[ホーム]
三成が関ヶ原で勝ってれば面白かったのにそらメッケルさんも読み違えるわね
三成がんばれ超がんばれ
>メッケルさんも読み違えるわねプロイセンの戦歴に裏切りで勝敗が決した例なんぞ殆ど皆無だろうからな
そもそもメッケルさんが見せられた図がまちがっとる南宮山の毛利軍は事実上中立松尾山の小早川軍は既に東軍か、良くて中立だ
削除依頼
三成じゃのぼうの城も落とせないからな家康相手じゃぶが悪すぎる
のぼうの城は秀吉がデモンストレーションとして水攻めしろと指示したことが文献でわかってるんだがまあ三成じゃ力量不足なことには変わらんが
俺の先祖馬鹿にすんな
>松尾山の小早川軍は既に東軍か、良くて中立だ伏見城攻めの後、西軍首脳部の指示を無視して勝手にあちこちふらついた挙句、西軍の野戦城塞として完成しつつあった松尾山城を勝手に占拠した小早川勢これを西軍だと言うのは無理だよねある意味で「裏切った」というのは濡れ衣に近い二股かけて勝ちそうな側に日和った、くらいが正しい
やっぱ変な髪形だったの?
才槌頭だったそうだが髪型は知らんてか小栗旬だろ変なのは
一説には日本版の劉備(仁義に熱いキャラ)故に関ヶ原ではしたたか・根回しの家康に負けたと言われる(大垣城内の関ヶ原解説にも似たような記述が…)けど、これも劉備同様逸話の領域なのだろうか?
シブサワコウ著の信長の野望データ本で恨みでもあるんじゃないかってくらい光成を叩きまくってたな
>けど、これも劉備同様逸話の領域なのだろうか?滅私を当然のことと考えていた光成と自分第一に考えていた他の連中の温度差が激しすぎたからかと「豊臣家を守るために家康を討つ」というのも考えていたのはほぼ三成だけで他の連中は自分の家を第一に考えていただろうしだから、西軍の旗が悪くなると一気に瓦解した
センゴクの文献じゃかなりイケメンだったみたいな記述があったような
淀君派でヌクヌク内地で朝鮮出兵した連中の手柄握りつぶしてたって聞いたけどなねね様派の武断派の加藤清正たちの方が忠臣だとおもうわ器量のないクソガキとバカなヒス女ども、無駄にでかい大阪城に山盛り蓄えられた金銀どう見ても石田三成は、野心持たずに豊臣家を支えよう!とか諸葛亮孔明みたいなやり方で采配とれる人間じゃねーだろ
>No.16421589 その線で見ると忠義と仁義に生きる漢と言うよりも漫画的な盲信・狂信バカ的な立ち位置だったと言う事か…
>淀君派でヌクヌク内地で朝鮮出兵した連中の手柄握りつぶしてたって聞いたけどな>ねね様派の武断派の加藤清正たちの方が忠臣だとおもうわそう言えば同じ原哲夫画の三成でも花の慶二と影武者家康では完全にキャラもビジュアルも違っていたしどちらがより実像に近かったかはまさに歴史の闇の彼方かもで
豊臣秀吉は2度も朝鮮に兵を送ったが1598年8月に亡くなると、石田三成はすぐさま全軍退却を指示した。なお、石田三成と加藤清正はこの朝鮮出兵時と撤退時に激しく対立している。出兵当初、加藤清正はあとさきを考えず進撃を続け、自らだけでなく、あとから来る友軍までも窮地に追い込み、勝手に豊臣清正と名乗るなど、自分勝手な問題行動が目立った。また、即時撤兵して兵力温存を考える石田三成と、戦後の交渉を有利にする為にも最後に戦果を挙げるべきとする加藤清正と口論になった。
家康の家臣になっておけば以外と上手く行ったかもと思う
>家康の家臣になっておけば以外と上手く行ったかもと思うもしそうなってたら野心かかえた大名が力を残したままになって江戸時代が長続きしなかったかも
最終的には失敗したとは言え、朝鮮の戦場への兵員輸送・兵站維持や朝鮮撤収時の鮮やかな手腕は三成ら吏僚派の能力に負うところ大だったと思うんだけどな
関ヶ原に布陣した時点で負けフラグ建ってたよね…
徳川の大狸に合戦で勝てない時点で武将としての武運の程度が知れる運の無い奴に未来が無い厳しい現実を明智光秀から学べたであろう聡明な男だったろうに勿体無い
武断派って呼ばれる連中に豊臣支える気があった奴なんて清正くらいじゃね
相手が自分より上には俺を認めろ相手が自分以下にか俺を崇めろってヤツだったんだろ三成って
家紋は九曜紋だっていいかげん覚えてくださいよ
基本的に負けた側は勝ったほうの都合でこんなに悪いヤツだったんだと宣伝されるもんだ
>家紋は九曜紋だっていいかげん覚えてくださいよ上杉家も「毘」が家紋と思っている人が多そうだな
>上杉家も「毘」が家紋と思っている人が多そうだなそれはともかく一文字ドカンと書くところに性格が出てて面白い対して風林火山を全文書く信玄もまた性格が出てて面白い
関ヶ原で勝つか、関ヶ原に着く前に勝つかそれがまた悩ましい
とにかく徳川の世になってからの腰巾着御用学者の記述は信用出来ないあれは正統な日本史を学ぶ上での害悪でしかない
>ってヤツだったんだろ三成って 君さっきから間違った知識しか持ってないくせに何で粘着してるの?
>武断派って呼ばれる連中に豊臣支える気があった奴なんて清正くらいじゃね 清正は後世の創作でそう思われているけど福島正則の方がよほど考えていたよ酒飲んでない時に限るけど
清正はまるで武士の鑑みたいに思われてるけどその行動見てたら実像はかなり違うもんな
>とにかく徳川の世になってからの〜それ言ったら明治以降の徳川の記述も怪しいよ
>徳川の大狸に合戦で勝てない時点で野戦で家康に勝った事のある武将なんて何人なんだッッッ!!
>淀君派でヌクヌク内地で朝鮮出兵した連中の手柄握りつぶしてたって聞いたけどな土地が稼げない時点で手柄も糞もあるか
そもそも淀君派とか北政所派ってのも根拠あんの?
>三成じゃのぼうの城も落とせないからな>家康相手じゃぶが悪すぎるだから俸禄の半分で島の左近を三顧の礼で雇ったんだろ?実質、布陣とかは完璧じゃん
>野戦で家康に勝った事のある武将なんて何人なんだッッッ!!この山崎はその数少ない一人ぞ勝ったというよりひたすら追撃しただけだけどな
>そもそも淀君派とか北政所派ってのも根拠あんの?無いというか清正は間違いなく北政所派だけど三成はどっちの派閥に入れてもらえないぼっち五奉行じゃなかったらまた違ったのだろうけど
>そもそも淀君派とか北政所派ってのも根拠あんの?むしろ、尾張派と近江派で別れてるんだろう。旧臣派が武功派で、新参が内政派で秀吉自身が、意図的に競わせた節がある。尾張派が北政所にベッタリなだけ
信長・信玄・義元みたいな怪物に翻弄され、秀吉ともやりあった戦国直球世代の家康が今さら三成なんかに負けられんでしょうが
>尾張派が北政所にベッタリなだけ物心付いた頃から寝泊りしてりゃなぁ…
北政所に子供がいたら、豊臣政権も磐石だったかもねw
>今さら三成なんかに負けられんでしょうがというよりその三成が秀吉・信玄以上の軍才がないと勝つの無理だよね戦場で下痢してなきゃまだ勝機もあったやも知れんが
>今さら三成なんかに負けられんでしょうがまぁ軽く見られるのは仕方ないんだけどあの当時、家康と曲がりなりにも互角に戦えたのは光成だけだったんだがな。淀の方が結局、天下を取る維持すると言う事を理解してなかったんだろう。天下取る奴は、どこかで博打を打たないと何も手に入らないからな。関が原で秀頼が、三成に肩入れするだけで、三成は勝てただろう。
磐石も何も三成の出番がないわ長浜の時の長男が生きてりゃ立派な青年武将だ
>関が原で秀頼が、三成に肩入れするだけで、三成は勝てただろうあの時代の連中が素直に言うことを聴くわけなかろう
>磐石も何も三成の出番がないわ天下が治まれば、治世に向く人材がいくらでも必要になる。実際、徳川でも四天王は追いやられ、本多や大久保長安とか、土井利勝とかが権力握ったぜ?
>天下が治まれば、治世に向く人材がいくらでも必要になる。関が原でって意味だよ三成もその時は本来の有能な能吏のままでいられただろうし
>プロイセンの戦歴に裏切りで勝敗が決した例なんぞ殆ど皆無だろうからなドイツ人は三十年戦争で散々経験済みそこはメッケルの学者バカっぷりを誉める所だ
>>徳川の大狸に合戦で勝てない時点で>野戦で家康に勝った事のある武将なんて何人なんだッッッ!!家康は三方ヶ原の戦い以降勝負の野戦を避ける。むしろ危険な戦いをしない。逃げる。あの敗戦が結果として家康の天下人としての器を100枚も200枚も上げた。
>関が原でって意味だよ北政所の子がいれば関ヶ原自体おきなかったおきても、家康に加担する大名は少なかったんじゃね?という話朝鮮出兵もなかったかも知れんいずれにせよIFだね
呼んだ?
秀吉さん後世に戦力ほとんど残さない状態でお亡くなりになったので三成さんだけで治めるのは無理なんじゃ...
呼んでねーよ
家康が秀吉より先に死んでたらそのまま豊臣で天下太平だったのかそれとも再び戦国時代に突入だったのかおまんらどう思う
>それとも再び戦国時代に突入だったのかに一票固有の家臣団がいなさすぎるからあのまま安定したとは思えない
秀吉の寿命より、秀長が早死にしたのが一番痛いよーな気がするつーか、秀吉がムチャクチャやりだしたのって秀長が死んでからだろ?
>むしろ危険な戦いをしない。逃げる。つ小牧長久手
>>むしろ危険な戦いをしない。逃げる。>つ小牧長久手のらりくらりとして、正面からがっぷりぶつかってない
寡兵の真田幸村軍や毛利勝永軍に押しまくられた時点で家康の野戦の才能って大したものじゃないと分かるあれだけ戦場経験を経た武将が死兵の怖さを忘れるって・・・
秀吉61くらいまで寿命はあったし当時からすると結構長生きしてるけど、じぶんで戦しなくなってからはどのルート辿っても趣味に生きてそうな気がする
>のらりくらりとして、正面からがっぷりぶつかってない避戦志向だったら三河領内の迎撃戦をやる遠路進出して陣地構築したってことは戦力差を承知で野戦に持ち込むつもりだったって事だ
>寡兵の真田幸村軍や毛利勝永軍に押しまくられた時点で四天王が死んで代替わりしてたからな本多忠勝なんてシャレにならないレベル
才槌頭って一休さんにでてくる和尚さんや桔梗屋さんみたいな頭なのか
柴田勝家とか黒田勘兵衛とかで西国攻略してる時の秀吉さんはかっこいい@太閤記
晩年の秀吉のボケっぷりは酷かったからなそら家康も野心持つっちゅうの
>家康の野戦の才能って大したものじゃないと分かるあれは野戦じゃなくて攻城戦だろう向こうが勝手に出撃してきただけで結果だけで言うと家康が逃げただけなのに寡兵過ぎる豊臣方が消耗して自滅したというしまらない最後になった
本陣まで攻め込まれるなんて普通負けだけどなw
>>秀長が早死にしたのが一番痛いよーな気がする最古参の部下だし兄想いで最後まで忠実しかも文武両道…財布の紐はがっちりこんな出来た弟が死ねばそれは痛い…
>つ小牧長久手外交で適当にお茶を濁して結果は秀吉に譲り、逃げた形だろうとどのつまり、危険な野戦をしないならば敗戦数なんて計上されない。家康が関が原に臨んだことだって結構勝算あったと思うぜ関が原ではバカ息子に預けた直の徳川家3万が上田で足止めされてたわけだしこれがしっかり直参してたら日和見は最初からなびいてたと思う分け目の合戦すら無かったかと。
>晩年の秀吉のボケっぷりは酷かったからな>そら家康も野心持つっちゅうの 三成も「俺もいけるんじゃない?」って思うかもね
>結果だけで言うと家康が逃げただけなのにないわー「もうワシ腹切るよ」なんて追い詰められたのにないわー
>最古参の部下だし兄想いで最後まで忠実また、秀長にも子がなかったのが輪をかけて痛いまぁ秀次みたいに殺されたかも知れんが
>「もうワシ腹切るよ」なんて追い詰められたのにないわーあそこで家康が討ち死にしていても豊臣が天下を取り返す未来が見えないんですけお…
>>「もうワシ腹切るよ」なんて追い詰められたのにないわー>あそこで家康が討ち死にしていても豊臣が天下を取り返す未来が見えないんですけお…家督譲った後だからなー
>外交で適当にお茶を濁して結果は秀吉に譲り、逃げた形だろう小牧長久手は秀吉の敗北扱いじゃなかったか?堀Qや三成が認めるほどの大敗で外交に訴えたのはどっちかっつう
石田三成の敗因の原因は色々とあるまず加藤清正と福島正則の対立は朝鮮出兵での違いが原因元々対立の関係ではなく、朝鮮出兵が三成と二人を仲違いさせたまたたとえ三成が叫ぼうとお家大事や論功が強かった武将が多かったのでたとえ豊臣を叫ぼうが、なかなか思う人が少なかったと思いますただあの戦は一つ何かあれば歴史が変わっていたのは間違いないし初めから三成の負けも最初からないです、戦とは戦ってそれで勝ちか負けるかがで決まるのです
>関が原ではバカ息子に預けた直の徳川家3万が上田で足止めされてたわけだし秀康の2万と合流されたら再戦強要で西軍はどうなってしまうのだろうか
>豊臣が天下を取り返す未来が見えないんですけお…逆だったら同じように徳川が天下を取る未来が見えない!と言ってた気がする事実は小説より奇なりというか何でもありだもんな
>戦とは戦ってそれで勝ちか負けるかがで決まるのですおもいっくそ負けたからなそれが答えだ
>おもいっくそ負けたからな>それが答えだ実は川中島より死傷者が少なかったりする
>実は川中島より死傷者が少なかったりする上杉が包囲殲滅に大成功したもんね俺のご先祖様マジ脳筋のくせに良くやった
なんとなく関ヶ原はのらりくらりでお互い戦ってたような印象がある...参加していた武将も天下分け目とか思ってなかったのもそれなりにいそうか...
>逆だったら同じように徳川が天下を取る未来が見えない!と>言ってた気がする家康が死んでも秀忠いるし忠輝まで息子がずらりといるからなぁ上でレスしたとしあきは分かってたようだが
しかしあそこで家康が負けてたらボロクソ言われてたんだろうなおそらく今の三成か義元くらいには
>あそこで家康が討ち死にしていても豊臣が天下を取り返す未来が見えないんですけお… 当時の家康の戦上手の名前は天下第一だし家康討ち死にして真田にしてやられた秀忠だけ残ったら九州から間違いなく官兵衛が天下を狙っただろうし伊達も裏切っただろう乱世再びになっていたのは疑いようもない
>秀忠いるしまあ家は存続するだろうけど・・・
今川さんは今川焼きとか今日にも残ってるってるし結構ジモチーには愛されてたと思うんだ...
>まあ家は存続するだろうけど・・・秀康・信吉・忠輝だけで武闘派はおつりがくるけどな
>上杉が包囲殲滅に大成功したもんねいや、失敗してるだろ。失敗してるから後半武田実動部隊の巻き返しでボロってる、実際、武田上杉での死傷者はどっこいどっこいで、むしろこの戦いで上杉の痛手が辛く、その後の武田の行動の自由が確定した
>むしろこの戦いで上杉の痛手が辛く、その後の武田の行動の自由が確定したあれがどっこいとかどこの平行世界の話なんだ上杉方で討ち取られた武将の名前を挙げてみろよ数だけでも比較にならないだろう信州方面が安定してフリーハンドになった上杉が関東を跋扈し始めたきっかけなのに
>失敗してるから後半武田実動部隊の巻き返しでボロってるその実働部隊が前半見事にスカつかまされたから大成功したと言ってるのだと思うが最初から働いていれば出なかった死傷者なわけでまあそのあたりの成功失敗の切り分けはたしかにむつかしいが
まあ上杉も武田も「おまえんとこ最近イケイケだけどおれんとこには来んなよ」が究極の本音なワケであの合戦で過剰な犠牲の上にお互いその空気ができたから両者成功でもあり失敗でもあると思うものごとの結果なんてそんなもんでしょ歴史に限らず
4回目の川中島ならたくさん殺したのに領地を得られなかった上杉領地は得たけど重要な部下(特に信繁)を多く死なせた武田ってのが私のイメージ
まあ、人望の無い20万石そこそこの謹慎大名が、実績・実力共に備わった300万石の大大名相手に良くもあそこまでやれたもんだよな・・・
>あの合戦で過剰な犠牲の上にお互いその空気ができたから・・・そう思うそれにしてもその当時の下克上大名連中の武闘派たるや・・かたや、関が原前後の天下味を占めた連中のふぬけっぷりたかが関東役職や領国威信の為にガチで喧嘩してたオヤジ連中との落差が良くわかる
>まあ、人望の無い20万石そこそこの謹慎大名が、実績・実力共に備わった300万石の大大名相手に良くもあそこまでやれたもんだよな・・・裏を返せば実は実績・実力共に備わった300万石の大大名が、人望の無い20万石そこそこの謹慎大名相手にあそこまでやられたということでもあるんだよね
上杉といえば上杉景勝は西軍が挙兵しなければあのまま家康率いる豊臣正規軍とそのまま戦う気だったのか。ガチで勝てると思っていたのかな。
>たくさん殺したのに領地を得られなかった上杉北信の小領主が保全できたってだけでも目的は果たしとらんかな
ごめんね馬鹿でhttp://www.agarisk.com/product/history/0012.html
>かたや、関が原前後の天下味を占めた連中のふぬけっぷり冷静に見て関が原前後は実質もう戦闘より外交が主流の時代だと思うもちろんおれらからすれば旧の方がアツイし楽しいんだけど
>人望の無い20万石そこそこの謹慎大名相手にあそこまでやられたということでもあるんだよねその辺は立派だが跡継ぎまで殺された上に全領土没収までされてて割が合わないにも程があるな
跡継ぎって重家か?仏門に入って命は助かったんじゃなかったっけ?
石田のことだったら跡継ぎは殺されてないけどね。
>北信の小領主が保全できたってだけでも目的は果たしとらんかな北信はそうだが、上杉の行動なんて関東でも何処でも行動の意義は空気過ぎるんだよいくら関東へ出征して跋扈したって最後の最後まで関東豪族や北条の手玉に取られただけだし
>上杉といえば上杉景勝は西軍が挙兵しなければ>あのまま家康率いる豊臣正規軍とそのまま戦う>気だったのか。ガチで勝てると思っていたのかな。地方(子会社)として意地を見せておいて大局を日和見しつつその後勝った方に恭順する際に舐められないように混乱に乗じて少しでも勢力拡大しておこうってのが本音だったと思う
>北信はそうだが、上杉の行動なんて関東でも何処でも行動の意義は空気過ぎるんだよ謙信はもし「IF」で川中島4回戦で海津城を獲ったとしてじゃあ実効支配したんだろうかたまに疑問に思う時がある要地的にさすがにするか?いややっぱり返すだけだったのかな?
>上杉の行動なんて関東でも何処でも行動の意義は空気過ぎるんだよ勝つのが目的じゃなくて権威の再確認をしているだけだからー台風や洪水並みにタチが悪い意味のない行為だよな
>今川さんは今川焼きとか今日にも残ってるってるし今川橋かなんかが由来なので今川家は関係ないのだ
>台風や洪水並みにタチが悪い意味のない行為だよないちおう人攫いや略奪とかの兵たちの生活安定の役目もあったと聞いた
>いちおう人攫いや略奪とかの兵たちの生活安定の役目もあったと聞いた最悪だ
乱世の戦争なんてそんなもんなんだよな。「敵に塩」とか亡国の忠臣とか一般的には美談ばかりで語られる謙信も、「甲斐信濃に攻め入って全ての家屋を焼き払います」なんて戦勝祈願文を奉納してたりするわけだしそんな災害を犠牲を払ってでも黙らせ信濃の支配権を磐石にした信玄は成功といえば成功だしキチガイに構って有能な家臣を失ったと見れば失敗>謙信が海津城を取ったとして、上杉が信濃を支配できたか?といえば無理だろうな本当に町を焼き払ってただろうし、その後に豪族を据えたところでまたひっくり返されてただけだろう
>信濃の支配権を磐石にした信玄は成功といえば成功だし信玄も信濃では大概だったと聞いた基本的に属国扱いで奴隷という感覚
>北信はそうだが、上杉の行動なんて関東でも何処でも行動の意義は空気過ぎるんだよ弘治3年の時点で北条は厩橋は勿論、上野北端まで一門支配それが謙信が死ぬ直前は沼田〜厩橋〜那波、膳、女淵、山上、深沢、大胡まで手中にしてる上野に残った北条派の由良は金山城と桐生だけこれだけ領土をガッツリ取られて手玉に取ったとか有り得ないしかも元亀末〜天正には下総結城が北条から上杉に鞍替え長尾上杉が佐竹義昭や里見義尭の援軍要請をこなしてきた効果も大きいよ
そりゃ上杉が攻めてきたら味方の豪族放り出して自城にひきこもれば信頼ガタ落ちなのは当然だわな手玉といえば聞こえはいいがやはり失うものはでかい
>キチガイに構って有能な家臣を失ったと見れば失敗川中島に謙信が出てくるのは国防上当然の話でキチガイでも何でもないしかも第二次川中島の後和睦が成立須田、島津、井上の領地保全を求めた謙信の条件を信玄は認めたのに一方的破棄十二月〜四月下旬まで信越間が雪で閉ざされたのを良い事に狼藉三昧そら謙信&北信豪族だけでなく越後諸将の恨みまで買うわな
まああのふたりは面白いほどにタイプが違うよねキチガイとか言ってるのはただ単に本人が嫌いなのだろうと思うけど信玄にとっては迷惑な隣人にして変人だったんだろうなとは思う周辺国に周到に時間と手間かけて仲違い工作したら得にもならんのが出張ってきて調停して帰っていくとか想像するだけで面白すぎる信玄が得にもならん長尾上杉との対立をやめられなかった気持ちもわかる気がする
>周辺国に周到に時間と手間かけて仲違い工作したら得にもならんのが出張ってきて北条武田が同時に北上してたから上杉としては緩衝地帯が欲しかったんだよ越後側からすれば得以前の問題この頃の景虎政権は呉越同舟で反長尾派も多かった権力を固めるまでは北信濃豪族を救援しとかないとね八方塞になってたよ
あんたはすごいな非常に勉強になるし話してて面白い
>調停して帰っていくとか想像するだけで面白すぎる調停したのは今川>信玄が得にもならん長尾上杉との対立をやめられなかった気持ちもわかる気がする信玄は南に今川北条が居たので北にしか侵攻出来ない謙信の小田原侵攻が頓挫したのは信玄による北信濃攻めが一因信玄が荒砥城を落として謙信を撤兵させた訳だから武田が生き残る上でも重要だった
あくまで一般に言われてるレベルでいえば信玄が北を狙っ理由のひとつに海洋貿易権が言われてるよねしかし南は北条今川で友好を結んでしまっているから侵攻できないと仮の話として武田上杉が結んでいたら後の歴史にどれだけの影響がどういう形で出たんだろうか
>その後に豪族を据えたところでまたひっくり返されてただけだろう小笠原氏なら適任だと思うが補佐に対武田戦でほぼ敗北をしたことが無い柿崎景家を置けば信玄はどうにもなるまい
淀君=永田洋子(贅沢三昧の風船ババア)北の政所=重信房子(国外闘争を指揮するカリスマリーダー)
>柿崎景家を置けば信玄はどうにもなるまい貴重な宿将を簡単に謀殺させられるような場所に置いておけるかよ
>>その後に豪族を据えたところでまたひっくり返されてただけだろう>小笠原氏なら適任だと思うが小笠原も村上も既に周囲からハブられてる武田が沈んだ後、真田だけが息吹き返した事でもわかる事一国を併合することがどれだけ難しいか城を奪って占領統治し始めてからも何年も世代越しでゴタゴタと向き合う統治経営せざるをえないのだから。ムリクリ短期間でやろうとすれば信長のような行動になる。信長が投降した城兵や女子供までミナゴロシするのは、結果同じことになるから先回りして殺してるだけ領国支配がそれほどの事柄だから、大きな犠牲を払ってでも信濃を固めてしまえたことでの武田側の利益は巨大
>小笠原も村上も既に周囲からハブられてる本家が室町幕府中枢で江戸時代は普通に信州に復帰出来た名族に対しての認識が甘いなそも当時の松代界隈は小笠原の地縁・血縁のオンパレードじゃないか
>真田だけが息吹き返した事でもわかる事真田は海野氏だけどそれらが駆逐された後に戦力温存したまま居座ったんだから元々何も失ってない海野・諏訪・仁科が武田の養子戦術に取り込まれて相続人が事実上消滅していたのと大違いなんだし…そもそも最盛期にすら本拠地に2千人集められない真田は周辺から死ぬほどハブられているとは考えないのか?上州沼田や草津からの戦力も引っこ抜いてあの数字なんだぞ
『 小説版 魔法少女まどか☆マギカ 初回限定版 【書籍】 』http://www.amazon.co.jp/dp/B005BOMRLU?tag=futabachanjun-22ニトロプラス形式:CD-ROM価格:¥ 2,855