篤姫の願い、日蓮正宗総本山五十一世日英上人の御祈念に思う
1)武家政権の最後というもの
話は、現在の鎌倉から始めてみようと思うのである。
鎌倉は、かつて源頼朝によって打ち立てられた初めての武家政権の置かれた街。古都として、ありとあらゆる観光コースには事欠かかないが、そのなかでも“やぐら”めぐりコースなるものがある。鎌倉には“物見やぐら”が、そんなにたくさんあるのか、といった冗談はさておいて、そのコースでももっとも有名な東勝寺“腹切りやぐら”という洞窟を紹介されて、ことの真実が初めてわかるのである。
“やぐら”とは、そのほとんどが鎌倉幕府時代に作られた墓となっている洞窟のことを指すのである。もともと鎌倉は平地が狭く、墓地を作るだけの土地の余裕がなかったという。そのため、山腹の一部に洞窟を作って墓地にしていた。これを“やぐら”と呼ぶのであるという。もともとは身分の高い人をひっそりと葬るためにあったようだが、所詮、洞窟なので、暗く湿った、どことなくおぞましいところであることには間違いない。
この有名な“腹切りやぐら”には、凄惨な伝説が付きまとっている。
鎌倉幕府最後の1333年、建武の中興・後醍醐天皇の決起に呼応して上州・新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め入ってくるのであるが、最後の第14代執権北条高時ら一族郎党、八百余名がすべて、この山すその小さな洞窟に立てこもり、自害し果てたのである。私は、現在も洞窟を掘ると、そのときの遺骨が後から後から出てくるという話を地元の人からお聞きしたことがある。
権力者の最後である。鎌倉北条氏は、天皇・上皇方に刃向かいつづけてきた極悪の“賊徒”と決め付けられ、関東一円の武家の総攻撃を受けることは必定であった。どこへも逃げられない。朝敵の烙印を押されたということは、いわば、懸賞つきの反逆者・極悪人となってしまった、というふうに世間から断定されてゆくことを意味した。したがって、かつての同志であろおうとなかろうと、情け容赦なく“悪人”をひっ捕らえようと、侍どもがわれ先にと争って攻め入ってくるわけである。女・子供にも、もはや悲惨な運命が降り懸かってくるのは明らかである。一族郎党、みな自害して果てるしか道はなく、狭く暗い、この小さな洞窟の中で、それまで政権中枢で生きてきた八百余名とも言われる多くの人々が、あるいは腹を切り、咽喉を突き合い、あるいは焼け死んで、この洞窟周囲は凄惨な地獄の地となってしまった訳である。
2)江戸幕府の終焉
そして、時代ははるかに下って、鎌倉幕府滅亡から520余年。今度はおなじ関東でも江戸の地で、武家政権・徳川幕府にも終焉がせまりつつあったのである。諸外国が、強力な武器を備えた軍艦をあとからあとから繰り出してくる。隣国の大国・清は、すでにヨーロッパ各国から領地を蚕食され、屈辱的な支配を受けて崩壊寸前であった。一方、戦乱の火の粉がふることのなかった江戸の街であったが、幕府の後継者と目される人物がほとんど無きに等しく、家老家臣にも人材を事欠き、息もたえだえであった。
そして、そのわずかばかりの人材も、つぎつぎと世を去り、幕府の権力強化によって強引に政局を乗り切ろうとする一群の人々が政権を独占するという硬直した状況となっていたのである。その中心人物であった井伊直弼が、とうとう暗殺に弊れてしまったのである。
これまでの経過を見てくれば、この桜田門外の井伊直弼惨殺事件こそが、本質的に江戸幕府の終焉の開始を意味している、ということはあきらかである。
多少事情は異なるにせよ、徳川は皇室をないがしろにして、はや250年余り。北条は100年ほどではあったが、同じく皇室や公家方を六波羅探題で監視・支配し、我が世の春を謳歌したのであった。鎌倉北条一門にふりかかった以上の惨劇が、いつ何時に江戸の徳川一門にも襲いかかってもおかしくなかったのである。
3)政権内の争乱
事実、水戸には、すでに密勅が下っていた。その密勅の内容はともかく、事実上、徳川一門で骨肉の同士打ちが始ることを狙っていたことは明らかである。幕府が外交交渉のやり方を、もはやちょっとでも間違えば、明日にでも江戸徳川家は、完全に賊徒と成り下がる状況であった。
むろん、江戸徳川の内部に目を転じると、こちらはこちらでまことに大変な状況だった。すなわち、直弼が暗殺された彦根藩の動揺はすさまじかったのである。直弼惨殺後、彦根藩士によって、直ちに水戸藩への討ち入りが画策された。家康公最古参・関が原の戦いの大功労者の一門である。「主君がむざむざと斬殺たれたのに、黙って見過ごせというのか!水戸は御三家とは言っても、紀州や尾張とは違って、ただの厄介者どもの集団じゃないか!!ここでなにもしなければ、武士の名折れ。主君の仇討ちのため、今こそ命を賭けて水戸に討ち入りするのだ!!!」と、彦根藩士たちの悲憤と怒りは爆発していたのである。
仮にも、そのとき水戸徳川家と彦根井伊家との間で同士討ちでもはじまっていたら、まちがいなく政情は収集のつかないことになっていたであろう。怨念と怨念が衝突し遭い、争いが争いを呼び、おそらく鎌倉北条の最後の時以上の悲惨な殺戮争いが発生することは、ほとんど必定だったのである。
しかも、そんな凄惨な争いに、アメリカやイギリス、フランスの軍隊がなだれこんでくる可能性は、まず100%間違い無かったであっただろう。日本が自滅してくれれば、軍事的支配などたやすいものである。皇国日本なぞ、一巻の終わりとなりかけていたのであった。
4)彦根を押さえよ
ここに、篤姫の苦難がまことに深刻であった、ということがはっきりと分かるのである。
幕府は、彦根藩の暴発を食い止めるため、3度に渡って将軍の名で自重せよとの指示を出しているのである。将軍家茂の御下命ではあるが、事実上篤姫の命であったであろうことは、おそらくはもはやだれの目にも明らかだったであろう。「彦根が暴発したら、もうすべて終わりである。頼みとした直弼の後を継げ、家茂公を、幕府を、そして大奥を守るのじゃ。」と。
女性ながら、よくぞ彦根の暴発をくい止め切った、と思うのである。
そして、とりいそぎ、次ぎの一手を打たねばならなかったのである。つまり、徳川幕府が“朝敵”の汚名をかぶせられることだけは、なんとしても避けなければならなかった。
5)宮様降嫁の嘆願
ここに和宮降嫁という計画が実行に移されるのであった。それまで、だれも本気で実行しようとしなかったこの計画を、篤姫は本気で実行に移す手立てを講じたのであったと私は思う。
徳川がぼろぼろになる前に、皇室との縁組みを成し遂げて、なんとしてでも生き残る。そうでなければ、徳川は、これまで支配してきた諸国の藩士の餌食になるのは目に見えており、むろん、徳川が築き上げた江戸の街も、お国の中心としての役割を終えてしまうだろうことはあきらだったからである。
桜田門外の変で幕府がまことに大変な事態にたち至っていた最中、篤姫の願を受けられて、日英上人は3月14日から閏3月を超え、4月5日まで1日12時間、朝4時から八時、午後12時から16時、夕方18時から22時まで、51日間も休むことなく御祈念されたわけである。篤姫の切なる願いは、幕府政権の悲劇的な崩壊をなんとしても食い止めること、家茂公のもと、上下が心を合わせて、徳川家のために立ち上がることであったのではないだろうか。
6)総本山五十一世日英上猊下の御祈念に思う
ただ、当たり前のことであるが、御隠尊猊下が、単に江戸幕府存続だけのために御祈念されていた、とはとうてい思えないのである。むろん、われわれ凡下の者どもが、猊下がいったいどういう御祈念をされているのかと、あれこれ論ずるのは、詮無きことであり、法謗であろう。しかし、篤姫の願により日英上人が、お勤めの外に多大な時間を割かれて大変な御祈念なさった、ということはやはりただことではないと私はおもうのである。なにかしら猊下のお気持ちに迫る努力を我々はしなければならない、感謝申し上げる気持ちで、もう少し自分なりに猊下の御祈念について思いを至すのは、お許していただけるかもしれないと思うのである。
以下は私のまったくの個人的考えであるが、日英上人に感謝申し上げる気持ちで、もういちど正宗の歴史の重み、日本がたどった運命のことについて、熟考する機会を皆様にも作っていただきたいと思うのである。
そもそも、日蓮大聖人は、坂東は安房の国のお生まれである。御遊学になったのは叡山であったが、立宗宣言されたのも、庵を営なまれたのも、弘教を開始されたのも坂東の国からである。御遷化になったのも、武州池上の地であった。そして御誕生も、承久の乱の直前、1221年である。なによりも大聖人様は、坂東の人々との深い繋がりで御誕生になったに違いないのである。
江戸の街は、そんな大聖人ゆかりの地で、武士の建設した街ながら、平和な都市としてほとんど兵禍を受けずに順調に発展し大きくなってきたきたのであった。平和だからこそ大きくなった。なによりも戦乱のない平和な社会を願う大聖人の仏法において、なんらかの大きな使命をもって誕生してきた街であることは間違いないと私は思うのである。
そんな街を戦乱の巷としてしまうことは、仏法上の大きな咎であるはずである。戦乱のない時代に発展した江戸の街は、大聖人の仏法を多くの人々に正しく知らしめていく上で、さらに豊かに繁栄していかねばならない役割が、きっとあるに違いないと思うのである。明治となり、東京となってから関東大震災によって大打撃をうけ、第二次世界大戦で一時期こそ焼け野原となったにせよ、江戸、そして東京となった街の存在意義が変わるはずはないと思うのである。
《引用ホームページ》
渋谷憲悟:妙音ホームページ、日蓮正宗と篤姫の因縁について(その5)佛乗寺からの引用、を参照させていただき、記事を作成いたしました。
《その他引用文献》
武部敏夫:和宮、人物叢書、吉川弘文館.2007年10月1日新装版第5刷
辻ミチ子:和宮、ミネルヴァ書房.2008年2月10日初版第1刷