ここから本文です。現在の位置は トップ > 地域ニュース > 長野 > 記事です。

長野

文字サイズ変更

満蒙の土:1部・開拓民の記憶/11 暴動 中国人将校が合図 /長野

 ◇負傷した団長の「楽にしてくれ」という願いに、みんなが首に手をかけて息の根を止めた…--豊丘村・久保田諫さん

 <久保田諫(いさむ)さん(81)=豊丘村在住=が14歳で入植した満州(現中国東北部)の石碑嶺(せきひれい)河野村開拓団は1945年8月15日正午の敗戦直後、不安のどん底にあった。多くの成人男性は既に出征し、村には女性や子供計約70人が取り残された。村から約12キロ離れた満州国の首都・新京(現長春市)では中国人の暴動が起きていた>

 村には電話もラジオもなかったもんで、筒井愛吉団長(67)の指示で、15日午後に4キロほど離れたところに居た九州からの開拓団に敗戦が本当なのかを確認しに行った。

 その開拓団の団長に「敗戦は間違いない。こうなった以上は日本人は結集した方が良い」と言われ、村に飛んで帰り、筒井団長に伝え、その開拓団に合流しようとした。

 だが、既に日は暮れ、女や子供を連れた大所帯が「夜道を4キロ歩くのは無理だから」と、近くの山のふもとに全員移動して一晩を明かした。しとしとと雨が降る夜の野宿で、小さな子供以外は寝られぬ夜を過ごしたんだに。

 <翌16日朝、村に中国人の襲撃はなかった。避難中の開拓民はいったん、村へ戻る>

 それぞれの家に帰ったんだが、村内の小作人や、どこからか来た中国人らがだんだんと周辺に集まってきた。特に何かをするわけではなく、ただじっと見てるだけで、不気味な感じだったなあ。

 そこへ中国人の軍の将校だったと思うが、馬に乗って現れ、空に向けて拳銃をぶっ放した。これを合図に、中国人による暴動が始まったんだ。

 16日の昼前だったと思う。中国人は家の中に入って、彼らにとって貴重だった衣類を中心に奪っていった。窓枠を外して持って行くやつもいた。団員はこん棒でたたかれるなどの暴行を受け、これはたまらんということで、着の身着のまま、山のふもとや学校に逃げた。

 <16日夕、更に暴動が続く危険があると、筒井団長の判断で、村を捨てる。危険な新京の街ではなく、日本海を隔て日本列島により近い東側の吉林(現吉林市)に向け、約90キロの逃避行を始める>

 吉林街道(新京-吉林間)沿いの三つの集落を越え、約6キロ歩いたところにあったトウモロコシ畑で休憩することになった。もう暗くなっていたが、そこにも中国人が来て、衣類を脱げなどと言ってきた。

 「こんな調子では、日本へ帰れるどころではない」

 「戦争に負けたんだから日本人は生きていけないんじゃないか」

 絶望的な思いが団員の中に広がっていたんだ。

 <筒井団長は中国人の暴行で負傷し、これ以上歩けそうになかった。自ら死を望み、他の団員にほう助を頼む>

 団長は代表者ということで何度となく暴力を受け、年齢的にも参ってしまった。あっちこっち痛くて、やっとしゃべられるような状況だった。

 「楽にしてくれ」という団長の願いに団員も「ああ、おっしゃるんだから」と、できるだけ、みんなが団長の首に手を掛けて息の根を止めた……。

 「若い者がなんとか日本へ帰って、この状況を報告しろ」。団長は遺言を残して亡くなったんだ。【満蒙(まんもう)開拓団企画取材班】=つづく

毎日新聞 2011年9月28日 地方版

PR情報

スポンサーサイト検索

長野 アーカイブ一覧

 
地域体験イベント検索

おすすめ情報

特集企画

東海大学を知る「東海イズム」とは?

東海大学の最先端研究や学内の取り組みを紹介