クマラスワミ報告
解説 【荒井信一】
目次
解説
1994年の国連人権委員会は、スリランカのラディカ・クマラスワミ(Radhika
Coomara-swamy)氏を「女性への暴力に関する特別報告者」に任命した。同氏は南アジアにおける民族的な迫害をはじめとするアジアにおける女性と法律の問題についての優れた研究で有名な法律家である。
人権委員会が女性にたいする暴力の問題を取り上げた直接の背景としては、冷戦構造のもとでのさまざまな人権抑圧が表面化したことと、開発が急速に進行した発展途上国(地域)において直接的な、あるいは社会的な女性にたいする人権侵害が頻発し、明かるみに出されたこと、昨年の国連世界女性会議に結集したような女性の抑圧からの解放と地位向上を求める運動が世界的に高まったこと等をあげることができる。しかしとくに重要であったのは、旧ユーゴスラヴィアにおける内戦の過程で行われた「民族浄化」を名目とする女性にたいする強姦や強制妊娠などと、第二次世界大戦中に日本軍により組織的に行われた「従軍慰安婦」にたいする被害回復の問題が急速に表面化したことであった。
旧ユーゴの問題については、国連安保理事会がこれを人道にたいする罪と認定し、すでに1993年5月25日の安保理事会決議(827号)で違反責任者の訴追のための国際裁判所規定を採択し、我が国でも同年10月8日外務省告示485号として公布されている。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの内戦の沈静化にともない同裁判所の活動が本格化しつつある模様は、日々の新聞などで報じられている通りである。裁判所規定では、人道にたいする罪として文民にたいして直接行われた九つの犯罪をあげているが、そのうちには奴隷の状態に置くこと、拘禁、強姦が含まれている。民間人にたいする国際人道法違反の行為(戦争犯罪)としては、これらが「慰安婦」の場合にも共通するものであることはいうまでもない。
クマラスワミ氏は1995年に提出した予備報告書で、「慰安婦」問題について「第二次大戦後約50年が経過した。しかしこの問題は過去の問題ではなく、今日の問題とみなされるべきである。それは武力紛争時の組織的強姦及び性的奴隷制を犯したものの訴追のために、国際レベルで法的先例を確立するであろう決定的な問題である。象徴的行為としての賠償は、武力紛争時に犯された暴力の被害女性のために補償による救済への途を開くであろう」と書いた。明らかに旧ユーゴと戦時の日本における二つの問題の関連を強く意識し、人権を基礎とする平和秩序をいかにつくりあげてゆくかという今日的観点からその解決を探ろうとする意欲を示したのであった。
ここに訳出する最終報告書は、クマラスワミ氏が1996年1月4日付で人権委員会に提出したものであるが、上に述べたような観点は一層鮮明に貫かれているように思える。それは報告書のなかで「勧告は…グローバルなレベルで女性にたいする暴力の克服を目指すもっと一般的な性格のものになるかもしれない」と記している点にも現れている(45パラグラフ)。またこれまで「慰安婦」問題について引き合いに出されることのすくなかった戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーブ条約(第四条約)に、とくに注意を払っていることも重要であろう(96、98パラグラフ)。
この報告書には「戦時における軍事的性奴隷制問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」というサブタイトルがついている。クマラスワミ氏の三国訪問(予定されたピョンヤン訪問は実現しなかった)は、1995年7月に行われた。氏は調査に際し心掛けたことの一つが、元「慰安婦」の要求を明確にすることにあったとし(46パラグラフ)、また被害女性たちが国際社会と日本政府の耳に届くことを期待している具体的要求を問題解決に詳細に反映させようと考えたと述べている(61パラグラフ)。これらの言葉は、日本政府の提案した「女性のためのアジア平和国民基金」(クマラスワミ氏が調査した当時は「友好基金」と仮称されており、報告書にもその名前で登場する)との関連で書かれたものであるが、報告書のもう一つの重要な観点――被害者からの視点を物語っているように思える。
報告書は一つの章を、被害女性たちの生の証言の要約に当てている。クマラスワミ氏は証言を聞いたことの重要性について、「そのことによって当時一般的であった状況のイメージを作り上げることが可能となった」としている(53パラグラフ)。
証言が50年以上の時間的距離を経た人間の記憶を通じての過去の再現であること、しかも思い出したくない過去に起因する心の傷が現在でも証言者の心を強く動かしていることなどを考えると、証言が過去そのままの再現となることは考えにくい。それはすでに当初から心に受けた印象の強弱に従い、はっきりと焼き付けられた部分もあれば、脱落したり曖昧になった部分もあったはずである。また長い記憶の歴史のなかで混乱や混同を経験し、変形されてもいよう。この変形――一種のデフォルメは事実そのものを表していないが、しかしそれは現在にいたるまで持続的に被害を受け続けてきた被害者たちの生(せい)の真実を、むしろリアルに表現するものである。被害者たちの心に映じかつ残っているイメージにより、我々は、被害者をかつて苦しめまた現在までも苦しめている軍事的性奴隷制の真実に初めて接近できるのである。問題が被害者たちの被害回復であるとすれば、やはり被害者たちの認識を決定し、要求の基礎となっている彼女たちの心の真実から出発する以外にはないのである。クマラスワミ氏が「当時一般的であった状況のイメージを作り上げることが可能となった」と述べているのは、おそらくこのような意味であって、被害者からの視点を重く見る姿勢がここにも示されているように思う。
しかしイメージは、被害者からみた歴史の真実を物語るものであっても、そのままでは本来何がおこったかを明らかにするためには不十分であることはいうまでもない。証言にしても、それを歴史の資料として活用するためには文書資料との付き合わせや、厳密な吟味、批判や証言者との再対話などの手続きによって事実を確定する努力が必要である。とくに日本政府による公文書の公開が不十分である現状では、「慰安婦」問題の実態を裏付けることが困難であることは報告書で指摘されている通りである(43パラグラフ)。被害回復のための前提としてわれわれが被害者の心の真実から出発して真相――とくに加害と被害の実態を解明することが何よりも必要であろうが、それはむしろ本報告書によって日本の政府や国会に課せられた課題とすべきであろう。
本報告書のメリットは、国連としての最初の公式調査の結果に基づき、被害者の立場を尊重しつつ軍事的性奴隷(「慰安婦」)問題の解決方法について勧告をおこなった点にある。各国政府からの事情聴取以外に事実調査も、そのような立場から被害者の聞き取りを中心に行われた。その結果得られた「一般的なイメージ」が「歴史的背景」の章にまとめられていると思われるが、率直にいって確実に事実誤認と思われる箇所がいくつかある。その訂正は早急にクマラスワミ氏によっておこなわれるものと期待しているが、その主な部分は本訳書に訳注として示してある(ただし明白な誤りについては、断りなく訂正した)。誤りの主な原因については、本資料センターの吉見義明氏が次のように指摘している。
「誤りの原因について述べますと、George Hicks,The Comfort Womenに依拠した点が問題です。この本は、誤りの大変多い著書ですので、notesから削除したほうがいいと思います。Hicks氏の誤りの一例をあげると、彼は吉田清治氏の経歴を、Tokyo
University卒で、のちWar Ministry administrative officerになったと記しています(28ページ)。しかし、実際には、彼は東大卒ではなく、東京にある大学を卒業したものです(吉田の本による)。また、かれはadministrative
officerではなく、上海派遣軍の下級の嘱託part-time emproyeeに過ぎません。またHicks氏が引用している吉田氏の著書の「慰安婦」徴集の部分は、多くの疑問が出されているにもかかわらず、吉田氏は反論していません。…吉田氏が反論することは困難だと思われます。吉田氏の本に依拠しなくても、強制の事実は証明することができる(誰が強制したかを別にすれば、日本政府も徴集時や慰安所での強制を認めている)ので、吉田氏に関連する部分は必ず削除することをお勧めします」(クマラスワミ氏宛の書簡)。
最後に、「第二次世界大戦」という用語について触れておく。大戦の終結が1945年であることには異論はないが、大戦がいつ始まったかについては幾つかの考え方がある。ヨーロッパではドイツがポーランドを攻撃した1939年を始期とするのが定説であるが、アジアでは「満州事変」の始まった1931年、日中戦争が全面化した1937年、アジアとヨーロッパの戦争が拡大し一体化した1941年などがそれぞれ始期として主張されている。本報告書では1941年以後を指していると思われるが、大戦の起源として中国侵略を重く見る立場から1931年を始期とする考え方も十分成り立つし、この報告書でも1932年から記述をはじめている。さらにニュールンベルク裁判(1945〜46年)で実体化される人道にたいする罪は、戦争前にさかのぼって非人道的な戦争犯罪をとらえているので、なおさら形式的な大戦の始期にこだわる必要はない。
いうまでもなくこの報告書の核心部分は、最後の勧告のところにある。その冒頭で、日本政府が国際法違反の法的責任を受け入れることを求めている。日本政府は平和国民基金等で道徳的責任を果たしつつあると主張しているが、その点に一定の評価をあたえながらも、この報告の根底には、法的責任を果たさなければ道徳的責任も果たしたことにならないという考え方があるように思われる。かつて来日した国際法律家委員会(ICJ)のドルゴポール氏はそのことを簡潔に、法的責任を認めずに道徳的責任を果たそうとすることは不道徳なことになると評した。日本政府が一刻も早くこの勧告を受け入れ、国際社会の信頼される一員となる途を選ぶことを強く要望したい。
(荒井信一)
国連・経済社会理事会
配布・一般
(E■CN.4■1996■53■Add.1)
1996年1月4日(出版部受領日)
人権委員会
第52会期
暫定議題9(a)
委員会のプログラム及び活動方法の問題を含む人権と基本的自由の一層の促進及び奨励
人権と基本的自由をより効果的に享有するための国連制度内の代替的解決法並びに方法及び手段
追加文書
人権委員会決議1994/45による、女性に対する暴力とその原因及び結果に関する特別報告者〈ラディカ・クマラスワミ〉による報告書
戦時における軍事的性奴隷制問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書
序文
1.女性に対する暴力の特別報告者は、大韓民国と日本政府の招待で、女性に対する暴力とその原因及び結果のより広範な枠組みの中で、戦時の軍事的性奴隷制問題について高度の研究を行うため、1995年7月18日から22日の間ソウルを、1995年7月22日から27日の間東京をそれぞれ訪問した。朝鮮民主主義人民共和国の提案に基づき、その招待で、特別報告者は、同じ問題について1995年7月15日から18日の間平壌訪問をも予定していた。しかし、1995年7月25日付け書簡で同政府に連絡した通り、特別報告者は、乗り継ぎ航空便の遅延のため、朝鮮民主主義人民共和国を訪問できなかったことについて心からの謝罪と深甚なる遺憾の意を表明した。
2.同書簡で、特別報告者は、朝鮮民主主義人民共和国外務大臣金栄南(キム・ヨンナム)閣下に対して更に保証した通り、1995年7月15日から18日の間平壌を予定通り訪問した人権センターの代表、並びに特別報告者にかわって受領され、彼女に送付された詳細なすべての情報、資料及び文書を完全に信頼している。また特別報告者は、双方にとって都合のよいときに朝鮮民主主義人民共和国を訪問する意志があることも表明した。この点で、特別報告者は、朝鮮民主主義人民共和国政府の柔軟性と協力に感謝しているのであるが、同国政府は、1995年8月16日付けの特別報告者宛の書簡で、同国政府としては、朝鮮民主主義人民共和国を訪問した人権センターの代表に渡された情報、資料及び文書を、特別報告者が報告書の準備に際し、注意深く研究し、考慮に入れることを望むとした。
3.また、特別報告者は、大韓民国および日本政府によって与えられた協力と援助にも感謝の念を表明したい。同国政府は、特別報告者が客観的かつ公平に人権委員会に対して報告するに必要なすべての情報と文書を入手するために、関係分野の人々と討議できるように取りはからってくれた。
4.訪問に際し、政府代表および非政府組織代表との協議を通じて、高度の討議ができ、また戦時の軍事的性奴隷制の女性被害者と面会できたことで、特別報告者は、被害者の要求と当該諸政府の立場を深く理解できた。またそれらを通じて、特別報告者は、いかなる問題が未解決であって、さらに当面の問題事項についていかなる措置が今取られつつあるのかを、よく理解できた。
5.特別報告者は、この報告書の主題の論議が、朝鮮半島の被害者のみならず、元「慰安婦」被害者の全ケースに適用されるべきことを強調したい。特別報告者は、財政的・時間的制約のために、すべての関係国の生存被害者を訪問できなかったことを残念に思う。
■定義
6.特別報告者は、戦時、軍によって、また軍のために、性的サービスを与えることを強制された女性の事件を軍事的性奴隷制の慣行ととらえていることをこの報告書の冒頭で明らかにしておきたい。
7.この点で、特別報告者は、東京訪問中に表明された日本政府の立場を知悉しているが、日本政府は、1926年の奴隷条約第1条(1)に従って、「所有権に帰属する権限の一部又は全部を行使されている人の地位又は状態」と定義される「奴隷制」という用語を、現行国際法の条項の下で「慰安婦」事件に適用するのは、誤りであるとしている。
8.しかし、特別報告者は、「慰安婦」の慣行は、関連国際人権機関・制度によって採用されているところによれば、性奴隷制及び奴隷様慣行の明白な事例ととらえられるべきであるとの意見を持っている。この関係で、特別報告者は、差別防止少数者保護小委員会が、1993年8月15日の決議1993/24で、現代奴隷制部会から送付された戦時の女性の性的搾取及びその他の強制労働の形態に関する情報に留意し、戦時の組織的強姦、性奴隷制及び奴隷様慣行に関する高度の研究を行うよう、同小委員会の委員の一人に依頼したことを強調したい。さらに同小委員会は同委員に、重大人権侵害被害者の原状回復、補償及びリハビリテーションへの権利に関する特別報告者に提出された情報
――「慰安婦」に関するものを含むが、それをこの研究の準備に際して考慮に入れるよう要請した。
9.さらに、特別報告者は、現代奴隷制部会が、その第20会期で、「第二次大戦中の女性の性奴隷」問題に関して日本政府から受け取った情報を歓迎し、かつ日本政府が行政的審査会を設置することによって「奴隷のような処遇」の如き慣行を解決するよう勧告したことに留意する。
10.最後に用語上の問題で、現代奴隷制部会の委員並びにNGO代表及び学者によって表明されたものだが、女性被害者は、戦時の強制売春及び性的隷従と虐待の期間中、連日の度重なる強姦と激しい身体的虐待に耐えなければならなかったのであって、「慰安婦」という言葉がこのような被害を少しも反映していないという見解に、特別報告者は完全に同意する。したがって、特別報告者は、「軍事的性奴隷」という言葉の方が、はるかに正確かつ適切な用語であると確信する。
■歴史的背景
A.概観
11.日本陸軍のために戦地で売春婦を提供する「慰安所」の開設は、上海における日華紛争にともない早くも1932年に始まった。これはいわゆる「慰安婦」の利用が広まり普通の現象となるほぼ10年前のことであった。その現象が、第二次世界大戦が終わるまでに日本軍の支配した東アジア全域のものとなったことには疑いないからである。最初の軍事的性奴隷は日本の北九州地域の女性たちで、陸軍の指揮系統の一人の要請で長崎県知事によって送られた。/訳注1慰安所制度を公式に設置したことの理由付けは、そのように制度化され、それゆえに管理された売春サーヴィスは、陸軍の占領地から報告される強姦の件数を低下させるであろうということであった。
12.1937年に日本の皇軍が暴力的結果を伴いつつ南京を占領したとき、日本の当事者たちは軍の規律と士気の状態について考えざるをえなくなった。1932年当初に導入されたような慰安所計画が復活した。上海の方面軍は業界とのコネを利用して、1937年末までに軍の性的サーヴィスのために出来る限り多くの女性を手に入れた。
13.これらの女性や少女たちは、上海と南京のあいだにあった軍直営の慰安所で使われた。この慰安所は後の時期の慰安所の原型となり、利用規則とともにその写真が残されている。軍による慰安所の直営は、この現象がもっと広まるとともにより安定してきた環境では、慰安所の基本の形とならなくなった。慰安所を経営し所内の業務を引き受けたがっている民間業者が沢山いた。かれらは陸軍によって軍人に準じる身分と階級をあたえられた。軍は輸送と慰安所の全般的な監督についての責任をもちつづけたし、衛生や全体の管理は軍の責任であった。
14.戦争が続き東アジア各地を拠点とする日本兵の数が増えるにつれて、軍事的性奴隷にたいする需要も増大した。そこで徴集のための新しい方法がつくりだされた。そのうちには東アジアの多くの地域、とくに朝鮮における詐欺と暴力の頻繁な利用が含まれていた。名乗り出たおおくの朝鮮人「慰安婦」の証言は、強制や騙しが頻繁に用いられたことを明らかにしている。(大部分は朝鮮人である)かなりの数の被害女性たちは証言のなかで、自分たちの徴集に責任のあるさまざまな業者や現地の協力者が用いた詐欺と甘言について語っている。/1
15.1932年に国家総動員法が制定されたが、戦争末期の数年までは完全に実施されなかった。日本政府が同法を強化するにつれ男も女も戦争努力に貢献することを要求された。このこととの関係で女子挺身隊が設立されたが、それは表向きは工場で働いたり、あるいはその他の日本軍を補助する戦争関連業務にあたる女性たちを手に入れるためであった。しかしそれを口実としておおくの女性たちが騙されて軍事的性奴隷にされているとして、挺身隊と売春との結び付きがすぐに噂となった。
16.最後に日本人は軍の増大する需要を満たすため、暴力と露骨な強制に訴えてよりおおくの女性を手に入れることができた。数おおくの被害女性たちが語っているのは家族に加えられた暴力である。家族は娘の連行や、ときには暴力でつれ去られるまえに両親の目の前でおこなわれた強姦を阻止しようとした。ヨ・ボクシル(YoBokSil)の事例調査では、彼女はおおくの少女のように家からつれ去られたが、其の際誘拐に抵抗をこころみたため父親が殴られた。/2
17.慰安所の地理的な所在地は戦争の進行とともに広がったように思われる。日本軍が駐屯した所にはどこにでも慰安所があったようである。その一方では、公娼の存在にもかかわらず日本の内地でさえ「慰安婦」の利用が進み、既存の施設を利用できない人々のためにいくつかの慰安所が開設された。
18.慰安所が中国、台湾、ボルネオ、フィリピン、太平洋諸島のおおく、シンガポール、マライ、ビルマおよびインドネシアに存在したことは、おおくの資料から分かる。慰安所の活動が行われていた当時の記憶がある人、なにかの形でこの制度の運営に関わっていた親類や知人があった人など、さまざまな人々の証言が記録されている。/3
19.日本帝国のさまざまな場所にあった多様な慰安所規則類の記録といっしょに、いろいろな状況下での慰安所や「慰安婦」自身の写真さえ保存されている。徴集方法の証拠として役立つ文書記録は僅かであるが、この制度の運営の実態は時を経て残った記録類により広範に立証できる。日本の軍部は売春システムの詳細を細かく記録したが、それをたんなる一つの遊興施設とみなしていたようにみえる。上海、日本の沖縄その他の地方、中国およびフィリピンにあった慰安所の規則はまだ残っており、なかでも衛生規則、利用時間、避妊、女性にたいする料金およびアルコールと武器の禁止を細かく規定している。
20.これらの規則類は、戦後に残された文書のうちでももっとも罪深いものである。それらは日本軍がどの程度まで慰安所にたいし直接の責任があり、その組織のあらゆる側面と深く関わっていたかを疑いの余地なく明らかにしている。そればかりでなく、慰安所がいかにして合法化され制度化されたかをも明白に示している。「慰安婦」が適正に扱われるようにすることにおおくの注意がはらわれたように見える。アルコールと刀剣類の禁止、利用時間の規定、合理的な料金、その他礼儀作法または公正な取り扱いらしいものを課そうとする試みは、実際に行われたことの野蛮さ、残酷さと鋭い対照をなしている。このことは軍事的性奴隷制のシステムの異常な非人間的性格を照らし出すのに役立つだけである。このシステムのなかで、筆舌に尽くしがたいほど心を傷つけられることもおおい状況の下におかれながら、大勢の女性たちが「売春」に身をゆだねつづけることを強制されたのである。
21.戦争の終結も、引き続き「慰安婦」として使役されていた女性の大部分にとっては救いとならなかった。おおくの人が退却中の日本軍によって殺されたか、もっとおおかったのはただ運命に任せて遺棄されたからであった。ミクロネシアの事例では、一夜で70人の「慰安婦」が日本軍に殺されたが、それは女は邪魔だと考えたり、前進するアメリカ軍の手に落ちたら面倒なことになると思ったためであった。/4
22.最前線にいた被害女性のおおくが、兵隊といっしょに特攻をふくむ軍の作戦に加わることを強制された。しかし一番おおかったのは、故郷から遠く離れ、「敵」の手でどんな目にあうか分からない所で自活するように放置されたことであった。自分の居場所すら分からず、ほとんど金を持たず無一文のものもおおかった。証言によれば「稼いだ」金を少しでも受け取ったことのある女性はごく僅かだったからである。マニラの場合のように撤退した女性のうちからは、悲惨な状況と食料不足による死者がおおくでた。
B.徴集
23.第二次世界大戦の直前及び戦争中における軍事的性奴隷の徴集について説明を書こうとする際、もっとも問題を感じる側面は、実際に徴集がおこなわれたプロセスに関して、残存しあるいは公開されている公文書が欠けていることである。「慰安婦」の徴集に関する証拠のほとんど全てが、被害者自身の証言から得られている。このことは、おおくの人が被害者の証言を秘話の類とし、あるいは本来私的で、したがって民間が運営する売春制度である事柄に政府をまきこむための創作とまでいって退けることを容易にしてきた。それでも徴集方法や、各レベルで軍と政府が明白に関与していたことについての、東南アジアのきわめて多様な地域の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない。あれほど多くの女性たちが、それぞれの目的のために公的関与の範囲についてそのように似通った話を創作できるとはまったく考えられない。
24.日本の直接管理下にある最初の慰安所は1932年に上海におかれたが、その開設にたいする公的関与については第一級の資料がある。上海戦の指揮者のひとり岡村寧次中将(上海派遣軍参謀副長)は軍慰安所の最初の発案者であったことを、回想記のなかで告白している。/5日本軍による強姦がきわめて高率で頻発し、対策として長崎県知事により大勢の女性が現地に送られた。/訳注2彼女たちが日本から送られたという事実は軍のみならず内務省をもまきこむ。内務省は知事と、後に軍に協力して女性の強制徴集の際に重大な役割を果たすことになる警察とを支配していた。
25.1937年の南京事件の結果、軍規を改善しなければならないことが日本人に明らかとなり、「慰安所設置」が復活した。北九州のおなじ地域に業者が送られた。売春宿からの自発的応募が不十分であったので、彼らは表向きは軍の料理人や洗濯婦という給料のよい仕事を世話するといって土地の少女たちを騙す手にでた。そういう仕事の代わりに彼女たちは上海と南京のあいだにあった慰安所で軍事的性奴隷とし働かされ、このセンターが将来の慰安所の原型となった。/6
26.戦争の後期になると、軍は慰安所の運営と業務にたいする責任の大部分を民間の業者に譲りわたした。軍の代理人が業者に接近したことも、業者がすすんで軍に許可を求めたこともある。軍が売春業を経営するのは適当でないと考えられたし、民間業者の施設にしたほうが軍隊にはもっと「ふさわしい」と思われた。しかしどの程度まで民間人が関わったか、また正確にはだれが慰安所の開設に着手した責任があったかは、地域によって異なったが、徴集の実行はますます政府の側の責任となった。しかしごく最近まで日本の当局者が、強制徴集と欺瞞におけるかれらの役割、または徴集のプロセスでの実際上の責任を全く認めようとしなかったために、軍事的性奴隷として使役された女性たちの獲得のプロセスに関する情報は大部分が被害者自身の口から得られたものである。
27.しかし前述のようにこの情報は元「慰安婦」の話のなかに沢山あり、無理なく明確な像がえられる。徴集について三つのタイプが識別できる。すでに娼婦であった女性と少女の自発的応募、料理屋のあるいは軍の料理人または洗濯婦として給料のよい仕事で女性を騙す、および最後に日本の支配下にある国々での大規模な強制と奴隷狩に匹敵する女性の暴力的連行。/7
28.より多くの女性を求めて軍のために活動していた民間業者たちは、日本人と協力して活動する朝鮮警察のメンバーと同様に、村にやってきて給料のよい仕事の約束をして少女たちを騙すことがあった。あるいは1942年に先立つ数年間は、朝鮮警察が村に来て
「女子挺身隊」を募集した。このことは徴集を日本の当局により是認された公的なものとし、一定程度の強制を意味するものともした。もし「挺身隊」として推薦された少女がそれを断った場合には、憲兵隊または軍警察がその理由を取り調べた。実際に「女子挺身隊」は日本軍に、上記のように偽りの口実で「戦争努力に参加する」よう地方の少女たちに圧力を加えるため地方の朝鮮人業者と警察を利用する機会をあたえた。/8
29.一層おおくの女性が必要になった場合には、日本軍は暴力やむきだしの武力、狩り出しに訴えた。そのうちには娘の誘拐を阻止しようとした家族の殺害が含まれていた。国家総動員法が強化されたことで、これらの手段をとることは容易になった。この法律は1938年に公布されたが、1942年までは朝鮮人の強制徴集に適用されなかった。/9おおくの軍「慰安婦」たちの証言は、徴集に際して広範に暴力と強制が用いられたことを証明している。さらに戦時中におこなわれた狩り出しの実行者であった吉田清治は、著書のなかで、国家総動員法の一部として労務報国会のもとで自ら奴隷狩に加わり、その他の朝鮮人とともに1000人もの女性たちを「慰安婦」任務のために獲得したと告白している。/10
30.文書資料はまた、地方住民全体の統制を保つうえで家族を利用できるので、役人や地主たちの娘は徴集を免れたと述べている。村々から集められた少女たちはたいへん若く、大部分が14歳から18歳のあいだであった。少女たちを獲得するために学校の組織が利用された。現在、軍「慰安婦」問題に関心を高めるために活動している尹貞玉(ユン・ジョンオク)教授は、幸いにも両親の配慮によって学校から連れ出されるのを免れた。しかし教授は、そのようなやり方で性病に冒されていない、就学年齢の処女が徴集された事実を証言している。/11
31.おおくの少女たちは、若く世間知らずであったために、よい就職を世話するという申し出を疑いもせず、強制連行に抵抗できなかった。そしておおくの場合、売春とか性行為について全く何も知らなかった。徴集の実行に信頼する村の巡査、役場がしばしば関わっていたという事実は、彼女たちを一層無防備にし無力にした。/訳注3そのうえ売春にともなう汚名は、戦争が終わらないうちに苦役から帰ることのできた女性たちがその経験を話し、それによって他の少女たちに危険を警告する道を絶った。女性被害者のほとんどが、ぞっとする経験を隠し社会に再復帰することに懸命だったのである。
C.「慰安所」における状態
32.元「慰安婦」たちの証言によれば、彼女たちが日本軍兵士に奉仕するため要求された条件はほとんど一貫して恐るべきものであった。宿泊設備や全般的な待遇は場所によ
ってまちまちであったが、おかれた環境の悲惨さと残酷さについてはほとんど全ての女性被害者が証言している。慰安所そのものは場所により、進撃中に日本軍が接収した建物であったり、「慰安婦」の宿泊専用に軍が作った間に合わせの建物であったりした。前線地帯ではテントまたは一時しのぎの木造の掘っ建て小屋がしばしば慰安所になった。
33.敷地は鉄条網で囲われ、厳重に警護され巡視されていた。「慰安婦」の行動は細かく監視され制限されていた。女性たちのおおくは宿舎を離れることを許されなかったと語っている。毎朝決められた時間に外を散歩することを許されたものもある。調髪のためとか、映画をみるために臨時外出を認められたことを覚えているものもいる。しかし、実質的な行動の自由ははっきりと制限されており、逃亡はほとんど如何なるときでも不可能であった。
34.慰安所自体は、通常一階か二階の建物で、食堂または受付が下にあった。女性たちの個室は裏側か二階にあるのが普通で、たいていは狭く窮屈な間仕切りから成っていた。僅か6フィートか8フィートと小さいことも稀でなく、ベッド一つがやっと置ける部屋であった。そのような状況のなかで「慰安婦」は一日に10人から30人もの男を相手とすることを求められた。いくつかの前線地帯では女性たちは床のうえの布団で眠り、おそろしい寒さと湿気に晒されなければならなかった。個室はおおくの場合一枚の畳か、床まで届かない筵で仕切られているだけであったので、物音は部屋から部屋へ筒抜けとなった。
35.典型的な慰安所は民間の業者が管理し、女性たちの世話をする日本人または時により朝鮮人の女性が一人いることがおおかった。軍医が衛生検査をおこなったが、「慰安婦」のおおくの記憶では、これらの定期検査は性病の伝染を予防するためのもので、兵隊が女たちに負わせた煙草の押し焦げ、打ち傷、銃剣による刺傷や骨折でさえもほとんど注意を払われなかった。そのうえ女たちの休み時間はほとんどなかった。現在残っている規則のおおくで規定されている自由時間も、居続けようとしたり規定外の時間に来たがる将校たちによりしばしば無視された。何日にもわたり女たちは次にやってくる男を迎える前に身を清めるのがやっとという有り様であった。
36.食べ物と衣類は陸軍により支給された。しかしながい間、食べ物はいつも不足していたと不満を漏らす元「慰安婦」が何人もいる。ほとんどすべての場合に女たちは「奉仕」にたいし支払いを受け、料金の代わりにチケットを集めることになっていたが、戦争が終わった時になんらかの「稼ぎ」を持っていた者はごく僅かであった。こうして戦争が終われば自分や家族が自立するのに十分な貯えを持てるかもしれないというほんのささやかな慰めでさえ、日本軍の敗退後には無意味なものとなった。
37.奴隷的状況の苛酷さと残虐性は、性的虐待の根強く永続的なトラウマ(精神的外傷)にくわえて、多くの軍事的性奴隷の証言のうちによく現れている。彼女たちはいかなる人格的自由も持たず、兵士からは暴力で残忍に、慰安所経営者と軍医からは無関心に扱われた。前線に近いこともまれでなかったため、彼女たちは敵襲や爆撃、死の脅威にさらされた。おなじ状況は慰安所の常連の兵隊たちを今まで以上に残忍にし攻撃的にした。
38.そのうえ病気と妊娠にたいする恐怖がいつもあった。実際「慰安婦」の大多数はある程度性病にかかっていたように思われる。病気の間は回復のための休みをいくらか与えられたが、それ以外はいつでも、生理中でさえ彼女たちは「仕事」を続けることを要求された。ある女性被害者が特別報告者に語ったところでは、軍事的性奴隷として働かされていたときに何度も移された性病のため、戦後に生まれた彼女の息子は精神障害者となった。このような状況はすべての女性被害者たちの心に深く根付いた恥の意識と合わさって、しばしば自殺または逃亡の試みという結果をひきおこした。その失敗も確実に死を意味した。
39.歴史の記述から得られる情報を補足するために、特別報告者はソウルと東京に滞在中に歴史家たちと会い、慰安所が開設され、女性たちが軍事的性奴隷にするために徴集された状況についての情報を求めた。
40.特別報告者は東京の歴史家、千葉大学の秦郁彦博士が「慰安婦」問題にかんする幾つかの研究、とくに済州島での「慰安婦」の状況について書いた吉田清治の著書に反論したことを指摘しておく。博士の説明では、彼は1991〜92年に大韓民国の済州島を史料収集のため訪れたが、「慰安婦犯罪」の主犯は実際には朝鮮人区長、売春宿の持ち主及び少女自身の親たちでさえあった。教授の主張では親たちは娘の徴集の目的を知っていたというのである。議論の裏付けとして秦博士は、1937年から1945年にかけての慰安宿のための朝鮮人女性徴集システムの二つのひな型を示した。どちらのモデルも朝鮮人の親たち、朝鮮人村長および朝鮮人ブローカーたち、すなわち民間人たちが日本軍のために性奴隷として働く女性たちの徴集に協力し、役割を果たしたことを知っていたことを明らかにしている。秦博士はまた大部分の「慰安婦」は日本陸軍と契約を結んでおり、月あたり兵隊の平均(15〜20円)の110倍(1000〜2000円)もの収入を得ていたと信じている。
41.特別報告者はまた東京の歴史家、中央大学の吉見義明教授にも会った。彼は特別報告者に日本の皇軍の文書のコピーを提供した。それは朝鮮人「慰安婦」の徴集にたいする命令や規定が日本軍当局により、あるいは当局が知っていて実行されたことを裏付けるものであった。吉見教授はまた原文書の詳細な分析を示したが、それは師団や連隊の後方参謀や副官が派遣軍から指示をうけ、憲兵を使って占領地の村長や地方の有力者に命じ、軍事的性奴隷として使役する地域の女性を徴集するのが普通であったとするものであった。
42.慰安所の開設にたいする日本軍の決定的な関与と責任を例示するために吉見教授はさまざまな文書に言及した。特別報告者も例証として日本陸軍の広東駐屯第21軍の1939年4月11〜21日の「旬報」に言及しておきたい。そこには軍の統制下で将兵のための軍慰安所が操業しており、約1000人の「慰安婦」が同地内の10万と推定される兵士を相手にしていると書かれている。特別報告者に渡された他の同様な文書からは、陸軍省からの指示に基づいて「慰安婦」施設にたいする厳重な統制システムが維持されていたことが明らかにされている。これらの命令は、性病の蔓延防止を目的とする衛生規定のような事柄にも配慮していた。
43.特別報告者はまた、性奴隷徴集のため普通に行われたもう一つの方法として、各派遣軍から朝鮮に派遣された業者で、彼らは憲兵と警察の協力または支持を得て軍事的性奴隷として朝鮮人女性を集めたと思われるという情報を得た。これらの業者は普通、軍司令部により指名されたが、師団、旅団または連隊が直接おこなうこともあったようである。さらに吉見教授は、日本政府によって全ての公文書が公開されておらず、防衛庁、法務省、自治省、厚生省および警察庁の文書庫にまだ眠っているものがあるかもしれないので、徴集の詳細を文書で裏付けることはきわめて困難であると主張した。
44.これまで述べたことにかんがみて特別報告者は、第二次世界大戦終結50周年にあたる1995年の真相調査団は格別に意義あるものとなり、戦時中の軍事的性奴隷に関連する未解決の問題の解決を助け、また暴力の被害者である少数の生存女性たちの苦しみを終わらせる助けとなるものとなろうと考える。
■特別報告者の作業方法と活動
45.第二次世界大戦中のアジア地域における軍事的性奴隷の問題にかんして、特別報告者は政府および非政府組織の情報源から豊富な情報と資料を受け取った。そこには被害女性たちの証言記録がふくまれていたが、それらは調査団の出発前に注意深く検討された。本問題についての調査団の主要な目的は、特別報告者がすでに得ている情報を確かめ、全ての関係者と会い、さらにそのような完全な情報に基づいて国内的、地域的、国際的レベルにおける女性にたいする暴力の現状、その理由と結果の改善にかんして結論と勧告とを提出することにあった。その勧告は、訪問先の国において直面する状況を特定したものになるかもしれず、あるいはグローバルなレベルで女性にたいする暴力の克服を目指すもっと一般的な性格のものになるかもしれない。
46.調査団の活動中、特別報告者がとくに心掛けたのは、元「慰安婦」の要求を明確にすることと、現在の日本政府が本件の解決のためどんな救済策を提案しつつあるのかを理解することであった。
47.ピョンヤン(1995年7月15−18日)。
訪問中の人権センター代表は、金永南外相に迎えられた。代表たちは、特別報告者が利用するための情報や資料を、最高人民会議議員、外務部高官、非政府組織代表、学者および報道関係から提供された。団員たちはまた4人の元軍事的性奴隷の証言を聞いた。
48.ソウル(195年7月18−22日)
大韓民国訪問中、特別報告者は孔魯明(コン・ロミョン)外相に迎えられた。特別報告者はまた外務部、第二政務部、法務部及び保健福祉部の高官たち、学者、国会やさまざまな非政府組織の代表とも会った。特別報告者はまた13人の元「慰安婦」と会い、これら被害女性のうち9人の証言を聞いた。
49.東京(1995年7月22−27日)
日本訪問中、特別報告者は首相官邸で五十嵐広三内閣官房長官と会い、また総理府、外務省、法務省の高官や国会議員とも会った。さらに特別報告者は、非政府組織と女性団体の代表ともあった。特別報告者はまた、在日の元朝鮮人「慰安婦」と、日本帝国陸軍の元兵士の証言を聞いた。
50.特別報告者が調査活動中に会ったおもな人々のリストはこの報告の付録にある。
51.この報告の目的は、本件解決のために将来の行動方針を促進するため、本件の関係者、すなわち朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国及び日本政府の全ての意見を正確かつ客観的に反映させることにある。しかしさらに重要であるのは、この報告の意図が、暴力の被害をうけた女性たちの声に人々が耳を傾けるようにすることである。女性たちは特別報告者が会うことのできた人たちであるが、フィリピン、インドネシア、中国、台湾(中国の省)、マレイシアおよびオランダにおける他の全ての元「慰安婦」に代わって発言したのである。これらの証言は、自らの尊厳の回復と、50年前に彼女たちの人身にたいして犯された残虐行為を認めることを現在要求している生存女性被害者の声なのである。
■証言
52.その人生のうちでもっとも屈辱的で苦痛に満ちた日々を再び蘇らせる意味をもつに違いないにもかかわらず、勇気をもって話し、証言を与えてくれた全ての女性被害者にたいして、特別報告者ははじめに心からの感謝をささげたい。特別報告者は、非常な感情的緊張のもとにありながら自分の経験を話してくれた女性たちに会ったことで、深く心を動かされた。
53.特別報告者は、この報告の紙数が限られているため、三国すべてで聞いた16の証言の僅かしか要約できなかった。しかし特別報告者は、全ての陳述についてそれらを聞くことができたことの重要性を強調しておく。そのことによって当時一般的であった状況のイメージを作り上げる事が可能となったからである。以下の証言は軍事的性奴隷の現象のさまざまな側面を例示するために選ばれたもので、そうした軍事的性奴隷制が日本帝国陸軍の指導者たちにより、またその認知のうえで、組織的かつ強制的に実施されたことを特別報告者に信じるに至らしめたものである。
54.現在74歳のチョン・オクスン(ChongOkSun)の証言は、日本帝国陸軍の兵士による性的暴行と日々の強姦に加えて、これらの女性が耐えなければならなかった残酷で苛酷な取り扱いを、とくに反映している。
「私は1920年12月28日、朝鮮半島北部咸鏡南道のプンサン郡フアバル里で生まれました。
13歳の時の6月のある日、私は畑で働いている両親のために昼食の用意をしなければならなかったので、村の井戸に水を汲みに行きました。そこで一人の日本の守備兵が私を不意に襲い、連れて行きました。ですから両親には自分の娘に何が起きたか分かりませんでした。私はトラックで警察に連れて行かれ、数人の警官により強姦されました。私が叫ぶと彼らは口に靴下を押し込み強姦を続けました。私が泣いたので警察署長は私の左目を殴りました。その日、私は左目の視力を失いました。
10日ほどして私はヘイサン市の日本陸軍守備隊の兵営に連れて行かれました。私といっしょに約400人の朝鮮の若い娘がいて、毎日性奴隷として5000人以上の日本兵の相手をしなければなりませんでした――一日に40人もです。
その度に私は抗議しましたが、かれらは私を殴ったり、口にぼろきれを詰め込んだりしました。あるものは、私が抵抗をやめるまで秘所にマッチの棒を押し当てました。私の秘所は血まみれになりました。
一緒にいた一人の朝鮮の少女が、どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのかを尋ねたことがあります。質問したことを罰するため、日本の中隊長ヤマモトはこの少女を剣で打つように命じました。私たちが見ていると、彼らは少女の衣類をはぎとり、手足を縛り、釘の出た板のうえを、釘が血と肉片で覆われるまで転がしました。最後に、彼らは彼女の首を切りました。別の日本人ヤマモトは、「お前たちみんなを殺すのは簡単だ。犬を殺すよりもっと簡単だ」と語りました。彼はまた「こいつら朝鮮人少女は食べ物がないといって泣いているから、この人肉を煮て食べさせてやれ」とも言いました。
ある朝鮮人少女は、頻繁に強姦されたため性病にかかり、そのために50人以上の日本兵が病気にかかりました。病気の蔓延を防ぎその朝鮮人少女を「無菌化」するため、彼らは焼けた鉄棒を彼女の秘所に突き刺しました。あるとき彼らは私たちのうち40人を、トラックに乗せて遠くの水たまりに連れて行きました。水たまりは水と蛇でいっぱいでした。兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました。
守備隊の兵営にいた少女たちの半分以上が殺されたと思います。二度逃亡を企てましたが、いつも数日で捕まってしまいました。私たちはいっそうひどく拷問をうけ、私はあまりに多く頭を殴られたので、どの傷もまだ残っています。彼らはまた私の唇の内側や胸、腹、体に入れ墨をしました。私は気絶しました。気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山のなかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるものをくれました。彼はまた朝鮮に帰るのも助けてくれました。私は、日本人のための性奴隷として5年間使役されたのち、18歳のときに、傷つき子を産めない体で、言葉を話すのも難かしいありさまで帰国しました」。
55.77歳のファン・ソギョン(HwanSoGyun)の証言は、大勢の娘たちを軍事的性奴隷に誘い込んだ詐欺的方法による徴集方法の証拠となる。
「私は、1918年11月28日に日雇い労働者の次女として生まれました。私どもは平壌市カンドン区のタエリ労働者街に住んでいました。
17歳のとき、1936年のことですが、部落の長がやってきて私に工場の仕事を世話すると約束しました。私の家はたいへん貧しかったので、私は喜んでその収入の良い仕事を引き受けました。私は日本のトラックで、すでに20人ほどの朝鮮の娘たちが待っている停車場に連れていかれました。私たちは汽車と、その次にはトラックに乗せられ、数日間の旅ののち中国の牡丹江のほとりにある大きな家につきました。私はそれが工場だと思いましたが、工場などないことが分かりました。少女たちは、わらの布団があり、ドアに番号がついている部屋を、一人に一室ずつ割り当てられました。
何が身に降りかかるかも知らず二日間待った後、軍服をきて帯剣した日本兵が一人私の部屋にやってきました。彼は「自分の言うことを聞くかどうか」と尋ね、私の髪の毛をつかんで床のうえに倒し、足を開くようにいいました。彼は私を強姦しました。彼が離れたとき、私は外で20人か30人の男たちが待っているのを見ました。全員がその日私を強姦しました。それ以来、私は毎晩15人か20人の男たちに襲われました。
私たちは定期的に医学的検査を受けなければなりませんでした。病気にかかっているとわかると、殺されてどこか分からない所に埋められました。ある日、新しい娘が私の隣の部屋に入れられました。彼女は男たちに抵抗を試み、そのうちの一人の腕に噛み付きました。そのあと彼女は中庭にひきだされ、我々全部の見ている前で刀で首を切り落とされ、体を切り刻まれました」。
56.現在73歳で、韓国永登浦区のドンチョン洞に住んでいるファン・クムジュ(HwanKumJu)の証言は、陸軍が慰安所を運営した際の規則類を例示している。
「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求しました。かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かったので抵抗しました。私はまだ処女でした。しかし彼は銃剣の付いている銃で私のスカートを引き裂き、下着を体から切り離しました。そのときに私は気を失いました。そしてふたたび気が付いたときには毛布を掛けられていましたが、あたり一面に血が付いていました。
そのときから最初の1年間は、いっしょにいた全ての朝鮮の少女たちと同様に高級将校の相手をするように命令されましたが、時がたち私たちがますます「使役」されるのにしたがい、私たちはもっと下級の将校の相手をするようになりました。もし誰かが病気になれば、その人は消えてしまうのが普通でした。また私たちは「606号注射」を与えられましたが、それは妊娠しないようにするためや、妊娠したときにいつも流産するようにするためでした。
衣類は一年に2回しか与えられず、食べ物も足りず、餅と水だけでした。私たちの「サーヴィス」には、支払いはありませんでした。私は5年間「慰安婦」として使われましたが、そのことで一生苦しめられてきました。私の内臓は何度も病におかされるたび、手術で取り除かれており、苦痛と恥にみちた経験のために、性交渉を持つことはできません。私はミルクや果汁を吐き気を催さずには飲むことができません。彼らが私に押し付けた汚らしい事柄をあまりにもたくさん思い出させるからです」。
57.別の生存者であるファン・ソギュン(HwangSoGyun)は、性奴隷として7年間日本兵の相手をさせられた後、1943年に「慰安所」から逃げることができた。その後39歳のとき結婚することができたが、家のものに過去を語ったことはなかった。心理的肉体的な傷と婦人科的問題のため、子供をもつことはできなかった。
58.生き残った別の女性ファン・クムジュ(HwangkumJu)が特別報告者に語ったところでは、中国の吉林省の慰安所での最初の日に、日本兵からここには従わなければならない五つの命令があり、従うか死ぬかだといわれたという。第一、天皇の命令。第二、日本政府の命令。第三、彼女が所属している陸軍中隊。第四、中隊のなかの分隊。そして最後に彼女が自分に仕えているテントの持ち主としての彼の命令。また別の生存者、韓国のキム・ボクスン(KimBokSun)は、性奴隷としての自分の生活は、軍により直接に統制されていたと証言した。毎日午後3時から9時は下士官の相手をしなければならず、午後9時以後の夜は将校のためにとっておかれた。また大部分の兵隊たちはその使用を拒否したが、全ての女性は兵隊たちを性病から守るため、コンドームを支給された。
59.上記の陳述は、特別報告者が受け、それによって特別報告者に性奴隷制が軍司令部および政府の命令で組織的方法で日本帝国軍隊により開設され、厳重に統制されていたことを信じさせるに至った文書情報と符合している。
60.特別報告者はまた、女性たちが証言のなかで触れている傷痕や痕跡を見ることができた。特別報告者が、平壌で元「慰安婦」の世話をしている医師チョウ・フンオク(ChoHungOk)博士の助言を求めたのに対し、博士は、これらの女性は多年にわたり毎日毎日何回もの強姦に耐えなければならなかった結果、その人生の大半を肉体的にも心理的にも全体として衰弱した状態におかれていたことを確言した。チョウ博士はさらに、女性たちが体に負った目に見える肉体の傷痕に加えて、精神的苦痛がその生涯を通じて彼女たちをさいなんでおり、こちらのほうがもっと深刻であることを強調した。同医師はさらに、女性たちのおおくは不眠、夢魔、高血圧および神経過敏に悩まされていると証言した。女性たちのおおくは、移された性病により生殖器や泌尿器が影響を受けたため、不妊手術を施さなければならなかった。
61.特別報告者は、証言を聞く以外に、関係者個人に受け入れ可能なやりかたで問題を解決する方法を探り当てようと試みた。そして、とりわけどんな賠償措置を被害女性たちが求めているか、また日本政府の提案する「女性のためのアジア平和友好基金」方式による解決策にたいする彼女たちの反応はどうかを尋ねた。このこととの関連で特別報告者は、国際社会と、とりわけ日本政府がその声に耳を傾けることを期待している元「慰安婦」たちの具体的な要求を詳細に反映させたいと考えた。特別報告者の尋ねた質問にたいする回答として、大部分の元「慰安婦」は、日本政府のなすべきこととして次の事をあげた。
(a)生き残った女性一人一人にたいし、その耐えなければならなかった苦しみに謝罪せよ。朝鮮民主主義人民共和国の女性被害者たちは、また謝罪は、その政府を通じ国民にも及ぼされるべきだとの考えであり、一方韓国の人達はほとんどが個人宛の謝罪の手紙を全ての生き残り被害者に渡すべきだという意見であった。付け加えていえば、大多数の被害者が村山首相在任時に行った謝罪は、とくに日本の国会がその言葉を確認していないので、真摯なものとするには足りないと感じている。
(b)約20万人の朝鮮女性の軍事的性奴隷としての徴集と、日本帝国軍の利用のための慰安所の設置が、政府および軍の指揮中枢の認知により、または認知のもとで組織的かつ強制的な方法で運営されていたことを認めよ。
(c)性奴隷を目的とする女性の組織的徴集は、人道にたいする罪、国際人道法の重大な侵害および平和にたいする罪、ならびに奴隷制、人身売買と強制売春の罪と考えられるべきことを認めよ。
(d)上記の罪にたいする道徳的および法的責任を受諾せよ。
(e)生存被害者に政府資金から賠償を支払え。この目的のために、日本政府が特別立法を行い、賠償にたいする個人の請求の解決を、日本の地方裁判所における民事裁判を通じて出来るようにすることが示唆された。
62.賠償の支払いに関連して多くの女性たちが強調したのは、その象徴的意味にくらべれば金額はそれほど重要でないことであった。賠償の特定の金額については、特別報告者にたいし何の言及もなかった。
63.さらに多くの女性は、日本政府が民間の資金からの寄付金により、とくに元「慰安婦」被害者に賠償するために設立した「女性のためのアジア平和友好基金」を撤回することを要請した。ほとんどの女性関係者たちは、基金が過去の行為にたいする日本政府の法的責任を回避するための便法であると見ている。
64.加えて元「慰安婦」たちは、次のような措置を日本政府がとるように求めている。
(a)第二次世界大戦中の軍事的性奴隷制問題の歴史的事実についての徹底的な調査、日本国内とくに政府の公文書庫に現存する本件に関する全ての公的な文書および資料の公開。
(b)調査により判明した歴史的事実を反映するように日本の歴史教科書と教育カリキュラムを改訂すること。
(c)軍事的性奴隷の徴集と軍事的性奴隷制の制度化に関係した全ての加害者を、日本の国内法を通して特定し訴追すること。
65.生存している被害者の全員が、特別報告者と国連システムに、国際的圧力を通じてこの問題の適切な解決をもたらす国際的な推進主体となるように求めたことを特別報告者は銘記したい。いろいろな機会に国際司法裁判所ないし国際仲裁裁判所に対する救済申し立てが言及されたのである。
■.朝鮮民主主義人民共和国政府の立場
66.人権センターからの調査団が、特別報告者にかわって朝鮮民主主義人民共和国を訪問したのは、日本帝国軍が朝鮮女性を性奴隷として徴集したことに関する同国の立場を完全に理解し、その見解と要求を日本政府に伝え、問題の解決に向けてさらに対話を試みようとしたためであった。
67.朝鮮民主主義人民共和国政府が日本政府に対して請求している事項は、日本が犯した犯罪について国際法の下における責任を認めること、この法的責任に基づいて、「その恥ずべき過去をこれ以上隠さずに、清算する」ために、それらすべての行為に対して謝罪し、個々の生存女性被害者に対して補償を支払い、かつ「慰安婦」制度設置にかかわったすべての者を特定し、国内法の下で訴追することである。
68.日本政府が認めるべき責任の法的根拠についての質問に対し、平壌の社会科学学会法学研究院所長チョン・ナムヨン(JongNamYoung)博士は、日本の国際法上の法的責任に関する朝鮮民主主義人民共和国政府の法解釈について説明した。
69.第一に、20万名の朝鮮女性を軍事的性奴隷として強制徴集したこと、ひどい性的暴行をしたこと及び事後的に大部分を殺害したことは、人道に対する罪に当たると論じられた。さらに、日本による朝鮮半島の併合は、合法的手段によってなされたとは考えられないし/12、かつ朝鮮半島における日本人の存在は、軍事占領の状態を構成すると考えられ、「慰安婦」としての朝鮮女性の強制徴集は、被占領地の文民に対するものであって、これらの犯罪は国際人道法上の犯罪とすべきである。第二に、「慰安婦」制度の設置、そしてことに強制徴集と売春の強制は、日本が1925年に批准した1921年の婦人および児童の売買禁止条約に違反するとの主張もなされた。
70.第三に、軍事的性奴隷制度は、当時の慣習国際法の宣言であると考えられる1926年の奴隷条約に明らかに違反すると主張された。最後に、特別報告者は、軍事的性奴隷とする行為は、1948年の集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約(ジェノサイド条約)――1948年以前においても一般的に受け入れられた慣習国際法規範であったものだが――これにしたがって、集団殺害(ジェノサイド)に当たると考えられるべきであるとの主張を受けた。チョン・ナムヨン博士の見解によれば、日本によって犯されたこれらの行為は、集団の構成員の肉体または精神に危害を加え、その肉体的破壊をもたらすよう意図された生活条件を故意に課し、また集団における出生を妨げることを意図する措置を講じることによって、特定の国民的、民族的、人種的または宗教的集団を破壊する意図をもって行われたのであって、ジェノサイド条約第2条による集団殺害にあたる。
71.朝鮮民主主義人民共和国政府代表は、日本と朝鮮民主主義人民共和国との間には、日本と大韓民国との間のような外交関係が確立されていないことを指摘した。したがって、「慰安婦」問題に加え、強制労働問題のような他の重要な問題があり、両政府間で解決されねばならないのであって、朝鮮民主主義人民共和国政府は、日本政府が論じるような、サンフランシスコ講和条約または戦争終結に際してのその他の国際条約によって解決されたという主張は受けいれられない。
72.また朝鮮民主主義人民共和国政府は、日本政府が未だ公文書として所持している全ての残存文書及び資料の開示を求めている。これらの文書に基づき、日本は、「慰安婦」制度設置の歴史的真相を完全に究明し、かつ、これに沿って、日本の歴史書と歴史教育内容を修正すべきである。
73.補償問題に関しては、特別報告者は、具体的な、あるいは期待されている金額に関するいかなる詳細をも告げられなかった。しかし、外務省の高官は、僅かに生き残っている女性被害者への個人補償の支払いに加えて、日本の侵略の結果として、殺害されたすべての者のために補償の支払いが朝鮮民主主義人民共和国政府によって要求されると確認した。しかしまた、何名かの官吏は、補償の支払いよりも、生存被害者個人及び朝鮮民主主義人民共和国政府に対する日本政府による謝罪の方が、象徴的により重要であろうとも指摘した。
74.最後に、朝鮮民主主義人民共和国政府、及び調査団が訪問中に面接した学者、報道関係者と被害者は、アジア平和友好基金に強硬に反対し、拒絶の声をあげた。特に、同基金は、「国家補償を逃れるための計略あるいは偽計」であると解釈されている。日本政府は同基金の設置によって、犯した行為の法的責任を免れようとしている、と繰り返し主張した。同基金の設置及び生存被害者に対する「償い金」の支払いのために、民間から募金するという日本政府の行為は、「被害国」に対する侮辱であると受け取られており、同基金の即時撤回が求められている。
75.朝鮮民主主義人民共和国における全ての会合で特別報告者と国連は、関係政府間の調停者として行動し、日本が責任を認め、また国際司法裁判所を通じて問題解決することに同意するよう、日本政府に対して勧告をすることについて、強い希望が表明された。
76.結論として、特別報告者は、軍事的性奴隷制問題がどのように解決されるべきであるかについて、朝鮮民主主義人民共和国の社会の全ての部門でほとんど一致した見解があり、かつそのような観点で、日本政府に対する要求が表明されたものと結論づけることができた。
■大韓民国政府の立場
77.特別報告者は、生存女性被害者の証言を聴聞し、多くの元「慰安婦」を代弁する極めて活動的な非政府組織の連絡網と、「慰安婦」問題解決の為の可能な方法について討議し、あわせて、この問題に関する日本政府に対する大韓民国政府の立場を理解するために、大韓民国を訪問した。
78.戦時の日本による占領から生じる請求権が1965年の大韓民国と日本の間の二国間条約によって処理されたので、大韓民国政府の日本に関する立場は、朝鮮民主主義人民共和国のそれとは異なっている。しかし、特別報告者は、1965年条約が財産的請求を規律するに過ぎず、人身傷害を規律していないことに留意した。特別報告者は、1965年条約は、「慰安婦」被害者への補償を十分に含んでいたのかどうかについて、政府官吏の意見を尋ねた。孔魯明外務大臣は、二国間の国交を「正常化」する1965年韓日条約に基づき、日本政府により戦時中に被った財産的損害について補償が支払われたことが強調された。その時点では、軍事的性奴隷問題はとりあげられていなかった。1993年3月、同問題に関する最初の公的論文の後に、金泳三大統領は、大韓民国は、日本政府から「慰安婦」問題に関していかなる物質的補償をも要求しないと公的に保証した。
79.日本の法的責務に関する政府の立場に関しては、司法省と検察庁の高官は、特別報告者に対して、50年前に犯された犯罪について、日本政府が補償すべき法的責任が実際にあるのかどうか、及び戦争終結に際して締結された二国間及び国際的諸条約が「慰安婦」問題をも処理済みとしているかどうかを定めるのは大変困難であると述べた。しかし、補償を得る手段として、個人が日本国内の民事裁判所に提訴した民事訴訟に関しては、何の異議もないことが表明された。
80.この関係で、特別報告者は、朝鮮民主主義人民共和国政府の立場と異なり、大韓民国政府による金銭的補償の要求はなされてこなかったと判断する。しかし、また特別報告者は、政府による「慰安婦」被害者への補償要求がないとはいえ、大韓民国政府が非政府組織と女性団体の生存被害者擁護活動を支持していることに留意した。これに加えて、特別報告者は、政府が厚生省を通じて、「生活保障法」を1993年に制定し、無料医療及び生活費を支給し、元「慰安婦」を保護してきたことに満足しつつ留意した。
81.また特別報告者は、大韓民国政府が(日本政府に対し)現存する文書の公開及び「慰安婦」制度に関する真相究明を公式に要求してきた、との情報を得た。
82.これに加えて、特別報告者は、「女性被害者の名誉を回復するために」、例えば生存女性被害者全員に対する日本の首相の個人的書簡などの方法で、日本による公式の謝罪が(韓国政府により)求められている、との情報も得た。
83.女性のためのアジア平和友好基金設置に関する大韓民国政府の立場については、同外務大臣は、特別報告者に対して、基金は大韓民国と被害者の希望に応えるために日本政府が誠実に努力したものだと感じられたと述べた。にもかかわらず、彼は、この分野における非政府組織の活動を支持し、その要求が実現することを希望すると表明した。
84.大韓民国訪問中、特別報告者は、どちらかというと慎重な立場を取る政府とは対照的に、政治家、学者、非政府組織の代表及び女性被害者自身など、政府以外の社会の各界の人々は、もっと強い要求を主張したことを認めた。
85.女性に関する国会の特別委員会の委員長や他の議員を含め、国会議員は、特別報告者に対して、国会の外交委員会が大韓民国政府に、日本政府に対して軍事的性奴隷制に関する戦争犯罪の国家責任を承認し、公式な謝罪、かつそれにともなう補償の支払いを行うよう要求すべきだと勧告したことを明らかにした。これに加えて、歴史教科書の修正と全被害女性を記念する追悼碑建立も求められた。
86.これに加えて、特別報告者は、「慰安婦」問題のために活動する非政府組織と女性団体の代表と面会する十分な機会を得た。特に、韓国挺身隊問題対策協議会、韓国太平洋戦争犠牲者遺族会及び大韓弁護士協会は、貴重な情報を特別報告者に提供した。
87.これら市民社会組織の立場は、生存被害者自身の要求を密接に反映しているが、日本政府による公式の謝罪、「全ての元慰安婦女性の名誉と尊厳の回復のために」犯された戦争犯罪に関する国家責任の承認、この問題に関する全ての文書と資料の公開、生存被害者個人に支払われるべき日本政府による補償、及び日本の国内裁判所に提起された民事訴訟を通じて補償を求める個人請求の解決を可能にする日本政府による特別立法措置を含んでいる。
88.特別報告者は、女性のためのアジア平和友好基金に関して非政府組織代表の意見を尋ねた。同基金は、このグループから、民間から寄付を募ることで、日本政府がその国家責任を免れるためにとった方法と見られており、その無条件撤回が要求されている。特別報告者は、被害者自身とその擁護者に対して最大の困難をもたらしているのは、償いのためにする個人など民間からの募金活動であるとの情報を得た。
89.さらに、国際的役割を果たすものとしての国連に対して、国際司法裁判所または常設仲裁裁判所を通じてなど、国際的圧力によってこの問題の適切な解決をもたらすよう繰り返し要請がされた。
90.また興味深いことだが、1995年3月、韓国労働総連盟は、性奴隷としての「労働」に対して補償がなかったので、強制労働を理由として、「慰安婦」問題の解決を求める訴えを、国際労働機構(ILO)への通報制度に対して行ったことを指摘しておく。
■日本政府の立場――法的責任
91.一般的に、国際法の下では、被害者の権利や侵犯者の刑事責任の承認がなされることは稀である。しかし、これらの権利や責任は、現代国際法とりわけ国際人道法の構成要素の一部をなしている。
92.特別報告者が日本訪問中、日本政府は、元「慰安婦」被害者及び彼女等のために国際社会によって主張されている一定の要求に対する論議が記載された書面を、特別報告者に提出した。日本政府は、被害者に対する道義的責任以外の法的義務は全くないと考えている。しかしながら、特別報告者が確信するところでは、日本政府は、第二次大戦中に軍事的性奴隷制の下におかれた女性に対し法的責務及び道義的責務の両者を負っている。
93.日本政府は、1993年8月、「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」と承認した。/13日本政府は、第二次大戦中の「慰安婦」の徴集及び連行を承認したのである。また日本政府は、女性の意思に反して行われた徴集に、軍関係者が直接関与したことも承認した。/14さらに、日本政府は、「本件は、……多数の女性の名誉と尊厳を深く傷けた問題である」とも述べた。/15
94.大韓民国及び日本を訪問中に非政府組織と学者から提供された文書によると、第二次大戦中、慰安所の設置、その施設の利用及び運営、並びに同施設の監督及び規制について、日本帝国軍に責任があったことは明らかである。慰安所に関して、大日本帝国軍将校によって命令が下されていたことを示す詳細な文書が提供された。慰安婦の徴集及び連行のための前線将校による特別の請求を含む命令原文のコピーも提供された。/16さらに、特別報告者は、「慰安婦」に関して日本政府の管理する全ての文書が開示されたと同政府から告げられた。
95.特別報告者は、大部分の女性は、自らの意思に反して慰安所に置かれたこと、日本帝国軍は、大規模な慰安所網を設置し、規制し、かつ監督したこと、かつ日本政府は慰安所に責任があることについて完全に確信を得た。これに加えて、日本政府は、国際法上これが示唆するところから発生する責任を取る覚悟をすべきである。
96.日本政府は、1949年8月12日のジュネーブ諸条約及びその他の国際法文書は、第二次大戦期間中には存在しなかったから、同政府は、国際人道法違反について責任がないと主張する。この点に関して、特別報告者は、旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷設置に関する事務総長報告書(S/25704)の34、35パラグラフに次のような記載があることについて、日本政府の注意を喚起したい。
「事務総長の見解では、“nullumcrimesinelege”すなわち、『法なくして、犯罪なし』の原則の適用は、特定の条約に対しては、すべての国家による遵守を求めることができず、いくつかの国家だけによる遵守が求められるという問題が起きないよう、国際法廷は、疑いもなく慣習国際法の一部である国際人道法規則を適用すべきよう要求する………。
戦争被害者の保護のための1949年8月12日ジュネーブ諸条約、1907年10月18日の陸戦の法規慣例に関するハーグ第■条約及びその付属規則、1948年12月9日の集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約(ジェノサイド条約)、並びに1945年8月8日国際軍事法廷条例に具体化されているように、疑いもなく慣習国際法の一部となった通常の国際人道法のその部分は、武力紛争に適用可能な法である」
97.事務総長によれば、国際人道法の一定の観点は、疑いもなく慣習国際法の一部とされているのであるから、特別報告者は、国家は、特定の条約の加盟国でなくとも、これら国際人道法原則の違反につき有責とされ得ると考える。
98.ジュネーブ第四条約第27条は、戦時の強姦が国際戦争犯罪であることに、改めて反復言及している。同条は、「女子は、その名誉に対する侵害、特に、強かん、強制売いんその他あらゆる種類のわいせつ行為から特別に保護しなければならない」と定めている。1929年に効力を発生したが、日本は批准しなかった戦場における軍隊中の負傷軍人の状態改善に関するジュネーブ条約は、その3条で、「捕虜は、その身体及び名誉を尊重される権利を有する。女性は、その性にふさわしいあらゆる配慮をもって取り扱われなければならない……」と定めている。
99.国際軍事法廷条例第6条(C)及び東京法廷条例第5条は、殺人、殲滅、奴隷化、追放、及び戦前又は戦時中に住民に対して加えられたその他の非人道的行為を人道に対する罪であると定義している。
100.この関係で、国際法委員会が第46会期の活動報告書で、「委員会は、慣習国際法上の戦争犯罪という範疇が存在するという広範な見解に同意する。その範囲は、1949年ジュネーブ諸条約の重大な違反の範囲と同一ではないが、重複する」としていることは重要である。/17
101.“rationetemporis”、すなわち、時間的適用制限原則のために、1949年ジュネーブ諸条約が慣習国際法の証拠ではないとされ、かつ1929年ジュネーブ条約については、加盟国でなかったが故に日本に対して適用可能でなかったとしても、日本は、1907年陸戦ノ法規慣例ニ関スルハーグ条約及びその付属規則の締約国であった。すべての交戦国が条約の締約国でない場合は(第2条)、同規則は適用可能ではなかったが、その条項は、当時機能していた慣習国際法の明白な実例である。ハーグ規則第46条は、家族の名誉及び権利を保護すべく国家を義務づけている。家族の名誉とは、強姦のような恥辱的行為を受けることのない家族内の女性の権利を含むものと解釈されてきた。
102.日本は、1904年の醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買取締ニ関スル協定、1910年の醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買禁止条約、1921年の婦人及児童ノ売買ニ関スル禁止条約を批准した。しかし、日本は、1921年条約第14条の特権を行使し、朝鮮をこの条約の適用除外とする旨宣言した。しかし、これは、朝鮮人でないすべての「慰安婦」がこの条約の下で日本がその責務に違反したことを主張する権利があることを示唆する。国際法律家委員会(ICJ)は/18、多くの事例でそうだったように、被害者がひとたび朝鮮半島から日本に連行された場合は、彼らに条約は適用可能になると論じている。これは、朝鮮女性の場合でさえも、多くの事例で、この条約の下で生じる国際責務に日本が違反したことを示唆する。また、この条約は当時存在した慣習国際法の証拠であるとも言える。
103.日本政府は、特別報告者に渡された書面で、もし仮に国際法上の責任があったとしても、これらの責任は、賠償・請求権の処理を扱ったサンフランシスコ講和条約/19及びその他の二国間平和条約・国際協定で処理されたと主張する。日本政府は、これらの協定で、日本が誠実にその責務を果たしてきており、すべての賠償・請求権の問題は日本と上記諸協定の締約国との間で解決済みであると主張する。
104.また日本政府は、その特別報告者への書面で、財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(1965年)/20第2条第1項は、「両締約国及びその国民の財産、権利及び利益………に関する問題が、………完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とされていると論じる。第2条第3項は、「一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であって………他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置……に関してはいかなる主張もできないものとする」と定めている。日本政府は、実際、総額5億米ドルが支払われたと指摘する。
105.基本的に、日本政府は、すべての請求権は二国間諸条約で解決されているので、日本は個人被害者への補償を支払うべく法的に拘束されていないとの頑固な立場を取っている。
106.また日本政府は、1951年のサンフランシスコ講和条約第14条(a)に「日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在十分でないことが承認される………」と定められていると指摘する。
107.国際法律家委員会(ICJ)は、1994年に公表された「慰安婦」に関する調査団報告書で/21、日本政府があげる諸条約には、個人による非人道的取扱に関する請求権を含む意図は、決してなかったとしている。ICJは、(今問題となっている条約中の)「請求権」(“claims")という文言は、不法行為(tort)による請求権を含まないし、かつ合意議事録または付属議定書でも定義されていないと論じている。ICJは、戦争犯罪及び人道に対する罪から生じる個人の権利の侵害に関する交渉はなされなかったとも論じている。ICJはまた、大韓民国の場合、日本との1965年協定は、政府に対して支払われるべき賠償に関するもので、被った損害に基づく個人による請求権を含んでいないと判断している。
108.特別報告者の見解によれば、サンフランシスコ講和条約も二国間条約も、人権侵害一般に関するものでないばかりか、特に軍事的性奴隷制に関するものでもない。当事国の「意図」は、「慰安婦」による特定の請求を含んではいなかったし、かつ同条約は日本による戦争行為の期間中の女性の人権侵害に関するものでもなかった。したがって、特別報告者の結論として、同条約は、元軍事的性奴隷だった者によって提起された請求を含まないし、かつ日本政府には未だに国際人道法の引き続く違反による法的責任がある。
109.特別報告者に日本政府が提出した文書は、国際法の通常の理論によれば、国際法は、条約によって認められない限り、原則として国家間の関係を規律するので、個人は国際法上の権利義務の主体とはなれないと述べている。
110.特別報告者の見解では、国際人権文書は、国際法によって承認された個人の権利の実例である。例えば、国連憲章第1条は、「人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励すること」における協力を国連の目的の一つに含んでいる。世界人権宣言は、市民的及び政治的権利に関する国際規約並びに経済的社会的及び文化的権利に関する国際規約と共に国家に対する関係で個人の権利を定義しており、それ故、個人は、国際法の保護を受ける権利があるものとして、しばしば国際法の主体である。
111.また日本政府は、侵犯者を訴追し、かつ処罰すべき国際法上の義務について論じている国際人権組織に懸念を表明した。これは、国家の一般的義務ではないと理解されている。不処罰問題は、実体法的問題とは認められていない。しかし、第二次大戦後に開かれたニュールンベルク法廷も、東京法廷も、戦争犯罪を犯した者に対して、一般的免責を与えなかった。戦争犯罪の故に個人を訴追することは、可能性あるものとして国際法上未だに存在する。
112.また、軍隊の構成員は、適法な命令にのみ従うよう拘束されているに過ぎないことに留意することも重要である。彼らは、命令に従った場合であっても、戦争に関する規則及び国際人道法に違反する行為を犯したなら、その責任を免れることはできない。
113.上述したように、人道に対する罪は、殺人、殲滅、奴隷化、追放、及び戦争前または戦争中に犯されたその他の非人道的行為と定義されてきている。「慰安婦」の場合における女性及び女児の誘拐及び組織的強姦は、明らかに、文民である住民に対する非人道的行為であり、人道に対する罪を構成する。慰安所を設置・運営したことに責任のある者の訴追を始めるために当然なすべきことを行うのは、日本政府の義務である。時間の経過のため、情報が不足しており、訴追は困難であろうが、にもかかわらずなお、可能な限り訴追を試みることが政府の義務である。
114.日本政府の意見によれば、個人は国際法上何らの権利もないから、個人には国際法上補償への権利はなく、補償のようないかなる形態の賠償も、国家間のみにしか存在しないということになる。
115.世界人権宣言第8条は、「何人も、憲法及び法によって付与された基本的権利を侵害する行為につき権限ある国内法廷による効果的な救済への権利がある」と定める。市民的及び政治的権利に関する国際規約第2条第3項は、個人の効果的救済への権利を国際的規範とするために、(権利侵害に対する)効果的救済を求める者は何人でも、権限ある司法的、行政的、または立法的な当局によって、または締約国の法的制度によって定められたその他の権限ある当局によって、決定を受ける権利がなければならないと定めている。
116.またすべての人権文書は、国際人権法違反からの効果的救済の問題に対応している。その権利が侵害された個人及び人の集団には、賠償への権利を含めて、効果的救済への権利があることが認められている。
117.国際法上の適正な補償への権利は、広く認められているもうひとつの原則である。特別報告者がその予備報告書において留意したとおり、ホルジョウ工場事件は、具体的に明確な損害額が確定できない場合であっても、いかなる協定違反も責務を生ぜしめるとの法原則を確立した。/22
118.人権委員会はまた、個人の賠償への権利の問題を解明することに関心を表明している。その決議1995/34で、同委員会は、差別防止少数者保護小委員会が、同小委員会の基本的自由と人権の重大な侵害被害者の原状回復、賠償及びリハビリテーションへの権利に関する特別報告者の最終報告書(E/CN.4/Sub.2/1993/8,chap.IX)が提示した基本的原則及び指針に考慮を払うよう奨励した。
119.同特別報告者は、彼の報告書14パラグラフで、「重大な人権侵害の結果として、個人と集団の双方が被害者とされることがしばしばあることを否定できない」と述べている。彼は、現行国際法の枠組みの中で、効果的救済と賠償への個人の権利について詳細に論じている。世界人権宣言、市民的及び政治的権利に関する国際規約、あらゆる形態の人種差別撤廃条約、アメリカ人権条約、人権と基本的自由の保護のための欧州条約、拷問及びその他の残虐な、非人道的な及び体面を汚す取扱い又は処罰を禁止する条約、強制的失踪からのあらゆる人々の保護に関する宣言、独立国内の原住民及び部族民に関するILO169号条約並びに子供の権利に関する条約が、すべて同報告書に引用されている。これらの国際文書は、国際法上、個人が効果的救済と賠償への権利をもつことを認め、かつ受容している。
120.同特別報告者は、重大人権侵害の被害者の被害回復に関する基本的原則及び指針の提案において、「人権および基本的自由を尊重し、また尊重を確保する国際法上の義務に違反した場合には、すべての国家が被害回復を行う義務を負う。人権の尊重を確保するための義務には、違反行為を防止する義務、違反行為を調査する義務、違反行為者にたいし適切な手段をとる義務、被害者に救済を提供する義務を含む」/23としている。
121.基本的原則及び指針の提案にはまた、被害回復は、被害者の必要と要望に応じ、侵害の重大性に比例したものであるべきであり、かつ原状回復、賠償、更正及び満足並びに再発防止の保証を含まなくてはならないとされている。これらの被害回復の諸形態は以下のように定義される。
(a)原状回復は、人権侵害の以前に被害者に存在していた状況を再現することを意味し、とりわけ、自由、市民権または住居、雇用もしくは財産を回復することを必要とする。
(b)賠償は、肉体的または精神的被害、苦痛や苦しみおよび感情的苦悩、教育を含め機会を喪失したこと、収入および収入能力の喪失、更正のための合理的な医療その他の経費、財産または事業に対する損害、社会的評判または尊厳に対する被害、及び救済を得るための法的または専門的援助にともなう合理的な費用及び報酬などのような、人権侵害の結果生じた何らかの経済的に評価可能な損失に適用される。
(c)更正は、法的、医学的、心理学的及びその他のケアー、並びに被害者の尊厳と社会的評判を回復するための諸措置を提供することを意味する。
(d)満足並びに再発防止の保証は、継続的違反行為の停止、事実の検証、真相の全面的公開、事実の公的承認及び責任の受諾を含む謝罪、違反に責任がある人物を裁判にかけること、被害者を追悼し敬意を表すること、教育のカリキュラムと教材に人権侵害に関する正確な記録を含めること。/24
122.同特別報告者が付言するには、被害回復は、直接の被害者、及び適切と思われる場合には、肉親、扶養家族または直接の被害者と特別の関係にあるその他の個人によって請求できる。また、個人に被害回復を行うことのほか、国家は被害者集団が、集団的請求を行い、集団的な被害回復を手に入れることのできるように、十分な保障をしなければならない。
123.法的責任を主張しようとするいかなる試みも遡及的適用であると暗に反論する日本政府の基本的主張に対しては、国際人道法は慣習国際法の一部であるとの反論がなされるであろう。この点で、「この条のいかなる規定も、国際社会の認める法の一般原則により実行の時に犯罪とされていた作為又は不作為を理由として裁判しかつ処罰することを妨げるものではない」と定めている、市民的及び政治的権利に関する国際規約第15条第2項に留意することが有益であろう。
124.時効があるに違いないとか、あるいは第二次大戦後約50年も経ったという議論もまた、適切でない。被害者の権利尊重の立場から、犯罪に関する法、政策及び慣行は、時効を認めない。この関係で、原状回復への権利に関する特別報告者は、その報告書で、「人権侵害のための実効的救済が存在しない間の期間に関しては、時効は適用されてはならない。重大人権侵害の請求権に関しては、時効に従うものとされてはならない」/25と述べている。
■日本政府の立場――道義的責任
125.日本政府は、法的責任を受諾していないが、しかし、多くの声明で、第二次大戦中の「慰安婦」の存在について道義的責任については受諾しているように思われる。特別報告者は、これを歓迎すべき端緒と考える。特別報告者に日本政府が渡した文書には、いわゆる「慰安婦」問題について道義的責任を受諾する声明や呼びかけ文が含まれている。河野洋平官房長官による1993年8月4日付談話は、慰安所の存在及び慰安所の設置・運営に旧日本軍が直接・間接に関与したこと、及び募集が私人によってなされた場合でも、それは軍の要請を受けてなされたことを受諾した。談話はさらに、多くの場合「慰安婦」は、その意思に反して集められたこと、及び慰安所における生活は「強制的な状況」の下での痛ましいものであったことをも承認した。
126.その談話で、日本政府は、「その出身地のいかんを問わず、………数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対して心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」とした。その談話で、日本政府は、「我々は、歴史研究と歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決してくり返さないという固い決意」を表明した。
127.盧泰愚大韓民国大統領と宮沢日本首相の協議の結果として日本政府は特別研究を指示した。元軍関係者及び元「慰安婦」が、日本政府による詳細な聞き取り調査に出席した。警察庁及び防衛庁を含む重要な政府施設もこの研究の対象に含まれた。
128.1993年8月4日、日本政府は、これは特別報告者にも渡されたが、その日時点までに行われたこの研究の成果を文書にして公表した。同文書は、「各地における慰安所の開設は当時の軍当局の要請によるものである」とした。同文書によれば、「慰安所の存在が確認できた国又は地域は、日本、中国、フィリピン、インドネシア、マラヤ(当時)、タイ、ビルマ(当時)、ニューギニア(当時)、香港、マカオ及び仏領インドシナ(当時)」である。日本政府は、日本軍が直接慰安所を運営した事実を、以下のように認めた。「民間業者が(慰安所を)経営していた場合においても、旧日本軍がその開設に許可を与えたり、慰安所の施設を整備したり、慰安所の利用時間、利用料金や利用に際しての注意事項などを定めた慰安所規定を作成するなど、旧日本軍は慰安所の設置や管理に直接関与した」。
129.また同文書は、「慰安婦たちは戦地においては常時軍の管理下において軍と共に移動させられており、自由もない、痛ましい生活を強いられた」とした。同研究は、募集は多くの場合民間業者によってなされたが、募集者は、「或いは甘言を弄し、或いは畏怖させる等の形で」「本人たちの意向に反して」集める手段をとったとの結論に達した。さらに同研究は、官憲等/訳注4が直接募集にあたった場合もあるとした。最後に同研究は、日本軍が「慰安婦」の移送を承認しかつ便宜を図り、また日本政府が身分証明書を発給したとしている。
130.日本政府の成員個人は、反省の意を表明してきた。1994年8月31日になされた談話で村山富市首相は、「いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います」と述べた。同じ文脈で、彼は平和友好交流計画を第二次大戦後50周年に当たり発足させると公表した。この計画で、国民が「過去の歴史を直視」できるように、研究支援とアジア歴史資料センターの設立をしていきたいとした。それはまた、日本とアジア地域諸国の間の対話と相互理解を促進する交流事業を設立することに資するであろう。特に「慰安婦」に焦点を絞っているのではないが、同事業は首相の言う「侵略行為に対する、深い反省の気持ち」に基づいているとのことである。
131.最後に、五十嵐広三官房長官は、1995年6月14日の談話で、村山首相の声明を補足し、与党戦後50年問題プロジェクトの協議に基づき、過去の「反省」に立って、女性のためのアジア平和友好基金を設置する試みがあると述べた。首相官邸の責任ある官吏は、特別報告者に対して、その主要な目的は次の事業を含み、生存女性被害者への賠償の支払いにとどまらないとする基金の活動の詳細を説明した。
(a)元戦時性奴隷の苦痛への国民的「償い」を行うため、民間から基金が募金すること。
(b)医療、福祉など元「慰安婦」被害者に役立つような事業に対し、政府の資金等により基金が支援すること。
(c)基金の事業を実施する折、政府はすべての元「慰安婦」にその率直な反省とお詫びの気持ちを表明すること。
(d)過去の「慰安婦」制度に関する歴史資料を整え、「歴史の教訓」とすること。特別報告者が聞くところによると、これら及びその他の近代アジア史に関する文書は、提案されているアジア歴史資料センター/訳注5で公開されるとのことである。
(e)アジア地域、ことに「慰安婦」被害者が連行された諸国の非政府組織による、人身売買及び売春など現代的形態の女性に対する暴力の根絶の分野における事業を支援すること。
132.特別報告者は、基金が民間から募金する理由を尋ねた。彼女が告げられたところでは、1995年6月14日に五十嵐官房長官が発表したとおり、基金の設置は、日本政府が日本国民と共に「お詫びと反省の気持ちを………分かち合っていただくため、幅広い国民参加の道をともに探求していきたい」/訳注6と解釈されるべきである。加えて、同基金は、「慰安婦」問題に関係のある諸国と地域との相互理解を促進し、あわせて、日本国民が「過去を直視し、正しくこれを後世に伝える」ようにすることを意図している。これが、政府が基金のために民間募金を募ることを決定した理由である。政府自身も5億円(約570万米ドル)を投入するが、これは基金の運営費並びに上記の女性被害者のための医療及び福祉事業に当てるためである。
133.特別報告者は、日本訪問後、日本政府から追加情報を受領したが、これによると、記載時点で、大部分は個人からであるが、合計100万米ドルの募金を受け取ったとのことである。特別報告者は、労働組合、企業及び私的機関が募金過程に貢献することが期待されていること、及び基金は非営利団体の地位としての法人格を受けるであろうことも知らされた。
134.上記によれば、特別報告者は、国民基金を、「慰安婦」の悲運に対する日本政府の道義的懸念の表現として作り出されたものと見る。しかし、それは、これらの女性の状況に対するいかなる法的責任をも否定しようとする明確な意思表明であって、これは、民間から募金をしようとしているところに強く反映している。特別報告者は、道義的観点からの行為を歓迎しはするが、しかし、それは、国際公法上の「慰安婦」の法的請求を免れさせるものではない。
135.特別報告者は、国連婦人開発基金による、女性に対する暴力に関する活動計画に日本政府が貢献する用意があるという情報を興味深く受け取ったことを指摘しておく。これはもっとも歓迎すべきことであり、女性に対する暴力の被害者を保護する一般原則に日本政府がコミットしたことを示している。
■勧告
136.本特別報告者は、当該政府との協力の精神に基づいて任務を果たし、かつ女性に対する暴力とその原因及び結果のより広範な枠組みの中で、戦時の軍事的性奴隷制の現象を理解するよう試みる目的のために、以下のとおり勧告したい。特別報告者は、特別報告者との討議において率直であり、かつ日本帝国軍によって行われた軍事的性奴隷制の少数の生存女性被害者に対して正義にかなった行動をとる意欲をすでに示した日本政府に対し、協力を強く期待する。
A.国家レベルで
137.日本政府は、以下を行うべきである。
(a)第二次大戦中に日本帝国軍によって設置された慰安所制度が国際法の下でその義務に違反したことを承認し、かつその違反の法的責任を受諾すること。
(b)日本軍性奴隷制の被害者個々人に対し、人権及び基本的自由の重大侵害被害者の原状回復、賠償及び更正への権利に関する差別防止少数者保護小委員会の特別報告者によって示された原則に従って、賠償を支払うこと。多くの被害者が極めて高齢なので、この目的のために特別の行政的審査会を短期間内に設置すること。/訳注7
(c)第二次大戦中の日本帝国軍の慰安所及び他の関連する活動に関し、日本政府が所持するすべての文書及び資料の完全な開示を確実なものにすること。
(d)名乗り出た女性で、日本軍性奴隷制の女性被害者であることが立証される女性個々人に対し、書面による公的謝罪をなすこと。
(e)歴史的現実を反映するように教育内容を改めることによって、これらの問題についての意識を高めること。
(f)第二次大戦中に、慰安所への募集及び収容に関与した犯行者をできる限り特定し、かつ処罰すること。
B.国際的レベルで
138.国際的レベルで活動している非政府機構・NGOは、これらの問題を国連機構内で提起し続けるべきである。国際司法裁判所または常設仲裁裁判所の勧告的意見を求める試みもなされるべきである。
139.朝鮮民主主義人民共和国及び大韓民国は、「慰安婦」に対する賠償の責任及び支払いに関する法的問題の解決をうながすよう国際司法裁判所に請求することができる。
140.特別報告者は、生存女性が高齢であること、及び1995年が第二次大戦終了後50周年であるという事実に留意し、日本政府に対し、ことに上記勧告を考慮に入れて、できる限り速やかに行動を取ることを強く求める。特別報告者は、戦後50年が過ぎ行くのを座視することなく、多大の被害を被ったこれらの女性の尊厳を回復すべきときであると考える。
原注
1/G.ヒックス『従軍慰安婦−日本軍の性奴隷たち』ハイネマン・アジア,シンガポール,1955,■■,24,42,75ページ.
2/前出23ページ.
3/前出■■ページ.
4/前出115ページ.
5/前出19ページ.
6/前出29ページ.
7/前出20,21,22ページおよび全体を見よ。
8/前出23-26ページ(および「慰安婦」自身の証言の各所)。
9/前出25ページ.
10/吉田清治『私の戦争犯罪−朝鮮人強制連行』東京,1983.
11/前出24-25ページ.
12/特別報告者は、朝鮮民主主義人民共和国政府が1905年の「乙巳五条約」および1910年の「併合条約」を法的に有効と考えてはいない事を記しておく。
13/1993年8月4日の内閣官房長官談話。
14/前出.
15/前出.
16/吉見義明教授により特別報告者にわたされた文書をみよ。参考のための閲覧可能。
17/国際法律家委員会の第46会期活動報告『公式総会報告,49会期,付録10号』(A/140/10)10パラグラフ,74ページ.
18/U.ドルゴポール,パランジャペ『従軍慰安婦−未決の試練』(邦訳『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』明石書店)国際法律家委員会,ジュネーブ,1994.
19/プリチャード,ザイド『東京戦争犯罪裁判』第20巻,ニューヨーク,ガーランド,1981.20/国際連合『条約集』第583巻,■8473,258ページ.
21/ドルゴポール,パランジャペ前掲書168ページ.
22/常設国際司法裁判所(P.C.I.J.),Aセクション,■17,29ページ.
23/E/CN.4/Sub.2/1993/8,56ページ,2パラグラフ.
24/前出57ページ,9-11パラグラフ
25/前出58ぺージ,15パラグラフ
訳注
1/原文は、徴集された女性を「朝鮮人」としているが、典拠となったヒックス『従軍慰安婦――日本軍の性奴隷たち』の独断と思われるので、訳文から「朝鮮人」を削除した。
2/前注に同じ。
3/原文には、徴集に関わった者として、schoolteacherが加えられているが、明らかなミスなので削除した。
4/訳文にある「官憲等」は、原文では「管理者と軍関係者」とされている。明らかなミスなので訂正した。
5/原文は「現代日本・アジア関係センター」となっているが、明らかな誤りなので訂正した。
6/括弧内は、8月31日の村山首相談話からの引用であるが、官房長官の趣旨でもあった。
7/原文のadministrative tribunalは、英国で発達してきたもので「行政審判所」(『英米法辞典』東大出版会)と通常訳され、行政が設置する中立的な審査機関を言う。日本では公正取引委員会、労働委員会などに当り、ここでは「行政的審査会」の訳語を適当なものとして選んだ。勧告は、被害者の年齢を考慮して、時期を限ってこの特別の審査機関を設置するよう求めている。その任務の大半は被害者の認定となろう。administrative
tribunalの設置勧告は、すでに19■年8月の人権小委員会の勧告にも含まれており、毎日新聞(8月19日)は「行政審査機関」と訳している。
外務省の仮訳は、これを「行政裁判所」と誤訳しており、明治憲法下(第61条)で定められ、戦後憲法によって禁止(76条)された司法機能をもつ行政裁判所を連想させるものとなっている。しかし、administrative
tribunalは、すでに述べたように英国で発達した法律専門用語であるほか、日本でも「行政審判」の語で行政法上定着したものでもある(『講義・行政法■』青林書院新社)。tribunalが「正規の司法体系外で司法的機能を行使する機関に用いられることが多い」(『新英和中辞典』研究社)ことからも、「行政裁判所」と訳すことは不適当であろう(「裁判所」にはcourtが通常対応する)。
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