<1937年に第5次黒台(こくだい)信濃村開拓団として満州(現中国東北部)に渡った三井寛さん(77)=中野市在住=は日本の敗戦による逃避行中、父を失うなど数々の辛酸をなめ、46年5月、ようやく母親と2人で中国の葫蘆(ころ)島から引き揚げ船で、福岡県の博多港に上陸する。2歳で渡満し、11歳で帰国した少年には、ほぼ初めて見る祖国>
からっとした気候だった満州に比べて、日本は「湿度があって住みにくいなあ」という印象。列車で中野市に戻り、両親の仲人さんの家に行ったの。
「帰ってきました」と、お袋が報告したんだけど、奥さんはじっと見てるきりで「上がれ」と言わねえんだよ。
「何番地に住んでた?」「子供の名前は?」
いろいろ聞かれた後に突然「(三井さん親子に)間違いない」と、お袋に飛び付き、抱き合ってたよ。
満州に渡ってから9年……。あっちで苦労したからか、昔の面影があまり残っていなかったらしい。
<多くの県民が参加した黒台信濃村開拓団員(1610人)のうち、帰国者はわずか277人=県満州開拓史。終戦直後の混乱期、故郷の人たちが疑うのも無理はなかった。翌47年、三井さんに新たな試練が加わる。満州で避難中に馬車から飛び下りた時の足のけがが悪化。右ひざ下を切断し、義足になる>
就職は本当に苦労した。でも、身体障害者雇用促進法(60年制定)ができた直後に、障害者枠を設けた電電公社(現NTT)に入社することができた。27年間も勤めたよ。障害者スキーも始めて、国際大会で優勝もしたしな。忙しい日々だった。
戦争が原因で義足になったけど、国は治療費は一切出してくれなかった。義足の右足を長年かばったせいで、左足に負担がかかって、今年5月には左ひざを手術する羽目になった。だから、俺の中ではね、まだ戦争は終わってねえんだ。
<80年代から、中国残留孤児の肉親捜しの調査活動に参加した。中国に渡り、帰国を望む孤児や残留婦人と、日本政府をつなぐ活動をする。帰国後の就職活動の面倒や、生活全般の相談相手にもなる>
中国には04年までに3回行ったな。90年ごろ、訪問時に残留婦人を中国の街のホテルのレストランに招待して、晩ご飯を一緒に食べた。
「こんな高級なもの食べられない。どうやって食べるんだ」と、みんなが恐縮して震えてさ。家ではトウモロコシの雑炊きりで、ものすごい貧しい生活だというんだ。
だから、満州時代に一緒だった友達が帰国した時に、保証人になって就職の世話もした。孤児たちの支えになることが、生きて先に帰国した者の責務だと思ったんだ。
<退職後に15年間務めた民生委員を昨年、引退した。時間に余裕ができ、自身の体験を手記に残そうと準備を進めている>
体験談を書く前に当時の背景を知らなきゃと思って、今は資料を集めているんだ。図書館に通って基礎資料を読み込んでる。調べれば調べるほど、中国人には申し訳ない気持ちでいっぱいになる。土地をただ当然で取り上げて、追い出して……。
結局、開拓団は「国策」の片棒をかついだんだ。満州では、自分と同世代の子供たちがたくさん死んだ。大人になれなかったあの子らに代わって、この経験を伝えていくことが、生き残った俺らの使命だと思ってる。【満蒙(まんもう)開拓団企画取材班】=つづく
毎日新聞 2011年9月10日 地方版