている。
 涼しくなった襟元を押さえ、思わず出たひとり言。

「……嘘でしょ……ここ三階なのに……」

 ―― 本当にここから下に飛び降りたの?
 しかも全然平気そうに走っていっちゃってるし!

 最後に一度校舎の方を振り返り、何とも爽やかな笑顔を最後に残して赤髪のライオンは去っていった。
 結局、また終始コウのペースに巻き込まれて終わってしまった。どうやら今回も理子の完全なる敗北である。





[29700] Chapter4 : MUSASHI 来襲! 【1】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 13:45

「絶対行かない、とりあえず行ってみる、絶対行かない、とりあえず行ってみる、絶対行かない…………」

 草むらに咲いていたしおれかけのコスモスでなんとなく始めた花占い。
 理子がブツブツと口中で呟くその度に、淡いピンク色の花びらが歩道にヒラヒラと儚く舞い落ちてゆく。今日は一段と気温が下がっており、こうして急ぎ足で歩いていてもたまに背筋がぞくりとした。

 しかし今日はコウのせいで本当に散々な午後だった。
 胸元にリボンが無いので担任には叱責されるし、廊下に放置してしまった世界地図入りの筒をお節介な誰かが職員室に届けたせいで、桐生にも呆れられてしまった。
 しかもここまで大切にしてきたファーストキスまで強引に近い展開で奪われ、まさに “ 大厄 ” といってもいいくらいの一日だ。

「とりあえず行ってみ……」

 最後の花びらが木枯らしに吹かれて後方へと流れていく。

「あぁーっ! “ とりあえず行く ” になっちゃったぁー!」

 すぐ側をのんびりと散歩中だった一匹の黒猫がその叫びに驚いて理子のすぐ前を横切る。またまた何かとんでもない事が起こりそうな予感がした。
「……やっぱり行った方がいいのかなぁ……」
 理子は真剣に悩んでいるようだが、コスモスの花びらは全部で八枚と決まっているので、“ 絶対行かない ” から始めれば必ずその反対で終わってしまう、花占いには非常に不向きな花であったりするのだが。

「それにしてもなによ、この住所!」
 今度はコートのポケットから一枚の紙を取り出し、不機嫌な乙女は愚痴り始める。
 渡された紙に書いてあった地図によると、コウの家はまさに “ ご近所さん ” と呼べるレベルの範疇にあったのだ。
 だが考えてみればコウと初めて会った公園も理子の家からすぐの場所なのだし、近所に住んでいる可能性は元々大いにあったわけだ。
「行くしかないか……」
 はぁぁ、と白いため息が秋の空気に溶け込んでいった。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 渋々と決意を固めた理子が自宅に戻ると、母の久住弓希子くずみゆきこと玄関内でバッタリ遭遇する。ヌーベルも一緒だ。

「お帰り、理子」

 弓希子は胸元が大きく開いた黒のキャミソールにキャメルの革コートを羽織り、ヒップラインを強調した深いスリット入りのタイトスカートを身につけている。腰近くまであるレイヤーの入った長い髪が一際目を引く、美人ではあるが、少々キツめの顔立ちの女性だ。

「お母さん、ヌゥちゃんとお散歩に行くの?」
 これから外に出られるとあって、弓希子の足元でヌーベルは尻尾を振りまくっている。
「ううん、ほら、明日パパが久しぶりに帰ってくるからさ、色々買出しにね。置いていくつもりだったんだけど、この子ついてきたがるもんだから連れて行くことにしたわ」
「それよりお母さん、香水つけすぎ!」
 弓希子から漂うパルファムの香りに理子は顔をしかめる。
「あらそう?」
 まったく悪びれずに娘に向かって笑うその顔は、パルファム以上に妖艶な色香を放っていた。
「お父さんが帰ってきてその格好見たらまた大騒ぎするよ?」
「パパと言いなさい」
 即座にピシャリとした言葉が飛んでくる。
「いいじゃないの、今いないんだから」
「ダメダメ、普段から口にしていないといざ呼ぶときにうっかり間違えちゃうんだから」
「だってお母さん、私もう十六だよ? もういいかげんにパパって呼ぶの止めたい……」
「しょうがないじゃない、あの人の夢の一つなんだから。“ 娘には死ぬまでパパって呼んでもらう ”って息巻いているからね」
「いい迷惑だよ……」
 さっきからため息の連続だ。

 理子の父、久住礼人くずみれいとは世の父親にありがちな典型的な娘溺愛タイプの男で、理子にいつも自分の事を “ パパ ” と呼ぶように強制している。もし間違えて “ お父さん ” とでも呼ぼうものならいつもその後は大変な事態になるのだ。

「あ、そうだ。お母さん、ちょっと聞きたいんだけど」
「なによ?」
「あのね、二丁目の権田原ごんだわらさんのお家があるでしょ?」
「あぁ、あそこね……あのお宅がどうかした?」
 なぜか弓希子はニヤリと笑う。
「最近あの家の人見かけないけどどうしたの?」

 もらった地図に書かれていたコウの家はその権田原家の位置だったのだ。





[29700] Chapter4 : MUSASHI 来襲! 【2】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 13:47

「あらやだ、理子、あんた知らなかったの!? あそこの家、ついこの間、すっごい修羅場を迎えて大変だったらしいわよっ!?」

 途端に弓希子の声が高揚しだす。とにかくゴシップやワイドショーの類が三度の食事より大好きな女性なのだ。
「あのお宅さ、上の息子が春に結婚したでしょ? で、結婚と同時に同居しようってことになって家を建て替えたじゃない?」
「うん。まだ出来たばっかりだよね」
「そう! で、二世帯住宅が完成していざ同居、になってたった二ヶ月よ、二ヶ月!」
「な、なにが二ヶ月?」
「二ヶ月で破綻したのよっ! その同居生活がっ!!」

 鼻息荒く弓希子は叫ぶ。まさに絶叫とも呼べる声量だ。しかし “ 他人の不幸は蜜の味 ” とはいうが、これほど露骨に喜ぶのもいかがなものか。

「まぁ元からうまくいくとはあたしも思ってなかったけどさっ、さすがに二ヶ月でおしゃかになったのには驚いたわね! なんでも聞いた話によると最初の火種が玄関問題でさ、お嫁さんが “ 玄関を二つにしたい ” って言ったのを税金対策で結局一つにしちゃったのが発端みたいよ!? そこをスタートにお嫁さんに不満がじわじわと積もっていって、ついに “ もう一緒に住めません! ” ってドカンと大爆発してさ! で、結局息子夫婦はあの家を出て、あそこのご夫婦二人で住むには家も広すぎるし、それで売りにだそうとしたんだけど、でもこの不景気で査定があまりつかなかったから賃貸で家を貸すことにしたんだって!」

 “ 立て板に水 ”どころか、 “ 立て板に豪流 ” 級の淀みない強烈な説明に理子は呑まれる。

「そ、そうなんだ。詳しいねお母さん……」
 そうか、そこをコウが借りたのか、と状況を把握できた理子が二階へ行こうとすると、
「理子、ところでどうして権田原さんの家のことなんか聞いてきたの?」
「いっいや、別に? ただなんとなく聞いてみただけ」

「……怪しいわね」

 手にしていたハンドバッグをシューズボックスの上に置き、弓希子はまたニヤリと笑う。
「なっ、なにが!?」
「母親……ううん、女の勘よ」
 ヒール高七センチのハイヒールが玄関先に吹っ飛ぶ。靴を脱ぎ捨てた弓希子は長い髪を揺らしながらずかずかと廊下を歩き、理子の前にまで来ると腰に手を当てて娘の顔をじぃっと覗き込んだ。

「……男でしょ?」

「ハイ!?」
「男が絡んでいるわね、今の話題には……。私には分かるのよ。そういう恋愛の香りをかぎ分ける事に関してはね」

 恋多き人生を送ってきたらしい弓希子には恋愛に関する嗅覚が恐ろしいほど優れている所がある。それは狩猟の雄、あのポインターに勝るとも劣らない研ぎ澄まされた嗅覚なのだ。

「しかしとうとうアンタにも男の影がちらつくようになってきたか……」
「ちっ、違うってば! ほら、お母さん、買い物に行くところだったんでしょ!? 早く行けば!?」
「……そうね、早くしないとタイムセール終わっちゃうわ。ま、この話題は帰ってきてからじっくり聞かせてもらうわ。じゃあねっ」

 その場に何ともいえない甘ったるい香りを残し、弓希子はヌーベルを連れて出かけて行った。
 なんとか母の追及をかわした理子は部屋へ戻ると制服を着替える。

「何着ていこうかな……」
 と思わず無意識に呟き、慌てて頭をぶんぶんと振った。
「……っ! ってなんかまるで楽しみにして行くみたいじゃない!」
 むーっとふくれながらジーンズを履こうとして、そういえば今朝もジーンズを履いていったな、と思いとどまる。
「お、おんなじ格好で行くのはアレだから、この場合は仕方ないわよね!」
 デニム素材のミニスカートを手にまたしてもひとり言だ。

「これでよしっ……!」

 ボトムに合わせてデニムジャケットを羽織り、出かける前に姿見で念入りな最終チェックをした後、理子は自宅を出た。
 カジュアルブーツの足取りが少々浮ついていたが、その事実を知らぬは本人ばかりなり、である。 





[29700] Chapter4 : MUSASHI 来襲! 【3】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 13:49

 母の弓希子命名、「修羅場の権田原家」に着く。

 以前は玄関扉の横にあった表札が無くなっていた。確かに貸しに出されているようだ。
 建てて間もないせいだろうがなかなか立派な二世帯住宅だ。
 別居騒動の発端になった玄関は一つだが、玄関上部には小型の監視カメラがついているし、リビングの窓ガラスも二重サッシでしかも防犯加工が施されていそうな分厚いガラスである。
 鍵はコウから貰っているが、いきなりそれを使って入る気にはなれない。チャイムを押して反応を待った。ところが応答が無い。

 ―― そういえば確かコウは “ もし僕が外出していたら、この鍵を使って中で待っていて下さいね ”って言ってたし、出かけているのかなぁ……。

 この家の中に入るか、諦めて帰るか、しばし悩む。
 だが担任からの追求には “ 風で飛ばされた ” などというかなり間抜けな嘘で乗り切ったが、リボンを返してもらわないと明日、また自分が困る羽目になってしまう。
 恐る恐る新品の鍵を取り出して鍵穴に差し込んでみた。鍵も凹凸の無い、ディンプルキーだ。

 捻ってみるとロックが外れた音がした。

 玄関の重い開き扉を遠慮がちに開けるとまず目に飛び込んできたのは正面にある長い廊下。右手の壁にドアがある。これがきっと二世帯の上の階に続く階段への入り口だろう。
「……コウ? いる?」
 玄関内に入りコウの名を呼んでみるがやはり帰ってくる返事は無い。中に上がろうかどうしようか再び悩み始めた時、玄関の扉がガチャリと勢いよく開いた。

「リコさん! いらしてくれてたんですね!」

 よほど嬉しかったのだろう、コウは輝くような最高の笑顔で理子に笑いかける。
 今のコウは昼に見た黒のコート姿ではなく、モスグリーンのフライトジャケットと、ジーンズという出で立ちに変わっていた。こういう格好をするとますます二十四には見えない。
「さ、上がって下さい!」
 先に玄関に上がるとコウは理子の手を取った。いきなり手を握られて思わずビクッと手を引っ込める。
「あ、すみません。僕、手が冷たいですよね」
 コウは今の理子の行動が自分の手が冷えていたせいだと思ったようだ。
「ど、どこに行っていたの?」
 どぎまぎしながら理子は尋ねる。
「はい、ブラの視察です」
「あっ、そう……」
 そうまで軽やかに言われると、返す言葉も無い。コウは先に立つと「どうぞ」と左手側のリビングへと続く扉を開けて理子を招き入れる。少し迷ったが結局ブーツを脱ぎ、理子は室内に入った。

「すみませんリコさん、まだ武蔵は帰ってきていないようです。今暖かい飲み物を淹れますのでそこにお座りになっていて下さい」

 通された十四畳のリビングには人気が無かった。生成り色のソファに座るように勧められたが、理子は「お、お茶なら私が淹れようか?」と申し出てみる。
「じゃあ一緒に淹れましょうか?」
 コウはフライトジャケットを脱ぎながら温厚な微笑みでそう提案してきた。
 ドキリと心が揺れる。
 それを悟られないように、持ってきた手土産の袋をとりあえず側にあったテーブルの上にドサリと置いて先にキッチンへと向かった。

 ―― あの笑顔よ! あれにいつもやられちゃうのよね……。でも今度こそきっちりコウに言ってやらないとっ!

 調理台の上にあった銀のポットを手に取りながら、またしてもコウのペースに流されていきそうな自分を叱咤する。
「リコさんはコーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?」
 続いてキッチンに入ってきたコウがそう尋ねる。
「ど、どっちでもいいけど?」
「じゃあコーヒーにしましょうか」
 まだ真新しい食器棚から慣れた様子でコウはドリッパーとコーヒーミルを出す。蓋付きのコーヒーミルに豆が入れられ、ハンドルがゆっくりと回りだすと、挽かれた豆の芳醇な香りがキッチン全体に漂いだした。
「この香りってなんか落ち着きますよね」
「うん」
「それと茶葉を焙じる香りとか。気分がリラックスします」

 コーヒーミルの回転する音だけが支配する静かな空間にこうして二人きりでいると、不思議に気持ちが少しずつ落ち着いてきている事に理子はまだ気づいていなかった。





[29700] Chapter4 : MUSASHI 来襲! 【4】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 13:51

「……いつからここに住んでるの?」

 コウの手元を見つめながら理子は呟いた。
「二週間ほど前からですね」
「一人で住んでいるの?」
「いえ、武蔵とです」

 コウはふとハンドルを回していた手を止める。

「そういえば今日はご迷惑をかけてしまったみたいで済みませんでした。リコさんの学校に入ることがいけないことだとは知らなかったもので」
「あっそうだ! リボン! リボン返してよ!」
「はい。もちろんお返しします。こうして来ていただけたのですから」
 コウは着ていたグレーのハイネックシャツの胸ポケットから緑のリボンタイを出した。
「な、なに!? それ、ずっと持っていたの!?」
「えぇ、大切なリコさんのものですから無くしたらいけないと思って。ではお返ししますね」
「……!」

 胸の奥が不自然に歪んだような気がした。
 目の前にリボンタイが差し出される。でも素直に受け取れなかった。そうして肌身離さず大切に持っていてくれたのは嬉しかった。だが――。

「リコさん……?」
「コッ、コウは勝手だよ!」

 ―― 言わなくっちゃ! 今度こそちゃんと言うんだから! 迷惑してるって!

「そっ、そうやって自分で勝手になんでも決めて、そして私を振り回して! 私にだって 都合ってものがあるんだからね!?」
 理子の激しい口調に呑まれたのか、コウは静かに目線を落とす。
「だから迷惑なの! すっごく!」
「……済みません……」
「謝ればいいってもんじゃないの! とっ、とにかく、もうこんなことは二度としないで!  分かった!?」
「……はい……」

 伏せられたコウの睫は何度も小さく瞬きを繰り返し、かすかに震えている。
 雨に打たれて行き場を失った子犬のような、そのあまりにも哀しそうなコウの仕草と表情に、なんだかこちらが加害者になったようで、怒りのテンションが瞬く間に急降下していくのが分かる。

「わ、分かれば今回はもういいけど……」
 唇を尖らせ、わずかに顔を逸らしてそう答えた時、フッと身体が浮いたような感覚がしてバランスが大きく崩れる。


 今回はマスカットの香りを感じなかった。
 キッチンに漂うコーヒーの香りの方が何倍も強かったからだ。
 そのせいでコウに抱きしめられていることに気付くのに数秒の時間を要してしまった。


「……気分を悪くなされたのなら謝ります。でも、僕は貴女の側にいたいんです……!」
 懇願の言葉と共に強く、強く抱きしめられる。だがその抱擁は息はできるくらいの強さなのになぜか息が上手く出来ない。
「リコさん……」
 両肩を掴まれ、そっと押し付けられた先は大型冷蔵庫だった。

 ブゥン、というかすかな振動。
 冷蔵庫が冷却にいそしむモーターの稼動音が背中越しに伝わってくる。
 好きです、というコウの囁き声がそのモーターの音に混じり合う。
 真正面にあるコウの顔はまだどこか哀しそうな影が残っていて、その表情を見ているだけで胸が詰まった。

「コ、コウ……」
「好きです……貴女が好きなんです……」
 わずかに潤む瞳を揺らしながら、コウは何度も何度も、まるで理子に呪縛をかけるように、目の前で同じ言葉を囁き続ける。
 ここまではっきりと告白され、理子の胸の奥は大きく震えた。そして何度もそう囁かれる度に、身体の中心がじん、と痺れ、抗おうとする力が頬にかかるコウの熱い吐息であっけなく溶けてゆく。
 理子の左頬に一度だけ軽く口付けをすると、コウの唇はそのまま頬の上を滑るように、次の目指すべき場所へと静かに移動し始める。

 ―― まっ、またこの人にキスされちゃうっっ……!
 
 抵抗はしなかったが、咄嗟に強く目をつぶった。
 ギュッと固く閉じられた理子の唇にわずかに開いたコウの唇が後数センチで到達しようとした、その時。
 二人の背後から妙に甲高い声が突如聞こえてきた。


「おいおいなんだよコウ! まだお天道さんのある内から女を連れ込んでラブシーンか? お盛んなこったな!」


 ―― だっ、誰!?

 どうやらキス寸前シーンを第三者に見られてしまったようだ。
 理子は身を隠すようにコウにしがみつき、その肩越しに視線を走らせる。だがおかしなことにそこには誰もいなかった。

「今帰ったんですか」

 理子の両肩から手を離し、後ろを振り返ったコウはそう声をかけた。
「あぁ、ちょいと長居をしすぎて遅くなっちまった。しかし仏閣巡りはやっぱ最高だなっ! でよ、コウ。そいつがお前が惚れたっていう女なのか?」
 えぇ、とコウは頷く。そして理子に向き直ると、
「リコさん。紹介します。彼が武蔵です」
 コウの視線に合わせて上を見上げた理子は思わず叫んだ。

「こっ、これ 、 、 がっっ!?」





[29700] Chapter4 : MUSASHI 来襲! 【5】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 13:56

 だがそう理子が叫んだのも無理はない。

 まず、第一に武蔵は “ 人類ヒト化 ” の生物では無かった。
 直径わずか十センチ少々。
 特大カタツムリの殻にそっくりな、うずまき状に膨らんだ、丸みを帯びたそのボディ。
 殻の右側には小型の液晶画面のようなものが埋め込まれており、逆側のうずまき面には模様が描かれているのだが、なんとその柄は唐草文様ときている。緑をバックにつる草が四方に伸びているような曲線文様の、大昔に泥棒が盗品を失敬する時に包んだあの風呂敷柄だ。

「コレとはなんだ、コレとはっ!」

 理子の頭上で武蔵が怒鳴る。
 液晶側にある、二つ並んだ内のレッドランプの方が激しく点灯を繰り返している様子から推測すると、どうやらこれはかなり気分を害しているサインらしい。最初に武蔵の声を聞いた時に妙に甲高い声に感じたのは、それが機械の発する電子音だったからだ。

「リコさん、これで信じていただけましたか? 僕が未来から来た人間だという事を」

 挽かれたコーヒー豆の香りの中でコウが微笑む。
 武蔵を見上げ、理子はただひたすら呆然としていた。
 信じるしかない光景がそこにある。
 このカタツムリの殻のような珍妙な物体が喋るからではない。
 高速歩行やダンスも可能な二足歩行エンターテインメントロボットなどに代表される、言葉で人間とコミュニケーションを取ることのできる機械など、この時代にもすでにいる。
 しかしこの武蔵はそれらとは一線を画す、決定的な違いがあった。

 浮いているのである。ふよふよと。

 それはラジコン等の動きとは明らかに違う動きで、主翼も回転翼も何も無い、ただの大きな巻貝のようなこの物体の動きは、自然でまさに流れるような見事な浮きっぷりだった。
 キッチン内上空をふよふよと旋回しながら武蔵は再び理子に向かって怒鳴りつける。

「おい! 聞いてんのか、そこの子雌こめすっ!」
 
「こっ、子雌って私のこと!?」
「……武蔵」
 コウはフゥ、と息を吐き、やんわりと相棒をたしなめる。
「女性に対してそのような失礼な言葉を使ってはいけませんよ」
「へっ子雌は子雌だろうが! こいつの分類はヒト化の雌でしかもまだ子供だ! 子雌と呼んでどこが悪い!」
「済みませんリコさん……本当に口が悪いのが武蔵の唯一の欠点で。どうかお気を悪くしないで下さいね」
 困ったような笑い顔を浮かべ、代わりにコウが謝る。
「おい、子雌っ! お前、なんて名なんだ!?」
 理子の顔の前に唐草文様の物体がスゥッと急降下してくる。
 相手は機械だが、その不躾な態度に理子はキレた。
「な、なによアンタ、エラそうに! 人に名前を尋ねる時はまず自分が名乗るもんでしょ!」
「おっと、それもそうだな! じゃあいっちょ自己紹介ってやつをやってやるか!」
 気合が入ったのか、例のレッドランプがピーッという音と共に一際明るく光り輝く。

「いいか、しっかり覚えとけ! 俺は女性下着請負人マスターファンデーション蕪利かぶりコウの相棒で、電脳巻尺、通称 “ エスカルゴ ” の武蔵さまだ!」

「え、えすかるご……?」
「はい。僕ら女性下着請負人マスターファンデーションがそれぞれ持つ物差メジャーのことを、電脳巻尺エスカルゴというんです」
 と、コウの補足が入る。
「そういえばコウの苗字って初めて知った……。“ かぶり ”っていうの?」
「はい。ですがそれは苗字ではないんです」
 コウがその先を説明しようとするとすかさず武蔵が割り込む。
「そこは俺が説明してやろうじゃねぇか! でもコウ、この子雌に言っても大丈夫なのか?」
「えぇ。リコさんには僕の “ 補佐人パートナー ” になっていただきますので」

 ―― パ、パートナーって……!?

「ふーん……こいつに決めたのか……」
 武蔵は理子の頭のてっぺんから足元まで何度も往復し、まるで品定めをするかのような動きを見せる。
「……お前、胸小せぇな」
「なっ! しっ、失礼ね!」
 確かに大きくはないが、こんな唐草文様の珍妙な巻尺風情に言われる筋合いではない。
「武蔵。今の発言を取り消しなさい。本当に失礼ですよ」
「でも俺は事実を言っ……」

「取り消しなさい」

 コウが鋭く言い放つ。
 たった一言だけではあったが、普段は温厚な人間がそのような言い方をすると相手にかかるプレッシャーは非常に大きい。今まで尊大な態度だった武蔵は少しだけ神妙になった。
「……わ、悪かったな」
「済みません、リコさん」
 同時に謝られ、理子は「も、もういいけど」とだけ答えた。
 もうなんだかさっきから色んなことがあって頭がパニック中だ。
「おう、そうだ。コウ。そういえば俺、この後また出かけるんだよ」
「またマイナーなお寺を見つけたんですか?」
「まぁな! まだ日のある今の内に行くつもりだが、お前が一度戻って来いっていうから戻ってきたんだ。何の用だったんだ?」
「リコさんのバストを測りたいんです。武蔵がいないと出来ませんからね」

 ―― なななななななななっっっ!? 

 いっ、いま、コウなんて言った!?






[29700] Chapter4 : MUSASHI 来襲! 【6】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 14:01

「ちょ、ちょっとコウ! そ、それどういう……」
「じゃあ先に測っちゃいましょうか。ではリコさん、失礼します」
 理子の着ていたベロア素材のワイン色のカットソーがコウの手であっという間に上に捲り上げられる。

「ひゃああああああっ!?」

 ベビーピンクのブラが “ Yeah! Hello! ” 状態だ。
 以前、乙女妄想回路で上演したあの演劇の時のように、コウは理子の前に片膝をついて大きく跪いているが、口にする台詞は「どうか自分と付き合って下さい!」ではもちろん無い。代わりに、
「採寸はすぐに終わりますからね」
 とニッコリ微笑み、華麗に言ってのけてくる。
  

 ―― さ、さっきあんな殊勝な顔してたくせに、この人、私の言ったことを全っ然分かってないじゃないのぉぉぉぉーっ!!


 先ほどのやり取りがすべてムダだった事を悟った理子は、慌ててたくし上げられたカットソーを必死に引き下ろす。
「だっだからブラはいらないって言ってるでしょーっ!」

 すると「おい子雌!」と頭上から声。

「お前、コウにブラを作ってもらえるのがどれだけありがたいか分かってないな? コウのブラが欲しい客は普通は最低で一ヶ月、シーズンによっては三ヶ月近く待たされるんだぞ? それをこうしてすぐに作ってもらえるんだ、少しはありがたがれよ」
「そっそんな事知らないわよっ! とにかくいらないっ! わっ、私もう帰るから!」
 貞操の危機を感じた乙女はキッチンから脱出する。

 ―― コウのバカバカバカッ! 信じらんないっ! 何考えてんのか分かんないよ! 

「おい、子雌が逃げたぞ。どうすんだ、コウ?」
「困りましたね……正確なサイズが分からないとブラは作れませんし……」
 キッチンから聞こえてくる暢気な話し合いを背に、玄関まで一気に走る。急いでブーツを手に取ったその時。

「じゃあ実力行使っきゃねぇよなぁ」

 武蔵の声だ。
 間髪入れずにシュン、と鋭く短い音が鳴り、それは廊下の空気を真っ二つに切り裂く。
「きゃあぁぁぁーッ!?」
 一瞬にして身体の自由が奪われた。
 廊下の奥から飛んできた白い紐のようなものが理子の上半身にグルグルと巻きついたせいだ。

 ―― な、なにコレッ!?

 よく見るとただの紐ではない。色々な数字や記号、それに線が書き込まれている。
 ようやくこの紐の正体が巻尺の紐、メジャーテープな事に気付いた直後、理子の身体はあっという間にグイグイとキッチンへと連れ戻される。たかが直径十センチほどの巻尺のくせにすごいパワーだ。

「お帰りなさい、リコさん」
「手間かけさすんじゃねぇよ、子雌」

 キッチンで再びご対面した両名の台詞だ。
「やだやだやだー!! 絶対にやだー!! コウのエッチ!! スケベ!! ヘンターイ!!」
 生バストを見られたくなくて全力で暴れたが、上半身に巻きつけられた巻尺はびくともしない。
 もうこうなってはカゴの中の鳥、どう足掻いても逃げられない、子牛が荷馬車で売られてゆく哀れなドナドナ状態である。
「暴れてたら測れねぇじゃんかよ。ったく面倒くせぇ子雌だな」
 なぜか武蔵は縛っていたメジャーテープをハラリと緩める。
 身体に自由が戻り、やった、と思った瞬間、今度はテープは手首だけに巻きついた。そして一気に急上昇する。

「ひゃぁっ!?」

 両手が高々と上に上げられ、足こそ床に何とかついているものの、理子は半分吊るされた格好になってしまった。
「ちょっ……! なっなにすんのよっ!?」
「ほれコウ、子雌の手を押さえておくからパパッと済ましちまいな。早くしないと日が落ちちまう。寺に行けなくなるじゃねぇか」
「はい。では急いで」
 コウが再び理子の前に歩み寄る。
「やっ、やめてってばコウ!! お願いっ!!」
 理子は真っ赤な顔で必死に頼み込むが、帰ってきた返事はまたしても、

「大丈夫ですよ。すぐに済みますので」

 だった。
 本当に、呆れるほどまったく分かっていない男がここにいる。
「だからそういう問題じゃないのーっ!」
 しかしコウはニッコリと微笑み、
「失礼します」
 再びカットソーがふわりとたくしあげられる。
「ひえええっっ!!」
「武蔵。クロスピンありますか?」
「あぁ。ほらよ」
 唐草文様部分がパクリと開き、中から小さなクリップのようなものが飛び出てくる。
「幾ついるんだ?」
「三……いえ、四つ下さい」
 武蔵の内部に収納されていたそのクリップを使い、コウは捲り上げた理子のカットソーが落ちてこないように次々と留め始める。
 カットソーを留め終わった後、理子の背中にコウの手が回った。
「やややややめてってばー!」

 ほんのわずかだ。
 それは時間にして一秒かかったか、かからないか。
 たぶんかかっていないだろう。それほど見事な外しっぷりだった。
 親指と人差し指、たった二本を合わせて軽く捻らせただけでパチン、と簡単にホックが外れる音がする。

 ―― プロだ。やっぱりこの人、ブラのプロだ……!





[29700] Chapter4 : MUSASHI 来襲! 【7】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/13 23:54

「あ、武蔵すみません、やっぱりもう一本クロスピン下さい」

 武蔵が追加で出した五本目のクロスピンがカットソーと一緒にしっかりと留めたのは、どうみても自分のものと思われる見慣れたベビーピンクのブラだった。
 
 …………と、いうことは…………。

 理子は恐る恐る真下に視線を向ける。しかし、たくしあげられたカットソーとブラで自分の胸は見えなかった。でも妙にスースーした感触が肌を刺す。
 
 ……ハ、ハダカ……見られてる……の……?

 羞恥のキャパシティを大きくオーバーしているこの非常事態に、脳はその活動を半停止してしまった。そんな理子の耳に穏やかなコウの声が響く。
「武蔵、まずはアンダーから行きます」
「今、子雌に一本使っちまってるからスペアの方でいいな?」
「えぇ、お願いします」
「そらよ」
 パシュ、という音と共に武蔵の体内から二本目のメジャーテープが飛び出す。利き手で器用にテープをキャッチしたコウは滑らかな動きでそれを理子のアンダーの部分に当てた。
「……64ですね」
 コウがそう呟いたのと同時に武蔵の体内がピッという音を発した。
「次はトップです。こちらは武蔵が測って下さい」
「了解」
 武蔵が操作しているのか、息吹を得たスペアテープがしゅるしゅると独自に動き出す。
 両手の空いたコウは理子のバストを下から包み込むように持ち上げた。
「いぃぇぇぇッ!?」
 バストに直接コウの手が触れたのを感じ、おかしな奇声を上げてしまう理子。

 ―― さっ、触られてる!? もしかして直に触られてるッ!?

 自分のバストを持ち上げているその手はまだ少し冷たかった。つい先ほど玄関で握られた時と同じ温度。
 やはりどうみても触られている。

「リコさん、緊張なさらないで下さい。立った状態でバストを測ると重力でバストが下垂してしまうのでこうして正しい位置に合わせて測るんです」
 にこやかな説明が真下から聞こえてきた。
 バストの最も隆起している部分にスルスルとテープが絡みつき、またピッという電子音。
「トップ測ったぜ、コウ」
「ではいつものように記録しておいてください」
 武蔵は「了解」と言うと二本のメジャーテープを素早く体内に収納した。

 両手の拘束が解かれて理子に自由が戻る。
 だが身体と精神、その両方に受けたあまりのダメージに、理子は冷蔵庫に背中を預けながらキッチンの床にペタンと座り込んでしまった。
 コウは跪いていた身をさらにかがめ、理子のカットソーにつけていたクロスピンを一つずつ外し出す。
「お疲れ様でした。明日までにリコさんのブラをお作りしてお届けしますね」
 しかし放心状態の理子は返事をしない。するとクロスピンをすべて外し終えたコウは、更なる手伝いを申し出る。

「あ、リコさん。よろしければブラ、僕がつけましょうか?」

 この言葉が怒りのビッグ・バンへの最終起動スイッチだった。
 半停止していた理子の神経回路がこの瞬間に一気に繋がる。


「コウのバカァァァァァァァ――――ッッッ!!!」


 たぶんこれが今までで一番スナップが効いた一撃だ。
 またしてもコウの頬を渾身の力をこめて思い切り引っぱたいた後、理子は服を元通りに引き下げ、リボンを掴むとこの修羅場ハウスから飛び出していった。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 理子のいなくなったキッチンで男同士(正確には男一名と機械一体)の会話は続く。

「……しかし気の強い雌だな。今の絶対全力で引っぱたいてきたぞ」
「まぁ慣れてますんで。これで三度目ですから」
 赤い手形がついた左頬をさすりながらコウは余裕の笑みだ。
「でもお前の好みがああいうタイプだったとはなぁ」
「意外でしたか?」

 腕を組んでキッチン台に寄りかかり、そう武蔵に尋ねるコウの声はかすかに笑いを含んでいる。

「……いや、納得だね。お前は真正のマゾ体質だからな」
「ははっ、相変わらず失礼ですね、武蔵は」
 コウは身体をくの字に曲げて軽い笑い声を上げた。
「大体よ、あの子雌に惚れたきっかけが今みたいに顔を引っぱたかれたからなんだろ? それに今のビンタだってお前ならいくらでも避けられたはずなのにわざと喰らってたじゃねぇか」
「いえいえ、リコさんの手のあまりの速さに避けられなかったんですよ」
「嘘つけっての! ま、いいや、じゃあ俺はちょっくら出かけてくるぜ」

 再び外出しようとキッチンからリビングへ浮遊移動した武蔵は空中で一旦停止する。メジャーテープ収納口のすぐ上部にあるレンズが何かを捉えたようだ。

「おいコウ。これなんだ?」
「なんですか?」
「これだよこれ」
 リビングのテーブルの上に置かれている白い紙袋を武蔵はメジャーテープで指す。コウもリビングへ出てきてその袋を見た。
「あぁ、そういえばリコさんが持ってきてたものですね。一体何でしょう」
「なんだ子雌の忘れ物か」

 スペアのテープも出し、武蔵は二本のメジャーテープを器用に動かして紙袋をがさごそと開ける。中にあったのは六匹のたい焼きだった。

「なんだ、“ 小麦の魚皮フイッシュスキン・フラワー ” じゃねぇか」
「あぁ、これは一石庵いっこくあんさんのたい焼きですね。ここのたい焼きってとても美味しいんですよ。白餡タイプのたい焼きが特に美味しいんです」
「ふーん、一応手土産を持ってきたってことか。多少は気が利くところがあるじゃねぇか」
「そうですね。本当にいい娘ですよ」

 袋からスゥィート風味の小麦魚を一匹取り出し、コウはそれを優しい眼差しで見つめる。

「そうだ、コウ。今の子雌でお前の顧客数がとうとう千になったぞ。今度祝いでもやるか?」
「あぁ武蔵。リコさんのデータはNo,0に書き換えて置いて下さいね」
「何ぃっ!? 最優先トッププライオリティにか!?」
「はい」
「コウ、お前…………マジなのか?」
「えぇもちろんですよ」
「ほぉ……」

 今回はレッドランプではなく、その一つ上のブルーランプがゆっくりと点滅を始める。

「……じゃあこの先、お前が為すべき事は一つだな、コウ」
「はい。分かっています」
 コウは力強く頷く。
「でもあの子雌はじゃじゃ馬そうだから手懐けるのに苦労しそうだがな」
「道程が険しいほど燃えますよ」
「ヘッ、ヒヨッ子が頼もしい事言うようになったじゃねぇか。じゃあ今回も俺からのありがたい人生必勝アドバイスをくれてやる。いいか、“ 将を射んとすれば ”……」
「 “ まず馬を射よ ” ですね」
「分かってんじゃねぇか! ま、せいぜい頑張りな」
「えぇ、頑張ります!」

 左頬に赤々とした理子の手形をつけ、少々白餡がはみ出しているたい焼きの尾を口に、どこまでも爽やかに笑うコウであった。





[29700] Chapter5 :  - Risky Lion - 【1】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 22:10

―― あの時 そっと胸に当てられた冷たい指の感触が忘れられない――


 それは慈しむように繊細で


 護るように愛おしく私を包み込んできた


 細長いあの人の指がほんのわずかだけ私の胸を押し上げた時


 身体の中を突き抜けるような電流が走った


 そう あれはきっとすべて私のため


 私に最高のブラを作ってくれるため  ただそれだけ……


 だから、だから…………







「……って、許されることじゃないでしょうがぁぁぁぁぁぁぁぁ――――っっ!!!!!」


 ゼイゼイと姿見の前で朝から絶叫する乙女が一人。鏡面には空色のパジャマ姿で息を荒げる理子が映っている。
 コウの家で上半身をハダカにされてバストサイズを強引に測られた昨日のあの忌まわしい出来事を、得意の乙女妄想回路で何度美化しようと思っても不可能だった。思い返すたびに恥ずかしさでこのフローリングの床を転げまわりたくなる。

「何だようるせーなぁ。朝から欲求不満か?」

 理子の部屋のドアを開けて顔を覗かせたのは中学三年の弟、久住拓斗くずみたくとだ。
「ななっなによ拓! その欲求不満って!」
 すでに制服を着て一階に行こうとしていた拓斗は短く刈った髪に手をやり、ニヤニヤと笑いながら室内に入ってきた。成長期中盤のその体はもう姉の背を五センチほど抜いている。
「だって姉ちゃんさ、もう十六だってのに男の一人もいないだろ? だから色々欲求不満になってるんじゃないかなぁってさ、弟の俺は心配してやってるわけよ」
「だだだだ誰が欲求不満よ!」
 最近は口も達者になってきた拓斗に姉の理子もたじたじだ。
「姉ちゃんは恋愛ドラマやマンガを見過ぎなんだよ。世の中、あんなに都合のいい展開が起きるわけねぇじゃん。しかもああいう類のストーリーってさ、ほとんど女にばっか都合のいい展開で笑っちゃうよ」
 拓斗は憐憫のこもった目を姉に向ける。
「なぁ、だから姉ちゃんももういい加減に白馬の王子がやって来る系のアホな夢から醒めろよ。そんで身近な男でとっとと手を打ってさ、早いとこその欲求不満解消しろって。華の命は短いんだぜ? ……ま、姉ちゃんは間違っても華じゃねーけどな」
「たっ拓斗ーッ!」
 手近にあった枕を思い切り拓斗に投げつける。ヒョイとそれを避けた拓斗はハハハ、と笑いながら一階に下りていった。
「もう何なのよ……!」
 床に落ちた枕を拾ってドスン、とベッドに腰をかける。そしてその枕をぎゅうう、と全力で締め上げた。もちろんこの哀れな枕はコウの身代わりである。

「コウのバカバカバカバカ!」

 華の十六歳の生バストを見られてしまったのだ。しかもあんな至近距離から。あのバスト測定時のコウの視点を想像するだけで恥ずかしさで死にたくなる。
 枕を投げ捨てるとクローゼットを壊れそうな勢いでバンッ、と開けた。

 ―― もう絶対絶対、今度こそ本当に絶対に許さないんだからっ!

 制服を着ながらそう強く決意した時、机の上に置いてあった緑のリボンタイが目に入った。そっと手に取る。


(えぇ、大切なリコさんのものですから無くしたらいけないと思って)


 このリボンを肌身から離さず、ずっと持っていたコウ。
 自分自身でうまく説明出来ない、気付いているけど知らないフリをしていたい、もう一つの気持ちが胸の奥にある。
 気持ちを落ち着かせるため小さく息を吸い、リボンを胸元で結び始めた。するといつもは一発で左右対称に綺麗に結べるのに今日は何度やってもリボンの長さが綺麗に揃わない。


(……気分を悪くなされたのなら謝ります。でも、僕は貴女の側にいたいんです……)


 昨日の記憶が次の告白を再生し始めようとしたので頭を振り、急いでそれを中断する。
 グッと下唇を噛み、決まらないリボンのままで理子は部屋を出ていった。





[29700] Chapter5 :  - Risky Lion - 【2】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 22:13

 午後五時。暮れ始めた晩秋の夕焼け空はなかなかに美しい。
 真央と一緒に下校していた理子は茜色に染まるその金天を見上げてふぅ、とため息をついた。

「理子、元気無いね。何かあったの?」
 真央の問いかけに慌てて首を振る。
「ぜっぜんぜん! 何にもないない!」
「……そお? だって昨日からずーとボーッとしているよ?」
「ほ、ほんとになんでもないって!」
 背筋を伸ばして真央の言葉を全否定したが、確かに今日一日、学校で何をしたのかまったく覚えていなかった。一昨日初めてコウと出会ってから、学校の授業も上の空で、コウの事ばかり考えている。のんびり屋の真央にまでそう言われるということは私、相当ボケッとしているんだな、と理子は思った。

「じゃあ、気分転換してみない?」
 そう切り出した真央は、自分の口から白い息が漏れたのを見て急いで襟元のマフラーに口元を埋めた。とても寒がりなのだ。理子もマフラーを巻いているが、寒さに強い理子の場合は防寒対策というよりはどちらかというとファッション感覚だ。
「気分転換って?」

「じゃじゃーん!」

 真央は可愛らしい声でコートのポケットから二枚のチケットを取り出す。
「ね、明日日曜日で学校休みだし、これに行こっ?」
「なに、コレ?」
 真央から手渡された派手なチケットに目を走らせる。
「……【 天女の里、極楽パラダイス 】?」
「ほら、前に理子にも話したじゃない。今度新しくスパ施設が出来るって」
「あ、真央の家のすぐ近くに出来る、って言ってた所?」
 理子はチケットから目を離し、左肩から落ちそうになっているモカ色のチェックマフラーを掛け直した。
「そう。明日オープンなんだって。それで町内会経由でその招待チケット貰ったの。肌にすっごくいい薬湯とかもあるみたい。もうすぐ修学旅行だし、その薬湯に浸かって美肌になりに行かない?」
「肌がキレイになるのはいいけど……」
 今の真央の話の一部が不可解だった理子は眉根を寄せる。
「でもなんで修学旅行が関係あるの?」
「だって、修学旅行は桐生先生と四日も一緒に行動するでしょ? 肌の調子をベストの状態にしておかないと……」
 頬を染めてもじもじしながら答える真央に理子は笑い出した。
「ちょっと真央、一緒って言ったって桐生先生は担任じゃないし、別に真央と二人っきりで行動するわけじゃないでしょ?」
「そんなの分からないよ、理子! だって二日目の自由行動だってあるし、ほんの一瞬でも先生と二人きりになれるチャンスがもしかしたらあるかもしれないじゃない!」
 目を輝かせてそう言い切る真剣な様子の親友を見て、理子は少しだけ真央が羨ましくなった。
「いいなぁ、真央は……」
「どうして?」
「だって今の真央、すっごくいい顔してるんだもん。“ 恋するオトメ ” って感じでさ」
 するとなぜか真央はくすくすと笑い出す。
「な、なんで笑うの?」
「その言葉、そのまま理子に返してあげる!」
「どういう意味よ、それ?」
「私も確かに今、桐生先生に恋をしているけど、理子もそうでしょ?」
「ううん、私は真央みたいに桐生先生にそこまでの気持ちないよ? ステキだな、とは思うけどね」
「違うわ。桐生先生じゃなくて、別の人よ」
 真央は両方の口角を上げたままで理子の顔に向かって人差し指を突きつける。

「……あの人でしょ?」

 ギクリとしながらも理子は強がる。
「あ、あの人って誰よ?」
「分かってるくせに」
 目を細め、笑う真央。その時、理子のスクールバッグから着メロが鳴り始める。
 今の話題をぶつ切りにするチャンス到来だ。急いで携帯を取り出すとメールが一通届いていた。差出人は弓希子だ。
「あ、お母さんだ。なんだろう……」
 メールを読んでみる。


【 理子、今どこにいるの? 今日は絶対にどこにも寄り道しないで急いですぐに帰ってきなさい! いいわね!?】

 
 本文はそれだけだった。
「理子のお母さんから? 何の用だったの?」
「今日は寄り道しないで急いで帰ってこいって」
「何かあったのかな?」
「うん。今日お父さんが帰ってくるからだと思う」
「あ、理子のお父さんって単身赴任中なんだもんね。じゃあ明日のスパはやっぱり止めたほうがいいかな? せっかくの家族水入らずの貴重な時間、邪魔しちゃ悪いもの」
「ううん、行こうよ! 明日、お父さんとお母さん、朝から二人でどこかに出かけるみたいだからどうせヒマだし」

 デートだね、と真央は笑う。

「でも本当に理子のお父さんとお母さんって仲いいよね。いつもラブラブなんでしょ?」
「ラブラブっていうか……お父さんがさ、とにかくスゴいんだよね……」
 理子は苦笑しながらそう答えた。娘溺愛タイプの礼人だが、実はそれ以上に妻の弓希子に対しての愛情のかけ方がハンパではないのである。
「じゃあ理子、明日何時にする?」
「どうせならオープンする時間にしない? 混みそうだし」
「じゃあ十時ね。でも明日は近隣の人だけを招待するみたいだからそんなに混まないと思うよ。だからこの招待チケットが無いと明日は入れないんだって」
「そっか、じゃあゆっくりお風呂に入れるんだ?」
「そ。待ち合わせは直接ここにしよっか?」
「うんいいよ!」
「じゃ明日十時にね、理子」
「じゃあね、真央!」

 駅で真央と別れ、理子は急いで家に戻った。
 現在、自分の家で何が起きているかもまったく知らずに。





[29700] Chapter5 :  - Risky Lion - 【3】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 17:39

 自宅へ戻ると待ちかねていたようにヌーベルが出迎えてくれた。

「ただいま、ヌゥちゃん!」

 今日のヌーベルはなんだか興奮しているようだ。ハァハァと荒い息をしている。
「どうしたの、ヌゥちゃん。お散歩に行ってきたばかりなの?」
 理子がヌーベルの頭を撫でているとその声を聞きつけたのか、二階から弟の拓斗が降りてきた。
「あ、拓。ただいまっ」
 するといつもは顔を会わす度にニヤニヤと小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべる拓斗が、今は珍しく真剣な顔で理子の側に寄ってくる。
「姉ちゃん」
「なに?」
 拓斗は理子の両肩をガシリと掴む。

「……悪かった!」

 このいきなりの謝罪に理子はポカンと口を開ける。何か私の大切な物でもうっかり壊してしまったのだろうかと思った時、
「俺、姉ちゃんを見くびってた! 今回ばかりは俺の完敗だ。やるじゃねぇか、姉ちゃん!」
「な、なんのことよ?」
「いいから早くリビングに行け。さっきから母さんが色目使ってるからな。取られちまっても知らねーぞ?」
 拓斗は理子の背中をグイグイと押す。
「ちょ、ちょっとなに? なんなのよ拓斗!」
 よく見るとヌーベルも理子のコートの裾を咥えて引っ張っている。弟と飼い犬に強引に引きずられ、リビングへと足を踏み入れると、もう聞き慣れてしまっている声が理子を出迎える。

「あぁお帰りなさいリコさん」

 リビングの上座のソファに座り、温和な表情でこちらを見ている男性。ヌーベルがその足元に一目散に駆け寄っていく。

「……えっ!? もっ、もしかして……コウなの……!?」

 呼びかけが思わず疑問系になってしまったのは、コウの格好がいつもとは違っていたからだ。
 紅い夕日が差し込むリビング内にいる、細身のスーツを着た青年。
 暖かな色合いのダークブラウンのスーツに、ホワイトカラーのシャツ。濃いマスタード色のネクタイを締め、しかも銀縁の眼鏡までかけている。髪の色が暗赤でなければ、どこかの上場企業のエリートビジネスマンのようだ。そして今のこのスタイルなら、コウも年相応に見えた。

「理子っ、アンタいつの間にこんな素敵な人とお付き合いしていたのよ!?」
 お帰りの挨拶も無しに、弓希子が興奮した声を張り上げて駆け寄ってくる。
「お、お付き合い!?」
「この私に今日まで気付かせないなんてさすがは私の娘! 血は争えないわね! さ、いいから早くそこに座りなさい! 蕪利さん、わざわざウチに挨拶に来てくれたんだから!」
 宙を飛ぶような勢いでやってきた弓希子に肩を掴まれ、引っぺがすようにコートを脱がされると強引にコウの横に座らされた。唖然として隣を見上げると、いつものあの穏やかな笑みとぶつかる。銀縁眼鏡の奥の瞳はなぜか少し赤みを帯びていたが、やはり見慣れた柔和な光で、この人物は間違いなくコウだ、と理子はやっと認識する。

「それで蕪利さん、話は戻るけど、ウチの理子とはまだお付き合いを始めたばかりなのね?」

 待ちきれなさを隠す事無く前面に押し出して、弓希子が会話の続きを始める。理子が帰ってくるまでにもコウに矢継ぎ早に色んな質問をしてたであろうことは容易に想像が出来た。
 コウは理子から弓希子に視線を移し、よく通る声で答える。
「いえ、まだリコさんからはきちんとしたお返事はもらっていないんです。僕から一方的に告白しただけで」
「なに言ってるの! アナタみたいにしっかりしていて素敵な男性をウチの理子がお断りするわけないじゃない! ねぇ理子!?」

「…………コウ、これはどういう事?」

 怒りを押し殺して低い声で尋ねる理子にコウは笑みだけで返事をする。
「笑ってないで答えてよ!」
「ふふっ、ごめんなさいね蕪利さん。この娘ったらきっと照れてるのよ。何分、今まで男性の方ときちんとお付き合いしたことが無い正真正銘の生娘だからね!」
「ちょっ……! お母さんてば何言い出してんのよ!」
「蕪利さん、今日は我が家で夕食を食べていって! うちのダンナもまたすぐ帰ってくると思うから!」
「はい。ありがとうございます。リコさんのお父様にももう一度ご挨拶したいのでお言葉に甘えさせていただきます」
「じゃあ私、これから夕食の支度をするから、蕪利さんは理子の部屋で休んでなさいよ?」
「なっ! なによそれっ! かっ勝手に決めないでよお母さん!」
 しかしこの場の流れを変えることはもう理子には不可能であった。
「いいじゃないの、別に! ねぇ蕪利さん?」
「はい、分かりました」
 足元に置いてあった黒のアタッシュケースを手にコウは立ち上がる。
「リコさん。お部屋はどちらですか?」
「階段を昇って右側の部屋よ」
 と弓希子が代わりに答える。
「行きましょうか、リコさん」
 ヌーベルがリビングを飛び出して一声吠えた後、“ ホラ、こっちだよ ” とコウを先導し始めている。

「ヌゥちゃん、あんたまで……」

 現時点でこの家の中に自分の味方は誰もいないようだ。
 外堀を完璧に埋められ、いざ城に攻め込まれる寸前の将軍の心境ってこういう感じなのだろうかと思う理子であった。
 




[29700] Chapter5 :  - Risky Lion - 【4】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 22:00

 渋々コウと共に二階へ上がると左側の部屋が開いて拓斗がヒョイと顔を出す。

「なぁコウさん、ウチで飯食ってくんだろ?」
「えぇ拓斗くん。図々しくそうさせてもらうことにしました」
「構わねぇよ。食ってけ、食ってけ!」

 理子は叫びたいのを堪え、額に手を当てながら呟く。

「……ちょっとあんた達、なんでそんなに意気投合してんのよ!?」
「なんでって、姉ちゃんの初めての彼氏だろ? 粗相があっちゃいけねぇじゃん! じゃあコウさん後でな!」
「えぇ後でまた」
 バタンと拓斗の部屋の扉が閉まる。
「リコさんのお部屋はこちらですか?」
 反対側の扉の前でコウが明るく尋ねる。
「コウ! ちょっと来なさい!」
 もう我慢の限界だ。自室のドアを開け、コウを中に入れるとこちらもバタンと荒々しくドアを閉める。

「…………どういうつもり!?」

 ドアを背に精一杯睨みつけると、
「どういうつもり、とはどういう意味でしょうか?」
「家にまで押しかけてきてどういうつもりなのかって事! 第一、どうして私の家が分かったのよ!」
「ではお一つずつ回答させていただきます」

 コウは眼鏡の淵に軽く手を当ててずれを直すと一つ咳払いをした。まるでこれからパネルディスカッションでも始めるかのようだ。

「まずリコさんのお宅がなぜ分かったかというご質問ですが、武蔵のおかげです」
「なによそれ!?」
「昨日、武蔵がリコさんのバストを測った際に貴女に発信機をつけたそうです。その後のリコさんの足取りを武蔵が追跡した結果、こちらの住所が判明いたしました」

 ―― あのエロ巻尺…………!!

 理子はぎりり、と下唇を噛む。
「そして、今日こちらにお伺いさせていただいたのも、武蔵からのアドバイスです」
 アタッシュケースを床に寝かせ、コウはその場に跪く。
「あのエッチなしょうもない巻尺がなんて言ったのよ!?」
「“将を射んとすればまず馬を射よ”と。ですから貴女を手に入れるためにまずご家族の方に許しを得るべきだと僕は考えたんです」
「何よそれ! ふざけないで!」
 するとコウはケースにかけていた手を一旦離し、弾かれたように立ち上がる。

「いえ、僕は本気です。本気で貴女が欲しいんです」

 この大胆な台詞に理子の顔が一気に紅潮する。
「な、なにを言ってるのよ……」 
 心臓がドクドクと熱く脈打ちだし始めているのが分かる。
「リコさん、僕の事が嫌いですか? 貴女のお相手に僕はふさわしくない男でしょうか?」
 コウがすぐ側まで詰め寄ってくる。
 見慣れないスーツ姿のせいか、どうしても目の前の眼鏡をかけたこの青年が自分の知っているコウと重ならない。畳み掛けるように尋ねられ、思わず一歩後ずさる。
「でももしリコさんがどうしても僕のことが嫌いだというのであれば、潔く諦めるつもりです……」
 後ずさりした理子にショックを受けたのか、コウは声を落とす。
「……お返事、今頂いてもよろしいですか?」
「まっ、待ってよ! そんな急に言われたって……!」
 怒っていたはずなのにまた立場が逆転している。またこうしてコウのペースになってしまうのだ。
「僕とお付き合いしていただけますか?」
「だっ、だから待ってって言ってるでしょ!」
 理子は大声で遮る。
「コウは何でもいきなり過ぎなの! 少しは私にも考えさせてってば!」
 するとコウは真摯な態度のままで質問方法を変えてきた。

「……では希望は持っていいのでしょうか?」

「……!」
 言葉が出ない。
 澄んだ真っ直ぐな視線が理子に向けられている。そこは一切の虚飾が無かった。感じられるのはコウのただひた向きな一途な情熱だけだ。

 今が夕方で良かったと理子は心から思った。窓から入る西日のおかげで顔が赤くなっているのがあまり目立たないで済んでいるからだ。朝にリボンを結んでいる時に感じた、あの上手く説明できない気持ちがふわりと表面に出てきそうになる。
 それをなんとか押し留めて赤い顔をわずかに背けると、視界の端でコウが嬉しそうに微笑むのが見えた。どうやら理子の沈黙を良い方に解釈したようだ。コウのほころぶようなその笑顔にまた頬の熱が勝手に上がる。

「ありがとうございます!」

 素早く背中に手が回りお馴染みの抱擁タイムが始まるかと思いきや、コウはすぐにその抱擁を解く。
「そうだ、リコさんにプレゼントがあるんです!」
「プレゼント?」
「はい!」
 コウはアタッシュケースのある場所に戻るとその蓋を開ける。
「こ、これって……」
 絶句しかけた理子であったが、実はある程度の予想はついていた。真っ黒で地味なケースの外側とは違い、内部はまさにカラーのワンダーランド、強烈な色彩天国がそこに展開されている。

「全部リコさんのものです。サイズはピッタリのはずですのでどうか受け取って下さい」

 アタッシュケースの中身はブラで溢れかえっていた。赤・橙・黄・緑・青・藍・紫、とまさに箱に詰め込まれた極彩魔法レインボーマジックである。
 しかもそのそれぞれのデザインすべてが “ 勝負ブラ ” の域に余裕で達するレベルの気合の入ったブラばかりだ。

 華やかなレース、手の込んだ刺繍、上品なフォルム、落ち着いた風格。

 そのすべてにプロの技、飽くなき “ 職人魂マスター・ソウル ” を感じる究極のブラジャー群だ。
 コウはその中の一つを手にすると本当に邪気の無い、幼い子供のような清らかな笑顔でそれを大きく広げる。
「じゃあリコさん、つけてみてもらえますか?」
「ハ!?」
「フィットしているかどうか確認したいんです。もし合っていなければすぐにお直しさせて頂きますので」
 紫のシャンテイ調のレースブラを手にコウがにこやかに近づいてくる。
「ままま、待ってよ! こ、ここでつけろっていうの!?」
「はい!」
 パープルブラがずい、と目の前に差し出される。


 ―― ダ、ダメだ! ブラの事に関してはこの人に何を言ってもムダだよ……!


 今度こそ本当に絶句する理子。
 そしてもう抵抗する気力がほぼ失せた自分自身に向かって、健気にも説得を始める。

 ―― ど、どうせ昨日ハダカの胸を見られちゃってるもん! そうよ、今更ブラを見せることぐらいどうってことないじゃないのっ! 

「あ、リコさん、よろしければ僕がつけましょうか?」
「い、いい! 分かった! つける! つけるから! 自分でつけるから向こうむいててよ!」
「はいっ!」
 コウは嬉しそうにブラを理子に手渡すと素直に背を向けた。

(この先、私、一体どうなるんだろう……)

 乙女はパープルブラを手にうな垂れる。
 コウの動向を気にしつつ、観念して制服のジャケットのボタンを外し始めた理子の脳内に、微妙にポップ調の例のドナドナマーチがエンドレスで流れ始めていたのはここだけの話である。





[29700] Chapter5 :  - Risky Lion - 【5】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 22:03

「あぁリコさん、動かないで下さいね」

 顔を赤らめ小さく身をよじらせた理子に、コウの口から優しくではあるがそれをたしなめる言葉が出る。
「そっそんなこと言ったって……!」
 口を尖らせ強気に言い返すも、今のこの状況はあまりにも理子に分が悪すぎる。
 どうやらコウは、自分の贈ったブラが理子の身体を締め付けすぎていないかを確認している真っ最中らしい。ブラのサイドボーン部分と素肌の間にコウの指がスッと差し込まれ、身体がビクリと反応してしまったのだ。


 ―― 現在試着ブラ七枚目也――。


 華々しくラストを飾るはこの真っ赤なフロントホックブラだ。
 爽やかな勧め方ではあったが、結局アタッシュケースの中にあったブラすべての試着を半強制的にさせられ、精神はすでに限界だ。
 体中を恥ずかしさで一杯にさせ、理子は必死に耐える。
 だがそれでも最後までなんとか耐え切る事ができそうなのは、目の前でフィット具合を細かくチェックするコウの表情が真剣そのものだったからである。

 スーツの上着を脱ぎ、Yシャツの両袖をまくって跪いているコウ。
 この女性下着請負人の眼鏡の奥にある瞳には邪な色など欠片も無い。
 そこにあるのは凛々しい職人の顔のみだ。

「失礼します」

 色んな角度からブラのフィット具合を確認し、コウは時折そっとブラに手を触れてくる。
 ストラップを少し持ち上げられ、ワイヤーが理子のバストラインにそった自然なカーブになっているかをすぐ側で目視された。
 ハイスピードな心臓の鼓動が痛いぐらいだ。小さな胸が心臓の鼓動でかすかに揺れていないかとヒヤヒヤする。
 次の瞬間、胸の谷間の下、アンダーラインの部分を優しく指でなぞられた。

「ひゃあっ……ん!」

 思わず出てしまったあえぎ声にも似た自分の声に、顔が茹でダコのように真っ赤になってしまう理子。
 コウの指は骨ばってはいるものの、女性のように綺麗な手なのですんなりと柔肌の上を滑る。それが心地よくもあり、同時にくすぐったくもあるのだ。
 そんな理子を気遣ってか、「済みません、くすぐったかったですか」とコウはあくまで紳士的だ。

 ―― パチン、と小気味よい音。

 フックがきちんとかみ合っているか、そのホールド具合を確認する為にフロントホックブラの前フックが見事な手際で外された。早い。とにかく早い。

「ヒャアッ!?」

 理子は慌てて両腕をクロスさせる。あと一秒遅かったら昨日に引き続き、間違いなくコウの目の前で “ 生バストご開帳! ” となるところだった。
「ちょっ、ちょっとコウ! 外すなら外すって言ってよ!」

 乙女にも心の準備というものがある。
 済みません、と謝罪した後で、今まで請け負ってきた全ての顧客に告げてきたと思われる、この締めの言葉と共にコウは微笑んだ。
「はいOKです。お疲れ様でした」

 ……や、やっと終わった……。

 長い闘いだった。自分で自分を褒めてやりたい。後はまたコウに背を向けさせてブラや服を元通りに身につけるだけだ。
 その時、
「理子、入るわよー?」
 かなり強めの音で部屋の扉がノックされ、弓希子の大きな声が戸口の向こう側から聞こえてきた。
「エエッ!? まっままままま待ってお母さんっ!!」
 万事休すだ。
 理子は慌ててそう叫んだが、せっかちな弓希子によって無情にもドアは大きく開かれる。

「…………あら」

 中の二人の様子を見た弓希子は一言そう言うと足を止めた。
 今にもずり落ちそうなブラを必死に押さえている理子に、そのすぐ向かいで跪いているコウ。そんな二人をしげしげと眺めた後、弓希子は意味深な笑みを浮かべながらコウに向かって尋ねる。
「なんだかお邪魔しちゃったみたいね……。で、蕪利さん、これから始めるの? それとももうフィニッシュ?」
 コウは立ち上がり、捲り上げたYシャツの袖を元通りに下ろしながら爽やかに答える。
「はいっ、たった今終了しました!」


 ―― いざ、果てしない勘違いワールドが今まさにこの瞬間から始まろうとしている。





[29700] Chapter5 :  - Risky Lion - 【6】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/11 22:05

「バッ、バカバカッ! 何言ってんのよコウッ!」
 真っ赤な顔で理子はコウを叱ったが、コウは涼しい顔で、
「でもちょうど今終わったところじゃありませんか。あ、これどうぞ」
 と制服のシャツを差し出してくる。
 そのやり取りを見ていた弓希子は予想通りの勘違いをしたようだ。
「終了か……。ちょっと理子、あんたちゃんと声控えめにしたんでしょうね?」
「だからお母さんっ違うってば――っ!」
「拓斗も向かいの部屋にいるんだからね? あんたも姉なんだから、その辺の事は一応考えて配慮してくれないと。あんまり強烈な刺激を与えるとあの年頃は色々と厄介なんだから」
「それでしたら大丈夫です!」

 ここで空気の読めない男がまた爽やかに口を挟む。

「リコさんは声はほとんど出されていませんでした。あ、でも一度だけ我慢できない時があったみたいです。リコさん、済みませんでした。次回は気をつけますね」
「コッ、コウッ!?」

 ―― この状況から抜け出す道は最早無し。完璧な泥沼コースまっしぐらだ。

「あら、そう。ならいいんだけどね。でもいいわね若いって……」
 昔の何かを思い出したのか、弓希子は遠い目をし、フゥ、となんとも悩ましげなため息をつく。
「あ、蕪利さん。ウチのダンナが今帰ってきたのよ。で、あなたと二人だけで話がしたいって言ってるのよね。今いい?」
「はい。構いません」
「じゃ、来て。下の書斎で待ってるから」
「はい。じゃあリコさん、行ってきます」

 再び背広を羽織り、眼鏡の位置をきちんと決め直すとコウは弓希子に連れられて部屋を出て行く。すると閉められようとしていたドアがまた素早く開き、隙間から弓希子が顔を出した。

「ちょっと理子、あんたもいつまでも情事の余韻に浸ってないでさっさと服着ちゃいなさいよ?」
「じょっ、情……!?」
 バタン、とドアが閉まる。急激に身体の力が抜けて理子はその場に座り込んだ。
 だが感覚が完全に麻痺したのか、もう怒る気力は完全に無くなっている。

「…………なんで私がこんな目に…………」

 とりあえず今の内に服を着ておかないといつまたコウが戻ってくるか分からない。
 今外されたブラを急いで身につける。その時ふと姿見に映っている自分を見て理子は 一つ気付いたことがあった。

 胸の大きさも形も変わったような気がするのだ。
 もちろん小さいことは小さいのだが、理子の二つの丘陵はピン、と自己を主張している。
 ブラ自体も決して大げさな表現ではなく、“ 包み込まれる ” ような感覚で、それでいてバストをしっかりとサポートしているのが分かる。着け心地もとても良い。
 思わず姿見の自分の胸に魅入り、オーダーメイドで作るブラは市販のものとはまったく違うことを体感していると、またドアがノックされた。

「リコさん、入ってもよろしいですか?」

 ―― コウだ! もうお父さんとの話終わったの!?

「ダッ、ダメ! まだダメ!」
 そう叫ぶと慌てて服を着る。手近にあった制服のシャツを掴んで急いでそれを身につけた。本当は私服に着替えたかったが仕方が無い。シャツを着終わると「い、いいよ」と声をかける。

「失礼します」

 ドアが開いてコウが入ってくる。
「リコさん。お父様が呼んでますよ」
「え? 私?」
「はい」
「コウ、お父さんに何言われたの? 大丈夫?」

 実は先ほどから心配でたまらなかったのだ。日頃から自分に対する父の溺愛ぶりに迷惑している理子としては、礼人がコウに何を言ったのかが気になっていた。
 まさか錯乱して暴力でもふるわなかっただろうかと思い、さりげなくコウの全身をチェックしてみたが、眼鏡も割れていないし、顔にも痣などはない。
 コウはニッコリと笑うと穏やかな声で言う。
「お父様は貴女のことをよろしく頼む、と仰ってました」
「ウソッ!?」
 思わず大声を出してしまった。

 ―― 信じられない! あのお父さんが “ 私の事をよろしく頼む ” なんて言うわけないよ!

「いえ本当です。さ、早く下に行って来てください。お父様が待ってますよ」
「う、うん……」
 コウに急き立てられ、とりあえず一階へと下りた理子は疑惑心フル満タンで礼人の部屋の前に立つ。
 扉の向こうがやけに静かなのが気になったので、元気良く入ろうと心に決めてドアのノブにグッと手をかけた。





[29700] Chapter5 :  - Risky Lion - 【7】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/12 00:22

 理子が父の礼人に会うのは一ヶ月ぶりだ。

 去年、飛行機でないと行けないような遠い場所へ転勤が決まったと礼人に告げられた弓希子は、無情にも「パパ、単身赴任してよね?」と即答したらしい。
 礼人としては家族揃って新天地に行きたかったようだが、理子も水砂丘高校に入学が決まっており、来年の拓斗の受験の事も考えると単身赴任を選ばざるを得ない状況ではあったようだ。
 それに建てて間もないこの家のローンなど、色々な大人のしがらみや事情もあるらしく、泣く泣く礼人は単身でこの家から離れる事になったのである。

 家族一緒に暮らせなくなったのはかなり寂しいものがあったが、同時に理子はある自由も手に入れた。
 それは異性間交遊に関する礼人の干渉が無くなったことである。
 一緒に生活していた頃は、あの “ なまはげ ” さながらの勢いで「悪い男に騙されてねぇがぁ~ッ!」 と、“ 娘に悪い虫はついてないか”チェックが激しく、理子もほとほと閉口したものだ。
 今まで彼氏が出来なかったのも単に異性運が無かっただけではなく、この父の存在のせいもあったのは間違いない。

 その父がだ。
 あろうことかその父が、コウに自分のことを「よろしく頼む」なんて言うとはとても思えなかった。

 家の中で一番日当たりの良くない、西向き六畳の部屋が礼人の書斎になっている。
 この辺りからも久住家の夫婦の力関係が分かろうというものだ。
 ドアをノックすると「入りなさい」という静かな声が聞こえた。

「お帰りなさいお父さん!」

 そう言いながらドアを開けると、
「理子ちゃん! お父さんじゃない! パパと呼びなさい!!」
 いきなりの絶叫で返された。慌てて言い直す。
「お、お帰りなさいパパ」
「ん~よろしいっ!」

 デスクチェアーに座って煙草を吸っていた礼人はパパと呼ばれて途端に相好を崩す。
 べっ甲の眼鏡がよく似合う、スマートな体躯の男性だ。
 礼人がいつも頭髪につけているポマードの香りが狭い部屋の中に充満している。昔はこの香りが好きではなかったが、離れて暮らしている今は懐かしい感じがしてあまり嫌な感じはしなくなっていた。

「……パパ、少し痩せたんじゃない?」
 本当は “ 髪も少し痩せてきたんじゃない? ” と言いたかったが止めておいた。これでもかなりナイーブなところがある父なのだ。
「そうなんだよね……。ママや理子ちゃんと離れて暮らしているからパパ、寂しくって死にそう。ウサギちゃんになった気分」
 礼人は子供のように甘えた声で口を尖らす。相変わらず変わっていない父の姿に理子は苦笑した。
 理子には信じられないのだが、これでも勤めている会社では何人もの部下を抱えて時には怒鳴り散らしたりもする鬼課長らしい。その一方で女子社員には “ ダンディな久住課長 ” となかなかの人気らしいのだが、妻の弓希子や娘の理子の前ではこうして途端に幼児化する癖のある、少々困った男なのである。

「理子ちゃん。今日は理子ちゃんに大事な話があるから。ここに座って」

 急に真剣な声に戻り、礼人は自分の机に前に用意していたパイプチェアーを指差す。
「う、うん」
 おとなしく座り、机越しに礼人と向かい合わせになる。きっとコウもここに座らされてお父さんと何かを話したんだろうな、と理子は思った。
「あのねパパ。コウに何を話したの?」
 すると礼人は黙って机の脇にあるアーム型のデスクスタンドのライトをつけた。
 いきなり正面から顔を照らされて理子は顔をしかめる。
「眩しいってばパパ!」
「あ、ごめんごめん。さっきコウくんと話してた時の位置にしてたから」
 ライトの位置が下げられる。
 そして礼人は深々と大きく息を吸った後、ふひゅぅぅぅ、とそれをすべて吐き出した。
 これから一大決心をして言うぞ、という緊迫感がヒシヒシと伝わってきて、知らず知らずのうちに理子の背筋も伸びる。

「……いいかい理子ちゃん……」

 礼人は重々しい声で口火を切り、
「……ススススーッ!」
「な、なに!?」
「ススススッ、スィッ、スィッ、スィッ、スィッ、スィッ!」

 まるで傷の入ったCDを壊れたプレイヤーで強制再生しているかのようだ。

「どっ、どうしたのパパ!?」
「りっ、理子ちゃんっ! スッ、“ スィー ” まではっ、“ スィー ” までは許しますっっ!!」
「ハ?」
「だから “ スィー ” だってば理子ちゃん! そこまでは許す! パパも断腸の思いで許すからね!」
「な、なに? “ スィー ” って?」
「だから “ C ” だって、“ C ”! つまり “ 合体 ”! パパ、コウくんと合体までは許すからね!」

 礼人がヘンに気負って “ スィー ” などと本格的な発音で言うので最初はまったく分からなかったが、ここで理子はやっと父親の言っている意味が分かった。そしてこの父のぶっとび宣言に鼻の頭まで赤くなる。

「パッ、パパ! なっ何言い出してんのよ!」
「もう辛いけど! 本当に辛いけど! でも理子ちゃんももう十六だし! いつかはパパの手を離れていくんだし! パパ、辛いけど我慢する! 今晩きっとベッドでむせび泣くと思うけど我慢するからね!」

 礼人は理子の手をヒシッと握り、本当に今にも泣きそうな顔で重ねて頼んでくる。

「いいかい、理子ちゃん? だから頼むから、頼むから、コウくんをしーっかり捕まえていてくれよ? ホント頼むよ? 約束だよ?」
「……それどういう意味パパ?」
 父のあまりの必死さに理子はなんだか嫌な予感がしてきた。
「そんなの決まっているじゃないか! 理子ちゃんがコウくんとしっぽりよろしくやってくれないと、パパ心配で心配で!」

 胸の前で手をしっかと組み合わせ、何とも演劇がかった大仰な動作で宙を仰ぐと、大袈裟な祈りのポーズで礼人は続ける。ひたっている雰囲気をさらに盛り上げてやるために、BGMにアベ・マリアでも流してやりたいところだ。

「ママがコウくんと浮気でもしちゃったら大変だからね! 理子ちゃんも知ってるだろ? ママは恋多き女性なんだから! パパ、ママをゲットするのに当時どれだけ苦労したか! だから理子ちゃんが若さを武器にしたそのピチピチボディでコウくんを完璧に落としてくれないとパパもう単身赴任しない! 二十四時間戦えない! ノー ・ リゲインですッ!!

「……パパ……」

 理子はデスクスタンドのライトを浴びながら頭を抱えた。どうやら礼人はこれが言いたくてわざわざこの部屋に呼び出したらしい。





[29700] Chapter5 :  - Risky Lion - 【8】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/12 00:29

 そんな娘の姿などお構い無しで、礼人は袖机の三段目の引き出しから何かを取り出すと、意気揚々とした声で告げる。

「さぁーて、そんなカワイイ愛娘、理子ちゃんに、パパから応援の意味も込めてとっておきのプレゼントタイムだよっ!」

 プレゼントが理子の目前に差し出され、ライトに照らされる。
「さぁ今急いで買ってきたからね。遠慮しないでたんとお使い」
 それを目にした理子は叫び声を上げた。

「ななななっなによこれ――っ!」

「ん? そっかー、ウブな理子ちゃんはもしかして初めて目にしたかなー?」
 “ では教えて進ぜよう ” と言わんばかりの態度で礼人はゆったりと両手を組み合わせ、べっ甲眼鏡の奥の目を糸のように細める。

「これはね、純日本製の 【人類繁殖抑制機能用具】 だよ」

 エラく回りくどい表現と共に差し出されたケバケバしいどピンク色の長方形の箱には、“ 限界まで挑む! ” とか“ 脅威の薄さ! ” とか0.02だか3だかの色んな銀ラメの文字が光り輝いている。
「そしてなんとそれにはまだ色んな別の名称があるんだ! サッ○だろ、スキ○だろ、あぁ! このスタンダードな名前なら理子ちゃんも知ってるかもしれないね! それはコンド……」

「止めてぇぇ――っ!! 言わなくていいってば――ッ!!」

 絶叫のあまりハーハーと肩で息をする理子に、礼人は半ば強引にそれを押し付けてくる。
「聞いて理子ちゃん! 数ある商品の中でこのメーカーのはパパの一押しだから! もうスペシャルお勧め! デリケートな肌でも安心! かぶれ一切無し! なめらか素肌感覚! しっとりと馴染むようにフィット! ほら手にとって見てごらん!」

 ……聞きようによっては化粧品のキャッチセールスのようなフレーズでもある。
 
「あ、JIS規格も勿論クリアーしてるからね! しかも芳香付きで……」
「いいかげんにしてってば――っ!!」
 理子の剣幕に礼人は目をパチパチと何度も瞬かせる。
「何をそんなに怒っているんだい? コウくんはニッコリ笑って受け取ってくれたよ?」
「なッ……!?」

 ―― 瞬殺だ。
 完璧に瞬殺だ。
 本気で眩暈がしてきた。

「コウくんって二十四歳なんだろ? なかなかしっかりした青年だし、とても礼儀正しいし、純朴そうだし、パパは安心したよ。理子ちゃんの初の彼氏が “ チーッス! ” なんてピースサインでも出して挨拶するチャラチャラした男でなくて良かったと思ってるんだ。だからもうパパは何も言わないからねっ! ただし “ C ” まで! “ C ” までだよ、理子ちゃん! ま、この辺りはコウくんに今何度も念を押しておいたから大丈夫だと思うけどねっ!」


 ―― 本日二度目の瞬殺――。

 本気で消えたい。今すぐこの場から。


「さ、じゃあパパの話はこれで終わりっ! で、悪いんだけどね、理子ちゃん。これからコウくんを借りるよ? 男同士でまだまだ話したいことあるしね。じゃ、コウくんと出かけるから彼を呼んで来てくれないかい?」

 もはや返事をする気力も無かった。
 精神ポイントを大幅にえぐられたせいで半分よろけながら二階に上り、部屋に入る。
 窓辺に立っていたので斜陽を正面から受けているコウの背中が目に入った。手には前にも見たあの古びた事典がある。何かを調べていたようだ。

「お話終わりましたか」

 振り返り、事典を閉じるとコウは優しく話しかけてくる。が、今の礼人の話を聞き終わった理子にしてみれば当然まともに顔など見られるはずもない。
 理子の様子がおかしい事に気付いたコウが近寄ってくる。

「どうかしましたか?」

 いたたまれなくて、恥ずかしくて、思い切り俯いた。
「リコさん顔を上げて下さい。どうしたんですか?」 
 優しく肩を掴まれる。
「はっ離してよっ!」
「一体どうしたんですか? 僕に話してみて下さい」

 心配そうに尋ねるその声は何も変わりが無く聞こえる。だからこそ余計にこだわってしまう。理子は横に顔を背けながら突き放すように言った。

「…………コ、コウ! お、お父さんが変なこと言っちゃったみたいだけど、わっ、忘れてよねっ!」
「変なこと? 僕は別に何も言われなかったですが……」
「な、なんか変なものとか渡されたでしょ! あれ捨てて! 今すぐ捨てて!」
「あぁ、これのことですか」

 コウはスーツの上着のポケットから例のどピンク色の箱を取り出そうとした。
 “ 朝まで闘魂マッスル!! ” の文字がチラリと見える。

「だっ出さなくていいってば――っ!」
「僕もちょっとビックリしましたが、リコさんの事を心配なされてのことですよ。お父様には何度も厳しく言われました。“ 順番を逆に取り違える事だけはしないように ” と」
「な、何よそれっ!?」
「お父様に今教えてもらったのですが、懐妊した後で婚姻関係を結ぶ事を “ 出来ちゃった婚 ” というんだそうですね。くれぐれもそれだけはしないように、と。それ以外であれば何をしても良いと言われました」

 なんのためらいもなく、礼人との会話を素直に話すコウ。
 一方の理子は三度目の瞬殺中だ。背中を壁に預けてないと立っていられない。
 今日は間違いなく厄日だ。絶対に厄日に違いない。

「今これで調べていたのですが “ 出来ちゃった婚 ” というのは載っていませんでした。この時代には僕の知らない色んな言葉があるんですね。勉強になります」
 理子はコウが左手に持っている小型事典に目をやる。
「……前にもそれでストーカーって言葉調べてたよね。なんなの、その辞書みたいなやつ」
「これは僕の家に昔からあったものなんです。ご先祖様が編纂したもののようです。作られたのがこの年代なので何かの役に立つかと思って持ってきました」

 コウは用の済んだその事典をスーツの右のポケットに仕舞おうとしたが、そちらにはすでに礼人寄贈の “ 桃色闘魂箱 ” が入っているのでつかえて入らなかったようだ。
 事典を逆側のポケットに入れたコウは残念そうに理子に告げる。

「申し訳ありませんリコさん。僕、これからお父様と出かけなければならないので今日はこれで失礼させていただきます。またお会いしましょう。では」
 理子の肩から手を離し、空のアタッシュケースを手にしたコウは部屋を出て行こうとする。去っていくその背中を見て、理子は無意識に叫んでいた。

「コウ!」

 呼び止められてコウは足を止める。
「はい」
「あ、あのね…………」

 ―― なんで私呼び止めたの?

「きょ、今日はお父さんのせいでなんか嫌な気持ちになったろうけど、ご、ごめんね……」
「いえ、とんでもありません」
 ドアノブから手を離し、コウは笑う。
「僕、嬉しくてたまらないんです。リコさんのご家族にリコさんとのことを認めてもらえて」

 その笑顔にキュン、と乙女の胸が痛みを告げる。
 コウの言葉に微塵も偽りの気持ちが無いのは、その笑顔を見るだけで今の理子にはもう分かるようになっていた。

「だから後は待ちます。リコさんが僕の事を好きになってくれるまで。僕、いつまでも待ちますから。じゃあ行ってきますね」
 辞去の挨拶代わりに軽く頭を下げると、コウは部屋を出て行く。
 そのまま吸い寄せられるように、後を追うように、理子は一歩足を踏み出していた。
 唇がわずかに開く。後は「コ」の発音をそこから紡ぎだすだけだ。
 だが――。
 一メートル先のドアがパタン、と閉められる。
 
 だが、結局理子はコウの名を呼ぶ事が出来なかった。





[29700] Chapter5 :  - Risky Lion - 【9】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/12 23:16

「んもう、パパったら! せっかくたくさんご馳走作ったのに!」

 食卓の上に溢れんばかりの料理の前に弓希子はかなりご機嫌斜めの様子だ。
 礼人がコウを連れて外に食事に行ってしまったのでこのままではこれらが大量に余ってしまうのは目に見えている。
「母さんそうカリカリすんなって。俺が頑張って食べるからさ」
 いい色に揚がっている鳥唐を口に、拓斗が健気な事を言う。
「それよりも今日は姉ちゃんの彼氏が初訪問した記念すべき日なんだからさ、祝福してやろうぜ?」
「……そうね。まぁ今回は仕方ないか」
「そうそう」
「だからコウは彼氏じゃないってば!」
 母と弟の会話に理子は慌てて割り込む。
「あら、さっきあんなことまでしてたくせに?」
「だっだからそれは誤解で……」
「まさか断るなんてことないよな、姉ちゃん?」

 両方から問い詰められ、ぐっと返答に詰まる。

「これ断ったらアホだろ? なんですぐに返事してやらないんだよ。まさか姉ちゃん、ひょっとして焦らしてるつもりか? どうせ下らねぇ恋愛マンガに出ていた手口を真似しようとしてんだろ?」
「あらそうなの? 理子、あんた分かってないわね。男を焦らすならそのやり方じゃ意味ないわよ? やるならもっと効果的な方法でやらないと」
「そっ、そんなんじゃないもん!」
「理子、それならお母さんが伝授してあげようか? 究極の焦らしテクニック」
「いらないってば!」
「なぁ、姉ちゃんもせっかく彼氏が出来たんだからもうちょい女らしくなってくれよ?」
「余計なお世話よっ!」
 大声を出したせいで箸がグサリと唐揚げを貫通する。それを見た拓斗が「こえー……」と呟いた。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
 


 やがていつもと変わらない三人だけの夕食が終わり、やはり大量に余ってしまった食材を弓希子が片付けだす。
「あ、お母さん、手伝うよ」
「そう? ありがと」
 皿とタッパーとラップを総動員し、なんとか小分けにして冷蔵庫に押し込む。茶碗を洗い出した弓希子の隣に立ち、理子は洗い終えた食器を拭き出した。
 二人がかりだと作業も早い。連携プレイで綺麗になった食器はそれぞれ元の場所へと戻っていく。

「……ねぇ理子」

 黙々と茶碗を洗っていた弓希子は最後の一つを手に取るとさりげない口調で切り出す。
「蕪利さんっていい人だけどさ、ちょっと哀しい影がある人よね」
「え?」
 思いも寄らないその母の言葉に理子は食器を片付けていた手を止めた。
「ど、どうして?」
「……聞いてないの? あの人のお母さんのこと」
「お母さんのこと……?」
「あら、あんた知らなかったの。私はさっき理子が帰ってくる前に、あの人に散々色んな質問をしたからさ。あのね、蕪利さんのお母さんってあの人が小さい時にお亡くなりになっているんですって」
「え……」

 ―― 初めて知る事実だった。

「それで小さい頃は父一人子一人で生活してきたみたい。今日さ、蕪利さんを初めて玄関で見た時、とても優しい目をしているなって思ったけど、でもどことなく寂しそうな印象も受けたのよ。それはきっとそのせいなんでしょうね」 
「コウのお母さんってどうして亡くなったの……?」
「うん、言葉を濁してたけどなんだか不治の病気だったみたい。私もさすがにそれ以上は聞けなかったわ」
「……そうなんだ……」
 シングルレバーの先から流れる水音がその声をかき消す。
 

 私ってまだコウのこと何も知らない――。


 洗い終えた最後の器を食器棚に片付け、重苦しい気持ちを胸に理子は部屋に戻った。





[29700] Chapter5 :  - Risky Lion - 【10】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/12 23:20

 時刻が日付変更線を越えようとする頃、やっと礼人とコウが戻ってきた。
 玄関先がにわかに騒がしくなる。
 まだ起きていた理子はそっと部屋を出ると二階から玄関の様子を覗いた。
 玄関の上がり口では夫の帰りを待っていた弓希子が腰に手を当てて礼人を叱っている。

「ちょっとパパ! 大声で変な歌うたうの止めて! ご近所に聞こえたら恥ずかしいから!」

 礼人はもう完全に出来上がった状態で、廊下の中央で仰向けになりながらリゲインのテーマソングを声高らかに歌っている。そんな酔っ払い男をコウはここまでかついできたらしい。
 妻には滅法弱い礼人はおとなしく熱唱を止めた。
「ふわ~い! ママ~! 海よりも深く愛してるよ~!」
 しかしそう叫ぶと今度はその場でいびきをかきはじめる。
「ちょっとパパ! こんなところで寝ないでってば!」
 慌てて弓希子はペシペシと何度も頬を叩いたが礼人は完全に深い眠りに入ってしまったようだ。
「困ったわね……」
 そう弓希子が呟くと、コウはスッと跪き、礼人の腕を自分の肩に回してその体を軽々と持ち上げる。
「あら蕪利さん、ごめんなさいね。じゃこっちに運んでくれる?」
 コウは黙ったままで頷き、礼人を運び出す。
 その様子を上から見ていた理子はなぜかその光景に大きな違和感を感じたが、その理由は分からなかった。

 夫妻の寝室に礼人を置いたコウはすぐに玄関先に戻ってきた。そしてそのまま外に出て行こうとする。

「あ、待って蕪利さん!」
 廊下の奥から走って来た弓希子がコウを引き止める。
「今日はウチの人が色々引っ張りまわしちゃったみたいでごめんなさいね。迷惑もかけちゃったみたいだし。でも懲りずに良かったらまた来てちょうだいね」
 しかしそれでもやはりコウは一言も言葉を発せず、ほんのわずかだけ頭を下げるとすぐに踵を返して久住家を出て行ってしまった。ようやくここで先ほど感じた違和感の原因が分かる。


 ―― コウ、もしかして怒ってる……?


 コウが今取っていた態度を思い返すと結論はそれしか考えられなかった。あれほど礼儀正しかったコウなのに。
 急いで部屋に戻り、ガラリと部屋の窓を開ける。
 肌に当たる冷たい夜風に、さすがに寒さに強い理子もパジャマ姿のせいもあって小さく身体を竦めた。玄関前にコウの姿は見当たらない。足が速いのでもうとっくに先まで行ってしまったのだろう。

 ―― どうしよう、もしかしてお父さんがまたなにかとんでもないことでも言っちゃったとか……?

 心配な気持ちが瞬く間に不安に変わっていく。
 もしそうなら謝らなくっちゃ、明日、コウの家に行ってみよう、と思い、理子が窓を閉めようとした時だ。
 この部屋の下は一階の和室がせり出しているので、窓下はすぐ屋根になっている。
 最初はネコか何かだと思った。
 スタンッ、という軽快な音と共に、目の前を上空から黒い何かが落ちてくる。

 
 ―― 人間だった。


 蒼い月光を背に目の前に立ったその人物に理子は目を見張る。
 黒のコートを夜風にはためかせ、目の前に立つダークブラウンのスーツを着た男。
 それは間違いなくコウだった。

 ―― だがどこか様子がおかしい。

 いつもの穏やかな笑みはそこには無かった。片方の口角をわずかに上げ、ニヤリと笑うその顔は理子が初めて見る顔だ。


「……いよう」


 歪んだ口角から出てきたその低い声。
 明らかに異様な態度。
 明らかに異質な笑い。
 黒のコートが羽を広げた蝙蝠のようにバサリと大きく翻る。
 開いている窓枠に乱暴に片足をかけ、コウは革靴のままで室内に侵入してきた。靴の裏に微量に付着していた砂塵が、フローリングの床に擦れてジャリッと乾いた音を立てる。

「コ、コウ……?」

 公園でコウを初めて見かけた時に理子が作ったキャッチコピー、『優しい、らいおん』。
 その面影は今は微塵も感じられない。“ 本能のままに生きる最強の獣 ”、そんな肉食的オーラがその身体からゆらゆらと強く立ち上っている。

 ―― この人、コウじゃない!?

 戸惑う理子を見据え、大胆なライオンはまた斜に構えた不適な笑みを漏らす。
 ザリッと再び床が鳴り、コウは理子に向かってゆっくりと歩を進める。
 脅えた細い素足がその倍の距離、フローリングの床の上をすべるように後退した。

「こ、来ないで!」

 だがコウは捻れた笑みをその顔に張り付かせたまま、じわじわとその距離をさらに狭めてくる。後ずさる理子の背中に壁がぶつかった。もう逃げ場は無い。
 眼鏡の奥の瞳と真正面からぶつかり、理子はごくりと息を呑む。
 そこにはつい数時間前までこの部屋にいた時の、穏やかで優しいあの光は完全に消え失せていた。

 うっすらと充血した二つの瞳にはっきりと色濃く表れているその色は邪な色。冷酷な色。そして、本能の色――。

 違う!
 コウの瞳が冷たい光を放っているのはきっと銀のフレームに蒼い月の光が反射しているせい、そのせいだ――。理子は脅える自分に何度もそう言い聞かせ続けていた。
 




[29700] Chapter5 :  - Risky Lion - 【11】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/12 23:22

 一陣の風が吹く。
 開け放されたままの窓から吹き込むその夜風が、室内の暗闇と同化しかけている黒のコートを大きく揺らす。苦しげに鳴く風の流れに後押しされるように、一歩、また一歩、と 革靴は確実に獲物を追い詰め、前へと進み続けた。

「……逃げんなよ」

 コウの口から出た二度目の言葉。口調が今までと全く違っている。
 いや、口調だけではなく、ニヤニヤと笑うその歪んだ邪な笑いも、理子の体を舐めるように見つめるその冷たい瞳も、すべてが違う。これはもはや完全な別人だ。
 壁の内部にそのままずぶずぶと沈んでいきそうなほどにぴったりと背をつけ、理子は 本気で脅えだしていた。

(怖い……!)
 
 感情の揺れをほとんど感じられないコウのその押し殺すような低い声が、見えない冷たい鎖のように身体に巻きつき、手足の自由が効かなくなっている。
 そんな理子を見下ろし、片側が上がったままのコウの口角からククッと忍び笑いが漏れる。身長差があるせいで、理子に向けられているその視線はまるで見下しているようにも見えた。

「……脱げよ」

 理子の胸元に視線を固定し、コウは再び低い声で命令する。背筋に冷え切った真水を流されたような気持ちになった。
「い、嫌っ!!」
 その拒否に過剰反応したかのように、眼鏡のフレームとレンズに一筋の蒼い光が奔る。抗い、再び叫ぼうとした理子の口元を大きな片手が素早く塞ぐ。大きく身をかがめ、射すくめるように理子の瞳を近距離で覗き込むと、コウは観念させるように冷たく言い放った。


「……大声出すなって。家族が起きちまったら面倒だろ……?」


 決して全力で押さえつけてきているわけではないのに、コウと自分の間にある絶対的な力の差を感じた理子の身体は小さく震えだしていた。
 抵抗を止めた青ざめた小さな唇から手を外すとコウはやおらコートを脱いだ。
 バサリと音がし、それはコウの足元に大きく広がる。虚脱状態の理子の目に、その広がったコートはまるで暗い底無しの穴のように見えた。
 革靴もその場に脱ぎ、コウは軽々と理子を抱え上げる。
「やっ、止めて!」
 しかしあっという間にその細い身体は数歩先のベッドの上に投げ出された。
 ネクタイを緩め、薄ら笑いを浮かべながら即座にコウが馬乗りになってくる。


 夢としか思えない光景。
 しかしこれは紛う方も無い現実だ。


「あ、あなた誰なのっ!?」
 最後の抵抗代わりに理子は叫ぶ。その言葉にコウは一瞬怪訝な表情を見せた。
「あなた、コウじゃない! コウはどこ!?」
 乾いた笑いがすぐ上から浴びせられ、細く長い指が理子の右頬を下から上へ、弄ぶようにスゥッと撫で上げる。

「……面白れぇ冗談」

 そう口中で呟くとコウはネクタイをスルリと外し、右手で理子の両手首をガッシリと押さえつけた。
「やっ!? な、なにするの!?」

「……すっげー楽しい事」

 コウは手にしていたネクタイで理子の手首を縛るとそれをベッドの上柵に素早く縛り付ける。こもる笑い声の中、昨日の夕方にバスト採寸の為にされた時と同じように理子の両手の自由は瞬く間に奪われた。

 理子の上でスーツの上着を乱暴に脱ぎ捨て、コウはそれを床に放り投げる。上着が床に落ちた時、左側のポケットに入れていた事典の角でも当たったのか、ゴトリと鈍い音がした。待ちきれないようにコウが覆いかぶさってくる。
 これから何をされるのかを悟った理子は絶望感に身を落としながら虚空を見つめ、無意識に「コウ……」と力無く名を呼んだ。「どうした」という声が左の耳元でする。

 ―― その時、絶望感が一瞬だけ弾けた。



「違うっあなたじゃないっ!」



 体の上に感じていた重力が一気に無くなる。
 視点を虚空からコウに移すと、訝しそうな、そしてわずかにショックを受けているような顔で、起き上がったコウが理子を見下ろしている。
「なんでそんなに嫌がるんだよ? 親父さんに何をしてもいいって言われてるんだぜ?」
「……!」

 これはコウしか知らない、父、礼人の言葉だったはずだ。

「あっ、あなた、本当にコウなの……?」
 当たり前だろ、と言うとコウは眼鏡に手をかける。
 乱暴に眼鏡を外した少し童顔気味のその顔はやはりコウだった。だが隔てていた硝子レンズが無くなった分、瞳に浮かぶ邪な色がさらにくっきりと鮮やかになる。
「これで分かったろ?」
 自己証明を済ませたコウは急に何かを思い出したように自分の投げ捨てたスーツに目をやる。そして何かを考えているようだった。

「……親父さんに貰ったアレ、使わなくてもいいだろ?」

 “ アレ ” というのが礼人から託された “ 桃色闘魂箱 ” のことを指している事に気付いた理子は何度も激しく首を横に振る。
「やっ、止めて! イヤ! 絶対にイヤッ!」
「いいじゃん、別に出来たって」
 八畳の部屋の中でベッドのスプリングがギィィ、と軋んだ悲鳴を上げる。まるで理子の身代わりのように。
 
「滅茶苦茶可愛がってやるよ」

 紅い瞳が理子を射抜く。
 コウは蒼い闇の中で悪魔の笑みを漏らし、“ おとなしくしてろよ ” と言わんばかりに理子の前髪を五本の指でいたぶるようにすくい上げた。
 




[29700] Chapter5 :  - Risky Lion - 【12】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/12 23:27

 ズシリとコウの重みが理子の身体全体にかかる。

「やぁっ……! 止めてぇっ!」

 理子は身を固くして必死に全身で拒絶した。
 そのせいでベッドの上柵が軋み、細い両手首にマスタード色のネクタイがぎりりと食い込む。
「お願いっ、止めてコウ!」
 だがコウはお構いなしに白い首筋の横に深く顔を埋めてくる。冷えた唇がゆっくりと喉を這い上がってくるその感触に、背筋の中心を下から上に向かって痺れるような感覚が電流のように走り抜けていく。
「あ…ぁっ……」
 微かなあえぎ声は瞬く間に闇の中に溶けていった。コウは這わせていた唇を外してニィッと満足そうな笑みを漏らす。
「イイ声で鳴くじゃん、リコ 」

 ―― 呼び捨てにされている。

「もっと聞かせてくれよ? ゾクゾクする」
 恥ずかしさで身体が中心から高熱を放ち出す。肌が火照ってきているのが分かった。
そしてもう絶対に声を出さないために下唇を強く強く噛み締める。
 柔らかい唇がキュッと真一文字に閉じられ、頑なな意思表示をしたその唇を見たコウが、「抵抗したって無駄だぜ」と湿った笑い声を上げる。

 閉じられたその唇をこじあけようと、コウが荒々しく唇を重ねてきた。懸命に逃れようとしたが両手を縛られているのでほとんど無駄な抵抗だった。
 二日前に社会科準備室でされた時と同じ感触が唇にまとわりつく。だが、アルコールの香りと味が強く漂っているのが二日前とは大きく違っていた。
 その香りの中、コウはキスをしながら素早く、そして的確に、理子のパジャマのボタンを一つずつ外しだす。

 唇を塞がれているので声が出せない。

 必死に身をよじって抵抗したが、白い肌が、そして胸元が、蒼い月明かりの下でたちまち露になる。最後の一つで力の加減を間違ったのか、一番下のボタンがコウの手で引きちぎられる。ボタンをすべて外し終えたコウは身を起こし、完全にはだけられた理子の胸に視線を落とした。

「……ふーん、リコは寝る前はブラ外してるんだな。いいじゃん。一部の例外はあるが、就寝時はブラは外してたほうが身体にはいい。眠りの妨げにもなるしな」

 薄笑いを浮かべながらコウはそんな言葉を投げかける。そして女性下着請負人マスターファンデーションのコウらしいそのアドバイスに理子は再び絶望感に打ちひしがれる。


 ―― やはりこの人はコウなんだ――


 信じられないが、そして信じたくないが、どうやら事実は一つだった。
 あんなに優しくて、
 あんなに紳士的で、
 あんなに礼儀正しくて、そして、

“ 僕の事を好きになってくれるまでいつまでも待ちます ”

 と言ってくれた人が、今、自分の上で卑劣な行為をしているこの現実。
 あまりにもショックで、どこまでも悲しくて、気付けば両目から一筋の涙がこぼれていた。
 すると理子の目尻から流れ落ちるその雫を見たコウの表情が不意に大きく歪む。


「……なんで泣くんだよ……?」


 理子の涙に虚を衝かれたようなその表情。
 両の紅い瞳が揺れ惑っている。
 大きくゆらゆらと。
 まるで何かと戦っているかのように。

 涙が浮かんでいるせいで視界は少し滲んでしまっていたが、コウの瞳にいつもの優しげな光がかすかに見え隠れし出しているのを理子は感じ取った。


「なんで……なんでだよ……リコ……」


 コウは焦点の定まりきらない虚ろな瞳で理子を見下ろし、何かに憑かれたかのようにうわ言を繰り返し始める。


「リコ……僕のこと好きだろ……?」


 囁くようにそう問いかけるコウの表情は、親とはぐれて迷子になった子供のような顔になっている。
 どこまでも途方にくれた顔。
 まるで底なし沼に半身を囚われた人間が必死に助けを求めるような顔。
 そんなコウにかける言葉が今の理子には思いつかなかった。


「リコ……何か言ってくれよ……」


 真下から戻ってこない返事に、コウは苦しげな声でそう懇願する。しかしそれでも自分の望む答えが返ってこないことを知ると、理子の視線を避けるように両手で顔を覆った。


「なぁ……僕のこと好きだろ? 好きだって言ってくれよ……なぁ……言ってくれよ……」


 俯き、微かに震える声で、コウは何度も何度も “ リコ、僕のことが好きだろ? ” と同じ 質問を繰り返す。
 何度目かのその問いの最中にコウの言葉が突然ブツリと途切れた。代わりに顔を覆っていた長い指の間から今度は小さな呻き声が漏れる。そしてコウは理子の左横に崩れ落ちるようにドサリと倒れ込んだ。
 部屋の中に静寂が戻る。
「コウ……?」
 自分のすぐ横でうつ伏せになったままのコウに理子は恐る恐る声をかける。しかしコウはピクリとも動かずに返事すらもしない。



「……危なかったなぁ、子雌……」



 すぐ上から聞こえてきた声に理子は顔を上げた。
「まさに貞操危機一髪ってとこだったなぁ……」
「武蔵!?」

 宙に浮いた武蔵のブルーランプがせわしなく何度も点滅を繰り返している。これは武蔵の苦悩を表すサインなのだが、まだ今の状況が飲み込めていない理子は、そんな武蔵と上空から青く降り注がれる光をただ呆然と眺めるだけだった。





[29700] Chapter6 :  Bloody Hands 【1】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/13 23:34

「しかし子雌。お前、本当にツイてたなぁ」

 武蔵は縛られている理子の目前にまで静かに降下してくる。
「コウがお前に家に挨拶に行くっていうから俺もヒマなんでついてきたんだけどよ、念の為に主要回路メインはコウに切られてたんだ。万一俺の事が外にバレるとちょっとした騒ぎになって面倒なことになるからな。ほら、これがそのスイッチだ」
 電脳巻尺エスカルゴの“ 第二の手 ” でもあるメジャーテープの先端が収納口から現れる。それを操作し、武蔵は唐草文様側の左下にあるメインスイッチの場所を理子に教えた。
「さっきコウが上着を投げ捨てた時に偶然床にこのスイッチが当たってな、おかげで今俺はこうして動けるようになったってわけよ」

 ―― 先ほどフローリングに響いたゴトリという大きな音。それは事典ではなく、スーツの内ポケットに入っていた武蔵が床に激突した音だったのだ。

「だから本来なら、今頃お前はもうとっくにコウの強引な貫通で処女とオサラバしてただろうな」
 品性の欠片も無い武蔵のその発言に理子の頬が朱に染まる。
 しかし、たった今まで受けていたショックからまだ立ち直りきっていないせいで、「エロ巻尺!」と強気に言い返すことは出来なかった。それに確かに小憎らしい奴ではあるが、今の理子にとっては救いの神のようなものだ。

「……痛いか? ちょっと待ってろ」

 理子の手首に赤い痣が出来ていることに気がついた武蔵は、再びメジャーテープを操ってベッドの上柵に巻きつけられているネクタイを解いてやった。
 やっと両手が自由になる。
 手首の痣をさすることすら忘れ、理子はベッドから逃げ出すように大きく離れた。

「おい、そんなにコウを警戒すんなって子雌。これを見ろ」

 武蔵は円枠に幾つか並んでいる小さなホールの一つから一本の繊維針ファイバーニードルを出してみせる。だがその針はあまりにも細く、しかも室内が薄暗いせいで理子の肉眼ではよく見えなかった。
「野獣も一発で眠らしちまう強力な麻酔薬をこれで打ったからよ。だから大丈夫だ。コウはもう朝まで起きないから安心しな」
 だがつい先ほどのコウの豹変にまだショックを受けている理子にとって、「安心だ」という武蔵の言葉は気休めにもならなかった。

「武蔵、この人、本当にコウなの……!?」

 室内の空気までが今の理子には重く感じる。
「……あぁ間違いなく本物だ」
 武蔵は上空からベッドにうつ伏せに倒れているコウを見下ろし、やりきれないようにそう答える。あまりにも強い感情がこもったその口調に、機械だということを思わず忘れそうになる。
「しかしこいつが本能リビドー化すんのは久々だったなぁ……」
「本能化?」
「あぁ」
 室内を浮遊していた電脳巻尺は、蒼い月の光が差し込むフローリングの上に静かに降り立つ。
「まずはそこに座れよ、子雌。知りたいだろ? コウの豹変の原因を」
「うん……」
 理子は頷くとゆっくりと両膝を折り、武蔵の正面にペタンと腰を下ろした。
 コウの乱暴に全力で抵抗したのでまだ身体に熱が残っている。そのせいでフローリングの冷たさも気にならなかった。
「まぁ大体はお前も今のコウの様子で、ある程度察しがついてんじゃないかとは思うんだけどよ、実はコウはな……」

「……もしかしてお酒……?」

 説明を遮られた武蔵は一瞬の沈黙後、それを認めた。
「あぁ。やっぱり分かったか。そうだ、酒だよ、酒。コウはな、アルコールを体内に摂取すると人格が変わっちまうんだ」
「やっぱり……」
 理子は自分に言い聞かせるように呟く。先ほど強引にされたキスはとても強いアルコールの味がしていたからだ。





[29700] Chapter6 :  Bloody Hands 【2】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/13 23:31

 開け放されたままの窓からまた冷たい夜風が入ってきた。
 理子が小さく身を震わせたので、武蔵はそこで再び宙に浮き上がると開放された窓枠に近寄り、第二の手で窓を完全に閉める。

「ありがと、武蔵……」

 理子の礼を無視し、武蔵は元の位置に戻ってくると続きを語り始めた。
「アルコールってよ、大脳皮質を麻痺させるだろ? その結果、大脳皮質の代わりに前面に出てくるのが大脳辺縁系、つまり本能や感情の機能を持った部分だ。大脳皮質が麻痺するとこいつが暴走を始める。コウの場合はな、この傾向が特にひどいんだよ。言うなればいくつもずらりと並んでいる “ 理性のスイッチ ” が麻痺で一気に全部倒れて完全にOFFになっちまうみたいなもんだな」
「それってお酒に酔うと前後不覚になるってこと?」
「……少しズレてる。だがまぁそれはどうでもいい。重要なのはここからだ。で、コウももちろん自分のこの性癖のことは知っているからよ、あいつ、絶対酒を飲まないようにしているんだ」
「じゃあなぜ今日は飲んだの……?」

 武蔵は「お前の親父さんだ」と即答する。

「しかしお前の親父さんもかなり酒癖が悪い男だな。コウが何度も辞退してんのによ、全然諦めようとしないんだよ」
 ブルーランプが寂しげに一度だけ点滅する。吐息の代わりだ。
映像回路ヴィジョンの方は切られていなかったから俺も状況だけは把握してたんだ。お前の親父さんがしつこく勧めるから、コウの奴、すごく悩んでたぜ。助けに入ってやりたかったが主要回路メインを切られているから動くことが出来なくてな。だから俺はコウの上着の中から必死に “ 絶対に飲むな! ” って念じてた。でも無駄だったがな……。あの時はつくづく自分の無力さを感じたよ……」
 また青のランプが同じような動きを見せた。二度目のその点灯で理子にもやっとそれが武蔵のため息だということに気付く。
「でっ、でも、お父さんが何度勧めても最後までキッパリと断れば良かったのに……! コウも本当は飲みたかったんじゃないの?」

 だが思わずそう言ってしまった後で、きっとコウはああいう性格だから断りきれなかったんだろう、と理子は思い直した。どこまでも優しい性格のコウだから。
 しかし武蔵は「いやそれは断じて違う」と、即座に理子の言葉を強く否定する。

「おい子雌、コウを見くびるなよ。こいつがいくら受身の性格だからって、そこまで優柔不断じゃねぇよ。飲めないものは絶対に飲めないと頑なに断る意思くらいは持ってるさ」
「じゃあどうして……?」
「だからお前の親父さんだよ」
「でも断ったんでしょ?」
「あぁ。でもな、酔っ払ったお前の親父さんがいつまでも自分の杯を受けないコウに業を煮やしてとうとう最後にとんでもねぇ事を喚きだしたんだ。“ 俺の酒をどうしても飲まないなら娘と付き合うのは絶対に許さない。会うことも二度と許さない ” ってな……」
「え……?」

 心臓が一度だけ、どくん、と大きくうねった。

「コウにしてみればどちらも選択不可能だったんだ。酒を飲めば理性が吹っ飛んで暴走しちまうし、断れば子雌、お前を諦めなきゃならない。最悪だよ。最悪な二択をお前の親父さんに迫られたんだ、コウはな」

 跳ねた心臓が今度は走り出している。もう自分の意思では止められない速さで。
 
「分かるか、子雌?」
 確認するように問いかけてくる甲高いはずの武蔵の声が、なぜか今は心の奥底にまで染み入るぐらいの低さに聞こえる。


 ―― それでコウはお酒を飲んだの……? 暴走するのを分かっているのに……。


 高まる鼓動の中、そっとベッドの上を振り返る。 
 薬で眠らされている赤い猛獣は、まだ先ほどの途方にくれた苦しそうな表情のままでそこに静かに横たわっていた。





[29700] Chapter6 :  Bloody Hands 【3】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/14 22:47

 微かに聞こえる一定の音。
 分厚いガラス筒の中に小さな天使が二人配置された、机上のからくり時計の秒針が穏やかに時を刻む。
 今、この静けさを取り戻した室内で他に聞こえた音といえば、喉が渇いていたわけではないのに理子がコクリと唾液を飲み込んだ音だけだ。

「……それでコウはお酒を飲んだの……?」

 白い喉を鳴らした後、そう声に出して尋ねる。
「あぁ、結局コウはそっちを選んだんだ。お前を取る方をな」
 理子は無言で俯いた。
 本当ならコウの選んだ選択は嬉しいはずだった。なのにこんなにも胸が痛む。
「武蔵……」
「なんだ?」
「あ、あのね……」
 理子の喉がもう一度鳴る。二度の唾液の嚥下でとっくに喉は湿っているはずなのに、次に出したその声はなぜかかすれていた。

「……コウは……、コウはお酒を飲んで暴走すると、さっきみたいに女の人を襲っちゃう癖があるのね……?」

 あらためてそう口に出してみると悲しくて更に胸が痛んだ。
 コウは今まで何人の女の人にあんなヒドい事をしてきたんだろう――。
 言葉にしたことを後悔する。

「何だと!?」
 久々にレッドランプが恐ろしいまでの勢いで急点滅した。もちろんこれは大激怒のサインだ。
「バッカだな子雌! お前、何勘違いしてんだよ! コウは女なんか襲わねぇ!」
「だ、だって今現に……」
「だから違う! そう先走らないで話は最後まで聞けよ!」

 飛び出した二本のメジャーテープの先端が理子の左頬を軽くつまみあげる。理子の口から「いふぁっ」と声が漏れた。もちろん本人は「イタいっ」と言ったつもりだ。
 多少強引な手法ではあったが、とにかく理子を黙らせた武蔵は再び第二の手を素早く体内に収納する。

「いいか、よく聞け子雌。実は俺も驚いてるんだ。コイツが本能リビドー化するのは何度か見てきているが、今回のような行動を取ったケースは初めてだったんだよ」
 武蔵の言っている意味がまだ理子には理解出来ない。
「じゃっ、じゃあコウはお酒を飲むといつもはどうなっちゃうの?」
 武蔵は即座に答える。
「破壊行動だ」


 ―― 破壊行動。


 たった七文字の言葉なのに、その言葉の持つ力は強大だった。また背筋が寒くなる。
「それもとびっきり豪快にな。ハンパじゃねぇぜ。見るか?」
 そう言うと武蔵はすぐにドア横の壁に向き直り、メジャーテープ収納口上部のレンズから、ある映像を映し出す。「見るか?」と問いかけたくせに理子の返事を待つ気は無かったようだ。
 

 ―― 激しく亀裂の入った大小様々の瓦礫。
 ―― あらぬ方向にぐしゃぐしゃに折れ曲がった膨大なパイプ群。
 ―― 鋭利さをみなぎらせながら散らばる大量の硝子片。


 白の壁紙に映し出されたそれはまさに惨禍の後というべき光景だった。
 どこか血の色にも似た、淀んだ赤黒い夕日を背景にそれらの残骸が点在している。
 元は立派な何かの建物だったと思われるが、今では急遽取り壊された廃工場のような有様になっていた。
 手を浸せばいつまでもまとわりつきそうなドロリとした真っ黒い液体があちこちで不気味な沼を作っている。そこかしこから立ち上る黒煙。息もできないほどの強い臭気がこちらにまで漂ってきそうな迫力だ。

「な、なにこれ……?」
「すげぇだろ? これ全部コウがやったんだ」

 廃墟の跡地が大きくズームされる。
 砕かれた建物の破片のあちこちでゆらゆらと煙雲が上がり、周辺一帯をうっすらと覆う汚濁な空気の中で、所在無げに一人立ち尽くしている赤髪の少年がいた。

「これ……もしかしてコウ?」
「あぁ。コウが十五の時だな」
「……本当にコウなの? 信じられない……!」

“ 髪が赤いから ”、ただそれだけの理由で尋ねてみたのだが、武蔵が肯定しても理子にはそれがコウとは思えなかった。
 幼いから、という理由ではもちろん無い。この少年が身にまとう、身体から滲み出ている雰囲気が理子の知っているコウとはあまりにもかけ離れていたからだ。

 灰色の世界の中にゆらりと立つ十五歳の少年。
 その横顔はあちこちが煙煤にまみれ、両手は自らの流した血で真っ赤に染まっていた。閉め忘れた蛇口のノズルから漏れ出す水のように、だらりと下がった中指の先から赤黒い液体が細く垂れ落ちている。
 虚ろに宙を見上げているその目には一欠けらの感情も浮かんではいない。
 生気というものをまったく感じさせない、厭世観漂うその異様なシルエットは、今にも紅い夕闇の中にその身体ごと溶けていきそうだった。

 理子の口から信じられないという言葉が再びこぼれる。
 凄まじい破壊行動を終え、ぼんやりと空を見つめるその先には何が見えているのか。
 荒漠とした廃墟に一人立ち尽くす幼き日のコウは、まるで希望というものから一番遠い場所にポツンと佇んでいるようだった。





[29700] Chapter6 :  Bloody Hands 【4】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/14 23:13

「……どうして……どうしてコウはこんな事をするの……?」

 優しくて紳士的なコウの隠された裏面を知り、そう武蔵に尋ねた声が少し震えていた。理子の脅えを察した武蔵は唐突に映像ヴィジョンを切ると、慎重に言葉を選びながらその問いに答える。
「……不器用な奴なんだよ。何か辛いことがあってもそれを全部自分の中に黙って溜め込んじまう性格だからな……」

 その言葉にハッとする。


( ――……リコさん、貴女はなにか嫌な事があったらその事を親や友達、大切な人に話すタイプですか? それとも気分が晴れるまで自分の胸の中に閉じこめておくタイプですか?)


 あの公園で “ 自分は時空転送者トラベラーだ ” と秘密を打ち明けられる前に、コウから唐突に尋ねられた問い。あれはこの事を指していたのだろうか。理子が自分と同じタイプの人間かどうかを判断するために。

「でもよ、そうやって辛いことを溜めても、それをうまく昇華する術をコウは知らねぇんだ。だからこうやって何かのきっかけで爆発しちまう。もうこれは一種の自傷行為みたいなもんだ。目の前にあるものを徹底的に破壊してるんじゃない。コウはな、自分を痛めつけてんだよ。最後のエネルギーの一滴が完全に無くなるまでな」

 言い訳のような武蔵の説明はまだ続く。

「だからコウは人を襲ったりはしない。ぶっ壊すのは主に建物だな。……そうだ子雌、お前、コウの手が妙に綺麗だと思ったことはねぇか?」
 理子は強く頷いた。
 それは出会ってすぐの頃から思っていた事だ。
「それはな、コウが今まで何度か暴走する度に両手を完全に使い物にならなくなるぐらいまでぐしゃぐしゃにしちまうからよ、その度に骨も肉も完全修復リストラテーションされて、培養された新しい皮膚スキンにすべて変えられてるからなのさ」

 赤ん坊の肌のようなもんだよな、と武蔵が呟いた。
 からくり時計の天使達がそれぞれ二度浮き上がり、午前二時を告げる。

「だからな、驚いてるわけよ。今回のコウの行動にな。もし暴走したコウがこの街のどこかで破壊をおっぱじめれば即座に大事件になるだろう? なんたって素手で全部ぶっ壊しちまうんだからな」
「えっ素手で……!?」
「あぁ」
「じゃあもしかしてさっきのも……?」
「そうだ。ちょいと詳しくは言えねぇが、コウの体の一部は身体改造フィジカルコンバートされててな、常人には無い力が出せんだよ」
「……どうして? だってコウは女性下着請負人マスターファンデーションなんでしょ? どうしてそんな事がされてるの?」

「ほぉ……。子雌、お前なかなか鋭いじゃねぇか……」

 一瞬の間をおいて武蔵の二つのランプが互いに点滅を繰り返す。今の点滅は動揺のサインだ。
「……悪ィがそれも機密事項なんでいくらお前でもこれ以上詳しくは言えねぇ。勘弁してくれ」
 早口でそう言い切ると、場を流すために武蔵は引き続き喋り続ける。
「ま、そういう理由でコウが酒を飲んじまった時、俺は半分覚悟してたんだ。大掛かりな記憶操作パペットをやらなきゃいけねぇってな」
「……パペット?」
「あぁ、暴走したコウが引き起こした建物の破壊は何かの別の理由で起きたっていう虚偽の理由を作ってよ、それをこの街の人間達の記憶にぶち込むのよ。こりゃあ一手間どころかかなりの大事になってたぜ。だってよ、この街はそれなりの人口がいるだろ?」
「うん……」

 先ほど見せられた廃墟の映像が鮮明に蘇る。
 気落ちした声でそう呟く理子の様子に、武蔵もしばらく沈黙する。
 静かに時は流れ、時刻が午前二時半を回り、二人の天使がくるりとお互いの位置を入れ替えた時、武蔵が再び甲高い音声を発した。

「なぁ、子雌……」
「なに?」
「……さっきから気になってたんだがよ、お前、いくら俺が機械だからってその格好は無いんじゃねぇか?」
「え……? あ!」

 真下に視線を落とし、武蔵の言わんとしていることが分かった理子は慌ててオープンになっていた胸の谷間を両手で覆い隠した。
 縛られていたネクタイを武蔵に外してもらった後、ベッドから逃げ出すことで頭が一杯で、コウに外されたパジャマの前ボタンが開けっ放しだったのだ。

「別にお前みたいな貧相な胸見ても俺は何とも思わないけどよ、そうまで無防備な格好をさらけ出されてると面白くねぇんだよ」
「ひっ、貧相な胸で悪かったわねっ」
 急いでボタンを留めながら理子は言い返した。だがまだ気持ちが沈んでいる状態なのでそれ以上の文句を言うことは出来なかった。
「お、怒ったか? でも安心しろ、子雌! そりゃあお前の胸は確かに小せぇさ。だが形や色は悪くない。いや、寧ろ上出来の部類だ。今まで何人もの女の胸を測ってきたこの俺が言うんだ、間違いねぇよ」
「なっ……!?」

 ボタンを留めていた手が止まる。だが赤くなった理子を他所に武蔵のフォローは快調に続いた。

「コウなんかよ、昨日お前が帰った後、ベタ褒めしてたぞ? “ 乳房バスト乳首ニップルもとてもキレイでした! ” ってすっげー嬉しそうに言ってたな。そんでな、あの後あいつ急に、 “ なんだかミルクプリンが食べたくなりました ” って言い出してよ、どこかに買いに行ったんだ。以上のことからこの武蔵様が予測するにな、たぶんあれはきっとお前の胸からそのミルクプリンとやらを連想して食いたくなったんだと思うぜ?」


 ―― なななななななななななっ……!!


 フローリングの冷たさでほぼ平熱に下がっていた体温がまた急激に上昇する。
 理子は恥ずかしさと怒りでわなわなと身体を震わせた。コウが眠っている事も忘れ、室内に絶叫が走る。
「ババババババッカじゃないのっ!? エッチ!! スケベ!! コウもあんたもどっちも最低ーッ!!」
「よーしそうだ! やっと元気が出てきたじゃねぇか子雌! ようやくお前らしくなってきたな!」
「エ?」
「やっぱお前はうるせぇ方がいい。野蛮なぐらいにな」
 ご丁寧にもさっきとは反対側の頬を、武蔵がテープの先端でぐいっとつまみあげる。
「いふぁぁーいっ!」
 右頬をつままれて理子はそう叫んだものの、今の武蔵の言葉に胸を突かれて怒りの感情がスゥッと跡形も無く消えてゆく。


 ―― そっか、武蔵は私を心配してたんだ……。
 この巻尺はただのエッチな巻尺じゃない。
 自分の意思……ううん、“ 心 ”を持っているんだ――


 理子は改めて目の前の小さな唐草文様の巻尺を見つめる。
「お? なんだなんだ子雌、俺様をじっと見つめやがって。さては惚れたな?」
 頬をつまみ終えた武蔵がまたおどける。
「だっ、誰があんたみたいなしょーもないエロ巻尺に惚れんのよ!」
 だが怒鳴るようにそう言い返した理子の表情には完全に明るさが戻っていた。


(ありがと 武蔵)


 二度目の礼は心の中で言う。
 コウが初めて会ったあの公園で武蔵のことを話してきた時、まるで本物の人間のようにその人となりを説明してきた理由が今になってやっと分かったような気がした。




◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆




 時刻はすでに午前三時をとうに過ぎていたが、蒼い室内で少女と巻尺の会話はまだ続いていた。

「武蔵」
「あ?」
「コウと武蔵って、特別な絆があるよね」
「……まぁな。コウが十歳の時から俺らはずっと一緒にいるからなぁ」

 武蔵が言葉の一つ一つに混入させる不揃いなのせいで、機械音声の中に懐かしさがこもっているように感じる。

「えっ、そんな小さな頃から? コウってそんな子供の頃からブラを作る仕事をしていたの?」
 純粋に驚いた理子が大きな瞳をさらに見開いてそう尋ねると、
「おい子雌……、お前さっきから鋭いとこばかり突いてくるじゃねぇか……」
 電脳巻尺エスカルゴのブルーランプが点灯し続ける。やがてその光が再び消えた時、武蔵がボソリとその問いに答えた。

「確かに今の俺の主人マスターはコウだが、昔は違ったんだよ」

「誰なの?」
「……名は蕪利かぶり 漸次ぜんじ。コウの親父さんだ」
「コウのお父さん?」
「あぁ。漸次さんもコウと同じ職業なのは知ってるか、子雌?」

 以前にコウが、“ 僕の家は祖父の代からの女性下着専門店ファンデーションショップなんです ” と話してくれたことをしっかりと覚えていた理子は、「うん」と頷く。それを確認した武蔵は続きを話し始めた。

「普通、俺ら電脳巻尺エスカルゴはな、女性下着請負人マスターファンデーションの資格を取った奴らに “ 女性下着縫製F・S・S協会 ” の方から支給されるものなんだ。だが俺の場合は特例みたいなもんで、試験をパスして資格を取ったコウがこの俺を専属の電脳巻尺として登録して、本来コウに与えられるはずだった電脳巻尺が漸次さんの所に行ったってわけよ。ま、簡単に言やぁ、チェンジしたってことだな」
「ふぅん……」
 そう相槌を打ったが、コウがわざわざそんな面倒な事をした理由が今の理子にはよく分かる。
「コウは武蔵のことをすごく大切にしてるよね。だって前に武蔵のことを “ 僕の家族 ” って言ってたもん」
「なっ、なにィーッ!?」

 音声のトーンが途中から不自然に上がった。

「コッ、コウの奴、そんな事言ってたのかよっ!? チッ……、しょっ、しょうがねぇなぁコウは! 俺らはあくまで “ 操作者マスター ” と “ 補佐物アシスタント ” の関係なのによ……! どうかしてるぜ、ったくよ!」
 そう呆れたように言いつつも、なぜか武蔵は収納口からメジャーテープを意味無く何度もピロピロと出し入れさせ、その動きをエンエンと繰り返している。そんな武蔵を見た理子は思わずプッと吹き出した。
「な、なんだよ子雌!?」
「……武蔵、照れてるんでしょ?」
「だだだだだれが照れてるかよ! こっ、子雌のくせに男をからかうな!」
 機械のくせに自らを男と言い張る武蔵に理子が笑い声を上げると、武蔵は悔しそうに垂れ下がっていたテープを素早く収納する。その直後、室内に青い光が二度だけゆっくりと点滅した。


「でもようやく笑ったな、子雌」


 ―― 今の青いサインはきっと安堵のサインだ、理子はそう直感していた。





[29700] Chapter6 :  Bloody Hands 【5】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/15 20:53

「おい子雌、お前に折り入って頼みがある」

 武蔵は突然そう切り出した。
 その声に真剣味が感じられる。電脳巻尺にもし表情が作れるとしたら、たぶんこれ以上無いくらいの真剣な顔をしていたに違いない。
「頼みって?」
「……コウが今夜お前にした事を許してやってくれないか……?」
「えっ……」
「明日の朝、目を覚ましたらコウはたぶんお前を襲おうとした事を覚えていないと思う。また何かやったんだな、ぐらいの記憶しか残っていないんだ。こいつも可哀想な奴なんだよ。だから、だから頼む……」
 自分なりに頭を下げているつもりなのか、武蔵は理子に向けて軽く本体を前傾させる。収納口の小さな銀枠がフローリングに当たり、コトリ、と小さな音がした。
 今まで自分に散々と不遜な態度を取ってきた傲慢な武蔵が、ここまで神妙に頼み込む姿に理子は胸を打たれる。

「……うん、いいよ。今夜の事、許すよ」

 噛み締めるようにそう答える。
 黒煙の立ち込める廃墟の中、光を失った瞳でくうを見上げる赤い髪の少年の横顔を思い返しながら。
「済まねぇ……! 恩にきるよ子雌!」
 斜めになっていた体勢を水平に戻し、武蔵は嬉しそうに言った。
「もう金輪際コウには酒を飲ませないようにするからな! 俺がしっかり監視するから心配すんな」
「ううん、それはうちのお父さんが悪いんでしょ? コウならきっともう飲まないよ。私の方からもお父さんにキツく言っておくから」
「あぁ、頼む」
 そう言うと武蔵はまたメジャーテープを一本だけ宙に出した。

「握手だ、子雌」

「え?」
「お前、気が強くて野蛮なだけかと思ったが結構イイ奴だな。お前のこと認めてやるよ。だから握手だ」
「う、うん……」
 理子がおずおずと右手を差し出すと、宙を漂っていたメジャーテープがグルグルと包帯のようにきつくきつく巻きつく。
「これからよろしくな、子雌」
「……ねぇ、いい加減にその “ 子雌 ” っていうのは止めてくれない?」
「無理だな。なんかもう呼び癖がついちまった。諦めろ」
「あんたねぇ……!」
「さぁてと」

 理子の手からテープを外すと武蔵はさっさと宙に浮き上がり、コウの側に移動する。

「じゃあ子雌、悪いが今夜はコウのこと頼むな?」
「ハ!?」
「だってよ、こいつもう朝まで絶対に目を覚まさないぜ? ここに泊めてやってくれよ」

「エエエエ――ッ!?」

 乙女の絶叫が室内を放射状に拡散する。
「こここ、ここって、まっまさか、そそそそそのベッドじゃないでしょうね!?」
「他にどこがあるんだよ」
「あんたがコウを連れて帰ってよっ!」
「バカ言うなよ。確かにコイツは細身だがそれだって男だ。それなりに重量あるだろ。運べるわけないだろうが」
「昨日私を玄関からあんなにスゴい力で引っ張ったじゃない!」
「あれはちょいと牽引しただけだろうが。人間を吊り下げて長距離を移動となると無理だな。さすがの俺も壊れちまうよ」

 どうしてもここで引き下がるわけにはいかない理子は必死に食い下がる。

「だってベッドは一つしかないのよっ!?」
「いいじゃねぇか。コウは朝まで起きないからもう襲われることはねぇって。安心して寝ろ。ちょっと狭いだろうが一日くらい我慢しろよ」
「じゃっ、じゃあ床に置く! 手伝ってよ武蔵!」
「おい……この寒い時期にコウを床に放置するってか? お前は鬼か」
「ちゃ、ちゃんと布団はかけてあげるわよ!」
「こんな固い床で寝かすのか? 可哀想だろうが。動かすの面倒だしよ、いいじゃねぇか、そこで」

「ダメダメダメダメダメ――ッ!」

 そのあまりの拒絶ぶりに武蔵は横たわるコウの脇に静かに降りた。
「……なぁ、なんでお前そこまでコウを拒絶すんだよ? あーあ、もしコウがこの事知ったら相当なショックを受けるぜ、きっとな……」
「ちっ、違うの――っ!」
 理子は大声で叫び、ベッドに横たわるコウをビシッと指差す。
「コウを拒絶してるんじゃないの! 男の人と、いっ、一緒のベッドで眠れるわけないじゃないっ!」

 神経麻酔が本格的に効き始めているのか、目を閉じているコウはだいぶ安らかな顔になってきている。

「何? そんな理由かよ? しっかしお前って本当にウブだなぁ……。まぁだからこそコウも暴走しちまったのかもなぁ……」
「な、なによそれ?」
「いやだからさっきも言ったけどよ、コウが今回破壊活動を一切しなかった理由さ。いつもならとっくに理性は無くなっていたはずなのに、コウは最後までお前の親父さんの酒の席に付き合ってよ、しかも酔っ払った親父さんをかついで帰ってきただろ? 俺、上着の中で驚いてたんだ。今までのコウならこんなこと絶対ありえねぇ。すぐにあの場を飛び出して どこかのでかい建物をぶっ壊しに行ったはずだ」

 ―― あ。
 そうだ。そう言われて初めてその事実に気がつく。

「……どうして今回コウはすぐに暴走しなかったのかな?」
「そうだな、俺の推測ではたぶん理性のスイッチが今回は全部倒れきらなかったんだと思う。きっとコウ自身が自分の中で必死で戦ったんだよ。何とか残ったわずかな理性でお前の親父さんをここまで送ってきたんだ。そして無事に届け終わって気が緩んだ瞬間にスイッチが全部倒れて完全に本能リビドー化したんだろうな……。だがよ、それでもこいつは破壊行動には出なかった」
 ベッドの上で眠る赤髪のライオンを黙って眺めている理子の側に、浮き上がった武蔵が音も無く近寄る。


「…………コウはそれだけ本気でお前が欲しかったんだなぁ…………」


 意図的にトーンを下げた武蔵の音声が室内に静かに響く。

「そ、そんなっ……!」

 その言葉がまた乙女の心を大きく揺らし、その場に佇む理子の胸の奥は再び熱く火照り始めていた。





[29700] Chapter6 :  Bloody Hands 【6】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/16 00:41

 理子はあらためて気付かされる。
 コウがそこまで自分を想ってくれていることに。

 “ いつまでも待ちます ”

 そう紳士的に言ってくれたのとは裏腹に、内面ではこれだけ激しく欲していたことに。


( いえ僕は本気です 本気で貴女が欲しいんです )


 弾かれたように立ち上がったコウが、理子に告げてきたあの言葉。
 あれはつい出てしまったコウの偽らざる本音だったのだろう。
 呼吸をしたくてもなぜかうまく出来ない。自分の周囲にだけ酸素が消失しているような錯覚がした。

 もう一度コウを見下ろす。数分前よりもさらに柔らかい寝顔になっている。
 いつものコウだ。間違いなく、この人はコウだ――。
 理子のすぐ横でからくり時計の二人の天使がガラス筒の空間をまた楽しそうに飛び回り始めている。
 決心は固まった。

「わ、分かったわよ。いいわよここで」

「おっ! やっと腹を決めたか子雌!」
 ようやく降りた許可に武蔵のテンションが上がったので理子は慌てて牽制した。
「でっ、でも明日は朝早く帰ってよ!? お父さん達に気付かれないように!」
「あいあい、了解。じゃあ俺も寝るとすっかな」
「エェッ!? 武蔵って寝るの!?」
「あぁ。寝るっていうか省動力セービングモードに切り替えるんだ。深夜はいつもそうしてる。でもその前に一つやっとかなきゃいけねぇことがあるな……。お前に頼んじまっていいか子雌?」
「何を?」
「コウのスーツ、シワになっちまうからかけてやってくれよ」
「あ、うんそうだね」

 それぐらいならお安いご用だ。
 理子はクローゼットから空のハンガーを取り出し、床に投げ捨てられていたスーツの上着とコートを拾い、それにかける。

「はい、これでいいでしょ?」
「おいおい、まだあるだろ子雌」
「は?」
「基本中の基本だろうが。学校で習わねぇのかよ?」
「だから何をよ?」
「“ スーツは上下で一揃い ”。下のスラックスもかけろって言ってんだ。早くコウから脱がせろよ。出来んだろ、それぐらい」

「エエエ――ッ!?」

 コウのスラックスを自分が脱がせる事を想像しただけで両頬が紅潮する。理子はぶんぶんと頭を振って抵抗した。
「でででででできるわけないでしょっ!」
「なんでだよ。ベルト外して脱がすだけだ。簡単だろうが」
「でっ、できないったらできないのっ! 脱がさなくてもいいよ!」
「だからシワになるっつってんだろ?」
「明日! 明日の朝アイロンかけてあげる! それでいいでしょっ!」
「あ~もういい、もういい。分かった分かった。じゃあいいや、それは俺がやるよ。……しかし破瓜期の生娘にも困ったもんだな。お前さ、やっぱり今夜コウに襲われてさっさと女になっちまった方が良かったんじゃねぇか?」
「なななななに言い出してんのよ! エロ巻尺ッ!」
「へーへー。俺に限らず男は皆そういう生き物だがな。じゃあシャツを脱がすのだけ手伝ってくれ」

 武蔵はうつ伏せのコウに近づくとメジャーテープを胸部に巻きつけ、器用に仰向けに直すとそのまま一気に引き起こす。

「ほら子雌、お前背中を支えててくれよ」
「う、うん」
 理子は急いでベッドに駆け寄り、コウの背中を押さえた。するとほどけた第二の手がYシャツのボタンを器用に外していく。
「子雌、今度は俺が支えているから頼む」
 ガクリと頭を前に垂らして完全に意識を失っているコウの胸部に再びテープが巻きつけられ、ピンと張り詰められる。理子はコウの両腕からそっとYシャツを抜いた。細身ながらに筋肉質な上半身が白い薄手のTシャツからかすかに透けて見える。

「よーし、お次はこっちだな」

 仰向けに寝かせたコウのベルトに武蔵が手を伸ばしたので理子は慌てて目を逸らし、ベッドに背を向けた。
 カチャカチャとベルトのバックルをいじる音が背後から聞こえてくる。何度か衣擦れの音がした後、「ほら子雌」と理子に目掛けてYシャツとスラックスが飛んできた。顔を背けていたので頭からもろにかぶる羽目になってしまった。
「ひゃぁっ!?」
「さっさとかけろ」
「わ、分かったわよ!」
 Yシャツとスラックスをガシッと掴み、それらをハンガーにかけに行く。そしてベッドに背を向けたままで「武蔵! ちゃんとコウに布団かけてよ!?」としっかりと念を押した。
「あいあい、了解」
 背後でごそごそと羽根布団が動いている音がする。コウの身体の向きの最終調整をしながら武蔵が「なぁ子雌」と理子を呼んだ。背を向けたままで答える。
「なに?」
「お前、今日コウにブラを貰ったろ? どうだ、最高だろ? コウの作るブラは」
「……うん。とっても良かったよ」

 理子は素直に頷く。
 全部のブラを試着させられ、その度にコウにフィット具合を入念にチェックされたのには死にたくなるぐらい恥ずかしかったが、確かに着け心地は最高だった。

「そうだろ? だから言ったじゃねぇか。コウの作るブラはマジで特級品だぜ? 伊達にマスター・ブラをやってねぇからな。……ところでコウはお前に何枚ブラを作ってた?」
「んっと、全部で七枚かな?」
「七枚もか……かなり無理したなぁ」
「え? それってどういう……」
 理子はベッドを振り返り、今の言葉の意味を確かめようとしたが、まだ布団は完全にかけられていないようだったので慌ててクローゼットの方に向き直る。
「む、無理したってどういうことなの、武蔵?」
「コウの奴、昨日から全然寝てなかったんだよ。お前のブラを作るために徹夜でずっと作業をやってたからな」
「徹夜で……?」

 あの色とりどりのレインボーブラを思い出し、胸が詰まる。

「あぁお前に一枚でも多くブラを贈りたかったんだろうよ。……ほら布団かけたぜ子雌」
「う、うん」
 その言葉に安心してベッドに視線を戻した理子は絶句する。


「……ちょっと……それは一体なんの真似なのよ、武蔵……!」


 仰向けだったはずのコウの身体は、武蔵によって横向きの姿勢にさせられていた。水色のシーツの上を左腕が真っ直ぐに伸びている。

「お前のベッド、横幅が狭いからな。少しでもお前らが楽に寝れるように配慮してやったぜ」

 武蔵は開け放されていたカーテンを閉め、誇らしげに告げる。
「お前の枕をコウに使ったからさ、お前はコウの腕を枕にしろよ。そんでお互い向かい合わせに寝れば狭いなりに多少のスペースが出来るだろ? 見ろ、このナイスアイディア。収納上手な俺様に感謝しろ」

「なっ何が感謝よ――っ!」

 これではコウに腕枕をしてもらうことと同じだ。「バカエロ巻尺ッ!」と続けて全力で叫ぼうとしたが武蔵はさっさと次の行動に移っている。
「さーてと、じゃあそろそろ寝かせてもらうぜ。お前も早く寝ろ。もう四時だぞ」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
 しかしその訴えを完全に無視し、理子の机の上を安眠場所に決めた武蔵は最後に「じゃあな」と理子に告げる。電子音が一度だけ鳴り、自らで殆どの電源を落とした武蔵は完全に沈黙した。

 慌しい時間がやっと終焉を迎える。
 部屋がシンと静かになったので急に寒さを感じた理子はおずおずとベッドに近寄った。
 カーテンを閉じたせいで暗さを増した室内で、ぐっすりと眠るコウを前に理子はある一つの奇妙な事実に気付いた。

(なんなのこれ……?)

 コウのTシャツの右袖口からほんのわずかではあるがかすかな蒼い光が滲んでいるのが見えたのだ。恐る恐るTシャツの袖口をつまみ、軽く上へ引き上げてみる。すると光は覗いた右上腕から発光していた。
 コウの上腕部に目を凝らすとそこには解読不可能な記号のようなものが書かれており、それが闇に反応してうっすらと燐光している。武蔵を起こしてこの事を尋ねようかとも思ったが、先ほどのようにまた答えを濁されるような気がしたので思いとどまった。

(もしかしたらこれもコウの過去と何か関係があるのかも)

 ベッドに入る前にそっとコウの髪に手を触れてみる。
 緩やかに伸びている長めの髪。
 この髪が短かった頃、コウは両手をこの髪と同じ紅い色に染めてあんな恐ろしいことを幾度と無く繰り返していたのだ。完全に光を失ったあの瞳で。

「コウ」

 小さく口に出して名前を呼んでみる。もちろん反応は無い。
 腕枕用に伸ばされている左手にそっと触れてみる。やはり綺麗な手だった。
 そっと五本の指を握り締めてみる。それでも反応はかえってこない。
 ゆっくりと息を吐くと理子は手を離した。掛け布団をまくりあげてそろそろと中に入り、コウの向かいのスペースに身を縮めて潜り込む。
 ずっと頭を乗せたままなら朝には痺れてしまうだろうと思い、せっかくの武蔵の計らいだが腕枕はやはり遠慮することにした。
 アルコールの匂いに混じって微かにマスカットの香りがする。この香りを知ったのはまだほんの三日前のことなのに、なんだか懐かしさを覚えている自分が不思議だった。

 小さなあくびを一つ。
 俯いて目を閉じるとコウの胸に額がかすかに触れ、とくん、とくん、と静かな心臓の鼓動が伝わってくる。その音だけに意識を集中すると気持ちが凪いでゆく。

 ―― もう初めて出会った頃の浮ついた気持ちは完全に消えていた。

 そしてもっと心の奥底の部分からこの青年に強く惹かれ出してきていることを自覚し始めた理子は、その穏やかな鼓動を聞きながらやがてゆっくりと深い眠りの中に入っていった。





[29700] Chapter7 :  SPA Panic! 【1】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/17 16:55


「何か言ってあげなさい  まだ聞こえているよ」



 少年の側にいた一人の男が小さな肩を叩き、低い声で囁くように言った。そして小さく震えだした少年の両肩を労るようにさする。だが皮肉な事に慈悲の気持ちでかけたその言葉は、血の気の無かった少年の顔色をさらに無くしてゆく手助けをしていることに男は気付いていない。

「最後に何か言ってあげなさい」
 
 男は先ほどよりもやや声に力を入れる。しかし少年の下唇は固く噛み締められたままだ。「さぁ」ともう一度男が促すと少年は無言で両耳を覆い、その場にしゃがみこんだ。
 強く目をつぶり、しっかりと耳を塞ぎ、すべてから逃げようとしているその態度に怒りを覚えたのか、男はやや強く少年の腕をつかみ、再び立ち上がらせる。

「ほらお母さんが君を見ているよ。これ以上心配をかけるんじゃない」

 それを聞いた少年はハッとした表情で目を開いた。同時に少年の両肩にあまり血色の良くない十の細い指が食い込み、小さな体を強引に右に捻る。
 体中の隅々を様々な幅の導線で覆われている一人の女性がそこにいた。その中で一番広幅なコードは真っ赤な色をしている。少年の瞳にはそれが女性の命すべてを吸いつくしているように映った。
 横たわる女性はわずかに顔を斜めに向け、少年を静かに見つめている。ほとんど瞬きもせずに赤い髪の少年を見つめているその二つの瞳は未踏の泉のようにどこまでも澄んでいた。
 だが自分を見つめるその済んだ瞳を見た少年の表情に、たちまち恐怖の色が浮かび上がる。恐怖は震えを呼び、その震えはすくんだ足元から全身、下から上へと瞬く間に侵食する。足の震えが両肩にまで到達した瞬間、少年は男の手を振りほどき、その場から逃げ出した。
 逃げてもすぐに掴まる事は分かっていた。だがそれでも少年は走った。
 やがて左肩の刻印カーヴが反応を始める。

 ―― 追跡が始まっている証拠だ。

 少年は絶望的な目で蒼く光り出した自らの肩口に視線を落とす。
 時間にしてあとわずか数分後だろう。捕獲され、また閉じ込められてしまうのだ。苦痛以外の何もないあの場所へ。

 自分を追ってきた大勢の足音が鼓膜に届き出す。
 戦意を完全に失ってしまった少年は走るのを止めてその場にガックリと膝を着いた。そしてもうどうにでもしてくれというように床にうつ伏せに体を投げ出す。

 一人ぼっちになってしまった自分。

 もう誰も助けてくれることは無い。  ――――永遠に。

 目頭が熱くなってきたのを感じた少年は鼻が潰れそうなほど床に強く顔を押し当てた。
 泣いちゃいけない。泣いちゃいけないんだ。お母さんと約束したから――。


「毎度毎度手間かけさせんなよ」


 鋭い風圧。後方から追ってきていた男達の一人がシルバーアッシュの髪をかきあげて忌々しげに吐き捨て、床に倒れ伏したままの少年の腹に鮮やかな蹴りを入れる。腹にめり込んだその一撃に耐えかねた少年の口から小さなうめき声が漏れた。
 即座に「手荒な真似をするな」という静かな中にも怒りを含ませた声が響く。先ほど少年の側にいた男の声だ。行為を咎められた若い男は周囲に聞こえないように小さく舌打ちをすると後ろを振り向いた。そして左の手を男に向かって大きく広げる。
「じゃあこっちならいいんでしょう、先生マスター?」
「……あぁ。体に傷がつかなければね」
「了解」
 銀の髪をなびかせた男の口元に残忍な笑みが浮かぶ。そして少年の耳元に顔を近づけると「じゃあな、GoodBoy」と低い声で呟いた。
 少年の細い首筋にひんやりとした手が当てられた時、小さな体の中心に焼け付くような熱い衝撃が走る。意識が一気に闇に引きずり込まれる直前に赤い髪の幼い少年は心の中で必死に謝罪の言葉を叫んだ。
 


   ―― 僕のせいだ。僕のせいなんだ。ごめんなさい、お母さん。
    僕のせいでお母さんがあんなに苦しむ事になったんだ。
    お母さんの言ったことは全部守る。絶対に守るよ。
    だからお願い、僕を許して――



 そして少年はそのまま気を失ってしまった。




◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆




 …………ここはどこだろう…………?


 体中に冷や汗をかきながら目を開けると見慣れない天井だった。
 今まで何度となく繰り返し見てきた悪夢から目覚め、横たわっていた身体を起こそうとするとふらつく。無理やり身体を起こし、片手を額に当てる。意識にまでふらつきを感じた。


 この感じは――――
 このかすかな倦怠感に白濁する思考。
 間違いない。これは暴走した後の身体に残る負の作用だ。
 コウにとっては思い出したくない感触だった。

 ということはまた自分は破壊行為に出てしまったのか……?

 両手を見てみる。
 しかし手に傷は一切なかった。
 その事を不思議に思う前に両手の下にあった水色の掛け布団に意識のすべてを取られる。
 天井には見覚えがなかったがこれにはあった。つい最近見たばかりだ。
 朦朧としていた意識が瞬時に覚醒してゆく。
 目の前三十度しか見えていなかった視界が本来の広さにまで戻り、それによってコウはやっと自分の隣でぐっすりと気持ち良さそうに眠っている一人の少女を確認した。

(リ、リコさん?)

 なぜ自分はここにいるんだろう?
 どうしてリコさんと一緒のベッドで寝ているんだろう?
 分からない。
 だがパニックを起こしかけている思考の中で昨夜の記憶を呼び覚まそうと、コウは必死に考える。

 ―― 昨日はリコさんのお父さんと一緒に出かけて、そしてアルコールを勧められたので断って、でも飲まないとリコさんと会うのを許さないと言われて、それで僕は――

 昨日の行動を振り返ってコウは自分がアルコールを摂取してしまったことを思い出す。

 ―― そうだ、それでまた僕は暴走したんだ。
 でも両手が潰れていないのはどうしてなんだろう……?

 コウは再びリコの寝顔を見つめた。
 軽い寝息をたててよく眠っている。その無防備な様子に、コウの眼差しが愛おしさのこもった優しさで溢れたがそれも束の間のことだった。

 マスタード色の自分のネクタイがベッドの上柵に絡み付いているのがコウの目に留まる。それが無情にも昨夜の現実を突きつける起爆剤になった。
 脳裏に昨夜のシーンの一部が突如フラッシュバックする。
 固く絡まっていた記憶の糸は一度ほつれると簡単に次の悪夢のシーンを呼び覚ます。


(止めてっコウ! お願いっ止めてっ!)


 鼓膜を震わす脅えた叫び声。
 自分から逃げようと必死にもがいている華奢な身体を押さえつけ、二本の手は自らのネクタイを使ってあっという間に細い手首を縛り付けている。瞬く間に露になってゆく理子の胸元。それを見て何かを言ったような気もするが、その台詞までは思い出せなかった。
 そして必死に抵抗をしている理子の目に涙が浮かんでいたのを目にした瞬間、意識が真っ白になって――――


 記憶はここで完全に途切れていた。もうどうやってもこの先を思い出せない。
 理子の手首に視線を落とすと、そこにはまだ白い肌を締め付けているように見える痛々しい紅い痣の輪ができていた。その手首に触れようと左手をそろそろと伸ばすと指先に何かが当たった。シーツの上に落ちていたそれを手にしたコウの表情から完全に血の気が引く。
 それは小さくて丸い――――理子の服を強引に脱がしている最中に自分が引きちぎったボタンだった。
 すべてのシーンが一つのストーリーに繋がったその瞬間、コウの掌からボタンが零れ落ちる。


(僕は……僕は…………!)


 昨夜、自らが犯した愚行の痕を目の前にしたコウの体は小さく震えだしていた。





[29700] Chapter7 :  SPA Panic! 【2】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/18 22:37

 (……部屋の中に誰かいるの?)


 ベッドの中でそんな気配を感じ、理子は目が覚めた。
 カーテンはすべて開けられ、部屋の中には朝の光が充満している。
 まだ寝足りないせいで両瞼はとても重かったが、とてもいい夢をみた後のように気分は爽やかだった。

 ぼんやりとした視界の中に誰かの背中が見える。
 軽く目をこすりベッドから起き上がると、熱心にクローゼットの中を漁っている人物が誰なのかが分かり、思わず叫ぶ。


「お、お母さん!? ちょっとそこで何やってんのよ!?」


「あぁ理子、やっと目が覚めたの。もういい加減に起きたら?」
 弓希子は後ろを振り返り呑気にそう答えたが、クローゼットを漁る手は止まっていない。その手にはコウ特製のレインボーブラの数々が握られている。
「それっ……! な、なんで私の下着を漁ってんの!?」
「だぁってー、このブラすっごく素敵なんだもの~!! ほら、見て見て理子! 特にこれなんか最高! もろあたし好み~!」
 まったく悪びれる様子も無く、弓希子はシフォンで作られたパープルのブラを手にすると自分の胸に当ててみせる。
「このブラ、蕪利さんが作ったんでしょ? 素敵よね~!」
 
 ―― あっ!

 コウの名前が出てきたので理子は慌てて自分の隣に視線を移す。

(……コウ、いない……)

 隣に寝ていたはずのコウの姿は消えていた。
 クローゼットにかけてあったスーツも、床に置いてあった革靴もすべて消えている。
 机の上にいた武蔵ももちろんいなくなっていた。

(そっか、見つかる前に帰ってくれたんだ! 良かった……)

 家族に知られる前に二人が帰ってくれた事に理子は安堵する。
「それより理子も早く朝御飯食べちゃってよ。片付かないから」
「う、うん」
 ベッドから降り、クローゼットから服を出して着替え始めた理子の横で弓希子が薄笑いを浮かべる。
「それとももしかして理子も食欲無いの?」
 そんな母の意味深な表情と不可思議な質問に、服を着ようとしていた理子はキョトンとした顔で「えっ何それ? どういう意味?」と問い返した。
「だって蕪利さん、今朝あまり食欲が無いみたいだから」
 その時、理子の手からハンガーが音を立てて落ちる。


「……ハ!?」


「せっかく一杯作ったのに要らないって言うのよ。それとも蕪利さんって元々朝はあまり食べられない人なの?」
「……まっまさかコウ、今ウチにいるの……!?」
 青ざめた顔で恐る恐る尋ねた理子に、弓希子は腰に手を当て、わざと大きく頷いてみせる。
「えぇ、いるわよー? 朝にね、“ おはようございます ” ってすごく神妙な顔で下に降りてきたわ」


「エエエエエエエエェェェェェ――ッッ!?」


 床から拾ったハンガーが理子の手の中でミシリと音を立てる。


 ―― なななななにやってんのよ あの男はぁぁぁぁっっ!!!

 
「それにしても理子、あんた昨日はスゴかったわね~!」
 次はモスグリーンのブラに手を伸ばし、またニヤリと弓希子が笑う。
「夜中に蕪利さんが帰った後、寝る前にお化粧を落とそうと思って廊下に出たらさ、二階からあんたの叫ぶ声が思いっきり聞こえてきたわよ。『 いたあぁーいっ!!』 って」
「……なっ……!!」


 ―― そ、それって武蔵に顔を引っ張られた時のことだーっ!!


 またしても弓希子にとんでもない誤解をされ、理子の顔が真っ赤になる。
「ちっ、違うのお母さんっ! 誤解よ! あれはね、エロ巻ッ…………」
 エロ巻尺こと、武蔵に頬を引っ張られたからだと言いかけたが、たぶん言っても信じてもらえないと思った理子は後の言葉を飲み込む。
「何? エロチックがどうしたの?」
「違ーう! エロチックじゃないってば! とっ、とにかく! あれはそーゆー意味で言ったんじゃないのッ!!」
 すると弓希子はホホホホと女王のような高笑いをし、その後で力強く宣言した。
「まぁ最初はちょっと辛いかもしれないけどそのうちカラダが慣れてくるから安心なさい! ……っていうかね、その内あれが無いともう生きていけなくなっちゃうんだからっ! お母さんが保証するわ!」


(……ダメだこれは……何を言ってもまた泥沼になるパターンだよ……)


 頭を抱える理子の横で弓希子の話は続く。
「でね、さっきの話の続きなんだけどさー、蕪利さんたら下りてくるなりいきなり、パパに『折り入ってお話があります』って言い出してね、まだ二人とも書斎から出てこないのよねー。……もしかしてお酒の勢いで理子に夜這いかけちゃった事でも謝ってんのかしら? でもさ、もうあんた達は我家公認のお付き合いなんだから、そんなの別に気にしなくていいのにね~! なんか真面目よねー、蕪利さんってさ!」
「こっ、公認って……!」

―― 朝から強烈な眩暈がしてきたが、むろん極度の睡眠不足からくるものではない事はいわずもがなだ。

「ねぇねぇ蕪利さんのブラってどれも本当によく出来ているわよね! 大胆なデザインの中にも女心を揺さぶるような繊細さがあってさ! ……理子、ママも蕪利さんにブラ作ってもらいたいんだけどさ、頼んでもいい?」
「えぇ――っ!?」

 プラスチック製のハンガーにとうとうピシリと小さなヒビが入る。

「ダッ、ダメダメダメダメ!!!! 絶対にダメーッ!!」
 反射的にそう叫んでいた。そして我に返り、思わず必死に拒否してしまった事に頬が染まる。そんな娘の反応に満足したのか、弓希子の顔にまた例の如くニヤリと意味深な笑みが浮かんだ。
「ハイハイ、分かってるわよ。あんたの初の彼氏、取りゃしないから安心しなさい。……さ、もう十時になるわよ。早く下に来てゴハン食べなさいよ」
「はーい…………エ!? 十時!?
 理子は慌てて壁掛け時計に目をやる。非情にも針は九時四十二分を指していた。
「たたたた大変っ! 早くしないと真央を待たせちゃう――っ!」
「あら理子、真央ちゃんと何か約束してたの?」
「そうっ! 十時に “ 天女の里 ” で待ち合わせしてるの! お母さん、私着替えたらもう出かけるからやっぱり朝ゴハンいらない!」
「天女の里? あぁ! 今度新しく出来るスパね? でも確かOPENは明日のはずよ?」
「大丈夫、真央が招待チケット持ってるから! それよりお母さん、ちょっとそこどいて! 急がないと遅刻しちゃうっ! 」

 クローゼットの前にいた弓希子をどかせ、急いで服を着る。小走りで一階の洗面所に下り、洗顔をすませて髪を梳かすと玄関先まで走った。

「ねぇ理子、何時に帰ってくるの?」
 後をついてきた弓希子がのんびりと尋ねた。スニーカーに片足を突っ込みながら早口で答える。
「分かんない! いつまでそこにいるかまだ決めてないから!」
「蕪利さん、引き止めておいた方がいいわよね?」
「い、いいってば! 帰しちゃってよ!」
「だってまだ書斎から出てきてないみたいよ? 話が随分長くなってるみたいだから重大な展開になってそうな雰囲気がするんだけど」
「いいの! いいから帰ってもらって!」
 そうつっけんどんに言い返し、急いで家を飛び出した。時間がないので自転車で向かうことにする。親友との待ち合わせに遅れないように必死に自転車を飛ばすと、口から漏れる息が寒気で瞬く間に白く染まり、頬を軽く撫でて空へと昇っていった。


 ――まったくコウってば何考えてんのよ! それにあのエロ巻尺もッ! 後でまとめてガツンと怒ってやらなきゃ!


 力一杯ペダルを漕ぐ度に、それに比例して怒りが蓄積されてゆく。
 スパの帰りにコウの家に寄って文句を言ってやろうと決意した理子は、ペダルを踏みしめる両足に更に力をこめて真央の待つスパ施設へと急いだ。





[29700] Chapter7 :  SPA Panic! 【3】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/23 01:31

「……では近々改めてお伺いさせていただきます」
「うん、楽しみにしていますよコウくん」

 それが書斎での最後のやり取りだった。
 理子の父、久住礼人がデスクライトを消して立ち上がる。
「じゃあ話もこれで終わった事だし、朝食を食べていきなさい。きっと理子ちゃんももう起きているだろうしね」
「は、はい……」

 理子の名が出たのでコウの表情に影が差す。礼人は励ますようにまずコウの背を一度叩き、素早くその手をスライドさせて左肩に乗せる。

「大丈夫! ウチの理子ちゃんは昔から立ち直りの早い子ですから! だから後はコウくんがどれだけ理子ちゃんに今私に言ってくれたその誠意を見せられるかだね」
「はい……!」
 俯いたまま、だがしかし熱っぽい口調でコウははっきりと答える。そして礼人よりも先にドアに向かうと、
「僕、ちょっと理子さんに今の話を説明してきます!」
 と告げ、廊下に飛び出した。
 二階へ上がろうと階段の方角へ足を向けると、玄関から戻ってきた弓希子が「蕪利さん、パパとのお話は終わったの?」と声をかける。
「あ、はい。今終わりました。……あ、あの……」
「どうしたの?」
「リ、リコさんはお部屋でしょうか……?」
「あら、理子ならたった今出かけちゃったわよ?」
 それを聞き、「……そうですか……」と呟いたコウの表情に暗い影が落ちる。続いて書斎から出てきた礼人もその場に合流した。
「なんだ、理子ちゃんは出かけちゃったんですか。どこに行ったんだい、ママ?」
「クラスメイトの真央ちゃんと “ 天女の里 ” に行く約束してたんですって」
「天女の里?」
「ほら、今度新しくオープンするスパよ」
「あー、あそこですか! そういえば朝にCMで宣伝していたのを観たよ」

 夫婦の会話を聞いていたコウが不思議そうな表情で尋ねる。

「……あのすみません、スパってなんでしょうか……?」
「やだ蕪木さん! あなた、スパを知らないの!?」
 弓希子が驚いた声を出す。
「は、はい」
「もうね、すっごーく気持ちいいことを体験させてくれるところよ! 女にとって最高の快楽が得られるところね!」

 その説明を聞いたコウの表情がますます不思議そうなものに変わる。

「最高の快楽……ですか?」
「そう! たまんないわよ~! しかも今回理子はタダみたいだしね! 私も一緒に行きたかったわ~! そうだ! 蕪利さんを今度連れて行ってあげる! 私と一緒に行きましょうよ♪」

 途端に大仰な咳払いの音がした。

「あのーそれよりママ、少々喉が渇いたんですけど……」
 拗ねたような表情で声で礼人が口を尖らせる。
「はいはい。あなた達、随分長い間話していたものね。じゃあ二人ともリビングで待ってて。今持っていくから」
「ママ、私も手伝うよ。あ、コウくんはリビングで待っていてくれるかい?」
「分かりました」

 一人久住家のリビングに入ったコウは、ソファに腰を落とすことなく真っ直ぐに朝日の差し込む窓辺の方へと向かった。そしてスーツのポケットからいつも肌身離さず携帯している【 東方行事艶語録 】を取り出す。

「……何してんだ、コウ?」

 スーツの内ポケットに待機していた武蔵が音量を最小限にして囁く。
「調べ物です」
 と短く答え、かけていた眼鏡を一旦外すとセピア色に変化しているページをせわしなくめくり始める。指が動くスピードが段々と遅くなり、やがて完全に止まった時、コウの表情が大きく和らいだ。

「………………ありました!」

「なに!? そいつに載ってたのか!?」
「はい!」
「お前が調べた単語がそいつに載ってたのって初めてじゃねぇか!? 初めて役に立ったな! ……で、なんて書いてあるんだよ?」
「ちょっと待って下さい!」
 嬉しそうな声でそう答えたコウだが、ざっと黙読したその顔つきが今までの明るい表情から一転して険しいものに変わる。



 “ SPA ” = 男が放蕩の限りを尽くすことの出来る施設として建てられた風呂屋。
          女性は施設内で自らの体を清められるが、その代償として男が入浴する際に
          様々な手伝いをすることが義務付けられている。



「……ほぉ、なるほど!」
 待ちきれなかったのか、内ポケットの隙間から小さく顔を出し、SPAの該当文章を読んだ武蔵が感心したように言う。 
「要はスパってのは淫蕩場のことなのか! ハハッ、男にとっちゃ、なかなか楽しそうな所じゃねぇか、なぁコウ?」
「そっ、そんなことを言っている場合ですか、武蔵!!」
 暢気な武蔵の物言いに、青ざめた表情のコウが下を向いて声を荒げる。
「一刻も早くリコさんをここから助け出さなくてはなりませんっ! 武蔵!  “ 天女の里 ”というスパ施設の場所は分かりますねッ!?」
「バッ、バカッ!! 声を落とせってコウ! 子雌の親達に俺が見つかったらどうすんだよ!」

 だがコウの耳に武蔵の言葉はもう届いていないようだった。本を乱暴にポケットに押し込み、再び眼鏡を素早くかけると、廊下へと続く扉に向かって足早に歩き始めている。

「おいコウ! 少し落ち着けよ!」
「これが落ち着いていられますかっ!」
「なぁ待てって! 子雌は自分からここに行ったんだろ? じゃあよ、あいつも男にそういうサービスをすることを分かっていて行ったんじゃねぇのか?」
「いえっ! リコさんかきっとそこがどういう場所なのか知らないで行ったに違いありません! そうに決まってます!」
「でも考えてみろよ? 子雌の母親もよ、さっき子雌がそこに行くのを羨ましがってたじゃねぇか。 もし子雌がその淫蕩湯の実態を知らなかったらよ、親なら普通は止めるだろ?」

 武蔵に鋭い所を衝かれ、コウは一瞬言葉を失う。

「……た、確かにそうですが……」
「だからほっとけばいいんじゃねーの?」
「だ、駄目ですっ! それだけは絶対に!!」

 そう強く言い放つとコウはノブを握り、勢いよくリビングの扉を開けた。するとちょうどそこへ礼人と弓希子が戻ってきた所に出くわす。

「おや、コウくんどこに行くんだい?」 
「あっあの、僕、用事を思い出しましたのでこれで失礼します! 例の件ではまた改めてご挨拶に伺いますので!」
「おいおい、ちょっと待ってくれよコウくん」
 二人の脇をすり抜けて出て行こうとしたコウを礼人が引き止め、弓希子が手にしているトレイの上を指差す。
「せめてこれを飲んでからでもいいだろう? 今日は私の一押しの紅茶を淹れたんだよ。だから行くのならこれを飲んでからに……」

「いただきますっっ!」

 コウはそう叫ぶとトレイの上からひったくるようにカップを奪い、その場で一気に飲み干した。そしてやや乱暴に受け皿に戻す。
「ご馳走様でした! ではまたあらためて伺いますので!」
「コ、コウくん?」
「失礼します!!」

 唖然とする礼人と弓希子を残し、外へと飛び出したコウは上着に向かって叫ぶ。

「さぁ武蔵! 詳しい場所を教えて下さい!」
「ちょっと待てって。今データを引き出してるからよ……」
「早く!!」
「でもよー、子雌が行きたくて行っているんだから俺は余計な世話だと思うんだがなぁ……」
「いいから早くして下さいっ!」
「へーへー。じゃあまず右に曲がって五百メートル直進な」
「了解!!」
「あまり飛ばしすぎんなよ?」
「分かってます!!」
 天女の里に向けてコウは走り出した。


 ―― リコさん、僕が行くまでどうか無事でいて下さい……っ!!


 なんとか冷静さを保とうと必死になるものの、焦る気持ちばかりが先走り、意思に反してこめかみ付近がどんどんと熱を持ってきている。自身の何かが変化しようとしている気配を脳内で感じた時、

(止めてっコウ! お願いっ止めてっ!) 

 昨夜、必死に抵抗した理子の声が聞こえた。その声に昨夜の愚行を思い出したのか、コウの足が急に止まった。

「コウ、聞いてなかったのか? 次は左だぜ」

 立ち止まってしまったコウに武蔵が再度指示をする。だがコウはそこに立ち尽くしたままだ。
「なんだよ、やっぱり行くのを止めんのか? まぁ俺はどっちでもいいけどよ」
 その時、薄く開いたコウの唇の隙間から小さなうめき声が漏れた。そして前傾しかけた自らの上半身を支えるために傍らにあった電柱に手をつく。
「おいコウ? どうかしたのか?」
「リ…コ……さ……」
 反対の手で額を押さえ、コウは喉の奥から搾り出すような苦しげな声で理子の名を呼ぶ。その時武蔵は自分の主人マスターの脈拍がおかしなリズムを刻んでいることに気付いた。心拍数を急いで計測した武蔵のレッドランプが激しく点滅を繰り返す。


「コウ……お前まさか……?」


 大きくうなだれたコウの口から、今度は荒い息が漏れ出した。荒い呼吸を繰り返すたびに両肩が激しく上下する。
 ようやくその息遣いが収まった頃、額から手を外したコウがゆっくりと顔を上げた。


「……武蔵、次は左だな?」


 低い声で、力強く復唱し、コウは真っ直ぐに前を見据える。
 だがその瞳はわずかだが赤く染まり始めていた。



 ―― その頃。
 久住家のリビングでは礼人と弓希子がソファに腰を落としていた。

「いい香り~! でも結局全部パパにやってもらっちゃったわね!」
「いえいえ、これぐらいなんでもありませんよ」
 ここで少しでも自分の株をあげようと、礼人は弓希子に向かって鷹揚に微笑んでみせる。
「私はいつも家にいないんですから少しでもママのお役に立ちたいんです」
「さすがはパパね! ねぇそういえば蕪利さんってば、さっきあんなに慌ててたけど一体どうしたのかしらね?」
「何か用事でも思い出したんじゃないですか? でもまさかコウくんがこれを一気に飲み干すなんて思いませんでしたよ。ここで話でもしながら二人でゆっくり飲もうと思ったんですがね……」
「でもまたすぐ来る事になるんだからいいじゃない」

 そう言って紅茶を一口飲んだ弓希子は思い切り顔をしかめてカップを受け皿に戻した。そして向かいで湯気の上がる紅茶の香りに目を細めている夫に、呆れた顔で告げる。

「ちょっとパパ!」
「なんです?」
「香り付けとはいえ、これはいくらなんでも入れ過ぎ! これじゃ紅茶じゃなくてブランデーをそのまま飲んでるようなものじゃない!」



 
 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 
  



「おいコウ、お前まさか……」

 主人マスターの変化に気付いた武蔵がそう音声を発したが、コウはその言葉を遮り、
「……次は左だな、武蔵!?」 
 と怒りの入り混じった声で繰り返す。
「なんでお前、いつの間に本能リビドー化してんだよ!?」
「いいから次の指示をしろ武蔵っっ!!」

 上着の内部が青色に光った。
 中で武蔵のブルーランプが数秒間点灯したままになっているせいだ。その黙考のサインを出し終わった後、武蔵が静かに尋ねる。

「……なぁ、お前も・・・子雌の所に行くつもりなのか?」

「当たり前だっ!!」
 即座に鋭い視線が胸元に落ちる。
「あいつは俺の女だぞッ!?」

 数秒間、内ポケットが再び青に染まった。
 そして「……次は左に四百だ」 と武蔵が次の音声を発した瞬間、コウは無言で先ほどよりも更に早いスピードで走り出した。
「コウッ、いくらなんでも飛ばしすぎだ! 少し抑えろ!」
 常人で出せるレベルを超えそうなそのスピードに、慌てた武蔵が諌める。だがそれに 逆らうようにコウは更にスピードを上げる。


 もう周りの景色など何一つ見えていなかった。
 強引に車道を横切る度にけたたましいクラクションや怒号が浴びせかけられたが、不必要な情報はすべて遮断し、ただひたすらに走り続ける。
 苛立ちで強く握り締めた両の拳に青い静脈がくっきりと浮かび上がり、強く噛み締めた奥歯がぎりりと鳴った。


「……俺にはあれだけ抵抗したくせに他の奴にはヤラせんのかよ……!」
 

 鋭い目つきで呟くその瞳が瞬く間にさらに赤く染まり始めてゆく。
 どこまでも、血のように。





[29700] Chapter7 :  SPA Panic! 【4】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/29 00:48

「あぁ~ん♪ もうサイコーに気持ちいい~♪
        カラダの中心が溶けちゃいそう~♪♪」


 
 大きな浴場内に軽やかに響く、なんとも悩ましげな女の声。
 ここは新規オープン間近のスパ施設、“ 天女の里 ”だ。


「……ちょっと真央。なんか今の言い方、ミョーにエッチなんだけど?」


 たった今親友が放ったこの嬌声に、理子は湯船に浸かりつつ呆れたような表情で呟いた。すると真央は湯の表面に撒かれているバラの花びらの一枚をつまみ、屈託のない笑みを見せる。
「え~~? そっかなぁ~? だってあまりにも気持ちいいんだもん! 理子はこのスパ気に入らないの?」
「エ? ううん、そんなことないけどさ……」
 そう口中で呟くと理子は浮かない表情で身体を顎の下まで湯船に水没させた。
 ……が、どういう姿勢を取っても目の前にいる真央の大きな胸がドンと視界に入ってくる。
 真央の胸が大きい事は以前から分かっていた。
 だがいざこうして超至近距離で、しかも何も着けていない状態の生バストを直に見てしまうと、少々ボリュームに欠ける自分の胸にどうしてもコンプレックスを持ってしまう。

(……私も真央ぐらい胸があったらなぁ……)

 ブルーな気持ちになった理子は大理石風呂の中で一つため息をつき、真央から視線を逸らした。すると、今度はすぐ横にいた金ピカのマーライオン像が「待ってました!」とばかりに視界に飛び込んでくる。

 鋭い目つき。
 靡くたてがみ。
 そして大きく開けた口元にはキラリと光る鋭い金牙が四本。

 なかなかに勇ましい表情ではあるが、そこから勢い良く吐き出しているのが乳白色の湯、というアンバランスさが妙におかしい代物だ。
 ここでふと悪戯心が起き、理子は激しく溢れ出る乳白湯の勢いに逆らってマーライオンの口元に手を入れてみた。するとたちまちかなりの水圧が片手にかかり始め、かなり心地いい。
「ちょっと真央、見て見て! こうやったらまるでマッサージされてるみたい!」
 理子は思わず声を上げて後ろを振り返った。はしゃぐ理子に促され、ハンドタオルで胸元を軽く押さえながら真央が近くに寄ってくる。
「ねぇ理子、私今ちょっと思ったんだけどね」
「なに?」
「なんかそのライオンさん、あの人に少し似てない? ほら、たてがみの辺りとか特に」
「へ? あの人って?」
「だから、たぶん理子のこと好きなあのヘンタイさんのことっ」
「ハァ!?」

 いきなり真央がコウの話題をまた出してきたため、焦った理子の片手がマーライオンの口から勢い良く吐き出される。

「あの人、なんか気になるのよね。理子も名前くらい聞いておけば良かったのに」
「き、気になるって……!?」
「あ~~、理子ってばもしかして心配した?」
 真央は理子の表情を見て心底おかしそうにクスクスと笑う。
「大丈夫よ、私は桐生先生一筋だから。気になるっていうのはそういう恋愛対象じゃなくってね、なんていうか、そう、興味があるの。だってあの人、どことなくミステリアスなところがあったじゃない?」
 それに笑顔も優しそうで素敵だったしね、と真央は暢気な声で付け加えた。

 
 ―― 異変が起きたのはその時だった。


 隣接されている男子浴場から何かを叩きつけるような物凄い音が響き、同時にどよめき声が聞こえてくる。
「真央っ、今の音、何だろ!?」
「扉を開ける音…かなぁ? でもガラスが割れたような音も聞こえてこなかった?」
「うん! 聞こえて…」
 浴場の壁が割れんばかりの怒声が響き渡ったのは、理子がこの言葉をすべてを言い終わらない内だった。


「どこにいやがる浮気女っ!!」


 ガンガンにエコーが効きまくっているその怒声に聞き覚えがあった理子の顔面が一気に蒼白になる。
「まっ、まさかあの声は……!?」
「えっ理子、あの声の人知ってるの!?」
「しっ、知らない! 知らない!」
 理子は顔の前で両手を大きく振って真央の言葉を全力で否定したが、その必死の行動も空しく、無常にもスパ内に自分の名前が響き渡る。


「リコッ!! 返事しろ!! いるのは分かってんだ!!」

 
「……えーと……」
 真央が不思議そうな表情で何度も瞳を瞬かせながら理子の顔を覗き込む。
「なんか理子のこと呼んでるみたいだけど?」


「おいテメェ! リコはどこだ!? 言いやがれっ!!」


 間髪いれずまた隣の浴場から怒号が轟く。どうやら手近の人間を捕まえて問い詰めているようだ。
「おおおおおおおんな湯はそそそそっちですけど……」
 と脅えきった弱々しい声が聞こえてきた。瞬間、理子の “ 脳内危険感知警報 ” が最大レベルで鳴り響く。

 ―― とっ、とにかくここから逃げなくっちゃ!!

 慌てた理子が湯船から立ち上がろうとすると、先ほどよりも大きな轟音が響き、女子浴場の壁の一部がまるで雪崩のように一気に崩れ落ちた。
「キャ――ッ!!」
 この異常事態に浴場内にいた女性達の悲鳴が響き渡る。そしてぽっかりと空いた空間の先には怒りに身体をみなぎらせた赤髪の男が立っていた。湯気で曇ったために外したのか、眼鏡はもうかけていない。
「あっ理子! あの人だ!!」
 コウの姿に気付いた真央が真っ先に叫ぶ。その声が届いたのか、コウは理子と真央がいる方角へ素早く赤い瞳を向けた。


「……そこにいやがったか」


 コウは今度は押し殺したような声でそう言い捨てると、躊躇無くスーツに革靴のままで大理石風呂の中に入り、湯を蹴散らすような勢いで真っ直ぐ理子の方に向かって進み始めた。
 途端に湯の中に使っていた女性達はそれぞれ小さな叫び声を上げ、コウの進行を妨げないよう、脅えながら全員端の方に一気に移動する。するとその光景を理子の横で見ていた真央が、
「わぁすごい、なんか十戒のワンシーンみたい……!」
 と感動したように独り言を呟いた。
「ちょっ、真央ってばなに呑気なことを言ってんのよ!?」
 湯船から立ち上がりどちらの方向に逃げようかと迷っていた理子は、真央の天然さに思わずツッコミを入れる。しかしそのおかげで逃げるタイミングを失い、怒りに我を忘れたコウが目の前に立ち塞がってしまった。

「ちょっ、ちょっと! 近くに来ないでよ!!」

 理子はマーライオンの首をコウのいる方角にグイグイと必死に押して今の自分に出来る精一杯の抵抗を試みる。だが残念な事に、頼りのマーライオン像は澄ました顔であらぬ方向に乳白湯を吐き出し続けるだけで、とても理子の援軍になりえる代物では無かった。
 目指す標的の目前で足を止めたコウは、怒りを内包した冷たい視線で上から理子を見下ろし、低い声で言い放つ。


「リコ……。お前、いい度胸してるな」


 コウの形相は、その身体に纏いつく浴場内の大量の湯気がまるで激怒のオーラかのように錯覚してしまうほどの凄まじいものだった。その形相に気圧され、ハンドタオルを身体の前面に当てているだけの理子は慌ててまた湯船に身を沈める。
「なっ、なんのことよ!?」
「……お前、俺にはあれだけ拒んだくせに、ここで不特定多数の男とヤるつもりだったんだろ? ……ふざけやがって。覚悟は出来てるんだろうな……!?」
「ハ!? 何言ってんの!?」
「うるせぇ!」

 コウはたった今自分が出てきた男子浴場の方角を顎で指し示し、乱暴に首元のネクタイを緩めると再び荒々しい声に戻った。

「しかも男はほとんどジジィばっかじゃねぇか! お前はそういう趣味でもあんのか?」
「バッ、バッカじゃないの!?」
「とにかくここまでコケにされて黙っちゃいられねぇ。行くぞ」
「い、行くぞってどこに…ひゃぁっ!?」

 湯の浮力のおかげで元々身体の重力感はあまり感じていなかったが、理子はさらに自分の身体が軽くなったような錯覚を覚えた。コウの手によってあっという間に湯船から引き上げられたためだ。

「やっやだ!! 何するのよ! 離してよ!!」
 そう強気に叫べども、理子の身体に巻きつけられた二本の腕の力は決して緩まる事はない。
 コウの前で半裸を晒す羽目に陥っている理子はその後も「コウのエッチ! スケベ! デバガメ! ヘンターイ!」などとあらゆる蔑視の言葉を叫び続けた。だがコウはそれを意にも介さず、「黙れ」と言い捨てると喚く理子を胸元にがっしりと抱え、出口へ向けて素早く歩き出していた。





[29700] Chapter7 :  SPA Panic! 【5】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/27 00:40

 そう、まったくもって不本意ではある。

 ――が、
 現在コウによって “ 強制お姫様抱っこ ” をされている理子は、自らの意思で行動する事が出来ない。
 それ故、そんな少々哀れな少女がせいぜい出来る事と言えば、その華奢な身体の前面を覆う微妙な大きさのハンドタオルがずれないよう、両腕でしっかりと押さえつつ、

「ちょっとコウ!! いい加減に正気に戻りなさいよーっ!」

 と必死に叫ぶしか道は残されていなかった。
 だが乙女の危機はそんなことぐらいでは止まらない。肝心のコウは全く聞く耳持たず、と言った様子で、足取りも荒く女湯から飛び出そうとしている。
 するとそこへ、

「理子ぉ~~!」

 という多少間延びした穏やかな声が脱衣所の後方からかけられた。全身にバスタオルを巻いた真央が理子を追って出てきたのだ。
 理子はコウの肩越しに後ろを振り返ると慌てた声で叫ぶ。

「真央! こっちに来ちゃ駄目っ!」

 変貌後のコウの冷酷さをすでに知っている理子は、身動きが取れない中でもせめて親友に危害が及ばないよう、必死に庇った。
 だが残念なことに、そんな理子の思いにまったく気付いていない呑気者な真央は、
「だいじょーぶ! 分かってるってば♪」
 と答えるとさらに二人の側に近づく。
「真央っ! だからこっちに来ちゃ駄目だってば!」
「理子達のお邪魔はしないから安心して! でもこれだけ渡そうと思って!」
 真央はそう言うとスパ施設内でレンタルされている白い厚手のバスローブを手に取り、コウに向かって差し出した。

「ハイ、どうぞっ♪」
「……?」

 いきなり目の前にバスローブを差し出されたコウは、怪訝そうな表情を若干浮かべはしたものの、敵意剥き出しの視線を一瞬たりとも止めることなく真央に浴びせかけ続ける。
 だが真央は正面から自分を射抜くような鋭い視線など物ともせず、両の口元を上げておっとりとした笑みをコウに向けた。

「だって外は寒いですよ? 理子に風邪引かせないで下さいね!」
「…………」

 コウの沈黙が続く。
 しかしその言葉がきっかけになったのか、鋭い眼光を崩さないままではあったが、コウは最終的には真央の手からバスローブを乱暴に取り上げ、理子の身体の上にバサリと無造作にかけた。

「良かったぁ~! 理子が風邪ひいたら大変だもん!」

 コウの行動に安心したのか、真央の表情に更に大きな笑顔が浮かんだ。そして次に理子が持参していたバッグをかざす。
「えっと、コウさん……でしたよね? これ、理子のバッグです。じゃあ理子のこと、よろしくお願いしま~す!」
「ちょ、ちょっと真央!?」
「理子、また明後日学校でね! バイバイ♪」
 真央は最後にそう挨拶を告げると足取りも軽やかにまた浴場内へと戻って行ってしまった。親友のあまりの能天気さを目の当たりにした理子は、頭を抱える代わりに独り言を呟く。
「まったく何考えてんのよ真央ってば……!」

「それは俺の台詞だっ!」

 明らかな怒気を含んだ口調で突然コウが言い放つ。
 理子が斜め上を見上げると、ほとんど瞬きをしない紅く染まった二つの瞳が、これ以上ないくらいの威圧感を携えて理子を凝視していた。




◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆




 寒い。とにかく寒い。

 上下、両の歯が今にもガチガチと音を立て始めそうなくらいだ。
 あまりの寒さで声さえも出なくなってしまった理子は、もう一切の無駄な抵抗を止めて、コウの腕の中で身を縮めていた。

 しかしそれは当然といえば当然のことでもある。
 理子を抱えてスパを飛び出したコウは、一言も喋ることなく、通行人が思わず振り返るほどのスピードで通りを突っ走っている真っ最中だからだ。

 常温のワインの瓶に水で濡らした紙を巻き、激しい風を当てるとよく冷えて飲み頃の温度になるように、つい数分前まで温かい湯に浸かっていた理子の身体はこの冷えた空気の中で無防備に晒されている。いくら寒さに滅法強い理子とはいえ、真央の思いやりがこめられたこの白いバスローブがかけられていなければ間違いなく寒さでおかしくなっていただろう。
 しかしこの酷寒な状況の中、痺れるような寒さに打ち震えながらも、理子の頭の中は怒りの感情で一杯だった。


 ―― まったくエロ巻尺ってばこの非常時に何やってんのよ!


 昨夜のようにあの少々手荒な手段でコウを眠らせてしまえば、とりあえずこの場の収拾はつくはずなのに、なぜか未だに武蔵が現れないのだ。
 しかし武蔵の名を呼ぼうとしても寒さのせいで理子はすでに声が出せる状態ではなかった。

 焼け石に水程度だと分かりつつも、暖を取るためにしっかりと自らの両肩を抱く。しかしその努力も空しく、やがて寒さで意識までもがおぼろにかすみ始めてきた。そんな最悪な状況の中で理子が最後に見たのは、母の弓希子命名、「修羅場の権田原家」。

 その玄関先だった。





[29700] Chapter7 :  SPA Panic! 【6】
Name: 楽生◆32a3d9b4 ID:92d092ee
Date: 2011/09/29 00:38

 例えるならまるで身体全体が羽毛の一つに変わり、フワフワと宙に浮かんでいるような、そんな優しい温かさの中で理子は目が覚めた。


(……ここ、どこ?)


 薄暗い室内の中で一生懸命に目をこらす。
 まだ昼前だというのにこんなに室内が暗いのは、二箇所ある部屋の窓に遮光性の高いカーテンがきっちりと引かれているためだ。
 身体には白のバスローブの他に、柔らかくて軽い羽毛布団がかけられていた。この掛け布団のせいで自らが羽毛になったような夢を見たのかもしれない。
 覚醒しきっていない頭に右手を添え、ここがどこなのかを確かめるためにその場から起き上がろうとしたその時、

「やっと起きやがったか」

 という声が足元の方角から聞こえ、ベッドのスプリングが軋む音がしたかと思うと、間髪入れず理子の視界の中央にコウの顔が映りこむ。
「ひやぁっ!?」
 鼻先何センチ、というぐらいの超至近距離にコウがいきなり現れたため、理子は悲鳴を上げ、驚きで目を見開いた。
「……おい、なんだ、その嫌そうなリアクションは」
 理子の驚愕ぶりが余程気に入らなかったのか、落ち着き始めていたコウの声に苛つきが戻る。
「だ、だってコウがいきなり間近に顔出すんだもん!」
「うるせぇ!」
 大音量の怒声と共に、ようやく暗褐色に落ち始めていたコウの両瞳が再び彩度を増し始める。
「つくづくふざけた女だ! あれだけ俺を拒んでおいて、あんなジジイ達とヤろうとしてみたり、いざヤろうと連れ帰ってみれば勝手に失神しやがって……!」
「ハァ!? さっきから何言ってんのよっ!」

 思い込み満載、かつ身勝手なコウの発言についに理子は切れた。
 頭上のコウを目いっぱいの全力で押し戻して何とか身体の上から排除すると、そのままベッドに起き上がり、攻撃ならぬ口撃を開始する。

「いい加減にしなさいよねっ! 大体、こんな格好で人を連れ出して気を失うのも当然じゃない! それに何!? さっきから一人で訳わかんないことばっかり言って、挙句の果てにスパの中をあんなにメチャクチャにしちゃって! あの後始末、一体どーするつもりなのよ!?」
「そんなこと俺が知るわけねぇじゃん」
 理子に突き飛ばされたせいで体勢を崩したコウはベッドの上で片膝を立てると、まったく悪びれる様子も無く、あっさりと答える。

「なっ……、バッ、バッカじゃないの!?」

 バスローブの胸元をしっかりと押さえ、理子はコウに向かって勢いよく人差し指を指した。
「知らないじゃ済まされないでしょ! それにさ、自分のことは大っぴらに出来ないんだってコウは前に言ってたじゃないっ!」
「ったく、さっきからぎゃぁぎゃぁうるせー女だな!」
 自分が言葉を発するたび、怯むどころかすかさず言い返してくる理子に業を煮やしたのか、コウは緩めていた首元のネクタイに手をかけて引きむしるように外すと後方に投げ捨てる。
「あれぐらいのことなら武蔵が何とかするっつーの!」
「…あ!!」
 会話中に突然名前が出たために急に武蔵の事を思い出した理子は、部屋の上空をぐるりと見回し、勢い込んで叫んだ。

「武蔵! どこにいるのよ! 早くこの無頼漢を何とかしなさいよっ!!」

「おい、なんでお前が武蔵を呼ぶんだよ?」
 解せないような顔で放たれたコウの質問に対し、只今激怒中の乙女はすかさずの怒号で答える。
「ちょっと! 気安くお前って言わないで!」
「いいじゃん。お前は俺の女だろうが」
「だから勝手に決め付けないでっ! ねぇ武蔵! 武蔵ってば! どこにいるのよ! 超ピンチなんだからさっさと出てきなさいよ!」

「武蔵ならここにいるじゃん」

 コウはベッドの上に投げ捨ててあったスーツの上着を手に取ると、内ポケットをまさぐり、そこから唐草模様の電脳巻尺エスカルゴをかざして見せた。
「あっ武蔵っ!」
「ほらよ」
 コウは手にした武蔵を間髪いれずに理子に向かって軽く放る。
「えぇっ!?」
 いきなりで一瞬慌てはしたが、運動神経の良い理子はなんとか電脳巻尺をキャッチすることに成功する。だが手にした瞬間、小憎たらしいエロ巻尺のはっきりとした異変に気付いた。

「……武蔵?」

 手の中に包み込んでいる電脳巻尺はひんやりとした感触で、しかも一切の音を発していない。
「ハハッ、言っとくが今武蔵を呼んでも無駄だぜ? 回路を全部切っちまってるからな」
 コウは驚く理子の表情を心底楽しんでいるかのような声で即答する。
 一方、沈黙する武蔵を手に、自分が完全に絶体絶命状態に追い込まれた事を知った理子の声には微かに震えが混じり始める。
「もっ、もしかしてコウが切ったの……?」
「あぁ。前回は武蔵こいつに邪魔されたからな。同じ轍は二度と踏まねぇよ」
 ベッドのスプリングが再び大きく軋む。冷たい笑みを浮かべたコウがにじり寄ってきたせいだ。
「潔く観念するんだな、リコ」


  ―― どどどどどどうしようっ!?


 乙女の貞操の危機は今まさにクライマックスだ。
 バスローブを押さえる二の腕に、知らず知らずの内に力が入る。
 援軍その1(=金ピカマーライオン像)も、援軍その2(=電脳エロ巻尺)も全くもって役に立たず、現在の自分の戦闘装備といえば、この白のバスローブを申し訳程度に貼付しているだけである。これでは乙女の貞操をかけた戦闘に勝利するどころか、ピンチを自力突破することさえほぼ不可能だ。
 考えがまとまらない中であっという間に目前にまで来たコウに両肩を掴まれる。
「やぁっ…!」
 無駄だと分かりつつも理子は抵抗した。そしてまた怒声を浴びせられる、と思った矢先、

「いいからおとなしくしろ。そして聞け」

 意外にも返ってきたのは感情を極限にまで抑えた静かな声だった。




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