Chiki Ogiue
荻上 チキ
1981年生まれ。成城大学文芸学部卒業、東京大学大学院情報学環・学際情報学府修士課程修了。話題のニュースやトピックを紹介する「トラカレ!」を主宰、政治、哲学、文芸、社会学など幅広い分野での議論を展開。
荻上 チキ さん(批評家)
テレビや新聞が正当的なメディアで、インターネットで飛び交う情報は客観性に欠けると思われていたが、このところインターネットでの指摘や非難から企業の不祥事が発覚するなど、従来のマスメディアをしのぐ力を見せている。しかし、その反面、ブログが閉鎖に追い込まれるなど、ある論点に特定化し、非難中傷を大量に浴びせかけるといった事態もネット上で起きている。今回登場いただくのは、批評家の荻上チキさん。改めてインターネットとはどういうメディアなのかを尋ねた。
メディアの特徴は、コミュニケーションを媒介するところにあります。テレビやラジオは、マスコミュニケーションと呼ばれるように、コンテンツを通じて発信者と大衆(マス)を結びますが、インターネットの場合それだけでなく、すべての人と人とをつなげていく。その過程で、人が潜在的に抱えているような欲望を顕在化させる働きが生じます。これが形式的な特徴です。
その中にはもちろん、ネガティブなものも多く含まれる。ではそれらから、内容的な共通性をもつ特徴を見出すことは可能かと問われれば、それは難しいと思います。
例えば同じメディアでも、テレビやラジオであれば、媒体ごとに扱うコンテンツの優先順位をつけることは容易です。速報性や重要性、著名性、事件性といった要素が関わって、「テレビ的空間」を作り上げている。
一方のインターネットは、利用する人それぞれのニーズに合わせて優先順位がカスタマイズされます。たとえば、声優好きな人は、声優に関する情報ばかり取得し、発信します。リストカットやオーバードーズといった実存にかかわる問題を抱えている人なら、自分にとってやさしい世界をネット上につくることができます。当然、SNS上で繋がる人のタイプやコミュニティも、人によってばらばら。
マスメディアのように明確な優先順位のないインターネットを通じて行われるコミュニケーションは実に様々で、そのコミュニケーションのどれを取得するかは個人に委ねられている。そうである以上、ネット空間をひとつの意味づけで捉えることは不可能です。
それは元々コミュニケーションが持っていた性質です。しかしウェブ上だからこそ、欲望の多様性が確保され、これまではあまり発言しにくいような意見だろうと同意を得られたりはします。そういう、既存の社会では叶えがたかった欲望をも容認してくれる一方で、選択的に世界観を凝り固める行動の結果、排除行動も頻繁に観測されることになる。
世界観を構築していく過程では、自分の価値観と相容れないものが必ず生まれています。相反する価値観と衝突したとき、それを排除しようとする働きも露骨に現れます。これはネット上に限らず、学校や会社といったオフライン上のどのコミュニティでも観察されます。
学校だと、オタク系はギャル系の子を苦手とし、自分たちが話しかけることのできない存在であり、かつ性的な存在でもあり、さらに発言力がでかくて自分たちを抑圧する存在でもあると認識しがち。だから嘲笑の対象にしておくというような言説やゲームがその人たちの間で始まったりします。「あいつらは俗物だ」といったように(笑)。
今のは誇張した例えではありますが(引き合いにだした「オタク系」の子、ごめんね!)、教室のたかだか30人くらいの集まりの中でさえ、自分たちの持っている語彙体系から、他者を排除する行為が生まれる。自分とは絶対に相容れない人との遭遇で生まれるノイズを消去したくなる欲望も生まれます。より多くの他者と遭遇することになるウェブ上では、より多くの排除行動も目に留まりやすい。
ネットで起きている炎上や祭り(注1)も、もとからあったコミュニケーションに関する欲望が、ある場面で肥大化したせいではあっても、ネットがつくったわけではありません。
ただ、多くの排除行動同士をつなげていった結果、形式的に巨大なものになることもありますし、その形式自体を楽しむ人たちも出てくる。「ネットで炎上させること自体が楽しい」というユーザーも、そこでは少なからず生じてきてしまいます。
むしろ炎上を起こす側は、コミュニケーション能力に長け過ぎているほどだと思います。炎上の際には、情報強者が情報弱者を叩く構図が頻繁に観察されます。毎日デイリーニューズの「WaiWai」が叩かれた際も、最大限にその能力が発揮されていたわけでしょう。(注2)
情報を切り取れば切り取るほど相手が慌てることもわかっているから、「燃料投下」という文脈を読み取り、炎上を盛り上げる。さらに発言の一部を切り取って、コピー&ペーストすることで、その発言をガチで憤る人たちにも接続し、もっと燃料に火がつくよう振る舞う。そこで問うべきは、コミュニケーション能力の高低ではなく、何のゲームが行われているか、ということです。
サイバーカスケードが起きるときには、少なくとも3つくらいのゲームが関わってきます。毎日デイリーニューズの「WaiWai」の件で言えば、政治的な理由を持ち込み、自分達にとって利益になるかどうかでその対象を観察する者。次に、「私たちの自尊心が損なわれた」「もう海外に行けない」といったように、快であるか不快であるかで憤る者。それとはまた別に、とにかく毎日新聞が叩かれる様子を「ざまあww」と楽しむ者がいる。
それぞれ目的や行っているゲームは違うのだけれど、使われているボキャブラリィは表面上同じ。それらが、「WaiWai」は是か非かといった議題の元に収斂されていった時、大きなひとつの流れであるかのように見えるようになる。そうやって一度はじまったカスケードは、その目的を叶えるためだけでなく、その行為そのものを継続することを目的化もします。だからなかなか終わらない。無論、「WaiWai」の件は毎日新聞側の問題が大きかったので、メディアの側はこのような形の非難を受けることは織り込み済みでいなければなりません。しかし同様の行動が、特定のブロガーたたき等にも使われる場面もあるので、賞賛ばかりもできない。
コミュニケーション能力やリテラシーの高さとモラル・倫理の保持が混同されています。単純化して説明します。80年代頃までは、メディアリテラシーをめぐる議論の中心は左翼やリベラルで、「あるべき市民」のモデルが暗に想定されていました。もともとメディアリテラシーという言葉が、「大きな権力」や「大きなメディア」に対抗するという文脈から出てきたからです。
かつては、「マスメディアの言うことを鵜呑みにすれば、欲しくもない商品を買わされてしまう」。あるいは「国家総動員体制をつくるためのプロパガンダに利用されるかもしれない」ことへの懸念がありました。それに対抗するために、成熟し、「権力」から独立した「市民」になれば、国家や資本主義社会に取り込まれることを抑止できるというわけです。そのための能力が、「リテラシー」であると。無論、そこにはある種の倫理観などもセットで含まれていました。
だが、残念ながらこの考えはネットには通じません。対抗するべきは大きな権力や大きなメディアではなく、小さなメディアに反映された、あちこちから湧いてくる有象無象の諸欲望なので、相手は自分と同様にフラットな関係であり、しかもそれに対抗できたからといって「市民」として成熟しているかどうかは別の問題になっている。
倫理観やリテラシーが高い個人であるよりも、匿名で付和雷同し、叩かれている人を叩いておけば、勝つことはなくても負けることはない。そういう状況を楽しむ場に自分を置くことがリテラシーをめぐるゲームにおいて勝利を収める上で、もっとも手っ取り早い合理的な方法になっています。
炎上するような人たちと炎上させられる人たちは、最初は大抵、別のゲームをしています。例えば企業の不祥事が起きた際、マスメディアは執拗に社長などを追い掛け回し、失言や苦悶の表情などをカメラに収めようとする。表面上は「ジャーナリスト精神」ということを掲げつつも、それとは別に、「面白い画を撮れるか」といったゲームを行っています。船場吉兆の「ささやき女将」の報道がもっとも典型的な例ですね。ネットも、それと同じですよ。
炎上の際には、「ジャーナリズム精神」といった、抑制のためのタテマエが弱いからこそ、対象を「嗤う」ことができるかというゲームが支配的になりがちです。それに対して「匿名は卑怯だ」等と反発しても、さらに燃料を投下することになってしまう。だから、「炎上を起こす側/起こされる側が未熟であるかどうか」で見ると、多くの炎上や祭りの力学を捉えにくくなります。
サイバーカスケードを起こす人に向けて、「政治的コミュニケーションを建設的に積み上げていくことよりも、賽の河原の鬼みたいに、積み上げたものをぶちこわすことを楽しんでいる」と非難するのは簡単です。しかし、そういった観察自体が魅力的に感じられないなら、その言葉は当然、空転することとなる。
よくわかります。ただ、いま述べた現象はネット上のごく一部の人たちの出来事ですし、別のゲームもウェブ上では行われている。たとえば読売新聞の人気サイト「発言小町」のような場所では、ローカルな人間関係のメンテナンスに力が注がれていますね。「終わりなき井戸端会議」みたいな感じでしょうか。2ちゃんねるのような「嗤い」の文化は、そこではあまり働いていないように思います。
Mammo tvはむしろ、2ちゃんねるや「発言小町」よりも、例えばはてなコミュニティのような、「終わりなきサークル部会」を行っているような場所でウケる。別に、炎上を楽しむコミュニティが全てではないので、どのチャンネルに対してコンテンツを届けるかに自覚的であればいいのではないでしょうか。つまり立ち位置のカスケードで対抗するのではなく、争点のカスケードで対抗し、そこにひとりのプレイヤーとして参加すればいい。
「マスメディアの影響がどういう形で行使されるか」という研究がここ50年くらい続いています。一般的には、「テレビを見た人がある種の意見に染まってしまう」という説が信じられがちですが、今では、テレビは人の意見形成には直接影響を与えないかもしれないけれど、「何が重要な議題であるか」という認識、リアリティを形成する段階においては影響力を行使するんじゃないか、という説が支持されています。
実際、ネット上の書き込みを見ると、意見形成する上でテレビの発言を鵜呑みにしている人は少ない。基本的にマスコミを「マスゴミ」と嗤うモードが、カスケードの際に有力になりますからね。しかし、そういう態度を取ることで、逆にテレビで取り上げられたトピックに対して過敏に反応しています。立ち位置は「マスゴミ」から距離を取りつつも、「マスゴミ」の作った争点にはしっかり乗っているわけですね。
例えば「閣僚が靖国神社に参拝した。けしからん」とコメンテーターが言うと、「偏向報道め!」と靖国について熱く語るゲームがスタートします。この場合の、「~について語ろう」という状態を争点、「こう語ろう」というのを立ち位置と分けています。重要なのは、実は争点が設定された時点で、どの立ち位置が優勢になるかはほぼ決まってしまうこと。多くの議論は、議題が設定された時点で答えが出ていますからね。
それでいうと、2001、2年くらいからの嫌韓流ブームが議題として強力だったのは、「韓国人が好きか嫌いか」「どれが正しいか」ではなく、「どこまで嗤えか」という設定だったからです。それに対し、「そんなに嫌なやつじゃない」とか「それは嘘だ」といっても届かない。嘘であっても嫌いでなくても、「面白いからいい」といった立ち位置のカスケードが強化されていくわけです。
そうした状況を回避したいのなら、「コミュニケーションの地形効果」そのものを理解し、変えないといけない。2ちゃんねらーがどこかのメディアやブログを延々と炎上させているコミュニケーションを見ていて、「それってどうなのよ」「そんなに叩くほどじゃないだろう」と立ち位置を修正しようとすることも大事ですが、「そんなことよりこれを語ろうぜ」「2ちゃんねるじゃなくてここで語ろうぜ」といって、より面白いネタやチャンネルを投下したほうが有効だったりします。
2ちゃんねるでも、スレッドをたてた人が提示した議題より、途中にさしはさまれたレスの方が面白くて、それ以下はそのレスに反応するスレッドに変わってしまうことなんてざらにあるでしょ。
もちろん2ちゃんねるは、ガチな議論にはあまりむいていない。一方で、mammo tvが設定する「この人の話が重要だ」といったコンテンツこそ読みたい人というのも一定数いて。そこではそもそも、2ちゃんねるとは別の論点(争点)体系が存在しているわけですよね。一行レスでは解決できないから、じっくり話を聞く場も大事だというモードをとっている。「嗤い」のゲームをする人たちの間では、瞬発力が競われていますが、持久力を鍛えるようなコンテンツをずっと提供し続けることによって、長期的な議題設定では優勢に回るといったような発想は無駄ではないでしょう。
自己責任論があれだけ盛り上がったのは、確かにカスケードの力があったからです。しかし単にネット上で生まれたものではない。多くのカスケードは、マスメディアの報道を受けて生じたり、拡大したりする。ニュースソースとして家族の記者会見と、政府側の会見ばかりを報道していたことで、家族への反発があったことは、「自己責任論」に、大きな役割を果たしています。
人質事件の前に、増水した川に流され、救助されながらも悪態をついたヤンキーの姿が報じられたこともあって、「みんなの感情を無視したことをする奴は、自己責任=勝手に死ねでいいんじゃないか」といったムードが形成されていた。危険なところに自ら行ったのだから当然といった具合に。
そういった時に日本人に対するテロが起きました。「次は自分たちかもしれない」という想像が湧いたとき、「いや違う。あれはあいつらがバカだから起きたことだ」と思考を切断したほうが、様々な点で合理的な状況にあったわけです。
実際にネット上では「リテラシー・ゲーム」が始まりました。人質というのは実は自作自演で、そもそもサヨクだし疑わしいといった感じに、様々な細部に意味づけしながら、「自分達が守るべき対象ではないもの」として描き出していった。それは一つは切断操作のためのカスケードであったと思いますが、もう一つはメディア的な反復を受けたものでもあったわけですね。
半分そうですが、半分は違います。ここでいう合理性とは、ゲームのルールを把握し、そのルール内で「勝ち」を収めるために動くような志向性を指します。経済ゲームで「勝ち」を収めるためにはお金を稼ぐことが合理的ですが、ボランティアゲーム内で「勝ち」を収めるためには、逆に金がないことを主張して善人アピールする方が合理的な選択肢だったりします。一つの合理性で傷ついた人が、別の合理性を持つコミュニティに所属することで癒されたりするでしょ?
その意味で、2ちゃねらーは、ただ自己正当化をしたいためにゲームをやっているわけではない。理由の一つにはあると思いますが、それだけではない。
イラクの人質問題でも、できるだけ対象を嗤うというゲームを継続したい。そのような日常を壊すような情報は排除するように動く。そういう合理性が共有されている空間があるということです。
もともと人は自分の見たいものを見ようとします。つまり自分の持っている合理性を発揮したがるものです。ただ、複数のルールの中で合理性を求め、それぞれいいポジションを得ようとしたら生きづらくなるので、特権的にやりたいゲームをいくつか選択し、そのメンテナンスをやりやすくしてくれるメディアが必要です。そのサポートをしてくれているのが、現在ではネットやケータイです。
ネットやケータイは、場面に応じて、その都度の合理性に応じて、キャラを使い分けるための最大のサポートツールになっています。個人にとっては、それは圧倒的な長所ですが、集合行動になった場合は、想定してなかった結果をもたらすこともあるわけですね。
理想的であるかどうかとは別に、それは端的に現実的ではない。先生だって、一貫したコミュニケーションを行ってるわけではないですし。
実際、ネットなどのメディアと、旧来的な「成熟」のモデルは、かなりミスマッチを起こしていますね。日本の教育モデルの古さは、いまだに擬似的な親子関係を教師と生徒の間で構築しようとするところ。教師は親のように尊敬され、教科だけでなく全人格的な能力を教える存在だというわけですが、それは今やかなり困難なモデルです。
もちろん、タテマエとしてはある種の「オトナ観」を語りつつ、ホンネの部分で、複数の合理性を生きていることを教えていればいいのですけど。
その辛さはよくわかります。僕は圧倒的に後者の方が楽ですが。
インターネットの黎明期の世代は、世界中の人とつながれることに希望を見いだしました。それはいままで自分ひとりだけでやっていたと思っていたことが、世界中探していたら実は大勢似た趣味や嗜好を持った人を発見できて、「そういう人とつながれてハッピー」という驚きがあったからですね。
でも、いまや世界中の人とつながるなんてしんどいと感じる人も多いでしょう。特に、子どもたちが初めてネットで参加するコミュニティは、相変わらず学校関係だったりします。学校でのコミュニケーションのメンテナンスの延長を家でもやらないといけない。そういう子達にとって、ネット世界の見え方というのはまた異なってきます。
上の世代がネットでは、いろんなアイテムを手に入れることができると考えていたけれど、それ以降の世代はオンライン上の人間関係のいざこざを避け、いかに安全圏をつくるかというゲームもやっています。
シビアな面もありますが、楽な側面もあります。たとえば、リアルに顔をつきあわせる関係は情報量が多く、人間関係がどろどろしがち。だからこそ直に会わないで、メールの一言で済ませるほうがいい場合もあります。よく言われる「今の若者は、メールに即レスしないと友達切られる」みたいなのって、実はかなり誇張された言い方で、一般的にはあまり気にしない人の方が多いですよ。互いが最適化された環境を求めてキャラを使い分けていることなんて、多くの人にとってもはや折込済みですから。実際に会うと愛想笑いがばれて疲労するから、デコメールを送ってメンテナンス終了!みたいなほうがいいこともある。
そこでリテラシーが問われるわけですが、あればオールオッケーではないにしても、あるに越したことはありません。リテラシーがあれば情報技術を使って楽に生きられますから。
高校生にとってリテラシーを身に付けることは、倫理観や権力云々といった文脈とは別に、自分が楽に生きるための方法を見つけることになるでしょうね。そして、互いのコミュニケーションの目指す合理性がぶつかったとき、異なるコミュニケーションの存在を認められるかどうか。他人を尊重するための議論の場を確保する必要がそこで生まれるので、その寛容さをどう確保するか。ケータイやネットがそのキャパを広げている面は、間違いなくあります。
非常に私的な理由だけ言うと、男の子によくある話で、恋人や友人関係に振り回されまくったからです(笑)。高校時代の彼女が「もっと一緒にいてくれないと、電車に飛び込んでやる!」と言い出すとか、虚言ばかり言う友人の言葉を全て信じてパニックになったりとか、もうヘトヘトになって別れた結果、「人間って何なんだろう」とかベタに思ったりして。そっからなぜかフロイトとか古典とかSF小説とかを読んで文学の道に進む。失恋の反動でナンパ師や研究者になったり、大負けしたという内面を抱えたからこそ、「絶対強くなってやる」みたいなことを、男の子って言いがちでしょ(笑)。
その後、メディア論に飛びついた私的な理由は、大学院志望の際に、面白そうな研究がそれしかなかったから。多くのメディアに触れている現状と、その環境に対する言説のギャップの大きさへの興味から、もともとメディアに対する関心はあったんです。ちょうど大学院に進学する年に、指導教官が退官したのと、自分がブログなんかをやっていて、ウェブ上での祭りや事件が目立っていた。そういう条件が重なっていた。
インターネットは、欲望がないとあまり楽しめない。なのでネット云々の前に、自分の欲望を発見することがベスト。だから、前にインタビューに出てた大槻ケンチさんみたいに、「バンドやりなよ」とか本当は言いたい(笑)。たぶんエッチもできる(笑)。
でも、ニコニコ動画やyoutubeを見たら、「この文化おもしろいな」と思うこともあるでしょうから、ネットの中で自分の欲望を発見して行くのも全然アリでしょう。エッチサイト見てたら、自分の性癖を発見したりとか(笑)。そうやって探すことは、オンラインであろうとオフラインであろうと一緒。自分がいたいと思える場所を見つけたとき、そこで初めて振る舞いやリテラシーが問われるから、そこから何か始めればいいんじゃないかと。
オフラインだったら、100時間くらい、4、5人の所作を定点観測するとかすれば、嫌でも身に付きますますよね。それと同じで、とにかく40~50個くらいのお気に入りサイトに居座って、使い続けてみたらいいんじゃないかと。ネットの出会いは危険だとか言いたがる人もいますが、そういう実際には使っていない人の警句よりも、自分の見た世界を信じたほうがいい。その弊害なんて、あとからリカバーできる。
高校生でも音楽をネットで発表してデビューした人もいるし、ビジネスを始めた人もいます。ようは、自分なりのおもしろい人になれるかどうか。おもしろさの価値なんてひとつのモデルで言い尽くされることなんてありませんから、何がおもしろいかの判断は任せます。それを見つけるための選択肢が、たくさんあるのがネットだと思うので。
[文責・尹雄大]
(注1)
炎上とは、ブログのコメント欄に大量の批判的、感情的な意見が書き込まれ、主催者が対応できる限界を超えたようにみえること。また祭りとは、掲示板で、あるスレッドが爆発的に盛り上がっている状態を指す。
(注2)
毎日新聞社の英字のニュースサイト。コラム「WaiWai」は日本のタブロイド誌や夕刊紙の記事を誇張し、また改竄して掲載。その内容が卑猥であることからネットコミュニティ上で問題視され抗議が相次いだ。2008年6月に連載を打ち切り、過去の掲載記事を削除する措置が取られた。
(注3)
インターネットは短期間のうちに、同様の意見を持つ者同士を結び付けることができる。したがって、異質な者を排除する傾向を持ちやすい側面もあり、議論が極端に先鋭化し、偏向した方向に意見が集約されることもある。その結果、自分たちと反対の立場を取る意見を誹謗中傷した上で排除し、極端な意見が正当性を持つかのように幅を効かせるようになる。サイバーカスケードとは、こうした一連の現象を指す。
Chiki Ogiue
荻上 チキ
1981年生まれ。成城大学文芸学部卒業、東京大学大学院情報学環・学際情報学府修士課程修了。話題のニュースやトピックを紹介する「トラカレ!」を主宰、政治、哲学、文芸、社会学など幅広い分野での議論を展開。主な著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『ネットいじめ』(PHP新書)など多数。
<トラカレ!>
http://torakare.com/
【荻上 チキさんの本】
『ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性』
(ちくま新書)
『ネットいじめ』
(PHP新書)