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天安門事件で戦車が民衆を轢いた後の光景。写真は1989年国内の学生が外国人記者に託したもの(張健氏が提供)

天安門事件新事実 兵士の怒りを煽り、学生を虐殺=ウィキリークス

 【大紀元日本9月29日】1989年に北京天安門で起きた学生の大量虐殺事件に参与していた兵士が当時、兵士が学生に殺害されたということを理由に中国共産党軍側が兵士らに下した学生への「無差別発砲」命令を受けて、千人以上の学生を死亡させたことが、ウィキリークスが8月30日に公開した米外交公電に記されていた。

 1990年3月26日に作成された同外交公電によると、上海の米領事館職員が浙江省農村地区に帰省した時に、村の婦人からその息子の実体験を聞かされた。その内容とは、1989年6月4日天安門事件当時、第38軍に属するその息子と同部隊兵士らは、天安門広場の南東方位から警告のために空に向けて空発砲する任務だった。しかし後に、同部隊の100人の兵士が行方不明になっており、それは学生らに殺害されたからだとの噂が流された。そこで部隊側がすぐさま人数を確認したところ確かに100人あまり減っていた。

 そこで、学生たちに対して怒りを感じた兵士らは、上部からの発砲命令を受けて、迷わず前方にいた群衆に向けて銃で掃射した。その結果、千人以上の死体が目の前に現れた。死者の殆どは一般民衆だった。兵士らは死体にガソリンを掛けて燃やし、焼かれた死体はヘリコプターで撤去されたという。

 公電によると、この兵士が所属する部隊はしばらくして北京郊外へ移された上、兵士らは服役期間中は軍営区から離れてはならないと規制され、命令に違反する者は特別手当が取り消されると伝えられた。しかし、この兵士は断固として1989年9月に帰省したという。

 実は、当時行方不明になっていた100人の兵士は後に、全員が現れた。この兵士は自分が騙されて無抵抗な民衆を銃殺したことを悔やんだ。軍側から帰省中のこの兵士親子に対して村で同件について一切話してはならないと口を封じられたという。

(翻訳編集・余靜)


 (11/09/29 06:43)  





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