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[29946] 【東方Project】私が桶に入る理由【東方地霊殿】
Name: 黒野茜◆baf26b59 ID:d2a47122
Date: 2011/09/28 20:07

【序章 人生最悪最高の出会い】


「眩しいなぁ……」

 縦穴から零れる日差しを仰ぎ見て、ヤマメはポツリと呟いた。
彼女がこうして、地上付近まで訪れたのは何度目になるだろうか。
苔生す岩の香りも、もはや嗅ぎなれた物となっており、ジメジメとしたこの空気を居心地がよいと思っている自分自身に、彼女は思わず苦笑していた。

 見上げた指先から零れる陽光。
それを懐かしむように僅かに笑みを零すと、彼女は踵を返した。

 ここから先は通行止めだ。
未練がましい自分自身にそう言い聞かせ、彼女は縦穴をゆっくりと降りていく。

 地底の妖怪は、地上へは出てはならない。
という訳ではないが、少なくとも出ても良い事など無いだろう。

 地底は嫌われ者たちの楽園。
地上で忌み嫌われた、爪弾き者達が最後に行き着く場所。
あの苦渋の時代から幾星霜。
もはや当時を思い返し、地上を懐かしむ者など存在しなかった。

 ただ一人、彼女を除いては。

「はぁ……」

 ヤマメは一人、溜息を零す。
普段から快活で明朗な彼女にしては、その表情は曇って見えた。

「やっぱり一人じゃちょっと怖いんだよね」

 浮かべたのは、自虐的な渇いた笑み。
自らの勇気の無さを彼女は笑う。
外の世界を懐かしみ、その光に憧れていても、自分にはその僅かな一歩を踏み出す勇気もありはしない。
自らの臆病さ加減が、彼女はひたすらに可笑しかった。

 住み慣れた地底の大地へ足を着け、空を見上げながら名残惜しむように彼女は言う。

「誰かいないもんかねぇ……。一緒に外へ出てくれる奇特な妖怪は……ん?」

 その時だった。
不意に、ヤマメの視界に黒点が映りこむ。
それは地下を覗く太陽にできた、ほんの僅かなシミだった。
その動きを、彼女は注視して追う。

 そしてそれがやがて巨大になり、視界一面が覆われた時になって、ヤマメは漸く気づく。
『あ、やばい・・・・・・』、と。

「へぶぁ!?」

 それは超高速の衝突だった。
目を細めながら上を見上げていたヤマメの顔面目掛けて、巨大な木桶が砕けて破片を撒き散らすほどの勢いで激突していた。

「うぼぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁっぁあぁぁ…………」

 いったいどれ程の痛みだっただろうか。
単純に言えば顔で交通事故が起きたようなものであり、もしヤマメが妖怪でなければ間違いなく死んでいた。
鼻っ柱どころか正直、顔の何処が痛むのか判らないほどの激痛が走り、彼女は悶絶したままその場に蹲(うずくま)る。

「……誰よ、こんな悪戯した奴は!」

 キレて辺りに怒鳴り散らすが誰もいない。
有るのはコロコロと転がる壊れた木桶だけ。
訳のわからない突然の理不尽に、ヤマメは呆然としたように立ち尽くしていた。

「あー、もうどっから持って来たんだか……」

 まだ少し顔が痛んではいたものの、ヤマメは一息吐いたのか桶の許へと歩を進める。
辺りに犯人らしき影はなかったが、正直とっちめてやらねば彼女の腹の虫が収まりそうに無かった。

「名前とか書いてないかな?」

 そんな事などありえないだろう。
彼女としても、もちろん判っていて言っている。
それでも何か犯人に繋がる証拠が無いかと、そのままヤマメは桶の中を覗き込み――――――、

「…………………」
「…………………」

 目と目が合った。
中にいたのは緑色の髪をツインテールにした可愛らしい少女だった。
その表情は傍から見てもわかるほどに赤みが差しており、ただでさえ小さな身体を更に縮こめていた。
なんというか小動物的な匂いを漂わせており、異様に愛くるしさを感じる。
とりあえず抱きしめたくなる衝動を抑え、ヤマメは尋ねる。

「……えっと、何してんの?」
「――――――ッ!!」

 瞬間、零距離顔面鬼火が炸裂していた。

「へぶぽぺらそげっぱッ!!?」

 いったいどれ程の痛みだっただろうか。
単純に言えば顔で爆発火災が起きたようなものであり、もしヤマメが妖怪でなければ(ry。

「うぐっ……いったいなんなのさ?」

 爆発により剥き出しの岩肌を数メートルもゴミ屑のように吹き飛ばされた彼女だったが、うつ伏せに倒れたまま如何にか弱々しくも面を上げる。
そのやや焦げ気味の愛嬌満載な素敵フェイスの先には、先ほどの壊れた桶から出てきた少女が顔面蒼白といった面持ちで佇んでいた。

「あ、あわわ……あわわわわ」
「ぐぅ……」
「―――――ッ!」

 ヤマメがどうにか起き上がろうとすると、壊れた木桶にインしたまま少女は脱兎のごとく逃げ出していた。
超絶理不尽なダブルコンボを噛ましてくれた少女に対して、ヤマメは一発しばき倒す所存だったが、如何せん体が言う事を聞かない。
いくら妖怪とはいえ、限界はあるのだ。
彼女が起き上がれずにいる間に、桶娘は遥か彼方へと姿を消し、その姿はもはや見えなくなっていた。

「本当に……いったいなんなのさ、アレ……」

 満身創痍のまま、ヤマメは呟く。

 これが二人の出会い。
地上の嫌われ者である土蜘蛛と、恥ずかしがり屋の釣瓶落としの出会い。

 ヤマメは後に、この時の出来事を振り返って言う。
私の人生の中でも、一番最悪で、一番最高の出会いだった、と。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


『第一章 黒谷ヤマメという妖怪』

 あの文字通り衝撃的な出会いから、数時間後。
黒谷ヤマメは独り、旧都への道を飛んでいた。

 結局、あのときの謎の桶娘の正体は判らずじまい。
怒りをぶつける相手もおらず、ただ顔に焦げ跡だけが残る結果となった。
ヤマメ的には言いようの無い虚しさだけを残した、嫌な事件だったとしか言いようが無い。

 ともかく、さっさと忘れたかった。
こういうときは酒でも呑むに限った。
ちょうど道中には、適当な飲み相手もいるのだから。

「おーい、パルスィー!」
「……爆ぜろ」
「なんで!?」

 相変わらず橋に独り佇んでいたパルスィに声をかけると、壮絶に嫌そうな顔と共に酷い暴言を返されたヤマメ。
彼女としては、謂れの無い言葉の暴力だった。


「あなたから素敵な出会いをしたような妬ましい臭いを感じるのよ」
「なんなのさ、それ……」

 橋の欄干に背を預けるようにして突拍子も無い事を言うパルスィに、ヤマメは疲れたように溜息を吐く。
あの出会いを妬ましく感じる奴がいるならば、そいつは紛う事なきドMである。
そんなヤマメの心を知ってか知らずか、パルスィは尚も言う。

「リア充爆ぜろ」
「誰がリア充なのよ、誰が」
「あなた以外に誰がいるって言うのよ。あっちこっちで誰彼かまわず口説き落としてるくせに」
「ヤメテ!? その誤解されるような言い方ヤメテ!!」
「ふん、どうだか。そう言いながらも今日も出会いがあったのでしょう?」
「いや、まあ有ったには有ったけど……。どっちかと言うと衝撃的な出会いと言うか何と言うか……」
「……? どういうことよ?」
「あー、実はさ――――――」
「爆ぜろ」
「まだ何も言ってないのに!?」

 散々だった。
まるで会話が通じない相手に、ヤマメは途方にくれるしかない。
彼女が項垂れた所で、ようやくパルスィは声をいつもの調子に戻して言う。

「呑みに行くのでしょう? 付き合うわよ」
「この捻くれ者ぉー……。判ってるなら最初から普通に付き合ってよ」
「私が捻くれ者なら、あなたは変わり者よ」

 そう返したパルスィの表情は、彼女にしては珍しく満足げで朗らかな笑みだった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「――――――という出会いがあったのよ」
「何よ、やっぱり可愛い女の子との出会いじゃない。妬ましい」

 旧都に位置するとある居酒屋にて、二人の少女は杯を酌み交わす。
店の名前は『怪力乱神』。
旧都での評判も上々で、書き入れ時ともなれば連日満席を誇る人気店である。
店のオーナーは……まあ、言わずとも判るであろう。

「……ふふ」
「なに笑ってんだ、ばか……」

 この店一番人気の地酒『大江山嵐』をちびちびと飲みながら、二人は会話に花を咲かせる。
その内容は愚痴を言ったり、それを笑ったり、それに拗ねてみたり。
この光景は店の常連客たちにも馴染みの光景となっており、一つの酒の肴になっているのだが、本人達は気付いていなかったりする。

「でもまあ、爆ぜろとは言ったけど、本当に顔を爆発させているとは思わなかったわ。橋の上で会った時の奇抜なアイシャドーは何かと思ったわよ」
「うっさいなぁ、もう。私だって好きでああなった訳じゃないわよ」

 両腕を枕にしたまま机に突っ伏して、ヤマメは頬を膨らませながら拗ねたようにパルスィを見る。

「でも本当、酷い目に遭ったわ……。あの桶娘、一度説教でもしてやらなきゃ気が済まないんだけど」
「で、そのまま口説――――――」
「だからしないっての!」

 ヤマメが新しい出会いを報告するたびに、パルスィの口から出るのは毎度こんな感じの言葉だった。
彼女と軽口を叩き合う友人となって久しいヤマメだったが、未だに何故彼女が自分の事をこんな風に言ってくるのかだけは理解できずにいる。
そしてそんなヤマメの様子に、パルスィはますます深い溜息を零す。
すると、そんな二人の背中に、馴染みのある声が掛かった。

「よぉ、ご両人。相も変わらず贔屓にしてくれてるみたいだな。アタシも混ぜてくんないかい?」
「あ、どうも姐さん。お先に楽しませてもらってますよ」
「アンタ、この店のオーナーでしょうに。客と混じって酒呑んでいいの……?」
「はははッ! 酒は楽しく呑むに限るんだ。細かい事は良いんだよ」

 彼女、星熊勇儀は豪快に笑いながら、そう言って二人の間に割って入る。
嫌そうな顔をしながら押しのけられるパルスィと、人懐っこい笑顔で席を譲るヤマメの姿が実に対照的だった。

「ちょっと、勇儀……。狭いんだけど……」
「ははは、照れるな照れるな」
「照れてない!」

 きっ! と睨みつけるパルスィの抗議の声も、勇儀はそよ風のように受け流す。
そしていつの間にやら手に持っていたのか、彼女愛用の巨大な杯を取り出していた。

 勇儀はそのまま一升瓶から酒を注ぐ。
すると一本丸々を空にするや否や、躊躇いもせずにそれを呷り呑んでいた。
杯に並々と注がれていた筈の液体が瞬く間に消えていく光景は、見慣れたものとはいえ二人に何とも言えない溜息を吐かせる。

「姐さん、相変わらず凄いね」
「酒の味わかってるのかしら……」
「失礼だなパルの字。最高に美味いぞ?」
「誰がパルの字よ!」
「ところでヤマメ。お前さん、またなんか有ったらしいじゃないかい」
「うげっ……。情報早いッスね、姐さん……」
「こら! なに人のこと無視して――――――」
「あー、はいはい。ちょいと静かにしておきな」
「ふむ!? ふむ~~~~~~~~~っ!!!?」

 突然、勇儀は脇に置いてあった酒瓶の封を切ると、騒ぎ立てていたパルスィの口の中へと中身を押し込んでいた。
余りに不意を突かれた事もあったが、それ以上にそもそも鬼の腕力に敵うべくもない。
『純米大吟醸・鬼隠し』という不吉な銘が打たれた酒が、目を回しているパルスィの中へと消えていくのに時間は掛からなかった。

 そしてぶっ倒れた彼女を放っておいて、勇儀はヤマメへと再び向き直る。

「で、どういうことがあったのか。アタシにも包み隠さず教えてもらおうかい?」
「あ、いや、その――――――」

 ヤマメは悟る。
勇儀は凄く友好的な笑顔を浮かべていたが、下手な事を言えば隣で撃沈している奴と同じ末路を辿る事になるであろう、と。
その証拠に、勇儀の右手には新たに一升瓶が握られていた。
それも二本。
間違いなく潰される量だ。

 一瞬、隣で潰れているパルスィと同じ末路を辿る自身の姿を幻視して、ヤマメは頬を引くつかせる。
ともかくこの場で誤魔化そうとするのは得策ではないだろう。
そもそも隠す事でもないのだから、と彼女は諦めたように溜息を吐いていた。

「本当に大した事じゃないんですよ? ただ、桶に入った女の子に物凄い勢いで突撃されたってだけなんですから」
「桶に入った?」
「ええ。なんか井戸に吊るして有るような釣瓶みたいなものに入ってて、緑色の髪を左右で結わっている小さな女の子でした」
「ふぅん……。で、その美少女とは何かあったのかい?」
「それ以上何も……。っていうかなんで美少女になってるんですか……」
「違うのかい?」
「いや、違わなくはないですけど……」

 言われて、ヤマメは自身の記憶を思い返してみる。
なるほど、たしかに美少女と言って差し支えは無いであろう。
二房に分けられた新緑のような翠色の髪に、あどけなさを残した円らな瞳。
少女の小柄な体躯や木桶に入ると言う仕草も相俟って、まるで小動物のような可愛らしさを醸し出していた。
なにせ彼女自身、初めは無性に抱きしめたくなる衝動に駆られていたぐらいだったのだから。

「………………ふむ」

 一人で何やらぶつぶつと物思いに耽っている様子のヤマメに、勇儀は得心がいったとばかりに小さく頷いていた。
すると彼女は、その表情を優しい笑みに変える。

「気になるんだったら、直接会って話をしてみるかい?」
「へ? 姐さん、もしかしてその子の事知ってるんですか?」
「んー、たぶんだけどね。ソイツの特徴を聞く限りじゃ、きっと釣瓶落としのキスメの事じゃないかねぇ」
「キスメ……」

 ヤマメは噛み締めるようにその名前を呟く。
そんな彼女を見て、勇儀は更に言葉を続ける。

「あの子の住んでる場所なら、この紙に書いてあるから訪ねてみな」

 そう言って渡されたのは、指の間に挟まれた四折りの小さな紙切れ。
それをヤマメが開いてみると、中には結構詳細な地図が画かれていた。
場所的には旧都の外れだろうか。
あまり人が寄り付くような場所ではなく、正直あのような幼子(まあ、妖怪である以上、見た目通りの年齢ではないだろう)が住居とするには余りに辺鄙に過ぎた。
そのことにヤマメは僅かな疑問を感じたが、ふとそれ以上に疑問に思うことが一つ。

「あれ? 訪ねてみなって、姐さんは一緒に来てくれないんですか?」
「なんでアタシも行くんだい?」
「いやだって、キスメちゃんと知り合いなんでしょ? 間に入って仲裁とかしてくれた方が助かるんですけど」
「はい? アタシとキスメは別に知り合いじゃないよ?」
「はい? んじゃなんで住んでる場所なんか知ってるんです?」
「そりゃお前さん、地底に住んでる可愛い女の子の居場所だったらアタシが知らない筈ないだろう」
「…………さいですか」

 何を当たり前のことを言ってるんだ? と本気で判らないと言ったような表情の勇儀に、ヤマメは諦めたように溜息を吐く。
ともあれ、名前と居場所を知れたのは彼女にとって僥倖であった。
受け取った地図を懐に仕舞い込むと、ヤマメは静かに席を立つ。

「なんだい。もういくのかい?」
「善は急げって言いますから。それに、姐さんに付き合ってたら潰れちゃって会うどころじゃないですよ」
「そうかい、そりゃ残念だ。でも、次は付き合っておくれよ?」
「はは……。お手柔らかに頼みます」

 苦笑いとも言える曖昧な笑みを浮かべ、ヤマメは居酒屋を後にした。
その後ろ姿を見送りながら、勇儀は杯に再び注いだ酒を飲み干す。
やがて、ヤマメの姿も雑踏に消える。

 ふっ、と。
勇儀は短く笑う。
そして視線を隣で潰れているパルスィに向けて、彼女は言う。

「アンタも大変だねぇ……。でもまあ、遅かれ早かれこうなる運命なんだろうさ。アイツはそう言う奴で、アンタもアタシもそんなアイツの事を気に入ってんだからね」

 苦笑とでも言うべき笑み。
しかし次の瞬間には、彼女は何時も通りに酒瓶を空けていた。
怪力乱神の宴は、まだまだ続く。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

『第二章 理由』

 人気の無い旧都の外れ。
いつであろうと余り寄り付く者もいない辺鄙な更地の真ん中に、その建物はポツンと置き忘れられたかのように建っていた。

 小ぢんまりとした簡素な造りの家。
この建物を見た者ならば、誰もがそんな感想を漏らすだろう。
そしてその裏手では、一つの小さな人影が古井戸の側でもぞもぞと何かをしていた。

 二房に分けられた翠色の髪と、円らな瞳をした少女。
華奢なその身を蒼白の着物に包み、キスメは独り黙々と作業をしていた。

 彼女の目の前には薬缶(やかん)やら杯やらダンボールやらといったガラクタが、山のように積み上げられていた。
その一つ一つを手にとっては繁々と眺め、彼女なりの拘りでも有るのか真剣な表情のままそれを被ったり中に入ったりを繰り返している。

 そして、その様子を建物の陰から窺う人物が一人。

「なにやってんだろ、あの子……」

 誰に言うでもなく、ヤマメはひとりごちる。
何しろ最悪の出会いをした後だ。
好意的に接しようとしても、出会い頭に逃げられる可能性のほうが高いと判断した彼女は、足音を殺してキスメの様子を窺う事にした。
飛べば恐らく妖気でバレるだろうし、これが最善の手段だっただろう。

 結果、彼女の目に飛び込んできたのはご覧の光景だった。
次々と新しいガラクタを身に纏うキスメの姿に、ヤマメは『なんかヤドカリみたいだなぁ……』などと益体も無い感想を抱く。
まあ、可愛い事に変わりは無く、寧ろ小動物っぽさが際立ったと評すべきだろう。

「はっ!? いかんいかん……」

 気づけば緩んでいた頬を引き締め、ヤマメは軽く両頬を叩いて気合を入れ直す。

 キスメは現在、ダンボールを被っていた。
しかも何か気に入ったのか、一向に出てくる気配が見えなかった。
あの状態では周囲の様子など殆ど見えてはいないだろう。
彼女に気づかれずに近づくには、絶好の好機と言えた。

(なんというか……。いい趣味(センス)してるわね、あの子……)

 ヤマメがそっと歩を進めると、意外なほど簡単にキスメの背後を取る事が出来た。
どうやら伝説の幼兵は未だにこちらに気づいていないようである。

「や!」
「――――――ッ!!?」

 ただ一言声をかけると、ダンボールが大げさなほどビクンと跳ね上がった。

 面白いなぁ、とヤマメは笑みを零す。
そして恐る恐るといった感じでダンボールが持ち上がると、

「………………」

 中から驚きに目を見開いたキスメの姿が現れていた。

「探したよ、キスメちゃん。ちょっとお姉さんとお話し――――――」
「――――――ッ!!!?」
「しようか――――――って、早ッ!?」

 文字通り、一瞬だった。
ヤマメが再び声をかけるのと同時、キスメはダンボールを被ったまま天狗も斯くやと言わんばかりの速度で逃走を開始していた。
その影はあっという間に小さくなり、ヤマメは暫し呆然とするが、

「って、追いかけないと! 待ってよキスメちゃん!」

 慌ててヤマメもその後を追う。
もうだいぶ離されてはいたが、まだ追いつける距離ではあった。
もしここで逃してしまえば、次に会うのは更に困難を極めるだろう。
故に、ヤマメは全力でその後を追う。

 空を切り、風を裂き、凄まじい速度で二人は旧都郊外を滑空する。
幸か不幸か、人通りは全く無い。
追いつくのは難儀な作業となっていたが、衝突事故などの心配は殆ど無かった。

 だからこそ、キスメも全力で逃げられるのだろう。
今の彼女の姿はダンボールを被ったままであり、遠目に見れば低空飛行している正体不明の飛行物体に見えなくも無い。
しかも器用な事に、その状態のまま入り組んだ旧都の道を右へ左へと迷わず進んでいた。
恐らくは小さな隙間から覗き見てはいるのだろうが、それでもその捷さにヤマメは素直に舌を巻く。
その距離はなかなか縮まらない。
ともすれば、僅かな油断で振り切られてしまう鬼ごっこ。
互いに一歩も引かない、終わりの見えないチェイスゲーム。
それは文字通り、永遠に続くかのようにさえ見えた。

 だが――――――。

「――――――ッ!!?」

 ダンボールの中のキスメの表情が、驚愕の色に染まる。
突如彼女の目の前に、二人の人影が現れていたのだ。

 そう、幾ら旧都の外れといえども、通行人は確かに存在する。
にも関わらず、キスメは全力疾走をしていた。
必然、曲がり角から突然現れた相手に反応など出来るわけもなかった。

 激突まで、残り数秒。
相手は背を向けておりキスメには気づかず、キスメ自身も反応できないで止まれずにいた。
誰にも止められない。

 ただし。

「………………」

 ただ一人、この場にいるただ一人を除いて。

「――――――ッ!」

 事態を把握するや、ヤマメの行動は早かった。
彼女が自身の右手を伸ばすように翳すと、その先から蜘蛛の糸が投網のように射出されていた。

 幾重にも編みこまれた蜘蛛の糸。
それは高速で、しかし正確に獲物を捕らえる。

「ぐぅっ!」

 歯を噛み締め、ヤマメはその細腕に力を籠める。
いくらキスメが小柄とはいえ、あれほどの速度で加速していたならばその力は馬鹿にならない。
自分自身まで持っていかれないように、踏鞴(たたら)を踏みながらも懸命に彼女は堪え、そして。

「ああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 咆哮一閃。

 彼女が雄叫びと共に腕を振りぬくと、まるで反動で飛ばされたかのようにダンボールは弧を描いた。
放り出された紙箱は、少女と共に落ちてくる。
だから、ヤマメはまだ止まらない。

「~~~~~~っ! 間一髪、セーフ……」

 落ちてきた蜘蛛の巣塗れのダンボールに、そのままヤマメは飛びついていた。
ヘッドスライディングの姿勢のまま数メートルを滑ると、彼女はホッとしたように溜息を零す。
そしてダンボールの中から恐る恐るこちらを窺い、見下ろしている目の前の少女に向けて、疲れたように、されど笑みを零して言うのだった。

「とりあえず、もう爆発とかはやめてよ? 仏の顔も三度……は意味が違うけど、物理的に私の顔が痛いからさ」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その後、どうにかキスメによる『顔面・爆☆殺の刑』だけは免れたヤマメは、彼女の案内で自宅へと招かれる事となった。
といっても道中終始無言であり、少しでも近づくと近づいたのと同じ距離を高速で逃げられる為、お世辞にも友好的な関係とは言えなかった。
それでも彼女が脇目も振らずに逃げ出したり、問答無用で襲い掛かってきたりしない辺り、最初に比べれば遥かにマシなのではあるが……。
いずれにせよ、なんとも言えない気まずい空気である事に変わりは無かった。

 しかしそんな空気も、ある一つの出来事により吹き飛ぶ事となる。

「なん……だと!?」

 ヤマメという少女には奇声癖でも有るのだろうか。
彼女は招き入れられたキスメの自宅の中を見るや、まるで死神のような言葉を口走っていた。

 しかしながら、彼女が驚いたのも詮無き話でもある。
なにせ、案内されたのはあの小ぢんまりとした小屋ではなく、その側の古井戸。
最初は『入ろうとした所を後ろから突き落とす気だろうか』と内心びくびくしていたヤマメだったが、いざ降りてみれば其処には家財道具一式が置かれ、狭いながらも確かな居住スペースが存在していた。
井戸の底は空洞になっており、上からのぞいただけでは判らないようになっている。
まるで隠れ家のようだった。
例えるなら、子供の秘密基地である。

「キスメちゃんって、此処に住んでるの?」
「………………(こくこく)」
「上にある小屋に住もうとは思わないの?」
「………………(ふるふる)」
「……そっか」

 一言も発せず、身ぶりだけでキスメは答える。
その様子に、ヤマメは曖昧な笑みを返していた。
いい加減、少しはまともに会話をしてほしいものだ、と。

 だが、とりあえず一つだけ判った事もあった。
キスメという少女は、どうやら極度の恥ずかしがり屋という事である。
今も桶の代わりに入ったダンボールの中から顔の半分だけを覗かせたまま、彼女は頬を染めながら小さな体を精いっぱいに動かして感情を表している。
以前から彼女の事を小動物だ何だと感じていたヤマメだったが、殊ここに来て目の前の幼女がダンボールに入れられた捨て犬か何かに見えて来ていたぐらいだった。

 正直、これからする事はこの可憐な少女を苛めているような気分になりそうなので躊躇が無いと言えば嘘になるのだが、だからといって逃げる訳にもいかない。

 呼吸を一つ整える。
ヤマメは、覚悟を決めることにした。

「あのさ、一つ聞きたいことがあるんだ。お昼に縦穴で会ったときさ、どうしてあんなことしたの?」

 ヤマメは彼女にしては珍しく、瞳に剣呑な輝きを宿して言う。
その表情に気圧されたのか、キスメは答えを返してこない。
それでも懸命に何かを言おうとしているようなのだが、上手く言葉が出てこないのだろう。
結局、ますます身を縮こまらせていた。

 その様子にヤマメはやれやれと溜息を吐く。
どうやらこの少女に、これ以上何かを求めると言うのは酷かもしれない。
そう判断した彼女は、不意にその踵を返した。

「何をしたかったのかは判らないけどさ。すくなくとも相手によっちゃ大怪我するような事をアンタはしちゃったんだ。もう、あんなことはしない方がいい」

 私が言いたかった事はそれだけだからさ、と最後に彼女は付け加えた。

 黒谷ヤマメは古井戸の底を後にする。
キスメは、ただその背中を見送るしかなかった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 結局、何も言うことは出来なかった。
招き入れた自らの住処を去る女性の背を見送りながら、キスメは無力感に苛まれる。
ただ一言伝えるだけで良かったのだ。
私と友達になってください、と。

 だが彼女の口からは、その一言さえも出てこなかった。
喉が渇いたように張り付き、心臓は張り裂けんばかりに脈を打っていた。
世界がぐるぐると渦巻き、頭の中は真っ白になっていた。
何を言うでもなく、伝えるでもなく、訴えるでもなく。
何かが変わることもないまま、彼女と黒谷ヤマメを結ぶ糸は切れたのだった。

「………………」

 ヤマメが去った後、井戸から見える空を彼女は見上げる。
井の中の蛙には、外の世界は恐怖以外の何物でもなかった。
喧騒に包まれた、|既知《自分》以外だらけの未知の世界。
彼女には、ただただそれが恐ろしかった。
けどそれと同時に、其処から覗く輝きに憧れた。

 だからこそ、彼女は勇気を振り絞った。
それはある噂を聞いたから。

 地上では嫌われている筈なのに、地下では愛されている妖怪の噂。
彼女は人気者で、彼女の回りはいつも誰かで賑わっていて、彼女の回りでは必ず誰かが笑っている。

 その噂を聞いたとき、キスメは思ったのだ。
彼女ならば、こんな私でも仲良くしてくれるのではないだろうか、と。

 それは、彼女にとっての精一杯だった。
黒谷ヤマメと接触して、彼女に想いを告げる。
ありったけの勇気を総動員して、一生の内でも二度とないぐらいの決断をした。
そして逸る気持ちを抑え、縦穴で地上の光を見つめていた彼女に突撃し――――――文字通り、突撃してしまっていた。

 最初、何をしてしまったのかが理解できなかった。
それでも聞こえてくる苦悶の声に恐る恐る彼女が外を覗き見ると、そこには顔を押さえて悶絶する黒谷ヤマメの姿があった。

 謝る?
当然だ。
悪い事をしたのは自分なのだから。
けれど。

 キスメにそれは出来なかった。
結局、彼女がしようとしたことはその場からの逃亡。
コロコロと桶を転がして、ヤマメがのた打ち回っている内にキスメは逃げる事を選んでいた。
臆病なことはわかっている。
卑怯なことはわかっている。
それでもこんな最悪の初対面で、黒谷ヤマメの印象には残りたくなかった。

 だが結局は、すぐに見つかる事になる。

『……えっと、何してんの?』
『――――――ッ!!」』

 結果は知っての通りだった。
謝るどころか、恥ずかしさやら恐怖やらで頭が真っ白になり、選んだ選択肢は最低の最低。
意味も訳も判らぬまま、気づけば至近距離で彼女に弾幕を食らわせていた。

 その後の事を、彼女はよく覚えていない。
気が付けば無我夢中で井戸の中へと帰ってきていた。

 冷静になってから、自分のとった取り返しのつかない行動に愕然とする。
そして今、最後に訪れた本当のラストチャンスにも、彼女は何も出来なかった。

 もう自分は、他者と接する事に向いていないのだと諦めたかった。
けれど――――――。

「……うぅ」

 キスメの頬を、熱い雫が伝う。
諦め切れなかった。
自分もあの、暖かな世界に居場所が欲しかった。
けれどそれすらままならない自分自身の性格に、彼女は行き場の無い感情をこうしてぶつけるしかなかった。

 桶の中が好きなわけじゃなかった。
それはただ単に、他者と接するときに一枚壁を設け、隠れる事で平静を保つための防御壁。
そんなものに頼らずとも、彼女は誰かと手を取り合い、言葉を交わし、肌のぬくもりを感じたかった。

 流れ落ちた雫が、桶代わりに入っているダンボールに染みを作っていく。
井戸の底に響く嗚咽。
少女はもはや、空を見上げすらしなかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


『第三章 欲しいもの』

 古明地さとりは、ひとり地霊殿の廊下を歩いていた。
菖蒲(あやめ)色の癖毛に、水色のブラウスと薄紅のスカート。
傍から見るとスモックにも見えるような服装をした、年端も行かない幼い少女。
|第三の目《サード・アイ》と呼ばれる特殊な目を胸元に飾るこの少女の姿を見て、地霊殿の主だと一目で気づく者は恐らく殆どいないだろう。

 旧地獄の管理などと言う結構な大規模作業を司っている彼女だが、現在は大勢いるペット達のお陰でゆとりのある生活を送っていたりする。
さとりの役割は地霊殿の管理。
その全体を彼女一人で回す事は到底不可能であり、ペットであるお燐やお空に手伝って貰う事で上手く回っているのだ。
猫の手も借りたいほどと昔から言うが、実際に存外役に立つものであった。

 とはいえ、あっちこっちから送られてくる報告書に目を通したり指示を飛ばしたりと言う作業もそれなりにハードであり、彼女が寝室の扉の前に辿り着く頃にはすっかり疲れ果ててもいた。
寝巻き姿に着替えた彼女は、欠伸を噛み殺す。
そして寝室の扉を潜(くぐ)ると、こう言葉を始める。

「……で、貴女は何で当たり前のように私の部屋にいるんですか?」
「あ。おかえり、さとりー」
「ちょっと悩み事があるから考えに来た、ですか……」
「さすがさとり。話が早いねー」
「誰もここにいる事を許可してはいませんよ」
「あー、さとりの臭いがするー」
「ちょ! 人の枕に顔を埋めて何をしてるんですか!」
「あ、こら。折角さとり分を補充してるのに取ろうとしないでよ」
「何ですかさとり分って! って、説明しようとしなくていいです! 考えるの禁止!」

 年甲斐も無く、いや見た目的には相応ではあるのだが、ともかく一個の枕を巡ってぎゃあぎゃあと騒ぎ合う二人の妖怪。
同じベッドの上で互いに同じ枕を引っ張り合う姿は、見ていて微笑ましいものがある。
まるで仲の良い同窓の友のような二人。
だが、この光景もごく最近になって見受けられるようになったものだった。

「あー、もう。こうなったら……!」
「……へ? きゃあ!」

 突然、引っ張り合いをしていた筈のヤマメが力を緩める。
その突然の拮抗の崩壊に、不意を食ったさとりは寝具の上に尻餅をついて倒れていた。
そこへ、ヤマメは電光石火に襲いかかる。

「えへへ~……」
「ちょ、ちょっと! 何を抱きついているんですか!」
「あー、さとりの臭いがするよ~」
「こ、こら! 鼻を首筋に擦りつけ、ひゃうん!?」

 さとりの腕力で、土蜘蛛であるヤマメの腕力に敵う術などありはしない。
もはや成すがまま、さとりは思う存分にヤマメに堪能される事となる。
ぎゅっと抱きしめられて、頬をすりすりされて、髪の毛の臭いを嗅がれて、また抱きしめられて。
最初こそ抵抗していたさとりだったが、もう途中から無駄と諦めて、最終的には抵抗らしい抵抗はしなくなっていた。
まあ、頬が爆発しそうなほど朱に染まってはいたが。

「ふぅ~~~~~~~……。満足満足♪」

 そして一通りさとり分とやらを補給したのだろう。
背後からさとりを抱き竦めていたヤマメの口から、満足そうな声が漏れる。
その声音は何処か艶っぽく、恍惚とした響きが含まれていた。
そんな彼女の様子に、さとりはげんなりしたような溜息を零す。

「まったく、貴女という人は……。また何かあったのですか?」
「んー、まあ……。あ、あはは……」
「はぁ……」

 背後にある顔など見えはしないが、その表情は曖昧な笑顔を浮かべている事が容易に想像でき、さとりは心底呆れたように溜息を零す。
心を読むまでも無く、彼女が何かしら相応の悩みを持っている事は察しが付くというものだ。
徹底して嘘や隠し事が下手な友人に対して、さとりは努めて優しく語りかける。

「自分で言うのと私が読むの、どちらがいいですか?」
「……うん。自分で言う」

 彼女から返ってきた返答に、さとりは小さく笑みを零す。
そのまま彼女が無言で返事を待つと、ヤマメはポツリと呟くように語り出した。

「……私がいたんだ」
「はい?」

 投げかけられた第一声が余りに要領を得ず、さとりは思わず眉を顰(ひそ)める。
だが、その言葉の意味を彼女はすぐに理解する。

「今日さ、昔の私に凄くそっくりな子を見付けたんだ」

 ヤマメのその言葉には、彼女らしい明るい快活さなど微塵も無かった。
暗く重い、陰鬱な響きが宿る。

「土蜘蛛だから嫌われて、土蜘蛛だから誰とも仲良くできないって考えていた……。地上にいた頃の私にそっくりなんだ」
「そう……」
「それで最後の勇気を振り絞ったと思うんだけどさ、結局上手くいかなかったみたいでさ……。すごく辛そうな顔してた……」
「それで……?」
「どうにかしてやりたい……」
「どうにかしてあげればいいじゃないですか」

 淡々と、平坦に。
古明地さとりは言葉を返していく。
けれど対照的に、ヤマメの声は震えていた。
全くもって彼女らしくない、驚くほどの弱々しさで。

「どうしてやればいいのか判らないんだ……」

 ぎゅっ、と。
抱きしめる力が少しだけ強くなる。

 ヤマメの胸中に、苦い思い出が去来する。
ただ土蜘蛛というだけで、ただその能力だけで、彼女は地上の居場所を失った。
偏見や迫害や差別なんていうものが、そこには純然と存在したのだ。

 そして行き着いたのが、地底の楽園、爪弾き者達の理想郷。
同じ穴の狢(むじな)である彼らにとって、ヤマメが土蜘蛛である事など関係なかった。
そこで彼女は漸く、土蜘蛛・黒谷ヤマメではなく、ただの黒谷ヤマメとして生きる事ができるようになっていたのだ。

 だが、あのキスメという少女は違った。
彼女はこの地底の楽園でも、未だに自分の居場所を見つけられずにいる。
彼女が何に囚われているかなど、心を読むことなど出来ないヤマメには判らない。

 でも、それでも。
黒谷ヤマメは、自らの内から湧き上がる衝動を抑え切れなかった。
だってあそこにいるのは、いつの日かの自分自身なのだから。

「どうしたらいいのかな、さとり……」

 背中越しに聞こえてくる友人の独白にも似た問いかけに、さとりは瞼を落とし思慮に耽る。
だが、それはほんの一瞬だった。
瞬きとも取れるような一瞬の思考で、彼女はただ一言、端的に答えを紡ぐ。

「もう答えは出ている癖に、何を躊躇っているんですか」

 ヤマメが一瞬、息を呑む音がさとりの耳朶に響く。
続けて聞こえてきたのは、ヤマメの苦笑混じりの声だった。

「言う事がきついなぁ、さとりんは……」
「言われて当然です。あとさとりんはやめてください」
「えー、いいじゃん。可愛いじゃん、さとりん」
「怒りますよ?」
「ごめんなさい……」

 さとりの声から熱が抜け落ちたのを感じ取って、ヤマメは素直に謝っておく事にした。
これ以上からかうと、間違いなく地獄を見る事になるのを悟るのだった。

 不意に、ヤマメは口元を柔らかく結ぶ。

「ありがとう、さとり……」
「お礼を言われるような事をした覚えはありませんよ」

 そっぽを向いたままのさとりに、ヤマメは苦笑で返す。
自身の過去の写し身を見ているようで、知らないうちに臆病に、そして腫れ物を触るようになっていた自分を彼女は笑う。
やるべき事など、きっといつもと変わらないのだろう。
その事実に気付けなかった自分を、彼女は笑う。

「それでも、ね。まあ、正直言えばまだ不安だけど……。本当にこれが正しい答えなのかな、ってさ」
「心が絡んだ問題に絶対の正解などありはしません。うだうだと考えるなど貴女らしくもないですよ」
「あははっ。やっぱり、さとりの所に来て正解だった」

 軽やかな鈴の音の笑い声をあげ、ヤマメはベッドから体を起こす。
ようやく彼女から解放されたさとりが振り返ると、そこには強い意志を宿した瞳があった。
一片の曇りもない。
迷いなど吹き飛んだのだろう。
そんなさとりの思考を肯定するかのように、ヤマメは力強い声で答える。

「行ってくる」

 ただ一言だけだった。
そのただ一言だけを告げ、彼女は振り返る事もせずにさとりの寝室を後にした。

 ヤマメの姿が見えなくなって、さとりは再び寝具に身を預ける。
さとりの羽のような体が、ゆっくりと沈んでゆく。
そして、ポツリと呟いた。

「眠気が飛んじゃいましたね……」

 背中から失われたぬくもりを補うように、彼女は今までぬくもりがあった場所へと身を埋める。
心臓の音は早鐘のように鳴り、頬はほんのりと朱が差している。
今までよく平静を装えたものだと彼女は内心自画自賛していた。
それだけ、ヤマメが鈍いというのもあるのだが。

「ずかずかと人の心に踏み込んでくる癖に、肝心なところでは臆病で鈍感なんですから……」

 枕を抱きしめながら、少女は拗ねたように言う。
とてもじゃないが、今夜は眠れそうにもなかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ヤマメが古井戸を訪れた翌日の事。
キスメは一人、黙々と新しい新居とでも呼ぶべき木桶の代替品を探していた。
仮住まいにしていた段ボールは、結局使い物にならなくなっていた。

「………………」

 小柄な彼女は一人、山のように積み上げられたがらくた達を品定めしてゆく。
だがその表情は何処か気も漫(そぞ)ろで、昨日(さくじつ)見せた真剣な表情は影も形もなかった。
その瞳は紅く腫れぼったくなっており、ヤマメが帰った後、彼女がどんな風に過ごしていたのかは想像に難くなかった。

 そして、そんな彼女の前を見つめる影が一つ。

 その影が目の前に現れた事に、最初キスメは気づかなかった。
突然目の前に影が差し、キスメが見上げるとそこには黒谷ヤマメの姿があった。

「今日は逃げないんだね。よかった」

 ホッとしたような安堵の笑みを浮かべる少女の姿に、キスメは一瞬呆けたような顔をする。
なぜ目の前に彼女がいるのか、キスメには理解出来なかった。
彼女にとって、二人を結ぶ糸は疾うの昔に途切れていた。

 しかしそんなキスメの感情など無視して、ヤマメは当たり前のように彼女へと近づく。

「……っ!」

 それは恥ずかしがり屋が故に他人の動作に鋭敏なキスメが、全く反応できない程あっという間の出来事だった。
屈み込むようにしていた彼女のことを見下ろし、ヤマメは真剣な眼差しを向けていた。

 その瞳に吸い込まれそうな錯覚。
同時に、キスメは心が押しつぶされそうな感覚にも囚われていた。

 何を言えば良いのか判らない。
言いたい事は色々有るはずだし、言わなければいけない事も沢山あった。
だが彼女の口は渇いたように張り付いて、あうあうと言葉にならない音を漏らすばかり。
仕舞いには目尻に涙を湛え、ぎゅっと目を閉じて下を俯いてしまっていた。

 だが、

「これ、キスメちゃんにプレゼントしようと思って作って来たんだ」

 そう言ってキスメの目の前に置かれたのは、真新しい丈夫そうな木桶だった。

「最初に会ったとき、木桶が壊れちゃってたでしょ? 新しい木桶の代わりを探すのに苦労していたみたいだったから、私が作ってきちゃった。こう見えても大工仕事は得意だからさ」

 得意げにヤマメは胸を張る。
その誇らしげな表情を見上げているうちに、自然とキスメの涙は止まっていた。
怖いとか、悲しいとか、情けないとか。
そんな感情全部を差し置いて、驚きの方が前面に出ていた。

 そして続けてヤマメの口から出てきた言葉は、ただでさえ驚いているキスメのことを、更に驚かせるものだった。

「んで、その代わりって訳じゃないんだけどさ……。一個だけお願いが有るんだ。あのさ……、私と友達になってくれないかな?」

 照れくさそうに頬をぽりぽりと掻きながら、黒谷ヤマメはそう言った。

 その一言を理解するのに、一体どれだけの時間が掛かっただろうか。
永遠とも思える一瞬。
現実には僅か数秒しか経っていない筈なのだろうが、キスメにはそれが有り得ないほどに長く感じられていた。

「あ、う……。あ、あの……ッ!」

 爆発しそうなほど顔を赤くして、張り付く喉を引き離し、潰れそうな心を如何にか奮い起こす。
いま此処で言わなければ、きっと一生後悔する。
それだけは嫌だった。
持てる限りのなけなしの勇気を奮う。

 けど。

「………………っ!」

 キスメの頬を、大粒の涙がボロボロと伝う。

 肝心な時にまで何も発せない役立たずな口。

 最後の最後に与えられたオマケのオマケみたいな大チャンス中の大チャンスでさえ物に出来ない。

 流れた涙は、恐怖でも、悲しみでもない。

 悔しさ。

 諦めたくない。

 諦めきれない。

 一途なまでに強い渇望の想いの筈なのに。

 目の前の少女は全てをお膳立てしてくれた筈なのに。

 それでも尚、彼女には足りなかった。
始まりの一歩を踏み出す、ほんの僅かな勇気が。
そのほんの僅かな勇気を――――――。

「大丈夫、キスメなら出来るよ……」

 そっと膝を折り、キスメと目線を合わせるようにして、ヤマメは不意に、彼女のことを優しく、されど力強く抱きしめた。
二人の頬が触れ合い、伝う涙の冷たさが、温かなぬくもりに塗り替えられていく。

 心地のよい静かな温かさ。
普段は見せない凛とした優しさと共に、ヤマメは更に言葉を紡ぐ。

「昔さ、どうしようもなく臆病な妖怪がいたんだ。そいつは自分が土蜘蛛ってだけで誰かと仲良くなる事を諦めててさ、地底に流れ着いて周りの妖怪から声をかけられるまで、自分から動き出そうとしやしなかった。徐々に徐々にいろんな奴と触れ合ううちに、漸く自分がただ逃げてるだけだって気づいたんだよ。それもいろんな奴に助けられて、さ……。それからそいつは『何々だから』って理由をつけて諦める事を止めたんだ。けどそいつは、今でも時たま思うんだよ。地上へと続く縦穴から覘く大要の輝きを見て、あそこへ自分も行ってみたい。だけど、怖いって……。土蜘蛛だからって理由で嫌われていた頃に逆戻りするんじゃないかって怯えて、ただただ恨めしそうに空を見上げるだけなんだ」

 それは語りかける物語のようであり、少女の独白のようでもあった。
言葉のさす人物が誰かなど、聞けば誰でもわかる事だ。
それでもまるで童話でも語り聞かせるかのように、尚もヤマメは語り続ける。

「それに比べて、とある釣瓶落としはどうだい? 誰にも気に掛けられず、誰とも触れ合わず、誰の助けも借りてなんかいやしないのに、自分自身で新しい世界を手に入れようともがいていたんだ。土蜘蛛にとっての縦穴の外、釣瓶落としにとっての井戸の外。どっちも二人にとって大差ないはずなのにさ。だから、――――――」

 一度言葉を区切り、ヤマメはその言葉に全てを載せる。
それはあるいは憧憬であり、あるいは尊敬であり、あるいは親愛であり、あるいは激励だった。

「キスメ、あんたなら出来る。いい加減、泣き顔とか勘弁なんだ。私はキスメの笑顔が見たい……」

 その言葉に、キスメは胸が高鳴るのを確かに感じた。
心臓は相変わらず早鐘のようだが、いままでのような張り裂けそうな痛みは無い。
涙は頬を伝っていたが、その涙はとても温かかった。
喉は震えていたが、それは確かに言葉となっていた。

「わたしも……。わたしも……!」

 永久凍土を溶かすかのように。
長い氷河期が終わりを告げるように。

「わたしもヤマメの笑顔が見たい……! ヤマメと友達になりたい……!」

 その言葉を聴くと同時、

「うん、喜んで! よろしくね、キスメ」

 其処に在ったのは、暗い地底に在って尚明るい、太陽のような笑顔だった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 互いに笑顔を向け合い、抱きしめ合う少女達。
そしてそんな二人の様子を見守る、三つの影。

「これにて一件落着! なのかねぇ……」

 腕を組んだ姿勢のまま、建物の陰から二人の様子を窺っていた星熊勇儀は、苦笑気味に視線を移す。
視線の先には親指の爪をガジガジと噛みながら、なにやらパルパル言っている水橋パルスィの姿が。
その姿は傍から見ても判るほどに負のオーラとでも評すべきものが噴出しており、どこぞの厄神が狂喜乱舞してトリプルアクセルを決めそうだ、と益体も無い感想を勇儀は抱く。

「あの子が望んでいたものを教えてあげたのは、あなたなのかしら?」

 不意に、パルスィは口許から爪を外して言う。
その視線は未だに抱き合う二人に釘付けだったが。

「いいえ、私は何も言ってないわよ。ただ彼女が勝手にやっただけ……」

 この場にいたもう一人の人物、古明地さとりは曖昧な笑みを浮かべて言う。
正確に言えばヤマメの背中を押したのは彼女だったが、ヤマメならいずれ遅かれ早かれ同じ事をしていただろう。
そんなさとりの考えを知ってか知らずか、パルスィの瞳から剣呑な輝きは失われ、代わりに羨望とも諦観ともつかない感情がそこには宿っていた。

「そう……。てっきり私はあなたが心を読んでヤマメに教えてあげていたのかと思ったわ」
「そんな事をしなくても、彼女にはあの子の心が判るのだと思いますよ」
「でしょうね……。まったく――――――妬ましいったらありゃしないわ」
「ええ、本当に……」

 そう言って見つめる二人の眼差しに映っていた光景は、きっと僅かに違っていた。
さとりの瞳には、とある姉妹の姿が重なって見えていたかもしれない。
今はまだ遠くとも、近い将来そうなる事を望むが故の幻影が。

 だが、二人に共通したものもある。
妬ましい、などと言いながらも、その表情はひどく穏やかで、その瞳はとても優しい色をしていて、そしてそれでも僅かに、妬いている――――――。

「さて、そんじゃアタシらも行こうかね、ご両人」
「へ? きゃあ!?」
「ちょ、ちょっと! なに人のことをいきなり抱えあげてるのよアンタは!」

 そんな彼女達の様子に勇儀は満足そうに笑みを深くすると、突然二人のことを抱(だ)き抱(かか)える。
じたばたと暴れる二人の少女だったが、勇儀はまるで気に止めた様子もなく、そのまま旧都の方へと歩き出していた。

「フラれた者同士、ぱぁっと飲み明かそうじゃないか。二人とも、今日は朝まで付き合うよ」
「フラれたって何ですか! それと貴女が私達に付き合うのではなくて、私達が貴女に付き合うの間違いでしょ!」
「放しなさい! アンタなんかのペースに付き合えるわけ無いでしょ! あとフラれたってなによ!!」
「いいからいいから! 駄目になるまで付き合いな!」

「「この鬼ぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!」」

 あっはっは! と豪快な笑い声が、少女二人の悲鳴を掻き消して響く。
余談だが、実は勇儀にキスメを誘ってくるように予め言われていたヤマメが『怪力乱心』に辿り着いた頃には、既に屍が二つ転がっていたそうである。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

『終章 私が桶に入る理由』

 燦々と降り注ぐ陽光。
見上げれば際限なく広がる蒼穹に、ヤマメは意味もなく手を伸ばしてみる。
広げた掌をギュッと握り締め、恥ずかしさを隠すように、そのままポリポリと頬を掻く。

 そして、ふと呟く。

「いよいよ、か……」

 吹き抜ける風が、彼女の山吹色の髪を揺らす。
つい最近まで地底に籠もっていた自分が、まさか博礼神社の境内にいるなど、彼女自身が一番驚いていた。

 きっかけは地霊殿での怨霊騒ぎだった。
さとりがペットの管理をペットに任せるという杜撰な管理の結果起きたような事件ではあったが、実際はキスメ歓迎会で勇儀の酒に潰されたさとりが暫く動けなかったと言うのが真相であったりもするのだが、それはまた別の話である。

 ともかくあの事件以降、ヤマメの中で外の世界への憧憬はますます強まっていた。
地上から来た暴力巫女や強盗魔法使いなどに辛酸を味わわされたのは事実だったが、事件後の宴会で少なくとも、外の世界がそれほど恐れるものでもないと実感できていた。
地上の妖怪も地底の妖怪も、妖怪よりよっぽど妖怪じみた人間達も入り乱れての賑やかな宴会。
今でもはっきりと目に浮かぶ光景を目の前の景色に映し出しながら、ヤマメは賽銭箱へと賽銭を投げ入れる。
どうやら巫女は留守中のようだったが、まあ、これぐらいの感謝はしてやってもいいだろう、と。

 しかし一番の大きなきっかけと言えば――――――。

「ごめんヤマメ。待った?」

 背後から聞こえてきた声に、ヤマメは振り返る。
そこには桶に入った翠色の髪の少女がいた。

「ううん。私もいま来たとこだよ」

 自分で言って、まるでデートの前の台詞みたいだ、とヤマメは苦笑しそうになる。
実際には今日という日が待ち遠しくて一時間も前から境内でスタンバっていたのだから尚更である。
そしてそんなヤマメを見て、キスメは可笑しそうに小さくクスクスと笑う。

「そっか。ヤマメのことだから、てっきり一時間前から待ってるかと思った」
「見てたの!?」
「ううん。そうかな、って思っただけ。でも本当に待ってたんだ……」
「うぐっ、しまった……」

 どうやらヤマメの考えはキスメには筒抜けのようで、彼女と仲良くなって以降、ヤマメはどうにも頭が上がらないでいた。
キスメ自身もあの一件以降は別人のようになっており、相変わらず物静かでは有るものの、自分の考えや主張を隠さず真っ直ぐに口にするようになっていた。
彼女もまた、何か殻を破ったのだろう。

「けど、本当に良いの? 私の旅なんかに付いて来て」
「うん。ヤマメがいる所が、私のいる所だから……」
「そ、そっか……」
「どうしたの、ヤマメ?」
「いや、なんでもないよ……」

 まあ、少しばかりどストレートになり過ぎたきらいは有るが。
おかげさまで、最近ではヤマメの方が頬を染めて照れている事の方が多くなってきていた。
これでは以前と関係が逆である。

「それより……」

 誤魔化すように咳払いをひとつ。
ヤマメは襟を正すようにして、真剣な眼差しをキスメへと向ける。

「キスメはいつになったら桶に隠れないで済むのかね」
「ダメかな? 私は桶の中が好きなんだけど……」
「いやダメって事はないけどさ。前は仕方なく入ってるって言ってたじゃん。何? なんか桶の中が気に入るような理由でも出来たの?」
「この桶、ヤマメがくれた宝物だから……」
「あー……」

 真顔で臆面もなく言うキスメの姿に、薮蛇という言葉がヤマメの脳裏を過ぎる。
完全に弾丸ライナーで打ち返され、彼女は掌で目を覆うしかない。
『キスメは相当な天然たらしだ』という感想を抱く彼女だったが、さとりとパルスィが聞けば『お前が言うな』と言う事は確実であろう。

「そんなことより……。そろそろ行こう、ヤマメ」
「はぁ……。うん、了解!」

 溜息一つ。
だがキスメの言葉に、ヤマメはすぐに応える。
気持ちを切り替えるかのように、心持ち声を大きくして。

 そうして二人は、神社の階段を降りていく。
相も変らぬ、明るい笑顔のままで。


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