硬直した異人拒絶者・孝明天皇の妹君との壮絶な戦い
孝明天皇の妹君、和宮という方の役割がどんなものだったのか、いちばん端的にその本質をしめしているだろうというエピソードがある。それは、幕末の激動期を生き延びおおせた最後の旧徳川十五代将軍・徳川慶喜が、亡くなる大正2年の直前まで、毎年和宮の命日である9月2日には芝増上寺にある宮のお墓にお参りしていたというものである。慶喜は、宮様を『命の恩人』と感謝していた、というのである。
和宮の降嫁が急遽実現することになった直前、桜田門外の変で、御三家・水戸藩の浪士の襲撃で、ただひたすら問答無用に強引に外国との通商条約締結を押し進めた井伊直弼が惨殺されたのであった。つまり、桜田門外の変で筆頭家老をいともあっけなく惨殺された幕府の権威は、どんなに繕おうとももはや地に落ち、江戸市中は尊皇攘夷を叫ぶ危険きわまりない浪士たちのテロが、いつなんどき起きるか分からなくなったという状況に陥ってしまったのである。
また、水戸の浪士の中には、京の尊王攘夷派の公卿、薩摩藩や長州藩などの藩士・浪士たちと連絡をとりあい、孝明天皇の御意志のとうり、攘夷決行のため一気に江戸の老中連を殲滅せん、とする人々が闇で蠢いていたわけである。そして、桜田門外の変がおこった安政7年とは、“日米和親条約は当然破棄、通商条約もすべて破棄し、横浜港は閉鎖、異国船に大砲撃を加えまくって、撃沈させてしまえ!!!”、といった絶叫のボルテージが一気に最高潮まで達したわけである。
したがって、追い詰められた幕府が、それでも攘夷決行を激しく求める孝明天皇の御意志をあえて無視するようなことがあれば、いったいどういうことになるのか、その結末は日をみるよりも明らかだったわけである。すなわち、開港・貿易へとただ馬車馬のように突っ走ってきた幕府であったが、諸外国の求められるがままに開港するという方針を明白に放棄する姿勢をしめす以外にほかに道はなく、開港をすすめるためにどんな苛烈な取り締まりをやっても逆効果であり、取り締まりを強化すればするほど、幕府は追い詰められ、国中に沸騰している尊王攘夷のテロ集団からの総攻撃はがいよいよ苛烈きわめるのは間違い無いという状況だったのである。
こんな危険な状況を克服するにもっとも有効な手段とはなにか。それは、尊王攘夷派にとって最も手出しの困難な、『皇室ゆかりの人物』を幕府にお迎えし、いわば尊王攘夷派に対して、“シールド”をつくるということが、やや“卑劣な方法”ながら、もっとも有効だったわけである。つまり、“菊の御紋”で幕府にバリアをつくってしまえ、というわけであった。
ここにこそ、和宮降下の本当の意味があったのではないかと、私は思うのである。
そこで、それまでの幕府の方針を180度方向転換して、『天皇の御意志どうり、横浜港閉鎖、攘夷決行ということを約束します』、というメッセージを京に送らなければならなかった。その攘夷決行は、かならずや今後10年以内と決定するのである。そして、天皇の妹君、和宮が、その攘夷決行の約束と引き換えに江戸の将軍へと嫁ぐということにあいなったのであった。
孝明天皇は、意外にも、幕府という存在を高く評価していたという。そして、幕府が、明白に攘夷実行するのであれば、万難を排してでも幕府に協力しましょう、という姿勢であられたわけであった。ここに、婚儀の予定がすでに決まっていた妹君、和宮様が、予定の婚約を破棄、急遽、家茂公へと降嫁されるということに相成ったわけである。
ところが、宮様は、ほんとうに江戸へと下ることがおいやだったらしい。“おいや様”という揶揄までついてしまうほど、とにかく、江戸へ行くぐらいなら死んでしまいますということを訴える程、最後の最後まで拒否されていたのであった。
宮様の立場に立ってみれば、ほんとうに、よくぞ江戸へと下っておいでられた、と思うのである。そこには、兄天皇の御遺志を絶対に実行させる、という宮様の悲愴な決意がなければ、とうていあり得ない展開ではなかったろうか。したがって、宮様は、江戸へ下られるときには、幕府の攘夷決行の見届役というのが、その第一の役割なのであり、であればこそ、一切を宮中のやり方で進め江戸城内での大奥の慣習は一切排除、という“宣戦布告”をされたわけであろうと思うのである。宮様の悲愴な覚悟からして、当然、そう行った状況が現出したのは間違い無いであろう。
したがって、だからこそ、宮様に来て頂く側の努力もむろん並み大抵でははなかった、ということが容易に想像されるのである。ここに、篤姫の命がけの祈りと努力があったわけである。宮様の要求について、城内にみちみちた非難・不満の一切を背負われて、一歩下がってジッと我慢忍耐の方針を貫かれたのが篤姫だったのである。京から宮様とともに下ってきた毋君と女官たちと、かたや大奥の女性たちとがぶつかりあいという自らの伝統を貫こうとする執念と執念のぶつかりあいが、当初いかばかりだったかは、想像を絶するものがあったであろう。
《引用文献》
辻ミチ子:和宮、ミネルヴァ書房.2008年2月10日初版1刷
福地重孝:孝明天皇、明田書店.昭和49年9月15日初版
宮尾登美子:新装版・天璋院篤姫(上下)講談社文庫.2007年12月14日第10刷