尊王攘夷のカリスマ、水戸斉昭と桜田門外の変のあまりにも悲惨な結末
1)水戸の“尊王攘夷”とは、黄門様の“特殊な御趣味”が事の始まり
なんで水戸が尊皇攘夷のメッカとされたのか、そもそもその源をまず問うてみると、実は意外な事がいっぱいころがっているのに気付かれるであろう。そして、幕末の悲惨な大混乱の原因も、実は案外としょうもないところにその原因があるのではないのか、と非常に鬱々とした思いに駆られるのである。
水戸藩の二代目、水戸の黄門様こと徳川光圀公は、家康公から数えて3代の孫世代。水戸藩家臣の娘を母にもつ、水戸育ちの“おぼっちゃま”なのであるが、例によって正室の事情で、急きょ嫡男として引き立てられた人物である。水戸藩の藩主はもともと江戸に定住して参勤交代はなく、副将軍格扱いなのであるが、光國公が小石川の藩邸にあがったのは5歳のころであり、すでに家光公の時代となっていて家康公にお目見えしたという経歴はない。
そんな、幼少期のエピソードをもつ黄門様であるが、どういった風の吹きまわしか奇妙なことに、かの後醍醐天皇と足利尊氏が戦った南北朝時代に、後醍醐天皇方の武将としてその名を知られる楠木正成の大ファンであったという。現在も、兵庫県は神戸市中央区にある楠木正成ゆかりの湊川神社の境内には、黄門様が立てられた碑がドンと立っているのである。一緒に立れられている黄門様の銅像は昭和30年にできたものということであるが、『嗚呼忠臣楠子之墓』という黄門様直筆の墓碑名が彫り込んであるの顕彰碑そのものは、黄門様がわざわざおつくりになった、江戸初期の由緒あるものなのである。
2)“逆輸入”の『楠木正成』
黄門様がなんで楠木正成なのか、なにも知らないままいろいろ連想してみても、さっぱりその繋がりはわからないであろう。ところが、そこにはちょっとした訳があるのを理解すれば納得できるのである。
すなわち、黄門様がこの正成のファンになった経過というのは、そもそも祖先が南朝の流れであるとか、南朝の遺臣の末裔であるというのとはまるで違うのである。なんと、黄門様の楠木正成は“逆輸入の楠木正成”なのである。
3)朱舜水という人物
この“逆輸入の正成”については若干の説明が必要であろう。黄門様が生きていた時代には、大陸では漢民族国家であった明が滅亡、モンゴル族である清朝が明の領土に侵入、明の遺臣たちははるか江南の果てまで追いつめられ、ちりぢりばらばらになってしまったのであった。しかし、漢民族再興のため日本や朝鮮半島、あるいは台湾にわたり、懸命に地下活動をやっていた人々がいた。その中の一人に、朱舜水という人物がいた。彼は南京での明朝復興運動に懸命に努力をしていたのであったが、ついに追いつめられ日本は長崎に亡命してきた。日本でも仲間と連絡を取り合いながら、革命運動に力を尽くしていたのであっが、まったくその運動は実を結ばなかったのであった。そうこうしている内に、博学で高潔の士という朱舜水の名は、江戸へもしだいに聞こえ出すのであった。そして、黄門様はこの人物に目をつけたのであった。
4)尊氏以来途絶えた日本正史を編纂しようと一念発起した黄門様
黄門様は、室町時代以降、日本の正史がないのが気になっていたということになっている。むろん、南北朝以来ぐちゃぐちゃになった日本と、そのぐちゃぐちゃになった日本を発生させた尊氏を悪者とする朱舜水の影響があったことはまず疑い無いであろう。むろん江戸では、天下人となった徳川家の名を汚さないようにと、漢学に素養のある人々を集めて徳川家としての歴史の編纂にはとりかかっていたのであった。ところが、古来の漢学の伝統をそもまま引き継ごうとしていた江戸の歴史編纂には、個人的にご不満があったらしい。しかも、黄門様が大好きになった後醍醐天皇の時代からの歴史をどうしても編纂したかったわけである。
正史なるものは中国の伝統に則り漢文で編纂されるため、漢学の素養が必要である。そこに、この漢民族復興のためがんばっていて、しかも日本の歴史にもとても詳しいらしい舜春水にぜひともお雇い申し上げたいと熱烈コールをするのである。さて、この春水という人物、ほんとにやけに日本の歴史に詳しいのであった。ことにお気に入りは、日本の南朝の武将たちであった。明の復興のために尽くしていた自分たちと、はじめから負けと分かっていても後醍醐天皇に忠誠をつくして命を捧げた武将たちに非常な近親感を覚えたようなのである。黄門様にひとしきりこの南朝武将のヒーローたちを熱く語ったのであった。かくして、黄門様もいたく感動し、朱舜水に正成の顕彰碑文を書かせ、直筆で『嗚呼忠臣楠子之墓』なる碑銘をいれて、正成ゆかりの湊川神社に寄進したというわけである。別に黄門様が南朝の遺臣を祖先にもっているという訳でもないのに、日本人からはさして評価されていないが、中国の優秀な人物から誉めたたえられた南朝の武将・楠木正成というものは、よくよく考えて見れば本当に凄い人物だ、朱子学でいえば聖人レベルではないか、という、若干分かりにくい経過からいたく感動し、なんとかしなければという気持ちから顕彰碑を思い立ち、歴史的も評価をすべきだ、という考えを実行に移した、というわけなのである。
5)朱舜水流の朱子学の理想像“楠木正成”
したがって、黄門様の楠木正成は、旧南朝の人々が語る正成ではなく、中国人から見た、いわば現実とはやや異なった、君臣のたてわけを厳しく説く朱子学上から、理想化されたヒーローとしての正成像、というものが出来上がったわけなのである。だから、“朱子学を重んずる中国人からみた楠木正成公”なのであって、若干意地悪な言い方をすれば“逆輸入された正成公”ということになるのである。
かくして、黄門様は、この中国人である舜春水の力を得て漢文体の大日本史なるものを刊行を開始したのであった。この歴史書はそれなりに興味をそそられるものである。南朝が正統と断言したり、壬申の乱のおり、大海人皇子軍に敗北し伊吹山の山中で命を落としたという伝説ある天智天皇の皇子を弘文天皇として歴代の天皇に数えたりと、ある意味で非常にラジカルなのであった。おかげで、とうとう水戸は日本伝統の皇室の歴史に一家言あり、と広く世に認められるようになっていったのであった。
結果的に、江戸のご本家が、昌平校あたりで皇室の歴史をちんぷんかんぷんの漢文で塗りこめ、せっかくつまらないよう、わざわざおもしろくないように一生懸命努力していたのに、黄門様は本家に逆らって、歴史話を面白くしてしまった(むろん、ことの本質にはさして差し障りのある話ではないのであるが)、ということになるのである。そしてこの大日本史の編纂事業からは、黄門様がまったく予想だにもしなかった大問題がのちのち発生していった、ということに話は尽きるのである。
6)南蛮渡来物好きの黄門様
ちなみに、黄門様といえば、日本ではじめてラーメンなるものを食したり、餃子なるものを作らせてみたり、はては南蛮人が奴隷貿易で連れてきたらしき巨体の“黒人”を家来にしてつれてまわった、などという伝説もある、やや異な趣味のある御仁であることはつとに有名である。テレビドラマの“助さん格さん”を従えた御老公様は、江戸や難波の講談師がでっちあげた、完全な作り物ということであるが、いづれにしても黄門様が、実はとても手の込んだ“めだちたがり”であったことはどうも間違いないであろう。
こんな南蛮好き、新しい物好きの御仁が、どう考えても“攘夷運動の元祖”などとはとても言えないと私は思うのであるが、なぜか黄門様の水戸藩は庶民からどんどん尊皇思想のメッカとみなされるようになり、いつしか尊皇に攘夷が加わって、とんでもない方向へと水戸藩は運命を振られてしまうのである。
7)家康公の末裔が楠木正成、後醍醐天皇のファン、というのはやっぱり変です
貧乏公家さんあたりが愚痴をこぼして尊氏の悪口をいうのならまだしも、関東のお武家さんが尊氏を謀反人呼ばわりするのはやっばりおかしいのではないか、と私は思うのである。
徳川幕府の元祖・家康公は、ついに戦国の世を終結させ、ようやく関東の武家政権を確立して、芦原ひろがるただの沼地であった江戸を大勢の人々が集まって京に負けない都市として発展させる基盤を整備していったのである。頼朝公以来、関東武士が京と違うところで権力を築きあげてきたのであったが、その経過とは血みどろの戦いであった。
ところが、後醍醐天皇とは、そんな関東武士を同士打ちさせ、政権破壊させ、ふたたび京へと権力を奪還しようと目論んだお方である。
たしかに、足利尊氏とは、関東で自前の武家政権を立ち上げる労を惜しんだ人物である。そして、結局足利一族は、京は帝と公家さんたちが引き起こすどうしようもない泥沼へ引きずり込まれていって、とうとう天下大乱と相成ったわけである。ある意味で武家の失敗の轍をみごとに演じてくれているのが尊氏なのである。そうそう悪く言うのは、非常に危険ではないかと私は思うのである。なぜならば、ことに関東武家というものは、つねに尊氏の轍にはまってしまう可能性があるわけで、尊氏を単なる悪者ときめつけて他人事と思っていたりしたら大変なことになるからである。
この辺が、“逆輸入の楠木正成”に心酔してしまった幕府開闢からすでに三代目、家康公のご苦労も、家康公が手本とした頼朝公のことも、ほとんど知らない世代のこの御仁にはよく分かっていなかったのではないかと思うのである。いわば、“勝ち組”の“はしくれ”である御三家の一角水戸藩の、尊氏の失敗をまったくの他人事にしてしまった、非常に危ない、いってみれば“貴族的趣味”が、民衆から誤解され、そして予想どうりの、とんでもない大失敗を現出してゆくのである。
8)“詔勅”に踊らされ続けた板東武士たちの過去
げに奇怪、おぞましきものとは、この世の乱れに乗じて、必ず飛び交いはじめる『詔勅』というしろものである。『勅命』だから、それは宮様の御意なるもの、であるはずなのであるが、そのあたりがまことに悩ましいのである。
そもそも、京は都の夜の暗闇で蠢く策士たちの都合で、帝自身も風にそよぐ柳の枝のように、あちらこちらにお気持ちが揺れたらしい。おかげで、たとえば、『勅命』によって朝敵と名指しされる対象は、突然、ころりころりと移り変わり行く運命なのである。すなわち、昨日まで朝敵だったかとおもえば、突如として明日には天下の『忠臣』にもなったりするし、かとおもえば、昨日まで宮様には忠実な部下だった人も、突然、朝目覚めたときには極悪人となっていたりするからである。
古くは京が鎌倉の頼朝公に権力の座を奪われようとしていた後白河法皇の時代、この勅命すなわち院宣が、鎌倉の御家人たちの分断を狙って、矢のように乱発されたことは、かの鎌倉幕府の史書:吾妻鏡に詳しい。
頼朝は、後白河法皇が鎌倉政権を分断しようとして繰り出す院宣に苦しみぬいた。院宣に踊らされ、浮き足立ったおおくの同士を、結局殺戮しなければならなかったのである。
ことに、頼朝の異母弟、源義経は天才的な戦術家で、強大な勢力を誇った伊勢平氏を壇ノ浦に葬り去るのであったが、百戦錬磨の後白河法皇と京の既成権力であった公家連中は、そんな義経に目をつけたのであった。圧倒的な功績をあげながら兄から何の褒章も与えられなかったこの義経に、位を与え、昇殿をゆるし、褒美をとらせて、自分たちから鎌倉へと権力をもぎ取ろうとしていた異母兄である頼朝公を悩乱させ、同士打ちを演出し、再び鎌倉から権力をはく奪してしまえと、義経に巧妙に離反の火を焚きつけたのであった。
江戸幕府を開いた権現様すなわち、家康公は、この吾妻鏡を隅から隅まで読破していたという。足らない巻は、諸大名に手分けして探させ、木版の復刻版を刊行するという熱の入れようだったわけである。さすがは江戸幕府開闢を実現させた人物といえると思うのである。私は、吾妻鏡の読者であった家康公なら、決して京の揺さぶりにうろたえたり動揺したりすることはなかったと思うのである。
9)水戸を吹き飛ばした一通の“密勅”
いわばまことに脇の甘かった黄門様の末裔:水戸徳川斉昭公の時代には、黄門様についてしまった沢山の尾ひれ腹びれのおかげで、なんと“尊皇攘夷のメッカ”となってしまた水戸であった。しかも、始末の悪いことに、黄門様の末裔たる斉昭公は、”尊王攘夷の大御所”と呼ばれるのがどうもまんざらではなかった節があるのである。
こんな得体の知れないカリスマ風情の水戸斉昭公を心底嫌っていた江戸城溜詰暮らしの保守的老中たちは、それまで幕府をどうにか切り盛りしてきた阿部正弘の急死後、ことあるごとに斉昭公へ敵対しだすのであった。阿部の後を継いだ筆頭老中・堀田正睦公が、帝に日米和親条約に約束した開港交易の勅許をいただこうとがんはっていたころ、すでに下田にハリスがやってきて、しつこく開港を迫りはじめていた。そして、阿部の死後、斉昭公や島津斎彬公らが京で秘密に工作していたの次期将軍へ徳川慶喜を勅命でだすという計画が、井伊直弼のスパイにひょんなことで探知される。すると、なんということか堀田正睦は、現職の筆頭老中でありながら、突然京にいたまま解任され、井伊直弼が筆頭老中に突如として就任するという、あっとおどろくような事態が発生したのであった。そして、井伊らは、勅許のないまま米国、イギリス、フランス、プロシアとつぎつぎにいわば勝手にどんどん条約を結び、多くの港を開港を決定するということはじめたのであった。
ところが、井伊直弼らの開港貿易条約の締結に、ときの天皇・孝明天皇は、すままじい激怒をされたのであった。そして、ついに天皇らの周辺では、極秘裏に水戸藩へ、幕府の“暴挙”を実力で止めよ、という勅命を下そうという方針が決定するのである。むろん、尊条攘夷を自負する斉昭公たちも大激怒、江戸城に無断登城して、はげしく井伊らを詰問するという大変なことをしでかすのである。
井伊らの情報網は、直前までこの水戸藩への密勅が出ることを嗅ぎ付けられなかったという。すでに、井伊らのスパイの正体が探知され、水戸への密勅を企んだ公家には接触ができなくなっていたのである。井伊直弼のスパイ・長野義言と言う人物について、弾劾状らしきものが、京の屋敷のあちこちに投げ入れられるという、抜き差しならない事態となっていたのである。幕府に対抗した尊皇攘夷の志士たちの情報網が、幕府のそれを上回り出したのであった。しかし、ようやくこの尋常ではない勅命を探知し、その裏に梅田雲浜など、水戸以外の関係者が、数多く存在していることを突き止めたのであった。
ここにおいて、安政大獄がはじまるのであった。井伊直弼は、梅田雲浜をはじめとする幕府に敵対しそうな人物を片っ端からとらえて、処刑したのであった。ついに、外交と次期将軍をめぐって発生した問題が、有能な人々を殺りくするというおろかな方向へ走り出したのであった。
10)歴史はくり返す
かくして歴史は、くり返すのである。
水戸に極秘裏に下った、事実上の『勅許なく諸外国とかってに交渉をすすめる幕府老中どもに鉄槌をくだせ』、という、いかにも悩ましいこの勅命はまことに水戸にとんでもない不幸をもたらしたのであった。すなわち、水戸藩の尊王攘夷を固く信奉する藩士たちは狂喜乱舞、勅命奉じて、薩摩や長州と連係を目論み、武力ほう起へと突き進もうとしたのであった。
ところが、アレ、と言う事態となったのである。“尊王攘夷のカリスマ”と目された水戸斉昭公であったのに、勅命をおしいただいて幕府老中を討つとおもいきや、なんのことはない、藩内の保守派家老たちに丸め込まれて、勅命はお返しせよ、などと言いだす始末なのであった。もとより水戸の尊王攘夷というものは、その程度だったわけである。つまり、御本家に逆らう覚悟も決意も、まったくなかったのであって、所詮、水戸の尊王攘夷とは、殿様の“ひまつぶし”だったのではないかと思われて仕方が無い程度のものであったわけである。水戸の歴史観はたしかにいろいろな重要な示唆がちりばめられているのである。しかし、やはりそれは、ずばり言えば“傍観者の歴史”、というものだったのではないだろうかとも思うのである。すなわち、歴史を左右する当事者になったらどうするのか、という立場から物がみれないような、そんな歴史観であったように思うのである。
したがって、水戸国学に馴染んで、固く尊王攘夷を信じていた藩士たちは大混乱に陥った。そしてついにこの勅命を巡って、ついに水戸藩内がまっ二つに割れるのであった。すなわち、一刻もはやく勅命を奉じて幕府内に巣くう朝敵を斬れとはやる多くの藩士達と、ことを荒だてまいとして勅命をお返しするべきであるといった保守派とに完全に分裂するのであった。
11)空中分解した御三家水戸から、おびただしい数のテロリストが産生された
かくして水戸は、京は帝から下された、たった1通の密書のおかげで、大混乱となった。そしてその混乱の最中、安政大獄で多くの有能な志士を惨殺した勢いで、幕府は水戸に勅命を差し出せと迫るにいたった。ついにことここまでいたって、水戸藩は事実上崩壊するのであった。すなわち、詔勅がもってゆかれるのを実力で阻止するという藩士たちが決起するに及んだのである。ついにこの密勅なるもので、水戸藩はみごとに“大爆発”し、藩も藩主も吹き飛んでしまったのであった。この“大爆発”を起こした水戸藩からは、白刃で人を片っ端から斬りまくる危険極まりない尊攘派という名のテロリストが全国に一気に拡散し、各地でどうしようもない惨劇が頻発しだすのである。すなわち、幕府内要人の惨殺、藩や幕府内での同士討ち、京や江戸の学者や思想家の暗殺の横行など、あってはならない未曾有の悲惨な事態が巻き起こるのであった。
標的はむろん勝手に外国との通商条約を結んでは港を異人に解放し、詔勅を踏みにじり、あまつさえ安政大獄で尊王攘夷の有力者をつぎつぎと殺りくした井伊直弼ら幕府老中たちであった。
12)桜田門外の前代未聞の大事件
はたせるかな安政7年3月3日、目出たきは節分の登城日なのに、雪の舞う江戸城桜田門向かいの分後杵築藩邸の門前にて、幕府筆頭老中井伊掃部守直弼は、ついに水戸と薩摩の浪士18名の襲撃に遭い絶命、斬られた首にふたたび息が戻ることはなかったわけである。単筒一発駕篭にみまわれ、籠から引きずり出された直弼の首は水戸藩浪人とともにこのテロに加わった屈強の薩摩藩浪士・有村次左衛門の手にかかって討ち取られたのであった。
ここに水戸と江戸城内老中とは真正面からぶつかりあう血みどろの自界叛逆の抗争へと突入してゆくのであった。いわば公家さんたちの煽動のおかげで、幕府は事実上ドカンと空中分解をしてしまった訳である。
“首斬られ絶命した井伊直弼”という事実は、まことに始末が悪かった。幕府のトップ中のトップが刃傷沙汰のアクシデントで急死したわけである。刃傷沙汰とは、すくなくとも幕府がもっとも忌み嫌ったものであった。そんな不始末をおこした藩は、赤穂浪士の討ち入りのときの処分のごとく、家名断絶されなければならないのである。したがって、彦根藩は幕府のそれまでの論理からすれば、当然一家おとり潰しでなければならぬ。ところが、彦根藩井伊家といえば徳川家最古参の家老中の家老の家柄。その井伊を斬ったのも、浪人とはいえ徳川御三家の水戸の藩士なのである。すでに誰の目にも、ただならない事態であることは明白である。
しかし、井伊家、水戸徳川家おとりつぶしの幕命を下すなら、あだ討ちどころか、残された家臣たちによる彦根藩と水戸藩の全面戦争になるのは火をみるより明らかである。
13)もはや“よいよい”の幕府老中たち
残された幕府の老中たちは、真っ青である。しかしやっと気をとりなおして、井伊家江戸家老岡本半助が思い付いた、主君の井伊直弼は病気である、というウルトラC的な事実隠蔽にどうするすべもなく同意するのであった。病気であれば、やっかいな刃傷沙汰ではないから、“問題はない”のである。お見舞いの品々が井伊家にとどけられる、彦根藩医が首のつながっていない直弼を診察する、ということをやったらしい。そして、井伊直弼が惨殺され、首を取られてしまったという衝撃波が隠然と江戸市中に知れ渡り、3月18日に万延元年と改元され、襲撃に加わった浪士たちの苛烈な捜索にどうにかメドが付きはじめた翌閏3月30日、井伊老中は病死した、という公式の発表とあいなったわけである。
14)尊王攘夷のテロ標的となってしまうのか、江戸城、大奥、篤姫のその運命やいかに
ここに、江戸市中は水戸の浪士のテロ襲撃で町中が恐怖におののかねばならなくなった。幕府の最高権力者が、あっけなく首をとられてしまったわけである。幕府の権威は地に落ちたも同然である。もはや、いつなんどきだれが殺されてもおかしくない。
また、勢いづいた尊王攘夷派は、幕府総攻撃の勅命を取り付けていつなんどき攻めてくるかわからない。
養父にして師、さらにかけがえのない恩人であった斎彬公の死にも耐え、夫・家定公が病死してもじっと耐えてきた篤姫であった。しかし、さすがの姫も、江戸市中の治安が風前のともしびとなり、いつ何時尊王攘夷の浪士が大挙して江戸へと切り込んでくるか分からなくなった状況となるに至って、お武家の棟梁としての幕府・徳川家の存亡をかけて、全身全霊の努力を開始されるのであった。
《引用文献》
野口武彦:井伊直弼の首、新潮新書、新潮社.2008年2月20日第1版
吉田常吉:井伊直弼、人物叢書、吉川弘文館.2006年10月10日新装版第5刷
Wikipedia 朱舜水、徳川光國、戊午の密勅、大日本史等引用いたしました。