木語

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木語:脱北は日本道一直線=金子秀敏

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 能登半島沖に13日漂着した脱北船は北朝鮮北部の清津(チョンジン)付近から出たという。全長8メートルの貧弱な木造船に大人6人、子ども3人が乗り、日本海を一直線に渡ってきたことになる。信じられるだろうか。

 だが、日本海横断は奈良、平安時代には「日本道」と呼ばれる国際航路だった。中国の歴史書「新唐書」北狄(ほくてき)列伝に渤海(ぼっかい)国の東京竜原府(中国吉林省琿春(こんしゅん))は「東南、海に面す。日本道なり」とある。日本道の出発点だった。

 渤海国は、新羅に滅ぼされた高句麗の末裔(まつえい)が7世紀、故地の北に建国した。首都、上京竜泉府(中国黒竜江省寧安)のほか、四つの副都があった。東京竜原府は東の副都で、中朝露3国の国境を流れる豆満江(とまんこう)の河口から数十キロ上流にある。脱北者が船出した清津の百数十キロ北東だ。

 渤海国は727年、初の渤海使船を日本に派遣した。以後、200年間に34回、日本も15回使節を送った。のちに朝鮮半島沿岸寄りの「新羅道」も使われたが、主に日本道を往来した。(上田雄・孫栄健著「日本渤海交渉史」六興出版)

 渤海使船は、豆満江河口付近の港を利用し、そこから能登半島を目指した。最初の船は目標を大きくそれ、秋田に漂着した。土地の蝦夷(えみし)に大使以下16人が殺された。生き残った8人が平城京にたどり着き、翌年日本の送使船に乗って帰国した。

 意外なことに、渤海国から日本に来る船は、日本海が一番荒れる秋か冬に集中している。季節風を利用するためだ。帰りは逆の季節風が吹く夏だった。

 多数の死者を出した海難事故の記録が2件しかないのも意外だ。最大の事故は141人が死んだ第9回渤海使船だったが、現場は日本海の沖ではなく、北陸の海岸まで来て、接岸しようとした時に強風を受けて転覆したものだ。

 この事件で日本は渤海国に「筑紫道」(新羅道-対馬-瀬戸内海)を使うよう申し入れた。しかし次の渤海使船も「悪天候で流された」と北陸に来た。

 当時の朝鮮半島は新羅の勢力下にあった。渤海は歴史的に新羅との関係がよくない。新羅の軍船に出合う恐れのある新羅道より日本道のほうが安全だと思ったのだろう。

 脱北者は、韓国ドラマを見て韓国に行くつもりだったと供述している。韓国へ行くなら清津から西に進み、半島沿いの新羅道を南下するほうが安全だ。しかし沿岸には波より怖い北朝鮮警備艇がいる。日本道を選んだ脱北者は渤海国の海民の子孫だろうか。いまも「日本道は安全」の言い伝えがあるのだろうか。(専門編集委員)

毎日新聞 2011年9月29日 東京朝刊

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