第78回 大賀 典雄 氏
4. 軽井沢大賀ホール設立
−−話は変わりますが、軽井沢の大賀ホールについて伺いたいのですが、作って一番よかったと思われていることはなんですか?
大賀:作ってよかったなと思っているのは軽井沢の町であって(笑)。ソニーが退職金に16億くれると言ったら、全く欲のないうちの家内が「軽井沢町に寄付してホールを建てるのに使ったら」と言うんですよ。
−−奥様はなぜ軽井沢に寄付しようと仰ったのでしょうか?
大賀:戦時中、軽井沢にレオ・シロタという有名なユダヤ人のピアノの先生が疎開していて、家内が疎開先の長野県の諏訪湖のほとりからその先生のところに通っていたんです。当時は汽車の切符は30キロ制限というのがあって、30キロ行くと、降りて並んでまた切符を買い直さなきゃいけないという時代だったのでそれはとても大変で。あるときなんて汽車が行ってしまうとそこら辺の宿に行って「泊めてください」とお願いしたりしたそうです。しかし泊めてもらうにはお米を持って行かないと泊めてくれなかった時代で、そういう青春の大変な時間を軽井沢にお世話になったけど、軽井沢には満足な音楽堂もないから「あそこにホールを建てるお金を寄付しましょうよ」と。
−−ホールは5角形で平行壁面がない作りだそうですね。
大賀:シューボックススタイル(長方形タイプ)にしてしまうと平行壁面ができて音が消し合ったり、増幅されたりして音が悪くなるんです。東京芸術大学に講堂ができたときにオープニングの式典があったんですよ。そのときに学長が話し終わったら誰かがすっと立って「今仰ったことがひと言もわからないんですけど」と言ったんです。私も本当に平行壁面というのはこんなに音を悪くするものかと思って。ウィーンの楽友協会のホールは平行壁面ですが、あれは立地の事情から平行壁面で作らざるを得なかったんです。だから両側に彫像をずっと置いていったわけです。他にも上から大きなシャンデリアをおろしたり、正面はパイプオルガンのパイプで音を反射させているのですが、そういうことができればいいけれど、ただのシューボックススタイルだと音が悪くなるに決まってると。
−−大賀さんは学生の頃から音響にお詳しかったそうで、ソニーの製品にクレームをつけたことがきっかけでソニーに入社されたそうですね。
大賀:クレームをつけたのはテープレコーダーで、テープレコーダーというものは音楽家にとってみると一種の鏡なんですよ。バレリーナは鏡の前で自分の踊りを見ることができますが、音楽は時間的な芸術ですからテープレコーダー以外に自分の音がどういう表現がされているかわからないわけです。そうしたらソニーがテープレコーダーを作ることに成功したというんですね。そのテープレコーダーは私が通っていた芸術大学の1年の授業料が3千円の時代に、16万8千円もしたんです。それでそのテープレコーダーを大学に「買ってほしい」とお願いしたら、「文部省(現 文部科学省)に言って予算をもらってこよう」と文部省にかけあってくれて、入手できたんですが、すごく音が悪かったんですよ(笑)。

−−(笑)。それはオープンリールのテープレコーダーですか?
大賀:そうです。大きな10インチのテープレコーダーを当時ソニーが作っていたわけです。
−−みなさんは普通に喜んだと思いますが、大賀さんの耳は納得できなかったんですね。
大賀:もう全然。こんなに音が悪くちゃ勉強にも使えないじゃないかと直接言ったら、井深さんが「面白い男がきた」ということになったわけです。
−−井深さんに直接文句を言いに行ったんですね。その頃のソニーはどんな時代ですか?
大賀::このビルの向いの土地が昔、ソニーの本社ビルがあったところです。私がソニーを訪ねた当時は本当に小さなところでやっていたんです。そのうちお金ができて、三井物産が財閥解体で色々な会社に分けられて、第一物産と言われた頃の本社があったところをソニーが買って、そこに本社を移したんです。私は、ソニーがその土地を買って本社が出来上がるのも全部見てきたんですよね。昔、このあたりはビルが1つもなかったんですよ。本当に東京という街は年中何か作っているんですよね。
−−どんどん変わりますよね。僕が小さい頃にはどこからでも東京タワーだけは見えましたけど、今はどこにあるのかわからないですからね。
大賀:昨年の12月に東京タワーができてから50年ということで有名な照明デザイナーの石井幹子さんが東京タワーを新しくライトアップしたんです。今までの光源じゃ電気代が大変だということで、新しい光源に変えて。そうしたら瞬時に色が変わるようになってね。その新しい東京タワーのライトアップを見るイベントを東京タワーが主催して、貿易センタービルの最上階に我々を招待して一斉にライトを付けて。本当に新しい光源は消費電力が桁違いに少ないし、色がきれいですしね。彼女はレインボーブリッジも手掛けているんですよね。
大賀:作ってよかったなと思っているのは軽井沢の町であって(笑)。ソニーが退職金に16億くれると言ったら、全く欲のないうちの家内が「軽井沢町に寄付してホールを建てるのに使ったら」と言うんですよ。
−−奥様はなぜ軽井沢に寄付しようと仰ったのでしょうか?
大賀:戦時中、軽井沢にレオ・シロタという有名なユダヤ人のピアノの先生が疎開していて、家内が疎開先の長野県の諏訪湖のほとりからその先生のところに通っていたんです。当時は汽車の切符は30キロ制限というのがあって、30キロ行くと、降りて並んでまた切符を買い直さなきゃいけないという時代だったのでそれはとても大変で。あるときなんて汽車が行ってしまうとそこら辺の宿に行って「泊めてください」とお願いしたりしたそうです。しかし泊めてもらうにはお米を持って行かないと泊めてくれなかった時代で、そういう青春の大変な時間を軽井沢にお世話になったけど、軽井沢には満足な音楽堂もないから「あそこにホールを建てるお金を寄付しましょうよ」と。
−−ホールは5角形で平行壁面がない作りだそうですね。
大賀:シューボックススタイル(長方形タイプ)にしてしまうと平行壁面ができて音が消し合ったり、増幅されたりして音が悪くなるんです。東京芸術大学に講堂ができたときにオープニングの式典があったんですよ。そのときに学長が話し終わったら誰かがすっと立って「今仰ったことがひと言もわからないんですけど」と言ったんです。私も本当に平行壁面というのはこんなに音を悪くするものかと思って。ウィーンの楽友協会のホールは平行壁面ですが、あれは立地の事情から平行壁面で作らざるを得なかったんです。だから両側に彫像をずっと置いていったわけです。他にも上から大きなシャンデリアをおろしたり、正面はパイプオルガンのパイプで音を反射させているのですが、そういうことができればいいけれど、ただのシューボックススタイルだと音が悪くなるに決まってると。
−−大賀さんは学生の頃から音響にお詳しかったそうで、ソニーの製品にクレームをつけたことがきっかけでソニーに入社されたそうですね。
大賀:クレームをつけたのはテープレコーダーで、テープレコーダーというものは音楽家にとってみると一種の鏡なんですよ。バレリーナは鏡の前で自分の踊りを見ることができますが、音楽は時間的な芸術ですからテープレコーダー以外に自分の音がどういう表現がされているかわからないわけです。そうしたらソニーがテープレコーダーを作ることに成功したというんですね。そのテープレコーダーは私が通っていた芸術大学の1年の授業料が3千円の時代に、16万8千円もしたんです。それでそのテープレコーダーを大学に「買ってほしい」とお願いしたら、「文部省(現 文部科学省)に言って予算をもらってこよう」と文部省にかけあってくれて、入手できたんですが、すごく音が悪かったんですよ(笑)。
−−(笑)。それはオープンリールのテープレコーダーですか?
大賀:そうです。大きな10インチのテープレコーダーを当時ソニーが作っていたわけです。
−−みなさんは普通に喜んだと思いますが、大賀さんの耳は納得できなかったんですね。
大賀:もう全然。こんなに音が悪くちゃ勉強にも使えないじゃないかと直接言ったら、井深さんが「面白い男がきた」ということになったわけです。
−−井深さんに直接文句を言いに行ったんですね。その頃のソニーはどんな時代ですか?
大賀::このビルの向いの土地が昔、ソニーの本社ビルがあったところです。私がソニーを訪ねた当時は本当に小さなところでやっていたんです。そのうちお金ができて、三井物産が財閥解体で色々な会社に分けられて、第一物産と言われた頃の本社があったところをソニーが買って、そこに本社を移したんです。私は、ソニーがその土地を買って本社が出来上がるのも全部見てきたんですよね。昔、このあたりはビルが1つもなかったんですよ。本当に東京という街は年中何か作っているんですよね。
−−どんどん変わりますよね。僕が小さい頃にはどこからでも東京タワーだけは見えましたけど、今はどこにあるのかわからないですからね。
大賀:昨年の12月に東京タワーができてから50年ということで有名な照明デザイナーの石井幹子さんが東京タワーを新しくライトアップしたんです。今までの光源じゃ電気代が大変だということで、新しい光源に変えて。そうしたら瞬時に色が変わるようになってね。その新しい東京タワーのライトアップを見るイベントを東京タワーが主催して、貿易センタービルの最上階に我々を招待して一斉にライトを付けて。本当に新しい光源は消費電力が桁違いに少ないし、色がきれいですしね。彼女はレインボーブリッジも手掛けているんですよね。