2011年9月11日03時00分
東日本大震災発生から4日目の3月14日午後9時40分すぎ。福島県南相馬市役所1階にいた江井(えねい)芳夫課長(56)は、正面入り口から入ってきた迷彩服姿の自衛官が発した言葉に驚いた。
「原発が爆発します。退避してください」
自衛官は階段を駆け上がり、各階で「100キロ以上離れて」と呼びかけた。
25キロ南の東京電力福島第一原発では、12日午後3時36分に1号機で爆発が発生。約3時間後、政府は半径20キロ圏内に避難を指示した。南相馬市では1万4千人の避難が翌日までにほぼ終わったが、この日の午前11時1分、今度は3号機で爆発が起きていた。
原発の状況は、放射能汚染は……。市は情報を集めようにも、地震と津波で通信網がやられ、外部とつながるのは災害用の衛星携帯電話一つだけ。県の災害対策本部からは情報がほとんど来なかった。
駐車場の自衛隊車両は赤色灯を回し、内陸方面に向かっていく。職員たちは色を失った。
7万人の市民をどうやって100キロ動かすのか。高野真至主査(41)は「防災無線で流せばとんでもないことになる」と思った。自衛隊がなぜ動いたのか、いまも分かっていない。
情報は正しいのか。急いで県の災害対策本部に真偽を確かめた。「原発にそうした動きはない」と確認が取れたのは午後10時5分ごろ。その10分後、桜井勝延市長(55)も県から同じ回答を得た。市職員が説明のために避難所を回った。
しかし、市民は目の前の光景を信じ、情報はメールや口づてで広がっていた。避難所を出ていく人が続出。石神第一小学校では、1100人の避難者が翌朝には800人に減った。
ほかの自治体でも、情報の乏しさが混乱を生んでいた。
南相馬市で自衛隊に動きが出始める少し前の14日午後9時ごろ。第一原発の西25キロにある葛尾村役場では、松本允秀(まさひで)村長(73)らがテレビを囲んで情報収集していた。電話はすでに使えなくなっていた。
役場裏の浪江消防署葛尾出張所から消防職員が駆け込んできた。
「消防無線で聞いたんですが……」。第一原発の南西約5キロにある指揮所・オフサイトセンターに撤退の動きがあるという。国や県、東電などの幹部が集まり、事故の制圧にあたっているはずだった。
「我々で避難の判断をするしかない」。決断した松本村長は午後9時25分、防災無線で村民1500人に避難を指示した。
オフサイトセンターは震災当日から機能を失っていた。停電したうえ非常用電源は故障。電源は12日午前1時ごろに復旧したが、屋内で使える電話は1台だけ。ファクスは使えなかった。14日午前11時すぎに内部の放射能汚染が分かり、15日に閉鎖した。
もう一つの拠点、県の災害対策本部は、耐震性に難がある本庁舎を避け、隣の自治会館に置かれていた。初めは電話5台とファクス2台、防災無線2台だけ。ファクスは大量の送受信ですぐにパンクした。市町村に電話連絡しようにも、ままならない状態だった。
情報伝達と対応の拠点となるべき二つの拠点が機能を失い、市町村は孤立していた。15日朝、第一原発2、4号機で相次ぎ爆発が発生。政府は午前11時、半径20〜30キロ圏内に屋内退避を指示した。原発の状況がつかめない中、市町村は判断を迫られた。=肩書は一部当時
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3月11日から6カ月。原発事故のあと、情報はどう流れ、滞ったのか。住民の避難への影響は。自治体の現場から改めて検証した。