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[29555] 神ゲー
Name: どるいまん◆d3e6567e ID:4a4d61a1
Date: 2011/09/05 23:32
初投稿です。よろしくお願いします。



プロローグ。




 ──眼が合った。

 両目と両眼。荒れ果てた野に横たわるそれが、まるで生きているように驚いて、目を見開いた。
 それは、いきなり現れた闖入者に目を丸くするだけで、未だ反応は見せない。しかし、闖入者たる人間も状況は飲み込めていないようだ。

 広がるのはどこまでも彩りが無い殺風景。
 曇天と、舞う火山灰と、赤茶けた大地だけの世界。
 
 この地に特別は無い。ただ野生の秩序が端の端まで行き届いているだけ。
 その獣とも神話とも付かない存在は、賢くも人間より先に事態を整理したのか、ゆっくりと首をもたげて目を細める。
 喉が鳴る。
 殺気が漏れる。
 その瞳は一寸たりとも乱れず、交わったままだった両者の視線は張り詰めた糸のように繋がっている。
 しかし、黒い瞳を持つ方──小さな人間の方が、恐怖からか焦りからか困惑からかほんの僅かに視線を逃がした。
 それは間違いなく弱者の行為で、弱者の愚かさで、ならば、弱者の末路が存在した。
 その弱さを皮切りに、この場の弱者と強者とが線引きされる。
 鱗が散りばめられた翼を広げて強者としての己を示すは、血の様に鮮やかな真紅の瞳と大きく拡げられた破壊の大顎。





[29555] 1
Name: どるいまん◆d3e6567e ID:4a4d61a1
Date: 2011/09/22 20:09
──二十二時間前。




「おじさん、来たよ」
『おう、ミコト。飯くれ飯ィ』

 半分傾いたスピーカーから響く聞き慣れた声に安心して、暗がりが広がっている廃墟の中にミコトは足を踏み入れた。
 廃墟といっても、数年前に使われなくなったばかりの病院で、埃臭く黴臭いが致命的な老朽化は見られない。よくある心霊スポットとして紹介されているような場所、と言えば想像しやすいだろう。

(相変わらず気味悪いな……)

 廊下の奥の暗闇を見ないように視線を足元に固まらせながら、入り口をゆっくり閉めて一番近いレントゲン室に足を向ける。
 どうせなら院長室などに住めばいいのに、なぜこんな近くに居座っているのかと聞いた事があるが、オジサンが言うにはレントゲン室が一番電気が扱いやすいらしい。あと院長室など偉そうな場所も心底嫌っているようだ。
 確かに作業しながら寝ているような人間には院長室の埃を被ったソファは必要ないだろう、と納得したのを良く覚えている。

 廊下を曲がると、少しだけ開いた扉から光が漏れてきていて、少しだけ足を速めた。

「おじさん、オムライスで文句無いよね。文句あってもどうしようもないけどさ」
「おお! 愛してるぜ畜生め」
「僕は男は愛せないよ」

 扉を開けた瞬間にミコトを迎えたのは中肉中背の背中と、スピーカー越しではない野太い声。
 声も姿もまだそう年老いてはおらず、二十代後半か三十代前半と言った所だろう。何日も洗ってないようなボサボサの頭に目の下の深いクマがなければもっと若く見えるかもしれない。
 姿を確認して何となく胸を撫で下ろすと、その背中に近寄った。そんな事に気付いてない様に、いや実際気付いてはいないのだろう、オジサンは一心にキーボードを打ち込んでいる。
 そのキーボードの向こうには、天井と壁一杯に広がった巨大なコンピュータと所々に大小様々な画面が付いている。

 見ての通り、このオジサンはどこかの技術者らしい。いやプログラマーと言った方がいいのかもしれないが、その辺りの機微は分からない。
 詳しくは聞いていないので、"らしい"としか言えないのだが、体の回りに五つ並べたキーボードを余す所無く使いこなす様と、自分でパソコンを作った所を鑑みるに、並みの技術者ではない事だけは判った。

 そもそも、出会い方からして普通ではなかったのだ。
 家の前に行き倒れていたオジサンにご飯を食べさせて、食い終わって直ぐに『どこか人の少ない場所を知らないか』、と聞かれて幽霊病院と化していたここを紹介した訳だ。
  そして次の日、作りすぎた夕食を持って行ってやろうとここを訪れたところ、病院中に監視カメラとスピーカー、そして巨大なコンピュータが既にここに鎮座していた。
 これには流石に驚いたが、おじさんが言うには『どうしても必要なパーツは持ってたから、あとは病院中の周りの森に廃棄されてた物で事足りた』と言う事らしい。
 それから一年間。おじさんは動けなくなるまでキーボードを叩いているので、毎日こうしてここに夕食を運んでいると言う訳だ。

「おじさん、皿持って行くからそろそろ食べてよ」
「おおワリィワリィ。今食べるわ」

 この台詞を言って30分ほど待てば、おじさんは大抵箸を取る(今夜はスプーンだが)。
 しかし何故か今夜は、一分もしない内にキーボードの音が止んだ。

「ミコト。お前今何歳だっけ?」
 
 カチャ、とスプーンを取る音と重なるように、おじさんがそう言った。

「んー……、あと三ヶ月で中三だから、十四かな」
「おい、飯硬いぞこれ」
「聞きっぱなしだね」
「お前、これ口の中でバリバリ音立ててるぞ……?」
「まあ、冷凍庫の最奥に眠っていたビンテージ物だからねぇ」

 全身で咽返りながらも米粒一つ落とさないおじさんは、さぞ食材に愛と感謝を込めているのだろう、と奇怪な動きで身体を痙攣させるおじさんを見ながら、ぼんやりとそんな事を考える。

「手前……。俺が胃腸が弱い事を知っての行いか……!」
「冗談だよ。炊くの失敗しちゃったからオムライスにしたんだ。とりあえずトマトを余計に加えてはみたんだけど。コンビニ弁当は嫌だって言うし」
「まあ、食わしてもらっといて文句は言わないがな」
「言った後なら何とでも言えるね」

 その言葉を最後に、レントゲン室はカチャカチャとスプーンが皿を叩く音だけが続いた。
 沈黙に詰まった、と言う訳ではないが、何となく自分の目がおじさんから離れ、後ろの巨大なコンピュータに向かう。そして、上手い具合に話の種を見つけた。

「あれって、確かRLO(リアル・ライフ・オンライン)? そうか、おじさんあれの関係者だったんだ。納得だ」

 目を止めたのは、画面に映った西洋風の剣士の姿。限り無くリアルで、まるで写真のような鮮明さだ。ただその剣士と鎬を削っているモンスターだけが現実とは違っていて、現実との区切りをつけている。
 一身上の理由で実際にやった事は無いが、似たような画面はニュースの中で見た事があった。
 そして、確かこのゲームが流行り始めたのも一年ほど前。ひょんな事からオジサンの身元が分かってしまったらしい。

「ん? ……ああ」

 リアル・ライフ・オンライン。略してRLO。
 元々ゲーム会社ではない如月財閥が突如発表した、他のゲーム会社の人間を根こそぎ路頭に迷わせようかという程圧倒的なメカニズムを誇る次世代ハード。
 直接神経結合環境システムにより、脳内の何たらかんたらに接続してうんぬんかんぬん。
 当然その仕組みを一般人であるミコトが知っている訳は無いが、それでもそのゲームの突出さは理解できた。

 VRMMORPG。
 略せずに言えば、バーチャル・リアリティ・マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム、wiki調べ。
 つまりは、意識をゲームの中に潜り込ませて現実のように生活を送れるというシステムになっているらしい。
 まだ画面を3Dにしたり、タッチパネルにしたりで競い合っていた時代に"それ"だ。当然ゲーム会社は軒並み倒産するか、大きい会社は如月財閥に買収された。


「如月グループとは……まあ、それはいいか」


 詳しく話そうとした口を、オジサンは途中で閉じた。
 言い難そうに口篭って別の答えを探し始めたので、ミコトは先程のパネル画面に視線を戻す。

 RLOは、ドラえもんが与え賜ったような次世代技術だ。
 いくら大きいといっても、このサイズのコンピュータではあのゲームの運営を行うことは絶対に不可能。しかもこの間まではモニターすら付いていなかったので、ここで何か請負業でもやっているのかもしれない。
 考えられるのはプログラム関係の仕事か、はたまた違法なハッキングか。
 まあ、いきなり家の前に倒れていて、そして家に帰らずこんな所で物凄い技術を発揮しているような人だから、何か訳有りでも驚きはしない。

「RLOか。……そうだな、似たようなもんだ」

 しかし、オジサンの口から出て来たのは予想とは違う声。

(……うーん)

 違法の行いを隠したがっているようには見えなかった。しかし、嘘を付いていないと言っても、本当の事を言ってるとも限らない。

「……ミコト?」

 おじさんに声をかけられて、また疑いの種をわざわざ育もうとしている自分にようやく気づき、嫌気が差して顔を顰めた。

「ごちそうさん。あー、不味かった」
「……もう絶対作らねぇからな、天パ無職」

 それでも食材への感謝は忘れないおじさんは皿の上に米粒一つ残してはいない。さっさと皿を受け取ると、僅かに埃が付いた尻を叩いて立ち上がった。

「ああ、そうそう。ほんとにもう飯は作んなくていいぞ」

 律儀にシーシー言わせて爪楊枝で歯の手入れをしながら、オジサンが事も無げにそう言った。

「まあ僕は別にそれでもいいんだけど。生活力皆無のニート至上主義が言うようになったね」
「お、お前、よくそんなにこやかに毒を吐けるな……」
「泣かないでよ」
「泣いてねぇよっ! いやホントに泣いてないからね。誤解すんなよ、こいつが出鱈目言ってるだけだから!」
「誰に言ってるんだよ、おじさん」

 あまり怖い事を言っちゃだめだよ、と笑って、言い負かされた悔しさとミコトの言葉に対しての呆れと、──そして、ほんの僅かに寂しげな視線が混じりあった視線をオジサンから向けられた。
 しかし、その視線は一瞬で空気に溶けて霧散する。

「いや、もう受験だろ。高校ってのは大事だぞ。俺は中卒だしな」

 混ぜられたその寂しさは、直ぐには気付けない程小さな物で、ミコトには違和感に少し困惑するぐらいしか出来ず、朗らかに告げられた言葉にその違和感も頭の隅に追いやられていた。

「……ま、おじさんがそう言うならやめとくよ」

 こんな要介護の人間を放っておいて大丈夫かと言う思いはあるが、本人がそう言っているのに押しかけるのも、自分が構って欲しいかのようで何か癪に障る。
 ミコトの周りで数えるほどしか居ない大人の一人だが、親代わりだとも、はたまた兄弟のようだとも思った事はない。
 最初の一日以外ミコトの家には寄り付いた事もなければ、必要以上に関わろうともしなかったので尚更だ。
 それでどうしてこうして面倒を見ているのかと聞かれれば。

(寂しさを紛らわしてるのかな……)

 両親の記憶なんてもう一握りしか残ってはいないけれど。甘えたい年頃と言うか何かに反抗したい年頃と言えばそうだけど。この中年は親というより手が掛かる顔馴染みと表現した方がしっくりするのが悲しいところで。
 そうなると、やはり自分はこの男に親代わりを求めている訳ではないのだろうと、冷静に判断を下した。
 だとすると、求めているのは退屈凌ぎだとか。そんな事なのだろう。

「じゃあね」
「……ああ」

 それだけ言って、レントゲン室の扉を開ける。
 最後に振り返ると、さっさとモニターを向いてしまったおじさんと、画面に映った剣士が剣を血に濡らしている映像が、漠然とした光景としてミコトの瞳を彩った。





  ◆ ◆ ◆




 ──十二時間前。



 目を覚まして、枕の柔らかさにミコトはもう一度顔を埋めた。
 他の人には寝辛いと言われるが、ミコトはいつもうつ伏せで寝て、うつ伏せで起きる。当然寝返りはしているだろうが、最初と最後は必ずうつ伏せなのだ。
 ともあれそのまま数秒枕の柔らかさを堪能した後、寝惚け眼のまま顔を上げた。
 全く物が無いだだっ広い部屋に、ただ天蓋付きのベッドだけが置いてある。壁や木の床に薄く物が置いてあった形跡が残っているが、それでもやはり今はこの部屋にはベッドしか残っていない。

 それを良い事に、ミコトは大雑把に部屋を横切ると、質素な部屋とはやはり合わない扉を開けた。

 廊下を挟んで向かいにある簡易なシャワー室で顔を洗うと、脇の棚からタオルを取り出して水分と眠気を一緒くたに拭き取った。

「ふぅ……」

 眉まで伸びた前髪に付いた水分を拭き取りながら、再び廊下へ出てキッチンへと向かう。
 白米は昨日の晩のうちに炊飯器で予約していたので既に炊けているはずだ。無駄に大きい冷蔵庫から鮭の切り身を取り出すと、それをグリルにかけて、味噌汁の準備を始めた。
 朝からそう凝る事は無いので、ダシの素を使って簡単に味噌汁を作る。
 その安っぽい味噌汁が完成した時には、鮭も良い焼け目が付いて香ばしい匂いを醸していた。
 迷う事無く、丼に盛った白飯に鮭を乗せると軽く醤油をかけて、別の器に注いだ味噌汁と一緒に、リビングの机まで持っていった。
 机に向かって進む度に鼻をくすぐる湯気が、温かくて香ばしい。




 一人暮らしも様になってきていた。
 食事は最低限の栄養配分を考えて作り、皿を余計に汚さないのがミコトの主義(ポリシー)である。
 そして若さゆえかそれとも会話も無く黙々と食べ続けるからか、慎ましい朝食を片付けるのに十分もかからない。

「ごちそう様でした」

 律儀に感謝の念を込めてから、丼と皿を重ねて流しまで持っていく。

 その器に水を流し込みながらアンティークな振り子時計を確認すると、既に七時五十分。どうやら先程の枕への求愛行動が思ったよりも時間を取ってしまったらしい。
 最新式の浄水機能付きのノズルを捻って水を止めると、小走りで先程とは別の洗面所へと向かう。
 無造作にかけられている制服を引っ手繰るように手に取ると、二十秒足らずで詰襟の制服を着終えた。
 玄関に向かう途中で、置き勉(教科書を教室に置きっぱなしにしている事)により学生にしては軽すぎる鞄を引っつかむと、そのまま玄関を出て鍵を閉める。
 鍵の閉まる感触を確かめてから、一般のものよりはかなり広い庭を抜けて門を出た。
 不意に、どうしようもないほど退屈な既視感が命の身を襲った。
 恐らく自分は今日、学校で学んで友人と会話をして、帰路を辿ってまたここに帰ってきて夕飯を食べて就寝する。
 余りの刺激の無さに辟易してしまう。
 この殺風景な庭を見るのももう飽きた。一人で飯を食らうのも限界だ。そして、今日からはおじさんを利用した一握りの非日常も存在しない。
 日常に反抗心を滾らせながらも、己の足はいつの間にか日常を辿って門を出ようとしていた。
 ここから学校──県立 長曽根中学校までは歩いて三十分ほど。安い腕時計に目を落とすと、朝のHRが始まる八時四十分まで三十五分を残している。
 一息ついて、詰襟がしっかりと詰まっている事を確認し、妙な感傷を追い出すと、ゆっくりと学校に向かって歩き出した。

 そして、そこから十五分もしない内に後ろから自分を呼ぶ声。後ろを確認しようと首を回したところで、肩に腕が回った。

「うーい、おはようさん。今日も良い詰襟具合だ」
「……朝から暑苦しいよ」

 ぐい、と密着していた体を引き離した。
 今の季節は秋の中ごろという所で、非常に過ごしやすい気候だが、人と密着すると途端に汗が鬱陶しくなってしまう。

「いいじゃねぇかよー…、このツンデレ野郎め。こっちは心身共にボロボロなんだぜ? ほら、目の前に顔色悪くしてフラフラな同級生がいるぜ。さぁどうする?」
「……まず手足を縛って体の自由を奪わないとね」
「どんな選択肢選ぶ気だお前!?」
「デレデレするんだよ。君の血と命を以って」

 悲鳴を上げてミコトから離れたのは、中学1年で同じクラスだった同級生。この学校にはクラス替えが無いので来年もまた同じクラスなのだろう。
 性格的には普通のミコトの騒がしさと明るさをそれぞれ一・五倍したような性格で、ミコトから見ても非常に好ましい性格をしている。

「なあ、お前もやろうぜRLO。叔父さん達なんか気にするなよ。突っ撥ねちまえばいいんだろ?」

 この叔父さん、とは、昨晩のオジサンとは別人。
 先程の生活で分かったかも知れないが、うちの親は数年前に死んでいる。とは言っても無駄に広い家と四人家族が一生分裕福に暮らせるほどの金を残してくれていた。
 そして、ミコトの生年月日と同じ日に書かれていた遺言状によると、財産は全て息子の、才崎(さいざき) 命(みこと)に譲渡されていた。
 それは感謝すべきで、実際に感謝もしたが、周りの親戚連中がそれに群がってきて直ぐにその感謝の半分ほどは面倒臭さに変わってしまった。

 特に母の妹の夫がその傾向が強く、また執拗で頑固だった。
 その男の言い分によると、過剰な財産は教育と成長の妨げとなり、怠惰を助長する。よって、自分が責任を持って監督し、一人前と認めるまでは財産は自分が預かる、と言う事らしい。
 その癖に自主性の為という名分で、一人暮らしを勧めてきてその間この土地と屋敷は自分が管理すると言い出す始末だ。
 余りの露骨さと思慮の浅さに、自らの欲望を自制していた他の親戚一同もそれならば自分も、と食い付いた。
 私が私がと財産と屋敷の争奪戦を始めて、場は混沌を極め始める。幼い自分でもその汚さに気付き、一円も渡さないと言い放つのにそう時間は掛からなかった。

 そうすると今度は、ミコトががめついだの、世の中を分かっていないだの。
 うんざりしている所に、遺言書の端に電話番号を見つけて、それに電話すると繋がったのは弁護士事務所。
 どうやら両親には、この展開も想像していた事だったらしい。この遺書を書いた時の両親の心情は押して図るべしだ。
 そして、法の番人の力でいとも簡単に豚犬(ハイエナ)達は黙る事になった。

「駄目だって。どうせ面倒な事になるんだから」

 今絶頂期を迎えているRLOを購入しないのも、出来るだけ質素な生活を心掛けているのも、これが理由。
 時々我が物顔で我が家を訪問する件の叔父を考えれば、とても贅沢など出来はしない。ゲームなど見つかれば、そら見たことか、ゲームなどにお金と時間を浪費している、と来るのは間違い無い。
 RLOをやらないのは当然、勉学が疎かになるとか、家事に忙しくてそんな事をする暇も無いと言った事もある。
 それでも一番の理由は、叔父さん達が鬱陶しい事と、そして。
 そんな楽しい世界とこの現実を比べたくないという理由もあるように思う。

「RLOは怖くねえって。衝撃はあるけどさ。痛みもねぇし、血を見ることも無いからよ。どうしても怖かったら鍛冶屋とか道具屋やっても良いしよ」

 それを知っていて、相変わらず強引に誘ってくる友人A。
 彼は決して何も考えていない人間ではない。
 ミコト身の不幸を心配してくれるより、こうして冗談交じりに日常の一部にしてもらった方が楽だ、というミコトの心情を汲み取って実践してくれている、知る限りでは数少ない善人で、頭が回る人間だ。
 ゲーム。
 退屈凌ぎの代表格の名前だ。
 恐らく、楽しいのだろう。面白いのだろう。確かに非日常なのだろう。
 ただどうしても養殖の臭いが取れていない。もし自分がその非日常に頼ったとしても、日常に帰って来た時の虚無感に耐えられそうに無い。
 だからきっと、ミコトはゲームに時間を費やすことは無い。
 そうこうしている内に、いつの間にか校門は目の前。友人Aと駄弁りながら校庭をつっきり、靴箱で迅速に上履きに履き替えると、昇降口の丁度真上にある教室へと急いだ。

「…はよーっス」

 何を言っているかは分からないが、挨拶をしていることは分かるというだけの言葉に、自分の席の周りの数人が振り向いて、笑顔でこちらに手を振った。

「体育館に集合だとさ」
「……息つく暇もねぇ」

 明らかに徹夜でRLOをプレイしていたと見られるAがふら付きながら、廊下に歩いていく。
 それに他の三人も続いて、ミコトも鞄を机の横に引っ掛けると、その後を追った。




──で、あるからしてー……。
 ああ、退屈だ。
 そんな事を、始業式の校長先生のありがたい御説法を聞きながら頭の中で往復させている。
 響くマイクの音は耳障りなほど大きな音なのに、何処か閑散と体育館の中に響いて消えて、そして直ぐにまた次の音が鼓膜を揺らす。
 マイクを通した声って言うのは、どうしてこう雑音、というかBGMのように感じてしまうのだろうか。
 肉声しか心には響かないというのならばそれはそれでロマンチックではあるのかもしれないが、きっとこの場合は話しているあのハゲか、どうにも感受性が低いらしい自分に問題があるのだろう。
 校長の話は最後の校歌斉唱の一つ前なので、これを越えれば直ぐ教室に戻れるはず。
 入った時には高い天井からバスケットボールが転がっているすみまで、凍るような冷気が肌を突いたが、今は人間の体温と呼吸で変に温まった空気が気持ち悪く、刺すような冷気を歓迎したい。

 隣の同級生の欠伸をかみ殺している横顔。
 冬の淡い光を半分だけ遮断する、分厚い暗幕。
 椅子に座って腕を組み、堂々と居眠りをしている体育教師。
 所々から不規則に空けられた窓から暗幕の脇を通り抜け、一瞬だけ冷気を運んでくる風。

 それはどれもこれも風情があって、腕の良いカメラマンが切り取ればそれはいい風景に見えるかもしれない。
 そしてそれを見て、子供の頃が懐かしいと嘆息する大人達も多い事だろう。
 もしかしたら、この学校にかかわっていた大昔の先人がそれを見て、幾星霜の想いを溢れさせるかもしれない。

(まあ、設立6年目だけど……)

 冷めている。
 それは自分に限った話ではないだろうとミコトは思う。
 毎日美味しい物が食べられる幸せも。
 生活の中の所々にちりばめられた小さなドラマも。
 慣れてしまえば、それは聴き飽きた名曲のように頭の中を素通りしていく。

 そうしながら、今日の献立を頭の中で自然と組み立てて、ああそう言えばと、今日からオジサンの所には行かない事を何の脈絡も無しに思い出して、また一抹の寂しさと退屈を感じた。




 ◆ ◆ ◆





 ──一時間前。


「…………あ」

 それに気付いたのは、夕飯を食べ終えて朝の分と一緒に食器を洗っている時だった。
 最初あの場所に訪れる事になったオジサンの食糧問題が解決していない。当然オジサンは一文も持っていないだろうし、おまけに皿を回収していない。
 ひょっとして、あそこに行く口実を自分の中で作り出しているのではないかとも思ったが、この世の中に深層意識と言う言葉が蔓延りだしてからは、自分の意識すらも信用できないのだから、いっその事もう考えない事にした。

 近くの百円均一で購入したベージュの安いエプロンをソファに放り出す。
 椅子にかけていたコートを掴むと、リビングを出て廊下の奥の階段へと向かった。
 上に向かう階段ではない。そちらの階段は玄関に入ってすぐの場所にあるので、こちらは地下に向かう階段だ。
 六、七段の短い階段を下りてポケットの中の鍵を探って地下室の鍵を探し出す。
 他と比べてやや大きくて古臭い鍵を選び出すと、それをドアノブの下の鍵穴に突っ込んで思い切り回した。
 普通の扉より強めの抵抗を手に残して、扉のロックが外れる。どこの部屋と比べても一層生活臭が感じられない地下室の中を一直線に進んで、奥に設置してある金庫のロックも手早く解除した。
 広すぎる屋敷の家具を売り払って、遺された財産の一部である約三千万がここに保存されている。百枚ずつで束ねられて積み上がっている札束を適当に二つ程掴むと、コートのポケットに突っ込んだ。

 無論ただで施すつもりは無い。
 数年後に1.5倍にでもして返してもらうつもりだ。
 しかし、お金を貸すのならば返ってこないつもりで、という言葉もあり、それを自覚しながらも、このまま孤独死でもされた日には夢見が悪いので結局ポケットの奥にそれを突っ込む。
 寝付きの良さには二百万の価値がある。それだけの事だ。二百万など寝つきの良さほどの価値しかないと言っているようなものだが。

 とにもかくにも、独特の重みを右ポケットに蓄えたコートを羽織りながらそのまま玄関を出た。
 朝より少しだけ冷たい風が頬に当たって、コートの前半分を閉めて空気を遮断する。
 ここから廃病院までもまた、歩いて三十分ほど。体を温める意味も込めて、小走りで門を抜けた。
 少しだけ荒い息が少しだけ白みを帯びている。明日はよく冷えるらしいのでその前兆だろう。冬の澄んだ空気は好きだが、寒さは大嫌いなので、嬉しさは半々と言ったところ。
 ちなみに夏は暑いのが嫌だが、原色のような青々とした空は好きなので、これも半々。

 景色の中に冬を見つけながらジョギングを続けて、十五分もしない内に廃病院に行き着いた。

「ん……?」

 視界の端に映った違和感に、足を止めた。
 見つけたのは、明かり。
 とは言っても、おじさんも部品を拾い集めたりトイレに行ったりはするので、明かりが付いている事はそう珍しくは無い。
 しかし、明かりが見えたのは、入り口から一番離れた最上階の部屋の窓。──院長室。確かあの場所はそうだったはずだ。オジサンが嫌って近付かないはずの。
 それも天井の明かりではなく、懐中電灯のような細々とした光だ。
 日常では凡そ感じる事がない危機感が体中を足元から駆け巡った。神経が過敏といえる状態まで引き上げられて、本能的に辺りを警戒しだす。
 つまりは、ビビッていた。

 他に光が付いている部屋が無いか、変わった所は無いかと辺りを見渡して、また違う違和感を見つける。
 罅割れて所々隆起したアスファルトの駐車場。
 その端に、夜の闇と月明かりの影に隠れるように駐車している車を見つけた。真っ黒な車体に黒いスモークガラスのワゴンで、おまけにハイブリットの無音車だった。

「……あやし」

 怪し過ぎるにも程がある。これを見たならば、中で何かが起こっている事は丸わかりだ。──しかし。

「おじさんが危ないんだよな、やっぱり……」

 ここに誰も居なかった事にしたいのなら、確かにこうするしかないだろう。
 元々ここは幽霊が出るのどうので人が近付く事さえない。
 あくまで誰にも気付かれず、一切の形跡も悟られず、静かに目的の実行だけを遂行するつもりならば、これくらいの隠密は当然と言える。

「警察…!」

 ポケットに手を突っ込んで中を探るが、あるのは残念ながら札束のみ。携帯電話は自宅のソファの上だ。
 札束では公衆電話は使えない上に、そもそも公衆電話など、またここからしばらく歩いた場所にあるコンビニにしかない。
 コンビニはここから二十分ほど歩いた所。走って十分で行ったとして、警察がここに駆けつけるまで三十分と言ったところだろうか。
 急いでコンビニに向かおうとして、そこでガラス張りの正面玄関に、向こうから近づいて来る影に気付いた。

 全身が冷たい汗で湿らされて、頭の中が一瞬真っ白に塗り潰される。そこからは思考も何もあった物じゃなく、ただバタバタと見つかる前に物陰に移動しただけだった。
 隠れたのは、掃除用具入れの倉庫の裏。自然と荒くなっていた呼吸を何とか静めようと唾を飲み込んで──。
 ギッと、錆びた扉を開く音と一緒にそいつが姿を現した。

 別に怪物が出てきたわけではない。しかし、明らかに一般人とは一線を帰す格好と雰囲気を持ち合わせている。
 190近くある長身にがっしりとした体。黒いジャケットに黒いパンツ、更にこれまた暗闇に合わせるような黒いニット帽。
 しかし、それらを意識の隅に追い遣るほど圧倒的な黒光りが男の手で光っている。
 銃。
 指一本だけで人を殺せる武器がそこにあった。しかもハンドガンのような銃ではなく、肩から提げた、所謂サブマシンガンという奴だ。しかも御丁寧に消音器(サイレンサー)まで付いているらしい。
 顔を半分隠したここからでも、その重量感は感じる事が出来た。緊張感からの錯覚かも知れないが、それでもこの状況でアレを偽物だと断定するのは馬鹿な考えだ。
 ぞくり、と恐怖感が改めて背中を舐め上げた。
 心臓の高鳴りが増し、呼吸が浅く激しく変わっていく。くしくもそれは興奮状態に良く似ている。
 男はゆっくりと歩いていくと、車のトランク部分に寄り掛かって懐を探り出した。
 それだけの動きにすらビビッていたミコトの悲観的な予想を裏切って、出て来たのは小さな煙草の箱。緊張感も無く、そのまま煙を吹かし始める。
 自分の存在はばれてはいないらしい、が、コンビニに行くにはあの男の横を通らなければならない。病院の周りは放置されて荒れ果てた雑木林で出来ているので回り道をすれば倍以上の時間が掛かるだろう。
 それでは恐らく間に合わない。
 ワゴン車でここに来ている事から、来訪者があの男一人だけだと言う可能性は限り無く薄い。更に一人外に出てきたと言う事は、もう中で目的が完遂されつつあるとも考えられる。
 グッと唇を噛み締めて、頭をフードですっぽりと覆った。幸い下もコートも暗闇に馴染みやすい色をしている。慎重にそれでいて迅速に走り出した。
 月明かりで影が出来ないように壁に張り付きながら、直走る。

 ──無我夢中で走って、最終的に体を滑り込ませたのは、そこで建物が終わっている角。
 ここからは壁のお陰で、男の視界に入っていない事を確認してフードを上げる。そして、ギザギザに上へと続く錆びだらけの非常階段を見上げた。
 院長室にいるのがおじさんだとは限らない。おじさんはそもそも院長室が嫌いだ。そう考えると可能性はむしろ低かったかも知れないが、その部屋で懐中電灯の光が消えた事が気になった。
 誰かを探しているのならば、消す事などせずにそのまま部屋を出て行くだろう。しかしあれは遠ざかって消えたのではなく、明らかにスイッチを切った消え方だった。
 ならば、その部屋に何か目的がある人間がいるか、若しくは身を隠そうとする人間だけだ。
 そうやって殆ど妄想とさえいえる理屈で自分を落ち着かせながら、階段を上がって行き、非常階段のドアノブに手をかけた。
 ギィ、と小さく錆びた音を出して扉が開く。そこで今更ながら鍵が掛かっていれば入れさえもしなかった事に気付いたが、結果開いたので忘れる事にする。
 院長室の扉はそこから一歩進んだ所にある木製で両開きの扉。中から明かりは漏れていないが、都合の良い事に扉が僅かに開いている。
 唾液を一度嚥下してから、息を止めてその中に視線を入れた。
 丁度窓から月明かりが照らしていて、しかし部屋の中には窓の傍にぽつんと高そうなアンティークの机が一つあるだけで他には何も見えない。

 ──しかし。
 風の音さえ聞こえない静かな部屋から、荒い息がミコトの鼓膜を確かに揺らした。

「おじさんっ」

 直感的にだ。もし敵が潜んでいるのなら一巻の終わりだっただろうが、そこまで頭は回らなかった。
 そして唯一隠れられる場所である机の裏側には、今まで見た事がない表情の、見慣れた顔があった。
 何かを遣り遂げて黄昏ていた顔が固まって、あまりに分かりやすく表情が変わっていった。

「みっ! みみみ、ミコト馬鹿野郎!! お前来るなって言っただろうがっ……!」
「オジサン……、よく生きてられたねぇ」
「憎まれ口は相変わらずだな……! 」

 お互いに驚きを言葉にしながら、おじさんの隣で姿勢を低くした。そして直ぐに、おじさんの足元に広がっていたそれを見つけることになる。

「これをね、届けに来たんだけど……」

 ポケットの中でばらけてしまった札束を地面に吐き出して、苦笑いをしてみせる。

「……馬鹿かお前は」
「いや、これは貸すわけじゃなくて……」

 ここぞとばかりにさっき組み立てた言い訳を口に出そうとして、それがいきなり子供染みたものに変わってしまった気がして、口を閉ざす。
 それでも何か言い訳をしようとしたが、そこでおじさんの陰に隠れていたその色を見つけて、そんな陳腐な言い訳は引っ込んだ。

「……怪我、してるねぇ」
「緊張感ないなお前は、相変わらず……っ!」
「男としてはクールに生きたいだよ、僕は」

 赤い血溜りが小さく波打ちながら表面積を広げていく。軽くは無い傷口に緊張感が高まり喉が鳴った。

「何をしに来たとか色々聞きたいことはあるが、それはいい。今すぐお前は逃げ……」

 近寄ったミコトを引き寄せると、小さく潜めた声でそこまで言って──、扉を勢いよく蹴破られる音がそこから先を遮った。
 弾かれたように二つの視線が扉に集中するが、なんら変わった所は無い。一瞬遅れて、蹴破られたのが別の扉だった事に気付いた。

「くそ! もう来やがったか……!」

 そう遠くは無い。恐らく階段側から一部屋ずつ虱潰しで確認していくつもりなのだろう。
 そんな事を思考しているうちに、また扉を蹴破る音が、恫喝するように鼓膜を揺らす。先程よりも強く、距離は近い。

「おじさん…。早く逃げないと」

 かなり焦っていた。足音からして一人ではない。だかだかと床に降り積もった埃を踏み荒らしながら明らかに二人以上がこちらに近づいて来ている。恐らく、全員が先程の男と同じように黒光りしたアレを装備して。
 自分の体が蜂の巣にされる映像が、どんどんど脳裏で鮮鋭度を増していく。しかし、必死に逃げ道を探して思考を廻らせているミコトに対してオジサンは慌ててはいなかった。
 その気配を感じ取って視線を戻すと、オジサンはただ只管に自分の手の平の中を見つめている。
 下唇を噛み逡巡を繰り返しながら、ほとんど憎々しげとも言える目線で手の平の中をそれこそ睨み付けている。
 何かある。機械油で汚れたその手の中に。
 期待と不安と一握りの好奇心が手伝って、ミコトがその手の中を覗き込もうと回り込もうとすると、意を決したように突然オジサンがミコトに向き直った。

「──いいかミコト。よく聞け、俺は少しばかりオーバーテクノロジーしてお前をここから逃がす」

 そう言って、手の平の中からもう片方の手で何かを取り上げると、ミコトの目の前に押し付けた。

「指輪……?」

 銀色の何の装飾も宝石も付いていない、簡素な指輪。オジサンは一度大きく頷くと、指輪が載っていたほうの手をポケットに押し込んだ。

「いいか。詳しく説明している暇は無いが、とりあえずあの知性の欠片も無い銃口からは逃げられる」
「じゃあ、おじさんが……」
「俺は無理だ。ブラックリストだからな。説明している時間は無いが、これで今逃げられるのはお前だけだ」

 初めて見たと言ってもいいオジサンの真剣な表情に思わずたじろぐ。

「自己犠牲なんて、夢見が悪くなる事考えてないだろうね…?」
「……馬鹿野郎、俺が死ぬか。俺はどう考えて後々暗躍するタイプだろうが」

 ハッと、面白くも無い冗談を自分で言って自分で笑うと、こちらからの質問の時間は無いとばかりに言葉を続ける。

「いいか。二人とも逃げるとしたらお前はこの指輪を嵌めるしかない。お前が生き残る道は"残念ながら"これだけだ。どこに行き着くかは運次第だが」

 その言葉に嘘は感じられない。流されるままにその指輪がオジサンから自分の手に渡る。
 どん、と大きい音が聞こえる、が、まだ壁をいくらか挟んでいるようだ。それでも余り時間は無かったが、考える時間は更に少ないだろう。
 頷いたミコトを見て、オジサンも小さく頷く。そのまま指輪を右手に持っていこうとして──。

「──ミコト」

 おじさんの声で、ミコトは手を止めた。

「俺は結局お前の親の代わりにはなってやれんかったが……でもな」
「友達だと思ってるよ、僕は」

 このタイミングで言葉を詰まらせてもらっては困るので、先の言葉を自分の言葉として口にしてみる。
 その言葉に少しだけ驚いた後、ふん、と、オジサンは皮肉気に笑った。

「愛してるぜ、この野郎」
「僕は男は愛せないかな」

 はッとニヒルに笑いあった瞬間と、また新たに扉が蹴り破られる音と、ミコトの右手の中指に指輪が嵌る瞬間が重なった。



 ──零(ゼロ)。

 体中に風の壁が当たったかと思える感触の後、血に塗れた様な真紅の瞳と目が合った。
 そしてそのほんの数秒後。
 ミコトの体に、剣のように鋭く大きい牙が深々と突き刺さる。


◆ ◆ ◆


 目の前から一瞬で姿を消したミコトを見届けて、男は自嘲交じりの溜息を付いた。

「本当は、全部片付けてから渡すつもりだったんだけどなあ……」

 既に目の前に黒服の男がいる。
 力なく机に横たわるだけの男を見て安心したのか、肩に下げていた無線に向かって何事かを伝えている。

「あいつ、あんな詰まらなそうな顔してんだもんなあ……」

 毎日、毎日だ。 
 子供なら、いや大人でも。こんな退屈な日常の中でも潤いを見つけて表情を変える物なのに、あいつときたら業務用の表情を二つか三つだけ。
 要領がいい子だ。頭がいい子だ。
 それがあの子の景色を腐らせてしまったのだろうか。いや、それだけではとても説明は付かない。
 親が居ないからか。家庭が無いからか。それとも何処かが壊れてしまっているからか。

 判らない。
 判らないが。それでも自分は親から買い与えられたゲームで笑顔になれたものだから。
 ああ本当に、あれは神ゲーだった。
 二世代は遅れた機種だったが、対戦相手も居なかったが、グラフィックは雑で会話文と横スクロールだけの世界だったが。あれより面白い神ゲーを他に知らない。

 それから山ほどゲームをやって、自分で作って、ろくでなしの称号も手に入れてそれでも、あのゲームは超えられない。
 
 ゲームで生きて、ゲームを生き甲斐にした。
 だから自分にはゲームを作るしか能は無く。
 だからミコトが興奮顔で神ゲーだと感動する様を見て笑ってやりたかったが。

 相変わらずこちらを向いたままの銃口を見据えて、苦笑する。

「……頼むぜ」 

 どうか、ミコトにとってのこのゲームが、彼を満たす神ゲーでありますように。
 



2011/9/22 ミコトの名前が間違っていたので訂正



[29555] 2
Name: どるいまん◆d3e6567e ID:4a4d61a1
Date: 2011/09/10 00:50
 ドラゴンがいた。
 赤い瞳も深緑(エメラルド)の鱗も昔見た絵本や漫画に出てきたそのままの、幻想の代名詞のようなドラゴンが目の前に鎮座していた。
 横たわった体のまま、こちらを見る双眸は僅かに驚きが滲んでいて確かな知性を感じさせる。
 しかし、熱風と錯覚するほど激しくぶつけられた野生の殺意が、決して相容れない存在だとも教えてくれていた。
 ──それを見たくなかったのか、それとも現実から目を逸らしたかったのか、はたまた好奇心が小粋な悪戯をしたのか。向かい合っていた視線を逸らした。逸らしてしまった。

 代わりに見たのは侘しさしか感じられない殺風景。
 荒地。岩山地帯。
 色々言い方はあるだろうが、つまりは草木など疎らにしか生えていない滅びかけた大地だという事が分かれば十分だ。
 ぱらぱらと、灰のような物が僅かに宙を舞っていて、思い轟音と共に地面が時折揺れる事を考えると、ここは活火山なのかも知れない。

 それだけ。
 現実逃避による気休めと、それだけの情報のためにミコトは耐え難い代償を払う事になる。
 現実逃避から帰ってくると、目の前に相変わらず真紅の両眼が待ち構えていた。
 痴れ者が、と真摯に睨みあげるその真紅の両眼に馬鹿にされた気がした。
 ──そこからは劇的で、そして一瞬だった。
 オジサンが言った"残念ながら"と言う言葉が脳裏を掠めて、ミコトの脳裏が焦りに塗り潰されていく。
 ガツッと何とも形容しがたい音がして、今度は痛みが意識ごと焦りを塗り潰した。
 ぐらり、と世界が揺れる。目の前の大顎から見えているのは、無理矢理引き千切られた切断面。

「──────、あ……?」

 ──何か? ミコトの腕だ。余りの呆気無さと強引さに、脳が己を騙す時間も無い。
 激痛と喪失感に、一瞬身体が自分の意識を追い出しそうになって、そしてやはり激痛と喪失感によって現実に引き戻される。

「ぁおあああああああああああああぁっ!!」

 ──瞬間、言葉にならない絶叫が、ミコトの口から大量に吐き出された。

 腕が。
 腕が。
 右腕が。
 利き腕が。
 ただ一番近かったというだけの理由で。
 体の一部が。
 己の一部が。
 命の一部が。
 歴史の一部が。
 齧り取られて、噛み砕かれた。

「あっ……ぁあ…いぁ……ッ」

 何を言ったかは覚えていない。助けて、とか、何だよこれ、とかだったかも知れないし、もしかしたらただの呻き声だけだったかも知れない。
 そんな右腕に対する懺悔の様な記憶を押し退けて、脳内と瞼の裏に刻み込まれたのは、目の前の真紅の両眼に縦に切れ長な瞳孔、その直ぐ下に規則正しく並べられた鋭利な牙と、威嚇するように広げられた大きな翼に鱗に覆われた巨大な体躯。

 ドラゴン、竜、龍、恐竜、巨大トカゲ。

 中学三年生の貧弱な語彙ではこれぐらいしか言い表す言葉は知らないが、それでも目の前の非日常(アブノーマル)の危険度だけは知らずとも理解は出来た。
 揺れる視界に膝を付いて、そのままの勢いで額を地面に擦り付ける。一連の動作のように胃の中の物を全て吐瀉物として地面にぶちまけ、顔中が嘔吐に汚れる。
 その事にも構えない。構う事が出来ない。自分はもしかして狂っていたのか、何とか痛みを取って代えられないかと必死に切断面を抑えて無事な皮膚に爪を立てていた。
 しかし、嘔吐は無視できても、目の前の威圧感と変わらず全身に圧し掛かる恐怖は無視出来るものではなく、頬を地面で擦りながら何とか視線だけでも前に向ける。
 丁度、喉を鳴らしてドラゴンが口の中で咀嚼していた"ナニカ"を飲み込んだ所を目にしてしまった。

「あ…………」

 倍増しした喪失感に構ってもくれず、ギョロリと音がしそうなほど生々しくドラゴンの視線が移動した。
 蹲っていた体勢から後ずさろうとして、呆れるほど暢気にミコトはそのまま尻餅を付いた。それもそうだ。意識は明滅し、膝は無様に笑っている。

 ドラゴンの口は今は空いている。
 再び眼が合って、今度はその大口が奥へ繋がる口腔が、その更に奥の分厚い喉笛が。
 空気を、震撼させた。
 まるで、さっきのミコトの悲鳴を宣戦の雄叫びと受け取ったかのように。
 眼が語る。
 先は悪かった。さあ、戦おう。お前も己も雄だ。負けた方は勝者の糧に、と。

「いっ、…い…なあ……。いき、なり、……食い、って、くれちゃ、……って」

 脂汗と言うものはここまで一度に出るものなのか、と言うほどミコトの顔がしとどに濡れて顎から首から肘の先から零れ落ちて地面を濡らす。
 混乱からか人間の言葉をぶつけるミコトなどそっちのけで、ドラゴンの自由になった大顎が再び開かれる。

 体を庇いたかったのか、それとも現実を受け入れ切れなかったのか手を振り乱しながら後ずさろうとして、こてんと体が引っくり返った。左腕を振り乱して、右腕で体を支えようとしてしまったのだ、と遅れて気付く。
 成す術も無く視線が空に投げ出され、これ以上無い程の危機的な状況にはあまりにも間抜け過ぎる、引っくり返った亀のような格好。
 仰向けになった事でどう血液が回ったのか、世界が崩れだしたのではないかと思うほどの眩暈が視界を揺らす。
 立っていられない、それどころか再び上体を起こしてドラゴンの紅い目を覗き込む事さえも出来そうにない。
 しかし、そんな心配は無用だったようで、見上げた灰色の曇天に割り込むようにドラゴンが牙を剥いた爬虫類面を覗かせた。直ぐに襲い掛かってこなかったのは、どうやら転んだ事が死んだ振りと同じような効果をもたらしたらしい。

 それでも、警戒は一瞬。三度その大顎が開かれる。
 食べられる。
 余りに日常から逸脱した恐怖の形に上手く感情が働かず、独りでに口角が上がり引き攣った笑顔を作った。
 しかし、自分は何処までも生き汚かったようで。結果、それが高じて生き延びる事が出来たのだ。

 考えてやった行動ではない。
 結果的には、幸運が三つ重なったのだ。
 ミコトがとった行動は、命を諦めきれず左手で懲りずに後ずさろうとしただけ。
 それがまさか、バランスが取れずに転び、それで巻き上げられた小石がドラゴンの右目に直撃するとは思わない。

 右目に激痛が走ったのであろうドラゴンは、短く悲鳴を上げて怯む。
 しかしそれだけでは致命的な打撃にはなりえず、むしろ余計な怒りを滲ませてしまっただけ。

 だから、二つ目の幸運がミコトを救った。
 いや、それは果たして幸運だったのか。客観的に言えば状況はより悪くなっただけかもしれない。
 端的に言えば、ミコトを食ったドラゴンも、ここでは食物連鎖の中間点に属する存在でしかなかったというだけ。
 フッと、太陽が雲に隠れた時のように影が辺り一帯を暗くした。
 竜の目の中から威厳が消え、同時にミコトも眼中から消えたように思えた。捕食者の目から被食者の目に変わったのだ。
 混乱した頭の中でミコトがその事に気付けたのは、竜の尋常じゃない怯え方も当然理由の一つだったが、それよりも、──上空から伸びてきた"手"があまりに圧倒的な存在感を示していたからだ。
 この存在感の前では竜であろうと蜥蜴に等しいと、そう思えるほどに。

 竜の体長は長い首と尻尾を含めておおよそ10メートルほど。その常識的には考えられない大きさの獣を、その"手"は横から掴み取って難なく持ち上げた。
 手の幅は五mほどだろうか。胴体部分を持ち上げられ竜は暴れるも尻尾と首が力無く手に当たるだけで、状況は好転しない。竜はゆっくりと持ち上げられていき、

 そして、筆舌し難い音が鼓膜を揺らした。
 肉に歯が食い込む音。骨を砕く音。あれほど勇壮な咆哮を繰り出した大顎が吐き出した、消え入りそうな断末魔。
 ボトボトと人間のそれより明らかに明度が低い赤黒い液体が、細長い筋となって空から降り注ぐ。

 ──その生臭い液体が頬に当たって、自分が気を失いそうになっている事に気付いた。
 そして一瞬遅れてまた気付く。
 竜を食らったその存在が、黒い鉛筆で幾重にも丸を書き殴ったような目でじっとこちらを観察している事と。──そして、三つ目の幸運に。
 目の前にいるのは、またしても幻想の中にしか存在しないと思っていた生き物。

 鬼。
 西洋に出てくるようなオークやゴブリンではない。虎皮の腰布と金棒こそ無いものの、その佇まいはどこか和の気配を感じさせる。
 頭があるのは地上から十五メートル程の場所だろうか。細く長い九十九髪が後髪も前髪も腰の高さまで伸びていて、先ほどの目は髪の上から浮き上がるように存在感を放っている。
 そして、鬼であることを証明する"角"。
 絵本のように三角柱型の角ではなく、髪の流れに従うのように下に向かって流れるように生えており、規則正しくも無い。
 そのごつごつとした表面と無差別に枝分かれした様は、まるで木の根を思わせる。

 これ程の巨体。どれだけ逞しい体かと思うかもしれないが、その体躯は恐ろしく細長い。
 一見すると骨と皮だけのように見えるが、そうではない。黒ずんだその肉体は強化ゴムのような筋肉を更に圧縮、研磨したもので、この巨体を支えるほどの精度を持っているはずだ。
 ミコトはともかく、あのドラゴンに見つからず接近し難なく捕まえてみせたのだ。そう考えるのが普通だろう。
 そうやって何とか状況を理解しようとするミコトの頭は、鬼とは別の目の前の異変に邪魔されて処理が遅れていた。

 青色。

 空の色とも海の色とも違う。もっと人工的な、例えるならばカキ氷のシロップのような毒々しい青色。
 それが薄くミコトの視界を覆っている。
 青い。しかし視界が悪くなるほどではない。そこから先の思考には行き着けずその二つだけを繰り返し確認している。
 口の端が上がる気力すらも既に無い。ただ歯を小さく鳴らしながら後ずさるだけ。
 と、左手の小指に何かが当たった。
 ブン、と機械的な音が続く。

『"翠竜の牙" インベントリに収納しますか?』
『"翠竜の翼膜" インベントリに収納しますか?』
『"竜の生き血" インベントリに収納しますか?』
『"喰鬼の爪垢" インベントリに収納しますか?』

 意味は分からない。一部は単語の意味すら分からない。
 しかし、追い詰められた頭は勝手に頭を縦に振っていた。

『了解(The Consent)』

 青色の"画面"に映し出された文字列が、消えてすぐにまた現れる。
 映し出された文字に目を見張る。
 翠竜の牙。翼膜。生き血。爪の垢。その単語の後にそれぞれ"収納を確認しました。"との言葉が載っている。しかし、ミコトが驚かされたのはその文字のどれでもない。

 その文字列の一番上。
 身に覚えも、見覚えも無い言葉が一つ。当たり前のように鎮座している。

『インビジブル ×3』

 見えた糸口に、今まで怠慢の限りを尽くしていたミコトの頭が物凄いスピードで回転した。
 インビジブル。見る事が出来ない。神の不在証明。

「あ、」

 即ち、不可視。

「────ッ」

 今縋りつこうとしている物が藁であれば、目も当てられない。
 人が透明になれるなんて想像しても、現実ではありえない。しかし。でも、ここまでの非日常に放り込まれたなら、後一つぐらい良いだろう? と、逡巡すらせずその文字に手を伸ばした。
 後から思えば文字を掴み取ろうとでも思ったのか、と笑ってやりたくもなるが、結果的には危機回避に繋がったので何も言われたくは無い。

 当然文字を掴み取れなどは出来なかったが、突き指しそうな勢いで人差し指が"インビジブル"の文字に衝突する。
 ぐに、と卓球のラケットを指で押し込んだような感覚の後、

『インビジブル ×1 使用しますか?』


 機械的な音声のあと、五行ぐらいのインビジブルに対する説明が続いている。
 しかし、そんな物を読む暇もこの状況ではそんな必要も無い。狂ったかのように頷きながら、親指で"インビジブル"の文字を連打するだけだ。

『インビジブル 使用』

 瞬間、薄く膜のように張っていた青色の画面が斜め上に収納されるように身を縮め、代わりに視界にノイズが走った。
 眩暈が酷いこの状況では、僅かに首をもたげる事ぐらいしか出来ず、目の前の鬼の行動に自分の命運を預ける。

 一秒、二秒、──三秒以降は時間が曖昧になって本当は三十分経ったのではないかと感じるようになった。
 それでも、鬼は動かない。
 ジッとこちらを見つめたまま、ただ小さく喉を鳴らし続ける。

 ひょっとすれば、姿なんて消えていないのではないだろうか。
 そんな考えが頭を過ぎた。
 畜生、何であの説明を読まなかったのだ、と今更になって後悔が頭を巡る。

(読む必要が無いってどういう事だよ……! 無い訳ないだろうが! そもそも──…)

 思考が後ろ向きに加速していくのが自分でも分かった。しかし止まらないし止められない。不安と恐怖がタッグを組んで後ろ向きな思考の背中を押していく。

 ──怖い。
 唐突に、見え隠れしていたその感情を思考が引っ張り出して晒し出した。
 噛み締めて我慢していた歯が臨界点を超えて派手に音を鳴らし始め、あれほど頑張っても起き上がれなかった上半身を起こして無様な格好で後ずさりを繰り返して、背中が固い岩壁の感触を捉えた。

「あ……」

 肘が折れて、もたげていた首がかくんと力を無くして再び視線が曇天に投げ出される。
 そこで、見た。
 怒りと憎しみと戦意と殺意に表情を乗っ取られた、全身が黒いドラゴンが鬼の目の前に躍り出るのを。
 意味を察する。鬼は既にミコトなど見てはいなかった。
 
 ずっと睨みあっていたのだ。
 自分の小ささ故に助かった。安堵した。そして、弱さを盾にした自分に辟易した。
 様々な感情の奔流は気を失う前兆で。
 もう一度地面が揺れる。
 同時に一際強い風が吹く。

 それはきっと、岩壁に密着していなければ吹き飛ばされるほどの風で。目の前の鬼と竜でさえも身を屈めてやり過ごす選択肢を選んでいて。

 厚く空を覆っていた雲を吹き飛ばしていく。
 そして、ようやくそれを見つけた。
 先程から連続していた、地面の揺れも強風も。自然の物ではなかった。

 自分の小ささに笑いそうになる。
 この山がどれほどの標高があるのかは知らない。だが、それでも、その巨大さだけは身に沁みて痛感した。

 最初のドラゴン。ミコトはその首の長さほどしかない。
 黒い鬼。最初のドラゴンはその手の平ほどの大きさしかなかった。
 黒い竜。立ち上がれば黒い鬼と同じぐらいの背丈になるだろう。
 しかし、それでも。
 雄大すぎて背景の一部になってしまっているような"彼ら"の前では卑小な存在に過ぎない。

『"名付き"に遭遇しました』

 慌てる事など知らないのだろう。薄れ行く意識に囁くように機械的な声が響く。
 視界が狭まっていく。目に映っているのは、金色の髪が足元まで伸びた白い鬼と、銀色の鱗に白い鬣を持った龍。
 その姿は遠く、火山灰でその姿は霞んでいる。

 のしり、と巨龍が山の頂上に前足を乗せた。
 のぞり、と疲れたように鬼が体重を山に預けた。
 あまりに大きすぎて、視線を九十度近く傾けなければ頭を見ることも出来ない。

 山を挟んで。
 恐らく頂上の更に上で視線を交わらせて。
 彼等はただ殺意に満ちた視線を交錯させていた。

『星屑龍 アガペー』
『仙鬼 だいだら法師』 

 痛みと、驚きと、震えと、失血と、寒さと、空腹と、恐怖から。
 ミコトの意識は、黒く染まる。




[29555] 3
Name: どるいまん◆d3e6567e ID:3a29a918
Date: 2011/09/23 00:26
 目を覚ますと、見慣れない天井があった。
 ミコトの部屋であれば、部屋に似合わない豪奢な天蓋が目の前にあるはずだが、今天井にあるのはレトロな雰囲気を醸し出す大きな木目が入った木の天井。
 身を起こそうとすると、ギッと軋む音がして、そこからも木の気配を感じさせる。
 木のベッド。これも、ミコトの部屋とは違うものだ。
 薄いシーツを押し退けて立ち上がると、軽い眩暈と足元がふわふわとした感覚に襲われる。
 すぐ隣を見ると鉄製の洗面器と丁寧に畳まれたタオルが二枚ほど。勝手に使っていいのか少し逡巡したが、とにかく寝惚けたような感覚が鬱陶しくて両手で水を掬い顔にぶちまけた。

「あ、起きたんですね」

 ガチャン、と何の前触れも無しに開かれた扉の音と、かけられた声に体が過剰に反応した。

「あ」

 嫌にスローモーションに洗面器が地面に落ちて、床に水をばら撒いた。

「あらあら、まあまあ」
「す、すみません……!」

 扉から出て来た女性がぱたぱたと駆け寄ってきて、いつの間にか手にしていた雑巾を持って床に屈んだ。

「良いんですよ。こんな木の床でもしっかり防水性ですから」
「あ、雑巾貸してもらえますか」

 流石にこのまま立ち尽くして、床を拭いているのを黙って見下している訳にもいかないので、女性から雑巾を借りてミコトも床に屈みこんだ。
 思ったよりも水が少ない。もう少し水は多かった気がしたが、女性がかなり掃除上手なせいだろうか。

「はい、おしまい」

 ギュッと音が鳴るように雑巾が、これまたいつの間にか用意されていたバケツに流し込まれて、床が染みも残らないほど綺麗になった。
 ミコトも最後の分をバケツに流し込んで、腰を上げ、改めて女性を見やる。
 ミコトの視線に気が付いたのか、不思議そうに小首を傾げる様は酷く女性らしい。
 外見も綺麗に整っていて、女性らしい体型をしている。少し茶がかった黒髪に、同じ色の瞳。魅力的な女性なのかもしれないが、なぜかミコトには女性らしさも全く感じない。

「どうしました?」
「あ、いえ……」

 と言われても、すぐに視線は吸い寄せられるように女性の顔に戻った。
 劣情を感じたわけではない。何だろうか、違和感がどこかに引っ掛かっている。それも、いくつも。
 まずは、そう。
 ──目の前のこの顔は知っている顔だ。以前、どこかで、確実に。

「顔はお拭きにならないんですか?」
「あ、ああ、すいません、ありがとうございます」

 手渡されたタオルを両手で受け取って、少し逡巡した後思い切り顔を付けてガシガシと顔に残った水分をふき取った。顔を上げて目に入ったのは、相変わらずレトロな木の小屋に、朗らかに笑う柔和な女性。
 何のきっかけがあったわけではないが、不思議と今度はその女性が誰かさえも分かっていた。

「母さん」

 聞こえなかったのか、それとも周知の事実だったからなのか、女性──母さんの顔は凝り固まったかのように微動だにしない。
 ああ、と小さく溜息が漏れる。
 分かってしまった、残念ながら。
 足がふわふわと浮いたような感覚はそのままで。
 右手を使うたびに、違和感が頭を掠め。
 必要な物がある事が当たり前で。
 死んだはずの母親が居て。

 加えて。

「……母さん。僕は寝る時と起きる時はいつもうつ伏せなんだ」



  ◆




 頬に乾いた風を感じ、初めて目を開けた。

「夢でした、か」

 目を覚まして最初に目に入ったのは相変わらずの荒野。力無くふよふよと火山灰が舞い、目と喉を酷く渇かしていく。
 黒い鬼と黒いドラゴンは既にどこぞへ姿を暗まし、あの二匹とも二人ともお二方とも、何とも数え方に困る巨大な鬼とドラゴンは再び雲の上に隠れてしまったらしい。
 溜息とも失笑ともとれない中途半端な息を口から吐き出した。
 同時に疼きに近い鈍痛が右肩から心臓のあたりまで広がった。
 喪失感が胸を穿つ。どうやら、こちらは夢ではなかったらしく、思い出したかのように鈍痛が目を覚ましだす。
 しかし、不思議なほど痛みは少なく、何故か止血もしていないのに血は流れていない。

「うっ……」

 それでも、津波のように一瞬で吐き気が最高潮に達し、口から胃液を吐き出した。生体反射で浮かんだ涙を拭って口元も拭う。

『インビジブル効果持続時間残数 3時間』

 何の脈絡も無しに。機械的な声がいきなり耳元でそう告げた。

「3時間…………」

 一体何時間眠っていたのだろうか。
 そんな事よりここはどこなのか。そもそもインビジブルって何だ。おじさんはどうしてこんな所に自分を送ったのか。だからここはどこなのか。そして、なぜ僕は死んでいない。腕を食い千切られて血が噴出してそのまま気絶して、それなのに死んでいないのか。血が止まっている理由も、今は判らないまま甘受するしかなかった。

「どうしろって言うんだ……」

 途方に暮れる、とはまさにこの事なのだろう。
 残った左腕がゆっくりと右肩に移動した。傷と出血の具合を素人なりにも確かめようとした行為だったが、二の腕を触ろうとして空を切った感触があまりに虚しくてやらなければ良かったと後悔した。
 それでも、嫌な思いをしたからには無駄に終わりたくはなく恐る恐る傷口へと左手を移動していき、程なく生々しい感触に指が触れた。傷口付近もミコトの体の感触で、しかし少し痺れた感覚が残っている。これが、血と痛みが止まっている原因なのだろうか。
 顔を顰めたのがミコト自身にも分かる。同時に吐き気も戻ってきたが、これ以上無様を晒したくはない。

(クールに、クールに……)

 ここで無様に喚き散らすのは非常に簡単だが、それはミコトの美意識に反する。普段は格好付けから来るこの思考も、こんな状況で冷静になれるのなら貴重なものだ。
 過呼吸に注意して短く息を吐き、ゆっくりと呼吸を深く長くしていって、やがて一際長い呼気を最後に吐き気を完全に取り除いた。

「ふっ」

 そして、取り込んだ酸素が体の中で使い切られないうちに足に力を込めた。
 いつもよりやはり力は入らない。
 一度片膝を付いて、もう一度深呼吸。そしてまた一息に体を持ち上げた。
 視界が高さを手にいれ、更に遠くの景色が明瞭になり、──瞬間、物凄い酩酊感と眩暈が視界を覆いつくした。

「っ……」

 ただでさえの失血に加え、一気に頭から下半身に血が巡ったことによる一時的な貧血状態。
 体力と気力があらかさまに削られていくのを感じながら、自然と固く目を瞑った。
 ここで倒れてしまえば、怪我こそしないだろうがまた気を失うか、数十分は起き上がれない予感がする。
 堪えたのは時間にすれば十秒程度だったが、ミコトには数倍数十倍の時間に感じられただろう。結果的に後ろの岩壁にもたれ掛かりながらも、曲がりくねった世界はじわじわと元の形を取り戻していった。

 何とか取り戻した視界を改めてみて、やはり出てきたのは溜息だった。
 規則性などまるでない岩肌の地面がどこまででも続いている。
 鋭利な起伏に富んだその地面は、正面で急勾配になっており、百八十度視界を回転させれば下り坂になっていて足を進める気をくじかせる。
 見上げれば曇天が視界を遮り、青い空など見えるはずも無い。
 その割に空気中に水分など全く感じられないのは、恐らくあの雲が噴煙だと言う事と、火山灰の飛散が原因だろう。

(このままじゃ、まずいよな……)

 水は無い、食べ物は無い、知識は無い、空気は希薄、環境は劣悪。
 考えを巡らせようが、視線を巡らせようが、救いが一つも見当たらないのはどういう事なのか。
 荒れ果てた活火山だ、水と食料の確保は難しい。まあ温泉ぐらいなら見つかるかも知れないが。加えて空気と足場の悪さも改善の仕様が無い。
 ならば、知識。情報がいる。情報が手に入れられない状況などない、筈だった。

(情報……)

 一通りここまでの記憶を浚ってみて、そういえばインビジブルなる不思議事情文字列の横に、×3なる思わせぶりな文字があったことを思い出す。
 使ったインビジブルが一つだとするならば、まだ二つ残っている可能性が高い。先ほどは読み飛ばすどころか目もくれなかった説明書き。
 あれを見よう。このままここに留まって様子を見るにしてもボーっとしているよりはましだ、と目の前の一つを明確にした。
 そう思って、次の瞬間には途方に暮れる。
 どうやって使うのか分からないのだ。いや、正確には使い方は分かるが、使う事が出来る状態までのプロセスが分からない。そこに至るまでにまた情報がいる。

(青い画面。あれをどうにか出せれば何とか……)


 と。
 そこまで思考が行き着いた所で、難なく問題は解決した。
 ブンと機械的な音が鼓膜を揺らす。

「お……」

 目の前が薄いブルーに染まった。
 いくつかの文字が箇条書き形式で記載されていて、右半分は人型のイラストがゆっくりと回転している。

「ステー…タス、ウィンドウ?」

 states windows。
 右上にさりげなく書かれた文字列を反射的に読み上げた。
 左側に規則正しく記されているのも、また英語の文字。上からアイテム(items)、ウェポン(wepon)、アビリティ(ability)、イベント(event)、コミュニティ(community)、フィールド(field)、コンフィグ(config)、イグジット(exit)。

(なんだこれ……)

 英語はこれからの社会に一番必要だと考えていただけあって、読めない単語や意味が分からない単語は無い。しかし本質的な意味では全く理解が追いついていないままだ。
 とりあえず、これに触れてみる事からだろう。この状況の打開法さえ思いつかない状況ではとにかく行動するしかない。

 一番上のアイテムコマンド。
 恐る恐る青色の画面の一番上の文字に指を伸ばしていく。
 ところが指が進んでいる途中で、何となく目の前の青い画面が目で見ているものではないんじゃないかという思いが頭を過ぎり指が止まる。

(そう言えば、さっきは頷いただけで反応してた、か……?)

 進んでいた指を引っ込め、〈アイテム〉と念じてみると、瞬く間に画面が切り替わった。

「おお……」

 魔法のような所業に思わず簡単の声が漏れた。
 画面の色が薄い緑に変わり、インビジブルを頭に据えていくつかの文字列が下に続いている。

 "翠竜の牙" 
 "翠竜の翼膜" 
 "竜の生き血" 
 "喰鬼の爪垢"

 薄々と感づいていた事だが、手に入れたこのアイテム達を眺めてみて、ほぼ確信に至ってしまった。

「……RLOだよな、やっぱり」

 俗に言うVRMMORPGには全く知識は無くても、普通の形態ゲームのロールプレイングゲームなら幾らミコトでもやった事があった。
 この四つのアイテムは恐らく何かの武器に加工したり売り払って換金する為のもの。
 ありえない光景も物語や逸話にしか登場しないはずの生き物も、今流行のRLOだと考えれば、ある程度の辻褄は合う。

 しかし、完全にとは言えない。
 RLOの世界に入り込むには、眼鏡とサンバイザーとサングラスとフルフェイスヘルメットを足し合わせたような、いかにも近未来的に加工したコンピュータデバイスを使わなければならないはずだ。
 そんな物を使った覚えもないし、あの状況、あの部屋の中にそんな物も装着して設定する時間も無い。
 それに、あまりに現実的過ぎる。
 RLO自体が圧倒的なリアリティを誇る次世代ゲームだとは聞き及んでいるが、それでもこれはやり過ぎだ。
 乾いた風。焦げた硫黄の臭い。足が地面を掴む感触。不規則に流れる曇天から一本の筋の様に漏れる陽光。
 痛み。喪失感。嘔吐感。嫌悪感。恐怖。

「くそ……」

 勝手に脳裏がつい先程の現実を瞼の裏に映し出す。
 座り込んで何とか守りきった体を抱き締めて泣き出したい気持ちを必死に押さえつけた。
 しかし、それでもより鮮鋭度を増し、時には恐怖と想像力が生々しさを水増しして鮮烈な映像が記憶を走り抜ける。
 あの生々しく光る鱗。牙の手元に挟まった何かの肉片。生臭い吐息や、野生に揉まれ研ぎ澄まされた視線。

(違う。そんな訳が無い……)

 あれは、違う。
 RLOをプレイしてこそいないが、ありえない。いくら次世代的なゲーム媒体を作り出したとしても、あれ程の現実感は実現不可能だ。
 人間ごときが作り出せる領域ではない。
 それが自分の矮小さを実感させられた事による、捻くれた感情のせいかも知れないとはミコトも頭の隅で気付いていたが、それでも結論を改める気にはならなかった。

(何とか、逃げなきゃな……)

 この状況で救助を待つだとか、あまつさえ夢から覚めるだとか馬鹿な考えに至る人間はいないだろう。
 しかし、それを考えるのはまだ後だ。
 こんな訳の分からない状況で闇雲に歩き回る。
 いや、常識外のこの状況ではそれも一つの手かもしれないが、自分の命運をそんな運否天賦に任せるのはあまり賢い選択ではないだろう。

「まずは、こいつを調理しないとな……」

 そして、改めて目の前の青い画面に視線を戻した。
 画面は未だ薄緑のアイテム画面を映していて、何とかアイテム名は確認できるものの、視界一杯にぴっちりと嵌め込まれたように存在しているのは少し見辛い。
 ──と。
 そう思った一瞬後に薄い緑色の画面が震えた。
 瞬く間に二周りほど小さく縮尺されると、更に腰の辺りにまで移動して、最後に見易いように四角い画面の上縁部を斜めに持ち上げた。

「こりゃいい」

 感覚的にはノートパソコンを首から提げているような感覚だ。
 思考するだけで十分とは分かっているが、あまりに手が届きやすい場所に画面が移ったので左手でアイテムの下に位置しているコマンド──weponの文字を押し込んだ。
 シュン、と小気味良い音を立てて画面が今度はオレンジ色に変わる。
 表示されたのは文字ではなく、代わりにどこかで見た事がある顔と体が浮かんでいた。

「……僕だ」

 誰がどう見ても、いや、ミコト自身がそう言ってしまうのだから間違い無くミコトをそのまま投影した姿だと言えるだろう。
 そのミコトもどきが、休めの格好から腕を解いて斜め下に伸ばした正面像で、ついでにとんでもない仏頂面でこちらを見つめていた。

「やっぱり何かのゲームか……?」

 ゲームでなくても、それを基盤に作り上げられた何か、かもしれない。
 頭、胸、腰、足、両手両足にそれぞれ細い直線が繋がっており、辿った先には四角い枠が存在している。しかし、その枠の中は僅かに他の部分と色を違えているだけで、何も書かれていない。
 weponと書かれた言葉。更に線で示唆されている体の各部から察するに、ここは"何か装備する"為の画面なのだろう。
 ますますゲーム染みた仕組みに苦笑しながら、とりあえず他に何か無いかを探すと、右端に何か矢印が点滅しているのを見つける。
 好奇心に誘われながらそれに触れると、待ってましたとばかりに新しい画面が折り重なるように横から出現した。

「成程」

 そこには何かを収納するような四角い枠が一列に並んでいて、恐らくここに防具やら武器やらを保存するのだろうと推測できた。
 もう一度画面全体を見渡してから、もう何も得るものは無いと判断してミコトは食指を動かすように、最初の七つの選択肢のうち、アイテムとウェポン以外のコマンドの上で指を迷わせる。
 アビリティと、コミュニティ。
 この二つのコマンドは期待が大きかった。
 もしかしたら、何か間違ってワープ系の魔法か何かがあるかもしれないし、コミュニティに誰かの名前があれば連絡が出来る可能性があったからだ。
 しかし、結果としてその二つは、今のところ空欄の群れだけが全てのコンテンツでしかなかった。

 溜息を一つ。
 そして、一番重要なコンテンツ。──フィールド(地理)。
 ゴクリ、と唾が独りでに喉を伝った。
 今まで触れなかったのは、期待からか不安からか、それともその二つは表裏一体で実は同じものなのか。
 どちらにしてもこれが最後。
 コンフィグに現状打破の何かがあるとは思えないし、イベントから突破口が見つかる想像もし辛い。
 今までのコマンドに打開策が見つからなかった以上、名実ともにこれが最後の砦。
 悩むのも、もう精神衛生上良いとは思えず思い切って親指を件の文字に押し付けた。
 何度か聞いた、ブンと言う機械的な音。そして、やはり機械なのか何のタメも無しにミコトの命運が広がった。

「これは……」

 広がったのは、茶色の画面。
 いや、画面の色は青だ。煤けたような茶色が示しているのは恐らく地面。画面の中にもう一つ用意された大き目の囲いの中が薄く茶色に染まっているのだ。

「……良いのか、悪いのか」

 その枠一杯に広がった茶色は多分広大過ぎる地面を表していて、歩いて横断できる程度かも一目には分からない。しかし、間違っても狭くは無い。この荒野の真ん中に自分はいるのだ。

 そして、所見を述べるならもう一つ。
 機械的で正確そうな地図の上に書き殴るように付けられた、丸。ボールペンで何度も重ねたようなその印は、明らかに何かを伝えようとしていた。

「……どうしろって言うのさ、オジサン」

 何か一言添えてくれていれば、と思わずにはいられない。
 ここに行っては駄目なのか、それともここを目指すべきなのか。
 大きな丸が示しているのは、ここから更に山を登った場所だ。しかし、下りと上りと、心情的にどちらに行きたいかと言えば下りなのだ。
 今は分厚い雲に覆われて見えないものの、あの巨大な鬼と龍が待っている可能性が高い。しかし確か何処に出るか判らないと言っていなかったか。
 そうすると、自分がここ居るのは想定外の事であり──……。

 駄目だ。と思考を投げ出した。
 このままでは一人水掛け論になるだけ。
 頭を一旦空にしたまま、急勾配から続く山を見上げる。
 その先に今はあの龍と鬼はいない。
 あの存在から見れば、自分如きは羽虫に等しくわざわざ踏み潰される事は無いだろうとは思うが、それでも出来れば近づきたくは無い。
 本当に微妙なバランスで決断が鈍る。
 もし、地図に記されていた印が○ではなく×だったらば間違い無く山を下っただろうと言うほど絶妙なバランスの状況だった。
 だから、それでも頂上に向かって足を踏み出したのは、

「……信じたからな、腐れニート」

 愛してるとまで言ってのけて騙したのならば呪ってやる。
 右肩を押さえながら溜息と苦笑を同時に吐き出すと、睨み付けるように曇天に隠れた頂上を見上げた。



◆ ◆ ◆



「は……っ、ぁ……」

 かれこれ、三時間。
 インビジブルを一度使い直しているので、それだけは間違い無い。しかし間違い無い事が、それと自分が頂上に向かっていると言う事しかない。
 因みに確認したインビジブルの効果は、長々とくどい説明があったものの一言に纏めれば『透明になって、敵と遭遇しにくい』。これで十分に伝わると思う。

 この三時間の間にも分かった事はあった。
 一つは、どうやらこの場所にはドラゴンと鬼しか生息していない事。そしてその二種族が争いを続けていると言う事。恐らく生態系の頂点を争って。
 龍と鬼は、色も大きさも様々なものがいて、最初の緑色のドラゴンやそれを食らった鬼も何体か見つける事ができた。
 歩いていたり、寝ていたり、それこそ殺し合っていたりしたが、このインビジブルのアイテムとしての精度はかなり高いらしく、今ではすぐ脇を通って先に進むこともあった。
 しかし、怖くないと言う事ではない。
 と言うより怖くないわけが無い。怖すぎる。戦々恐々。
 言い表せないほど怖いのだ。しかし、それ以上に自分の体力の残り少なさが、迂回すると言う選択肢を奪っていた。
 身体能力自体は平常時となんら変わらないものの、右腕が無い事で体の全体的なバランスも崩れている。それだけで疲労は重なるし、今は生き残ると言う最大目標があるから何とか気持ちを誤魔化していられるが完全に我に帰れば腕が無いと言う事実だけに発狂しないと言う自信も無かった。

 気付いた事はまだある。
 今こそ、どんどんと火山灰と噴煙で視界が悪くなってきているものの、歩き始めた当初は視界も良く敵が近くにいない時には例のステータス画面を見ながら歩くことも出来た。
 その時に更に気付いたのが3つ。

 イベント欄はただの空欄の連続だったので、その中から得られた物はやはりなかった。
 よって一つ目は、コンフィグの中に言語欄とデータ欄があった事。
 言語欄は英語でそれこそ何十個もの言語名が羅列してあって、上から三番目ほどの位置にあったJAPANESEを押すと、最初のステータス画面が日本語に切り替わった。
 そして、データ。
 これは選択すると更に三つの事項が現れ、その三つが上からモンスター、アイテム、ジョブだ。
 この状況がゲームと関係しているのならば、この三つの事項にも大体の予想が付く。そして改めてその三つに目を通してみても、そう予想を違える物はなかった。
 ジョブの欄には何も記されてはおらず、一通り目を通してすぐに閉じた。
 アイテム欄とモンスター欄も、予想通り図鑑のような作りになっていて何十回もスクロールした後にいくつかの名前が出て来た。
 翠竜だとか、喰鬼だとか、ここまで来るのに見た奇々怪々な生き物達の名前が画像つきで紹介されていた。
 そして更に数回スクロールして、枠の中の色が真っ赤に変わった。ここだ、と反射的に声を出したのを覚えている。しかしその赤い枠は一番下まで見ても全てが空欄だった。

 予想していた名前があったのは、赤い枠の更に下の黒い枠。
 数えても十個ほどしかないその枠に今も二つの"名前"が綴られているはずだ。

『星屑龍 アガペー』
『仙鬼 だいだら法師』

 大々的に大仰にその名前が記されているのを見て、ミコトはむしろ安心した。
 あの二体が十把一絡げな存在だったならば、この世界はもう人間の手に負えない領域だと言えるだろう。
 その項目を閉じた後で、なぜか不安が僅かに安らいでいる自分に気付いた。多少なりとも未知の部分が埋まったからだろうか。詳しくは分からない。

 そして、三つ目。
 それは気付いたと言うより、見落としていた物を拾い直したと言った方がいいだろうか。
 最初のステータス画面。
 最初はいくつかのバーが乱立しているな、と言うほどの事しか感じ取れなかったが、改めて見るとここにもゲームらしい項目が満載だった。

 HP、MP、ATK、DEF、INT──…etc。
 HP以外は全て15で統一されている。
 そしてHPとMPだけはバーの色が違っていて、一目で今の状況が分かるように作られているようだ。
 MPのバーは濃い緑一色で、15/15と表記されていて何の問題は無い。問題はHPの方だ。HPもバーの色はほぼ一色。いや良く見れば端の方にほんの僅かだけ違う色が見える。

 3/100。

 その僅かに残った色の方がHP残存量だと分かった時には思わず膝を付きそうになった。
 3。
 もはや緑色のバーは擦り切れるほど細くなっていて、最早縦に伸びる線にしか見えない。しかし今更慌てふためく気にもならずミコトは一笑に付してその場の気を済ませた。
 残るバーは後一つ。
 今までのステータスバーとは違う事を示すように、少しだけ離れた場所にオレンジ色のバーが浮かんでおり、その上に"インビジブル"と素っ気無く文字がのっかている。
 その時のバーの減り具合は半分を過ぎた結構なものだったが、二回目の今はまだ四分の一にも達しておらず、まだまだ時間はあるだろう。

 しかし、やはり余力がある訳ではない。

「う……ッ…ぁ」

 唐突に胃の底から何かが這い上がってきた。
 堪えても辛いだけ、近くの岩場に足を引き摺りながらも駆け寄り、全て岩の元に吐き出した。
 固形物は一切無い濁った胃液がボタボタと不規則に地面に落ちて足元を汚していく。喘ぎ声を一つ残して口の中に残った酸味を唾と一緒に吐き出すと、服の袖で口を拭いた。
 その一連の動作に慣れてしまった自分を自覚する。最初こそ涙を零しながらだったが、今では火山灰による目の乾きを感じるほどだ。
 渇き。
 これも、もう見過ごせない問題になってきている。
 目はいくら瞬きをしても、眼球の奥の痛みがとれず、口の中も干乾びているようだ。
 歯茎の裏を舌で擦ってもざらざらとした感覚しか伝わってこず、喉の奥は先程の胃液で何とか潤っているような状態だ。

「あー……」

 声が出るかどうか不安になり、何となく声を出してみる。もちろん周りに敵影が無い事を確かめた上で、だ。
 肝心の声は多少しわがれていた事を除けば問題なく出ていた。しかし考えてみればこんな場所で声が出てもしょうがない事を思い出して、へらへらと笑う。

(……地図)

 このステータス画面は試行錯誤の末、こちらの意思で伸縮、位置設定が出来るようになっていた。
 視界の端に開きっ放しにしている地図画面を目だけを動かして見てみる。目標地点までの距離は間違い無く縮まってきている。しかし、九分が半分と言うように目標地点まではまだ果てしない。

 足が重い。
 既に行軍速度は著しく低下している。
 瞼が重い。
 いつの間にか噴煙に入り込んで、極端に視界は狭くぼやけている。
 腕が重い。右肩からまるで毒が滲んできているように、痺れが全身に回っている。
 恐怖が重い。孤独から、苦しさから、あちこちから漂う野生の殺気から、その恐怖に鈍感ではいられない。重い重いな重いよ重いぞ重いだろ重いのに重いって重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い重い────。

 思考は既に労働義務を放棄して、ただその単語を頭の中で繰り返す。まるでその単語を隙間無く嵌め込んでいくような感覚。
 いつの間にか口からもその言葉が零れ始めていて、それを冷静な自分が遠くから俯瞰して、いや暗い目をしているだけで何も言わない。
 周りの空気を生温い油のように感じながら、ただ足を動かしていく。

 不意に。
 目の前が、暗くなった。
 気絶してしまったのか、と勝手に分離した意識が推測する。いや違う、と
 残された意識が冷静に判断下す。
 ミコト自身の感情は置いていかれたようなふやけた感覚。しかし、冷静でいられるのならば享受するのが吉。
 驚くほどの警戒心の無さで目の前の壁に触れた。
 岩壁のようなごつごつとした感触。しかし、"ような"だ。だとするならば、手が触れたそれは岩壁である事だけはありえない。

 そして、触れていた"瞼"がゆっくりと開かれた。

「────ッ」

 よく見れば睫毛がある。瞳は血のように。噴煙が濃過ぎて開かれた上瞼さえも、もう目では追えない。
 ぎょろぎょろとその血溜まりのような瞳が噴煙の中を移動する。

『名付きに遭遇しました』

 法龍 アスクレピオス。恒例のアナウンスによるとこの龍はそんな名前を冠しているらしい。

(……龍)

 先程の星屑龍よりは小さいが、これもまた人智の外の存在だ。
 驚きは途方も無い大きさでミコトを襲うが、その驚きはどこか遠い。それは現実離れした光景だからか、それともミコトの意識が現実から遠ざかっているせいなのか。

(ああ、これを食べてるのか)

 どうやら、竜が忙しなく吸い込んでいるこの噴煙も普通のものではないらしい。ミコトの肺にも大量に入っているが、多少息苦しいだけで決定的な障害を得ることが無いのもそのせいだろう。

 こんな所でわざわざ寝ているのだから、何か特殊な効果でもあるのかもしれない。まあ、残念ながらミコトにはこんな所で添い寝してやる余裕は無いが。
 鱗はつるつるでよじ登れそうになく、他の抜け道を暢気に探す。三秒もしないうちにその穴を見つけた。
 たまたま二つの巨岩に圧し掛かって僅かに出来ている隙間が『穴』と言うのが正しいのかどうかは分からないが、地面に頬を付けて覗き込むと向こうにも光が確認できたので、とにかく通り抜ける事は出来そうだ。
 しかし人一人が何とか通り抜けられるかどうかの大きさで、しかもふとした拍子で潰される可能性もある。ただでさえ薄い酸素も更に希薄になるだろうし、どれだけ長いかも分からない。
 ところが、再びこの竜が瞼を閉じているのを確認してミコトは躊躇いもなしに体をその隙間に捻じ込んだ。
 臭い。
 それが一番最初に頭の中を駆け抜けた感想だった。
 生臭い鱗の臭い。まあこれも、そして何だかぬるぬるする手触りも仕方ない。今更引き返す訳にもいかないのだ。
 それよりも困るのはこの中は通気性が悪く、瞬く間に酸素が減っていく事。

(まずいな……)

 あれだけの巨体だ。通り抜けるのにどれだけの時間が掛かるかも分からないし、加えて今は右腕がない。

『"法龍の薬鱗" インベントリに収納しますか?』
(うるさい……)

 呟く代わりに左腕を奮って、三十cm体を前進させる。
 それを何度も、何度も繰り返していく。景色は変わらない。ただ自分の命が削れていく事だけが実感できる。加えて焦りが実感できない事が何より不自然だった。恐怖はある。危機感はある。死の予感すらもある。ただ焦燥感だけが欠片も存在しない。

(ああ、これは……)

 ──それは、諦めてしまった時の感覚に良く似ていた。

「あ……」

 自覚した途端、かくんと体から力が抜けた。
 糸が切れたように、一瞬で崩れ落ちたせいで頭を地面に打ち付け、何度か小刻みにバウンドして、地面に落ち着く。

(ああ、やばいな……)

 隙間を作ってくれた岩を見ながら、とりあえず体を動かそうとしてみるが、ぴくぴくと痙攣するだけで指すらも動かない。
 ヒュー、ヒューと風を切るような音は自分の喉から漏れている音か、と人事のようにミコトは見解を続ける。
 意地でも情報を集めようとする癖がこの短時間の間にも付いてしまったのかも知れない。
 そんな事を考えている内に、体の足掻きも止まって思考も大らかな何かにゆっくりと埋め尽くされていく。

 それは眠気。
 痛くて怖くて臭くて寒くて熱くて辛くて苦しい状況の後には、その感覚はあまりに優し過ぎた。その心地良さに比べれば意思も根気も目的も自分の命でさえも些事として押し退けられてしまう。
 心が篭絡されてからは、体も一切の抵抗をやめその甘美な誘惑を受け入れて身を委ねていった。

 ──しかし、神様はまだ目を瞑らせてはくれないらしい。
 ごろん、と何とも間の抜けた音と共に視界が一気に広がった。

「ッ、ハぁっ──」

 広がったのは視界だけではない。
 雪崩れ込むように入ってきた空気が、口から肺に流れていく。
 今までの後ろ向きで投げやりだった思考が、薄く靄の様に意識を覆っていた眠気と共に一瞬で吹き飛んだ。

「何考えてんだ、僕は……っ」

 既に覆い被さる様に屋根の役をしていた竜の体はない。緩んでいた歯を打ち鳴らすように勢い良く噛み締めると、左手で思い切り地面を掴む。

「う、ぉお……ッ!」

 柄にもなく語尾に!マークを付けながら掴んだ左手を起点に体を引き起こし、そのままの勢いで痺れる足を地面に押し付けて突き放す。
 思ったよりも力が入らず、数歩よろけながら進んだ後バランスを崩して受身も取れずに顔から着地する。

「あッ、ギ……ッ」

 ずるり、と頬の皮が擦れて地面にこびり付いたのが分かった。生々しい感触にまた胃が痙攣しそうになるが、喉を引き締めて上ってきた胃液を無理矢理飲み込む。
 左手がほぼ無意識に先の地面を掴んで体を運ぶ。辛いだろうに、と人事のようにミコトは思うが自分の体だ。ならば付き合ってやるべきだろう。

 ぐ、と今度は前に進むのは諦め落ち着いて体を持ち上げた。
 ぼやけた視界が上がり、明瞭な景色に切り替わっていく。

「あ、あれ……?」

 目の前の景色が今までとはまるで違う事と、えらく空気が澄んでいる事に気が付いた。宙を舞っていた火山灰は一粒も存在せず、見上げれば噴煙も見当たらない。
 何事か、と地図を横目で見ると、現在位置を表す赤いマークが、例の丸印の中に入り込んでいた。

(……恒例の、情報収集の時間だな)

 情報収集と言っても聞き込みも出来ない為、自らの見聞を検分するだけだが何もしないのとは大分違うはずだ。
 まずは、ミコト自身が助かった理由だが、これは簡単。簡単ゆえに、何だか少し虚しいが。
 寝返り。向こう側にこの巨大な竜が寝返った分、ミコトの体が空気に触れられた。生物一個の寝返りに救われた命と思えば随分複雑な思いがあるが、まあ助かったのだ、それで良いとするしかない。
 またいつこちら側に転がってくるか分からない。そう思えば今は穏やかに上下している鱗の壁が槍が突き出た城壁のようにすら思える。
 新鮮な空気をありがたく頂戴しながら、ゆっくりと移動を始めた。

「ここまで、くれば……」

 僅かながらも確かに背中に恐怖を感じながらも進み続け、五分ほど進んだ所で安全を確信してか恐怖に耐え切れずにか後ろを振り向いた。

「でか……」

 もう驚くのも慣れてしまったので、苦笑しながら呟いた。
  視線の先の龍は、今まで見てきた西洋風ドラゴンとは違い、どちらかと言え中国発祥の"龍"に近い形だ。しかしそれならば"大きい"ではなく"長い"と言い表すのが妥当だと思われるかもしれないが、生憎と長さは分からないのだ。
 頭は向こう側にあるためか確認できず、尻尾もこの土地を守るようにぐるりと回されていてどこにあるかは見当が付かない。
 唯一確認できるのが、龍の体の上縁と下縁。
 いや、これでは分かりづらいか。詳しく言うならば、龍の腹と毛が生えている背の部分までを直線で結んだ長さしか視認出来る部分がない、と言う事だ。
 そして、それがまた大きい。
 あちら側では噴煙と火山灰が邪魔して見る事は出来なかったが、よじ登るという選択肢を選ばなくて良かったとミコトは胸を撫で下ろすぐらいには。何と言っても上の部分は澄んだ空気のこの場所でも霞んで見える程だ。
 そして、横を見てまた一言。

「……でか」

 古代のローマに登場しそうな大きく白い柱は、外周の長さも長さも尋常ではない。太さは直径で何十メートル。長さは途中で霞んで良くは見えない。
 人間が作ったものではない。恐らく人間以外の知的生命体が作り出したのだろう。もっと大きくて、桁外れの力を持った。具体的には龍とか、鬼とか。その辺り。
 いつ倒れてきてもおかしくはないその柱が怖くなり、その下を離れる。実際に途中から圧し折れてしまっている柱もある。その倒れた柱もまた、端は確認できない。
 床もまた一つ一つが馬鹿でかい石のブロックで出来ているようだ。
 そして、その床も柱も、お互いが競い合うように地平線のかなたまで続いている。

〈────〉
「……え…」

 何か、聞こえた。
 いや気のせいか? 失血と疲れのせいで幻覚や幻聴を発症しないとは言い切れない。が、もう一度、声ともただの音とも雑音とも取れない何かが確かに鼓膜を揺らした。
 それを認識した、その瞬間。
 ごぉんと重々しい音と共に目の前が何かに覆われた。
 しかし、びくりと身体を竦ませたのも一瞬。目の前のそれが自分に害を為す物ではない事に気付いて、肩から力が抜ける。
 扉だ。これ自体は害があるものじゃあない。しかし、あまりにも不気味に過ぎる。
 恐る恐るながら手を伸ばして触ってみる。
 冷やりとした岩の感触。大理石でもなんでもないただの無骨な岩の扉。決して大きくない大きさのそれはしかし、人類の気配を感じさせる。
 この火山や鬼や龍はもちろん、この床も柱も文化の匂いはするが人間の為に作られたものではなく、そして恐らく人間が作ったものですらないだろう。
 しかし、この扉は違う。
 幅と高さどちらも二メートルほどでほぼ正方形の扉。
 誰が作ったのかまでは判り様もないが、ほぼ間違いなく人間の為に作られたものだろう。
 その扉を無意識の内に押し開けてしまったのは、この場から逃げ出したい恐怖心からではなく、好奇心からだった。
 それほどにその扉は甘美な未知を孕んでいて、そして永い時を過ごした荘厳さを持っていたのだ。

 扉が嘘のように軽い抵抗で開いていく。
 最初の一押し、指先で感触を確かめるくらいの僅かな一押しで扉は開帳していく。
 その開き方は明らかに不自然で、恐らく一度押してしまったのならば全力で引き戻しても後戻りは出来なかったのだろう。
 そんな事を考えながら、命はただ扉が開いていくのを眺めていた。

 そして、開き切ったのを確認した時には、扉は背後に移動していた。
 無意識の中で潜ってしまったのか、それとも扉が意思を持って命を飲み込んだのか。
 ──抱えた疑問はしかし、瑣末な問題として脳裏に片付けられる。

「遅いぞ、矮小の」

 変わった。全てが変えられた。
 変わらなかったのは、無骨な石畳と巨大な柱。後は引き千切られた右腕くらいだ。
 その存在はそれほどに大らかで、人には毒になるほど綺麗な物だった。そのせいかその姿は正視に絶えず、しかしその金色の両眼はこちらを事も無く見据えている。
 体中の毒と言う毒を──、いや体中の血液を聖水に変えられたかのように錯覚する。
 この場に居るのにその様な汚い物を体に流すなと言われているのか。いや、もしかしたらあの華美さに当てられて自分の汚さを恥じているのかもしれない。
 もちろん美しさがあった。そして儚さがあった。更に慈しみがあった。洩れなく畏れがあった。ただ気高さがあった。限り無く優しさがあった。どこまでも粗暴さがあった。神々しさがあった。
 そして同時に、その対極となる物も全て孕んでいた。

 その姿はもしかしたら、とある世界を全て凝縮して人の形にした物なのかもしれないと。

 漠然とそう思った。



2011/09/23  ステータス画面にイベント項目を忘れていたので追加しました。




[29555] 4
Name: どるいまん◆d3e6567e ID:25e2a7cc
Date: 2011/09/13 23:50
 先程と同じ大きすぎる石畳の上。大きすぎる柱の傍らで、ミコトはそれと相対していた。
 今度の地面は目の前にいつまでも続いている訳ではなく、きちんと終わりが見えている。四方が十メートルほど進んだ所で地面を終えていて、自分は何処から来たのか石の扉も既に存在しない。
 周りを見渡しても、雲とは違う白さを滲ませている空以外には何も見えず、そしてその濃さゆえに地面の下を覗き込むことも出来ないだろう。

「いや、貴様の場合、卑小のと言い表した方が適切か?」

 再び発せられたそれの言葉に、ミコトの全神経がそれの挙動に吸い込まれる。
 もう目はその存在以外を見る事は出来ず、耳はその声を聞く事しか出来なくなった様に感じた。
 ならば口はその言葉に応えるためにあるのだろうが、どうしても言葉は出てこない。要は、圧倒されている。その事を自覚してミコトは喉を鳴らす。
 ミコトを表情一つで縛ってしまいそうなそれは、驚く事に人間の形をしている。
 煌びやかなその白銀の髪は、肩を超え肩甲骨を超え腰も超えて、地面を伝い床の終わりまで伸びているようだ。
 その体は十五歳ほどだろうか。
 布切れ一つ身に付けていない風貌で、男性器は無く、そして胸の膨らみも感じられない。中性的な裸体を晒し片膝を立ててこちらを見上げる眼は血のように紅く、口の端は楽しげに歪められている。
 黙する威圧感という物を初めて知った。
 これは人間ではない。雄でも雌でもない以上、生物ですらないのかも知れない。
 少なくとも命自身よりは遥かに高次の存在か、若しくは高次に"設定された"存在なのだろう。
 矮小の、卑小だのと言われる事が当たり前だと思う、その意思まで捻じ曲げられている気すらする。

 偉大。そう、偉大なのだ。
 絵画の中に引き篭もっても、そのまま芸術品として愛されていく美としての完成度を持ち、そして偶像にしたのならばさぞ信心とお布施を得る存在となったことだろう。

「本来なら極限に達した武芸者か、歴戦の英雄が辿り着くはずだがな。──何とも哀れな稚児が紛れ込んだものだ」
「神……?」
「は、神ね。余りに凡百でありふれた言葉だな。退屈させてくれるなよ、殺しかねん」

 何とか搾り出した言葉は一喝され、次の言葉も彼の言葉を追及することも出来ない。理解できないものが何より怖いと言うが、成程確かにそうだろう。
 ことさら、思考力が発達した、それも真新しい刺激に鈍化している日本人にはそれは最早凶器にさえなりえそうだ。

「神じゃ、ない」
「是。あんな偏屈と一緒にされては困る」

 しかし、漸くミコトの口も本来の役目を思い出してくれたのか、何とか沈黙を作らないように言葉を作る。
 それは疑問を受けての質問ではなく、何となくこの場に沈黙が許されないような気がしたからだ。目の前の存在は神ではないとそう言ったが、威圧感が収まったわけでもない。
 ミコトの言葉を受けた"それ"の表情は、好奇心に冒された子供のようで、しかし何処か達観した老獪さも同居している。

「そう怯えるな」

 びくり、と肩を揺らして、そして揺らしてしまった自分を僅かに嫌悪する。
 それを見て一体何を思うのか、相変わらず目の前の(便宜上少年と呼ぶ)少年はただ座ったまま、口の端をほんの少し持ち上げていた。

「何とも臆病だな。我が造詣の中では人間はかくも勇敢なのだが。やはりそれも個に拠るか」

 一つ溜息を付き、表情を陰らせ俯くと、小さく銀色の髪が揺れた。
 地面の終わりを超えてもまだ続いている余りに長いその銀色の髪は、髪の重みのせいか一本一本が張っていて、まるでこの場に縛り付けられているかにも見える。
 その紅い目は長すぎる髪で陰っているせいか、何処と無く潤いや生気が感じられない。
 
「さて、本来ならここで力比べでもする所だが、余りに貴様はか弱い。まるで塵芥だ。さて、どうしたものか……」

 少年は立てた膝に肘を乗せて頬杖を付き、そのまま視線を右上にやると一人考え事を始めた。
 その所作は何だかとてもこなれていて、いつも何か思考を巡らせているのだろうかとミコトにそんな漠然とした感想を抱かせた。

「……退屈そうだ」

 するり、と自分でも驚くほど滑らかに言葉が転がり出た。思わず自分の口を手の甲で押さえて、数歩後ずさりする。
 いや、沈黙を作らない。相手に思考の時間を与えないという意味で、沈黙を作らない努力はするつもりだった。
 だから、客観的に見れば不思議な事ではない。

 しかしミコトは今思考を怠っていて、出てきた言葉の中身はがらんどう。
 さぞ今の自分は目を白黒させている事だろう。何しろ、口の中から無意識に何か知らない生き物が出てきたような感覚で。
 そして、何より意外だったのだ。
 このような空気の中で。このような場で。そして何よりあんな物と相対して。あれほど滑らかに自分の感情を吐露した事が。

 それを目の前の少年は予想でもしていたかのように緩やかに三日月の形に歪めた唇の角度をほんの少しだけ上げて会話を繋げる。

「そう、それなんだ。卑小のそれよ」

 それはまるで台詞合わせのように淡々と紡がれる。
 何かに誘導されている、そう感じた。何か。何だろうか。こいつは何を期待して笑みを深くしていっているのか。
 ただこちらを見定めるその視線は、相変わらず冷めて乾いている。

「この場所の主として貴様に一つだけ自由をやろう。貴様ももう疲れただろう。面倒だ。言え、貴様はこれからどうしたい」

 いきなり多すぎる選択肢を放り出されて、ミコトの思考が停止する。何度停止するんだと舌打ちしながら、それでも無理矢理考えを巡らせる。
 どうする? とりあえず何か──、と。

「おい、卑小の」

 そう、ゆっくりと思考が回り始めていたところで、前から聞こえた声に弾かれる様に顔を上げた。
 その顔は余りにミコトが期待に添えなかったからか、既に返答よりも怯える弱者をいたぶる嗜虐心に満ちていたように思う。
 だから、その仕草も声も半笑いで、悪戯心に満ちたものだった。つまりそれは、思いつきの悪意だったわけだ。

「努々軽く考えるなよ。ここは、紛れも無く貴様の生涯の瀬戸際だ」

 それでも。
 ぞわり、と冷たくざらついた感触がミコトの背中を撫でた。
 それは恐怖だったかもしれないし、緊張だったかもしれないし、もしかしたら絶望だったかもしれない。
 思わず体を掻き抱きたくなる衝動を憶える、が、既に片腕は無い。
 虚しさを感じるぐらいならばとその衝動を押さえ込んで、代わりに奥歯をかみ締めた。
 どうしてこんな目に、とこの状況を招いた全てに悪態を吐いて回りたい。おじさんにも、あのいかにもな黒尽くめの集団にも。妙な考えを起こしてしまった自分にも。
 そして、当然目の前の超常にも。
 ふざけるなふざけるなと、理不尽に?ぎ取られた右腕の切断面を握り締める。


 ──思えば。

 ここで僅かに首を擡げた──、いや、ささくれだったと言うレベルの反抗心が、ミコトの物語(じんせい)を大きく変えたのだろう。

「……思い、つかない」
「何ィ?」

 きょとん、と少年の表情と声色が変わる。
 返答に面白みが無くて期に触れてしまったのか、伝わってくるのはピリッと肌に痛いほどの緊張感。
 それは殺意だとかあるいは殺気という物なのか、思わず後ずさりしそうな空気を肌に感じながら、ついでに頬を伝う冷たい汗の感触にも身を震わせる。

「く──」

 長い──、いや高まった緊張感からか、少なくとも体感時間は果てしなかった沈黙が破れる。

「──ッぁははははははははははははははははははッ!」

 その笑い声は、絵画のようなこの場所で、どうしようもなく場違いな音。
 身の危険を感じたのか、ずぐりと右腕の切断面が鈍く痛む。叫びだすほどではないにしろ、軽い吐き気も同時に催した。
 膝を叩いて、腹を抱えて少年は見当違いな笑い声を吐き出し続ける。

 感じてしまったのは距離。
 人間に似た姿形で、会話がある程度成立して、そうして少しだけ育っていた安心感が根こそぎ消え去る。
 不意に、ぴたりと笑い声が止んだ。

「──いやはや、実に興味深いじゃないか」

 その言葉に体が一際大きくびくりと震える。

「興味、深い……?」
「ああ、いやむしろ面白いね。少しだけ、ほんの少しだけだが、貴様は凡百と違うようだ」

 いけない。と、無意識が語る。
 また一つ、危険に近づいた。いや、それは正確ではない。
 例えるならば、幾重にも重ね着した鎧をまた一つ剥ぎ取られたような、そんな感覚。

「何が、おかしい……?」

 判らないと答えることが愚かだと言われるならば、まだ理解できる。しかし興味深い、あまつさえ面白いだと言われる事があるだろうか。
 改めて今までの会話を頭の中でなぞってみるが、ただ自らの情けなさが際立つばかり。
 どう考えても、何か耳を疑う場所がある訳でもない。

「──全く、耳を疑ったよ」
「──っ」

 心を読んだのかとでも言いたくなる物言いに小さく舌打ちをする。
 そんなミコトの表情もまた、少年の話の肴として喰らってしまったのか、ますます笑みを深くする。

「成程、判らないとは確かに字面だけ見ていればこれ以上無くつまらないな。お前の小さくてありきたりな反抗心も目に見えるようだ」
「なら……?」
「それでも、だ。我は貴様がそう答えるとは夢にも思わなかったよ」

 疑惑が深まる。同時に、目の前の少年が嘘を吐いていない事を悟った。
 歯を見せて笑みを保つ少年の視線は、見定めるようにミコトの体を這い回る。そして、ますます笑みを深くしていった。

「ああ滑稽だな。中途半端に覗いたら深遠に睨みを利かされたような気分だよ。その理解していない顔もこうなっては少し恐ろしい」

 それは独り言だったのか。
 ぼそりと呟かれたその一節は、嗜虐染みた悪意は篭もっておらず、その言葉を疑わせない。
 それでも、少年の言葉にいちいち翻弄されるミコトに少年は目を細める。
 それからどんな思考が巡ったのか。──いや、きっとまた身勝手な悪意を働かせたのだろう。
 ぱん、と小さく少年が両手を合わせて、ミコトの注意を引いた。餌付けされた犬のように、ミコトは視線を上げる。
 それでは答え合わせだ、と少年はただただ嗤っていた。

「貴様、今自分の格好を顧みて見ろ」

 さんざ思わせぶりに悩んだ挙句、少年はそう言った。

「格好……?」

 そう、格好だ。と少年は食い気味に相槌を付く。
 そして、全ての好奇心を一息に吐き出すつもりなのか、小さく息を吸い込んで胸を膨らませた。

「顔は土と吐瀉物で塗れ、手は荒れ指の先からは血が滲んでいる。足は硬く強張って重さを増し、爪先と踵は靴擦れで腫れ上がっている。動いてもいないのに既に肩で息をしている。酸素が体に回っていないのか、顔は蒼白、唇は紫色。服は砂と火山灰でざらつき、幾度とも流して乾いた汗でべたついている。──極め付けに。貴様は今右腕を失っているんだぞ?」

 それなのに、だ。と
 続いて出た一言、心臓に突き立てる杭の様に勿体付けられて振り被られた一言は。確かにミコトの意識には無かった事実を語る。

「何故、"帰りたい"と一言口にしない?」

 それでもまだ吐き出し足りないのか、雪崩の如く饒舌に、言葉を繋げていく。
 身振り手振りを大げさに加えながら、ゆっくりと知らしめるように。

「何故湯を浴びたいと思わない。何故柔らかい布団に包まりたいと思わない。何故良く冷えた水を飲みたいと思わない。何故家族の顔を見たいと思わない」

 帰巣本能なんぞ犬にでも備わっているだろうに。お前にはそれが無い。
 続けて吐き捨てる言葉は、驚きと好奇心と哀れみと微かな侮蔑も含まれていた。

「──別に、珍しい事じゃないよ。思いつかなかっただけだ」
「そうだな。しかし卑小の。確かにお前は何かが欠落しているぞ」

 気付いていなかったのか。
 そう言われればそうだ。しかし、意識の外にあっただけ忘れていた訳ではない。
 そうおかしな事だろうか。
 そうすると、ミコトの表情を見てまた心の内を探ったかのように少年は言葉を重ねる。

「所詮はゲームだと安閑としていたか? しかし、腕を噛み千切られれば痛みに喘いだだろう、身を包む疲労は苦しいだろう、苛む孤独感は肌寒いだろう! 降り掛かった死の予感は生々しかっただろう!? ──喜べ。それ等は漏れなく真実で、それでもここに居る貴様は確かに狂っている」
「それは、つまり──」

 ここで死ねば待っているのは、最寄の町の中でもなく現実でもなく。ただ、無機質な死後の世界だけ。
 なるほど、と何処か遠くで納得する。
 それならば、あの恐怖もあの匂いも妙に納得できる。命が掛かるというならば、それは確かに人間には過ぎる玩具(ゲーム)だろう。

「ああ、正直に言おう。此処には心の底が晒し出るような呪(まじな)いを施してあってな。貴様は押さえ込んでいた恐怖を爆発させ、泣き崩れ、帰してくれと懇願し、そしてその泣き顔を拝んだならばさっさと殺す気だった。いや、ここを引き返す事は出来ない故に貴様が死んで次の人間が現れるのを待つ、事実その展開しか望んでもいなかった。
──ああ、全くそれなのに」

 喜悦を。愉悦を。興奮を。何もかもの感情を余す所無く曝け出すその顔は、もはや理解の範疇では無い。
 いや、もはや想像の範囲ですらない。そもそもが別の生き物なのだ、とミコトは結論付けた。

 この気分を、言葉にしたらどうなるのだろう。
 理解が出来なすぎると言えばそう。恐怖が大きくなりすぎて平衡感覚すらも鈍ってきた。
 
 

 もう、離れすぎた。と漠然と思う
 この浮世離れした格好も、一人興奮する思考も。"余りに共感できな過ぎるのだ"。

 この少年が言う、その狂気とやら。
 あるのかどうかも知らないが、そんな物に何の意味があるのか。普通に十四年と生きて来て表層にも出ないそんな狂気など。
 道徳の授業で無理矢理搾り出して書き連ねる、自分の長所よりも意味が無い。
 そんなどうでもいい事で、何故これほどの存在がいちいち騒ぎ立てているのか。
 先程よりも、少年が小さく見える。いや、単に距離を感じるから相対的に小さく見えているだけなのか。

 遠く、遠く離れていく。
 理解できなくて、恐怖の対称だった物が、離れて、離れて、薄れていく感覚。
 例えるなら、パワーインフレが過ぎたバトル漫画を鼻で笑っているときのような。
 ああ、思えば。多分飲み込まれていたのだ。その神々しさに。
 飲み込まれて、確かに崇拝しかけていて、そこでしかし、失望する事に間に合った。

 ──離れて離れて離れて離れて、そして不意に、すっと思考が冷えた。
 同時に何かがブツンと千切れたような音が頭の中で響く。


 怒っている、と言うよりは呆れる──否、飽きる感覚。
 急速に周りの価値が薄くなり、灰色にくすんでいく。全て薄れてしまった中で、残るのは無敵感と万能感。
 そんな何の根拠も無い感覚と、この場所で、"あの程度の存在で"自分がどうにもなるわけが無いという無鉄砲な確信が、体と思考を支配していく。
 少年を見る。
 相も変わらず、一人で自分の世界に浸かり笑みと喜悦を零している。
 便宜上そう呼ぶ呼称だが、"これ"は正しく少年なのだろう。確かに、神々しい。確かに慈しみと儚さを持ち、畏れを気高さを粗暴さを優しさを感じる。しかし、幼く、何処までも幼稚だ。

 時々ある、この感覚。
 例えば、偶々忘れた宿題について、教師が顔を真っ赤にして怒っている時のような感情の温度差とか。
 ありきたりのケータイ小説を読んで咽び泣く人間を見た時のような哀れみとか。
 誰がやっても同じ総理大臣をよってたかって苛め抜く大人のみっともなさと、誰かを仲間外れにせずにはいられないグッピーを重ねた時に感じた虚無感だとか。
 倦怠感があって既視感があって、緊張感と現実感が消えて、自分だけ世界から浮いたような感覚。

 それはきっと、自分が世界を見下した感覚なのだろう。
 自覚する。
 自分は確かに卑小な人間だ。
 自分は見下した存在にしか強くあれない、弱虫だ。しかし、世界を全て見下したこの感覚の中でなら。

「ねえ」

 目の前の、白髪引きこもり予備軍に視線を移す。
 何かを示したいわけではない。ただ、上から目線が気持ち悪く、自分の世界に浸るナルシズムが堪らなくイラついただけ。
 それは、中学二年生の自分にとって、何よりも譲ってはならない部分だった。

「上から物言ってんなよ、満足に会話も出来ないコミュ障裸族が」

 こちらの悪意で押し黙る馬鹿の表情が、滑稽で笑える。

 まあ要は。
 ムカついてしょうがなくて、余りに酷い上から目線に"キレてしまった"のだろう。
 それは普段心がけているクールさとはかけ離れていたが、それは心の底を曝け出すと言うこの場所の呪いのせいにしてしまおうと、ミコトは笑った。


 ◆ ◆ ◆


「何……?」

 少年は固まった表情すら美しい。
 その表情の部分にだけ、世界が色を取り戻したような感覚を覚える。しかし当然、丁寧に色分けされている訳ではない。
 自分以外の他誰かが懇切丁寧に描いた絵の下書きに、思い切り原色のペンキをの中身をぶちまけた様な。
 それも肌色にも髪の色にも合わない毒々しいショッキングピンク。適当に滴る余分なペンキが、目も鼻も平面化してしまった無様な顔が、堪らなく愛おしい。
 しかしまだ、まだ足りない。少なくとも、無様な色を滴らせるその顔に、表情に、その色に。
 無様な足跡を付けるぐらいは。

「僕はさ、きっとつまらないって言われる事が一番嫌いなんだ」
「……ほう?」
「どうしてだか、わかるかい?」
「聞こう」

 ああ、つまらないつまらない。
 これ見よがしに呟きながら、無遠慮に少年に近付く。
 立ち止まったのは、少年の直ぐ目の前。
 あれ程大きく見えていた少年も、近付いてみれば見下さなければ、視線を合わせられない。

「思うんだ。高々つまらない僕の日常の一部に過ぎない卑小な存在が、つまらない自分を棚に置いて、あまり舐めた口を利くなってね」

 びきり、と少年の額に青筋が浮かぶ。
 足跡一つ。叩きつける。

「急にどうした? 偉く饒舌じゃないか」

 座ったまま少年が呟く。明らかな不愉快が声に混じっている。

「君の話がつまらないからだろう」

 二つ。
 踏みつけた。
 ざわりと、どういう仕組みなのかか、少年の髪が逆立って持ち上がる。

「退屈させるな? そんな事は一度でも僕を楽しませてから言えよ。凡百」

 続けて三つ。踏み躙る。

「そうだね。何だかんだで僕も君と一緒だよ。──退屈だ。今君と相対しているこの瞬間も」

 四つ。
 足の拇指が頬の肉を捻っている感覚を幻覚する。
 不意に、少年の存在感が大きくなったかのように感じた。
 変化は単純。当然体が大きくなったわけでも、立ち上がって近くなったわけでもない。
 こちらを、見ていたのだ。
 自然に属する者がそれを見たなら、恐らくその野生に竦み上がるだろう。しかし感情が滲み出ているわけではなく、その視線には落ち着いた知性と、そしてやはり静かな殺意も感じられる。
 殺意はとてつもない緊張感となって例外なくミコトも襲う。

 それに対し脊髄反射で、かはっと興奮に濡れた笑い声がミコトの歯の間から漏れる。
 少年が言っていた、心の底を曝け出すと言う呪い。成程、確かにこんな自分はミコトも知らない。こんな嗜虐的な自分がいるとは知らなかった。
 しかしだからこそ、少年の悪意も殺意も清涼剤程度にしか感じない。

 少年の視線を逆から覗き込もうとして、少年の規則正しいつむじが目に入る。唐突に頭を撫でようかと言う衝動が沸き起こるが、寸前で躊躇して手を止めた。
 触れば、あちらにも触らせる言い訳が出来るのではないか。そうなれば、触れば恐らく一瞬で殺されるのではないかと。
 今、この少年が手を出さないのは、自分が圧倒的に強いが故。言い負かされ始め、逃げるような解決を本能やら尊厳やらプライドやらが邪魔しているから。
 だから、理由を与えてはいけない。
 その証拠か、ミコトが手を引いた瞬間、視界の端で少年の指が口惜しそうにゴキリと骨を鳴らしていた。

 無意識の内に死線を一つ越えて、少しだけ調子に乗りすぎたと反省する。
 当初の目的を思い出そうと思考を回す。
 目的。突然放り出されて仕方なしに逃げ込んだだけ。当初の目的などそんな物は無い。
 強いて言うならばここからの帰還、と言うよりオジサンの様子を知りたいと言うことがあるが、帰りたいなどと言えば先程の言葉通り殺されてもおかしくはない。
 ならばならばならば。と三回ほど思考を回して、思い付く。
 此処に来てから学んだ事だが、途方に暮れたらやる事は一つだったはずだ。
 情報収集。まずはそれだ。ここから始めていけばいい。

 とりあえず少年と視線を合わせる。それも同じ高さで。
 つまりは、座り込んだ。少年の目の前に。
 少し背を曲げてでも、きっちりと少年と同じ高さに視線を合わせる。それはミコトなりに平等を示したつもりだったが、それも予想外だったのか目を剥いて驚いた少年の顔が、何とも印象深い。

「言葉を交わそうよ、"星屑龍"」

 その言葉に少年はもう僅かだけ目を見開く。

「……ほう。どうして我がその星屑龍やらだと思う」

 しかし、直ぐにその目を細め、値踏みするように言葉を返した。
 見開いたと言っても勘違いだと言われればそれまでと言う程度の物。言及するほどではない。しかしまあ、使い道が無いわけでもない。

「そうだね……。根拠は、君がそんな如何にもな姿をしている事と、如何にもな場所に居る事と。神じゃないと言う事と、入り口を龍が守っていた事と、ここがゲームの様式を取っている事かな」
「……?」
「いやいや、簡単な事だよ。良くは知らないけど、こんな神々しい舞台(ステージ)なら、それなりの存在が居るはずで、実際に居て、その存在である君が神じゃないと言うならば、僕が知る偉大な存在に心当たりはとある鬼と龍だけで。そして入り口を龍が守っていたのなら、君の存在は押して図るべしってね。流石に此処に居るのが十把一絡げじゃ駄目でしょう? ゲーム的に」
「……馬鹿か貴様は? そんな物は根拠ではなく、結果推理にもなっていない。只の──」
「妄想だね」

 気取って言葉を重ねようとした少年の言葉に、更に悪意の言葉を重ねて打ち落とす。

「それで、この僕をつまらないと言う君が、まさかそんな僕のこんなつまらない妄想に事実を沿わせていないだろうね」

 違っていれば、一笑に付されて殺されるかもしれない。
 しかし、だからこそミコトは鬼の首を得たように高らかに妄想を話した。
 根拠と言えば、先程連ねた妄想と、そして先程僅かに表情を変えた少年の顔。
 その根拠のどちらもただのミコトの妄想で、全く違う事実が待っていても不思議ではない。いやむしろそちらの確立の方が高いのだろうか。
 危ない橋だ。一歩踏み違えただけで奈落の底。

 しかし、その言葉を聞いて一瞬後、びきり、と少年の表情が憎々しげに歪んだ。歪んでくれた。
 上がった口元は先程の表情と同じ。しかし、感情は全く逆方向に振り切れている。その証拠に、眼は一切笑っておらず、今度のそれは何とも無様で愉快だった。

「──殺してやろうか。卑小な小僧が」
「それは僕には関係が無い話だ。君が殺そうと思えば、僕には何の抵抗も出来ないからね」

 知性は、弱さに溶かされる。
 野生と食欲が強すぎる存在にはミコトは太刀打ちできない。出来る事は無様に逃げ回るだけ。今は無い右腕がいい例だろう。
 そして、ミコトが逃げ回らざるを得ないその存在は、目の前の存在に指先一つで消し飛ばされるのだろう。

 しかし、目の前の存在は、この地の王たる星屑龍は。
 その知性と尊厳ゆえに、ミコトに手を出せない。
 卑小だと侮蔑する人間の言葉如きの為に嘘をつく事も、勝って当然の力で対等な勝負での己の負けを取り戻す事も、知性からなる尊厳が許さないのだ。
 三竦みだと、大それた事を言うつもりはミコトにもありはしない。
 ただ、ミコトが今現在この地の王を見下している。あるのは、その事実だけ。

「もう一度言うよ。星屑龍」

 もう一度この地の王の名前を使う。ぶわりと熱風が走ったかのような威圧感がミコトの体を走り抜ける。
 全く、この間に一体何度自分は殺される事が可能なのか。
 しかし、引かない。媚びない。省みない。どうせ、出来る事は唯一つ。

「一緒に、お喋りしないか?」

 びしり、と近くの床に罅が入る。そこらの埃と砂が持ち上がっていく。
 まるで異世界だ。実際、此処にはミコトが知らない法則が働いているのだろう。
 流石に、清涼剤だとは言えないレベルの悪寒がミコトの背中を這いずり回る。一掬いで致死量となりそうな殺意の中。ミコトは星屑龍の返答を待つ。
 恐らく、身動きすれば殺される。目を逸らせば殺される。言葉を発せば殺される。
 ここが、恐らく分水嶺。
 既に互いの笑みは口元だけ。口元の笑みは見栄。他は固まったように無表情。
 ただ、視線と悪意を交換する。

 それから、どれだけの時間が経ったのか、既にあの大きな床石さえも重力を忘れて宙を彷徨い、漏れる殺意が開けっ広げなこの空間に飽和するか否かと言うところで。
 星屑龍が動く。
 叩きつけるような殺意はそのままに、ゆっくりと口が開き──。

「断る」

 そう言葉を発すると同時に、ミコトの首が締め上げられた。

「っ……」

 瞬きすらも我慢していたと言うのに、いつ首に手が回ったのかも判らない。
 万能感と無敵感はそのまま。
 しかし、所詮は反抗期男子のよくある勘違いではないと言い切れない。ただ、それだけの事。

「成程、中々に面白い人間だ、お前は。少々癇に障るが、ああそれでも好感の方が大きい」

 しかし、飛び出たのは賞賛の言葉。それも星屑龍の顔は愉快気に歪んでいる。
 笑みを浮かべたままミコトが意識を手放す寸前で、星屑龍はミコトを放り出した。無様に尻から地面に着地し、そのまま地べたに身を伏せた。
 一瞬で最大まで広がった気道が思い切り空気を吸い込み、そして咳き込む。空気が無くなるだけで死んでしまうとは、やはりどうしようもなく人は弱いとミコトは笑う。

「貴様は力は凡夫。それも今や五体不満足」
「……悪かったね」
「しかし、我の言葉と表情から我の名前と内面を探ったのは見事。そこから我が貴様を殺せない事態に持っていくまでの話術と性の悪さも悪くない。そして何より──」

にまり、と少年の唇が禍々しい三日月形に歪んだ。


「我を前に自分の妄想と過信に命を投げ込む、そのイカレた蛮勇がどうしようもなく気に入った」


 すっと目が細められた。
 邪悪だった。神などと最初に勘違いした自分に呆れそうになる。
 こいつは、目の前の存在はそんな慈善的な存在ではない。何処までも自分の事しか考えておらず、自分しか信じていない。

 感じていた悪意が、同族嫌悪だった事をミコトは知る。

「星屑龍。アガペーだ」

 喉が焼けるのではないかと言うほどの痛みに喉に手を当てたまま、言葉の意味を無理矢理噛み砕く。
 そうしたならば、返せる言葉はそう多くない。

「……ミコト。才崎 命(サイザキ ミコト)だ」
「サイザキミコト。憎たらしい貴様だが、そんな貴様の底に可能性と待ちに待った終焉を見た」

 そして、悪意はそのまま、敵意はそのまま、殺意はあくまでそのままで。

「我は、貴様を選ぼう」

 彼は、そう言った。
 そしてその言葉と同時に、ミコトの足許が黒ずんで溶け出した。その沼のような黒い何かは、まずミコトの腰と足を絡め取り、そして黒い粘着質の沼は手の届かない範囲まで続いている。

「ま、待て。話を……!」
「中々に有意義な時間をありがとう。その代わりと言っては何だが、貴様にも刺激的な毎日を送ろう。──どうか、楽しんでくれる事を祈る」

 ずぶずぶと、膝が埋まり胸が埋まり、視界が更に下がっていく。

「では再び見えるときに。此度会う時には腕っ節の方も少しは強くなっておけ」

 鼻が埋まり、反射的に呼吸を止めたところで、無様におぼれるミコトの姿を見て愉快気に笑うアガペーの顔が映る。
 そして、最後に。

『愚かな敵意と狂気に、非凡な胆力と可能性に、ささやかな期待と感謝と尊敬を』

 そんな言葉と最後まで厳かな声と共に。

『"悠久の戦線"。単独踏破ボーナスを取得しました』

 機械的な声が頭の中で響き、ミコトの意識は闇に染まった。


 ◆ ◆ ◆
 

 その日は、早目にGLに潜ってレベルが低めのダンジョンに二人で潜っていた。
 今拠点にしている町から大型の二輪の全速力で二時間ほど。
 正直、見渡す限り地平線の草原を、オフロード並みの性能で走り抜ける非現実的な二輪を乗り回せるだけで八割方満足はしているのだが、チームの意向を無視するわけにもいかず遠回りもせずにダンジョンに潜ったのだ。
 そしてそんな事を言っておきながら、自他共に認める熱しやすい性格が殺意を剥き出しにする魔物共に触発されて、結局好戦的に口の端を吊り上げるのだ。
 呼吸すれば湿った土の臭いが鼻を付き、所々に空いた穴から外の光が漏れている。
 今男がいるその場所は、ドーム状に広がった、洞窟にしては開けた場所。《ファーム》、または《魔物溜り》と呼ばれる魔物が群生する場所だった。

 無骨な程に巨大な剣を一振りすると、こちらを囲んで踏み潰そうとしていたオーク達の腹が消し飛び、地面に付いた瞬間スキル《自動収集(オートゲッタ)》によってインベントリに収納される。
 その死肉に隠れて後衛で弓を番える《弓法師》に飛び掛る銅ゴブリンを目の端に確認する。

 歩法は《地抜き》。
 柄を叩きつけるのは《荒ハバキ》。
 くどいほどに定められたスキルの名前が、わざわざ頭の中で再生される。
 くそ重い剣を担いだ重さに基づく落下の加速を利用してノーモーションで短く速く接近し、これもまた刀身の重さを利用して柄を下から突き上げ、ベオウルフの頭蓋を砕く。
 数えるのも嫌になるほどの膨大なスキル。しかし、持て余す事はない。システムの形質上、それは技術として自分の中で確立している。

「ギブアップ? 手を貸しましょうか?」
「冗談だろ!」

 意識的に使う数少ないスキルの一つ。

「──いざ尋常に」

 洞窟内に響くは《決闘の鬨》。
 その声を聞いてしまった並み居る魔物達が一斉にこちらを向く。
 そして、もう一つ。

 ──《仁王断ち》。
 頭の中で響くシステムボイスを他所に男は虚空に向かって大剣を振り下ろす。
 その軌道に倣う様に、こちらに攻撃マーカーを向ける敵全員の頭上から股間までが綺麗に断ち割れた。

「《仁王断ち》か。前線(あっち)じゃ使えそうに無いですね」
「ああ、一撃で倒せるのはこのダンジョンぐらいまでだ。使うならもう一人前線が居る時か、全体攻撃が出来る魔術師がいる時だな」
「ホーストかマリが居れば、何とかできますね」

 とりあえず魔物共の死骸がポリゴンになって消え去ってから、黒い大剣を一振りして慣れた動作でそのまま背中に背負う。

「進むか。とりあえずボス部屋まで行って、何も無かったらその辺探索する」
「ええ。何か見つかるといいけれど」

 女はその長い黒髪を揺らして男に歩み寄る。
 その女らしい肢体は、この湿った洞窟にはあまり似つかわしくは無いが、女の顔はこういった鉄火場には慣れているようだった。

「つっても、もう三回目だしなぁ」
「あら、三顧の礼とも言うじゃないですか」
「まあ、この糞ゲーはマナーが無いイベント条件多いからな……」

 戦闘が終わった途端に爛々とした光は消えうせ、男は気だるげに肩を鳴らす。
 この二人が既に最前線でもないこのダンジョンに潜っているのは、このダンジョンでだけ何のイベントも起こっていないからだ。
 いや実際には何のイベントも用意されていないダンジョンも少なくは無いが、それでもこのダンジョンの規模から言って何かしらのイベントはあってしかるべき。
 よって二度の探索により何も見つからなかったものの、とりあえず暇なら行けというチームの意向によりここにいたのだった。
 このゲームでの戦闘は正直に言って楽しい。
 ゲームシステム、スキルシステム、そして性能から言って、このゲームほど遣り甲斐がある物はそうないだろう。
 しかし、同じ場所。同じ魔物と言うのは流石に飽きを助長させる。

「ここのボスは何だった?」
「サラマンドラです。体長三メートルの火蜥蜴ですね」
「…………よし、帰ろう。綾香」
「はいはい、行きますよ」
「待てって。落ち着けって。まだ今週のジャンプ読んでないんだって。ハンターハンターの終わりを見届けてからでも……」
「駄目ですよ。ただでさえうちはお金が無いんですから。それにハンターハンターが終わるのはきっと二十二世紀です」

 腕を引っ張られ、また引っ張りながら洞窟をのろのろとふざけ合いながら進む二人は、傍から見れば仲睦まじく、独り者が見れば青筋を浮かべるかもしれないほど。
 そんな二人の前に、少しだけ文明の匂いを感じさせる石造りの扉が現れた。

「じゃあ、何時もどおり私が適当に援護するので、適当にズバズバ切り刻んで下さいね」
「……何時も思うが、こんな適当に戦ってていいのか?」
「まあ、今まで生き残っているという事で」
「あれだ。愛の力だ」
「気色悪い事言ってないで、さっさと体張って下さい」

 女の毒に男は頬を引くつかせると、一つ溜息を付いて、扉に近寄る。
 古い岩の装飾が無言で近付く人間を威圧するが、帰ることは諦めたのか、その威圧に男は楽しげに口元を綻ばせた。

「じゃ、行くぜ」

 その芸術とも言える独特な雰囲気を持つ扉を、何の尊敬も無く蹴り開く。
 同時に、男は愛用の歩法である《地抜き》を駆使し、その厳つい図体を感じさせない速さで部屋の中に切り込む。

「──あん?」

 しかし、僅かに通路より明るい部屋の中に、目的の火蜥蜴はいない。
 その代わりに──。

「どうしたの?」
「これ」

 後から入ってきた女に男はそれを指し示す。
 そこには、右肩を失った少年が息を荒げて横たわっていた。

 それも、辛いだろうにうつ伏せで。





 前半は少し暴走しました。
 置いてけぼりでついて行けなかったという方は、荒れたら嫌なので返信はしませんがぜひ感想をお願いします。
 そういう意見が多ければ書き直すつもりなので。──2011/09/06


 主人公設定その1。ドSでド下種。
 少し加筆しました──2011/09/13



[29555] 5
Name: どるいまん◆d3e6567e ID:c37542cb
Date: 2011/09/27 23:44


「だから、絶対何かのキーパーソンだろ」
「本当にイベントがあるとは思いませんでしたね。どうしますか? ボスは帰るのは明日でも構わないと言っていますが」
「……そうだな。出来れば早めに話を聞いておきたい。明日の朝まで待って、それでも起きなかったら帰ると言う事でいいんじゃないか?」
「そうですね。この町でイベントの続きがあるなら往復する羽目になりますし」

 ぼんやりと視界が滲んでいた。
 そこからじわじわと目の前が蠢く。視界の中の黒点が天井の木目だと気付いた所で、ミコトは意識が覚醒した事に気付いた。
 ふわりと柔らかいベッドの感触。現実から見てみれば、以前の夢の時の感触とだいぶ違う。感触が良い意味で生々しく、もう一度眠りに落ちたくなった。

「起きましたよ」
「お、意外と早いな」

 ぼーっと、二度寝の誘惑を天井の目を数えながら払い除けていると、その視界の中に顔が割り込んできた。
 整った顔。鼻筋が通っていて、唇は薄い桃色。化粧は薄く施されただけだが、年齢相応の落ち着きをうまく引き立てている。
 肩に掛からない程度の髪は染髪ではなく、天然で茶味がかった黒髪。話しているのも流暢な日本語。恐らく日本人だろう。

「ボウズ。体起こせるか。水あるぞ、飲むか」

 その器量良しの影からごとごとと木の椅子から姿を現したのはこれもまた日本人。
 黒髪で、しかしこちらはさっぱりと短く切り上げられている。

「……は、っぁ」

 はいと返事をしようとして、喉が渇きで引っ掛かり咽かける。
 水。
 本能からそれを求めて、そして男が手に持ったコップに求めるそれが並々と注がれているのを見つける。
 焦る様に上体を起こそうとして、転ぶ。右腕が言う事を聞かなかった。

「あ……」

 いや、違う。
 死人が動かないように、千切れた右腕はもう自分の言う事なんて聞いてはくれない。

「、、 、──っ」

 目の前が、何の比喩でもなく真黒に染まった。
 目も耳も鼻も肌も何もかもを無痛の内に剥ぎ取られて、放り出された感覚。
 視界は闇で、音は激しい滝が両耳の脇に流れているかのような耳鳴りで、鼻は詰まった空気で、肌は柔らかい痺れで壊された。

 恐怖が後ろからミコトの肩に手を書けた。ぞくりと薄ら寒さだけが感覚を支配する。
 痛みの恐怖ではない。死の恐怖ともまた違う。
 失う恐怖。
 未来の可能性を大幅に削られたまま生を晒していかなければならないと言う恐怖。それは、痛みのそれより緩やかだが、死のそれより矮小だが、しかし、何よりも暗く深い。痛みの恐怖を銃弾、死の恐怖を刃とするならば、今感じているこれは、死には達しない、しかし人生の、命の質を確かに落とす鈍器のようだ。
 胃が痙攣し左手を反射的に口に持っていくが、幸か不幸か胃液すらもほとんど無い。

 ふと、目の前の暗闇が薄らいだ。
 目の前の暗闇は、血の巡り方が大幅に狂ったことによる眩暈だったらしい。ゆっくりと体中で脈打ちながらも、脳に新鮮な血液が流れていく。

「っ………っぁ…」

 気付けば、また木の目を下から覗き込んでいた。荒く息を吐きながら。余程苦しんだのか、男女は驚きに表情を固めながら、半歩身を引いていた。
 その手元の水を求めて、ミコトの口が僅かに動く。すると、女性が我に返って水を持って近寄ってきた。

「持ち上げますね」

 ミコトの表情を察したのか、女性がミコトの背中に手を回し口にコップを持って行った。迫ってくるコップを受け入れるように口を空けて、流れ込んできた水をゆっくりと嚥下する。

「──っ」

 舌に触れた瞬間、乾きすぎて罅割れる直前だった口内が満たされ柔らかく解れて行く。
 喉は焼けていたが、その潤いが通過しただけでその炎症も癒されて行く様。その水が体を下るたび、その高さにある細胞を全て癒していく感覚を覚える。

「……っ」

 そしてそれは、決して錯覚ではなかった。

「……これ、は」

 飲んだ感じは水と変わりは無かった。喉も十分に潤い体に染み渡っていった。しかし、今飲んだ液体は水ではなく、そしてその効果は潤いを与えるだけに留まらない。
 体を起こすのも億劫だった筋肉痛は消え、目の乾きも吐き気も右腕の鈍痛さえも消えていった。

「凄い……」
「流石に、気力までは回復しないけどな」

 いや、それはどうだろうか。精神安定の効果も含まれているのではないかと推測する。揺れていた精神も驚くほど落ち着いてしまった。
 思わず自分の体を見渡した。僅か十秒ほどで身体的な不都合はほとんど消えてなくなっていた。
 流石に右腕が生えてくることは無かったが、それでも体のバランスが取り辛い事以外には問題は見当たらない。

「これは……?」
「ポーションだよ。結構高いやつ」
「ポー、ション……」

 聞いた事がない単語ではない。そう経験があるわけではないが、ゲームによく出てくる名前で間違いない。
 それはつまり。体が明らかに回復した事を考えると──……。

「ここがどこか分かりますか?」
「え、……あ、いえ」

 混乱気味の頭に言葉が入り込んで、思考を千切っていった。

「宿。貴方が倒れていた洞窟の一番近くの村の宿です」
「……洞窟、ですか」

 夢だったのか、とも思ったが違う。実際に腕は無くなっている。
 しかし、ミコトは洞窟といった物に関わった記憶は14年の生涯全てを探っても見当たらない。やはり。またしても。遺憾ながら、情報が足りない。

「それで、だ」

 ミコトが続けて言葉を発する前に、男が身を乗り出してきた。

「──その腕、誰にやられた?」
「克。まだ……」
「いんだよ。こいつはちゃんと自覚してる。そうだろ?」
「……はい、大丈夫です」

 右腕が無い。
 それは確かに寂しく、喪失感は果てしないが、今はまだあの場所から生還できた事に対する安堵感の方が圧倒的に大きくなっていた。
 話すことに抵抗は無い。と言うより、現状認識も出来ていないのだ。逆にこちらかお願いしたいぐらいだった。
 横目で部屋の隅を見る。そこにはとてもレプリカとは思えない磨り減り方をした黒塗りの大剣が立てかけられている。それだけではなく、男の黒い外套の下には黒い甲冑が光っているし、窓の方には弓も置かれている。
 現実ではない、少なくともここはドラゴン達がいる世界で間違いはないだろう。ならば、変人扱いされる事はないはず。それでも少し警戒しながら口を開く。

「この腕は。ドラゴンに」
「サラマンドラか?」
「……それの特徴は?」

 当たり前のように返された言葉に内心ホッとした。
 男の口から語られたサラマンドラなるドラゴンの特徴は、赤い皮膚で巨大な四足のドラゴン。しかしその体に翼はなく、聞いた印象では巨大なオオサンショウオを想像した。
 それは、あの場所の面々とは違いすぎる。余りに、卑小だ。

「……いえ。僕の腕を食い千切ったのは、翼があって翠の鱗のもっと大きいドラゴンでした」

 ざわり、と部屋の中の空気が一変した。それも思わず身を竦ませるほどに。
 その空気はどこかざらりとした感触で、どうやら緊張感と興奮と、あとは期待に満ち満ちている事を目の前の二人の表情からも察する事ができた。


   ◆


「ドラゴン、ね」

 粗方を話し終えた後、男は楽しげに目を光らせたまま、思考に没頭し始めた。
 女の方も、ミコトの包帯を代えてくれながらも、何処か意識の半分は別の所に使っているようだった。

 実際に話したのは、翠の竜が居た事とその特徴だけ。
 その時点で既に男が話について思考をはじめ、そして果たして何処まで話していいかもミコトには判断がつかなかった。
 別に情報を秘匿したいわけではない。この人達を信用してのどうのこうのと言うより、無理に秘匿して意味がある情報かどうかも今のミコトには判らないのだ。
 しかし、話したくないと言う気持ちも、確かにミコトの中にある事も事実だった。

(……?)

 それは、違和感だろうか。
 助けてもらった。治療をしてもらった。高い薬を貰った。確かにその通りで感謝すべきだが、何となくその気になれない。子供染みた感情が邪魔している。
 理由としては、距離がある。こちらを見ていない。態度が素っ気無い。他人としての当たり前の距離ではなく、どこか、なにか。
 その違和感を言葉にすればこんな所だろうか。どれもこれも一部は正解だが、それでもどこかがそれぞれずれている気がする。
 そう、思えばまだ自己紹介すらしていないのだ。

「あの」

 だから、何となく言葉が邪魔だと跳ねつけられそうな雰囲気の中でもミコトは声を出した。

「ああ、悪いな。どうした」

 帰ってきた男の言葉は友好的で、それならばとミコトは少し軽くなった口ぶりで続ける。

「ここは、ゲームの中なんですか?」

 最初の質問は、色々候補はあったがこれだった。
 その動機としては、先ずは事実確認から済ませようと言う無難な考えだったが。
 その言葉に、少しだけ落ち着いていた部屋の中の空気がまた緊張感と驚きを取り戻して、男は限界まで目を見張り、女が持っていたタオルは床に落ち音を立てた。

「……待て。お前、NPCじゃないのか?」
「NPC……?」
「そう、来やがったか」

 そして、またしても男はミコトを置いて考えにふけ始める。

「あの……」
「あ、ああ、そうだったな、悪い。そうだ。ここはゲームの中だ。……いや、待て」
「え?」
「お前、レベルは幾つだ」
「レベル……」

 記憶を探れば、確かあの青色のステータス画面に明記してあった数字を思い出す。
 呼応するように腰の辺りに例のステータスウィンドウが現れ、ミコトのフルネームの横に確かに表記してある。
 男はと言えば、ただこちらの返答を待っている。どうやら、この画面は自分にしか見えないらしい。
 改めてそれを確認する。とは言っても何のモンスターを倒してもいないのだから、表記してある数字は当然──。

「1、だけど」
「本当かよ……」
「どういう事でしょうか?」
「さあなぁ……」

 そう言って、今度は男と女で顔を突き合わせて、話を始めた。流石に慣れてしまったが、一つ溜息をついて、また声をかける。

「あの、そろそろ自己紹介でもしませんか?」

 少し声に苛立ちが現れてしまったのが、部屋が静かになってから気付いた。
 さっと僅かに顔から血が引く。面倒くさい事になるかな、と思わず吐きそうになった溜息を我慢しながら男を見る。しかし目に映ったのは、きょとんとした顔から快活な笑顔に変わる瞬間だった。

「そうだな、いきなり質問して悪かった。俺は勝克(かつ すぐる)」男はそう名乗ると、笑みを浮かべた。「日本人だ」
「じゃあ私も。彩夏(あやか)って呼んで下さいね。同じく日本人です」

 要求通りに自己紹介をしてもらって、それなのに少したじろいでしまったのは。先程感じた微妙な距離感がいきなり消え去ったからだ。

「才崎命。日本人です」
「お、何、出身何処?」
「克さん。リアルバレはお互いの同意の上ででしょう」
「あ、悪い。まあよろしく」
「よろしくお願いします」

 とりあえずはその違和感を放り出して話に意識を集中する。

「とりあえずな、お前の事を俺達の仲間の所に連れて行きたいと思うんだが、いいか?」
「え、と……ですね」

 流石にいきなり知らない人間に付いて行くというのはどうなのだろうか。しかし、助けてもらっている訳で、何も知らないままひとりになるのはあまり望ましくはない。
 それからもう少しだけ迷った後、ミコトは曖昧に頷いた。よし、と男──、勝は満足そうに笑って頷いた。

「あー…、と、そうだな。お前完全に初心者か?」
「えっと、とりあえずこのゲームは初めてです」
「指輪を嵌めたか?」
「はい」
「その時に説明があっただろ?」
「……いいえ、記憶にはないです」
「俺の手に負えんかな……」

 一つ唸ってから、男──勝は顎に手を当て思考を開始する。
 違和感が無くなったからか、ミコトがその思考を中断しようと思うよりも前に勝は顔を上げた。

「なら、ここがどんな世界かも判らないな?」
「RLOとか……?」
「違う。ここは確かにVRMMORPGで現実じゃないが、RLOとは全く別。このゲームは──…」

 一拍置いて、勝は思案顔を解きにまりと笑って見せた。その顔は、例えるなら自分の特技を見せる時のような得意げな顔だった。

「ゴッド・ライン。神様に会いに行くゲームだ」



◆ ◆ ◆



「それじゃあ、最初は僕がそのNPC(ノンプレイヤーキャラクター)だと?」
「そりゃそうだ。武装もしてない人間が洞窟ん中に倒れてれば、イベントキャラだと思うだろ」

 なるほど、とミコトは心内で納得する。感じていた疎外感染みた違和感は、この二人が自分の事をNPCだと思っていたからだろう。そうなると、逆に親切すぎたような気もするが、このゲームでNPCに対する反応はあんな物なのだと納得すればいいだろう。

 がたん、と車が大きく揺れた。今ミコト達は屋根開きの軍用車のような厳つい車で一直線に草原を走っていた。
 と言っても、踏み均された地面の上なので、時々大きく揺れるだけでそれほど乗り心地が悪いわけでもない。
 それに何と言っても見える景色がそんな物を忘れさせてくれる。
 地平線。
 都会生まれ都市育ちのミコトにはそれだけでもう感嘆の息を堪えられなかったし、それに時々顔を出す魔物の顔が好奇心をくすぐる。
 一度踏破した道ならば、車や馬に乗っていても大抵の魔物は襲ってこないらしい。そうなるとちょっとしたサファリパークだ。
 見上げてみても広がる空は宇宙まで構成されているのではと思うほど高く淡く、少し腰を上げれば、見た事も無い木に見た事の無い実が実っているのが見え、風は草と日光の匂いを運んできた。
 脳内麻薬の分泌を感じ取れるほどの開放感。
 ミコトの日常の風景であるゴミゴミとした町とは比べ物にならない。余りに現実を超えすぎていて怖くなるほどだ。

「見えた。N-40、村だ。……それにしても遅いなこのポンコツは」
「あのオフロードが異常なんです」

 ミコトは二人についていく事を条件に、このゲームについての説明を要求した。いささか可愛げが無いかとも思ったが、こちらの不安を汲み取ってくれたのか二人は快諾してくれた。

「何なんですか。時速400キロって。話も出来ないじゃないですか」
「でも二時間で着く」
「危ないし、私ももう乗りたくないです。この車でも100は出るんですから」

 何となくミコトは先が付いていない右腕を見やる。
 痛みは全く無く、出血もない。と言うより、あのコップ一杯の薬で傷口は完全に治癒してしまっていた。
 Tシャツと下以外は全てあの荒野で脱ぎ捨ててしまい、今は上半身だけ申し訳なくも買って貰った別の服を着ている。

「それで、本当に良いのか? 先にログアウトしなくて」
「はい。少し事情があって」

 ゲームの名前を聞いた後首を擡げた好奇心を押さえて最初に聞いたのは、やはり現実に帰還する方法。
 それは至極簡単で、町や村などの非戦闘区域で指輪を外すだけ。それを聞いた時、指輪を嵌めた指を探そうとして、それが既に存在しない事に気付いた時は血の気が引いた。
 しかしこれには前例があり、腕を直せば指輪も付いて戻ってくると言う事だった。
 専門の店(戻し屋と言うらしい)を探し出して相応の代金を支払うだけで済むという。
 しかし、これを聞いた時に、不思議とそう喜びは無く、むしろ気分が落ち込みそうだった事を嫌に良く覚えている。
 腕を元に戻すための金を負担してもらう事による負い目からだろうか。

「……」

 まあ、何はともあれ今はその戻し屋がある村に向かってい貰っている最中。ついでに約束である二人の拠点である町に向かう事と、この世界についての説明を三つ同時に行っているというわけだ。

「……現実では、指輪を嵌めた場所に戻るんですよね?」
「ああ」

 指輪を嵌めただけで体が移動する超常現象に驚く様子は割愛するとして。
 いきなり現実に帰っていいのかと言う思いもある。聞いた話に過ぎないが、どうやらミコトの体はあの廃病院に戻ってしまうらしいのだ。
 オジサンの身は心配だが、現実に帰ってもほぼ間違いなく事は終わっている。
 オジサンが殺されているのも嫌だが、この場合最悪なのはおじさんが殺されていて、更にミコトの存在が知れている事。

 恐らくだが、ミコトのゲーム参加は相当のイレギュラーであるはず。
 聞いた限り(二人はミコトも同じだと思っているが)では指輪を嵌めた後、名前を決めて説明を受けてそして全員同じ町の同じ建物で、ゲームデビューするらしいのだ。
 まずこの事だけでもミコトはイレギュラーだし、そもそもその指輪を手に入れる経緯からして普通とは違った。

 普通は気付けば身近に置いてあるらしい。
 いきなり机の上に置いてあったり、枕元に落ちていたり、中には天井から落ちてくる所を見た人間もいるらしい。全くもってファンタジーだ。

 つまりはおじさん、ついてはあの病院で会った黒服の男達も、高確率でこのゲームの浅からない関係者であると言う事が推測できる。
 そして先程述べた最悪の状況の場合、廃病院に戻って来てしまうと言う性質を知っているあの黒服達が待ち構えている可能性もまた高いのだ。
 それならば、慌てて帰るよりここで何かしらの解決策を考えて帰ったほうが幾分かマシだろう。

「魔物の種類やらスキルのどうたらとか覚えないといけない事は死ぬほどあるが、そんなことよりもまずは、だ。──このゲームで死ねば現実でも死ぬ事はさっき話したな?」
「……はい」

 勝の声に思考を打ち切り顔を上げる。
 この世界で死ねば死ぬ。それは同じ日本人のプレイヤーが死んだ次の日、死体が発見された事で明らかになったそうだ。
 当然例はそれだけではなく、死んだ人間は次々に死体となって発見された。死因は全て緩やかな心臓麻痺。薬も注射跡も見つかっていないらしい。

「それでも、この世界でゲームを行う人間がいる。おかしいと思っただろ?」
「……はい」
「まあそのスリルを求めてプレイする人間も居るには居るが、大体はそうじゃない」

 まず一つ。と、勝はほとんどきる必要が無いハンドルを片手で支えながら、もう片方で指を立てる。
 スリルではない。それはつまり、本来のVRMMORPGの楽しみや醍醐味目的などを放棄しているとも言える。それ以上の思考は間に合わず、勝が淡々と答えを言った。

「金だ」
「金……?」

 思わずオウム返ししてしまったのは、余りに予想外な言葉だったからだろうか。
 どうせ一本道だからと、運転しながら肩越しにこちらを見た勝は、ミコトが予想通りの顔をしていたからかニヤリと笑う。少しイラついた。

「よくMMORPGでもマネーバックはあるだろ? それと一緒だ。ここの通貨はG(ギル)なんだが、これが大体1G、10セントで換金できる」
「1Gって言うのは……」
「そうだな。一番弱い敵でも倒せば100Gは手に入る。ちなみに俺の所持金は今少ないほうで200万Gぐらいだ」

 驚きに目を見張る。
 そして、その顔を待ち構えていた勝の顔を見つけ、額に井形模様を浮かべながらも平静を装って、今度こそオウム返しではない相槌を返した。

「……信じがたい話ですね」
「まあ、そうだろうな。でもな、実際そう換金する奴は多くないんだ。いや、そう多くを換金する奴が多くない、だな。正確に言えば」

 本当だろうか。今現在それを証明する手立ては無い。
 信じ難い話だが嘘を付くメリットも、この二人が詐欺師だと言う可能性を除けばそうはない。そして、これはただの自惚れかも知れないが、そういう人間は見分けられる自信がある。
 そして、おそらくこの二人はそうじゃないと思った。

「俺達はまだテスターでな。このゲームをプレイしているのは今の所まだ、どのぐらいだったか……」
「千人ほどですね。αテストで百。βテストで九百といったところです。毎日死んで毎日新入りが来ます。多分上限があるのでしょう。それで、一日平均取得額は5~10万Gぐらいでしょうか」
「それは……」

 つまりは、最高額で考えれば10万×10×1000。つまりは、10億セント。日本円でも大体8~10億円ほど。それが毎日となると相当な金になるはず。
 それだけの金を消費し続けるのは、企業か国か。それともどこかの金持ちの道楽か。

「しかしな、当然これを全て換金する訳にはいかない。何故だか判るか?」

 勝の言葉に思考を一度回転させ、直ぐに答えが頭に浮かぶ。

「……次の日も、ゲームがあるから」
「ほお……」

 選んだ答えに勝は鷹揚に感心してみせる。この程度も判らないなどと思われるのは心外だが、まあ飲み込んで先を促す。

「そうだ。しかもこの換金は一方通行。現実の金をGに変換する事はできないし、一度換金すればそれもGには戻せない。そんで一番安いポーション一つが大体100Gだ」
「成程……」

 一匹倒すだけで最低100G。つまりは1万円。
 それは確かに高額だが、ゲーム内で使う金額はこのゲームの金銭価値で使われる。
 現実金銭で飲み薬一つ10000円など暴利も良い所だが、この世界でなら雑魚モンスター一匹で1つ。妥当な値段だろう。

 そして、現実の金がこちらの金に代わらないと言う事は、金銭的な不平等が起きている。
 現実の金はそれだけの価値しかないが、こちらの金にはそのままの価値に加え換金が可能というアドバンテージが付く。
 そうなれば、確かに安易に換金する人間は減るだろう。実際に一日で換金されるのは所得額の十分の一かそれ以下か。

 ぶるん、と車が大きく一度揺れて車が止まった。
 思考に耽って下がっていた視線を上げると、車は木造の高見櫓の前で止まっていた。
 木の柵の内側には、木とレンガで出来た建築物が並ぶ長閑な村が広がっている。

「──そして、二つ目。俺の考えでは金目的よりこっちが目的の人間が多いと思ってる」
「? お金よりも、ですか?」
「ああ」

 車からキーを引き抜きながら、勝は二本目の指を立て──ようとたが、手を下ろし人懐こそうな笑顔を向けた。

「ま、とりあえずそれは置いておくとしてだ。飯買いに行こうぜ。腹減った」


 ◆



 怪我人だからと車に押し込められたので、空腹を思い出しながら待っていると大きな袋を抱えた二人がややあって戻ってきた。
 そして、差し出されたのは片手で食べられるホットドック。
 まだ裂けた皮から肉汁が出ているソーセージが乗ったホットドックに恐る恐る齧り付いた。
 そして、その味に目を見開き、二口目を決行するのに掛かった時間は一秒も無かったと思う。

「旨いだろ?」

 勝はまるで自分が作ったかのように自慢げな顔で少し苛立たしかったが、その時のミコトはただその感動に頷くしかなかった。
 瑞々しい音を立てるキャベツも黄金色に炒めた玉ねぎも、程よく焦がしたパンも香り高い粒マスタードも、メインたる肉の味をこれでもかと言うほど引き立てる。
 気が付けば手の中にホットドックはなく、全て胃の中に収まっていた。

「おかわりありますよ?」
「あ……」

 目の前に差し出された新たなホットドックに、思わず喉が鳴る。
 差し出してくれた彩夏に余程物干しそうな顔をしていたのか、横でそれを見たのであろう勝が楽しそうに口を開いた。

「タダがいいか? それとも貸しが良いか?」
「貸しで」言ってから、ホットドッグを受け取った。「後で返します」
「はっは! 大人びててムカついてたが、良いなあお前性格悪くて」
「……お互い様じゃないですか」

 ばしばしと背中を叩く勝を横目で睨め付ける。
 この男の大体の人物像は把握できた。大らかである。しかし頭の回転は良く、洞察にも優れている。
 戦士だ。
 物語に出てくる戦士。それも、誇りを掲げる騎士ではなく、武にも手管にも長けた傭兵。戦の申し子。そんな印象を受ける。
 簡単に言えば、イメージは違えど文武両道。
 しかし、時には馬鹿になれる。それがイメージを狂わせているのだろう。要は良い人に好かれそうな人間。そして、捻くれ者には嫌われそうな俗物だ。

「克」
「はいはい」

 何となく悔しさを感じながらも、結局食欲に負けてホットドックに齧り付く。
 きっと今の自分の目は爛々と輝いているであろう。これ以上無いほどの空腹がスパイスになっているのだろう。下手をすれば、現実のそれよりも美味しく感じたのだ。
 そして、だからだ。

「捕まえました」
「……え?」

 彩夏さんが、助手席ではなく後部座席に乗り込んでいた事にさえ気付かなかったのは。

「え、え……?」

 瞬く間だった。背を付けて座っていたというのに背中に回られ、足は両側で彩夏さんの足に挟み込まれるように押え付けられ、そしてしなやかな両手が首に回る。

「……で、何なんですかこれ」
「うわあ、髪の毛細い柔らかい憎たらしい……」
「弄られてるのは、そいつの子供好き。というかもはや病気だから許してやってくれ」
「はあ……」

 右手は髪に飽きたのか、彩夏さんの手は頬に移り、人差し指がふにふにと遠慮なしに突いてくる。
 それ自体は見目麗しい柔らかい女性の手だ。別段不快でもなし、人並みに男ではあるし、少しばかり弁えないコミュニケーションだと思う事も出来る。

(力、強いな……)

 一応抵抗を試みてみるが、ゲーム内のレベル差が反映しているのか腕はぴくりとも動かない。力が強いのか。──いや、そうじゃない。

「柔道、ですか?」
「いえ柔術です。ブラジル柔術」

 技術だ。力以上に技術が振り解く事ができない。
 あちらの力が強いという事もあるが、それ以上にこちらが力を入れ難いように誘導されているようだ。素人目に詳しい事は判らないが、そんじょそこらに転がっているレベルじゃないのではないか。

「それが二つ目だよ」

 それが先程の話の続きだという事に気付くと同時に、車が大きく揺れて再び車が走り出した。

「……これですか?」

 それは、ブラジル柔術の事を言っているのだろうか。彩夏さんが元々柔術を習っていたか、それとも……。

「それは、ゲーム内で買った技術だよ」
「買った……?」
「まあ正しくは、買って、育てたスキルだが」
「……技術(スキル)が、お金で買えるんですか」

 教えて貰ったシステムを復唱する。
 誤解を招くような表現は無かったので、すれ違いはないと思う。しかし、これがゲームを行う二つ目の理由に成り得ているかといえば、首を傾げてしまう。
 ゲームなのだから、技の一つや二つあっても不思議ではない。

「……?」

 流石に判らないので、次の言葉を待っていたが不自然なほど車内は黙りこくったままだった。

「あの……」
「ヒントはマトリックスです」

 マトリックス──?
 耳元で小さくなぜ直接教えないのかと疑問に思いながらも、その言葉で記憶が漁られる。該当するのは幾つか。パソコンの授業で習った言葉と──、

「ちなみに、映画の方です。観た事おありですか? ネオが……」
「これで二つ目だぞ」

 楽しげな彩夏さんの声に、勝が小さく舌打ちする。その一連のやり取りで疑問は一つ氷解した。

「僕で賭けないでくださいよ……」
「ああ、ばれちゃった?」
「すみません。でも私は信じてますよ。私のミコト君ならきっと答えられます」

 むんと力強く握りこぶしを作ってみせる彩夏さんの期待は僅かに重いものの、美人に期待されたからには中学二年生としては期待に応えたい。
 結果、はしたなくも活発になったミコトの脳はヒントから仮説を一つ導き出した。
 まさかだった。ありえない仮説だった。しかしどこか確信染みた頭の一部と、彩夏さんの期待の視線に押されて言葉にしてしまった。

「──現実でも、使える……?」
「正解!」

 車の中が歓声と、溜息で満ちる。
 バックミラー越しに顔を顰める勝が目に入ったが、それどころではない。
 自分で言ったくせにどれだけ驚いていたのだろうか。鏡越しにそんなミコトの顔を見た勝の顔が朗らかに形を変え口を開いた。

「本当だよ。身体能力はともかく、技術は100%反映される」
「……そんな馬鹿な」

 ファンタジーだった。いや、マトリックスになぞらえるのならSFだろうか。

「身体能力は」心なしか乾いた舌を湿らせて繋げる。「どのぐらい……?」
「ま、ここの三割くらいか。ちなみに"どれだけ強くなっても三割"だ。俺は現実で岩を拳で砕けるし、垂直跳びで五メートルは跳べる。走ればボルトなんて敵じゃねぇ」

 まだ頭は納得しない。
 しかしそれならば理解は出来る。死と隣り合わせのこのゲームをやり続ける人間が居る事を理解できる。
 強さ。
 確かに、それに憧れない人間は少ないはず。現にミコトも格闘技の試合は好んでテレビで見る。そして、その時の昂ぶりと似た物を今も胸に感じている。

《その代わりと言っては何だが、貴様にも刺激的な毎日を送ろう。──どうか、楽しんでくれる事を祈る》

 星屑龍の言葉が脳内で再生される。
 SFだろうが、ファンタジーだろうが何でもいい。成程、それが本当ならつまらない訳がない。
 目は光っているだろうか。息が荒いでいるだろうか。それとも呼吸が止まっているだろうか。判るのは心臓の鼓動が速くなったぐらいだが。

「それと、"三つ目"な」
「まだ、あるんですか」
「ああ。これは少数派だが、神様に会えた人間は願いを叶えてくれるってんでゲームクリアを目指している連中がいる」

 食い気味に返した言葉は、常識をひっくり返してくれる事を期待した故にだった。
 ならば、神がいると言うのか。いや、正直に言えば既にミコトは納得していた。記憶を探れば星屑龍との会話にもそれを臭わせる言葉があったじゃないかと。
 じわりじわりと、頭の中を興奮とも不安ともいえない感情が侵食していく。
 それは決して嫌な感触ではなく、脳の全てがその感触で満ちるのに、もう、あと、一言。

「いや、ほとんどの人間が信じてる。考えても見ろ。物凄い画素クオリティだし、指輪を嵌めれば体はどこかに消えるし、力はありえないレベルで現実に反映されるし、──それに」

 それを言った時の勝の顔と声は、半分呆れ気味で苦笑交じりだった。

「このゲームのアカウント制限時間な。──ゲーム時間で1日120時間なんだ」
「────」

 細かい所までは理解できなかった。
 興奮と不安に満ちた頭はその所業はあまりに人間離れしている事だけ理解して、ただ乾いた笑いが口から漏れた。






──車内でのやり取り。


「それで、僕は勝手に賭けの対象にされたわけですが」
「はいはい、申し訳ありませんでした」
「いや、それは別に良いんですけど。知ってますか勝さん。競馬のジョッキーは勝てばお金が貰えるし、競輪選手も競輪選手も、ドッグレースで勝った犬でも役得があるんです」
「は、はい……?」
「タダでいいんですか? それとも貸しに?」
「……良い性格してるじゃねぇか」
「どうも」
「ふふ、克が真面目に言い包められたのは久しぶりに見ましたね。やりますねミコト君」
「……子供だからねー。本気出すの大人気ないしねー」
「何ていうか……、勝さんはいつもこんなに人見知りしないんですか?」
「ええ。でも馴れ馴れしいっていうんですよ、この人は」
「いきなりスリーパーホールドしてる人に言われたくないんだが……」
「いえ、これは後頭部におっぱいが当たってるのでむしろ歓迎してます」
「……お前の! キャラが! 判らんぞ! クソガキが!」
「中学二年生ならおっぱいに興味があるのは当たり前の事でしょう」
「あの純粋な生き物とお前を一緒にすんな! 人前でおっぱいなんて言うのも恥ずかしい年頃だぞ!」
「本当に失礼ですよ、克」
「いえ、良いんですよ。僕も頭の中では彩夏さんはさん付けで呼んでますが、勝さんは呼び捨てなので」
「あれ、何で出会って3時間でこんなに俺ないがしろなの……? ねえ何で?」
「彩夏さん。少しだけ触っていいですか。少しだけ」
「とんでもねぇ無視の仕方してんじゃねえぞゲス野郎!」





 綾香の名前が彩夏に変わりました。



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