幼少期
- 1958年9月
- 広島市(現在:東区)鉄道病院で生まれる。
(父:国鉄勤務、母と祖母:小さな駄菓子店を自営)
広島城が幼い頃の遊び場で、ガケ登りをしたり、お堀の蓮の実(当時は蓮が群生)を取って食べたり、四葉のクローバーを探し回ったり、白つめ草で首飾りを作ったり、近所の友達と『秘密基地』を作り毎日、探検ごっこをしていました。
- 1965年
- たちばな幼稚園 卒園
- 1971年
- 広島市立幟町小学校卒業
小学生になり、内気で誰とも話ができないのを心配した母が、人前で何かやらせ自信をつけさせようと考え、近くの幟町会館にあるバトン教室へ連れて行かれました。
8歳から18歳まで10年間、広島バトン研究所で横山弘子先生にバトンを師事。
松本ナツコ先生(後に広島市議会議員)のバレエ教室にも通いましたが、1年しか続きませんでした。
*体力的にもバトンとバレエの2つを両立させるのは難しかったので、バトンを選びました。
学生時代
- 1974年
- 広島市立幟町中学校卒業
- 1977年
- 比治山女子高等学校卒業
高校3年生の夏、米国建国200年のお祭りのパレードがロス・アンジェルスのディズニーランドであり、広島バトンの一員として参加しました。
その際、広島と姉妹都市のハワイのホノルルで親善交流会もありました。 初めて海外に行き、もっと英語を勉強していろいろな人達と話がしてみたいと強く思いました。 このとき、アテンド(随行)して頂いた旅行代理店の方が立教大学卒業で、英語がペラペラで非常に素敵な方でした。
それで将来、英語を使う職業につきたいと考え、父の兄弟がいる東京の立教大学が第一志望になりました。 当時、比治山の卒業生は付属短大か広島の大学に進学するのが普通で、東京の大学に進学したのは学年で数人でした。
- 1979年
- 上智短期大学英語科卒業
英語の教育実習で母校の幟町中学校で数週間、お世話になり親切にご指導頂きました。
母の希望で教員免許を取得したものの、中学生に教える自信が持てず、専門的なキャリアにつながる勉強をしようと編入試験を受けました。 立教大学は英文科とドイツ文学科を高3のとき、受験し落ちましたが、「やっぱり、立教に入りたい!」と経済学部と社会学部の編入試験を受け、第一志望の社会学部社会学科に合格。
- 1979年
- 立教大学社会学部社会学科編入(マスコミ専攻)
社会進出へ
- 1980-81年
- ラジオたんぱ「ニュース・オールナイト」日本で初めての女性ニュースキャスター
立教大学では放送研究会に所属し、楽しい夏合宿など笑い話になるような思い出がたくさんあります。
大学3年のとき、日本経済新聞の公募でラジオたんぱの「ニュース・オールナイト」という報道番組のニュースキャスターに選ばれ、生でニュースを伝える経験をさせて頂きました。
当時、日本の放送局で女性が初めてニュースを伝えるということで、マスコミでは大きな話題になり取材をされました。
(このときまで、ニュースは信頼性が大切なので、男性が読むものとされ、女性は天気予報などを伝える程度でした)
最も印象に残っているのは、衆参両院同時選挙の報道とその後、当時・大平総理大臣が選挙の激務で亡くなられたことでした。この頃の私は政治も経済も株もほとんど理解できてなく、自分がいかに無知であるかということを実感しました。それが後に、経済をきちんと学びたいという動機になりました。
- 1981年
- 立教大学社会学部社会学科卒業
- 1981年
- (株)ニューズ・レコード 制作宣伝部入社 松山千春などの宣伝を担当
- 1983年
- (株)アート&クラフトジャパン(海外向広告会社) 英文広告製作、広報誌編集。
- 1985年
- 米国の多国籍企業コルゲート・パルモリーブ社の日本法人でクリスタル製品・装飾品などの商品開発、マーケティングを担当
自宅通勤でない私が賃金など待遇の男女差がなく働ける職場は、当時は、マスコミか外資系企業しかありませんでした。 今、振り返ると英語・マーケティングという専門的技能がキャリア形成を助けたと私は思います。
外資系企業では、アメリカ・カナダ・韓国などへの出張、本社での訓練の機会を与えられ、キャリア・ウーマンとしての一歩を踏み出し、仕事が大好きで、必死で目の前の課題に挑戦していました。
留学
- 1988年
- 米国ハーバード大学留学
日本法人の事業部の売却に伴い、新たな外資系企業(合併・吸収先)で働くか、割増の退職金をもらい、退職をするかの岐路に立ち、私は退職金を元手に英語とビジネスの基本を学ぶため留学することにしました。
出張で何度か訪れたボストン、ケンブリッジ。 ハーバード大学の構内を歩き、いつかこの土地で勉強をしてみたいと憧れていましたので、留学先は迷わず、マサチューセッツ州を選びました。
(というより、他の土地は知らないので、仕事で出会ったことのある人々がいる場所がいいかなぁ~という単純な発想でした。 それが、本社の社長に呼び戻されるキッカケにもなりました。)
ビジネス・スクールをめざして経済学や国際ビジネスの勉強をしていたところ、米国のかつての上司が社長に栄転し、復職の声がかかり、米国本社で働き始めました。 日本で設立する法人を手伝うことになりました。 当時、アメリカはバブル崩壊後の不況で、ビジネス・スクールを卒業しても就職できない時期でした。 学位よりも仕事だと周りの友人にアドバイスされ、私は再び、同じ会社で働くことになりました。
- 1990年
- プリンセスハウス(株)入社
コルゲート・パルモリーブ社の日本法人でクリスタル製品・装飾品のマーケティング、経営など担当。
- 1993-96年
- ソルボンヌ大学 語学留学(パリ・フランス)
マルセイユ第三大学留学(エクサンプロバンス・フランス)
外資系企業で猛烈に働くうちに、政治は社会主義(当時:ミッテラン社会党政権)なのに経済は資本主義で成功しているフランスに興味を持つようになりました。 欧州の通貨統合やそれに伴う労働市場の変化なども実際に自分で経験してみたくなり、一言も話せないフランス語を学ぶため、パリ(ソルボンヌ)大学に留学することにしました。
フランスで生活をしているうち、根なし草のような自分に気がつきました。 生まれ育った土地を愛し、暮らしを大切にしている多くのフランス人達と出会い、私の『根』は広島だと考え、故郷に戻ろう!と20年ぶりにUターンしました。
20年ぶりのUターン
- 1996年
- ヒサシー(株)商品部次長 広島市の24時間スーパーの草分け。
入社直後、資金繰りが悪化し、倒産。 そこで、中小企業の経営を助けるコンサルタントに転身。
- 1997-99年
- (株)タナベ経営 経営コンサルタント
経営コンサルタント先の県内会員企業を訪問するうち、東京と比べて女性の活用・登用が広島では遅れていることを実感し、女性問題について深く関心を持つようになりました。
- 1999年
- Web上で非営利活動(女性問題)のサイトを運営。
エソール広島でもらったチラシを見て「地方議会に女性を送る会」の会員に。
地方議会に女性議員を増やす活動を通じ、県内の地方議員の方々とお話をする機会が増え、女性議員ゼロ(99年当時)の広島県議会議員に立候補しよう!と志す。 現在、民主党の松坂知恒広島市議(南区)とは、この団体の活動を通して知り合いました。(後に、幟町小学校の同級生と気づく。)
広島県の女性センター(エソール広島)や広島市女性教育会館(ウィプラザ)の様々な活動やイベントに積極的に参加するようになり、女性団体の方々との知り合いが増えました。
- 2002年
- 全国フェミニスト議員連盟 夏合宿(広島市)参加。
女性パワーアップ・セミナー (エソール広島)参加。
- 2003年
- 統一地方選挙 広島県議会議員(広島市安佐南区) 無所属で立候補。
- 2004年
- 地元(広島市安佐南区安東)の個別指導の学習塾で講師・教室長。
- 2005年
- 広島県議会議員 補欠選挙(広島市安佐南区)
無所属(民主党・連合推薦)で立候補、次点。
- 2006年
- 広島市景観審議会・市民委員。
民主リーダーズ・スクール 第一期修了。
民主党広島県第三区総支部(広島市安佐南区)・幹事。
- 2007年
- 統一地方選挙 広島県議会議員(広島市安佐南区)
民主党公認で立候補、初当選。
- 2007年
- 初当選後、最も(福祉・医療など)今日的課題の多い、生活福祉保健委員会に所属。
国際・文化・観光対策特別委員会に所属。
- 2008年
- 分権改革を始め、県議会全体について係わる総務委員会に所属。
- 2009年
- 産業活性化対策特別委員会に所属。
- 2010年
- 農林水産委員会 副委員長に就任。
行財政改革・分権改革推進特別委員会に所属・
広島県環境審議会に所属。
民主党広島県幹事・男女共同参画委員会に所属。
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