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マイケル・ジャクソン

 スーパースターにとって、整形手術/美容整形は、それこそ、正規の仕事の一部、と、言っていいが、しかしマイケルの整形は、いわゆるスターの整形とは、異質な整形だったのである。マイケルにおいては、すべてが、裏目に出てしまっているのである。あまりにも早くに、スターになってしまったことも、そしてべらぼうな才能をもっていたことも、そのうえ身体能力が、すばらし過ぎたことも、さらにはものの見事に、成功しすぎてしまったことも、すべての良さが、マイケル本人にとっては、裏目に出てしまっているのである。成功がもっと遅かったならば、あるいは、才能が、これほどまでにべらぼうでなかったとするならば、もしくはこうまでも極端に、心が清らかでなかったならば、マイケル本人は、ずっと、幸福であり得たはずなのだ。ところが、さまざまなことがらが、あまりにもすご過ぎたのである、したがって幸福であり得たはずのものを、大不幸に変えてしまったのである。幸福な子供時代をもち得なかったとしても、親が酷い親であったとしても、まだそれだけならば、みずからの逃げ場をどこかにひそかに確保しつつ、いずれこの酷い状況を脱するために、なんとかみずからを、もちこたえさせることも、可能ではあるはずなのだ、しかしいかんせん、マイケルにあっては、天才すぎであり、(音楽的には)「幸運」すぎであったので、こどもとしての不幸からみずからを逃すための場を、まったく失ってしまうことになったのである。こどもとしての不幸とは、親とのかかわりにおいて、みずからの基礎を、作り上げることができない、ということである。だから親とのかかわり以外のところに、ほんとうの自分であるための、リアルな関わりが、マイケルには必要だったはずなのである、ところがマイケルは、スーパースターとして成功してしまったがために、自分であるためのリアルな関わりが、(悪ガキどもと、バカな遊びに耽る程度の、リアルな関わりすらも)、まったく失われてしまったのである。スーパースターが、整形手術をすることとは、それは、見られるべき着ぐるみとしての自分自身のこの身体を、ひとりの大人が、ひとりのひととして、意識的に、コントロールしようとすることである、だから整形のし過ぎは、「スター」ではないわれわれからみれば、化け物のようにみえてしまうのである、だからひそかに、よくやるよ、と、おもってすらいるのである、しかしそれでも、普通のスーパースターたちの整形は、わたしたちにとっても、理解可能な行為ではあるのだ、なるほど、そのような選択も、ありえるだろう、と、あのような立場なら、それもありえるだろう、と、おもえるのだ、そしてそう理解したうえで、よくやるよ、と、(きわめて的確に)、認識可能でもあるのだ。しかしマイケル・ジャクソンの整形は、そのような整形とは、決定的に異なるのである。マイケルの整形に関しては、よくやるよ、とは、おもえないのである。なぜならその整形の意味するところが、わたしたちにはあまりにも不可解だから。彼の整形が、まったく理解不能だから。そうであるがゆえに、よくやるよ、とは、言いえないのである。それ以前の不可解さのところで、わたしたちは、途方に暮れてしまうのである。マイケルにおいては、子供時代においては、ごくふつうに、ひとりのこどもとして在るための余地すら、まったく奪われていたのである、つまりマイケルは、こどもとしての生活のなかで、自己の基盤を創ることが、まったくできなかったのである。ところがマイケルは、音楽的には、あまりにも「幸運」すぎたのである、つまり幼くして、大成功を収めてしまったのである、だからかれは、幼くして、だれもが知ってるスーパースター・マイケル・ジャクソンであることは、強いられてもいたのである。子供として、ふつうの子供程度の自己確立すらできていないかかわらず。ところが彼は、スターであることだけは強いられていたのである。スプリングスティーンにせよ、マドンナにせよ、ボノにせよ、かれらも、だれもが知っているるスーパースターではある、のだしかしかれらは、そのような立場がいったいどのようなものであるのか、充分に熟知したうえで(彼らはすれっからしの、ロックファンだったのだ)、そしてもちろん、確固たる彼ら自身を、思春期に至るまでのあいだに、充分に、作り上げたうえで、みずからの努力で、一歩一歩、スターダムへと、のし上がって行ったのである、だからかれらの、ボノやスプリングスティーンの、スターとしての演技とは、つねに確信犯的であり、堂々たるものであり、みているこちらを不安がらせるものなど、何一つないのである、ところがマイケル・ジャクソンはそうではないのである。なぜならマイケルには、スターを確信犯的に演じるための、内的な余地が、そもそもまったく奪われているのだから。マイケルは、こどもとしての、ごくふつうの自己確立すらまったくできず、そうであるにもかかわらず、スターという仮面を、幼少期に、押しつけられてしまったのである。つまり素顔が生成される以前に、スターという特異な仮面を、マイケルは、直接、押しつけられてしまったのである。彼にスターを演じる余地など、あたえられていないのである。そもそも素顔がないのだから。だからこれは、事実上の、幼児虐待と言うべき事態だったのである。なぜなら彼の精神が双方から(酷い親とスターという仮面と、その双方から)窒息させられたのだから。しかもそのうえ、マイケルにあっては、その押しつけられた仮面が、いかにも正しすぎる仮面であった、ということも、さらなる彼の特異な不幸を、(あまりにも特異な不幸を)深めてしまったのである。たまたま幼少期に、ちやほやされただけの、いつわりの子役スターならば、いずれ、その仮面は、その者から、いやでも剥がれおちることになるのである、そしてその者自身へと、立ち返ることが、いずれ、強制されることになるのである。ところがマイケルにあっては、そうは行かなかったのだ。なぜならマイケルは、偽りのスターではなかったのだから。彼は、まさしく、正真正銘のスーパースターだっのだから。つまりその仮面は、正し過ぎたがゆえに、仮面のほうから剥がれ落ちることすらなかった、ということなのだ。スーパースターであることは、たしかに、すばらしい。しかしマイケルの立場にあっては、ほんとうにスターであったこと、しかもべらぼうな才能を持ったすさまじいスターであったこと、このことは、億に一つの、あるいは百億に一つの、すさまじい不運だったのである。せめてもう少し、才能が少なかったならば、かれにも素顔を再発見する余白が生じたかもしれないのだ、そして別の脈絡を生きる余地が、マイケルにも、あり得たかもしれないのだ。ところがあまりにもべらぼうに才能があってしまったばかりに、押しつけられた仮面は、正し過ぎたために、彼は、彼であり得る余地を、まったくうしなってしまったのである。マイケルにあっては、すべての幸運が、裏目に出てしまっているのである。マイケルの暗黒は、暗黒のままで、そのまま、手つかずで、温存されるほかなかったのである。するとマイケルの整形の、その異様さが、ここではじめてみえてくるだろう。マイケルにおいては、スター・マイケルを演じる、内なる素顔のマイケルは存在しないのだ、しかしにもかかわらず、彼は整形したのだ。かつて若かった、老女優が、整形したのならば、それは、みずからの生身の身体を、着ぐるみとして、プロとして、扱っている、と、いえるだろう。つまり彼女は、自分ではないなにかになってしまおうとしているのである。それはよく分かる。ところがマイケルにおいては、まったくはなしが逆転しているのだ。なぜなら彼には素顔がないのだから。彼にはその仮面しかないのだから。だからマイケルの苦しみとは、素顔がないこと、幼少期に形成すべき基礎となるべき彼自身がないこと、このことが、かれの苦しみなのだ。しかし同時に、スターとしてのかれは/べらぼうな才能を持ったスター・マイケルは、たしかに存在してはいるのだ。だからマイケルは、その仮面を/押しつけられたこの仮面を、つまりスターとしての彼を、素顔に、変えてしまおうとしたのだ。つまり自分ではない何かになるために、確信犯的に整形したのではなく、マイケルにとっては仮面しかないその当の仮面を、素顔に変えるために/つまり自分自身になるために、彼は整形したのである。したがってマイケルの整形は、絶対に成功し得ない整形なのである。自分になるための整形などありえるはずがないのだから。しかしマイケルは素顔を求めないではいられなかったのだ。だから何度も何度も、整形を、くりかえさざるをえなかったのである。だからそれこそ、失われた素顔を掘り起こそうとしているがごとく、かれはみずからの顔を掻きむしるように、何度も何度も、整形を繰り返すほかなかったのである。だからその整形は、痛々しいものにしか見えなかったのである。よくやるよ、なんて、到底いえるようなものではなかったのである。彼の整形は絶対に失敗する整形でしかありえないのである。しかし彼は、そうせざるをえなくもあったのである。素顔を作り上げる以前に仮面を押しつけられ、そのうえ、その仮面が、正し過ぎてしまったのだから。彼は双方から窒息させられてしまったのだから。おそらくそこにしか行き着くところはなかったのだろう。人は体を壊したとき、その身体を、治療する、そのあいだにおいては、社会的な自分を、とりあえず、リセットするものなのである。豪胆な社長も、生き生きとしたスポーツ選手も、病気にあっては、社長であること、スポーツ選手であることは、とりあえず、リセットし、素の自分に、立ち返ることになるのである。パジャマ一枚で、ぼんやりしている、療養中の彼は、社長でもスポーツ選手でもその時なくなっているので、だからそれは、見る人が見たなら、いい具合に弱っている、と、感じることもあるかもしれないのだ。なぜならそれは、それこそ子供時代の、まっさらな、心優しい彼に、立ち返っている姿でもあるのだから。病気を治すこととは、そのようなプロセスを生きることなのだ。社会的な自分を停止し、素の自分に立ち返り、すべてのエネルギーを治療に注ぐこと。ところがマイケルには、その素の自分がないのだ。彼は、スター・マイケルであることをやめてしまったならば、ただただ暗黒が残るのみなのだ。はたしてマイケルに、病気の治療が可能だろうか。かれに病気を治すだけの心の強さが残っているだろうか。かれは治療のあいだに彼が陥るであろう暗黒に、堪えることができたのだろうか。彼だって、体を壊すことはありえる。むろんなんてことのない、まったく治療可能な、マイケルの体力からしてみればなにひとつおそれることのない、ちょっとした病気、そんな病気にかかってしまうことは、おおいにありえることなのだ。彼には病気を治す体力は充分ある、しかしマイケルに、マイケル・ジャクソンであることを、一旦リセットすることができるものだろうか。彼はマイケル・ジャクソンであることをとめてしまうと、すさまじい、深い暗黒に、陥ることになるのだ。彼にしか分からない暗黒。だれも助けることのできない暗黒。ネバーランドという遊園地を建設し、そこにマイケル・ジャクソンとして、多数のこどもたちを招待し、こどもたちと過ごすひとときに本気で喜びを感じている彼は、まさに、仮面と素顔を混同する在り方を生きていたのである。しかしそんな彼が、マイケル・ジヤクソンであることを、リセットし得るものだろうか。マイケル・ジャクソンであることをリセットすることは、かれにとっては、自分自身であることをやめることでしかないのである。自分自身であることだけは許されなかった、暗黒の子供時代がせり上がってきてしまう。かれにはそれが堪えられなかったのだろう。おそらく薬物依存はここから始まっているのだ。病気を治さねばならない、しかし治すだけの心の強さが彼には欠いている、しかし病気を治さない以上マイケルであこともままならなくなってしまうのだ。彼はマイケルであることをリセットし得ない、しかしマイケルそのものが病によって弱ってしまっているのだ。彼の暗黒が徐々にせり上がってくるのだ。そしてそのとき薬物を(治療の過程で)体験してしまったのだ。マイケルは薬物に病みつきになる。身体は弱っていく、しかし彼には身体を直す心の強さはなかったのだ、ところが薬物は身体が病んだままでとりあえずマイケルに高揚感だけはあたえてくれる、身体は治っていない、しかしあたかも治ったかのような心地よさを彼にあたえてくれるのだ、マイケルの薬物依存はこのような悪循環によるのだろう。マイケル・ジャクソンが享楽をもとめて、ドラッグづけになった、とは到底おもえない。しかし彼が抱え込んだ暗黒からのがれようとして、薬物に依存してしまった、ということは、おおいにありえるのだ。彼は心が清らかすぎたのだ。しかしその清らかさとはまったく不似合いな環境を、かれは生きざるをえなかったのだ。マイケルには「心の強さがなかった」と、わたしは書いてしまったが、しかしわたしはマイケルが、「心が弱かった」とはおもわない。彼は充分に心も強かった。しかし抱え込んだ暗黒があまりにも大き過ぎた、そしてなによりも、彼にはあまりにも逃げ場が少なすぎた。マイケルに打つ手はなかったのだろう。そう、彼は心が清らかすぎたのだ。だから適当な誤魔化しはできず、なし得たことはネバーランドでこどもたちと楽しむという壮大な誤魔化しだけだったのだ。こころが清らかすぎたのだ。あまりにも痛々しい。報道によると死の数日前マイケルは体の右半分が熱くて左半分が寒いと言って、大変な苦しみに至っていたそうだ。もうどんな薬物も彼にはきかなかったのだろう。まるで暗黒に飲み込まれるように、彼は薬物によって身体をボロボロにしてしまっていたのだろう。酷い親に育てられたのみならず、素顔を形成する以前に、あまりにも正しい仮面をはりつけられてしまったこと。思春期にすら至る以前の、その出発点がすべてだったのだ。彼は彼であることだけは最後まで許されなかった。それはすさまじい悲劇である。しかし、それでも、かれは、マイケル・ジャクソンではありえたのだ。素顔を消して、マイケル・ジャクソンであることに徹することしかできなかった彼は、しかし実際マイケル・ジヤクソンであることに全身全霊をかけて徹したのであり、だからそのことは、たしかに命と引替えであったにしても、大変な奇跡を実現したことはたしかなのだ。彼は彼としてはほんとうの彼ではありえなかった。しかしかれは、マイケルジャクソンとしては、たしかにほんとうの彼ではあったのだろう。命と引替えではあったにしても。痛々しさから目を逸らすまい。しかし彼がなしとけた奇跡はたしかにほんとうでもあるのだ。これもほんとうではあるのだ。わたしはこの曲が、マイケルのもっとも美しい楽曲だとおもっている。
  Man In The Mirror

マイケル・ジャクソン

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投稿者:
room9
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コメント (2)

2009/09/10

哲子 あらためて「Man in the Mirror」を聞いて、涙が出ました。。。 いつも亡くなった人のエピソードを読み聞きすると、映画「トーチソング・トリロジー」を思い出すのです。 正確な台詞の記憶ではないのですが、登場人物の一人が「誰でも死んだ人には優しいものよ…」と言うシーンがあります。 死んでしまうと、アーティストであれば遺作が高値で売れたり、メディアに大きく取り上げられるなんて、常ですよね。 死んだ本人は天国で笑っているのかなあ〜? でも、生きているうちに、人を大事に愛して評価するって難しいですよね。 みんながスキャンダルを狙って、金儲けするんだもん。。。 死んでもネタにされるし。 世の中ってのはな〜。

2009/09/17

room9 死んでしまえば、怖くないんですね。生きているひとは、どんなひとでも、恐い。なぜなら彼は一個の他者だから。死んだキリストを拝むのは簡単だけど、生きていたキリストに(等身大のキリストに)向き合うことは、だれにでもできる、という種類のことではありません。死んだ者を、美化して拝むなんて、まちがいなく「冒涜」にきまっています。だからむろん、こんなこの世を、かれらは、「笑って」はいない、と、わたしは、おもいます。

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